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仮面ライダークウガ 〜前半合評1 ヒーローの性格の現代性


『仮面ライダークウガ』評 〜全記事見出し一覧
『仮面ライダー』シリーズ評 〜全記事見出し一覧


(2000年上半期執筆)

仮面ライダークウガ 〜前半評1 クウガ諸感想

(文・フラユシュ)
 本当なら今『仮面ライダー』が作られる意義というテーマで、『平成ウルトラ』と比較しつつ、語るのが筋かもしれないが、ここでは主人公のキャラに絞って語っていきたいと思う。

静かなる熱血漢

 とりあえず通常の活劇ものの主人公というのは、あくまでもおおざっぱに言えば、70年代の主流はひたむきなぐらいの熱血漢、対して80年代の主流なら色々な意味で屈折した熱血漢が主流だったと思う。
 無論これらはおおざっぱなイメージであるのだが、では今回の主役の五代雄介(ごだい・ゆうすけ)はと言うと、筆者のイメージでは、変に70年代のように気張ったところもなく、80年代の如くくわざとらしさを感じるような屈折漢というわけでもなく、むしろひょうひょうとしつつも、やる時はやるという自分の行うべきことをちゃんとわきまえた人なのだなという感じで、筆者は素直に感心している。
 彼には、70年代のヒーローが背負わなければならなかった暗い宿命や、80年代のシラケの雰囲気故の屈折感からは、現時点では無縁に思える。
 これこそ主題歌に歌われる「零(ゼロ)から始めよう」という言葉や、「歴史は塗り替えられるもの」という歌詞に対応するように感じる。
 無論、東映作品の宿命である路線変更や、どんな奇抜な設定も東映のノリにしてしまう社風に今後は流されてしまうかもしれないが、それでもこのキャラの性格は最後まで何らかの形で生かして欲しいと思うのが、現時点の筆者の願いである。


(了)


仮面ライダークウガ 〜前半評2 極私的クウガ評……というより雑感

(文・D.SONO)
 仮面ライダーが10チャンネルに帰ってきた……。
 30歳以上(2000年当時)で幼少時、関東地方にお住まいの方ならこんな感慨すら覚えたであろう。
 ご存じの方も多いと思うが念のため説明しておくと、『仮面ライダー』シリーズ(71年〜)は毎日放送(大阪)制作。毎日放送は1975年3月までは現在のネット局であるTBSではなくNET(現・テレビ朝日)にネットしていたのだ。
 TBSは大阪ではABC(朝日放送(大阪))にネットしていたものを、75年4月に新聞社の系列に合わせて毎日放送とABCを入れ替える形で調整したため、例えばテレビ時代劇『必殺シリーズ』(72〜87、91年)、テレビアニメ『はじめ人間ギャートルズ』(74年)などのABC制作番組はTBSからNETへ、『仮面ライダー』『アップダウンクイズ』などの毎日放送制作番組はNETからTBSへ放映局が変更されたのだ
 (関西地区では他地区以上の変更が行われたため恐らくさらに混乱したのではないだろうか)。


 その「帰ってきた」仮面ライダーは、タイトルや主題歌(OP・オープニング)で仮面ライダーを名乗っておきながら、劇中では呼称されないどころか認識すらされていないようなのが興味深い。
 いずれ何らかの方法で「仮面ライダー」となるのかもしれないのでその辺りは注目だろうが、これから先の私の文章は「仮面ライダーではない仮面ライダー」という視点で展開してみようと思う。


 さて、「仮面ライダーではない仮面ライダー」という視点を何故私は持ったか……。そのためには私が「仮面ライダー」というヒーローにどういう印象を持っているか説明すべきだろう。
 もちろんこれは私独自のものでは決してなく、恐らく多くのファンが共通して持っているものとほぼ一致していると思うのだが、シリーズ最新作『仮面ライダークウガ』(2000年)と比較する上で分かりやすくするためにも、ここでカテゴライズしておこうと思う。


 「仮面ライダー」とは、ごくわずかの協力者しかいないにもかかわらず、人類と敵対する巨大かつ強力な戦闘能力を持つアンダーグラウンド組織と対決する、自身が持つ特殊な能力(改造人間)を駆使する存在だが、その戦いは人々が知り得るところではない……これが現時点(正確には『クウガ』開始時点)での私の認識である。
 これ自体相当にアバウトなものだし、長い『仮面ライダー』シリーズによっては不正確なものもあるかもしれないが、大筋でこの認識に立ってみると、『クウガ』はほとんどすべての項目でアンチテーゼとなっているのだ。


 まず「ごくわずかの協力者しかいない」というところからして違う。
 テレビ特撮『ロボット刑事』(73年・東映)や『特警ウインスペクター』(90年・東映)のような警察組織に属するヒーローは別とすれば、警察組織がこのようなヒーローを全面的に援助する例は、少なくともテレビシリーズではなかったと記憶している。
 スーパーバイクを作るのが「おやっさん」ではなく警察だと描かれた時、違和感を持つ方々が多いだろうなあと思いを巡らせると同時に、私自身は拍手喝采だったのだ。


 同時に、「クウガ」の戦いは人々の知れるところとなる。
 「4号は、いい奴だよね……」、
 「(未確認生命体・第)4号」
 という劇中の警察やマスコミが呼称する無機質な呼び名を子供が口にした時も、個人的には痛快だった。
 ヒーロー番組なのだから、多少ご都合主義に走っても子供たちにはヒーローの名前を呼ばせたいのが人情あるいは世の常(スポンサーの都合も含まれるかもしれないが、あえてここでは大意としてこの表現にしてみる)なのを、恐らく劇中で認識されてないというリアリズムに基づく理由からこう呼ばれた時、いろいろな呪縛から解放された気がしたのだ。


 グロンギという種族名称が判明した敵の存在も、劇中人物はもとより観ている側にも謎だらけのものとなっている。
 それまでの『仮面ライダー』(71年)を筆頭とする東映のヒーローものの大半は、実際には少ない人数しか出ていないにもかかわらず、不気味さと同時に巨大さ、そして「現代の科学や兵力をもってしても、到底人類には倒せない」であろうと見せる、ある部分ハッタリの極致でもって敵組織を描写してきた。


 ところが『クウガ』では、怪人の個々の能力は極めて高いとしても、集団ないし組織としての全貌はほとんど見えていない。
 このため、巨大な敵に挑むアドベンチャーの要素よりも、犯人を追い求めるサスペンスの要素が強い、従来なかなか見られなかったものとなっている(もちろん皆無ではなく、こういったテイストは東映のヒーローもの『快傑ズバット』(77年)などで既に出てきてはいるが、ヒーローものの本流ではなかったはず)。


 そして、自身が持つ特殊な能力はそれまでの「仮面ライダー」のような改造手術を経て改造人間となったことによることを由来とはしていない。
 もちろん遺跡から出て来たベルトによって変身及び超人的能力を得てはいるし、これからどういう変調が起こるか分からないが(一度心臓停止状態つまり死んでいるので、さらに何か劇的なことが起こると思うが)、少なくとも今のところ初期『仮面ライダー』のメインテーマであった「改造人間としての悲哀」を伴っていない。


 そのため、最近の戦隊ヒーローと同様、明るいヒーローになっていると思うのだ。
 これについては否定的な見解を持つ方々も多いかと思うが、私自身もそうだし、恐らく子供たちも今の時代に求めているヒーローは、こういった明るさが必須ではないか。だから今度の「仮面ライダー」は従来のような「改造人間」ではなくなったのではと思うのだ
 (厳密に言えば機械埋め込みとは違ったバージョンの改造人間だとは思うが、映像としてきちっと「改造」された描写はなされてない以上、「改造人間」ではないと解釈すべきだと思いたい)。


 だらだらと自分勝手な分析を積み重ねてきたが、本作の主人公・五代雄介(ごだい・ゆうすけ)こと未確認生命体第2号・第4号は、西暦2000年の世の中に相応しい「仮面ライダー」だと、私は確信しているし、かつて自分たちが『仮面ライダー』に熱狂したのと同様に、この作品が今の子供たちに受け入れられることを願ってやまないのだ。


(了)


仮面ライダークウガ 〜前半評3 極私的『仮面ライダークウガ』論

(文・JIN)

「異形」なる者、その名は「ライダー」


 「仮面ライダー」としての「条件」とは一体何か?
 本作『仮面ライダークウガ』(00年)について考える際、自分の脳裏に最初に浮かぶのは常にそれである。


 「フィルム」か「ビデオ」そして「アフレコ」の有無などといった撮影手法の問題は別にして、大方の場合としては「オートバイ」「変身」「改造人間」といったところが「三大条件」としての代表的なイメージと思われる。*1


 そして本作の場合、一般的な「仮面ライダー」のイメージが持つ意味での「改造人間」ではない。
 少なくとも「機械」としてのイメージの強い「サイボーグ」としての意味からすればその通りである。
 もちろん、それは『仮面ライダー』原作の故・石ノ森章太郎氏の作品系列として、明らかにその前身である『サイボーグ009(ゼロゼロナイン)』(原作漫画64年・TVアニメ68・79年。後日編註:01年に3度目のTVアニメ化)の系譜を受け継いだ部分でもあり、続く「完全機械」の『ロボット刑事』(73年)においては更に深いレベルにおいて描かれている。*2


 しかし、よくよく考えてみれば、そうした石ノ森作品の系譜においても「サイボーク」ではない「改造人間」も確かに存在している。
 その代表的な例こそ正に『変身忍者 嵐』(72年・ISBN:4253171141ISBN:4253171168ISBN:4257960175ISBN:4886530982ISBN:4886533248)なのであるが、『仮面ライダーアマゾン』(74年・ISBN:4575936227ISBN:4575937509)や『仮面ライダーBLACK(ブラック)』(87年・ISBN:4091220517ISBN:4091600530ISBN:4091932010)などといった、石ノ森氏自身が直接「マンガ版」にタッチしている「仮面ライダー」作品群も、オリジナルの『仮面ライダー』初作よりも、そうした『嵐』路線の継承発展といったムードが強い。


 そして、これら三作品に共通するテーマこそが実に「異形」である。
 同じ非人間的であるにせよ、どことなく硬質でスマートなニュアンスのある「機械」をイメージしないだけに、より生理的な感覚と意味合いが強くなっているのだ。


 つまり「改造人間」という設定とは、本質的な問題として、その「異形」なる者としての存在を説明するための方便の一つでしかないわけであり、その「異形」としての条件を説明付けることが他の手法においても可能であるのならば、「機械」たる「サイボーグ」に拘わる必要は必ずしも無いわけである。



 そこで本作における「異形」としての象徴を最大限に負うべき存在こそが、なんといっても本作におけるシリーズ定番の「変身ベルト」たる「アークル」である。


 『仮面ライダー』(71年)15話冒頭の仮面ライダー2号・一文字隼人(いちもんじ・はやと)の独白場面における


 「一生外せぬベルト」


 の提示において代表されているように、「仮面ライダー」における「ベルト」の存在とは本来、その「改造人間」としての設定において、あくまで表面的露出部分としての「表象」に過ぎない。


 しかし本作の場合、同じようなコンセプトを有する敵種族クロンギ怪人群の設定にも見られるように、その「異形」たる根源をして「ベルト」に完全集約してしまったことによって、「ベルト」としての存在感や象徴性はむしろ過去作品以上に飛躍的に高められているといっても過言ではない。


 そうした意味からすれば、正に本作における「アークル」こそはシリーズ全体を通しての「究極の変身ベルト」であるとも言えるわけで、更に言うなれば本作の「クウガ」こそが、その解釈の仕方や展開によっては「究極のライダー」になりうるだけの可能性も十分にあるというわけである。
 


 そのドラマやストーリーの両面については他の多くの寄稿者が触れられているであろうし、今のところ自分としては触れるつもりはない。
 少なくとも現時点において他の方々のコメントや評論の方が、私より遙かに緻密にして深遠と思えるものがある。
 恥ずかしい話だが、最初から承知をしていたはずなのに、1話視聴の時点において、その「ビデオ」と「ノンアフレコ」の新機軸に対して強烈なまでの違和感ないし拒絶感を感じてしまったのが正直なところなのである。*3


 これはかつての『ウルトラマンティガ』(96年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961201/p)の本放送の時と同様であり、変化の激しい時代にそれではいけないと頭では承知しつつも皮膚感覚がそれをなかなか受け付けようとしない。
 自分という奴が体質的にも根っからの頑迷な「保守派」にして「守旧派」であるということを深く思い知らされる瞬間でもある。
 そしてその強烈な先入観からいまだ完全に脱却できていないのが現状であり、いわゆる「肯定派」の他の方々からいろいろとポイントを指摘してもらわないとドラマの微妙な部分がなかなか読み取れないのである。


 しかし、そうした私個人の感覚的問題はともかく、それらのドラマの根幹にあるものが、その「異形」の者としての「仮面ライダー」のキャラクターそのものであることは絶対に間違いない。
 よって、いつかそれら全てを包括した「総論」として完成させてみたいと思う気持ちも強くあり、他の方々の卓見も参考にしつつ、最後まで付き合っていきたいところである。


 かつて一文字隼人は「自らの意思に反して与えられたベルト」を見下ろしつつ


 「なってねえな」
 「しっかりしろや」


 と自らを叱咤鼓舞し続けることにおいて、その「改造人間」としての「ライダー」のテーマやドラマをさりげなくかつ強烈なまでに我々に訴えかけてくれた。


 果たして現在2000年の五代雄介(ごだい・ゆうすけ)は「自らの意思で身に付けたベルト」をして、「異形」の者たる「ライダー」のテーマやドラマを如何に完成させてくれるのであろうか?*4


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2001年準備号』(00年8月13日発行)〜『仮面特攻隊2001年号』(00年12月30日発行)所収『仮面ライダークウガ』前半合評1〜3より抜粋)


仮面ライダークウガ 〜前半合評2 リアルか否か? 大人向けか否か?

仮面ライダークウガ 〜前半評4 『クウガ』初期編所感
仮面ライダークウガ 〜前半評5 リアル路線について

仮面ライダークウガ 〜前半合評3 リアルか否か? 大人向けか否か?2

仮面ライダークウガ 〜前半評7 『クウガ』1〜2クール感触

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001105/p1

仮面ライダークウガ 〜前半合評4 前半総括・怪獣から怪人の時代来るか再び

仮面ライダークウガ 〜前半評8 マスクドヒーロー・ルネサンス

仮面ライダークウガ 〜前半合評5 周辺事情 & 敵怪人考察

仮面ライダークウガ 〜前半評10 クウガとその周辺事情

*1:もちろん「仮面ライダー」としての「条件」に、「ライダーキック」を加えることも容易であるが、『アマゾン』のような「ライダーキック」を必殺技としない例外も数人あるだけに、厳密な優先順位からすれば、やはり「四番目」以降と見なすべきだろう。

*2:「サイボーグ」としての意味から言えば、『仮面ライダーV3(ブイスリー)』(73年)前半における敵組織デストロンの「機械合成怪人」の設定などは、正に「機械」としての「サイボーグ」のイメージに最も近いものといえそうである。

*3:ところがここが実に皮肉にして面白いところであり、「ビデオ」と「ノンアフレコ」によるリアル感覚の重視と追求において、従来よりの「仮面ライダー」としては違和感が強くとも、『多羅尾伴内(たらお・ばんない)』(1946・昭和21年〜1960・昭和35年)の片岡千恵蔵主演の人気映画シリーズを、小池一夫作・石森章太郎画で78年にマンガ化・ISBN:4883157660)や『HOTEL(ホテル)』(84年・ISBN:4091923119。90・92・94・95・98年にTVドラマ化)などといった「社会派」の「石ノ森マンガ作品」にも伺える一種の「硬質感」により近いものが生み出されたことである。
 そして、それは石ノ森氏自身が監督を務めた『仮面ライダー』84話や『イナズマン』(73年)11話などにおけるカット割りや場面描写などと比較してみれば実に分かりやすいものがある。こうした側面の数々について今後もいろいろと深く考察していきたい。

*4:ちなみに、そうした「異形」性をして一つのギミックに集約させた石ノ森作品の好例として『鉄面探偵ゲン』(75年「週刊少年マガジン」連載・ISBN:4257918276)がある。
 いささかウロ覚えながら、主人公の置かれた立場、警察組織との関係、そして「自らの意思」による「鉄面」の継承プロセスなど、その各種設定について、本作『クウガ』との共通性は実に高いものがあったと記憶している。
 果たして制作スタッフが意識的にやっているかどうかは不明だが、そうした解釈からすれば、本作についてもれっきとした「石ノ森章太郎原作」としての資格はあるというわけである。
 それだけに早急な『ゲン』の復刻ないし文庫化が望まれるところである。解釈の普及の必要もあって出来るなら本作の放送中に……。
 編註:『クウガ』放映前年の99年に、メディアファクトリーより石ノ森章太郎全集ことShotaro world中の1冊(ISBN:4889916741ISBN:4889916954ISBN:4257918276)として再販されていました。