『仮面ライダーアギト』 〜後半合評2 アギト設定考察・個々人の正義が激突!
『仮面ライダーディケイド』#12〜13「アギトの世界」編・評
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『仮面ライダーアギト』最終回・総括 〜終了評 ―俺の為に、アギトの為に、人間の為に―
(文・伏屋千晶)
戦え! 全ライダー ――俺の為に、アギトの為に、人間の為に――
* 激闘篇の狼煙(のろし)
前作『仮面ライダークウガ』(2000・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001111/p1)の設定を引き継ぎ(引きずって?)、警察の捜査活動の描写を主体にして「不可能犯罪」「超能力」という“ナニを今さら”的なテーマを勿体ぶって展開した[散漫な第1クール]、
アギトの力が覚醒し始めた海難船「あかつき号」のメンバー達の暴走・自滅に絡めて「仮面ライダーアギトと仮面ライダーギルスの対立」「仮面ライダーG3(ジースリー)の強化」が描かれた[深刻な第2クール]、
そして、『劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4』(2001・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011104/p1)を機に方向転換し、「パワーアップ」「3人ライダーの共闘」が強調された『仮面ライダーアギトスペシャル 新たなる変身』(2001・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011105/p1)を経て、俄か(にわか) に涼(ギルス)&木野(アナザーアギト)を中心に据えて「武闘派・集団ヒーロー路線」に転じた[ファナティックな第3クール]……
と無節操にエピソードを積み重ね、肝心の「謎」の解明をする時機を逸した揚げ句に(視聴者も忘れかけていた?)、慌てて「謎解き」を試みたものの“武闘派”に路線変更したドラマと噛み合わず、その後、白倉伸一郎P(プロデューサー)と田崎竜太監督が次回作『仮面ライダー龍騎』(2002・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021109/p1)の準備に入ったことも手伝って、井上敏樹氏(脚本)の独壇場と化した異質な内容のラスト5話(#47〜51)で締め括られた[腰砕けの第4クール]――
こうして、1年間に亘る『仮面ライダーアギト』(2001)のシリーズの変節をトータルに要約してみると、〔井上敏樹氏のストーリー・テリングとは、実に“場あたり”的なモノであった〕という、意外な事実に突き当たります(意外じゃない?)。
しかし、その“行きあたりバッタリ”のシリーズ構成のお陰で、10月から12月にかけての「激闘篇」(#35〜46)への転換が可能になった訳ですから、結果オーライなのですが、そもそも、視聴率も営業面(玩具セールス)も好調だったにも拘らず、どのような意図があって第3クールでの路線変更は断行されたのでしょうか? 恐らく、その裏には『ウルトラマンコスモス』放映開始(7月)という事情が、深く関係していたに相違ありません。
* 敵は、ウルトラマン?
――思い出して下さい。『ウルトラマンティガ』(1996・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961201/p1)に人気が集中して、一時的に東映特撮番組の影が極めて薄くなってしまった、6年前の悲劇を。
況(ま)してや、白倉P+井上氏は『超光戦士シャンゼリオン』(1996)で、田崎監督は『激走戦隊カーレンジャー』(1996・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20110521/p1)で、本来のメイン・ターゲットであるチビッ子層を軽視した“シュミ的な(?)”作風が災いして、正統派・円谷ブランドの鉄槌をモロに食らった当事者だけに、「新しいウルトラマンが始まる」と聞いて、そのトラウマが刺激されなかった筈がありません。
きっと“このままではヤバイ、また同じ過ちを繰り返すハメになる”という強迫観念に苛まれたことでしょう。“ナンとかしなきゃ”で、『アギト』前半の内容を見直してみると、思わせぶりな伏線が張り巡らしてあるばかりで、サッパリ物語の骨子が見えてこない。
“これはイカン!”と、プロットの仕切り直しに着手、予定されていた「アギトの強化(バーニングフォーム&シャイニングフォーム)」に加え、[視聴者からのお便りでダントツ人気の「ギルス」のフィーチャー]+[ストイックなまでに自制してきた「3人ライダーの揃い踏み」の解禁]という、ベタなお子様向け人気倍増計画をドラスティックに敢行して、競合するであろう「新ウルトラマン」への対抗策に万全を期したというのが、恐らく真相でしょう。(ホントか?)
結句、“正義の味方”に転じたギルスの代わりに「悪のライダー」として投入した[木野アギト]が“ヒョウタンからコマ”となって、後半のドラマの活性化に大いに貢献。折からの劇場版の大ヒットも相俟って、楽勝で『コスモス』の追撃をかわしました……と言うか、『コスモス』の方が勝手に墓穴を掘っちゃった(?)と言うべきでしょうか?
こういう御時勢だけに、マイルド指向の『コスモス』の作劇ノウハウは十分に容認できるものの、「怪獣」の設定を“単に図体が大きいだけの愚鈍な野生動物”に貶(おとし) めた演出方針には、疑問を禁じ得ません。お陰で、初期エピソードに登場した怪獣達は、人類の科学力で容易に対処し得る卑小な存在に成り下がり、〔救世主・ウルトラマン登場〕の必然性が稀薄になってしまいました。
もっとも、「フィジカル(肉体)」ではなく「メンタル(精神)」な面での“超越者”として「ウルトラマン」を描こう、というスタッフの意欲的な姿勢は理解しているつもりです。ですが、その割には、余りにも“紋切り型”の悪役に過ぎる「カオスヘッダー」のベタベタな設定は、サタンゴース(東映メタルヒーロー『巨獣特捜ジャスピオン』(1985)のレギュラー巨大敵ボス/おとなしい巨獣を凶暴化させるビームを放つ)なみに発想が安易で、結局は、ドラマ全体を「正義VS悪」の単純な“二項対立”のフォーマットに帰させてしまっている、極めて興醒めなマイナス要因であると、愚考している次第。
それにしても、明らかにそれ程でもないと推察される人気・視聴率には不相応な(失礼!)〔劇場版『コスモス』第2弾『劇場版ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET』の02年8月公開〕に加えて、〔9月までの放映期間延長〕という異例の事態は、TBS自体が興行を主催する夏休み恒例のビッグ・イベント「ウルトラマンフェスティバル2002」の営業面を斟酌した上での処置ですよね?
(裏を返せば、次年度の新シリーズは無いってコト? 客演する“ウルトラマンジャスティス”とはナニモノ? 後日付記:7月スタートは夏休みレジャー外出等に伴う視聴率の夏枯れを伴う為、忌避されて10月放映開始の『機動戦士ガンダムSEED』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20060324/p1)に合わせて延長になったらしいとの由(よし))――と、思っていたら、02年6月下旬に至っての突然の『コスモス』放映中止とは“一寸先は闇”ですねぇ……。
ところがドッコイ、7月上旬に主演役者・杉浦太陽氏の釈放により放映再開。突然証言を覆した被害者の自筆による「すべて狂言でした」という趣旨の念書まで周到に用意されていた“デキ過ぎ”の展開には一抹の疑念が残るものの、結局は“災い転じて福となす”で、却って、公開を間近に控えた〔劇場版〕にとって絶好の宣伝要素となりました。メデタシ、メデタシ……(なんか、イマイチ釈然としないナー)
* 戦え! 全アギト
〔ハト派〕に転じたウルトラマンを横目で睨みつつ、「木野アギト(アナザーアギト)をめぐる3人の主人公のスタンスの変化(同胞意識の萌芽)」から「エクシードギルス誕生に至る4人ライダー大決戦(木野さんの助命を乞う間島クンの叫び声を耳にして、辛うじて必殺技(踵落し)・ギルスクロウを一旦“寸止め”にしたギルスが、やはり怒気を抑えきれずに、喧嘩キックで木野さんを海中に蹴落とした描写は秀逸!)」を経て「強い“絆”で結ばれた4人ライダーの共闘」へと、高密度な“連続活劇ドラマ”に昇華し得た『アギト』は、70年代の特撮ヒーロー爛熟期に於ける旧作品群にも類を見ない程の、正攻法に徹した“正調”ヒーロー番組へと鮮やかに変貌を遂げ、いよいよ物語は「佳境」を迎えます
然るに、3人ライダーを相手に猛威を揮(ふる)う木野アギトの圧倒的な存在感の前に、アンノウン(敵怪人)は便宜的な“やられ役”に降格され、それ以前のエピソード群で描かれてきた彼等との闘争は相対的に無意味化し、「オーパーツ」だの、「あかつき号」だの、まだるっこい“謎”や“伏線”がちりばめられたメイン・プロットに対する興味が、急速に薄れてしまったのも事実。
たとえば、#41のラストから続く[水のエル×4人ライダー]戦が「翔一の回想」(あかつき号事件の真相)で中断された#42では、“早くバトルの続きを見せろ〜!”とウズウズしていましたもんね。この“水入り”のお陰で、#43の冒頭で炸裂したライダーキック3連発のインパクトと、強敵・水のエルを撃破したカタルシスが稀薄になった恨みが残ります。
(特撮雑誌「宇宙船」誌によれば、この様に活性化したシリーズ後半のキーワードは「共闘」なんだって。去年は“ヒーローのやっている事もまた暴力じゃないのか”なんて、盛んに言い立てていた舌の根も乾かない内に……。「共闘」は「暴力」じゃないのかしら?)
余談ながら、#41での〔病院のエレベーター内での木野(アナザーアギト)&翔一(アギト)、涼(ギルス)&氷川(G3)のやりとり〕のシチュエーションは、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)#22に於ける少女ヒロイン達・アスカ&レイの〔狭いエレベーター(密室)の中で、ウマが合わない者同士が2人きり〕の有名なシーンと人物の配置・構図まで酷似しており、改めて『エヴァ』の影響力の強さを思い知らされました。
更に「劇場版」に於いては、G3−Xの後継機にして最強スペックを有するG4の設定はモロに「エヴァ参號機」でしたし、激しいカット・バックで表現された[小沢澄子(おざわ・すみこ)(経験に基いた実践的理論)×深海理沙(ふかみ・りさ)(冷徹な机上の論理)]の舌戦のエスカレートぶりは[葛城ミサト(実践派)×赤木リツコ(理論派)]の熾烈な口論を彷彿させます。その上、まるで“暴走時のエヴァ初號機みたいに”切断されたギルスの右腕が瞬間的に再生するカット、綾波レイの“無数のスペア”のイメージを踏襲したとしか思えない冷凍保管されたG4装着員達の死体が並ぶシチュエーション……
等々の事例に顕著に見られる、若手・中堅世代のクリエイターに対する〔庵野秀明イズム〕の浸透ぶりは本当にシャレになりません。――でも、どうせ真似をするのならば、ドンパチ(戦闘場面)をギリギリの“極限状態”にまでヒートアップさせる術(すべ)を十二分に心得た、庵野監督の非凡な〔活劇魂〕を真似しなさいってば!
この時期に、ナゼか、渡辺勝也監督が#37〜38の演出を担当。渡辺監督は『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011102/p1)を途中(#30)で抜けて、次回作『忍風戦隊ハリケンジャー』(2002・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021112/p1)の準備に入っていた筈だったのでビックリしましたねー。
メインの田崎監督が劇場版&SPに専念していた所為(せい)で、演出ローテーションのヤリクリがつかなくなったが故に、止むを得ず、新番組準備中の渡辺監督を起用したとも考えられますが、それならば、どうして、ローテーションに入っている筈の石田秀範監督がご無沙汰だったの? という疑問が出てきます。
実は、石田監督が『クウガ』で多用した特異な映像テクニック(カラーフィルターの濫用&不安定なフレーミング)は“(一般的な)視聴者が見辛い”という理由からクレームの対象となって、現在はタブーとされているそうですが、同監督は『アギト』#26〜27で敢えてその禁を冒し、爾来(じらい)、暫時(ざんじ)謹慎処分に処せられていたのだとか。そうした状況から推して、渡辺監督の急遽登板は、そのピンチヒッターだった――と、容易に想像されます。
では、何故、石田監督は禁止されている演出手法を故意に用いたのか? その理由は定かではありませんが、同氏がメイン監督を務めた『クウガ』が高い世評を博したことで、少々増長して“天狗”(自意識過剰)になっていたのではないでしょうか。ところで、#26〜27の画面構成・演出の裏コンセプトは、ビョーク主演の話題作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年度カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作品)だったそうですから、『クウガ』で石田監督の俄(にわ)かファンになった諸兄は、必ず目を通しておきましょう。
* 戦士その絆
かくして、嫌が上にもヒートアップした『アギト』“激闘篇”(別名“へんしん大会”/挿入歌「DEEP BREATH」(ASIN:B00005MFRD)のイントロを聴くと、条件反射で、涼・翔一・木野さんの変身ポーズをメドレーでキメてしまうのは、筆者だけではない筈?)は#46で最高潮に達しましたが、その前に、この鮮やかに水際立った“アギト激闘篇”の本質を改めて見直してみましょう。
そもそも“激闘篇”の発端となった『劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4』で強調して描かれたテーマとは、誰にも頼らずに“浮浪児”として自力で生きてゆこうとしたゲストの少年少女・紗綾香(さやか)&レイ、警察権力では介入できない自衛隊に“私人”として立ち向かうG3ユニット、下宿先の娘・真魚(まな)を助け出す目的の為だけに戦う翔一、1個 100円のヨーグルトキャラメルの恩義に報いる為だけに助勢する涼、そして、あくまでも己の信念を貫こうとする水城史朗(みずき・しろう。仮面ライダーG4)――
彼らの行為・行動に象徴される“独立独歩”で生きようとする「個人」が“明確な目的観念・動機を有し、自らの思慮・選択・決心に従って能動的に行動する姿勢”であって、そこでは「正義の味方」「勧善懲悪」といった公的な大義名分は完全に影を潜め、「公」の為ではなく「個」の為に戦うヒーロー像が強調されて描かれていました。
(紗綾香&レイを容赦なくG4基地へ突入させた田崎竜太監督は、パワーレンジャー・シリーズ初の2大戦隊共演篇『パワーレンジャー IN 3D』(2000)[『救急戦隊ゴーゴーファイブVSギンガマン』(2000)の翻案/〔ライトスピードレスキュー〕と〔ロストギャラクシー〕が共演]に於いても、悪の軍団に拉致された母親を助けたい一心の少女を、敢えて自分の意志で決戦の場に立ち会わせています)
因(ちな)みに、20分ほどの分量の没カットを挿入した『PROJECT G4』再編集版の商品化が決定しました(02年8月9日リリース・ASIN:B0000687X9)。これで、アギトシャイニングフォームがシャイニングカリバー・ツインモード(二刀流)で下級アントロード(敵怪人)の一群をバッタバッタと小気味よく斬り倒すシーンや、エクシード化したギルスが凶暴な破壊衝動を自制できなくなって猛り狂う態(さま)を目撃したレイが怯えて逃げ出す(涼とレイの訣別!)という重要な場面も、やっと日の目を見ます。
ところで、この〔再編集版〕のタイトルは『ディレクターズカット版』と銘打たれるそうですが、〔劇場公開版〕は「G3−XとG4の最終決戦を際立たせる為に、それ以外の要素は可能な限り排除しよう」という田崎監督の決断に基いて編集されたものですから(上映時間の“制約”があったのは事実ですが……)、厳密に言えば〔劇場公開版〕こそが〔ディレクターズカット版〕であり、場面構成的にも無駄がなく、編集にキレがあって優れていると思います。ですから、既に〔劇場公開版〕のDVDをお持ちの方は改めて購入するまでもないと私的には思います。
(しかし、劇場で観た時にはアレほど興奮したのに、改めて冷静になってDVDで観なおしてみると、幾つかアラが見えてきたりして……と言うか、やっぱり、初めて劇場で観た時の快哉や高揚感って、どうしても再現しようがないものですね)
続くTV特番『仮面ライダーアギトスペシャル 新たなる変身』に於ける、強化スーツ(G3−MILD(マイルド))の機能が停止した後の尾室クンが、本人自身の意思と力を最大限に発揮してG3−Xのバッテリーパックを換装する場面や、#35以降のレギュラー・シリーズで木野薫のキャラクターに託して描かれた[「孤独」(同胞との敵対・孤立) → 「信頼」(絆) → 「友情連帯」(共闘) → 「自信」(アギトの力の制御)]のプロセスもまた、「劇場版」と同様に“独立した個人が、それぞれ自らの意志で行動する”という点に関しては一貫しています。
ですが、アンノウンの首魁と目される“謎の青年”=「斗真」(トーマ)の正体が、“造物主”という意味で“神”に間違いないと判明した時点で、翔一達「アギトの会」の立場は[自発的な意思で戦い、人類を導く超人集団(選民?)]から[怪力乱神(かいりょくらんしん) の如く畏(おそ)れられ、忌み嫌われる人外の化生(ミュータント?)]にシフト・ダウンし、彼らの闘争が「神」という名の「絶対的な権威者」の「弾圧」に対する“レジスタンス”(=自衛の戦い)に他ならなかった――という構造が明確になって、漸(ようや)く『仮面ライダーアギト』という物語の本質が垣間見えてきました。
いよいよ、敵の大首領(?)との直接対決という重大な局面を迎える#46は、数々のドラマチックな要素[真魚と翔一の葛藤、不屈の意志で敢闘を決意する涼、瀕死の木野さんによる翔一に対する命懸けのオペ(アンノウンの毒針の摘出手術)、視力を失った氷川+敵対していた北條刑事の共闘、真魚の悲痛な絶叫に応えて再起する翔一、初めてニンゲンに殴られて動揺する斗真、そして、木野さんの死]が高密度に濃縮された、正しく圧巻の一篇でした。
(3人に変身能力が戻る場面の合成カットは構図が平面的で、ちょっとヘボかったんですけど……)
とりわけ、アギトの“絆”で結ばれた一蓮托生の5人(翔一・涼・木野・真魚・間島)が一堂に会して、共通の敵・斗真と対峙するクライマックスのボルテージの高さは尋常ではなく、それだけに、できればメイン監督の田崎竜太氏に演出して貰いたかったところ。#34のパワーアップ篇では、シンプルさが功を奏した今やJAC社長の金田治監督のアクション主体のストレートな演出法も、今回(#46)ばかりは“ツッコミの浅さ”が物足りなかった……と言うか、勿体なかったですね、色々な意味で。
(北條が無線で氷川にアドバイスを送る場面には、確実な演出ミスがあったことにお気づきですか? G3−Xのカメラの視界は前方に限られているので、背後から襲ってきたオウルロードの姿を、北條がモニター画面上で捕捉できた筈がないのです。もっとも、北條のカンが異常に鋭かったのかナー?)
しかし、これだけ重要なエピソードにしては、相対する怪人が“並”クラスのヘッジホッグロードでは、いかにも役不足で、3連発キックをお見舞いするまでもなく翔一アギトの独力で倒せた筈。それにしても、変身能力を回復して必殺キックまで放った木野さんが、その直後に、まさか、あんなに呆気なく死んじゃうなんて、誰が予想したでしょうか。
恐らくは、オウルロードの頭突きで受けたダメージ(内臓破裂?)が致命傷になったのでしょうが、どうせ殺(や) られるなら、エリート怪人クラスのエル・ロードを相手に存分に戦い抜いて、華々しく逝って欲しかった……鳴呼。(合掌)
ところで、#46には、翔一の寄宿先の美杉センセーが、真魚の亡父・風谷信彦が「真魚」と命名した理由
(「マナ」には、①「真魚」=無垢(イノセンス)、②“MANA”=超自然的パワー、③“MANNA”=自己犠牲、という3つの意味がある)
を説明する件(くだり) があり、その場面のセリフでは、「真魚」とは“MANNA”――本誌前号でビオラン亭ガメラさんが指摘した「神がイスラエル人に与えた食物」=「自己犠牲」の意であると説明されるのですが、言下に「そんなの無理だよ……」と真魚自身から否定されてしまいます。
美杉センセーは“感情を自制して、翔一クン(と姉)の事情を理解してあげなさい”という意図を以て(もって)説得しようとしたのでしょうが、真魚には受入れられなかったワケで、詰まるところ、「“MANNA”=自己犠牲」という意味は、敢えて“自己犠牲”というテーゼを一旦提示した直後に、それをアッサリ否定してみせる「反語的」な脚本上の表現技法として用いられただけでした。
即ち、「みんなの笑顔の為に(自己犠牲)」ではなく「自分の居場所を守る為に(自分自身の為に)」を戦いのモチベーションとする『アギト』のメイン・テーマを強調するための“捨て石”だったのです。
ですから、土壇場で真魚が翔一に向かって叫んだ「翔一クン、もう一度戦って!」というセリフには“その身を挺して、人類とアギトを守って”などという大儀は毛頭なく、“ここで戦わなかったら、確実に死ぬ!”という抜き差しならない情況下にあって、“誰かの為に”ではなく“翔一自身が生き残る為に”「もう一度戦って!」と言っているのです。
――あくまでも、自分自身の為に! それは同時に、真魚自身を含めたアギトの力に深く関わってしまった5人のニンゲンに共通する「譬え(たとえ) それが“神託”(神の意志)であったとしても、理不尽な圧力に屈してむざむざ殺されたりはしない。――必ず生き残る!(死ニタクナイ!)」という、強固な「抵抗」の意思表示でもあった訳です。
この点は、一見“翔一を救う為に”苦痛を圧してオペを敢行したかに見える木野さんの真意が、実は“自分が果たせなかったアギトの力の完全制御を為(な)し得る者を死なせられない”という、己の信念に基づいた行為であったという事実からしても明白です。その上、この命懸けのオペが、将来医師になる事を迷っていた間島クンの自律性の開眼を促した事実も見逃せません。
こうして、同胞達から捨て身のバックアップ(涼との“絆”、木野さんのオペ、真魚の誠意、氷川の援護射撃)を受けて、遂に、翔一は変身能力を回復します。この一連の展開により、「アギトの力」とは「自分を生かす力」、ひいては「自分を生かす事によって、他人を生かす力」と結論づけられて、物語の大きな節目となりました。
他人を守る為に「自己犠牲」を“強いられた”孤独の英雄『クウガ』と、どちらが優れたビジョンを内包しているかは、もうお分かりですね。(他人に奉仕することでしか自身のアイデンティティーを確立できず、生得の温和な気性に反して嫌嫌(いやいや)戦い続けた揚げ句にコワレてしまった五代雄介は、もはや「正義の味方」ではなく、哀れな「正義の奴隷」と呼んだ方が相応しい)
#46を以て、(葦原)涼(リョウ=「竜」)と(木野)薫(カオル=「カオス(混沌)」)の〔竜〕+〔カオス〕という、キリスト教圏に於ける「神」に対する天敵コンビ(「竜」は、東洋では「天子の象徴」であるが、西洋では「邪悪と混沌の象徴」とされる事例が多い)が解消されると共に、キャラクターとしてドラマチックな要素を全て消化し尽した真魚もまた意図的にメイン・ストーリーから除外され、大団円を間近に控えた(残り5回)この期に及んで、キャラクター・シフトの更新による“新規蒔き直し”が図られる事に――
* カウント・ゼロ
さて、一つのヤマ場を越した#47以降は、[木野さん&真魚ちゃんの退場]と[G3ユニットの活動休止]により、涼&翔一クンの平穏な日常生活に改めてスポットが当てられる事になるのですが、またもや井上敏樹氏の“その場しのぎ”の悪いクセが出て、ドラマ全体のシチュエーションが“まるで別の番組みたいに”スッカリ変わり果ててしまいます。
(#43〜46に於ける、氷川の負傷による一時的な欠場や、その後の視力低下も、氷川役を演じる要潤(かなめ・じゅん)氏のスケジュールがフジテレビの2時間ドラマの撮影とカチ合って、『アギト』の方で出番を削って調整せざるを得なかったが故の“その場しのぎ”の設定に過ぎませんでした。それ故、#47冒頭での氷川は“何の後遺症もなく”アッサリ完治していたワケです。……なんだかナー)
互いに反目しながら一人一人で戦っていた涼、翔一クン、木野さんが“生き残る為に”共闘するに至る経緯を描いた前回までとは打って変わって、戦いを(一時的に)終えた彼等が、ぞれぞれに“常人”として新天地を求めて一旦“離散”するも、急転直下、土壇場の最終決戦で“戦士”として“再集結”するラスト5話[#47〜51]のプロットを、計算ずくの「見事な舞台転換」であると評される方も居られるようですが、筆者には到底そうは思えません。
もし、これが当初から予定されていたシリーズの変節であったのならば、『ウルトラマンレオ』(1974・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20090405/p1)最終第4クールの「円盤生物シリーズ」みたく、1クール分くらいのボリュームがあって然るべしだったと思います。5話というのは如何にも中途半端で、唐突なシリーズ変節の意義を十分に描き切れていないんですよね。
仲がよくなり過ぎて徒党を組んでしまったヒーロー達の“馴れ合い”関係を、再び“孤立”した状態に引き戻す必然性があった――という側面的な事情は十分納得できるものの、「些か大風呂敷を拡げ過ぎた嫌(きらい) のある物語を、どの様に辻褄を合わせて収束させたら良いのか?」という、井上氏の“迷い”が明確に感じられるのが問題です。
何しろ、同氏には、『シャンゼリオン』最終話(一見アバンギャルド、実は只のデタラメ)という、典型的な“放恣な手抜き”の前例があるだけに、長年の視聴者としては、どうしても身構えてしまいます。
但し、『シャンゼリオン』の場合は、(テレビ東京としては)平均視聴率が予想外に好調だったので、当初予定の4クール(1年)完遂は勿論(もちろん)、あわよくば“シリーズ化”の構想をも抱きはじめていたテレビ東京&東映サイドの思惑(おもわく)を裏切り、第3クール半ばで“スポンサーを降りる”と一方的に打診してきたセガ・エンタープライゼスに対する意趣返しの含みもあって、最終話に於ける井上氏のストーリーの整合性を放棄した“投遣(なげやり)な開き直り”を看過した――という、根深い裏事情があった様子ですが……。
* 神か? 悪魔か?
サイボーグOO9(ゼロゼロナイン)にも、デビルマンにも倒せなかった「全能なる神」を、いかにして倒すのか? 石ノ森章太郎、永井豪といった巨匠・鬼才でさえ描ききれなかった「神様殺し」のテーマを完遂できるのか? それとも、映画『ジ・エンド・オブ・エヴァンゲリオン』(1997)の如く、際限なく誇張された一個人の内面崩壊にカコつけて、テキトーに茶化しちゃうのか? ――そこが、『アギト』完結篇の最大の焦点でした。
事前に某所から漏れ聞いた脚本前段階でのハコ書き(あらすじ)は、[斗真の“人類皆殺し作戦”発動〜アギト対策をめぐる小沢澄子と警察官僚との確執〜小沢澄子は更迭され、北條が実権を握った新G3ユニットがアギトと対立〜G3システムを奪還すべく、警察上層部に対して反旗を翻す小沢&氷川〜最強2大怪人・風のエル&地のエル×3人ライダーの最終決戦]と、最後の最後まで予断を許さない緊迫したプロットだったので、かなり期待しちゃいましたよ、マジで。
しかし、実際に映像化された完結篇の冒頭2話#47〜48(地味ながら、オートバイ・スタントは凄かったんですけど)に対する率直な感想は……と言うと、一所懸命に“オシャレなドラマ”を作ろうとして失敗している、としか思えないんですよね、残念ながら。
涼と翔一(記憶が回復したのに、まだ仮称の「津上翔一」のままなの?)が生得の才能を活かした職に就き、その職場で新しい“同胞”に遭遇するプロセス、及び、上層部の圧力によりG3ユニットから除外されて故郷へのUターンを余儀無くされる氷川の、三者三様のドラマがほとんど接点を共有しないでパラレルに進行する展開は、確かにヒーロー番組としては革新的なものだったかも知れません。が、一般ドラマの視点からすれば至極当たり前のシチュエーションに過ぎず、今さら特筆すべき点はありません。
それよりも問題は、仮死状態(?)で宙に浮いている斗真の姿を目撃した人間を風のエルが殺害したシーンで、これで、“神の使徒”たるアンノウンも“手当たり次第に目撃者を殺す『仮面ライダー』初作(1971・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140407/p1)のショッカーの怪人”と同レベルに堕してしまいました。
斗真の目的が〔人類を一旦滅ぼして歴史をリセットすること〕に変更されたので仕方がないとは言え、なんとなく、最終回を目前に控えて「敵」の設定を〔神聖なる神の使徒〕から〔狂気の無差別殺人者〕にスリ替えて、“物語の結末をまとめ易くしただけ”のように思えます。
概して、斗真の作戦行動(星座とドッペルゲンガーの因果関係)の意味が全く説明されていないのが、このエピソードの最大の難点です。ウ〜ン、さすがに神様が為(な)さる事は凡人には理解できん!
そもそも、「白」と「黒」の斗真の闘争には、いったい、どんな意味があったのでしょう? 『仮面ライダーBLACK』(1987・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001015/p2)に於いての「次期創世王」の座を賭けたブラックサン(仮面ライダーブラック)×シャドームーンの宿命の対決のようなものだったのかしら? もし、「白」が“光”(善)で、「黒」が“闇”(悪)だったとすると、「黒」の斗真によって生み出された現人類の立場はどうなるの?
(後日編註:この世が苦しみに満ち不完全であるのは、造物主(神)エホバが不完全もしくは悪神だったからであり、この宇宙の外部にはエホバとはまた別の真に善なる神もいて、宇宙・物質・人間の肉体は悪神由来でも、人間の精神・理性・知性は善神がひそかに蒔いたタネが発芽したものであるとする、2000年以上の歴史を有するグノーシス主義から着想された描写だと思われます)
この#47〜48で石田監督が復帰。今回は次作『仮面ライダー龍騎』の監督ローテーション入りの適性審査を兼ねていたようで、さすがに度を越して前衛的な(?)映像処理は差し控えていた様子ですが、翔一と可奈が公園を歩くシーンの長いドリー・ショットの為にカメラ・レールを50mも敷かせてみたり、風のエルとの対決を描く夜間シーンで必要以上の数のライト(照明機材)をフレーム内の見キレた位置に配置させてみたりと、性懲りもなく無用な自己主張を繰り返す“カンちがい”ぶりが、些か気障り(きざわり)でした。
結局、#47〜48では大したストーリーの進展はなく(それどころか、この期に及んで新キャラを加入させて、どーする気?)、どう考えてみても、残り3回ではとても消化しきれそうにない膨大なコンテンツを抱えたまま、長石組のラスト3話(#49〜51)に突入する羽目に――
* 今、戦う時
なんてったって、あれだけ苦戦を強いられた水のエルと同格のエル・ロードが2体も残っているワケだし、斗真による「星座別ドッペルゲンガー殺人計画(?)」も第一段階が始まったばかり(「さそり座」から始まって「てんびん座」までの12星座を一巡する計画だった?)、それに加え、新登場の岡村可奈&水原リサの生態描写にかまけて、G3ユニットの内紛劇も未だに殆ど描かれていない――てな具合に、残された課題は山積しているというのに、済し崩し(なしくずし) にしか進まない緩慢なストーリーが、もう歯痒くて、歯痒くて……絶対にペース配分が間違ってる。この調子だと、ラスト3話は未消化プロットの整理に終始する羽目になるのではないか――と、しきりに危惧されました。
不幸にも、その懸念は的中し、特にG3ユニット関連のシークエンスがシワ寄せを食って、旧ユニット解散から白河尚純の肝煎りによる新ユニット再編成の過程に於ける、氷川・小沢・北條・終盤登場の官僚・白河の軋轢(あつれき)の描写が全く物足りないものになってしまいました。また、「人間がアギトを差別・排斥しようとする動機」の立脚点が、単に「白河と北條の疑心暗鬼に因る過剰な偏見」だけというのも、甚だお粗末なハナシです。(安易に“ハルマゲドン”を引用する特撮作品はツマらない、と相場が決まってますけどネ)
だいたい、小沢×北條の最後の対決の場面で、何故に、北條がGトレーラーをあっさりと明け渡してしまったのか、全く以て納得がゆきません。北條「きっと、来ると思ってましたよ」だって? フザけるなー! そんな潔いセリフなんか、生来の“卑劣漢”北條には似合わないゾー! 小沢澄子の要求を断固拒否して、最後の最後まで不様にジタバタと無駄な悪足掻き(わるあがき) をしてみせてこそ、我らのアンチヒーロー・北條透の面目躍如ってモンでしょ。(北條G3−X × アギト のガチンコ対決も見たかったゾー)
一方、可奈&リサの登場も唐突に過ぎて、翔一&涼と急速に接近してゆくプロセスには説得力が無く、却って、結末の展開の足を引っぱっていたように思われます。所詮、この2人は、第3クールに於ける路線変更によって消滅した完結篇の2つのヤマ場=[真魚の覚醒]&[涼の死]の便宜的な代替案に過ぎませんでした。つまり、真魚の代わりに可奈が覚醒して、涼の代わりにリサが死んだワケやね――というのは、ちと牽強付会ですか。
(「真魚」の分身とも言うべき「可奈」のネーミングは、双子姉妹の“マナ・カナちゃん”に由来するものと推測されます)
それでも、ビルの屋上から身を投じようとした可奈を救った翔一クンが、可奈に姉・雪菜のイメージをダブらせて、溜まりに溜まっていた想いを一気に吐露するシーンは、さすがにドラマのボルテージが上がりました。
「可奈さん、生きて下さい。俺も、生きます! 俺の為に、アギトの為に、人間の為に!」
――あと1回で最終回というこの土壇場で、“世の為、人の為に”ではなく“己の為に”とズバリ言い切った、翔一クンの変身前の口上も見事にキマり、ひたすらに“自分自身が生存する為に、自力で戦うこと”を第一義とする「個人主義」的なテーマ(されど、決してエゴイズムではない)を改めて際立たせ、少なからず“似非(えせ)左翼的”で青臭かった『クウガ』に対する決定的なフィニッシュ・ブローとなりました。
井上敏樹氏の「脚本家」としての真骨頂は、“掟破りのストーリー・テリング”ではなく、むしろ、こうした〔決めセリフ〕のストレートな「力強さ」にあるのではないでしょうか?
――そもそも、筆者が“脚本・井上敏樹”という名を意識するようになったのは、『光(ひかり)戦隊マスクマン』(1987)#8「燃えろ! 花の剣!」に於いて、罠と知りながら絶体絶命の死地に2人だけで臨もうとするアキラ(ブルーマスク)&モモコ(ピンクマスク)の“若さゆえの無鉄砲さ”と“老成した死生観”とが綯交(ないまぜ)となった透徹したセリフが、鮮烈に印象に残ったからだったんですけどね。
――とは言え、ギルスは地のエルにやられて死んだままだし、G3ユニットは北條と白河に乗っ取られたまんま。くどいようですが、あと1回キリで、どうやって話をまとめんねん? 2大エルを倒すだけでも、30分以上かかると思うで〜。
* 輝ける明日!
さて問題の最終回は、冒頭からアギト×地のエルの激闘が展開。武器シャイニングカリバーをヘシ折られた上に風のエルも参戦し、苦戦するアギトの下へG3−Xとギルスが相次いで馳せ参じ、一気に怒濤の最終決戦へ――
って、オイオイ、どう考えても、氷川がG3システムを奪い返す経緯や、涼が復活する過程を端折り(はしょり)過ぎてるだろ!
余りにも急転直下の展開に、視聴者は脳味噌パンク状態。エイ、もうどうでもいいや! とにかく、頑張れ3人ライダー!! おっと、BGMは「BELIEVE YOURSELF」だ!
♪“動き出してる未来”
“誰の為でなく”
“熱くなる、体、心、それに唯、順(したが)う本能”
とは、ナント本作の核心を的確に喝破した歌詞であろうか――と、迂闊にも最終回になって初めて気がついた次第。
(それにしても、3人ライダーが揃った途端にヒーロー側が“無敵”となって、最終決戦のワリには呆気なく勝ってしまいましたねェ。ウ〜ム、風のエルと地のエルって、強かったのか、弱かったのか、サッパリわからんゾ!)
この際、些細な欠点をあげつらうのは止めて、素直に楽しむしかないって感じの強引極まりない展開には些か抵抗を感じつつも、ここ一番の決めセリフ=
小沢澄子「彼を誰だと思ってるの? 彼は、氷川誠よ! 決して逃げた事の無い男よ!」
(エル怪人の「お前はアギトではない! なぜ、これ程の力を? 何者なんだ、お前は!?」に対して…)
氷川誠「只の…ニンゲンだァ!」
葦原涼「俺は……、不死身だ!」
津上翔一「人の運命がお前の手の中にあるなら、俺が…俺が奪い返す!」
(人間がアギトを滅ぼすと主張する斗真に対し、人間はアギトを人の可能性として受け入れると主張する沢木が臨終の間際に…)
沢木哲也「ああ。きっと俺が、勝つさ……!」
等々の“キマり具合”(こういった〔劇的な〕セリフのツボの押さえ方の巧さは、やはり、井上氏の「職人芸」です)が心地よく、〔神とアギト(半神)と人間の相剋と和合〕というテーマを完遂し得なかった生硬な結末に対する鬱憤(うっぷん)を、少なからず晴らしてくれたので“良し”としますか。
ナンだカンだでウヤムヤの内に戦いは終わり、唐突にエピローグへと場面は移るワケですが、(筆者としては)この冗漫なフィナーレの一連のシークエンスこそが、“最も度し難い”と考えている部分なのです。
――だって、そうでしょう? 本来のプロットを十分に消化しきってもいないのに、なんで、こんなカーテンコールめいた無意味なシーンにダラダラと時間を浪費しちゃうワケ? それよりも、描くべき肝要なドラマ的要素はいくつもあった筈でしょうが。だいたい、岡村可奈や白河尚純は、その後どうなっちゃったの? (初稿段階の脚本には、可奈が翔一と共にレストラン「AGITO」で美杉一家を迎える描写があったようです)
どうして、小沢&氷川は、G3システムを強奪した非を問われないの?(北條が口を噤んだのか?) 香川県警へUターン辞令を受けた氷川が、警視庁捜査1課へ再度転属されているのは何故? 翔一クンの菜園が枯れてしまった描写には、いったい何の意味があったの? ……etc.
「ケンカするほど仲がいい」みたく“類型的な”まとめ方をされてしまった小沢&北條の関係や、翔一と美杉家が演じる「70年代型ホームドラマ」的な“薄っぺらな笑顔だらけ”のラスト・シーンの陳腐さに対しては、もう怒る気さえ萎えてしまって、只々、呆れるばかりで、♪涙には 戻らない――とは言え、これほど〔露骨なまでに天真爛漫(てんしんらんまん)なハッピーエンド〕に拘らねばならなかった必然性が、いったいドコにあったと言うのでしょうか?
もっとも、翔一と違って“人なみに”生きる目的や夢を捨てた涼は、木野さんとリサを失った今“ハッピー”とは全く無縁な境地にあって、[子犬を抱き上げて去って行く涼]のカットには虚無感が漂って、一連の“はしゃぎ過ぎ”の大団円から浮いていました。
この夕焼けを背景にした涼のカットには、『仮面ライダー』初作#7のラスト・シーンに於ける[子犬を抱き上げる本郷猛(仮面ライダー1号)]のイメージを踏襲する長石監督なりの思惑があったようですが、涼の場合は本来、水泳界に復帰する(アギトの力って、ドーピングと同様に反則になるのかしら? アギト人口が増加した場合、スポーツ界はどう対処するのだろう)とか、おやっさんの後を継いでバイク屋になっているとか、或いは、生前のリサとの想い出とかを、描くべきだったのではないでしょうか?
(元祖『仮面ライダー』(1971・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140407/p1)をはじめ第一期ライダー・シリーズに深く関わった経験をもつ長石監督としては、「仮面ライダー」定番のエンディングのシチュエーションである〔涼がバイクに乗って去ってゆく〕場面の方を、ラスト・カットにしたかったようですが……)
色々と演出・構成に対する不満は尽きませんが、とりあえず、暢気者の尾室クンがG5プロジェクトの長に収まっているくらいですから、きっと安穏な世の中になっているんでしょうね。屋台での氷川と河野さんの会話の内容から察するところ、アギトの存在は既に一般に広く認知されているようですが、それにも関わらず、翔一クンが自分の店の屋号にその名を堂々と掲げている事実からして、アギトと人類との関係は極めて良好の模様。
(料理人として第二の人生を歩み始めた翔一クンが、自分のレストランで美杉一家を迎えるラスト・カットを観て、東映不思議コメディ『うたう!大龍宮城』(1992)#47「スケトウダラ」のエンディングを想起したのは、筆者だけではない……でしょ?)
涼が木野さんを立ち直らせ、翔一クンが可奈を救った事例の如く、アギト同士が互いにケアし合って[制御不能となった超能力の暴走]や[精神的孤立や不安感がもたらすストレスによる自滅]を回避し、従来通りの社会生活の維持をサポートする公的なシステムや、グローバルな結社の類(アギトの会の拡張版みたいな?)が巷間に普及しているのかもね。勿論、そうでなければ、あれほどアギトの優れた属性が内包する未曾有の可能性に人間の未来を託していた(エヴァの力による「人類補完計画」のビジョンに似ている気がするのは、筆者だけ?)小沢澄子がアッサリと警察を辞して、ロンドン辺りで気儘に暮らしている訳がありませんが。
結果論から言えば、アンノウン(神の使い)による「アギト狩り」が中止されたところで、アギト族の覚醒過程でのトラブルが頻発して社会不安が深刻化するような気配は微塵もなく、世間は至って平穏無事――では、すべては、斗真の“一人相撲”だったのでしょうか?
いえいえ、アギトという種の絶滅の危機に瀕して、精神的に強く結束した翔一と涼が、共に艱難辛苦を克服してゆく過程で、人間とアギトを“超脱”した「究極のアギト」(=人間の意識でアギトの生理活動を完全に制御し得る超人類)に進化してしまった訳ですから、“一人相撲”どころか、カンペキに“ヤブヘビ”です。(でしょ?)
翔一に殴打されて以来、「人類に対する慈愛に満ちた父(神)」の仮面が剥がれて「唯我独尊の権化」に成り下がった斗真サマ、“自制心の貧しさ”は尊貴の弊であるとは言え、あなたは「神」を名乗るにしては余りに愚かでした――な〜んて、凡庸な「無神論」的なオチなの? (ところで、沢木哲也って〔ヒューマンロード〕だったんですね)
最後に、北條ファンを自認する筆者としては、どうしても言い添えておきたい事が一ツあります。斗真が人類絶滅作戦(?)を中止した第一の理由は、シャイニングフォームのファイナル・キックの直撃を食らって怯んだからではなく、“自らの手を下さなくても、人間がアギトを滅ぼすであろう”という勝手な憶測に基づくものだったワケですが、よ〜く考えてみると、斗真がそういう風に考えるようになったのは、功利打算に長けた卑怯未練な異常性格者・北條透の〔偏執的な猜疑心〕と〔強烈なエゴ〕があったればこそ。つまり、ボクらの北條サンこそが、人類を救った真のヒーローって事になりませんか?
――スゴイぞ、北條! キミも、立派なアギトだ!(んな、アホな?)
[P.S.――北條透役の山崎潤氏と斗真役の羽緒レイ氏が『アギト』に出演したきっかけは、前作『クウガ』の後期(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090907/p1)に行われた最終敵〔ダグバ・人間体〕役のオーディションでした。ダグバには「バルバ(バラのタトゥの女)の弟」という裏設定があったので(それ故、バルバだけはダグバに殺されなかった)、年齢的な理由から若い浦井健治氏が選ばれましたが、最終選考まで残っていた山崎氏と羽緒氏は白倉Pの御眼鏡に適って新番組キャスト用に“キープ”されたというワケです。小沢澄子に執拗にまとわりついていた北條透みたいに、グロンギ族がクウガに倒される度に、冷笑を浮かべてバルバを揶揄い(からかい)にやってくる“山崎ダグバ”の姿も見てみたかった?]
『假面特攻隊2003年号』「仮面ライダーアギト」関係記事の縮小コピー収録一覧
・アナザーアギト木野薫 菊池隆則サイン 2001.NOV.28
・北條透 山崎潤サイン
・『仮面ライダーアギト』新聞TV欄用サブタイトル一覧
※:サブタイトルは全て、テレビ朝日の広報担当者が便宜的に考案したもので、東映側は一切関知していない。TV欄のスペースの都合上、字数が5文字に制限されているところは『鳥人戦隊ジェットマン』(1991・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20110905/p1)の前半を想起させるが、実際、『ジェットマン』のサブタイトルを引用した(?)フレーズが散見されるのが面白い。(伏屋千晶)
『仮面ライダーアギト』平均視聴率:関東11.9%・中部11.3%・関西9.7%
『仮面ライダークウガ』平均視聴率:関東9.7%・中部12.5%・関西9.1%
(平均視聴率EXCEL表計算:森川由浩)
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『仮面ライダーアギト』 〜全記事見出し詳細一覧
『仮面ライダーアギト』 〜前半合評 ブレイク前の混沌期!
『劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4』 〜合評
『仮面ライダーアギト』 〜後半合評1 大ブレイク!変身大会!!
『仮面ライダーアギト』 〜後半合評2 アギト設定考察・個々人の正義が激突!
『仮面ライダーアギト』最終回 〜終了評 ―俺の為に、アギトの為に、人間の為に―
(当該記事)
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(ライダー各作品の「終了評」の末尾に、関東・中部・関西の平均視聴率を加筆!)