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仮面ライダー555 〜前半合評2 「特撮」ではない「555」


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仮面ライダー555 〜前半評④ 仮面ライダーへの道

(文・内山和正)
 円が貫かれて二つに別れたような一つ目にも見える黄色の眼。小さすぎて悪人ぽくも見える口元。
 仮面ライダー555(ファイズ)の着ぐるみは衝撃的なものだった。
 しかし、すぐに了承できた。一見したイメージはこれまでの仮面ライダーとは別ものなのだが、強化服という題材に仮面ライダーの要素の数々を律儀に落とし込んだある意味ライダーらしいデザインと言えた。
 ライダーの触覚が安全基準のためか食玩などでは横からみると三角に処理されているのを逆利用したような角(つの?)の部分など心憎い。また卵型の顔は仮面ライダーBLACK RX(1988・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090726/p1)を思わせ、黒地に赤のラインが走るのは仮面ライダーストロンガー(1975)に類似している。


 変身ベルトにはめこむ携帯電話スタイルの変身装置や、デジタルトーチ(たいまつ・ライト)型のキック力強化装置、デジタルカメラ型のパンチ力強化装置などは前作のカードバトルに較べると殺風景にも思えるが、東映メタルヒーロー(?)『ビーロボ カブタック』(1997)のあとの『テツワン探偵ロボタック』(1998)、『仮面ライダークウガ』(2000・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001109/p1)のあとの『仮面ライダーアギト』(2001・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011106/p1)のように、好評だったオモチャの路線を踏襲すると売り上げが落ちる傾向が近年はあるようなので、毎年目先を変えたほうが良いのだろう。


 最終的には3人、ライダーが登場するらしいがとりあえずは単独ヒーロー。
 今回は敵を描くことに重点を置くが、旧来の敵ではなく生活があり、正義だからとか悪だからとかで戦うのではなく、敵だから戦うのだ……とのマニア誌で明かされた設定が興味・期待や若干の不安を持たせた。
                        


 そして放送が始まった。最初の4回は敵側とヒーロー側のメインキャラクターたちが交互に描かれる。


 敵・オルフェノクは一度死んだ人間が怪物への変異能力を持って甦ったもので、オルフェノクは人間を殺すことで同族をさがし増やしていく。オルフェノク化する能力のない通常の人間は殺害されたのち一時的によみがえり崩壊してしまう。
 オルフェノクに殺されたわけでなく、通常の死亡後にオルフェノクとして目覚めた者はオリジナルとよばれ上等な存在とされている。


 初期編で描かれるのは、その「オリジナル」である木場勇治(きば・ゆうじ)と長田結花(おさだ・ゆか)の事情である。
 “事故で長い歳月昏睡に陥り、その間に恋人が他の男のもとへ”という“勇治”の状況は『デッド・ゾーン』(1979・ISBN:4102193065・1983に映画化・ASIN:B00005V2MX・2002〜連続TVドラマ化)のジョン・スミスを、
 “いじめ続けられ耐えてきた少女の特殊能力が惨劇を呼ぶ”という“結花”の状況は『キャリー』(1974・1975に邦訳出版・ISBN:4102193049・1976に映画化・ASIN:B000QUTRTY)を、とスティーブン・キングの小説の主人公を想起させる。
 もちろん他の部分はちがうのだが2つ並んでしまうとモダンホラー小説マニアの視聴者としてはパクリを意識せざるをえなくなる。


 それは別としても初期編での、叔父に両親の全財産を奪われてしまった & 恋人に二重の裏切りを受けた勇治。
 両親や妹から家族扱いされず、妹はいじめをたきつけもする結花の不幸の数々。
 それら自体はこの世間にざらに存在すること(?)ではあっても、説得力を持ったドラマ的描き込みがなされず――結花の家族が妹の主張どおり実の家族でなかったのか、非人間的な実の家族であるのか、明確でないのもまずい。クレジットも義父・義母でなく父・母である――、視聴者への不幸の押しつけとして終始してしまったため、殺戮に至る2人の心情に同化できず、納得してドラマを楽しむわけにはいかなかった。


 その後の展開を思えば、彼らが怒りゆえに殺人を行なったというより、彼らの中に眠る力が怒りゆえに暴走して意志では押さえきれず、人の命を奪ってしまったという表現にしたほうが良かったのではないかとも思う。


 また、ドラマ面のみでなくアクション面でも、彼らの殺人シーンとライダーが刺客オルフェノク怪人と戦うシーンまでもが分割して交互に描かれたのも観にくかった。


 ヒーロー側は九州から東京へむかう途上のティーンヒロイン・園田真理から描きはじめられる。
 養父であるスマートブレイン社長・花形から送られた変身ベルトと装備一式の入ったバッグをもち、オートバイのオートバジンで旅する彼女を、ベルトをねらう刺客のオルフェノクたちが次々襲う。
 偶然出会った青年・乾巧(いぬい・たくみ)はベルトをつけて仮面ライダーファイズに変身できる適性があった(真理には適性がないため第1話で変身できなかった)ため、戦いに巻き込まれてしまう。


 この刺客のオルフェノクたちは一人旅の女性にしつこくつきまとうとか、仲間に口出しされるのがいやで殺してしまうとか、性格的に問題ある若者たちだった。
 あとになって考えてみれば、そんな性質の奴だからこのような任務にかりだされたのだろうと思うものの、放送当時は「正義とか悪とかではなく敵だから戦う」「敵を描く」との商業誌で先行発表されたテーマが感じられぬことが不満だった。


 だからテーマを知らず無心に観た一般の視聴者のほうが、彼らをヒーローの戦うべきおぞましい化け物として素直に楽しめたかもしれない。
 その見方で観るなら、変身の際にベルトをいちいち着用せねばならぬ手間がかかるヒーローの不自由さによる危機と、人魚形態に変形して空中を泳ぐスティングフィッシュオルフェノクや巨大な四つ足形態になって襲うエレファントオルフェノクなどの脅威とにより、スリルを味わうことができる。
 とはいえ彼らに殺された者たちの死にざまを含め、オルフェノクには気味悪さの刺激が強すぎるのではないか?


 真理は偶然出会っただけの巧が変身でき、戦えたとの理由だけで「私を守るのは当然」と主張、逃がさないために嘘までつく。
 自分の命が危ないうえ、戦えるのが巧だけなので無理もないとはいえるが、これまでのシリーズヒロインにくらべると困った性格である。
 巧のほうも何だかんだ言って戦ってくれるので根はイイ奴なのだろうが従来のヒーローのような包容力はなくかなりきつい性格である。
 この2人に非常識なまでの善意の持ち主でそれゆえに周囲に迷惑をかける菊池啓太郎(きくち・けいたろう)が加わり、3人は東京へ向かい5話以降、啓太郎の実家のクリーニング屋で共同生活を送ることになる。



 実のところ序盤4話は「このシリーズもついに限界が来たか」というほどドラマにひかれなかったのだが、5話以降見るべき要素が増えていき徐々におもしろくなっていく。


 免停になったり、口の悪さで人を傷つけたり、飯は女がつくるものだと思っていたり、倫理観が欠如していたりと欠点を次々あらわしていく巧だが、他人を傷つけるのをおそれてひとつの場所にとどまるのを避けてきたとの事情も語られ、それまでのライダーとは違う、良さも悪さも兼ね備えた普通の人間であることが強調され、『仮面ライダー』というシリーズが次のステージに入ったことを認識させられる。


 一方、裏でオルフェノクの支援(実は管理)をおこなっている大企業スマートブレインは、勇治と結花に人を殺しオルフェノク化することを教育する(モチーフは北朝鮮であるという)。
 しかし、勇治は人間を守ることを決意、この“教育”の過程で被害にあいオルフェノクとなってしまった海堂直也を同族として守ることも決め、結花と3人の共同生活をはじめる。



 番組は7・8話の「夢」のエピソード(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20031102/p1)でひとつの高みに立つ。
 夢だった美容師になろうとする真理だが技術が及ばず就職試験に失敗、涙する。
 些細かもしれぬ夢もかなえることは困難であることを示し地に足をつけてみせたエピソードで、一般のドラマではありきたりなことではあろうが、この番組で描いたことで意義を感じさせた。
 前作『仮面ライダー龍騎』(2002・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021108/p1)の夢を叶えるための仮面ライダー同士のバトルにあこがれる視聴者の、安易な夢の実現への渇望を批判しているとも言えた。


 普通のドラマならそこで終わりだろうが、夢から開放されたからといえ海堂直也が癒されたわけではないことが次の回で判明。
 スマートブレインの新社長・村上峡児(むらかみ・きょうじ)の“人を殺さないオルフェノクは抹殺する”方針の尖兵のオルフェノクとして暴走する展開も、意地の悪い凄さだ。
 さらに勇治同様殺人を拒んでいるのかと思われた結花までが、裏では性犯罪者の不良少年たちを嬉々として抹殺していることが判明。謎を深め厚みを加えている。


 それにしてもこの番組、子供番組にしては性暴力の匂いが濃厚なのではないだろうか。真理につきまとう若者たちにしろ、結花がいじめで靴下をはぎとられるところ(相手が同性であるにしろ)の、変にセクシャルな演出にしろ。
 結花自体、過去に被害経験者なのだろうかと勘繰ってしまう。まあ女児監禁事件やホモ中学生の幼児殺害など子供たちにも性犯罪が身近な問題になっている陰惨な時代なので、このような要素がつい出てくるのは不思議ではないのかもしれないが。


 これまでのシリーズ同様毎回が楽しみな番組に進化した本作だったが、ヒーロー番組らしさは希薄に思えた。
 ひとつには主人公の巧の性格があるし、「変身する」ということに胸の中が沸き立つようなあこがれが感じられず、ヒーローものでなくとも異形の者や超能力者のドラマとして成立する内容だからだ。



 そんな本作に変革の時が来た。


 9〜12話、オルフェノクの上の上と呼ばれるエリート集団――村上がおだてあげているだけかもしれないが戦闘能力は傑出――「ラッキークローバー」と、「X」の文字をメインモチーフにした第2のライダー「仮面ライダーカイザ」の登場である。


 前者の一人、黒人俳優演じるジェイ(クロコダイルオルフェノク)が3つの命をもつなど荒唐無稽さが強調されたり、カイザとは何者かという謎がひきつける。
 カイザの変身ベルトは変身する人間を死に至らしめる悪魔の道具であるため、変身する人間が次々変わるという設定で、観る側の意表をついてきた(昨年の『龍騎』で「仮面ライダー」が死をもたらすシステムになりさがってしまったことを意識、応用した発想か)。


 前々作『仮面ライダーアギト』の客船「あかつき号」の海難者の人々を思わせる、「流星塾」の人々という受難者集団の青年たちが(真理同様、花形前社長にひきとられた孤児たちで、大惨事にまきこまれながら生き延びた子供たちの成長した姿)、仲間たちを守るために変身することを選びその命を散らして行く。


 その後、同じ出身者ながら彼らとは別行動をとっていた大学生・草加雅人(くさか・まさと)が命に支障なく変身できることが判明、カイザのベルトは彼のものになるのだが、その初登場回、大学構内で雅人と出会った巧は、特に理由もなく雅人に反発を感じ対戦を挑む。
 多少いやみっぽくもあるが大人の余裕を見せる雅人と、みっともない小物の巧。
 各部活から頼りにされキャプテンを兼任するほどの雅人に巧がいくら突っかかったところで勝てるはずもなく……。
 通常とは主客転倒とはいえ、それまでの巧を見ていればこれもアリの展開で面白く、さらにピンチのなか変身(殉死)にふみきれない仲間のところにかけつけ、変身ベルトを手にする雅人は頼もしく、ダブルヒーローの雄姿に胸は高鳴った。


 この路線でもう少し見せてほしかったのだが、早くも次回では雅人の裏の顔が姿をのぞかせ、表のダブルヒーローはわずか一話で消滅する。
 プライドから雅人の助けを借りたくない巧、絶対的危機と知りながら巧を見捨てる雅人。
 そのあとの回では、「自分を好きにならない人間は許せない」との本性が露呈。盛り上がるが同時にその描写はやり過ぎの感もなくはなく、評価は難しいところだ。


 雅人とは逆に巧は優しさが現わされていく。
 結花に助けられオルフェノクにも心があることを知って動揺。
 クレインオルフェノク(結花)を殺そうとするカイザに、何の説明もなく攻撃をくわえ、仲間の信頼をなくすあたり無器用さがよく出ており、カイザが持ち出す初登場のサイドバッシャー・バトルモード(カイザの乗機のサイドカーの変形したロボット。CGで描写)の巨大な威容と殺意には圧倒される。正直仰天した。
 一方、殺人淫楽症の気味があるように思えた結花の動機は、「人間が怖い」で綺麗に解決(まだ何かあるかもしれないが)。


 17話では木場勇治のもとには初期編で殺してしまった自身の元恋人の兄・森下が現れ、妹殺しの犯人を見つけたいと協力を求める。
 過去のあやまちと対峙させられ、悪への変心のきっかけとなるのかとも思われたものの、当の森下自身こそがアルマジロオルフェノク化、快楽殺人にめざめたことで、結果的に戦意を失っていた巧を立ち直らせて倒されてしまう役回りになり、勇治の悩みもアッサリ解決。
 森下を演じたのが昨年の昼ドラの大ヒット作『真珠夫人』(2002・原作は菊池寛で1920・1950に映画化・1974にも昼ドラ化)の知的障害者役で人気を得た松尾敏伸氏であっただけに、もっと重要な役を担うと思ったのだが(巧を立ち直らせるやられ役の役割は、木場があやめた恋人の関係者という、現状ではストイックな木場自身の倫理的基盤をも脅かす重大な出自を持つ彼でなくても良いわけで)残念。


 そのような欠点はあるものの、この回では


 「迷っている間に人が死ぬなら……戦うことが罪なら、俺が背負ってやる!」


 と決意。それまで見知らぬ他人のために戦っていたわけではない、自衛のために戦っていた巧が、はじめて人命を守るヒーローとなり、ここまでが「仮面ライダーになる」男の物語であったことが明確になった。
             


 以上、未見の方への配慮も考えてストーリーの流れにそって説明も含め書いてきたが、現在進行中の要素もあり以下については記述をやめる。
 4話において早くも刺客カクタスオルフェノクに変身ベルトを奪われファイズに変身されてしまったこともあり、早くからオルフェノク化する資質を持つ人間なのではと思っている人の多い巧。
 彼や草加雅人(=カイザ)がオルフェノクであるのなら、その資質は「夢を持たぬこと・失ったこと」なのではないかと推測していた。
 しかし20・21話のピザ屋のおじさんがオルフェノクであることからするとハズレていたようだ。
 おもしろいから良いものの、「これまでとは違う敵を描く」という商業誌で発表されていた製作者側の当初の目的が果たされないでいるように思えるのはいささか残念だ。


(了)


仮面ライダー555 〜前半評⑤ 「特撮」ではない「555」

(文・旗手 稔)
 まずこの作品に対する筆者の「立場」を明確にしておこう。
 「カメラマン」時代の円谷英二特技監督)は「監督&俳優主導」の映画作りを「技術者」に対する「差別」と感じ、それを克服するため『キング・コング』(33年・アメリカ)のような「技術」そのものを「主役」にした作品をいつか作りたいと考えた。
 日本映画を舞台にした円谷の「革命」は水爆大怪獣映画『ゴジラ』(54年)の成功を経、『ゴジラの逆襲』(55年)における「特技監督システム」の確立によって成就されることとなる。



 円谷が考える「特撮映画」とは、「俳優」や「監督」の力に頼らない、「特殊技術」それ自体を「主役」とする作品のことだった。
 そして「特殊技術」では「技術」以上に「演出」の占める役割が大きい。
 スーツアクターやミニチュアや光線作画の「芝居」をウリとする「怪獣映画」は、その意味でまさに「特撮映画」そのものと言って良い。筆者は〈特撮映画=怪獣映画〉の図式を支持する。


 71年版『仮面ライダー』は「怪獣映画」における「特殊技術」を「アクション」に置き換えたもの。
 藤岡弘という当時のイケメンを起用した『仮面ライダー』も「主役」は飽くまで「アクション演出」であり、それは「主演俳優の交代」という不測の事態において事後的に証明されることとなるだろう。



 『仮面ライダークウガ』(00年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001106/p1)に始まるミレニアムのライダーシリーズは「監督」や「俳優」の魅力に負うところが大である。
 「アクション演出」よりも「ドラマ演出」に比重が置かれ、円谷的な文脈で言う「特撮映画」はここに至るや、ついに完全な変質‐解体を遂げた。
 「俳優&監督主導型の特撮映画」、それは「SF映画」と呼んだ方が適切かもしれないし、或るいはいっそ「アイドル映画」と受け取るのが良いかもしれない。


 特撮評論家・中島紳介は特撮雑誌『宇宙船』での連載などで、怪獣ものや変身ヒーローものに対する世間の偏見が無くなったことを「特撮映画」というジャンルの「崩壊」と捉えているが、筆者の考えでは、「一般映画」の中にも「特撮」が積極的に使われるようになった結果、「特殊技術」を「脇役」にした作品のほうが「特撮映画」の主流になってしまった事態を指す。
 「特撮映画」であるにもかかわらず、「特殊技術」を「主役」にしない『仮面ライダー555』(03年)。『555』のそうした側面に(あえて)こだわることで、筆者は「特撮映画」の「本質」を絶えずあからさまにしておきたい。筆者の『555』に対する「立場」とはそのようなものである。


 『555』で特筆されるべきはやはり、「主人公・乾巧(いぬい・たくみ)以外にも555に変身出来る人物がいる」ことだろう。これは『仮面ライダーアギト』(01年)で複数の人間が仮面ライダーG3に変身して以降、恒例となったパターンである。
 「特殊技術」によって生み出される「変身ヒーロー」は、この世界では(資格さえあれば)「誰でもなれる」程度の存在……つまり「脇役」に過ぎない。
 このような構造は手塚昌明監督の『ゴジラ×メカゴジラ』(02年)にも看て取ることが出来るだろう。『×メカゴジラ』の「ドラマ」的な面白さはゴジラを「脇役」としたことで得られたものだった。


 70年代終盤に始まった日本の「特撮評論」は、優れた「特撮映画」の条件に「ドラマ性」の高さを挙げた。「大人の鑑賞に耐えるドラマ」を目指す『仮面ライダー555』は、その意味では「特撮映画」の理想形と見做せるのかもしれない。
 しかし、彼らは「特撮評論」と「SF評論」を明らかに混同していた。「SF映画」は「ドラマ」が「主役」である、だから「特撮映画」も「ドラマ」を「主役」にしなければならない……
 「特撮パート」や「アクションパート」はこうして「脇役」の位置に甘んじることとなった。「特撮映画」の「崩壊」は、「特撮評論」それ自身によっても引き起こされたのだ。


 「特撮映画」というものにこだわるなら、『仮面ライダー555』にはどうしても物足りなさが残る。
 だが、『555』を「SF映画」と観るなら、そこからは様々な楽しみ方が引き出せるだろう。乾のパンツは何色かとか、長田結花は何人殺害したかとか、物語のディティールを追いかけていくのも悪くない。
 『555』は「ドラマ演出」以上に「キャラクター演出」を評価してみたい、そんな気もしている。



 「立場」の違う者がそれぞれの存在を賭けて闘うのが『555』(およびミレニアムライダー)の世界観であり、そこではどの「立場」にも一応の「正義」が与えられている。
 そして筆者の「特撮ファン」という「立場」も、決して絶対的なものではない。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2004年準備号』(03年8月16日発行)〜『仮面特攻隊2004年号』(03年12月29日発行)所収『仮面ライダー555』前半合評④・⑤より抜粋)


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