『仮面ライダークウガ』最終回・総括 ~終了賛否大合評
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『仮面ライダークウガ』 〜前半合評4 前半総括・怪獣から怪人の時代来るか再び
(2000年7月執筆)
『仮面ライダークウガ』 〜前半評⑧ マスクドヒーロー・ルネサンス
(文・彦坂彰俊)
『クウガ』にみる変身ヒーロードラマの「リアル」とは?
企画フォーマット自体の紆余曲折・流転の末、とうとう実現叶った復活の仮面ライダー、その名も『仮面ライダークウガ』(’00)。
設定自体のバリエーションも類似作品そのものも、既にやり尽くされた『仮面ライダー』だからこそ、あえて全く新しい方向性で勝負したい―― その意気込みは、高寺成紀(たかてら・しげのり)PD(プロデューサー)の各マニア誌での発言をあらためて引くまでもなく、確かに実作品に固定化されているとは思う。
とはいえ、最新作が旧作との比較に曝(さら)されるのは、仮面ライダーに限らず“断続的”長期シリーズのもはや宿命のようなもの。今回もさぞや……と思いきや、そういう論調は知る限りにおいて意外なほど少ないようだ。
その点から考えれば、受け手の大多数は(予想を上回るほど)『クウガ』に好意的なのかもしれない。それは『仮面ライダー』シリーズの最新作としてか、シリーズと関係なく純粋に変身ヒーロードラマの新作としてか……。
ただ、いずれにしても筆者のスタンスは埒外にある。その志は理解するし、基本設定までならば共感する部分も少なからずあるのだが、実作品の出来に関してはどうにも居心地の悪さを覚えてしまったクチだからだ。
『クウガ』を単純に『仮面ライダー』として承認することへのシニカルな逡巡。TPOさえ別条件だったなら好感を抱いたかもしれない作品雰囲気への、複雑微妙な執着。本作品が想定する「新しさ」や「リアル」はどこにあるのか? ……違和感の正体を見極めたい欲求に駆られる。
『クウガ』の設定上のポイントを確認しておくと、超古代文明、フォームチェンジ、警察組織への自主的協力者、そして非・改造人間といったあたりに要約されるだろう。ただし、この中でも非・改造人間という要素は(実は他の要素も)、いわゆる「仮面ライダーの定義」を大きく逸脱するものである。
筆者はそれでもかまわないのだが、この点が今回は批判されなかったりむしろ肯定されていることは、80〜90年代に『仮面ライダー』シリーズや当時の新作群に対して発せられてきたあまたの批判、「ライダー」らしいか否かの価値判断といった一応の“仮面ライダーマニアの総意”だったものとは、著しく統一性を欠いていて相反して矛盾すらしているのではないか……?
(そもそも「仮面ライダーの定義」など、その程度に恣意的で時間の経過で変化してしまうようなあいまいな性格しか持ち合わせていないものなのだ。「とりあえずの基準」としては使い勝手もいいが、一時期のようにあたかも「権威」のごとく後続シリーズや新作を「ライダー」らしくないと断罪するために振り回す状況などは、どうにも不健全だった気がしてならない)
もっとも、今回はさすがに作り手のほうもその辺りの機微に敏感で、先回りしつつ既に予防線を張っていた。
「シリーズとしてあらゆるバリエーションが存在し、そのテイストを意識した(類似)作品もおよそ出尽くしている」と。
だがしかし、逆にその認識を徹底的に突き詰めるならば、たとえタイトルネームを冠したシリーズ正統後継者であろうとも、そのアイデンティティーを保証するものは何もなくなる。そこではシリーズ作品と類似作品との境界の区分など、なんの意味をも為(な)さなくなるはずだ(つまり、極論的には『クウガ』は、『鉄人タイガーセブン(’73)』や『七星闘神(しちせいとうしん)ガイファード(’96)』の続編か同じ世界観やリメイクとして作られていたとしても何ら不自然ではなく、そうでないのはただ単に特撮ヒーロー史上における“運命のいたずら”でしかない、と言っても決して過言ではないのである!!)。
そうであるなら、いっそのこと「等身大ヒーロー」というジャンルの中に「仮面ライダーもの」という括りを想定してしまったほうが、むしろ状況はかなり整理されるのではなかろうか? ハジキ出すための胡乱(うろん)な定義よりは、取り込んでゆくためのおおらかな括りによって、逆説的に自他を明確化してゆく。
しかし現状況では、作り手も受け手もそこまでは意識的でないために、「仮面ライダー・のようなもの」について延々とどこか的外れな議論を繰り広げているだけなのではないか? それは筆者がシリーズの異端児扱いされた先進的な意欲作『仮面ライダーBLACK RX』(’88・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001016/p1)から12年来、ずっと歯痒く感じてきたことでもあった。
……なおも「仮面ライダーであること」にこだわるとするなら、巨大な両複眼に変身ベルトというデザイン上の意匠か、それこそ登録商標としてのタイトルネームの価値だけが残ることになるだろう。この結果こそ、あるいは最も厳密な意味での「仮面ライダーの定義」と呼ぶべきものではあるかもしれないが……。
こうして見てくると、「組み合わせ方」はともかく設定単体の「要素」としてのバリエーションは既に頭打ちであり、その事情を作り手も熟知していることは明らかだ。だがそれだけに、この作品を組成する設定そのものは、変身ヒーロードラマとしてのツボを心得た秀逸なものではあったのだ。
まず、当時の子供たちにはともかくかつては保守的な特撮マニアの猛反発を喰らった、かの『RX』のロボライダー・バイオライダーへの三段変身からダイレクト・シフトしたクウガのフォームチェンジ&専用武器などは、90年代型ヒーローの総決算というべき必然的な結論であろう。
ロッド・ボウガン・ロングソードを状況に応じてあざやかに使い分ける無敵のヒーロー…… その「華やかさ」こそがまた、現行変身ものの3番手・4番手ではなくメジャーたらねばならない『仮面ライダー』が00年代に取るべき選択肢のひとつであることも事実なのだ。
もっともデザイン自体は全て基本形態のバリエーションにすぎないというのは、理に叶ってはいるが発想の飛躍に欠け、面白味がないとも言えるが……(実際、さらなるパワーアップの「超変身」形態のモチーフがそれぞれ、陸・海・空でチーター・シャーク・イーグルという「ひとりサンバルカン(三人戦隊の『太陽戦隊サンバルカン』’81)」なアイデアもあったらしい)。
主人公・五代雄介(ごだい・ゆうすけ)の「悩まないキャラクター」も、すでに形骸化した「改造人間の苦悩」に対するアンチテーゼ回答として模範的すぎるものの、方向性の正しさは評価したい。付け加えるなら主人公像の変化も顕著であり、見た目一発の二枚目イイ男系から、側にいて退屈しない二枚目半のコミュニケーション男系への移行という、サブカル(チャー)チックな分析にも(とりあえず)対応していると言えよう。
関連したところで、一条刑事をはじめ科警研の榎田ひかり(えのきだ・ひかり)や司法解剖の椿秀一(つばき・しゅういち)や沢渡桜子(さわたり・さくらこ)ら主要登場人物たちの滅私的・献身的な人間群像も、もはや単純な使命感の次元では収まらず、さらに根源的なブルセラ学者ならぬ社会学者・宮台真司言うところの「強度」の概念(編註:意訳すれば、意味や見返りを求めない好きだからする享楽も含む行動や、その際の充実感や高揚や濃密さ)でなければ説明しきれないように思う。その意味では題材としての批評的現代性を感じさせないわけではない
(ただ、それは元々刑事ドラマ『踊る大捜査線』の劇場版大ヒット(’98)以降、なぜかアニメ系でメインストリームとなりつつある傾向性でもあった。『逮捕しちゃうぞ』劇場版(’99)やロボットアニメ『地球防衛企業ダイ・ガード(’99)』など)。
対する悪の怪人集団・グロンギについては、殺人そのものを目的とする「理不尽な殺戮者の群れ」として設定することにより、疑問を差し挟む余地のない悪の存在を強烈に印象付けた(いつ我身が巻き込まれるかもわからない無差別テロの恐怖というのは、多少やりすぎなくらい生々しい感覚ではないかとも思うが……)。ここにおいて悪の組織の手段と目的とに逆転現象を生じさせ、その存在に一貫した合理性を持たせようとしていることにも触れておこう。
設定に対する検分まで終えてみると、『クウガ』における「新しさ」と「リアル」とは、どうやら作劇・演出など概して方法論のレベルで試みられていることが改めて認識される。いわく「今までにない、ウソがない」ドラマ。それはある意味で結実したとも言えるが、非常に人(視聴者)を選ぶ出来であることも確かだろう。
その方法論とは、ツボを押さえた設定の「ツボ」をワザとはずすという(自虐的な印象すら感じる)手の込んだものだが、実体として、これほどあからさまに消極的なベクトルを肯定した例もあまり聞かない。不自然さを極力排除した結果だという言い分にも理を認めたいが、バランスを失している感はどうしても拭えない。
クウガの色違い二段変身の各フォームの颯爽とした雄姿に、視聴者は当然のことながら華麗にして豪壮な活躍場面を期待するはずだ。そこで“ワザと”爽快感のないアクションを展開されてはストレスが溜まるだけだろう(特にクウガ・タイタンフォームの必殺剣技が“ただ歩いてきて突き刺すだけ”というのは拍子抜けにも程がある。やはり、RXバイオライダーの必殺技・ソード逆袈裟斬り(スパークカッター)みたいなインパクトのある大技を見せてほしい気が……)。
(後日付記:第10話の対メ・ギイガ・ギ戦では「BGM差し替え」が行なわれたとのこと。渡辺勝也監督は本来、ラストの戦闘シーンに主題歌を挿入。初登場のクウガタイタンフォームがゆっくり前進しつつ敵怪人メ・ギイガ・ギの光弾を被弾するタイミングが逐一主題歌の曲調に合致するので好事家はお試しを。本作に関してはベタを嫌った高寺氏の意向で差し替え。渡辺監督はもちろんご不興だったとか? 関連記事:『仮面ライダークウガ』#10「熾烈」 〜BGM差し替え真相分析!(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001110/p1))
また、ドラマ的な観点から言えば、登場人物の行動動機が総じて希薄であることも否めない事実であり、この傾向は一条らサブキャラクターよりもヒーロー・五代雄介により顕著であることを指摘しておくべきだろう。不自然に見えない人物描写にこだわるあまり、ただ単にあまりにも完成された「いいひと」な存在に過ぎず、却(かえ)ってそれ以上の成長や肉付け、説得力が実作品に表出してこないというのは、深刻なジレンマだろう。
さらにグロンギの行動目的が画一化されたために、エピソードの選択範囲が極度に狭まった。たとえばクウガVS怪人というシチュエーションで話が作りにくくなった(それだけでは全く間が持たなくなった)ため、逆に「事件」そのものが完全に毎回同じようなルーティンと化して、主要登場人物やゲストたちの「人間ドラマ部分」と「分離」しているのも問題である。
怪人出現 ― クウガ出動 ― 撃滅 という図式にまで各話(2話完結でも)が単純化されてしまうと、それはもうすでに出来事の羅列にすぎない。(もっとも、この出来事の羅列の感覚は「語られざるグロンギ怪人たちとの死闘」という件の公式裏設定において、すでに行き着くところまで行き着いてしまっている感もあるのだが……)
「あえて見せない・語らない」というスタンスによって作中での出来事を如何に不自然でなく見せることができるか? そのためにドラマそのものすらを犠牲にしてまで、追求した「新しさ」と「リアル」。
それは、必要不可欠と思われていた要素をどこまで削ぎ落としていっても、「変身ヒーロードラマ」が成立し得るかを試す無謀な挑戦・実験へと、いつしか変貌してしまったような気がしないでもない。
ただ、「リアル」という点に関して言えば、今まで見てきた設定・作劇よりも、むしろ映像・演出のほうに可能性の萌芽を感じる。それはなにも、鳴り物入りで導入されたハイビジョン撮影形態に便乗して言っているわけではない。ビデオ質感に違和感を覚えないわけでもないが、本質的には見続ければ“慣れる”程度の問題でしかないことも事実だ。
もっとも結果的にもたらされた作品の空気感に言及するならば、『仮面ライダー』の文脈で語ることの方にあまり意味がないと思われるほど、異質さが際立っている。例えとしてあまり正確ではないが、日本テレビ土曜9時(土9)や、かつてのフジテレビ木曜8時(『木曜の怪談』’95〜97)、テレビ朝日月曜8時(『月曜ドラマ・イン』’93〜00)か深夜ドラマに近いテイストと言うべきか。ある意味、『クウガ』がもしもそれらの時間帯から生まれた作品だったなら、筆者はおそらく好感を禁じ得なかっただろう。
……いや、そろそろ本当に指摘したいことを言おう。
『クウガ』が獲得した「リアル」の本質。それはヒーロと異形の怪人の対決という「非現実」の側にあるはずの出来事が、完全に「現実」の側に飲み込まれてしまっている点にこそある。
非日常と日常とのボーダーの崩壊といったニュアンスさえなく、初めから、至極あたりまえに、普通の事件と同等に受け止められているのだ。
例えて言えば、
「気紛れにふと家の窓から外の景色を眺めてみたら、近くの公園でクウガとズ・ザイン・ダが死闘を展開していた」
ことにあまり驚きもせず、なにか他のことを考えつつ戦いの行方を見守る…… といった日常風景。
そんな世界観を、「映像感覚のみで」作り上げてしまったことこそが、本作の真骨頂なのかもしれない。
このあたりはもう少し詳しく分析する価値がありそうなので、この続きは次の機会に回すことにしたい。キーワードは『シルバー仮面(’71)』。(なぜ?)
『仮面ライダークウガ』 〜前半評⑨ 光を継ぐもの
(文・旗手 稔)
――平成ウルトラマンから『仮面ライダークウガ』へ
歴史に「たら、れば」は無い。しかし、もしも『仮面ライダークウガ』(00)が当初の予定通り『ウルトラマンガイア』(98・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19981206/p1)の後番組として「毎日放送」(TBS系)でオンエアされていたとしたら、いまの日本特撮を巡る状況はどうなっただろうと思う。
凋落傾向が続く近年の日本特撮にあって、『クウガ』の安定した視聴率、関連グッズの好調な売上げは注目に値するものだ。スポンサーが仮面ライダーというキャラクターへの投資に難色を示したため、『クウガ』は結局「テレビ朝日」で制作されることになったと筆者は聞いている。番組自体の製作費はもちろん、「毎日放送」の土曜夕方6時という放送枠を確保するだけでも実は結構な金額がかかるのだそうだ。
スポンサーサイドの認識では、ライダーの「商品」としての値うちは既に低いものとなっていた。つまり「ライダーは売れない」。そうした経緯があったうえでの今回の復活劇。作り手がライダーのリメイクにこだわった背景には98年に物故された原作者・石ノ森章太郎へのリスペクト、という意味合いも当然あっただろう。99年に『ボイスラッガー』、『燃えろ!! ロボコン』と石ノ森作品の実写テレビ化がたて続けに行われたことも追い風にはなったかもしれない。
だが、これが『ウルトラマンガイア』の後番組として当初想定された企画だったことに注目するなら、ライダーの制作者が平成ウルトラの「いいとこどり」を目論んでいただろうことは容易に想像される。
『仮面ライダークウガ』はライダーシリーズの現代的リメイクと言うよりは、現代思想・ポストモダン的に称するならば、平成ウルトラシリーズを〈脱‐構築〉したものという感触が筆者にはある。ヒーローが「複数の形態」に変わる設定は「変身スーツ」という大ヒット衣料商品を生み出した平成ウルトラマンのそれに明らかに「あやかった」ものだ。二段変身自体はライダーシリーズでも『仮面ライダーBLACK RX』(88)のロボライダー&バイオライダーにおいて既に試みられているとは言え、いまの視聴者は『RX』という番組の存在自体知らないだろう。
超変身だけでは無い。現代に蘇った古代文明、警察組織のリアルな描写、そして「やおい」を過剰に意識したキャラクター。いずれも平成ウルトラシリーズからの発展・継承と受け取れる。『クウガ』なんて所詮は平成ウルトラのパクリ、などと嫌味ったらしいことを言いたいわけでは無い。筆者の個人的な印象ではむしろ『クウガ』のほうが平成ウルトラよりも「親しみやすい」と感じるくらいだ。
96年の秋に始まった『ウルトラマンティガ』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961202/p1)は、80年代の特撮論壇で信じられてきた
「マニアが本当に見たいと思っている作品を作れば、日本特撮は再生する」
との理念を忠実に実践するものだった。
「マニアが見たい作品」、それはありていに言えば「ウルトラシリーズの良さを今の技術、今の感覚で作ったもの」だ。大人の鑑賞に耐え得る『ティガ』のシリアスでハードなストーリーは「こういうウルトラマンが見たかった!」と熱狂的な崇拝者を生み出した反面、シリーズ全体に漂う「難解さ」が『ポケットモンスター』(97)などと比べれば一般視聴者からはかえって敬遠されるという皮肉な結果を招いてしまった。
『ティガ』の続編『ウルトラマンダイナ』(97・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971209/p1)では前作の反省を踏まえ、低年齢の児童を意識した「分かりやすい」話作りへと内容の軌道修正が行われたものの、それが視聴率には十分に反映されなかったため円谷プロは「子どもたちがこのままウルトラマンから卒業してしまわないよう」世界観を刷新した『ウルトラマンガイア』で『ティガ』以上に「難解」なドラマを繰り広げていった。
『ウルトラセブン』(67)のアンチテーゼ編もかくやという容赦無い人間批判、ことに最終回で描かれた「人間中心主義からの脱却」は大映の『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』(99)と並び国産怪獣映画のひとつの到達点とも言えるものだ。しかし作り手の願望とは裏腹に視聴率のほうは思ったように伸びず、平成ウルトラシリーズは『ガイア』の完結をもっていったんの休止を余儀なくされる。
刑事ドラマの方法論で作られている『クウガ』も平成ウルトラ的な一種の「難解さ」は孕(はら)んでいる。ただ、平成ウルトラシリーズのいくつかの作品に見られる「やり切れないエンディング」――視聴者を暗たんたる気持ちにさせるまるで救いの無い結末――と、ヒーローの頼もしさが印象づけられる『クウガ』の「爽やかなエンディング」を比べた場合、「後味の良さ」という点では断然『クウガ』に軍配が上がることは確かなのだ。
平成ウルトラのいくつかの作品の「やり切れない幕切れ」はあたかもシリーズ全体のトーンがそうであるかのような「錯覚」を視聴者に与えてしまうほどの深い絶望を湛えている。たとえばSF性や怪事件の描写よりも人間ドラマや登場人物同士の葛藤を追求した第2期ウルトラシリーズ(『帰ってきたウルトラマン』(71)〜『ウルトラマンレオ』(74・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090405/p1))が一部の特に印象的なエピソードのため、すべての話がさもそうであるかのような「錯覚」を一部の特撮マニアのあいだに近年招いてしまったように。
端的に言って、マニアはともかく多くのひとは「クラい」話を好まない。「難解なこと」と「クラさ」を抱き合わせにしてしまったところに、平成ウルトラの〈子ども番組〉としての「弱み」はあった。そして『クウガ』は後続であることの「強み」を生かし、そうした平成ウルトラの長所/短所をうまく咀嚼して番組の中に取り込んでしまったのだ。
『クウガ』がライダーシリーズの常套句と言うべき「改造人間の苦悩」を手放したことは、平成ウルトラ的な「クラさ」から距離を置こうとするなら当然の選択だった。
東映の平山亨(ひらやま・とおる)P(プロデューサー)が参加した仮面ライダー旧1号から10号『仮面ライダーZX(ゼクロス)』(84)までのライダー――これを“第一期”と“第二期”ではなく、まとめて“第一期ライダーシリーズ”とする見方もある――に強い思い入れを持つマニアであれば、復活したライダーは「ライダーシリーズの良さを今の技術、今の感覚で作ったもの」であって欲しかったと言うかもしれない。
確かに、「苦悩」しないクウガは従来のライダー像からはあまりにもかけ離れており、ライダーのストイック(禁欲的)なたたずまいに心ひかれたファンが不服を唱えたとしてもそれは当然という気は正直する。
ただ、こういう見方も一方では出来るのではないか。つまり「過去の何度ものリメイクで手垢まみれとなっている「ライダーシリーズの良さ」に作り手は今更こだわる必要を感じなかったのではないか」、と。
東映の吉川進Pはじめ新しいスタッフによって作られた87年の『仮面ライダーBLACK(ブラック)』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001015/p2)は「ライダーシリーズの良さを今の技術、今の感覚で作った」最初の作品と言えるかもしれない。79年の『仮面ライダー(新)』(通称:スカイライダー)でもそうした点は多分に意識されていたには違いないが、「技術」のほうは兎も角(ともかく)、「感覚的」には「いつものライダー」から依然抜け切れてはいなかった。
テレビシリーズとしては7年ぶりの復活ということで芸能プロダクションへの声かけのみならず一般誌多数でも主要キャストの公募広告を載せてまでオーディションが行われる力の入れようだった『BLACK』では、「悪の首領の後継者候補がヒーローになる」というかつて無い大胆な設定が採用されている。言うまでもなくこれは、仮面ライダーの持つアンチ・ヒーロー性(※仮面ライダー本来の使命は「悪の手先」となることだった)を更に推し進めたものだ。
政財界を手中に収めている暗黒結社ゴルゴム、「バッタ男」の中間形態を経てのBLACKへの変身等、従来の作品とは一線を画するディティールへのこだわりで「こういうライダーが見たかった!」と番組開始当初こそ高い満足感を与えてくれた『BLACK』ではあったが、悪役でレギュラー出演していた黒部進(初代『ウルトラマン』(66)の主人公ハヤタ隊員役)が退場した後はすっかり「いつものライダー」(いつもの東映の等身大・変身ヒーロー番組)化してしまう。
『BLACK』の野心的な設定も一年という長丁場をもたせるにはいささかシンプル過ぎたのかもしれない。
もちろん、「怪人造形のリアルさ」(同一種族の怪人が群れをなして登場する第1話、犬にスーツを着せてヒョウ怪人の敏捷性を表現した第2話等の挑戦的な試みは特記しておきたい)や、「兄弟同様に育ったふたりの青年の殺し合いを描く終盤のハードな展開」といった『BLACK』ならではの魅力は決して見逃されてはならない。だが、「リアル造形の怪人」なら『ガイバー』(91・オタク系マンガ誌「月刊少年キャプテン」で連載された『強殖装甲ガイバー』(85)のハリウッド実写映画化)及び続編『ガイバー ザ・ダーク・ヒーロー』(94)のゾアノイドに尽きるという気はする。
その『ガイバー』の強殖(変身)シーンに触発されたか、特殊メイクによる「リアルな変身」をウリにしたのは特撮OV『真・仮面ライダー序章(プロローグ)』(92)。ここでは〈子ども番組〉としてのライダーが曖昧にしてきた「改造人間の恋愛問題」にも正面から取り組まれている。
『真』には『鉄甲機ミカヅキ』(00)の雨宮慶太(あめみや・けいた)がスーパー・ヴァイザーとして参加しており、雨宮はこの後『仮面ライダーZO(ゼットオー)』(93)、『仮面ライダーJ』(94)と二本の劇場版ライダーを手がけることとなる。雨宮ライダーでは「ライダーへの変身」や「改造人間の悲哀」には積極的な関心は払われず、ワイヤーワークや人形アニメを駆使した立体的な「怪人バトル」のイメージにむしろ新味を感じさせた。「ヒーローと子どもの結びつき」にはどこか「少年ライダー隊」の雰囲気も漂っている。
これら一連の作品を通じて「ライダーシリーズの良さ」は既に描き尽くされている。「同じこと」の繰り返しになるくらいなら「新しい試み」を見せて欲しいと個人的には思う。「伝統」や「保守」を否定しているわけでは無い。前途有望な若者が「改造人間」にされたうえ、恩師殺害の「濡れ衣」を着せられる旧1号初期編の宿命的ドラマは泣けるし、好きだ。肉親の「復讐」のため悪と闘うダークヒーローとしてのV3、日本人社会から「抑圧」されるアマゾンの姿にも強く心をひかれるものがある。
いっけん「革新」に思われる『仮面ライダークウガ』にしても、ヒーローの正体を知らないひとびとにとっては彼も未確認生命体の「同類」でしか無いというシニカルな視点――ヒーローを「異形の存在」として捕らえている点では、彼もライダーの「血統」をやはり受け継いだ存在なのだ(怪獣と戦うヒーローに初遭遇した防衛隊が懐疑のまなざしを向けた『ウルトラマンG(グレート)』(90)、人類の守護神・怪獣ガメラが怪獣ギャオス以上に危険な存在と認識される『ガメラ 大怪獣空中決戦』(95)と、こうした「すれ違い」描写は「リアル」志向の作品ではいたってポピュラーなものであり、『クウガ』の場合も或るいはそちらとの関連において本来語られるべきものかもしれないが――)。
しかし、ライダーで描ける「世界」とは果たしてそれだけなのだろうか?
「ポジティブな改造人間」像を作り出し直前作スカイライダーを凌ぐ人気を当時獲得した『仮面ライダースーパー1(ワン)』(80)、「クルマに乗るライダー」こと『仮面ライダーBLACK RX』、そして「大自然からの使者」という「伝統」に依拠しつつも「巨大化」という新機軸を導入した『仮面ライダーJ』。作品個々の成否は兎も角(ともかく)、シリーズとして考えるならこれくらいの「幅」はあっても良かろう。もちろん、「時代の変化」も考慮に入れたうえでの話だ。
『クウガ』の敵はかつての組織に見られた「政治性」から完全に切り離されたところに位置している。「いま」を生きる視聴者にとっては「世界征服」よりも「快楽殺人」のほうが遥かに「リアルなもの」に違いない、と作り手は考えたのだろうか。マスクのモチーフがクワガタになったのも「いま」の子どもたちの嗜好を意識したうえでの判断だったと言う。
そんな『クウガ』の視聴率は角川書店のアニメ誌『ニュータイプ』に毎号掲載されているTVアニメ・特撮番組の視聴率表によればついに11%に到達した。これは平成ウルトラシリーズ(https://katoku99.hatenablog.com/archive?word=*%5B%CA%BF%C0%AE%A5%A6%A5%EB%A5%C8%A5%E9%5D)が関東エリアでは一度も記録することのなかった数字だ(製作局・毎日放送の地元・関西エリアでは『ウルトラマンティガ』が10%台を4回、最終回のみ12%を達成しているが)。
肝心のストーリーははっきり言って物足りないが――ドラマ的には同年度の『戦隊』シリーズ『未来戦隊タイムレンジャー』(00・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001102/p1)のほうが心情描写や巧緻な作劇で面白い――本作の主眼が「状況を描くこと」にあるとしたらそれも致し方あるまい。だとしたらもう少し「密」な描写が欲しいとは思うが。
とまれ、2000年下半期に控えている二大特撮大作、巨大ロボTV特撮『鉄甲機ミカヅキ』と怪獣映画『ゴジラ×メガギラス』の成績次第では“怪獣の時代”は早晩幕を下ろすことになるだろう。その場合、グロンギの政権交代では無いが日本特撮の主流は今後“怪獣”から“怪人”へと移ることになるのかもしれない。
(本項は2000年7月17日(月)までに執筆された記事です)
『假面特攻隊2001年号』「仮面ライダークウガ」関係記事の縮小コピー収録一覧 〜序盤の反響
・読売新聞 2000年2月6日(火) TV覧読者投稿・放送塔 暴力シーン多くてがっかり 〜主婦の意見。マニア向けなら深夜に放映すれば
・読売新聞 2000年2月19日(土) TV覧・放送塔から 暴力・残酷シーンへ反響相次ぐ
・読売新聞 2000年4月26日(水) 情報ボックス 仮面ライダークウガに賛否 〜製作者も発言
・日刊スポーツ 20000年4月8日(土) 野上彰が出演「仮面ライダークウガ」
・読売新聞 2000年10月17日(火) 質問箱
・読売新聞 2000年12月6日(水) 伸彦役 葛山信吾 〜「渡る世間は鬼ばかり」伸彦
・読売新聞 2000年12月9日(土) 土曜芸能 燃えるライダーファン 15代目「クウガ」映画化へ署名運動 〜主に主婦が中心
『假面特攻隊2002年号』「仮面ライダークウガ」関係記事の縮小コピー収録一覧 〜最終回賛否!
・読売新聞 2001年1月16日(火) TV覧読者投稿・放送塔 クウガ登場せずがっかり
・読売新聞 2001年1月24日(火) TV覧読者投稿・放送塔 大人も見ている「クウガ」
・読売新聞 2001年1月28日(火) TV覧・放送塔から 「クウガ」ドラマ仕立てに賛否
・読売新聞 2001年2月7日(水) TV覧読者投稿・はがき通信 私も夢中に
[関連記事] 〜80年代の特撮論壇で信じられてきた「マニアが本当に見たいと思っている作品を作れば、日本特撮は再生する」との理念
[関連記事] 〜タイプチェンジ・武器を使う元祖ライダーへの風当たり
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https://katoku99.hatenablog.com/entry/20220116/p1
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