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【推しの子】(2期) ~「2.5次元舞台編」の秀逸さに思う『セクシー田中さん』問題。原作・他媒体でのアレンジ・ファン・外野の反響。どうあるべきであったのか!?

『【推しの子】(1期)』『シャインポスト』『幻日のヨハネ』『アイドルマスターシンデレラガールズU149 ~異形の大傑作・王道・小児・異世界スピンオフ! アイドルアニメの進撃とまらず!
『アイドリープライド』『ゲキドル』『22/7』『推しが武道館いってくれたら死ぬ』『おちこぼれフルーツタルト』 2020~21年5大アイドルアニメ評!
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 TVアニメ『【推しの子】』3期が製作決定記念! 『【推しの子】』実写ドラマ版が2024年11月28日からアマゾンプライムにて配信開始記念! 実写映画版も同年12月20日から公開記念! 舞台版も12月13日から公演開始記念! とカコつけて……。TVアニメ『【推しの子】』2期(24年)評をアップ!


『【推しの子】』(2期) ~「2.5次元舞台編」の秀逸さに思う『セクシー田中さん』問題。原作・他媒体でのアレンジ・ファン・外野の反響。どうあるべきであったのか!?

(文・T.SATO)
(2024年11月2日脱稿)


 「週刊ヤングジャンプ」連載マンガのTVアニメ化にして、昨2023年春季の覇権アニメ『【推しの子】』の待望の続編・2期である。タイトルに「推(お)し」という語句が入っていることからもわかるとおりで、「アイドル(歌手)を推す」といった、20世紀のむかしにはともかく21世紀以降に多用されるようになった「用法」からも察せられるだろうが、キービジュアルとして前面に押し出されている黒髪ロングの美少女からして、基本は一応は「アイドルアニメ」なのでもあった。


 しかし! 一部ネタバレさせてもらうけど、スキャンダラスにも隠れて妊娠・出産してしまって、あげくの果てに劇中からは退場してしまうのだ(爆)。出産された双子の男女。このふたりは前世の記憶を持って生まれ変わってきた存在でもある。しかも、ともに実に不幸な最期(さいご)を迎えてしまった御仁たちにして、このアイドル美少女を推してきた熱烈なファンたちでもあったのだ。「推し」=「アイドル美少女」の「子供」として、第二の人生を歩みはじめたふたり。前世の記憶を持っていることは隠したままで、赤ちゃん・幼児としても振るまいながら……。


 けれど! 別離の日が突然におとずれてしまう。絶望に叩き込まれてしまったふたり。果たして、彼らふたりの父親とは誰なのか? アイドル美少女を○○したのは誰なのか? そのナゾを探るためにも、このふたりは子役として、長じてからは一応の役者の端くれとして……つまりはアイドルではなかったりもするのだけど(汗)……、芸能界の片スミにて生き延びていくのだ……。


 とはいえ、そんな彼らも糊口を凌いでいくため、食べて生きていくためには、四六時中ルサンチンマン(怨念)にまみれているワケにもいかない。実業ではなく虚業の世界、衣食住などの生活必需品などではまるでない、良く云えば「文化的」な、悪く云えば「虚栄的」な、むかしの左翼風にいうと「プチ・ブルジョワ」的な世界、「資本主義的退廃」の世界(笑)で生きていくしかない。
 我々オタクも含めた庶民・大衆が、多少なりとも豊かになって1日中、井戸で水汲み運びや農作業などもしなくても済むようになったことで余暇もでき、科学技術の進歩とともに映画・TV・レンタルビデオ・ネット配信などといった媒体で大勢にも一斉観賞が可能になった時代ゆえに、そこにも少々の金銭を支払してみせることで、これらの芸能ごともまた企業・ビジネスとして成り立つことが可能になっていることも事実ではあるのだ。


 そして、我々のようなオタクもこういった大状況を笑えない。我々もまた戦後の消費文化の徒花(あだばな)そのものであって、奇形的な趣味的嗜好・人格形成をしてきた御仁たちでしかないからだ(汗)。加えて、日本のなかでは相対的にはビンボー人ではあっても、アフリカなどの最貧国に比すればまだまだブルジョワでしかないからだ。彼らに云わせれば、「恵まれている」「オマエらこそが(為替レートで)我々から搾取してきたブルジョワだ」「イイ気なモンだよな」と毒づいていることでもあろうから……。
 高度経済成長期の日本の左翼連中は相対的に豊かになっていく自分たちに、罪悪感・後ろめたさ・申し訳なさを感じてもいた。そして、抑圧・貧困にさらされているパレスチナの民などに連帯感を示して、イスラエルのテルアビブ空港でマシンガンを乱射して民間人多数を射殺してしまったりもしていた……(汗)。
 それが今では、休日の家族旅行・スポーツ体験・習い事の有無といった「相対的貧困ガー」「体験格差ガー」などといったところで、実に不毛で些末な階級闘争を繰り広げるしかなくなってもいるのだ(爆)。家族旅行よりも読書やゲームやインドア趣味などに邁進したい子供。スポーツが苦手でそれをしたくない子供。少数派なのやもしれないけど、そういった子供もいるだろうに、そこは眼中にはナイらしい。その逆に、受験戦争を批判しておいたソバから、習い事・塾通いの欠如を問題視もしてしまうといったダブルスダンダードまでをも! 日本の左翼も堕落したものである(汗)。日本の左翼が真に戦うべきなのは、そういったミクロなことではなく、実に粗雑なくくりに満足するのでもなくって……(以下略・笑)。



 本作1期の後半においては、今は亡き母親の遺伝子をメンタル面ではまったく受け継がずともルックス面では受け継いで美男美女となってしまった「推しの子」たちが、早くも高校生年齢に達してしまってもいた。そして、幼少期に共演した実に自信過剰であった有名子役少女が、今ではマイナーなVシネマや低予算ネット配信作品にて、周囲の演技レベルが低いモデルやアイドル歌手上がりのそれに合わせて気配り・心配りのヒトになっていたことも、同時に鬱々とした不全感を抱えていることも知る。そして、シナリオが秀逸ではあっても映像化の際の演出&演技にてダメになってしまうというパターン、その逆にシナリオがイマイチでも演出・演技にて局所的に観客を惹きつけて盛り上がりも作れてヒトの心を動かすこともマレにはあることをも知っていく……。


 本作の2期では、ここ20年ほども隆盛を極めているマンガやアニメなどをナマ身のイケメン役者たちに演じさせる、いわゆる「2.5次元」演劇が主要素材ともなっていた。実にマジメな役者もいれば、遊び人で役作りなどはしてはいないのに本能的な直感だけで器用に演じてみせてしまう役者、先の低予算ネット配信作品ではブザマな演技を披露したモデル上がりのダメンズの悔しさ・後悔から来る自身の過去へのリベンジとしての精進劇、集団恋愛リアリティーショー番組出演にて悪女役を演じて誹謗中傷にもあって発作的に自死を選びそうになってしまった新進の10代の役者女子、周囲の演技力の高さに影響されて遂にリミッターを解き放ってみせた先の有名子役少女崩れ、そしてそこに役者でありながらも俯瞰的に状況を観ながら関わってもいく「推しの子」たち……。



 さらにそこに、この2.5次元舞台の男性「脚本家」と、原作マンガの女子「原作者」との角逐もカラめて多層的・重層的にも作品はつむがれていくのでもあった……。こう記してしまうと、本稿執筆時点の今年早々の出来事でもあった2024年1月末に勃発した、マンガ『セクシー田中さん』(17年)を昨秋に深夜ドラマ化した際の同様の角逐劇などを誰もが想起してしまったことではあろう。
 しかし、斯界(しかい)でも云われているとおりで、あの事件が起きる前にこの原作マンガ『【推しの子】』の「2.5次元舞台編」はすでに発表されていたのだ。まったくの無関係の偶然でもあったのだ。けれども、それゆえに実にタイムリーな題材になってしまったこともまた事実ではあるのだ。
 そういえば、アマチュア同人ノベル(小説)ゲーム作りに邁進する高校生オタクサークルを描いたライトノベル原作のラブコメ深夜アニメ『冴えない彼女(ヒロイン)の育てかた』(15年)の2期(17年)においても、業界の大手女性作家は自作がアニメ化された際の不本意によって、今後に自作のアニメ化事業なども完全に自身のコントロール下に置くためにも、イイ意味での自身のブランド化や権威化を目指して発奮している姿が描かれてもいたものだ。その意味でも「業界あるある」ネタではあったのではあろう。


 原作者の立場に立てば、基本的にはそのとおりではある。しかし、個人的には複雑な矛盾した想いも残るのだ。原作者にはキラわれてしまっても観客には愛されている作品もまたあるハズだからだ。原作者の意向を至上のものとされてしまうと、筆者のようなオッサン世代がどちらかというとひんぱんに繰り返されていた再放送で愛好していた、本来は日曜夜の「世界名作劇場」ワクにて本放映がなされていた1969年版と1972年版のTVアニメ『ムーミン』(69年)などは永遠に解禁ができない。原作小説とは人物の性格設定からして異なる名作TV時代劇『必殺仕掛人』(72年)なども原作小説家の池波正太郎(いけなみ・しょうたろう)センセイからは憎まれてもいたのだ(汗)。それらと比すれば、アレンジにも寛容であることを公言しているマンガ家・永井豪センセイなどは、イイ歳こいていまだに子供のようにあどけないけど(笑)、そういった一点においては心が広くてオトナではある。


 社会・実業の世界に出て働いたことはなく、自身の意見を発声・発話することにすら慣れてもいない、マンガ(の形式にて作品世界&人物&物語)を描くことしかできなくて、自分でも社会不適合者・コミュ力弱者であることを大いに自覚して劣等感どころか大きな不安をさえ抱いてすらいる、大人気マンガ家ではある若手チビ女子が、この2.5次元舞台の「原作者」としても登場していた。
 彼女は2.5次元舞台のシナリオの細部に修正指示を入れつづける。しかしそれは、出版社のサブ担当編集者 → 担当編集者 → ライツ(版権窓口事業部) → 製作(プロデューサー) → 脚本家のマネージャー → 脚本家……といった経路をたどってもいく。そして、各人の一応の善意によって、カドが立つようであればその表現はマイルド化されて、あるいは役者陣の練習期間を確保するためのスケジュール確保の意向で、もしくは単なる伝言ゲーム的にもズレていくのであった(汗)。そして、原作者センセイたるチビ女子の怒りが大爆発! 舞台の稽古も中断となってしまうのだ……。


 この作品においては、深夜ドラマ『セクシー田中さん』をめぐってのネット論壇における、「『原作者』こそが至上の『絶対正義』であって、『脚本家』やTVドラマ側のスタッフの方は『絶対悪』である!」なぞといった「赤勝て、白勝て」レベルの幼稚な勧善懲悪の2元論にはおちいってはないのだ。とはいえ、ヒフティー・ヒフティーでもない。6対4や7対3といった偏差はある。けれども、それにしたってどちらにも相応の「理」はあるのだ。しかし、それであっても「齟齬」が生じてしまう姿を描いたうえでなお、片方を階級闘争・武力革命的に攻撃・撃滅・抹殺して悦に入るのではなく、和解や暫定的な妥協を、そしてあわよくば「正」「反」を経過したうえでの「合」に到達しようとする姿までもが描かれてもいくのであった……。


 とはいえ、死者にムチ打つのは大変に申し訳ないのだけれども、『セクシー田中さん』の原作者センセイが自死を図ってしまったのは、やはりよろしくはなかったのでは? とも筆者個人は考えてもいる。世評では陰謀論的にTV局側からの圧力で……なぞと語られてもいるが、筆者個人もまた特に証拠もなくエスパーでもないのに勝手な憶測を述べさせてもらうのだけれども、原作者センセイは悪い意味で気持ちが優しすぎるヒトではあったとも思うのだ。
 つまり、TVドラマ版に対しての自身の不満の表明によって、一挙にネット世論が反転・沸騰してしまって、特にTVドラマ版の脚本家に対するバッシングが猖獗(しょうけつ)を極めてしまったことに対してすら、「それでは意味合いが逆転してしまう! 自身の方が強者・権力者になってしまって、TVドラマ側の脚本家側の方が悪役・弱者になってしまう!」とばかりに恐れおののき、なおかつこれでは結果的に自身の方が強権を振るってもいる、いわば「権力悪」にもなってしまったことを恥じたのではなかったか? ……筆者もとい、我々のようなウス汚れた凡俗であれば、内心では自身が優勢になってしまったことに対して、ひそかに悦に浸ってしまったところでもあったのだが(爆)……。


 そしてここからが、ある意味では良くも悪くも古風で「武士道」的なのだけれども……といっても、戦国時代の殺人技術としての「武士道」ではなく、西欧の「騎士道」とも同様に、鉄製の刀も抜いたことがなくって中身は竹光(笑)を差していた江戸時代後期の単なる「気の持ちよう」としての精神論・道徳論と化してしまった「武士道」の方である(汗)……、そういった政敵こそが苦境におちいってしまった状況に対して、今度は大いに責任を感じて心も痛めてしまって、あるいは自身もTVドラマ側のスタッフともまた別種の「罪」を犯してしまったとも感じてしまったのではなかろうか?
 そして、そのような事態に対する責任の取り方として、ハラキリ・切腹的に自死を選んでしまったのではなかろうか?……まぁ、死をもって罪をつぐなうのは別に日本特有のことではなく、実はどこの世界にでもあって、自殺が宗教的な悪だとされている社会であってさえも、古今東西あることなのだけど……


 その意味では、時系列上の発端としての原因はともかく、直近にて背中を押してしまった事象はTVドラマ版の脚本家を「絶対悪」視してしまったネット民にある! ともいえなくはないのだ(汗)。……とはいえ、それではネット民が「悪」であったのかといえば……、そんなに単純なこともまたいえないのだ。彼らの行為は殺人・強盗・粗暴犯としてのそれではまったくない。一定の正義感には基づいた言動ではあったからだ。よって、これらを単純に抑圧・禁止にすればイイともいえない。こういった意見の表明がゼロといわずとも、あまりに極少になってしまってもイケナイとは思うからなのだ。


 しかし、論理的にはたとえ同種の主張ではあっても、それらが数千・数万人ものボリュームともなると、多数派による過度なヤリ過ぎの「圧力」「権力」「暴力」にも見えてきてしまうといった逆説・パラドックスもあるのだ。


 けれども、これもまた結果論に過ぎない(汗)。いちいち、SNSやYAHOOニュースコメントや世界各国のオリンピック選手に直接に意見具申をする奇特な人間なぞは、どこの国であっても数万人にひとりであるといった推測もなされているからなのだ。しかして、単純計算では「分母が1億人」ともなるので、たとえ数万人にひとりの0.01%程度の比率の存在ではあっても、数千・数万ものコメントには昇っていくのでもあった。


 ……とはいえ、人間ひとりが死んでしまったことを軽視する気は決して毛頭ないものの、ウクライナガザ地区で起きている事象と比すれば、やはり些事には過ぎなくって(汗)、こんなことが論争の議題になるだなんて、日本や先進各国にも社会問題はもちろんあっても、まだまだ平和だな、といった相対化も可能ではあるのだけれども。



 加えて、原作者センセイが自死を選んだこともまた、たとえそのつもりは毛頭なかったのだとしても、ネット民たちの所業以上に、TVドラマ側の脚本家に対しては生涯、癒えない大きなスティグマ・キズを背負わせてしまった行為ですらあるのだ。当人にとっては生命を賭しての相手に対して迷惑をかけたことに対しての責任を取ったつもりではあったのだとしても(?)、それもまた相手にとってはあまりにも大きすぎる負担にもなってしまうからなのだ……。そこまで先読みして事態を思い至れなかったものなのであろうか? それもまた積極的な「罪」ではなくても、広義での消極的な「罪」にはなってしまうのではなかろうか?(汗)


 よって、やはりそこはこらえて、正邪だけでも割り切れない猥雑な世界で、汚濁にまみれながら地ベタを這いずりまわって、自身もまた原罪を抱えた存在だとして、キリストが売春婦であるマグダラのマリアを許してみせたように、他人の少々の悪事や自己の失態に対しても寛容に対処して生きていってほしかったとは思うのだけれども……。



 もちろん、過程においては「苦難」に見舞われても、最終的には(安直ではない)広義での「ハッピーエンド」に持っていくのが、エンタメ・フィクションの基本ではある。アンハッピーエンドにしたことで「社会派」ぶってみせるような、中二病的なマニア作劇やマニア評論などもあるのであろうが、それこそがまさに作劇的な技巧などもさして要らない、最も安直な手法ですらあったりもするのだ。


 本作においては、そこにて実に多彩でていねいなイイ意味での段取りを重ねていって、作品を構築してもいく。
 たしかにドラマツルギーの根本そのものは普遍的なものではある。しかし、静止画の羅列としての「マンガ媒体」と、イイ意味でのマンガ・アニメ・記号的な扮装に身を包んではいたのだとしてもその「舞台媒体」とでは、細部においては適切なる表現方法もじゃっかん異なってはくるものなのだ。


 そして、ピアノ線での吊りの多用や、背景の銀幕へのハイセンスな映像投影、舞台&広大なる観客席それ全体が円形に回転することによっても背景舞台装置を多数用意することが可能ともなっている、もはや「学芸会」や旧来の「演劇」レベルとも隔絶した高次元にて存在している「超近代的な演劇」とも化している「2.5次元舞台」の特性!


 加えて、若手とはいえプロの役者陣による熱演は、たたずまい・目配せ・舞台上での立ち位置・ちょっとした挙動・口調・表情変化などによって、原作マンガにはあった説明セリフなぞには頼らずとも、時には無言であってさえも、身体や精神の強さ・気高さ・悪どさ、外ヅラとは異なる本心や迷い……といった多重的な意味合いをも含意ができることをも知っていく。それをも知ったことで、原作者センセイも原作マンガにはあったセリフをガシガシと削ってもいき、若手役者たちの全身演技によるそれらの表出をも企図したシナリオを、脚本家センセイとのコラボによって構築してもいくのだ!


 はたまた、幾度もの舞台公演での小さなアクシデント! イイ意味での説明セリフが効果音とカブって聞きにくくなったと判断すれば、機転を利かせたアドリブで後続の別のセリフのなかにそれらをダメ押しの「大事なことだから二度云いました」的に混入させることによっても、観客の作品世界への理解を助けて腰の据わりをよくしてもみせる! 時に小さなアドリブも入れてみせることで局所的には演者同士が演技合戦を、しかして作品世界を壊さずに、どころかより深くもしていく方向性にて混入してみせもするのだ!



 もちろん、演劇や映像作品においては「原作」が、あるいはオリジナル作品の場合には「脚本」が、それらの基本中の基本ではある。そこに間違いはない。そこはおろそかにしてはイケナイ。キッチリと構築しておくべきものではある。
 しかし、それだけでも決定されない。シナリオが優れていても、演出や演者の不首尾によって駄作に見えている場合もあるからだ。あるいは、後付けの演出や演技によっても多重的な意味を持たされて、脚本の意図をも超えて作品テーマが深くなったり多重的になったり盛り上がっていたりもする場合があるからだ。


 むろん、外野からはその切り分けの判断はムズカしい。しかし、憶測ではあっても、ここでは脚本が、ここでは演出が、ここでは演技者の演技が、作品を持ち上げているのだと感じれられる場合もあるからなのだ。


 もちろん、そんなことを小ムズカしく考えながら作品鑑賞をする義理も道理もない。そういったことを考えもせずに無心で楽しんでいるトーシロさんや子供たちに押しつけてもイケナイとは思うのだ。


 しかし、それらも重々承知のうえでなお、そういったことが気になってしまったり気付いてもしまうような御仁たちが集った、批評・感想オタクたちの世界では、そうしたことをも言語化して同好の士たちと共感し合ったり反発し合ったりもして、世界の大局から観ればムダで無意味で資本主義的ブルジョワ的な退廃ではあったとしても、たとえ世界同時革命エコロジー運動には参加しない保守反動・反革命の輩だとして粛清(死刑)のターゲットにはされようとも、この世界の片スミにて今後とも(同人誌即売会のときにだけ・笑)、戯(たわむ)れていきたい所存なのでもあった……。


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『DEATH-VOLT』VOL.95(24年11月16日発行予定))


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グレンダイザーU ~マジンガーZも活躍する快感! しかしてあまたの要素で渋滞! 超古代文明ネタなどで、続編での挽回を期待したい!

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『グレンダイザーU』 ~マジンガーZも活躍する快感! しかしてあまたの要素で渋滞! 超古代文明ネタなどで、続編での挽回を期待したい!

(文・T.SATO)


 もう50年近くも前の作品になってしまう巨大ロボットアニメ『UFO(ユーフォー)ロボ グレンダイザー』のリメイク作品。巨大円盤UFO型のメカの側面から貫通するかたちで、それを巨大ロボット・グレンダイザーが身にまとって大空を飛行し、地上で敵の巨大ロボット怪獣と戦う際にはそこから飛び出す! ……といったバトル・スタイルであった。


 その原典たる同作は、本邦初の人間が直接に搭乗して操縦する形式としての巨大ロボットアニメの元祖にして、2年近くもの放映を達成した大ヒット作『マジンガーZ(ゼット)』(72年)とも「世界観」を同じくする作品でもあった。大人気作品の常で、『マジンガーZ』もまた「世界観」を同じくするかたちでシリーズ化がなされていったのだ。主人公青年・主役ロボット・敵の軍団などを刷新するかたちで、『グレートマジンガー』(74年)が1年間、そして本作『UFOロボ グレンダイザー』(75年)がシリーズ第3作として1年半もの長期間で放映されている。


 筆者はこれらの作品群を子供時代の原体験とする老害オタクである……読者の過半がドン引きしている姿が目に浮かぶようだ(汗)……。しかし、同時期の昭和の「仮面ライダー」シリーズ(71~75年)にもいえることではあるけれど、子供ながらにシリーズが継続していくと慣れてしまって飽きてくるところもあったものだ。シリーズ初期の作品群には新鮮な気持ちで接して熱狂し、シリーズ後期の作品群にはじょじょにサメてはいった……といった印象が正直あったのだ。本作もまた、


 『Z』 > 『グレート』 > 『グレンダイザー』


と時代が降るにつれて、作品の熱気や子供間での熱気もウスれていったようにも実感している……ただし、長じてからの再観賞での印象は異なっている。いずれのシリーズも後期作品の方が工夫を凝らしており、人間ドラマ性やテーマ性も高かったと個人的には考え直してはいる。しかし、それゆえにこそ幼児にとっては……といったところでアンビバレンツ・二律背反ともなるのだ……。


 とはいえ、同年1975~77年にかけて放映された巨大ロボットアニメ『鋼鉄ジーグ』・『大空魔竜ガイキング』・『UFO戦士ダイアポロン』・『ゴワッパー5(ファイブ) ゴーダム』・『グロイザーX(エックス)』・『ブロッカー軍団Ⅳ(フォー) マシーンブラスター』・『合身戦隊メカンダーロボ』・『超合体魔術ロボ ギンガイザー』などといった、当時の子供心にもややマイナーに感じられていた作品群と比すれば、原典「グレンダイザー」にはまだまだ圧倒的なメジャー感・ブランド感はあったものだ。同時期に放映されていた合体ロボットアニメの元祖『ゲッターロボ』(74年)の続編『ゲッターロボG』(75年)や『超電磁ロボ コン・バトラーV』(76年)と並んで、1975~76年にかけての同時代におけるトップ3ではあったのだ。
 そして、ロボットアニメジャンルにおけるメジャー感を醸している王者は、この『コンバトラーV』とその後番組でもあった『超電磁マシーン ボルテスⅤ(ファイブ)』(77年)にその後番組『闘将ダイモス』(78年)へと移っていくのだ。


 しかし、あらためて視聴率を確認してみると、『グレンダイザー』のそれは前々作『マジンガーZ』や前作『グレートマジンガー』ともほぼ同じではあった。どころか、最高視聴率30%超えを達成したのは、世代人的にはもう飽きが来ており、大勢が同作から離脱していった時期であったようにも感じていた、まさに同作シリーズの後半であったりもするのだ!(汗) シリーズが継続するにつれて視聴率が微減どころか半減していった、70年代前中盤における昭和の「仮面ライダー」シリーズや第2期「ウルトラマン」シリーズなどとは随分と状況が異なっていたのだ。
 正直、これは意外ではあった。もちろん、世代人としての個人の感慨・実感は必ずしも万能ではない。このデータを個人的に読み解くには、こうである。年々歳々に子供たちは入れ替わっていく。しかし、上の世代が卒業していっても、下の世代が続々と参入してはくるのだ。そして、彼ら下の世代の幼児たちは、前作・前々作との比較もヌキでの新鮮な感覚で同作を観賞していたのだとの解釈もできるのだ。



 もちろん、そうはいっても世代人たちはご承知のとおりで、『グレンダイザー』は往時の子供たちにはビミョーな感慨をもたらしていた作品でもあった。『マジンガー』シリーズの後日談世界としての担保として前々作『マジンガーZ』の主人公青年が副主人公としてレギュラー出演を果たしてはいた。しかし、その扱いは決してよいものではなかった(汗)。主人公や主役の新ロボ・グレンダイザーを活躍させるために、彼はその引き立て役・前座役となってしまっていたのだ。往年の英雄でもある彼がどう見ても非力で小型な円盤型のメカで援護射撃はするものの、往々にして撃墜されて不時着してしまう……。


 彼に往年の名機・マジンガーZを持たせてさえいれば、宇宙人の先進科学で建造されたグレンダイザーには匹敵せずとも、時に敵のロボット怪獣をも撃破して、その有能性をも見せつけてくれていたであろうに……。そういった、同作の前年に放映されていた、同じく亡国の王子ネタでもあった『ウルトラマンレオ』(74年)における「変身できなくなってしまったウルトラセブン」こと怪獣攻撃隊の隊長に昇格していたモロボシダンもまた、いつの日にか復活してセブンに再変身して壮快なる大活躍を見せてくれるのに違いない! といったような、実際には両作ともに実作においては叶えてもらえなかった感慨を、特にオタク気質ではなくても当時の近所の子供たちや小学校のクラスメイト、あるいは全国の子供たちの100人中100人(笑)が共通して語っていたものなのだ。そして、もしも『グレンダイザー』をリメイクする機会があれば、そのへんの作劇バランス・パワーバランスをもうまく料理をしてほしい! ……といった漠とした想いを、子供の時分から数十年間も持ち越し続けてもいたであろう(爆)。



 そして、半世紀近くも経ってからのTVアニメでのまさかのリメイク! 四捨五入をすると、もはや還暦(汗)になってしまったような世代人共通の「願望」の一端はここにて叶えられることになる。ご多分に漏れず本リメイクもまた、放映される前から宣伝戦略の一環として情報が小出しに開示されていった。そして、本作もまたリメイク作品であるからには、『マジンガーZ』の青年主人公が当然ながらに再登場はする。しかし彼に加えて、その愛機・マジンガーZも登場するというのだ!


 もちろん、作品の看板が『グレンダイザー』である以上は、グレンダイザー以上にマジンガーZが強かったり活躍するといったことはアリエナイことも常識的には直感される。筆者もまたマジンガーZが主役機のグレンダイザーをも上回るほどのデシャバった活躍をすればイイのに……などといったムチャなことはツユほども思ってはいない。


 とはいえ、論理的には最後に主役機・グレンダイザーが勝利して花を持っていく……のだとしても、「100対ゼロ」か? あるいは「100対マイナス100」か? といった話ではないのだ! その強さの比重を「50対50」ではなくても、「60対40」や「70対30」などといった比率にはして拮抗させてほしいのだ。つまり、最後には負けてしまう引き立て役なのだから、その過程の描写へのこだわりなぞは悪アガキでもあって無意味ですらある、よけいなシーンでもあるのだ……といったことにはならないのだ。


 たとえ最後には負けてしまうことが、子供にとってさえもバレバレではあったとしても、その過程でいかに粘ったのか? 一応の強さを見せたのか? 善戦してみせたのか? 敵わずとも敵に一矢を報いてみせたのか? そういった、単なるストーリー展開をも超えたところでの、そんなディテールによっても、あるいは撮影現場や絵コンテ段階でのアクション演出の一挙手一投足によっても、そのシーンの意味あいや感慨もまた大きく異なってくるものなのだ。


 筆者個人は擁護派ではあるものの、そんな筆者でさえもその欠点を認めざるをえない、昭和の「第2期ウルトラシリーズ」のウルトラ兄弟勢ぞろい編における、先輩ウルトラ兄弟たちの弱さや負けっぷり。そういったものに成り下がってしまってはダメなのだ。仮に脚本上ではそうであっても、せめて映像化の際には殺陣(アクション演出)にもこだわってみせることなのだ……むろん、脚本上にもそこまでアクションが記されていることがホントは望ましいのだ!……。
 たとえば「確実に一矢は報いてみせたのだし、先輩ヒーローが弱かったのではなく、敵があまりにも強かったから、仕方なく敗北してしまったのだ!」といった、後年の特撮怪獣映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』(09年)における先輩ウルトラマン10数名vs悪の黒いウルトラマンことウルトラマンベリアル戦のようなアクション演出ができていれば、あるいは敗北するにしてもネチっこく苦戦を描写して負けるのではなく跡には引かないかたちでサラッと敗北してくれれば、第2期ウルトラシリーズにおけるウルトラ兄弟客演編もカナリ印象が異なってきて、後年における評価ももっと高くなっていたではあろうから……



 本リメイク『グレンダイザーU』#1の冒頭においても、当然ながらに地球人ではなく宇宙人でもあり亡国の王子、つまりは貴種流離譚の体裁でもあった主人公青年が搭乗する巨大UFO型円盤・スペイザーが、地球の中東の砂漠地帯に不時着してくるシーンを配してはいる。


 しかして、ナゼかそこに往年の『マジンガーZ』の宿敵にしてロートル世代には見覚えもある人気「機械獣」こと2つ首のロボット怪獣が襲撃してきてしまう!(笑) そして、そこに颯爽と大空から駆けつけてきてくれるマジンガーZの勇姿!


 #1の中盤においても、中東のリヨドの地に建造されていた邸宅風のヒミツ基地に、原典におけるそれを踏襲して、庭園の広大なプールの底が左右に別れて水が滝のように流れ落ちていく底にある格納庫からエレベーターにてマジンガーZの巨体が押し上げられてくる! 小さな両翼内のプロペラで空も飛べるヘリコプター型の操縦ユニットでもある小型飛行メカ・ホバーパイルダーもその頭上に合体! 長大なる両翼を持った紅い大型飛行ユニット・ジェットスクランダーも高層ビルの内部からカタパルトが伸びてきて発進する! そして、マジンガーZの背部に合体して大空へと飛んでいくシークエンスを長々と描いてもいく!


 #1の終盤においても、3度目のダメ押し出撃! 今度のお相手は、マジンガーZの宿敵であった「機械獣」ではなく、原典『グレンダイザー』とも同様に敵の小型円盤型の雑魚メカや「円盤獣」なる宇宙人科学の巨大ロボット怪獣だ! 雑魚メカ群には両眼から発する白色の光子力ビームを薙ぎ払って圧勝するも、両胸から発する紅い熱戦・ブレストファイヤーや、ヒジから先をまるごと発射するロケットパンチに、ジェットスクランダーを用いた機敏な空中戦でも敵わない! ついに撃墜されてしまうマジンガーZ! しかして、装着したままでのロケットパンチの火炎推力を援用して高空へとジャンプして、敵の円盤獣へとシガみつき、ゼロ距離でのブレストファイヤーでカラくも敵を撃破する!


 そういったところで、従来の敵メカとは異なる新敵メカの強さを見せつつも、それには屈せずに力押しでは負けても臨機応変さでは勝つ! といったかたちで、マジンガーZの強さや機転や勝利も充分に見せつけて、視聴者や往年の世代人諸氏にも爽快感を与えているのだ。


 しかして、このテの活劇作品には必須でもある、一進一退のツルベ打ちとしての攻守逆転の連発たるシーソー・バトル! 新たな円盤獣2体が即座に襲来してきて挟み撃ちにしてくる!…… 円盤獣の強固な装甲で、マジンガー渾身のパンチも効かない! どころか、その下腕部まるごと砕け散ってしまった! ついには操縦席がある頭部もまるごとやすやすとモガれしまう!


 ……といった大ピンチを描いたところで、作品タイトルの看板ともなっているグレンダイザーを召喚せんと、原典とも同様に主人公青年が掛け声とともに例のスマートなヘルメットマスクも着けた操縦服スーツ姿へと瞬時に変身!


 このテの作品恒例のイイ意味でのインチキなのだが(笑)、砂漠に隠していたグレンダイザー(の巨大円盤側の操縦席)に主人公青年はすでに搭乗しており(瞬間移動?)、省略技法で次のシーンではマジンガーZの頭部も奪還していて、格闘もせず敵ロボに手もふれずに、両側頭部の巨大な2連ヅノから雷撃必殺ワザ・スペースサンダーにて左右双方の敵ロボを瞬時に爆砕してしまう圧倒的な強さを見せつける! カッチョいい! ヒーロー、あるいはヒーローロボットたるものは、かくあるべしなのだ!



 以上は#1の感想であった。この調子でリアルロボットアニメの初作『機動戦士ガンダム』(79年)以前の子供向け勧善懲悪活劇の特徴でもあった、たとえドラマやシリーズのタテ糸はあったとしても、イイ意味での1話完結のルーティン(繰り返し)バトルの魅力! それを、各話においては、あるいは少なくとも1クール・全13話しかないTVアニメシリーズの前半においては見せること!


 具体的には、各話で攻めてくる敵のロボット怪獣を、我らがグレンダイザーがそのスペースサンダーなり、両肩の突起を刃の部分とした棍棒型武器・ダブルハーケンなり、その刃の部分だけを投げつけるショルダーブーメランなり、ロケットパンチならぬドリルパンチでもあるスクリュークラッシャーパンチなりでバッタバッタとやっつけて、そこにて撃破された敵ロボたちを様式美的に尺数やタメ(溜め)を相応にも取ったうえでの大爆発を起こしてみせること!


 こういったことの繰り返しの念押しが、そういうものでもあった原典作品のリメイクとしてのイイ意味での「既視感」として、そして各話単位でのドラマやテーマをも超えた、作品世界や主役ロボットの単なる「役割」ではないところでの「存在感」「重み」の地固め・重心・土壌の盤石化として、必要なものでもあったのだ。


 そして、そういった「活劇としての爽快感」や「ヒーローの超越性」……ただし「絶対性」ではない。むろんシリーズの後半にでも至れば、時に強敵には敗北してもイイ……を、砲丸投げの「支点」として確保していればこそ、「落差」や「対比」として時たまにある「人間ドラマ性」や「社会派テーマ性」などが、遠方に飛ばされても引き立つのである。


 逆に云ってしまうと、そういったインフラ・地盤を固めることを軽視して、「人間ドラマ性」や「社会派テーマ性」、もしくは「リアル・シミュレーション性」だけに邁進してしまうと、「物語的な起承転結感」「活劇的なダイナミズム」には欠けてしまった、どことなくメリハリがなく締まりも悪い、往年のヒーローもののリメイク作品などが輩出されてしまうことになるのだ。あるいは、キチンとした王道・中核があってこその「落差」で際立つ「アンチテーゼ編」なども屹立してはこないのでもあった……。


 その意味では、ハリウッドのアメコミ洋画なども、一部の取り澄ました批評・感想オタクたちは、それらがいかにポリコレ的にも正しいか、社会問題なり社会の先進化などの反映でもあるのか、といったところでの正当化で論じがちなのだが、個人的には物足りなさを禁じえない。
 そうではなくって、各作品における相応の尺数と特撮を駆使したボリュームもある一進一退のラストバトルによって、これらの作品群は「物語的な起承転結感」「活劇的なダイナミズム」をも担保できており、大衆向けエンタメ・娯楽活劇作品としての体裁を確保することにも成功したことによって、観客・大衆もナットクができて、そしてそのうえで、そこに込められていたドラマやテーマもスナオに感受することができているのだ。


 この心的なメカニズムを無視して活劇性を軽んじて、ドラマ性やテーマ性にリアリズムだけを重視してはならない。作品に何らかの主張を込めたい御仁こそ、活劇的・物語的な結構・体裁・大ワクがまずありきであって、そこにトッピングをするかたちで、かつ鼻につかないかたちでドラマ性やテーマ性を混入させるべきなのだ。つまりは、そういった物語受容における、人間の心的な機微の意識化・言語化・理論化が大多数の人間にはまだできてはいないといったことでもある。もちろん、アマチュアの二次創作などにもこういったものは多い(汗)。よって、このあたりの機微の啓蒙活動にはますます励みたいとも思うのでもあった……。


 とはいえ、それでは本リメイクが、昭和の時代の変身ヒーローものや巨大ロボットアニメのように完全に1話完結もののスタイルで、最後に取って付けたような最終回がある! といった作りであればよかったのか? といえば、そうもいえない。それはさすがにキツすぎる(笑)。


 よって、本リメイクにおいても、原典作品にも原型となるゲストキャラはいたものの、各話のゲスト怪獣……ロボット怪獣こと「円盤獣」や、原典のシリーズ後半に登場する「ベガ獣」なる新敵怪獣……などとも異なる、シリーズを通じて登場するライバル的な敵キャラ2名や、彼らが搭乗するグレンダイザーとも同等のスマートなヒト型ロボット・アクアダイザー&ゼオラダイザーなども登場してくる。そのこと自体はそれ単独ではイイと思う。


 しかし、ロートル・オタクたちはご承知のとおりで、原典の『グレンダイザー』は1年半もの長丁場におよんだ作品ゆえに、スポンサーとしては新たな玩具を売るために、シリーズ2年目相当のクリスマス商戦向けであったか、グレンダイザーが新たに装着する巨大円盤ならぬ飛行用でもあった大型武装メカこと、(本リメイクでは超古代の宇宙科学製ではあったが)地球科学製のドリルスペイザー・ダブルスペイザー・マリンスペイザーの3機体が増員されていったのだ。
 これに伴ない、それらに搭乗する新たなパイロット要員として、かつてはマジンガーZを駆っていた青年が、そしてグレンダイザーを駆る主人公青年の妹でもあるお転婆な年下ヒロインも新たに登場してきて、さらには#1から登場していた清楚な民間人メインヒロインも内心ではホレている主人公青年を助けたいという一心でパイロットに昇格していくのだ。そして、この新飛行メカの登場やどの機体に誰が搭乗するのかについても、当時のロボットアニメとしては珍しく、半クールほどの話数も費やして描いていくのだ。


 そう。ナンと! 原典でも正義側の主人公チームの4人中の半分の2人もが女性キャラになってしまったのであった! ……今だとフツーであって男女平等にも配慮した、もとい思春期以降のオタク男子向けのハーレム要素としてもカンゲイされるのであろうが(笑)、70年代当時の小学生男児としての感慨では、男児向けのアニメで紅一点ではなく男女が同数といった編成が、もちろん言語化できてはいなかったものの「隠微な不健全感」(汗)や「テレくささ」といったものを直感してしまって、プチ抵抗感を覚えていたようには思うのだ。筆者と同世代のマニア諸氏にも長じてからはともかくとしても、そういった往時の幼少期におけるビミョーな感慨などは聞くのだ。


 とはいえ、後年に知ったことだが、この70年代中後盤には、1960年前後生まれのオタク第1世代がちょうど中高生の年齢に達していた時期でもある。80年代以降の用語ではあるオタク的な気質を持った人種たちの間では、原典『グレンダイザー』における主人公青年の妹・マリアちゃんや清楚で健気なヒロイン・牧葉ひかるは人気があったことが、往時の批評・感想系同人誌『PUFF(パフ)』などには残されていたりもするのだ。
 しかして、児童間ではそのような女子キャラ人気は特になかったとは思う。東映動画側の主導ゆえにか牧葉ひかるは、本作の原作者たる永井豪センセイのヒロインらしくはなく、実に地味な印象ですらあった。しかし、後年にオタク化してから観返すと、この好対照なふたりは実に魅力的ではあったけど!(笑)
 よって、本作が元祖・美少女アニメ的な受容をされていたこともまた頷けるのではあった。その意味では本作は、本稿で強調してきたようなロボットプロレスアニメにはとどまらない。中高生以上の年長オタクたちでも観賞ができて、ロボット活劇のみならず美少女キャラにも懸想ができるような作りの作品の走りでもある、多重的な作品であったことも事実なのだ。



 しかし、ロボットアクションや美少女キャラともまた別に、本リメイクでムズカしいところは、主人公青年デューク・フリードこと宇門大介(うもん・だいすけ)のキャラである。原典における彼は、『マジンガーZ』の未熟で喧嘩っ早い主人公・兜甲児(かぶと・こうじ)……といっても今、顕微鏡的な視点で微差を拡大してみせると、同時期の永井豪アニメ『デビルマン』(72年)の主人公青年・不動明(ふどう・あきら)に比すれば、イイとこのお坊っちゃまでもあって、かの不良っぽいようでも下品ではないウルトラマンゼロのように寸止めで「品」があったりはするのだが……、その兜甲児よりも年長者で戦闘のプロとしても描かれた『グレートマジンガー』の主人公・剣鉄也(つるぎ・てつや)、これらのご両人よりもさらに年長格かつ人格的には完成しており落ち着いてもいる温厚な長髪イケメンの好青年! といった感じではあったのだ。


 これはこれでフツーにカッコよくて相応には魅力的ではある。しかし、往時の大多数の子供目線では、一般的には『マジンガーZ』時代のヤンチャで無鉄砲な兜甲児の方が親しみやすくて魅力的であると映っていたとは思うのだ……むろん、アニメ媒体の作品でもあるから、そのヤンチャさ・未熟さが鼻にはつきにくかったこともある。同作が実写特撮ものであった場合には、視聴者側のリアリティの階梯・喫水線が無意識に上がってしまうので、あまりに未熟で自分勝手な無鉄砲キャラであった場合には、たとえ子供視聴者ではあっても、頼りなさや無責任さの方が感じられてきて鼻についてしまったことではあろうけど……。


 つまり、原典における主人公青年のキャラは老成していて完成されたものでもあって、それ以上の変化や成長の余地があまり感じられないのだ。彼を原典そのままでリメイクしてしまうとたしかにそのキャラが立ってこないことも事実ではあろう。
 そうなると、彼自身を原典よりもやや未熟で悩める発展途上の繊細ナイーブ寄りの青年キャラとしてみせる。そして、シリーズのタテ糸にも成りうる彼自身の因縁ドラマとして、母星には見目麗しき恋人の金髪美女がいた! しかして、自身が搭乗したグレンダイザーが暴走したことで母星を滅ぼしてしまってもいた! ……といった負い目も背負わせることで、ドラマ性を持たせようとしたこともまた、個人的には理解ができるし、文芸面でも一般論としては間違ってはいないとも思うのだ。


 グレンダイザー自体もまた彼の母星で建造されたものですらなく、超古代の宇宙文明にも由来するらしきスケールの大きな因縁を持たせたこともまた、主役ロボに神秘性や超越性を増進させる効果もあるので好印象ではあった……もちろん、濃ゆいロボットアニメマニア諸氏はご存じのとおりで、これは往年のTVアニメ版ではなく、後述する当時の幼年誌におけるコミカライズ版での設定を引用したものでもある……。


 しかし、この作品は1年間・全4クール・全50話といった作品ではない。1クール・全13話しかないのだ(笑)。


①:各話でのルーティン巨大ロボットバトル
②:敵になってしまった、かつての恋人
③:グレンダイザーとも一応の同等であるヒト型巨大ロボを操る、少々イカれたライバル美少年
④:シリーズ後半から登場する新飛行メカや妹ヒロイン
⑤:さらに加えて、声優・戸松遥が1人2役で見事に演じ分けてもみせていた、かつての恋人の双子の「姉」キャラの方も濃厚にカラんでもくる!
⑥:さらには、#1にて大破したマジンガーZもシリーズ終盤では強化改造・復活を果たして大活躍!


 個々の要素・アイデアはそれ単体では大変に魅力的ではあるとは個人的には思うのだ。しかし、全13話しかないシリーズに、これらの要素をすべて集中投下してしまったことは正しかったのか? 正直、渋滞が起きてしまって、個々の要素が引き立ってはいないのだ(笑)。


 いや、引き立っていなかろうとも、何らかのテはあったようには思うのだ。とにかく各話で少しでも尺数を取ってロボットバトルを挿入し、勝利のカタルシスを味あわせることによって、各話における「終わった、終わった。メデタシ、めでたし」感を出してしまえば、作品や各話エピソードとしての腰の据わりもよくなったのではなかろうか?……実はかの巨大ロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)なども、こういった各話での勝利のカタルシス要素は、少なくともシリーズの前半においては押さえてあって、作品を底の方から下支えてもしているのだ……


 とはいえ、戦闘シーン・メカ作画などはカット割りも細かくなることで必然的にカット数も(背景も)、メカの線画作画なども増えてはいく。もちろん、本作の巨大ロボたちはセル画ライクなCGなのだが、CGモデルをカッコよく誇張も加えて動かすのは大変だそうなので、そういった都合論でもロボットバトルがない話も配置して、バトルがある回の方に集中的に投下する……といった舞台ウラも多分あるのであろう(笑)。
 そうであれば、原典の「マジンガー」シリーズにはたしかに存在しなかった要素ではあるものの、日本サンライズ系の巨大ロボットアニメ『勇者ライディーン』(75年)や『超電磁ロボ コン・バトラーV』(76年)などに始まる「何度でも観たくなる」ような美麗なバンクフィルムによる必殺ワザシーンを作成しておいて、それを流用していくテもあったのではなかろうか?


 その意味では、「作劇論」なり「作劇の手法」なぞではなく、本作の監督も務めていた、年長オタク諸氏には評判が悪い『機動戦士ガンダムSEED(シード)』(02年)や子供向けロボットアニメ『GEAR戦士 電童(ギアファイター でんどう)』(00年)に悪趣味(笑)なロボット深夜アニメ『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞(ロンド)』(14年)などを手掛けてきた福田己津央(ふくだ・みつお)カントクを戦犯扱いにするような「属人的」な批判には疑問を覚えてもいる。


 別に福田カントクにかぎらずリメイク作品全般で、ディテールアップをする場合によく発生する「主客転倒」現象、結局は何が作品のキモであったのか? といったことを意識化・言語化・理論化ができていないことによる弊害が、一時のリメイク作品ほどヒドいものではなかったにせよ、本リメイクにもまた生じてしまった……といったところが個人的な整理にもなるからだ。
 つまり、「愛」の欠如だのといったフワッとしたポエミー(詩的)な話ではないのだ。極端に云えば、「愛」があっても「作劇テクニック」がなければ駄作に堕してしまうのだ。「愛」がなくても活劇の「テクニック」に通じてさえいれば、スカッとする爽快なる活劇作品は作れるハズではあるのだ……もちろん「愛」も「テクニック」も双方ともにあれば、それに越したことはないものの……。



 ただまぁ、本リメイクのようなオリジナルなネタを投入していくのだとしても、せめて2クールは費やしてほしかったとは思うのだ。前半の第1クール目においては、敵ロボが攻めてきて撃退を重ねるだけの1話完結のルーティンバトルを主に描いて作品世界や主役ロボのヒロイックさを地固めしていく! 後半の第2クール目からは、妹キャラ・マリアや新飛行支援メカなどを登場させる! そうして第2クールの終盤においては、本リメイクのオリジナル展開たる「双子の敵キャラとのドロドロとした因縁痴話バトル」(笑)も配置する。……といった体裁であれば、ロボットアニメファンや原典ファンの多数派はともかくとしても、筆者個人はもっと肯定したとは思うのだ。


 もちろん、2クール分を製作できる予算それ自体がない(汗)。分割2クール想定にしても、2クール目を製作できるのかも分からない。だから、全13話にすべてのネタを投入してしまおう! といった舞台ウラも容易に想像はつくのだ。しかし! 1クール分しか製作できないのだとしても、仮に「こんなの『グレンダイザー』じゃないやい!」と一部の大勢のマニア諸氏(笑)からは批判されようとも、そうであればこそ「オレたた」エンドこと「オレたちの戦いはこれからだ!」的に、第1クールの終盤においては敵軍団の初代中堅幹部(笑)との最終決戦だけを描いて、来ないやもしれない第2クール(爆)に登場するであろう妹キャラや、かつての恋人キャラを顔見せ紹介的に登場させての放映終了! そういったかたちの方が、作品のまとまり的にはよかったのではあるまいか? というか、本リメイクの最終回ラストにおいても、ラスボスであるベガ大王はその存在だけが示唆されて、物語それ自体や大王との決着それ自体は付かずに終わったのだし……。



 ご存じのとおりで、原典作品は日本で放映終了後の翌1978年に、フランスとイタリアでも放映されて、いずれも最高視聴率が80%以上(!)を達成している。近年では戦災で荒廃してしまったイラクとシリア、そしてサウジアラビア・エジプト・ヨルダン・クウェートなどでも80年代に超特大ヒットを記録していたことが知られてもいた。しかし、これは原典たる『グレンダイザー』が突出して優れていた作品であったからだ! メイン脚本家・上原正三センセイの文才が優れていたからだ! といったことでもないのだ(汗)。
 ハワイでは東映ヒーロー特撮『人造人間キカイダー』(72年)が、ブラジルでも東映ヒーロー特撮『巨獣特捜ジャスピオン』(85年)が超人気であった理由は、『マジンガーZ』よりも先に『グレンダイザー』が、『仮面ライダー』初作(71年)よりも先に『キカイダー』が、『宇宙刑事ギャバン』(82年)よりも先に『ジャスピオン』が先に放映されたから……といった相対的な理由で、絶大なるインパクトをご当地の子供たちにはもたらして、それでもって日本における2番手・3番手やシリーズ中興の祖ではなくって、変身ヒーローものや巨大ロボットアニメとしての始祖やスタンダードの位置をも獲得してしまったから!……といったところでもあっただろう。「作品評価」とは作品の文芸的な内実だけではなくって、外的・歴史的に「始祖」であったか「後続作」であったかといったことにも良くも悪くも規定されてもいるのだ。


 その意味では、中東のオイルマネー円谷プロの特撮巨大ヒーロー『恐竜大戦争アイゼンボーグ』(77年)がリメイクされたのとも同じパターンで、潤沢な予算が確保できたのかと思っていたのだが……。永井豪のダイナミック・プロがその高い版権料でガメてしまったのでもあろうか?(笑)
 冗談はともかく、本リメイク終盤にはマジンガーZの復活ではなく、シレっと何の伏線もナシで、その看板番組の最終回では重傷を負って一時リタイアしたことにもなってしまった剣鉄也が復活して、グレートマジンガーにて助っ人参戦してもらう! といったサプライズなども個人的には観てみたかったものなのだが……。
 ハリウッド版の『ゴジラ』映画にキングギドララドンモスラを登場させた場合には、本家の東宝にも莫大なる版権料が支払されるそうだ。これと同じリクツで、誰でも子供であっても考えそうな燃える展開ではあっても、実現は予算的にも困難であったといったところであろうか?



 そういった意味では、本リメイクがマニア世間で酷評されているほどに全否定をされるべき作品だとも思わない。しかし、大傑作に仕上がったとはとてもいえない。賛否はあろうが、ウン十年後の続編映画『劇場版マジンガーZ/INFINITY』(17年)や、「マジンガーZ」のリメイク深夜アニメ『真マジンガー 衝撃! Z編』(09年)の方がトータルでは個人的には面白かったことも事実なのだ。


 とはいえ、筆者が指摘してみせたようなことは、作り手側でも百も承知であるだろう。本リメイクにはロボットバトルの存在しない回も多かったが(爆)、ロボットバトルが存在する回のバトル演出それ自体は凝ってはいたのだ。しかして、人間ドラマ部分の作画や背景美術などがダメだったとまでは云わないものの、今どきのTVアニメとしては最上級のものではなくイマイチではあった(汗)。とはいえ、筆者個人は作画至上主義者でもないので、そのあたりは許容はできる。
 キャラクターデザインが永井豪的なソレではなく、原典たる往年の東映動画的なソレでもなく、『エヴァンゲリオン』のキャラデザを手掛けた貞本義行による線の細いキャラデザであったこともまた、今どきの若い世代にとっての口当たり・ウケの良さや、原典にも秘められていた若干の繊細ナイーブさ、薔薇や一輪の花が似合いそうな亡国の王子キャラ……といったことをも踏まえれば、個人的にはアリだとは思える……00年前後からの60~70年代名作マンガの絵柄を忠実に再現したリメイクアニメにもそろそろ慣れて飽きてきてしまったことでもあったし……。その意味では、もう少しだけ今の女子オタたちにもウケそうなキャラデザにも寄せてほしかった欲もある。



 本リメイクのタイトル末尾の「~U」の英文字は、当然のことながら原典タイトルの『UFOロボ~』の「U」から採ったものではあろう。それならば、『~F』『~O』と続編を製作していき、挽回していってほしいものである……。


 筆者がリアルタイムで『マジンガーZ』を観賞していた時分には、敵の「機械獣」たちが仮面ライダークウガウルトラマンティガ平成ガメラのような「超古代文明」の遺物であったことについては、あまりに幼児に過ぎて理解ができてはいなかったものだ(笑)。次作『グレートマジンガー』における敵軍団はその超古代文明の主であるミケーネ人たちそのものであったことも実は理解ができてはいなかった(汗)。
 ただし、これは筆者がまだ幼児であったからであって、小学校の中学年以上ともなれば、こういった伝奇的な要素にもロマンを抱くものだとは思うのだ。本リメイクのグレンダイザーもまた宇宙の超古代文明に依拠する存在でもあったのだし、清楚なヒロイン・牧葉ひかるは本リメイクでは南洋の孤島の超古代文明の遺跡を祭る浅黒い巫女にしてカタカナ名義の牧葉ヒカルに改変されている。放映当時からではなく長じてからの彼女のファンに過ぎない筆者としても、少しだけ残念な処置ではあったのだが、1クールしかない作品ではあるのだし、主人公青年の母星にも婚約者がいる以上は、仕方がない処置として許せはするのだ。


 そのうえで、原典の前作『グレートマジンガー』最終回ではスタッフに忘れ去られてしまって(笑)、倒されずに終わってしまった超古代ミケーネ帝国のラスボス「闇の帝王」などともカラめてほしい……などと云いつつ、幼少期の筆者は「闇の帝王」忘却の件にも気付けてはいなかったものの……。ヒカルの一族が祭っている遺跡にはグレンダイザーとの合体をも想定した3大・新スペイザーがすでに太古に埋蔵されていた! といった要素を、ミケーネ帝国や宇宙の超古代文明とも積極的にリンクをさせてほしいのだ。
 往時は『テレビマガジン』や『てれびくん』とも競合していた今は亡き月刊幼年誌『冒険王』に連載されていた、桜多吾作(おうた・ごさく)版『グレンダイザー』ほかのマンガ家たちによる各誌でのコミカライズにおける、前作や前々作や、宇宙規模での超古代文明との因縁などとも統合してみせていったオリジナル展開のような、そういった伝奇SF的な要素でのスケール雄大感なども醸してほしいのだ。
 そして、往年の『グレートマジンガー』終盤や『キカイダー01(ゼロワン)』(73年)終盤に、飛んで東映変身ヒーロー『宇宙刑事シャリバン』(83年)終盤や『ビーファイターカブト』(96年)終盤などにおける、先輩マジンガーZキカイダー宇宙刑事ギャバンや先代ビーファイター客演に伴なうコーフンやスケール雄大感などもほしいのだ! ……対するに、原典『グレンダイザー』終盤や『宇宙刑事シャイダー』(84年)終盤などにおける、ダブルマジンガーやダブル宇宙刑事の客演による3大ヒーロー集結といったイベントが実現しなかったことによる、何ともいえない不完全燃焼感……
 こういった機微をも踏まえたうえでの本リメイクの続編は、当然ながらにスタッフたちの脳内では最初から想定されているとは思うのだ。そうしたロマンあふれる続編ではありつつも、もう少しだけ渋滞はしていないスッキリとして見晴らしもよいような爽快なるアフターストーリーが、いつの日にか製作されることを願ってはいるのだ。


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『DEATH-VOLT』VOL.95(24年11月16日発行予定))


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機動戦士ガンダム』(81年) ~初作劇場版3部作・来なかったアニメ新世紀・80年安保

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19990801/p1



グレンダイザーU

『グレンダイザーU』 ~マジンガーZも活躍する快感! しかしてあまたの要素で渋滞! 超古代文明ネタなどで、続編での挽回を期待したい!
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ヤマトよ永遠に REBEL3199 第一章 黒の侵略 ~敵は未来人・宇宙人・火星人!? ブラックホールの「事象の地平線」上のホログラフィック原理なホーキング放射にカギがある!?

『宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち 前章 -TAKE OFF-』 ~敵国認定され戦争となる危険がある人道支援はドーすればイイ!?
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第七章「嚆矢篇」』 ~不評の同作完結編を絶賛擁護する!
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 『宇宙戦艦やマト』(74年)50周年記念! 庵野秀明(あんの・ひであき)カントクによる再々リメイクも決定記念! アニメ映画『ヤマトよ永遠(とわ)に REBEL3199(レベル サンイチキュウキュウ) 第二章 赤日の出撃』が2022年11月22日(金)の公開間近記念! とカコつけて……。『ヤマトよ永遠に REBEL3199 第一章 黒の侵略』(24年)評をアップ!


『ヤマトよ永遠に REBEL3199 第一章 黒の侵略』 ~敵は未来人・宇宙人・火星人!? ブラックホールの「事象の地平線」上のホログラフィック原理なホーキング放射にカギがある!?

(文・T.SATO)
(2024年10月3日脱稿)


 今から44年も前(!)の作品となってしまう1980年夏の2時間尺のSFアニメ映画『ヤマトよ永遠(とわ)に』を、ナンと! 30分尺のTVアニメシリーズ全26話相当に大幅に水増しにするという作品が登場! 「第一章」はその#1と#2にあたるのであった。


 日本のアニメの金字塔である、もう50年も前に放映が開始された『宇宙戦艦ヤマト』(74年)。外宇宙からの侵略者・ガミラス帝国による遊星爆弾の攻撃によって、すべての海水が蒸発して赤茶けたクレーターだらけとなった未来の地球が導入部の舞台たるSFアニメであった。人類は地下都市で細々とその命脈をつないでいる。地球滅亡まであと1年! そこにイスカンダル星からオーバーテクノロジーたる「波動エンジン」の設計図と「放射能除去装置」を譲渡するというメッセージが届いて、ヤマトはガミラスの艦隊と戦いながらイスカンダルを目指す。そして、往時の子供向けTVアニメとしては画期的な、艦内での世代間での群像模様や男女の恋愛をも描いて、最後にガミラスを滅ぼして勝利はしたものの、その廃墟に戦争の虚しさと和解の余地もあった可能性を感じて涙する……といった作品でもあった。


 一世を風靡した大人気作の常で、同作は外敵を変えるかたちでシリーズ化されていく。映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』およびその翻案たるTVシリーズ『宇宙戦艦ヤマト2(ツー)』(共に78年)。TVスペシャル『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』(79年)。1980年夏休み興行の映画『ヤマトよ永遠に』。『永遠に』のTV向け翻案ではなく、その後の出来事を描いた1980年秋からのTVシリーズ『宇宙戦艦ヤマトⅢ(スリー)』(80年)等々……。
 これらの作品群は、いわゆる1960年前後生まれの「オタク第1世代」がまだ10代前半の中学生~大学生である20歳前後までであった時期の作品群でもある。日本における本邦初の中高生~ヤングアダルト向けの一大ブームこと、1970年代末期~80年代前半の「アニメブーム」を招来した作品群ともなったのだ。


 とはいえ、往時の『ヤマト』に対する当時のアニメマニアの評価は一般的には、大々的に「完結編」だと謳った第2作『さらば』までを高く評価していた。例外的に、シリーズ第1作目の超ファンではあっても、1960(昭和35)年生まれのまさにオタク第1世代でもあるマンガ『サルでも描けるマンガ教室』(89年)の原作者でもある竹熊健太郎や、巨大ロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)の庵野秀明カントクなどは、各々が異なる理由で『さらば』の時点でサメていた旨を語っている。しかし、それは彼らが当時からかなりスレた超マニアだからであって、当時のアニメマニアの一般的な見解ではさらさらない……両者ともにサヨク的な軍国主義批判からの文脈で批判していたワケでは決してないのは、くれぐれも念のため!(笑)
 つまり、一応の「完結編」を謳った『さらば』のソバからTV放映が開始された『2』やその続編新作『新たなる旅立ち』の存在に至っては、創刊間もない月刊アニメ雑誌の読者投稿欄やら、ご近所の年上のお兄さんお姉さん世代たちの年長マニアたち……といっても、今にして思えば、まだまだ未成年の中高生の子供たち!……が、そのことにホンキで「裏切られた!」という想いをブチまけている姿をたしかに散見したものであった。
 そういうワケで、往時の「ヤマト」ファンは、往年の続編群たる『新たなる』や『永遠に』に対しては思い入れはあまりないハズである。むしろ急遽、製作されたゆえに、いかにも付け焼き刃な追加設定や、それに伴なう矛盾・不整合などをあげつらわれてきた作品群でもあったハズだ。なれば、どのようにリメイクされようとも、初作のリメイク『宇宙戦艦ヤマト2199』(12年)や『さらば』&『2』のリメイク『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(17年)ほどには、『ヤマト』マニアも大騒ぎはしないことであろう……と思ってはいたものの。


 原典『新たなる』&『永遠に』は一応の前後編だともいえる、2作がともに共通の敵を仇としたストーリーでもあった。しかし、『新たなる』で華々しく初登場したヤマトの新人搭乗員たちは『永遠に』では連続登板はしていない。その主敵の名は「暗黒星団帝国」であったハズだが、『永遠に』ではその呼称もいっさい使用されていない!(笑) 「暗黒星団帝国」の宇宙人たちの肌の色も灰色から青色へと変更されている!(汗) 『新たなる』ラストではヤマトが局地戦的には爽快な勝利を収めたものの、「暗黒星団帝国」それ自体は残存し、声のみで登場した「グレートエンペラー」なる首魁が率いるスケールも大きな巨悪であることが示唆されて、物語は次作以降へのヒキ(引き)を伴なって終息したハズであった。
 しかし『永遠に』においては、「グレートエンペラー」は登場しない(笑)。声も異なる「聖総統」なる敵ボスのオジサンが登場する。彼らは自身のことを「未来の地球人」だと詐称しだす。そして、母星を地球そっくりに改造してヤマトクルーに見せつけた果てにその虚偽を見抜かれて、さらには母星を防衛したり他惑星に侵攻したりするための大規模な宇宙艦隊なども登場せずに、同作にてアッサリと滅ぼされてしまうのであった!(爆)


原典『ヤマトよ永遠に』における「地球の未来人」を詐称した「宇宙人」ではなく、『3199』ではガチで「地球の未来人」が敵!?


 本作『3199』ではナンと! 「詐称」ではなく、どうもガチで「未来の地球人」であることが示唆されている。旧『新たなる旅立ち』のリメイクたる直前作『宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち』(21年)エンドクレジット後のラストにおける、「暗黒星団帝国」もとい原典『永遠に』における母星の名を採って「デザリアム」なる名称を冠した敵集団による、黒色で逆円錐・縄文土器状の超巨大要塞・自動惑星ゴルバ内部の無人機による潜入映像。
 そのゴルバの内壁には、朽ち果てている地球の最新鋭戦艦・アンドロメダ(!)の艦首が突入作戦に失敗したかのようになぜだか生えている! ピンボケのズームアップ映像の艦名プレートにはアンドロメダ級・9207番艦とある! 劇中人物たちもその「製造番号」が現行アンドロメダのそれとは桁違いに大きいことに驚嘆する! 製造年度は300年後か800年後の西暦2339年とも2839年だとも読める! そして、デカデカとインサートされてくる次作のタイトル『ヤマトよ永遠に REBEL3199』……。


 もちろん、理性的に考えれば、このシーンをもってしても、敵が「未来の地球人」であるとは断定ができない。「未来の地球人」が戦っていた「未来の宇宙人」である可能性もある。しかし、西暦3199年の未来から来たケムール人(笑)もとい縁もゆかりもなかった「宇宙人」と戦うよりかは、西暦3199年の「未来の地球人」と戦った方が物語としては断然、面白い。
 いかに今どきの「時間SF」が過去への干渉でもタイムパラドックスは生じずに、そこから歴史(時間)が枝分かれして分岐並行宇宙が新たに誕生するパターンが主流になったとはいえ、親殺し・先祖殺しのタイムパラドックスの危機への興味関心も惹起されることで、劇的・ドラマチックではあるからだ。


 むろん『2205』内でも、敵勢力・デザリアムの幹部キャラは、その初登場時からアナログレコードでノイズまじりの地球のクラシック音楽……ドビュッシーの「月の光」などに聞き入っている。我らがヤマトの旧敵・ガミラスのことを「歴史に残らぬ弱者ども」などと評している。「デザリアム千年の夢」などとも語っている。今いる宇宙空間の戦場を「この時空間」とも呼称していることから、地球の過去への懐古趣味なども持った、我々地球人の未来人である可能性は高い。
 しかして、未来から来たので過去のことはナンでもあらゆることまでご存じだ! となっては、ストーリー構築にもムリが生じてしまう……これはあらゆる「時間SF」についてまわる宿痾でもある……。それゆえでもあろう、そこで「『大喪失』に含まれる記録」(=詳細な「記録」が失われてしまった歴史時期)という扱いで、宇宙戦艦ヤマトの存在それ自体を知らないか、そこまで行かなくてもこの西暦2205年にはイスカンダル星にヤマトが表敬訪問しようとしていたことをデザリアム人たちは知らなかったがために、デザリアムの自動惑星ゴルバによるイスカンダル星まるまるの鹵獲(ろかく)作戦を、ヤマトに一度は阻止されてしまうといったストーリー展開にも、SF的な言い訳ができていたのだ。


『2202』最終回にて軍事的アドバンたる「時間断層」を放棄しなかった可能性世界の「地球の未来人」!?


 原典『永遠に』における暗黒星団帝国ことデザリアム人の正体は、頭部以外は実は機械化された存在でもあった。そして、生物種としての生命力が衰えたことから、中性子爆弾モドキな重核子爆弾にて地球人を脳死させて、その肉体を奪うことが目的でもあった。同作のリメイクたる『3199』もこれに準じるのであれば、過度な人間疎外的な合理化・機械化文明の行き過ぎによる袋小路の果てに、その反省として改めて「肉体」や「感情」を求めるために1000年過去の地球に襲撃しに来たとも判断ができるのだ。
 けれども、前々作『ヤマト2202』最終回においても、すでにこういった過度な人間疎外的な合理化・機械化・軍拡路線に対する批判・相対化の描写は頂点を極めている。加えて、『2202』最終回においては、原典『さらば』&『2』のラストにもなかったその先の物語が描かれてもきた。
 劇中においては、初作ラストからわずか1~2年ほどでイスカンダル由来の超テクノロジーたる「波動エンジン」、ひいてはその技術を兵器に転用した「波動砲」を搭載した大小の数百数千の戦艦を擁した大艦隊を急増できてしまったことの、原典『さらば』&『2』における公開当時はともかくとしても、公開3年後(汗)あたりからの『ガンダム』初作至上! 『ヤマト』はもう古い! 粗だらけ! といった風潮に便乗しての、往時のマニア諸氏によるツッコミに対しての数十年後のSF的な言い訳でもあった「時間断層」なる存在……。


 これは『2202』に先立つ『2199』最終回において、素粒子・量子レベルにおける超ミクロな「空間」や「物質」や「人間」そのものに永遠に宿っている宇宙誕生時~現在までの局所的な記憶=波動=波長=エレメント(超元素)を基にして、破滅に瀕していた地球の蒸発してしまった海水や森林に大自然までをも復元してしまえた超技術・コスモリバースシステムに対する後付け設定での副産物たる、地球の地底に生じた「深部に行くほどに時間の流れが早まってしまう特殊空間」のことであった。
 リアルに考えれば10年ほどはかかってしまうであろう膨大な数の宇宙戦艦群や復興建築資材を、「時間断層」なる空間内の超巨大建造ドックにて製造しつづけてきたとしたことで、いかに現実からはカケ離れたSF作品ではあっても、これをSF合理的には解決しえたのだ。そして、戦術・兵器の設計・敗戦時の宇宙脱出計画なども、この時間差を用いることでのAIによる驚異的な超高速計算をも達成して、その演算結果が現場にも即座にフィードバックされつづけていることも語られていた。
 もちろん劇中においては、そういった過度な機械化・合理化・非人間化・軍拡路線に対する相対視や批判、人々の漠とした「これでイイのか?」といった不安なども語られてきていた。


 『2202』最終回においては、この外敵に対しては圧倒的な軍事的アドバンテージたりうる「時間断層」を、人々は世界的規模での議論の果てに国民投票・人民投票(!)まで実施して、放棄してしまうのだ!(爆) しかも、「時間断層」を周囲から爆縮して発生させた超絶エネルギーによって、一度は「時間断層」内の「海」……最深部でもあるので、無限にも近い時空の歪みによって高次元世界にも通じている!?……に帰還してきたヤマトを再度、高次元世界へと飛ばして、3次元物質宇宙ならぬ高次元世界……精神世界でもあり、生死の狭間としての実質的には「霊界」!?……にて漂流している、ヤマトの搭乗員たった2名の人命を救出するためだけにだ……。


軍事的アドバンたる「時間断層」を放棄しなかった方がよかったと考えてしまうヒトたち……


 ……ウス汚れてしまった筆者個人なぞは、一応の「理」の次元においては、侵略的な用途には使わないという制限を付けたうえで「時間断層」なり超兵器の類いを外敵に対する「抑止力」や「反撃力」として、地球連邦政府は保持しておいた方がイイと考えてしまう者ではある(汗)。


 それともまったく同じリクツで、女子高生が第2次大戦時の戦車で部活として試合する深夜アニメ『ガールズ&パンツァー』(12年)や、女子高生が旧海軍の軍艦でナゾの軍艦と戦う『ハイスクール・フリート』(16年)などでも、主人公女子高生が大局での勝利を考えずに目前の危機に瀕した人間を見て、隊長や艦長としての職務を放棄し、部下にやらせるのではなく自分で救出に行ってしまう姿をオカシい! と直感的には思う側の人間でもある(爆)。


 とはいえ、それは題材的にも「軍国主義的だ!」と見られて批判をされてしまうことを過度に恐れての、あくまでも戦争ではなくスポーツ、勝敗よりも人命の方を優先している慈愛的な女児向け魔法少女モノのようなノリ、99匹の子羊よりも1匹の子羊の方を救わんとする新約聖書イエス・キリスト的なエクスキューズなのでもあるからして、SNSなどで隆盛を極めた艦長自らがひとりで泳いで助けに行く姿をオカシい! とヒステリックに批判をする連中の末席に加わる気もないのだが(笑)。


 原典の初作においても、「軍国主義的」だとして見られてしまうことを非常に恐れて、メインスタッフでもあるマンガ家・松本零士(まつもと・れいじ)が強硬に主張して、ヤマトの艦首から「菊の御紋」をハズさせたり、旧海軍の「軍艦マーチ」の使用をやめさせたりした逸話はマニア間では有名だ。先の大戦時の「戦艦大和(やまと)」の姿をしている以上はそういった議論は宿命でもある。


 しかし、「軍事」に関してそこまで過度に忌避すればこそ「平和」が到来するのだ! と云わんばかりの論調なぞは、イザとなれば世界の人々の良識や平和主義といった名の「神風」が吹いて平和が到来する! といったオカルト的な神頼みでの精神主義に過ぎなくて、皮肉にも「神風が吹けば神国・日本は勝利する!」といった先の戦中の言説ともメタレベルでは完全に同じ精神の型であり、悪い意味での日本人的な言説の典型そのものともなっており、個人的には反発を覚えなくもないのだ(汗)。


 しかし矛盾・分裂を承知のうえで、一方の「情」の次元においては、このストーリー展開に感涙もしていた……「時間断層」の断固維持を最終演説で訴えていたタカ派の初老の芹沢副司令でさえもまた、そんな人々の情にホダされて涙を流してしまうあたりのダメ押し演出もまたすばらしかったと私見をするのだ……。
 だから、そんな選択を採択した地球人類の未来の姿がストレートにデザリアムになってしまうとは考えにくいのだ。むしろ、国民投票の末に「時間断層」を放棄せずに、科学化・合理化・非人間化を押し進めた場合の地球の成れの果てであれば、たしかに1000年後の未来の地球はデザリアムにはなりそうではあるのだ。


並行世界の地球の未来だと推測される根拠! 『2202』における高次元世界から見下ろした幾多の3次元並行宇宙!


 原典『さらば』においては「反物質」の肉体の持ち主とされて、翻案『2』ではそれはさすがにムリがあったとばかりに超絶的な「超能力者」であるとされた宇宙の美女・テレサ。『2202』においては、超絶的な「超能力者」であるとする設定もまた今ではムリがあるので(……いや当時であってもムリがあったけど・笑)、これまた唯物論的なハードSF小説の世界においては(古典SFを除いては)オカルト扱いされてしまうような禁じ手にも思えたものの、『幼年期の終り』(52年)や『2001年宇宙の旅』(68年)などのように、その星の知的生命体(=宇宙人種族)の全員が肉体を捨てて精神だけの存在として高次元世界に住まう合体集合生命へと進化してしまった超存在が、3次元の人々にも認知ができるための本地垂迹説な方便・アバター(化身)として、テレサなる美女の姿を採っているのだとして、再設定・再構築もされていた。


 そんなテレサが3次元世界よりも上位にある高次元世界から下界を見下ろせば、その3次元宇宙の過去~未来の時間(歴史)の流れまでも1本の糸のように俯瞰ができてしまえる。どころか、3次元宇宙それ自体も1つではなく膨大に存在しており……いわゆるパラレルワールドマルチバース(多元宇宙)!……、それらのアリえたかもしれない可能性の世界もまた実在の世界だとして分岐しながら増殖し続けていくことも俯瞰ができることになる。
 実際にも『2202』の中後盤においては、テレサがヤマトの搭乗員たちにそういった無数の幹や枝にも見える時間線が、光の樹木のようにカラまったビジョンを見せつけてもきたのだ……個人的にはこの時点では、原典の旧作群やそのバージョン違いをなかったものとして上書きにしてしまうのではなくって、並行世界としてはこの時間樹のひとつとして確固として実在しているのだ! すべての全肯定なのだ! といったことを、深読みマニア向けに言明するための回りクドいファンサービスだと思っていたのだけど(笑)……。


 ということで、デザリアムは「時間断層」を放棄している『2205』以降の時間線の未来から襲来した地球人である可能性はゼロではないが低くなる。しかし、「時間断層」を放棄しなかった場合の可能性たる分岐並行宇宙の側の未来から来た可能性は大いに想定されるのだ! ……などと云いつつ、「ヤマト」マニアや深読みアニメマニア諸氏の全員とはいわずともカナリ大勢もまたそう直感していたことを、あとでググって知ったのであった……(爆)。よって、ワリとアリがちな考察にはなってしまったので(汗)、筆者の独創であるかのようにエラそうに語る資格もないのだけれども。


 そのうえで付け加えるのであれば、本作『3199』におけるデザリアムの設定には、さらなるヒネりがあった。彼らは必ずしも科学・機械・合理化・軍拡バンバンザイの申し子でもなかったからだ。彼らはヤマトやアンドロメダなどの駆動源たる「波動エンジン」や「波動砲」……実質的に「原子力」や「核兵器」のメタファー……を、忌むべき諸悪の根源だとして否定もしている! そもそも、彼らは「波動エネルギー」の存在を知ってはいても、自身たちではそれらをたしかに利用や武装はしてはいなかった。このあたりは、劇中の前半においては軍拡路線をひたすらに突き進もうとしていた『2202』における地球連邦政府、あるいは「時間断層」を維持しつづけた場合の仮想の地球の未来のイメージとは一致しなかったりもするのだ。


 しかし、こうも考えることができる。デザリアムもまた未来のある時点において「波動エネルギー」の制御に失敗して滅亡の危機に瀕したからこその、数百年後の「後出しジャンケン」としての「波動エネルギー」の否定・放棄ではなかったのかと。そのために、「波動エネルギー」技術の本源たるイスカンダル星を惑星まるごと鹵獲して、滅ぼさないまでも自身たちの厳格なる管理下に置くことで、その超テクノロジーを他の宇宙人種族が使用できないように、門外不出にしようとしたのではないのかと……。


 救いの星ではなく、忌まわしき星としての側面も持たされてしまったイスカンダル。実はこの設定はスタッフが一新された『2202』以降のシリーズではなく、アニメ・特撮のデザイナー上がりでもある出渕裕(いずぶち・ゆたか)が総監督を務めたリメイクシリーズの初作たる『2199』が初出ではあった。アレキサンダー大王のアラビア語読みがイスカンダルでもあったことから着想を得たのか、同作は子供向け勧善懲悪の特撮変身ヒーローものではないのでイスカンダルを無垢なる「絶対正義」の存在にすることは避けておき、何者ではあっても「原罪」を背負った存在にしようと思ってなのか……たしかに弱者や少数派であっても「原罪」を背負ってはいる!……、イスカンダルもまたはるか太古のむかしに「波動砲」を用いて大マゼラン銀河に一大覇権星間帝国を一度は樹立していたことが明かされてもいた。しかして、自ら「波動砲」を封印して「平和主義」へと方針転換したという、血塗られた過去が語られてもいたからだ。
 そして、その「平和主義」の理念によって、「波動エンジン」の原理だけを地球人に教えたハズであったのに、ヤマトの副長・真田さんという不世出の大天才が、その技術を発展させた先にある「波動砲」まで独力で完成させていたことを、『2199』終盤においては激しく糾弾して、その技術や発砲の封印を命じてしまうのでもあった(汗)。


 原典の『ヤマト』初作においては、超光速航行・ワープに失敗すれば宇宙全体をも崩壊してしまう可能性が語られていた。『2199』中盤においてもイスカンダルの女王スターシャの末妹とされた新キャラ・ユリーシャの霊(生き霊)に憑依された女性搭乗員が、ワープ航法ではないものの「波動砲の乱用にて宇宙全体が引き裂かれる可能性」にも言及していた。『2199』ではこのセリフに対しての伏線回収はまったく採られなかったのだが(笑)、今さらながらにこのセリフでの設定をひろい直してきたのであろうか? 昭和の『ヤマト』シリーズのように光よりも速く動ける架空の素粒子タキオン粒子を発射するのではなく、通常は超ミクロな空間内に畳み込まれているようにも見立てることができる「余剰次元」……4次元以上の高次元空間を意味する物理学における実際にもある専門用語……を射線上の3次元空間に強引に展開したものだとして、『2199』以降の「波動砲」は再設定もされていた(=劇中でも正式名称は「次元波動爆縮放射器」)。
 つまり、実は我らが3次元宇宙の時空間それ自体に、甚大なる負荷やキズあとを付けてしまっている可能性はあったのだ。よって、デザリアムの出自である並行宇宙のひとつそれ自体もまた「波動砲」の乱用の末に、ある時点で崩壊の危機に瀕してしまい、あるいはそのものズバリでひとつの宇宙それ自体が崩壊してしまって、その並行宇宙における地球の文明のそれまでの歴史記録の一部をも失ってしまって、それを「大喪失」と称しているのであろうか?


「合理」を超えた「肉体」と「感情」の回復を目指す未来人。「差別」「対立」「戦争」はなぜに起こるのか!?


 そして、デザリアム人たちは(適度かつ暴走しない範疇での)「感情」の肯定、あるいは枯渇気味であった「感情」の適度な回復を目指しているようでもある。


 逆説的だが、「科学」や「合理」や「倫理」の根底・土台・土壌には、ヒステリックなスリ切れた快・不快といった意味での「感情」(=劣情)ではなくって、論理の格子の垂直水平がワチャクチャにたゆんでしまわないための「感情の安定」こそが必要であるのだ。加えて、仮に現在や過去に間違いを犯していたと気付いた場合であっても、羞恥心から来る隠蔽やヘリクツによる見苦しい自己正当化には走らずに、自分個人の失態をも三枚目・道化・ピエロ的に人前で余裕を持ってカミングアウトし、「ナンちゃって~」とアタマをポリポリと掻きながらでのアカウンタビリティー(説明責任)的に自身を笑い者にやつして、そこからの軌道修正も明るく図れるような、機知(ウッィト)と諧謔(ユーモア・愛嬌)なども必要なのである。


 それが人格向上、人間としての器量を大きくするための道でもあるのだ。そして、軍国主義・ミリタリズムが戦争を引き起こすのでもない。それは結果に過ぎない。戦争は相手がいなければ起きえない。たとえ義憤からではあっても、相手が明らかに劣っており遅れており間違ったものだとは思えても、個人あるいは左右双方の陣営ともに他人や他陣営やその思想信条に対しての蔑視・全否定・呪詛、そして撲滅せんばかりの礼節を欠いたヒステリックな言動こそが、原理的には差別・分断・対立・虐殺・戦争をも引き起こす根本原因でもあるのだ。真に否定すべきなのは、そしてまたセルフコントロールにてフィルター・抑制・自制されるべきものは、そういったヒステリックでササくれ立った心性・態度・言動なのである……最近、一部で流行りの「トーン・ポリシング」(口調警察)なる概念で他人からの批判を否定し、自己を神聖不可侵にする行為は害毒がデカいと思う……。
 加えて、物理的な殺人・強盗・暴行までは行かない程度の「悪」であれば、避けたり怒りに変えるのではなく、一度オトナの態度で飲み込んで蒸留・包摂・昇華する。そして、分かり合えなくても棲み分け的に共生しながら、たとえ演技やポーズや上から目線でのミソっカス扱いのそれではあっても、それはオクビにも出さずに礼節を持って、互いに断交ではなく接点を、折りにふれては交渉や、一時的には小さな「悪」に染まって暫定的な妥協をしていくこともまた、長い目での大きな「善」をもたらすためには必要でもあるのだ。
 それはまた、古今東西の哲学・高等経典宗教(の上質な部分。排他的・狂信的な要素は除いての……)が共通して説いてきた、(「そのままの君でイイ」といった自堕落な俗論なぞではないところでの・笑)ストイックに努力を重ねて身に付けていくべきものとしての徳目、ヒトの目指すべき道、登頂すべき道でもある。


 マジメな方々には非常に申し訳ないのだけれども、ただ単に四角四面なだけの人間や、メソメソとした小者・小人物にはこれができないので、ヤンキーDQN(ドキュン)・粗暴犯・権力悪と比すればまだマシではあっても、これらともまた別種の始末の悪い「悪」の存在・人格へと堕落していく可能性もあるワケだ。よって、みずみずしい喜怒哀楽としての「感情」の獲得もまた絶対的に必要なのである。
 しかし、AIには「感情」「倫理」、あるいは「直感」「インスピレーション」といったものがないので、科学におけるブレイクスルー、さらなる一段の飛躍といった進歩もまた望めなくなってしまって、デザリアムは停滞文明と化してしまったのではなかろうか? などといった推測も可能ではあったのだ。


 これらもまた、現今のスレまくってしまって、その上限は還暦をも突破してしまった、実にメンドくさいマニア諸氏に対するミスリード演出・フェイント作劇でもあって、作り手たちはさらにウラを掻いていてくる可能性は高い。もちろん、こういったネット界隈でのマニアの深読みはたいていがハズれるか、ハズれなくてもズレてはいるものだ。しかし、開き直るようではあるのだが、そういった考察遊びもまた楽しいのだし、こういったことを愛好するマニアがごくごく一部の少数派であるとも云いがたい。
 そうであれば、歳も若い『ヤマト』マニア諸氏も含めて、あまたの個人ブログやYouTube動画などでも考察・深読み遊戯を繰り広げて、それらに対してアッという間に数万! といった膨大なる再生回数を誇ってしまっていることの説明がつかない(笑)。90年代後半に隆盛を誇った巨大ロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)に始まる、良くも悪くも深読み隆盛の風潮は雲散霧消して、00年代後半からはボキャ貧(ボキャブラリー貧乏)の「萌え言語」一辺倒の世になってしまった……と個人的には嘆いていたものだが、四半世紀を経てまた世は一巡を遂げていたようだ。


「地球の未来人」ではなく「銀河の中心、暗黒のブラックホール近辺に巣くった宇宙人」が敵なのか!?


 とはいえ、ここまで伏線を張っておいて深読みまでさせたあげくに、デザリアムの正体はやはり未来の地球人ではなく宇宙人であった! となってしまうと、それもまた個人的には詐欺に近くも思えて、社会風刺性にも乏しくなってしまうとは思える。よって、ごくごく個人的にはそのオチはやめてほしいのだが(笑)。


 原典では『永遠に』の直続作である『ヤマトⅢ』が初出の敵勢力でもあった「ボラー連邦」が、前作『2205』冒頭から先行登場してきて、本作『3199』冒頭にも登場していた。しかし、彼らもまたデザリアムが地球圏に飛ばしてきた超巨大要塞・グランドリバース……原典『永遠に』における重核子爆弾に相当……のことを、


●「銀河の中心にあって、宇宙を凍てつかせる魔女の吐息(といき)」
●「ウラリアの光」


として恐れてもいた。その要塞の存在それ自体を既知の存在だとしていたのか、単にそれが放っていた「赤黒い光」や、宇宙戦艦群の機能を停止させてしまう「異形の力」を恐れていただけであったのか? それとも、我らが住まう天の川銀河の中心部に君臨している星間覇権国家のことを恐れていたのか?


 ウン? 天の川銀河の中心部には、旧作『ヤマトⅢ』においては、銀河の中心部の「核恒星系」を周回する惑星・ガルマン星こと実はガミラス帝国の始祖が住まっていた惑星が鎮座ましましていたハズだ。ガミラス星亡きあとのガミラス民族はその始原の地を起点に新たに「ガルマン・ガミラス帝国」として版図(はんと)を拡げていっていたのだ。主役・カーク船長を演じるウイリアム・シャトナー自らが監督を務めたものの、マニアの評価は低いが筆者個人の評価は高い、往年のSF映画『スタートレックⅤ(ファイブ) 新たなる未知へ』(89年)においても、天の川銀河の中心部には「エデンの園」とでも称すべき桃源郷の惑星が発見されていた。


 しかし、90年代以降の天文学の進展で、天の川銀河にかぎらずあまたの銀河の中心部には超々巨大ブラックホールが存在しており、その超強大なる重力に周囲の星々が引き寄せられることによって、あまたの銀河も実は成り立っていたことが常識化してしまった! ということは、銀河系の中心部にガルマン星が存在するという設定は、イジワルなSFマニア主体の『ヤマト』ファン向けにはツッコミどころを与えてしまう可能性が高いのだ……筆者個人はそのへんはテキトーでも、あるいは確信犯でのオールドSFでもイイのでは? とも思ってはいるものの……。


 けれども、改めてググってみると、『2205』冒頭にてボラー連邦に蹂躙されて、星間宗教の女神マザー・シャルバートへの信仰までをも奪われてきたリメイク版のガルマン星は、銀河系の中心部に位置するものではなく、天の川銀河の辺境部に位置するものとして、シレッと設定が変更されていたのであった!(笑)


 それでは、ボラー連邦が恐れた「銀河の中心にあって、宇宙を凍てつかせる魔女の吐息」とは何なのか? 原典ではスタッフの単なるお遊び・楽屋オチだったとは思われるのだが、暗黒星団帝国の「重核子爆弾」とまったくの同型の兵器を禁断の武器庫に保管していた星間国家が、実は旧作『Ⅲ』には登場していた。非武装中立・無抵抗主義で殺害されていく、女王マザー・シャルバートが統治する宗教国家・シャルバート星だ。
 しかし、シャルバートもかつては一大星間覇権国家であった。ボラー連邦は重核子爆弾もといグランドリバースの姿を見て、デザリアムではなく往年の覇権国家としてのシャルバートやその女王のことを想起して恐れたのか? そういえば、異常増進した我らが太陽の活動を凍てつかせ、もとい冷まさせてしまった「ハイドロコスモジェン砲」なる超絶兵器も、シャルバート星は保有していたのだ(笑)。


 冗談はともかく、銀河の中心には超巨大ブラックホールが存在している。このブラックホールとは「黒」「暗黒」そのものであって、原典での「暗黒星団帝国」にも通じてくる。宣伝ポスターでは「暗黒」の文字に「デザリアム」との読み仮名が振ってあった。すると、銀河の中心部のブラックホール近辺に巣くっている宇宙人種族が「地球の未来人」だとの詐称をしているのか?


ブラックホール」における「事象の地平線」にて生じる「ホログラフィック原理」と「ホーキング放射」にカギがある!?


 そこで、往年の科学少年・天文少年の成れの果てとしての血も騒ぎ出す。「ブラックホール」の内部もまた、光でさえも脱出できない「事象の地平線」の先(中)がまた、時間・空間をも超越した高次元世界や他の並行宇宙へと通底している超空間なのではなかったか? そうなると、デザリアムはブラックホールを物理的に超えてきた並行宇宙の地球の未来人でもあったのか?


 アインシュタイン相対性理論によれば、「光の速さ」だけが「絶対不変」であって、「時間」と「空間」の方が「相対的」であるとされている。つまりは、「光の速さ」に近づけば近づくほど「時間」と「空間」の方が伸縮して、いわゆる浦島太郎の「ウラシマ効果」などが発生してしまうのだ。
 この原理によって、ブラックホールの表面(=事象の地平線)については、物体などが光の速さに迫る勢いで落下していく際に、落下していく当人にとっては一瞬の出来事ではあっても、傍から見れば「時間」の進み方が極度に遅くなって、ついには「時間」(動き)が停止してしまったようにも見えてしまう。それによって、落下物や電磁波(=光)などの「情報」が「事象の地平線」上における「池に広がった波紋・波・波動・波長」、つまりは実質的に「情報」が「周波数」「電磁波」のようなかたちで半ばは永遠に残ってしまっている状態になっているのだともいう。これを「ホログラフィック原理」(=(超)平面上における(超)立体映像としての情報)というのだ。


 さらに加えて、かのホーキング博士などによれば、3次元物理世界的にはまったくの真空・絶無の空間には見えてもウラ側(高次元世界?)には未知のエネルギーが充満しているので、超ミクロ・極微の世界においては正物質&反物質素粒子が「対生成」で常に出現して直後に「対消滅」をしていっているともされている。
 なおかつ、「事象の地平線」上の極微世界においても「対生成」は起きている。しかし、その片方の反物質は直後にブラックホールの内側へと落ちてしまって正物質との「対消滅」は起きえなくもなってしまう。
 その逆に、正物質の方はブラックホールの外側(=「事象の地平線」よりも手前の通常の宇宙空間)へと飛び出していってしまうのだ……これを「ホーキング放射(輻射)」とも名付けている……。よって、超長期的にはブラックホールも質量が次第に微減していき、やがては蒸発・消滅してしまうとも予想されているのだ。


 この光さえをも飲み込んでしまうハズのブラックホール(=厳密にはその表面であり、通常の宇宙空間との境い目でもある「事象の地平線」上のみ!)から唯一、脱出できるものとしての、「ホログラフィック」(立体映像)な「情報」にも満ち満ちた「ホーキング放射」。その原理を拡大援用して、デザリアムは銀河の中心のブラックホールの内側から外側(この時間時点での宇宙空間)へと出現(実体化)したのであろうか? それとも、「ホーキング放射」(=結局は電波や素粒子による波長の「情報」=銀河全域やブラックホール内外の「歴史情報」)をつぶさに解読してみせた宇宙人種族が、未来の地球人を詐称しているのであろうか?(笑)


 ……『3199』第1章のラストにおいては、ワザワザごていねいにもデザリアムの紋章が地球の「国連」とおぼしき紋章へと瞬時に変化を遂げていた。……宇宙人なのか? 未来人なのか? どっちやねん!


敵の正体は「未来人」ではなく「宇宙人」でもなく、「火星人」(爆)だとの仮説もあった!?


 後学のために濃ゆいマニア連中の考察もググってみた。すると、デザリアムの正体は地球人でも宇宙人でもなく火星人(爆)だとの説もあった! もちろんタコ型の火星人なぞではない。火星へ移民した地球人の成れの果てのことである。『2199』にて新たに設定された、地球とガミラスとの10年戦争以前の25年間ほどの歴史設定。
 異星人(実質、ボラー連邦)の宇宙戦艦の残骸出自のオーバーテクノロジーにて宇宙戦艦群を建造して、地球に対する独立戦争を仕掛けたものの、敗戦と地球へのバビロン捕囚・ディアスポラ(離散)・強制移住の憂き目にあって差別されてきた火星移民たちのことなのだ……『2199』シリーズでは、女性キャラに改変されていたヤマトのパイロット・山本なども、銀髪・赤眼の火星移民の出自だともされていた……。


 彼らは地球連邦政府と地球人への反感、あるいは敗戦や強制移住に差別などの苦労・苦渋なども知らずに、安直に「時間断層」を放棄してしまったお坊ちゃまな地球人民への反感を持ったまま、今や政財界や軍の上層部にも浸透しているのだともいう。
 そんな彼らが地球人憎しのあまりに、被差別民たる火星人にも優しい真に公平な社会の強引・性急なる樹立、「未来の火星人」だとも名乗るデザリアムからの接触と地球に対する安全保障条約の甘言、自爆したイスカンダル星の復元のためのエレメントの代替たりうるものとしてのイスカンダルの遺児にして地球人との混血児・サーシャ嬢の差し出しの交換条件にも乗って、外患誘致に乗り出した……といった考察も散見されるのだ(汗)。


 地球に降下した重核子爆弾ならぬ巨大要塞・グランドリバースという名称もまた、劇中においてはヤマト型の3番艦こと宇宙戦艦・銀河に移設されてしまったコスモリバースシステムの名称をも想起させるものでもある……『2202』終盤での初登場以来、若きエリート女艦長が指揮する戦艦銀河は搭載したコスモリバースシステムからのナゾの平和主義的な干渉(汗)によって発砲などはできなくなってはいるものの……。
 むろん、デザリアムが地球の未来人であれば、コスモリバースシステムの同系版を開発保有していたとしても不思議ではない! すると、サーシャを生け贄にしたグランドリバースで、地球や修復中の月や土星のように、イスカンダル星をも復活させようといったところなのでもあろうか?


1979~80年を反映してしまう『永遠に』、2022~24年を反映してしまう『3199』、あるいは時世を透かし見てしまう(成人の)観客!


 もちろん、以上はSF的なガジェット(小道具)の部分の話に過ぎない。そこが優れていてもドラマ・物語として優れていなければ、作品としてはダメであることは云うまでもない。むろん、作り手も受け手もスレてしまったからであろう。『2199』以降のリメイクシリーズでは主人公男女の恋愛模様は押さえてはいるもののベタッとはしておらず、そこに焦点はあまり向いてはいないのだ。あくまでも、膨大な数の脇役キャラも含めての壮大なる群像劇といった様相を呈してもいる。
 「愛」だの「ロマン」だのといったセリフやテーゼが出てくれば、それだけで崇高なるロマンを感じられた70年代中後盤とは異なり(汗)、観客や時代の方が変わってしまって、「愛」や「ロマン」が時にもたらす逆説的な惨禍や、それであっても品位を持ってニヒリズムにはおちいらずに、ツマ先立ちで細い線上を歩くようなストイックな生き方が賞揚されてもいる。
 よって、リメイク作品のノルマ(笑)として、本作の一応のメインヒロイン&敵将校とのラブロマンス、『竹取物語』のように赤ちゃんから乙女へと急成長をとげてしまったゲストヒロイン・サーシャ嬢との交情なども描かれるのではあろうが、作品の目線はもう少しマクロで高いところも目指すのではあろう。


 原典『永遠に』の時期にも、その前年1979年においては旧・ソ連(現・ロシア)によるアフガニスタン侵攻があった。中国とベトナム間での戦争も勃発して(ソ中の代理戦争でもあった)、当時は平和主義勢力(爆)だとされていた共産圏同士での戦争の勃発に対して、左派系知識人たちは衝撃を受けていた(笑)……ベトナム戦争を勝ち抜いて4年しか経っていなかったベトナム側の圧勝にて終結……。
 しかし、ロートルな筆者は社会や世界情勢にも関心を持ちだしていた小学校の高学年ではあったものの、不肖にもそれらを『永遠に』と重ねて観ることなどしてはいなかった……当時は映像機器がお手軽ではなかったからか、ご当地の映像がニュースなどでもほとんど流布されなかったこともあったからでもあろうが……。


 もちろん、今どきの本格SFアニメ作品で、原典『永遠に』の冒頭とも同様に、やすやすと地球侵入・地球侵略を許してしまう図を見せられてしまうと、劇中における地球連邦政府地球防衛軍があまりにもマヌケに見えてしまうことであろう。それを防ぐためのエクスキューズなのでもあろう。地球連邦政府や政財界の内部の反逆者などからも示し合わせた、インターネット経由でのコンピューターシステムに対する大規模ハッキングなども伴なうクーデターの一連として、本作『3199』の冒頭は仕上げてみせていた。
 しかし、原典の再現だとはいえ、地球の地上にデザリアムの兵士が銃を乱射しながら降下していき、都心を瓦礫にしながら制圧していく光景を見せつけられてしまうと、現今のウクライナガザ地区の惨状をやはり想起もしてしまうのだ(汗)。
 もちろん、虚構作品が現実社会の縮図・写し絵や、それに対する批判(という名のプロパガンダ)である必要性は必ずしもない。むしろ、何か物事の真相を見抜いたつもりでも、幼稚でお粗末なテーマを提示しているだけの作品や、政権ともまた別種のプロパガンダを提示しているだけの作品なども多い。そういった危惧はありつつも、『3199』がどのような作品になっていくのか、お手並み拝見といったところではある。



 いかに高齢のオタク諸氏がリメイク作品を酷評しようが、『ガンダム』や『ヤマト』に『パトレイバー』のリメイクや続編作品のようなロートル・コンテンツは、たいていの深夜アニメなどよりも映画興行や円盤売上なども稼いではいるものだ。もちろん、ジャンルのメインストリームではもはやない。若いオタク向けの新作アニメのヒット作も年々歳々登場はしている。その意味でジャンルが旧作頼みになっているワケでもない。だから、ジャンルの豊饒さの一環として、最低限は稼げるコンテンツである間は、個人的には今後ともこれら旧作のリメイクシリーズには続行してほしいと願っているのだ(笑)。


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『DEATH-VOLT』VOL.95(24年11月16日発行予定))


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ウルトラマンアーク前半総括! ~鎧・アイテム・内宇宙・倒置法の作劇・昭和怪獣・タテ糸! 今後の「ウルトラ」はどうあるべきなのか!?

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ウルトラマンアーク』前半総括! ~鎧・アイテム・内宇宙・倒置法の作劇・昭和怪獣・タテ糸! 今後の「ウルトラ」はどうあるべきなのか!?

(文・T.SATO)

ウルトラマンアークのヒーローデザインの特質!


 銀色や赤色の巨大超人が巨大怪獣と戦う「ウルトラマン」シリーズ。半世紀以上の歴史を数える長寿シリーズの通例に漏れず、ウルトラマンとしてのデザインの基本線は守りつつも、そこにイイ意味でのデコラティブ(装飾的)な意匠やそれとは反する原点回帰的なシンプル化などの、幾度もの必然的にして悪い意味ではない往復運動・ヨコ振り運動を通じて、シリーズは継続されてきた。


 前作『ウルトラマンブレーザー』(23年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20230903/p1)がシルエットとしてはシンプルでスマートではあったものの、体表の文様としては複雑であったり左右非対称であったりもした。それとの差別化なのか、本作『ウルトラマンアーク』(24年)は相対的な意味でだが、原点回帰的で複雑な文様などもない、マニア諸氏にはシンプルな初代『ウルトラマン』(66年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20240204/p1)的な印象をもたらすデザインともなっている。
 しかして、その両眼は楕円形ではなく赤色の巨大超人・『ウルトラセブン』(67年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20240211/p1)系の鋭角的で細長い三角形の形状ともなっている。それによって、全身としてのデザインは優しい感じであるのに、その両眼だけはややスルドいことで、往年の『ウルトラマンコスモス』(01年)的にただ単に優しいだけのヒーローでもない、戦闘ヒーロー的なスルドさも加味することができているのだ。
 その一方で小首をかしげて考えこんでから、古代ギリシャの数学者・アルキメデス的に「ユリイカ!(ひらめいた!)」とばかりに戦況を逆転へと導くあたりで、愛嬌もブレンドされている。
 初代ウルトラマン系のウルトラマンたちの基本カラーでもある「白銀」と「赤」の2大体色については、胸の赤いラインの部分をカナリ上部に寄せることで、胸部と腹部には「白銀」部分が目立ったことで清涼感も増している。それに釣られて通常は腰~大腿部を覆っている「赤」の部分もやや腹部へとズレ上がっている。さらに釣られて、両脚部の「白銀」部分は両腰の部分にまで切れ上がっていることによって、スマートかつ脚長にも見せようといったデザインともなっていた。


 もちろん、バーコード(汗)がデザインモチーフでもあった往年の『仮面ライダーディケイド』直後の『仮面ライダーW(ダブル)』(共に09年)や、髪の毛が左右非対称に逆立ってその両眼には目玉(爆)までもが付いていた『仮面エグゼイド』(16年)直後の『仮面ライダービルド』(17年)のヒーローデザインは、各々が「左右半身」ごとにカラーリングが異なる奇抜なデザインであったのにも関わらず、前作との相対的な比較で王道に立ち返ったオーソドックスなデザインにも見えてしまう……といった錯覚効果は、今作のヒーロー・ウルトラマンアークにもまた多分に当てはまるのであろう。


 作品の外側における情報になってしまうが、やはり自主映画の監督上がりで、『ウルトラマンX(エックス)』(15年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20200405/p1)から参加して本作『ウルトラマンアーク』にてメイン監督に昇任した辻本貴則(つじもと・たかのり)監督としては、ウルトラシリーズに対して、昭和の第2期ウルトラシリーズであった『帰ってきたウルトラマン』(71年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20230402/p1)や『ウルトラマンエース』(72年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060514/p1)のようなイメージを抱いていた主旨を語っている。
 そこから逆算して、帰ってきたウルトラマンことウルトラマンジャックのように、ウルトラマンアークの戦闘時の構えも左拳はグー、右拳はパーとしたことは想像にかたくない(笑)。本作のメインタイトルのロゴの書体が『帰マン』のそれを踏襲していることも、そんな意向によるのやもしれない。
 しかし、ヒーローのデザインの部分はウルトラシリーズの製作母体たる円谷プロ側でのデザインが先行で、玩具会社・バンダイ側の意向なども優先されるであろうから、企画者というよりも撮影現場の筆頭でしかないともいえるメイン監督による介入の余地はあまり存在しないか、あっても些少と考えているのだが、いかがであろうか?


ウルトラマンアークの鎧・アーマー装着の是非と、鎧装着ウルトラマンの系譜!


 それが証拠に、比較的にシンプルで昭和のウルトラマンとはイコールではないにしても、相対的には昭和のウルトラマンにも近しいウルトラマンアークのデザインだったが、それとは大きく相反している要素もある。そう、ウルトラマンアークも広義でのタイプチェンジの一種として、複数種のアーマー・鎧(よろい)をまとうのだ!
 むろん、ウルトラシリーズ初の趣向ではない。『ウルトラマンX』がすでに強敵怪獣たちの神秘のパワーを有した複数種のアーマーを装着していた。『ウルトラマンメビウス』(06年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060625/p1)の青い2号ウルトラマンことウルトラマンヒカリも、着ぐるみの造型的には一体成形でも設定的にはヨロイをまとったハンターナイトツルギという別形態を持っていた。
 静止画の羅列&音声のみのユーチューブ無料配信でのウルトラマンゼットが地球に来る前の出来事を描いた『ウルトラマンゼット&ウルトラマンゼロ ボイスドラマ』(20年)でも言及されたことで、ウルトラシリーズの正史における実在が確定した、1975年度の小学館学年誌の連載マンガが初出であった、ウルトラマン一族による宇宙警備隊のアンドロメダ星雲支部隊長こと(近年における通称はアンドロメロスではない)ウルトラマンメロスもまた、鎧をまとった元祖のウルトラマンとして後進のウルトラシリーズファン世代にとっても名高いのだ。
 このメロスを基に翻案したウルトラシリーズ外伝としての、先のメロスとは別人でもある、鎧をまとった『アンドロメロス』(83年)も、ネット配信の『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』(20年)にて再登場して大活躍を果たしている。


 タイプチェンジによって、この少子化時代に少しでも玩具の売上高を上げるためにも、ひとりの子供に複数体もの人形玩具を購入してもらおうといった作戦ではある。これを商業主義だと糾弾してもよいのだが、変身ヒーローがタイプチェンジをせずに過度な武装もしていなかろうとも、単体でも子供ウケする三原色の超人ヒーローひとりがそこにいるだけで、それはどう云い繕おうとも、すでに子供たちに対する商業主義そのものなのだ(笑)。
 なので、世代人の好みや個人の好みもあるのであろうが、筆者個人はタイプチェンジやアーマーをまとうことには肯定的ではあるのだ。このテの子供番組を版権収入的に存続させるためにもオトナの態度で割り切っており、こういった処置に対しては理解を示している立場ではあるのだ。


 しかし! むろん、タイプチェンジやアーマーや武器などを登場させる以上は、おざなりのノルマとしてただ単に出してみました……といった、これまた世代によっても意見が異なることは重々承知はしているものの、80年代の東映特撮ヒーローもののような扱いを好む者ではない。
 虚構・フィクション作品なりに、劇中においても、そのタイプチェンジやアーマーなり武器なりを登場させる必然性を、それでなければその敵怪獣や敵宇宙人を倒せない! といったものとしての物語として、作品を作ってほしいワケなのだ。
 そして、それによってメインターゲットである子供たちにもそのタイプチェンジやアーマーなり武器なりが魅惑的に映って愛着もわいてくる。それらに似せたオモチャも購買したくなることで、玩具業界もまたハッピーになるのだ。ひいては、製作会社側にもその版権収入が発生することで、製作予算を増やすことができるといった好循環の達成もできるのだ。


マーチャンダイジング・版権収入を確保・増大させるために、鎧・カード・カプセルを肯定せよ!?


 もちろん、20世紀までの昭和と平成の歴代ウルトラシリーズを復習してみせれば、東映の変身ヒーローものと比べれば製作費がかかりすぎていたことは問題ではあった。子供間でのブームの盛衰といった人気の問題を除けば、この製作費の問題によっても、製作会社である円谷プロダクションにおいては、東映スーパー戦隊シリーズや平成仮面ライダーシリーズと比すれば、連年での製作が実現できずにシリーズ休止の憂き目を幾度も見てきたことも確かなのだ。どころか、00年代の中後盤には会社倒産の危機にも見舞われてきたのだ。
 しかし、良くも悪くもパチンコ会社や大手映像製作会社の買収などを経て、バンダイ筆頭株主になって以降、バンダイ側からマニア上がりの世代人ではあっても『SDガンダム』などを担当してきた出向プロデューサーなどが登板してからは、平成ライダーや21世紀以降の戦隊シリーズとも同様に、90年代後半に『ポケットモンスター』(96年)や『遊☆戯☆王』(97年)が切り開いたカプセルやカードからモンスターを召喚してみせる要素を、「ウルトラ」作品にも逆導入をしてみせた。


 そして、たとえ低予算でも、オープニング主題歌で先行披露される映像を観てもわかるとおりで、放映前には後処理は残して本編&特撮の全話の撮影もほぼ終了させており、週1放映の7~12月期の半年分――近年ではさらに総集編を挟むことによって、年内クリスマス商戦にて「終わった」感は出さないためにか、翌年の1月下旬まで!――、かつ残りの半年は過去シリーズの再放送や総集編に最終回後の続編劇場版の公開ではあっても、連綿と新作を製作しつづけてきた。事前に新規造型&製造も済ませていた新怪獣のソフビ人形などもTVでの登場話数と連動して発売させることによって、ムダな「空白感」や「終わ(った)コン(テンツ)」感なども払底しつつ、商業展開も効率化していく体制を構築できてもいた。


 これによって、新作放映中における年度においては売上が高くなっても、新作が放映中ではない年度においては売上がガクンと落ちてしまう……といった、会社経営としては致命的な欠陥を避けることもできて、安定した経営ができるようにもなったのだ。
 これ自体はすばらしいことである。いや、かつてのウルトラシリーズのように数年おきに空白期間を置いたうえで数年間の新シリーズを再開させた方がイイ! といった声があってもイイのだが、安定した会社経営や関係スタッフの雇用の確保の面においてはそれはまったく現実的ではないのだ(汗)。


 石油ショック後の低成長時代にはなっても、高度経済成長期の残り香がまだあった昭和ウルトラ世代にとっての「ウルトラ」の基本は、やはり「科学」や「SF」であった。しかし、カプセルやカードなどからモンスターを召喚できてしまえるという設定は「科学」や「SF」ではなく「魔法」に見えてしまうあたりで、高齢オタク諸氏には少々の違和感はあるだろう。けれども、80年代中後盤以降はSFよりもファンタジーの時代になっている。それを思えば、今どきどころか90年代以降の子供たちにとっては、こういった描写こそが魅惑的である可能性も高いのだ。「ウルトラ」作品などの子供向け特撮変身ヒーロー作品のメインターゲットが現今の子供たちであることを思えば、仕方なしにといった消極的な意味ではなしに、もっと積極的に子供たちのニーズをねらっていった方がよいのだ。


しかして、ウルトラマンアークの「太陽の鎧」&「月の鎧」に「変身アイテム」の描写は万全であったのか!?


 その意味では、ワリとシンプルなデザインではあるウルトラマンアークが、デコラティブかつオレンジ色で太陽を模したアーマーや、水色で月を模したアーマーを装着することそれ自体にも、個人的には好意的ではあったのだ。
 しかし……。劇中においては、この太陽アーマーや月アーマーそれ自体の印象がややウスいのが、実にモッタイないのだ。アーマーを登場させるのであれば、そのアーマーの強さ・カッコよさ・勇ましさ・効用といったものを、ベタでもよいので、もっと特撮映像演出・アクション演出面でも強調して、イイ意味での玩具販促番組、イイ意味での子供番組としても徹底してほしいのだ。


 いや、その実現はそんなにムズカしいことではない。具体的には、00年代中盤の『ウルトラマンメビウス』や2010年代に再開したTVシリーズこと通称「ニュージェネレーション・ウルトラマン」シリーズへと立ち返ればイイだけのことのようにも思えるからだ。
 たとえば、物事を微分化・細分化して要素要素で個別に認識することが苦手な御仁は『ウルトラマンメビウス』を「昭和ウルトラ」的なのだ! などと誤解をしている(汗)。しかし、その世界観設定それ自体は「昭和ウルトラ」の直系続編ではあっても、その作劇は決して「昭和ウルトラ」的ではなかった。かといって、90年代後半の「平成ウルトラ3部作」的でもない、第3のものなのである。


 『メビウス』におけるレギュラーの怪獣攻撃隊の隊員たちはナマ身の人間というよりかは、イイ意味でのマンガ・アニメ的に誇張・戯画化・記号化されていたので、幼児たちにもその人格のパターン認識などはしやすかったであろう。そして、少年向けの熱血格闘バトル漫画や、70年代の合体ロボットアニメ調に大声でその戦闘機の武器名やビーム名なども絶叫し、なおかつイイ意味での精神主義や正義の想い・気迫(笑)で勝利を収めてしまうような、少々低次だとしてもマニア向けならぬ庶民・大衆・子供向けのエンタメとしては実に正しい世界観でもあったのだ。
――もちろん、ここ10年ほどはカードゲームのブシロード製作の児童向けTVアニメ『カードファイト!! ヴァンガード』(18~20年)などのメインライターを務めている、『メビウス』のメインライターを務めた赤星政尚による、勝算を持った確信犯的な作劇であったことには間違いはない――


 その意味では、主人公の青年クンにも、ウルトラマンが太陽アーマーをまとった際にはその名の「ソリスアーマー!!」、月のアーマーをまとった際には「ルーナアーマー!!」などと大声で叫ばせてもよかったのではなかろうか? そうでなければ、変身アイテムによる音声ガイダンスでもよい。あるいは、アーマーの胸部前面の全体から新たな極太の必殺光線を発射できたとしてもよかったろう。そうやって、絵面においてもセリフの音声においてもダメ押しで強調してみせるのだ。


 その意味においては、その変身アイテムの扱いそれ自体もまたモッタイないのだ。00年代中盤以降の特撮ヒーローの変身アイテムの常道で、往年の「光る!」「回る!」的に、可動部や回転部があったり音声ガイダンスがあったりといった、いわゆる業界用語でいうところの幼児ウケする「プレイバリュー」。本作においても、そのアークアライザーなる変身アイテムは、日本においては1980年のむかしに大ヒットしたルービックキューブのように可動ができる、ヒシ型立方体の形状ともなっていた。もちろん、オトナ・年長マニアの目線で見れば、神秘のアイテムではなくオモチャそのものではあるのだが(笑)、玩具会社もバカではないのだし、周到なるマーケティング戦略のうえで子供ウケするであろうと、こうした形状にしているのだ。


 この変身アイテム玩具の方には「想像力を解き放て!」という番組のキャッチコピーかつ#3のサブタイトルでもあった音声ガイダンスが流れるようだ。しかし、それならば玩具と連動してその音声を流したり、ヒーロー名なども叫んで変身した方がよかったのではなかろうか? ヒーロー名を叫ぶと正体バレバレだ! といった問題も、ウルトラマンゼットほかのようにナゾの変身専用・亜空間に入ってしまったり、いっそ様式美的な光学背景のバンク映像にしてしまえば、「幼児向けのヒロイズム的な様式美」と「イイ意味での言い訳としてのSF性」の同時両立にもなって解決するのだし。


作品それ自体はナチュラルにフツーの出来! #3を真の#1とする倒置法の作劇の妙!


 とはいえ、だからといって、これらのせいで本作『ウルトラマンアーク』がよろしくないと云っているワケではない。あからさまに出来が悪いとか、ウマくはいっていない、といったこともない。ややケレン味には欠けてはいるものの、ナチュラルにフツーの出来だとは思えるのだ。


 ドラマ的には、#1においては、過去シリーズの定番であった青年とウルトラマンとの邂逅と合体シーンなどは描かれない。すでに青年はウルトラマンに変身できる存在として、説明ヌキで登場している。さわやかで影のない、いかにも性格よさそうで少々甘い感じの、現今の子供向けヒーロー番組にはふさわしい好青年でもある。
 しかして、ウルトラマンアークとの合体は、過去の回想シーンのかたちで、メイン監督&メイン脚本家がタッグを組んで初期3話分まるごとを1班体制にてまとめ撮りにしてきた#3にまで持ち越しされている。そして、ナンと! 彼は幼少期に怪獣災害で両親を喪っていたのだ!


 これは今どきの子供番組としては、あるいは筆者のようなロートルオタクが子供であった1970年代においてすらも、やや重たい設定であるかもしれない。とはいえ、そういった重たい設定は避けてしまえばイイと思っているワケでもない。
 しかして、#1でそういった重たい過去を描いてしまうと、主人公青年のみならず作品それ自体がやや暗いカラーに染まってしまう可能性はあるのだ。けれども、先にも記したが、それでは暗さを過度に敵視して排除すればイイのか? といった話にもならない。
 その折衷で考えるのであれば、#1とは作品の基本設定やレギュラーキャラの説明、ドラマやテーマを超えたところでの作品の作風それ自体の基調といったものを決めるものでもある。よって、主人公の出自やウルトラマンとの初遭遇についてはふれないでおいて、#3においてようやくそういった重たい要素も表出することで、作品の基本線はフツーに明朗ではありながらも、裏面においては描かれざる重たいドラマ性をも想起させてくれるという、これはこれでクレバーな作劇でもあったのだ。


 いかに年長マニア受けはしたとしても、シリーズの序盤をシリアス志向で製作してしまったたがために、子供ウケせず低視聴率に苦しんだ『ウルトラマンレオ』(74年)やスーパー戦隊シリーズジャッカー電撃隊』に『大鉄人17(ワンセブン)』(共に77年)や『超人機メタルダー』(87年)などの前例を思い起こせば、2010年代以降の平成ライダーシリーズなども、その第1クールにおいてはドラマ性もウスくてにぎやかな、ヒーローのマイナータイプチェンジや武装なども見せ見せの幼児ウケするオモチャ箱・引っ繰り返し路線で開始させておき、しかして第2クールになるや人間ドラマ性やテーマ性を強調するようにもなっていく……といった作劇にも通じている、正・反・合の止揚的な「子供ウケ」と「年長マニア受け」を両立させた作劇だともいえるだろう。


怪獣攻撃隊が存在しないのはナゼか!? モービル幻想の後退。それではドーすれば!?


 本作においては、主人公青年が所属するのは科学武装的な怪獣攻撃隊ではない。しかして、ゲスト怪獣との接点を持たせるための科学調査組織にはなっている。2010年代以降の12作品にも登るウルトラシリーズにおいては、旧来の科学武装的で戦闘機なども保有していた怪獣攻撃隊は『ウルトラマンギンガS(エス)』(14年)・『ウルトラマンX』(15年)・『ウルトラマントリガー』(21年)・『ウルトラマンデッカー』(22年)の4作品、全体の1/3しか存在しない。『ウルトラマンZ(ゼット)』(20年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20200723/p1)と前作『ウルトラマンブレーザー』にも一応の怪獣攻撃隊は登場しているが、戦闘機ではなく非現実的な巨大怪獣型のロボット兵器を保有しているのであって、隊員たちの制服もカラフルではない地味シブなものでもあることから旧来の怪獣攻撃隊とはイメージがやや異なる。


 これはもちろん、マニアの皆さんもご承知のとおりで、若者や子供たちからモービル(乗りもの)幻想がウスれてしまったり、家庭内にも電飾満載の家電やスマホが普及してしまったせいで、相対的な落差としてのハイテク機器に対するあこがれが目減りしてしまったせいでもある。そのせいで、ウルトラシリーズの戦闘機メカやスーパー戦隊シリーズの巨大合体ロボットなどの売上も減少しているのだ。
 よって、近年の「ウルトラ」や「戦隊」の魅力が特別に減じてしまったワケではない。作品の罪ではなくって、作品の外側の空気・風潮・価値観・条件の方が変わってしまったのだ。とはいえ、作り手はそこで腐らずに、そこまで加味して、その先を見据えての販路を開拓しなければならないのだ。しかし、それではどうすればイイのか? なかなかに難題なのであって、代案を出せないのであれば得意げな糾弾などはせずに、スタッフに同情の念を向けるなどの礼節もある態度を採るべきではあるだろう。
 怪獣攻撃隊の玩具の売上による採算が充分に取れない以上は、レンタル撮影スタジオでの美術スタッフによる大掛かりで恒久的な基地内の司令室セットや、共通の隊員制服などを縫製することでまた、多大なる製作予算を要してしまう怪獣攻撃隊の存在はオミットの真っ先の対象にはなる――このあたりにこそ製作委員会に入っている電通には毎年、出資してほしいものなのだが(爆)、やはり同季の深夜アニメ『しかのこのこのここしたんたん』(24年)の方に出資したせいで……。ここ10年、アニメマニア間での電通アニメ批判もQアノンならぬブルーアノン信者的に陳腐化しておりますが(笑)――。


 デオドラント(無菌・清潔)な近未来像がある程度までは達成された現代(というか80年代中盤以降)においては、逆説的に今度は喪われてしまった西欧中世風の異世界のようなものに、希少価値や非日常性に生の充実を、子供や青年や人々は感じるようにもなっていく。その意味では、前々作『ウルトラマンデッカー』や『ウルトラマンX』などにおいても実現されていた、怪獣攻撃隊やウルトラマン自身が「魔法」や「ウルトラの科学」や「宇宙人由来の超絶科学」などで、コレクション性もあるカードやカプセルから正義の味方の怪獣を召喚して使役する路線の方が望ましいとも考えている者である。
 しかして、往年の『ウルトラセブン』や『宇宙戦艦ヤマト』(74年)の続編シリーズなど、地球の衛星軌道上やら太陽系の各惑星などに宇宙ステーションやら近未来的な宇宙戦艦などが配備されているようなオールド宇宙SFな壮大ビジョンを見せてくれれば、まだまだ現今の子供たちにも科学的な怪獣攻撃隊はウケるのではなかろうか? まだやれることは残っていたのでは? などといったヤリ残し感は個人的には残ってはいるものの……。


怪獣攻撃隊の代替としての怪獣調査組織ではあっても、キャストの力&着ぐるみキャラでカバーする!


 それはさておき、劇中においては巨大怪獣が実在する世界観でもある以上は、玩具化前提ではないものの、『ウルトラマンオーブ』(16年)同様にバックヤードには一応の怪獣攻撃隊は存在してはおり、そこから主人公青年が所属している怪獣調査組織へと出向してきたという位置付けで、ややクールであっても四角四面で過度に官僚的かつ融通が全然効かないといったタイプでもなく、自分でコーヒーをわかして飲むのが大スキだという「型」としての「隙」をも作った、背広にネクタイ姿のメガネの好青年が分析やスーパー拳銃所有のかたちで配されたことで、主人公青年とのデコボコ・バディー(相棒)ものといった要素も本作はねらっている。
 やや快活かつ華もある美人カワいいメインヒロイン調査員もまた好印象ではある。長年の特撮オタク的には『爆竜戦隊アバレンジャー』(03年)の主人公ことアバレッドを演じた役者さんによるマイルドな所長さんもイイ味を出している。よって、そのあたりのレギュラーキャラ陣のキャラクターシフト・人物配置などは気持ちがよいものにはなっているのだ。


 着ぐるみのマスコットキャラクターとしては、「ユピー」なるマルっこいフォルムで水色の『がんばれ!! ロボコン』(74年)的な人間サイズの着ぐるみロボットも登場。『ウルトラマンメビウス』に登場した人間サイズの健啖宇宙人ファントン星人の同族別個体(着ぐるみは流用)でもあるグルマン博士が、怪獣攻撃隊のレギュラー隊員でもあった『ウルトラマンX』。『ウルトラセブン』に登場した人間サイズのペガッサ星人やメトロン星人の少年態のペガやマルゥル君がレギュラーとして登場した『ウルトラマンジード』(17年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20170819/p1)や『ウルトラマントリガー』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20211021/p1)でも見られた、特撮ならぬ本編ドラマ部分においても着ぐるみキャラを導入してみせる趣向でもある。
 思春期以降になると忘れてしまうものだが、幼児向けのお遊戯TV番組や教育番組などにはガチャピンやムックなどの戯画化された着ぐるみキャラが登場するものである。記憶の古層を丹念にたどると、幼児期にはそういったキャラクターに視線が行って、カリカチュアされた絵が動くアニメなどにも目が行くものの、実写の普段着のオトナたちの一般ドラマには関心が向かずに退屈してしまっていたものであった。それらを考慮すれば、こういったマスコットキャラクターはこのテの番組には本編ドラマ部分でも幼児の目線・興味関心を持続させるためには存在した方がよいとも考えるのだ。


 もちろん、2010年代以降のウルトラシリーズの低予算による通例で、冷静に考えればレギュラーの登場人物それ自体が少ない。しかして、本作においてはキャスティングされた御仁それ自体の魅力によって、そのあたりの弱みをカバーすることができているとは思うのだ。


幼少期に両親を怪獣災害で喪った主人公青年! 地面に突き刺さった怪獣のツノ! もっとタテ糸化を!


 とはいえ、#3において判明した、幼少期にしてすでに目前で両親を喪っていたという衝撃の事実! これをあまりに引きずって反復してしまっても、作品が暗くなってしまって、敵怪獣を倒してカタルスシスを発生させるべきヒーローものとしての特質を弱めてしまう可能性もあるので、痛し痒(かゆ)しではある。しかし、それにしても半年・全2クールのシリーズの折り返し地点を過ぎたというのに、#4~#13においては、この設定がほとんど忘れ去られてしまっている(汗)。このあたりは腰の据わりの悪さも覚えるのだ。


 実のところ、半世紀以上にもわたるウルトラシリーズではあるので、怪獣災害で両親を喪った主人公青年は本作だけではないことをマニア諸氏はご存じではあるだろう。タレントのDAIGOが主人公青年を演じた映画『ウルトラマンサーガ』(12年)だ。あるいは、怪獣災害ではなかったものの、科学的な実験で研究所もろとも消滅してしまったことで、やはり幼少期に生き別れになってしまった主人公青年の両親の消息を一応のタテ糸としていた『ウルトラマンX』という前例もあったのだ。それらの作品がそういった設定を陰気にはならない範疇にて作品の背骨にはできていたことを思うと、本作はやはり今どきの作品にしては前作『ブレーザー』とも同様に、悪い意味で1話完結の度合いが強すぎるようには思えてしまう。


 いや一応、本作においても、16年前に出現した怪獣の巨大な一本ヅノが地面に突き刺さっているという地方都市!……といった印象的なビジュアルを提示してはいたのだ。よって、このビジュアルを各話でシンボリックかつ思わせぶりに見せていくのか? と思いきや……。そうでもなかったのであった(笑)。いやもちろん、各話にも一本ヅノの描写があったのやもしれない。しかし、個々のエピソードには無関係な箇所でもあるので、尺の都合で真っ先に編集にて削られてしまいそうなシーンであることも事実なのだが(汗)。


新怪獣と旧怪獣! 流用の旧怪獣もまた子供の博物学的興味を喚起するので、積極的に肯定せよ!


 とはいえ、やはり前作『ブレーザー』とも同様に、#1冒頭にて実景ビル街との見事な合成で登場した敵怪獣が、オーソドックスな二足歩行の恐竜型の存在ではなかったあたりは珍しい。それは黄色いT字型の電飾を単眼にも見立てた、頭部以外はヒト型の細身で背スジも伸ばしたような、初代『ウルトラマン』最終回に登場した最強の怪獣こと宇宙恐竜ゼットンをも想起させるカミキリ虫のような白黒モノトーンの怪獣でもあった。
 そして#3においては、時系列を3ヶ月ほどもさかのぼっての真の#1として、#1の冒頭にて登場していた怪獣との対戦の顛末も初めて描かれるのだ!――こういう倒置法の作劇は、往年の『ウルトラセブン』や第3期ウルトラシリーズのトップバッターことTVアニメシリーズ『ザ☆ウルトラマン』(79年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090505/p1)に『ウルトラマンメビウス』などでも前例があったことを筆者が忘れているワケではないので念のため――
 そして、この怪獣の同族の亜種・上位互換種(?)の別個体もまた16年前にも出現しており――着ぐるみは同じで頭部のみのスゲ換えであろう――、それがウルトラマンアークによって撃退されており、その残骸が地面に突き刺さった巨大な一本ヅノなのだ。そういったあたりもまた、劇的で因縁ドラマ的かつ、子供たちの博物学的・怪獣博士的な興味関心をも惹起しそうではあるので、そういった本作序盤における倒置法の作劇もまた賛同する者ではあったのだ。


 『ウルトラマンタイガ』(19年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190811/p1)以降は、新造型による新怪獣がだいぶ増えてはきていた。それは2010年代のウルトラシリーズの売上高が00年代ほどではなかったにしてもじょじょに上昇していったことによって製作予算が増えたことをも意味しており、喜ばしいことではあった。それまでの2010年代のウルトラシリーズは、#1や最終回の怪獣こそ新造型の新怪獣ではあったものの、基本は在りものの着ぐるみをひたすらに使い回しにするシステムでもあったからだ。
 しかし、多くのマニア諸氏・怪獣ファンの大勢もそう思っていたことであろうが、主に『ウルトラマンメビウス』や映画『大決戦! 超ウルトラ8兄弟』(08年)に映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』(09年)以降の着ぐるみの使い回しであった、ベムラーネロンガ・パゴス・ゲスラレッドキング・チャンドラー・ペギラアントラーテレスドンザラブ星人・ダダ・ゴモラザラガスゼットン・M1号・ゴドラ星人・メトロン星人・キングジョー・パンドン・サドラ・グドンベムスター・ブラックキング・巨大ヤプール・ベロクロン・バキシム・アリブンタ・ドラゴリー・バラバ・バードンタイラントバルキー星人・マグマ星人ババルウ星人・アクマニヤ星人・ノーバ・ザンドリアス・ノイズラー・ギマイラ・グランドキング……。そういった昭和のウルトラ怪獣たちが、ほぼ毎年にわたって、あるいは同一シリーズ内においても同一種族の別個体といった塩梅で、ひんぱんに登場していたことそれ自体は、悪いことではなかったとも思うのだ。


 我々昭和の子供たちや筆者の往時の同級生たちの大勢も、バルタン星人の初代・2代目・3代目・Jr(ジュニア)・5代目・6代目や、レッドキングの初代・2代目・3代目、エレキングの初代や改造、ベムスターの初代・再生・改造といった相違には執着していたものだ。ウルトラ怪獣グドンが『ファイヤーマン』(73年)に登場したり、『ミラーマン』(71年)の怪獣ゴルゴザウルスやダストパンウルトラシリーズにも登場することに、博物学的・作品越境のクロスオーバー的な興奮をも覚えていたのだ。
 その意味では、本作『アーク』においても、#1冒頭でこそ劇中内では3ヶ月前から出現したとされているウルトラマンアークが昭和怪獣のゴモラレッドキング2代目をも撃退したことが明かされていたが、それ以降は昭和怪獣のリサイクルがなくって残念にも思っていた。着ぐるみが残存している昭和・平成・令和のウルトラ怪獣たちは、もっと使い回しがあってもイイと思うからだ。
 ……と思っていたのだが、#8からは連続してカネゴンネロンガ・パゴス・ノイズラー・グビラといった昭和怪獣が登場している。いや、もっと新怪獣と昭和怪獣を交互にするなど、バラけさせて単調にならないようにしてほしい気もするのだが、幼児からすればすべてが新怪獣にも見えているから問題ナシでもあるか(笑)。


ウルトラマンアーク』シリーズ前半・#2~13評!


 #2においては、工事現場で古代遺跡を発見。その工事現場の監督の息子の少年ゲストなどをカラめたエピソードでもあった。#4においては、下町の商店街でのネズミ騒動から怪獣事件を描いていく。#5においては、恐竜の化石の調査で、主人公たちが住まう舞台でもある星元市(ほしもとし)に訪れた博士が、主人公青年の憧憬対象でありつつ、SKIPの隊長ポジションのアバレッドもといヒロシ所長の恩師でもあったことから、一帯を湖にしてしまう怪獣のスペクタクル映像でも魅せつつ、所長のキャラをも肉付けしていった。


 #6においては、地球人に変身して旅館の番頭さんになってしまって馴染んでしまっているキノコ狩り(笑)に来た善良なる宇宙人さんとの人情話に怪獣をカラめつつ、ラストでは彼は違法難民でもあったので拘束されるのか!?……といったシビアさで小さな緊迫感をも作って、バカにした意味ではないイイ意味での子供番組としてのハッピーエンドで落着させている。


 #7においては、夜行性の四足歩行の強敵怪獣が出現! 現代人にはその姿が見えない古(いにしえ)の精霊の少女とも関係した存在でもあった。主人公青年のイマジネーションの発露で、月のアーマーをまとったアークは、その身を分身させて怪獣を攻撃! しかも、その分身は単なる虚像ではなく、往年のアニメ映画『機動戦士ガンダムF91』(91年)や『劇場版 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』(24年)における副々主人公機・デスティニーガンダムとも同じく「質量のある残像」(笑)による分身攻撃!――いや、リアルロボットアニメの雄とされるガンダムも、30年以上も前からちっともリアルではなくなって分身可能なスーパーロボットと化しているのだ(汗)――


 #8においては、シリーズの元祖『ウルトラQ』(66年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20240128/p1)の下町の少年たちだけが登場する寓話的なエピソードで活躍した人間サイズの怪獣・カネゴンが、映画『ウルトラマンゼアス2』(97年)や深夜特撮『ウルトラQ dark fantasy』(04年)などに続いて、インターネット空間内に出現してしまうというコミカルギャグ編だ。コミカル編としては水準作だともいえるのだけど、本作のメイン監督たる辻本カントクが担当した、快獣ブースカも主要ゲストとして活躍する屈指のコミカル人情編の大傑作でもあった『ウルトラマンR/B(ルーブ)』(18年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20180826/p1)#17「みんなが友だち」のことも思い出してやってください(笑)――同話は近年、あまたの深夜アニメの脚本やシリーズ構成としても活躍する皐月彩(さつき・あや)のデビュー作でもある――。


 #9においては、ネロンガ&パゴスが登場! 原典においては、ネロンガはパゴスの着ぐるみを改造したものであったが、『R/B』で新造されたネロンガと『タイガ』で新造されたパゴスとのマニア的には夢の対決! 本編は恩師の悪事を追求するメインヒロインのドラマでもあって、本格志向ではあるのだが、それだけだと子供番組としては重たすぎる。やはりドラマ編であればあるほど、シーソーのもう片方にも特撮キャラクターや特撮バトル場面を増量して、作品としての水平を保ってこそ、そのドラマも鼻につかずにスナオに受け止められるのだ! といったことを痛感してしまう良作でもあった。


 #10においては、アマチュア無線愛好家の孤独な青年がナゼだか光年の壁を超えて遠宇宙の宇宙人の女性と交信ができてしまうという、往年の『ウルトラセブン』#29「ひとりぼっちの地球人」のようなエピソードだ。こういうややマニアックなエピソードも序盤を過ぎたこのシリーズ中盤の時期であるのならばあってもイイとは思う。しかし、こういった我々オタクたちのようなコミュ力弱者を、ダウナーではなくイイ意味でのシャレとなる明朗なコメディとしても描いてみせていた過去作もあった。主人公青年の旧友でもある引きこもりの青年をゲスト主役に据えていた良作『劇場版 ウルトラマンR/B セレクト!絆のクリスタル』(19年)だ。


 #11~12は前後編で、着ぐるみ新造の巨大ロボット怪獣が登場! 噛ませ犬として、鼻先に往年の『ウルトラマンエース』における「超獣」のような回転ドリルを備えた昭和の四足歩行の怪獣グビラも登場! 映画『ウルトラマンサーガ』で新規造型されて以来の着ぐるみの流用だろうが、グビラもほとんど毎作に登場しており、本来は深海怪獣なので時に陸生態の「オカ(陸・丘)グビラ」なる名称の亜種だとして再登場をつづけている(大カンゲイ!)。
 ストーリーは爽快たる活劇編ではなくやや陰気ではあり、その巨大ロボの善性をも示されたことで、ウルトラマンに撃退されずに地球を去っていく。もちろん、最終的にはそういう怪獣撃退ではない「イイ話」になってもよいのだけれども、前後編の前編においては、歩行シーン以外は鈍重ではなく飛び道具合戦や光線合戦といった軽快でカッコいい特撮バトルを見せてほしかったようには思う。
 #6に登場したお笑い芸人・アキラ100%が人間態を演じるキノコ狩り宇宙人まで再登場する趣向はカンゲイなのだが、カラーリング的には地味な宇宙人ではあるので、子供たちにはあまり目立って見えてはいなかったかも……。イイ意味でのオモチャ売らんかな、新造ソフビ人形売らんかな、ロボット怪獣の恩返しで、シリーズ終盤では味方怪獣として再登場してほしいところだ(笑)。


 たとえば、『ジード』#1に登場したレッドキングゴモラの合体怪獣でもあったスカルゴモラは、同作中には3度も登場して露出を増やしていた。『X』#1に登場した直立二足歩行で恐竜型の怪獣デマーガは同作中に2度、『トリガー』#1に登場した超古代怪獣ゴルザならぬゴルザ&メルバの融合体であるゴルバーも同作中に2度、『デッカー』序盤に登場したスフィアゴモラやスフィアレッドキングも同作中に2度は登場していた。同族別個体やライバルキャラの変身体といった設定であるのならば、『ジード』のスカルゴモラのように3度くらいは登場を重ねて、子供たちにも露出の機会を増やして販促にも活かすべきではなかろうか?
 古いところでは、怪獣退治ならぬ怪獣保護や怪獣との共生を謳った『ウルトラマンコスモス』だ。同作なども同時期に放映中であった『百獣戦隊ガオレンジャー』(01年)のゲットした末に天空島に住まわせている動物型の生体メカたちとも同様に、保護して南洋の鏑矢(かぶらや)諸島に住まわせている怪獣たちを順繰りで味方怪獣として参戦させるような、同作には欠如していた血湧き肉躍るバトル展開なども魅せてほしかったものなのだが……。


 #13においては、2クール・全25話の放映体制が確立した2016年度の『ウルトラマンオーブ』以降に恒例ともなった、(話数にはカウントされない「特別総集編」とは別モノとしての)流用映像主体の実質「総集編」ではある、いつもの#13であった(笑)。新撮の特撮シーンがなく外出ロケもなく、新撮部分はレギュラーセットのオフィスや作戦室の中だけなので、毎年の#13の撮影は1日だけで終えているのであろう。2010年代の「ウルトラ」も1話分を製作するのに800万円ほど(?)は要するのでは? とも思われるので、これによって1話分の予算を浮かせて、全25話分ではなく全24話分の製作費に抑えているといったところだろう。


 例年の#13とも同様に、円谷プロの社員でもあった1982年生まれである足木淳一郎が本話の脚本を担当。ググってみると、氏はすでに2020年に退職してフリーであるそうな……。ウ~ム。
 氏の手による大宇宙を舞台にウルトラ一族多数が活躍するネット配信作品『ウルトラギャラクシーファイト』シリーズ(19年~・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20200110/p1)などの多数のキャラを裁いてみせる脚本や、各種ライブステージ(アトラクション・ショー)での脚本(時に演出も!)は、実に飽きっぽい子供たちを片時も退屈させないためのバトルの羅列とその最中に会話劇のかたちでドラマ性やテーマ性は巧妙に織り込んでいく手法であって、実にすばらしかったものである。
 円谷プロ内にて出世して実権も握って、文芸面でも「ウルトラ」シリーズを作品越境・アメリカンコミックスのヒーロー大集合映画『アベンジャーズ』や『ジャスティス・リーグ』的な「クロスオーバー世界観」な物語としても長期にわたって総合的に売っていく、「クリエイティブ(文芸)・プロデューサー」的な立場で、会社それ自体をも導いていってほしかったのにィ~!――ショーの演出もできるのであれば、我々のような文弱なだけの輩ではなくイイ意味でヒトの上にも立って号令もできるパーソナリティの持ち主でもあったろうし――


ウルトラマン自身にもドラマ性やタテ糸を! アークの声優に俳優・萩原聖人が登板した是非! 前作『ブレーザー』とも比較!


 本稿執筆時点では次回となる#14の予告編によれば、物語のメインストリームとなる、怪獣の巨大な一本ヅノや劇中内での16年前の怪獣大量出現の真相、人間サイズのウルトラマンアークなども主人公青年と同時に並んで出現! 大きなお友だち的には往年のグラビアアイドル上がりでもある佐藤江梨子が、アークを「裏切り者」呼ばわりする悪い宇宙人(?)役で登場するようだ――佐藤と同様、00年代前半にグラドルとして活躍していた眞鍋かをりも、『ウルトラマンR/B』終盤にて主人公青年の母親役で出演していたことはご承知のとおりだ――。


 本話を契機に、ウルトラマンアーク自身のバックボーンやドラマなども小出しにして語っていってほしいものなのだが。もちろん、すべてのナゾや過去を明かしてしまう必要はない。しかし、前作『ブレーザー』のように、それが意図したねらいであっても、作品外での「原始人ウルトラマン」としてのウラ設定などは本編においては微塵たりとも語られずに、最終回までは変身前の人間との関係性も遅々としてほとんど進展しないままであるようでは、個人的には物足りなく思ってしまうのだ。
 言語による会話ではなくても、宇宙の狩猟採集民的な狩人(かりうど・かりゅうど)でもあるらしい原始人的なウルトラマンとしての在り方をシリーズ中盤などにイメージ映像などのかたちで変身者と最低限は共有し、過去に異空間へと吸い込まれそうになった変身者たる地球人を救った「理由」というのか「心情」なども、ベタでも小出しで明かすなどしていってほしかったものなのだが……もしくは、変身者の方が逆にあの時点でブレーザーに救いの手を差し伸べていたなどのヒネりなど……。


 ウルトラマンアークへの変身シーンは、#1と#3においては、実景に両腕を広げた巨大なアークの上半身を合成で出現させて、親が子供を慈しんで優しく包み込むように主人公青年を包摂するイメージで、とても印象的でもあった。アークの声は80年代末期から活躍してきた相応に有名俳優でもある1971年生まれの萩原聖人(はぎわら・まさと)。近年では怪獣ゴジラのフィギュア収集などでも知られていたところでの、マスコミ向けの話題としての側面もあるキャスティングであろう。
 むろん、マスコミ向け対策などは子供たちには無関係な要素なのだが、それがヨコシマな悪いことだとまではいえない。そういったところで少々のメジャー感を少しでも醸していくこともまた、映像業界内でのジャリ番としてナメられにくくするための地位向上・客商売・ショービジネスには必要悪(?)的に必要なのだ(笑)。というか、いかに前近代的身分制度などが制度としてはなくなろうとも、人間社会にそうした「人気」といった格差までもがなくなるとはとても思えないので、それについてはある程度までは受忍すべきであろうし、抑えすぎても不健全なのでもあるからして適量にて発散すべきものでもある。


 人語のみならず、ウルトラマンの掛け声も担当されており、辻本カントクの要望かつ直々の演技指導なのだそうだが、シュワッチならぬショワッチや苦悶の声なども初代ウルトラマンや帰マンにエースのそれをも彷彿とさせている(笑)。全話といわず各話でもっと変身前の青年とも会話をしてほしかったところなのだが、そこはギャラ的にもムズカしいのであろうか?


 年長マニア的には、#3において主人公青年の祖母役としてベテラン女優・根岸季衣(ねぎし・としえ)がキャスティングされていたこともゴージャスではあった――『仮面ライダーディケイド』における「仮面ライダーカブトの世界」編に、根岸と嫁姑の関係役でも共演したことがあったベテラン俳優・佐々木すみ江がゲスト出演した際のサプライズにも匹敵!――。


 もちろん、萩原は#3にて主人公青年の死してしまった父親役も回想シーンで演じている。すると、アークの声が萩原聖人だということで、父親の魂・精神はアークとも合体しているとも大勢のマニア諸氏は解釈するであろう。
 そうなるとマニア諸氏はまた、宇宙から飛来した『ウルトラマンダイナ』(97年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971201/p1)の基となった「光」の正体が、実は宇宙で行方不明となっていた主人公青年の父親そのものでもあったとされた、往時のメインライター自らが手掛けた小説版『ウルトラマンダイナ』(20年)なども想起してしまうことであろう。20年以上もあとの後付け設定ではあって、これが公式設定となるのかは不明だが。
 しかし、神秘の宇宙の光ではなく父親そのものだったとなってしまうと、「公」よりも「私」! 身内・お仲間内閣(笑)に対する私情を優先! といった感じでスケールが小さくなってしまう感もあるのだ。そうであれば、「何らかの高次存在としてのウルトラマン(の光) > 父親 > 主人公青年」といった3層構造での三位一体構図などにして、「公」と「私」をうまく両立・昇華していってほしいものなのだが。


ウルトラマンへの変身後にも、変身前の青年が変身アイテムを披露しつつ顔出し出演することの効用!


 2010年代に再開されたTVのウルトラシリーズの第1作目『ウルトラマンギンガ』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20200819/p1)~『ウルトラマンデッカー』(22年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20221016/p1)までの10作品においては、変身前の青年がウルトラマンに変身して以降も、インナースペース(内宇宙)なるウルトラマンの体内――物理的な体内というよりも精神世界――でもあるというナゾの異空間にて、変身前の青年が顔出しでも登場して片手に変身アイテムも持って、セリフもしゃべりつづけることで人間ドラマも継続できるようになっていた。戦闘時の好調やダメージを直接に表情演技でも表現してみせることで、バトルとドラマの一体化をついに実現できてもいたのだ。


 しかして、やや本格リアル志向でもあった前作『ウルトラマンブレーザー』では、これを幼稚であって本来の「ウルトラ」らしくはないとも思ってか、このインナースペースは実質的に廃されてしまってもいた。それでもブレーザーが追加の能力を発揮する際に、腕時計型の変身ブレスレットにストーン(メダル)を装着して盤面にLEDによる光の模様が輝きだすシーンだけは、そのメダル名を叫ぶワケでもなく無言ではあったものの、一応の販促&映像的な華(はな)をもたらしてはくれていた。
 しかし、本作『アーク』においては、前作『ブレーザー』と比すればイイ意味でマイルドかつ明朗な子供向け王道志向に戻ったようには見えたものの、変身後の青年がインナースペースにて顔出しで出現しつづけてベラベラと会話も継続させる処置が、ついに完全に廃されてしまってもいる。


 ウルトラマンアークが太陽や月のアーマーをまとう際には、一応はインナースペースとおぼしきナゾ空間にて、中空に浮かんだ変身アイテムのみが映されて、単体だけでルービックキューブ的にグルグルと動いてはいる。しかし、そこには変身前の青年が自らの手で動かしてみせるような映像は存在していない。勝手に変身アイテムのみがグルグルと動いているのだ。
 いや、論理的には変身アイテムを可動させることでアーマーを召喚しているといったことはウッスラとはわかるのだ。けれども、人間の青年がその手に直に持って「ソリスアーマー!!」「ルーナアーマー!!」などと叫びつつ、ガチャガチャとした少々重たい手ざわり・肌ざわりをも感じさせつつでの、ゴリゴリ・グルグルと効果音も立てての可動をさせていくような映像演出などもなければ、やはりその変身アイテムこそがアーマーを召喚できたのだ! といった論理ではなく「実感」や、変身アイテムやアーマーの有り難みもカナリ弱くなってしまうのではなかろうか?


 いや、この方が本来の昭和ウルトラや00年代までの平成ウルトラに近くなっていてカンゲイだ! といった声ももちろんあるのだろう。それはそれで、個人の好みは尊重はするし否定もすべきではない。しかし、個人的には今どきの子供たち、あるいはそのママ層、あるいは年若き特撮マニアたち――といっても20代以下というワケではなくもう中年の40代以下(笑)――の大勢にとっても、変身後の青年が顔出ししており、「コレ見よがし」での変身アイテムの可動部分をガチャガチャと動かしながらでの戦闘シーンを繰り広げてみせた方が、カンゲイされるのではなかろうか?


 ウルトラマンたちの手持ち武器や各種アイテムについてもいえる。ウルトラマンアークの両眼の意匠が取っ手に付いた長剣が、アークの両眼に手をかざすと出現するのは面白い趣向だとは思うのだ。


 しかし、ポッと出の武器ではなくって、


ウルトラセブンから受領したウルトラマンゼロのウルトラゼロブレスレット
ウルトラマンノアから受領したウルトラマンゼロのウルティメイトブレスレット
ウルトラマンタロウから受領したウルトラマンギンガのストリウムブレス
ウルトラマンキング由来でウルトラマンギンガとウルトラマンビクトリーが用いたウルトラフュージョンブレス
ウルトラマンヒカリが製造してウルトラマンビクトリーに授与したナイトティンバー
●同じくウルトラマンヒカリが製造してウルトラマンジードとウルトラマンゼロとなぜかナゾのSF作家センセイまで使用するウルトラカプセル
●同じくウルトラマンヒカリが製造してウルトラマンゼットに授与したものの、ふたりの悪役にコピーされてしまった変身アイテム兼、こぶしで握る武器でもあったウルトラゼットライザー
ウルトラマンヒカリの部下でありウルトラマンタロウの親友でもあった闇落ちする前のウルトラマントレギアが製造した、タロウの息子・ウルトラマンタイガの変身アイテム・タイガスパーク


 ……ただのバンダイ製の玩具であったハズなのに、そういった因縁バックボーンが言明されると、とたんに尊いオーラをまとって見えてくるのだ(笑)。


変身時の掛け声! 名乗り! 必殺ワザ名を叫ぶことの是非! そのマニア間でのネタ的な受容の高度さ!


 同じようなことは、他の要素についてもいえる。2010年代に再開されたTVのウルトラシリーズにおいては、先の『メビウス』の「世界観」というよりかは「作劇」を、意識的にか無意識にか踏襲もしていた。つまり、昭和や00年代までの平成のウルトラマンたちや怪獣攻撃隊の隊員たちはその必殺ワザ名や武器名を絶叫したりはしなかった。


 しかし、往年の巨大ロボットアニメ『マジンガーZ(ゼット)』(72年)や『ゲッターロボ』(74年)などのように、


●『ウルトラマンギンガ』(13年)は「ギンガクロスシュート!!』「ギンガファイヤーボール!!」と叫んで両腕をL字型に組んでの必殺光線や必殺火球を放っている!
●『ウルトラマンギンガS』(14年)に登場した2号ウルトラマンこと地底人の青年が変身するウルトラマンビクトリーも「ビクトリウムスラッシュ!!」と叫んで足のツマ先から光弾を放っている!
●『ウルトラマンX』(15年)も「サナディウム光線!!」と叫んで一度は左後方にヒネった上半身を戻してから両腕をX字型にクロスして必殺光線を発射していた!


――人間たちはその必殺ワザ名をついに知らなかったことから、人間には聞こえていないといったウラ設定ではあろうが――


 00年代後半からの平成ライダーたちもそうであったが、


●『ウルトラマンオーブ』(16年)は「(初代)ウルトラマンさん! ティガさん! (カード化された)光の力、お借りします!!」と叫んで、
●『ウルトラマンジード』(17年)も「You Go(融合)! I Go! Here We Go!!」(笑)などと、センスは良くないB級イロモノ的なセリフも叫んで、


双方ともに変身アイテムに2種のカードや2種のカプセルを挿入していくシークエンスを、数十秒もかけて長々とアップ映像で見せつけつつ、ウルトラマンへの巨大化変身を見せていた。
 この趣向は2020年度の『ウルトラマンZ』で「ご唱和ください、我の名を! ウルトラマンッッッ、ゼッットォ!!」と絶叫しながら変身することでの悪ノリで頂点に達して、子供間でもマニア間でも大ウケしてもいた。


 これらも80~00年代中盤までのまだまだマジメであった特撮マニアたちであれば、子供に媚びた作劇だとして大激怒していたことであろう。しかし、「ウルトラ」や特撮変身ヒーローものはまさにその「子供向け」そのものなのでもあって、そこを批判すること自体がヤボである! 思春期・青年期の中二病的なマニアの態度である! むしろ、子供向けでもイイではないか!? あるいは、再帰的に一周まわって確信犯での子供向けに撤することで、単なる本格リアル志向ともまた別種の、往年の『激走戦隊カーレンジャー』や『超光戦士シャンゼリオン』(共に96年)的にもヒネった、年長マニアにこそまた受けるギャグやコミカル風味も出せてくるのだ……といった見解が、2010年代以降になるや、マニア間でもフツーに普及・一般化してきて多数派になっていたのだ。
 ……といっても、『カーレン』『シャンゼ』は双方ともに当時の子供たちにも大ヒットしたワケではなく、むしろマニアにこそ受けていたあたりで、事態はまた複雑なのだけど……。


 そう。00年代中盤以降、特に10年代においては常態化していく、平成ライダーたちの変身時や変身直後の「天の道を征(い)き、すべてを司(つかさど)る!」「オレ、参上!」「ただの通りすがりの仮面ライダーだ!」「さぁ、お前の罪を数えろ!」などといった、半分は笑ってしまうけど半分はカッコいい、珍妙な名乗りセリフがまたネタ的にも受けており、皆もマネして特撮マニア間でのコミュニケーション・ツールにまでなってしまったのとも同様に、これら2010年代のウルトラマンたちの変身時のお決まりの口上なども、B級・ロウブロウ(低俗)であることは重々承知のうえで、あえてそれらを楽しむ! ……といった、キズついて欠けている要素にこそ詫び寂び・風情をも読み込む千利休(せんのりきゅう)的な、ある意味でそれこそが本格リアル志向の作品の鑑賞などよりも、マニアたちの複雑かつ高度なたしなみでもあるような「ネタ消費」までもが、ここ10数年は連綿となされてきたのだ。ぶっちゃけ、それらが大いにウケてもきたのだ。


 もちろん、だからといって人間ドラマ性や社会派テーマ性がないがしろにされてきたワケでもなかった。しかし、むしろ明朗快活な「ネタ性」が投入されたことによって、子供番組としてはやや重たい、あるいは男児たちにとっては気恥ずかしくなって遠ざけてもしまいそうな、ニガ味があったり感傷的であったりするドラマもまた直後に中和されてメリハリがついたり、コミカルな日常へと最後に着地することによってイイ感じにする、実にクレバーな作劇にも結果的には成りえてもいたのだ。


 たしかに昭和ウルトラは魅惑的であった。しかし、昭和ウルトラや90年代の平成ウルトラが、そのままの作劇で今の時代に通じるとはとても思えない。あるいは、80年代以降においては、昭和ウルトラそれ自体もすでにやや古かったとは思うのだ。いかに初期ウルトラシリーズが偉大であっても、80年代以降に仮に初代『ウルトラマン』がまったくの新番組だとしてTV放映されたとしても、やはりシンプル・素朴・オーソドックスに過ぎるので、最低限の人気は集めえたとしても、子供番組や子供文化のメインストリームに君臨できたとはとても思えないのだ。


 それでは、どうすればよかったのか?


今後の「ウルトラマン」作品はドーあるべきなのか!? 熱血! ライバル! 先輩ヒーロー客演!


 1番目は、巨大ヒーローvs巨大怪獣ものといった基本ラインは押さえつつも、マニアではなく圧倒的多数派の子供・大衆たちにもウケるように、登場人物をマンガ・アニメ的に適度に戯画化して、セリフなどにも「少年ジャンプ」のマンガ的な熱血絶叫風味も加味しつつ、作品の血液温度を上げていくことである――『メビウス』や2010年代ウルトラの初作である『ギンガ』~『デッカー』まで、すでにそうなっていたともいえるが(笑)――。


 2番目は、ヒーローvs巨大怪獣の1話完結図式だけでも、幼児にはともかく小学生にとっては、あるいはオタク第1世代などは除いた年長マニア諸氏にとってはルーティン(繰り返し)に過ぎてしまうので、第3勢力・ライバルキャラ・ダークヒーロー・敵幹部キャラといった、1話完結の予定調和を打ち破る存在を導入していった方がイイとも思うのだ。
 『ウルトラマンギンガ』においては、闇のエージェント(敵の中堅幹部キャラ)としてシリーズ前半にはバルキー星人が、シリーズ後半にはナックル星人が登場していた。続編『ギンガS』においても、チブル星人とガッツ星人がダブル敵幹部を務めてもいた。
 『ウルトラマンオーブ』ではナゾの青年・ジャグラスジャグラーが、『ウルトラマンジード』でもナゾのSF作家センセイが、『ウルトラマンR/B』でも壮年の憎めない愛染マコト(あいぜん・まこと)社長が、『ウルトラマンタイガ』でもピエロのようなナゾの青年が、悪のヒーローや悪いウルトラマンへと変身して、レギュラーキャラとしても登場することで、作品が1話完結ルーティンの予定調和におちいってしまうことから救ってもいた。


 すでに50年以上も前の70年代前半においても、東映変身ヒーロー『人造人間キカイダー』(72年)におけるハカイダー、特撮時代劇『快傑ライオン丸』(72年)におけるタイガージョー、飛んで80年代前半においても、『科学戦隊ダイナマン』(83年)におけるダークナイトスーパー戦隊シリーズ超電子バイオマン』(84年)におけるバイオハンター・シルバなどのスマートな悪のヒーローが、1話完結のルーティンを打ち破るものとしてシリーズ後半から登場してきて、幼児はともかくさすがに小学生であれば飽きてきてしまうであろう各話のマンネリ展開を破壊し、子供たちの興味関心をあらためて惹起させてもきたのだ。
 その意味でも、個人的にはこれら2010年代のウルトラシリーズでの第3勢力や、『オーブ」における「惑星侵略連合」に『タイガ』における宇宙人犯罪組織「ヴィラン・ギルド」などの第4勢力といった趣向には、そのすべてが成功していたとは思わないものの、ねらいとしては大賛成ではあったのだ。


 3番目は、『ウルトラマンX』でも同様の試みはあったが、『ウルトラマンZ』(20年)~『ウルトラマンデッカー』(22年)の3作品におけるシリーズ前半においては、前作や前々作のウルトラヒーローが並行宇宙を突破したとのSF設定などで世界観をも超えて助っ人参戦! シリーズ後半においても昭和や平成の往年のウルトラヒーローが同様に助っ人参戦を果たしてみせる、ヒーローひとりだけでは倒せない強敵に対してのいわゆる先輩ヒーロー共演のイベント編が必ず設けられて、しかも往年の昭和の第2期ウルトラシリーズとは異なり、現役ヒーローを引き立てるための噛ませ犬などにはならずにしごく壮快なる大活躍をすることで、視聴者を定期的に熱狂させることになっていたが、この方法論の積極的なる再採用なのである!


 もちろん、これは年長もとい高齢オタクたちだけが喜ぶ内輪ウケ的な趣向だとも思えない。自身の幼少期を振り返ってみてみても、リアルタイムで観賞したワケではないものの作品タイトルの看板を張ったこともある、戦隊ならぬ単体の先輩ヒーローが助っ人参戦をしようものならば、あるいは昭和のウルトラ兄弟たちが勢ぞろいをするだけでも、それだけで大コーフンをしたものなのだ。
 ちょっとググってみせても、昭和の先輩ヒーロー客演にはリアルタイム世代ではない若年オタクたちの方がむしろ熱狂していたりもする! ヒーロー共演のみならず、それがもたらす作品の背後にある世界観のヨコ方向での広がり&スケールの雄大さをも同時に感じさせる効果もある。それらを考えれば、現今の子供たちにとっても実に魅惑的な普遍性もある趣向だろう。


――『ウルトラマンデッカー』#18~19の『ウルトラマンエース』の宿敵・異次元人ヤプール復活編においては、月面を舞台に前作ヒーローのウルトラマントリガー&デッカーとの共闘が描かれたが、トリガーとの共闘はすでに#7~8の前後編でも描かれていたので悪くはないけどパンチは足りない。欲を云えば、この#7~8との差別化として、『ウルトラマンZ』終盤にて客演したばかりではあってもウルトラマンエースにも再客演をしてもらって、その客演編にも登場したばかりであった殺し屋超獣バラバの着ぐるみもまだ残存していたであろうから、エースともども取って付けたようでもイイので再登場させてほしかったところだ――


 同じ理由で、最終回後の続編劇場版なども、『ウルトラマンデッカー』以降、前作ヒーローとの共演路線を廃止してしまっているのだが、これもよろしくないよなぁ。デッカーの着ぐるみを微改造した色違いの新ゲストウルトラマンなどを登場させるよりも、TVシリーズにもゲスト出演したばかりで顔なじみもある未来人が変身した未来のウルトラマンデッカーやデッカーの原典ことウルトラマンダイナとの共演映画を作った方がよかったのではなかろうか?
 ミニチュアの精巧な国会議事堂の破壊を見せ場にするよりも、前作ヒーローや先輩ヒーローとの共演映画の方が絶対にワクワクさせられて訴求力・集客力・お祭りイベント感もあるのだし、子供たちこそ観たくなるものでもあろうから、前作ヒーローとの共演路線や時折りの大集合映画の復活を希望!


 TVシリーズの最終展開も、たとえ不謹慎でも通常編とは異なるものとしての、もっとスケールの大きなが絵がありき! 地震や火山や空爆や占領下の地球や、月や惑星が砕けたりブラックホールに落ちていくなどの地獄絵図なビジュアルのシチュエーションがありき! そこから逆算しての逆転劇や人間ドラマをうまくトッピングしていく……といった発想での作りにしていってほしいなぁ。特撮ジャンルとは本質的に不謹慎なものなのだ(汗)。むろん、特撮ジャンルのなかでもヒーローものは、最後には道徳的に正しい方が勝利するハッピーエンドものでもあるけれど!
――もちろん、現実世界では正しい者が必ず勝つとはかぎらない。しかし、子供向けのヒーローものから卒業しないのは我々オタクくらいなのであって(爆)、フツーの子供は思春期以降になれば次第にオトナ向けのTVドラマや(ひとり)ボッチもののラノベやアニメなども観たり、どころか実地に身をもって体験したりもして、現実社会でのニガ味やその際の身の処し方や保ち方に戦い方をいやがおうでも学んでいくのだ。だから、そのあたりの欠如をヘンに心配したりする必要もないのだ(笑)――


明朗化させた場合に犠牲になりがちなドラマ性&テーマ性だが、両立させる方法もある!


 むろん、筆者なども長年の酷評に甘んじてきた昭和の第2期ウルトラシリーズの擁護派として、それらの子供番組としては高度でニガ味もある人間ドラマ性の高さに10代中後盤にて気付いて、それ以降は大スキではあるのだ。しかし、それは二律背反でもあるのだ。その高度さゆえに長じてからの幾度もの再観賞にも堪えうる作品にはなったとはいえる。けれどそれゆえに、放映当時の子供たちはもっと乾いた感じの活劇的で戦闘的な昭和の『仮面ライダー』シリーズや『マジンガーZ』シリーズなどの方に、より夢中になってしまったともいえるのだ。
 あるいは、第2期ウルトラシリーズの高いドラマ性や叙情性に当時の幼児はともかく小学生なども気付いてはいたのだろう。しかし、先にも言及したとおりで、特に小学生男児などはそういった叙情的・感傷的なものに心動かされてしまうことに男子としての弱さにも通じる気恥ずかしさなども感じることで敬遠してしまうものでもあるだろう……これが中高生にでもなれば、もうオトナの態度でそれをイイ! とハッキリと肯定できたりもするのだが……。


 たとえば、1971年の『帰ってきたウルトラマン』にてウルトラシリーズにナマっぽい人間描写を本格的に導入したメインライター・上原正三センセイは、1973年の『ロボット刑事』にて東映特撮に移行してからは、『帰マン』ひいては第2期ウルトラ的なやや湿ったドラマなどではなく、ハードボイルドやスパイアクションであったりして、ドラマはあっても男児がテレてしまわない範疇でのベタつかない乾いたものとして、(一部の論者たちの見解とは異なるものの)実に子供番組としての(当時なりの)バトル性とドラマ性のバランスが取れたものとしての作品を仕上げてみせていたあたりは、強く指摘をしておきたい。


 先にもふれたが、ウルトラシリーズのメイン監督に初昇任した辻本カントクとしては、ウルトラシリーズに対しては昭和の第2期ウルトラシリーズであった『帰マン』や『エース』のようなイメージを抱いていたとも語っている。
 そうなると、我々のような特撮評論オタクたちは、民間人レギュラーのホームドラマ性や青春ドラマ性に、怪獣攻撃隊の隊員たち同士の不和や齟齬に孤立、価値観対立のドラマなどのことをつい想起もしてしまう。
 しかし、それ自体がまた実に正しい分析ではあっても(笑)、卒業できずに中高生以降も「ウルトラ」シリーズを観つづけて、そのドラマ的・テーマ的な内実をも解題しつづけてきたガチな特撮マニアとしての特殊な見方でもあったのだ。


 第2次怪獣ブーム(=変身ブーム)と第2期ウルトラシリーズのトップバッターこと『帰マン』放映年度の1971(昭和46)年生まれでもあった辻本カントクにとってのウルトラシリーズの原体験は、1978~80年前後の第3次怪獣ブームの時期に集中的に再放送がされていたウルトラシリーズに対しての印象でもあるだろう。氏がまだ小学校の低学年~中学年の時期でもある。その年齢では、『帰マン』の人間ドラマ性や『エース』の熱血明朗なようでも異色作や孤立ドラマなどが連発される作り(笑~私的には大スキだけど)には、まだまだ気付けていなかったハズだ。


 そういった意味では、幼児にとっての漠然とした、


①:「歴代シリーズをバックボーンとしつつも、最新の巨大ヒーローvs巨大怪獣との戦い」を描くものとしての「ウルトラシリーズ作品」
②:そして他社の特撮作品と比してしまえば「豪華・ゴージャス」なものとしての「ウルトラシリーズ作品」


といったフワッとしたイメージを本作『アーク』にて再現してみせる! といったところがねらいなのではなかろうか? 仮にそうだとして、そういったねらい方はそれはそれで正しいねらい方だとも思うのだ。知ってのとおりで、近未来的な怪獣攻撃隊が登場させられない段階で、どうしたって『帰マン』や『エース』とは異質なものになってしまいはする……。しかし、それであっても! といったところでの「チャレンジ魂」(笑)ではあるのだろう。


「想像力」も本作のキーワードだが、それをどう描けばよかったのか!?


 とはいえ、本作は「想像力」もキーワードであったハズだ。腐れオタク諸氏はまた、この「想像力」をまさにテーマ(ノルマ)としていた『烈車戦隊トッキュウジャー』(14年)や『魔進(マシン)戦隊キラメイジャー』(20年)をも想起することであろう。よって、全話といわず各話での勝機となるかたちで、主人公青年の幼少期の「ぼくのかんがえた、さいきょうのヒーロー」の落書き帳が活かされていないあたりは残念だ――各種インタビューによると、ウルトラマンアークのイチイチの小ワザも主人公青年の「幼少期の空想」由来ではあっても、尺の都合でカットされてしまってはいるようだが――。
 いっそのこと、本作『アーク』においても、ダメ押しで『ウルトラマンジード』の主人公青年のように、成長を遂げて自身がホンモノの変身ヒーローにもなれたともいうのに、それとは別腹(べつばら)なのであろうか、いまだに卒業できずにTVの特撮変身ヒーローものを喜んで観賞していたような、イタい青年キャラにしてしまえばよかったのに~(笑)。


 しかし、幼児にはともかく小学校の中学年以上にでもなれば、このデッサンが狂った頼りない子供コドモした、子供時代に空想したスーパーヒーロー(=ウルトラマンアーク)の落書きは、背伸び盛りの子供番組卒業期の子供たちには気恥ずかしくてイヤがられてもしまったり、むしろ卒業をうながしてしまう要素にもなりうる危険性もあるであろう。もちろん、それをも先回りして劇中内にてクレバーなエクスキューズを入れれば万全とはなるのだが、ムズかしいところではある。
――たとえば、この落書き帳には続きのページもあって、中高生以上になってからの落書きには、8頭身の実に写実的なウルトマンアークのイラストなども描いてあったりしていれば!(笑~それによって、小学生には許容されても、成人オタク諸氏にとってはそれがまたイタくもなるのだけど、それは年長マニア向けのメタにメタを重ねたギャグとしても機能するのだ!)――


アーク(円弧)を描いての必殺光線にもうひと押し! しかし、バリアー技や特撮演出は快調!


 あとは、「アーク」の語句が「円弧」や「虹」を意味するので、ウルトラマンアークが真っすぐに伸ばした両腕で円弧を描くようなボディーアクションなども取ってから必殺光線を放ってはいるものの、そちらの不徹底もモッタイないとも思うのだ。タメというのかもう少しゆっくりと円弧を描いて、描き終わった直後にもその円弧がひと際に輝くようなダメ押し強調演出が個人的にはほしいのだ。もちろん、そこが作品の致命的な欠点になるなぞとは云わない。しかし、ウルトラマンエックスやウルトラマンゼットのようにワザとらしくても「X」や「Z」字型に両腕を組んだり、大空へと帰還する際にはワザワザ「Z」字型にジグザグ飛行をするような適度なケレン味もあるイロモノ性もほしかったなぁ(笑)。


 とはいえ、ウルトラマンアークが光学合成バリアーを多用するあたりは好印象である。特撮オタク諸氏もまた子供時代に初代ウルトラマンマンやウルトラマンエースウルトラマンエイティなどがその前面に頭上~足元までも巨大な光学合成バリアを張って怪獣からの火炎や光線攻撃を防いでいだシーンが、神秘的にしてヒーローの超越性・万能性をも感じさせるものとして非常に印象深かったことであろう。その感慨こそがヒーローものの特質なのだ! あるいは、非日常を魅せる「特撮」ジャンルの特質なのだ!
 それらが不要だというのであれば、最初から一般のドラマやヒーローなぞは登場しない良質な児童向けドラマだけを観ていればよいことになるし、原理的にも永遠にジャンルとしては自立できずにそれらの後塵を拝しつづけるしかなくなる。
 辻本カントクは『Z』におけるエース客演編でも、エースが巨大なウルトラネオバリヤーを張ったままで歩行前進しつつ、バリアの横に出した手先から矢ジリ型のスラッシュ光線を連発しつづけたり……などといったアクション演出にも目覚ましいものがあったのだ。この客演編におけるエースとも同様に、アークもこのバリアを直接に手に持ってしまう!(光線・光の亜種であろうに物理的な実体があったんかい!?・笑) 加えて、持ったバリアで敵怪獣を殴ったり、ふたつに割ってガラスの破片のようなトガった武器ともする! コンプライアンス的にはともかく、実にカッコいいのだ!


 もちろん、2010年代以降のハイビジョンカメラの小型化や高画質化、遠近が強調される広角レンズの多用などもあるのだろうが、『ウルトラマンX』以降、特にピントの合ったアップの場面などでは精巧な自動車や樹木に小物なども相変わらずに豊富だ。予算節約のために本編監督が特撮監督も兼任する体制になってからも久しいものの、むかしは不可能であった奇抜なアングル、パースペクティブ(遠近感)を強調した美的でアニメ的なアングルなども含めて、ミニチュア特撮・ヒーローアクションそれ自体は本作でも演出・アイデア面も含めて絶好調であった!



 あくまでも好みではあるが、筆者個人は実は90年代~00年代前半の「ウルトラ」作品よりも2010年代以降の「ウルトラ」作品の作劇の方を高く評価する者でもある。しかして、『タイガ』と『ブレーザー』はイマイチ地味ではあったかな? といったところで、今のところは本作『アーク』もまたイマ半で地味には感じているものの――それでも90年代~00年代前半における「ウルトラ」作品よりも個人的には高く評価しているけど――、シリーズ後半におけるさらなる挽回を切に期待したい!


(了)
(初出・特撮同人誌『『仮面特攻隊2024年9月号』(24年9月22日発行)所収『ウルトラマンアーク』前半合評2より抜粋して加筆)


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 2024年1月26日(金)から『機動戦士ガンダムSEED(シード)』(02年)とその続編『機動戦士ガンダムSEED DESTINY(デスティニー)』(04年)の続編新作映画『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』(24年)が公開記念! 同年6月8日(土)から各種動画配信サイトで配信開始記念! とカコつけて……。『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』評をアップ!


機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』 ~原典『SEED』&『DESTINY』も総括!

(文・T.SATO)
(2024年5月18日脱稿)


 ナンと! いわゆるリアルロボットアニメの『機動戦士ガンダムSEED(シード)』(02年)とその続編『機動戦士ガンダムSEED DESTINY(デスティニー)』(04年)の続編新作映画が、20年もの歳月を経て公開! 往時、アレほどまでにガノタガンオタ・ガンダクオタク)諸氏に叩かれまくっていた作品であったハズなのに、歴代『ガンダム』映画の興行収入すら2倍~数倍ものスケールで陵駕して圧勝してしまった!


往時は「ガンダム」オタク諸氏には叩かれていた『SEED』! しかして、同時に若年層には高い人気を獲得!


 もちろん、『ガンダムSEED』シリーズは往時においても人気は高かったのだ。むろん、それは「週刊少年ジャンプ」連載マンガのTVアニメ化作品の域には全然達してはいない。70年代末期の『宇宙戦艦ヤマト』の大人気や80年代初頭のファースト『ガンダム』の大人気、あるいは90年代後半のリアルロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)の大人気とも比較にはならない。
 しかし、通勤電車のなかや特撮変身ヒーロー映画の試写会などで当時の歳若い女性オタクなどが『SEED』シリーズについて語っているサマを数度は見掛けたものだ。DVDも各巻の売上が10万枚を超えて総計で200万枚を超過しており(!)、プラモデルの売上も良好である情報も入ってきていた。そういった中堅規模での人気を獲得はできていたのだ。


 けれど! 今から思えばまだまだ草創期であったインターネットの世界では、『SEED』シリーズに対するオタク諸氏による肯定的な評価を見ることはほとんどなかった。クソ味噌のボロカスに罵倒調でケナされていたのだ(爆)。
 その批判の要点は2つに絞れる。要は本家の富野カントクが手掛けた作品ではなく、本家とは異なる世界を舞台としたいわゆる「アナザーガンダム」作品であったこと。そして、女子オタ層に媚びた大きなお目々がパッチリのややオボコい美少年キャラが複数名も登場。そして、主要キャラの少年ふたりは幼いころからの親友であって、因果の変転にて敵味方に別れて戦いあうことになってしまうという、往年のTVアニメ『天空戦記シュラト』(89年)や『仮面ライダーBLACK』(87年)に明治維新後の西郷隆盛vs大久保利通! といった鉄板(てっぱん)の悲劇パターンが陳腐でハナについて、さらにまたそれが女子オタ層にはウケていることが実に気に喰わない! といったところであっただろう。


 とはいえ、『SEED』放映前の数年間には、当時のアナザーガンダム最新作『機動新世紀ガンダムX(エックス)』(96年)がシリーズ最低作品として叩かれ続けていた。『X』放映の前年度に放映されていた『新機動戦記ガンダムW(ウイング)』(95年)もまた、『月刊アニメージュ』誌の巻頭カラーグラビア記事において「クマさん」ことアニメ系フリーライター小黒祐一郎までもが、その5人の美少年キャラが5体のガンダムに搭乗して活躍する設定それ自体がまた、「ガンダム作品であることを捨てて女子供に媚びた作品だ」(大意)として、商業誌なので遠回しではあったものの叩いていたほどなのだ。
 さらに云ってしまえば、当時はインターネットがなかったのでアーカイブ化されて後世にはあまり伝わらなかったものの、本家の富野カントクが手掛けた初作の続編『機動戦士Z(ゼータ)ガンダム』(85年)でさえも、往時は盛大に叩かれていたものだ。老害な筆者と同世代であるファースト『ガンダム』世代の御仁たちであれば覚えていることであろう(笑)。


 しかし! 本年2024年1月に封切された本作でもある映画『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM(フリーダム)』(24年)は5月になっても公開が継続されている。筆者も5月になってようやく観賞したのだが、シネコン内の中規模スクリーンとはいえ、座席がけっこう埋まっているほどの盛況! 知識ではなく実感としてあらためて驚いてしまう。すでにNHKのBSにて放映された『発表! 全ガンダム大投票』(18年)などでも、初作と『Z』に次ぐ第3位を獲得していたので、アタマではわかっていたことではあったものの、ファンや論者の世代交代が進んだことによって、『SEED』シリーズの高い評価&人気もついに確定したといったところであろう。


長命人気シリーズの宿命! ゴジラ・ウルトラ・ライダー・スターウォーズも、新作は常にほとんどマニアに叩かれてきた!(笑)


 長命シリーズにはアリがちな反応ではある。今では皆がスレてしまったり枯れてしまったので、奇抜な新作に対する批判が大幅に減じてしまったけれども、00年代前半あたりまでは「ゴジラ」も「ウルトラマン」も「仮面ライダー」も「ガンダム」も、新作が登場するたびに「こんなのゴジラじゃない!」「ウルトラマンじゃない!」「仮面ライダーとしては邪道だ!」といった、リベラルではない保守反動・反革命(笑)な批判がウズ巻いてもいたものだ。


 とはいえ、「慣れ」の要素も多分にあるのだろう。たとえば怪獣映画『シン・ゴジラ』(16年)においては、ゴジラがその容姿を幾度も変貌させていく。しかし、こういった変身描写をもっとむかしの90年代に実現していた場合に、たとえその特撮ビジュアルがチャチくはなくて精巧であったとしても、ゴジラマニアの大勢は激怒したのではなかろうか?(笑) それは90年代後半に蛾の怪獣・モスラが「飛び魚モスラ」や「鎧モスラ」に変身したことに対して、マニアの大勢が大いに反発していたことでも容易に推測がつくのだ(……今となっては、特にラスボス怪獣などについては、絵的・イベント的にも2段変身・3段変身くらいはしてくれないと物足りない、ナットクがいかないくらいになってはいるものの・笑)。
 映画『ゴジラ×コング 新たなる帝国』(24年)においては、ゴジラは人間のように両腕を大きく振って疾走してみせていた。しかし、これに対してはもう誰もケチを付けない。往年のハリウッド映画版『GODZILLA』(98年)ではゴジラがスピーディーに疾走していたことに対して、特撮マニアの大勢が「らしくない」として大ブーイングを飛ばしていたというのに!
 ナンという「ダブスタ糞オヤジ」(笑)な矛盾! ……つまりは、前例があることによって、我々もまたダブル・スタンダードながらも「それももうアリであろう」と受け容れてしまっているのだ(爆)。


 常なるシリーズ最新作に対する反発がテンプレ化・陳腐化していることそれ自体が、マニアの過半にも意識化されてしまった長命シリーズの域に至ると、そのシリーズではどんな作品が発表されようとも次第に驚かなくなってくる。「ガンダム」に「百合」の要素を導入した『機動戦士ガンダム 水星の魔女』(22・23年)なども、行くところに行けば叩かれているのではあろうけど、総体としては叩かれてはおらず、むしろカンゲイされていたくらいなのだ(笑)。


 とはいえ、その意味ではSF洋画『スター・ウォーズ』シリーズ(77年~)のマニアはまだ枯れてはいない。たとえば、70~80年代の3部作をさかのぼった前日談であった『スター・ウォーズ EPISODE 1』~同『3』(99~05年)についても、「こんなの『スター・ウォーズ』じゃないやい!」といった批判が巻き起こっていたものなのだ。
 しかし、世代交代は着実に進んでいく。子供時代に『1』~『3』をスナオに楽しんでいた下の世代に突き上げを喰らった映画評論タレント・ライムスター歌丸なども「同作群のことを悪く云いすぎた。自身も偏っていたのかもしれない」といった主旨で弁明したり、自己相対視をしていたりもする。
 かと思いきや、歴史は繰り返す! 今度は『1』~『3』の世代が、本家のルーカス監督が手掛けた『スター・ウォーズ』6部作までが「あるべき姿」であって、2010年代に公開されたディズニーへの譲渡後の「続3部作」こと「エピソード7~9」の作りや設定を酷評していたりもするのだ。たぶん、これも今から15~20年後にはおそらくは……(笑)。


 筆者個人はファースト『ガンダム』世代の老害オタクではある。しかし、TVシリーズであれば歴代作品すべてをほぼリアルタイムで観賞してきたキモオタでもある。その意味ではファースト世代の典型とは云いがたい。そして、当初はともかくある時期からは、玩具の販促番組としての側面も否定はしてこなかった。女子向け人気も否定はしてこなかった。さらに、それらのノルマを満たしたうえでなお、高いドラマ性やテーマ性を達成することも可能である! とも長年考えてきた。
 よって、筆者の個人的な『SEED』シリーズに対する評価は、実は同世代の大勢とも異なっており、往時から高かったりもするのだ(ご不興な方々にはゴメンなさいネ・汗)。
 その理由は、初作を除いた『Zガンダム』以降の本家・富野ガンダムには付きものであったムダに無意味な難解さや、新劇(=明治時代以降の近代演劇)調の「持って回ったセリフ廻し」が排されていることなど、マニア・オタク的な人種を超えて幼児にはともかく小学校の中学年以上であれば最低限は理解ができる作品として成立していたことだ。そして、女子層をもゲットすべく照れずに真っ正面から堂々と美少年キャラを前面に看板として押し出してもいたことだ。


女子人気をねらうことを肯定する! 女子人気をねらいつつ、高いテーマ性、そして商業性を同時に確保することの鼎立も可能であるハズだ!?


 後者の方向性での先駆者としては、『ガンダムW』がすでにあった。これは同作のカントクを務めた池田成(いけだ・まさし)が手掛けた、一応の美少年キャラが多数登場した『聖闘士星矢(セイント・セイヤ)』もどきで日本サンライズ製作の子供向けTVアニメ『鎧伝(よろいでん) サムライトルーパー』(88年)などにおける、大きなお姉さんオタクへの流通をもねらったところは確実にあったであろう。
 これを邪道であると批判する意見もあってイイ。しかし、往時のファースト『ガンダム』も女子ウケ人気は凄まじいものがあったのだ。本家の富野カントクが初監督を務めた往年のTVアニメ『海のトリトン』(72年)でもカントク自身がそういった女子人気があったことを認めているし、後年のTVアニメ『ターンエーガンダム』(99年)の美少年主人公についても、そのような女子ウケ人気をねらっていたとも公言している(……同作については、そういった女子人気は獲得できてはいないけど・汗)


 もちろん『W』もまた、女子くすぐりだけにとどまっていたワケではない。そこには、


●「戦争とは何ぞや?」
●「革命とテロリズムとの差異とは何ぞや?(……実に曖昧であって、勝てば官軍・負ければ賊軍といった側面も否めない!)」
●「独立戦争・革命戦争もまた、過剰防衛の攻撃的な戦争へとおちいってしまうこともありうる逆説!」
●「初作における『ニュータイプ』(=超能力を持った新人類)の唯物科学的な解釈だともいえる、当人に素質さえあれば戦術・戦略・政略、ひいては国際情勢の五手先・六手先の推移のシミュレーションや、複数の陣営&多数のプレイヤーのブラウン運動、自身の歩むべき道スジまでも、ビリヤードの玉突き的に見抜くことを補佐することができてしまえる『ゼロシステム』なる機械装置!(……ただし、赤勝て白勝て、巨人か阪神か、右翼か左翼か程度の2元論でしか物事が考えられないようなザル頭の御仁であれば、重負荷によって精神をヤラれてしまうともいう!・爆)」


 そういった高度なテーマをも、敵味方の陣営や各々の内部での二転三転する勢力交代劇などに巧妙に織り交ぜるかたちでストーリーを構築してみせていたのだ。


 本作『ガンダムSEED』もまた初作と同様に、地球と衛星軌道上に多数浮遊する宇宙植民コロニー間での紛争を題材としている。宇宙コロニーに住まっていた10代の少年少女たちが地球側の宇宙戦艦に避難して放浪することになり、そこでの10代の少年少女の集団にアリがちでも普遍的な人間模様や、偶然にも主役巨大ロボ・ガンダムを操縦してしまった主人公少年が、仲間を守るための成り行き上で戦いに身を投じていくあたりもまた、初作と同様なのであった。


 シリーズ作品が初作とは完全には同一の内容にはできない以上は差別化は当然である。しかし、歴代の後続シリーズが置き去りにしてきてしまった、10代の視聴者にとっては同世代である男女たちによる人間群像劇や、あるいはローティーンの視聴者たちから見えているチョイ歳上のお兄さん・お姉さんたちの世代による少々の不和も交えた性格群像劇やプチ大人びたやりとりへのあこがれ。それもまた初作の魅力のひとつではあったのだ。
 そのあたりを本作『SEED』においても再現してみせていたことについては、本来の主要ターゲットは10代・思春期の少年少女向けであるべき「TVアニメ」の作りとしては、もはやオッサンの筆者的には没入はしなかったものの「我が意を得たり」とは思ったものだ。


 むろん、少子化時代に商品の売上高を増やすためにも、味方側にもガンダムが複数機、敵側にも悪いガンダム(爆)が複数機は登場することが、メタ的・商業的な意味ではデフォルト(初期設定)にはなっていた。そのために、なぜに敵と味方で同じガンダムタイプの巨大ロボを使用しているのかについては、敵対陣営から強奪したという描写で言い訳も付けていた(笑)。しかし、カラーリングとしては敵側のガンダムは暗褐色にするなどして、映像的にもわかりにくさは回避ができている。
 劇中用語においては敵も味方組織も、たとえば『Zガンダム』における味方側が「エウーゴ」で敵側が「ティターンズ」など双方ともにカタカナ言葉にしてしまって、区別が瞬時には付きにくいといった煩雑さなどもない。味方側は漢語の「地球連合」で宇宙植民者側はカタカナ言葉かつ濁音の「ザフト」にすることで「一聴瞭然」ともさせていた。


 もちろん、今どきの青少年向け作品としては、それらの2者を善悪2元論的な存在だとして単純に扱うワケにもいかない。次第に両者を「どっちもどっち」的に相対化していった果てに、ここは軍事的にはリアルではなく、大本営の意向を無視して現場が暴走した旧・関東軍的な軍規違反だといった問題点はあるのだけれども(汗)、主人公たちが搭乗している母艦が「独立義勇軍」化することで、「地球」と「宇宙植民者」双方に対する倫理的な批判者としても昇華してみせていたりもしたのだ(……もちろん、厳密には日本+サウジもどきの中立国も設定しており、サブヒロインをここの出身にもすることで、さらに錯綜させている)。


新人類ならぬ、遺伝子操作ベビーvs一般人との図式がハラんでしまう複雑な入れ子の構造の秀逸さ!


 初作における「ニュータイプ」に相当する概念としては、「コーディネイター」なる存在を導入。字義的には「調整者」ではあっても、これは実はいわゆる「ルッキズム」「美容整形」(爆)の延長線上の存在ともなっていた。瞳や髪の色だの目鼻口のかたち、そして知力・運動神経なども遺伝子レベルで操作して誕生させたデザイナーベビーたちの成れの果てであり、彼らはすでに数世代を経ている存在たちでもあったと次第に明かしていく。そして、この設定によって、主要人物たちが見目麗しい美少年・美少女であったり、10代にして優れたロボット乗りとして活躍できているSF的な理由がたとえ後付けではあってもできているのと同時に、倫理的なヤバさをも感じさせていくようになっていくのだ。


 そう。本作における地球と宇宙植民者との争いの根源は、何十年にもわたって次第に増加してきた「コーディネイター」、そして「ナチュラル」と呼称されるようになった一般人との、双方がお互いを打倒すべき特権階級・上級国民(汗)として見立てることも可能な入れ子となった階級闘争。あるいは、お互いを蔑視・不気味視・排斥し合ってきたことの結果としての戦争だとしても描くのだ!


(……奇しくも、東西冷戦終結直後の世界的ベストセラー『歴史の終わり』で、「ソ連型のマルクス共産主義に対しての資本主義・自由主義の永世勝利」を宣言した日系人学者フランシス・フクヤマが自説を撤回して、今度は「行き過ぎた自由の乱用で、遺伝子操作された人間&一般人とのあいだでの不和が生じうる未来」を警告した『人間の終わり』なる書籍の邦訳が、『SEED』放映開始のちょうど前月に出版されていたりもする)



 本作が秀逸であったのは、この「コーディネイター」なる存在を古典SFのアシモフ&クラーク的な進化した「新人類」としては描かなかったことである(……『Z』以降の富野ガンダムにおける「ニュータイプ」の概念も同様ではあったけど)。
 彼らはたしかに知力・情報処理能力・反射神経などには多少は優れている。しかし、メンタル・喜怒哀楽・人間力・個人の性格・胆力のような部分では「ナチュラル」とも変わらない。その意味ではただの人間・ホモサピエンスではあるのだ。
 ゆえに、少年少女らしい恋情にも落ちてしまう。親しい友人や戦友が落命してしまえば、やはり感情的にも取り乱して敵対陣営に対して憎悪を覚えたりもする(……そこに付け込んで、自身の魅力で錯乱した主人公少年を一時的に籠絡、肉体関係(爆)まで結ばせてしまう悪女同級生まで登場していたあたりは現代的ではあったけど)。


 むろん、コーディネイターたる主人公少年がナチュラル側の地球に味方して、コーディネイター側たる宇宙側にも初作のライバル青年もどきのアイマスクの男が実はナチュラルだったとすることで、その作品の対立構図を単純にはしていない。


(……富野御大による90年前後からのニュータイプや宇宙植民それ自体に対してのややネガティブな言説に乗っかったのか、「ニュータイプ」を往年の「アニメ新世紀宣言」には傾倒したものの「80年安保」(笑)には挫折してしまったオタク第1~第2世代の「オタク的感性の肥大化のいびつさ」のメタファーともすることで、そして戦後15年(汗)の時代の若年世代でオールドタイプではあっても健全な少年主人公にニュータイプの操縦技量を陵駕させてしまうことでも、何事かを訴えていた『ガンダムX』といった前例もすでにあったけれども……)


敵味方の憎悪と復讐の増幅&連鎖描写の執拗さ! しかし! やはりイイ意味でのジュブナイルであった(笑)


 そして、敵味方の双方の陣営ともに、そういった戦友たちの落命描写が描かれていくことで、両方がイーブンに憎悪&復讐の念を募らせてもいく。
 まぁ、敵の顔が見えない近代的な海戦・空戦・機械戦においては、個別具体の敵兵に対しての憎しみはさほどには募らせないとする説もありはする。しかし、陸戦の歩兵や戦地・占領地となった地の庶民感情なども含めた「戦争一般」をフィクションに昇華させるのであれば、たしかにこういった憎悪描写・復讐感情はハズせない要素ではあったであろう。
 そして、ここまで見せられてしまうと、やはり憎しみが深まってしまった敵対陣営同士が和解を遂げて平和が到来することもまたほぼほぼ不可能だナ、といったことも思わされてしまうのだ(汗)。



 とはいえ、本作はやはり10代の少年少女向けのジュブナイルのエンタメ作品ではある。人類や人間一般に対する「絶望」でオトすワケにもいかない(笑)。シリーズ後半においてはアレほどまでに憎みあってきたライバル少年とも和解を成し遂げてみせている。
 そして、「もう誰も殺したくない!」という強い想いが最強のコーディネイターとしての能力を最大限に発動! ひとりイージス艦のようにガンダムの全身から一度に数十発ものビームを一斉発射して百発百中にできてしまえるようにもなっていく!
 しかして、暴れん坊将軍・吉宗の峰打ちか、SF西部劇『トライガン』のガンマン青年主人公か、銃撃百合アニメ『リコリス・リコイル』のごとく、誰をも殺さないように敵機の急所はハズしたかたちで「非殺生」を実現してしまうのでもあった!(……まぁ、自然落下して地面に激突してしまった敵ロボの操縦者はやはり死ぬだろうとは思ったものの・笑)


 ここから物語は一大戦争を集結させるためにヒロイックなフィクション・ワールドへも突入していく。これを是とするか? 非とするか? ……しかし、筆者個人は半分は思わず笑ってしまったものの、ウソ八百ではあっても実に爽快ではあった。「現実」的にはともかくとしても「SF論理」的な解決策としては合理的だとも思えたので、OKだとする立場なのだ(……と同時に、これをNGだとする見解もごもっともだとは思う。そして、そういった彼らを論破できないとも思ってはいる・汗)。


絶対平和主義・完全平和主義・非殺生は正しいのかもしれないが……


 とはいえ、先の『ガンダムW』においても、最終的には絶対平和主義・完全平和主義が賞揚されていたものだ。本作『SEED』においても非殺生が賞揚されていた。少年少女向け、あるいは一般大衆向けのエンタメ作品としては妥当な持っていき方ではあるだろう。しかしそれと同時に、この絶対平和主義や非殺生が個人的には隔靴掻痒・ムズがゆい感もあるところなのでもあった(爆)。


 もちろん、平和は大切なものであり目指すべき目標でもある。しかし、戦争それ自体を減らすことはまだ可能ではあっても、完全にゼロ・根絶することができるとまでは、さすがに筆者個人は思わない。
 大変に申し訳ないのだけれども、「自国が武装を放棄して友好的な態度をとれば、敵国や周辺諸国は攻めてこないのだ!」といった意見は、人間不信の筆者にはドーしても受け容れがたい。
(……「自国の軍備増強が他国への侵略につながる可能性がある」と主張したソバから、「他国の軍備増強にはそれがナイ」とするダブスタ糞オヤジな論理を持ち出す輩には、その知性を疑ってもしまう・笑)


 「国家権力にナメられたり弾圧されてしまう隙を与えないためには、デモやストライキをする側はもっと威圧的であってもイイ」とする、近年流行りの脱成長・共産主義者の見解にも一理程度はあるとは思うものの、一方ではそれは「軍事における抑止力」の肯定にも通底してしまうこともまた間違いがないのだ(汗)。
 「国家権力に対しての暴力は肯定するが、外国に対しての暴力(戦争)は肯定しない」といった反駁もまた想定内ではあるけれども、外国もまた国家権力そのものでもある以上は、筆者個人は外国の善性といったものにもあまり期待はしていない。


 かといって、戦争の主体たりうる近代国民国家を廃絶すれば、戦争は根絶できるのか? といえば、それもまた実に怪しい。全人類の半分とはいわずとも1/3くらいは、安倍ちゃん・トランプ・親の教育・社会の風潮によらずとも、幼児・子供も含めて法律・刑罰があるから悪事を犯さないだけの品性下劣な人間たちなのでもあるからして(笑)、あまたの西部劇や劇画『北斗の拳』に洋画『マッドマックス』のような各地域のジャイアンもどきが跋扈する無法地帯の世界が現出してしまうであろうと信じて疑わないのだ。
(……といって、そういった連中を『リコリス・リコイル』(22年)における某機関のように予防的に抹殺せよ! なぞといったことは思ってはいないので、くれぐれも念のため)


絶対平和主義・完全平和主義・非殺生のアンチテーゼ、『SEED』のアンチテーゼかとも思われた続編『DESTINY』!


 そういった自作に対するセルフ・ツッコミもスタッフ間の脳裏にはあったのであろう。『SEED』の続編『DESTINY』ではナンと! 前作における先の中立国での主役ガンダムによる戦闘の巻き添えで両親&妹を失ってしまった少年が新ガンダム乗りの主人公ともなっていた。そして、前作主人公に対して恨みさえ募らせてもいるのだ(汗)。腐れオタク的には怪獣映画『ガメラ3 邪神覚醒』(99年)や往年の『ウルトラマンタロウ』(73年)#38における怪獣災害孤児少女を思わせる設定でもある。


 そして、宇宙(ザフト)側の軍隊を舞台にして、前作のライバル少年を直属の上官(!)にも据えた、宇宙側が開発した新ガンダムに搭乗する少年を新主人公に据えた物語がつづられてもいく。


 同作の早々にて描かれる、地球と宇宙との和平を不服とした宇宙側の脱走兵たちによる超巨大な宇宙コロニー落とし作戦の成功(爆)を発端とする再度の開戦! 狂気の沙汰ではある。しかし、脱走兵たちの主観風景にカメラが向くや、かつて地球側の攻撃で家族や同胞が大量死にあったことへの行き場のない激しい悲しみの表情! これではもう、彼らがそういたしてしまったこともまたムリはないとも思わされてしまうのだ(汗)。


 個人的にはトータルでは肯定はするものの、ややキレイごとなオチには思えた『W』や前作『SEED』のアンチテーゼたりえてもいる。「復讐の連鎖を断ち切れ!」といったテーゼ。それは「正論」ではある。しかし、それで苦悶のなかにある人々の全員を救えるとはとても思えない。ついつい内心では復讐心・ルサンチマンをたぎらせてしまうような筆者、もとい庶民・大衆・愚民の皆さん(笑)をさすがに全肯定はしてくれなくてもイイのだけれども、そういった凡俗たちのどうしようもない怒り・憎しみ・俗情・劣情・屈託などのマイナス感情にも共感を示して寄り添ってもくれてこその、ちょっとした「救済」もまたあるものなのだ。そういった複雑デリケートな機微などにも一理は認めてくれるのか!? といった期待などもしていた。


 しかし、いかにリアルロボットアニメの端くれだとはいえ、毎週土曜の夕方6時ワクの作品としては重たすぎるネタではあった。扱い方を間違えれば、社会に対する無差別復讐テロの肯定にもなりかねない(汗)。よって、作品はこの問題提起に対して十全たる決着を与えていたとは云いがたい。
 最終回では新作主人公&彼の悲劇の戦友vs前作の主人公&彼の元ライバル少年、2vs2での巨大ロボット対決を通じた敗北(!)のかたちで、新主人公の想いは旧主人公によって最終的には否定されてしまうのであった……。
(そんな構図でイイのか!? といったオチではあったのだけど、チカラ技&勢いの展開&演出で押し切れてはいたとは私見している)


戦争の根源原因とは、「軍需産業」(武器)の存在ではない!? 人間それ自体の「遺伝子レベル」(本能)での「闘争本能」「利己的」「階級的性向」にこそある!?


 むろん、作品自体は多層構造を持っているので、同時に並行してファースト『ガンダム』でのライバル青年・シャアを演じた池田秀一が演じる、ナゾめいた黒髪長髪壮年イケメンの宇宙側の議長もまたカギとなるキャラとして描かれてもいた。終盤では「地球」側でも「宇宙」側でもない第3の陰の「軍需産業」が「戦争の原因」だと告発して、彼らを壊滅にも追い込んでみせている!


(……余談だが、同作にはもう一方の黒幕として、政治に食い込むことにも成功した急進的な「環境保護団体」も登場。コーディネイター生命倫理に反した存在だとして糾弾することで、その論理に一理はあっても「差別」に加担してしまってもいる逆説をも描いていく・汗)


 しかし、「戦争の根源」とは「軍需産業」にもまたなかったとして描くのだ。人間・生物自身に本能レベルで組み込まれている闘争本能・利己的・階級的性向にこそ根源があるとする。それらを遺伝子レベルで除去したうえで、平和な社会や個人の安定した人生をもデスティニー(運命)のレベルで保証・管理社会化することで、戦争をも根絶しようと主張しだすのだ。そして、それに反対する勢力に対しては「最後の戦争」(爆)を仕掛けてもいくのだ!


 これもまた、一理も二理もある主張ではある。しかし、「運命」よりも「自由」を賞揚する我らが近代市民社会における物語作品においては、この目論見は当然ながらに真のラスボス扱いとして否定もされていく……。



 とはいえ、「個人の(試行錯誤の)自由」を肯定してみせることは、原理的にはその「自由」そのものが、「自由と自由との相克」が「戦争」へと帰着してしまう可能性をも残してしまうということでもあるのだ。


 しかし他方では、生まれつきで肉体や精神が弱く生まれついてしまった人間や、イジメ・パワハラモラハラなどにも遭ってきて、そういった嗜虐的な人間たちを除外してほしいと願ってもいる厭世的なヒトたちにとっては、このデスティニー・プランがもたらす弱者に対する救済、そして議長の悲哀から来る想いもまた完全否定はできないものではなかろうか?


 加えて、議長の動機のひとつに


コーディネイター同士の婚姻は出生率が非常に低い。好いた女は子供がいる家庭がほしかったので、彼と結ばれる人生は選ばなかったのだ」


といった悲恋要素もまた、女々しくはあったものの心打たれたものである……。


 といったあたりで、筆者個人の『DESTINY』に対する総合的な評価も手放しではなかったものの実に高いのだ。しかし、もちろんバランスの悪さがあったことは認めるし、いわゆるガノタ諸氏の当時の評価は非常に低かったことも歴史的な事実としては記しておきたい。


20年後の続編映画『ガンダムSEED FREEDOM』寸評!


 その20年後の2時間尺の続編新作映画『FREEDOM』では、TVアニメ2作品・全100話を通じての複雑なテーマなどは描けようハズもない。よって、大傑作であったなどとも強弁する気もまたない。しかし、総花的なファンムービーとしてドラマの主軸を見失ってしまうことなく、戦闘シーンを必須とする巨大ロボットアニメ活劇としては、最低限の起承転結と終盤における勝利のカタルシスのノルマも満たしてはいる。


 たしかに原典『SEED』シリーズにも登場した宇宙コロニーレーザーもどきの超巨大兵器も再登場させて、映画の終盤では戦闘のスケールを大きくもしている。
(……まずは人体が発火してから器物の爆発が起きるので、電力をマイクロ波の周波数に変えて宇宙から地上に送電する太陽光発電の応用なのであろう。電子レンジもマイクロ波の電波で水の分子のみを高速振動させて熱するものなので。本シリーズの戦闘中のガンダムの小さな受信鏡にビームを当てるかたちでの充電も同じ原理であるのだろう……と思っていたのだけれども、あらためてWikiを参照してみると、相当にややこしいSF考証になっている・笑)


 しかし、本映画の舞台の基本は、東欧~中央アジア圏にて独立を果たした小王国による実に小さな紛争劇であった。そして、王国の親衛隊の巨大ロボ乗りの少年少女たちとの邂逅、男女間での三角関係、戦場での対決をデスティニー・プランの残滓も交えて描いてもいく。
(……相手の精神に干渉してきて思考を読んだり、幻覚を見せてくる敵が登場するあたりは『SEED』っぽくはないよなぁ……とは思ったものの、まぁ『ガンダム』ものとしてはアリなのかなとも・汗)


 『SEED』正編においては、当初は『マクロス』シリーズ的な天真爛漫なだけの白痴歌姫であるのかとも思わせておいて、実はその本性は理知的で政治的な判断やふるまいもできるメインヒロインであったラクス嬢と主人公少年との一応の相思相愛関係。相手が別の好ましい異性と会話をしているのを見掛けての気後れから来る疎隔感・プチ嫉妬・最終的な愛情確認……といったミクロなところへと決着していくあたりもまた、彼らがいまだに20歳前後の若者であって、『SEED』のドコに往時の女性ファンなり思春期のファンたちが関心を持っていたかを思えば、ストーリーの妥当な主軸ではあっただろう。


 メカロボ的には、『DESTINY』においてファースト『ガンダム』の敵ロボであったザクやグフにドムのバリエーションが名称もそのままに作品世界を超えて建造されていたことも継承しており、本映画においてもゲルググやギャンにシャア専用ズゴックもどきが主要メカとして登場。メカファンサービスにこれ務めてもおり、ロートルな筆者なぞも喜んでいた(笑)。


 続編『DESTINY』の新主人公少年が、『SEED』正編および本映画の主人公少年とも和解を遂げているどころか心酔すらしており、彼の部下として嬉々として働いているどころか彼に認めてもらいたがってもいるあたりは、個人的には彼にも救済が与えられたと感じられて肯定的に観ていたのだけど、賛否がありそうではある。しかし劇中では『DESTINY』のまだ2年後の世界ではあっても、作品の外側では20年もの歳月が流れたことによって(笑)、完成映像では描かれなかったところでの両者の和解もあったのであろうと好意的に脳内解釈もしてしまうのであった。


 しかし、ググってみると……。エッ!? 『DESTINY』本編最終回の3ヶ月弱後に後日談がTV放映されていたの!? そこで両者の和解もすでに描かれていたの!? 後年2013年のHDリマスター版ではこの最終回をさらに2話分に分けるかたちでの再製作もされていたの!?(結局は筆者もまたチェックの甘いぬるオタであって、エラそうに語る資格は本来はございませんでした~・汗)



 ファースト『ガンダム』の総集編映画の最終作『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙(そら)編』(82年)の「興行収入」をとっくに超えてみせた本作ではあったけど、215万人に対しての277万人! 「永遠に超えられない壁」だと思っていた同作を、「観客動員数」でもついに陵駕してしまった『ガンダム』映画が登場したのであった。メデタシめでたし。
 「アナザーガンダム」&「本家の歴史の隙間を埋めていくガンダム作品」の並存。玩具会社・バンダイアニメ製作会社サンライズの周到な延命マーケティングがありきとはいえ、今後もしばらくは多様な『ガンダム』作品&映画で楽しませてはくれそうだ。


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『DEATH-VOLT』VOL.95(24年6月30日発行予定))


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