仮面ライダーディケイド#7「超トリックの真犯人」 〜「龍騎の世界」編・タイムパラドックス解析!
『仮面ライダー龍騎』最終回 〜終了賛否合評1
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せめて、ライダーらしく ――『仮面ライダー龍騎』TVシリーズ総括――
* ヒーロー神話の解体
詰まるところ、アクションを最大の見せ場とする東映製の児童向け通俗娯楽作品群が、「勧善懲悪」「反戦平和」「友情団結」「平等博愛」といった“道徳的なテーマ”を繰り返し描いてきたのも、実は「狂躁的な戦闘描写」に対する“エクスキューズ”に過ぎず、その“便宜的に過ぎる型通りの描写”はとっくの昔に形骸化しており、そういった弊を排して、特撮ドラマの「新しいスタイル」を模索することが、近年の東映実写キャラクター番組を担当する中堅及び若手プロデューサー達に共通した課題でした。
そういった風潮の中で [荒唐無稽なアクションの排除] と [徹底したアクチュアリティー(現代性)の導入] によって、特撮番組の〈大人向け〉への換骨奪胎(かんこつだったい)を図ろうとしたのが[高寺成紀(たかてら・しげのり)]プロデューサーによる『仮面ライダークウガ』(2000・https://katoku99.hatenablog.com/archive/2000/11)でしたが、〈ドラマ性〉を重視する余り、〈娯楽性〉〈活劇性〉がバッサリと切り捨てられてしまい、シリーズ終盤(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090907/p1)に至っては、まるで陳腐な反戦プロパガンダ作品の如く、陰鬱(いんうつ)で、後味の悪い、観念論の空転に陥ってしまったのは、私的にはマコトに残念なことでした。
翌年、『クウガ』の映画化を期して劇場用作品の企画部門に転出した高寺氏の後を引き継いだ[白倉伸一郎]プロデューサーが、『クウガ』の長所・短所を吟味したうえで企画した『仮面ライダーアギト』(2001)は、前作では無責任なまでに無頓着に描かれていた「楽観的な共同体幻想」=“なかよしクラブ”的なキャラクター・シフトの概念を全面的に否定し、人間関係の根本を「対立」として捉えて、価値観の異なる複数ヒーローの確執・敵対関係をベースとした「群像劇」をメイン・プロットに採用しました。
各々(おのおの)にモチベーションを異にする3人のライダー、及びその周囲の人間たちが繰り広げた 「心理的な相剋」〔井上敏樹・脚本〕 と 「古典的なヒーロー活劇」〔田崎竜太・演出〕 は、〈善〉対〈悪〉といった二元的な観念論を超越した[多元的な対立の構造]を形成し、[心理描写]=「人間ドラマ」 と [活劇性]=「アクション」 を見事に両立させ、充実した〈闘争の物語〉を現出させました。
『クウガ』に著しく欠けていた娯楽性を回復したことで『アギト』は前年を上回る好評を博すに至りましたが、当初は対立していた3人のライダーが、共に手をとり合ってハッピーエンドに落ち着いた結末が、いかにもステレオタイプであったことを反省したのでしょうか、次なる『仮面ライダー龍騎』(2002)では、ライダー同士は決して和合することなく、徹底した「背徳」「不信」「孤独」の連鎖による《殺し合い》へと、白倉氏のコンセプト・メークはエスカレートしてゆくことになります。
結句、『龍騎』の作品モチーフの中核は、13人ライダーが展開する「命の奪い合い」の駆け引きに絞り込まれ、唯一、主人公だけは類型的な“善人の中の善人”として設定されましたが、その他の大半の登場人物は「冷酷な個人主義者」や「攻撃的な人格障害者」として描かれ、一般視聴者(大衆)の眼に“魅力的”に映ったのは、彼らの〈義侠心〉や〈騎士道精神〉といった「英雄的な人格」ではなく、〈ズルさ〉〈抜け目の無さ〉〈生き残る為の工夫の才〉といった、極めて「プラクティカル(実際的)で、エゴイスティック(自己中心的)な資質」だったようです。
正々堂々たるスポーツマン・シップ尊重の精神を嘲笑うかのように、シビアに「他人を蹴落とし、己だけが生き残る」手段を追及し、どんなに卑怯で非情な手段を講じても恬(てん)として恥じない――ガチンコ系の格闘技やサッカーみたく、アグレッシブ(攻撃的)な闘争本能が必須の資質とされる“戦闘的”なスポーツが大衆の人気を集めている昨今、いつの間にか、アンフェアな反則行為も「積極性」「したたかさ」として、肯定的に認識されるようになってしまったのですね。
「強い者だけが生き残る」「利用できる奴は利用し、邪魔になる奴は蹴落とせ」といった、[人間に対する冷たい視線]に徹した『仮面ライダー龍騎』の基本コンセプト=「ポジティブな排他性」は、物の見事に〈時代〉にマッチした、と言い得るのではないでしょうか。
(本来のメイン・ターゲットであるべき低年齢層の視聴者たちが、的確にそれを理解していたかどうかは別にして……)
かくて、従来の特撮作品が長年培ってきた「人間賛歌」的なテーゼは呆気なく風化して、懐かしい“無垢な感触”も失われましたが、それこそが、高寺成紀氏や円谷プロ系の若手クリエイター達(いわゆる“マニア出身者”)とは全く違った方法で[ヒーローの脱神話化]を図ろうと目論んだ“クールなビジネスマン”白倉伸一郎プロデューサーの「真意」だったのかも知れません。
* シラクラ・ドクトリン
そもそも、『龍騎』に於いて白倉氏の〈主観〉が突出してしまった原因の根本は、脚本家・小林靖子氏の起用によって生じた「誤算」に端を発していると思います。
従来、白倉氏がチーフ・プロデューサーを務めた『超光戦士シャンゼリオン』(1996)や『仮面ライダーアギト』では、脚本家・井上敏樹氏の強烈な個性が、プロット作りを常にリードしていたので、基本設定&脚本構成の面に関する白倉氏の役割は「大まかなアウトライン(基本方針)の提示」に限られていて、氏自らがストーリーの細部に至るまで細かく口を挟むようなケースは稀(まれ)だったようです。
ところが“最も信頼する”井上氏が『アギト』終了後に暫時の休養を要した所為(せい)で、次作『龍騎』の企画の立ち上げに際して、別の脚本家を捜さざるを得なくなった白倉氏は、『星獣戦隊ギンガマン』(1998)と『未来戦隊タイムレンジャー』(2000・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001102/p1)で〈スーパー戦隊シリーズ〉に新風を吹き込んだ小林靖子氏に、その白羽の矢を立てました。
実際、『タイムレンジャー』に於いて発揮された小林氏の「マンネリズム打破」と「ドラマ性重視」の意欲的な姿勢には、“マニア嫌い”を自認する白倉氏をして、十分な成算を予感させるものがあったようです。
が、当時の小林氏としては、『龍騎』がスタートする以前から着手していた『サイボーグ009』(2001)の執筆の方に、より大きなウェイトを置いていた模様で、白倉氏が小林氏に託した期待は早々に裏切られることになります(?)。
『009』の他、数作品との“かけもち”により慢性化した脱稿の遅滞(前年度の井上氏は、白倉氏からのオファーに応えて、他の仕事の依頼を全部断って『アギト』一本に専念している――編註:実際には井上氏もブロッコリー系の美少女アニメ『ギャラクシーエンジェル』(01年)のシリーズ構成など数作品を兼任)に加え、どうしても“感傷的な甘さ”を殺しきれないセンチメンタリズム……比較的早い段階から小林氏との“感覚のズレ”を感じていたと思われる白倉氏は、井上氏の早期復帰を促す一方、脚本のメイン・プロット立案に関わる決定権を自身の掌中に収め、小林氏はそれに従う――という、中央集権型の新体制に改めました。
上記の経緯により、『龍騎』は事実上「白倉氏の作品」と化し、氏自身の潜在意識=[現実の世界に対する冷めた諦観(ていかん)]がシリーズ中盤頃から次第に顕著になり始め、最終的には、井上氏流の〈アイロニー〉と〈ニヒリズム〉と〈激情〉が支配していた前作『アギト』とは一味も二味も違った、ユーモアの欠片(かけら) さえも見出せないほどの“殺伐”とした雰囲気を漂わせる、異色のドラマツルギーに至ったのです。
(かつて“残虐な暴力描写”と“酷薄非情のヒーロー像”で映画界を席巻した〈マカロニ・ウェスタン〉のテイストを『龍騎』のコンセプトの中にビミョーに感じとっていたのは、私だけでしょうか?)
* 帰ってきた井上敏樹――ゾルダ参上
本作の主人公〔城戸真司(きど・しんじ)/仮面ライダー龍騎〕(通算第2号)のこれ見よがしに“献身的な”ヒーロー像には、五代雄介(仮面ライダークウガ)のキャッチフレーズ=「みんなの笑顔のために」に一脈通じるものがあり、小林脚本による第6話までの初期エピソード群は、『クウガ』への退行ムードをプンプン匂わせていました。
ライダー対ライダーのトーナメント戦(又はリーグ戦)が縦横無尽に繰り広げられる“『機動武闘伝Gガンダム』(1994)”的なバトル・ストーリーを期待していた私には、当然、皆目面白くありませんでしたが、その思いは白倉氏も同じだった(?)らしく、井上敏樹氏がカムバックした第7〜10話〔北岡秀一/仮面ライダーゾルダ〕(通算第4号)登場編では、それまで小林氏が描いてきた〈天使のような少年〉=真司クンの価値観を一気に覆してしまうような、インモラルな新ライダー像が提示されることになります。
「俺は人間の“欲望”ってヤツを愛している。人として生まれたからは、すべての欲望を満たしたい」
ゾルダに変身する自称・スーパー弁護士〔北岡秀一〕は、盲目的・衝動的・情緒過多的な行動パターンを無為に繰り返す〈青二才〉の真司とは対照的に、明確な目的と動機を有し、論理的・合理的に行動する〈完成された人物〉として登場しました。自分とは全く異なる思考様式をもつ北岡に対して素直な好奇心を抱いた〈少年〉真司は、その“我が道を往く”ライフ・スタイルに魅了されて、次第に〈大人〉の風格をもつ北岡に惹かれていきます。
されど、黒岩省吾(暗黒騎士ガウザー/『シャンゼリオン』のライバル)以来、この種の「自信過剰のナルシスト青年」達は、一見“優雅な外見”の裏に“屈折した内面”を隠し持っているのが井上キャラの常。北岡もまた、〈傲慢〉〈唯我独尊〉〈拝金主義〉の権化に過ぎず、その“下劣な”本性は、真司にも早々に見抜かれて、愛想を尽かされてしまいます。(それもまた、井上脚本の黄金パターン)
北岡と真司の[人間性の対照]が極めて端的に描出された第7〜10話は、客観的に見ても、その要を得た脚本構成力に於いて、3人の主人公=〔真司・秋山蓮(あきやま・れん)・神崎優衣(かんざき・ゆい)〕の基本的な人間関係(因縁)と心理(動機付け)の描写が浅薄だった第1〜4話と、凡庸な「やられ役」に過ぎなかった〔須藤雅史/仮面ライダーシザース〕(通算第3号)が登場した第5〜6話を、遥かに凌いでいるのは一目瞭然。
「保護者」的な役割を担う新レギュラー=〔沙奈子おばさん〕の登場による真司・蓮・優衣の関係の微妙な変化に加え、“新ライダーの正体は、北岡の腹心〔由良吾郎〕ではないのか?”と思わせたミス・リード、「金色のザリガニ」&「島田奈々子誘拐事件」といった“とってもシャンゼリオン”ぽい〈空騒ぎ〉的な挿話……
等々、非常に凝った構成に仕上がっていて、“最も信頼する”井上氏の復帰を機に『龍騎』の作品世界のベースをリセットしよう――という白倉氏の底意が、明らかに窺え(うかがえ)ます。
特に、主人公達の行動の基盤となる舞台(空間)としての「ORE(オレ)ジャーナル」=〈職場〉と「花鶏」(あとり) =〈家庭〉の描き分けの明確化、及び、新たなるライバル北岡のゴージャスな個性を象徴する[北岡弁護士事務所]の入念な描写には、“仕切り直し”の意気込みが強く現れています。
但し、北岡のキャラ描写に関して完成度を期する余り、不治の病に冒されていて“余命はあと僅か”という事実や、“根は善良で優しい”潜在的な人柄を、この段階で暴露してしまったのは、いくらなんでも時機尚早だったのではないでしょうか?(なんと「吾郎ちゃんとの確執」まで描かれちゃってる!) ここまで描き尽くされては、北岡というキャラは、もう“死ぬのを待つだけ”じゃないですか。
それとも、この時点で、井上氏は、北岡が最終回まで生き残るなんて、サラサラ考えていなかったのかも? ゾルダもまた、短期間で姿を消したガイやインペラーと同様に、ワン・ポイントのキャラクターとして認識されていたのかも知れませんね。
とにもかくにも、北岡&吾郎の“フシギな”主従関係は“類型的な”主人公コンビ(真司&蓮)以上に強烈な存在感を醸し出し、北岡とのカラミが多かった真司は別にして、もう一人の主人公である〔秋山蓮/仮面ライダーナイト〕(通算第1号)を、単に“粗暴”で“厭味(いやみ) な”だけの「第三者」的な立場に蹴落としてしまいました。
さてさて、純真無垢な真司クンをブタ箱(留置場)に放り込まれたうえに、〈裏・主人公〉である蓮をシカトされては、小林靖子氏も黙ってはいられない。
期せずして(或いは、白倉氏の思惑通りに?)、小林氏と井上氏との鍔迫合(つばぜりあい)が始まり、両者が交替で脚本を担当するローテーションの確立によって、シリーズは大きな“うねり”を与えられることとなります。
* 戦え! ダブル・ライター
番組のムードを一変させた[北岡ゾルダ出現]が及ぼした影響力の強さに、メイン・ライターの小林氏は危機感を覚えたのでしょうか、その直後の第11〜12話では [秋山蓮がライダーになった経緯] と [兄・士郎の行跡調査に着手する神崎優衣] が“性急に”描かれ、第1話以来〈真司のリアクション〉としてしか機能していなかった〔秋山蓮〕と〔神崎優衣〕が“初めて”能動的な行動を開始し、その存在意義を強くアピールし始めます。
とりわけ、それ迄は全く経歴不詳だった秋山蓮の〔昏睡状態の恋人=小川恵里を蘇生させたい〕という切実な動機が明かされ、「愛する女の為に己を捨てて戦う誠実な男」という〈小林靖子的なヒーロー像〉がクローズ・アップされたのは特筆すべきことでした。
一方、優衣も、江島教授のダイイング・メッセージによって〔神崎士郎の謎めいた行動の理由は優衣の過去と密接な関係がある〕という重大な〈伏線〉が提示されたお陰で、ドラマの中心的なポジション=「ヒロイン」の座に返り咲くことができました。
続く第13〜14話では、北岡秀一が〈トリック・スター〉として、小林脚本のエピソードに初登場。
北岡は、真司がゾルダの正体を吾郎だと思い込んでいるのを利用して、龍騎の必殺技・昇竜突破をワザと食らった直後、吾郎に“死んだフリ”をさせて真司を精神的に追い込みます。が、真相を知った真司が“怒る”よりもむしろ、吾郎の無事を心底から喜んでいる「無垢な」姿を見せつけられて、逆に北岡の方が動揺してしまいます――
このプロットが、“アダルトな”北岡のキャラを際立たせるために真司の“幼児性”をフルに活用された第7〜8話の井上脚本に対する返礼(意趣返し)を意識しているのは明らかで(?)、今回の北岡は、真司の“天使の如き純粋さ”に圧倒される“不潔なオトナ”に成り下がり、負け惜しみの捨てゼリフを残して、真司の前からスゴスゴと逃げ出してしまいます。
それだけならまだしも、桃井令子程度の女(失礼)に鼻の下をのばして言い寄り、あげくに肘鉄(ひじてつ)を食らってフラれちゃうなんて……や、やめてくれ〜! 北岡のイメージが! あァ情けない。
(小林氏が描いた“プレイボーイ・北岡”のイメージは、通俗的な「安っぽいナンパ男」に過ぎず、井上氏が当初想定した「虚無的な色男」とは、基本的に、まったく別モノです)
このエピソードに限らず、小林氏が描くところの北岡って、自分自身の利己的な行為に対してやたらに内省的で、過剰なまでに饒舌に自己弁護(自己正当化)しようとするのが、戴けません。まさか、小林氏は、井上キャラの象徴である北岡のイメージ・ダウンを“故意に”狙っていたのでは?
(北岡秀一と桃井令子の関係については、『アギト』の[北條透と小沢澄子]みたいな関係に発展させよう、という演出プランもあったかとも思われます……)
また同話には、小林氏イチ押しの〔手塚海之(てづか・みゆき) /仮面ライダーライア〕(通算第5号)も初登場。道義的なモラルで己を律する術を十分に心得た手塚は、真司と蓮を正しい方向へ導こうとする老成した〈預言者〉として描かれ、二枚目ヒーロー達の同性愛的な(?)連帯には目がない小林氏が、自身の得意分野の方向にストーリーを運んでしまおうとした魂胆がミエミエでした。
ドッコイ、そうは問屋が卸さぬ――と、次なる第15〜16話には井上敏樹氏が再登板。
ライダー同士の戦いを諫(いさ)めようとするライアとは逆に、真司と蓮を盛んに挑発する“悪ガキ”〔芝浦淳/仮面ライダーガイ〕(通算第6号)が波乱を巻き起こし、小林脚本では一貫して“意志強固な硬骨漢”“ニヒルなクール・ガイ”として描かれてきたナイト=秋山蓮が、ガイとの対戦の中で、相手に止め(とどめ) を刺せない自分自身に動揺し、意外な「内面の脆(もろ)さ」を露呈してしまいます。
井上氏と小林氏が、これほど、お互いに他方が作ったキャラクターのイメージを崩そうとしたのは、意図的な行為だったのでしょうか? ……ウ〜ム、ライダー同士よりも“ライター”同士の戦いの方が、よっぽど熾烈(しれつ) やんけ〜、と感心しちゃったのは、やっぱり、私だけ?
* “真打ち”登場!――王蛇、襲来
前代未聞の「人格障害の凶悪犯ライダー」として登場した〔浅倉威/仮面ライダー王蛇(おうじゃ)〕(通算第7号)のサディスティックな野獣のごとき〈異常性格〉のインパクトは、ともすれば小林氏の“やおい体質”を引きずって、生ヌルい〈ディスカッション劇〉に陥り気味だったシリーズ中盤のベクトルを強引に方向転換させ、白倉氏が最初の段階で企図(?)していた[人間 + モンスター(獣) = 仮面ライダー]――即ち、仮面ライダーとは“獣(けだもの)のような人間”のことであるという皮肉な図式を、改めて印象づけることに成功しました。
不毛な「憎悪」と「闘争」の連鎖によってのみ成立する“人でなし”のコミュニケーション――それこそが〈シラクラ・ドクトリン〉の発露なのです。
(尚、王蛇=浅倉威は、小林脚本の第17〜18話で登場していますが、その変身前後を『シャンゼリオン』の主演コンビ[萩野崇+岡元次郎]が演じるということで、同作品のメイン・ライターを務めた井上氏が、そのキャラクター創案を自ら買って出たという説もあります。その一方、もともと王蛇は「劇場版」のメインキャラとして設定された――という説もあるようです)
まるで、最強ライダー=王蛇誕生を祝うカーニバル(!!)の如く、生存する6人ライダーが全員集合して、ド派手なバトルを展開する〈超娯楽編〉となった第19話に於いて、その凶悪な「威容」と辛辣な「戦闘力」を十二分に見せつけた浅倉王蛇は、向後のシリーズの行方を大きく左右する“特別な存在”となり、それだけに、放送コードぎりぎりの「触法精神障害者」的な性格描写も、白倉氏の強い意向で強行されました。
が、第18〜19話の試写の段階で[浅倉が人質の少女の側頭部に拳銃を突き付ける]描写に対して各方面からクレームが発生し、浅倉がファミレスで籠城(ろうじょう) する一連の場面から数カットが割愛されたとか。
その後も、浅倉の過激な暴力描写に対しては視聴者からの抗議が殺到したようですが、ご存じの通り、白倉氏は決して浅倉の性格を「軟化」させようとはしませんでした。
されど、頭のイカレた悪党を肯定的に描いて、社会派のインテリぶってみせようなんて“気どり”は毛頭なくて、「悪は強い」 → 「強い者は勝つ」という単純にしてリアルな状況を客観的に提示してみせ、さらに、そのステージ上に在る善・悪の登場人物達の心理・行動を「俯瞰(ふかん) の視点」で捉えて見せる
――即ち、登場人物達の行為・行動の結果について、作り手側は一切の感情移入をせず、すべての判断を〈受け手の主観〉に委ねる(この点、往々にして「悪人」の側に感情移入してしまう傾向がある井上氏のピカレスクな作風とは、多少異なります)――
ということが、白倉氏が標榜した〔ヒーロー番組の新しいスタイル〕であったに相違ありません。
それ故、「善と悪の相対化」は、あくまでも〈手段〉であって〈目的〉ではない。視聴者のひとりひとりが“自分自身のアタマで考えて”登場人物達の行動を検証し、評価の判断を下すべきなのでしょう。要は、観る側(受け手)の“鑑賞眼”の問題なのです。
こうした白倉氏の毅然とした態度は“開き直り”“無責任”とも受け取られかねませんが、もともと同氏はベタな意味でのマニアではないので、高寺氏のように“オタクの教祖様”に祭り上げられたところで嬉しい筈がありませんし、「良心的なTV番組は、子供の情操教育の役に立つ」などという詭弁をハナから信じてはいないようです。
“TV番組・漫画を含めて〈児童向け〉の作品は、すべからく教育的で良心的な内容でなくてはならん”と仰る方もいらっしゃいますが、とんだ見当違いです。
凡そ(およそ)、人間が幼年期に接するお伽話や漫画、特撮、アニメ等の〈物語形式の絵空事〉からもし学びとるべき事があるならば(活劇などがもたらすカタルシスの事はおくとして)、そのストーリーテリング(筋運び)の蓋然性(がいぜんせい)の中に内在する“論理性”であり、数多くの物語に触れることで、幼児は知らずしらずの内に「論理的思考能力」を身に付けてゆくのです。
むしろ、[無制限な善意・厚情によって、あらゆる障害や難題が“都合よく”クリアされてしまう物語]は、無知な児童に「安易な楽観主義」を植えつけてしまう危惧があり、却って、その情操の発育に悪影響を及ぼしかねません。「倫理」「良識」「礼節」等の概念は、本来、実生活に於ける人間関係の中で育まれるべきものでしょう。(そもそも、浅薄なTV番組やマンガに自己の行動規範を左右されるような“お粗末な”人間ならば、もう、処置ナシです)
ですから、視聴者を突き放したような『龍騎』の世界観が提示した「アクチュアリズム」(現実主義)は、別して、高年齢層をターゲットに設定したがゆえの産物ではなく(?)、白倉氏の“ごく自然な”スタンスから派生したリアルな感性であったに違いない、と思われます。(或いは、最初から「対象年齢」など念頭に無かった?)
――とは言え、どう考えてみたって“悪質な犯罪者”に過ぎない王蛇が、その圧倒的な「存在感」と「強さ」故に全ライダーの中で一番人気のナイトに次ぐ高い人気を獲得してしまったのは、白倉氏としても“心外”だったのではないでしょうか。
前号で本誌ライターも書いておられましたが、映画館で王蛇に声援を送っていた子供客の数が意外に多かったのには、私も驚かされました。一昔前には、いくらカッコよくても「悪役」のビルゴルディ(『特捜ロボ ジャンパーソン』1993)や、ブラックビート(『重甲ビーファイター』1995) を声高に応援する子供なんて、ひとりも居なかったのに……時代は変わったものです。
* ライアの復讐×ファムの復讐
プロデューサーと2人の脚本家――シリーズ序盤の紆余曲折を経て、結果的に〈3人のメイン・ライター〉を抱えるような形態に落ち着いた『龍騎』は、白倉伸一郎プロデューサーを頂点とする脚本作成システムにより、「パラレルな視点」と「ディスコミュニケーション」を基盤にした独特の作劇法を確立することになります。
成り行き上、メイン・プロットに対する発言権を持たない〈ダイアログ・ライター〉の立場に甘んじた小林靖子氏と井上敏樹氏が、脇役である〔ライア〕や〔ガイ〕に可能な範囲で独自の“好み”や“遊び”をスパイスとして仕込んだのも、白倉氏に対する“ささやかな抵抗”であったのかも知れません。
とはいえ、小林氏と井上氏が顔を合わせて「全体的なシリーズの流れ」に関して意見を交わすような機会は一度も無かったそうで、それだけに、両脚本家はお互いに、各々の〈お気に入り〉のキャラクターが、他方が脚本を担当するエピソードの中で“不本意なカタチで殺される”ことを懸念していたらしい――
その結果、「よくも俺のガイを殺したな」(井上氏)とか、「そっちこそ、私のゼロ〔=香川教授〕を……」(小林氏)といった遺恨を、双方の間に残すことになったのかもしれません(?)。
いずれにしても、異なった気質・作風を有した2人の脚本家が“恣意的に”生み出した奇嬌なライダー達の競演が[ライダー群像]の設定を膨らませる原動力になったのは、間違いありません。(ですが、その「異質さ」ゆえに、双方が生んだ登場人物達は決して交わることがない平行線をたどった末、ストーリーの進行に伴なって、ライダー達の性質が全般的に“ネガティブな”方向に偏っていったのは、或いは、白倉氏の「誤算」だったかも知れません)
「複数ライダー」の設定がその真価を発揮し始めたシリーズ中盤に於いての最大のトピックは、やはり、夏休みに公開された『劇場版 仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』(2002・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021104/p1)でしょう。
劇場版の脚本が、本来のメイン・ライターである小林氏ではなく、井上氏にオファーされた経緯への憶測は前号にも記しましたが、本当のところは、前年度の『劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4』(2001・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011104/p1)をヒットさせた実績を有する[脚本=井上敏樹] + [監督=田崎竜太]の続投に、東映の上層部が拘ったがゆえのビジネスライクな人選だったようです。
(ここ2〜3年の間、東映としては『バトル・ロワイアル』(2000)以外には大したヒット作に恵まれなかったので、〈白倉・井上・田崎〉トリオによるライダー映画は一躍、「ドル箱作品」的なポジションに祭り上げられてしまった模様)
一方、劇場版との相関という観点に於いて、TVシリーズの展開で興味を引くのは、小林氏の意向によって「浅倉に一生を台無しにされた親友がいた」という設定が追加されたライアが「己の感情を自制して、王蛇に対する報復を拒否し通した」くだりで、これは激情に駆られて王蛇に対する復讐を全う(まっとう)した〔霧島美穂/仮面ライダーファム〕(通算第8号/劇場版)とは完全に対照をなすものであり、TVシリーズは劇場版とは〈異なる結末〉に行き着くんですヨ〜――という「明確な意志表示」だったようですが(?)、そんなコト、その段階で予測し得た一般視聴者がいるハズもなく、それどころかメイン・スタッフにさえ真意(?)は知らなかったらしく、皆まんまと白倉氏にハメられちゃったワケですね〜。
* ライダー・アクション
劇場版公開とリンクして人気がピークに達した第2クール後半に於いて、白倉氏肝煎り(きもいり)の王蛇は、居ならぶ他のライダー達を尻目に番組の「顔」となり、
第17〜19話[王蛇、颯爽と登場]、
第20〜21話[ナイト、王蛇に弟子入りする?]、
第22〜23話[ライアは、王蛇に復讐するのか?]、
第24〜25話[王蛇の過去]
と、王蛇メインのエピソードを連発。
この時点で、本来〈主人公〉であった筈の真司のポジションは、便宜的な〈狂言回し〉(きょうげんまわし)に成り下がり、“ヒーローの資質”として設定された「善なる性質」も、次々に登場してくる新ライダー達の個性(性格の悪さ?)を際立たせる為の「リアクション」という意味でしか機能しなくなり、もはや、誰が“主人公”なのか、分からなくなってしまいました。
この主人公の交替劇を更に助長したのは、スーツアクター[岡元次郎]氏の起用でした。「ヒーローを演じるために生まれてきた男」=岡元氏が王蛇役を演じたことで、他のライダー達はますます影が薄くなってしまったのです。(劇場版『龍騎』のために、あらかじめ春から夏にかけてのスケジュールを空けていた岡元氏を口説いて、そのままTVシリーズに出演させたのも、白倉氏だったらしい?)
岡元氏は、『仮面ライダーBLACK』(1987・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001015/p2)、『仮面ライダーBLACK RX』(1988・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001016/p1)、『真・仮面ライダー 序章(プロローグ)』(1992)、『仮面ライダーZO(ゼットオー)』(1993)、『仮面ライダーJ』(1994)で一貫して主役のライダーを演じ続けてきたJAE(ジャパンアクションエンタープライズ) のエース。
そのアクションの技倆は、むしろ玄人(くろうと)筋で高く評価されており、前年度の劇場版『アギト』のタイトル・ロール=〔G4〕役でライダー役にカムバック、案に違わぬ重厚な演技を披露しています。(残念ながら、今年(2003年)は、6月から7月にかけての岡元氏のスケジュールが舞台演劇の稽古で埋まっていたそうで、『劇場版 仮面ライダー555(ファイズ) パラダイス・ロスト』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20031105/p1)への出演は叶いませんでした)
――ココで、アクション・ファンから『龍騎』に対する“ボヤキ”を一言。
俳優ファンの方々には、大して気にならなかったことと存じますが、『龍騎』の演出上の最大の瑕疵(かし)は、各ライダーの「変身前の俳優のイメージ」と「変身後のキャラクター性」の不一致に他なりません。
わけても、“小柄な”芝浦淳が“ゴツい”ガイに変身してみたり(一応、JAEの『龍騎』参加メンバーの中では最も背が低い[水谷健]氏が、ガイ役を演じていました)、狩猟の嗜み(たしなみ)がある訳でもない北岡がゾルダに変身した途端に“射撃の名人”になってしまう等、いかにも説得力に欠けていて興醒めでした。
(企画段階からレギュラーとして準備されていた3人ライダーの基本設定には、既にデザインの段階で「徒手格闘技の龍騎」「剣術のナイト」「射撃のゾルダ」という戦法&武器の色分け――まるで、素手の鉄・短筒の巳代松(みよまつ)・刀の主水(もんど)の『新必殺仕置人』(1977)トリオみたい?――が為(な)されていたというコトですから、仕方がないのですが……)
もうひとつ、アクション演出の面で、ホントにもぅ、なんとかして貰いたかったのは“変身ポーズ”ですねー。
シリーズ前半に登場したライダー達の変身ポーズは、左手にカードデッキを持っている所為で「右腕のみで表現された、ごく単純なワン・ポーズ」に制限されていて、全然ツマらないヨ〜。そのうえ、初期の6人ライダーに関しては、シザースとライア、及び、ゾルダとガイの変身ポーズが“ほとんど同じ”という手抜きぶり。
実際、アクション監督としてはまだまだキャリアの浅い[宮崎剛(みやざき・たけし)]氏は、かなり早い段階で各ライダーの基本ポーズ・戦闘パターン・必殺技の「描き分け」に行き詰まっていたらしく、王蛇以降に登場したライダーの変身ポーズ&必殺技ファイナルベントは、各々を演じるスーツアクター自身が考案し、それに基づいて宮崎氏が仕上げることになりました。後半に登場したタイガとインペラーの変身ポーズが凝っていたのはその成果に他なりませんが、白眉は、やはり、岡元氏が考案した王蛇の変身ポーズでしょう。
爪を立てた右掌を顔の前にかざした後、素早い腕の屈伸と共に手首を裏返すだけの単純な動作ながら、掌の表情や、腕の角度、手首を返すタイミングなど、微妙な「演技的要素」が必要とされるので、“変身ごっこ”をする甲斐があります。
また、変身直後の王蛇が、右腕を撓(しな)らせて軽く腰を叩く優雅な仕種は、も〜ゥ絶品! 余人には絶対にマネができません。『仮面ライダー龍騎ハイパーバトルビデオ 龍騎VS仮面ライダーアギト』の中で披露された、シャンゼリオンの決めポーズを模した“キザな”ターンにもシビレちゃったね、私ゃ。
(それだけに、同じく岡元氏が演じた〔仮面ライダーリュウガ〕(通算第9号)と〔仮面ライダーオーディン〕(通算第10号/自称第13号)に変身ポーズが無かったのは、マコトに残念でなりません)
ただ、王蛇の必殺技・ファイナルベント=〔ベノクラッシュ〕の必殺キックが“バタ足”状態になっているのは、「バイシクル・キック」(自転車のペダルをこぐように両脚を回転させながらキックする/最近は『チャーリーズ・エンジェル』(2000)のナタリー(キャメロン・ディアス)の必殺技として超有名)の両脚の動きを、特撮CG担当者が誤って解釈しちゃったのではないでしょうか?
* ライダー!! あれ?
ライアが王蛇に殺され(第23話)、王蛇がガイとライアの契約モンスター(メタルゲラス、エビルダイバー)を手に入れた(第25話)以降、暫くの間は、平均的に視聴率が低下する夏休みシーズン(8月)に入ったことも手伝って、メインの4ライダーが決着のつかないルーチン・バトルを延々と繰り返すばかりの“ダルな”エピソードがつづき、物語はサッパリ進展しませんでした。
バトルで敗れても、相手の必殺技・ファイナルベントさえ食らわなければ、死ぬことはない――という〈ゲーム性〉が、そろそろ鼻につき始め、「どうせ、当分の間は、ライダーは1人も死なないだろう」と視聴者にタカを括られてしまったのも、この第3クールの前半あたりの“ヌルい”展開が元凶だったように思います。
劇場版の“カウンター効果”とでも申しますか、一時的にTVシリーズでは満足できなくなってしまい、8〜9月頃の私は、王蛇(=岡元次郎)が登場しないエピソードなどは、ホントに見るのも億劫(おっくう)になっていました。
そんな中で、私の眼を惹いたのは、意外にも、夏休み恒例の「お遊び」的なエピソードの“典型”である第29話と第30話でした。
この2本のエピソードは、内容的には“まるで『シャンゼリオン』のような”しょーもないドタバタ(個人的に、井上敏樹氏の〈ギャグ〉は“アニメ的”なので、実写作品には向いていない、と考えております/例えば、涼村暁や翔一クンの“寒い”ギャグに周囲の人間が凍りつく場面などは、非常にアニメ的なシチュエーションでしょ?)だったのですが、[石田秀範]監督による演出が妙にキマっていて、内容がベタベタだったワリには厭味のないスマートな作品に仕上がっていて、同監督に対して久々に好感を抱いてしまいました。
(第29話の「一つのテーブルを囲んで、汗まみれの真司と蓮と北岡がカレーライスを食べている」シーンが、私のお気に入りです/但し、優衣が容疑者の部屋をシラミ潰しに探るカットの一連は、ギャグのアイディアが稚拙な上に演出も大雑把で、ちょっと戴けません)
余り知られていない事ですが、『クウガ』でメイン監督を務める以前の“本来”の石田監督は、〈コメディ〉志向の強い方でした。平成ライダー枠にて以前、放映されていた『ビーロボ カブタック』(1997)から『燃えろ!! ロボコン』(1999)までの3年の間、コメディ向きに「ヒデ・I」と名乗っていたのもダテじゃない。
(因み(ちなみ)に、『クウガ』以前の同氏にとって、最も愛着があった自作は『テツワン探偵ロボタック』(1998)なのだそうです。〜石田秀範監督の平成ライダー以前の『カブタック』『ロボコン』演出言及記事:『http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001104/p1)
ようやく最近になって高寺氏による洗脳(?)も解けてきたみたいですが、“年間300本以上の映画を観る”という映画マニアの性癖が災いして、凝った映像を作ろうとすると“無意識の内に”以前に観た作品のパクリっぽい画面になってしまう欠点は、まだ自覚されていないようです。(ベタな広角レンズや、どぎついカラーフィルターなどはヘタに濫用すると、どうしても素人臭くなるので、自粛されたし)
* 人のかたち、ライダーのかたち
秋のSP(スペシャル) 『仮面ライダー龍騎スペシャル 13RIDERS(サーティーンライダース)』(脚本=井上敏樹・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021105/p1)では、王蛇やリュウガとは違った意味での“極悪人”=〔仮面ライダーベルデ/高見沢逸郎〕(通算第11号)が登場し、悪人ライダー軍団を率いて大暴れ!
お気に入りの秋山蓮(ナイト) と手塚海之(ライア) を極悪非道の高見沢ベルデに殺された上に、「コア・ミラー」なんてワケの分からない代物をミラーワールドの「謎」の根幹部分に据えた井上氏に、またしてもメイン・ライターのお株を奪われた小林靖子氏は、“これは、イカン!”と初めてマジに考えたそうな(?)。……余りにもピュアな性格に過ぎる真司や蓮などは、もし“主人公”じゃなかったら、とっくの昔に死んじゃっていたかも?
しかも、シザースの台詞=
「(戦うことが)クセになるんですよ。そして、頂点を極めたいと思うようになる!」
が象徴するように、井上氏が創造した悪人ライダー達が戦う動機は、いつの間にか[願望の成就]から[純粋な破壊衝動]に変化してきている―― ならば、私(=小林氏)だって“もっと、もっと強い”ライダーを描こう!(…?)
こうなったら、イカレた王蛇や、こすっからいベルデみたいに、〈心〉を持たないがゆえにメチャクチャ“強い”ライダーを創出してやる。さもなければ、井上氏が生んだ凶悪無残なライダーどもに、私(=小林氏)の可愛い真司クンと蓮が、嬲り殺し(なぶりごろし)にされちゃうよー!!
かくして、“最狂”の王蛇に拮抗し得る「狂気」のライダー〔仮面ライダータイガ/東條悟(とうじょう・さとる)〕(通算第12号)と、権謀術数に長けたベルデよりも怜悧(れいり) でドラスティックな〔擬似仮面ライダー=オルタナティブ・ゼロ/香川英行教授〕の“悪人よりもタチが悪い”独善的な「英雄」師弟コンビが誕生!
……にしても、「例えば、10人の命と1人の命。どちらかだけを救えるとしたら、どちらを救いますか?」なんて、インテリにしては言うことが単純過ぎるで。
(一方的な「正義」をふりかざして、いっさい己の非を省(かえりみ)ることがない香川&東條コンビの暴走ぶりは、独自の強硬路線を突き進むアメリカに対する揶揄(やゆ)かしら? ……というコトは、実際的な問題の解決には何の役にも立たなかった“空想的博愛主義者”の真司クンは“消極的な平和主義国家”である日本の比喩(ひゆ)ですか?)
小林ライダー最後の切り札として登場した東條タイガは、第36話で浅倉王蛇にフリーズベント(金縛り)の不意打ちを食らわせて大金星をあげ、さらに第41話では北岡ゾルダをも窮地に追い込んで、なんと、最有力優勝候補と目されていた海千山千の二強ライダーを連破する快進撃!! 強いぞ、タイガ! イカすぞ、タイガ! ……だけど、味方の仲村クン(=オルタナティブ)まで殺しちゃ、駄目だゾー。
それにしても、タイガの必殺技・ファイナルベント=〔クリスタルブレイク〕って、まんま、『星獣戦隊ギンガマン』の爪で敵をひっかけて四つんばいで走ってひきずっていく戦闘テクニックの応用じゃん。工夫が足りんゾ。(やっぱ、タイガの得意技としては、フリーズベントの方が印象が強い)
尚、擬似ライダー・オルタナティブのマスクは、第31〜32話に登場したモンスター・バズスティンガーの改造(口元がソックリ)。また、「東條悟」(とうじょう・さとる) のネーミングが、余りにも「北條透」(ほうじょう・とおる) に似ているのは、偶然かしら?
* 井上ライダー×小林ライダー
龍騎のパワーアップ(サバイブ化)と、ミラーワールドを閉じようとする新勢力=香川教授一派(タイガ + オルタナティブ)の登場で、「中ダルミ状態」が少しは解消されるかと期待していたのですが、所詮はルーチン・バトルの面子(メンツ) を増やしただけに終わり、30分単位で無意味に区切られる連続ストーリーは相も変わらず単調で、一向にドラマチックな盛り上がりが私的には見受けられませんでした。
延々とつづくライダー達のエンドレス・バトルの様子を窺う〔仮面ライダーインペラー/佐野満〕(通算第13号)が無数のレイヨウ型モンスター・ガゼール軍団を率いて「百鬼夜行」のごときパレードを演じる“引き”のカットにダマされて、すわ、最強最後の新勢力登場か! と、期待した皆さんも多かったことでしょう。
――ところが、実際に姿を現したインペラーは、やたらに腰が低くて、お世辞がウマい〈太鼓持ち〉ライダーでした。ウ〜ム、井上氏の豪快な“ハズしっぷり”に脱帽。
第41〜44話の「インペラー篇」(井上敏樹脚本)では、新参の佐野インペラーが“先輩”ライダー達に取り入ろうとして、喫茶店・花鶏(真司&蓮) 〜 清明院大学401号室(香川&東條) 〜 北岡弁護士事務所(北岡&吾郎) 〜 野宿する浅倉(なんとトカゲを焼いて食ってる!)の下(もと)を順々に訪ね歩くことによって、各派閥間の〈敵対関係〉が改めて浮き彫りにされた上に、単独エピソードとしての完成度も高く(もともと「インペラー篇」の原案は〈秋のSP〉用に準備されていたようで(?)、それだけに話がまとまっている)、久々に見応えのある骨太なドラマとなりました。
わけても、興味深かったのは 「英雄になる為に戦う」タイガ(小林ライダー) と 「おカネの為に戦う」インペラー(井上ライダー) の“好対照ぶり”でした。
13人の仮面ライダーは、[道義の為に戦う者=(龍騎、ナイト、ライア)] と [自分自身(エゴ)の為に戦う者=(王蛇、ゾルダ、ベルデ、ガイ、シザース、リュウガ)] に大別できますが、大抵の場合、前者は小林靖子氏が、後者は井上敏樹氏が創案したキャラクターであり、両氏の性格や作風の相違が、顕著に現れています。
それだけに、小林脚本ではナイトやライア達の“良心”を持つがゆえの「懊悩」や「内面の葛藤」が深刻な主題となっているのとは裏腹に、井上脚本では“もともと良心が無いので悩むこともない”ワル系ライダー達の傍若無人な悪行三昧が「生き生き」と描写されているワケで、詰まるところ、《13人ライダーの戦い》とは、両脚本家の「ヒーロー観」の対立がモロに投影さた[小林ライダー × 井上ライダー]という図式に集約される――という事実が、両陣営の間を渡り歩こうとした“八方美人”インペラーの行動によって明らかにされます。
その意味で、「英雄になる為に」という(表面的には)道義的な動機を有するタイガは(後に、重度の「行為障害者」に成り下がるとは言え)極めて“小林靖子”的なキャラであり、そのタイガが、井上ライダーの典型であるゾルダ&王蛇に
「英雄なんだろ、お前」
と皮肉られながら“半殺し”にされるシークエンス(第43話)は、歴然とした両脚本家のスタンスの相違を端的に体現した、象徴的な場面でした。(むやみに「英雄」を自称する東條悟に対して、〈アンチ・ヒーロー〉の代表格である北岡と浅倉が、強烈な“反感”を抱く描写は、余りにも井上敏樹的)
また、オルタナティブ・ゼロ=香川教授を、いとも簡単に(ドラマ的には、何の脈絡も、盛り上がりもなく)抹殺されたうえに、本来は“過剰なナイーヴさ”ゆえに屈折した心理を抱えていたと思われるタイガ=東條悟(サトちゃん)も、単なる「コミュニケーション不全の精神異常者」――親しくなった者を次々に殺そうとする / 東條悟が香川を殺した真の動機は、香川の妻子に対する愛情=〈家族愛〉への“嫉妬”であったのは明白――に、サラリと書き替えられてしまった小林氏の心中は“穏やかではなかった”と、察しますが……って、考え過ぎ?
それとも、インペラー&タイガを自家薬籠中のドラマツルギーに取り込んで、十八番の「戦士の絆」の物語を展開したかと思いきや、これまた十八番の「裏切り」で幕を引いた“正調・井上節”に拍手喝采を贈るべきでしょうか。しかも、今回は、タイガがインペラーを殺そうとする以前に、タイガを自分のボディガードにして利用しようと考えたインペラーの方が、先にタイガを心情的に裏切っていたという“二重構造”を有する裏切りのドラマでした。
つまり、何の打算もなく、負傷したタイガを助けて看病することができた貧乏時代のインペラーの方が、リッチになって自分自身の“保身”のことばかりを考えるようになってしまったインペラーよりも、遥かに幸せだったのでないか? ――という、シニカルな教訓話としての構造も内蔵していたワケです。
味方だと信じていたタイガの必殺の爪=デストクローの痛撃を食らったインペラーは、“最も親しくなった友達を独占する為に”殺そうとするタイガの異常な思考様式を理解できずに
「ナニ考えてるんだ〜?!」
と悲鳴を上げますが、その台詞は、インペラーが自分を売り込みに香川の研究室を訪れた時(第42話)に、タイガから浴びせられたセリフと同一のモノだったという“オチ”も、よ〜く効いています。(それにしても、この〈ディスコミュニケーション〉の徹底ぶりは凄い、と思う)
でも、生活費を稼ぐために「ヒーローの力」を活用するのなら、パーやん(パーマン4号)みたいに「運送屋」でも開業すれば良かったのに……インペラー(“impeller"=推進力)の名が示す「スピード」と「機動力」を運送業に活かせば、商売繁昌まちがいナシ?
それにしても、井上氏は、ホワイトスワン=鹿鳴館香(ろくめいかん・かおり/『鳥人戦隊ジェットマン』1991) 以来、「大富豪の令嬢」「財閥の御曹子」といった“ハイソな”設定がスキですね〜。ベルデとガイも、そうだったでしょ? また、ヒーロー業の代償として「契約金」を要求するというシチュエーションには、ブルースワロー=早坂アコ(『ジェットマン』)という前例があります。
ところで、第41話に於ける北岡は、桃井令子を襲おうとしたタイガと対戦しましたが、この時の北岡が“初めて”他人の為に(令子を守る為に)戦っていた――という事実にお気づきになりました?
続く第42話で
「俺、ライダーとして、前より弱くなってると思うんだよね。いや、病気の所為じゃないよ……それともアレかな、もともと俺は、自分で思うほど、強くなかったってコトかな?」
と、吾郎ちゃんに尋ねた北岡の真意は、タイガに不様(ぶざま) に敗れたことを悔やんでいるのではなく、実は、エゴイズムに徹しきれなかった己に対する自問だったのかも知れません。(劇場版でも、柄にもなくファムを助けようとした所為で、北岡はヒドい目に遭っています。北岡にとって〈良心〉とは、真に厄介な“アキレス腱”に他なりません)
* 英雄死すべし!!――タイガの最期
オルタナティブ・ゼロを含む7人のライダー達の 〔メンタルな駆け引き〕 と 〔フィジカルな闘争〕(2名戦死) がヴィヴィッドに描かれた「インペラー篇」の後、いよいよ小林靖子氏の脚本による〈最終章〉が幕を開けましたが、やっぱり、シリーズ中盤の“中ダルミ”が祟ったのでしょうか、「東絛の死」「劇場版にも登場したモンスター・レイドラグーンの大群襲来」「真司の死」「北岡の死」「神崎兄妹の真実」「王蛇 × ゾルダ」「ナイト × オーディン」……
といった具合に“断片的な”シノプシスの羅列(られつ) に終始してしまい、各々のプロットの結末〔真司 × 蓮、 北岡 × 浅倉の決着、オーディンの正体、小川恵里の蘇生、ミラーワールドの謎の解明〕の描写がすべて消化不良だったうえに、「流しているだけ」という印象の強い“漫然とした”場面構成の弊で、最後のクライマックス=“完結篇”としての盛り上がりを私的には著しく欠いていると見ました。(あァ、先に『EPISODE FINAL』を作っておいて、ホントによかった?)
生き残りライダーも半数を割って終盤を迎えた激闘の渦中で、王蛇とタイガの抗争は〈異常者〉同士だけに泥沼化の一途をたどり、
「どちらがインペラーを殺したか?」
なんて、常人の理解力が遠く及ばぬレベルの張り合いの末に自動車にガソリンをぶっかけて焼き殺そうなんて、いくらなんでも常軌を逸してます―― もう、小林氏もヤケクソですね。レギュラー・ヒーローの中に、殺人狂のパラノイアが2人も存在する特撮番組なんて、恐らく二度と見られないでしょう。(恐るべし、シラクラ・ドクトリン!)
ところで、タイガが予想外に長生きした本当の理由は、『龍騎』関連グッズの主力商品である〈R&Mシリーズ〉にタイガ + デストワイルダーが、〈DX召喚機シリーズ〉にデストバイザーが各々ラインナップに追加されたので、バンダイ側の要請によりクリスマスまでタイガを殺せなくなった――という、至って“営業的な”事情に因るものだのではないでしょうか?(一般的に、死亡したキャラクターのグッズは“生前”に比べて売り上げが落ちる傾向があるようです)
* 正義の為に死す――主人公の死
ダブル・サバイブがレイドラグーンの大群を掃討する場面は、尻切れトンボで終わった『劇場版』に対するエクスキューズか? タイムリミット(優衣の20歳の誕生日)を間近に控えて焦った神崎士郎が、前例のない大群のモンスター軍団を投入してきた理由は、恐らく、余計なライダーを早急に始末して、一刻も早く“最後の一人”を決定したかったからでしょう。
ゾルダと王蛇は姿を現さなかったものの、龍騎とナイトがレイドラグーンの大群に応戦し、神崎士郎の目論見通り、龍騎=城戸真司が討ち死に。なんとまあ、最終回を待たずして主人公が死んじゃいました。
あ〜、これだから、〈平凡な青年〉を主人公にした特撮番組って……結局、「過酷な闘争」と「武力の行使に対する罪悪感」に耐えきれなくなった“心優しい”主人公が、「正義の味方」の重責に押し潰されて“自滅してゆく”という、暗〜い、ジメジメした終局を迎えるハメになっちゃうんですよねー。(変身前の“未成熟”な「青年」と“完全無欠”の「超人」とが、あくまで“別人格”だった『ウルトラマンコスモス』(2001)は、この範疇に非ず)
ま、そういった主人公の性格の問題は抜きにしても、主人公=城戸真司が、最後まで「第三者」的な立場に甘んじ続けた小林氏の作劇法には、大いに問題があります。
井上氏が描いた『龍騎』の2つの結末=
[①自分自身の分身であるリュウガとの対決を余儀なくされる〔劇場版〕] /
[②初代龍騎=榊原耕一の遺志(戦いを止める)と、秋山蓮の願い(俺の代わりに戦ってくれ)の板挟みになりながら、絶望的な戦闘に身を投じてゆく〔SP〕]
に於いて、城戸真司が、従来の「第三者的な立場」を返上して、見事に「物語の中心人物」になり得ていた展開に比べ、“真司がアッサリ死んでしまう”第49話の展開には、そういった作劇上の工夫の痕跡が感じられません。
それだけに“優衣の為に戦う”と決断した真司が、自身の気持ちに反して、無理に戦おうとした末に自暴自棄(じぼうじき) になり果てた態(さま)を眼の当(まのあたり) にした蓮と北岡が共に躊躇(ちゅうちょ) してしまった第47話は、興味深かったのです。
基本的には傍観者だった真司は、ここで初めてメイン・プロットである「ライダーの戦い」の中心に位置付けられたと云うのに、結局は元通りの“おとなしい”真司クンに戻っちゃうんだものなー。(精神的に破綻して血迷った真司の暴走によって、神崎士郎の仕組んだプランが徐々に崩れてゆくような展開も面白かったのでは?)
で、正気に戻った真司は、結局、「ライダーの戦いを止める」という願いを達成できないまま、たった一人の少女の命と我が身を引き替えにして、頓死してしまいます。
もともと、[スーパーヒーロー]としての「万能」の資質・能力に著しく欠ける[凡人ヒーロー]に過ぎなかった仮面ライダー龍騎=城戸真司は、凡人ゆえに“自分なりに最善を尽くしたことに自己満足して死ぬ”ことはできても、“あらゆる試練を克服して、より多くの人々(大衆)を救う”ことはできませんでした。
せめて、この場面で、蓮が「お前に代わって、俺が戦いを止めてみせる!」と翻意していれば、真司の死も有意義なものになり得たのでしょうが、単に「別れ」(死別)の感傷に浸って泣き叫んでいるだけでは、あえて“主人公を殺す”に至った〈作劇上の必然性〉が全く感じられませんし、“少女を守って死んだ真司クンは立派な英雄だった”なんて、わかりきった結論では、ドラマの文脈的には何の解決にもなっていないのです。
真司が[主人公]として為(な)さねばならなかったことは、“苦しい時の神頼み”にも等しい〈ライダーの力〉に依存してでも「願いを叶えたい」という脆弱な心〔=ライダーの力に対する依存心〕を克服してみせることであった筈なのに、最終局面に至っても猶(なお)、“生”に執着し続ける北岡に同情し、「恋人を救う為なら、他人を犠牲にしても構わない」という蓮の“開き直り”に反駁することもできない有様では、1年もかけて物語を紡いできた意味が無いでしょう。凡人ヒーローの“凡人ゆえの限界”を描くことが主眼だった――なんて、作り手側の〈陳腐な弁解〉などは聞きたくもありません。
第46話で、蓮が真司に向かって言った
「お前は今迄ずっと、そうやって迷ってきた。それで誰か一人でも救えたのか?」
というセリフに応えて、“誰か一人(少女)を救った”死に方になっていたのは、いくらかドラマチックではありましたが、よくよく考えてみると、[北岡 × 浅倉]以上に“納得のゆく決着をつけることが難しかった”と思われる[真司 × 蓮]の対決が「真司の死」によって巧妙に回避されているんですね。(ズルイぞ、靖子センセ)
そもそも本作は、「戦い」を “絶対に拒否する”龍騎 と “やむをえず肯定する”ナイト ――2人の仮面ライダーの「葛藤」のプロセスを描く物語だった筈。
その一翼を担う真司が、こんなに呆気ない退場の仕方をしてしまったのでは、ドラマの本筋が成立していないのではありませんか? 「主要登場人物の死」を“イベント”にしたくなかったという小林氏なりのポリシーは理解できますが、なんとなく[劇場版]と[SP]で盛大にライダー達を殺しまくった井上氏に対するアンチテーゼとも受け取れます。(小林脚本のラスト6話に於いて、「ライダーがライダーを殺す」というシチュエーションが“意図的に回避されていた”のは明白な事実です)
いずれにしても、「戦いを止めよう」として止められなかった〔城戸真司〕は〈表向きの主人公〉に過ぎず、実は、『仮面ライダー龍騎』の〈真の主人公〉とは、愛する者を救う為に「最後まで戦い抜く」と誓った決意を貫き通した〔秋山蓮〕だったことが、最終回直前になって漸く(ようやく)明確になった次第――って、小林氏の開き直り?
ところで、蓮に看取られて真司が息をひきとる情景に、ご存じ小林脚本の『タイムレンジャー』#49で、浅見竜也(あさみ・たつや。タイムレッド)と滝沢直人(タイムファイヤー)が演じた“陳腐な愁嘆場”がダブって見えちゃったのは、私だけでしょうか?
正統派ヒーロー譚の王道=宮下隼一節が炸裂した『忍風戦隊ハリケンジャー』(2002・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021112/p1)「巻之四十九 使命と天空忍者」に於ける〔6人目の戦士シュリケンジャーの激烈な憤死〕の描写と比べてみれば、小林脚本の“女々しさ”に対する私の評価の低さも、十分に納得して貰えるのではないか、と存じます。(『龍騎』では一度も泣けなかった私も、死に際(しにぎわ)のシュリケンジャーの台詞=「花の名を忘れても……」のくだりで“大泣き”しちゃいました/この場面、御前様に対するシュリケンジャーの敬慕の情が余りにもよく描けているもので、[女帝に対する殉死]という封建的なモチーフが露骨(ろこつ) になり過ぎていて、ちょっとヤバイんですけどねー)
――ウーン。実に(げに)厳しき哉(かな)、スーパーヒーロー道。
龍騎のリタイアにより、戦いを止める者は居なくなりましたが、真司の死を目の当たりにした蓮は、そのショックで、戦意が著しく低下している様子。一方、北岡のコンディションも最悪(危篤状態)。唯一、浅倉だけは相変わらず“ヤル気マンマン”なのですが……
最終決戦を控えた各ライダー達の描写は、別の次元で“並行して”進行するばかりで、互いの心情が噛み合うことは一切なく、ドラマは終始、淡々とした一本調子のまま。物語の終焉に向けての集中力が、まるで感得できません。言わずもがな、小林氏の構成能力には、大いに問題アリです。
個々の物語を緊密に絡み合わせて、一本の主筋を編み上げてこそ「群像ドラマ」となり得るのです。統一性を欠いた“バラバラ”の場面を適当に並べただけに過ぎなかったラスト6話〔第45〜最終話〕の小林脚本は(私の眼から見ると)お世辞にも“プロ”のライターの水準を満たしていたとは申せませんでした。
(例によって、白倉氏が新番組『仮面ライダー555(ファイズ)』(2003・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20080120/p1)の準備作業に入った為に、『龍騎』完結篇の展開はその殆どが小林氏の独断に委ねられたらしい/最終話のエピローグに登場するゲストに、小林氏の肝煎り(きもいり)の手塚海之〔ライア〕と東條悟〔タイガ〕が選ばれたのは、勿論(もちろん)、同氏の意向による?)
* 激闘にさよなら――ゾルダ&王蛇の最期
もう一つの「最終回」=劇場版『――EPISODE FINAL』では、[ゾルダ × 王蛇]の直接対決が描かれなかっただけに、劇場版とは異なるエンディングに向かって動き出していたTVシリーズ終盤での両者の最終決着に対して、密かに期するものは大きかったのですが……。
危篤状態に陥った北岡の生死に関するダイレクトな描写をいっさい省略して、有耶無耶(うやむや)の内にゾルダ × 王蛇の最終決戦に突入。勝負が決した時点で、敗れたゾルダの正体は由良吾郎であり、北岡は既に死亡していた――という事実を明かす演出・脚本上のフェイク(引っかけ)は、ある程度は評価できるんですけどねー。
しかし、戦わずして北岡は病死、生き残った浅倉は官憲の手で抹殺されるなんてオチでは、13人ライダーの中でも屈強の両雄が展開する“盛大な”最終決戦を期待していた視聴者(特に私)は到底納得しないゾ!
だいたい、第42話で浅倉を「人間じゃない」と見限った筈の北岡が、今さら“浅倉がライダーになったことに責任を感じている”のも妙な話だし、それに、作劇上では完全に“捨て石”扱いにされて死んでしまった吾郎ちゃんには、まったく立つ瀬がない。
煎じ詰めれば、〈北岡の最期〉に際してのドラマの重要な焦点は、あくまでも“生きのびること”に執着し続けて「餓鬼道に堕ちる」か、或いは、自らの生死を達観できるほどの「明鏡止水(無念無想)の境地に到達する」ことができるか――という、臨終を間近に控えた北岡の内面での葛藤だった筈。だから、北岡が衰弱してゆく様子を直截に描写しただけでは、何の意味も無いのです。
畢竟(ひっきょう) 、王蛇に対し“純粋な殺意”を抱いていたファムや、究極の“悪意の塊”であるリュウガのような、王蛇に引導を渡すに相応しいキャラクターが登場しなかったTVシリーズに於いて、浅倉=王蛇をターミネートする役処を担えるのは、やはり、浅倉を極刑から免れさせた張本人である北岡=ゾルダを措いて他にありません。
だからこそ、死期が間近に迫ったことを悟った北岡が、浅倉との最後の対決に臨もうとする動機は、「スーパー弁護士として名を馳せたい、という浅ましい〈売名行為〉の結果、世に解き放ってしまった浅倉を“自分の手で”始末したい」でなくてはならなかった筈。熾烈な激闘の果て、浅倉の息の根を止めた北岡は初めて安堵して、長く安らかな眠りにつくことができる――それが、私流の〈活劇的〉な解釈による、理想的な「北岡の最期」の図式でした。
ですから、余人の入り込む立錐の余地もない北岡と浅倉の決着の場に吾郎=代理ゾルダを介在させた小林脚本には、心底落胆しましたね、私ゃ。(所詮、女には「活劇魂」は理解できないものなのか?) なにより、最も井上敏樹的なカラーが濃い北岡には、小林靖子的な〈悲観的運命論〉を真っ向から否定して、“スタイリッシュな伊達男”としての面目を最後まで貫き通して貰いたかったものです。
尚、吾郎ゾルダの敗因は、ヘタに格闘技の心得があったが故に「近接戦闘」(格闘戦)に拘り過ぎて、従来の北岡ゾルダが得意としてきた「火器(銃器)類」による遠距離からの銃撃を主体にした攻撃法や、アドベントカードを駆使した戦術を有効に活用できず、また“初陣”ゆえに契約モンスター=マグナギガとの連携も不慣れで、仮面ライダーゾルダの能力を十分に発揮できなかったからでした。
先生、また美味いモン買って帰りますから……哀れ、吾郎ちゃん! けれど、きっと天国でも北岡と一緒に――
そして、王蛇=浅倉も、倒したゾルダが北岡でなかったことを識って逆上し(浅倉は北岡が死病を患っていた事実を知らない)、銃を構えた警官隊に向かって挑発するように突進し、狙撃されて絶命。多分、小林氏としては「浅倉と北岡との心中」をイメージしてこの場面を構築したのでしょうが、いかに前代未聞の殺人凶悪犯が相手であろうとも、たかが棒キレを振り回して暴れた程度で、現在の日本の警察が「射殺」の断を下すほどの強硬な対応をするワケがありまへん。
しかも、容疑者が精神障害者である可能性がある場合には、尚更もっと慎重な対応をする筈……などと“リアルな”ツッコミをしても、詮がないので止めますが、ここで問題なのは「小林氏の作劇センス」です。
“アウトローが、警官隊(官憲)に射殺される”というシチュエーションは、古来より「反体制」テーマの象徴として、その筋のフィクションの中で繰り返し描かれてきたものです。ですから、一般的なドラマツルギーの通念からして、この場面で“まったく感情移入できない極悪人”である浅倉を、華々しく“反体制ヒーロー”扱いにしちゃった小林氏の感性ってのは、どう考えたってトンチンカンでしょう。
失礼ながら、小林靖子サンって、「いかにして、美形キャラを“綺麗に”殺すか」ってコトしか、念頭にないんじゃないのかな? (だから、“やおい”だっちゅーの!) やっぱり、〈悪役の中の悪役〉=王蛇には、自分以上に残忍で凶悪なリュウガに嬲られ(なぶられ)、怒り狂うファムの復讐の刃によって止めを刺されて、悶絶しながら絶命した「劇場版」での“醜悪な”死に態(しにざま)の方が相応しい。
あ〜あ、北岡 × 浅倉の決着は〈最終回の一部分〉ではなく、井上氏の脚本による〈独立した一篇の物語〉として、存分にオトシマエをつけて貰いたかったなぁ……ホント、もったいない。
* ONE SURVIVED
オーディンの契約モンスター=〔ゴルトフェニックス〕とは「鳳凰(ほうおう)」、いわゆる「不死鳥」です。
故・手塚治虫氏のライフワーク『火の鳥』の例を挙げるまでもなく、「鳳凰」といえば“永遠の命”をもつ神秘の鳥です――
そうか! ゴルトフェニックス=不死鳥と契約したオーディンが“永遠の命”を持っていて、オーディンさえ倒せば“永遠の命”が手に入るという仕組みなんだ! 他の12人のライダー達は、オーディンに対抗できるレベルまで〔経験値〕と〔ポテンシャル〕を向上させる為に、即ち(すなわち)、オーディンに対する「挑戦権」を得る為に戦わされていたんだ! ウン、これで辻褄が合うゾ……
と思ったのも束の間、オーディンは神崎士郎の意思に従って行動する忠実な“しもべ”であり、素体となる人間さえ調達できれば“幾度でも再生可能”(最終話の脚本には、神崎士郎が街角の浮浪者にオーディンのカードデッキを与える場面があり、実際に撮影も行われ、放映分からはカットされたとの説もありますが、書籍『ファンタスティックコレクション 仮面ライダー龍騎』(朝日ソノラマ・2003年6月30日第1刷発行・7月5日第2刷発行・ISBN:4257036761)に掲載された最終話の脚本にはそのようなシーンはありません(汗))であることが判明したもので、私が苦心して立てた仮説はアッサリ覆されちゃいました。
しかし、それじゃ「最後の一人とオーディンが戦う」というルールは、いったい何の為にあったの? ライダーを12人倒せば“新しい命”が出現するのならば、圧倒的に強力な戦闘能力を有するオーディンが、サッサと他のライダー達をカタづけちゃえば、コトは簡単に済んだんじゃないの? 12人の「人柱(ひとばしら)」を必要とした根拠は?……まぁ、所詮、野暮かも知れませんが、フィクションとしての完成度をトコトン追及したい私としては、どうしても拘りたくなってしまいます。
劇場版のラストと同様に、優衣に拒絶されて神崎士郎は逆上(発狂?)して、ミラーワールドが崩壊。同時にオーディンは消滅し、辛くも生き残ったナイトの眼前に念願の“新しい命”が出現します。もゥ、このあたりになると、余りにも“抽象的”で“観念的”過ぎて、ハナシについてゆけませんねー。
死んだライダー達も、モンスターの犠牲になった一般市民も、全員生き返ったのだからイイじゃないか――と仰られるかも知れません。でも、これでは“妹を偏愛する異常者のアブノーマルな感傷に振り回されただけ”という印象が強く、ライダー&モンスターの生殺与奪の権限は相変わらず神崎士郎の掌中にあって、優衣を生き永らえさせるために“ゲームの駒”にされて死んでいった者達の立場が、まったく考慮されていません。
『大長編ドラえもん のび太の魔界大冒険』の原作(1983連載・1984単行本化・ISBN:4091406041・ISBN:4124101988・ISBN:4091940153。もしくは映画版(1984)・ISBN:4099082059)を御覧になった経験のある方なら、「一度造られた“世界”は、いくらリセットしようとしても、〈パラレルワールド〉となって永遠に残る」というSFの“イロハ”を、故[藤子・F・不二雄]先生から学んだ筈でしょう? だったら、尚更、こんな“夢オチ”にも等しい、御都合主義的な結末を容認することはできないでしょう。
しかし、それ以上に許し難いのは、桁違いの10000AP(アタック・ポイント)の威力を有する“究極の必殺技”として幼児誌『てれびくん』『テレビマガジン』誌上では数ヶ月前から紹介されて、前評判が高かった[オーディンのファイナルベント]の描写が省略されていたコトです(でしょ?(笑))。
必殺技・ファイナルベントのカードをベントインしたオーディンに向かって、ナイトサバイブが突進していくところでCM挿入……アレレ? CM明けの場面でのナイトは、既にナイトサバイブからナイトにパワーダウンしていて、かなりのダメージを被っている様子……ま、まさか、CMの間に究極のファイナルベントは炸裂してしまったのか? そ、そ、そ、そんな、バカなぁぁ〜ッ!! なんちゅう、肩スカシやねん! (編:最終話の脚本では、オーディンの必殺技・ファイナルベントの描写はあります)
最後のクライマックスを飾る、最強のファイナルベントだけに、想像を絶するほどに“壮絶”で“華麗”なCGを期待していたのにィ……。「新しい命」の映像表現が余りにも“お粗末”だったのも興醒めでしたが、予算が足りなかったのかなぁ?
そのワリには、どうでもいいシーンで随分と贅沢なことをやっていたような? ア、そういえば、この最終話の演出は、『クウガ』完結篇でも[クウガ × ダグバ]の対決を、アッサリ薄味で処理しちゃった石田秀範監督だっけ……やっぱり、ネ。きっと、「13年前と現在の二組の神崎兄妹が一緒に絵を描く」という、石田監督好みの“前衛的?”なシークエンスの撮影の方に、過剰な労力と予算を注ぎ込んでしまったのでしょうね。
どうやら、未だ石田監督の“アーチスト気どり”の悪癖は治ってない御様子で、満身創痍の秋山蓮が病院の階段を這い昇ってゆくカットに被さる大久保編集長(津田寛治)のシブい台詞も、なんだか“どうだ、感動しろ!”と催促されているみたいで、私的にはとっても不快でした。(それ以上に、ラスト6話に於いて「ライダーがライダーを殺す」直接的な描写が意図的に回避されていたことに、心底ガッカリしている私って……やっぱ、ヘンかしら?)
* 時(いま)を越えて――
ミラーワールドとは、鏡に映った自身の姿を唯一の遊び相手にしていた孤独な少女期の優衣の願望が具象化した観念の世界――そこに棲むものは、世間から隔絶された神崎兄妹(鏡像)と、2人が描いた空想上の生物の絵が実体化したモンスターだけ。そして、ミラーモンスターとは、本来、2人を外敵(?)から守るべき存在でした。(真司の鏡像“リュウガ”が登場した[劇場版]と、モンスターを生み出す“コアミラー”をミラーワールドの中核に据えた[SP]は、明らかに井上敏樹氏の解釈ミスですね)
一連のミラーワールドの設定で最も興味深いのは、一定の「時間のループ」を反復している点です。優衣の20歳の誕生日がタイムリミット=〈折り返し点〉と定めらている基本設定は、「神崎士郎の妹に対する異常な愛情」を勘案すると、奇妙な仮説が成り立ちます。
つまり、「20歳の誕生日を迎える」というのは“一人前の大人”即ち“成熟した女性”になることを象徴しています。一般的に、成熟した女性は、異性(男性)と交渉をもち、やがては結婚、妊娠、出産という段取りを経てゆくのですが、優衣を溺愛する神崎士郎としては、こうした成長過程は、妹が自分から離れてゆくことを意味するので、当然ながら、絶対に容認できるものではありません。
いつまでも兄妹が“一緒に”暮らしてゆくためには、優衣に「少女」のままでいて貰うしかない。兄想いの優衣もまた、士郎と離れるのは本意ではなかったでしょう―― だからこそ、優衣の20歳の誕生日がタイムリミットに設定されたのであり、士郎と優衣にとっては「新しい命」の獲得よりも、未来永劫、この時間のループを繰り返すことで、「兄妹の絆」を保ち続けてゆくことが真の目的だったのではないでしょうか?(シスター・コンプレックスなんて、いかにも小林靖子氏が考えそうな裏設定でしょ?)
――閑話休題。
ラスト・シーンの花鶏(あとり) のカウンターには、沙奈子おばさん唯一人。その傍らには、子供時代の士郎&優衣の写真が……。新しく再生した世界では、神崎兄妹は13年前に死亡しており、2人の鏡像は現れなかった。――即ち、士郎が優衣の願いを聞き入れて、ミラーワールドを閉じたことを暗示するカットを以て物語は幕を閉じました。
かくして、『仮面ライダー龍騎』は、個人レベルの切実なプライベートな諸問題〔ライダー達が戦わねばならなかった各々の事情/病的な行為障害・異常性格〕に対しては、「スーパーヒーローの力」など“何の役にも立たない”というシニカルな現実を、初めて実証してみせた前代未聞の《脱・ヒーロー番組》となりました。
仮面ライダー同士の無益な戦いを懸命に止めようとした「正義の味方」=龍騎が、どうしても越えることができなかった最大の障壁が「兄妹愛(肉親愛)」であったのは、最高の皮肉に他なりません。
それこそが、白倉伸一郎氏が標榜した「新しいスタイルの特撮ドラマ」の真髄なのです。
* 余話
――余談になりますが、〔ミラーワールド〕の元ネタは、みなさんもご存じの通り、映画『マトリックス』(1999)の〔バーチャル・リアリティ(仮想現実)空間〕です。
しかしながら、本家“マトリックス”が、コンピュータにプログラムされたサイバーパンク風の近未来世界観をバックボーンにしているの対して、“ミラーワールド”の方は文字通り、「鏡の国」という〈アバウトなSF知識〉に基づく東映特有のチープな感覚から生まれた得体の知れない亜空間に過ぎず、センスの洗練度のギャップが余りにも大きくて、双方の関連性に思い至らなかった方も多いことと存じます。
シリーズ第2作『マトリックス リローデッド』(2003)では、「アーキテクト(建設者)」を自称する“マトリックスを作った”オッサンが姿を現わし、「過去に5回に亘ってマトリックスを建造したが、“理想世界”を築くプログラムが破綻した段階で、その都度、マトリックス全体を消去して、作り直してきた」と真相を語る件(くだり) があるのですが、コレって、神崎士郎が「優衣の延命に失敗する度に時間を巻き戻して、やり直してきた」のと基本設定がかなり似ていると思いません? ――なんと、『龍騎』は、「マトリックス」シリーズの構想を1年以上も早く“先読み”していたことになるんですよ! おそらくは、同作品をパクった張本人の白倉氏自身も、このプロットの偶然の合致には驚いておられることでしょう(苦笑)。
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(ライダー各作品の「終了評」の末尾に、関東・中部・関西の平均視聴率を加筆!)