『カレイドスター 新たなる翼』
(文・旗手 稔)
「美少女アニメ」とは「ハァハァ」しながら観る物ですが(←決めつけ)、「ハァハァ」させられるにあたって特に重要な要素となるのが、「絵柄」。
私がミュージカルとマジックも行うサーカス集団を舞台としたアニメ『カレイドスター』(03年・第27話より『カレイドスター 新たなる翼』)を観始めたのも、「監督が佐藤順一だから」とか「舞台が面白い」とかいうのでなく、もう単純に「絵柄」が好みだったからでした
(近年の作品では『D.C. 〜ダ・カーポ〜』(02年・03年にTVアニメ化)が目に止まりました。一連の「ブロッコリーアニメ」において坂井久太が描くプリプリとしたラインも好きです。無論、これは飽くまで私個人の感想です。この「ジャンル」が嫌いな人には、「絵柄」の違いなど大した問題では無いでしょう)。
「美少女アニメ」の「主役」は「絵」です。
いくら「脚本」が素晴らしくても、「演出」が良くても、なかんずく「声優」の演技が素晴らしくても、「絵」に力が無ければ視聴者の関心を引き付けることは出来ません。「絵そのもの」の質が常に問われる「美少女アニメ」は、その意味ではごまかしが効かない、非常にシビアな「ジャンル」と言えます。
「もともとスポ根がやりたかったんですよ。最近ないなぁと思って。でもみんな好きなはずなんですよ。あれだけあったわけだし」
『カレイドスター』はまた、「スポーツ根性アニメ」としても読まれるべき作品です。「スポ根もの」では登場人物は「心」と「体」の「乖離」にしばしば直面します。
長浜忠夫演出のスポ根アニメ『侍(さむらい)ジャイアンツ』(71年・73年にTVアニメ化)より。
「俺は決して、蛮を助けるのにやぶさかではない。しかし俺は、俺は俺自身の力をも付けて、巨人軍に役立つ男になりたかった」
「やっぱり俺はダメなんだ。俺なんかどうなったっていいんだ」
――高校野球史上17人目のパーフェクト・ゲームを達成したこともある八幡太郎平はしかし、球質や性質が素直すぎたためにプロの投手としては遂に大成せず。
「八幡先輩。人の世話が好きなしっかり者の先輩が、自分のことになると何故こうなんだよ」
「人の世話」は好きなのに、「自分のこと」はまるで「ダメ」。それは『侍ジャイアンツ』の原作者・梶原一騎その人のことでもありました。
「他人」をやたら気にするくせに、「他人」をまるで「見ていない」、第3クールより登場する少女・メイ。「ダメ人間」メイを悩ませているのは「体」を思い通りに動かせない「自分の心」。
手塚治虫は「自分の絵柄」に強いコンプレックスを抱いていました。実際、「絵」は必ずしも「自分」のイメージ通りに描けるものではありません。
「美少女アニメ」の描き手の中には、もしかしたら「自分の絵柄」に違和感を感じている人がいるかもしれません。「私が本当に描きたい女の子はコレじゃない」と。
大地丙太郎(だいち・あきたろう)が手がけた本作エンディング、大口を開けてあえぐヒロイン(主人公)・苗木野そら(なえぎの・そら)。そういえば、大地の監督した「美少女アニメ」はとても「息苦しい」。
「他人」と触れ合うことが出来ない「子ども」たちの過剰な内省が劇の進行をしばしば停滞させる『フルーツバスケット』(98年・01年にTVアニメ化)、『十兵衛ちゃん2――シベリア柳生の逆襲――』(04年)のヒロイン(主人公)・菜ノ花自由は二代目柳生十兵衛の桎梏から「自由」になりたい。大地作品はあまりに「息苦しい」。
そしてそうであるがゆえに、私は「大地アニメ」から目が離せないのです。閑話休題。
『カレイドスター』のヒロイン・そらの夢は、「観客も、出演者も、みんなが笑顔になる、争いの無いステージ」。
私が『カレイドスター 新たなる翼』を観始めたのは、先に説明したように「絵柄」が気に入ったからですが、更に言えば、番宣での彼女の「笑顔」がとても楽しそうだったからでした。
『侍ジャイアンツ』の魅力は主人公・番場蛮の「明るい」キャラクター。「悲しい表情」は人を引き付けます。そして「明朗な表情」もまた、人を引き付けずにおきません。
第47話「舞い降りた すごい 天使」(脚本/中瀬理香)。
カレイドステージ再開第一弾作品として選ばれたのは『白鳥の湖』。
佐藤順一作品の常連であれば、それが「バレエ」をモチーフとした魔法少女アニメ『プリンセスチュチュ』(02年)最終回のリメイクであることにすぐに気付くでしょう。
オデット姫(白鳥)に敗北した悪魔の姫・オディール(黒鳥)が「退場」という結末を迎える『チュチュ』に対し、『カレイドスター』が目指すのは両者の「融合」。
「憎しみを受け入れ、すべてを包み込む大きな愛」……
『チュチュ』では「憎しみ」の感情を「否定的」なものと捉えていた佐藤は、ここでその乗り越えを図ります。彼は「憎しみ」や「争い」の裏側に、お客さんを「楽しませたい」という「天使の心」を見出したのです。
第48話「傷ついた すごい 白鳥」(脚本/平見瞠)。
「体全部が張り詰める。一度に10回分くらい疲れるような気がする」
「ごまかしの技術」を覚えた「自分の体」を叩き直すため「特訓」に挑むそら。
「あの死の危険ばっか高くて効果があるとは思えない熱血的特訓に耐えるヒーローの不死身性が、実はそこらにいたらブキミなのであると、カオルを見て悟るのである」
……夏目房之介は91年に刊行した『消えた魔球』(双葉社刊・ISBN:4575281174・94年に新潮文庫・ISBN:4101335117)で、「スポーツ漫画」における「熱血的特訓」への嫌悪を露わにしています。
「「もういいよ。疲れるから」という表明から、「疲れちゃったから、どうでもいいやー」へ。さらに「疲れんだよ、バカヤロー」へと、世界は変換したのであった」。
その夏目房之介の祖父・夏目漱石は「自分」も「他人」も「分からなかった」。漱石にとっては、「生きていること」それ自体が「疲れんだよ、バカヤロー」だったのです。
「私もそれがどんなものなのか分からない。でも、分からないからこそ、見てみたいんです。そのために出来ることは、何でもやりたい」
「少年漫画の核となる奇想とご都合主義はそのままでも、それを包む“現実”のほうが本気じゃなくなってしまっているのである」。
「本気」で無くなったのは「現実」ではなく、夏目房之介本人ではないでしょうか。夏目は言います。
「私がこのテのくどい劇画が苦手なのはかくしようのない事実である」。
夏目房之介は「テレ派」と称し、「熱血的特訓」のような「くどい」ことからひたすら逃れようとします。夏目は「本気」で「疲れている」のでしょう、だからそのことをとやかく言うつもりはありませんが、しかし、私が好きなのはやはり「出来ることは何でもやろうとした」夏目漱石です。
「スポ根アニメ」の再生を図った佐藤順一は「テレ」つつも「本気」です。
それは彼が監督(シリーズディレクター)した子供向け作品(『美少女戦士セーラームーン』第1作目(92年)、『夢のクレヨン王国』(97年)、『おジャ魔女どれみ』第1作目(99年)を観れば明らかです。
「実写」には目もくれず、ひたすら「アニメ」に精魂を傾ける佐藤。その姿勢は或る意味ではとても貴重なものと言えます。
70年代終盤の「アニメブーム」以降、斯界では〈作家性〉に対する注目が俄かに高まっていきます。
「アニメ界」は〈作家主義〉を前面に押し出すことで「映画界」に対するコンプレックスを払拭しようとした、とも言えます
(当時は「アニメ」よりも「実写」の方がランクが上だと考えられていました。劇場用アニメでは作品に「ハク」をつけるべく、「実写畑」の人間が監督をするケースもあったのです)。
「アニメ評論」の困難さは、それが「分業体制」で作られている点に尽きます。つまり、画面を眺めただけではそれが誰の仕事なのかほとんど判別がつかないのです。
シリーズ構成・脚本・絵コンテ・演出・作画監督・監督……優れた作品が目の前にあったとして、では、その功績はいったい「誰」のもとに還元すれば良いのでしょう?
「波の力、風の力、ボートの力。色んな力が混じりあって、ブランコとは較べ物にならないくらい複雑だ」
「色んな力」が混じりあって作られる「アニメ」は「複雑」です。
「過視的」(東浩紀(あずま・ひろき))、つまり「見えすぎること」は観客を恐怖と混乱とに陥れずにおきません。それゆえ、ひとは「アニメそのもの」から目を背けるのです。「単純」であること、「誤解」せずに済むこと。それが「実写」の「アニメ」に対する優位を根底で支えています。
「実写」を仮想敵と見做した日本の「アニメ」は、やがて「複雑」なものから「単純」なものへと変化を遂げます。
「ロボットアニメ」から「トミノアニメ」へ、「ジブリアニメ」から「宮崎アニメ」へ。
「アニメ」はいつしか「ひとり」の〈作家〉によって作られていることになったのでした。
新海誠(しんかい・まこと)の『ほしのこえ』(02年・ASIN:B0000992EC・ASIN:B000I2JEA2)などは、文字通りすべてを「ひとり」でこなしたものです。そこには「誤解」が入り込む余地は微塵もありません。
「アニメ評論家」はこれで何の心配も無く作品を語ることが出来るでしょう。「押井アニメ」しかり、「庵野アニメ」しかり。
『イノセンス』(04年)の監督・押井守は徳間書店の『アニメージュ』1982年5月号でこう発言しています。
「ぼくはいまでも、アニメというより映画をつくっていると思っているんです」
「アニメ」に執着しない〈作家〉は「アニメ」を「映画」に変えることに成功しました。それはとても立派なことだと思います。
しかし、そのような「単純化」は「映画界」にとってはいざしらず、「アニメ界」にかえって「閉塞」をもたらすことになりはしないでしょうか? 現に「宮崎アニメ」は「ジブリアニメ」を駆逐しつつあります(これは必ずしも宮崎駿の責任ではないのですが……)。
日本の「アニメ界」は「実写」を目標に発展を遂げて来ました。「アニメ」が「アニメ」でなくなることは、むしろ喜ばしいことだったのです。
「アニメ界」を出て「ひとり」になろうとする人間が〈作家〉として評価される中、「アニメ屋」を自負する佐藤は徹底して「ここ」にこだわります。「ここ」でしか出来ないことを目指します。
いまの私は「アニメ評論家」そして「映画評論家」を安堵させる〈作家主義〉よりも、佐藤が描く世界に強く関心を引き付けられています。
「自分よりもステージ」。そらはステージを「ひとり」ではなく「みんな」の力で作りたい。
佐藤順一と平池芳正(第1〜26話まで助監督。27話以降は佐藤と連名で監督)、「特撮映画」の本編監督と特撮監督よろしく「ふたりの監督」によって作られている『カレイドスター』では、その思想は(意識的にせよ無意識的にせよ)制作現場という「メタ・レベル」にまで貫徹されています。
「すべての力を読み取れ。考えるな、体で感じるんだ」
「そうすれば、ジャンプしたあと、必ず元の位置に戻れる」
「アニメ」から読み取るべきは「すべての力」。答えが「ひとつ」しか無いと考えるから、「元の位置」に戻れなくなるのです。「複雑」なものは素直に「複雑」と感じておくべきでしょう。
第50話「避けられない ものすごい 一騎討ち」(脚本/吉田玲子)。
観客が「見たい」のは17歳のアメリカ人少女・レイラの「技術」よりも、主人公・そらの「アドリブ」。
佐藤順一の(表現者としての)主張は一貫しています。
第51話(最終回)「約束の すごい 場所へ」(脚本/上代務)。
「そらの動きに合わせて飛んでいると、この一瞬一瞬が、大切なものに思えてくる。どの瞬間も、かけがえの無いものに」
夜明けに「合わせて」天使の飛翔を演じるという、早朝公演だけのスペシャルな演出。
「アニメ制作って人と喧嘩になる材料しかないんですよ。大勢で仕事する以上、誰かがこうしたいと思っていても、別のことを思っている人が必ずいる。自分と違うからといって頭ごなしに否定すると、人間関係が悪くなってそれが作品にも現れてしまう。自分と違う意見を尊重する気持ちを持ってほしいです」
「争うことがない世の中なんてあり得ないって、私も本当はそう思ってる。でも、せめてステージの上くらい、争いがなくてもいいのにとも、まだちょっと思ってる」
そらの「愚かな夢」がついに実現される最終回。「みんなで最高の喝采を、浴びよう!」。
エンディング・クレジットでは演出に「3人」、作画監督に「6人」の名前が確認出来ます。
単に「技術」上の問題か、それとも監督の「アドリブ」かは不明ですが、いずれにしても、このような光景は「アニメ」以外の場ではまずあり得ないでしょう。
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