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仮面ライダークウガ 〜後半合評2 最終回直前! 雄介の変調!


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仮面ライダークウガ 〜後半評③ 「EPISODE41 抑制」までを観て

(文・内山和正)
(2000年11月執筆)


 自分にとっての『仮面ライダー』像をこわされた『仮面ライダーBLACK(ブラック)』(87年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001015/p2)を経(へ)たのちは、ライダーがキックではなく剣を使おうと車に乗ろうと巨大化しようと大したことではないと思うようになった。
 だからクウガが改造人間ではなくなったことに不満はない。
 故人となられた原作者・石ノ森章太郎氏自身、宇宙人が主人公であるなど、原点派が卒倒しそうな案をいくつか出されていたこともあるらしいし、冒涜でもないだろう。


 いや実のところ、それらの変化を最初から動揺なしに受けとめられていたわけではない。やはり長い間の慣習というものは身体にしみついていて一度は充分に衝撃を受け、そのあとで「これでも問題はないだろう」と判断するのである。


 『仮面ライダーZX(ゼクロス)』(84年)で身体の基本デザインを、『BLACK』で首のマフラーと戦闘員を、ビデオ『真・仮面ライダー 序章(プロローグ)』(92年)で変身ポーズと変身ベルトを……と不動と思い込まされていた要素を失ってきたのだから(それらのうちいくつかは復活してもいるが)、改造人間でなくなる日が来たことも不思議ではないだろう。


 また『仮面ライダー』の諸要素のうち他のヒーロー番組とくらべて独自のものがあるだろうか。さまざまの要素を他の作品にマネされ吸収されてもはや残ってはいない。
 だから新しい趣向を続々とりいれていくことが必要であろうし、それらと組み合わせて、旧要素のどれとどれを残して「ライダー」であることを主張するのか、作品ごとに取捨選択していかなければならない状況でもあるのだろう
 (『ウルトラマン』もそうなのだが、近年同種の巨大ヒーローの番組がないことで我々にはともかく、子供たちには新鮮で独特な番組に写っていられるのだろう)。


 とはいえ、改造人間であることは残された最後の聖域であったのかもしれない。
 東映の平山亨(ひらやま・とおる)プロデューサー時代(『仮面ライダー』第1作(71年)〜『ZX』まで)に、筆者が「ライダー」の必須条件と考えていたもので今も健在なのは、


・主人公が大学生もしくは大卒者であること
 (『仮面ライダーアマゾン』(74年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001008/p2)をあくまでも特殊な出自(南米アマゾンで生育)であるから、別格であると判断しての場合)
・オートバイに乗ったヒーローであること
 (これも製作されずに終わった『真』の続編で、仮面ライダーシンがオートバイに乗る予定であったことを計算にいれてであって、現存の『真』では乗ってはいない)


 くらいしかなく、それらもあくまで例外は認めないというのであれば、すでに必須条件はなにもないのだから。


 けれど本心をあかせば、筆者は『仮面ライダークウガ』(2000年)を「改造人間」でないとは思っていない
 (すでに本誌2001年準備号でSONO・JINの両氏が「改造人間」かもしれない可能性をやや消極的〜紙面から察するかぎりでは〜に指摘されておられるが。
 関連記事:『仮面ライダークウガ』 〜前半合評1・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001103/p1)。


 人為的な改造手術こそ受けてはいないが、アークル(変身ベルト)を腰にはめたことにより人体を変造されたのであって、ウルトラマンのように単に特殊能力を得たというわけではない。
 制作者が改造人間ではないといっている以上、言葉のうえでは改造人間ではないだろうが、本質的・理念的には改造人間と言ってよいのではないか。


 その身体的変化は、夏コミ発行の本誌準備号締切の放映時点(2000年7月)ですでに示されていて、各氏が指摘している通りだが、以後の展開ではより危険性・運命性を増して重いものとなっている。
 改造人間ゆえの苦悩も、本人が「悩まないヒーロー」であるとはいえ、内心では当然悩んでいるはずで、そのような描写はすでに見られる。
 また主人公があまり悩まないのを補うように、まわりの人物たちが(時には過剰とも思えるほどに)悩んでおり、新しいかたちでの「改造人間の苦悩・悲哀」の表現といえるのではないだろうか。
 東映の高寺茂紀(たかてら・しげのり)プロデューサーが“改造人間であることが必要条件とは思わない”との発言をしたのも、従来型の改造人間の枠組みにとらわれずとも「ライダー」的なものは作れるとの意識の表れではないか。



 異色の「ライダー」たる本作だが、意外と旧作の要素をとりいれているとも思われる。
 変身ベルト・アークルの中の霊石アマダムの力、およぼす作用は、その正体こそ善意なるものか悪意なるものか意識などはないのかわからないものの、キングストーン(仮面ライダーBLACKおよびその発展型・仮面ライダーBLACK RX(88年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001016/p1)のベルトにうめこまれている石)との相似性が、話数の進むのに従い個人的には強く感じられてきた。
 また手に持った物体を武器に変えてしまう特殊能力は、映画『仮面ライダーJ』(94年)のJパワーが発想の元という可能性もあるのではないだろうか? JはJパワーにより普通のオートバイをスーパーマシーン・ジェイクロッサーに変化させた。当時「Jパワーを使えばいろいろなものをJ用の兵器に変えられるのではないか」と考えた者は筆者だけではあるまい?


 クウガの低能力形態グローイングフォームは白色に光沢(メタリックなのかパールなのか知らないが)をくわえたシブイ色で魅力的だが、イメージ的には旧1号を、存在的にはBLACKの変身途中段階のバッタ男を想起させる。
 グロンギの怪人たち(およびクウガ)が登場順に未確認生命体第何号と呼ばれるのは『クウガ』独自の趣向だが、○○種怪人という「識別名」と「個人名」をふたつ持つのは、『J』の怪人を踏襲しているのではないか?


 こじつけてしまえば悩まないヒーローというのも、当時マニア間で批判があった『スカイライダー』(79年・番組タイトルは初作と同じ『仮面ライダー』)第1話「改造人間大空を翔ぶ」(脚本・伊上勝)ラストの、改造されても悲観したりせず、「僕戦えるんです、飛べるんです」発言が念頭にあったとか………(いや、これはないだろうな)


 またファンの許容力という面では、三段変身や車や剣を使用して放映当時反対派にたたかれた『RX』があったからこそ、『クウガ』への風当たりは少なくてすんでいるのだろうし、異なる方向性のものとはいえ『BLACK』や『真』の暗さがあったからグロンギが存在しやすかったのではないか?
 今「仮面ライダー」かどうかが問われている『クウガ』も、いずれは後続の「ライダー」のための盾となるのだろう。



 これだけ書いておいてなんだが、『クウガ』は本来筆者個人の望んでいた『仮面ライダー』ではない。
 望んでいた「ライダー」とは、いろいろ細かい要件もあるけれど一言でいうなら、“先輩ライダーたちの活躍できる作品”。これにつきる。
 この点さえクリアしておればもっと徹底的に改造人間でなくとも許容できる。
 そして「ライダー」と「ウルトラ」が唯一独自の存在を主張できる要素というのも、長年の蓄積の先輩たちの共演、それなのではないか!?


 まして今回、『スカイライダー』放映時や『RX』放映時にはもはや仮面ライダー1号・本郷猛を演じることはあるまいと思われた藤岡弘氏が、ここ数年の状況の変化で本郷の再登場に前向きになっておられるし、一時は「新しいヒーローを演じるなら特撮ものへの出演を引き受ける」との発言をしていた宮内洋氏も仮面ライダーV3・風見志郎としてクウガを助けに行きたいと仰られていた。
 スカイライダー・筑波洋を演じた村上弘明氏は無理だろうし、BLACK・南光太郎を演じた倉田てつを仮面ライダー2号・一文字隼人(いちもんじ・はやと)を演じた佐々木剛(ささき・たけし)両氏は微妙なところだろうが、他の方々はスケジュールや体調に問題なければ可能なのではないだろうか?
 おなじみの面々はもちろん、先輩としての出演経験がない後期ライダーシリーズの方々の出演も期待していたのだが(悪役が板についている仮面ライダーZX・村雨良(むらさめ・りょう)を演じた菅田俊(すがた・しゅん)氏がヒーローをどう演じるかなどの興味もある)。
 まあ第1期ライダー放送当時の雑誌による「改造人間は年をとらない」との設定を大切にするのなら、機械内蔵型の旧式改造人間であるZXまでの方たちは出ないほうがいいのかもしれないが。でも出てほしい。



 とはいえ望んでいたかたちでなくとも『クウガ』はおもしろい。


 多くの方が仰られているので詳細は述べないが登場人物、特にクウガこと五代雄介(ごだい・ゆうすけ)・一条薫(いちじょう・かおる)刑事・沢渡桜子(さわたり・さくらこ)の三人が前半においては魅力的だった。
 桜子については、「前作『J』でせっかく引き下げたヒロインの年齢をまた妙齢の婦人とやらに戻しやがって」との内心の個人的不満も、「ソレはソレ、コレはコレでいいや」と思えるほど初期編においてはドラマの中に活きていた
 (ちなみに、個人的ライダーヒロインベストは、外見的には『J』で撮影時小4だったチャイドル野村佑香(のむら・ゆか)が演じた木村佳那(きむら・かな)。人物造形的には江連卓(えづれ・たかし)先生執筆の最終回があまりにも印象的だった『仮面ライダースーパー1(ワン)』(80年)の草波ハルミ(くさなみ・はるみ))。


 後半はヒロインだったはずの桜子が後退した分、警察の面々や科学警察研究所の子持ちバツイチ女性・榎田ひかり(えのきだ・ひかり)の存在感が増した。
 放送前はライダーが刑事と協力するとか、マシーンを警察が造るとかの設定に抵抗を感じて、「滝和也(初作)も滝竜介(BLACK)も捜査官だったではないか」と自分をなだめていたものだが、番組がはじまってみれば雄介と一条の補いあい(戦いの面でもドラマ作りの面でも)は「もはやこれしかないだろう」というほどハマったものだった。


 『クウガ』の世界観では「恋人」と設定すると肉体愛にまで発展させないとならないとの配慮から、恋愛関係のない友達という設定になったという雄介と桜子だが、初期編では一条が気をきかせて二人だけにして去るクライマックスもあり、あの段階では恋人か、それに近い設定だったのではないかと思える。
 中盤以後、桜子の影がうすいのは結局恋人役に設定しなかったのが災いしたのではないだろうか。ハッキリしたものではなくても多少の恋情を片方が持っているというくらいの設定でも良かったのではないか?


 司法解剖専門医師・椿秀一(つばき・しゅういち)も何話かは忘れたが、TVドラマ『探偵物語』(79年・松田優作主演)あたりを意識したのだろうと思われる雄介とのミョーな会話が強烈だった。



 それにしても配役が豪華だ。きたろう氏の起用はおやっさん役だからまだしも、ゲストならともかくレギュラーでの榎田ひかり役の水島かおりさん、そろそろベテランといってもいい桜子役の村田和美さん、一条刑事役の葛山信吾氏はたしかNHKの金曜時代劇で主役(準主役?)をはったことのある人だと思うし……
 (編註:『夢麿長崎奉行(ゆめまろ ながさきぶぎょう)』(96年)で若き日の遠山の金さん役で準主演。オウム事件後、自身の従来作品へのアンチテーゼ(反省?)とも取れるテーマを頻出する市川森一(いちかわ・しんいち)脚本作品。本作でもいつもの個人至上主義からシフトしてナンと父子愛をテーマとした)


 もちろん名のある役者を使うことが必ずしもよいことではなく、一般のドラマなどでは却って弊害が出ているものも少なくはないと思うが、使えない状況が長かった東映ヒーロー作品だけに(一怪人が二週かけて倒される着ぐるみ節約の功罪はあるにしても)使えることは喜びたい。


 
 以下、(※)内は2000年夏に書いた未完原稿の一部である。当時の気持ちをあきらかにするため掲載する



 仮面ライダークウガこと五代雄介のキャラクターはヘタをするとただのバカになりかねない微妙さがあり、シャツにクウガのマークをプリント(?)して悦に入るあたりはやりすぎだと思った。
 しかしそんな軽さが、当初地味だった変身ポーズを大見得きってみせるかたち(現状での注:定着はしなかったが)につながっていき、さらには別の強化形態への変化時に「超変身!」と口にすることを決めるに至らせたのを見ると、まずくもなかったのかもしれない。


 この自らをヒーローとして演出していく趣向は、ヒーローものファンなら割と考えるものかもしれない(僕も考えていたし)。
 が、「ライダー」というシリーズに限定した場合、かっては変身に不可欠であった変身ポーズが、『BLACK』以降は変身前の準備体操のようなものとなり(それゆえ変更・短縮が自由になり)、さらにはポーズは取らずに省略しても変身可能となって、シリーズとしてのパターンやオマージュとしてのみ存在するだけで必然性は失われてしまっていた。
 近年(?)では映画『仮面ライダーZO(ゼットオー)』(93年)のように意識してポーズをとったというより、「たまたま体をそのように動かしてみた」というように、リアルさのなかにポーズをはめこんでしまう傾向にあったのに対し、今回の『クウガ』の五代雄介の軽さは、再び変身ポーズをとることに必然性をもたらす貢献をしたともいえるだろう。


 ドラマはさまざまなエピソードを織り込んで非常にスローに進展する。それが独特の効果や味わいを産んで、ごく単純なストーリーでも豊かさを感じさせる。
 ぜいたくなキャスティングの費用を作るためでもあろう、怪人の一体二話方式もその作劇により充分成立している。
 ただドラマが進むに従い、前後編で怪人が倒されるという形式が予定調和に感じられてきてしまったり、次回へ興味をつないでくれるというよりももどかしさが募ったり、桜子の不安などがパターン化してしまって、観ていて疲れてきたりしてしまっている。
 でも仮にギャラの問題がクリアできて、怪人を一話でたおせる形式になったとしたら作品の大切なものも失せてしまうような気がする。



 そんな気分になっていたとき、グロンギの殺人が単純な「快楽殺人」から、よりゲーム性を強めた特定のルールを設けている「趣向殺人」に変わってきた。
 桜子がねらわれているようにみせてサスペンスを持たせたうえで、一旦はそうじゃなかったように思わせ、結局は殺される条件にあてはまる一人だったとわかる趣向など新しい展開で、再び積極的に本作を視聴したいという気持ちを取り戻させた。


 そして強化したクウガの必殺キック攻撃によるグロンギ怪人の大爆発が、半径数百メートルにも被害をあたえる状況になって以降の、それを回避するための警察の協力も興味深く見させてくれる。


 いよいよクライマックスも近づき、スタッフが用意してあったというテーマにむかっている。
 昔のクウガは成功したのか失敗をしたのかも含め、なんとなくわかっているようでいてわからない真実が興味をかきたてる。
 バラの女の言葉からすれば、昔のクウガは成功したが今のクウガは災厄(さいやく)の存在にむかっているように思えるし、主題歌からすると昔のクウガは失敗したが今のクウガには回避できる可能性があるというようにとれる。


 超古代のクウガだった人物が棺(ひつぎ)に入っていたのも、変身ベルト・アークルを未来の人間に託すためかと思っていたが、自分の身体にすくった通称・未確認生命体第0(ゼロ)号ことグロンギの首領をどうにもできず、自分ごと閉じ込めるためだったのかもしれないし……


 個人的に初期編から抱いていた、雄介も棺に眠って未来へむかうのではないかとの、いやな予想の正否も含めて、結末まで見守りたい。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2001年号』(00年12月30日発行)所収『仮面ライダークウガ』後半合評⑤より抜粋)


仮面ライダークウガ 〜後半評④ 「EPISODE41 抑制」までを見て その2

(文・さかもと晄)
(2000年11月執筆)


 00年11月22日(水)、本誌編集主幹のT.SATO氏より手紙。
 坂井直人・坂井由人両氏が企画・編集を務める現行TV番組評論同人誌『SHOUT!』21号(00年5月14日発行)に掲載された『クウガ』評の転載プラス書き下ろしをお願いしたいとのこと。
 『SHOUT!』誌が発行されたのは5月だが、入稿は3月4日。#5「距離」放送時点での印象評であり、41行目、原文では“葛本”と誤記されている部分を“葛山”と直したほかは、まったく手を入れていないことを転載にあたり、明記しておく。



●……ごめんなさい。私が悪うございました。と、とりあえず謝っておく。
 番組開始前「警察が登場するリアルな世界」というPD(プロデューサー)の話を聞いたとき、一抹どころか千抹万抹の不安がよぎったのが正直なところ。「リアルにやる」と大言壮語してうまく行った作品なんて、ついぞお目にかかったためしがない。
 どうせまた“リアル”の意味を取り違えて御託と屁理屈を並べ立て、そのくせヘンなマニア連中に媚びたつまらんものが出来上がるのがオチと、タカをくくっていたのも今となっては恥ずかしい話。裏返せば、それだけこの作品に期待していたのだけど。


 その期待を裏切ることなく、いや、確実に期待以上に観られる作品となっている。
 今さら引き合いに出すのも当時のスタッフやキャストに気の毒な気もするが、『仮面ライダーBLACK』(87年)開始当初の期待値の高さは今度の『クウガ』の比ではなかった。なにしろもうライダーの新作は観られないと半ば諦めていた時代である。今のように関連アイテムが溢れているなど、夢のような時代である。そこへ降って沸いたような新ライダーの誕生。それを喜ばずにおられようか。
 ところが、である。小林義明演出の#1こそ娯しめたものの、回を重ねるごとに深まる失望と憤怒。かたちこそ『仮面ライダー』ではあっても、拭い去れない根本的な違和感を覚えていた。


 それまでの『ライダー』は、基本的に怪人がその能力を使って起こした事件を解決するかたちを取っていた。はじめに怪人ありき、である。
 ところが、『BLACK』では怪人はあくまでも作戦遂行上のコマでしかなく、その能力もモチーフとなった生物から掛け離れたものが間々見られ(なぜオオワシ怪人が幻覚を見せられるのか、なぜヤギ怪人が催眠術を使うのか、等々)、ますます怪人の存在意義は薄れて行った。


 かつてのそんな苦い記憶もそろそろ風化してきた頃に『クウガ』が登場した。


 #5「距離」まで観た限りでは敵の実態が未だ不明で、怪人たちが持てる能力を使って無差別殺人を繰り広げている展開が良い。
 テロップですら名前が表記されないのはどうかと思うが、ヒョウ種怪人は俊足、バッタ種怪人は驚異的な跳躍力と、モチーフとの乖離も見られず、なおかつデザインや造形にも怪人らしさが出ており、“新ライダー怪人”としては及第点だろう。
 対するヒーロー側も主役を演ずるオダギリジョーに複雑な芝居をさせず、専らドラマ部分のメイン・アクターにオダギリよりキャリアのある葛山信吾を起用するなど、工夫が見られる。
 もしも途中で活劇路線に変更されるなら、葛山が“もうひとりのライダー”で決まり?


 「リアルな物語」とは水と油と思われたクウガの形態変化も、戦いの中で必然的に行われるかたちを取っており、これも杞憂に終わった。それぞれの形態が決め技を備えているのかは現時点では不明だが、願わくばそうあって欲しい。
 『RX』(88年)では、ロボライダーとバイオライダーに転身してダメージを与えた後、RXに戻ってとどめを刺すパターンが頻出し、いささか辟易したものだ(それでも、ロボ&バイオ登場初期はきちんとその姿で決め技を使っている。おかげで、強敵であるはずの怪魔ロボット・デスガロンがあっさりボルティックシューター(必殺光線銃)で屠られるという、少々納得行かない現象も起きているが)。
 #2よりクウガと2大怪人の戦いという、こちらの観たい画を早速観せてくれたサービス精神旺盛な“わかっているスタッフ”のこと、必ずや期待に応えてくれるに違いない。


 それにしても、「娯楽性豊かで物語性に富んだヒーロードラマ」を事もなげに作り上げてみせる東映の力量には改めて舌を巻く。円谷プロが3年かけて出来なかったことを、わずか1ヶ月で成し遂げてしまったといっては言い過ぎか。
 ただ、円谷の名誉のために記しておくと、名作・傑作数多ある陰で多くの駄作・愚作も東映は生み出している。制作した作品の絶対数が円谷をはるかに超えるため、作りながらノウハウを身につけていったのである。
 野球で好成績を残すには素振りの数、相撲ではぶつかり稽古の数がものをいうのと同じ理由である。


 ともあれ、今いちばんタノシミな『仮面ライダークウガ』。これから1年、よろしくお願いします!              



 以上が『SHOUT!』誌上にて語ったもの。以下は00年11月26日、#41「抑制」放送時点での印象評である。



●「これから1年、よろしくお願いします!」と元気良く? 作品に挨拶してから約9ヶ月。
 まったく時の流れとは早いもので、『クウガ』も残り1クールとなってしまった。
 その割にはまだまだ残された謎・秘密の類いが多いので、れらをキチンと形として観せられるのか少々不安でもある。
 ドラマとしての『クウガ』にはこれといった不満はないものの、画面を観た後、紙媒体ではじめて知る情報の多さにはいささか戸惑ってもいる。


 最も解り易い例としては、クウガの形態変化。
 ドラゴンだのペガサスだのと、さも当然のように呼称されているが、劇中では五代雄介が単に「青い奴」とか「緑の奴」としか呼んでおらず、必殺技にしても「スプラッシュドラゴン」とか「ブラストペガサス」などとは一言も叫んではいない。
 これでは番組以外の情報源を持っていない人間には、公式名称が判らない。


 グロンギの描写も毎回凝った演出で愉しませてくれるほかは、さしたる情報も無く、未だに第0号の正体が取り沙汰されているというのは、随分呑気な話ではないだろうか。
 まあ、今の時代に二話完結のスタイルを採っている物語なので、ハナから呑気といってしまえばそれまでなのだけども。


 それにしても、だ。あまり雄弁ではない物語ほどファンは多くを語りたがる。数年前の『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)というTVアニメがそれを実証している。
 幸いにして『クウガ』はあれほど病的な現象を起こしておらず、病膏肓(やまいこうこう)に入(い)った人間も多くはないだろう。
 だからこそ今、偏った深読みや歪な知識のひけらかしではない、素直な『クウガ』論や『クウガ』評が読める良いチャンスである。この年末は久しぶりにコミケに行ってみようと思う。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2001年号』(00年12月30日発行)所収『仮面ライダークウガ』後半合評④より抜粋)
仮面ライダー クウガ Vol.10 [DVD]

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(#38〜#41「抑制」まで収録)



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