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『海賊戦隊ゴーカイジャー』(11年)#44「素敵な聖夜」に、戦隊シリーズ『バトルフィーバーJ』(79年)のバトルケニヤ・曙四郎(あけぼの・しろう)こと大葉健二が登場記念! 映画『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン』(12年)に、ギャバンならぬバトルケニヤ・曙四郎も登場記念! とカコつけて、『バトルフィーバーJ』合評を発掘UP!
『バトルフィーバーJ』合評
『バトルフィーバー』のおはなし
(文・上尾五郎)
(1992年12月執筆)
70年代アイドル・ピンクレディーの『カメレオンアーミー』(!)の鳴り響くレコード屋の店内。その喧騒をよそに、ひとり同店の試聴室にこもった彼は、『ボルガの船歌』に耳をかたむけるのであった。
いきなり何事かというと、これは『バトルフィーバーJ』(79年)の一場面であり、彼というのはフィーバー隊のバトルコサック白石謙作のことである。先輩である国防省の参謀が、敵組織エゴスに殺され、その先輩の愛唱歌だった『ボルガの船歌』を聴きながら、コサックは静かに復讐を誓う。
この、世間がピンクレディーなんぞで浮かれているときに、『ボルガの船歌』ってなセンスが、世人と一線を画した戦士の孤高さを表現しているようで、妙にカッチョいいのだ。こういうシーンは、墓前で夕陽を浴びながら拳をにぎりしめるという、絵になる描写がパターンだと思うのデスヨ。まあ、故人の遺品や思い出を小道具にするのもよくあるパターンだが、このコサックのシーンは、彼だけをかっこよく描いているわけではなく、騒然としたレコード屋の情景も同時にとらえているのだ。
『バトルフィーバー』というのはかくの如(ごと)く、ディテール描写にこだわった作品で、その芸の細かさは枚挙にいとまがない。
殺人事件ばかりとりあげてナンでございますけど、フィーバー隊のミスアメリカ・ダイアンマーチンの父であるFBI捜査官が、やはりエゴスの兇刃(きょうじん)に倒れる。
海岸で悲しみにくれるダイアンだが、呼びに来た四人の仲間に気づくと、強(し)いて笑顔を作り、
「何も言わないで」
バトルジャパン伝正夫(でん・まさお)は黙ってうなずき、ただ優しく「将軍が呼んでいる」と言うだけなのだった。
(実のところ、このFBIおとっつぁんの昇天はまったくの蛇足なのだけど、ジャパンのダイアンに対する思いやりの伝わる前述のシーンのために全国五千万のバトルフィーバーファンは、目をつぶるのである!)
『超電子バイオマン』(84年)〜『高速戦隊ターボレンジャー』(89年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20191014/p1)までの戦隊シリーズをワタクシは絶叫劇場と名付けているのだけど、もう登場人物が敵味方レギュラーゲストを問わず、何かあるとやたらに激昴(げっこう)し喚きちらして、鼻の穴ふくらまして説教開陳して、人の胸ぐらつかんじゃゆさぶり、地面にはいつくばっちゃ転がりという大騒ぎを演じるので閉口してしまう。
そこへいくと『バトルフィーバー』は表現を抑(おさ)え、セリフやナレーションで多くを語らないがために、逆に悲しみが際立ったり、それに押しつぶされない強さが感じられたり、人への思いやりが見られたりして、キャラクターに深みが出ていると思うのである。
誤解のないようにつけ加えておくと、それは何も斜(はす)にかまえてハードボイルドを気どっているわけではなく、喜怒哀楽の極端なデフォルメがないということなのだ。彼らバトルフィーバー隊は自然に笑い、自然に泣き、自然に怒り、時にかっこよくキメる。人間を描くってのはこういうことよ。
そして気負ったところがないという作風は、尋常ならざる局面に立たされた登場人物が、しかし平然とした反応を示すというスパイもののパロディドラマ『それ行けスマート』(65年アメリカ・68年日本放映)ばりのギャグシーンをも生む。
エゴスのヘッダー指揮官(この時はまだ潮建志サン)が陣頭指揮をとり、フィーバー隊の戦艦バトルシャークを陽動するため、レーダー基地を占拠する。ヘッダーはバトルシャークを罠にかけ悪ノリして大喜びである。
するとそこへ侵入した少年がいて、物かげからヘッダーの様子をうかがい一言
「バッカみたい」
(ちなみに、この少年がヘッダーを発見したときに「イタチみたいなおじさんがいる」とつぶやくのだ。むかし東映の『河童の三平(かっぱのさんぺい) 妖怪大作戦』(68年)のイタチ男を潮サンが演じていたという楽屋オチなんだろうけど、誰に向けてのギャグだコレは)
基地を脱出した少年はフィーバー隊と出くわし、
「レーダー基地に変なおじさんがいるよ」。
このアッケラカンとした態度は何ざましょ。
“スナックケニヤ”のトイレは、フィーバー隊の海底基地ビッグベイザーへの連絡通路となっている。何故かスナックのマスターは一般人でそのことを知らない。
バトルケニア曙四郎(あけぼの・しろう)は、いつもその通路を利用しているのだが、今日も今日とて店に入ってくるやいなやトイレに直行する。
マスター不審顔で
「トイレに入っちゃあ出てこねえんだよな、あの男」。
というのは、思いつくままに列挙したにすぎず、この作品はこの他全編にわたり細かいギャグが無数にちりばめられている。
この世界ではエゴスの誇るボンクラ、ヘンショク怪人やベンキョウ怪人も異和感なく存在できるのである。
さて、お話はガラリと変わって、ある日、フィーバー隊の連絡隊員ケイコの弟マサルくんはテストで0点をとって帰ってきます。ケイコの小言をくらったマサルくんはふてくされ、野原へ行ってゴロリと横になるのであります。
そしてマヌケなBGMをバックに
「たまにはいいとこ見せたいよなあ」
と一人ごちるのでした。
学歴問題をテーマにしたシリアスな『超獣戦隊ライブマン』(88年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20110919/p1)あたりならまた、人間の値打ちは学校の成績だけじゃないんだ! という安直な二元論の方向にどシリアスにふんばってしまうところだが、マサルはそんな風に開き直ったりはしない。0点をとったけれど、それでいいと思ってるわけではないのだ。
つまり本質的には分かっちゃいるわけで、ならば上辺(うわべ)が多少チャランポランでも(たまには0点をとっても)いいじゃないかという大らかさが、この作品の根底にはあり、それは遊び好きなバトルフィーバー隊の面々の描写にも反映されている。
ただし、いくら本質がしっかりしていても、やはり行動に表さなくては同じことであり、フィーバー隊はそこをキチンと描いているのである。
例えば、彼らは遊びまわるのに忙しくて、頻発する怪事件がエゴスの仕業(しわざ)であると断定されるまでは腰を上げようとしない。ジャパンが協力を頼んでもコサックはテレビゲームに夢中だし、ダイアンはみゅーじっくにのってふぃーばーしちゃっている。だが、ジャパンの調査により、ひとたび事件にエゴスがからんでいると知るや、コサックもダイアンも気色(きしょく)を変える。
別の事件で、ケニヤがバトルフランス志田京介に協力を要請する。が、フランスは優雅にプールで水泳としゃれこんでいてハナもひっかけない。しかし、事件を調べているうちエゴスの襲撃を受けて負傷して帰ってきたケニヤには
「悪かったな」
と言ってオレンジジュースなんぞを飲ませてやったりするのである。
だが、そんな調子では、平和を守る者として遅きに失してしまうことがあるかも知れない。そこで彼らフィーバー隊を統率するため、厳格な指揮官、倉間鉄山(くらま・てつざん)将軍が登場する。
フィーバー隊はこの鉄山将軍に対して、ハミダシキャラクターにありがちな
「るせーな! わーったよ!!」
といった態度はとらず、将軍の一喝を浴びてウヘッと首をすくめつつも、指令が下ると
「了解!」
と気持ちよく飛びだしていく。
このへんの呼吸の妙は雰囲気としてサイコーなのだ。それは多面的に人物を描いているからであると思う。
で。コサックは孤児なのである。エゴスのために孤児にされてしまった少年と心を通わせる描写などもあり、つらい思いをしてきたであろうことは想像に難くない。
だが、普段の彼にはそんな様子はなく、ケイコが
「マサルが宿題をやらない」
と言ってこぼしていると、横から出てきて
「宿題ならオレもやらなかったよ」
などとマジメな顔して軽く言い放ってしまう男なのだ。
そのコサックが死んだ。
目前でエゴスに父を殺され、錯乱して暴力に対して敏感になっている少女に、立場はどうあれ戦士である彼もまた人殺しの同類ではないかと糾弾されてコサックはショックを受ける。
強化服に空しいものをおぼえた彼は、持たずに出かけて、エゴスの兇弾を浴びてしまう。コサックの強化服を持ってあとを追ったバトルフィーバー隊は、だが間に合わず、彼の最期(さいご)を看取ることになる。
死にゆくコサックは素顔のまま目を閉じるが、これからも戦わなければならない他の四人は、強化服を身につけた戦士バトルフィーバーの姿である。無表情な仮面の四人は、仲間の死に言葉もなくただ嗚咽(おえつ)するしかすべがない。
彼らのこの強化服は、この戦いは、二度とこうした悲劇をエゴスに繰り返させないためのものなのだ。コサックの、いや謙作の遺体に敬礼をささげたバトルフィーバー隊は、決然と戦いに赴く。全国五千万バトルフィーバーファンは、このセンスに酔い痴れるのである。
登場人物のあるべき姿などは無視して、かいじゅーだ、ろぼっとだといった要素だけが暴走してしまい、世界でも類例を見ない奇形的な発展をとげた本邦お子様向けテレビマンガの世界において、かかる凝ったキャラクター描写を打ち出したことを評価したいのだ。
無論、そうした前例がないわけではなく、例えば『怪奇大作戦』(69年・円谷プロ)などは、その滋味において比肩するものがない。だがしかし、あの本格ドラマ指向の『怪奇』ならいざ知らず、こんな五人ものヒーローが、おとぼけ怪人相手にスポーツ的な戦闘をくりひろげ、あげくの果てに巨大ロボが出てきてそのパターンが毎回同じというようなアチャラカ番組において、感情移入可能なキャラクターを創りだし、のみならず、それが遊離せず逆に作品を面白く、ヒーローをかっこよく見せるのに貢献しているという点に着目したい。
強引に、あくまで強引に、似た例を特撮ヒーローものから挙げるとすれば、『スペクトルマン』(71年)の公害Gメンや『ウルトラマンタロウ』(73年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20071202/p1)のZAT(ザット)がフィーバー隊に近い雰囲気を持っているかとも思う。が、あの方々は変身するわけではないし、年も年なのであまり躍動感はなく、そう考えると和気あいあいとしたなかに、ポップなかっこよさをあわせ持つバトルフィーバー隊というのは、やはり稀有(けう)な存在だと思うのである。
(魅力的なキャラクターが五人集まったときには五倍の威力を発揮するのだ! 五人でなんぼとはワケが違う。元祖『秘密戦隊ゴレンジャー』(75年)は、アカレンジャーとアオレンジャーが他の3人とは別格という風に年功序列があったりして、だから僕は全員対等なフィーバー隊の方が好きだ)
では、『バトルフィーバー』というのは、マニアックなキャラクター描写だけがとりえのオタッキーな作品なのかというと、まあ実際問題オタクである僕がオタッキーではないなぞとワメいても説得力がないのだけれど、あえて否と言おう。(オタッキーというならば、物語にタテ糸を導入した『バイオマン』以降の「戦隊」の方がよほどオタッキーだ)
ヒーロー番組の視聴者といえば、これはもうオタクと幼児と相場が決まっている。そして『バトルフィーバー』が幼児にアピールする要素は現行(92年12月現在)の『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20120220/p1)よりも多いように思うのだ。
何よりもヒーローが強い。バトルフィーバー隊は、街でエゴスに遭遇するや直ちに変身して戦い、しかもほとんど劣勢に立つことなく、ひたすら強い。
なかなか変身せず、ようやく変身しても、爆発にぶっとばされて変身が解けてしまうような昨今の戦隊とは、ヒーローの露出時間といい、殺陣(たて=アクション)といい、その存在感が格段に違う。必要以上のキメポーズもなく、だから黒仮面怪人を倒したあと、潮風にマフラーをなびかせて、一瞬岸壁に立つフィーバー隊の美しさが映えるのだ。
そして音楽。突拍子もない扮装の東映ヒーローたちに、渡辺宙明のメリハリのきいた音楽は絶妙にマッチしている。殊(こと)にこの作品は選曲センスもシブい。過去の作品からの流用BGMも多いが、大丈夫、ガキにはばれないって。
バトルフィーバーロボ。登場前にアオリたてたわりには、すぐにワンパターンと化してしまい、これに関してはあまり誉められない。だから極私的な感想でフォローしよう(ズルいぞ)。
かっこいいのだ。腕からチェーンクラッシャーを射出して振り回すところといい、アタックランサーを構えるところといい、そして電光剣のサヤを抜きはらうところといい、一挙手一投足がキマっている。6話(巨大ロボの初戦は5話なので2回戦目)の対ドグウロボ戦などは戦隊巨大ロボ戦史上、有数の重厚な名勝負であると思う。
以上、長々と述べてきたのは、要するにディテールのセンスの良さとアクションのカタルシスについて、である。『バトルフィーバー』の魅力とは、実にこの二点のみに集約されてしまい、逆に言うなら他の部分は語るに足りないのだ。
悪の組織が、巨大ロボ――等身大怪人そっくりの存在で怪人の弟という設定――を持ちながら、何ら有効な使い方をしないという脚本の手抜きや、シリアスな回や最終回までもが、いつもの戦闘パターンで展開してしまうという極度のワンパターン等々、この作品への不満は多い。
だが、先に挙げた二点の魅力が、そうした不満よりもまさっているのが、この作品なのだ。
結論。『バトルフィーバーJ』とは傑作ではなく、いぶし銀の凡作なのである。
『バトルフィーバーJ』寸評
(文・坂井由人)
(1992年初夏執筆)
幼児誌「テレビマガジン」で新番組の特報が初めて載った時、モノクロ頁にイラストで紹介されたのよね。でもって番組枠(関東)が土曜午後6時の10チャンネルとある。
覚えているヒトがいると思うけど、この枠はそれまで『超電磁ロボ コン・バトラーV』(76年)から『闘将ダイモス』(78年)まで、故・長浜忠夫カントクのメカロボアニメ路線の時間枠だったでしょ。だもんで私ゃ順当に、コレはその後番として東映制作、サンライズ制作協力のメカロボットアニメかと思ったのだ(頁の下の方にちゃんと東映の版権マークも入ってたし。←そりゃそうだ)。これホントの話です、インディアン嘘つかない(マルC伝説を肯定する男)。
1話前半のアダルトムードは戦隊シリーズ第2作『ジャッカー電撃隊』(77年)の初期編を凌ぐんだけど、あの後半のダンスアクションは個人的には流石(さすが)にノレなかった(まー、毎週見てる内に馴れたけどよ)
戦隊シリーズにワンパなロボット戦を定着させたという意味で攻撃も可能な作品。だが、当時のあたいたちは前年の東映版『スパイダーマン』(78年)で免疫が出来てたし(巨大ロボ・レオパルドンの必殺剣ソードビッカーのバンクフィルム!)、初期編でバトルフィーバーロボを徐々に建造してゆく映像の重厚さをイメージベースにしていたので、あんまし不満が湧かなかったのよね。
1年間の番組としても二度に亙(わた)る主人公側メンバーの入れ換え等ドラマチックで凄いシリーズ構成だったし(この頃はまだ特撮ファンダムに足つっこんでもいなかったから、背後に隠された色々な事情も聞こえてこなかったのだ)。
ただ、惜しむらくは『バトル』放映時間枠30分前の時間帯に関東エリアではアレ――後日編注:『機動戦士ガンダム』(79年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19990801/p1)――をやっていて、私事で恐縮だけど弟や周囲にいるこちらの世界の住人と「そっちの方」ばっか熱入れて観てたということ(メカロボアニメとしてはその他に長浜カントクによる『未来ロボ ダルタニアス』(79年)も目一杯楽しんでいたし、思えばいい時期だったよなあ)。
そのため『バトル』にもう一つ身が入らなかったのは事実かも。
ひかひ結局、この年の土曜夕方に始まった二つの作品系列は十年経(た)った今でも、両方とも絶えることなく継続しているのである(いとおそろし)。
(後日編注:1992年当時の表記なので、2012年現在だと30年以上がすぎた今でも、『ガンダム』『戦隊』両路線ともに絶えることなく継続していることになる!・汗)
『バトルフィーバーJ』短評
(文・いちせたか)
(1992年上半期執筆)
企画自体は東映の実写TVシリーズ『スパイターマン』(78年)で見せたアメリカのマーベルコミックスヒーロー + 巨大ロボットの路線の継承だったらしい。が、結果としてどう見ても元祖『秘密戦隊ゴレンジャー』(75年)の孫と言えるものに帰結してしまったのは不思議な話である。とは言え、その斬新な設定が『ゴレンジャー』のプロットを再生、以来10数年に渡り途切れることなく続く『スーパー戦隊』の礎(いしずえ)となったことは大変喜ばしい。
キャスト面はかなり充実しており、ある意味では『ゴレンジャー』に次ぐベストメンバーとも言える。
5人の設定は基本的には紅一点のミスアメリカことダイアン・マーチン(FBI秘密捜査官のアメリカ人女性)を除き軍属と言えるものであるが、ふだんから私服姿で軽妙に活動しており、軍属の設定から連想されるような厳しさはあまりない。むしろセミプロ的な呑気(のんき)さがあり、これは次作『電子戦隊デンジマン』(80年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20120205/p1)で青春ドラマ的な要素として開花していく元となった。
一応リーダーはバトルジャパン・伝正夫(でん・まさお)だが、5人はほぼ同列である。女性を除き普段からコードネーム(国名)で呼び合う特異性もあって、一種独特のアダルトな魅力を備えている。
今をときめく人気声優の日高のり子――大ヒットした青春野球アニメ『タッチ』(85年)のヒロイン・浅倉南が代表作――がフィーバー隊の連絡員・中原ケイコ役で伊藤範子の名でレギュラー出演していたのは有名。
だが、やはり特筆すべきは東映の御大(おんたい)・東千代之介(あずま・ちよのすけ)先生をバトルフィーバー隊を束ねる国防省の倉馬鉄山(くらま・てつざん)将軍役としてかつぎ出したことだろう。先生なくしてはバトルフィーバー隊が必殺技ペンタフォーズでも倒せなかった四面怪人を鉄山将軍自らが出陣して斬り倒す37話「電光剣対風車剣」や、鉄山将軍とヘッダー指揮官の一騎打ちを描く50話「将軍を狙う覆面鬼」での名対決はありえなかった。
後半、ダイアンの帰国とバトルコサック白石謙作の戦死という大人事異動があるせいもあって、ダンシングソルジャーの設定が必ずしも十二分に生かされていたとは言い難い(2代目バトルコサック・神誠(じん・まこと)がコサックダンスしたら笑える)。
が、各人の名乗りポーズや、『ゴレンジャー』のモモレンジャーこと変身前のペギー葉山を演じた小牧りさ氏をスーツアクトレスに起用して大胆にハイレグ姿の女性らしいプロポーションを強調したミスアメリカ――小牧氏は初代ミスアメリカの声も担当――、のちに『太陽戦隊サンバルカン』(81年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20120206/p1)のバルパンサー(イエロー)で完成の域に達するバトルケニヤのアニマルアクションなどは確かに新鮮味があり、アクションシーンに一味違う魅力を加えていた。
余談になるが、本作はバトルフランスとバトルコサックの序列があまり明確にされていない。主題歌やブルーである体色から一応フランスがNo.2であると個人的には解釈しているが、オープニングの画面や1話でのスーツの並びではコサックが先である(名乗りもコサックが先のときは多い)。
おまけに2代目バトルコサック神誠の加入後は演じる伴直弥氏(後日註:97年以降は72年当時の伴大介の芸名に戻された)――『人造人間キカイダー』(72年)や『イナズマン』(73年)に『忍者キャプター』(76年)の主人公役でも有名――の貫禄でよけいコサックが上に見えてしまう。5人が同列と前述したものの、一応はハッキリさせておいてほしいのだ……。
巨大ロボット・バトルフィーバーロボは変形合体がない分、以後のハコ型のロボットに比べてプロポーションが良い。鎧兜(よろいかぶと)風のデザインと、日本刀型の電光剣による無骨なイメージもなかなかだ。
特にその電光剣による必殺技「唐竹割り」は、頭上に横一線で掲げた鞘(さや)から剣を抜いて、時代劇ヒーロー・眠狂四郎(ねむり・きょうしろう)の円月殺法(えんげつさっぽう)のように切っ先で残像を残しつつ大きな円を描いてから縦一線に一気に斬る! までの一連の重厚な動作が、夜景をバックに合成を多用した特撮演出もまじえて見事である。
エゴスは、邪教集団の性格上、子供も殺す非情な作戦が多い半面、愉快犯的な作戦も多い(時の話題とは言え「口裂け女」=「口裂け怪人」には大笑いだ)。良くも悪くものちの戦隊シリーズに影響を与えた感がある。
エゴス幹部・ヘッダー指揮官役の潮建志(うしお・けんじ)から石橋雅史(いしばし・まさし)への役者の交替はそれぞれの良さもあって一概には決められないが、「変更」ということだけで見れば残念ではある。中盤から登場した女子プロレスラー・マキ上田扮する女敵幹部・サロメは、演技的にはともかくイメージ的には強く視聴者にアピールしたことは間違いない。生身のアクションも彼女ならではの魅力で評価しておきたい。
しかし最大の謎であったはずの首領サタンエゴスの正体が、結局何ひとつ明かされなかったのはやはり難点といえる。
ともあれ、本作によって『戦隊』の扉は再び開かれたわけである。そしてあまたの連作シリーズの1作目がそうであるように、本作もまた、のちの作品で開花する様々な要素を詰めこんだ、宝石の原石の如(ごと)き魅力を備えているのである。
……ちなみにレコード化されていない挿入歌が本編で数回使用されていることも、念のため。
(後日編註:後年の96年、『バトルフィーバーJ コンプリートソングコレクション』(ASIN:B00005ENCW)に幻の超名挿入歌「明日(あした)の戦士たち」が放映17年目にしてようやく音盤として初収録された。その歌詞が、スーパー戦隊35作記念映画『ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦』(11年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20201108/p1)で戦隊OBたちがゲストのサラリーマンを励ますセリフの元ネタになっていることは好事家の知るところだ……)
『バトルフィーバーJ』における当時の若者描写と鉄山将軍の描写
(文・久保達也)
(2002年7月執筆)
スーパー戦隊シリーズ第3弾『バトルフィーバーJ』(79年)は非常に得をした作品だったように思う。
実は最近本作のビデオを全話入手し、第24話『涙! ダイアン倒る』まで観た。ごく初期のスパイアクション風味の回を除いては、思ったよりチャイルディシュな作風で子供も頻繁に登場し、彼らの身辺で事件が発生することが多く、エゴス怪人もわりとコミカルに描かれており、同年の『(新)仮面ライダー』(79年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210102/p1)後半のコメディ路線に近いノリが感じられるのだ。
バトルフィーバー隊も当時の「いまどきの若者」風で、ディスコや(スペース)インベーダーゲーム――当時喫茶店等に置かれて大流行したビデオゲームの始祖――に興じたりと遊び人集団の趣(おもむき)がある。基本的に本質的なところでは、近年のやや軽い戦隊集団と大差ないと思う。
要するに『百獣戦隊ガオレンジャー』(01年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20110529/p1)で批判の矢面(やおもて)に立たされたコメディ路線・軽いヒーローたちの要素を『スーパー戦隊』の始祖に近き作品がすでに内包していたのであり、何も『ガオ』だけがとやかく云われる筋合いはないと思うのだ(笑)。
そんな近年の『スーパー戦隊』と大して変わらない(?)印象の作品『バトルフィーバーJ』が、第1期ウルトラや東宝特撮映画に圧倒的に評価が集中し、東映ヒーローなんぞ軽んじられる風潮が強かった第3次怪獣ブームの渦中であるにも関わらず、特撮マニアから――といっても当時はオタク第1世代(1960年前後生まれ)のマニアしか年齢的に同人活動や商業誌に進出しておらず、そのまた中のごく一部のマニアから(笑)――実はわりと高い評価を得ていて、同人ファンサークルまで作られたほどだったのだ!!
それはナゼだろうか?
70年代末期に日本初のマニア向け書籍があまた発行されて、年長マニアの存在が可視化され共同体や論壇らしきものも漠然と形成されていくさなか、しばらく途絶えていたミニチュアによる巨大特撮・巨大怪獣ものが、第3次怪獣ブームの時代において最も早い79年の2月に本作にてひさびさに復活を果たすことになり、先鋭的な特撮マニア諸氏の注目も集めていたこと。
当時としては質の高かった特撮シーン(矢島信男・佐川和夫が担当)や、『組曲』(ASIN:B0001A7V7O・ASIN:B00005ENBJ)として作られた渡辺宙明(わたなべ・みちあき)作曲の完成度の高い音楽――曲数不足や使いづらさのためか、同じく渡辺音楽の『イナズマン』(73年)や『秘密戦隊ゴレンジャー』(75年)、『超神(ちょうじん)ビビューン』(76年)等から音楽が大量に流用されている――等、マニア受けする要素は色々あったとは思う。
そして本作は、ウルトラシリーズでいうところのアンテテーゼ編である佐々木守脚本・実相寺昭雄監督作品にも通じるものがある、などという持ち上げられ方までファンダムの一部ではされていたのだ!
こう書くと誤解を招きそうではある。だが要は、本作における独特の若者像の描写や、等身大の敵怪人が
「弟よ〜〜!」
と叫ぶとそっくりの姿をした敵の巨大ロボ(笑)が登場するというシチュエーション、いささかムリがある作品の基本設定自体を、バトルフィーバー隊自身が鳥瞰(ちょうかん)・客観・メタ視したかのように、
「また出やがった!」
と叫ぶような要素が、まだ10代後半から20代前半であり、若くてボキャブラリーが貧困で批評論法も充実していなかったオタク第1世代の特撮マニアの一部にとっては、前代未聞の異色な描写でありハイブロウ・高尚に見えたということを、「佐々木・実相寺路線のようである」と例えて表現してみせていたのである(もちろん当時の子供たちの方は、本作を異色作だとかハイブロウだとかと思っていたわけはないのだが・笑)。
だが、個人的には国防省の倉間鉄山(くらま・てつざん)将軍の存在が、当時の特撮マニア諸氏にはあまり意識されていなかったろうけれども、バトルフィーバー隊が無軌道に陥(おちい)ることのブレーキ・重石(おもし)として機能していたことも大きかったのではないかと思う。
バトルフィーバー隊は80年代中盤〜90年前後のバブル期の軽薄・軽躁、お笑いコンビ・とんねるずの「イッキ! イッキ!」(お酒の一気飲みを囃(はや)すこと)のような強迫・脅迫的な明るいノリやテンション至上主義の若者像ではむろんない。
しかし、70年安保の政治的な学生運動世代や、学生運動に敗れて政治活動に失望し私生活や恋人至上主義に走った70年代前中盤の湿っぽいフォークソング世代にやさしさ世代、またの別名・シラケ世代とも異なる。
70年代末期のそろそろ80年代的な大衆消費享楽主義に走ろうとするもまだまだ節度と抑制もあった、当時の程良い感じに軽妙な、70年代末期〜80年代初頭当時の新進気鋭・大友克洋の漫画の主人公たちにも少し通じるような適度に乾いた若者像であったのだ。
その遊び人的なスタイルも、さして意味もなく反抗・ツッパリそれ自体が自己目的化したような、野放図・放埒に流れたようなイヤミな感じのものではない。鉄山将軍に一喝されればウヘッと肩をすくめて申し訳なさそうにするのは、バトルフィーバー隊が物の道理を知らないのではなく、道理をわかった上でまだモラトリアム(執行猶予・青春期の延長)で遊んでいたい80年前後の若者たちであったからだ。
そんな彼らがさらに鉄山将軍とワンセットで描写されることによって、バトルフィーバー隊の遊び人的なイヤミが脱臭されて、どちらかというとマジメで不器用で遊び人とは程遠いタイプである当時の年長の特撮マニアたちにとっても抵抗を感じなくなり、ゆえにこそ当時の現代的な若者像であり斬新な描写である、というような持ち上げられ方をしたのではなかろうか?
鉄山将軍を演じた初老の東千代之介(あずま・ちよのすけ)は、長身痩身で背筋がいついかなるときもスッと伸びている印象がある東映時代劇の黄金時代の元・大スターだ。デビューした1954(昭和29)年には50本もの映画に出演したという大御所である。
にもかかわらず、氏の本作における演技の姿勢は「子供番組だから」とバカにしたところがなく実に真摯なものであった(いや内心ではバカにしていたのかもしれないが・笑)。その凛とした演技は作品全体をピリッと引き締めるだけでなく、バトルフィーバー隊の若者的な脱線・放埒・暴走を食い止めることにも大いに貢献していたのである。
国防省のおエライさんが子供たちの身の回りで起きるようなご町内レベルの事件を指して
「エゴスの仕業(しわざ)だ」
などと口走るのは一見すると滑稽に思えるのだが、これを東千代之介がやると異様なまでの説得力が感じられ、
「バトルシャーク(母艦)、発進!」
なんてセリフまでもがいちいち格調高いものに思えるから不思議なものである。
『ガオレンジャー』の後見人・巫女(みこ)テトムにも、いや彼女でなくともこれくらい威厳のある存在が一人レギュラーで登場していれば、随分と『ガオレンジャー』の印象は違っていたように思うのだけれど(いや決して私はテトムが嫌いなわけではないですよ。大酒飲みの点を除いてはね・笑)。
ただ当時、本作を評価した特撮マニア的には、紅一点のミス・アメリカの存在もやはり大きかったんだろうね。後にも先にも例のない太腿丸出しのハイレグレオタードのようなコスチュームを「斬新なスタイル」(そりゃ確かに斬新だわな・笑)と高く評価する向きも多かった。
あれが他の戦隊同様に男女の区別も大して違わないようなデザインだったとしたら、『バトルフィーバーJ』も「相変わらずのV・S・O・P(ベリー・スペシャル・ワン・パターン)」などと酷評されたのでは? と思うと複雑な心境である(いや、これは正確な言い方ではないかな。当時の特撮マニアのほとんどは、初期「戦隊」は十把一絡げで、特撮雑誌「宇宙船」誌のライター氏による連載コラムなどでも「V・S・O・P」と揶揄されていたのだったから)。
実際80年代前中盤の特撮マニアで「戦隊」といえば、ドラマ性やテーマ性などではなく、ミーハーでフェティッシュにスーパーヒロインという側面から語られることが多かったからねえ(笑)。
『バトルフィーバーJ』述懐
(文・T.SATO)
(1999年12月執筆)
戦隊シリーズ『バトルフィーバーJ』(79年)や次作『電子戦隊デンジマン』(80年)本放映時、私事で恐縮だが筆者もまだ小学校高学年であった。しかし小学生間でも大ブームとなっていた当時のいわゆる第3次怪獣ブームで卒業は延期されてはいたものの、年齢的なことからそろそろ子供番組を卒業せねばイケナイのかも、との焦燥感が子供心に漠然とあったのもまた事実だ(じゃ、今は何だと問われると窮すけど・笑)。
ちなみに『バトJ』の次作、東映戦隊シリーズ『電子戦隊デンジマン』もその番組フォーマットが前作とまったく同一だったこと――5人戦隊で巨大母艦が出てきて海面を破って出撃し、等身大時は前作同様、5人のブーメラン攻撃が必殺ワザで、そのあと巨大怪人が出てきて巨大ロボ戦をやり、ロボの必殺ワザ演出も前作同様に剣であり、時代劇ヒーロー・眠狂四郎(ねむり・きょうしろう)の円月殺法(えんげつさっぽう)であったこと! シリーズものなのだからある程度は当たり前なのだけど――をバカにしているのか!? と深刻に受け止め(それもまた長じてから思えば、別の次元でお子様の反応だが・笑)、疑念をいだいて初期数本で卒業している。
今でこそ特撮マニア間ではケッサクとして持ち上げられて、初期作品とくくられる『戦隊』作品群も、当時はまだ後期『戦隊』であり(笑)、『戦隊』は『バトルフィーバーJ』で巨大ロボが出てから堕落(だらく)したと筆者らの世代ではまことしやかに云われていたものだ(筆者の地元だけ?)。当時の筆者も、敵の等身大怪人がやられると巨大化したり弟の巨大怪人ロボが出現して、戦隊巨大ロボと戦うというムリやりな取って付けたようなシチュエーションが猛烈にイヤでイヤでたまらなかったものだった(笑)。
それが今やこのころが幼児期の原体験である世代が、最近の作品は堕落しているなどと云っている。筆者はあるイミあのころの『戦隊』よりも、最近の『戦隊』の方がレベルが高いと思っているのだが……。ドッチもドッチ。両者の見解は割り引いて見る必要があるのだろう。
白状しよう、実は筆者は『デンジマン』と同年に放映された『ウルトラマン80(エイティ)』(80年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971121/p1)などもリアルタイムではスキではなかった。#14を観たあたりで卒業してさえいる(汗)。そのワケは?
『宇宙戦艦ヤマト』(74年・77年に映画化・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20101207/p1)、『未知との遭遇』、『スター・ウォーズ』(共に77年・78年に日本公開)など史上空前のSF大ブームの渦中、前作『ザ☆ウルトラマン』(79年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20100430/p1)におけるストーリーが宇宙的規模で拡大していくワクワクロマンに心酔していた筆者は、あまりに身近な日常を舞台とする作品へと一変した『ウルトラマン80』の登場に失望を禁じえなかったのだ!(むろんコレは無いものねだりな評価である)
さらに子供にとってはあこがれの的である非日常的な要素・防衛隊のUGMがメインの存在ではないことも私的には不満をいだかせたし(汗)、筆者が小学校高学年という年齢で中途半端にオトナなリアル志向になっていたせいであろう。防衛隊隊員と中学校教師の両立設定については職場間の移動が大変だし、働きすぎで身体を壊すのでは? とのムリも感じていた(笑 〜ただし、歳下の同人ライター連の反応で、放映当時幼児や小学校低学年であった世代はこの設定にムリや違和感をいだかなかった人間が多いことも判明している)。
それらに子供番組卒業期の独特な心理が調合されて、『80』に憎しみさえ覚えるようになっていく。
しかし、本放映の翌81年秋の関東平日夕方5:30の再放送では、すでにして本放映時とはちがう感想をいだいている(!)。アレ、意外に面白いな。あんなにヤだった中学校描写がむしろドラマ的に面白い! なぜに去年はあんなに反発したのかと(汗)
――余談だが、ごくフツーの通常編の話としか思えなかった、いわゆる『帰ってきたウルトラマン』「11月の傑作群」――児童向け豆百科『ウルトラマン大百科』(78年8月・ケイブンシャ・ISBN:476691564X)や草創期マニア向け書籍『ファンタスティックコレクションNo.10 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマンPARTII』(78年12月・朝日ソノラマ 〜『不滅のヒーロー ウルトラマン白書』(82年に初版・95年に増補第4版・asin:4257034505)に合本再録)で、帰マン「11月の傑作群」の存在は怪獣博士たちマニア予備軍小学生間ではすでに知られていた――のその人間ドラマ的・社会派テーマ的滋味が、突如腑に落ちてきたのもこの年の再放送――
まことに微力で及ばずながら現時点での中間報告としての、筆者なりによりよく把握しようとした結果としての『ウルトラマン80』観、そしてそのベースとなる世代間および世代内でも感慨のちがい・ズレについての見解は下記のようになる。
ローティーン時代の精神の成長は、要素要素でバラツキがありムラが大きいということだ。筆者にかぎればリアルタイム時の1980年にはもう当時の草創期マニア向け書籍に影響されて、純粋な子供ではないイッパシのマニアのつもりであった小学生であったが、それは科学的SF的なセンスの発達に限定されていた。
つまりは、人間ドラマ面における感度は未熟であったということだ。そして翌1981年にはもう、人間ドラマ面を理解するまでに発達していたということだ。そのアンバランスさが、当時の筆者をしてアンフェアな低評価を『80』に与えしめたのだろう。
拡大・敷衍(ふえん)するならば、まだ若かった特撮ジャンルそれ自体そしてジャンルファンそれ自体が、実年齢はともかく精神年齢がローティーンの思春期で、SF的ハイブロウ志向の背伸びざかりの時期だったのではあるまいか?
良くも悪くも平成『ウルトラ』において、特撮マニア間では評価された人間ドラマ描写。賢明なスレたマニア(笑)ならご存じの通り、人間ドラマ描写は実は第2期・3期『ウルトラ』におけるそれの方が濃かったり多面的であったり、善意が悪事に帰結したりする人間万事塞翁が馬的なイジワルでパラドキシカルなものであったりして優れていたりもするのだが……。
第1期『ウルトラ』世代が、第2期・3期『ウルトラ』の人間ドラマを称揚せず、平成『ウルトラ』のそれを称揚しがちな不整合が生じるのはなぜか? それは、彼らが背伸び盛りのクールでドライなSF至上主義の風潮が強かった70年代の10代のころに、第2期『ウルトラ』に接したがために、人間ドラマ部分への感度にいささか欠けていて、それが先入観となったからだろう。
そして、SFがその輝き&驚きを失って陳腐化した90年代のクタビれた30代(40前後?)になってから、平成『ウルトラ』に接したがために、『ウルトラ』なのに、子供向け変身ヒーロー作品なのに、意外と人間ドラマがある! と驚いているのだろうということでひとつの説明は付く。後続世代でも第1期世代と同じような感慨をいだいている輩ももちろん多数いるだろうが、それはやはり人間ドラマ部分への感度に欠けたSF至上主義者か、長年にわたるマニア向け書籍の直接的・間接的な影響なのだろう(笑)。
むろん、「子供を子供扱いしてはイケナイ」「子供はオトナっぽいものがスキ」だとの言説もある。筆者もローティーンのころから二十歳ごろまではそのように唱えていたものだ。
が、記憶の古層を丹念にたどると、SF面では背伸びざかりであっても、表層的にはコミカルに演出されながらも高度なものがあった『ウルトラマン80』の人間ドラマ面を感知できなかった体験からも、それらは一理あるにしてもあらゆる局面で絶対に成立する原理・原則ではないように思える。
また逆に、特撮でなら東映の不思議コメディシリーズ、アニメでも『ビックリマン』(87年)なり『ポケットモンスター』(96年・97年にアニメ化)なり『遊☆戯☆王』(96年・97年にアニメ化)など、チャイルディッシュな作風なのに(いやむしろ、だからこそ?)、平成『ウルトラ』3部作以上の大ヒットを飛ばしている作品はいくらでもある。
またも余談になるが、リアルタイムでの視聴時、SF的な感性はともかく、現実的な兵器描写へのリアリティ感度もまたやはり筆者は発達していなかったようだ(笑)。原色ケバケバ超科学ではない、現実の米軍厚木基地のような防衛組織UGMの倉庫や滑走路がはりめぐらされた飛行場を(今見るとスゴい! カッコいい! と思うものの)、科学的に進歩していなくてダサいなーと感じていたものだった(汗)。かように要素要素での感性の発達はバラバラなのだ。
同様なことが同時期の戦隊シリーズ『バトルフィーバーJ』(79年)にも云える。今見ると5人の主役たちが子供番組的集団ヒーローの類型(熱血・冷静・3枚目・紅一点・若者)ではなく、リーダーをのぞいた皆が70年代末期の2枚目半的C調軽妙な連中で、マンガチックではないそのさりげない微妙な性格描き分けの人間描写にオシャレさを感じるが、当時の筆者にはそれがまったく感知できなかった。ただし、開田裕治画伯の同人誌『衝撃波Q』他など当時の年長で先鋭的なマニア間では話題になっていたらしい。
では子供には真に理解できない(浅くは理解できている場合もある)人間ドラマや人間描写の是非についてはどう位置付けるべきであるのか? これも中間報告ではあるのだが、その人間ドラマを理解させられればベターだが、デリケートなものは理解させられない場合もあるだろう。この識別はカット&トライでやってみなければ結果は判らない面がある。
しかし仮に子供にまったく理解できないドラマが若干あったとして、それでタイクツさせてしまったり視聴を断念させたのならば最悪だが、悪いイミでのひっかかりや子供にとっての遅滞感がなく、サラサラ流れて視聴させていく描写のものならば、目くじら立てることもないのではなかろうか?
そして『バトJ』や『80』は、その怪獣なりヒーロー活劇性なりの部分で、筆者よりも歳下の少年たちをシッカリとつかまえていた。ならば、『バトJ』や『80』は子供番組として成功していたといってもよいのだろう。
もちろん怪獣やヒーローといった華(はな)で、まず我々は幼児期・児童期に惹きつけられたからこそ、その好意の感慨に基づいて、小学校高学年、中高生、場合によってはオトナになってからも再視聴をしたいと思うのであって、そしてその人間ドラマの滋味にも気付くのである。最初から人間ドラマの滋味しかない作品であり、幼児・児童にアピールすることのない作品であったのならば、いかに優れた作品であっても、長じてから好意や懐かしさの感慨が動機となって、作品の再視聴に駆動されることもまたありえないのであって、コレを本末転倒して理解してはならない。
――ただし、怪獣・変身ブームの栄枯盛衰という個人の感覚と制御を超えた波、時代の空気・流行とでも云うべきものがもたらす視聴者たる子供の感慨への影響(子供にもある、今流行っているからというとっさの直観的・本能的判断で、仲間と話を合わせるため、ポジショニング的に長いものには巻かれろで、視聴しているうちにその作品も好きになったり、流行りでない作品を過剰に古クサく感じたり……といったこと)は、ここでは分析から外し、個人の感性に届いた純粋作品として論じている――
『バトルフィーバーJ』や『ウルトラマン80』の魅力は、やはりヒーローものであるのだから「ヒーロー&怪獣怪人」と、『バトJ』ならばさりげない人間描写や『80』教師編でならば中学校での人間ドラマ面にあったのだろう(もちろん両作の人間ドラマ・人間描写の方向性は異なるが)。
怪獣プロレスものから卒業せんとしていてSFハイブロウ志向にあり、しかして人間ドラマ・人間描写面での感度では劣っていた発展途上の狭間の一瞬というローカルな位置にいた当時の筆者の感性は、『バトJ』『80』がめざしていた両方の要素のちょうど空隙(くうげき)・スキマにあったということだ。
そして、今まで議題の進行の都合上、あまり言及してこなかったが、筆者より歳上の世代であっても特撮評論同人界でならば少数ではあっても意外と存在する『バトJ』『80』肯定派は、その人間ドラマ・人間描写面を充分に理解するほどに(毎回のワンパターンな怪獣プロレスを過剰にイヤがらずに、それもお約束だとわきまえるほどに)成熟していたということだ。
そして今でなら自信をもって云える。自分は『バトルフィーバーJ』も『ウルトラマン80』もスキだと。子供番組としても成功していたと。