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超星神グランセイザー最終回 〜中後盤評 51話「復活の日」


『超星神』シリーズ評 〜全記事見出し一覧

超星神グランセイザー中盤評

(文・T.SATO)
(04年7月執筆)
 『超星神(ちょうせいしん)グランセイザー』も、04年7月執筆時点で、最終4クール目に突入! 9月末の最終回まで、あともうわずかだ。
 果たして、本作は有終の美を飾れるや否や!?


 筆者の本作への感慨は、個人的には好印象。とてもバランスのいいウェルメイドの作品として捉えている。
 ここで好印象というのはイコール、ドラマ的テーマ的に高度な作品ということを意味しない。
 4トライブ12人の変身ヒーローが登場し、初期1クールは炎のトライブと風のトライブが対立するという作劇では、だれがドー見たって幼児ではないトウのたった特撮マニアなら(笑)、一昨年2002年度の東映特撮『忍風戦隊ハリケンジャー』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021112/p1)のハリケンジャーとライバル第2戦隊ゴウライジャーとの対立、『仮面ライダー龍騎』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021103/p1)の13ライダーのバトルロワイアルを想起せずにはいられない。
 もちろん作り手もそれらのイイとこどりをも企図した作品として、本作『グランセイザー』が企画されたのは想像に難くない。
 そのことの指摘は、筆者にとっては決して非難にはあたらない。むしろホメ言葉でさえある。


 ただし、ドラマ的テーマ的に見て、『ハリケンジャー』はともかく『仮面ライダー龍騎』と比較した場合、その方向性の異同や是非はともかくとして、その絶対値で見た場合、本作『グランセイザー』はそのドラマなりテーマなり主要キャラの心理描写において、まさっているといえるであろうか? ……いや、まさってはいない(笑)。
 そのドラマ展開や心情描写は、むしろマイルドでダルでノーテンキな性善説でありヌルいものですらある。


 ただ、だからこそよかったのだともいえる。
 アクションもの・子供向け番組としての尺度で評価した場合には、本作『グランセイザー』の方こそが、子供にとっても望ましく、かつ見やすい作品なのだと信じるからだ!(マニア予備軍のマセたガキはのぞくョ)


 コレは個人的好みとして、それに合致しているから、こう云っているのでは必ずしもない。30代独身男性オタクとしては、そのヘビーすぎる方向性の是非はともかく見応えや歯応えがあるのは、やはり『龍騎』の方ではある。
 ただ自分にとっては面白いからといって、自分の好みから一歩も外に出たことがないようなスタンスから物を云っても、あまり意味がない。
 そんなスタンスからの物言いでは、マニアならぬ他人なり一般ピープルなり子供なりに意志なり価値伝達もできやしない、独り善がりの「地下室の手記」((C)ドストエフスキー1864年ISBN:4102010092)に陥らざるをえない。


 あるいは逆に自分は子供の味方のつもりでも、歳を喰えば我々オタク族は厳密なイミでのオトナにはなれなくても、メインターゲットの子供の感覚ともドーしてもズレが生じてしまう、少なくともズレが出てしまうかもしれないという自己相対視をしたことがないような、オトナでも子供でもない、あるいはハードでシリアス志向というありがちなマニアでもない、第三・第四の足場に立っているやもしれないという認識から出発しない作品批評にも、個人的にはあまり食指をそそられないし、意義も認めない。
 が、まぁそーいった話題自体は、『グランセイザー』評ではないところの余談(笑)。



 だから、リアリズムなり本格志向で見た場合に、瑕瑾(かきん)・欠点になりそうな箇所が、筆者にとってはむしろ本作の美点にかぞえあげられるべきものなのだ。


 1クールにおいてアレだけ敵対していた、炎のトライブ(部族)と風のトライブ。
 1クール終盤において誤解が解けるやいなや、真の黒幕であった『電脳警察サイバーコップ』(88年)のヒロイン上杉刑事こと千葉美加演じる佐伯カリン女史=宇宙から来た侵略者の尖兵アケロン人
 そんな彼女が最後には巨大怪獣化して、彼女の配下であった風のトライブたちは、多少の躊躇や葛藤をいだきつつも、それをドロドロとはヒキずらずテキトーに済まして(笑・もちろん葛藤がゼロではないが)、真の正義を選択し、怪獣化した佐伯カリン=アケロン大星獣との激闘〜炎のトライブと風のトライブの共闘〜勝利のカタルシスに持っていく、あくまでも楽観的で明るい作劇。


 2クールにおいても、水のトライブ新登場と並行して描かれる、新たなる敵の尖兵・インパクター星人3人組を、ヘタにナマな人間として陰欝にリアルに描くよりかは、過剰に重苦しい心理描写や葛藤に陥りそうになると、というか、そーなるはるか以前の段階において(笑)、正義のヒーローと戦ってみせる強〜い悪の戦士たちとして、サッサとアクションに持っていくような活劇作劇。


 そして3クール目は、ちょっとショボい(笑)等身大の悪い宇宙人のぞくぞく登場編といったノリになるあたり。
 コレもリアリズムやシリアス志向で見た場合には、オカシいとか未熟・不徹底だとか、スケール拡大・エスカレートのワクワク感がないとも云えるけど、それらのB級っぽい見やすさが、子供番組的にはちょうどイイ適度なものに思えるのだ。


 ただ念のために云っておきたいのは、だから子供番組はどんどんレベルを下げろ! ということを云いたいのではない。そう捉えられたならば誤解である。


 80年代前半の東映特撮ヒーロー的な、1年間4クールひたすらにマンネリの一話完結のVSOP(ベリー・スペシャル・ワン・パターン……厳密にはお話がワンパターンというより戦闘シチュエーションや必殺ワザがワンパターンというべきだったのだろうけど)が続くような作品ではなく、かと云って平成『仮面ライダー』シリーズみたく子供番組としてはあまりにハイブロウに過ぎないところでの、その中間地点に位置する適度なパターン破りやクールごとのフォーマットの変化。
 そう、『仮面の忍者 赤影』(67年)や70年代ピープロピー・プロダクション)特撮のようなイイ意味での路線変更もある作劇。
 あるいは、回によっては等身大バトルだけであったり、ロボ戦がメインだったりという目先(悪くいえば小手先・笑)のちがいの面白さ……。


 そんな中間形態を、意図的にかはともかく(笑)、結果的には実現している作品として、個人的には本作『グランセイザー』を高く評価したいのだ。



 あとは、身内・知り合いの評論同人関係者の本作への評価から触発されたことなり、逆に反発として啓発された異論・反論なども、単なるウチワウケや内輪モメに陥らず一般性や普遍性に昇華しそうなネタならば、差し支えなかろうと、あえて下記に列挙していく。


 まずは1クール目終盤における、悪のアケロン人が巨大怪獣化したアケロン大星獣VSグランセイザーの3トライブが駆る超古代のロボットこと3大超星神との大激闘! について。
 結局のところ、主役ロボたる炎のトライブの超星神ガルーダが敵にトドメを刺すのは仕方ないにしても、そのアクション演出にもうひとヒネリ、もう一押しがない。せっかく共闘していても、超星神ガルーダがトドメを刺す瞬間前後では、他の2体の超星神がいるだけの添え物になってしまうのが気に喰わない。たとえばその瞬間においても、他の2体が援護射撃をするなり、敵の光線攻撃からガルーダを守る盾になるなどの工夫をしてくれれば……コレだから脚本家のだれそれはウンヌンカンヌンとのご意見。
 なるほど、たしかに実作品もそこまでやってくれれば、もっと面白くなっただろうナと認めざるをえないナットクできるご意見。


 ただこの場合、その責は脚本家に帰すべきなのか、撮影現場の特撮監督なり殺陣師(たてし)に帰すべきなのかは、判断に苦しむところ。仮に彼人に譲って、脚本家に帰すべき性質のものだとしても、たとえば『グランセイザー』に参加している他の脚本家をも比較対象として想定してみた場合、あるいはもっと広げてスタッフ的に重なる平成『ウルトラ』の脚本家連中との比較論で想定してみた場合、いかがなものかを考察してみるのも一興。
 人間ドラマ志向の某氏、あるいはゲージツ的イイお話志向の某女史、刑事アクションもののシリーズ構成者は等身大バトルについてはその芸風の延長線上でムリなく描けるだろうけれども……うんぬんかんぬん。
 かくして、特撮巨大ロボアクションを嬉々として描いてツボを押さえてくれそうな人材は、だれがもっとも適任か? という二重三重にヒイた、より客観的な視点から、総体的に全人材を考察してみることも必要なハズ。その上で自説なり改善案を展開するならば……。


 そーすればまた、オールオアナッシングではない、立体的な、東西南北・多層的重層的な中での位置づけの評価の相貌が浮かびあがったことだろう。そーいう認識の仕方の有無が、批評性があるとかナイとかいう差異・違いになってくるワケだ。
 それがないと、単にその作家に対する好悪で、物を云っている――実情はともかく、たとえば脚本家が15年ほど前の20代中盤だったころに特撮雑誌『宇宙船』の投稿欄の担当者であり、自身の投稿が邪険にされたのは不幸だったやもしれないけど、15年たってもいまだにそのことを未練がましく恨んでいる――と周囲に捉えられかねないふるまいは、やはり損。
 ヨーロッパのフーリガンとは異なる、アメリカのメジャーリーグの、敵チームのファインプレイにも拍手を送る観客のような太っ腹を自覚的に身に付けるのも、精神衛生・人格陶冶の観点からもイイんじゃないのかなぁ(笑)。もちろん自戒も込めての発言ですが……。



 それから2クール目中盤。4トライブ4体の超星神と、最後(5体目)の超星神ガントラスが合体して誕生した、さらなる最終の巨大な超星神ダイセイザーの初登場回について。
 この回においては、本作『グランセイザー』では珍しいことに、話がアクションのカタルシスに帰結しない。
 むしろ、強大すぎるヒーロー(のロボ)の力の暴走に警鐘を打つという話になっている。


 この話の世間一般というか、特撮マニア世間での評価というのは寡聞にして知らない。
 コレが平成『ウルトラ』であったなら、オタク第1世代である東宝・円谷至上主義者も、本作を熱心に注目していて、アンチテーゼ編評価の伝統からそれなりの高評価を得る可能性はまだあったかもしれない――あるいは筆者が知らないだけで、ドコかで高く評価されてるのかナ?
 ただ、『グランセイザー』自体が東宝製作とはいえ、その体裁は大雑把に云えば、複数ヒーローとロボットの組合せである『スーパー戦隊』シリーズのフォーマットに準じたものであり(と昨03年冬コミで年輩のお客さんが本作にケチをつけていた)――アニメーション製作がタツノコプロでも企画母体が別である以上、『ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて』(02年)をタツノコアニメだと評してもイミがないように(笑)――、そっち方面では本作を東宝作品の系譜を継ぐものとは認識されていず、善くも悪くもあまり視聴されていないようで、そもそも俎上にすら上っていないようにも感じる。


 また逆に、マニアの中でも特殊少数の(笑)スレすぎて2回転3回転してしまったような、特撮評論同人のそのまたごくごく一部では、本エピソードが新登場メカの魅力やアクションや勝利のカタルシスに帰結せず、テーマ主義……反戦といわずともパワー至上に疑問符を投げかける作劇に、小賢しさを感じてケチを付けるムキもあるようだ。
 この意見も、筆者個人はそれなりに判る。


 しかしただ、違和感の表明自体は出発点としてはもちろんかまわないのだが、現実世界は非ユークリッド空間である以上、アルファであってもオメガでないということが往々にしてあるものだ。
 コレも単に違和の表明――ナンとなくイヤ〜ン、ケッ賢(さか)しらなことしやがって!――レベルのイキがりワルぶり言辞で終わるなら、井戸端会議や飲み会の小集団でなら一時的に優位を確保することができるやもしれないが、それを超えていって、いまだに……というか今でもマニア世間では大多数を占めると思われる、人道的テーマ主義至上のジャンル擁護理論しか知らない人間を説諭する論理的説得力をも獲得することはおよそ不可能である。


 もしも真に、人道的テーマ主義至上の理論を堅持する人間をも、論破なり説得せんとするならば、彼らにも了解可能なように、こちらのアクションもの・活劇・勝利のカタルシスなどのさまざまなファクターの美点の擁護を、かみくだいて言語化して説明し、こちら側の論理の射程を二重三重に延ばしていき、相手側の論理の根底をくつがえすなり、逆に底支えしてコチラ側の方がグランドセオリーであるという論理体系を構築しなければ、論が相手に通じることはないし、我々側が勝利を得る日もついに来ないであろう……。


 ついでに云うなら、なぜ脚本家がダイセイザー初登場回を、あのようなパワー懐疑の話にしたのかの動機にも目配せ・分析の俎上に乗せることもお勧めしたい。
 アレは、マニア世間のアンチテーゼ編・人道主義的テーマ編至上の風潮&論壇(≠コミケの特撮評論同人・笑)に日和(ひよ)ったものなのか? それともそーではないのか? と。
 もし前者だったのならば話は単純だ。だが後者であるなら話はややこしい。
 アメリカによるイラク戦争を念頭においたものならば(単に戦争一般かもしれないが)、作家の想いや内的必然性をも考慮に入れて一理を認めて、そのことも超えるなり包含するなりした、活劇擁護の論理をコチラは構築しなければならなくなるだろう。


 ……などと発言、ここまでダイセイザー初登場回批判派の肩を持ったフリをして、実は筆者個人はこのダイセイザー初登場回の否定派ではない。
 明らかなダブルスタンダードになってしまうが(笑)、この展開もアリだな、とは思って認めている。
 論理的整合性はとても大事だが、最後の最後で論理はすべてを説明・包含することはできないし、そこからハミ出していくものもたしかにある。
 それは凡庸な言葉になるけど、情なり感情なり感覚なり感性なり何でもイイのだが。ただ筆者個人は論理を突き詰めた果てに最後に残るそれらには信を置くが、最初からそれを唱えたり重要視したりする輩やその言辞を信じる気持ちにさらさらなれない。


 筆者の見るところ、ダイセイザー初登場回があのようなパワー至上懐疑の作劇となったのは、現今の世界情勢に対する、それなりのやむにやまれぬ内的必然から来たものに思えたし、個人的にはその視点も『グランセイザー』世界のあのエピソードに関しては、許容できるもののようにも思えたのだった。
 ただし微量でも違和感や小賢しさを感じなかったのかといえば……やはりそれも感じてはいた(笑)。だから、本エピソードの批判派の心情や論理にも、了解はすることができるのだ。


 ……ただここまでの、自身の心情や論理の説明にも、大仰化や美化がチョット入ってしまったかもしれない。
 筆者もこのパワー懐疑の作劇が、1クール終盤のアケロン大星獣VS3大超星神の大バトルのときにやったのなら、いかに作家に内的必然性があろうとも、初の大バトル編でそんなシミったれたことすな! と思ったことだろう。


 してみると、エラそうなことをホザきつつも、ダイセイザー初登場編は2回目の大バトルであったという、純粋個別作品としての評価ではなくシリーズ構成上の順番、1回目は直球だったので今回は変化球でもよかんべレベルで許容しているのにすぎないかもしれない(笑)。
 ……アッ、初登場回では制御不能で暴走気味だったダイセイザーが、ドーいう理屈か知らんけどじょじょに制御されていくのは、気になるヒトは気になるだろうけど、ヘタにこだわってグチャグチャになるよりかは、筆者的にはそーいうイイカゲンさがとってもラブリー♥ てゆーか、変身ヒーローものってそーいうモンだろう(笑)。


追伸:エンディング主題歌は今日びのことだから、タイアップでもイイけど、1クールといわず半年くらいで変更してもイイんじゃないの? やっぱアキてくるので(笑)。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2005年号』(04年12月30日発行)『超星神グランセイザー』合評④より抜粋)


超星神グランセイザー終了評

(文・T.SATO)
 この番組は『仮面ライダー龍騎』(02年)ではない。
 だから、『龍騎』同様、最終回1本前で、我らが主人公セイザータリアスこと弓道天馬(くどう・てんま)がたとえ死んでも、死ぬハズがない!


 いや、コレは決してイヤミや皮肉でバカにして云ってるワケではない。マニア向けや思春期〜ヤングアダルト向け作品ならぬ、子供向け正統派ヒーロー作品であるからには、主人公の死は、たとえアリガチであろうと、何かのまちがいか、演出のフェイクであったか、ホントウに死んでいても、奇跡や超自然的存在により復活して、そのうえで正義が勝ってくれなきゃそれはサギ、カネ返せ! だ(笑)。


 で、復活したのか、冥界の狭間をさまよっていたのか、宇宙空間なのかはよく判らないが、ラスボス(?)たる全宇宙連合のトップらしき光体たる神さまだか意識体と邂逅する、我らが主人公セイザータリアス弓道天馬。
 そんな偉大な存在にも物怖じせず(天然か?)、リッパに直談判をさえしてみせるまでに、ハラの座った成長を彼は遂げていた! 結果的に全権を委任された外交官、全権大使となった弓道天馬。たくましく成長した君になら、地球の命運をまかせるにしくはないゾ!


 で、90年代のジャンル作品の問題点は、80年前後の特撮評論草創期における主導的な理論・アンチテーゼ編至上主義(ヒーローの正義の懐疑)の行き過ぎにあった。
 だが、00年代のジャンル作品の問題点はそれらとは異なる新たな問題点が浮上してきたようだ。戦い・戦闘・戦争自体への懐疑。その行き過ぎに尽きるだろう。
 むろんバトルへの懐疑それ自体は単体としては、まちがっているとまではいえない。懐疑する作り手たちの誠意を筆者も疑いはしない(時に浅知恵が気になるも)。
 フィクションにおいて、いわゆる悪……戦争なり人間の悪意なり悲劇をあつかうことの効用については、古代ギリシャの時代にアリストテレスカタルシス理論を唱えたことで、既に解答が出ているようにも思うけど。


 本作最終回において、筆者が懸念したのは(懸念が現実化しても、バリエーションのひとつとして許すけど)、ラスボスをバトルでやっつけるカタルシスで決着するのではなく、話し合いで全てを解決してみせることだった。
 全宇宙連合というハッタリな敵。まぁ全宇宙を全滅させるワケにはさすがにいかないだろうから(笑)、一部のトップの哄笑する判りやすい帝王ヅラ野郎の悪事の暴走であったというオチには不満はない。


 本編においても全宇宙連合のトップとの意識体との会談は成功する。意識体は帝王ヅラを処分しようとするも、天馬はそれを断わり、グランセイザー自身が帝王ヅラと戦って、バトルとカタルシスを用意してくれたこともよかったと思う。この設定(全宇宙連合)と過程におけるダイセイザーやセイザーヴィジュエル早乙女蘭らのバトルへの懐疑がありバトルのカタルシスも忘れず折衷して、あの最終回になったことに不満はないし、筆者は本作を愛する。


 が、ないものねだりではあるのだが、#1でのン億年前の超古代戦争や、毎週のオープニング冒頭、最終回近辺でも登場した数百数千の宇宙船団を、4大超星神たちが斬ったはったと次々と粉砕していく地球をバックにした宇宙空間バトルのビジュアルをやっぱり見たかったョ〜(笑)。


 宇宙大に拡大していく大スケール・大バトル・大団円。80年代以降の児童向けアニメや少年ジャンプのマンガに比して、特撮作品が弱いのはそこだろう。
 それゆえ幼児にはともかく児童には求心力が乏しいと見る。最終回の大バトルから逆算して、基本設定や過程を作劇していく。そんな企画が、特撮ジャンルでも絶対的に必要だ。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2005年号』(04年12月30日発行)『超星神グランセイザー』終了評・合評②より抜粋)



『假面特攻隊2005年号』「超星神グランセイザー」関係記事
・「超星神グランセイザースペシャルバトルステージ
  in東武動物公園 〜円谷プロのアトラクチーム・キャスタッフ担当
  〜日本一志の高いヒーローショーの7日間〜 (レポート・T.INUTSUKA)
  (2004.3/20〜4/18密着! 水のトライブ俳優陣も週替りで登場!)



『假面特攻隊2005年号』「超星神グランセイザー」関係記事の縮小コピー収録一覧
・読売新聞 2004年1月19日(月) 読書欄「本と私」 俳優 瀬川亮さん 優しさと思いやり学ぶ 〜主役・瀬川亮インタビュー・なぜか聞き手はおなじみの政治部記者・鈴木美潮女史
ヤングアニマル 2004 №3 達人に訊け!!大槻ケンヂの百人組手 其の8 大槻ケンヂVSプニプニの達人!『磯山さやか』嬢!! 「自分では『プニプニボディ』って言ってるんです」(磯山) 〜元特撮ファン・大槻ケンヂ、『グランセイザー』は朝起きて時間が合えば観ているから動いてる磯山さやかも知っていた。水着になったシーンがやはり話題にのぼる。監督の要望で台本を水着に書き直したとの由(笑)。
・読売新聞 2004年6月5日(土) 芸能欄QA:Q・テレビ東京系「超星神グランセイザー」の「伝通院洸(でんつういん・あきら)」役の方について教えてください。(東京都・女性)。A・芹沢秀明さん。73年生まれの30歳。早稲田大卒。(テレビ東京番組宣伝部、エンパシィ)。 〜風のトライブのリーダー・セイザーレムルズ・伝通院先生(医師)のファン人気がここでも証明か!?
・#47「滅亡の序曲」(04年8月28日放映・脚本/上代務)準備稿「それぞれの思い(仮)」・04年2月24日脱稿・04年4月上旬撮影 〜留置所での各人の価値観や個性を生かした、戦争・戦いに対する賛否の真情を吐露したシーン採録



超星神グランセイザー』平均視聴率:関東4.8%・中部3.8%・関西2.6%
 (平均視聴率EXCEL表計算:森川由浩)


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