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『シビル・ウォー アメリカ最後の日』 ~そもそも「分断」しているのか!? 「分断」していたとして、その処方箋とは何か!?
(文・T.SATO)
(2025年3月9日脱稿)
アメリカ合衆国における政治的左右の「分断」が叫ばれて久しい。当のアメリカにおいても、その勢いで「内戦」まで勃発する可能性がある……などと主張する、ご当地の学者センセイなどもいる。そういった論調に乗っかった、一応の社会派をねらった作品でもある。シナリオも兼任しているカントク当人が、日本の映画マスコミのインタビューに対してそのようにも回答していたので……。
「シビル・ウォー」とは直訳すれば、もちろん「市民戦争」。つまり、外国との戦争ではなく「市民同士の戦争」「内戦」のことだ。その語句の初出は、イギリスでの宗教改革こと1600年代中盤の清教徒革命(ピューリタン革命)においての「イングランド内戦」かとも思われる。しかし現在では、日本の幕末期に相当する1860年代のアメリカにおける、日本においては「南北戦争」として訳出されている「内戦」のことを実質的に指している……たしかに、アメリカの南部の州と北部の州との間での戦争でもあったので、この云い換えをした訳出それ自体は的確なものであったとも思うのだ。
その「シビル・ウォー」の語句を流用するかたちで、スパイダーマン・アイアンマン・超人ハルクなどのいずれも1960年前半が初出でもあるマーベル社のアメリカンコミックスのヒーローたちが同一世界で「アベンジャーズ」なる正義のヒーローチームとして活躍する連作映画でも、その「思想」や「正義感」ならぬ「正義観」の相違で、たもとを分かって内部抗争の状態となったサマを描いた『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(16年)といった映画などもあった。もちろん、「内戦」でもあった「南北戦争」のイメージをここに重ねていたのだ……同作の原案ともなったコミックス作品は、この映画を10年ほどもさかのぼった2006年が初出であったそうだけど……。
一応の社会派テーマ、そしておそらくはトランプ大統領を揶揄しているのでもあろう本作ではあったので、もうそれだけでうれしくなってしまって高い評価をくだしてしまうであろう御仁も相応数はいるとも思われる。
しかし、「物語作品」とは「政治的に正しい」か否かで評価されるべきではない。「物語作品」としても面白いか否かで判断されるべきである。「政治的には正しい」としても「物語作品としてはツマラない」のであれば、高く評価されるべきではない。どころか、「政治的には正しくない」「倫理的にも正しくない」、あるいは「前近代的・封建的な作品」であった場合であっても、それでもブラックなりシニカルも含めての面白さなどがあるのであれば、あるいは現代では通用しないものではあっても、往時の倫理観の発露だとして了解ができたり、それによって現代の価値観をも相対化ができて視野も広げることができるのであれば、そういったかたちのものとして評価されてしかるべきなのだ。その存在や作品発表の機会をも許容されてしかるべきなのだ。断じて社会的な抹殺などは受けるべきではないのだ。
云ってしまえば、自分の思想信条とは異なる作品ではあっても、「物語作品としては面白い」のであれば、それはそれで同意はしなくても、その存在や公表それ自体については認めることこそが「寛容」ということなのだ。
その意味では本作は……。実はビミョーな出来でもあった。まずは良くも悪くも、あるいはイイ意味で(笑)、カントクの社会派的なねらいが表現できていないようにも思える。それでは、「起承転結」といった起伏も豊かな商業エンタメ・物語作品としては成功していたのかといえば……、そうでもなかったのであった(汗)。
とはいえ、あからさまに拙(つたな)いところもない。具体的には、映像なり演出なり演技なり、間やテンポといったところでヘタクソなところがあってノっていけない……といったこともない。しかして、ハリウッドの大予算の超大作映画でもなかった。いわゆる「インデペンデント(独立会社)映画」な安い映画なのである。
よって、その「映画文法」もまたイイ意味でも悪い意味でも、いわゆる「映画」的というのか、ややゆったりとした「(カットを細かく割らずにカメラを)長廻し」にしての「時間感覚」を持っていた。このような作品はいわゆる「映画慣れ」した筆者のような人種たちにとってはOKではあるだろう。しかし、決して映画マニアなぞではない、映画にドンパチやハラハラドキドキなどの「非日常性」を無意識的にでも求めてしまっている庶民・大衆向けの作品としてはいかがなものであろうか?……もちろん、このテの映画の場合には、実に飽きっぽくもある幼児&児童層にも理解が可能か否か? などといった、子供向け特撮変身ヒーローものにおける評価尺度のようなモノサシなどは不要であるものの……(笑)
加えて、この映画の舞台設定は、事前にマスコミ媒体にても発表されていたように、世間一般には「左派リベラル」というのか「アメリカ民主党」の票田でもある「カリフォルニア州」と、やはり一般的には「保守」寄りの「アメリカ共和党」の票田でもあった「テキサス州」とが手を組んで、独裁者と化した大統領が支配している首都「ワシントンDC」に反旗をひるがえしての内戦が勃発している! といったものなのだ。
しかし、このような舞台設定はいかがなものであろうか? 「カリフォルニア州」&「テキサス州」といったアメリカ西部の2州が手を組むといったこの設定からして、個人的にはまったくリアリティーが感じられないマンガ的なものにも思えてしまうのだ(笑)。もちろん、あまりにも大統領の言動がヒドかったので、思想的には正反対でもある「カリフォルニア州」&「テキサス州」までもが手を組むほどの事態が勃発しているのだ! そして、観客にはその「共闘」に左右の「分断」を解消するための希望を見い出させよう! といった「寓話性」を含意でもさせようとしていたのであろうか? だとしたら、やや陳腐凡庸な気もしてきてしまうのだ。
もっと非・現実的な「SF」作品なり「ファンタジー」作品なり「少年向け」作品であれば、敵同士であった者たちがさらなる巨悪に対して共闘をするような熱血少年マンガ風なノリは感動的ですらあるだろう(笑)。筆者もそういったジャンルであれば、こういった設定はエンタメとしてはカンゲイするのだ。
しかし、本作は一応の現実社会の延長線上の世界を舞台としている。そして、そこに「社会風刺」も入れようとしていた作品であったハズだ。こういった作品で「大きなウソ設定」を入れてしまうと、作品の「品位」が下がってしまうようにも思えるのだ。とはいえその逆に、露骨なまでの「社会の縮図」なるものを映画として映像化させてしまった場合であっても、それはそれで極めて安直なる単なる戯画には思えてきてしまって、「云いたいことはわかるけれども、鼻についてしまってゲンナリ……」といった作品へと堕してしまう可能性もたしかに高いのだ。
そこまで先回りをして網を張っておくのであれば、リアルな舞台ではなく、いっそのこと「大ウソ」な舞台設定にしてしまって、そこに時折りに垣間見えてもくるような、現実のアメリカ社会との類似性・通底性……といったものをねらった方がイイ……といったところで、この「大ウソ」設定を意図的・確信犯的に投入しているのやもしれない。
などと思いながら、本作を鑑賞したのだけれども……。実際には「カリフォルニア」も「テキサス」も舞台になることはなかった……。どころか、登場すらしなかった。そもそも、その存在も実質的には語られなかったのであった!(笑) 冒頭シーンでのみ、劇中人物によるボソボソとしたセリフで、「カリフォルニア」&「テキサス」が共闘して「ワシントン」に反旗をひるがえしていることが語られるのみであったのだ……。ついでに云うと、アメリカ東南半島の「フロリダ州」も、別個に反旗をひるがえしていることが、この冒頭シーンでは語られてもいた……。
しかし、その冒頭シーンでのセリフのみなのである。シビリアン・コントロール(文民統制)を脱して、アメリカ各地の陸・海・空軍などが軍閥化して、各部隊ごとに各州にも付くようなかたちで内戦をしているワケではない。かといって、軍隊が大統領の手足となって、反逆してきた各州を各個撃破しているワケでもなかった……傍観しているのであろうか?(笑) もちろん、オトナの事情で、戦闘機や戦車などを撮影に調達できたり、それらのリアルなCG映像を構築できるだけの予算なぞはなかったことは、よォくわかるのだけれども。
よって、その「内戦」なる描写も散発的で牧歌的なものですらあったのだ。現今のウクライナやガザ地区での戦災を軽視しているワケでは決してないものの、数万人単位での死者しか発生していない21世紀の戦争と比してしまえば、100万人近くもが死してしまった総力戦でもあった現実での「南北戦争」のような凄惨な描写なぞはないのだ……もちろん、そんな大規模エキストラを動員しないと再現ができないような地獄絵図な映像なぞは、当作の予算規模での映画ではムリであったこともわかる(汗)。
かろうじての社会派風刺的な描写としては、ワシントンへと向かう道中での各地の田舎町などで、白人の民兵2名ほどがアジア人(中国人)ジャーナリスト1名を理不尽にも射殺してしまうシーンくらいであった。もちろん、そのシーンそれ自体は痛々しく仕上がってもいて、そのかぎりでは演出もテーマ的な意図でも点描・スポット的には成功はしていた。しかして、それ以外はヒナびた田舎町で、自警団がヨソ者だか村内の異端者だかを吊るし上げて「さらし者」にしている光景くらいではあった。
もちろん、そういった非道な行為に対しての批判や警鐘であることはわかる。しかして、「国家の存在こそが不要で諸悪の根源でもあって、善良にして性善でもある人民こそが正義でもあるのだから、国家を解体しさえすれば、自動的に平和が到来するのだ!……」なぞといった楽観的なテーゼではなくって、「良くも悪くも国家が崩壊してしまうと、国家権力の代わりに地域や学級の一部のジャイアンどもがプチ帝王となって跋扈して、もっとヒドくもなってしまうのだ!」「必要悪としての保安官や警察に自警団!」などといった、アメリカの西部開拓時代のような問題設定にもなってしまって、思想の左右の「分断」の話とはズレていくようにも思えるのだ。
しかし、そもそもバカのひとつ覚えのように「分断」「分断」、世界各国やアメリカ国内では「分断」が発生している!……なぞと云われてはいるものの……。果たしてそうなのであろうか? 「思想」の左右の対立なぞは、フランス革命以降の近代社会では常に常態でもあって、暴力や武力での応酬にはならないかぎりでの、言論での応酬であるかぎりにおいては、それこそが健全な状態ですらなかったか?
それでは、「分断」なぞは発生していない「一体化」「大政翼賛会」な社会の方がイイとでもいうのであろうか?……もう四半世紀ほども前の「911同時多発テロ」の際には、そちらの方を問題視していたともいうのに、ダブスタもいいところではある……
南北戦争での「奴隷解放令」以降、もう20世紀も中盤にもなったというのに、鉄道車両・水飲み場・トイレ・学校・図書館・ホテル・レストランなどなど、アメリカでは白人と黒人とを別々に割拠させていた時代があった。半世紀強ほど前の1950~60年代における、黒人に対する人種差別撤廃を求めた「公民権運動」の時代におけるデモの熱気&切実性は、先の2020年のBLM(Black Lives Matter)運動デモなどを上回ってもいたハズなのだ……むろんこの「公民権運動」は、マルクス主義的な暴力革命の肯定なぞではなくって、あくまでも非暴力的なものであったからこそ成功したのだけれども。
さらに加えて、「共和党」と「民主党」の支持をめぐって、アメリカが「分断」しているといった言説それ自体もまた怪しいのだ。ちょっと調べただけでもわかるようなことなのだけれども、「共和党」の得票率も「民主党」の得票率も、各々がアメリカ国民の25%強程度でしかないのだ。残りの5割弱ほどは「無投票」で実質的に「無党派」なのである。日本においては投票率が低いのだとも云われるが、北欧諸国は除いてアメリカ大統領選挙も西欧先進各国の投票率もだいたいが55%程度ではあって、我が日本とも大差がないのだ……そして、北欧のスウェーデンでこそ、いわゆる極右政党が伸長していたりもする。
その「無党派」についても、おそらくは「完全無関心層」と「政治に対して人並みには関心はあっても、共和党にも民主党にも全面賛成ではなく議題に応じて、あるいはその時々の多数派政党に対するカウンターとしての一票を投じるような御仁」の2種に分かたれてもいるであろう。
……余談になるが、「投票率を上げるべきだ」「被選挙権を25歳から18歳に下げるべきだ」「ネット投票を可能にすべきだ」「立候補時の供託金を廃止にすべきだ」「そうすれば若いヒトも立候補することで、若い同世代も政治に関心を持つようになる(ひいては、右派政党が凋落して左派政党が伸長する)」といった言説にも疑念を覚える。ムリに投票率を上げてしまうと、政治に無知な層がガーシーや80年代イタリアのようにチッチョリーナ(ポルノ女優)などを当選させてしまうだけだろう。そして、昨年2024年の東京都知事選のように、売名行為の立候補が相次ぐに決まっている(爆)。加えて、ファッション&スイーツにしか関心がないような性格類型の御仁は、政治になぞ永遠に興味・関心などは抱かない。ネット投票が実現しても、18歳選挙権とも同様に投票率は上がらないであろう。それに、マイナカードや住基ネットに反対したソバから、本人情報とのデジタル的なヒモ付けが必要なネット投票には賛成してしまうという矛盾。若者の投票率が上がったとして、先進各国共通で若年層こそいわゆる保守系政党への(おそらく消極的な)支持率が高いのだ。しかし、若者も決してバカなのではない。いわゆる看板が革新・リベラルの政党こそが先の大戦直後のマッカーサー体制や150年前の社会主義を「保守」する政党であって、現実的な「改革」政党ではないと見なしてもいるからだ……
「共和党」や「民主党」の支持者もまた、「積極的な支持者」と「消極的な支持者」との2種に分かたれてもいる。
前者はいわゆる「岩盤支持層」のことである。しかし後者は、「共和党を積極的には支持もしないが、LGBT政策などが平等の域を超えて悪平等になっているとも思えてのカウンターとしての共和党への投票行動」なり、「民主党を積極的には支持もしないが、トランプ大統領の保護貿易的な政策が自由貿易体制を棄損するものだとしてのカウンターとしての民主党への投票行動」といったところなどもあるであろう。
その意味では、大統領選挙前の各党の大集会に集うような、熱心ではあっても支持者の平均値とは云いがたい極端な御仁たちだけをカメラに収めたり、インタビューをしてみせてもまったくの片手落ちでしかないのだ……成熟している先進国ほど、おそらくは「積極的な支持者」なぞは少なくって「消極的な支持者」によるアンチテーゼ的な投票行動が、左右双方ともに多いのであろうと推測。それはそれで健全でもあるのだ……。
日本においても良くも悪くも、大阪では維新が、名古屋では減税日本が、東京でも都民ファーストの会が、やはりカウンターとしての「消極的な支持」「相対的な支持」(笑)によって勃興すれば、自民党の議席は激減していることがその証左でもある……一方で、いわゆるネトウヨ連中が支持した日本保守党・次世代の党・太陽の党・在特会の桜井誠などは泡沫政党や泡沫候補に終わっていることで、大勢には受け皿としては認められていないこともよくわかる。
「共和党」「民主党」「無党派」の3種があったうえに、各々の内実にも2種がある。つまりは単純に考えても、3×2=6通りとしての政治的な立場があることにもなるのだ。
「タテ」に「直線」を引いて「左右」に分けるだけではなく、そこに重ねて「ヨコ」にも「直線」を引いて「上下」にも分けることで「4象限」とする。その「タテ」「ヨコ」各々とも直角に交わる、また別の第3の「X軸」や「Y軸」ならぬ「Z軸」の「直線」も立てて「前後」にも分けることで「8象限」とする。さらに加えて、時間経過による変化を捉えるための「時間軸」用の「直線」をも立ててもみせる。
会社やオタク趣味の人間たちとの雑談などでの生活実感としても、直観的にかロジカルかの相違はあるにしても、大多数の人間にはそういったことがフツーにできている。「あーでもない」「こーでもない」「そーとも云える」「こーとも云える」「Aの政策にはX党に理がある」「Bの政策ではY党に理がある」「いや、一概には云えない」「両者の異なる意見にもそれぞれに一理がある」「両者の異なる意見がそれぞれで間違っている」……などといった会話はフツーにできてもいるのだ。
しかし、たしかにいわゆる「ネトウヨ」や「パヨク」的な御仁であったりすると、物事を「2元論」的にして党派的な「敵」「味方」の関係に分けて、戦いだしてもしまうものだ。しかも、「東京」と「大阪」程度の差異でしかないものに対しても、それは地球の「北極」と「南極」ほどの真逆な相違なのだ! ばりの「認知のゆがみ」を平気で恥ずかし気もなく発言してもおり(笑)、しかもそれで何事かを云った気になっていたりもするのだ。
「東京」と「大阪」の中間には「名古屋」があったり、その北には「仙台」や「北海道」もあったり、その南には「福岡」や「沖縄」もあったり、上方には「成層圏」があったり、下方には「ブラジル」があったり……といった「4分割」「8分割」な発想が、そもそもできないような御仁も一定数はたしかにいる。
しかし、体感的にはそういった極論の持ち主は、10人中の1~2人程度でしかない……といった感触も受けてはいる……まぁ、ツイッターなどではよく見かける、短文での政治的な極論をひんぱんに発している左右双方の御仁なぞは、この10人中の1~2人だと見ても間違いはないのであろうけど。
さらに加えて、この10人中の1~2人もまた、2パターンに分かたれる。まずは、やや差別的にもなってしまって大変に恐縮なのだけれども、おそらく生まれつきでの器質的に物事を「2元論」でしか捉えられずに、「3元論」や「4元論」に「グラデーション」としての認識などはできないような御仁である。次に、生来的にはその知性にも問題はなかったものの、「左右いずれかの信念体系的なイデオロギー」にハマってしまっているような御仁だ。
近代的・合理的・科学的に考えれば、このような結論にも至るハズだ! そうであれば、あちらの政党に投票するハズがない! こちらの政党に投票するハズだ! そうでないのであれば、これはもう強制的に「プロレタリア(労働者)独裁」「左派による独裁」(爆)にしてしまって、保守反動・反革命の輩を粛清(死刑)にしてしまった方がイイ!(汗) ……もちろん、そこまではできないので、お情けとして殺さずに生かしておくだけであって、社会的には排除をしてもイイ! いくら罵倒をしてもかまわない!……
そういった考え方もわかりはする。しかし、近代的・合理的・科学的に考えたつもりでの結論がまた、ホントウに合理的にして正しいともかぎらないのだ。戦後の日本でも、ほとんどのインテリたちがソ連・中国・北朝鮮などの共産主義国家を夢の国だと讃えて、「科学的な必然」(笑)として全世界のすべての国々が革命を経た末に「共産主義社会」になっていくと信じていた時代もあったからなのだ(汗)。先の大戦で「ナショナリズム」や「帝国主義」に対する警戒ができるようには人類も進歩した。しかし、それ以外の思想の未知なる陥穽にはいまだに気づていけないことも往々にしてあるものなのだ。
その意味では、「自分がほぼほぼ正しい!」「LGBTは正しい!」「ポリコレも正しい!」と思えたのだとしても、神ならぬ身の人間一般は、常に高ぶらずに低く小さくして謙虚であらねばならない。最善を尽くしてもなお間違えることもある可能性(可謬性)を、あるいは細部においては不備が出てくる可能性をも、念頭には置くべきなのである。
ある条件下では正しかったとしても、別の条件下では使えないような「理論」であれば、「この条件下ではダメでした~! テヘ、ペロ~」と、自身を三枚目・笑い者・ピエロに身をやつすかたちでのアウカンタビリティー(説明責任)的にカミングアウトをして、軌道修正・微改修をも図っていくような知的なフットワークの軽さなどもまた必要ではあるのだ。
ここで、ピエロ的にふるまえずに、悪い意味での低次な「政治」を発動して、敵対陣営を利することにもなるからと「隠蔽」に走ってしまったり、常にいついかなる時においても自分は正しかった! この事態を先読みしていたのだ! なぞと得意げに語りだしてしまうようでは、また別の新たなる「権力悪」や「独裁」の誕生(の一歩目)でしかないのだ。「革命家の息子はブルジョワになってしまう」逆説のゆえんでもあって、結局は個別具体の使えるあまたの「政策」ありきでの「善き政治」などではなく、政策ヌキでの法治ならぬ単なる人治主義的な「権力」の移動・簒奪でしかなかったことにもなってしまうのだ(汗)。
仮にホントウに先読みができていたのだとしても、それは語らずに「自分も過去には間違っていたので反省もするし、エラそうな態度などはとれないのだけれども、それでもあえて云わせていただけるのであれば……」くらいの謙遜した物云いを、ウソでも演技でもポーズでもしておいた方がイイくらいであるのだ(笑)。
相手が明らかに劣っており、遅れており、間違ったものですらある! と思えてしまったとしても、「個人」あるいは「左右の双方の陣営」ともに、「他人」や「他陣営」やその「思想信条」に対しての蔑視・全否定・呪詛、そして撲滅せんばかりの「礼節」を欠いたヒステリックな言動こそが、原理的には差別・分断・対立・虐殺・戦争をも引き起こしていく根本原因でもあるからだ。
そして、分かり合えなくても「棲み分け」的に「共生」しながら、たとえ「演技」や「ポーズ」や上から目線でのミソっカス扱いのそれではあったとしても、それはオクビにも出さずに「礼節」や「度量の大きさ」を持っておく。そのうえで、お互いに「断交」ではなく「接点」を維持して、折りにふれては「交渉」することや、一時的には小さな「悪」に染まってしまっても、暫定的な「妥協」をして、決裂には至らないこともまた、長い目での大きな「善」をもたらすためには必要でもあるのだ。
その意味では、ヒトをダマしておとしいれるための「ウソ」ではないかぎりで、「礼節」や「社交辞令」といった、一見は非合理的にして前近代的にも見えてしまうであろう要素にもまた、たとえ人間相互の真の理解は最終的には不可能ではあったとしても、「潤滑油」としての意義はあって、それによって「不和」や「戦争」には至らせまい!……といった意味での超合理性はあったのだ。
もちろん、相手が「言論」「言説」であればともかく、遂には「物理的」「肉体的」にも危害を加えてきた場合については、「礼節」などは無力でしかないであろう。つまり、「防衛のための戦争」なり「革命」といった「対抗暴力」もそこで初めて肯定されはするものの……。
とはいえ、本作においては、大統領が国民を物理的にも弾圧した……などといった具体的な描写や説明なぞもなかった。しかし、たとえ陳腐ではあってもそういった描写を「絵」としては省いてしまうと、ラストの成敗シーンになんらかのカタルシスなども発生してはこないのだ。
この冒頭&ラストにだけ登場してきた白人大統領は、尊大なる独裁者ではなく卑小な小者として描かれてもいた。本作のような作品に対してガチなリアリズムを期待するのはヤボなのだけれども、護衛のシークレットサービスなども付いていない(爆)。3期目の大統領当選(?)を果たせてしまった剛腕さを持った人物にはとても見えないのだ(笑)。
もちろん、トランプ大統領なり粗暴な人間どもを「人格」の次元でも卑小化・矮小化して、分かった気になりたいといったカントクの意図はわかる……個人的には、トランプ問題の本質はそんなところになぞない。「粗暴な人間こそ、根は小心者である」といった類いも俗説なのであって、「粗暴な人間は、ただ単に根っからの粗暴・尊大・無神経なだけの輩に過ぎないのだ」とも思ってはいるものの……。
加えて、映画の冒頭からして「ワシントンDC」はすでに劣勢だとして描かれてもいた。そして、ネタバレするけど、ホワイトハウスにやすやすと攻め込んできた少数の反乱軍のなかの、黒人で女性の兵士に最後には近距離から射殺されてしまうのでもあった……。「黒人」で「女性」……。なにか悪い意味で図式的にして、これはこれでオリエンタリズム的な理想や願望の投影にして、「黒人」や「女性」に対する逆差別にもなってしまっているような……。
……さしたる抵抗も護衛もなくって、仰向けで両手を挙げた降伏状態でもあった以上は、確保・逮捕もできただろ!? そのうえで裁判にでも掛けたらどうか!? それが「近代法治社会」なのであって、そうでなければ前近代的な政治観&法律観にして、私刑(リンチ)に過ぎないだろ!?
たまさかの「感情」や「拍手」で物事を決定する直接民主主義では恣意的にもなってしまうのであるからして、議会での「熟議」によって「法律」……刑罰のことではなく理念法や手続き法のこと……だけを立法して、たとえ迂遠になっても、そうして制定された法律にも記載された手順・手続きだけに沿って、次はお役人が行政執行していこう! といったことが近代の代議制・間接民主主義の社会だろ! なぞといった疑問も生じはするけども……。そういったツッコミは、映画・フィクションである以上はヤボですね(笑)。
ただし、それでもヤボを承知で云わせてもらえば、「政治悪」なるものを属人的に考えすぎなのであろう。多彩な個別具体の政策論議ではなく、それができるだけの知力はないので(汗)、安倍ちゃん・トランプを暗殺しさえすれば、それで万事が解決! といった「革命幻想」的な安直さをやはり感じてしまうのだ。
いや、「悪役」を、現実的な「社会悪」「政治悪」などではなく、人間一般の「悪心」や「邪心」などを誇張・極端化したような「ガハハハハッ!」などと哄笑(笑)しているような記号的な悪役や、人間の「内面悪」などを具現化しただけの悪役が登場するような、リアリズムよりも象徴・寓意・寓話性の方が強調された、道徳説話的でもあるヒーローものや娯楽活劇作品などで、最後には「悪役」が大爆発(笑)をとげるような様式美的・記号的なインチキ描写で決着するような作品であれば、テーマ的な抽象度・観念度の方が上がってきて、「悪事一般は社会的に許してはならない!」、「悪事に立ち向かう勇気!」、「自身のなかにもあった『怠惰』や『卑怯』や『邪心』に対する克己の奨励!」といった意味合いにもなってくるであろう。
しかし、現実政治や現実社会における問題をあつかった作品においては、リアリティーの階梯・ラインが異なってもくるので、そういった意味合いにはなってはいかないのだ。
トランプ現象ごときは、「原因」ではなく「結果」に過ぎない。「原因」はトランプ大統領の主張を支持した「アメリカ国民」なのである。そして、トランプ大統領の主張を支持した理由の数々がまた、さらなる「根本原因」なのである。仮にそれらの理由が愚劣なものに思えても、それに対しては「罵倒」ではなく、なんらかの粘り強い中長期的な「社会的手当」が必要となるのだ。現時点での為政者の「属人」的な要素の話ごときではないのだ。現象の全体に対する「根っ子」への種々の処方的な「政策」の話でなければ意味がないのだ。しかも、絶対的にして固着した解答なぞもない。「政策の永遠なる微調整」といった、華々しい千年王国なぞも到来しないであろう、実に地味で迂遠な話にもなってくるのだ……。
正直に云って、本作には起伏豊かなストーリーらしいストーリーはなかった。主人公は金髪白人の少々クタビれた戦場女性カメラマン。そして副主人公には、筆者には小学校の高学年~中学生のようにも幼く見えていたので、シロウトのカメラ女子かと思っていたものの、ググってみると23歳(爆)の駆け出しという設定であったらしい、童顔痩身な白Tシャツ姿の白人女性カメラマンが配置されている。そこにデブデブに太った老ジャーナリストほかも加わっての、バン(自動車)によるロードムービー(股旅もの)といった体裁の映画でもあって、最後にはホワイトハウスに対する突撃攻撃への同行取材も成功させる……といった作品ではあったのだ。
とはいえ、シナリオも兼任していたカントクの見識が、政治に初めて興味関心を持った10代中盤の時点で止まってしまって、そこからの思想的な進歩や、「あーでもない」「こーでもない」といった思索なぞはなかったかのような(汗)、フワッとした反体制なり左派リベラルな気分のお気持ちの表明といった程度にしか過ぎなかったのか、「A」があって「B」になるから「C」にもなるのだ、しかして「D」があると「E」になって「F」にもなってしまう……などといった「3段論法」かつ「逆説」&「背理」にも満ち満ちた「異なる政策の並立・並存」や、現実政治における「ロジカルな政策談義」などのセリフなぞは書けないといったことでもあったのか? 良くも悪くもジャーナリストというよりも戦場カメラマンといった劇中人物たちでもあったので、インテリジェンスにあふれる会話をさせてしまうと、それもまたウソであろうと思っての処置でもあったのか? いずれにしても、ある種の「旅情」が出せたこととのウラハラで、この映画には思想的な深みはウスいのでもあった……。
その意味では、単なるおバカなドンパチだけのヒーローアクション映画だとも思われがちなのだが、実は先にも挙げた『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』などの方が、基本は往年のヒーロー共演のアニメ映画『マジンガーZ対デビルマン』(73年)ではあっても(笑)、思想的には深かったりもするのだ。
社会学でいうところの価値中立的な意味での「暴力装置」でもあるヒーローたちの恣意によっては、その超人パワーは暴走や乱用もされてしまうであろう危険性をも考慮して、「大きな政府」もしくは国連による管理組織なども作って、そこにヒーローたちを登録して管理をすることもまた「必要悪」としてはやむをえないであろう!……といった考え方には同意を示したアイアンマン社長・黒人のブラックパンサー・スパイダーマンらのヒーローたち……。
それとは真逆で、国家もまた暴走する危険性がある以上は、「小さな政府」で個人の良心をこそ最重要視にすべきだとも考えるキャプテンアメリカ・ホークアイ・アントマンらのヒーローたち……。
たしかに殺人・強盗・粗暴な威嚇なぞは文句なしに「悪」ではある。しかし、「強大なる力」を一応の「公的機関」に管理させた方がイイのか? 「個人の良心」に任せた方がイイのか? こういった問題になってしまうと、それは道徳的な「善悪」の問題ではなくなってもくるのだ。「善」は当たりまえに全肯定をしたうえでの、「目的」ではなく「手段」の相違の方が問題になってくるのだ。そのどちらの見解にも「理」があって、パーフェクトな結論なぞはなくって、永遠の問題にして、都度都度での個々のトラブルに応じた「振り子運動」的な対応を与えるしかなくなってもくるのだ。
そして、思想の左右の是非もまた、これと同じところがある。どちらか一方に固着してしまうことなく、「新自由主義経済」が不首尾となれば「社会民主主義」的な分配を、それでまた70年代のように「スタグフレーション」が起こってしまえば「新自由主義経済」をカンフル剤として注射もしてみせるような、永遠の「振り子運動」を継続していくのが、これからの人類の未来史だとも思えるので……。あまりバラ色ではないけれども(笑)。
本映画の元ネタでもある書籍『アメリカは内戦に向かうのか』(22年)においては、本著独自の言説ではないのだけれども、アメリカの人口比率における人種の減少が白人たちの不安感を煽ってもおり、その反動として人種差別感情が巻き起こっているのだ! といった俗説を主張もしている。
しかしこれは怪しい。ずいぶん前から、フランスの奇人変人学者(笑)でもあるエマニュエル・トッド大先生などは、旧・ソ連(現・ロシア)の末期などとも同様に、21世紀になってからのアメリカの白人男性の自殺率(絶望死)の急上昇! といった異常事態を指摘もしてきた。そして、その原因は人種の構成比率などではなく、結局は「雇用」(失業)の問題なのだと、以前から喝破もしてきたからなのだ。
本映画の元ネタでもあるこの書籍のような、ザルで粗雑でラフな議論はいつの時代も絶えないものではある。「男尊女卑的で粗暴な男性による女性へのDV殺人」と「女性を一応は尊重してきたものの見返りが与えられなかったがゆえの非モテ男性による逆ギレ殺人」といった、動機においては「真逆」ですらあったものを、同一視にしてしまって「フェミサイド」(女性に対する虐殺)などとカテゴライズをして分かった気になってしまう行為など……もちろん、いずれのケースにおいても、男性の所業は許されざる「悪」であることは云うまでもないのだけれども……。
LGBT問題もまた、LGBTそれ自体の存在は認めたうえでなお、トイレ・お風呂・更衣室・スポーツまでをも共有・同室にしてしまうことについての当否が世界的にも議題視されたソバから、そういった問題提起をしただけでも、旧態依然な差別主義者だとして糾弾してくる行為なども同じことなのだ……。
これもまた「知識はあっても知性はない」、物事を3分割・4分割・8分割などに微分化・細分化して認識しようとするのではなくって、「2元論」的にして「党派」的な判別による言説が、一部のマスコミや学者間などでは勃興しており、実に嘆かわしいかぎりだともいえるし、いつの時代にも絶えない平常運転(笑)だともいえる。
一部の学者センセイや文化人などはまた、象牙の塔のなかでSNSを観察することによって一喜一憂しているだけである。彼らこそが書籍などのバーチャルな世界のなかだけで生きていたりもする。そして、左右の双方ともに「是々非々」で考えるのではなく、「真理の探究」などでもなくって、「党派性」「政局」レベルでの「赤勝て、白勝て、巨人か、阪神か」程度での「2元論」的な低次な動機のうえに乗っかって、的ハズレな分析をしたり処方箋を出しているだけのケースもまた多いのだ。
SNS(の政治ネタ)だけを見てしまうと、たしかに世にはまさに「分断」があって、今にも「内戦」や「終末」(笑)などが勃発しそうなバーチャルな感覚にも襲われてしまうのでもあるだろう。
第2次大戦期の1940年代が初出にして、死してしまった初代キャプテンアメリカの相棒でもあった黒人男性が、2代目キャプテンアメリカを襲名して活躍する『キャプテン・アメリカ4』こと、最新映画『キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド』(25年)においても、この問題意識は継承されていた。
トランプ大統領をも投影したとおぼしき、強権的にして管理的でもあった軍人出身の大統領に対して、やはり個人の良心の方こそを最重要視もする2代目キャプテンは警戒感を隠さない。しかし、どちらかが圧倒的な正義でもない。多少の歩み寄りはあったものの、基本は馴れ合わないままでのグレーな共生を選択していくのだ。
それが万能なる回答だとも思われない。しかし、現実的にはこういったグレーな処置こそが、割り切れないまでも実地に使える現実的な処方箋にして処世術でもあるのだ。
もちろん、大統領が「私利私欲」のためにヒーローたちを使役してしまったならば、それは糾弾・打倒されるべき「悪事」ではある。しかし、私利私欲に見えていた命令が実は高次なる高等計算に依拠した「公益」にも基づいていた場合に、浅知恵だけで大統領を成敗してしまったならば、それもまた「悪事」になってしまうのだ。
そういったことまで踏まえたうえでの「実にカ細い隘路で、片翼だけではなく左右に長い両天秤の棒を持っての綱渡り」をしながら進んでいくこと。そういう処方箋であったのであれば、個人的には賛同するのだけれども……。しかして、そういった作品になってしまうと、やはり2元論的な勧善懲悪=左右の対立劇ではなくなってもしまうのであって、ネトウヨ・パヨクはもちろんのこと、庶民・大衆にすらもウケない作品にはなってしまうことであろう(笑)。
こうなってしまうと、そういったことにも関心があるような御仁であれば、なおのこと社会派ドラマやドキュメンタリーに本作ごときではなくって、新聞や論壇誌に専門書などを読み込んで、自身の見識などもミガいて、逆説&背理に満ち満ちてもいる非・ユークリッド空間でもあるこの現実世界・現実社会を、なるべくうまく説明できるような包括的にして至れり尽くせりの巨大な理論体系(……イデオロギー体系にはあらず!・汗)なぞを、最終アンサーにはついに到達できないのだとしても、自己の知的優越を誇って悦に入るためにでもなく(笑)、地道に自分なりに構築しつつ、常なる微調整などもしていきなさい! といったオチにもなってしまうのでもあった。
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