(文・T.SATO)
押井守カントクの「日本特撮=歌舞伎発言」(『宇宙船』Vol.94・2000年秋号の映画『アヴァロン』記事のインタビュー)。
傾聴に値するけど、それにコロッといかれたり、自説に牽強付会したような反響には、個人的に違和感を覚えるので異論をば。
SF・ファンタジーは現実の反映があればあるほど高尚か?
ンなモンそんなに単純じゃネーだろう。反映・風刺で成功したモノ、反映があってもヤボで鼻につくヤリ方で浮いてて失敗したモノ、反映がない全くの非現実なのに面白い、あるいはつまらないモノ。
要は反映があろうがなかろうが、面白いモノは面白くそーでないものはそーでない! つまり作品の価値とは、現実の反映の有無とは別の次元にあるということだ。
だいだい現実の反映や現実自体を優位とする尺度で測るかぎり、フィクションは永遠に現実の従属物で現実を超えられないし、いかに風刺があろうと報道や社会運動に比すれば現実逃避・ヒマつぶしの側面は否めない。
こんな最初から敗北が決定している価値尺度を採用しても仕方ない。もっと虚構・空想であること自体に積極的な意義を見出すべきだ。
もちろんジャンル作品の評価基準に、現実・リアリティや人間ドラマの有無&軽重を尺度とすること自体には一定程度の有効性はある。
ただこの際云うが、それだけではザルでラフな取りこぼしのある万事に当てはまらない不完全なモノサシにすぎない。
日活無国籍アクション……などはともかく(笑)、人間描写よりも叙事でテーマを体現する『2001年宇宙の旅』(68年)、現実描写も人情描写もない不条理劇。『ウルトラQ』(66年)『ミステリーゾーン』(59年)などの一部回における、小学生レベルの感想文に要求されそうな(笑)近代的理念・社会派テーマや世俗的道徳チックなホメ言葉に回収されえない、独特なある感じ(センスオブワンダーとか夏目漱石『夢十夜』風に東洋的に云うなら禅味・俳味とか)。
コレらをリアリティや現実の反映云々で説明できるワケがない(笑)。
非リアル作品も間接・逆説に現実の反映だってな論法もアリだけど、フツー云う現実の反映はそーいう作品のことではないだろう。
日本のヒーローを取っても、『星雲仮面マシンマン』(84年)、『激走戦隊カーレンジャー』(96年)、『超光戦士シャンゼリオン』(96年)などのある種ハイブロウ(笑)な作品も、現実に根差したリアルな人間ドラマではありえない。
何も現実志向や人間ドラマ志向を否定するものではない。
初期東宝特撮映画や第1期『ウルトラ』シリーズは人間ドラマより事件に重点を置き、第2期『ウルトラ』シリーズや近年(01年)なら世評高いロボアニメ『地球防衛企業ダイ・ガード』(99年)などは事件より人間ドラマに比重が置かれるが、後者だって優れている(とはいえ共に怪獣という大ウソが出現する以上、一般ドラマ・一般映画とは一線を画する)。
要は両者とも突き詰めれば最上のものは面白いということだ。
著名人の発言を自説の補強に引用するのはスキではないが、押井守カントクも子供だましを否定していなかったハズ(ついでに云うなら、かのスタジオジブリの高畑勲カントク(『太陽の王子ホルスの大冒険』(68年)、『じゃりン子チエ』(81年)、『火垂(ほた)るの墓』(88年)、『おもひでぽろぽろ』(91円)など)がファンタジーを否定するのはよほどのことがあったのだろう……という、押井発言を受けてファンタジー・非リアル系作品を否定ぎみに位置づける趣旨の読者投稿もあったが、その論法だと高畑発言にのみ依拠する事大主義にすぎず、論理にも実証にもなってないよーな・笑)。
80年代前半のジャンル評論草創期ではあるまいし、現実や人間ドラマを錦の御旗のモノサシにすることはジャンル作品の豊穣な可能性を自ら閉ざすに等しい。
作品を肯定する際、そう評するのが適切とはいえない作品にも、旧態依然で貧困なモノサシをあてて作品評価にユガミや混乱を惹起しているケースもまま見受けられる。
ギャグや非リアルを許容する世界観でもネはシリアスなドラマが構築可能なこと、シリアスなドラマ&テーマがなくとも優れた作品も成立しうること、なども多彩な語り口で包括して説明&肯定できる、ジャンル評論における多層的・重層的な統一理論の構築・登場が切に望まれる。