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仮面ライダーアギト 〜後半合評2 アギト設定考察・個々人の正義が激突!


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仮面ライダーアギト 〜後半評⑥ かえってくるライダー ―『仮面ライダーアギト』に関する考察―

(文・伏屋千晶)

序/“INFINITY JUSTICE”

 2001年9月中旬以来、TVを通じて連日繰り返し放映されてきた、ブッシュ大統領の過激な論調の演説を耳にして、図らずも、特撮ヒーロー・ファンの皆さんには耳に残った、一つのフレーズがあった筈。それは――


 “Infinity Justice”とは「無限の正義」。
 即ち、如何(いか)なる恫喝にも屈せず、如何なる犠牲を払っても、地上からテロリストを一人残らず抹殺し、不屈の正義を貫徹すべし――
 という、世界最強の軍事大国・アメリカ合衆国一流の意思表示なのですが、この一連のアジテーション演説の趣旨は、改めて考えてみるまでもなく、如何なる障害も悉(ことごと)く乗り越えて悪人集団を根絶やしにしないではおかない“正義のスーパーヒーロー”の単一的な思考様式と同レベルのイデオロギーに他なりません。


 では、世界平和を守る為に(ブラウン管の中で)果てしない闘争を繰り広げてきた日本のスーパーヒーロー達が、嫌らしくも、現実世界でヌケヌケと「世界の警察」(俺が正義だ!)を自負するアメリカ軍なんかと同等の存在なのか? というと“まったく違う”のです。
 (ナチスと結託して暴れ回った揚げ句にアメリカに鉄槌を下された、20世紀最大の極悪ならず者国家大日本帝国]の末裔として、言えた義理ではないかも知れませんが)


 その相違点とは、「国家」と「個人(若しくは、任意の小集団)」とのスタンスの差異であり、つまり、その「正義」の実力行使が、純然たる自発的な個人の感情・意思に基づいた[自律的行動]なのか、世俗的なモラルや大義名分の下に国民の義務として半ば強制的に課された[他律的行動]なのか――
 この“区別”を明確にする事が肝要なのです。


 だからこそ、スーパーヒーロー草創期に於いて、円谷プロ文芸部は、科学特捜隊(『ウルトラマン』1966年)を“自衛隊にも警察にも所属しない”と態々設定した上、「エリート集団」と謳いながらも“小市民的な好人物”ばかりをメンバーに配して「軍事組織」的なカラーを排除する配慮を怠らなかったのだし、石ノ森原作のTVヒーローの祖『サイボーグ009』(1964年「少年キング」連載開始)の主人公・9人のサイボーグ達の出自は“全世界から選ばれた”のではなく“全世界から見捨てられた”のでなくてはならなかったのです。
 恐らく、金城哲夫も、石ノ森章太郎も、民主主義国家の名の下に議会(多数決)によって遂行される「正義」を、少しも信じていなかったに違いありません。それ故、ヒーローの出自・設定上の“自律”的なニュアンスの表現に対して、過敏にならざるを得なかったのではないでしょうか。


 学生運動労働争議が盛んだった当時、まだ子供だった私達は、作者達が抱えていた「左翼思想」「反体制」といったバックボーンが、まるで理解できないながらも、滑稽なまでに稚気満々の脚色・演出も相まって「ただ、ひたすらに己の信条を貫く」――
 その、極端に“純化”された主人公(ヒーロー)の行動の潔さに、無意識の内に感得したモノがあったのだと思います。


 少なくとも、私は、英雄崇拝・勧善懲悪・道徳修養・SF性の観点から特撮キャラクター作品を捉えた記憶がなく、ドメスティックな特撮技術と面妖な作劇センスによって次々に描き出される“非現実的な光景”の数々が、ただもう「面白いから」視聴し続けてきたのだし、今後も恐らく死ぬまで、そのスタンスは変わる事はないでしょう。


 そんな作品嗜好を持つ私だけに、よりアクティブに[個人性]が重視された(?)『仮面ライダー』(1971年)が始まった途端、所詮は[体制側]に与する(?)ウルトラ・シリーズから浮気して、コテコテの“ライダー・ファン”に転じてしまったのも、無理のないハナシで……。



 もっとも、私の“ウルトラ離れ”は『帰ってきたウルトラマン』(1971年)後半に於けるトーン・ダウンが元凶でしたが、真に、決定的な要因となったのは、「必ず、坂田兄妹の復讐をしてやる!」と、人間(個人)的な感情を露にした時に敗北した“超人失格”のウルトラマン[対ナックル星人+ブラックキング戦(#37/脚本・上原正三)]よりも、「私はここで果てようとも、私は“今”に命を懸ける!」と、窮地にあって自ら感情(気魄?)を昂せて、物理的な肉体の限界を超えた“がむしゃら”な仮面ライダー[対エイキング戦(#38/脚本・伊上勝)]の方に、陽性の魅力を強く感じた故だった、とハッキリ覚えています。


 この対極をなす2編のエピソード[感情の発露により、ヒーローが生死を分けた/しかも、両シリーズのメイン・ライターによる脚本]の放映日は、なんと一日違い(1971年12月17日と18日)。それだけに、私の記憶の中に強烈なコントラストとして深く刻まれているのでしょう。
 (余談ですが、同じく上原&伊上両氏が担当された、『帰マン』#19[サータン編]と『ライダー』#31[アリガバリ編]のプロットが、余りにも酷似している件に関しては、どなたかが言及された前例があるのでしょうか? 〜編:もちろん腐れオタクの世界ですから前例あります・笑)



 ――そして、アッという間に30年! 「正義の味方」(For Justice!)の一貫した謳い文句の下に、途絶える事なく製作され続けてきた東映特撮キャラクター作品群の、見事なまでに普遍化されたコンセプトは、まぎれもなく“Infinity Justice”なのです。
 (――というのは、ちょっとアレでしょうか?)


考察1・『クウガ』との差別化

 『仮面ライダークウガ』(2000年)の中核トリオ[プロデュース/高寺成紀(たかてら・しげのり)、脚本/荒川稔久(あらかわ・なるひさ)、監督/石田秀範]に代わって、[プロデュース/白倉伸一郎、脚本/井上敏樹、監督/田崎竜太]の新体制の下に新作『仮面ライダーアギト』(2001年)はスタートしました。



 「すでに仮面ライダーである男(津上翔一・仮面アギト)」
 「なろうとする男(氷川誠・仮面ライダーG3)」
 「なってしまった男(葦原涼・仮面ライダーギルス)」
 の3人の主人公を描くドラマと言われている『アギト』ですが、その真意は、前作『クウガ』にブチ壊された「仮面ライダー」本来のアイデンティティを回復するべく、“番組自体”が[仮面ライダーになろうとする作品]だったのです(!?)。


 主人公の3人も、注意深く見直してみると、実際には「仮面ライダーになる気がなかった男」「なりたくても、なれない男」「なりたくなかった男」であり、前作の「みんなの笑顔のために仮面ライダーになったけど、結局はコワれてしまった男」に対する揶揄に満ちた、キャラクター個々の自発的な[戦うモチベーション(動機づけ)]の描写にポイントを置いた設定になっている事に気付かされます。
 とりわけ、3人の中では、自己犠牲の精神に於いて[五代雄介](クウガ)に最も近い[氷川誠]が、どうしても“真のアギト”にはなれない皮肉は“極め付け”と言えるでしょう。


 ――とは言え、高視聴率をマークしていた『クウガ』直後の番組だけに、“2匹めのドジョウ”を狙わざるを得ない営業的事情から、前作とは全く違った方向性を標榜していたにも関わらず、『アギト』は『クウガ』PART−Ⅱであるかの如く、表層的に作風を“偽装”しなければなりませんでした。
 実際、最後の未確認生命体・第0(ゼロ)号が第4号に倒されてから2年後という『クウガ』のストレートな続編という設定でスタートした『アギト』には、常に前作の“二番煎じ”的なイメージがつきまとっていた上に、クウガの新フォームと呼んでも差支えのないような大同小異のコスチューム・デザインも新鮮さに欠け、サッパリ訳の分からないズルズルした展開も相まって、まったく第一印象は最悪でした。



 「謎の新ヒーロー」という設定が災いして、本来の主人公・翔一アギトは怪人を倒すだけの“30分単位で区切りをつける装置”としてしか機能できず、必然的に前作同様の“クソ詰まらない刑事ドラマの真似”に終始する、この悪循環をナンとかしてくれ!
 合理的な結論が出せる筈のない「不可能犯罪」のトリックを見破ろうとするムダな捜査過程の描写や、氷川や北條が子供騙しの推理(2本の銀の線 → 線路、姓名判断の本を所持 → 配偶者が妊娠中、腕時計を右腕に → 左利きの人間の仕業……etc.)を得意げに開陳する件(くだり) には、ホントに閉口。
 井上氏は、昨年『クウガ』#27〜28でも、「音符のゴロ合わせでゲゲルを実行する場所を選ぶ」という、ゴ・ベミウ・ギの妙な習性(ルール?)を見破る過程をミステリー・ドラマ風に仕立てていましたが、明らかに[飯田讓治]と[三谷幸喜]の影響が認められます。
 こーゆーのって、人気ドラマや深夜ドラマやバラエティー番組には詳しいマニア達にはウケているのでしょうが……。所詮、荒唐無稽の怪人が登場する架空の世界観の下で、あまりに“理詰め”で物語を展開してみても、虚しいだけじゃありませんか?



 それでも、キャラクター・アクションにウェイトを置いた『アギト』の演出方針に一筋の光明を見出していた私は、我慢して毎週視聴し続ける内に、井上+白倉コンビが仕掛けた[脱クウガ]的な潜在要素の数々に、徐々に気付き始めたのです。


 先ず、[脱クウガ]指針の第一として、当初は「みんなの居場所を守る為に――」という“五代雄介みたいな”翔一クンのキャッチ・フレーズが、早くも第3話で「バッカじゃないの、下らない!」と真魚(まな)ちゃん(本作ヒロイン)に一蹴され、更に、第4話では「だったら、自分の居場所もキチンと守りなさいよ」と、何気なくもキッパリと、見事に修正[自己犠牲 → 自衛]されました。


 これは、桜子さんや一条さんには到底言えなかったセリフであり、クウガの力に依存しなければ生き残れなかった前作の登場人物達の脆弱さに対する、井上氏一流のアイロニーではないでしょうか。
 たとえ弱者であっても、強者の力に守られてヌクヌクと生き延びようとは決して考えず、常に強者と共に戦いの現場に在る――それが、井上脚本の真骨頂!
 (『仮面ライダーアギトスペシャル 新たなる変身』に於ける、尾室クンの果敢なバッテリーパック換装を見よ! 『劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4』で、真魚を救う為に敵地に乗り込んでいった沙綾香を見よ! 真のライダー・ファンなら涙が止まらん筈やで、ホンマに)



 一方、30分1話完結(怪人が毎週1体ずつ登場する)スタイルを打ち破ったシリーズ構成についても、昨年来の路線をそのまま継承しているように見えて、『クウガ』と『アギト』では、その意味合いがまるで違います。
 怪人を倒す毎にエピソード単位で一応の区切りが付いていた前作に対し、『アギト』はより一層ファジーな展開となり、「怪人を倒しても、何も解決しない」のです。一般に、こうした[連続ドラマ性の重視]の姿勢は、昨年みたいに[アクション軽視]による「ヒーロー番組の空洞化」を招きかねないのですが、そうならなかったのが『アギト』の非凡なところ。
 『クウガ』では便宜的に処理されていた変身後のアクション・シーンが、『アギト』では立派に“ヤマ場”として成立しており、ほとんど意味不明のシリーズ前半部の緩慢なルーチン・ドラマの中にあって、一服の清涼剤(アクセント)として有効に機能していました。


 とりわけ、グランドフォーム(アギト基本形態)が「ハァァッ……」と深く息を吐きながら、左足を引いて腰を沈めながら体勢を斜に構える[居合(いあい) ]独特の姿勢を取り入れた新ライダーキックの格好良さ、
 #6で炸裂した獰猛な仮面ライダーギルスのラフ・ファイト及びヒールクロウ(踵落し)の鮮かさは絶品で、『クウガ』で欲求不満に陥っていたアクション好きのオールド・ファンにも、十分アピールし得るレベルの出来でした。


 更に、劇場版の製作と進行が並行する為に[山田一善(やまだ・かずよし)]アクション監督の補助として#26から加入した[宮崎剛(みやざき・たけし。後日付記:次作『龍騎』でメインアクション監督に昇格!)]氏との共同演出による、
 両腕のギルスクロウを十字にクロスして決めた戦闘ポーズ(#26)、
 ストームハルバート(武器)がベルト中央部から飛び出した勢いで面前に迫っていたクロウロード(敵怪人)のボディを直撃するカット(#27)、
 アギトがオーバーヘッド・キックで空中高く蹴り飛ばしたフイッシュロードを仮面ライダーG3−XがGXランチャーで粉砕する連携プレー(#29)、
 花火大会を背景にアギトとG3−Xが“ほとんどダブルライダー”状態の波状攻撃コンビネーションを見せてくれた対クラブロード戦(#30)
 などの、創意工夫に満ちたヴィヴィッドな擬闘の素晴らしさには、もォ〜、その他諸々に対する多少の不満には目を瞑っても構わない、って位にハマりました。


 ただ、シリーズ中盤以降は、怪人との対決シーンが途中で区切られ、翌週のアバン・タイトル(OP前)で決着がつく――という番組形態が定着して、クライマックスが次回の冒頭に持ち越される“連続性(引き)”を過剰に意識した、変則的な構成が一般化してしまったのは、ちょっと頂けません。


考察2・“アギト”は「竜」だ

 「アギト」とは「顎門(あぎと) 」――即ち、雄のクワガタムシのシンボルである2本のツノ=“大顎(おおあご)”の意と解釈して、アギトをクウガと同じく“クワガタムシ男”と認識していたのが、そもそもの間違いでした。



 実は、アギトは「クワガタムシ男」ではなく「竜」だったのです――と、申しますのは、「顎門」には“鰓(えら)”という意味もあって、「半魚人」を“gill man”=“えら男”と称する例がある様に、“えら”は[水棲動物]のシンボルなのです。


 OP(オープニング)に登場するイコン(宗教画)が明らかに東洋的なイメージである事から、この作品は東洋的な世界観に支配されていると考えるのですが、中国では「竜」と「水」とは非常に密接な関係を持つものとされています。
 曰く、「竜」とは、「水に棲み、時至れば天に昇り、この世と天上界を結ぶ生物」――で、アギトになる[津上翔一](実は沢木哲也ですが)の名前には“水を離れて上空へ翔ぶ竜”という意味が込められているのではないか? と、思い至った次第。(「この世と天上界を結ぶ」という一節も、敵が“神様”と判明した今、俄然、意味シンになりました)
 また、日本では「竜」は「水神」と呼ばれ、農耕生産と結びついて水を司る、という伝承もあり、これが、翔一クンが菜園を作ってトマトやピーマンを栽培している、という設定のベースになった(?)と思われます。そして、マシントルネーダーの“トルネード”とは「竜巻」、スライダーモードは竜の形態を模したもの……
 ネ、これで、みんなもアギト=「竜」説を支持してくれるでしょ? (なんてったって、監督は田崎“竜”太だしィ)


 ですから、最大パワー発揮時に開いて2本から6本になるアギトの額の巨大なツノ・クロスホーンは、もともと2本のクワガタムシのツノ(大顎)ではなくて、竜の頭部に無数に生えている「尺木」の意匠化であった訳で、別項でも述べた様に、番組開始当初は、人気があった前作『クウガ』に倣った“クワガタムシ男”であると、保守的な視聴者に信じ込ませる為の“偽装”を施さなければならなかった、デザイン過程での苦心が今更ながらに察せられます(?)。



 一方、“半魚人ギル・マン”の事例を引いて気付いたのですが、“あぎと”=“えら”を英訳すると“gill(ギル)”――転じて「ギルス」となったのは間違いないでしょう。つまり、「アギト」と「ギルス」とは同じ出自である(水棲の竜?)という含みが、日本語と英語で同義である双方の名前の中に隠されていたのです。(当初は、“guilty(有罪)”+“vice(不道徳)”=“ギルス”と、睨んでいたのですが……)


考察3・「水」にまつわるネーミング考

 「アギト」「竜」「水」の関連という観点から、主要登場人物のネーミングを改めて見直してみると、面白い傾向を発見できます。


 津上翔一、氷川誠、葦原涼、風谷真魚、小沢澄子、沢木哲也、雪菜、と列記するとよく分かるのですが、「津」「氷」「川」「葦」「涼」「魚」「沢」「澄」「雪」と、「水」に関係のある漢字のオンパレードなのです。
 加えて、劇場版『――PROJECT G4』(2001年)の主役キャラの名前が[水城史朗]と[深海理沙]だと知った時、これは間違いなく意図的に「水」に因(ちな)んだネーミングをしているんだ、と感じました。


 翔一クンも、オーパーツも“海”から打ち上げられたし、涼は“水泳選手”だったし(その涼が“溺死”させられるのは皮肉だ/#27)、おまけに「水のエル」と来た日にゃアンタ、もう『アギト』の裏テーマは「水」に決定……って、そりゃ、どういう意味っスか? ――だから、アギトは「竜」なんだってば!
 ちょっと苦しいコジつけで恐縮ですが、少なくとも、「水」とキャラのネーミングには何らかの因果関係が存在している事は、どなたにも納得して貰えると思います。



 われらの[北條透]が、その例に属していないのは残念ですが(河野刑事だって[河野浩司]で“さんずいへん”が2つもあるんだゾー)、辞書によれば[小沢澄子]の「澄」は“透き通る”という意味ですから、図らずも、「アギト(えら)」=「ギルス(gill)」のパターンと同じく、この2人は同義の名前(「澄」=「透」)を与えられた“因縁深い間柄”にある事が、ネーミングの考察から改めて検証されたワケです。
 もっとも、この2人の場合は「一心同体の同胞(はらから)」というよりも、[陰(negative)]と[陽(positive)]の「表裏一体の似た者どうし」の関係ですが。
 (ついでながら、[両野耕一]は、涼のコーチ=“りょうのこうち”が転じて“りょうの・こういち”になったそうな)



 また、もうひとつ、ネーミングの重要なポイントとなるのが、“真魚ちゃん”の「マナ」。――そうです、『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』(1999年)で一躍有名になった、あの“MANA”です。
 百科事典によると、「マナ」とは[人格・非人格を問わず、自然界の万物に含まれる超自然的な力で、物から物へと転移する。例えば、ある戦士が、勝てる筈のない強大な敵を倒した時には、その得物(武器)にマナが宿っていたからだ、とされる]という事で、これは、死んだり、死にかけたりしていた涼が、真魚ちゃんや間島クンの“アギトの力”を移植されて甦った例を見て分かるように、“アギトの力”とは即ち“マナ”なのです。



 ところで、『クウガ』の警察関係の登場人物のネーミングの“植物”シリーズ(榎田、椿、杉田、桜井、笹山、松倉)には、お気づきになっていましたか? また、結局2人しか登場しませんでしたが、長野県警関係は“動物”シリーズ(亀山、海老沢)に統一する予定だったそうで……って、何か意味があったの?


考察4・小沢澄子と北條透

 まだ、あらゆる意味で本領を発揮できていなかったシリーズ前半の『アギト』に於いて、私の目をクギづけにしていたのが[小沢澄子]と[北條透]の2人。
 (この両名、きっと2年前は、歯の浮くようなセリフを頻繁に口にする第4号に変身する青年を「ウサン臭いわね!」と思っていただろうし、“第4号捕獲作戦”計画書を一度ならず、松倉本部長に提出しては却下されていたに違いない)


 この点に関しては改めて申し述べるまでもなく、井上敏樹的な性格を端的に反映している“険のある”この2人のカラミ(舌戦)にこそ、氏の毒舌のセンスが遺憾なく発揮されており(というか、明らかに楽しんで書いてる)、毎回、甚(いた)く笑わせて貰いました。毎回、廊下や階段で2人がスレ違う場面が楽しみでしたねー。



 それ故、“北條は、実は有能でイイ奴”みたいな内容だった#18〜19(司龍二(つかさ・りゅうじ)登場編)には、少なからず懸念を抱いたものですが、翌週からまた“イヤな奴”に戻っていたので、ホッとしました。


 なんてったって、北條といえば、
 #10で見せた[みっともない敵前逃亡]、
 更に#11でその非を問われて「小沢管理官の判断ミスの所為だ!」と逆ギレした[見苦しい責任転嫁]、
 氷川・涼の鉄拳パンチのみならず、小沢澄子の膝蹴りまで食らってしまって無様にダウンした[醜態の数々]
 こそが、彼の独壇場なワケであって(榊亜紀(さかき・あき)に“手巻き寿司”にされたり、G3−Xにボコボコにされた事もあったっけ)、易々と“詰まらない善人”になって欲しくはないものです。
 ――でも、老練な熟年先輩刑事の河野さんが「アイツは本当はイイ奴なんだよ」とやたらに肩入れしている理由を知りたくもあり、また、河野刑事役の田口主将(たぐち・かずまさ)氏も脇役としてイイ味を出している事だし、できれば、北條&河野コンビを主役にした番外編を作って欲しかったナー。
 (なんとか、最終回までに一度は、「うまい軒」の屋台で2人仲良く肩を並べて、ラーメンを啜らせてあげたいものですね)



 ところが、表面的には天敵同志の様なこの御両人(小沢澄子&北條透)、共に「独断専行」=“自分なりの正義(我)を貫く”事が大好きな気性に於いて、一卵性双生児のようにソックリな一面を共有しているのです。


 この特異な共通性は、やはり、井上氏の[個人主義]に重きを置く作風の発露であり、この「個」=「エゴ」の重視こそが『アギト』のドラマツルギーの根幹を成す、『クウガ』との差別化の肝(きも)なのです。
 善人ばかりの「和」を以て“仲良しごっこ”の共同体ドラマを展開した荒川稔久(あらかわ・なるひさ)氏に対して、井上氏は“明らかに善人ではない”独立した個人どうしのエゴが真っ向から衝突する「不和」をベースにしています。


 つまり、見るからに“物わかりのいい上司”である松倉本部長の下に、固く結束していた特別合同捜査本部とは裏腹に、現在のアンノウン対策班は、見るからに“官僚的な”キャリア幹部が構成する委員会の支配下に置かれ、事なかれ主義の上層部のヌルさに業を煮やした小沢澄子が独断で勝手にGトレーラーを出動させちゃったり(ところで、Gトレーラーって、誰が運転してるの?)、客船「あかつき号」事件のスキャンダルをネタに北條透が上層部に脅しをかけちゃったり、揚げ句に氷川は幾度も更迭の危機に見舞われ、“独立愚連隊”状態に追いやられたG3ユニットの解散説は日常茶飯事――
 と、もう本当にシャレにならないくらいにチーム・ワークは最悪なワケで、この徹底した“仲の悪さ”ぶりの描写は、絶対に前作に対する意図的なアンチ・テーゼであると、自信をもって断言できるのです。



 そして、物語全体の鍵を握る「あかつき号」事件も、その神秘的な遭難の真相の解明をシリーズ終盤まで引っぱった(#42でやっとスッキリ)が故に、短期的には、#7で小沢澄子が毒づいた官官接待を揶揄するセリフの方が印象的で、井上氏としては「警察官僚どうしの不祥事」に対する皮肉の方が、本当に描きたかったテーマではなかったのか? と、ついつい勘繰りたくなります。
 ま、所詮は「官憲」に過ぎない警察機構を、安易に「正義の味方」に祭り上げてしまった、お坊ちゃん育ちで世間知らずの『クウガ』文芸スタッフ一同に対する“それは違うだろ?”的な忠告だったのかも知れませんが。(劇場版『PROJECT G4』で、[自衛隊]を“悪の軍団”扱いにしているのが、何よりの証拠!)



 そして、やっぱり井上氏は[小沢&北條]を物凄く気に入ってるんだなァ、という念を改めて強くしたのが、両者には“恩師”にあたる[司龍二](#18〜19)、[高村光介](#22〜25)が登場するエピソード。
 常日頃は“上役なんて屁でもないワイ!”と思っているに違いない“傲岸不遜な”両人にとって、唯一「頭が上がらない人物」を登場させる事によって、各々のキャラクターの意外な一面を引き出す(北條の涙、小沢の忍従)という巧妙な作劇センスには、“さすがは父子相伝!”と、誰もが唸らされた筈。(『鉄甲機ミカヅキ』(2000年)では期待を裏切られましたが…)
 2人が、かつての恩師に再会し、裏切られていく事により、ますます2人のキャラクターに“幅”ができました。各々に“裏切られ”方が違うだけに、非常に興味深い「ドラマ」として成立しているのは見事です。(『クウガ』のグチを垂れるだけの無能な恩師・神崎先生のエピソードとは、エラい違いやで)


 なかんずく、高村教授が、小沢澄子の性格の欠点や、G3−Xの欠陥をズバリ指摘する場面では、師弟のセリフの応酬の“辛辣さ”に、本当にシビレましたね。
 「私は昔から君の事が嫌いだった」
 なんて、言われた方はどうすりゃいいの? しかし、さすがは“硬骨の女”小沢澄子。
 「わかりました。そういう事でしたら、私も貴方の事を嫌いになります」
 の、見事な切り返しには全く恐れ入りました。


 重要なのは、司も、北條も、高村も、小沢も、“自分の正義”を貫いたって事で、ここでも井上氏のテーマは一貫しているワケです。
 それにしても、寺杣(てらそま)昌紀(司龍二)に清水紘治(高村教授)、それに準レギュラーの加地健太郎と、警察関係の上層部の役に、悪役系の俳優ばかりを起用しているのは意味シンですねー。これも一種の“狙い”なんでしょうか?(総監役の藤岡弘は別にして)
 そう言えば、最近(特に#39)の「対策班上層部」の描写は、ほとんど「ゼーレ」(『新世紀エヴァンゲリオン』95年)みたいになってきましたね。



 また、#22で小沢澄子と津上翔一が、初めてサシ(1対1)で対面した焼き肉屋のシーンで、亜紀の死に直面して落ち込んでいる翔一クンに小沢サンがさりげなく喝を入れるのを見て、小沢澄子は「おやっさん」だったんだ! と気付かされました。
 氷川に対する指導は、あくまでも「上司と部下」という関係が念頭にあったので見過ごしてきましたが、小沢澄子は、間違いなく[ヒーローを支える精神的支柱となる年長者]として設計されたキャラクターだったのです。


 ――小沢澄子が「おやっさん」だとすると、彼女と対(つい)をなす北條透は「滝和也」(『仮面ライダー』初作)?
 これは、01年12月に放映予定(この文を書いているのは11月末)のエピソードで、視力を失ったG3−Xの“眼”となって共に戦う彼の姿を見れば、明らかになる事でしょう。


 余談ですが、緊急事態という事で、一時的にG4か、G3−MILD(マイルド)、あるいはV1システムを復活させて、それを北條に装着させて、5人ライダーの揃い踏みを見せてくれたら嬉しいんだけどナー。
 ([V1システム]って、頭部は「ソルブレイバー」(『特救指令ソルブレイン』(91年)の主役強化スーツ)、上半身は「ジバン」(『機動刑事ジバン』(89年))、腰は「ガンギブソン」(『特捜ロボ ジャンパーソン』(93年)のライバルロボ)、両腕・両脚は「ドラフトブルース」(『特捜エクシードラフト』(92年))、銃は「ディクテイター」(『ブルースワット』(94年))の改造パーツの寄せ集めで、言わば、[メタルヒーローの集大成]なのです。さすがは小沢澄子の師・高村教授!)



 さてさて、シリーズ前半では思う存分に暴れ回った小沢&北條コンビも、最近ではすっかり新参の[木野薫]に食われて、出番が少なくなってしまいました。このまま、単なる“前フリ”キャラクターで終わってしまうのかどうか、終盤の成り行きに期待しましょう。



 簡単に懐柔されてイイ奴になるなよ、北條!
 対策班幹部のおエラ方にも必殺の膝蹴りをかませ、小沢!
 ――たとえコンセンサスを得られなくても「我」を貫き通す君達こそ、真の『アギト』の主人公だ!


考察5・失われた記憶

 主人公・津上翔一が記憶喪失である理由については、[準備段階で、年間を通しての大筋の見通しが立たなかったので、後でどうにでも変更できる様に、苦しまぎれにヒーローの出自を曖昧にした]又は[『クウガ』の視聴者を繋ぎ止めておく為に、初期数話は『クウガ』の続編みたいに錯覚させる必要があり、敢えてヒーローの出自(本当はまったく別モノである)を隠した]といった、ビジネスライクな風説があり、私もそう信じていました。
 ところが、ストーリーが進むにつれて、翔一クンが記憶喪失である事は、実によく計算された設定なのだと気付きました。



 翔一クンの姉・雪菜、国枝東(くにえだ・あずま)先生(演・京本政樹)の息・広樹、そして「あかつき号」のメンバーの全員が、自分の中に[アギトの覚醒]を自覚した時に、その力に翻弄されて“暴走”した揚げ句に“自滅”していった事例の数々を、あれだけ執拗にドラマの中で繰り返して見せつけられれば、イヤでも納得してしまいますが、つまり“もし正気だったら、翔一だって堪えられなかっただろう”という事です。


 例えば、正気のままで「ギルス」になった[葦原涼]が、どういう運命を辿ったか、改めて考えてみて下さい。
 信じていたコーチに見捨てられ、ヨリを戻しかけた元恋人にもフラれ、水泳選手としての夢を捨てて大学を去り、世捨人に身をやつしたのも束の間、父親の訃報に大ショック!
 あまっさえ、警官隊から銃撃を受け、変身の後遺症で肉体はボロボロ。止めは、初めて心を通じ合った亜紀まで殺されちゃうし、正気でいられる方が不思議なくらいです。
 (だから、#40での涼のセリフ「裏切られる事には慣れている」っていうのは、悲しいくらいに説得力があるのです)


 で、これら一連の涼の受難の経歴は、翔一クンが記憶を取り戻した時に、同等の“悲劇”が待っている事を暗示していたワケです。



 そして、#27での沢木哲也(実は本当の津上翔一)のセリフ「自我を超越した者だけが、力を制御する事ができる」と、記憶を回復していた翔一クンが変身してクロスホーンを全開した時に再び記憶を失ってしまった事実(#26ではクロスホーンを開いていない)から、アギト(=超越した自我)自体が生きのびる為に“器”となる人間の記憶を吸い取っているのではないか、という推察が成り立ちます……って、考え過ぎ?
 即ち、“神の力を持つ人間”=アギト(半神)とは、「脱自」(自己からの脱却)或いは「自己無化」による絶対者(神)との合一を経て、「真の自己(超自我)」に到達する上昇過程を実践する事である――という[神秘主義的]な考え方に基づけば、その過程で一時的に「記憶喪失」という症状が現れているのではないか? という推論も、あながち無意味ではないのではないか、と……?
 (ウーン、自分でもワケが分からなくなってきたぞ)



 ――とにかく、涼は、自己を見失わずに“進化”のプロセスを経験した為に色々と辛い目に遭ったけど、翔一クンは記憶を失っていたお陰でヘラヘラしていられたってコト(#3〜4では結構悩んでいたけど、真魚ちゃんに救われましたねぇ)。
 #42で、遂に記憶を取り戻したみたいですが、ちょっと心配です……いえナニ、賀集利樹クンにシリアスな演技ができるかナ? って事ですけど。
 それとも、クロスホーンを開いてアギトの力を全開にしたら、また忘れちゃうのでしょうか? (この同人誌が出る年末には解っているハズ)


考察6・神の生け贄

 なんか本当に1クールは、ワケの分からない、しまりのない、ズルズルとした……エエイ、うっとーしぃ! グチるのは止めた! とにかく、2クールは[榊亜紀]の登場(#15)がきっかけで、やっとドラマが動き始めたと感じられる様になりました。


 それまでは、翔一(アギト)・涼(ギルス)・氷川(G3)の間にダイレクトな接点がほとんど無かったもので、パラレルに進行する各々のシークエンスが断片的に挿入される構成が延々と繰り返されるばかりで、全般的にはどうしても集中力に欠け、辛いモノがあったのですが、亜紀の登場によって翔一と涼との間にドラマチックな関係(三角関係?)が生じて、いよいよ3人ライダーのドラマが1本化される気配が見えてきました。


 亜紀の死因を誤解したギルスがアギトと対決 → その仲裁に入ったG3は全く歯が立たず、G3強化が火急の課題に → G3−XとV1システムの開発競争 → G3−X暴走 → 氷川の解任 → 氷川の独断で翔一がG3−Xを装着 → 高村教授のアドバイスに小沢澄子絶句 → 小沢澄子の独断で氷川復帰(泣かせるシーンでした) → アギトとギルスが再び激突! → 翔一の記憶が一時回復し、沢木と面会 → 再び記憶喪失 → 涼、死す……


 亜紀の死が発端となって、3人の主人公は緊密に絡み合い、2クールの後半は中身の濃いドラマが展開しました。いやー、#22で3人のヒーローが初めて1フレームの中に収まった時は本当に嬉しかったナ〜――と、喜んだのも束の間、涼が死んじゃったしィ……
 (実は、戦隊シリーズとの差別化の為に、毎週、必ず3人の内の誰か1人は変身できない様な情況を作る、という申し合わせがあったそうで、そのシワ寄せで、涼がやたらに何度も死にかけていたのです)



 しかし、2クール後半の事実上の主人公は、怪しげな地下組織の如き「あかつき号」事件のメンバー達でした。(一体何なんだ!? 戻れない“過去”に拘りながら闇の中に消えていった、この悲しげな「壊れた人達」は!)


 1クールに登場した[涼の父親][三浦智子][篠原佐恵子]の3人は、基本的に“伏線”扱いで、ドラマ的には全く核心部分に絡まない内に殺害されてしまったので感情移入するヒマがなかったのですが、数週間に亘りドラマの中心となった[榊亜紀][相良克彦][関谷真澄]の、余りにも“可哀相な”死に様には、さすがに胸の内に込み上げてくるものがありました。
 榊亜紀なんて、クィーンジャガーロードにチョイと首を捻られただけで殺されちゃうんだもの、いくらなんでもヒドすぎる。泥まみれの相良克彦も、絶望の中で息絶えた関谷真澄も、何故に、そんな哀れな死に方を強いられなければならなかったのでしょうか。


 よく考えてみると、榊亜紀は警官2人を、相良克彦は涼を、関谷真澄は仲間2人を、自身の超能力を使って殺してしまっています(真澄の場合は自分の意思でありませんが)。「信賞必罰」なんて道徳的なお題目は、井上氏のシュミじゃないので、氏が一連のエピソードで描こうとしたのは、明らかに「殺し合い」です。


 すべては、後に「神」(造物主)と判明する謎の青年=“あの方”[シナリオでは、便宜的に「斗真(とうま) 」と表記]が最初から危惧していた通りに「アギトの力を得た者が人類に災いをもたらしたが故に、神の使者・ロード(“lord”=神)がこれを裁いた」という「図式」を成立させる為に仕組まれた、巧緻な脚本の“仕掛け”だったのです。
 つまり、亜紀達の愚行の描写を通して、“神”の正当性を、“アギトになる人間”の危険性を、視聴者に納得させよう、という魂胆だったワケです。



 こうなると、どっちが正義で、どっちが悪なのか――って、井上氏が脚本を担当した『人造人間ハカイダー』(1995年)のテーマじゃん。ア、そう言えば、ビジュアル系の[あの方]は、ハカイダーの敵[グルジェフ]にソックリだ。
 グルジェフとは、実在した神秘主義者[Gurdjieff]に由来するネーミングで、その人は「思想と感情の放棄により、霊的自由を達成しよう」なんてオウムみたいな事を提唱していたんだって。
 『ハカイダー』のグルジェフは、反抗的な人民をロボトミー(脳手術)により“思想と感情”を切除する――即ち“廃人”と化す事で、その理想を実現しようとしていた。自らを「正義」と称し、自分に忠実な者(自分の意思を持たぬ者)には惜しみなく慈愛を注ぐ反面、反逆者に対する処断は厳しい。脳手術を受けて痴呆となった者を映したモニターに頬擦りしながら、グルジェフが吐いたセリフ「美しい、まるで子供のようだ。私は彼らの父親だ」とは、“あの方”の言葉そのもの。
 また、グルジェフの側近[ミカエル]の名の由来となった「大天使ミカエル」には“竜”退治の伝承があり、「リュウ」が転じて「リョウ」がハカイダー人間体に名付られました。そして、リョウには「カオル」という仲間が……
 ちょっと待って下さい、「リョウ」と「カオル」? そうだ、『アギト』にも[葦原“涼”]と[木野“薫”]が居ます。そして、ミカ“エル”同様、「エル」“el”=「神」の名を持つ[水のエル]も――ウーン、だんだん読めてきましたネ。


 『アギト』の今後の展開の鍵は、『ハカイダー』にあり! やはり、『アギト』は『クウガ』とは似ても似つかない「反逆」のドラマとなるのでしょうか?


考察7・強くなれる理由がある!

 劇場版とスペシャルとの同時進行で、スタッフが手薄になった3クール前半(小林靖子脚本の#28、明らかに手抜きの小ネタ#29、真魚ちゃんの家出編#30〜32)は、危惧した通り“ぬるい”話が続いて一時的にトーンダウンしたものの、真魚の覚醒 → 真魚の治癒再生能力でギルス復活 → 最強の敵・水のエル登場 → アギトの敗北――と、来るべき新フォームの登場に向けて、ドラマのボルテージは再び上昇してきました。



 この3クール後半で描かれた[パワーアップ編]の白眉は、第2戦闘テーマ「DEEP BREATH」(ASIN:B00005MFRD)をBGMにして、翔一クンが真魚ちゃん手製の弁当をガツガツ食べるシーン。たったそれだけで、第一の究極形態・バーニングフォームに進化できちゃうなんて、アギトって、とってもメンタルな「力」なんやね。
 この開き直り(パワーアップ過程の描写の極端な省略)は、“新フォームの登場”を「必要悪」として淡白に処理していた『クウガ』よりも徹底しています。
 ある意味、井上敏樹氏が『超光戦士シャンゼリオン』(1996年)で十八番(おはこ) にしていた“一見エスプリ風、実はスカスカの手抜き”パターンの典型なのですが、3人ライダーの[戦う動機](モチベーション)がハッキリとセリフで明示される事で、従来の軟弱な作風の悪弊に陥らずに済んでいます。


 けだし、「人の居場所を守る為に戦ってきたのに、なんで“自分の為”には戦えないの?」の真魚ちゃんのキメの一言は、視聴者に[『クウガ』からの脱却]を鮮やかに印象づけました。
 更に、アクション(監督)の大御所[金田治]氏が小細工をしないで素直に撮っているもので(本編監督として)、単純なプロットが逆にプラスに作用してシンプルな力強さが生まれ、非常に好もしい好編になりました。



 それにしても、#34の冒頭部で、涼が翔一クンの弁解を余りにも呆気なく納得してしまう展開に、拍子抜けしてTVの前でコケた方も多かったのではないでしょうか(私もコケた)。
 しかしながら、復活時に「真魚に借りができた」という理由から、涼が翔一をサポートする様になる経緯は、十分に納得がゆくものだったと思います。


 涼が、美杉家を訪ねた際に、同一家に歓待され、翔一が丹精して作り上げた菜園を初めて見て、心を動かされるシークエンスは特に素晴らしい! 常に表情の険しかった涼が、翔一のトマトを口にして思わず和んだ表情を見せた、この一瞬に、本来ならばアギトと対立し続けた揚げ句に、独りで死んでゆく運命だった(?)ギルス=葦原涼の“未来”が拓けたのです。



 ――で、いざ涼が味方になってみると、“天涯孤独の一匹狼”“何にも束縛されないアウトロー”というキャラクターとしての「自由度」が高く、作り手としては動かし易い故でしょうか、#35以降は、翔一よりも涼の方がメインとなって、あたかも1970年代の[武闘派ヒーロー]路線が再来したような「活劇魂」の復活に、オールド・ファンは狂喜しております。


考察8・PROJECT G4

http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011104/p1


考察9・太陽の子だ! シャイニングフォーム
考察10・新旧オープニングが意味するもの

 01年10月第一週(SP、#36)から、オープニング(OP)の映像と主題歌の歌詞&編曲が変更になりました。


 #2〜#35の旧OPのタイトルバックは、サーキットを疾駆する3台のライダーマシンの映像[=現在]の合間に、主要登場人物の[過去]の点描がフラッシュ・バックで挿入されるという、非常にユニークなスタイル。
 そこに描かれた各々の“過去”とは、
 [浜に打ち上げられた翔一]
 [父親の葬儀で涙を流す真魚
 [あかつき号の甲板によじ登る氷川]
 [G3システムのプレゼン中の小沢澄子]
 [交通事故で重傷を負って入院中の涼]
 ――すべて、#1では描かれなかったドラマの発端となるシチュエーションで構成されており、ある意味「第0話」とでも称すべき内容で、田崎監督の“拘り”が強く感じられます。尚、#2〜#3のみ、氷川のカットは[G3装着要員になる為のトレーニング中]でした。


 一方、サーキットの方のカットも、11月末現在、未だに本編の中では実現していない[3台のライダーマシンの揃い踏み]が嬉しい、ライダー・ファンの心の琴線に触れるものでした。
 唯一、北篠透の過去を描いたカットがないのがタマにキズですが、画面の両端に配置された小沢澄子と北篠透の間を、氷川=G3が走り抜けて行くという、象徴的なカットがケッサクです。



 では、登場人物の“過去”を描いた旧OPに対して、新OPが描いているテーマは何でしょうか? 当初は、劇場版の没カットを集めたものと思っていましたが、どうも違うようです。各々のシチュエーションが、没カットにしては余りにも深刻で意味シンなのです。


 新OPに登場する問題のカットとは、
 [金網越しに掌を重ね合わせる、沈痛な表情の翔一と涙顔の真魚
 [激昂してバッヂを叩き付け、瞠目する小沢澄子に銃口を向ける氷川]
 [咆哮するギルス/水中に没してゆく涼]――
 そして、[真魚に背を向けて去って行く翔一]
 と、いずれも「別離」「相剋」「死」といった悲壮感漂う暗示に満ちたものばかり。


 実は、この一連のカットは、企画時に設定されていた結末部分のイメージを映像化したものなのだとか。つまり、実際の結末は違うカタチになるというコトで、言わば、登場人物達の[過去に想定されていた未来=PAST FUTURE ]とでも申しますか……


 ――即ち、本来(?)、想定されていたエンディングとは、
 [苛烈な戦闘体験のストレスから“自分は単なる小沢澄子の駒ではないのか?”という疑心暗鬼に陥り、小沢澄子に対して反旗を翻す氷川]
 [ドッペルゲンガーであるギルスと分離して、朽ち果てる涼]
 [自分がアギトである事で、美杉家に災いが降りかかる事を恐れて出奔する翔一]
 [その翔一を追ってきた真魚との最後の別れ]
 という、至ってアンハッピーなものだったのです。(いかにも、井上敏樹ワールドですね)


 しかし、真魚から受けた“力”の影響で、涼がポジティブなキャラクターにイメージ・チェンジし、更に、木野薫が加わって4人の「アギト」が結束した事で、終盤の情況は大きく変わる様相を呈してきました。
 だから、この新OPは、[悲しい運命を乗り越えて(涙には戻らない)、新しい未来を掴みとれ(僕らには相応しい時がある)]という“こうなってはダメだぞ〜”的なメッセージのこもった、極端に逆説的な表現だったのです……って、田崎監督、凝り過ぎっス。



 因(ちな)みに、主題歌の新バージョン「仮面ライダーAGITO 24.7version」の“24.7”とは、[24時間]×[7日]=[1週間]の意。要するに「1週間で作った曲」という単純な意味で、他意はないそうです。“元曲”があるから、そんなに手間はかからなかったんだろうな。
 尚、“TVサイズ”として使用されているのは2番の歌詞。CDで聴いてみましたが、1番の歌詞には「君が見た夢の中」「優しい強さ」といったベタな文句が並んでいて非常に女性的な感じがする上に、旧バージョンで最もハナについていた「今、君がいないと――」という[過度なヒーロー依存型]の一節が、そのまま残っているのは絶対に頂けません。(「叫んでいる 心のスピード」って、どーゆー意味やねん?)
 やはり、ヒーローの新たなる決意を雄々しく謳い上げた「揺るぎない 愛と――」の感動的なフレーズこそが、新バージョン主題歌の真骨頂なのであり、1番をオミットして2番を採用した白倉P(プロデューサー)はじめ関係各位の英断が光ります。


考察11・アギト4号は君だ!

 シリーズ終盤に登場した“4人目の男”(#37の新聞TV欄用タイトル)“右腕を失ったドクター(医師/科学者)”というシチュエーションから容易に連想される様に、[木野アギト]は[ライダーマン](『仮面ライダーV3』(1973年)終盤に登場した通称・仮面ライダー4号)の設定をリファインしたキャラクターに他なりません。(またしても、父子相伝!)


 ライダーマンが「信じていた者(敵幹部ヨロイ元帥)に裏切られた復讐」という妄念に取り憑かれていたのに対し、木野さんは「愛する者(弟)を救えなかった贖罪(しょくざい) 」の念に過度に苛(さいな)まれています。
 しかし、ライダーマンはV3という友を得て、彼と共に戦う事で「死に場所」を見出し、妄執から脱して“真のヒーロー”になりました。だったたら、木野さんも……


 「一度は、あんたと共に戦おうと決心した。あんたは、俺の心に“火”を燈した人間だ」 ――[木野薫]には[葦原涼]がいる。
 「涼」と「薫」とは、『鳥人戦隊ジェットマン』(1991年)の「竜(リュウ)」(レッドホーク)と「香(カオリ)」(ホワイトスワン)、『人造人間ハカイダー』(1995年)の「リョウ」と「カオル」、以来、井上敏樹作品では運命的なカップルに与えられるネーミング。
 涼達と“共に戦った”事で、きっと、木野さんも忌わしい過去の記憶から救われたに違いない。
 ――ありがとう、木野さん。安らかに眠って下さい。



 というワケで、#35で衝撃のデビューを飾って以来、圧倒的な存在感でドラマを盛り上げてくれた木野さんも、とうとう死んでしまいましたが、彼が果たした役割は本当に大きかった。人気がピークに達した劇場版&スペシャル以降も、そのボルテージを持続できたのも、木野さんが在ってこそ、と痛切に感じます。


 そもそも、涼=ギルスの善玉へのイメチェンによって、ギルスに代わって“ヒール”の役割を担う新キャラとして誕生した木野アギトですが、主人公3人どころか、陰の主役・北篠&小沢コンビまで食ってしまって、もう本当に#35以降は“別の番組”みたいになってしまったのは、ご存じの通り。
 お陰でシャイニングフォーム&エクシードギルスの登場がまったく霞んでしまい(劇場版&スペシャルでお披露目済みとはいえ)、あまっさえ、「あかつき号」事件の真相すら、もう、どうでもイイじゃん状態です。



 井上敏樹氏の筆も乗ってきた様子で、#35以降は“4人ライダー”のキャラの絡みだけで見応えのあるドラマを成立させており、劇場版&SPに専念していた田崎竜太監督もローテーションに戻ったし(#41の木野さん&翔一クンの同時変身シーンには脱帽です)、石森章太郎原作のヒーロー『イナズマン』(1973年)の[新人類]みたいなノリになってきた“アギト”の設定に、この先、どう決着をつけるのか、とても楽しみになってきました。



 ――そして、2002年。新ヒーロー『仮面ライダー龍騎』がやってくる!

2001/11/29
(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2002年号』(01年12月30日発行)『仮面ライダーアギト』後半合評⑩より抜粋)


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