『仮面ライダークウガ』前半・総括 ~怪獣から怪人の時代来るか再び
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仮面ライダークウガ 〜最終回評1 賛!・1
(文・D.SONO)
(2001年7月執筆)
「何より彼(五代雄介)は“改造人間”ではないのだから、“普通”に戻った後の生活を示唆するという結末こそ、『クウガ』に相応(ふさわ)しいのかもしれない」
前号の寄稿文の最後(編:ネット版では「仮面ライダークウガ 〜後半合評1」の末尾に掲載・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001108/p1)で、こんなことを書いた私だが、果たして結末は、戦いが終わった後は元の“冒険者”だったころのように放浪の旅をしたいと話していた通り、彼は本来の姿に戻っていた。
一方で、何の戦闘シーンもない、当然変身後の「クウガ」も登場しない、ただ彼(五代)の思い出を周りの人間が語るだけの『仮面ライダークウガ』(00年)最終回に対しては、一部では批判がかなり噴出していたようである。
ヒーローもののドラマに肝心のヒーローが登場しないのは、たとえ最終回でも「看板に偽りあり」かもしれないし、特に子供の視聴者のことを考えれば不親切かもしれない。だが、私はこのような最終回を断固支持する。前号の抜粋の通り「相応しい」とする要件に合致していることもある。
あの最終回は巨匠・黒澤明監督の名作『生きる』(1952・昭和27年)という映画をもどこか彷彿とさせる。『生きる』という作品は、名優・志村喬(しむら・たかし)演じる一介の年配地方公務員が、人知れず公園を整備するものの、何ら人に知られることなくガンで亡くなり、死後、その偉業が仲間たちに知られることとなり、そこで初めて彼の偉大さを知ることとなるというのがあらましである。
「未確認生命体」こと超古代の猟奇的戦闘種族グロンギ怪人と戦っていた五代は、のちに警察関係者にも知られるところとなるが、当初はまさに人知れずに戦っていたわけで、まさに志村喬演じる無私の地方公務員と共通点がある。
最終回だって、五代の周りにいた、彼の戦いを知る者たちだけが彼のことを語っていた。恐らく警察関係者以外ではそういった周りの者だけが知る五代の戦いを、ほかの人々は誰も知らない五代の戦いを、あえて最終回のほとんどを使って語り振り返ることそのものが、戦いを振り返るに最も相応しい方法だと思ったのだ。
そして、「クウガ」に変身できるがために、本来の彼ではなかった五代が、“改造人間”ではない五代が、本来の“冒険者”の姿に戻ったことを表現することにウエートを置き、あえて変身後の姿を見せなかった作り手に、改めて喝采を送りたい。
仮面ライダークウガ 〜最終回評2 賛!・2
(文・いちせたか)
最終回『雄介』――。
こういう1話まるまる後日談(ヒーローや怪獣が登場しない)、みたいな最終回は個人的には嫌いではない。
ヒーロー系の作品では(比較的記憶に新しいところを拾えば)、TVアニメだが「週刊少年ジャンプ」連載の大人気マンガのアニメ化作品『幽☆遊☆白書』(92年)や、子供向け(女性マニア向け?)合体ロボットアニメ『勇者指令ダグオン』(96年)などがこんな調子だった。
ただこれらの作品は、決戦後の淡々とした日常描写の中で各キャラの去就が語られる中、ヒロイン一人だけがどこか悲しみに沈み空虚な思いを抱えているという点で共通していて、ラストの主人公の帰還によってその心の隙間が満たされ感情が一気に爆発、そのまま爽快なエンディングへなだれ込むという構成になっていた。
要するに見ているファンの気持ちをヒロインが体現していたわけだが、その観点から言うと今回の最終回はイイんだけど、もう一つグッと来るものがないようにも感じられ、若干のもどかしさを覚える。
もちろん過去の作品と同じことをやったからいいというものでもないし、『仮面ライダークウガ』(00年)の場合、主人公・五代雄介(ごだい・ゆうすけ)と沢渡桜子(さわたり・さくらこ)の関係が恋愛というほどには至らなかった(というか絆としては深まってはいるが、単純にそういう方向へは向かっていないと言うべきか)ので、前述のようなヒロインにあたる役割は一条薫(いちじょう・かおる)刑事が代わりに果たしている。
ただそれでもいつもの喫茶店・ポレポレのシーンが他と分離してしまっているので、なんとはなしに散漫な印象はある(五代の小学生時代の恩師・神崎先生の再登場は嬉しかったが)。
しかし桜子や五代の妹・みのりのセリフが、雄介の戦いが人々の心に残したものの決して小さくないことを感じさせ、シリーズ全編を貫いて描いてきた雄介の戦う意味・理由として最も重要なキーワードである“笑顔”に、人の優しさ・思いやりといったものを集約せしめた点は見事と言う他はない(何でもかんでもセリフにしたので多少説教臭くはあるが)。
ただそれだけにこの最終回を貫く誰かの意志というか柱が欲しかったと思うのは欲張り過ぎだろうか? 爽快さはあるがみんな冷静でさっぱりしているために見る方もテンションがもう一歩上がりきらないというか……。まあそれが『クウガ』らしくていいという意見もあることは当然承知で言うのだが。
仮面ライダークウガ 〜最終回評3 賛!・3
所感『仮面ライダークウガ』
(文・鷹矢凪弥寿士)
様々な話題を提供し完結した『仮面ライダークウガ』(00年・以下『クウガ』)。一口で言うのは難しいが、取敢えず“良い意味で『仮面ライダー』であって『仮面ライダー』でない作品”になったと思う。
『クウガ』の魅力の一つは、“悪”即ち「未確認生命体」こと敵怪人=“グロンギ”の特殊性にあったことは、これまで述べてきた。(編:ネット版では「仮面ライダークウガ 〜前半合評5」に掲載・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001107/p1))
今般、本来なら“グロンギ”解析の完結編を書きたかったところだが、正直言ってまだ整理し切れていない部分もあるため、申し訳無いが次の機会に譲らせて頂きたい。
その代わり『クウガ』が目指したものは何であったか、少し考えてみたい。文の性質上物語の結末に触れているため、『クウガ』を最後まで見ておられない方は、出来れば見終えてからお読み頂ければ幸いに思う。
最終回1本前の第48話「空我」に於けるクウガと最終敵ン・ダグバ・ゼバの決戦は、最後には互いの変身も解け、素手での殴り合いとなった。楽し気に笑いながら拳を振るうダグバと、涙を流しながら拳を振るう五代雄介(ごだい・ゆうすけ)=クウガ。自分だけの笑顔を求めた者と、他者の笑顔を守るために結果的に自らの笑顔を捨てた者。形の上では後者が勝った。だが、同時に彼はあまりに重い代償を背負うことになった……。
最終回、(未確認生命体)第4号(=クウガ)に感謝を寄せつつも、居ない方が良いと言った人物がいた。他ならぬ第4号=雄介の妹・みのりであった。人によっては何と冷酷な妹か、と誹(そし)るかも知れない。しかし待ってほしい。雄介は暴力が好きな人間だったろうか。
たとえ誰かを守るためのものであっても、暴力を行使することは控えねばならない。暴力は相手だけでなく、自分をも傷つけるからだ。それを知り尽くし、尚且つ雄介は戦った。守るべき人々がいたからだ。
それでも暴力がもたらす痛みを知っていた彼には、辛(つら)いことだったに違いない。それを理解していたからこそ、みのりは敢えてああ言ったのだ、最大限の労(ねぎら)いとして。兄が……いや誰も暴力を使わなくても良い世の中が来れば、一番良いのだから。
第4号の戦いを否定するのではなく、受け入れた上で、“二度とあってはならない戦い”と断ずる……それが彼女の真意だったのだろう。
だから雄介も第4号=クウガの力を捨て、去っていった。戦いの日々で失われた人々の笑顔、そして自分の笑顔の重みを考え直し、いつか世界中の人が、そして自分がずっと笑顔でいられる日が来ることを祈りながら……。
物語中では“仮面ライダー”の名こそ持たなかったが、五代雄介=クウガ……彼もまた“仮面ライダー”だったのだ。心ならずも拳を振るわねばならぬ哀しみを戦士の“仮面”に隠し、“仮面”でない笑顔を目指し続けた、そんな彼だったから。
『クウガ』は、これまでの『仮面ライダー』では潜在的なテーマであった「ヒーローは何のために戦うのか」から一歩踏み出し「ヒーローが戦わなくても良くなるためには何が必要か」を、それとなく匂わせて成功した作品ではなかったか……と筆者は考える。
ヒーローは基本的に《夢の存在》で良い。それは“ヒーローの否定”ではない。寧(むし)ろ“肯定”である。ただ、悪を倒す“ヒーロー”に留まらず“理想を目指す戦い”の中で“ヒーロー”を見い出すこと、時には自分が“ヒーロー”になることの重要さ、意義を考えさせてくれた……『クウガ』はそんな作品だったと思う。
仮面ライダークウガ 〜最終回評4 是々非々!
『仮面ライダークウガ』放送終了後の感想
(文・内山和正)
最終回周辺の感想を中心に、前号での寄稿(編:ネット版では「仮面ライダークウガ 〜後半合評2」に掲載・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001109/p1))で書き漏らしてしまったことについてもふれておきたい。
なお、広告から察するにTVではふれられていない敵種族グロンギの秘密についてなどが紹介されていると思われる書籍『仮面ライダークウガ超全集』上・下・最終巻(00〜01年・小学館刊・ISBN:4091014739・ISBN:4091014747・ISBN:4091014763)は買い逃してしまっているので、今となっては知っていて当然のことを知らないでいる場合もあることを御了承願いたい。
1.ヒーローものとして
たくさんの種類のヒーロー玩具を売らねばならない制約から、単体ヒーローが成立しにくい状況のなかで充分健闘したと思う。その結果11種類もの仮面ライダークウガのフォームが登場してしまったのは驚異でもあるが、ゴチャゴチャさせず基本の4フォームとその強化形態・未完成形態・妥協の超強化形態・究極形態と役割を明確にしドラマ性を持たせたことで、わかりにくさ・不自然さを払拭することに成功した。
しかも旧来ならクリスマス商戦用に遅くとも12月には登場していただろうクウガの黒い究極形態アルティメットフォームを、最終回の1本前である48話「空我」(01年1月14日(日))まで登場させなかったことは、玩具販売のために多くのフォームを必要としながらそれを裏切るということでポリシーを感じさせた。
ライダーマシーン(バイク)にしても『仮面ライダースーパー1(ワン)』(80年)以後オモチャ売上増のために2台の登場が必要とされ、『スーパー1』と『仮面ライダーBLACK(ブラック)』(87年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001015/p2)ではオフロードとオンロードという効用による切替えがなされた。
機能的には理に叶ったものだろうが、戦いの合間に乗り換えるということは悠長にも感じられ、それまでが一台で賄(まかな)ってきただけに、ライダーマシーンとしての万能性・スーパー能力を疑問視させることにもなりかねなかった(二台あることを活かしたストーリーも存在はしたが)。
続く『仮面ライダーBLACK RX』(88年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001016/p1)では自動車とオートバイの一台ずつとなり区分けがなされたものの、旧弊なファンの一部からは自動車に乗ることに抵抗がもたれた。
今回の『仮面ライダークウガ』(00年)では、専用オートバイ(警視庁の最新白バイ)にさらにクウガと同じ出自の超古代の昆虫型マシーンが合体するという趣向により、オートバイはあくまでも一台であるという姿勢が示され、これまでの作品での弱点が正(ただ)された。結局二台目の専用オートバイも登場したのだが、あくまで機能を強化したマイナーチェンジの後継機への交換であり、オートバイが一台であるスタイルは貫かれた。
クウガの特殊形態の基本をなす棒術の青いドラゴンフォーム・射撃する緑のペガサスフォーム・剣を使う紫のタイタンフォーム初登場回は、各二話ずつ連続して放送された(5〜6・7〜8・9〜10話)。特殊な能力を持てる反面あきらかな“弱点”も発生してしまうことは、これまであきらかな“弱点”を持つ設定があまりなかった無敵の“仮面ライダー”たちであるだけに個人的には当初抵抗もあったが、これも新しい魅力かと自分を思い込ませることにした。
特にペガサスフォーム使用後、二時間は変身不能状態になってしまう空き時間を利用して、イレギュラーの少女キャラ・夏目実加(なつめ・みか)をさがす雄介にグロンギ怪人メ・バヂス・バが迫る7〜8話の趣向はサスペンスを感じさせた(蛇足になるがこの7〜8話あたりが基本になって、人間ドラマの片手間に「ちょっくら怪人退治に行ってくらぁ」的に戦いに赴くエピソードが数本つくられ安易に感じられた)。
オモチャ続々登場のためか、このあとドラマ的にやりたいことが山積みであったためもあるのか、連続してクウガの特殊形態が次々登場してしまうことは、各形態のすばらしさ・特殊能力・強さを視聴者や子供たちに充分浸透させることには失敗したのではないかと思われる。実際にはTVで描かれていない戦いが、各フォームの初登場の合間に設定されているようなので、おそらく浸透効果の件は理解したうえで確信犯的に除去したのだろうが、ヒーローもの的な戦いの要素も見たい筆者のような視聴者からすれば残念である。
その後の二回(11〜12話)はあえて特殊フォームを出さずに昔のライダーシリーズの特訓ネタを再現。さらに次の二回(13〜14話)は別の脚本家(井上敏樹氏)が登板したせいかフォームの特殊性が無視されている。
2.疑問
観ていて疑問に思うのは東京の住民たちの反応である。一部のキャラクターを除いてグロンギこと“未確認(生命体)”の跳梁(ちょうりょう)による生命の危機をどう思っているのかわからない。
たしかに仕事があるから外出しなければならないだろうし、引っ越して転職するのも簡単ではないのかもしれない。また東京が広すぎて殺人事件もありふれているため、他人事で自分が危ういという危機感がうすれているのかもしれない。とにかく地方に住んでいる者には理解できない心理だ。
彼ら住民の言葉を聞いているともしかして既にこのような惨事を経験しているのでは? とマニア的には思いたくもなる。もしかして『クウガ』がこれまでのシリーズの時間軸に組み込まれた場合も想定しての配慮だろうか。彼らは『仮面ライダーBLACK』での暗黒結社ゴルゴムによる日本征服などを経験しているのかもしれない。
と考えると、雄介たちの恩師・本郷先生も一時帰国していた仮面ライダー1号・本郷猛なのかもしれない。まあ単なる“お遊び”なのだろうが、色々考えさせる趣向でもあるのかも。たとえばパラレルワールドの改造手術を受けずに順調に学者を続けた本郷だとか。
3.結末
特撮雑誌『宇宙船』誌の読者コーナーにおける石井浩一氏の投稿に刺激を受けた。クウガがグロンギの殺人ゲームを面白くするために作られた障害物ではないかというものだ。これが必ずしも正解だと思っていたわけではないが、ありえる仮説のひとつとは思った。とにかくインパクトはあった。結果的には外れていたわけだが、この説がラストへの暗い予感を高めた。
そしてそれまで、単なる「これまでのシリーズを無かったことにする宣言」でしかないと思っていた主題歌『仮面ライダークウガ!』の歌詞(ASIN:B000058A8K・ASIN:B00005HLM1)――時々口ずさみながらも歌っていいのか疑問になっていた。個人的には英雄は15人欲しかったし、これまでの「ライダー」の歴史をゼロになんかして欲しくはなかったので――が結構意味を持っているのではないか?(ダブルミーニングになっているのではないか) と考えるようになっていったのだ。
「塗り替えるべき伝説」とは? と考えて、前号の寄稿文に書いたように、超古代の先代クウガが「自分の身体に巣食った“(未確認生命体)第0(ゼロ)号”をどうにもできず自分ごと封印した」ことではないかと思ってしまったのである(五代雄介よりもたくましい超古代の戦士のほうが武力まかせに戦いそうには見えるが)。
だとすればクウガはそれを塗り替えられる → 明るい結末になるはずなのだが、と思わせてやはり暗い結末になるのでは? という不安は抜けなかった。
また「暴力に対し暴力で対抗することへの疑問」というスタッフの方々がマニア誌等で提示されておられたテーマがどういう結論に至るのかという興味もあった。
相手がグロンギであっては平和的な和解ということはありえないだろう。雄介が最後は暴力、戦うことそれ自体を否定・放棄して、自発的に倒されて0号を自らの身体に巣食わせ、融合・封印するのだろうか……(当時はまだ次作『仮面ライダーアギト』(01年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011106/p1)の詳細が発表されていなかったこともあり、その融合体がアギトか? などともたわむれに妄想などもした) こちらの展開になっても、暗い結末である感はぬぐえないが。
最終回「雄介」を観て、呆気にとられた。
単品としては悪いとも思わないし、主人公側のキャラクターが誰も悲惨な最期(さいご)を迎えなかったのにはホッとしたものの、これまで引っ張ってきた結末への興味、謎の真相――“第0号”ことン・ダグバ・ゼバとは具体的にはどのような役回りなのか? “究極の闇”とは何か? “バラのタトゥの女”はグロンギ族にとってどういう存在なのか? など――、テーマの決着には応えてくれなかった気がしたのだ。
これではこれまでの
「人を殴ることの痛みを、今は心がささくれだっている喫茶店ポレポレ手伝いの少女・奈々に訴えながらも、自分は怪人を殺しに行かねばならない雄介の痛み」とか、
「犯罪者(それも同情すべき要素を持った)を捕らえる一条薫(いちじょう・かおる)刑事の姿を見て、怖くなる少女・実加」
とかの方がよほど皮肉なテーマを感じさせてくれたのではないか? ここまでひっぱってきてこれでは情けない……
「あいつら(グロンギ)が自分の笑顔のためにあんなことをしたばっかりに、あいつ(雄介)が自分の笑顔をけずることになった」
とのセリフを、レギュラーのなかでは一番自分の笑顔のために生きていて快楽主義寄りと思われる多少軽い司法解剖専門医・椿秀一(つばき・しゅういち)に言わせていることや、五代の妹である保母・みのりが園児たちに言う、
「4号がいない(出てくる必要のない)世の中が一番いいと思うんだ」
との言葉に「言いたいこと」の一環は出ている。
でもこれらは「暴力で対抗すること」への「疑問」や「解決」ではない。
暗い結末は嫌だが、「暴力で対抗することへの疑問」がテーマであるというのなら、“警察”にも“雄介”にも戦ったゆえの何らかの報いが訪れるのが妥当なところだと思う(前述の実加の回を観たことで、たとえ相手が犯罪者や殺戮者の怪人であろうと、集団で追いつめ傷つける“警察”という存在への批判も描かれるのかも……と思っていたのだ)。
これではバラのタトゥの女が一条にたびたび忠告していた、“リント(超古代人類、変じて現生人類)の変化”=“殺戮されるだけのか弱い非戦闘民族ではなく、反抗し共闘する存在への変化”(引いては変化したことによる代償?)がなにも意味をなさないではないか?
雄介の身体に後遺症が残るとか(あ、体内に内蔵された変身ベルトの霊石アマダムが傷ついていたか。でも眼に見える何かの症状がないと具体的ではないと思う)、アマダムの影響で人前には出られなくなるとか。まあ、戦争で従軍した人がノイローゼなどになる場合があるように、仲間たちのもとを離れて世界を旅する雄介の姿に、“戦うことの与える衝撃”“彼の心の傷の大きさ”が感じ取れるものの、彼の心理が明確に表現されているわけではないのでわかりにくいだろう。
放送時はそう思ったものの、のちに「塗り替えるべき伝説」とは、
「クウガが究極形態アルティメットフォーム(=グロンギの長・ダグバと等しい存在)になっても、その心を失わず“究極の闇”にはならぬこと」
だと特撮雑誌『宇宙船』誌であかされたことにより、スタッフの方たちと視聴者である筆者の考えのあいだにはズレがあったのだと理解した。
筆者は、
「暴力に対し暴力で対抗することそのものへの疑問」
というテーマそのものをストレートに考えていたが、スタッフの方たちは「暴力で応えたら、以後はどうなるか」とか「暴力で応えないためには、どういうやりかたがあるのだろうか」ということではなく、
「敵への怒りをもたず、防衛のためだけに戦えば大丈夫」
という、言葉は悪いが安易で、ある種実用的な――実際には怒りを押さえて、敵への闘争心の感情をまったく抜きに無心でパンチやキックを繰り出し敵にダメージを与えつつ戦い続けることは難しいので、正確には現実的ではないが――「心の持ちよう」を根本にすえていたのだろう。(描き方は『クウガ』のようにハイブロウではなくロウブロウだが、『戦隊』シリーズあたりで時折見られるネタでもある)
いや、ドラマ外の書籍でスタッフが語ったテーマ性を気にせず、ドラマにそって「雄介は“究極の闇”になってしまうのだろうか?」という件を問題にして観ていれば、素直に結末を受け入れられたのかもしれない。
とはいえそれでもなお、グロンギという存在への否定が適切に表現されえたのだろうかという疑問は残る。警察により惨殺された終盤の数名のグロンギはともかく、ン・ダグバ・ゼバの嬉しそうに戦っている姿を見せられれば(「こんな人間になりたくないよ」と感じさせたいという制作者の想いはあるのだろうが)、たとえ死ぬことになってしまったとはいえ彼(ダグバ)はそれで充分に幸せだったのではないかと思えてくる。ごくごく一部ではあろうが、こういうふうに生きたいよと思う人間が出てくるのも必須だろう。
またこの結末は、雄介自身は二度と戦わねばならない事態が来ることを望んではいないだろうが、それまでは「“究極の闇”、破滅をもたらすかもしれぬ者」であるから、歴代仮面ライダー軍団の一員には加われりえなかったクウガが、自身の心と身体を完璧に制御しえたことで「仮面ライダー」の資格を持つ存在に成りえたのだ……と言えるのかもしれない(スタッフの真意はともかく)。
仮面ライダークウガ 〜最終回評5 否!
偽ライダーの末路 〜さらば、偽りの仮面ライダー〜
(文・伏屋千晶)
「熱意は買うが、ラスト7話に一言もふれずにケンカ売ろうってのは虫が良すぎるんじゃないか?」
上記の一節は、一昔前、『仮面ライダーBLACK RX』(88年)イチオシの本サークル代表・T.SATOさんと彦坂彰俊さんによるRX研究同人誌「太陽の子だ!」(90年12月刊)が、「宇宙船91年冬号・VOL.55」GPX(同人誌紹介)欄に掲載された際に、同誌編集部の“ケンちゃん”こと古怒田健志(こぬた・けんじ)氏(現・脚本家)から発せられたコメントである。が、同誌「2001年冬号」及び同誌別冊「イヤーブック2001」に掲載された、古怒田氏のクウガ論「解析」と池田憲章氏の2000年度作品回顧における『仮面ライダークウガ』(2000年)に対する賛辞に対して、私は全く同義の苦言を呈したい。
――曰(いわ)く、[ラスト3話に触れずに]である。(両氏の文章は、ラスト3話に一応は言及しているものの、その他の部分では『クウガ』を絶賛しているのに対し、何故か、ラスト3話に関する部分の論調は煮え切らない。尚、『クウガ』の文芸スタッフを務めた同じく「宇宙船」編集部の大石真司氏の文章は全て臆面のない自画自賛に過ぎず、同作品に対する客観性を著しく欠いているので“論外”である)
古怒田氏は、大時代的なヒーロー活劇のスタイルを望むのは“保守的なマニア”だけだと断言しておられるが、果たしてそうかな? 私には、むしろ『クウガ』的なドラマツルギーの方が、所謂(いわゆる)“マニア”の安っぽいメンタリティーを象徴しているように思えてならない。
――キミ達は、特撮ヒーロー番組にいったい何を求めているんだ?
ヒーロー活劇は、アート(芸術作品)じゃない。特に、東映作品の場合はSFでもない。
“無益な斬ったり跳ねたり飛んだり”に終始するチャンバラ・シーンを最大のヤマ場とする悪しき作劇術の手本をタップリと溜め込んだ[娯楽時代劇映画]から派生した[極めてエキセントリックなプログラム・ピクチュア]だ。(これを“凄ッげーフィクション〈SF〉”と呼びたい)
私達は、ヒーロー活劇を純粋に肩の凝らないエンターテインメントとして楽しみたい。小難しいテーマ・哲学などは不要。望むのは、シンプルでキレの良いドラマ展開、ドラマチックなクライマックス、斬新な視覚効果テクニック、コンマ何秒単位のカッティングetc.――だ。
バッカみたいに単純な内容だからこそ際立ってくる諸要素があって、それらを一つたりとも見落とさない事こそが〈見る側の者のイマジネーション〉の証しであり、[見巧者(みごうしゃ)]を自認する者の矜持(きょうじ)なのだ。(さあ、みんな! 堅苦しい[マニア]なんかもうやめて、[見巧者]になろう!)
優れた〈見巧者の洞察力〉がトクサツを救い、自惚れ屋のマニアあがりの〈製作者の慢心〉がトクサツを潰す。後者を如実に体現してしまったのが、『仮面ライダークウガ』(00年)という作品の本質だったと思う。
特撮モノに於けるリアリティーとは、現実に即した空間・システムを忠実に再現する事ではなく、荒唐無稽で突飛な情景を“いかに、それらしく見せるか”という、画面の説得力の事だよ。その作劇ポイントをマスターしない限り、真に他人を楽しませる作品を作る事はできない。
幼稚な啓蒙主義なんか、単なるマスターベーションに過ぎない。肝要なのは、ひたすら作品の完成度を高める為に1ショット毎に全力を注ぐ、プロフェッショナルな映像画職人のガッツだ! と、早く気がついてね。
さて、[問題のラスト3話]が幕を開ける「EPISODE47 決意」だが、冒頭から一貫して雨が降り続き、意外にも仄暗(ほのぐら)いトーンで統一された画面構成。前回、“黒の金の4号”=アメイジングマイティに超変身してゴ・ガドル・バ(究極体)を撃破し、少なくとも第0(ゼロ)号ことン・ダグバ・ゼバに対する勝算が出てきたばかりなのに、この陰鬱で重苦しい雰囲気は何なんだ?
ナ、ナ、なんと、主人公クウガこと五代雄介(ごだい・ゆうすけ)が見た悪夢(イメージ)だとばかり思っていたアバン・タイトルの僅か1分強の短いシーンは、前回登場したばかりのクウガ・アメイジングマイティが、既にダグバとの緒戦(しょせん)に敗れていたことの回想だったなんて、マジっすか?
ウ〜ン。一年を通じて「キャラクターアクションは不要!」と言わんばかりだった『クウガ』スタッフのスタンスは、完結編を迎えてピークに達した観があり、古怒田氏が言うように、それはそれで見事なのかも知れない。
けれど、この回のタイトル(主題)にもなっている、雄介が“凄まじき戦士”になる「決意」を余儀なくさせられる直接的な契機となる[黒の金の敗北]を至って簡潔な表現で済ませてしまったのとは対照的に、生ぬる〜いセリフを繰り返すだけの[やたらと感傷的な別れ]のシークエンスに力点を置いた場面構成には、絶対に納得がいかないゾ!(殊(こと)に、『ウルトラセブン』(67年)のマニア間での名編、#26「超兵器R1号」のラストシーンのセリフ「血を吐きながら続けるマラソン」を意識した、科学警察研究所・榎田ひかり女史のセリフは噴飯モノ。やっぱ、マニアはしょーがねぇなぁ)
前週までのゴ・ガドル・バとの対決が、意外にも結構盛り上がっていただけに、ヒートアップしたトーンを一度クールダウンさせてメリハリをつける演出上の計算なんだな、と(その時点で)考えていた私が甘かった。(まさか、そのまま二度と盛り上がる事なく終わってしまうとは!)
――続く「EPISODE48 空我」。雨は降り続き、未だ青空は見えず。(タイトルの「空我」とは、「俺(我)の青空」かな?)
雄介は、相変わらず、前話同様に巡礼みたく仲間達に別れの挨拶をして回っており、今回もまた、前回と大同小異のウェットなダイアログ(会話)が延々と展開される前半部に、もぉウンザリ! なんだけど、桜子さんのシークエンスにデジャヴ(既視感)を覚えたのは私だけではあるまい。
前回から続いている一連の感傷的なシーンは、東映メタルヒーロー第1弾『宇宙刑事ギャバン』(82年)#14「愛と悲しみの別れ とどめの一撃!!」で、前回倒せなかった難敵・サイダブラーとの再戦を控えて死を覚悟したギャバンこと一乗寺烈(いちじょうじ・れつ)が、対決の前に子供達と遊園地で過ごすシークエンスや、前出の『仮面ライダーBLACK RX』#44「戦え! 全ライダー」で、クライシス帝国との最終決戦を予感したRXこと南光太郎(みなみ・こうたろう)が佐原一家に別れを告げに訪れる場面を彷彿させてくれる。
雄介も、烈も、光太郎も、これから一命を賭した戦いに臨(のぞ)むなんて一言も告げないし、主人公の身を案じる者達(桜子、ミミー、佐原俊吉)が発するセリフも殆ど同義で、“革命的なヒーロー番組”と称された『クウガ』一流の“静的な”場面構成も、単にその冗長さが異質に感じられただけで、実はヒーロー番組のオーソドックスなパターンを踏襲していたに過ぎなかったってコト。所詮、#47〜#48前半の部分は、内容的に10分位の尺に要約できる程度のボリュームしか具有していなかったのさ。
で、バルバ(バラ女)を新開発の強化型神経断裂弾で射殺(一時的に機能停止・仮死状態になって海に落ちただけ?)した一条サンと合流した雄介は、いよいよ究極のアルティメットフォームに超変身。最強最後の敵・0号=ダグバも遂にその怪人体を画面に現して、一視聴者として“イヨッ、待ってました!”状態だったんですけど、あのォ……
(この時点ではまだ“ドロー(引き分け)だ。来週、改めて決着をつけるんだ”と、祈るような気持ちで念じていたのに、トホホ)
さすがに最終回「EPISODE49 雄介」になると、観る前からある程度の諦めというか、覚悟(?)はできていたんだけど、いざ観終わってみると、やはり東映の高寺成紀(たかてら・しげのり)プロデューサー氏に対して“憎悪”に近い悪感情を抱いてしまいました。
これは、間違いなく“一個人、若(も)しくは若干名による番組の私物化”だ! 毎週毎週、律義に視聴している視聴者をナメとんのか、わりゃ!
こんな大人気ロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20220306/p1)の最終2話みたいにワケのわからん、冗慢なダイアログがダラダラ続く場面を羅列しただけのハナシを、わざわざ3週間に亘(わた)って放送しおってからに―― と、ここまで考えてハタと気がついた! ――なぁ〜んだ、例の〈エヴァンゲリオン症候群〉じゃないか。
・主人公を中心にした主要登場人物の観念的なダイアログのみで大半が構成された完結編、
・“最後のシ者”ダグバの表層的には中性的で慇懃なキャラクター、
・恣意的に未解明のままで終わった数々の謎……
『クウガ』もまた、90年代後半の日本特撮界を席捲した〈エヴァ症候群〉の申し子に過ぎなかったという事実を、最終回に至って自ら暴露してしまったワケやね。
然るに、このラスト3話が、『クウガ』という作品が持つ独特のカラーを雄弁に物語っているのも事実なんですね、厄介なコトに。
端的に言うと、『仮面ライダークウガ』とは、[ヒーローそれ自体]ではなく、[ヒーローのサポーター]を描こうとした作品なのだ。
それ故に、ヒーローである[雄介]とサポーター達[神崎先生・椿・榎田・おやっさん・奈々・みのり・桜子・一条]との別れの場面の演出に、アンバランスなまでに過大なウェイトが置かれていたのであり、更に、より極端な〈ヒーロー不在の最終回〉のプロットの案出に至ったのであろう。
(“物凄いホン(脚本)を書いた”と思っているんだろーな、書いた当人たちは。……本邦日本特撮の膨大な作品数を誇る変身ヒーローものの歴史では、既に70年代後半に『UFO(ユーフォー)大戦争 戦え! レッドタイガー』(78年)など最終回数本前に変身ヒーローが死亡してしまって、残り数話は人間たちで戦う異色作なども存在するのだが)
つまり、“雄介がどうなったか?”よりも、“雄介と知り合った人達がどう変わったか?”が重要だったのだ。
思い返せば、出会った当初は、椿は雄介を研究対象としてしか見ていなかったし、榎田さんもまともに相手にしてくれなかった。神崎先生は大事な約束も忘れているし、杉田や桜井に至っては銃口を向けてしまっている。何より、一条さんにしてから当初の内は雄介を“変人扱い”していたのは明白。
――それが、1年経った今、全員が親密さを超えて雄介に感謝し、その献身的な行動を賞賛するようになっている(夫々(それぞれ)のスタンスの変化のプロセスを、グロンギとの戦闘を介して丁寧に描いていれば、『クウガ』は傑作になっていたのに、惜しいなぁ……)。
幼少時から現実的な思考様式に慣らされている最近の日本の一般的な子供達は、自分が[ヒーロー]になれるなんてハナから信じちゃいない。けれども、ヒーローの力で保護されている[サポーター]ならば、ある程度の同情心と協調性さえあれば、凡庸な人間でもなり得るのだ。
なんとまあ、現代人の心理のツボを突いた、都合のいいロジックであろうか。非凡な才能・能力を有した他人に己の理想の姿を仮託する事でしか、満足感を得られない凡人のフラストレーション(欲求不満)の裏返し、というワケか。
『クウガ』の作劇手法は、見事に(製作者も無意識の内に)その急所を突いたのだ。
故に、ヒーロー自体は“みんなの笑顔の為に頑張る”という、一切のエゴを排除した自己犠牲的なスローガンを体現しただけの、中身の無い空っぽのキャラクターで構わなかったのである。(実際の雄介は、負の感情を完璧に制御できる老成した人物である事が、後々わかってくるのだが)
つまり、やたらに献身的でお節介なヒーローと共に在って〈癒し、癒されるサポーター側のベタベタしたリアクション〉こそが、このドラマの主眼だったってコト。
例えば、#7〜8の夏目実加、#11〜12の神崎先生、#13〜14及び#29〜30の蝶野、#25〜26の霧島拓、#27〜28の恵子先生らは、皆一様に、自分が抱える悩みやフラストレーションを開陳するだけで、自らの手で打開策を講じようとは一切していない。ただひたすらに雄介及びクウガの力に(直接・間接的に)救われ、励まされ、感謝するだけで、[決して、雄介と一緒に戦おうとはしない]のである。さすがの一条さんも、#3以降は、安全な距離を保った位置からライフルや拳銃で狙撃するのが精々だった。
この点、ライダーの窮地を救うべく、遮二無二(しゃにむに)、徒手空拳で怪人に立ち向かっていったFBIの滝和也やおやっさんこと立花藤兵衛(たちばな・とうべえ)、人質にとられても見苦しい命乞いをしなかったライダーガールズ(例外もあるが)、なんとか戦闘員の一人でも倒そうとして必死に応戦した少年仮面ライダー隊の少年達とは、随分と人間の出来が違う。(飽くまでも、新旧作品の〈リアリティの度合いに基づく行動の相違〉ではなく、〈行動動機の作劇センスの相違〉を述べているだけなので、誤解の無いように)
詰まるところ、それは「自分で努力しなくても、強くて親切な誰かが、君を助けてくれるよ」という〈癒し系〉を好む昨今の風潮に巧妙に迎合した作風である。その作風こそが、少子化傾向への対策として[アダルトなマニア層]をターゲットに設定していたスタッフの当初の予想に反して、過保護に育てられたチビッ子層や、他力本願的な女性層に『クウガ』が大ウケしてしまった理由に他ならない。(勿論(もちろん)、演じた俳優のセックス・アピールによる人気も忘れてはならない)
果たして、こうした一大ヒット番組を生んだ作風を築き上げた[高寺コンセプト]+[荒川(稔久)脚本]とは、そんなに優れた代物だったのであろうか?様々な謎や伏線が解明されずに終わったのは、設定やストーリーに故意に隙間を作っておいて、そのブランクを視聴者の想像で補わせる事によって、絶大なる哲学的(?)効果を生んだ『エヴァ』の悪しきノウハウを踏襲したものだとか、劇場版での補完を見込んだ上で、敢えてTVシリーズを未完にしたとか見做(みな)されてはいるが、本当にそうなのか?
――否、そうは思わない。単に、高寺氏のシリーズ構成力と荒川氏の表現能力が不足していただけじゃないのかなぁ。だって、確信犯的なパクリは一目瞭然なんだもの。
『激走戦隊カーレンジャー』(96年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20110521/p1)『電磁戦隊メガレンジャー』(97年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20111121/p1)『星獣戦隊ギンガマン』(98年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19981229/p1)の慢性的な数字の不振の責任をとって戦隊シリーズを離脱した高寺氏が、オリジナル企画『ガーディアン』(後に、『クウガ』の企画のベースとなる)を立案していた当時、甚(いた)く感銘を受けていたに相違ない平成ガメラ・シリーズの諸設定を、タナボタで転がり込んできた仮面ライダー・新シリーズの基本設定に大いに転用しちゃったとしても、無理のないハナシだし、実際に双方の符合点は多いのである。
事実、『クウガ』の新番組予告編のコンセプトは怪獣映画『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』(99年)だったらしい。(0号が遺跡調査団のメンバーを次々に襲うシーンの主観アングルは、イリスが奈良・明日香村の村民を襲う描写の模倣か?)
また、超古代文明が生んだ究極の生物兵器・怪獣ガメラ〈守護神=クウガ〉と怪獣ギャオス〈殺戮者=グロンギ〉が現代に甦って死闘を展開する、というメイン・プロットは全く同一のモノと言っても過言じゃない。
一条薫(いちじょう・かおる)警部補のイメージは『ガメラ2 レギオン襲来』(96年)の主人公・渡良瀬二佐(永島敏行)のエピゴーネンだし、考古学専攻の学生・沢渡桜子(さわたり・さくらこ)役に少し薹(とう)が立った村田和美をキャスティングしたのは、元アイドルの中山忍・水野美紀を知的なヒロイン役に抜擢した事例を踏襲したのであろう(?)。ガメラ〈クウガ=雄介〉と特殊な繋がりを持つ少女・草薙浅黄(くさなぎ・あさぎ)に該当する妹・みのりもまた、太く凛々しい眉(笑)など、顔貌に共通点が多い。
更に、『クウガ』での「警察」の描写も、同シリーズが「自衛隊」を一貫して“正義の味方”として描いているのと合致するし、何よりも“碑文の解読”がストーリー展開の鍵を握っている点からしても、これは間違いなくパクリやがったな、このヤロー! と、敢えて断言しちゃいましょう!?(ところで、桜子さんの解読作業って、いつも他のデータベースを検索しているだけだったと思うけど、その基になるリント文字の解読データを作ったのは誰なの?)
一方、怪獣ギャオスに該当すべきグロンギは、大量殺戮の動機が不明瞭なだけに、その行動原理を掘り下げてゆくと“無意味さ”しか見えてこない。
〈精神異常者〉〈連続通り魔〉〈謎の三国人〉〈チーマー〉〈暴走族〉など、〈日本の善良な一般市民〉がイメージしそうな「暴力」「狂気」「悪」のエッセンスを集約した究極の仮想敵集団、それがグロンギである。だが、それ以上でも以下でもない。イメージが先行し過ぎていた為に、不可解な行動の具体的な裏付けが乏しく、結局、何がやりたいのか判らず終いだった。
まあ、意図的だったのだろうが、人間体時のメーク&コスチュームの印象が強烈過ぎて、相対的に怪人体の〈キグルミの魅力〉が損なわれ、エピソードによっては怪人体に変身する必然性が感じられなかった場合もあり、根本的な作劇コンセプトに対して個人的には懐疑的にならざるを得ない。(もっとも、私はグロンギ語は大好きで、1日に10ぺんくらい「ヂバグ! キョグギン・ザギザザ・ゴ・バダー・バ・ザ!」と叫んで、バダーの変身ポーズを真似していた時期もあったなァ)
所詮、グロンギは『エヴァ』の[使徒]を模倣した設定であり、[未確認生命体第○号]という呼称も[第○使徒]のパクリであり、目的不明・コミュニケーション不能の「天敵」とも言うべき存在、という設定もクリソツであるな〜んて、述べるまでもなかったっスね。
(余談ながら、いずれはクウガかダグバのどちらかに全滅させられる結末が見えてきたシリーズ終盤に至って、奇態なグロンギ人間体の生き残りが集まって鳩首凝議している様は、遠からず全員が〈トトメス〉にパピルスされてしまう運命が見え見えだった東映不思議コメディ『不思議少女ナイルなトトメス』(91年)後半の〈ナイルの悪魔〉の情けない集会の情景がオーバーラップして、可笑(おか)しくって、可笑しくってしょーがなかったですねぇ……って、アレ、私だけ? でも、ナイルの悪魔みたく、豆腐屋や、焼き肉屋に扮して人間社会に潜伏しているグロンギがいたら、もっと面白くなっていたハズ)
ところで、「ゴ」「メ」「ズ」(語源は、牛頭馬頭(ごずめず)か?)の〈階級制度〉は、いったい何の為にあったのかしら? メ・ガリマ・バは自ら「ゴ」を名乗り、必要もないのに「ゴ」のルールに則ってゲゲル(殺人ゲーム)を進める程に「ゴ」に憧れていたが、やっぱり一種の名誉身分なのか? まるで、柔道や剣道の昇段試験のように、一定の殺人ノルマをクリアーすると「ズ」は「メ」に昇級し、その最高位である「ゴ」は難易度の高い条件(ルール)を課せられる。
時代遅れのヘビメタ・パンクスの如き「ズ」集団初期の怪人達は、粗暴にして嗜虐的な性向が露骨で知能も低そうだったが、「ゴ」集団後期のジャーザ、バベル、ガドルなどは、かなり知能が高く独特の気品もあって、嗜虐性・粗暴性は抑制されていて(「ズ」並みに言動が下品だったザザルが「ゴ」であったのは、未だに納得いかない)、むしろ職務的なスタンスで大量殺人を行っているようなニュアンスさえ感じられた。
――そんな〈知的な野蛮人〉達が希求して止まなかった「究極の闇」とは、いったい何だったんだろう?
電撃ショックによる肉体強化のノウハウを会得し、遂に「ゴ」の頂点に立ったガドルが、それでもなお“打倒クウガ&ダグバ”に拘(こだわ)っていた事実からすると、やっぱり〈最強決定戦〉が究極の目的なのか? そんじゃあ、最強の生命体を決めた上で、いったい何をしようってんだい? こりゃ、何としても劇場版でカタを付けて貰(もら)わにゃ、アンチ・クウガ派の腹の虫は収まらない。(やっぱり、タイトルは『ジ・エンド・オブ・仮面ライダークウガ』?)
となると、劇場版『クウガ』製作の可能性が気になるが、もともと2001年度の東映のロードショー枠に空きがあったので、それを埋める為に映画化の企画が持ち上がったらしい。しかし、映画『バトル・ロワイアル』(2000年)の大ヒットによるロングラン、及び『同・特別編』の凱旋公開で上半期の空いていた枠が埋まってしまった。しかも、最も可能性が高いと目されていた9月公開の枠も『仮面ライダーアギト/プロジェクトG4(仮)』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011104/p1)に奪われ、クウガ・ファン有志による署名活動の成果も甲斐なく、目下[無期延期]状態との噂。
ま、『クウガ』以来、来年の平成ライダー第3作目となる次のTVシリーズがハズした場合に、『ウルトラマンティガ』(96年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961201/p1)劇場版(00年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961209/p1)のように2年間のブランクを経(へ)てチャンスが巡ってくるのでは?(そうなると、タイトルは『仮面ライダークウガ ファイナル・オデッセイ』か?)
(後日編註:本稿執筆の5年後の2006年6月1日、公式サイトで『劇場版 仮面ライダークウガ』の製作中止が高寺プロデューサー自らの手により正式に発表された)
――最後に蛇足ながら、ラスト3話について具体的な難点を述べたい。
まず第一に、全編に亘ってメリハリのない[平板さ]に閉口した。故意にクライマックスを否定した〈アンチ・クライマックス〉の演出意図はある程度理解できるものの、登場人物の会話を主体とする静的なシークエンスに於いては、俳優の所作・画面の構図・カットの間・場面のシチュエーション等に余程の工夫を凝らさないと、視聴者が飽きてしまいまっせ。(謎解きがあるわけでもない、簡単に先が読めるような脚本・ストーリー展開の場合は、特に!)
しかし、何よりもガッカリさせられたのは、本来、最高のクライマックスになるべきだった[クウガ VS ダグバ]の雪山の対決の場。戦闘過程の描写の尺的ボリュームが致命的に薄く、人間体の姿での両者の殴り合いに説得力が欠けている。この程度のシーンを観て、「ヒーローがやっている事もまた暴力じゃないのか?」などとホンキで考えた人間の感性を、私は強く疑う。
そんなのは、TVのオタク番組に出演して、臆面もなく“子供の頃からヒーローに憧れていました” とか“人を愛する心と悪に立ち向かう勇気を教えて貰いました”といった類の寝言を並べて“ボクは少年の心を持つピュアでデリケートな人間なんだ”と言わんばかりの顔をしてヤニさがっている、侮蔑すべき人種のチープな思考様式に迎合した戯言(ざれごと)である。
[クウガ VS ダグバ]戦で、ヒーロー(五代雄介)が流していた〈涙〉が意味するものは、本当にそんな暴力であるか否かというような下(くだ)らない事なのか? 両者が人間の姿になったのは、力尽きるまで戦った揚げ句にパワーダウンした為ではなく、もっと違う意味を含んだイメージだったのではないのか?
「EPISODE35 愛憎」で、殺人ゲームの被害者の名を告げるTVニュースの画面に見入る雄介が身を震わせて拳を握りしめる描写が背後からのショットで処理され、その直後に振り向くと、もう普通の表情に戻っているというシーンが印象深いのだが、雄介は〈怒りの表情〉を絶対に他人に見せない。
設定が固まっていなかった#2「EPISODE 2 変身」では、珍しく激昂してズ・ゴオマ・グに立ち向かっているものの、それ以降は、戦いに臨む際には大抵ポーカーフェイスで通している――変身するまでは。
――では、変身した後の雄介は“仮面”の下でどんな表情をして戦っていたのであろうか? いささか陳腐で感傷的な解釈だが、やはり[毎回泣きながら戦っていた]というのが妥当ではないか。恐らく、#1「EPISODE 1 復活」のズ・グムン・バ戦以来、ずっと眼に涙を溜めて歯を食いしばってきたに違いない――戦士クウガの仮面の下で。
故に、この[クウガ VS ダグバ]戦での〈涙〉は“雄介が抑えに抑えてきたネガティブな怒り・義憤という感情を一気に表出させたイメージ”として捉えてこそ有意義だ。
何故なら、それでこそ「仮面ライダー」、それでこそ〈仮面ヒーローのアンビバレンス・相反するふたつの感情〉なのではないのか?(原作マンガ版の仮面ライダー1号・本郷猛が、怒りの感情により表出する改造手術の顔の傷跡を隠す為に仮面を被っていた事を、今こそ思い出そう)
その上、神崎先生が語った幼少時の五代兄妹のエピソード〈妹を苛(いじ)めた上級生に抗議しに行った(喧嘩に行った訳ではなくても、広い意味ではこれもまた戦いであり、決して絶対平和主義ではない)雄介が、泣かされても逃げずに食い下がり、遂には謝罪させた〉も、この解釈により我然意味シン(深)になってくる。
しかも、グロンギ側の狂気(無邪気な笑顔の表情で戦う少年のようなダグバ)を表現する上でも、[クウガ VS ダグバ]戦の人間体での戦闘の画像の挿入は、とても有効であった。だから毎回、グロンギが爆発する直前に人間体に戻って口から血を流して恨めしげに苦悶の表情を浮かべていたら、〈ヒーローの暴力〉というおバカなテーマにも、少しは説得力が宿ったんじゃないかしら?
架空のヒーローの武力行使は、決して〈暴力〉なんてナマ臭いものじゃない、況(ま)してや、愛とか正義とか、そんなウサン臭いものを守る為の方便でもない。ヒーローの鉄拳の意義は、何よりもフィクションとしての説得力によって支えられている。
「何故、彼は拳を振り上げざるを得なかったか?」
――それを十分な説得力を以(もっ)て描く事が、[作り手]の真の責任なのだ。
――そして、大団円。〈高寺成紀プロデュース作品〉の真骨頂は、実はその最終回の幕の閉じ方=[回帰形式]にある。
70年代以来、最終回に於ける特撮ヒーローの一般的な末路は、プロフェッショナルな戦士であるが故に、闘争が終了して平和を取り戻した世界では、自分の居場所を見出だせず、追われるように“行く宛てのない旅”に出発してゆく、という様式化したパターンが濫用(らんよう)されてきたのは周知の事実。
しかし、高寺氏が一貫してスローガンとして掲げ続けてきた[等身大のヒーロー像]の下に創造された〈アマチュアのヒーロー〉(突然ヒーローになってしまった普通の若者)達には、常に“帰るべき場所”(ヒーローになる以前に生活していた場所)が用意されているのだ。
即ち『カーレンジャー』は町工場の自動車会社ペガサスへ、『メガレンジャー』は諸星学園高校へ、『ギンガマン』は甦ったギンガの森へ、各々(おのおの)元の生活に[回帰]していった。
ダグバを倒した五代雄介もまた元の生活に[回帰]してゆくのだが、彼の場合、「冒険」が元来のライフ・スタイルなので、表面的には旧来のヒーローと同じ轍(てつ)(虚無的な旅立ち)を踏んだカタチになってしまっているのは、ちょっと皮肉だ。そして、その旅先であるキューバ・ロケこそが、[問題のラスト3話]を締め括る、ちょー無意味な“とどめ”の一撃なのである。
実質的な主人公である一条薫役の葛山信吾氏が他のドラマにかけもちで出演するようになった所為(せい)で3クール以降のスケジュールは大幅に乱れ、翌年に持ち越された〈雄介絡みの海外ラストシーン〉を除く[最終話]のクランクアップは2000年の大晦日までオシて、次作『仮面ライダーアギト』(01年)のパイロット(#1・2)(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011103/p1)の撮影と進行が並行していた、と聞く。
そんな過密スケジュールをやりくりまでして海外ロケを敢行した理由は、ラスト・シーンを飾るに相応しい、インパクトのある背景〈青空〉が欲しかったから(だけ?)だったのだろうが、如何(いかん)せん『ウルトラマンティガ』の最終回(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961207/p1)にゾロゾロ出てきた子役連中と同様に、現地調達のキューバの子役達には全く生気がなく、一様に表情が死んでいる。
総じて、演出的に見るべきところがない。だいたい、冒険家の雄介が訪れるにしては、あのビーチは余りにも典型的なリゾート地だったんじゃないのかなー?
更に、少なからず気になるのは、雄介の精神状態である。グロンギとの戦いは、雄介にとって、所謂“ベトナム戦争の如き、栄光なき不毛の戦い”であり、精神的には相当に参っているハズで(ダグバとの戦いで、明らかに雄介は精神的パニックに陥っている)、重症のPTSD(心的外傷後ストレス障害)に冒(おか)されていてもフシギではない。
〈いつもより長い旅〉に出た理由は、疑いもなく健全なメンタリティーの回復に長い時間を要したからだ。この点、一条さんが何故、雄介のメンタル面でのケアを怠ったのか(というか、一応リアル志向の作品でそのようにしてしまった作劇上の瑕疵(かし=傷)に)疑問が残る。肉体面を診ている椿のような、精神科の医師かセラピストをもっと早期に手配するべきだったのではないだろうか?(実際、あれだけの修羅場を経験したら、リアルに考えればどれだけストレスが溜まる事やら)
――かくて、まだ精神的に壊れていなかったシリーズ初期(#3「EPISODE 3 東京」)の〈わかば保育園〉のシークエンスへと回帰してゆく雄介の2000の技のひとつ〈ジャグリング〉のパフォーマンスを以て、五代雄介の現実[回帰]の儀式は無事完了する。
さらば、名前(タイトル)だけの仮面ライダー!
ありがとー、五代雄介!
あとは、翔一クンに任せろ!
――え? 「EPISODE50 乙彼(おつかれ)」? ウーン、見たくねー。
追伸1
昨年(00年)は、『クウガ』賛美一辺倒に傾きつつある風潮に一矢報いたいという念に駆られ、僭越ながらついつい特撮雑誌『宇宙船』誌の読者投稿欄への投書に熱を上げてしまいました。『クウガ』的なるモノが特撮番組の主流になってしまうのは、どうしてもイヤだったのです(私見ですが)。
だって、「ヒーローがやってる事も暴力じゃないのか」なんて、ひと昔前のPTAが、特撮ヒーロー番組をバッシングしようとして盛んに提唱していた事じゃないですか。また、アシモフもクラークも読んだ事がないクセに『ウルトラセブン』の怪獣が登場しないエピソードを“高級なSFドラマ”である、と持ち上げてヤニさがっている“偏差値の低そうな自称・マニア”のみなさんや、[やおい]ネタを漁りに出張ってきた女性向け同人作家の方々には、もうウンザリです。(とは言え、最終三話は紛れもなく“やおい”でしたけど……)
とりあえず、『クウガ』の製作過程で我を通し過ぎて、社内に数多くの敵を作ってしまったプロデューサーの高寺氏が、劇場版製作を理由にTVシリーズから外れ、代わって、活劇志向の『RX』を(その最終回はともかく)高く評価していると漏れ聞く白倉伸一郎氏が『アギト』担当P(プロデューサー)に就任した事は、個人的には唯一の救いではなかったか……と考える今日この頃です。
「やはり、反骨を範とする石ノ森ヒーローは官憲の味方ではなく、官憲に追われる立場になくては」なんて、カタい事は申しませんが……とにかく、登場人物が全て善人ばかりだった『クウガ』の世界観には存在し得ない“嫌な嫌な嫌な奴”こと『アギト』の[北條透]刑事が、今年01年の私のイチオシです。
因(ちな)みに、「EPISODE46 不屈」での[榎田女史物語]と[ガドルの死闘]とが無意味に交錯するチグハグな構成を鑑(かんが)みて、頭に浮かんだフレーズ…… それは、ズバリ“ボクにも『クウガ』の脚本は書ける”でした。(でも、グロンギ怪人ドルドのキグルミが、妙にゴッド悪人軍団の怪人ジンギスカンコンドル(『仮面ライダーX』(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20141005/p1))に似ていたのはマル)
(編註:“ボクにも『○○』の脚本は書ける”。大昔、朝日ソノラマ・ファンタスティックコレクションNo.10『空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマンPART2』(78年)にて、怪獣と人間ドラマが分離・並行して進むことを批判する際に、このフレーズが使われた。第2期『ウルトラ』シリーズ、主に『ウルトラマンタロウ』(73年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20071202/p1)が槍玉にあがる。現在では新旧合体ロボットアニメ等も含めてジャンル作品のバトルとドラマの分離・並行の成功例も認識され(というか、悪の軍団が存在する善悪対抗図式の世界観の作品ではほとんどが「人間ドラマ」&「お仕事バトル」で分裂していても違和感がない?)、各所でこの論法の相対化が試みられている)
追伸2
前号『假面特攻隊2001年号』「仮面ライダー」シリーズ大特集。諸氏の御高評の数々を通読して残念だったのは、凡(およ)そ、ドラマ的な側面に於いては、各人各様にディテールに至るまで偏執的な拘(こだわ)りを示しておられるのとは裏腹に、ビデオ『真・仮面ライダー 序章(プロローグ)』(92年)・『仮面ライダークウガ』を除く「仮面ライダー」全シリーズにとって最大の見せ場であり、旦(かつ)、最も中核的な要素である筈の「アクション演出」(擬闘)に対する考察が余りにも浅いという、ちょー悲ピ〜(死語)事実。
殊に、著しく貢献度の高い殺陣師(たてし=アクション監督)の[カシラ(高橋一俊)]氏と、BLACK以降の名スーツアクター[岡元次郎]氏の芳名が、全文中で一度たりとも言及されていないなんて、個人的には全く信じられねぇっス!!(ベテラン高瀬将嗣(たかせ・まさつぐ)氏だって、『七星闘神(しちせいとうしん)ガイファード』(96年)の項で功績(殺陣師、兼監督!)を評価されているというのに……)
貴兄イチオシの『RX』(余談ながら“3代目おやっさん”は[きたろう]氏ではなく、『RX』佐原一家のおじさん・佐原俊吉こと[赤塚真人]氏だ!)だって、岡元氏が演じた華麗なライダーアクション(特に、剣殺陣!!)を抜きにしては語れないでショ…… って、私だけの思い込み?(因みに、同氏[Okamoto Ziro/Jiro]のイニシャルこそが映画『仮面ライダーZO』(ゼットオー)及び映画『仮面ライダーJ』(94年)のネーミングの由来であると、頑なに信じている私)
その反面、活躍頻度が少ないワリに[成田兄弟]のオートバイ・スタントに対する賛辞が見られるのは、アクションが極端に抑制された『クウガ』故のカウンター効果でしょうか? 最近、[高岩アギト](高岩成二 たかいわ・せいじ)のキレの良さを見ている内に、ヒーロー未経験の新人[富永クウガ](富永研司)のスーツアクター・キャスティングこそが、同作品が私にとって鬼門となる元凶だったのだと、改めて痛感しました。
仮面ライダークウガ 〜最終回評6 是々非々!
「仮面ライダークウガ」について思うこと
(イラストエッセイ。後日、画像キャプチャーして、過去日付記事などにUP予定!
『假面特攻隊2001年号』「仮面ライダークウガ」関係記事の縮小コピー収録一覧 〜序盤の反響
・読売新聞 2000年2月6日(火) TV覧読者投稿・放送塔 暴力シーン多くてがっかり 〜主婦の意見。マニア向けなら深夜に放映すれば
・読売新聞 2000年2月19日(土) TV覧・放送塔から 暴力・残酷シーンへ反響相次ぐ
・読売新聞 2000年4月26日(水) 情報ボックス 仮面ライダークウガに賛否 〜製作者も発言
・日刊スポーツ 20000年4月8日(土) 野上彰が出演「仮面ライダークウガ」
・読売新聞 2000年10月17日(火) 質問箱
・読売新聞 2000年12月6日(水) 伸彦役 葛山信吾 〜「渡る世間は鬼ばかり」伸彦
・読売新聞 2000年12月9日(土) 土曜芸能 燃えるライダーファン 15代目「クウガ」映画化へ署名運動 〜主に主婦が中心
『假面特攻隊2002年号』「仮面ライダークウガ」関係記事の縮小コピー収録一覧 〜最終回賛否!
・読売新聞 2001年1月16日(火) TV覧読者投稿・放送塔 クウガ登場せずがっかり
・読売新聞 2001年1月24日(火) TV覧読者投稿・放送塔 大人も見ている「クウガ」
・読売新聞 2001年1月28日(火) TV覧・放送塔から 「クウガ」ドラマ仕立てに賛否
・読売新聞 2001年2月7日(水) TV覧読者投稿・はがき通信 私も夢中に
『仮面ライダークウガ』平均視聴率:関東9.7%・中部12.5%・関西9.1%
1クール目:関東9.2%・中部12.1%・関西9.2%
2クール目:関東9.7%・中部14.1%・関西9.1%
3クール目:関東9.8%・中部12.0%・関西9.1%
4クール目:関東10.4%・中部11.8%・関西8.8%
最高視聴率:関東11.8%(最終回)・中部17.9%(#19)・関西11.7%(#13)
最低視聴率:関東7.2%(#23)・中部6.8%(#46)・関西6.0%(#46)
(10%越え:関東23回・中部46回・関西13回)
『仮面ライダークウガ新春スペシャル』:
2001年1月2日(日)8:00〜10:00放送:関東5.1%(中部・関西は未放映)
パワーレンジャーFOREVER RED 〜戦隊を逆照射!
[関連記事] 〜『仮面ライダークウガ』全記事一覧
仮面ライダークウガ 〜前半合評1 ヒーローの性格の現代性
仮面ライダークウガ 〜前半合評2 リアルか否か? 大人向けか否か?
仮面ライダークウガ 〜前半合評3 リアルか否か? 大人向けか否か?2
仮面ライダークウガ 〜前半合評4 ★前半総括・怪獣から怪人の時代来るか再び★
仮面ライダークウガ 〜前半合評5 周辺事情 & 敵怪人考察
仮面ライダークウガ 〜後半合評1 「自衛のための共闘の肯定」と「過度な暴力の否定」
仮面ライダークウガ 〜後半合評2 最終回直前! 雄介の変調!
仮面ライダークウガ#10「熾烈」 〜BGM差し替え真相分析!
仮面ライダークウガ最終回 〜終了賛否大合評
(当該記事)
[関連記事] ~ライダーシリーズ総括
(ライダー各作品の「終了評」の末尾に、関東・中部・関西の平均視聴率を加筆!)
『仮面ライダークウガ』前半・総括 ~怪獣から怪人の時代来るか再び
『仮面ライダークウガ』最終回・総括 ~終了賛否大合評
『仮面ライダーアギト』最終回・総括 ~終了評 ―俺の為に、アギトの為に、人間の為に―
『仮面ライダー龍騎』最終回 ~終了賛否合評1
『仮面ライダー響鬼(ヒビキ)』最終回・総括 ~後半評 路線変更後の所感
『仮面ライダー電王』 ~後半評 複数時間線・連結切替え!
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『仮面ライダーディケイド』最終回&特別編「世界の破壊者」 〜再放送・編集版!
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ASIN:B00005NDGM:TITLE(#42〜45)(#46〜49・最終巻)
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