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中村主水の最期・私的雑感

中村主水(なかむら・もんど)の最期はどうあるべきか!?


[時代劇] 〜全記事見出し一覧


『必殺仕事人2009』放映開始記念! とカコつけて、過去日付の日記にUP!


(文・T.SATO)
(95年10月執筆・96年3月加筆脱稿)
(初出・「必殺」シリーズ同人誌『中村主水死す… そして正義もまた死んだ』(93年)増補改訂版『中村主水 その生き様…もう一つの終焉』(96年10月31日発行)寄稿文より抜粋)



 法の網を掻い潜ってのさばる悪を、主人公たち殺し屋が庶民から金銭を受け取って成敗するTV時代劇『必殺』シリーズ(72〜91年)では、ゲスト殺し屋を除けばシリーズ第3作『助け人走る(たすけにん・はしる)』(73年)以来、裏稼業がハラむ危うさ、それなりの正義感に基づくものとはいえ所詮、人殺しは完全には正当化されえないその「業(ごう)」を引き受けるかのごとく、あまたの殺し屋が壮絶な最期(さいご)を迎えてきた
 (いま挙げた例は厳密にはシリーズ第15弾『必殺仕事人』第1作(79年)以前に限定されるのだが……)。


 そして、そのそれぞれの断抹の姿は、シリーズ普遍のテーマともいえる「人殺し」とは何か? というテーマ、およびその各キャラ個々人が抱える内的テーマとともに、我々視聴者のハート・魂の深いところ・根源的な部分に共鳴し、何事かを訴えかけてきた。


 その魂のふるえるような酩酊感をはじめて味わったときには、ファンの多くはそれを言語化して説明できなかったかもしれない。
 ただ、それはいったい何なのか? あるいはその経験よふたたび。
 いつかまた、その酩酊を味わいたい。自分のものとしたい。解りたい。
 それが完全に捉えきれるものではなくとも、片鱗(へんりん)でも掌握したい・認識したい・感じたいとする気持ちが、多くのファンをして『必殺』シリーズに長年のあいだ魅きつけて、胸狂おしい何事かを語らしめんとする原動力のひとつになってきたのだろう。


 すると当然のごとく、ではシリーズの顔たる江戸の南町奉行所のダメ同心(警官・刑事)でありながら、ウラでは凄腕の殺し屋を兼業する中村主水(なかむら・もんど)は最終的にはいかなる決着・終焉を迎えるのであろうか?
 いかなるテーマの決着を見るのがふさわしくかつ望ましいのだろうか? と思いを馳せてしまうのがマニア・ファン気質(かたぎ)というものであろう。


 当然のごとく筆者もまた「主水の最期」に関する無数の妄想を脳裏にくりひろげてきたひとりでもある。
 (後日注:もちろん妄想をくりひろげていたのは筆者が十代であった80年代のこと)


 それは具体的なものではなく、多分に感覚的・気分的なものではあるのだが……。
 あのときに味わった魂のふるえる酩酊感・壮絶さ・血湧き肉踊る暴走感・タブーを少しハミ出す危うさ(タブーを破りきるのではない)・背徳の感覚。
 しかしてその反動・報いともいえる最期……それらがすべて混然一体となったような最終回。


 バラバラなシーン単位、あるいはカット単位での印象・雰囲気・空気感。
 ジリジリと地面を白く焼き、風景をも白くさせ日影も失せたような盛夏の江戸の街。
 雑貨やら物干し・大八車が乱雑に画面上に重なり、そのスキマから生活感……というより得体の知れないイカガワしさをもハラんだバイタイティを匂わせる汗ばんだ長屋のせまい路地。
 それらをバックにくりひろげられる登場人物たちのやりとり。


 夕餉の用意で暮れてゆく下町のヒトビト。
 通りの軒先、その瓦が連々と遠近法でつづいていく画面に静かに降りつぐ夜の雨。あるいは小雪が突如舞いはじめるせわしい師走の午後の曇天。
 今改めて認識・痛感させられる裏稼業の掟と業。殺し屋グループ内部における緊張感あふれるぶつかりあい・思想的対立。
 日中は周囲に知人と悟らせず、背中合わせで情報交換する仕事師たち。バラバラなようでイザとなるとプロの味を垣間見せる連携探索シーン。主水にボカスカに殴られる情報屋。強敵との丁々発止……。
 『必殺』初期シリーズ最終回における、殺し屋の殉職の衝撃と興奮そして感動よ今ふたたび……。


 ……が、今では(いや、10年近く前(80年代後半)からか・笑)、『必殺』シリーズマニア共通の悲願であるらしい(?)中村主水の最期・終焉を描破することに、実は筆者は反対の念をいだいているのである。
 個人的には、『必殺』にかぎらずあらゆるドラマの作劇術において、
 「何でもやってみるべし」
 「作品評価はのちのこととして、ともかくは冒険すべし(現時点での当該の作品のクオリティには必ずしも結びつかずとも、長い目では関連ジャンルを豊饒にしていくという観点において)」
 とのポリシーを筆者は現在では抱いてはいる
 (十代のころはスゴい狭量・ケッペキ・完璧主義であって、結果的に傑作ができないのであれば、あらゆる試みを全否定したものだけど・笑)。


 しかし、こと「主水の最期」を描くことに関するかぎり、筆者は実は消極的・及び腰であり悲観的ですらあるのだ。


 それは他の事象――ドラマ面というより映像・小道具・企画・設定――の冒険ならば現時点で必ずしも成功はしなくとも「将来への大いなる可能性への種蒔き」という点で大度量・寛容(笑)を示すことにイササカも躊躇はないのだが、今後の『必殺』シリーズにおける何らかの典範として影響する側面が仮にあっても、「主水の最期」というドラマ・イベントそれ自体はまさに字義通りの一回性のものだからである(……だよネ?・笑)。
 ゆえに失敗がゆるされない性質のものであるハズだ。


 それ以外のファクターの実験・冒険ならば程々の出来であっても喜べるし、現にあまたの作品でオール・オア・ナッシングの受容に陥らず、それぞれの出来に正比例で応じたかたちで喜んでもいる。
 それらは事前に過剰な期待をしていないという(それはけっしてイヤミではなく)、ある意味でドラマを見る上では当たり前な、自然体な態度で鑑賞し相応に評価することが実現されているからだ。


 しかし、仮に「主水の最期」を描いた作品が程々の出来であったとして、『必殺』シリーズに対する熱狂は十代のときに比べれば冷め切ってしまったとはいえ、やはりかつては熱狂して妄想をくりひろげてきた一般視聴者とは程遠い(笑)筆者やマニア諸兄は果してそれで満足できるであろうか? 相応の出来(?)として認めることができるであろうか?
 ……やはり「主水の最期」については、フツーの意味での自然体にて我々は鑑賞するワケにはいかないし、また良くも悪くも不可能だ。


 その鑑賞態度は、単発ドラマや連続ドラマの#1へのそれではなく、いわゆるノリノリな連続TV作品のドラマ的テンションや伏線に登場人物たちの感情的交錯が最後の最後には結実すべきものであるハズの「最終回」に対しての期待や希望と同形態のものなのである。


 であるから筆者は、「主水の最期」を描くことに不安が募らずにはいられない。失敗するくらいなら、もしくは程々の出来に留まるならばむしろ描かないでおいてほしい……というふだんの自分のポリシーに反する退嬰的な気持ちになってしまうのだ……。



 もうひとつ、よもやま話。


 近年の『必殺』シリーズの最終回はだれも死なないからダメなのだ、などという素朴なことを考えていた時期が筆者にもむかしはあった(笑)。
 そして、10数年前の『必殺』評論草創期ならばそのレベルの発言でも流通したことであろう。


 むろんその論法にも一理はあるのだが、もう少しマニアとして幸か不孝かスレてくると「死ぬ」という事実だけでは済まされず、そこまでに至るドラマの構築ほかもろもろに思いが至るようになる。


 そこで黄金期のスタッフ・ベテラン脚本家に再登板を! という意見が出るのは当然であり、その延長線上でベテランスタッフによる「主水の最期」を! という意見も出てくるのだろう。


 しかし、それであってもナットクができる「主水の最期」が描けるのであろうか? 現在の筆者には疑問である。
 それはやはりひとつには中村主水の歴史が長すぎるという点にある。


 万人をナットクせしめる新旧ふくめて20年もの長きにわたる主水の総決算たりうる「主水の最期」など、主水があまりにも厖大な積み重ね・連続体になってしまった現在、不可能ではないかと思えるからだ。


 次に、ベテラン脚本家たちへのマニアの素朴な信奉に違和感をいだいているという極私的感慨がある
 (近年においてもベテラン脚本家がマレに登板することはあるが、佳作ではあっても黄金期の傑作に匹敵しているとは思えない。凡作すらある。『必殺仕事人4』(83年)タンクロー客演回(#9「主水 晩めしをすっぽかされる」)、『必殺仕事人 旋風編』(87年)#10「主水、ワープロを打つ」等)。


 三つめに、往年の黄金期にかかわったベテラン脚本家が現在の『必殺』や「主水の最期」を描くことにそれほどの執着があるのか?
 (多分ない。もはや過去における一時の通過点であり卒業したつもりでは? と個人的には推測している)
 というモチベーション(動機)の問題。


 ……逆に云うなら、黄金期にベテラン脚本家によって「主水の最期」が描かれたならば、傑作に仕上がっていたとは思うのだが。


 かように考える筆者には、「主水の最期」は描かずアヤフヤなままにしてほしい。……のだが、多くのマニアと語りあうとそれでも何らかの決着・ケジメはつけてほしいという意見が多いようではある。


 ただし、現実に製作するというならば、その人選はベテラン脚本陣がやはり妥当とも思われ、筆者の本意ではないが代案が他にない以上、あえて問われれば消極的賛成としてこの方法を選択するしかないが……
 (ちなみに、新旧スタッフの比較論としてスケープゴートになりがちな後期『必殺』シリーズを支えた吉田剛(よしだ・たけし)氏だが、筆者は旧スタッフとは別種のカラーではあるもののそれなりに一級の人材だと考えている。いくら古くからいる脚本家でも保利吉紀センセイに任せたいとは思わないヨ・汗)。
 

 そして映像。ある時期から、映像だけが優れていてもドラマがカスでは仕様がない点に思い至るようになってから(例を挙げれば他のジャンルで恐縮ではあるが作画・映像だけが突出してドラマはカスのビデオ販売用アニメ等)、 『必殺』シリーズをクオリティ面で復活させるとすれば、先ずは映像よりもドラマ面においてであるべきであり、映像のクオリティアップはあとまわしでよいと考えるようになっている。


 が、こと「主水の最期」に関してだけは、マニア初心者のころの純粋な(苦笑)願望に未だ彩られており、それはドラマ部分のみならず映像面でも70年代前中盤の黄金期『必殺』にかぎらずTVドラマ全般にあった映像的冒険・実験風なビジュアルになっていなければならないのだ(笑)。そして、その再現はまた……ほぼ不可能なのである。
 ……こー書いてくると、筆者は「主水の最期」に関してだけは全然柔軟さが無いな(苦笑)。


 なにやら悲観的なことばかり述べてしまった。


 以上は長年マニアをやってきてスリきれてしまったマニアの(それも特殊な・笑)サメた思いであり、今なお『必殺』や「主水の最期」に熱き想いをたぎらせているヒトビトに、ドコかに思い上がりやイヤミなニュアンスを抱かせてしまったならば誠に恐縮ではあるし、それはけっして筆者の本意ではない。
 もしもかような点があったら、スナオに頭を下げておきたいし、特に年少マニアには自分自身の意見と熱情は、それはそれとして大変に貴重なものでもあるのだし、大切にしていただきたいとも思う。
 (筆者もかつて、「主水の最期」を何度も妄想しつづけてきたことが、どれだけ自身のドラマ観をミガくに役立ったかしれない)。 



 (09年付記の注意:以下は、寄稿先同人誌の体裁に合わせた内容です)


 そんなふうに「主水の最期」を描くことに疑問を持っていた筆者の目前に93年に現れたのが、同人屋・T.MATSUMOTO氏が執筆された同人誌『中村主水死す…』であった。


 ……と、こう書くと、常套的・文学的レトリックで話を内輪ウケで丸くまとめて終わらせるのだろうと読者諸兄は思うだろうが(笑)、残念ながら(?)話はそーいう方向には行かない。


 シニカル(冷笑的)タイプが多いであろう『必殺』シリーズファンの読者はそーいうベタベタしたヨイショはキライだろうし、純粋な意見のみを求めていて、自意識過剰な個人的通信やスタッフのみなさま同人誌作り御苦労さまです! などの記述に対して、「ンなもん欄外の私信でやれ! もっとそのものズバリ身になることだけ語れや!」と思っている諸兄も多いことだろうから(笑)。


 実際のところ、こと「主水の最期」に関しては理想的なものなぞ出来はしない! と妄想することに封印をして思考停止してきた筆者には、MATSUMOTO創作脚本およびの『中村主水死す…』はこんなドラマの見せ方もあったのかと新鮮ではあった。


 さらなる私事で恐縮ではあるが、MASUMOTO氏の私案を読了したあと、他にも熱心なマニアが独自に考案したそれぞれに素晴らしい[主水の最期」私案を数編読む機会があり(そーいうこと考えてカタチにまでしているヒトは遠慮せずに発表して世に問いなさい!)、それらを読むにつけ、筆者の消極的な「主水の最期」観もローカルなものにすぎなかったのだナ、と自身のなかで相対化されてきてもいる。


 (13年後の09年1月4日(日)の後日付記:ここでボカして出している例は、MATSUMOTO氏には申し訳ないが、MATSUMOTO氏の『中村主水死す…』に対する批判として、その設定を借用して別個に創出して、当時の著名(?)な『必殺』系および時代劇系同人ライター諸氏宛てにも配布された、そして当該同人誌増補版にも掲載された、これも私的には“傑作”と認定している同人ライター・田中雪麻呂氏の「主水の最期」の創作シナリオを指している)


 さて、プロではない御仁による創作物に対して批評をするのはムズカしい。
 それに寄稿誌は評論誌ではないし、あくまでメインはMATSUMOTO氏の作品となるように構成されるべきで、カンタンなものならともかく読者に先入観を与えかねない立ち入った批評・感想はあまり必要がなく、あくまで最終的な価値判断は読者それぞれに任せるべきであろう。


 ……といって何も語らないのも失礼なので、MATSUMOTO氏の「主水の最期」私案(むろん今回掲載される改訂版ではなく改訂前の稿)にカルく触れさせていただいてこの文章を終わりたいと思う。
 できれば、ここでは歴史小説家・司馬遼太郎の『翔ぶが如く』文庫版解説のように、安易なヨイショではなく美点・批判それぞれ、しかもそれがよくある枝葉末節へのバラバラな指摘ではなくドラマツルギー面では総合されたカタチになるよう呈示できれば理想なのだが、そーいう境地には本稿筆者は未だ達せず……。


 ストーリーにもカルく触れるので未読の方は以下は読まれないことをお勧めする。
 もちろん著者・MATSUMOTO氏はアマチュアライターなので、脚本としては文章の言い回しや時代背景・小道具・言葉の知識でオヤッと思う点もあるがそれはご愛嬌というべきであろう。取り立てて言い立てるほどのものでもない(と思う)。
 また、そー云う筆者自身もシナリオ作法や細かい時代考証自体には造詣が深いとも云い難いし(汗)、それ以外の側面について感想を述べてみたい
 (……結局、筆者がこのテのシナリオ作品について触れると、解説やリップサービスができそうになく、一般ドラマの鑑賞と同じく作品論やドラマ論として語ってしまいそうなのだがご寛恕いただきたい)。


 単に最終回私案に留まらず、最終「主水シリーズ」&「必殺」最終シリーズとして企画案兼プロットとして各話単位でも考案された全22話想定のストーリー素案の数々。
 それらは『必殺』後期シリーズの各話のワンパターンぶりとは程遠く、初期シリーズのように非常にストーリーバリエーション・テーマバリエーションに富んでいて、もしくはテーマ的にも一歩先に踏みこみ、またそれは同時に現状(というか今はもう亡き後期の『必殺』シリーズ)への不満の発露であり、かくあれかしという願望でもあろうし、筆者も共感するところである。


 が、それだけならば、妄想の中でだが(笑)、同様な構想を練ってきた『必殺』マニアも多いであろう。
 真に白眉になるのは、もはやプロットではない本格シナリオ形態になる最終回数編である。著者の入魂の作であり熱気にあふれグイグイと読ませ明らかに尋常ならざるパワーに満ちているのだ。
 ただしこのホン(脚本)は、中村主水の視点ではなく、ゲスト(といっても、中村主水・最終シリーズの2クール以降のレギュラー想定ではあるが)で佐渡金山奉行配下から南町奉行所の筆頭与力に栄転してきたという設定の堀井龍玄(イメージキャスティングは緒方拳)の視点で展開し、そこから殺し屋テーマや存在意義を浮かび上がらせる手法を取っている。筆者個人はそこが大変にユニークで面白いと感じる……。
 しかし、イジワルな見方をしてしまうと、主水が主役になっていないとも取れ、主水を演じる藤田まこと氏がこのホンにOKを出すかは微妙なところかもしれないとも思う。


 読者の方にはご存じの方も多いだろうが、93年2月に老舗の必殺シリーズFC(ファンクラブ)『とらの会』の関東地方上映会が開催され、その折り山田誠二会長が様々な製作ウラ事情を明かされた。
 それによると役者という存在は、自分の出番や比重、もしくは番組宣伝ポスターでの写真の大小・序列にすら非常にこだわり、それは子供じみたほどである。
 藤田まこと氏とて例外ではない
 (逆にそれくらいのバイタイティがなければ役者は世に出てこられないかもしれないから、それが悪いとも筆者は云わない。良いとも云わないが・笑)。
 そうであるのなら……。
 松竹京都映画で天皇と化している藤田まこと氏を統御するには、今や深作欣二(ふかさく・きんじ)カントクしかいないのかもしれない(笑)。


 さて、最終回私案のラストも微妙な問題かもしれない。展開がドチラに転んでも判断に苦しむところだ。
 筆の自走現象は、ある程度のモノ書きオタクなら誰でも経験するところだろうが、理性的に考えればそれにも2種があり、善し悪しはケースバイケースだろう。
 アレもひとつの結論であろうが、常套的な結論でもよかったような気がしないでもない。能動というより恣意の感もある。


 ドラマの法則性を語るうえで、「意外性を狙ってもそれが面白さや魅力につながらないならば意味がない」という論法も充分に成り立ちうるワケだが、そこまで云わないまでも、人間社会における“殺し屋という「存在」の肯定”……もしくは、“殺し屋という「物語」の肯定”というテーマを打ち出すとすれば、もう一方に予想された展開でもよかったような気もするのだ
 (もちろん、著者のテーマがそれに合致していなければこのかぎりではない。筆者の読みが浅かったということで……。妄言他謝)。


 「言葉」にしてしまうと、実際に抱いた気分・感慨よりも強調されてしまうところが不本意なのであるが、あくまでMATSUMOTO氏の最終回私案にかなりな感銘を受けた上で強いてニュアンスの次元で細かい意見を述べるとすれば……というスタンスなのは、くれぐれも強調しておかないとタイヘンだ (笑)。


 これらはあくまでも、筆者の個人的な意見。読者諸兄はMATSUMOTO氏の「主水の最期」私案についてどう思われたであろうか?
 また多くのマニアがさまざまに妄想をくりひろげてきたであろう「主水の最期」は、歴史ある『必殺』ファンジン(同人)界でも意外にまとまって活字化される機会がなかったと記憶する。この機会に改めて、マニア諸氏の「主水の最期」への想いをうかがってみたいところだ。


(了)



※:映画『必殺! 主水、死す』(96年5月公開)以前に執筆した原稿です。



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