假面特攻隊の一寸先は闇!読みにくいブログ(笑)

★★★特撮・アニメ・時代劇・サブカル思想をフォロー!(予定・汗)★★★ ~身辺雑記・小ネタ・ニュース速報の類いはありませんので、悪しからず!(笑)

アベンジャーズ/エンドゲーム ~タイムパラドックス&分岐並行宇宙解析!

『スパイダーマン:ホームカミング』 ~クイズ研究会(?)に所属する文化系スパイダーマンの弱者友人たち(汗)
『ワンダーウーマン』 ~フェミニズムの英雄か!? 単なるセックス・シンボルか!?
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アベンジャーズ/エンドゲーム ~タイムパラドックス&分岐並行宇宙解析!

(19年4月26日(金)・日本封切)
(19年6月16日脱稿)


 それぞれが主演の映画シリーズを持つマーベル社のアメコミ・ヒーローたち、アイアンマン(2008年・初出は1963年)・超人ハルク(2008年・初出は1962年)・北欧神話の雷神ソー(2011年・初出は1962年)・キャプテンアメリカ(2011年・初出は日米開戦の年である1941年!)。
 還暦前後の歴史を持つアメリカの古典ヒーローたちが、その誕生の時を21世紀に変えて同一世界を舞台に活躍――キャプテンアメリカのみ第2次大戦中に活躍して、不慮の事故で氷結後に現代で復活――。ひとりでは敵わぬ巨悪に対しては一致団結、『アベンジャーズ』(2012年・初出は1963年)なるヒーローチームを結成してコレに立ち向かう!
 次第にガーディアンズオブギャクシー・アントマンブラックパンサースパイダーマン・ドクターストレンジ・女傑キャプテンマーベルと、いずれも原典の初出が1960年代であるアメコミヒーローたちも参戦。約20作品もの関連映画が作られて、『アベンジャーズ』映画としても通算3~4作目となる『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(2018年・一応の初出は1991年)&『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019年)では、2年連続で公開される前後編2部作としても製作された。


 そしてその前編では、背丈が3メートルはあろうかというヒューマノイド型のムキムキマッチョでいかにも強そうな悪の超人・サノス(初出は1973年)が宇宙各地の惑星を強襲! 宇宙誕生前からある(!)6つの特異点が変化した、各々が「空間」「時間」「力」「現実」「心」「魂」の属性を持つ宝石インフィニティ・ストーンをめぐって争奪戦を繰り広げる。
 なぜならそれらをすべて揃えると、何でも願いを叶えてくれる本邦日本の『ドラゴンボール』や江戸時代の読本『南総里見八犬伝』の8霊玉みたいなモノだからだ(笑)。ブラックパンサーの故郷、アフリカはワカンダ国の大平原でのアベンジャーズ・ワカンダ国軍・北欧天上世界のアスカルド軍などの混成軍vsサノスの大軍団との関ヶ原の合戦の末に、悪の超人・サノスはついに6つの宝石をフルゲット。専用の手っ甲にハメて指をパチンと鳴らすや、大宇宙全体の生命の半数、スーパーヒーローたちの半数も薄い黒煙となって消失したところで、「次回につづく」となった。
 そう、サノスの願望は、大宇宙の自然環境の保全! 増えすぎた人類や生物を半数に減らすという、それなりに公益性・正当性があるモノでもあったのだ――オッサン世代としては、往年の8号ライダーこと『仮面ライダー(新)』(79年・通称スカイライダー)の敵組織・ネオショッカーの目的を思い出す――


逆転勝利のカギは、量子力学による時間逆行で6つの宝玉を再ゲットすること!


 はてさて、ヒーローもの・娯楽活劇作品である以上は、後編たる『アベンジャーズ/エンドゲーム』ではアリガチでもお約束の逆転勝利劇が待っていなければ詐欺である。文芸映画でもないのにバッドエンドはアリエナイ。すでに各ヒーローたちの単独主演の続編映画の製作も発表されているのに(笑)、スーパーヒーローたちが消滅したままで終わるワケもない。最後には全員が復活を遂げて、正義の軍団vs悪の軍団のリベンジ総力戦があって、勝利を納める結末を迎えるのは判りきっている。
 だとしても、その過程を単なる段取り劇ではなくプチ・サプライズも交えつつ、煩雑・タイクツにならない範疇での適度に観客の関心も惹起する、ストーリーに技巧的な面白さもあるのか否か、しかもそれに一応の説得力があるのか否かがエンタメ活劇のキモでもある。


 そのための方策。それは「時間」を逆行して、逆転勝利の勝機をつかむことだ! ……という展開になると予想したマニア諸氏も多かったことであろう。
 なぜなら、インフィニティ・ストーンのひとつ、タイム・ストーンを使って、悪の超人・サノスは前編でのラストバトル中に、一度は破壊されたマインド・ストーンを局所的に時間を巻き戻して、破壊される前に戻って奪い取ってもいたからだ――日本の戦隊ヒーローでも時間を逆行させる能力を持っているチート戦士が時々登場するのを思い出す(笑)――。
 あるいは、アベンジャーズの一員でもあり、アリん子サイズにミクロ化できてアリん子の群れを従えることもできる(汗)スーパーヒーローを描いた映画『アントマン』(2015年・初出は1962年)&その続編『アントマン&ワスプ』(2018年)においても、ミクロ化が行き過ぎて超々極微で物質や空間の最小単位でもある「量子」レベルにまで達すると、存在が確率論的となって複数に分裂して偏在したかのようになる――続編における敵怪人の存在形式もこの原理――。
 量子力学にも則って、「空間」の定義も曖昧となり「時間」や4次元以上の「高次元世界」に「並行宇宙」との境目の皮膜とも隣接、時に混じって相互乗り入れしているやもしれない不可思議な超ミクロ世界へと突入。
 加えて、人間の精神・意識も単なる脳内電気信号には還元できない、量子レベルの波動でも駆動されているのやもしれない!? という、ややトンデモな最新科学仮説「量子脳理論」も援用・拡大解釈して、「夢のお告げ」までもがSF的に正当化されるストーリーが構築されてもいたからだ。


――いやまぁ我らが日本でも、「高次元世界」から3次元並行・分岐宇宙の過去未来の時観線を見下ろしたアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト2202(ニーニーゼロニー)』(17年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20181208/p1)や、「高次元存在」(=彼岸の彼方に去った完全なるニュータイプ)が局所的な時間逆行としか思えない部品破損を惹起する『機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20181209/p1)。秘めたる恋情が思春期症候群なる超常現象のトリガーとなって、一見冷めてるメガネの理系女(リケジョ)が「確率論的な分裂」を果たす深夜アニメ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』(18年)の中盤回や、カンブリア大爆発期の絶滅生物が観測者による「多世界解釈」によって現代でオルタナティブな巨大怪獣として実体化する『ウルトラマンガイア』(98年)#8など、すでに同様の知見に基づいた作劇が試みられてきたことは付言しておきたいけど。
 「量子」と「並行宇宙」ネタならば、粒子加速器の影響であまたの「並行宇宙」のスパイダーマンが集合するアニメ映画『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018年・一応の初出は2014年)も記憶に新しいところだ――


 はてさてフタを開けてみれば、後編『エンドゲーム』では西暦2012年や2013年に2014年などの複数の時代にタイムトラベルすることで勝機をつかんでいくストーリーでもあった。
 すなわち、宇宙の彼方の田園惑星で枯れた農夫として隠居していた悪の超人・サノスは、すでにインフィニティ・ストーンに願ってインフィニティ・ストーンそれ自体を消滅させていたことが判明!
――日本特撮のマニア的には、並行宇宙を材としていた映画『ウルトラマンティガウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦』(99年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19981206/p1)にて、ゲスト子役が最後の最後に「何でも願いを叶える石」それ自体を自身の願いで消失させたオチなどもつい想起――
 コレで6個のインフィニティ・ストーンを奪取して、「喪われた全宇宙の半数の生命」を復活させる願いを叶える目論見も絶たれたかに見えたのだが、「インフィニティ・ウォー」の際にはノンキに量子レベルの超ミクロ化実験を行なっていたアントマンがその5年後(爆)、自身の体感時間で5時間ぶり(笑)に現実世界へと帰還する。そこで彼が語る「量子の世界」とは「時間の世界」にも通じているという真実でもあった……。


時間GPSによる時間泥棒作戦! 過去への介入で分岐並行宇宙が誕生!


 やや傷心でこの5年で家庭も持って娘もできたので、リベンジには乗り気ではない大企業の天才社長・アイアンマンの躊躇は本稿では端折るけど(汗)、マッド科学者コンビでもある超人ハルクおじさん&アイアンマンおじさんのがんばりで、「メビウスの輪」の原理も援用して、ついには「時間GPS」(なんつー通俗的なネーミング・笑)なる超アイテムの製造にも成功!
――「メビウスの輪」といえば、その原理で空間自体を湾曲させるハイテク装置を造って、3次元空間のウラ側にある異次元空間へと移行して、宿敵との最終決戦に挑んだ『ウルトラマンエース』(72年)#23「逆転! ゾフィ只今参上」(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20061012/p1)などもロートルは思い出す――


 そこで、黒鉄色のアイアンマン・マーク2ことウォーマシンの黒人おじさんが、映画『ターミネーター』(84年)・『スタートレック』(66年~)・『ある日どこかで』(80年)・『ビルとテッドの大冒険』(89年)などを例に挙げて(笑)、過去に戻ってまだ赤ん坊のサノスを殺害することで大破局を事前に回避する案を提示するけど、倫理的にも却下されてしまう(当然だ!)――本映画『アベンジャーズ』とは世界観を共有しないけど、同じくマーベル社のアメコミ洋画『X-MEN』シリーズの一編『デッドプール2』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180625/p1)では、そのネタを採用してたばかりなのに(汗)――。
 ついでに云うなら、「インフィニティ・ウォー」の直前の時間に戻って、ここ5年の歴史や各自の人生をなかったことにして歴史をヤリ直すという方策もまた、広い意味での宇宙の全生命の5年間分の人生に対するジェノサイド(虐殺)やもしれない? という疑問符が付くほどに、全員とはいわずともマニア観客の大勢もスレている。
――『仮面ライダービルド』(17年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20181030/p1)の終盤では、時間跳躍ではなく並行世界の地球同士をブツけることで、ここ10年ほどの歴史を改変する大ワザに出ていたけど、一部のスレたマニアたちからコレはジェノサイドだとの批判もこうむった。たしかに指摘の通りなのだが、個人的には衝突相手の並行世界の地球の歴史はそのまま変わらず、衝突はあくまで触媒にすぎなくて、『ビルド』世界の地球の歴史のみが改変されたのだと解釈したいところだ――。


 その疑問符に対する返歌か、アントマンが「『バック・トゥ・ザ・フーチャー』(85年)のタイムパラドックス観は間違っていたのか」と早くも35年も前の映画となってしまった今や殿堂の古典タイトルを挙げて嘆息もする(笑)。そう、本作では時間を遡行して過去を改変したとしても、そこを起点に分岐した並行世界が誕生して、そちらが別の歴史をたどるだけであり、自身が元いた世界の歴史が変わるワケではないという時間跳躍原理が採用されるのだ!


 ココが本作のスゴいところだとの感想も聞いたけど……。いやいやいやいや。「親殺しのパラドックス」を回避するための、今やジャンル作品ではむしろ主流のタイムトラベル観でしょう。
 今では振り返られることも少ないけど、80年代に一世を風靡した『幻魔大戦』シリーズ(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20160521/p1)などでも、漫画版や小説版に『新幻魔大戦』や『真幻魔大戦』の関係性を、時間跳躍者や高次元存在でもある神のごとき宇宙意識の介入による歴史の分岐の結果だとしていたネタは、日本SFでも70年代末期にはすでにある。


 幾つものルートを遊び倒すことから生じる趣向、いわゆる『ゲーム的リアリズムの誕生動物化するポストモダン2』(07年・ISBN:4061498835)もズッと飛ばして時代が降ったところでも、アメコミ洋画マニアの大勢が歯牙にもかけないどころか下賤なモノとして見くだしてもいるであろう(笑)、本作公開時にも絶賛放映中の日本の子供向けヒーロー番組『仮面ライダージオウ』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190527/p1)や、本作封切直前に完結した女児向けアニメ『HUG(はぐ)っと! プリキュア』(共に18年)でさえもが、未来からの現代への善意や悪意による歴史介入の結果として、2つの未来線が誕生してしまうというネタはすでにやってみせている。
 どころか、2つの未来から異なる人生をたどったパラレル存在同士が来訪して現代を舞台に対決したり、分岐した未来で誕生した美少女アンドロイド(プリキュアの途中追加戦士)が、並行世界での自身の心&記憶を一部継承したかのような描写で――おそらく彼女のAIは量子コンピューター――、クールなSF性&ハートウォームなドラマ性を両立させる描写までをも達成していたりもする。


 よって、過去は改変できないので、現代を起点に大改変を試みるという方針で決定! それは、過去の時点ではまだ消滅はしていないインフィニティ・ストーンを現代へと取り寄せて、「喪われた全宇宙の半数の生命」の5年後のイマ・ココでの復活を祈りながら指パッチンをすることだ! そして、願望が達成され次第、即座にインフィニティ・ストーンを元の時代の元の場所へと返すことで歴史改変は起こさない! 名付けて「時間(タイム)泥棒」作戦!(笑)
――「時間泥棒」とはもちろん、『ネバーエンディング・ストーリー』(79年・84年に映画化)原作者としても有名なミヒャエル・エンデの著作で、むかしは日本の小学校の学級文庫にも必ずあった、女児が主役の懐かしの児童文学『モモ』(73年・86年に映画化)からの引用――。


西暦2012年・2013年・2014年への介入。分岐宇宙化は回避可能?


 で、アベンジャーズ基地内の巨大円卓上で、昭和の7人ライダーやスーパー戦隊、あるいは本作の数ヶ月前に封切りされたばかりで同じく歴史改変をネタにしていた『映画 刀剣乱舞』(19年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190323/p1)の刀剣男子たちのように、お揃いの白い制服甲冑に身を包んで様式美的な円陣(笑)まで組んだ多数のアメコミ・ヒーローたちが、映画『プリキュア オールスターズ』(09年~)での歴代プリキュア・シャッフルのように(笑)2~3人ずつで一組となって、過去の時代へレッツらGo!!


 彼らが向かう先の舞台は、作戦遂行可能性のリアリズムよりもファンサービス的な華々しさを重視する。すなわち、


・2012年の映画『アベンジャーズ』における大激戦の真っ只中!
・2013年の雷神ソー映画の第2弾『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』における北欧天上世界アスガルド
・2014年の映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』冒頭の遠宇宙の惑星!


 もちろんエンタメ活劇である以上は、物事がスンナリとうまく行き過ぎてもツマラない。過剰に重たくならない範疇での少々の困難も伴なうから、それとの落差で成功のカタルシスも増すというのが人間心理でもあり、コレを利用するのが物語一般の作劇原理でもある。
 2012年のニューヨークにある中国に忖度(爆)したチベット改めネパールの出張所(笑)で、のちにドクターストレンジの女師匠ともなる美人魔術師に、早くもインフィニティ・ストーンのひとつ、タイム・ストーンの一時拝借は阻まれる。
 ココで観客に対するダメ押しの念押しか、超人ハルクの懇願に対して、4年後にドクターストレンジが誕生する未来までをもすでに見通せている(!)女魔術師は、彼の誕生のためにもストーンは渡せないと主張して、彼女の手許からニューヨークの大空へと向かって伸びる「赤い飛行機雲」とその途中から分岐する「赤い飛行機雲」にて図示するかたちで、歴史改変で分岐宇宙が誕生してしまう原理が再度語られる。


 ただ、ココでの女魔術師は、時間介入で即座に分岐宇宙が誕生するのでもなく、タイム・ストーンをこの時間線の外に持ち出すような大事で初めて、分岐宇宙が誕生するようにも発言している!? それは逆に云うなら、些細な歴史改変に留まるのであれば分岐宇宙は誕生しないので、歴史改変は可能である、歴史は上書きされてしまうということなのであろうか? ならば、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も正しかった!?(笑)
 そして5年後の現在こと2023年と西暦2012年の間をアベンジャーズの複数名が往還する歴史ループが固定されることで、それは各人の主体的な自由意志の発露のようでも高次の視点で見れば運命・必然でもあったということにもなるのか!?――「歴史分岐する時間跳躍」/「歴史分岐しない時間跳躍」の並立もまた、『幻魔大戦』シリーズではすでに前例がある――。


 でもまぁコレも1回だけの歴史分岐に留まれば、観客も即座に理解ができる。2012年・2013年・2014年の3つそれぞれの時点で分岐が生じる可能性についてもまぁ理解ができる。しかし、各々の時代にインフィニティ・ストーンを返却しに過去へと介入する度に、さらに「返却された世界」と「返却されなかった世界」とに再分岐するやもしれない可能性までをも考慮する人間は早々いないと思う。あるいは、モヤッと念頭にはその疑問が浮かんでも、フツーは観客の脳髄の理解のキャパシティー(容量)もオーバーするとは思う。
 しかし、論理的には最低でも1+(3×2)で7通りもの並行宇宙が誕生してしまうハズだ。筆者のようなイジワルなマニアはそこをも選り分けて、ストーン返却が果たされなかったがために4年後の2016年にドクターストレンジも誕生せず、マルチバース(多元並行宇宙)のひとつでもある「暗黒次元」からの侵略で滅亡を迎える分岐世界が誕生する可能性も想起する。
 その場合、「自世界ファースト」に基づく別世界の地球人70億の大虐殺を惹起したことにもなってしまい、7世界のうちの3世界がストーンの返還がなされなかったがために破滅したやもしれないとも推測してしまう。しかし、そのような作品自体の重大な瑕疵ともなりうる非倫理的な可能性については考えたくはナイところだ(笑)。
 なので、スタッフたちの公式見解からはハズれていようが(?)、些事の歴史改変程度であれば、つまりはインフィニティ・ストーンを過去の時代の元の場所へ即座に返却すれば、歴史改変や歴史分岐は起こらないのだと見ておきたい。


 ここで、「歴史自体の復元力」というSF設定を持ってきて、大スジでは史実に類似した役回りを代替者が務めることで歴史が進む往年の映画『戦国自衛隊』(79年)を想起する。過去の時代に対しての悪党集団の干渉に対して正義のタイムパトロールを対置することでバランスが取れて未来の歴史改変も免れられているとするSF的エクスキューズも付けていた『未来戦隊タイムレンジャー』(00年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001102/p1)なども思い出す。
 つまりは、本作には分岐にならずに上書きとなる歴史改変も併存していて、よってドクターストレンジが誕生しなかったので滅亡を迎えた時間線の並行世界はひとつも誕生しなかったと解釈したいところなのだ。
――いわゆる「バタフライ効果」で、蝶々の羽ばたきの有無による空気変動でも、中長期スパンでは中和・相殺されて大局に影響がなくなるどころか、相違が拡大していくばかりであることがカオス理論的にも判明している現在、時間跳躍者が過去の時代に突如出現して、ある容積を占めることで空気がその外部に押し出される「バタフライ効果」も思えば、インフィニティ・ストーンを元の時代の元の場所に戻そうとも、やはり歴史は分岐せざるをえないので(汗)、「歴史自体の復元力」という概念自体もホントウは非科学的ではあるのだが……。
 この矛盾はソレこそ3次元物理法則よりも上位の高次元存在(神さま)などを措定して、それによる介入で「歴史自体の復元力」が働いたとでもするか、特定個人の過去へのタイムリープで局所的なループができること自体が、高次の視点で見ればあらかじめ定められていた運命・必然でもあったのだとしないかぎりは解消ができない――


2012年と2014年で弁護できない規模での改変! 分岐宇宙が誕生!


 ……なぞと考えつつ本作を鑑賞しつづけていると、2012年の映画『アベンジャーズ』の戦場で、2012年と2023年のふたりのキャプテンアメリカが鉢合わせしてバトルが勃発してしまう!(笑) マインド・ストーンの回収には成功するも明らかにイレギュラーな事態であり、もうココで歴史が変わっちゃっているよネ!?(汗)
 いやでも、2012年のキャプテンは2023年のキャプテンを偽物だと思っているであろうから無問題であり、あのときに偽物に遭遇したという記憶がキャプテンの個人史に上書きされただけで、あるいはそもそもソレこそが規定路線の運命だったことにもなったのだ! 先の映画『アベンジャーズ』では語られなかっただけの実話だったのだ! という弁護の余地もあるよネ? と脳内補正をしつつ、さらに鑑賞をつづけていると……。


 アイアンマン&アントマンはインフィニティ・ストーンのひとつ、スペース・ストーン(4次元キューブ)の拝借に失敗!(爆) どころか、映画『アベンジャーズ』の主敵であり雷神ソーの義弟でもある悪神ロキが、このスペース・ストーンを横取りして逃走してしまうのであった!
 オイオイオイ。あの映画にそのオチはなかったゾ! 明らかに歴史が変わっちゃっているじゃん!! ……後日ググってみると、ここで誕生した分岐並行世界を舞台に、悪神ロキを主人公としたTVシリーズが作られるそうである(汗)。
――昭和の時代に仮面ライダー1号&2号が悪の組織・ショッカーに敗退したという、分岐した歴史をたどった並行世界(分岐されずに上書きされた世界?)を描いた映画『スーパーヒーロー大戦GP(グランプリ) 仮面ライダー3号』(15年)ラストでは死亡したままで終わっていた『仮面ライダードライブ』(14年)の2号ライダー・仮面ライダーマッハが、ネット配信による映画の続編『仮面ライダー4号』(15年)において、幾度もの時間ループの果てにようやく復活を遂げるようなメディアミックス展開だったのですネ(笑)――


 仕方がナイので作戦変更、キャプテンアメリカ&アイアンマンは、まだ戦後25年目の1970年の米軍基地へと飛んで、そこに保管されていたスペース・ストーンをゲットしようと試みる! ココでご都合主義にもアイアンマンの父親や第2次大戦時にキャプテンアメリカの恋人でもあった女性高官がふたり同時に在籍していて、それと知られずカンタンな会話を交わしたり、隣室から万感の想いにカラれながらむかしの彼女を見詰めるのも人間ドラマ的には悪くない。


 雷神ソーはガーディアンズオブギャラクシーのアライグマ型チビチビ動物宇宙人と、自身の主演映画第2弾の2013年の北欧天上世界にタイムトラベルして、リアリティ・ストーンをゲットするついでに、後年の雷神ソー映画第3弾『マイティ・ソー/バトルロイヤル』(17年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20171113/p1)にて敵に破壊された神々の世界の巨大トンカチ型武器・ムジョルニアも失敬することで(!)、いま所有している手斧型武器・ストームブレイカーとの二刀流ともなる!
 ソーもやはり、今は亡き母親とも遭遇、この5年の失意で酒に溺れてブクブクに肥満して変わり果てた姿になっていたのにも関わらず、母親が息子だと直感的にすぐに気付いて、すべてを許して包容する姿もコテコテな展開ではあるけれど、やはり感動的でもある。


 2014年の外宇宙惑星に向かったのは、実は悪の超人・サノスの娘でもあり(!)、ガーディアンズオブギャラクシー映画第2弾『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』(17年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20170513/p1)にて緑色の宇宙人である姉との激闘の末に改心を果たしたスキンヘッドの青いサイボーグ少女・ネビュラ嬢。改造アイアンマンことウォーマシンおじさん、共に黒ずくめの服装で身を包んでいる超人ではなく優れた身体能力を持つ人間にすぎない弓の名手・ホークアイ、ロシアの女スパイ上がりのブラックウィドウもコレに従う――毎度のことだけど、地球人にも呼吸可能な大気がある惑星なのですネ(ガチなツッコミではないので、念のため・笑)――。
 ところがドッコイ、今時のサイボーグなので5G(ファイブ・ジー)やWi-Fi(ワイ・ファイ)の電波を通じて(ウソです)、2014年と2023年のネビュラ嬢が電脳ネット経由で同調して、時間泥棒作戦が2014年にはまだ存命中でヤマっ気も脂っ気もあった悪の超人・サノスにもバレてしまうのだ!(爆) ココでも歴史が分岐しちまったヨ!


 なぜにそのような「機内モード」に設定しない初歩的なミスを? なぞとは云ってはイケナイ。劇中人物が何らかのヘマやポカをやらかしてくれるからこそ、起伏のあるドラマが作れたり、ディスコミュケーションから来るのちのちの大バトルが描けるワケである。
 地球・白色彗星帝国・ガミラス帝星の実力者が偶然そろった場で、白色彗星帝国の次代の大帝候補でもあり地球人との和解も考えはじめたミル青年が、そんな事情は知らずにガミラス総統を救おうとしたガミラス特殊部隊に射殺されてしまうからこそ、宇宙戦艦ヤマト2202と超巨大戦艦との総力戦にも持ち込めるのだ(笑)。往年の東映メタルヒーロー『特捜ロボ ジャンパーソン』(93年)#37「正義vs(たい)愛」みたく、ゲストの悪役ロボットが正義に目覚めたのかと思ったそばから悪党が機械で洗脳するからこそ、ヒーローとのバトルにも持ち込めるし悲劇性も高まるのだ。
 「フィクション」とはフランス革命前の18世紀の啓蒙主義的な「理性」や「合理」が支配するモノでは毛頭なく、20世紀初頭に発見された「無意識」や「リビドー」が優先される、本質的に「下世話」で「不謹慎」なモノなのだ(笑)。


生命復活の目的は達成! 2014年の過去から大軍団も襲来してラストバトル!


 2023年のアベンジャーズ基地に帰還したメンバーが持ち寄った6つのイニフィニティ・ストーンを、アイアンマンが手っ甲にハメて指パッチンするや、世界は鉛色の重さを脱して急に騒がしくなる。そう、喪われていた「全宇宙の生命の半分」が復活を遂げたのだ。とはいえ、このままハッピーエンドで終わったならば詐欺である(笑)。
 この直後に2014年の時点から分岐した直後の並行宇宙から飛んできたサノスの宇宙戦艦群&大軍勢にアベンジャーズ基地が襲撃されて巨大なクレーターと化す! そして広大な窪地と化したCG背景の戦場にてはじまる肉体ガチンコ大バトル!
 しかして「インフィニティ・ウォー」で消滅したアベンジャーズの面々・ワカンダ国軍・北欧天上世界アスガルド軍・宇宙海賊ラヴェジャーズの艦船らも次々と復活! 同じく復活を遂げたドクターストレンジが宙空に無数に出現させたドラえもんの「通り抜けフープ」(笑)を通じて続々と参集してくる強者集結のカタルシスも味合わせてくれる!


 アベンジャーズのリーダー・キャプテンアメリカによる、結局は日本の歌舞伎的様式美とも同じじゃネ? と思える、おなじみの「アベンジャーズ! アッセンブル(全員集合・攻撃開始)!!」の号令とともに、第2次関ヶ原の合戦がはじまる! 各ヒーローに見せ場も与えた尺もボリュームもいっぱいの二転三転する大バトル!
 コレコレ、コレですよ! 単なるヒーローものじゃない、バトルものじゃない、ドラマも人間も描かれている、社会派テーマやリベラル左派的な多様性ガー、とマニア諸氏は云うけれど、やはりそれは最終バトルを成立させるための言い訳か、でなければ最終バトルを感情面でも盛り上げるためのキャラの動機付けにすぎなくて、所詮はヒーローものとは民主的な話し合いではなくバトルで決着させる英雄崇拝・前近代的・封建的なジャンルに過ぎなくて(笑)、身体の拡張感、身体を自由自在に動かして状況もリードしていく身体性の快楽、幼児的な全能感・万能感を満たすためのジャンルなんですよ!――もちろん倫理的にも許される「暴力」の発露の条件付けとしての「正義」の探求も二次的にはあるとも考えますけれど――


 そしてバトルは、6つのインフィニティ・ストーンをハメてあるアイアンマンの右腕巨大化版みたいな手っ甲をめぐる争奪戦ともなっていく。日本のロボットアニメ『マクロスF(フロンティア)』(08年)最終回(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20091122/p1)みたく、亡き戦友の銃器を仲間たちがバトンリレーをしていった果てに最後の一撃を決めていたように、それで武器の性能や威力がアップするワケでもナイけれど、ひとりの超絶ヒーローがいればソレだけで充分だよネ! ということではなく、この場にいた他のヒーローたちも欠けることなく有用であったと思わせて、物語的にもシンボリックな次元で、その手っ甲にヒーローたちの想いが込もっていくかのようなバトンリレーが繰り広げられた末に、最後の勝利の時を迎える!
――イジワルに見ればアリガチな既視感あふれる展開だともいえるけど、ヒトの心に感動をもたらす普遍・王道・鉄板なのだともいえるのだ!――


寂寥の終幕 キャプテンアメリカが最後の最後で分岐並行宇宙を創造!?


 戦い済んで陽が暮れて、『アベンジャーズ』の2トップであるアイアンマンとキャプテンアメリカの退場・引退劇も描かれる。そう来たか。インフィニティ・ストーンの返還劇を端折るのも、物語の構成バランス的には正しいとも思う。
 ラスト、過去の時代へストーンを返還しに旅立ったキャプテンが帰ってこない。どころか老人と化したキャプテンがベンチに座っている(汗)。エンドクレジットでは1950年代っぽい邸宅&風景の映像とオールデイズな音楽が鳴りだすことで、のちにスーパーヒーロー管理組織の上官ともなった第2次大戦中の恋人との蜜月が「70年間の冬眠」で果たせなかった後悔を、DC社の『スーパーマン』(1938年)並みのキマジメ誠実ストイックなヒーローで「私」よりも「公」を、高潔な神に近き存在だけが持ち上げることができるという雷神ソーの巨大トンカチも本作ラストバトルではラクラクと持ち上げて使いこなしてもみせたキャプテンアメリカが、はじめて「公」よりも「私」の方を優先し、その人生をタイムトラベルに便乗してヤリ直していたことも示唆される。今まで散々に公的な使命に我が身を捧げてきたのだから、慰労の意味でもココで私生活を充実させても誰もが許すであろうけど。
――とはいえ、映画『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(16年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20160701/p1)では、暴力装置とも成り得るヒーローたちを管理する機関の下に付くことをよしとせず、開拓民的な自主独立を重んじる気風からも、そのポリシーは「大きな政府」の「福祉互助」的な「民主党」ではなく、「小さな政府」の「自助努力」的な「共和党」といった感じではあるけれど……(両党に対する党派的な優劣の話ではナイので、くれぐれも念のため。筆者個人は双方の政治理念に一理があるとも思っている)。
 正しい「歴史」の護持が目的であったハズなのに、矢も楯もたまらずに眼の前の「人道」を優先させることで「カタルシス」と同時に「歴史改変」をも惹起していく『未来戦隊タイムレンジャー』後半&幕末にタイムスリップした医師の尽力を描いたマンガ『仁―JIN―』(00年・09年にTVドラマ化)等々もまた想起――


 歴史に大きな支障が出ないのであれば、歴史は分岐せずこの時間軸の世界でキャプテンは静かに暮らして、晩年には自身も含むアベンジャーズの激戦の歴史をヨコ目に眺めて、しかしてかつての恋人とは早々に結ばれていたという歴史の上書き微改変があったのやもしれない。
 この解釈にはムリがあるというのならば、分岐並行世界では恋人と結ばれることは果たしても、それからでも約80年の人生を送った末に、タテ移動の時間跳躍ではなくヨコ移動の並行世界跳躍を行なって、我らが住まう元の時間線の世界へと戻ってきたのやもしれない……。
――コレまたヤボだけど、並行宇宙をまたがった跳躍に、「仮面ライダージオウ世界」・「仮面ライダービルド世界」・「ライダーがTV放映されている現実世界」の3つの並行世界を斜めに何度もタイムトラベルしていく昨冬の映画『平成仮面ライダー20作記念 仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVER』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190128/p1)などもまた想起――


 想像が膨らむところだけど、この美しい結末を台無しにして尻を叩いて催促をするようなことを云わせてもらえば、分岐した並行世界の1950年代・60年代・70年代などの東西冷戦下を舞台に、東側と戦うキナくさい『キャプテン・アメリカ』の続編映画も製作していってほしいところだ(笑)。
 ……その世界でも戦中に氷結していたパラレル存在のキャプテンアメリカが70年後に目覚めて、かつての恋人が自分そっくりの男と結婚していても、彼はやはりストイックに正義の味方に徹して「インフィニティ・ウォー」を駆け抜けたとも思うけど……。最後の最後に過去に戻って恋人との人生をヤリ直す余生の選択肢を採ることはなくなりそうだナ(汗)。
 各分岐世界の2018年でも悪の超人・サノスによる「インフィニティ・ウォー」が勃発して、各々が「時間GPS」で2012年・2013年・2014年の時点に戻ったら、分岐後の2013年と2014年は問題がなくても、2012年だけは未分岐の世界なので各位がバッティングするんじゃネ? とも思うけど……もうこの件はふれないでおこう(笑)。


・2012年で悪神ロキが脱走することで分岐した世界は、番外TVシリーズ『ロキ』で描かれていくらしいことは先にも言及した通り。
・2014年のサノスが2023年の並行未来で返り討ちにされた分岐世界では、2018年の「インフィニティ・ウォー」も起こらないので多分問題は少ない。
・2013年の世界からはきっと分岐も発生しなかったのだと思いたい。
・とはいえ、2012年・2013年・2014年各々の時点から分岐宇宙が誕生した可能性も否定はしきれない。
・ストーンが過去の時代に返却された際に、同時に返却されなかった世界も誕生して、それが滅亡を迎える事態は想像したくないので、返却時は分岐が生じなかったと思いたい。
・1945~50年ごろからキャプテンの介入で分岐したやもしれない世界については、先にも説明した通り。
・ドクターストレンジが予測した1400万604通りの悪の超人・サノスに敗北する可能性はあくまでも可能性であって、並行宇宙としては実在していないと思いたい。


 ……といったところだけど、もちろんその時々の作り手の意向・後付け設定の方が優先されていくであろうから、最終的には筆者もそちらに従います(笑)。


独立した作品でありつつ、同一世界を舞台に連続性も保持した「世界観消費」


 原典たるアメリカンコミックでは1960年代から実現していたスーパーヒーローの共演劇を、実写映画でも再現した2008年の映画『アイアンマン』にはじまる『アベンジャーズ』は2トップの退場で一旦の終了となった。しかし、間髪置かずに公開されるアベンジャーズスパイダーマン主演映画の第2弾『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』(19年)では予告編を観るかぎり、本映画の決着を受けたあとの「傷心」と「時空の混乱」が描かれることで、観客のちょっとした知的・マニア的な関心の継続を惹起する戦略を採っているようでもある。


 実のところ筆者は、ヒーロー大集合映画『アベンジャーズ』シリーズよりも各々のアメコミヒーローが単独主役を張った作品群の方が、起承転結のメリハリやドラマ性&テーマ性の面においても出来がイイ作品が多いとも思っており、実は本作の前作たる前編『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180619/p1)に至ってはツマラなかったとすら思っていたりもする(爆~熱烈なファンの皆さまには申し訳ございませんけど)。
 そんな筆者は近作を例に取るならば、本作よりも『ブラック・パンサー』(2017年・初出は1961年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180607/p1)や『スパイダーマン:ホームカミング』(2017年・初出は1966年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20170901/p1)に、世評は低いようだけど『ドクター・ストレンジ』(2016年・初出は1963年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20170504/p1)の方が出来がイイと思うし、心の底から楽しめる傑作だとも思っている。
――もっと云うなら、ヒーロー大集合映画としてなら、テイストはチャイルディッシュでも、シーソーバトルの組み立て方&各キャラの立て方での純・技巧面では、女児向けアニメ映画『プリキュア オールスターズDX(デラックス)』シリーズ初期3部作(09・10・11年)の方が『アベンジャーズ』シリーズよりも出来がイイし、神懸かった大傑作だとも思っていたりもするけれど(爆)――


 平成のはじめに、オタク第1世代の評論家・大塚英志はその著作『物語消費論』(89年・ISBN:4788503360ISBN:4044191107)で、ある作品の「前日段」や「後日談」に「番外編」、さらにはその世界の「地図」や壮大な「歴史」を作ることで、作者や読者に自動的に「物語」や「二次創作」を次々と製造させやすくなり、虚構の世界で人々を中長期に渡ってアキさせずに享受させることが、将来のエンタメ・ビジネスの主流になるとも主張して、コレを「物語消費」と名付けていた。
 そして、それらの萌芽がシリーズをひとつの歴史として連結した昭和の1970年代のウルトラマンシリーズやら学年誌での後日談マンガ連載にウラ設定の開示であるとして、TVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20101207/p1)や『機動戦士ガンダム』(79年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19990801/p1)に『ビックリマン』(87年)などの劇中に叙事詩的な壮大な歴史を持つ作品群をそれらの結実としていた。
 個人的にはコレは「物語消費」ではなく「世界観消費」と呼称するのが正しいとも思うけど、スケール雄大な大陸のごとき「世界地図」的な世界観 & 善と悪とが絶えることなく闘争を繰り広げてきた「架空の偽史」に対してワクワクするような気持ちは、個人的にも実感としてよくわかる。


 オッサンの筆者が子供であったころの1970年代にも、円谷プロが創立10周年を記念してウルトラマンシリーズのみならず自社製作の『ミラーマン』(71年)やら『トリプルファイター』(72年)などの各種ヒーローなども、「銀河連邦」の名の元に同一世界での出来事だと設定する展開が見られたことがある――継続はしなかったけど――。
 今のテレビ朝日にて70年代中盤に放映された、舞台の公開収録番組でも、『仮面ライダー』や『秘密戦隊ゴレンジャー』に『がんばれ!ロボコン!!』やら『超電磁ロボ コンバトラーV』に『一休さん』(ひとりだけ室町時代!・爆)などが共演して、悪の組織と激突する特別番組が幾度かあって、その夢の共演にはワクワクしたものだ。
 思えば、我々も幼少時には番組の垣根を超えて、あまたのソフビ人形で今で云うところの私家版「スーパーヒーロー大戦」やら「アベンジャーズ」、善の軍団vs悪の軍団との抗争劇を日々飽きもせずに高揚しながら友人たちと繰り広げていたモノである。


 もっとさかのぼれば、それぞれが主役物語を持っている江戸時代初期の剣豪、宮本武蔵・息子の宮本伊織・荒木又右衛門・宝蔵院胤舜柳生宗矩柳生十兵衛らが大集合してバトルロイヤルする江戸~大正期にかけて成立した講談『寛永御前試合』などもある――コレのオカルト翻案版がかの山田風太郎の伝奇小説『魔界転生』(64年・81年に映画化)――。
 ゲーム「スーパーロボット大戦」(91年)的な強者集結の発想は、日本にも200年近くも前からあるくらいなのだから、古今東西ドコの国でもありそうではある。


実はかつて日本でも「世界観消費」が隆盛を極めていた! 今こそそれらの復活を!


 1970年代には、『ウルトラマン』(66年)や『仮面ライダー』(71年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140407/p1)や『人造人間キカイダー』(72年)に『マジンガーZ』(72年)などの作品群が、続編シリーズ作品を通じてその世界観を共通のモノとしていたり、映画では『マジンガーZ』や『デビルマン』(72年)と『ゲッターロボ』(74年)などが共闘したりもしていた。
 映画『ジャッカー電撃隊VS(たい)ゴレンジャー』(78年)冒頭では、仮面ライダーV3(73年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140901/p1)がヨーロッパで、キカイダーはモンゴルで、仮面ライダーアマゾン(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20141101/p1)は南米で戦うことで、コレらの作品を同一世界として描いて、往時の子供たちをワクワクさせてもいたモノだ。


 しかし、70年代末期~00年代初頭にかけては、オタク第1世代がオタクジャンルの市民権を得ようと活動した際の理論武装として、既知のモノではない未知なるモノとしての「ヒーローの神秘性」やら「怪獣の恐怖性」というテーゼが、高いテーマ性を持つものとして至上の原理とされることで、「一回性」・「初遭遇」が賞揚されるようにもなっていった。
 なおかつ、往時はジャンル系マニアのみならず世間の映画マニアたちも今から思えばまだまだ純朴であった時代というべきで、「続編」や「PART2」に「シリーズ」作品が商業的には大ヒットを収めていたとしても、割り切ることができずに「それは堕落である!」とクソミソにケナしていたようなアオくさい時代でもあったのだ。
 そこから、リセット的なリメイク作品が賞揚されるようにもなり、たとえリセット作でも平成ゴジラ平成ガメラのようにそれらが連続シリーズ化の様相を呈してくると、それは設定の縛りにもつながり、作劇の自由度が少なくなるとも批判をされてきたモノだ。
 しかし、それらの言説やテーゼは果たして正しかったのであろうか? 無謬の尺度であったのであろうか? ある時期までのジャンルの再興にとっては非常に有益でも、それ以降はジャンルの豊穣さを否定する狭さへと帰結したのではなかろうか?


 いやまぁ完全リブートされた『シン・ゴジラ』(16年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20160824/p1)が超特大ヒットを放ったり、長命SFシリーズ『スタートレック』が低迷してきたところで、仕切り直した中点付きのタイトルのリブート映画『スター・トレック』(09年)がヒットした例もあるので――後者は厳密には原典とは並行宇宙の関係でつながってもいるけれど――、ドチラの手法であっても面白ければ、あるいは売れればそれでOKではあるので、100か0かの関係ではナイし、完全リブート作でも面白ければ大いに評価はする(笑)。
 しかし、個人的には「世界観消費」の方向性にこそ、人々をよりワクワクさせる豊穣な可能性があるのだと感じていて、日本のジャンル作品も大局・大勢としてはそこに向かうべきだとも考えている。


 円谷プロウルトラシリーズは00年代末期~10年代中盤には、バンダイから出向してきてTV番組『ウルトラマン列伝』(11年)を宣伝するための「列伝ブログ」も担当していたプロデューサー氏が主体となって事が進んでいたと推測しているけど、氏が担当していた時代の作品群は作品世界も越境した「世界観消費」の面白さもそれなりにあったとは思うものの、フリーの若手プロデューサー氏に交代してからは、氏も頑張っているとは思うものの、そのインタビュー記事などを読むかぎりでは、「先輩ヒーローには頼らないでも楽しめる作品としたい」旨を語っていて(爆)、それはそれでその志は壮とすべしだけど、中盤回や映画版では先輩ウルトラ戦士や近作の悪党たちこと「円谷のヤベ~やつら」四天王(笑)もゲスト出演させて、キャラ人気的なイベント性の方をこそ重視していった方がイイとも思うゾ~。


 東映も「ライダー」や「戦隊」に過去の東映ヒーローたちをも同一世界の存在として扱う、2代目・宇宙刑事ギャバン(12年)を主役とした『スペース・スクワッド』シリーズ(17年~)を展開しているけど、コレも東映全体ではなく子会社・東映ビデオの好き者プロデューサーと『パワーレンジャー』で凱旋帰国した坂本浩一カントク主導に過ぎないようでもあるので(?)、散発的な試みに終わっており、非常にモッタイないとも思う。
 東映全社が一丸となって、計画的に現行「ライダー」や「戦隊シリーズ」にも1クールに1回は、2代目ギャバンや2代目・宇宙刑事シャイダーに、彼らの宿敵でもある邪教団・幻魔空界の敵幹部やら敵怪人たちをもゲスト出演させることで、子供たちにもその存在とヒーロー性を認知させ、現行TVヒーローと番外ヒーロー世界との二層的な構造の連続性も持たせることで、子供レベルでの知的好奇心・ジャンク知識収集欲をも喚起して、春休みの大集合映画などでは彼ら2代目宇宙刑事や先輩東映ヒーローたちとも一致協力・団結して巨悪に立ち向かう! という方向へと持っていくべきではなかろうか?


 昨2018年度の女児向けアニメ『HUGっと! プリキュア』もこの手法で、10月の映画公開3ヶ月前の7月にはもう初代『ふたりはプリキュア』(04年)をゲスト出演させて、映画の宣伝CMも流しはじめて(笑)、映画封切直前には歴代プリキュア全員集合の前後編大バトル回も配置することで、同じく歴代プリキュアが全員集合した『映画HUGっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』をシリーズ最高の興行収入に押し上げてもいるのだから……。
 「ウルトラ」や「東映特撮ヒーロー」もコレを見習うべきだと強く主張をしたいのだ!(笑)


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2019年初夏号』(19年6月16日発行)~『仮面特攻隊2020年号』(19年12月下旬発行予定)所収『アベンジャーズ/エンドゲーム』合評2より抜粋)



2019年6月18日(火)後日付記:ナンと! 本日レイトショーで観た、ラノベ原作(14年)の深夜アニメ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』(18年)の後日談映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』(19年)が、映画の神様のイタズラか、『アベンジャーズ/エンドゲーム』とほぼ同じネタ・お題でビックリ! 量子力学で一応の補強が施されているあたりも同んなじ(テイスト自体はベタつかないけど甘酸っぱい青春なので、全然ちがいまますけれど・汗)。 


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ブラックパンサー』 ~アメコミ黒人ヒーロー映画で傑作だが、新型のPC・黒人搾取でもあるか!?

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ドクター・ストレンジ』 ~微妙な世評が多いが、かなり面白い!

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ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』 ~世界的に好評だが私的にはイマイチ。軽薄ヒーローもの全般にいえる作劇的弱点!

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私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い! ~連載8年目にして人気再燃の理由を探る!

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』『琴浦さん』 ~2013年3大ぼっちアニメ評
『惡の華』『ローゼンメイデン』『琴浦さん』『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』 ~2013年4大ぼっちアニメ評
『トクサツガガガ』(TVドラマ版)総括 ~隠れ特オタ女子の生態! 40年後の「怪獣倶楽部~空想特撮青春記~」か!?
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ボッチ漫画『私モテ』連載8年目にして人気再燃の理由を探る!


(文・T.SATO)
(19年5月25日脱稿)

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』第1巻~第7巻


 今どき髪も染めてない――オッサンの筆者には全然OKだけど――、ボサボサではないもののキチンとセットされているとも云いがたい各所の先っぽがハネた黒髪。チビで痩身・貧弱なツルペタ体型。ヒザより下に垂らした改造してない長めの制服スカート。
 垂らした前髪の影からのぞく片目は気弱そうで覇気がなく、かつ濁ったヒトミが浮かび。無表情ではないけど顔色が悪くて乏しい表情。トドメは眼の下に少々クマ(笑)ができている!
 元々シャイな性格なのでコミュ力には恵まれず、そのことを本人も自覚しているので、他人――同級生や教師や店員――に語りかけられると、ますますドツボにハマって対人恐怖&滑舌の悪さで卑屈にシドロモドロ……。


 そんな女子高生・黒木智子こと通称・モコッチの高校でのトホホな(ひとり)ボッチ生活や、リア(ル)充(実)なクラスメートたちへの呪詛の数々に、彼女の同類でもある我々オタ――のそのまた一部――は「あるある」「そうそう」と共感しつつも、劣等感の傷口に塩をなすりつけられて痛みがジワリと拡がり「アアッッ!!」と絶叫したくなる思いにカラれながらも本作を愛読してきた(笑)。
 震災があった2011年に原作マンガの連載がスタートし、2013年夏季クールで深夜アニメ化も果たされた作品も、今年2019年で9年目。深夜アニメ化からでももう6年。2010年代のディケイド(10年紀)をまるまる駆け抜けてきたこととなる。


 そんな作品がここ2年ほどで再ブレイクを果たしているという。紙媒体の書籍の売上も深夜アニメ化を機に当時刊行済であった1~3巻(12年)が各巻25万部を達成したのをピークに5巻(13年)が13万部、6巻が11万部、7巻(共に14年)が8万部、8巻(15年)が6万部、飛んで11巻(17年)が3万部(汗)にまで落ち込んでいたというのに、感動の大傑作とも目されて個人的にも滂沱の涙を流しながら嗚咽にむせびつつ読み進めた――だからホントだってばヨ(笑)――12巻と13巻(共に18年)では4万部超えを達成して早々に増刷も決定したというのだ!
 「最盛期と比すれば少ないじゃん!」というなかれ。この売上に電子書籍は含まれてはいないという。この10年間で電子書籍が紙媒体の売上をはるかに上回り、近年のマンガ書籍の売上ランキングでも『私モテ』新刊が上位に頻出し、各サイトでも取り上げられて、アマゾンのユーザーレビュー数でも一般的な人気マンガをはるかに上回る数百もの絶賛コメントが奇跡の第12巻には寄せられていることを思えば、その売上はVの字回復を果たしていると見るのが妥当なのでは!?


 しかし、深夜アニメ化6年や連載9年程度では我々オッサン世代にはつい最近のことに思えてしまうけど、その感慨をストレートに出してしまうのは老害というヤツで(爆)、小学生が中高生や大学生に、中高生でも社会人に達してしまうほどの実に長い歳月が流れたことになる。よって、読者側の「世代交代」による作品の「再発見」が再ブレイクの主因なのであろう。
 だけど、その「再発見」の内実を腑分けしてみると、『私モテ』本来のオリジン・起源自体が評価されているワケでもないことがわかる。どころか、「ボッチもの」ではなく「百合もの」としてカテゴライズする向きさえある。加えて、初期の『私モテ』でさえもヘビーに過ぎて苦手意識を持ってしまい敬遠してきた古参のマンガ読みたちが、「ボッチもの」から少女たちの「群像劇」への華麗なる変身を遂げて以降の『私モテ』に改めて飛びついている事象も多々見受けられるのだ。


 つまりはもう古き良き(?)「ボッチもの」としての『私モテ』は存在しないのだ。なので、往年の『僕は友達が少ない』(09年・11年に深夜アニメ化)やあまたのボッチ作品とも同様に、「オマエ、友だちいるじゃん!」「クラスで級友たち(の一部)ともしゃべってるじゃん!」というツッコミも可能とはなっている。
 この変化に自身の変わらぬミジメでボッチな現状との乖離・彼我の差を鑑みて、『私モテ』に「裏切られた想い」をしている古参ファンもいるようだ。……わかる! その気持ちも実によくわかるし、正当なモノですらあるとも思う! だから、路線変更後の『私モテ』を罵るファンの気持ちもムゲにはしたくないし、むしろ尊重したいとすら思う――そーいう連中こそが最も実生活でも生きがたさ・生きにくさで苦しんでいるのであろうから――。
 そんな彼らに衷心・満腔からの共感・同情・共闘の意を示しつつ、そして初期『私モテ』も大スキな筆者ではあるものの、この華麗なる変身を遂げた「路線変更」後の『私モテ』は作品を延命させて、読者層をコア層からややライト層へと拡大、なおかつテーマ表現を高めることにも見事に成功したとも思う。


 それはやはり、ボッチ「あるある」ネタだけを延々と続けていくだけでもルーティン・ワークに過ぎるし――筆者個人はそれでもよかったのだけれども(笑)――、いささかネタが尽きてきたところもあったからではあるだろう。もちろんそのことに作者や編集者も気付いて確信犯で徐々に「路線変更」を試みてきていたとも思われる。
 たしかに、別の高校に進学して地味娘から美少女への高校デビューに成功するも、それをハナにかけない気立てのイイ少女のままでいる中学時代の旧友・ゆうちゃんや、3歳年下でかつてはモコッチに憧れるも中学に進学してモコッチのボッチな正体に気付いて(爆)それと悟らせずにモコッチの庇護者のようにふるまい出す従姉妹のキーちゃんは序盤からイレギュラー的には登場していた。


 しかし第5巻からは、主人公・モコッチの鏡像キャラともなりうる登場人物が投入される。それがモコッチと同様に、チビで痩身・貧弱なツルペタ体型の黒髪ショートの地味なメガネ女子・小宮山(こみやま)さんだ。モコッチとは別のクラスに在籍する図書委員でもあり、昼休みや放課後には図書室で司書を務めているあたりが「いかにも」な我々オタの近縁でもある人物造形。それによって、スクールカースト底辺キャラ同士で互いに心と心が通じ合って、傷をナメあう道化芝居の遠回しな自己憐憫ドラマが構築されるのか!? ……と思いきや、この作品は基本的にはややブラックな笑いを主眼とする作品なのである。よって、この両者は互いに底辺同士としてドチラがよりマシな境遇なのかをめぐって、そーした言葉を発することなく意地やミエを張り合うのであった(笑)。
 なお彼女は、先のゆうちゃんを介して中学時代はモコッチと3人でつるんでいた仲間でもあった――もちろん後付け設定――。しかし、小宮山さんはモコッチのことを覚えてはいても、クズなモコッチは小宮山さんのことはすっかり忘れていたという設定にする(爆)。ならば、小宮山さんはモコッチよりも少々マシなのかと思いきや、そーでもない。学校では地味娘でもその私服は痛々しい鎧った自意識を感じさせるパンクロックファッション(!)。そして奇遇にも、ボッチ作品『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(11年・13年に深夜アニメ化・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20150403/p1)とも同様に、オタクの聖地・幕張メッセがある海浜幕張駅周辺を舞台とした本作の地元プロ野球チーム・千葉ロッテマリーンズの大ファンでもあり、野球の話をするときだけは早口でまくし立てるというキャラ立てともする。かてて加えて、モコッチの弟でありながら異性にモテモテのサッカー部の好青年男子・智貴(ともき)クンに変態チックにご執心であるサマも描くことで、本作をルーティンに陥らせないための新たなギャグパターンもココにて放たれた(笑)。


 後続の巻では、智貴クンに恋慕する下級生ライバル女子生徒も登場。小宮山さんとモコッチの奇行に巻き込まれて、告白代わりに「智貴クンのオチンチンが見たいな」(汗)なるゲスな発言をさせられることでイレギュラーキャラ化。小宮山さんが智貴クンの姉(爆)でモコッチが智貴クンの恋人(爆爆)だと誤解したままのシチュエーションも継続させることで、以降は同様のディスコミュニケーション・ギャグが散発されるようにもなっていく。


 しかし、この時期の試みはいまだ「群像劇」としてのモノであったとはいえない。むろんのこと、モコッチのクラスメートたちに至ってはその内面・主観が描かれることすらなく、あくまでもモコッチ目線から見た風景・モブキャラとしての扱いに過ぎなかったのだ。時には休み時間はゲームに興じる学級カースト底辺のオタク男子たちの集団に混じれれば、女性免疫がないウブな男子だけが集うガラパゴス落差も利用して「オタ(ク)サー(クル)の姫」として君臨できるやも!? と妄想しつつも、同族嫌悪からの底辺競争、オタク男子たちよりもワタシの方がまだマシだ! というチンケな差別意識でモコッチが自尊心を満たそうとしているサマがまた、身に覚えがありすぎて泣けてくるのであった(笑)。

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私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』第8巻


 しかし、第8巻たる高校2年の秋を舞台とした京都への修学旅行編で、今思えば「路線変更」後のタネがまかれる。
 修学旅行での自由行動時にだけ許可される私服。外見なぞはその人間の本質ではナイとは思ってはいても、若者みながボタンシャツ&Gパンであった1970年代までとは異なり、1980年代中盤以降の高度大衆消費社会化で服飾も多様化、そこで差異化競争に励んでしまう先進各国の圧倒的大多数のファッション&スイーツなミーハー連中はそのような殊勝なことはツユほども思ってはおらず、そこでダサいカッコウをしようものなら何を弁明しようともさらなる劣位に置かれることは必定である(汗)。
 そこでモコッチも仕方なく近くのショッピングモールに買いものへ行くのだが……。時期が時期であるだけに同目的の母校の生徒や同級生らを見かけて気マズい居たたまれない気持ちになってしまい(爆)。


 新幹線で京都に行くのに、トイレから帰ってきたら自分が座っていた座席が仲良しグループたちに占拠されており(爆)。居場所がなくなったモコッチが車両と車両の間のデッキに向かい、そこで時間を潰そうとしたら他クラスの同族嫌悪の対象・小宮山さんとも遭遇し、小宮山さんもモコッチの現状を察するも、しかして自身の窮状を悟られまい・見下されまい、あるいはたとえ善意からのモノであっても憐れみの目で見られることは自身のプライドが許さない! とばかりに咄嗟にミエを張ってしまう(爆爆)。
 このあたりは、個人的には痛苦しくて物語的には大スキなシチュエーションでもあり含蓄にも富んでいるとは思うけど、本作においては既視感がある定番のシーンでもある。
 よって、やはり定番でアリすぎるがためか、修学旅行の班決めシーンは、モコッチ自身がドコの班にも誘ってもらえずミジメに間接的な人格否定をジワジワと宣告されていく拷問の1時間を回避するために、ズルして早退をすることでオミット!(笑)


 翌日に登校するや、モコッチが修学旅行で同班するメンバーが明らかとなる。しかも体育会系・女担任のお膳立てで、モコッチが班長にすらなっている(爆)。そして、クラスのアブれ者が集ったというその班のメンツとは?


・黒髪を左右二つ結びのオサゲにしたローテンションな無表情少女で、常にポケットに手をつっこんで明後日な方向を見やりながらイヤホンで音楽を聞いている、大人しげで劇中ではモコッチが「表情筋が10グラムくらいしかない」(笑)と評した田村ゆりちゃん!
 のちのち、この低血圧な田村ゆりちゃんがモコッチの新たな鏡像・正妻・百合・共依存の相手として、そしてオタ間でも大人気のキャラに昇格していくことをこの時点で誰が想像しえたであろうか!?


・そして、ズル休みの常習で、頭髪を金髪だか脱色だかにしつつも、根元は伸びた毛のせいで地毛の黒がのぞいており、ブスッとしていて「オラオラ」とオラついて時に手も出す狂犬のごときヤンキー少女・吉田さん!


・モコッチの中学時代の旧友・ゆうちゃん同様、ゆるふわなボブカットの髪型ではあるも多分、目鼻口は小さいサッパリとした顔つき、特にその両眼をマンガ的・記号的に縦長の直線で表現された女子高生・ウッチー!――モコッチの内心でのアダ名は「顔文字さん」(笑)。はるか後続刊で明かされた本名は内笑美莉(うち・えみり)――


 高2に進学してから修学旅行編に至るまで、この3人は劇中には登場したことすらなかったじゃん! というツッコミは可能ではあるけれど、そこはまぁマンガでありフィクションですから、それを云うのはヤボというモノ(笑)。
 中肉中背な新キャラ3人は、チビチビで醜くめに描かれるモコッチ(汗)と比すると大分格上感は漂う。そんなアブれ者の彼女らももう10代後半なのだから、せめてそこでオトナの態度を取って、表層的な社交辞令ではあっても、縁あってせっかく一時を同席・同宿するのだし、緊張緩和のためにも笑顔で互いを立てあう友好的な会話でもすればイイものを、そーいうことにそもそも関心がナイのか、あってもチョイ悪を気取ってクールにふるまっているのか、カースト劣位者と同席したり仲良くするのは家系の恥だとでも思っているのか(爆)、宿泊先のホテルの室内でも班ごとの独自行動でも当初は心が通じ合うこともなくほぼ無言。仲がよくてかつ多弁な連中のなかにアウェイで放り込まれる方がもっとイヤだけれども(汗)、コレはコレでキツいものがあるゾ(笑)。


 班決めからはじまるコレら修学旅行の一連、ウン十年前の筆者もほぼ同様の経験をしていた覚えがよみがえる。いや、大学のサークル旅行でも、社会人になってからの社員旅行でも。実は今も職場で……。し、死にたい(以下略・爆)。
 同じ母語をしゃべる日本人同士であってさえも、誰とでも友だちとなれるどころか、性格類型が異なればこんなにも分かり合えずに気も合わず、同席していること自体が息苦しいし、同じオタ同士が集うハズの同人サークルならぬ同人誌即売会自体が主宰する巨大打ち上げに参加することさえ気後れする御仁が多いのも、ある意味では当たり前の心理なのではあるのだろう。震災などでも無作為抽出避難ではなく気心の知れたご近所&共同体のまるごと避難の心理的・互助的優位性も、昨今では注目されている。
 やはり良くも悪くも無作為シャッフルの席替えや、外国人旅行者程度ならばともかく大量の外国人移民や難民とも共生していくことには困難を伴うのだとも思われる。ましてや街の周囲を高い塀で囲んで部外者が侵入できないようにゲットー化した高級住宅地に好んで住まうアメリカの民主党支持者どもが共和党トランプ大統領の移民制限や万里の長城建設に反対するという「オマエらが云うな!」的な矛盾&倫理的退廃も見るにつけ、自分がボランティア活動なり自宅に泊めて移民の面倒を見るだけの人間力コミュ力も微額のカンパをする気もナイくせに、底の浅いフワッとした感情的な理想論で無制限に移民・難民を入れるのが正義だ! なぞとホザいている輩に、筆者は理性&合理ではなく偽善&欺瞞、自身が正義の側に立っているという自己陶酔の匂いをプンプンと……。
 人間一般はそんなに博愛的に振る舞える存在でもナイのだから――かといって無闇に殺人強盗するほど荒んでいるワケでもないけれど――、天使と悪魔の間にある人間の「不完全性」をも前提に0か100かの極論の不毛な対立ではなく、単なる企業の雇用調整弁でもない物理的・制度的・人員的・社会保障費的にも対応可能な両極の中間にある現実的な人数をめぐって実務的な議論を。でないと、サヨク連中が理想郷のように持ち上げるも、実態は人種差別や経済格差が絶えずに完全雇用も日本以上に保証されていない欧米の二の舞になるゾ~(汗)。


 以上は長すぎる余談で、そんなマクロな議論はミクロな本作には馴染まない(笑)。基本的には他愛ないギャグ漫画でもあることを決して手放さない本作。モコッチは清水寺に行けば「ヤンキーは高いところが好きだから……」、金閣寺に行けば「ヤンキーはキンキラなものが好きだから……」とヤンキー少女・吉田さんに気を遣ったつもりで話しかけ、寝起きの悪い吉田さんを起こそうと布団をまさぐったら乳首をさわってしまい、逆鱗に触れた吉田さんに腹パンチや頬パンチを喰らうお約束反復ルーティンを構築することで新たなギャグ・パターンともする。モコッチと同じコミュ力弱者ではあろうけど、モコッチほどではない田村ゆりちゃんが見かねてこの両者を仲裁するルーティンも同時に構築。


 と同時に、ゆりちゃんはモコッチが対人会話スキル面では人情の機微がイマイチわかっていない、何がイキで何がヤボかのTPOもわきまえていない、知識はあっても知恵はない「バカ」(笑)であることも見抜く姿を通じて彼女の主観・内心も描くことで――読者が感じていることの代弁でもあるけれど――、本作で初めて本格的にモコッチ以外のキャラの内面・心情も描かれていく端緒ともなっていく。しかして稲荷神社で足を挫いたモコッチをヤンキー吉田さんがオンブして登頂に成功、モコッチ・吉田さん・田村ゆりちゃんの3人でキレイな夕陽を見つめさせることで、吉田さんのお株も上げていく。
 このシーンはクライマックス的な完結感も強い。よって、ヘタすると読者の続刊への興味をなくされてしまうことも恐れてか、修学旅行編の最終シーンとはしていない。戻った宿でウケ狙いでアダルトビデオを観ようとするモコッチのクズなふるまいの小挿話を経て、修学旅行編は8巻をまたがって9巻へもつづくことで、読者に対するヒキも作っており、商業的にもヌカリはない(笑)。


 なお、修学旅行編が連載されていた2015年前後に、京都アニメ製作の深夜アニメの中CMにて、中2病の眼帯少女を演じるアイドル声優内田真礼(うちだ・まあや)の声でやたらと宣伝されていた、実は宇治平等院の近隣にあることを数年前に旅先でグーグル先生に教えてもらった、「行きたくなるあのお店。京アニ、ショッ~プッ」(笑)への巡礼ももちろん果たされた!?


私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』第9巻


 第8巻で新キャラとしての軸足を定めたヤンキー少女・吉田さんと大人しげな田村ゆりちゃん。ただし、「顔文字さん」ことフェミニンなボブヘア髪型の新キャラ女子・ウッチーは、この時点ではたまたまアブれたからこの班にいるだけで、日中も夜間も仲良しがいる別の班と行動をともにして、モコッチのことは見下してもいる、やや脇役の悪役寄りの役回りを務めていたともいえる。
 しかし、修学旅行の最終宿泊先のふたり部屋ではモコッチと同室してTVのバラエティ番組でAかBかの二択で処女か否かを占う、その根拠も怪しげなコーナーで、ウッチーの選択が「処女」、モコッチの選択が「非処女」となったことで、モコッチがひとり勝手に精神的に優位に立って(笑)得意げなドヤ顔を浮かべて、それまでのキョドってドモっていた言動をひるがえし流暢に馴れ馴れしく見下したように「処女であることを恥じる必要はナイ」なぞという趣旨の的外れなアドバイスをさせることで(爆笑)、ウッチーだけを悪役とはせず、むしろモコッチの方がやっぱりオカシいという方向に持っていくあたりがこの作品の実にイイところでもある(笑)。
 加えて、バッグを間違って蹴飛ばして中身を散らかし、ウッチーのパンティーを手に取ってしまった光景を誤解されてしまったがために、それがのちのちウッチーがモコッチのことを同性愛者のストーカーだと勘違いするお約束反復ギャグともなっていく新たなネタもココにてまかれている。LGBT者であれば即座に弱者で正義で善人なのではなく、LGBT者でも一般ピープル同様にストーカーとなったり悪事を犯したりする可能性、相手の合意なしにレイプしてくる悪しきLGBT者も極少数はいるであろうという知見も開かせてくれる実に秀逸な描写でもある――ホントかよ?(汗)――


 修学旅行後はモコッチの生活にも小さな変化が訪れる。登校時の道中や下駄箱に教室で、ヤンキー吉田さんや田村ゆりちゃんが朝のあいさつをしてくれるのだ。キョドりながらもあいさつを返すモコッチ。さらに加えて、田村ゆりちゃんがモコッチを昼食の同伴にも誘ってくれる! 田村ゆりちゃん、マジ神・天使・女神さま!(笑)


 その昼食の相席に、明るい茶髪ショートと紺のセーターが印象的なソバカス顔の細やかな気遣いもできる少女・田中真子(たなか・まこ)ちゃんもココにて再登場! 先の8巻評では端折ったけど、同じ班になると決めていたのに、チビで短め前髪のソバージュヘアに三角型の髪留めが印象的な天真爛漫ワガママ八重歯ギャル・南さん――モコッチはキバ子と秘かにアダ名する(笑)――にゴーインに誘われて断れず、気分を害した田村ゆりちゃんとの仲がギクシャクするも修学旅行中に和解して、3日目の自由行動ではモコッチ・吉田さん・ゆりちゃんとも行動をともにした真子ちゃんだ。
 以降はモコッチ・ゆりちゃん・真子の3人で昼食を取り、スマホでLINEをしあうまでの仲となり、巻数を重ねるごとに重要人物と化していく――とはいえ、モコッチにとって当初はこの同席昼食ですら彼女らとの共通の話題がナイことで、微妙にプチ苦痛の時間であったりもするけれど(汗)――。


 ソバカス真子ちゃんはゆりちゃんと比すれば快活で交友関係も広いけど、実に常識人で性格弱者に対する気遣いもバッチリな娘。その描写はゆりちゃんが学校を病欠した折り、またまた「田村さん休みだからいっしょに昼食しよ!」と誘ってきた南さんことキバ子に押し切られ、モコッチをボッチ飯の境遇に1日だけ戻してしまって、昼食中にモコッチをチラ見しつづけることでその挙動を泣いていると誤解して(爆)、モーレツな罪悪感に打ち震えてしまう第11巻での描写で頂点を極める。
 良心の呵責に堪えきれずに、キバ子のモコッチへの悪口を聞かせまいともして、トイレの個室に押し込んでモコッチの両耳を押さえて涙目で顔面を近づけて、トドメに「私と友だちになって!」と謝罪してくるソバカス真子ちゃん! しかして、そこはギャグ漫画。文脈が理解できないのでモコッチはドン引き。ウッチーの被害妄想ギャグがモコッチにも援用されて、今度はモコッチが真子ちゃんのことを内心で「ガチレズさん」とアダ名するようにもなってしまう――昨今の情勢を考えるとLGBT差別になるやもしれんのに!?(汗)――。


 対するに、昼休みにボッチでも悲壮感や卑屈さなど微塵も感じさせずに、細々としたことは気にもせず中庭で堂々と昼寝しているヤンキー吉田さんとの絶妙な対比も、ボッチの身の処し方のひとつのモデルとしては実に示唆的でもある。


 9巻の後半は2年に一度の体育祭編。障害物競走に参加してブサメン男女にイケメン男女をゲットして来いと無理難題を出されたときの絶望感、騎馬戦メンバーを探す際の絶望感、といったおなじみの反復絶望ギャグを挟みつつ、その過程で弟・智貴クンをストーキングして写真を撮りまくる小宮山さんを体育祭運営本部に通報(!)するモコッチや、やはりアブれていた1年生の冴えない眼鏡のボッチ女子どもと成り行きで組まされたモコッチが智貴クンを慕う下級生女子と騎馬戦対決して、勝負に負けてもドサクサに紛れてさりげに痴女的にオッパイをさわることに執着するクズっぷりギャグも描かれる。


 特筆すべきは、のちのちにリア充ギャルグループとしてその個性や人格も描かれることになるギャル軍団とともに体育祭ではチアガールを務めているウッチーだ。
 体育館での練習場所にやはりボッチ飯(爆)を喰いにきて近辺からミニスカの下をのぞこうとしているのがミエミエなモコッチとも遭遇、ストーキングの恐怖に打ち震えるも、本番ではモコッチがミニ・ツインテール髪のブリッ子少女・ヒナちゃんやギャル軍団のチアガール姿を見続けていることに気付いて今度は嫉妬の炎をメラメラと燃やしだす!――オンナ心と秋の空ってムズカしいですネ(汗)―― ココにて今後はウッチーの方が逆にモコッチに執着していく倒錯ギャグのタネもまかれることとなったのだ(笑)。


私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』第10巻


 秋も深まり陽が暮れるのも早くなり冬が間近に迫ってくる寂寥感も遠景として、相変わらずの些事ギャグが描かれていく中で新たにフィーチャーされ出す人物がまた登場。
 それは本作序盤の高校1年生編から登場していて学級カースト上位グループに所属している、ミニ・ツインテール髪で制服の上から常にパーカーを羽織っているニコニコ笑顔が印象的な可愛い子ブリッ子タイプの根元陽菜(ねもと・ひな)ことヒナちゃんだ!――モコッチが内心アダ名している名称だと、往年の雑魚ロボこと量産型モビルスーツ「ジム」の後継機の名称も掛けたとおぼしき名字のアタマ2文字で「ネモ」(笑)――


 10巻の序盤で描かれる進路相談も兼ねた三者面談での女担任の発言で、モコッチは将来の進路をすでに定めて「声優」を目指しているクラスメートがいることを知る。
 各自の進路への悩みを軸に展開するこの第10巻では、体育会系・女担任が文学部演劇学科の資料をヒナちゃんの座席にドサッと持ってきて、廊下でヒナちゃんが女教師に「内緒にしてほしいって云いましたよネ」とお愛想の笑顔を浮かべつつ抗議したところを、人前では「声優」の語句は明かさないと云いつつも、その場でその語句を使ってしゃべっていることによって(爆)、偶然廊下に居合わせたモコッチが「声優」志望者はヒナのことだと知ってしまう!


 かてて加えて、母がお弁当を作ってくれなかったので、たまたま学食でボッチ飯を食していたら、座席が取れなかった同級のリア充グループがそのテーブルに乱入してきて、固まってしまうモコッチ(笑)。とはいえ、多少は場慣れしたのか、オズオズとチャラ男たちの問い掛けに答えてみせる成長も見せ、「帰宅したらナニしてるの?」との問い掛けに、同席しているヒナのことも意識して「ろ、録画したアニメ観てるかナ、ヘヘヘ」と遠慮がちに答えると、ヒナちゃんは「ふーーん」とウスい反応を返す。話の流れでクラスの誰が声優を目指しているのか? という話になるや、彼女はフリーズ&焦燥の度合いを高めていき、「ヒナだろ」とバレそうになるや慌てて否定にかかるのだ……。ナンと! リア充グループでよろしくやってるブリッ子少女のヒナちゃんは隠れオタでもあったのだ!!


 彼女の危機を察して、「リア充グループに所属していても苦労もあるんだナ……」と見かねたモコッチが「せ、声優、目指してるのはワ、ワタシかも……」と、同じく名作ボッチ作品『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』でも幾度か見たような、自分が汚れキャラクターを演じて自爆することで第三者を救ってみせるオトコ気があるところも見せつける! 平成初頭の幼女連続殺人事件のころほどではナイけれど、NHKでTVドラマ化(19年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190530/p1)もされた隠れオタ女子社会人を描いた漫画『トクサツガガガ』(14年)などとも同様に、オタであることをカミングアウトする行為は、劣位に置かれてイジられて笑いの対象とされる危険性が常に付きまとってもいる現実をも示唆する実に含蓄にあふれた描写でもある。


 しかして、オタ同士であることがわかってモコッチとヒナちゃんの心はツーカーで通じ合えることになるのか!? と思いきや……。放課後の暗がりの廊下で待ち構えていたヒナちゃんは「人前ではワタシとアニメの話をしないでネ」なぞとのたまりやがる(笑)。この一連や後続巻では、モコッチの好みは『進撃の屍』なる『進撃の巨人』(13年)&『甲鉄城のカバネリ』(16年)(共に荒木哲朗カントク作品)みたいな戦いや人死にがある作品や『まほいく(魔法少女育成計画)』(16年)&『魔法少女サイト』(18年)などのややエグくてダイナミックでスペクタクルなアニメなのに、ヒナちゃんは「私はあーいうのキライだから……」と全否定をしてみせて(爆)『まんがタイムきらら』系なマッタリほんわか「日常系」萌えアニメが大好物であることもカミングアウトしてくる。
 ジャンル内ジャンルが細分化した現在、同じアニメファン同士であっても容易に共闘できないあたりも実に今日的でもある。なお、修学旅行編の最後の宿泊でのふたり部屋で、モコッチがついつい見入ってしまった日常系の美少女アニメを、同室していたウッチーは「女同士でイチャイチャしてて気持ちワル!」とのたまっていたことも思い出す。女のコも一枚岩じゃないのだ(笑)。


 ……こう書いてくると人間ドラマ主導のマジメな巻であったと誤解されそうではある。しかし、中学生のころのように非日常的な高揚を期待して傭兵や武器商人になることを夢見る(笑)ほどには幼くない年齢に達したモコッチが、将来の職種像を描けずに専業主婦になる未来を想像するもゲーム三昧で育児放棄にいたる自分しか想起できないので、ニート(爆)になることを夢見るクズっぷりでギャグ描写も相変わらず絶好調!
 悪意はナイけど性格弱者の気持ちにやや無神経な、最近までボッチであったことをモロバレさせてしまう体育会系・女担任の三者面談での発言で、モコッチは羞恥にまみれて、母親にも心配されるブラックなギャグも炸裂。
 とはいえ、面談の順番を待つ間はキョロキョロとして落ち着かず、直前の女子生徒の面談を盗み聞きしようと壁に耳を付けてしまい母親に注意される、現国や歴史は得意でも精神年齢は幼稚園児並み(笑)でもあるモコッチは、やはり被害者なばかりではなくゲスな加害者でもあるあたり、物事を多面的に描いてみせる本作の面目躍如でもある。


 ラストでは小宮山さん・ゆうちゃんらと球場に出掛けて千葉ロッテマリーズと当時コラボ中でもあったボッチ作品『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』も登場。小宮山さんも作品を知っていて、モコッチに至っては原作ライトノベルを読んでいることも判明する(やっぱり! さもありなん!・笑)


私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』第11巻~第12巻


 季節は冬に突入して歳もまたいでいく。第11巻では来たる一旦のクライマックスへの助走台として、小宮山さんや彼女とモコッチの弟・智貴クンを取り合っている下級生女子、それに加えて従姉妹のキーちゃんなどの本作序盤から登場しているキャラが再登場する小挿話をいくつか挟んで、各々のキャラやギャグの芸風(笑)を再確認して改めての地固めもしていく。


 と同時に第12巻にまでまたがって、後日評する予定である第13巻以降で大きく花開いていく要素でもあるモコッチとギャル軍団との接触も描いて、周到にタネもまいておく。


 派手な顔した美人お姉さん系でギャル軍団の長とおぼしき加藤明日香さん。ココはご都合主義・ファンタジーだけれども、彼女は先の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』などに登場するやや悪役寄りの公共心よりもミーイズム・私的快楽至上主義者としてのギャルではなく、常識もある正義の味方(笑)として理想化・美化もされた人格者としてのギャルであり、非モテ男子や大人しめ女子であれば彼女と対するのはやや気後れするであろうけど、その口調は下品なギャル言葉ではナイし他人の悪口なども決して云わない聖母のような年長者タイプとしても描かれる。
 席替えで加藤さんの真後ろの席に配されたモコッチは、好意の表明としてのメイクやネイルの実験台とされることで彼女と接点を作っていく――それを見かけて自身でも気付かずにモコッチへの偏愛を捧げはじめた「顔文字さん」ことウッチーがまたまた嫉妬の炎をメラメラと燃やすギャグも(笑)――。


 ギャル軍団のナンバー2も本格始動! 一見美人ならぬ可愛い系でもデコ出しチョンマゲ結びで気が強そうな岡田茜ちゃん。校舎ウラでモコッチがヤンキー吉田さんに文字通りに締め上げられている(爆)のを偶然見かけて、黙っておれずにモコッチを助けに向かってしまい、それを傍観していた田村ゆりの行為も許せない! と糾弾する、実は意外と常識人で正義感も強い人物としても描かれる――コレを機に茜ちゃんもその正体は奇人変人だと知ってしまったモコッチのことが気になって仕方がなくなってしまう(笑)――。彼女らをめぐるドラマについては、今回は見送る第13巻以降の評にて改めて語りたい。


 もちろんギャルの美化だけではない。それらと対比するかたちで、先のキバ子こと南さんはモラルに欠けており、やたらとテンション高くて元気でおしゃべりで、なおかつ無邪気にナチュラルに他人の悪口ばかりを云ってくる人物としても描かれる。
 おそらく休み時間の次の授業の特別教室への移動中なのであろう、田村ゆりちゃん・ソバカス真子ちゃんとともに階段を昇っていたモコッチは盛大にすっ転んで、女のコらしからぬいつもの「グエッッ!!」なる奇声を張り上げる。
 それを見て気の毒がるのではなく「ウケる~~!」と笑い飛ばしてしまう小さなイジメもOKな失礼千万の他人に対する共感性には乏しい残酷な南さん(爆)。対するにモコッチは、顔真っ赤にして「うっせ~キバ子。歯ぁ矯正すんゾ!」とつぶやく……。


 修学旅行の班決めでソバカス真子ちゃんを強奪したキバ子のことを快くは思っていなかったであろう、カラ元気と大人しめ同士で性格的にも気が合うハズがないであろう田村ゆりちゃんは、モコッチの当意即妙な形容&発言に虚を突かれてキョトンとするも、ツボに入ったのか溜飲が下がったのかコラえつつも声を出さずに笑い出す。「ゆりのそんな表情、見たことない」とモコッチに対するお株を上げる真子ちゃんの図で、ギャグ描写でありながらも彼女らの親交の深まりもダブル・ミーニングで積み重ねさせていくあたりも絶品だ。


 ゆりちゃんもまた単なるクールな女子なのかと思いきや、奇抜な形態の建築物をラブホテルだと見抜けない意外とウブなヤンキー吉田さんを気遣って、真相を明かそうとするモコッチをさえぎり、吉田さんの夢を壊さないように(笑)話を合わせてあげる女の子らしい優しい気遣いでポイントも上げてくる――まぁゆりちゃんもクールなようでも凡庸な女のコだよなとか、悪い意味での日本人の典型、ムラ世間的な毛づくろいコミュニケーションそのものじゃねーか!? というツッコミも可能ではあるけれど、この程度ならば許そうではないか!?(笑)――。


 モコッチの旧友・ゆうちゃんも彼氏と別れて髪の毛を切った姿で再登場を果たして、モコッチや小宮山さんともしばし歓談。陰に陽にすでに非処女であることがほのめかされる(爆)。コミュ力的にはモコッチや小宮山さんとも当初は大差がなかったハズなのに、ルックスや性的魅力に恵まれていたばかりに、オトコが寄ってきてコミュニケーションが始まり場数も踏めていく。文化的制度やマルクス主義的経済格差以前のもっと原初的でフェロモン・動物的でもある次元、本人の努力を超えた先天的な生物学的次元でも生じてしまう格差! 全人類を同一DNAのクローン人間にでもしなければ解決不能な不条理!
――もちろん筆者とて無罪ではない。モコッチよりは田村ゆりちゃんの方がそこはかとない色気があるし、恋人にしたい! お嫁さんにしたい! とも思ってしまうのだから(笑)。そうだ! 絶対平等の観点からひとりの男性がひとりの女性を独占することを禁止して、世の女性たちを差別せず等しく平等に愛することを義務付ければ、モコッチにもゆりちゃんにも!(以下略)――


 それらと順番は前後するも、本作序盤に登場した懐かしのキャラクターも再登場。かつての深夜アニメ版でも映像化された件り、高校1年の秋の文化祭にてやはり居場所がなくて孤独に校内をさすらっていたモコッチを気にかけてくれた柔和で快活でもある人格者の女生徒会長・今江さんだ。
 1対1ではなく複数キャラが同席する中での組み合わせやリアクションの相違で人物像が示される作劇が、ことココに至って増えてくるけど、常識的にはアリエないヤンキー吉田さんとボッチのモコッチが相合い傘で雨天を帰宅する光景に尋常ではないモノを感じて(笑)、それを見かけた生徒会長さんがいっしょの帰宅を申し出る。
 いつもの奇矯なボケとツッコミを披露するふたりを見るに及んで、ふたりの良好な関係性を察する生徒会長さんの慧眼ぶりがまたもポイント高い。クルマがハネた水しぶきを咄嗟に傘でバリアにして生徒会長さんをかばうヤンキー吉田さんも実にポイント高いのだ――「不良って得だよなぁ、ちょっとの善行でもポイントが上がるから……」とボヤいているモコッチは相変わらずのクズだけど(笑)。もちろん吉田さんも、物語の便宜で理想化・美化されたヤンキー像ではあることは付言はしておこう(汗)――


 コレが伏線となって、第12巻では卒業式後に校庭に集う卒業生たちの場へ、生徒会長さんに一言お礼を云おうと思ってオズオズと訪れたモコッチは、その人望で人だかりができているサマに気後れするも、それを察した吉田さんが首根っこをツカんで生徒会長さんに差し出すあたりから目頭が熱くなってくる。物陰で最後の会話を交わして抱きしめてくれることで、高1の文化祭で抱きしめてくれた動物の着ぐるみは生徒会長さんだったんだと気付くあたりで読者の涙腺も決壊する(多分)。帰り道でゆりちゃんや真子ちゃんがハンカチやティッシュを差し出してくれるあたりでのダメ押しといったら……。


 とはいえ、モコッチがクラスメート間でビミョーにお株を上げてくるエピソードも配していく。大雪で交通が乱れてヒトもまばらな静かな教室。聖なる白さ&大雪が騒音も吸収するのかホーリーな特別感を醸す日に授業は自習となり、ここでラノベやお文化系サブカルにも造詣があるモコッチの強みが活かされて、図書室で各自がモコッチの薦めた書籍を静かに読み始めるのだ!
 そーいえば、やはり深夜アニメ化もされた高1の夏祭り(花火大会)編でもモコッチは、早くも15年も前の2004年に10代の少女ふたりが芥川賞をダブル受賞をした折りのギャル系ではなく黒髪清楚系の方の処女作『インストール』の表紙を見て、「あの本、読んだことがある…」などと図書室でのたまっていたモノだ。


――余談だけど、筆者もミーハーなので当時、増刷もされた月刊『文藝春秋』に再録された黒髪清楚系の芥川賞受賞作『蹴りたい背中』は読んでいる。クラスでボッチ(!)の陸上部女子が異物としてのオタク男子と交流するも通じ合わないサマ(汗)を描いた作品で、ピアスを付けたワイルドでワルな香りがするオトコにセクシュアリティを感じるビッチなギャルの奔放な性を描いたもう片方の同時収録の受賞作『蛇にピアス』とは実に対照的であった。筆者の周囲の評論オタ間では、このミニスカギャル系と保守的ロングスカートの黒髪清楚系のふたりを当時放映が開始されたばかりの女児向けアニメになぞらえ『ふたりはプリキュア』(04年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20040406/p1)と呼び習わして、このふたりは同作序盤#8までのように絶対に気が合いそうにないと語り明かしたモノだ(笑)。後日ゴシップ誌でふたりの対談記事がアリそうでナイ理由は、黒髪清楚系の方が断っているからだと報じられる(たしかにカメラを意識して常に身を斜めによじったモデル立ちポーズでキメているギャル子作家ちゃんは怖いよ~・爆)――。


 そしてクライマックスは、終業式後のクラス打ち上げ。友だちが少なくて現場で浮いてしまうことを恐れるモコッチやゆりちゃんは参加を悩み、ヤンキー吉田さんはハッキリと「興味ねェよ!」とまでのたまう(汗)。
 ソバカス真子ちゃんに誘われ、モコッチや吉田さんが参加するなら……と答えたゆりちゃんはモコッチと吉田さんを誘って、答えを留保するふたりとともにゲームセンターで時間をつぶす。そして……。高1時代のクリスマス・クラス打ち上げでは集合場所近くまで赴むくも、浮かれる級友たちを遠方から見かけてそこに混じれる気がせず怖じ気づいて秘かにひとり淋しく撤収したモコッチも(涙)、今回はゆりちゃん・真子ちゃん・吉田さんと4人でテーブルを囲んでリラックスした時間をしばし過ごす。


 しかして、意表外の席替えターイム! 4人はバラバラとなってしまう(汗)。
 ゆりちゃんは天敵・キバ子の隣となり、キバ子は真後ろのソバカス真子と話し出す(爆)。モコッチはギャル軍団の長・加藤さんの隣りになり、最初は気後れするも加藤さんの気遣いとココ半年の訓練の成果かキョドりながらもナンとか周囲と会話を成立させる。ヤンキー吉田さんも悶着があったばかりの隣席の岡田茜ちゃんと会話を成立させている。
 モコッチと吉田さんを打ち上げに連れてきた立て役者なハズの田村ゆりちゃんのみ、そのコミュ力弱者ぶりがココに来て露呈して、浮いてしまって無言でヤリ過ごすのだ……(汗)。集団・喧噪の中での孤独。


 二次会のカラオケには行かずに、一次会だけでそそくさと帰途に就くゆりちゃん。それに目敏く気付いてあとを追うやさしい真子ちゃん。いつもの4人といたかったと静かにホンネを吐露していた信号待ちのゆりちゃんの隣に吉田さんが合流。
 一次会はナンとか凌げたけど二次会では多分浮くだろうと自らの分もわきまえて――増長でも卑下でもないところのモコッチの実に的確な自己評価!――、まだ寒くて人影もまばらで夜のとばりが下りた海浜幕張駅の高架上のホームにエスカレーターでしずしずと昇ってきたモコッチとも、「アッ!」と互いに目が合って合流を果たす。
 電車を一本ヤリ過ごして言葉少なにこの時間がしばし続けばと優しいダウナーな一体感にひたっている4人の姿には涙を禁じ得ない……。


 もちろん評論オタとしてイジワルにハシゴ外しをさせてもらえば、「コレが野郎キャラだったら、メソメソせずにシッカリしろヨ! と思ってしまうだろう」「女のコだから弱さをさらしても許されるし、百合的に美しくも感じられるのだ」などの男尊女卑的な通念とも無意識に結託したのがコレらの描写でもあり、「近代的な自立した個人」じゃないよネ? 西洋化ではないオルタナティブな近代を目指した明治時代の亜細亜主義の巨頭・頭山満玄洋社の総帥)の名言「ひとりでいても淋しくないヒトになれ」等々のツッコミや反駁も可能ではあるけれど(汗)、しょせんは社会評論ならぬ時代の俗情とも大いに結託した我らが愛する大衆娯楽エンタメなのだし、誰もがそこまで強くなれるワケでもないのだからコレでもイイじゃないか!?(笑)


 ある局面においてはモコッチよりも劣るゆりちゃんのコミュ力は、第13巻以降でクローズアップされて、その心理や表情もやや沈んで不安定となり、モコッチに対するプチ独占欲や依存も滲ませるカルい「病んデレ」とも化していき、オタク読者の萌え感情を大いに惹起していくことにもなるけれども、それはまた稿を改めて語りたい。


 この第12巻の最終章は、高校3年編の第1話でもあり、3度同じクラスとなったモコッチとヒナちゃんが自己紹介で互いをけしかける。モコッチはウケをねらった自己紹介でまたもスベってしまい寒い空気を招来してしまう。しかし、恥辱にまみれるもメンタル強度は以前よりも確実に高まっていることを自覚するモコッチ――彼女のはるかなる前走者として云わせてもらうと(笑)、それと引き換えに心のドコかの繊細で軟らかいところも確実に毀損していっているけど、実生活で生き抜くためにはそれも仕方がナイ!――。
 それを見て意を決したヒナちゃんも、声優志望を明るい表情&声色でカミングアウト! しかして自己紹介後は手が震えており「もしものときはボッチのやり方、教えてネ……」と静かに語りかけてもくる。次巻以降の展開への期待も大いに煽るドラマチックなヒキでバッチリだ。筆者も本作に一生、付いていく! と誓うのであった(笑)。


――とはいえ「物語」一般というモノは、「かくあってほしい」「道理や正義が通ってほしい」「往々にして現実はそーではないのだから……」という願望が託されたモノでもある。だから、実生活ではヘタに本作に影響されてオタであることをカミングアウトしたりはしない方がイイとも思うゾ(爆)――


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『DEATH−VOLT』Vol.82(19年6月16日発行))


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[アニメ] ~全記事見出し一覧


 2019年5月10日(金)から映画『チア男子!!』が上映中記念! とカコつけて……。
 深夜アニメ版『チア男子!!』(16年)とチア女子を描いた深夜アニメ『アニマエール!』(18年)と駅伝マラソン部を描いた『風が強く吹いている(18年)』評をアップ!

チア男子!!・アニマエール・風が強く吹いている ~チア男女やマラソン部を描いたアニメの相似と相違(笑)

(文・T.SATO)

チア男子!!

(16年8月8日脱稿)


 「チアダンス」を踊る男子という題材からも、絶対にイロモノのナンチャッテ的なギャグアニメだろう、タイトルからして「笑い」を取りに来てるよネ? ……などと思っていたら、マジメな作りの深夜アニメであった。


 スタッフはラノベ原作の深夜アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第1期(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20150403/p1)や少女マンガ原作の深夜アニメ『アオハライド』(14年)などの監督で名をなした吉村愛――私見では両作ともに傑作!――。
 脚本も今やベテラン実力派脚本家で、近年では特撮でも坂本浩一カントクと組んだ『白魔女学園』(13年)――コレも傑作!――なども執筆している吉田玲子。


 絵柄は少女マンガ系。よって、少女マンガが原作か? タイトル末尾が「!!」とケーハクであることからライトノベルが原作か? と思いきや……。
 なんと、スクールカースト文学の金字塔『桐島、部活やめるってよ』(10年)――まぁ筆者も映画版(12年)しか観てないですけど――の朝井リョウ原作の小説なのでした!


 ただし少女マンガ絵でも、近年では少女マンガにもよくある(?)、BL(ボーイズ・ラブ)ではないけどBL的な消費も可能な、デッサン骨格しっかり系の男のコたちだけのホモ・ソーシャルな世界が中心で、女の子キャラは基本的に脇役としてしか登場しない――序盤を見ているかぎりでは――。


 単なるイロモノ作品としては終わらせないためか、主人公の可愛いお坊ちゃん系の大学生男子は淡泊で巻き込まれ型のキャラであり、我ら凡俗たる視聴者に近しい存在ではあるけれど、物語が開幕した早々で、柔道一家の落ちこぼれであり、相手を投げ飛ばす際に自身の方が痛そうな顔をしていると、コレまたよく見ている友人に指摘させ、彼を心優しい共感能力に優れた人物として造形してみせて、視聴者の感情移入を誘うあたりの作劇はお見事。
 で、凡人が主人公の作品の典型で(?)、彼の一応の相棒である男子の方が能動的で、彼の方が男子チアリーディング部を能動的に設立していくサマを描いていく。


 そこに集っていく、センスのなさそうなデブの初心者や、ご都合にもバック転なども最初からできる運動神経バツグンのチャラ男、元・男子チア経験者らしきコーチ業のみを希望する青年……。
 といった感じで、集結劇・群像劇としても、物語的には拙いところはない。ないのだが、もう少しコレ見よがしのケレン味やスパイスがほしいような気はする。


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『DEATH-VOLT』VOL.75(16年8月13日発行))


アニマエール!

(18年12月3日脱稿)


 「フレッ! フレッ! 私ー!!」だと、チアガールをモチーフにした今年2018年度の女児向けアニメ『HUG(はぐ)っと!プリキュア』の主役キュアエールになってしまう。


 今季2018年秋の萌え4コマ漫画誌『まんがタイムきらら』系アニメで、高校のチアダンス部が主題。ピンク髪の元気女子が、チアガールを夢見て高校に入学したら、チアダンス部がナイので、新規に部活を立ち上げる以前に、部活新設に必要な最低5人の部員集めからスタートするというモノ。


 近年でも『ラブライブ!』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20150615/p1)や実写映画版『ハルチカ』(17年)などで既視感バリバリどころか、大学の男子チアダンス部(!)を題材にした小説原作(10年。『桐島、部活やめるってよ』と同じ作家による小説)の深夜アニメ化『チア男子!!』(16年)とも同じ導入部だ(汗)。
 まったくのド素人集団ではステップアップやら大会出場にリアリティがなくなるので、経験者なり何らかの才能の持ち主が、イヤイヤながらも放っておけずに参加してしまうのも全作で共通。本作でも一度は夢を断念した経験者の役回りをクールな黒髪ロング女子が務める。


 そのコテコテさにケチを付けるか、それをもう「王道」と捉えてこう作るしかナイと取るかはムズカしい。ヒトそれぞれであろう。個人的には後者の立場であり、あとは料理の仕方で、単なる味気ナイ段取り劇か、密度や血肉が感じられて劇中に吸引される仕上がりになったか、といったところで線を引きたいけど、そこにも個人の主観や好みが入るからなぁ。げに作品評価とはムズカしい。


 チアガールなんて日米共にスクールカースト最上位でオタの敵。TVドラマ『ダンドリ。~Dance Drill』(06年)や同じく実話の映画『チア☆ダン』(17年)にその続編のTVドラマ版(18年)もあったことを思うと、リア充文化のおこぼれにオタらも反発しそうに思うけど、まるっこいデフォルメされた頭身低めの記号的絵柄で、現実との地続き感やリアリズム的な眼差しはウスれ、「現実にはこんなに美少女だったら男が寄ってくるよネ」「女の方も好ましい異性にイロ眼を使うよネ」「ムキーーッッ!(嫉妬・羨望)」的な感慨も湧いてこない(笑)。


 ただし、作品自体の罪ではないしクオリティの話でもなくマーケティングの話になるけど、『きらら』系の18年夏季アニメ『はるかなレシーブ』が、まるっこい記号的な萌えキャラによる他愛ないキャッキャウフフではなく、デッサン骨格しっかりめの頭身高めでいわゆる恵体キャラによるスポ根路線をねらったら、円盤売上は『きらら』系アニメで断トツの爆死。
 そのへんの近年のオタの嗜好も考慮したのか、筋肉を感じさせない平面的なキャラデザで生グサさを中和(?)した『武装少女マキャヴェリズム』(17年)・『刀使ノ巫女(とじのみこ)』(18年)の2大刀剣美少女アニメも爆死したことと併せて――個人的には後者は神懸かった大傑作だと私見するけど(汗)――、体育会系部活女子や戦闘美少女モノは、当今の心優しい(?)『きらら』系読者や萌えオタにはウケないようにも悪寒。


風が強く吹いている

(18年12月3日脱稿)


 「辞書」作りを題材に、実写映画化(13年)やノイタミナ枠でアニメ化(16年)もされた『舟を編む』)。その原作(09年)は中堅の女流作家・三浦しをんの筆によるものだが、本作もその三浦しをんの小説(06年)を原作にした深夜アニメだ。


 題材は大学箱根駅伝! なのだが、玄関が共同の歴史ある昭和チックなオンボロ木造アパートに住まう異形の学生たちを脅したり宥めすかしたりして、大学マラソン部を復活させようとする導入部となる。
 こう書くと、萌え4コマ原作の同季の深夜アニメ『アニマエール!』と題材的には同じだ。しかし、絵柄がまるっこい記号的な美少女か、デザイン骨格しっかりの筋肉も感じられる8頭身のイケメン青年やムクつけき男子かで、そのテイストはまるで異なって感じられる――くれぐれも云うけど、両者の優劣の話ではないので、念のため――。


 約30年も前(歳がバレる・汗)、第1世代SF作家の筒井康隆センセイがベストセラー小説『文学部只野教授』で、80年代ポストモダン思想や20世紀の現代思想に文学理論の要点などを解説、その中に「ナラティブ」(語り口)なる概念もあったと記憶するけど――同季公開の福井晴敏原作の映画『機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20181209/p1)のタイトルも、ココからの引用と思われ?――、まさにその「ナラティブ」。題材・テーマよりも語り口・文体・叙述の方でその作品の質が決まり、同じ材からでも作風・風情・情緒は陰陽いかようにも変わる好例だとも思える。


 男性キャラの8頭身のキャラデザは、女性オタ層を狙ったモノだと云ってしまえば、野郎オタ向け美少女アニメと等価だともいえる。とはいえ、絵柄的にも作品のリアリティの喫水線が自動的に上がるので、一方では許容されるナンちゃって的な努力や精神主義での解決が、他方では許容されなくなるあたりで非対称ではある。
 楽天的な元気が燃料となる『アニマエール!』と、楽天的で強引な副主人公(?)によるマラソン部再建でストーリーは動くも、流されているようで安易に内面を視聴者にも覗かせない主人公(?)青年の姿にフォーカスが結ばれていくような本作――ググってみると、副主人公だと思っていた方が主人公で、主人公だと思っていた方が副主人公でしたけど(笑)――。


 大学近くの古き良き木造アパートということで、同じく小説原作の深夜アニメ『四畳半神話体系』(10年)やその派生映画『夜は短し歩けよ乙女』(17年)も想起するけど、アチラはモテ非モテに重きを置かない京都大学の小汚い変人インテリ学生たちの自意識過剰で饒舌な内面トークが特徴だとすれば、コチラの小汚い学生たちはボキャ貧の愛すべき筋肉バカではある。ドチラもイケてない系であり、ストリートやクラブに繰り出してナンパしたりされたりといった人種でない点では共通項もあるのだが(笑)。


 とはいえ、本作もそれなりに高射程を狙ってはいるけど、地味でありツカミには弱いとも思う。
 同じ地味でも、コレならば古参出版社で10年越しの「辞書」作りに励む編集部を舞台に、そこに集う地味な若手・中堅・老年の編集者や契約社員にパートや営業、外注ライターや監修の老骨な学者先生たちによる、実に地道で気の遠くなる数万・数十万の語彙カードの作成&整理、原稿取りや、版下作りに校正・校閲や、紙やインクの選定などなどを描いた『舟を編む』の方が――傑作だったとまで評価はしないけど――、個人的にはまだ好感が持てた。


 ただまぁこの評価も筆者の性格に起因するところが大であろう。1日中狭くて薄暗い書庫にこもって他人とほとんど会話せず、シコシコと文献整理&思索に明け暮れるような仕事は、筆者のようなネクラ人種にとっては苦にならずむしろ天職であり天国だ! とすら思えるが、大多数の健全(冷笑)な一般ピープルにとっては、苦痛どころか拷問・虐待ですらあろうから(爆)。
 そんな職には就けない、就けたとして安月給で喰べていけない凡俗な我々は、90年代以降のSF冬の時代にデビューした日本のSF作家の大勢やラノベ作家の一部の兼業日曜作家たちのように、趣味を満喫といかずとも余暇に心の安寧を得るためにも、身過ぎ世過ぎでせめて表面だけでも他人に合わせて会話したり、生きて喰べていくためにも働いて小銭を稼がねばならない……といったような苦悩は、まだモラトリアムにある本作の学生たちや、ジャンル作品における若き主人公たちには無縁の悩みだ(笑)。


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『SHOUT!』VOL.73(18年12月29日発行))


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『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第1期(13年)

  https://katoku99.hatenablog.com/entry/20150403/p1

騎士竜戦隊リュウソウジャー序盤評

『4週連続スペシャル スーパー戦隊最強バトル!!』
『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』序盤合評
『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』前半合評
『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』中盤合評
『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』終盤評
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合評1 『騎士竜戦隊リュウソウジャー』序盤評


(文・久保達也)
(19年4月27日脱稿)


 同一の世界観でふたつの戦隊が争うという、やや変化球的な異色作としての趣(おもむき)が強かった前作・『快盗戦隊ルパンレンジャーVS(ブイエス)警察戦隊パトレンジャー』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190401/p1)につづく、「平成」の時代にスタートする最後のスーパー戦隊となった『騎士竜戦隊リュウソウジャー』(19年)は、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(92年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20120220/p1)・『爆竜戦隊アバレンジャー』(03年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20031111/p1)・『獣電戦隊キョウリュウジャー』(13年)を継承した、恐竜をモチーフとする戦隊である。


 今回東映側のプロデューサーを務(つと)める丸山真哉(まるやま・しんや)は、かつてメタルヒーローシリーズ『重甲ビーファイター』(95年・東映 テレビ朝日)のプロデューサー補や、『ビーロボカブタック』(97年・東映 テレビ朝日)のサブプロデューサーを務めた経歴はあるものの、特撮に関(かか)わるのは『燃えろ!! ロボコン』(99年・東映 テレビ朝日)以来、実に20年ぶりのことなのだ。
 前作の『ルパパト』が設定や世界観がかなり変則的だったこともあってか、氏の中では『リュウソウジャー』のコンセプトとして、「王道」を強く打ち出したい、との意向があるようだ。


 『ジュウレンジャー』・『アバレンジャー』・『キョウリュウジャー』のヒーロー&ヒロインのように、恐竜の鋭い牙(キバ)をモチーフにしたギザ模様がボディに描かれているものの、そのマスクは、先頃『仮面ライダージオウ』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190527/p1)に変身前の主人公を演じた役者がゲスト出演したり、スピンオフのネットドラマ・『RIDER TIME(ライダー・タイム) 仮面ライダー龍騎(りゅうき)』(19年)の配信で再び世間の注目を集めている『仮面ライダー龍騎』(02年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20021109/p1)に登場したライダーたちのように、ゴーグル部分にスリットの入った騎士の仮面がモチーフであり、野性味とスタイリッシュの双方を兼ね備えたリュウソウジャーのカッコよさは、まさに「王道」のヒーローデザインとして完成されている。


 先述した『ジュウレンジャー』の敵・魔女バンドーラの一族が、1億7千万年前に惑星ネメシスに封印されたように、今回の敵となる戦闘民族・ドルイドンは、かつて古代人類・リュウソウ族と争っていたものの、巨大隕石が地球に落下したことで恐竜が絶滅した6500年前に宇宙へと逃亡、それが再び地球に襲来したことで、世界各地の神殿に封印されていた騎士竜たちと、リュウソウ族の末裔(まつえい)であるリュウソウジャーが立ちあがるという設定・世界観も、やはり「王道」の冒険ファンタジーといった趣が強いのだ。
 洞窟(どうくつ)のような神殿の中で、「今からおまえたちが、リュウソウジャーだ!」と、先代のリュウソウジャー=マスターレッド・マスターブルー・マスターピンクが、コウ=リュウソウレッド・メルト=リュウソウブルー・アスナリュウソウピンクに、リュウソウジャーを継承する儀式を描いた第1話の導入部からして、それは如実(にょじつ)に感じられた。
 それにしても、マスターレッドを演じた黄川田将也(きかわだ・まさや)も、マスターブルーを演じた渋江譲二(しぶえ・じょうじ)も、マスターピンクを演じた沢井美優(さわい・みゆう)も、全員が現在ではマニアたちが「黒歴史」にしてしまっている(汗)、実写版の『美少女戦士セーラームーン』(03年・東映 中部日本放送https://katoku99.hatenablog.com/entry/20041105/p1)の出身者であるのは、いったい何の冗談なんでしょうか?(爆)


 第1話では開幕早々、突然現れたドルイドンの戦闘員たちを相手に、先代と現役のリュウソウレッドが共闘するさまが描かれるが、マスターレッドとコウが変身して飛びかかっていくカットに「スーパー戦隊シリーズ」のロゴをかぶせる演出、そして、戦闘員が全滅して燃えあがった炎が、ふたりのリュウソウレッドを囲むかたちで、恐竜の牙を思わせる三角形となるさまを俯瞰(ふかん)してとらえた場面は、最高にカッコよかった!
 ドルイドンに生みだされた怪獣も、第1話に登場したのは『ウルトラマンX(エックス)』(15年)の序盤に出た溶鉄怪獣デマーガを彷彿(ほうふつ)とさせるデザインであり、恐竜をモチーフとする戦隊の相手には実にふさわしいと思えたものだが、満月が浮かぶ夜空を背景に、深い霧の中で、黄色い目を光らせて出現するさまを俯瞰してとらえた演出は、実に神秘性にあふれていた。
 コウと、後述するが本作の一般人のヒロイン・ういを画面手前に配し、彼らに怪獣の長い尾が合成で襲いかかったり、森林のオープンセットを進撃する怪獣を終始あおりでとらえたりと、その巨大感と臨場感は、大ベテランの佛田洋(ぶつだ・ひろし)特撮監督によって絶妙なまでに演出されており、同じ佛田監督でも、いつもの採石場に簡素なセットが組まれていた(汗)『ジュウレンジャー』の時代とは、まさに隔世(かくせい)の感がある――あのころのスーパー戦隊が、テレビ朝日にとって「お荷物」とされていたことを思えば、『ジュウレンジャー』は予算的にはかなり厳しかったと思われるのだ――。


 第1話のクライマックスで、キシリュウオー「スリーナイツ」――直訳すると3人の騎士!――は、かつて人類がドルイドンに対抗するためにつくった最終兵器=騎士竜のティラミーゴ・トリケーン・アンキローゼが、最初から合体した巨大ロボットとして、背景に炎と噴煙をあげて登場。
 CGではなく、スーツアクターが演じる着ぐるみがオープンセットを疾走(しっそう)し、ジャンプして怪獣を飛び越え、崖(がけ)から飛び上がってキックをかましたり、高速ですべりこんで剣で斬りこんだりと、キシリュウオースリーナイツは実にアクロバティックな動きを見せてくれたが、演じる藤田洋平は前作の『ルパパト』では敵組織・ギャングラーの幹部だったデストラ・マッジョを演じており、その差別化した演技にも、今回は「王道」で行こう! との氏の意識が充分に伝わってくるのだ。
 また、第2話では巨大メカ抜きで、等身大のリュウソウレッドとリュウソウブルーが宙を華麗に舞いながら、巨大怪人と都心のビル街で戦うさまが、実景に合成された怪人を俯瞰してとらえたカットを多用して描かれており、画面手前を逃げる人間たちの奥のガラス窓に怪人を合成し、そこに怪人に吹っ飛ばされたリュウソウブルーが、窓を破ってつっこんでくる臨場感もさることながら、キシリュウオーと怪人が戦うカットで、その奥にあるビルが湾曲して見える(!)という、人間の目線に生じる錯覚を、カメラで完全再現してしまった演出には仰天(ぎょうてん)したものだった。


 パイロットとなる第1話&第2話を演出したのは、近年の仮面ライダーでめざましい活躍を見せるも、スーパー戦隊への参加は今回が初となる上堀内佳寿也(かみほりうち・かずや)監督だ。
 上堀内監督といえば、ライダーでは比較的アバンギャルドな演出をやりたがる傾向が強かったが、今回は極力そうした演出をおさえ、ひたすら「王道」に徹していたのは実に好印象であった。


市井のゲスト主役の懊悩が敵怪人を産み出す設定起因で、作風にやや陰鬱な空気もあるやも……


 そんな「王道」イメージで開幕した『リュウソウジャー』だったのだが、第3話以降、個人的にはどうにも違和感があるような……
 今回の敵となるドルイドンは、人間のマイナス感情を利用してマイナソーなる怪獣・怪人を生みだすが、これは『仮面ライダー電王』(07年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20080217/p1)や『仮面ライダーW(ダブル)』(09年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20100809/p1)、『仮面ライダーフォーゼ』(11年)や『仮面ライダーウィザード』(12年)など、近年では仮面ライダー、古いところでは『ウルトラマン80(エイティ)』(80年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19971121/p1)に見られた設定と同様のものである、って、ヒーローアニメ『SSSS.GRIDMAN(グリッドマン)』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190529/p1)もそうでしたね(笑)。
 まぁ、「平成」仮面ライダーの場合は変化球であるのがあたりまえで、それがむしろ「王道」と化している感もあり(笑)、『SSSS.GRIDMAN』は深夜アニメだったから不問としておくが、こうした設定は本来「王道」ヒーロー作品であるスーパー戦隊とは、ビミョ~に相性が良くないように思えるのだ。


 第2話のゲストとして登場した、フェンシングの試合で優勝したいと思う男が、ライバルが消えればいいと願うのはそれほどでもなかった。
 だが、小学生のころ以来、自宅に友人を連れてきたことがなく、アマゾンの奥地の探検と偽(いつわ)って自らが出演する、富士の樹海(じゅかい)で撮影した動画を、ネットで配信して悦に入るような、ほとんど(ひとり)ボッチアニメの主人公みたいな、先述したういが、何をやっても中途半端(はんぱ)だからと、怪人を消滅させるために、崖から身を投げようとする、なんてのを、序盤の第3話でいきなりやるのはどうなのかと(笑)。
 この第3話の冒頭では、相棒となる騎士竜・トリケーンが心を開いてくれないことにメルトが悩む描写があったが、その後両者の間に特にドラマは描かれず、クライマックスでメルトが「頼む」と云った途端にトリケーンが共闘したのがかなり唐突だっただけに、それならういのドラマはもっとあとの回にして、この回ではメルトこそを、もっと掘り下げて描くべきではなかったか?


 つづく第4話のゲストの、仕事で忙しくて子供と遊べない父親とか、第5話で何の前振りもなく、いきなりトウ=リュウソウグリーンの旧知の存在として登場した(笑)、捨て犬や捨て猫を保護する少女など、ういも含め、彼らを取り巻く背景には、どうにも重さや暗さがつきまとう印象が強いものがある。
 それでも近年の戦隊のように、大半の怪人がお笑い系で、ベラベラとしゃべりまくるのであれば、その印象もかなり払拭(ふっしょく)されるかと思えるのだが、なんせ今回の怪人たちはゲストのマイナスエネルギーから生まれているだけに、「いちば~ん!」とか「観~ろ~!」とか「ワンワン!」(笑)など、ゲストの最も強い想いしか口にしないのだ。


敵軍団のスケール感欠如・戦隊レッドの熱血度の低さ。王道ねらいのようで微妙に王道ではない!?


 今回メインライターを務める山岡潤平(やまおか・じゅんぺい)は、アイドルグループ・AKB48(エーケービー・フォーティエイト)が主演した深夜ドラマ『マジすか学園』(10年・テレビ東京)と『AKBホラーナイト アドレナリンの夜』(15年・テレビ朝日)、集英社週刊ヤングジャンプ』に連載された学園マンガを原作とした深夜ドラマ『仮面ティーチャー』(13年・日本テレビ)などの脚本を務めてきたが、氏の経歴をザッと見た限り、世間で大きな話題となったヒット作にはさして関わってはおらず、先述したように、そのジャンルがかなり偏(かたよ)っている印象が強いものがある。
 アニメやゲームの脚本も未経験であるだけに、いきなり「王道」のスーパー戦隊を任(まか)されたことでまだ手探(さぐ)りの状態なのかもしれないが、だからこそ、第3話&第4話の中澤祥次郎(なかざわ・しょうじろう)監督とか、第5話&第6話の渡辺勝也(わたなべ・かつや)監督とか、大ベテランとして「王道とはこうあるべき!」と、もっとガンガン口出ししてくれよ、と思えるのだが(笑)。


 第6話までの時点で、ドルイドンの幹部としてタンクジョウ、毎回マイナソーを生みだすコミカルなキャラとしてクレオンが登場する以外、ドルイドンのキャラとしては戦闘員しか出ておらず、彼らの上に首領的な巨悪が存在する、といった背景の描写もないために、ドルイドンの悪の組織としての巨大さがいまひとつ伝わってこないのも、「王道」のヒーロー作品としては難点ではなかろうか?
 アジト的な秘密基地のセットすらも用意されておらず、タンクジョウとクレオンが野宿生活(笑)しているようにしか見えないのが、その最大の象徴かと。


 そもそもリュウソウジャーのリーダーであるコウ自体、「王道」を打ち出している割には比較的軽さのめだつ、熱血度が低いキャラなのだが、スポンサーのプリマハムが発売している『リュウソウジャーソーセージ』のCMでは、コウのセリフ回しがやたらと激アツであり、本編のキャラとは完全に別人に見えてしまっている(爆)。
 まぁ、特撮オタのOLが主人公のドラマ『トクサツガガガ』(19年・NHK・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190530/p1)でも、劇中劇として描かれた、架空のスーパー戦隊の番組の中盤から登場した銀色の追加戦士が、アトラクションショーでは番組とは全然キャラが違っていた(笑)ように、まだキャラが固まらないうちにCMをつくってしまったことに起因する違和感なのだが、『リュウソウジャー』を「王道」にするなら、コウのキャラは『リュウソウジャーソーセージ』に合わせるべきではないのかと(大爆)。


 ただ、第6話で怪人の毒に侵(おか)された弟のトワを救ってくれたコウに、兄のバンバ=リュウソウブラックが感謝はしたものの、「仲間とは思っていない」として、トワとともに再びコウたちと別行動をとるようになったのは、いくら「子供番組」とはいえ、序盤で対立したキャラがすぐに「みんななかよし」(笑)になる傾向が従来のスーパー戦隊では強かったのに対し、これには前作の『ルパパト』の良さを継承した印象も感じられ、登場キャラのさまざまな思惑が交錯する「群像劇」としては、今後の展開に期待してもよいのかもしれない。


稚気満々な変身演出! 明朗な恐竜ロボット特撮演出から、今後に期待したいこと!


 あとリュウソウジャーの変身場面における、彼らの足下(あしもと)で小さな騎士の姿をした多数のリュウソウルが、「ワッセイワッセイ!」と踊りまくる描写が、中年オヤジの観点からすれば、もうひたすらかわいく見えてしかたがない(笑)。


 もっとも騎士竜たちが、00年代のスーパー戦隊の中では「王道」の色が強かった『炎神(えんじん)戦隊ゴーオンジャー』(08年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20080905/p1)の相棒として登場した、乗りものと動物の特性を兼ね備えた機械生命体・炎神たちのように、にぎやかにしゃべくりまくってくれるなら、そのかわいらしさに子供たちが惹(ひ)きつけられるのみならず、それらの声を演じる声優たちのファンをも、新たな視聴層として開拓できるかと思えるのだが。
 これは先述した『仮面ライダー電王』で、主人公の野上良太郎(のがみ・りょうたろう)=仮面ライダー電王に憑依(ひょうい)していた正義側のイマジン(怪人)たちの描写で爆発的な効果をあげたものだが、戦隊にしろライダーにしろ、近年はそうした演出が見られないのは、実にもったいないように思えてならないものがある。


 なので、中盤からでもいいから、リュウソウジャーとの結束(けっそく)をいっそう強くしたことで、騎士竜たちが人間の言葉を話せるようにできないものかと。
 『リュウソウジャー』で変身やさまざまな武器として使用されるアイテムがリュウ「ソウル」(魂・たましい)と命名されているように、『ゴーオンジャー』で描かれた同様のアイテムも炎神「ソウル」と呼ばれていたのだし、当初3人で結成された戦隊に緑と黒の戦士が加わるのも、まんま『ゴーオンジャー』と同じなのだから(笑)。


 まぁ、古い世代としては、リュウソウ族の長老を演じているのが、『帰ってきたウルトラマン』(71年)で主人公の郷秀樹(ごう・ひでき)=ウルトラマンジャックを演じた団時朗(だん・じろう)というだけで、視聴意欲がマンマンであることには違いないのだけれど。
 第5話のクライマックスでは、デカい夕陽を背景に、リュウソウブラックの相棒・ミルニードルがキシリュウオーに合体した、キシリュウオーミルニードルとタンクジョウが対戦したが、世代的に佛田特撮監督も、団氏の出演で『帰ってきた』でよく描かれた、「夕焼け特撮」を再現したくてたまらなくなったのではないのかと(笑)。


(了)


合評2 『騎士竜戦隊リュウソウジャー』序盤評

(文・犬原 人)


 全体的にドラマがチャカチャカしているような気もするが、何をどう説明すべきなのかわかっている、ツボを押さえた脚本のせいで、すんなり作品世界に入っていけたような気がした。だからといって自分の好みかと言えば、実のところはそうでもないのだが。


 それでも長老(おお団時朗!)、マスターレッド(黄川田将也!)など、往年の特撮スターが客演しながら、マイナソー(ウルトラマンルーブに絡めた方がよかったようなデザインだった )に殺されるという形で無理やり世代交代を強いられる……という第1話は、『仮面ライダーV3』(1973・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140901/p1)を見たようでもあり。


 この『星獣戦隊ギンガマン』(1998・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19981229/p1)か『忍風戦隊ハリケンジャー』(2002・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20021110/p1)な、「世間から隔絶された」彼らに素人ユーチューバーが絡むのは当代風なんかな。彼女に絡む親族の叔父さんがフライドチキン男(吹越 満from『有言実行三姉妹シュシュトリアン』(1993))なので、芝居の方に心配はしていないのだが。


 人間のマイナス感情を糧に、エサとなる人間が消耗するまで暴れ回るというマイナソーの設定は『SSSS.GRIDMAN』(2018)というより『プリキュア』っぽいか? という気もするが、うっかり生物なり宇宙人なり異民族を設定すると抗議が来るので設定された、「精神的人外」なような気もする。


 リュウソウジャーのデザインはグッド。恐竜と騎士の甲冑を組み合わせた顔の出来は及第点だが、子供には描きにくそう。


 とりあえず今年は、気が滅入った時は「ケボーン!」と叫ぶようにしよう。「死ぬ気弾」を浴びたつもりで(そりゃ『リボーン』だ!……笑)。


(了)


合評3 長老「だって、うちケバブ屋だもん!」

(文・戸島竹三)


 レギュラーに団時朗、『ウルトラマン80(エイティ)』(80)のような怪獣の成り立ち(人間の負の感情が原因)と、円谷感満載の序盤に驚く(1話の怪獣もモロ、『ウルトラ』だし)。五人の中では、ソーセージCMの演技も異様に熱いレッドがダントツの存在感。吹越満はもう少し出番がほしい(掛け持ち出演が続くうちは無理か)。


(了)


合評4 『騎士竜戦隊リュウソウジャー』序盤評 ~初期感想。一話から三話を視聴

(文・フラユシュ)

一話。

 どちらかというと怪獣物+『星獣戦隊ギンガマン』(98年)を恐竜に置き換えたリメイク的内容。
 『ゲゲゲの鬼太郎』(18年)一話でもユーチューバー出ていたが、こちらはレギュラーか。実写でハンマーで記憶消すネタは生々しのでやめた方がいいような。

二話。

 フェンシング選手絡めた家族話。先代のこともう少し引きずるか仲間さがしかと思いきや、既に通常話。
 今回も基本おバカレッドか。まだレギュラー全員ぎこちない印象。SNSよりも子供の目撃というのがなんと言ったらいいのか……。
 で、今回ティラノサウルスメカはお笑い枠なのか? どちらかというと等身大戦闘より巨大戦闘メインのシリーズか?

三話。

 怪人説明回。で、残り二人のリュウソウジャー登場で兄弟なんだね。だが、合理的に今回の怪人の発生源の人間を殺す合理主義者か。黒の兄貴は無口のためまだキャラ読めないが緑はそうか。


 子供番組などでも長いこと描かれてきた「被害をこうむる『多数』を救うために『少数』を犠牲にする合理主義」テーマは、一部でのネット論争によると倫理学の思考実験で有名な「トロッコ問題」から来ているらしい。これはフィリッパ・フットが提起し、ジュディス・ジャーヴィス・トムソン、ピーター・アンガーなどが考察を行った。人間がどのように道徳的ジレンマを解決するかの手がかりとなると考えられており、道徳心理学・神経倫理学では重要な論題として扱われているそうだ。
 マイケル・サンデル教授の講義をまとめた書籍「これからの『正義』の話をしよう」(10年)内の記事に、この思考実験の講義があるらしいが、ジャンル作品ではわりとむかしからあるテーマなので「トロッコ問題」を扱ったクリエイターが、この書籍を全員読んでいるわけではあるまい。文庫版の発売は2011年だし。この論をサンデルが再拡散したのは2009年くらいだとの説をネットにて拾う。再拡散ということはそれ以前にもあったらしい。


 ちなみにこの問題を扱った作品をジャンル作品で初めて見たのは、記憶だけで書いているので間違いあるかもしれないが、旧『魔法使いサリー』(66年)での機関車のエピソードで、三浦綾子の実話を元にしたキリスト教神父がその身を犠牲にして機関車とその乗客を救う小説『塩狩峠』(66年・73年に松竹にて映画化)をモデルにした話であった。
 まぁその話では機関車の保存問題が主で、命の重さのテーマにはあまり重きを描いていなかったと思うが。提起はしたが答えは見た視聴者にゆだねるという感じで。おそらく脚本を担当した人がその小説を読んでネタにしたのであろうか。誤認があればオフセット印刷版までには書き足します。


(参考)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 塩狩峠_(小説)
 おそらくこのブームから持ってきたんだろうが、エンディング主題歌のなれあい見るかぎり、あまり尾を引く設定ではないと思う。緑がそのことを知っているということは、既にそのために人間を殺してるとしたらハードだが、今時の作品でそこまでやることはないだろう。四話以降は未視聴なのでコメントは控えますが。


(了)


合評5 『騎士竜戦隊リュウソウジャー』序盤評 ~ケボーン!! ってなに?!

(文・J.SATAKE)


 日本の放送文化の質的向上を願い、放送批評懇談会が顕彰するギャラクシー賞。その月間賞を特撮の枠をこえた見応えある人間ドラマであると、スーパー戦隊シリーズ『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』(18)が受賞!! 我々ファンからしてみれば、その魅力の一端が未見の方々に伝わる機会となったことに喜びを禁じ得ない。


 特撮作品において、人物造形とそこから生まれるドラマの充実は親世代に訴求することになるわけだが、今回スタートした第43作『騎士竜戦隊リュウソウジャー』(19)はメイン視聴者である子供たちに向けて、ヒーローの魅力・仲間と協力するチームの力・変身と合体ロボットの爽快なバトルアクションというスーパー戦隊の特色をストレートに展開する作品となるようだ。
 チーフプロデューサーは丸山真哉氏。脚本はテレビ朝日東映が製作した刑事ドラマ『遺留捜査』(17)などを手がけている山岡潤平氏。シリーズの方向性をリードする第1・2話を監督したのは、平成仮面ライダーで人物の心理を独自の画で表現し、バトルアクションもアップとスローモーションを効果的に使ったシーンを展開した上堀内佳寿也氏。新たにスーパー戦隊を担当するスタッフは、どのような王道を目指すのかが打ち出された初期編となった。


戦闘民族ドルイドン軍団! 6500万年ぶりに宇宙から襲来!


 人里離れた樹海を舞台に、戦いを繰り広げるふたつの種族。その身に城を構えたかのような巨体の魔人=タンクジョウと毒々しいキノコが機械の鎧をまとった魔人=クレオンは、銀色の鎧に身を包んだ戦闘員=ドルン兵を従え侵略を開始した。
 彼らは戦闘民族ドルイドン。6500万年前にも戦端を開いたが、地球に巨大隕石が落下したため侵略をあきらめ宇宙をさまよった。だが宇宙の過酷な環境によって、人間の生命エネルギーと負の感情をかけあわせて成長するモンスター・マイナソーを生み出す能力が発現。これをもって再び地球の支配者にならんと舞い戻ってきたのだ!


 敵は容赦なく人類と地球を狙う戦闘民族。頑丈な体躯で大剣を振るうタンクジョウは地球のマグマから力を奪い火球攻撃で騎士竜戦隊を苦しめる。


 仕事に忙殺され子供と遊んであげる時間をつくってやれない、人間の勝手な都合でペットの命を簡単に奪ってゆく……。人が毎日の暮らしで多かれ少なかれ抱いてしまう負の感情。そこから生命エネルギーを抽出しマイナソーを成長させるのがクレオンの役目だ。


 揺るぎなく倒すべき巨悪として存在することで人類と地球を守るヒーローとの対比が浮き彫りとなる。初登場シーンではタンクジョウとクレオンのほかにも幾体かのシルエットが並び立っていた。これから登場する彼らも強敵揃いのドルイドン軍団であることを期待しよう。


古代人類リュウソウ族! 因縁の敵に対し、長老や先代の遺志も継いで戦隊へ変身!


 ドルイドンに対抗し戦いを続けたのは古代人類リュウソウ族。彼らは恐竜のもつ絶大な力を借りて戦い抜いてきたのだ。隕石落下によってドルイドンは撤退、恐竜は絶滅したがリュウソウ族は最終決戦に備えて武装した恐竜=騎士竜を神殿に封印し、現代に至るまで人知れず騎士道を貫き続けていた……。
 次なる戦いに向けて世代を引き継いできたリュウソウ族だが、タンクジョウ&クレオン率いる兵団と巨大獣となったマイナソーの脅威にさらされる三人の騎士。マスターレッド(演・黄川田将也氏)マスターブルー(演・渋谷讓二氏)マスターピンク(演・沢井美優氏)は、激しい戦いのなかでその身を挺して弟子の命を守り、騎士の使命と精神を示して絶命する! 黄川田氏は『仮面ライダーTHE FIRST』(05・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20060316/p1)本郷猛として主演したが、実写版『美少女戦士セーラームーン』(03)タキシード仮面の渋江氏と主人公・月野うさぎの沢井氏とともに古幡元基としても出演している。


 師弟関係は世代交代の象徴。本作の物語としてはもちろんだが、東映特撮に出演した俳優として新しい世代へ歴史をつないでゆく様をも感じ取ることができ、主人公たちへの感情移入度がより高まる。
 リュウソウ族を束ねる長老を演じるのは団 時朗氏。騎士竜の伝説を語る重厚さや、掟に厳しいところから典型的な長老かと思われたが、リュウソウ族の里が崩壊後は移動車両のケバブ屋のおやじさんとして再登場! 硬軟取り混ぜてコウたちをサポートするバイプレイヤーとして活躍してくれそうだ。 


 マスターレッドの意思を受け継ぎ騎士となったコウは「勇猛の騎士」=リュウソウレッド。長めの髪をカッチリ分けた王子スタイルの彼だが、好奇心旺盛で考えるよりまず行動するアクティブキャラだ。
 青い髪がひときわ目を引くメルトは「叡智の騎士」=リュウソウブルー。慎重に敵を観察し戦略を提案するクールキャラだ。
 コウやメルトとは幼なじみのアスナは「剛健の騎士」=リュウソウピンク。小柄な女子でありながら怪力の持ち主という定番の設定だが、仲間を信じる強い意志を持ったキャラも付加されている。


 修行なかばでドルイドンとの戦いに入った彼ら。マスターの死に直面し、強敵・タンクジョウへの憎しみを隠せない。敵怪人・マイナソー発生の理由である人の心に寄り添い、撃退するために伝説の騎士竜が眠る神殿を発見しようと東奔西走! 次々と迫る局面をくぐり抜け騎士として成長してゆく様を追うことで、ヒーローの存在意義を示す。


別働戦隊も登場! 根源のゲスト庶民を抹消すれば敵怪人も抹殺可能!?


 三人より先んじてリュウソウ族の里を離れ、騎士として修行を積んでいた二人がいた。
 短い茶髪と強い自信からついつい挑発的な口調となるトワは「疾風の騎士」=リュウソウグリーン。その一方で動物に優しく接する一面もある。
 トワの兄であり、オールバックにキッチリきめた髪型から義理堅さが滲むバンバは「威風の騎士」=リュウソウブラック。修行で身につけたのか、堅実な戦い方が合理主義であることを伺わせる。


 立場の異なる騎士の出会いがヒーローの意義・精神を問い直す。
 いまだつたない技量のコウたちを軽視するトワとバンバ。二人はマイナソー成長の原因である、生命を奪われる人物を亡き者とすれば良いと剣を振り上げる! しかしコウたちはその人の悩みに寄り添い、助けたいと手を差し伸べる……。
 バンバが言う「小を殺し大を救う」、これが現実的な救済の道でありひとつの回答だ。だがコウたちはギリギリまで努力し、地球に生きる生命を守ろうとする。ヒーローに求められる技量と精神。どちらも充実しなければ理想は実現しない、それを複数のチームで補い合うのがスーパー戦隊シリーズの意義と精神なのだ。


 勝ち負けにこだわりコウと競い合うトワだったが、全てを救いたいというコウたちの理想に伝説の騎士竜たちが応えて復活した事実を知り、反発していた自分たちも仲間だと必死に戦う姿にその心を開いてゆく……。
 バンバもコウたちの戦い方を認められなかったが、弟・トワの命の危機に接し、最後までコウとメルトの勝利を信じて待つという同じ病床のアスナの心からの言葉に、その剣を下げるしかなかった。――バンバには他にも合理主義にならざるを得ない事情があるようだが、それはまた後のようだ――


 ひとりの力は小さくとも、それを合わせれば大きな力となる。そこへ至るには意見がぶつかることもあるが、高い理想を求めて努力する心を持ち続けよう! 現実は厳しいけれどヒーローにも日常にも大切な精神を真っ直ぐ掲げることができるのが、このジャンルの特権だ。 


戦隊が寄宿する変人学者の父娘! なんと娘は引きこもりなユーチューバー!?


 コウたちを人間の世界に導くのは、地球の謎に迫る(?!)動画サイト「ういちゃんねる」をアップするため各地へひとりで足をのばす龍井うい。偶然リュウソウ族の里へ迷い込んでしまった彼女。ドルイドンとの戦いに巻き込まれたことでコウたちと関係を深めるが、引きこもりの時期を過ごしたこともある「人嫌いだけど繋がりたい」少女なのだ。
 そんなういを優しく見守るのが父・尚久(演・吹越 満氏)だ。これまで発見されていない恐竜の存在を信じ続け、学会から見放されてもフィールドワークを地道に続ける彼のひたむきさが娘・ういの心を救っている。
 この研究が各地の神殿に眠る騎士竜につながると、ういはコウたちを自宅兼研究室へ居候させる。そんな無茶も受け入れ、ういをよろしくと願い出る尚久。
 派手でドラマチックな親子関係ではないが、思いやりで互いを支える様子が見えてくる良いシーンであった。ベテラン・吹越氏の飄々とした物腰はシリアスにもコメディにもハマり、誰彼なく豆乳をすすめる小ネタキャラも着々と進行させる見事な役者さんだ。


戦隊のデザインモチーフ・変身ブレス・各種アイテム・音声ガイド・プレイバリュー!


 騎士竜戦隊のヒーローデザインは「牙のギザギザ」と「騎士の鎧」がポイント。変身ブレスレットであるリュウソウチェンジャーは恐竜の頭部に騎士のフェイスガードを組み合わせたもの。そこにリュウソウルと呼ばれる、小型の恐竜ヘッドパーツをセットすることで騎士竜のパワーがチャージされリュウソウジャーへ変身するのだ! このリュウソウルはワンタッチで恐竜ヘッドのソウルモードと、剣と盾を持った鎧騎士・ナイトモードへ変身するアイテム。画の見どころは、コウたちの周りに小さな鎧騎士たちが現れ戦意を鼓舞する踊りをするところ。変身待機音も笛と太鼓でプリミティブなイメージを補強する!


 「ワッセイ、ワッセイ! ソウ、ソウ、ソウ、ワッセイ、ワッセイ! ソレ、ソレ、ソレ、ソレ!! リュウSO COOL!」
 「俺たちの騎士道、見せてやるぜ!」


 ヒーロースーツのデザインも騎士のフェイスガードをつけた恐竜をヘルメットに落とし込み、首元中央から大きく牙をデザインしたものだ。腰ベルトのバックルは卵型のリュウソウルホルダーで、様々なタイプのリュウソウルがここから取り出される。


 リュウソウジャーのメイン武器は長剣・リュウソウケン。鍔にあたる部分に金色の恐竜がデザインされており、その口が開きリュウソウルをセット。グリップで口がガブガブすることでパワーチャージ!


 「リュウ! ソウ! そう! そう! この感じ!!」


 剣を持つ右腕から肩にかけて鎧が装着されて、様々な特殊能力を発揮することができるようになるのだ。


 ・強大な力を発揮できるツヨソウル
 ・長い鞭が伸びて攻守に使えるノビソウル
 ・瞬発力を高め高速移動ができるハヤソウル
 ・石のような堅さでその身を守るカタソウル
 ・鉄球を装備し重力を操るオモソウル


 リュウソウルは変身前でも使用でき、遙か遠くを見聞きしたり、相手に本当のことを言わせたりなど魔法のような効果もある。一方、臭い匂いをまき散らすクサソウルや、地面を磨いて敵の足を滑らせる ソウルなど使い方を間違えると正に「スベって」しまうオモシロ系もあり、玩具展開において定番となったコレクションアイテムのバラエティ化に一役買っている。


 変身アイテムの音声ガイダンスは関 智一氏が担当。『海賊戦隊ゴーカイジャー』(11)での威勢良いガイダンス以来、その特撮愛溢れる声の演技でワル中のワルから愛嬌ある怪人を演じ分け、『仮面ライダー』(71)ショッカー首領の納谷悟朗氏の声質を見事に再現するなど、現在特撮声優として欠かせない存在となっている。本作のリュウソウルはカッコ良さを追求した声はもちろんだが、クサソウルやプクソウルなどギャグ調のアイテムは思いっきりおふざけ声を披露しており、そのギャップも大きな魅力のひとつとなっている。
 『獣電戦隊キョウリュウジャー』(13)での千葉 繁氏の振り切った叫び声とサンバミュージックもかなりのインパクトを残し賛否両論であったが、それに習ったかのような本作も筆者は大賛成だ。どうせやるなら振り幅は大きく! おもちゃ箱をひっくり返したかのような賑やかさもスーパー戦隊ならではの作品カラーなのだから。


巨大獣vs等身大ヒーロー・恐竜ロボ複数・合体して戦隊巨大ロボ! 本作の特撮演出!


 巨大化したマイナソーにその身ひとつで立ち向かってゆくリュウソウジャーたち。昨年拡張された都市セットを舞台にして巨大獣と等身大ヒーローの戦いが繰り広げられる!!
 ビルの窓からのぞむマイナソーの威容に恐れおののく人々。その巨体に飛びかかり周りを巡って攻撃を続けるリュウソウジャー! 以前なら一方向からのアングルで捉えるしかなかった巨大獣とのバトルだが、ヒーローが激しく移動する様子をカメラが追い続ける画をセットとスーツアクター・CGを複合でデジタル合成することでアクティブでダイナミックなシーンとして見せることができるようになった。
 巨大獣の力と恐ろしさを示し、それに対抗しうる力=伝説の騎士竜の存在・必要性を訴える。しかし騎士竜たちにも意思があり、リュウソウジャーの騎士としての決意を見極めて動き出す「パートナー」としてキャラクターを際立たせる。


 これまでに何度もモチーフとして採用されてきた恐竜。本作では武装した恐竜=騎士竜ということで生物の曲線を活かしつつ、メカ二カルな武装パーツを取り込んだデザインとなっている。
 リュウソウレッドの騎士竜はティラミーゴ。一番の人気恐竜・ティラノサウルスをモチーフに銀色の鎧パーツと、小型のキャノン砲・ドリルを装備しているのが特徴だ。大きな口の噛みつきとテイルアタックが主な攻撃だが、ティラミーゴ単体でロボット形態へ変形することも注目ポイントだ。リュウソウレッドがリュウソウルを投擲するとグングン巨大化! ソウルモードの裏側にはロボ形態の頭部が隠されていたのだ! 胸部にティラミーゴの頭部がセットされた巨大ロボ・キシリュウオーの完成!!
 ブルーの騎士竜はトリケーントリケラトプスの角が長大な剣となっており、手足がかなり小型化されたデザインだ。
 ピンクの騎士竜はアンキローゼ。アンキロサウルスの尻尾が大きなハンマーとなり、トリケーンと統一されたサイズでデザインされている。


 トリケーンとアンキローゼはキシリュウオーの武装パーツとしても運用される。このタイプがキシリュウオースリーナイツだ! 騎士竜たちの様々な部位に共通の突起が装備されており、そこに黒色のジョイントを組み合わせることで、分離したトリケーンの剣やアンキローゼのハンマー、ティラミーゴのテイルさらには頭部までも! キシリュウオーの腕や脚部・肩などに接続して攻撃に使用することができるのだ!!
 ジョイントチェンジと呼ばれるこのシステム、各部の突起を良く見るとなつかしの組み立てブロックではないか! 突起と箱が密着する独自の「渋み」で着脱が自由自在のブロック。テレビシリーズに登場した武装のほかにもオリジナルの組み合わせで様々な武装・合体を楽しむことができる玩具となっているのだ。


 キシリュウオーのバトルアクションはスーツアクターによる激しいライブアクションの迫力が最大の魅力! 直線的な箱組のロボットに比べ、キシリュウオーはメリハリの効いた細身のデザイン。腕・脚部もスリム、さらに腹から腰部も動きやすいシンプルなラインなので膝を高くあげて走ることができるのだ! 下からあおるカメラアングルで土煙を巻き上げながら疾走するキシリュウオーの画はダイナミック! 腰を大きくひねることも可能なため、得物を振り回すアクションも映える。


 グリーンの騎士竜はタイガランス。本作オリジナルの恐竜・タイガーサウルスはほとんど虎! 牙と尻尾をランスで武装している。
 ブラックの騎士竜はミルニードル。これもオリジナル恐竜・ニードルサウルスはほぼハリネズミ! 広い背をスパイクニードルで武装している。
 彼らもティラミーゴとジョイントチェンジすることができ、さらにレッドリュウソウルの代わりにブルー・ピンク・グリーン・ブラックリュウソウルを組み替えでヘッドチェンジすることでキシリュウオートリケーン・キシリュウオーアンキローゼ・キシリュウオータイガランス・キシリュウオーミルニードルへとバリエーション展開する。これらは後の戦いではっきりと差別化する演出を期待したい。


 そして全ての騎士竜を武装したキシリュウオーファイブナイツに合体! 五人の騎士の意思がひとつとなったこの姿で強敵・タンクジョウと対決する。


 ときに厳しくときに優しく、騎士の道へ導いてくれた師匠・マスターレッドの命を奪ったタンクジョウ。その憎しみ・怒りにまかせて無謀な戦いへ突き進むコウ! マイナソーの毒によってトワ・バンバ・アスナが動けなくなるなか、作戦参謀でもあるメルトも倒れ伏す。このまま全員が敗北すれば誰が地球の生命を守るのか? 必死でマイナソーの牙を奪い解毒剤を生み出したことで、コウは悟る。
 ヒーローは個人の憎しみで戦うのではない。過去に目を向けるのではなく、未来に向かって(自らを含めた)ひとつでも多くの生命を救うための戦いをしなくてはならないのだ。コウの理想に共感してキシリュウオーの五体合体を完成させた騎士竜戦隊! 
 地球のマグマパワーを吸収したタンクジョウを地上で撃破しては周囲の市街地を壊滅させてしまう……身体を風船のように膨らませるプクプクソウルでタンクジョウを大空高く舞い上げて、全てのパワーを斬撃に込めたキシリュウオーファイブナイツの最強必殺技=ファイブナイツアルティメットスラッシュが強敵を葬り去った!!


『騎士竜戦隊リュウソウジャー』序盤総括


 コウたちの戦い方を完全に認めたわけではないが、トワの生命を救ってくれたことに頭を下げるバンバ。わだかまりは消えていないが、今後はトワがコウたちとの間を取り持ってくれるだろう。
 第一のライバル・タンクジョウとの戦いを通じて、騎士竜戦隊のヒーローとしての立ち位置を明確にしてきた初期編。ただ理想だけを見せるのではなく、現実を受け入れつつそのうえで理想に向かってゆくことが自身のみならず世界を変えてゆく……様々な情報を受け取ることができる現代。近道を選ぶことは容易いけれども、泥臭くも地道な努力が報われ人の和がひろがることが尊い
 ヒーローの葛藤を複数のキャラに振り分け、バトルアクションにのせて描いてゆく。それが重くなりすぎず熱いドラマへと昇華させるのが、本作の魅力であろう。


 本作はエンディング曲が復活! サンバ調のリズムに乗って、素顔と変身後のメンバー・さらに騎士竜たちも、舞台のかきわり風イラストやビルの屋上・野原など様々な場所で楽しく歌い踊る! 曲調・コンセプトは『キョウリュウジャー』と同じだが、明るく楽しい作風にはこうしたエンディングがベストマッチであろう。


 真正面からの直球勝負で王道のスーパー戦隊を目指す『リュウソウジャー』。これからの展開も注目してゆきたい。


(了)
(初出・『仮面特攻隊2019年GW号』(19年4月29日発行)所収『騎士竜戦隊リュウソウジャー』序盤合評1~5より抜粋)


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 2019年5月31(金)から洋画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が公開記念! とカコつけて……。
 「ゴジラ評論60年史」をアップ!


ゴジラ』評論60年史 ~50・60・70・80・90・00年代! 二転三転したゴジラ言説の変遷史!

(文・久保達也)
(14年7月12日脱稿)

2014年 ~『ゴジラ』第1作リバイバル公開


 14年7月25日公開のハリウッド版『ゴジラ』宣伝の一環としての意味合いが強いのだが、『ゴジラ』第1作(54年・東宝)の4Kスキャン・デジタルリマスター版が、14年6月9日から2週間の期間限定で公開された。


 実は正直、画質も音質もどこが向上しているのか、個人的にはまったく気づかず、こんな「違いがわからない男」ではマニアとしては失格か、と思ったりもする(汗)。
 むしろそうした部分ではなく、これまで再三鑑賞してきたにもかかわらず、今回初めて気づいた演出・描写があったりしたのである。


ゴジラ上陸の被害に遭った大戸島の住民たちが国会で陳情する場面で、故・志村喬(しむら・たかし)演じる山根博士が見解を述べる際、最初スーツからハミ出していたネクタイを、話しながら上着の中に突っこむ描写があること。
 生物学者たるもの、やはり日頃は身なりに無頓着(むとんちゃく)であるということが、こうしたさりげない演出で端的に表現されているようにも思える。
 マニアがいうところの、故・本多猪四郎(ほんだ・いしろう)監督の怪獣映画では、登場人物たちの「日常」がキチンと描かれている、という点は、まさにこうしたものを指しているのであろう。


ゴジラが国会議事堂を破壊する場面に続き、燃え上がる東京の街を背景にゴジラが進撃するのをロングでとらえたカットの中で、ナゼか破壊されたハズの国会議事堂が無事な姿で映っている(笑)。
 これはおもいっきりの編集ミスかと思われるのだけど、これまで星の数ほど出された『ゴジラ』関連書籍の中で、筆者が知る限りでは、これについて指摘したものは皆無だったかと思えるのだが。


ゴジラ東京上陸や品川襲撃の場面など、巨大感を表現する手段として、ゴジラをあおりで撮影したカットが散見されるが、路面電車の架線ごしにゴジラをとらえたカットがあること。
 都電荒川線は現在でも走っているが、それ以外の東京都内の路面電車は67年に全廃されており、ほかの東宝特撮映画では見られない描写ということもあるのだが、画面に奥行きが感じられる味わい深い特撮演出となっている。


・個人的には、山根博士の娘で本編ヒロインの恵美子を演じる故・河内桃子(こうち・ももこ)に、「昭和」の女優が「昭和」の女性――ただし、高度経済成長期以前――を演じている、と痛感し、こうした「絶滅危惧種」に想いを馳(は)せる筆者的にはたまらないものがあったとか(笑)。
 ただし、これはあくまで「個人的趣味」の範疇(はんちゅう)にとどめておくべきものであり、「昭和」の女優&女性が「平成」のそれよりも優れている、などと断言してはならない性質のものである。
 これは「特撮」評論でも同じことがいえるのではなかろうか?


 あと、観客の反応で驚かされたことがある。


ゴジラ東京襲撃の場面にかぶる、


アナウンサー「テレビをご覧の皆さん、これは劇でも、映画でもありません! 今我々の目の前で起きている、現実の出来事なのです!」


なるアナウンサーの実況。


・そして、ゴジラテレビ塔を破壊する場面で、


アナウンサー「右手を塔にかけました! ものすごい力です! いよいよ最後! さようなら皆さん! さようなら!」


と、実況したアナウンサーやカメラマンたちが、テレビ塔ごと地上に落下していく場面。


 これらに対しては、80年代から90年代初めのリバイバル公開では、必ず観客から「笑い」が起きていたものであった。
 現在のようにはジャンル作品がまだ「市民権」を得られてはいなかったこの時代は、80年代が若者たちの間で躁病的な「軽薄短小」のお笑い文化が隆盛を極めた時代であったこともあってか、コアな特撮マニアはともかく文化的なものに多少は関心があってもサブカルチャーの一環としてリバイバル公開を観に来るようなヤング層にとっては、怪獣映画そのものが「お笑い」の対象であったのだが、それをまさしく象徴するような現象であったと、今は思えてならないものがある。
 それが今回は老若男女(ろうにゃくなんにょ)問わず、観客の層は幅広かったが、これらの場面に対し、誰ひとりとして笑い声をあげる者はいなかったのである。
 11年3月11日に起きた東日本大震災津波からの避難に伴う人間模様などを経(へ)ていることもあるかもしれないが、ゴジラの世間における位置づけ、そして観客の意識というものが、時代とともに確実に変化し続けている、とも読みとれるのではなかろうか?


 そうなのである。2014年に誕生から60年、まさに「還暦」を迎えたゴジラだが、その60年というあまりに長い歴史の中で、ゴジラに対する評価の基準もまた、目まぐるしく二転三転の変遷(へんせん)を遂げてきたのである。


1954年 ~『ゴジラ』第1作封切時の評価


 今はなき朝日ソノラマ――07年に朝日新聞社に吸収合併――が78年5月1日に『ファンタスティックコレクション』No.5として刊行した『特撮映像の巨星 ゴジラ』(ASIN:B00CBS4EXI)の巻頭文「刊行によせて」において、昭和から平成に至るゴジラシリーズをプロデュースしてきた東宝の故・田中友幸(たなか・ともゆき)は、『ゴジラ』第1作の公開当時の評判について、以下のように述懐(じゅっかい)している。


「当時の評判はあまり芳(かんば)しくはなく、“ゲテもの”扱いされたものですが、ただひとり、作家の三島由紀夫(みしま・ゆきお)氏が“文明批判の力を持った映画だ”と、高く評価して下さったのを記憶しております」


――故・三島はその後も初期東宝特撮映画をよく観ており、当時の文壇仲間に宛てた書簡の中で、それらについての感想を述べている。いわば特撮「マニア」の先駆けともいえる人物だったか、と思えてならないものがある――


 なお、『ゴジラ』公開翌日の54年11月4日付『毎日新聞』夕刊に掲載された、「ちょっとスゴイ!? 放射能の怪獣『ゴジラ』(東宝)」と題した映画評では、特撮の出来に関しては概(おおむ)ね好意的に評価している一方で、本編部分に関しては以下のように記述している。


志村喬の学者以下人間の方のお話がついているがこっちはあまりうまくない。最後にナントカいう新発明の一物をもって若い学者が海底に潜っていき、ゴジラが一休みしているところにぶっつけるところなんか、やたらに決死隊みたいでかえってナンセンスである。
 人物はどれもセンチメンタルでミミっちく、人臭くてゴジラ氏の感じとちぐはぐだ。何となく科学的で、何となく学者らしいという程度でいいわけだが、その程度の人間を出すのにも日ごろの教養ということになりそうだ。この点外国製はやはりもっともらしい。(O)」


 これは80年代にウルトラシリーズの同人『ペガッサ・シティ』でご活躍されていた籾山幸士(もみやま・こうじ)氏が、82年11月25日に発行した同人誌『特撮資料再録集』に掲載されていたものである。
 同じく籾山氏の同人誌『東宝特撮映画新聞広告集』(発行日不詳)には、出典未記入だが(54年11月3日付『朝日新聞』夕刊)、「新映画」なるコラムにおいて、「企画だけの面白さ 『ゴジラ』(東宝)」と題し、以下のように論評した記事が掲載されている。


「とくに、ゴジラという怪獣が余り活躍せず、「性格」といったものがないのがおもしろさを弱めた。『キング・コング』(33年・アメリカ)の時代と比べても、なんとかなりそうなものであったし、『放射能X(エックス)』(53年・アメリカ)のアリのような強烈さに及ぶべくもない。
 ただ、企画だけのおもしろさはあり、一般受けはするだろう。宝田明(たからだ・あきら)と河内桃子の二人の青年と娘の恋愛が、なにか本筋から浮いているが、これは構成上の失敗だった」


 これらを見るかぎり、当時の『ゴジラ』に対するマスコミの評価は、先にあげた田中の「ゲテもの扱いされた」という証言とは、若干(じゃっかん)ニュアンスが異なるような印象がうかがえる。
 怪獣=ゲテもの=くだらない、などという分析やロジックはなしにレッテルを貼るだけの最初から見くだした紋切り型では決してなかったのである。


 むしろ、ゴジラの登場場面の少なさや、そのキャラクター性の弱さ、いささかセンチメンタルな本編演出など、『ゴジラ』を「特撮映画」として観た場合に、不満が残る点について、あまりに「的確」に指摘されていたのではないのかと、現在の視点からしても思えるほどなのである。


1950~60年代 ~各界の批評家が語った傾聴すべきプレ特撮評論


 実際「新映画」では『ゴジラ』を酷評する一方、映画『空の大怪獣ラドン』(56年・東宝)については「迫力もあり面白い」と題し、以下のように絶賛している。


「『ゴジラ』と同じような設定なのだが、今度の方が大分(だいぶ)迫力があり技術の進歩が見られる。話にこだわらないで見ていると、相当におもしろい。特殊技術の撮影に心魂を打ち込んでいる円谷英二つぶらや・えいじ)の努力を認めたい。
 九州北部の大都市が、ラドンの飛ぶ勢いで、メチャメチャに破壊されるところは、特に見ものだ。自動車や電車がオモチャのように(実際にもオモチャを撮影したのだが)飛ぶところは、理屈抜きに痛快でおもしろい。
 本ものの部分とトリックの部分の見わけも、なかなかつきにくいところもある。三、四年前はアメリカの空想映画と比べて、はるかに劣っていた日本映画も、この作品あたりではかなりのところまで来た。色の調子も悪くない」


 「ゲテもの扱い」どころか、まさに「特撮評論」とはこうあるべき! と、現在でも立派に通用する視点をもって書かれた「名文」であるように筆者には思えるのだが。


 実は『ラドン』については、飛んで70年代前半には映画雑誌『キネマ旬報(じゅんぽう)』(キネマ旬報社)で、今で言うジャンル系映画のレビューを一手に引き受けていた感のある映画評論家の故・石上三登志(いしがみ・みつとし)も、『キネマ旬報1973年11月20日増刊 日本映画作品全集』(キネマ旬報社・73年11月20日発行・ASIN:B00LWS6OEU)で「わが国のSF映画中、ベスト・ワンにおくべき秀作」として、以下のように高く評価している。


ラドン登場に至るまでの様々な伏線がサスペンスを盛りあげ、演出・本多猪四郎としては最良の出来である。
 さらにクライマックスは、終始ロング・ショットでとらえ、大スペクタクルの中に、見事な悲壮美さえ描き出しており、これは特撮担当の円谷英二の功績だろう。
 ここには、怪獣映画を単なる子供だましとは考えず、少なくとも怪獣そのものに“生命”を与えようとする、本来のドラマ作りがあった」


――さらに後年のことだが、年末の復活『ゴジラ』公開が迫る84年夏にも、


「数年前(ゴジラ復活と騒がれ出す前)までは東宝特撮、怪獣映画の中では「ラドン」が最高傑作だというのが最も一般的な意見で、私も「ラドン」を最高傑作だと固く思っていた(今でもそう思っている)一人です。ところが最近は、皆が口を揃えて「ゴジラ」が最高傑作で、後の作品はどれも「ゴジラ」を超えてはいないなどと言うではありませんか」


という意見が『宇宙船』第19号(84年8月号)の読者投稿欄にも掲載されている――


 その一方、封切当時の『キネマ旬報』57年1月下旬号(№167)(ASIN:B01L5OBUNA)で文芸評論家の故・荒正人(あら・まさひと)は、


「空想科学映画の本質は、スペクタクル映画を越えて、文明批判を行う点にあるのではないか。その点で、『ラドン』は反省の余地を残している」


と書いており、マニア第1世代よりも上の世代も、決して一枚岩ではなかったことがうかがえよう。


 さらに『キネマ旬報』61年9月上旬号(№293)では映画『モスラ』(61年・東宝)について、哲学科の大学教員(のちに教授)でもあった故・福田定良が以下のように好意的な評価をしている。


「今度の作品は全体の感じが何となく童話的なので、わざとらしく見えるところも御愛嬌(ごあいきょう)になっている場合がある。
 子供たちが適当にこわがったり、げらげら笑ったりしていたところを見ると、おとぎ話的スタイルはこの作品にふさわしいとも言えそうである」


 筆者はこの『モスラ』を契機に、東宝特撮映画が当時の東宝のキャッチフレーズであった「明るく楽しい東宝映画」へと、文字通りに変貌(へんぼう)を遂げていった、との印象を強く感じている。
 子供が「適当に」こわがり、「笑って」観ていられるという、「怪獣ファンタジー」の路線すらも、当時の『キネマ旬報』では、既に肯定(こうてい)する声が見られたのである。


1960~70年代 ~黎明期のSF陣営が否定した怪獣映画


 だが、50~60年代においては、やはりそうした声は少数派だったようである。


「怪獣があばれまわっているぶんにはこの種の作品として結構たのしめるのであるが、困ったことに脚本家と監督者はいとも現実的なみみっちい場面をもちこみ、小市民映画みたいなぼそぼそとした演出をえんえんとはさみ、なんだか深刻な理屈まで加えて普通の劇映画も及ばぬくらい人物を懊悩(おうのう)させる。
 そのために全体がひどくちぐはぐになり、空想を空想としてたのしめず、うす暗いいやな後味がのこる。
 もちろんこの怪獣によって水爆時代に対するレジスタンスをこころみようという意図があったにちがいない。
 が、それはいささか欲張りすぎだし失敗である」


 『キネマ旬報』54年12月上旬号(№106)で、SF・ホラー映画も批評してきた映画評論家の故・双葉十三郎(ふたば・じゅうざぶろう)によって書かれた『ゴジラ』第1作に対する批評である。『毎日新聞』や「新映画」と論旨は同じであり、『ゴジラの逆襲』(55年・東宝)の娯楽性の方を高く評価した氏は、それはそれで筋が通っている――マニア第1世代の故・竹内博は「双葉十三郎に至っては論外で、大伴昌司の爪の垢でも飲むがよい」と『円谷英二の映像世界』(実業之日本社・83年12月10日発行・ASIN:B000J79QN6→01年に増補版・ISBN:4408394742)で猛反発したが――。


 70年代から現在に至るまでの特撮論壇において、『ゴジラ』第1作を最も『ゴジラ』たらしめているとされている要素、つまり怪獣映画を単なる「ゲテもの」にさせないために付加された部分が、公開当時は完全に「否定」されていたのである!


 だが、だからといって、テーマ性よりもエンターテイメント性を追求するようになったその後の東宝怪獣映画が「肯定」されるようになったかと思えば、決してそういうワケでもないのである。


 明治・大正・昭和初年代の戦前生まれの評論家がまだ多数を占めていた当時の『キネマ旬報』で、70年前後からは「SF」ジャンルに思い入れる世代の評論家が台頭してくる。


「怪獣映画は本来はSF映画の一テーマにすぎないのだが、わが国では独立して論じてもよいほどの特異な存在となる」


と、「前世代」の「SF」プロパーに属する石上(昭和10年代生まれ)が定義したように、「怪獣映画」は「SF映画」よりも一段低いものとする論調が登場したのである。


 「SF」も当時の日本においては新興のジャンルであり、まだ「市民権」を得ていなかった「SF映画」というジャンルを日本に成立させようという使命感にかられて、彼らも伝道活動にいそしんでいたのであろう。
 だが、「SF」プロパーの「前世代」の人々は、『ゴジラ』第1作に限らず「怪獣映画」の存在そのものを、「SF」というモノサシだけで図(はか)って「否定」的に捉えて斬り捨てようとしていたのである。


「63年の『キングコング対ゴジラ』――62年の誤りである・笑――あたりから、この種の作品は“人間不在”の巨獣トーナメント的傾向をたどりはじめ、次第に年少者のみを対象とし、“怪獣映画”なる名称を定着。
 以後それは他社に飛び火し、大映の『大怪獣ガメラ』(65年)、東映の『怪竜大決戦』(66年)、松竹の『宇宙大怪獣ギララ』(67年)、日活の『大巨獣ガッパ』(67年)が誕生。
 これらはすべて、66年の『ウルトラQ』を出発点とする、テレビ用怪獣映画に吸収され、いわゆる“怪獣ブーム”となった。
 わが国の怪獣映画の幼児化現象の最大の要因は、怪獣創造のほとんどすべてを“ぬいぐるみ”方式にたよったことにあり、これは欧米の“アニメーション”方式とは決定的に異なる。
 いいかえれば、わが国の怪獣は、あくまでも中に“人間が入る”スタイルなのであり、そこにすでにイマジネーションの基本的飛躍が見られないのである。
 これは、わが国に本格的SF映画の生まれない理由でもある」


 先にあげた73年発行の『日本映画作品全集』において、当時30代の石上は「怪獣対決」路線へとシフトしていった、わが国の怪獣映画を、日本で本格的なSF映画が生まれない「元凶」であるとして切り捨てている。


 実は石上は『ラドン』とともに、映画『大怪獣バラン』(58年・東宝)を、


東宝怪獣映画中、徹底した攻防戦だけで構成された作品であり、小品ながら大いに評価すべきもの」
――これ自体には筆者も強く賛同する! 実は筆者は隠れ『バラン』ファンであり、個人的には『ゴジラ』第1作よりも面白いと思える!――


として高く評価している。
 だが、『ラドン』も『バラン』も、ひょっとしたら、着ぐるみ以外に飛行タイプの造形物が多く活躍していたことが、石上に評価を高くさせる一因になったのではないか、とさえ思えてしまうほどである。


 ミニチュア特撮が衰退し、CG全盛となったわが国において、平成仮面ライダースーパー戦隊の劇場版で、巨大モンスターが「アニメーション方式」で暴れるようになってから久しい。
 だが、いまだ日本に本格的な「SF」実写映画が生まれていない現状からすれば、その理由となるものが、決して怪獣映画の「ぬいぐるみ方式」にあったのではなかった、という事実は、もはや明白であるだろう。


「この(怪獣)ブームの重要なことは、おとながいままでは、「なんだ、怪獣なんて」ということがあった。ひいてはそれがSFが、普及しないことにもつながっていた。それは一種の習慣だと思うのです。
 ああいうものもある、おもしろいと。それに慣れてきたのは、たいへんいいことだと思います。これで、SFものを次に出してもばかにしないでしょう」


 これは『世界怪物怪獣大全集』(キネマ旬報社・67年5月15日発行・ISBN:4873761913)において、第1次怪獣ブーム時に講談社少年マガジン』巻頭グラビアの怪獣特集や、数々の怪獣図鑑を執筆したことで知られる故・大伴昌司(おおとも・しょうじ)が述べた言葉である。
 怪獣映画の存在が日本で本格的「SF」が普及しない元凶である、としていた石上に対し、石上と同世代でもあった大伴はまったく逆の立場であり、むしろ怪獣映画のブームを契機に、世間一般に「SF」を普及推進させようという狙いがあったのだ。


 だが、第1次怪獣ブームも終焉(しゅうえん)を遂げて久しかった、69年11月20日にキネマ旬報社が発行した『キネマ旬報臨時増刊 世界SF映画大鑑』(ASIN:B07PX8QJX4)において、大伴は、


ゴジラが現れるまでの不安な状態や、異常なパニックの描写が優れ、特撮シーンと本編(劇の部分)との調子が分裂せずに融和している唯一の作品である」
――マニア第1世代が継承し、人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)した「本編と特撮の一体化」理論の誕生でもある。この理論が本当に特撮ジャンルの無謬(むびゅう)の尺度・目標であったのかの疑義については、本稿全体で検証し、結論も提示するつもりだ――


として、『ゴジラ』第1作を高く評価する一方、掲載された「SF映画ガイド」の中では、


「国産の宇宙怪獣映画は、そのほとんどがSFとは認められないので除外した」


と、「SF」の普及推進につながるのならと、67年の『世界怪物怪獣大全集』では擁護(ようご)していた怪獣映画を切り捨ててしまっていたのである。


「どうかみなさんがおとなになっても、たくさんの人たちの心のなかから生まれたすばらしい怪獣たちを忘れないでください」

(大伴昌司「あとがき」・小学館入門百科シリーズ18『怪獣図解入門』小学館 72年7月10日発行・ISBN:4092200188・ISBN0:4092203349)


 小学館入門百科シリーズ15『ウルトラ怪獣入門』(小学館・71年9月10日発行・ISBN:4092200153)と並ぶ怪獣図鑑の「名著」を、第2次怪獣ブームの頃にも手がけていた大伴が、それ以前に先のような見解から、「怪獣映画」を「SF映画」から切り捨てていた。
 「SF性」とは異なり、自身の「幼児性」から来る「ヒーロー」や「怪獣」への理屈抜きの好意や執着を、この時代の特撮ジャンルに関わる人々はまだうまく言説化することができなかったのだろうなと思いつつも、やはり心の底から「怪獣」を好きだったわけではなく、あくまで方便として「怪獣」を擁護していたのかもしれないと、個人的にはかなり複雑な想いも残る。
――「怪獣映画」や「特撮映画」を、「SF映画」のサブカテゴリーだと捉えて心のどこかで卑屈になる必要はさらさらなく、自立した別個のジャンルであると自信を持って言い切れる現在の筆者ではあるものの――


 第1次怪獣ブームが衰退した68年に公開された映画『2001年宇宙の旅』を機に、当時のマスメディアは「SFブーム」を起こそうとしたが不発に終わり、子供たちの間では「妖怪もの」や「スポーツ根性もの」が人気を得るようになった。
 結局は「怪獣ブーム」が「SFブーム」を誘発することはなく、むしろそれとはあまりに相反する「土着的」なものや「肉体的」なものがブームとなってしまったのだが、そうした背景もまた、大伴を「心変わり」させる一因となったのではなかろうか?
 60年代最後の年の末に至るまでの時点では、東宝特撮映画はまだ「神格視」されてはいなかったのである。


1970年代 ~オタク第1世代によるゴジラ東宝特撮の神格化


 だが、70年代になると、手塚治虫(てづか・おさむ)の漫画やアメコミヒーロー、海外SFで育ち、『ゴジラ』第1作に中学生で触れた昭和10年代中盤生まれの小野耕世らが台頭するや、『ゴジラ』第1作を「傑作」として神聖視するようになる。
――小野耕世(おの・こうせい)。映画&漫画評論家、海外コミックの翻訳家として知られる。なんと、元NHKの職員であり、在職当時から早川書房の『SFマガジン』に「SFコミックスの世界」を連載、海外漫画作品の紹介に力を注いでいた。だが73年、ミュージシャンの矢沢永吉(やざわ・えいきち)が所属していたロックバンド・キャロルのドキュメンタリー映画を、ATGで製作したことがバレてNHKを解雇され、それ以降映画やアメコミの評論家になったという、異色の経歴の持ち主である――


「そう、この映画――『日本沈没』(73年・東宝)――が少しも恐くないのは、急速な経済成長をとげた〈豊かな国・日本〉の壊滅を描いているからなのだろう。思えば、「ゴジラ」には、当時の日本人の飢餓感が反映されていて、映画を鮮烈なものにしていたのだ。私は「ゴジラ」を見ながら恐怖に恍惚(こうこつ)となって震えていたことを思いだす。
 再び日本人が飢餓意識にとらわれる時が来るとするならば、SF映画はあの「ゴジラ」の輝かしい緊迫感を取りもどすだろうか」

(『キネマ旬報』74年2月上旬決算特別号(№624) キネマ旬報社


 「恐怖」をキーに、『ゴジラ』第1作を称賛する論法「怪獣恐怖論」が誕生したのだ。
 ただし、当時既に30代である氏も後続の東宝特撮映画にはやはり否定的であり、『キネマ旬報』では映画『惑星大戦争』(77年・東宝)を以下のように酷評している。


「それは、よく見れば、『スター・ウォーズ』(77年・アメリカ)も、かなり荒っぽい映画なのだが、ぐいぐいと観客をひっぱっていくテンポと熱気はすばらしい。なによりも、全編にユーモアがゆたかである。
 その点、『惑星大戦争』は、いやになるほどユーモアがなく、またしても、特攻隊的悲壮感の押し売りには、うんざりしてしまう。
 こうした映画で人間を描かなくては――などという情けないことは、どうか考えないでくださいね」

(『キネマ旬報』78年2月上旬号(№727)・ASIN:B07CMF6BPX


 筆者的には最後の一節にはおおいに賛同するが(笑)。


 50年代から70年代半ばにかけては、国産の特撮映画は、このように概ね酷評される傾向が強かったのである。


 だが、70年代中盤から『PUFF(ぱふ)』『怪獣倶楽部(クラブ)』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20170628/p1)などのアマチュア同人誌活動を展開してきた、1955~60年(昭和30~35年)前後生まれのマニア第1世代(オタク第1世代)のマニアあがりの諸氏が、70年代末期に勃興(ぼっこう)したマニア向け雑誌やムックでゴジラを語るようになるや、状況は一変する。
 同じ頃、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』(77年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20101207/p1)の公開が発端(ほったん)となった「SF」アニメブーム、『スター・ウォーズ』(77年・日本公開は78年)が起こした海外「SF」ブームに付随(ふずい)する形で、第3次怪獣ブームが巻き起こったのである。


 ただ、その当時のジャンル評論の論調は、


・石上が『ラドン』を高く評価するのに用いた、
 子供だましではない、大人の鑑賞に耐えるような、高い「ドラマ性」(人間ドラマ)


・荒が『ラドン』に欠けているとした、
 文明批判をするのが空想科学映画の本質であるとする「テーマ性」(社会派テーマ)


・大伴が『ゴジラ』第1作以外には「皆無」であると断じた、
 「SF性」(SF的リアリズム)


など、それまで『キネマ旬報』において、SFプロパーたちが怪獣映画を「断罪」するのに用いたフレーズを重要視し、その手法をほぼ「継承」する形をとっていたのである。


 当時関西で活躍していた特撮ファンダム・コロッサスによる『大特撮 日本特撮映画史』(有文社・79年1月31日発行・ASIN:B000J8INIE・80年に朝日ソノラマから再刊・ASIN:B000J893VU・85年に改訂版・ISBN:4257031883)では、「“怪獣映画”ばかりが“特撮映画”ではない」とアピールするために、いわゆる怪獣やメカが活躍するキャラクターもの以外の特殊撮影を含んだ作品をも幅広く紹介し、論評が加えられていた。
 そこでは決して怪獣映画が切り捨てられていたわけではないのだが、『キネマ旬報』が怪獣映画を日本で本格的な「SF」映画が誕生しない「元凶」としたように、当時のマニアたちも、日本で本格的な「特撮」映画が誕生しない原因は「マンネリズム」に陥った怪獣映画にあり、それ以外の新たな鉱脈を見つけださねば、日本特撮の「復興」はあり得ない、と考えたのではなかったか?


 「前世代」によるジャンル批判に対抗するための論理として、当時まだ20代前半であったマニア第1世代は、当時の映画評論=社会批評の流儀に依拠(いきょ)することを「戦略」とした――仕方がないことだが、当時においてはそれしかお手本にする理論武装の武器がなかったこともあるのだろう――。


 彼らは日本特撮を「復興」させるためのドグマとして、


ゴジラは「恐怖」の対象であるべきだ。


ゴジラ「正義の味方」ではなく、「悪」の怪獣でなければならない。


・「怪獣プロレス」ではなく、「人間対ゴジラ」を描くべきである。


ゴジラを「反核」の象徴として描くような、
 文明批判・人類批判といった「テーマ」がなければならない。


といった論調で、『ゴジラ』第1作を含む「初期」東宝特撮映画を「神格化」することで、以降の怪獣対決路線や、70年代に興行された「東宝チャンピオンまつり」時代のゴジラシリーズの存在を「否定」していたのである。
 まるでSFプロパーたちが、怪獣映画を「SFではない」として、その存在を「否定」していたように。


「大学生になって上京した昭和50年――1975年――前後、その頃から流行し始めた特撮映画やアニメのオールナイト、あるいは自主上映会などでそれらの作品を再見し、子供の頃に観ていた以上の感動と衝撃を味わったとき、僕は自分が観てきたものが決してプロの映画評論家やSF作家たちがいうように幼稚な内容で、技術的にも稚拙(ちせつ)で、同時代のアメリカのSF映画に比べて見劣りのするものだとは、とても思えないという事実を再確認できた。
 そして、そうやって特撮映画やアニメを貶(おとし)めてきた大人のほうにこそ、大きな偏見があったのだということに思い至ったのだ。
 だから特撮系の同人誌に参加して文章を書き始め、その縁で児童雑誌の編集のアルバイトをするようになってからは、そういった間違った世間の認識を少しでも変えたい、と考えるようになった」

中島紳介・『僕たちの愛した怪獣ゴジラ学習研究社 96年3月1日発行・ISBN:4054006574


「高校生の頃に、「空想創作団」というSFファンダムに所属したんです。ところが、SFの人は活字中心なんです。怪獣なんかは見向きもされない。「おいおい、ゴジラは入らないのかよ」と思わずいいたくなってしまう。
 ヴィジュアルなものは全然といっていいほど、相手にされない。子供時代にそういうものを見てSFに入ってくるんだから、SF史の中で映像セクションというものがあってもいいのじゃないかと思うわけですよ。
 SFはもともと世間の偏見を笑っていた集団ですよ。その集団の中でさらに偏見があるんですからね。特撮とか、怪獣なんかは見もしないで駄目のレッテルを貼られている。
 ぼくなんか、それが悔しいから、何とか特撮映画を映画論として語っていきたかった。『ガス人間第1号』(60年・東宝)や『マタンゴ』(63年・東宝)、『ゴジラ』のドラマ派を重視したのはそのためだった」

池田憲章・『宇宙船』第83号(98年冬号) 98年3月1日発行・ASIN:B007BJ0HWO


 特撮映画やアニメに対する世間の偏見と戦うこと、そして、特撮映画を立派な「SF」として認めさせること。それが彼らを突き動かす原動力となったのである――後出しジャンケンで恐縮だが、それは無意識に「特撮」よりも「SF」を上位に見立てているのだが――。


 そうした動機の部分では、それまでひたすら虐(しいた)げられてきたという経緯を踏まえれば、世間一般に認知させるため、ひいてはこのテのジャンルにイイ歳こいて拘泥(こうでい)する自分自身を正当化するために、当時10代後半から20代前半であったオタク第1世代が、ただの娯楽作品・子供向け作品ではない、と擁護するための手段としてこれらのドグマや論法を採択したのには、同情する余地が充分にあると思える。


 ましてやほぼ同じ頃である、77年6月30日に奇想天外社から発行された『吸血鬼だらけの宇宙船 怪奇・SF映画論』(ASIN:B000J8VDFO)においてさえも、先にあげた石上が『ゴジラ』第1作に対し、


「わが国のSF映画を、奇形のままあらぬ方向へと導いた最大の原因」


「SF映画の無限の可能性をもろくも砕き去った愚劣(ぐれつ)な存在」


などと、いまだ徹底的にコキおろしていたような時代だったのである。


 昭和30年(1955年)前後生まれの中島紳介(なかじま・しんすけ)や池田憲章(いけだ・のりあき)が『ゴジラ』第1作を「神格化」したのも、心情的には充分に理解できるというものである。


 そして彼らは、東宝特撮映画のみならず、円谷プロウルトラマンシリーズに対しても、そうした主張を展開することとなる。


「特撮映画は、特撮以上に本編の部分が重要となる。
 映画にとっては、まずストーリーとドラマだ。
 すばらしい特撮シーンも、特撮に至るまでのドラマの盛り上がりがあってこそ、はじめて生きるのである」

(『ファンタスティックコレクション No.11 SFヒーローのすばらしき世界 ウルトラセブン朝日ソノラマ 79年1月20発行・ASIN:B00CBS4ILQ


 M78星雲光の国の、「ウルトラ兄弟」3番目の戦士・ウルトラセブンが、「変身ヒーロー」や「スーパーヒーロー」ではなく、「SFヒーロー」として定義されたのは、まさに象徴的である。


 本書において、池田は『セブン』全49話の中で、


・第8話『狙われた街』
・第42話『ノンマルトの使者』
・第44話『円盤が来た』


の「SF」風味ないわゆるアンチテーゼ編の3本を「傑作」としてあげ――はるか後年の98年12月20日に発行された『ファンタスティックコレクション ウルトラセブンアルバム』(ISBN:4257035544)に再録されたこの池田の『セブン』総論では、自身の見解を改めたのか、娯楽活劇編の第39~40話『セブン暗殺計画』前後編を追加していたが――、その理由を、


「SFの機能のひとつである現代の寓話(ぐうわ)になり得ている」


と述べている。


 「特撮怪獣番組」をそうした基準によって評価する価値判断は、そうした要素が著(いちじる)しく欠落しているとされた第2期ウルトラシリーズを、彼らが酷評する充分な理由となり得たのである。


1980年代 ~ SF > 初期東宝&円谷 > 変身ブーム。カーストの再生産


 だが、第2期ウルトラシリーズは酷評されただけ、まだマシだったのかもしれない。
 平成仮面ライダースーパー戦隊が隆盛を極める現在からは考えられないかもしれないが、当時は東映が製作した等身大スーパーヒーロー作品なんぞ、「特撮」として認められてはおらず、論壇にのぼることがあるとしたら、「お子様ランチ」の代表=「軽蔑」の対象として扱われるくらいだったのである。
 池田は若い頃にSFファンダムの中で偏見に遭(あ)ったことに不満を述べていたが、当時の特撮ファンダムの中においてさえ、偏見は相似形で既に形成されていたのである。


「いわゆる怪獣ファンダム第一世代、ゴジララドンとともに生まれウルトラシリーズで育った世代の中にあって東映怪人番組のファンであることは偏見との戦いの連続だった。
 我々の年代の中では円谷怪獣番組→大人の鑑賞に耐えるSFドラマ、東映怪人番組→幼児向け単純アクションもの、といった固定観念が厳として存在し、変身ものと言えば『仮面ライダー』(71年)も『快傑ライオン丸』(72年・ピープロ フジテレビ)も『トリプルファイター』(72年・円谷プロ TBS)も十把(じっぱ)一からげに一段低いカテゴリーへ押しやられていたわけである」


 『宇宙船』第6号(81年春号)に掲載された「初期東映怪人番組論」において、故・富沢雅彦(とみざわ・まさひこ)はそう述べたうえで、


・『人造人間キカイダー』(72年・東映 NET→現テレビ朝日)、および『キカイダー01(ゼロワン)』(73年・東映 NET)の「キャラクターの魅力」、


・『イナズマンF(フラッシュ)』(74年・東映 NET)の「ドラマ性」


を高く評価していた。


 また第8号(81年秋号)では、富沢はスーパー戦隊シリーズ『バトルフィーバーJ』(79年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20120130/p1)を「カッコいいヒーロー」として絶賛していたが、その富沢すらも、「昭和」の仮面ライダーシリーズに対しては、


「昭和30年代的感性で作られているからカッコ悪い」


としていたのである。


 意外にも、この時代に遂に最後まで正当に評価されずに終わったのは、現在は「日本特撮」の頂点を極める『仮面ライダー』だったのである。
 81年春にも初期13話のいわゆる旧1号ライダー編だけに焦点をあてた『Town Mook増刊 Super Visualシリーズ4 仮面ライダー』(徳間書店 81年4月25日発行)という先駆的な書籍は刊行されていたが、『ライダー』を本格的に再評価しようとする動きが出始めたのは、84年秋から東映ビデオがビデオソフトのリリースを始めたり、86年春に講談社が『テレビマガジン特別編集 仮面ライダー大全集』(86年5月3日発行・ISBN:4061784013)を発行したりという動きがあった、80年代も半ばに入ってからのことではなかったか?
 そして、その富沢でさえも「昭和30年代的感性」と評した『仮面ライダー』は、のちに「平成時代の感性」でつくられることによって、ゴジラやウルトラに代わる「日本特撮」の「最高峰」として、現在に至るまで君臨することとなったのである。


 この当時の動きを思うにつけ、やはりマニア第1世代の「戦略」には、重大な見落としがあったのかと思える。
 彼らは初期東宝特撮映画や第1期ウルトラシリーズを成長してから再見することにより、「子供の頃に観ていた以上の感動と衝撃」を受けることとなった。
 それと同じように、「東宝チャンピオンまつり」や第2期ウルトラシリーズ東映の変身ヒーロー作品などを、成長してから再見することにより、「子供の頃に観ていた以上の感動と衝撃」を受けた世代が、いずれは社会で発言権を得られるようになるということを。


 チープ・チャイルディッシュ・破天荒(はてんこう)・奇想天外といった要素、ドラマやテーマ性よりも優先された娯楽性や肉体的アクション、そして、実は職人芸的だったストーリーテリングや不条理コメディ……
 マニア第1世代が切り捨て、いっさい文章化しなかったそうした魅力があればこそ、先にあげた作品群に夢中になった人間は、いくらでも存在したハズだったのである!
 案の定、マニア第1世代は90年代以降、そうした世代から「大逆襲」されるハメになる。


「ただ、そのときに戦略を誤ったと思うのは、僕自身が「これは大人の鑑賞に耐え得るドラマで」というふうに、それまでの評論家と同じ論法で作品のイメージアップを図ろうとしたことだ。
 子供向けだから、あるいは単なる娯楽映画だから低級で、大人向けだから、芸術作品だから、社会的なテーマをもっているから高級で――などといった区別は、実はまったく無意味である。
 というより、前にも触れた興行成績や観客動員数による権威づけと同じで、“木を見て森を見ない”の愚を犯すだけなのだ」

中島紳介・『僕たちの愛した怪獣ゴジラ』 96年)


 彼らの活動は、たとえばそれまでは世間一般には「子供向け」と思われていた『ウルトラセブン』にも、「大人の鑑賞に耐える」ドラマが存在することを知らしめることとなった。
 そうした部分では、一定の成果をあげることができたといえるであろう。


 しかしながら、実は「大人の鑑賞に耐える」ドラマもあるんだよ、くらいでとどめておけばよかったものを、それを「絶対的」に崇(あが)めてしまったことが、「諸刃(もろは)の剣」となってしまったのである。


 石上三登志は「SF」を持ち上げるあまりに、『ゴジラ』第1作を「(日本の)SF映画の無限の可能性を砕き去った」としていた。


 それと同様に、初期東宝特撮や第1期ウルトラシリーズを持ち上げるあまりに、後期ゴジラシリーズや第2期ウルトラシリーズや70年代変身ブーム(第2次怪獣ブーム)時代の作品群を「特撮映画の(SF的な方向性での)無限の可能性を砕き去った」とばかりに「否定」するというマニア第1世代がとった戦略。


 それは、


・バラエティに富んだ路線の作品や、
・クールなSF性は欠如していて野暮(やぼ)ったいけど高いドラマ性は達成した作品、
・あるいはノンテーマ、ノンドラマのナンセンスな作品、
・チープでチャイルディッシュな作風でも高いエンターテイメント性を確保している作品、


などなどの別方向での広大な可能性をも「否定」してしまうという、それこそ「特撮映画の無限の可能性を砕き去」りかねないものではなかったろうか?


「怪獣をズバリ恐怖の対象として描いているところが『ゴジラ』の特徴である。
 日本の怪獣映画は『ゴジラ』の頃から、あくまでも“恐怖”から出発し、そしてそれが怪獣映画の本質のはずなのだ」

(『ファンタスティックコレクションスペシャル 世界怪獣大全集』朝日ソノラマ 81年3月20日発行)


 だから「こわい怪獣映画」をつくれば、このジャンルは再び世間に受け入れられるという、現在の観点からすれば実に素朴(そぼく)な「幻想」を元に展開された、当時の「怪獣恐怖論」。
 『世界怪獣大全集』では『ウルトラマン』(66年)や『マグマ大使』(66年・ピープロ フジテレビ)に登場した怪獣たちを、


「ここでは怪獣は完全に「悪役」に回ってしまうわけだが、それでもまだ怪獣の「恐怖」は残されていた」


としている。


 怪獣に「恐怖」――人間にとっての広い意味での一種の「悪」――を求めながらも、「正義」の味方に倒される「悪役」としては描かれてはならない。


 怪獣が登場する物語を終結・着地させるためには、どうやっても「破綻」してしまうこの論理への弥縫(びほう)策として、そもそも怪獣が「ほかの怪獣」や「ヒーロー」なんぞと対決すべきではなく――怪獣に感じる「恐怖」が消滅してしまうから――、あくまでも怪獣は「人間」の勇気や英知と対決するべきである――対峙する人間側が感じる「恐怖」が一応は残せるから――、とする趣旨の主張が垣間(かいま)見える。
――だから、初期東宝特撮ファンの中には、変身ヒーローが登場する第1期ウルトラシリーズの存在さえ許せないとする特撮マニアも存在した。だが、そんな彼らも『ウルトラQ』だけは許せたという・爆――


 怪獣親子の「情愛」を描いた『大巨獣ガッパ』に至っては、


「怪獣というものを、何か勘違いした作品であった」


と手厳しい。


 小学生の頃にテレビ放送された際、子ガッパを探しに静岡県熱海(あたみ)市の温泉街に上陸したガッパの巨大な足が、旅館の宴会場の天井をブチ破り、酔客(すいきゃく)の上に覆いかぶさるカットには、個人的には充分に「恐怖」を感じたものであるのだが。
 「勘違い」はアンタらやろ! といまさらつっこむのも大人げないので(笑)、これについてはのちほど、具体的な現象面を、順を追って例にあげることにより、反論していくこととする。


1983~84年 ~『ゴジラ』復活ムーブメント


 さて、80年代も半ばになると、マニア第1世代よりも少し下の世代、第1次怪獣ブーム期に小学校高学年や中学生ではなく、幼稚園児や小学校低学年だった人々が社会で発言権を得ることとなった。
 ミュージシャンやイラストレーター、コピーライター、作家や漫画家、落語家、学者の卵といった文化人たちが、サブカルチャーの一種として、「ゴジラを語るのがトレンド」とばかりに、一斉に声をあげ始めたのである。


 こうした動きが、80年代当時のマニアの間で起きていた「ゴジラ復活運動」を、強く後押しすることとなったのだ。


 ロックグループ・サザンオールスターズのリーダー・桑田佳祐(くわた・けいすけ)は、著書『ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』(新潮文庫・84年5月1日発行)において、以下のように語っている。


「数ある怪獣の中で、一番しっかりした怪獣なのね。
 完成品に近い怪獣。イイ男、なの。
 プロレスラーで一番イイ男はアントニオ猪木(いのき)。
 プロ野球で一番イイ男は長嶋茂雄(ながしま・しげお)。
 怪獣ならやっぱりゴジラ


 また、当時を象徴する出来事としては、筆者的には女性たちの間で大人気だったアイドルグループ・チェッカーズのボーカル・藤井郁弥(ふじい・ふみや)が、歌謡番組『ザ・ベストテン』(78~89年・TBS)において、「ゴジラ大好き宣言」をしたことが、鮮烈に印象に残っている。
 彼らの2枚目のシングル『涙のリクエスト』が、番組のランキングで5週連続1位を獲得した際(84年4月26日)にそれがなされたのである。
 曲の冒頭では『ゴジラ』第1作の名場面が流れ、間奏部分ではスタジオに用意された簡素なミニチュアセットを、藤井がメンバーの高杢禎彦――たかもく・よしひこ。のちにスーパー戦隊シリーズ星獣戦隊ギンガマン』(98年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19981229/p1)でギンガマンたちに住み家を提供する青山晴彦(あおやま・はるひこ)役でレギュラー出演している――らやゴジラとともに破壊する、というパフォーマンスを披露したのである!
 以来、藤井の所属事務所には連日大量のゴジラグッズがファンからのプレゼントとして届けられるようになったのだが、これは当時の若い世代にゴジラを幅広く再認知させることとなったのである。


 マニアの「怪獣恐怖論」ではなく、「ただの怪獣映画じゃねえか、こんなもん」といわんばかりの、こうしたパフォーマンスの方が、世間一般に対しては圧倒的に影響力が強かったように思う。


『宝島84年10月号』&『ニューウェイブ世代のゴジラ宣言』


 当時サブカル誌の中心に位置していた雑誌『宝島』84年10月号(JICC出版局→現・宝島社・ASIN:B07JBVK7DP――90年代にはいつの間にかアイドルグラビア誌へと変貌を遂げてしまったが・笑)でも『ゴジラ』が特集された。
 ただ、この特集「ゴジラがくる!」中の「ゴジラ・カルチャークラブ」に寄せられた若手文化人たち―――当時流行した80年代ポストモダンニューアカデミズム(現代思想)の旗手である若手学者・中沢新一浅田彰も名を連ねている――の声を見る限り、当時はいくら「サブ」ではあっても「カルチャー」=文化なのだからと、ゴジラになんらかの「象徴」としての意味を求めていた感が見受けられ、マニア向け書籍の影響を直撃した世代でもあったからか、第1作至上主義の傾向が強い。


 なお、論壇誌などで学者がマジメにジャンル作品を論じた第1号がこの中沢新一であり、『中央公論』83年12月号に掲載された「ゴジラの来迎 もうひとつの科学史」がこれに当たる――『雪片曲線論』青土社・85年3月1日発行に収録・ASIN:B000J6VQTO→中公文庫・88年7月9日発行・ISBN:4122015294)――。


 『ニューウェイブ世代のゴジラ宣言』(JICC出版局・85年1月1日発行・ASIN:B00SKY0MJW――「ニューウェイブ」という用語自体がモロに80年代前半!・爆)に掲載された「ゴジラ映画30年史」では、まさに当時の「ゴジラ観」を象徴する文面が踊っている。


「(作家)筒井康隆(つつい・やすたか)の疑似(ぎじ)イベントSFを思わせるような、ブラック・コメディの傑作だが、これ以降の怪獣映画が「恐怖」を失った原因ともされる作品である」(『キングコング対ゴジラ』62年・東宝


「怪獣どうしが闘う場所を、広大な空き地にしてしまったのがこの映画の罪である」(『モスラ対ゴジラ』64年・東宝


――以上は、約10年前の本誌バックナンバー『仮面特攻隊2004年号』(03年12月29日発行)にて自主映画監督としても名を知られた特撮同人ライター・旗手稔が中心となった「日本特撮評論史」大特集に採録されていた図版コピーからの引用で、当の『ゴジラ宣言』の書籍自体は手許にないので記憶になるが、当時タレントのタモリによる、名古屋をバカにするネタがウケていたためか、本作については確か「舞台が名古屋だからダメだ」とも書かれていたような・爆――


「ついにゴジラにガキまでできた。もうゴジラもダメである」(笑・『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』67年・東宝


ゴジラシリーズ最低の内容である。福田純(ふくだ・じゅん)監督にとって映画作りは、生計の手段でしかないのだろうか。その彼が、この映画ではシナリオまで書いているのだから頭が痛い」(『ゴジラ対メガロ』74年・東宝


 「怪獣恐怖論」のみならず、「怪獣映画では都市破壊が描かれねばならない」とか、「子供だましはダメ」だとかいう、当時のマニアの主張がここでも展開されている。


 しかも、


・故・円谷英二特撮監督=「善」、中野昭慶(なかの・あきよし)特撮監督=「悪」


本多猪四郎本編監督=「善」、故・福田純本編監督=「悪」


・故・伊福部昭(いふくべ・あきら)の音楽=「善」、故・佐藤勝(さとう・まさる)の音楽=「悪」


といった、あまりに素朴で極端な「善悪二元論」により、「善」のスタッフによる作品は「善」であり、「悪」のスタッフによる作品は「悪」である(爆)などという基準が、各作品の評価にものの見事に反映されていたのである。


――「過去の作品から映像を大量に流用している」とか、「子供が主人公である」といった理由により、それまで特撮マニアからは「駄作」扱いされていたハズの映画『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』(69年・東宝)が、本書では児童ドラマとしての出来のよさを批評的に語るというより、「本編監督が本多猪四郎だから」というロジック(爆)によって、史上初めて「傑作」として扱われたようにも記憶する。
 本書ではなかったと思うが、怪獣が1体しか登場しない作品は優れており2体、3体と数が増えていくほど劣っていくという論法などなど、むかしは色々あったよな・笑――


 当時のマニア間では、こうした妙な尺度により、60年代後半から70年代にかけ、娯楽志向や子供向けの作風が強まり、ゴジラが悪役から正義の味方へとシフトしていった昭和の後期ゴジラシリーズは、「下等」な存在として「断罪」されていたのだ。


1984年12月 ~復活『ゴジラ』公開とその反響


 実は「ゴジラがくる!」や「ゴジラ映画30年史」の構成と文を担当したのは、現在はコラムニストや映画評論家として、マニアの一部では広く知られているであろう、当時はJICC出版局→宝島社の編集者であった町山智浩(まちやま・ともひろ)だったりする。


 ところで町山が翻訳(超訳?)を担当した、『オタク・イン・USA(ユー・エス・エー) 愛と誤解のAnime輸入史』(太田出版・06年8月9日発行・ISBN:4778310020ちくま文庫・13年7月10日発行・ISBN:448043061X)では、著者のパトリック・マシアスが、『ゴジラ』(84年・東宝)について、以下のように評している。


「うーん、確かにかったるくて意味なく重い映画で、自分勝手にシリアスで、(ヒロインを演じた)沢口靖子(さわぐち・やすこ)の聖子ちゃんカット――当時の人気アイドル・松田聖子(まつだ・せいこ)に似せた髪型――は巨大すぎる」


 この指摘、ほぼ、いや、完全に的を得ている(爆)。


 ちなみに、『オタク・イン・USA』の著者のパトリック・マシアスは、雑誌『Otaku(オタク) USA Magazine(マガジン)』の編集長である。
 氏は6歳のときに深作欣二(ふかさく・きんじ)監督の「SF」映画『宇宙からのメッセージ』(78年・東映)を観たのを機に、日本の特撮・アニメ・マンガにハマってしまい、今日(こんにち)に至っている。
 なお、この『宇宙からのメッセージ』は全米で程々にヒットを飛ばしたにもかかわらず、国内での興行は失敗に終わっている。
 国内での失敗について、先にあげた『大特撮』では、本作が『スター・ウォーズ』のブームにあやかった「借りもの」の映像作品だからであり、「オリジナリティ」に欠けていたから、などと分析している。
 だが、それならば『スター・ウォーズ』の本場であるハズのアメリカで「パクリ」と非難されるどころか、むしろヒットしてしまった理由の説明がつかないワケであり、問題の本質はもっと別の部分に存在したのではなかろうか?
 なんせ同じ頃にヒットしていた映画『スーパーマン』(78年・アメリカ 日本公開は79年)と、「語感が似ている」として輸入された『スペクトルマン』(71年・ピープロ フジテレビ)が好評を得てしまったほど、アメリカではブームにあやかった「借りもの」は立派に通用したのだから(笑)。


 上は20代後半に達したマニアたちのゴジラ復活運動と、サブカル界で起きたムーブメントが80年代前半に渾然(こんぜん)一体となって盛り上がったことにより、遂に84年末、ゴジラは復活した。観客動員数360万人、84年度の邦画興行成績では第2位を記録するなど、興行的には立派に成功をおさめた。


 にもかかわらず、この花火を一発打ち上げただけで、せっかく巻き起こった「ゴジラ・フィーバー」――表現が古いか?・笑――は急速に萎(しぼ)んでしまい、単なる一過性のブームに終わってしまったのである。
 続編は元号が「昭和」から「平成」と変わった年に公開された映画『ゴジラVSビオランテ』(89年・東宝)に至るまで、5年間も製作されることはなかったのである。


 マニアたちは「第4次怪獣ブーム」が「幻」に終わってしまったことをおおいに嘆いたものであった。
 「怪獣恐怖論」を忠実に反映し、「こわい」「悪役」のゴジラが描かれたハズなのに、どうしてそうなってしまったのか?


 それどころか、当時の『宇宙船』では、確かこれは特撮ライター・聖咲奇(ひじり・さき)の発言だったと思うのだが、


「少なくともこれはマニアが望んでいたゴジラではない。そのことはハッキリしていると思う」


って、オイ!(笑)


 マニアが望んでいたように、せっかく東宝が「こわい」「悪役」のゴジラをつくってくれたのに、それが「マニアが望んでいたゴジラではない」って、どういうこっちゃ?(爆)


「物書き仲間には、「ひどい作品でも褒(ほ)めないと興行的に失敗するかもしれない。そうなったら、日本から特撮の火が消える」と主張する人達もいた。
 しかし、僕にはとても納得出来なかった。くだらんものは、くだらんのだし、そういうジャーナリズムの無責任が特撮映画の質の低下につながったのではなかったか」

聖咲奇・『宇宙船』第72号(95年春号) 95年6月1日発行)


 これは10年飛んで95年の発言だが、96年のゴジラ書籍で、自分たちのかつての「戦略」の「失敗」を潔(いさぎよ)く認めていた中島紳介とは、あまりにも対照的である。


 84年版『ゴジラ』の不評の原因は色々な要素が複合しており、「怪獣恐怖論」を作劇に採用したからダメになったのだ、などとはもちろん単純には言えない。
 だが、少なくとも聖は、作品を「くだらん」というレッテル貼りの一言で片づけず、せめて、「怪獣恐怖論」という「戦略」が、「万能」ではなかったことにも思いを馳せて、そこをこそデリケートに腑分(ふわ)けして分析、言説化していくべきであったと思える。それこそが、ジャーナリズムの「責任」ではなかったか?


1960~80年代 ~ゴジラ東宝特撮・イン・USA


 さて、これに関連して、先にあげた『オタク・イン・USA』の中で、実に興味深い話が紹介されている。


 映画『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(65年・東宝)、ゴジラ映画『怪獣大戦争』(65年・東宝)、映画『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(66年・東宝)などを、東宝と共同製作したベネディクト・プロの持ち主だったヘンリー・G・サパスタインの話である。


 サパスタインは映画の放映権をテレビ局に販売する事業を展開していたのだが、60年頃、テレビ局がSF映画を欲しがっていることを知り、そこで目をつけたのが東宝の怪獣映画だったのである。


 ロサンゼルスにあった日系人向けの映画館で『ゴジラ』第1作――といっても、「核」に関するくだりをいっさい削除し、アメリカ人俳優のレイモンド・バーが出演する場面を追加した『Godzilla, King of the Monsters!』(56年・57年に日本公開・邦題『怪獣王ゴジラ』)の方であり、オリジナルの第1作が全米で初公開されたのは、実に初封切から50年目の2004年のことである――を試しに観たサパスタインの目に映ったのは、東京の街を破壊し、炎で焼き払うゴジラを、まるで「ヒーロー」に対するかのように、「応援」する観客たちの姿だったのである!


 「反核」の象徴どころか、少なくとも60年頃のアメリカではゴジラは、「恐怖」の対象ですらなかったのである!


 サパスタインは東宝と契約を交わし、北米におけるゴジラシリーズの劇場とテレビへの配給権、さらにはマーチャンダイジング権すらも手に入れた。
――『サンダ対ガイラ』にクラブ歌手役で出演しているキップ・ハミルトンなる女優は、サパスタインの恋人だったとか(笑)。なお、本文では「彼女はガイラに食べられてしまうが」と書かれているが、これは誤り。ガイラの手に握られるものの、光を嫌うガイラに照明があてられたことにより、間一髪難を逃れているのだ。もっとも同じ誤りは往年の書籍『大特撮』も犯していたが(爆)――


 そして先にあげた3作品を共同製作するに至るのだが、『怪獣大戦争』の際、氏は東宝に以下のようなアドバイスをしたというのである!


ゴジラを明快なヒーローにするべきだ。何かのややこしいメタファーじゃなくて。
 もし私の言うとおりにすれば、ゴジラは世界的ブームを巻き起こすだろう」


「古典的な勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の話がいい。ゴジラは10ラウンドまで敵に打たれ続けるけど、最後に逆転勝利するんだ」


 『怪獣大戦争』以降のゴジラシリーズが、人類の「味方」という側面を強くしていったことを思えば、時期的にはこれはピッタリと符合する。
 また、映画『ゴジラ対ヘドラ』(71年・東宝)や、映画『地球攻撃命令 ゴジラガイガン』(72年・東宝)のクライマックスにおいて、公害怪獣ヘドラやサイボーグ怪獣ガイガン――かつては腹部の回転カッターが「幼児でも思いつきそうなアイデア」と酷評されていた・爆――に大苦戦した末に勝利するゴジラの姿は、まさにサパスタインがアドバイスしたとおりなのである!


 60年代半ば当時、政府が支援をしてまで、輸出による外貨獲得のために特撮映画が盛んに製作されていたという背景を考えれば、東宝ゴジラシリーズの方向転換をしたのは、怪獣映画の観客に占める子供の比率が次第に増えていったこと、『ウルトラQ』『ウルトラマン』を筆頭とする第1次怪獣ブームも起きたからそれに合わせたということが主因であろうが、サパスタインのアドバイス東宝首脳陣たちの心の隅っこにあったからこそ背中を押したのではないか、と思えてくるのである。
 ゴジラが「核」のメタファー(隠喩(いんゆ))から、「勧善懲悪」のヒーローへと変貌を遂げたのは、世界的ブームを巻き起こすためであったのか!?(笑)


 マニア第1世代はそうした事情は知る由(よし)もなかったであろうが、少なくともこれによって、ゴジラの海外への販売・浸透ははるかにやりやすくなったハズである。


 もしサパスタインのアドバイスを聞かずに、どこか愛嬌もある戦う「ヒーロー」ではなく、「反核」「恐怖」としての姿だけを60年代後半以降もずっと貫いていたならば、果たしてゴジラは、世界的に知られるキャラクターに成り得ていたであろうか?


 「昭和」のゴジラシリーズが休止になって以降も、サパスタインはゴジラグッズを販売することで儲(もう)け続けたが、それらはどれもケバケバしいアメコミ調のデザインであり、本物のゴジラにはまるで似ておらず、パチモンみたいな出来であったようだ。
 しかしながら、84年版『ゴジラ』公開の際、サパスタインが香港のインペリアル社に作らせたゴジラ人形は、1年でなんと300万個(!)も売れたらしい。
 かつて日本でマルサン商店ブルマァクが出していた怪獣ソフビ人形も、派手な原色の整形色に蛍光(けいこう)スプレーが着色されているなど、本物とは似ても似つかない装(よそお)いだったものである。
 だが、玩具としては実際その方がよく売れたのだ。


 この点に関しても、とかくマニアたちは、派手な原色のケバケバしいデザインの怪獣や超獣を嫌う傾向が強く、黒や茶色などの地味な色合いの怪獣を好んだものである(笑)。
 だが、派手でケバケバしいコンセプトでデザインされているからこそ、平成ライダーの変身ベルトやスーパー戦隊の合体ロボの玩具はバカ売れしているワケであり、それがまさに作品の人気を不動のものにしているのである。


「私が言いたいのは、ゴジラというのは単なる映画のシリーズではないということだ。ゴジラはひとつの産業なんだよ」


 映画そのものよりも、版権商売の方が儲かるということを、サパスタインはアメリカで最も早く気づいた人物であるとされている。
 これまであげてきた彼の戦術を、日本の映像産業も学ぶべきだと思えてならないものがある。


 そのためには、作品やキャラクターを、あくまでひとつの「商品」である、と割り切る発想が必要なのだ。
 その数を多く、幅広く売ろうと思えば、それが「マニア」ウケではなく、「大衆」ウケすることが「必須」条件であるのは、いうまでもなかろう。
 「こわい」ものや、「ややこしいもの」では、販売数を増やすことはできないのである。


1990~2000年代 ~「怪獣恐怖論」の去就


 これは先にあげた、『キネマ旬報』における61年版の元祖『モスラ』評の中にも、よいヒントが隠されているように思える。


 観客の子供たちの反応として、


「適当にこわがったり、笑ったりしていた」


とあるが、この「適当に」という点がポイントであるように筆者には思える。


 まったく「恐怖」が感じられない怪獣というのも、子供には魅力が感じられないのかもしれず――筆者的には『ゴジラの息子』で初登場したゴジラの息子=ミニラの、あからさまに人間の乳幼児の仕草を表現した、まったく「恐怖」が感じられないスーツアクターによる演技を、「絶品」だと思っているほどなのであるが――、「ある程度」こわがらせてくれる、というのが、キャラクター的にはちょうどいいのであろう。


 これがサジ加減を間違えると……


「怖いゴジラでは集客に自信がなかったのでしょう。その結果、観客動員数は前作と比べ80%も増えたのです。
 ただし、怖いゴジラハム太郎とでは水と油。ハム太郎目当てにやってきた園児たちが、ゴジラを観て泣き出す騒ぎが続出したため、劇場入り口には注意書きまで張られる始末です」

(映画記者・『週刊文春』02年6月30日号)


 時代が飛ぶが、70年代末期~90年代初頭の特撮論壇で隆盛を極めた「怪獣恐怖論」を、異論はあろうがわりと忠実に継承・体現したと思われる映画『ゴジラ2000 ミレニアム』(99年・東宝)が200万人、続く映画『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』(00年)が135万人と、90年代前中盤に大ヒットを記録した平成ゴジラシリーズ休止から4年を経て再開したミレニアムゴジラシリーズは、観客動員数の低迷を続けた。
 その救世主として、当時の子供向け人気アニメ『とっとこハム太郎』(00年)の劇場版を併映するも、「凶暴な悪役ゴジラ」を表現するため、眼球のない「白目」で造形されたゴジラが登場した映画『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(01年・東宝)は、「怪獣恐怖論」にいまだに固執(こしつ)していた古いタイプ(失礼)の特撮マニアや、マニア向け映画誌『映画秘宝』などではカルト的な評価を得たが、先にあげたように幼い観客からは「拒絶」されるハメになる。


 既に少子化が顕著になっていたこの時代、『ハム太郎』を目当てにやって来た幼児たちを新たなファンとして開拓するという試み自体は、将来的な展望からすれば、うまくやれば戦略としては充分に機能するハズだったのである。
 だが、「こわすぎる」ゴジラは幼児たちのトラウマとなってしまい、新たなファンを開拓するどころか、ゴジラという存在を、この世代にとって「必要のないもの」にしてしまったのだ。
 2014年現在、既に彼らも10代後半にさしかかっているハズだが、果たして00年代前半に子供であった世代の中でゴジラに思い入れが強いファン・マニアは、90年代までの子供時代にゴジラや怪獣たちに接した世代ほどには、ある程度規模のあるマス層としては存在していないのではなかろうか?
 「こわい怪獣映画をつくれば世間に受け入れられる」とした「怪獣恐怖論」は、やはり「幻想」でしかなかったのである。


 その一方、平成ゴジラシリーズで「400万人」(!)という、最高の観客動員数を記録した映画『ゴジラVSモスラ』(92年・東宝)は、いわゆる怪獣の「恐怖」を描いた作品ではなかった。『キネマ旬報』で元祖『モスラ』を評するのに用いられた、「おとぎ話」という作風を継承した作品だったのである。


 元祖『モスラ』では、当時の人気女性デュオだったザ・ピーナッツにインファント島の「小美人」を演じさせていた。彼女らを起用することで「歌謡映画」「アイドル映画」としての側面も持たせたことにより、集客に成功したという点は大きいと思える――ちなみに『ゴジラVSビオランテ』と『ゴジラVSキングギドラ』(91年・東宝)の間に大森一樹監督が構想した流産企画『モスラVSバガン』でも、小美人をバブル期当時の超人気デュオ・Wink(ウインク)に演じさせる想定であったとか(笑)――。


 『ゴジラVSモスラ』でも、当時の東宝シンデレラあがりの新進女優ふたりが小美人=コスモスを演じ、「モスラの歌」を歌唱した。


 モスラが幼虫から生物感あふれる蛾(が)というよりもヌイグルミのパンダのようにモフモフした(笑)成虫へと変貌を遂げる場面では、観客の女子児童――平成ゴジラシリーズの観客層の中心は、ウルトラマンシリーズや東映ヒーローの劇場版とは異なり、「幼児」ではなく「小学生」だった!――から「かわいい!」「きれい!」などの「感嘆(かんたん)」の声があがっていたのである!


 もちろん愛玩動物のような平成モスラの造形に対する特撮マニアの批判が当時もあるにはあった。しかしそれに対して、技術やセンスの未熟ゆえではなく、作品自体や造形のコンセプト自体がリアリズム至上ではなくマイルドでファンシーになっていることに気付いて、複雑な気持ちになりつつも、意図的に確信犯でそのように造形・演出されているのだと正しく指摘する者もいた。


 90年代に入ると特撮マニアも上の方は30代に達して、それより下の若い世代も既に特撮批評の蓄積が充分ある時代ゆえにスレてきて、自己のそれまでの信念を多少は相対化できるようになったせいか、個人としてはその特撮映像クオリティに必ずしも讃嘆はできなくても、その隣で少女たちが「かわいい!」「きれい!」と称賛する声と、自身の感慨とのあまりにものギャップにアイデンティティが揺らいでいる旨の述懐が、当時の特撮雑誌『宇宙船』のライター陣による合評記事や読者投稿欄などでは散見されたものだ。


 思えば筆者が小学生の70年代中盤の頃は、決してマニア気質の強い子供ばかりではなく、ゴジラガメラは当然としてギララやガッパすらも、小学生男子であれば「一般常識」としてクラスの大半の者が知っているのが当然だったのである。
 そして、当時の筆者たちは、ゴジラガメラ、ギララやガッパが、「こわい」から好きなのではなかったのだ。


 『ゴジラVSモスラ』で描かれた、「リアル」とは対極にある「ファンタジック」な要素。
 映画『ゴジラVSキングギドラ』で描かれた、「怪獣」はもちろんだが、「未来人」に「タイムマシン」、「アンドロイド」に「メカキングギドラ」といった、「男の子」であれば「ワクワク」を感じずにはいられない「非日常的」な要素。
 オタク第1世代の大勢からは蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われた「平成ゴジラシリーズ」が、「小学生」の間に怪獣映画を幅広く認知させるのに成功したのは、まさしく筆者たちも子供の頃に夢中になった、「スーパーメカ」や「宇宙人」や「南海の孤島・怪獣ランド」に類するものが描かれていたからだったのだ。決して怪獣の「恐怖」なんぞではなかったのである。


 90年代後半に、ゴジラが4年も眠りについている間に登場したアニメ『ポケットモンスター』(97年~)などにマーケットを奪われてしまったのも、かつての怪獣映画には存在したそうした要素を『ポケモン』が継承しているにもかかわらず、その元祖であるハズのゴジラでそれらが描かれなくなってしまったためではないのか?


1990年代 ~平成ゴジラシリーズ時代のゴジラ観の分裂


 こうした新たな「現実」から、マニアの『ゴジラ』観にも変化が見られた。


 インターネットがなかった90年代前半、「平成ゴジラ」の商業的成功に「日本特撮の再興」を夢見た、オタク第1世代よりも下の世代の当時20代のマニアたちは、『宇宙船』やケイブンシャから92~96年に年2回、刊行されていた『ゴジラマガジン』(ASIN:B00BN0GOYC)の読者投稿欄や特撮評論系同人誌などで、「平成ゴジラシリーズ」各作の出来に一喜一憂を表明していた。


 それだけでなく、『ゴジラマガジン』の作品人気投票の読者コメント欄などで、70年代末期~80年代に望まれていたリアル&シミュレーション路線ではなく、SFやファンタジーやチャイルディッシュな方向に傾斜していく「平成ゴジラ」の作風を肯定したり、『ゴジラ』第1作の神格化に疑義を呈して相対化してみせたり、70年代の東宝チャンピオン祭り時代の昭和の後期ゴジラシリーズをも再評価・肯定するような論調も多々見られたのだ。


 しかしながら、『ゴジラVSビオランテ』『ゴジラVSキングギドラ』の監督・大森一樹(おおもり・かずき)の


「“昔はよかった”と言うのはもうよしましょうよ」


という発言が、大勢のマニアから反発を食らったように、自由奔放(ほんぽう)な作風の「ファミリー路線」として製作された「平成ゴジラシリーズ」は、いくら興行的には大成功していても、あるいは『宇宙船』に80年代末期に新たに参加した編集者――のちにアニメ・特撮の脚本家となる古怒田健志(こぬた・けんじ)と、90年代末期以降は『ハイパーホビー』誌で編集者を務める江口水基(えぐち・みずき)――や、本同人誌主宰者に本誌古参寄稿者たちをも含む(爆)『宇宙船』読者投稿欄の常連投稿者たちの一部が「平成ゴジラシリーズ」の奔放な路線を肯定して、「特撮論壇」の風潮がいっときは変わるかのように見えても、当時の特撮マニアたちの大勢にはそれは気に食わないことだったようである。


 先の中島紳介による、かつての自身らの「戦略」が誤っていたとする発言のラストであげた例えとは真逆になるが、当時は「視聴率」「興行成績」「玩具売上高」で作品を少しでも語ろうものなら、潔癖(けっぺき)にも「権威主義」「視聴率・商業主義こそ悪である」として罵倒されていたくらいなのである(笑)。
 「平成ゴジラ」の興行が成功したのは「大衆」への「迎合」によるものであり、それこそが「諸悪の根源」であるなどという、現在で言うところの「中二病」的な実に浮き世離れした主張がまかり通っていたくらいなのだから(爆)――特撮マニアのほとんどだれもが、特撮ジャンルの継続には興行成績・玩具の売上高なども大切だよね、ということが充分にわかっている現在とは隔世の感――。


「振り返ってみれば、VSシリーズは、マニアや熱心なファンをターゲットにはしない、ファミリー路線ということだろうか。
 もちろん、ドキュメント映画のような昭和のゴジラのリアルなモンタージュは、スピーディーな現代の見せ方でないかもしれない。
 昭和から平成に変わって、湾岸戦争(91年)、雲仙・普賢岳(うんぜん・ふげんだけ)災害(91年)、オウム(真理教)の地下鉄サリン事件(95年)など、信じられない光景が次々と報道されるなか、ゴジラのドキュメントのインパクトはもはやそれらに及ばない。現実の事件・事故・災害がはるかに想像力を越えていたからだ。
 そこで、子供たちを飽きさせないため、ゴジラが数分おきに登場する作劇が計算された。ゴジラ自体も生物の息吹(いぶき)をリアルに見せるのではなく、ゲームのキャラクターのように分かり易く描かれた。特に怪獣の出す光線とミニチュアの爆発は、チャンピオンまつり以上に連発された。
 スタッフとマスコミとファンとが遊離した時代……」

(ヤマダ・マサミ「ゴジラという現象」・『ゴジラ/見る人/創る人―at LOFT・PLUS ONEトークライブ』ソフトガレージ 99年12月26日発行・ISBN:4921068453


 何かのメタファーではない、わかりやすいキャラクターのゴジラが数分おきに登場し――これはオーバーだが・笑――、派手な光線をブッ放してミニチュアを爆破させて大暴れする!
 これこそがゴジラ最大の魅力であり、それをメインで描くことで、マニアや熱心なファンではなく「小学生」を中心とする観客にウケたことこそ、「平成ゴジラ」が興行的に成功した要因であることがわかっているハズなのに、自分たちが主張してきた「恐怖」だの「リアル」だのとは相反する要素で「平成ゴジラ」が成功したことに対し、やはり当時のマニアの大半は素直に受け入れることができなかった、というところであろうか?


 ヤマダが構成・執筆を担当した、「特撮」や「SF」ですらなく「幻想映画」という斬り口で東宝映画のあまたのジャンル系作品群にアプローチした竹書房の『ゴジラ画報 ―東宝幻想映画半世紀の歩み』(93年12月9日発行・ISBN:4884752678→『GODZILLA』1998年版公開に合わせて増補『ゴジラ画報第2版』98年7月発行・ISBN:4812404088→『ゴジラ2000』公開に合わせて増補『ゴジラ画報第3版』99年発行・ISBN:4812405815)が刊行され、映画『ゴジラVSメカゴジラ』(93年・東宝)が公開された93年も押し迫った頃、ひとりのマニアあがりの若手評論家による『ゴジラ』第1作至上主義を暴走させた書籍が物議(ぶつぎ)を醸(かも)し出すこととなった。


 それは『さらば愛しきゴジラよ』(著・佐藤健志(さとう・けんじ) 読売新聞社 93年11月10日発行・ISBN:4643930802)である。


「問題点を指摘する前に、著者の論旨を要約しておこう。著者は「恐ろしい脅威」として象徴的なリアリティーを持つ怪獣を


①人間社会にとって外部的(非日常的で異質)


かつ


②人間社会を襲撃し、大規模な破壊をもたらす存在


と定義したうえで、「正統的な怪獣映画」とは、そういった怪獣が「人間の正義と力によって撃退される物語」としている。
 そして歴代すべてのゴジラ作品の対立の図式を分析しながら、昭和29年の第1作では満たされていた前記の条件がいかにして崩壊していったかを論証しようとする。


(中略)


 結局、著者はゴジラを愛しながらも、自身の中で第1作しか認知することができないのである。ジレンマに苦しみそれを正当化するために以降の作品を否定し支配しようともがいているのだ。その心情は実は非常によく解る。
 なぜならそれは、84年の復活ゴジラ以前のファンダムに広く見られた感情だからだ。当時のファンダムには、第1作を至上とするファンの比率も高く、ゴジラの一般的な評価もこれからという時期だったため、ゴジラ作品は第1作たるべしという認識が支配的だった。そのため後期の作品がお子様ランチと呼ばれて必要以上に過小評価されることも多かった。第1作をリアルタイムで鑑賞した世代にとってそれは正論である。
 だが、昭和41年生まれ――1966年生まれ――の著者がこの世代の感覚を持ち得るはずがない。昭和30年代以降に生まれた世代のほとんどが愛していたのは子供のころ親しんだ対決路線、もしくはまさにお子様ランチと呼ばれる後期シリーズのゴジラだったのだ。それらの作品が無ければ、現在ゴジラがこれ程多くのファンに支持されていただろうか?
 それはいい歳をして怪獣映画などに夢中になっている自分を肯定できないいらだちの表れでもあっただろう。時代的に、ファンがまだ大人として自分の中の幼児性を客観視することに慣れていなかったが故(ゆえ)の苦しみだったのだ。
 権威主義的な映画ジャーナリズムの中で唯一正当に評価されていた昭和29年の『ゴジラ』――引用者註:先にあげてきた1950~70年代後半までの『ゴジラ』の評価を思えば、これはやや正確さには欠ける指摘であるようにも思えるが、70年代後半以降はその評価を「不朽の名作」であるかのように盤石(ばんじゃく)にしていったのも事実だろう――を免罪符にし、後期作品をいけにえに捧げることが救済の道だった。
 この行為の繰り返しが『さらば愛しきゴジラよ』の正体である」

古怒田健志・「ゴジラ論」10年の呪縛(じゅばく)を解(と)く。・『宇宙船』第67号(94年冬号) 94年3月1日発行)


 80年代に怪獣映画の時代は終焉し、既にゴジラ映画は時代の後ろ盾を失っていると結論づけ、今後のシリーズ制作を発行年に27歳になった佐藤は完全に否定。
 そのくせ、失礼ながらあまり出来がいいとは思えない自作の長大なシノプシスを掲載し、これをシリーズを終結させる作品として映像化したら大成功する! などと自画自賛する始末(爆)。


 佐藤は『さらば愛しきゴジラよ』を上梓した93年の前年92年にも『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文藝春秋・92年7月25日発行・ISBN:4163466606)を刊行。今ではともかく当時はとても珍しかった、「戦後」や「戦後民主主義」を批判・相対化もしてみせる右派的な論客の走りとして実質的なデビューを果たした。
 右派的な観点から、それまでのアニメや特撮の評論における常識・スタンダードを引っ繰り返していく論法はとても鋭いものがあり、見るべきものも大いにあったと思うが、それはまた左派的なマニアの反発を大いに買う内容のものではあった。


 とはいえ、そんな逆張りを得意とする佐藤でもまだ、『ゴジラ』第1作至上主義や第1期ウルトラシリーズ至上主義、ひいてはドラマ性やテーマ性至上主義、ハードでシリアスな作風の至上主義といった、往時主流であった原理主義的なテーゼ自体の逆張り・相対化はできていなかったようである。
 よって、特撮作品の政治思想的な内実――反核反戦や平和主義など――が「近代」や「戦後民主主義」の理念にいかに合致していたかを強く主張して擁護する手法を、佐藤が小バカにするかのごとくそれらは偽善であり欺瞞であり米軍への奴隷的依存であるとして全否定をしてみせる論法で、旧来の特撮マニアたちからの反発を買い、その逆に『ゴジラ』第1作至上主義の呪縛から逃れ始めた一部の若い特撮マニアたちからも、佐藤は旧態依然とした守旧的な『ゴジラ』第1作至上主義であるという一点でもって反発を買ってしまう。
 真逆でもある新旧2方面の特撮マニアたちから、『さらば愛しきゴジラよ』は案の定、感情的な猛反発を食らってしまったのであった。


――かといって、後述するヤマダ・マサミのように、当時の『ゴジラ』関連の全書籍を紹介したその著作『ゴジラ博物館 ―世界初のゴジラアイテム40年史』(アスペクト社 94年11月1日発行・ISBN:4893662953)から、右派的な佐藤健志の著作一切をあえて除外、黙殺した行為は大いに問題だとも思う。そういう行為は右側からのファシズムならぬ、左側からの全体主義・言論封殺なのであって、学術的な専門用語ではスターリニズムとして呼称されて批判されてしまうふるまいである――


 佐藤より2歳年上の1964年生まれで当時、『宇宙船』編集者であった古怒田は


「時代遅れなのはゴジラではない。佐藤健志さん、あなたのファン意識なのだ」


と結んでいる。


 ただこの当時、マニアの世代交代やマニアの一部に急速な意識の変化が実際に起こっていたのだとしても、翌95年に公開された怪獣映画『ガメラ 大怪獣空中決戦』(95年・角川大映)が特撮マニアの間で大絶賛され、「平成ゴジラ」に対するバッシングが一斉に巻き起こったことを思えば、ファン意識が「時代遅れ」だったのは佐藤だけではなかったように思える。


 そもそも古怒田自身が94年初頭に発表した先の論考のちょうど3年前、本同人誌主宰者が90年12月に発行した、車に乗りレーザーブレードを必殺技とし三段変身もして、「こんなの『仮面ライダー』じゃないやい!」(爆)と当時の特撮マニアたちから猛烈なバッシングにさらされた『仮面ライダーBLACK RX(ブラック・アールエックス)』(88年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001016/p1)を肯定してみせた同人誌『太陽の子だ!』を、91年初頭の『宇宙船』の同人誌欄で紹介する中、


「最終展開に触れずにケンカ売ろうっていうのは虫がよすぎるんじゃないのか」


などと編集者が一介の投稿者に対して「暴言」を吐いていたではないか?(笑)


 救われるべき怪魔界50億の民もろともに敵首領を滅ぼして、大物議を醸した『RX』の最終回に一切触れないで、『RX』の同人誌をつくってみせた若き日の本同人誌主宰者のセンス(暴挙?)も確かにドーかしていたとは思うけど(爆)。


 というか、94年初頭の時点では先進的でも、少なくとも80年代末期~90年代初頭の古怒田は先の佐藤健志同様、『仮面ライダー』観に限らずその『ゴジラ』観についても、当時の『宇宙船』各号で手懸けた各記事での記述を読む限り、ファン意識の面ではまだまだ「古い」人だったはずである(苦笑)。


――この時期、「怪獣恐怖論」も、84年版『ゴジラ』の失敗を受けてか、若干の進展が見られた。「恐怖」とは「未知の脅威」に対する「一回性」のものであり、だから人類とゴジラと「初遭遇」した『ゴジラ』第1作は怖かったのだ。しかし、同じく「怪獣恐怖論」をめざした84年版『ゴジラ』はかの『ゴジラ』第1作の世界に直結する30年後の続編として描かれた。よって、ゴジラは人類にとっては「既知」の存在である。ゆえに「恐怖」が感じられなかったのだ! という論法である。その論法の当否については、読者諸兄の判断に委(ゆだ)ねたい(笑)――


1995年 ~平成ガメラ登場と平成ゴジラへの猛烈バッシング


「今や子供でも失笑する類(たぐ)いの生命感のないぬいぐるみや、金の浪費としか思えない巨大な機械人形の代わりに、『ガメラ』で我々が見るのは、本来の権威を取り戻した大怪獣の姿である。
 ガメラを見た時、涙が出るほどうれしかったのは、日本でもこんな作品が作れたという事実だった。僕が宇宙船創刊から10年近くかけて書き続けてきた事を、この作品はたった2時間程度で具体的に証明してくれたのだ。
 長い間、メインストリームであるゴジラに裏切られ続けてきた人民による、これは革命のようなものだと僕は思う」

聖咲奇・『宇宙船』第72号(95年春号))


 あからさまに平成ゴジラを批判したうえで――当時は怪獣のスーツを「着ぐるみ」と称するのが既に一般的であったにもかかわらず、あえて旧来の言い方である「ぬいぐるみ」と書いているのは、明らかに「侮蔑(ぶべつ)」の意味を含んでいる――、聖は映画『ガメラ 大怪獣空中決戦』を絶賛した。


 これは決して氏だけではなかった。平成ゴジラシリーズとは相反する、リアルでこわい『ガメラ』こそ、長年求めてきた本来の怪獣映画であるとして、マニアたちは絶大に支持する一方、それを裏切ってきた平成ゴジラを徹底的にバッシングしたのである。
 やはり90年代半ばの時点では、マニアの「意識改革」は、決して進んでいるとは言えなかったのだ。


 「怪獣映画はかくあるべき」と、聖が「成功例」とした『ガメラ』は、同作の樋口真嗣(ひぐち・しんじ)特撮監督がアニメ誌『ニュータイプ』の連載コラムで女性客が実は少ないと当時明かしていたように、配給収入が20億円前後――21世紀以降の興行収入基準だと40億円前後!――で推移していた平成ゴジラに対し、その半分の10億の壁を突破することができず、営業的には「大成功例」であったとはいえなかった。
 「怪獣恐怖論」同様、「マニアが観たいと思うものをつくれば、特撮映画は必ず復興する」などという第1世代の主張もまた、根拠のない「幻想」に終わってしまったのである。


――70年代後半から始まる「日本特撮 冬の時代」は90年代中盤まで続いて、平成ガメラの誕生をもって終了したとする意見までもがあるようだが、それはいかがなものだろうか?
 平成ゴジラが大ヒットする中、平日夜のゴールデンタイムから日曜朝8時の放映枠に飛ばされて視聴率も下落していた東映メタルヒーローは、90~93年のレスキューポリスシリーズが最高視聴率15%を記録し(!)、同じく金曜夕方に飛ばされたスーパー戦隊も『鳥人戦隊ジェットマン』(91年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20110905/p1)と、当時の戦隊マニアは酷評したが高い幼児人気を誇った『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(92年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20120220/p1)で10%を突破した。
 特撮マニア第1世代のお眼鏡には適(かな)わなかったか、視野の外にあっただけで、言説化はされていないけど、90年代前半にも実は平成ゴジラシリーズを筆頭に「特撮ブーム」はあったのではなかろうか?――


 これは翌96年にスタートした『ウルトラマンティガ』(96年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19961201/p1)、『ウルトラマンダイナ』(97年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19971215/p1)、『ウルトラマンガイア』(98年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19981206/p1)の「平成ウルトラ三部作」にしても同じことが言えるであろう。
 「16年ぶりのウルトラマン」などと、世間の飢餓(きが)感を煽(あお)るような触れこみでスタートした『ティガ』は、昭和ウルトラで育った世代が親になる時代とちょうど重なったこともあり、親子二世代のヒーロー作品として、特にバンダイ製関連玩具の売り上げでは商業的にも一応の成功をおさめた。
 また、そのリアルでアダルトな作風は、マニアの間では圧倒的な支持を獲得したのも事実である。


 だが……


「視聴者層を未就学児童から一気に底上げしたテレビの『ガイア』の特異性は特筆ものだった。まるで深夜枠で見せるようなカルトサスペンスのノリで、ウルトラマンを通じて人間と地球の関係を探っていく一種哲学的なシリーズとなった」

(ヤマダ・マサミ「ゴジラという現象」・『ゴジラ/見る人/創る人』)


 ウルトラマンで「カルトサスペンス」に「哲学」……(苦笑)
 平成ウルトラ三部作は幼児層にも一定の人気を得たとは思うが、『ポケモン』や『遊☆戯☆王』(98年)といった、現在にまでその系譜が継続している、カプセルやカードから「モンスター」を召喚して「戦わせる」、平成ウルトラ三部作よりもはるかにチャイルディッシュな作風のアニメの方が、当時の児童間での「王者」だろう。
 その証拠として、映画『ウルトラマンティガウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』(98年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19971206/p1)の配給収入は4億5千万円に留まったが、同年夏に公開された『ポケモン』映画第1作『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』(98年)の配給収入はその10倍近くの41億5千万円(現在の「興行収入」基準だと75億4千万円!)であったという事実をあげておきたい。


1998~99年 ~ヤマダ・マサミのトークライブとその観客のゴジラ観。両者間に生じた亀裂


ヤマダ・マサミ「ウルトラを子供からとりあげろ! が合い言葉ですから」
開田あや「子供にはもったいないよ」


 新宿・歌舞伎(かぶき)町のロフトプラスワンで、ヤマダ・マサミが特撮映画をテーマにしたトークライブを主催するようになったのは、98年1月からのことであった。


 98年6月、平成ウルトラ三部作で異色作を連発していた川崎郷太(かわさき・きょうた)監督――ゴジラ映画『三大怪獣 地球最大の決戦』(64年・東宝)の劇中番組ではないが、「あの方(かた)はどうしているのでしょう」・爆――をゲストに招いて開かれた「いまどきのウルトラマン」は、濃いマニアたちよりも「女性客」の姿が目立ち、当のヤマダ自身が驚いたという。それまでには見られなかった新しいファン層を獲得し、裾野(すその)を広げたことが、平成ウルトラ三部作の功績のひとつではあった。


 だが、翌99年5月1日開催の「朝までウルトラ」でかわされたのが、先のヤマダと開田(かいだ)あや――マニア第1世代のイラストレーター・開田裕治(かいだ・ゆうじ)夫人――の会話である。新たな鉱脈を築いたのはよいが、それまでの最大の支持層だった「子供」たちから、ウルトラをとりあげたらダメだろう(笑)。この「子供からとりあげろ」発言に対しては、老舗の特撮サークル「日本特撮ファンクラブG」の当時の会報での主要メンバーによる記事でも批判的に言及されていたのを読んだ記憶もある。


「子供にとって怪獣との出会いは通過儀礼だ。しかし大人になってこそ特撮映画は楽しめる」

(ヤマダ・マサミ「ゴジラという現象」・『ゴジラ/見る人/創る人』)


 ここには、「大人」になっても特撮映画や怪獣やアニメなどを楽しんだり執着してしまったりするのは、我々のようなアダルトチルドレンだけかもしれない、それはそれなりに優れた特性かもしれないけれど、同時にひょっとしたら何らかの人格的な欠陥かもしれない、少なくともそんな可能性があるかもしれない……などというような自己懐疑・自己相対視が微塵(みじん)も見られない(笑)――むろん、そんな「趣味」や趣味にかまけてしまう「自分」のことを、過剰なまでに卑下する必要もないけれど――。


 アラフォー(40歳前後)に達していたヤマダも開田夫人も、99年の時点においてさえ、古怒田が言っていた自分の中の「幼児性」を客観視できてはいなかったのである。


 これらのイベントに、大ヒットロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20110827/p1)で有名な庵野秀明(あんの・ひであき)監督が突如乱入して、


「『ウルトラマンタロウ』は面白いので観てください!」


と主張して去っていったという例外的な椿事(ちんじ)が、ヤマダ自身の『ホビージャパン』誌・連載コラム「リング・リンクス」でも写真付きで明かされたというような突発的な例外事項もあるにはある。


――70年代前半に放映されて長年マニア間では低評価に甘んじてきた第2期ウルトラシリーズの再評価は、特撮評論同人界では既に80年代には始まっていた。しかし、一般的な特撮マニア間では00年前後になってもまだまだ低評価に甘んじることが多かった、それも特にチャイルディッシュな作風であった『ウルトラマンタロウ』(73年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20071202/p1)を、よりにもよって第1期ウルトラ至上主義者の牙城であるヤマダ・マサミ主宰のイベントの場でワザワザ持ち上げてみせるとは!(笑)――


 とはいえ、一部の(大勢?)特撮マニアたちがこうした主張を00年代初頭になっても断固として貫き通して、そしてそれを作品の側でも一部採用してしまったがために、ゴジラやウルトラは子供たちから本当に「とりあげられる」こととなってしまったのである……


「平成シリーズを振り返ると大森さんが89年の『VSビオランテ』で新しいゴジラ像を作ったと思うんです。
 しかし、それ以降のゴジラ映画になると、どこから観てもゴジラが出てるという子供を飽きさせないためのつくりが特徴としてあって……
 大人の視点からみるとゴジラが5分おき10分おきに出るのは、子供っぽく感じるんで、僕はもう少しドラマをしっかり見せるゴジラを観たいなと思います」

(ヤマダ・マサミ「ゴジラ復活祭・トークライブ」・『ゴジラ/見る人/創る人』)


 同じ「大人」でも「コアなマニア」と「ヌルい一般層」の対極的な両者がいることを区分けできずに、当時の東宝映画プロデューサー・富山省吾(とみやま・しょうご)に、こんな主張を平気でぶつけてしまうくらいだからなぁ。
 特撮評論同人界ですら1990年前後には、「マニア向け」作劇を懐疑する視点、逆に「子供向け」「一般向け」作劇を評価するという風潮が誕生して、90年代前中盤にはもうそういった論調が主流となっていたというのに……――特撮マニア雑誌の読者投稿欄レベルだと、まだまだ「子供向け」作劇の賞揚という意見は極少だったけど(汗)――。


 スーパー戦隊や近年の平成ライダーは、冒頭からヒーローや怪人が5分おき10分おきに出てきても、ドラマもしっかりと見せることに成功、バトルの最中でも会話をさせることでドラマを継続させることにも成功しており、だからこそ長年に渡って支持を集め続けているのである。それを思えば、多少チープでラフな作風であろうと、平成ゴジラの手法は極めて正しかったということが実証されているようなものである――そういや、ゴジラの登場が遅ければ遅いほど作品として優れているという論法もむかしはあったよな・笑――。


 映画『ゴジラ2000 ミレニアム』の製作が正式決定したのを機に、ヤマダはロフトプラスワンで「ゴジラ復活祭」と題したトークライブを、99年に隔月で計6回開催した。
 平成ゴジラシリーズが公開されていた頃を、「スタッフとマスコミとファンとが遊離した時代」としたヤマダが、スタッフとファンに同じ時間と空間を提供することで自由闊達(かったつ)な意見交換をさせ、ホビー誌やマニア誌の自らの連載コラムでそれをレポートするという試みは、まだインターネットが黎明(れいめい)期であった時代を思えば、確かに画期的ではあった。


 「ゴジラ復活祭」では、会場に来たファンが富山プロデューサーに直接要望を伝えることができた。
 しかしその中には、ヤマダみたいに「ドラマが見たい」ではなく、ヤマダの意向に反して(?)、70~80年代の特撮マニアにはありえなかった、「反核」の象徴・「怪獣プロレス」批判というドグマを相対化する、以下のような意見も見られたのである。


「今度の新しいゴジラでは、ゴジラが水爆、核から生まれたことにどのくらいまでこだわるおつもりなのか。もうあまりこだわらなくてもいいんじゃないかと思ってるんですが」


「平成になってから、どうも怪獣同士の取っ組み合いが少ないような気がするのですが。例えば、ガバラを一本背負いしたり(会場笑)、キングコングに蹴りを食らわせて崖から突き落としたりですね、あれやっぱりいいんですよ。ああいうのをやってほしいなと思うんですが」


「僕はゴジラアンギラスが特に好きなんです。平成ゴジラアンギラスが復活するかと楽しみにしてたんですけど(会場笑)、無理でした。今度アンギラスが出てくるということはあるんでしょうか。取っ組み合いもあるとなるとアンギラスなど適任だと思うんですけど」


 これらは99年3月18日に開催された第1回のライブでファンから出た意見だが、この時点ではゴジラスーツアクターはまだ正式には決定してはいなかった。


「怪獣は大好きでした。ただおれはウルトラマンが好きだったんですよ。ウルトラマンになりたくて東京に出てきたんですけど、なれなかったんです。JAC(ジャパン・アクション・クラブ)はそういうのはやっていなかったし」

(喜多川務「ゴジラは入る人を選ぶ」・『ゴジラ/見る人/創る人』)


 ミレニアムゴジラシリーズでゴジラを演じることとなったのは、『バトルフィーバーJ』以来、90年代半ばくらいまでのスーパー戦隊シリーズスーツアクターを務めてきた喜多川務(きたがわ・つとむ)であった。
 氏は1957年生まれの第1期ウルトラ世代であることから、ウルトラマンになりたくて東京に出てきたというのは、充分にうなずけるところである。
 氏を起用したことで、ドラマ面や作風はともかく、特撮怪獣バトル演出においては、たとえば『大怪獣総攻撃』における箱根(はこね)での対バラゴン戦や、映画『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』(03年・東宝)における対メカゴジラ戦など、実に印象に残る怪獣同士の派手な取っ組み合いが描かれるようになったのは喜ばしい限りだ。
 ひょっとしたら、先の「取っ組み合いをやってほしい」なるマニアの要望が、反映された成果かもしれない!?
――かつては怪獣映画の幼稚化の根源のように批判されてきた昭和ゴジラの「怪獣プロレス」を、平成ゴジラが避けてスマートにバトルしてみせれば、今度は「光線作画の垂れ流しだ!」などと批判するように変わり身してしまう特撮マニア連中もつくづくワガママな存在ではあるが・笑――


 『大怪獣総攻撃』に「護国聖獣」として登場したモスラキングギドラも、当初案では実はアンギラスとバラン(!)であったという。
 興行側からの「もっと知名度がある怪獣を」との要望により、モスラキングギドラに差し替えられてしまったのであるが――確かに客寄せ面では賢明な判断ではあった(笑)――。


 アンギラスの復活は、映画『ゴジラ対メカゴジラ』(74年・東宝)以来、実に30年ぶり(!)のこととなった映画『ゴジラ FINAL WARS(ファイナル・ウォーズ)』(04年・東宝https://katoku99.hatenablog.com/entry/20060304/p1)まで待たねばならなかった。
 先のマニアの悲願(笑)がここでようやく達成されたのであるが、「チャンピオンまつり」世代の筆者としては、『対ガイガン』や『対メカゴジラ』にゴジラの相棒として登場したアンギラスには思い入れも強かったワケであり、確かに再登場を強く願っていたものであった。
 第一「ピャ~オ」というかわいい鳴き声がたまらんではないか(笑)。


 好きな怪獣を出してほしいとか、怪獣同士の取っ組み合いが見たいとか、ビジュアル面の充実に対する要望が反映される分には、この「ゴジラ復活祭」なるトークライブは非常に意義深いものとなったかと個人的には思われる。


――時期はこのトークライブの数年後となるが、「怪獣プロレス」を展開した昭和の後期ゴジラシリーズを数多く演出した福田純監督が逝去された折り、朝日新聞01年1月22日の文化欄「惜別」コーナーの求めで、生前の福田が「後期ゴジラ批判」を気にしていたとの記者の言に、マニア第1世代の特撮ライター・竹内博は「でも今見ると結構面白い」とコメントしている。故人へのリップサービスも当然あろうが、氏もかつての昭和の後期ゴジラシリーズ批判の見解を改めて心変わりをしているさまも伺える一節だ――


 ただ……


2000年代 ~平成ガメラ要素のミレニアムゴジラシリーズへの投入


「これは東宝のファミリー路線とは相入れないと思うんだけど、ぼくは昔からどんなにうまくミニチュアが壊れても、死の恐怖が描かれているかどうかが凄く気になるんですよ。


(中略)


 だから『VSビオランテ』の(故・)峰岸徹(みねぎし・とおる)さんや『VSキングギドラ』の土屋嘉男(つちや・よしお)さんが死んだときは嬉しかった(笑)。
 でもああいう特別な人じゃなく、無辜(むこ)の民(たみ)の死を描いてほしいなというのあるんですよ。何で戦後まだ9年目の人々が、自分たちが復興した暮らしをメチャクチャにしてしまうゴジラに拍手したのかもう一度考えてみるべきだと思う。だって普通に考えれば、自分たちが殺されるわけですから」

切通理作(きりどおし・りさく)「ゴジラ復活祭・トークライブ」・『ゴジラ/見る人/創る人』)


 『ミレニアム』のラストで阿部寛(あべ・ひろし)が死んだのも、氏にとってはきっと嬉しかったんだろうな(笑)。


 いや、こう考えていたのは、決して氏ばかりではなかったであろう。
 映画『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』(99年・角川大映)がマニアの間で評判を呼び、『ゴジラ』を平成『ガメラ』的に描くべきだ、とする声が高まりを見せていた。
 90年代末期から00年代初頭にかけては、まだまだ大半のマニアの意識はそうしたものであったのだ。


 いや、平成ゴジラに対する反発もあってか、再び「怪獣恐怖論」が声高に叫ばれるようになり、それを反映した、いささか過激な作品が生み出されることとなっていった。


 『ガメラ3』ではガメラと宿敵の超音波怪獣ギャオスの戦いに巻きこまれ、夜の渋谷の街にいた人々が多数犠牲になるさまが描かれていた。


 翌00年、『仮面ライダーBLACK RX』以来、久々のテレビシリーズ復活となった『仮面ライダークウガ』(00年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001111/p1)では、敵組織グロンギがゲームと称し、怪人たちが競いあい、毎回人間を大量に殺戮(さつりく)していたのである。


・警官の眼球をえぐって殺害。
・毒針を高度数千メートル上空から発射して人間を刺殺。
・トラックをバックで走らせて人間を次々とひき殺す。
・バイクからひきずり降ろした人間をひき殺す。
・地下街に閉じこめた人々を大量撲殺(ぼくさつ)。
・東京23区をあいうえお順に各区9人づつ襲い、5時間で126人を殺害。


 今思えば、「日曜朝」に、よくこんなことやってたよな(爆)。


 そして翌01年、平成『ガメラ』シリーズでマニアから絶大な支持を集めた金子修介(かねこ・しゅうすけ)を監督に迎えた『大怪獣総攻撃』では、怪獣たちがガメラやギャオス、グロンギのように、大量に人間を殺戮するさまが描かれた。
 バラゴンが暴走族を、モスラが遊び人の大学生たちを、ゴジラが箱根の観光客を、といった具合に、快楽主義に走る、いわば「リア充」――オタ趣味やネットではなく、リアル=現実の生活が充実している人間――たちが徹底的にターゲットにされ、殺されていった。


 しかも、この際のゴジラには「太平洋戦争の犠牲者」の怨念という、妙な属性までが背負わされていたのである。
 また、金子監督の意向を受け、品田冬樹(しなだ・ふゆき)が造形したゴジラの目には、「黒目」の眼球が存在せず「白目」だけとなった。これにより、生物・動物である以上はゴジラにも最低限は存在するであろう「感情」もまったく見えなくなり、観客の「感情移入」も拒絶されることで、ゴジラは徹底的な「悪役」を演じることができたのである。
 案の定、『大怪獣総攻撃』はミレニアムゴジラシリーズ中、マニアの間ではカルト的な高い人気を獲得することとなった――もちろん一部では、「これは中二病的なやりすぎの作劇であり、ここまでやると幼児や子供層をゴジラ映画からムダに排除してしまう」と批判する意見もあったことは付言しておく――。


 だが、ここで描かれたゴジラは、正直『ウルトラマンレオ』(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20090405/p1)初期に登場した、「通り魔」星人たちと、やってることはほとんど変わりがないように思える。
 「スーパーヒーロー」としてのゴジラよりも、マニアたちは、「通り魔」としてのゴジラを観たかったのであろうか?
 だが、少なくとも子供たちは、「感情移入」もできないような、「通り魔」としてのゴジラなんぞ、好きになるわけがなかったのである。


 『大怪獣総攻撃』・映画『ゴジラ×メカゴジラ』(02年・東宝)・『東京SOS』を上映した劇場では、『ハム太郎』を観終わった親子連れが『ゴジラ』を観ずに、観ても人々がゴジラに無下に蹴散らされて死んでいく冒頭の残酷シーンだけで子供の情操に悪いと思ったのかワラワラと足早に退場し、観客が半減してしまう現象が数多く見受けられた。
 そして、それを見越したマニアたちの多くは、『ハム太郎』を観ずに、『ゴジラ』の回から入場していたのである。


 これでは併映どころか、完全に「入れ替え制」である(爆)。
 それはそうだろう。『大怪獣総攻撃』を、「今回のゴジラはとてもこわいのでご注意下さい」などと、興行側の方から観客に注意喚起(かんき)を促したのだから、以降の『ゴジラ』を親子連れが警戒するようになったのは必然である。


 『クウガ』の時点では怪人の「怪奇」「恐怖」が強調されていた平成ライダーではあるが、近年の作品ではそうした要素は薄れ、あくまで主役のライダーの活躍の方に重点を置き、明朗・軽快なバトル面を充実させる方向にシフトしてきている印象が感じられる。
 もし『クウガ』のような「怪人恐怖論」がその後も継続していたならば、現在まで平成ライダーの人気は果たして持続していたであろうか?


 また、スーパー戦隊の近年の傾向としては、怪人の「怪奇」「恐怖」が描かれることは、ほぼ皆無と言ってよい。
 『獣電戦隊キョウリュウジャー』(13年)では、もう見た目からしてギャグ系の奴ばかりだったが、『烈車(れっしゃ)戦隊トッキュウジャー』(14年)では、敵組織シャドウが貴族として描かれているからか、見た目は結構スマートでかっこいいデザインなのに、やってることはギャグという(笑)、新たな怪人の鉱脈の例が散見されるのである。


 そもそも元祖である『秘密戦隊ゴレンジャー』(75年)からして、機関車仮面・野球仮面・牛靴仮面といったギャグ系怪人が児童間で大きな話題となったことが、放映が2年にも渡るロングランとなった遠因であるように思われるのである。
 もっとも放映中に小学4年生に進級した筆者的には、そのギャグ系怪人の登場こそが幼稚に思えて、『ゴレンジャー』を「卒業」する原因になってしまったのだが。「怪獣恐怖論」と同様にこのへんのサジ加減もむずかしい(笑)。


 とはいえ、「怪人恐怖論」を廃しても、変身ヒーロー作品が立派に成立することを、スーパー戦隊は「40年」にも渡って証明し続けているのである!
 「怪獣恐怖論」に改めて固執し続けたからこそ、ミレニアムゴジラは低迷を続けた末、シリーズの打ち切りを招いてしまったのではなかろうか?


ミレニアムゴジラシリーズが連続性・大河ドラマ性を放棄したことの成否


 そして、ミレニアムゴジラシリーズが興行的に低迷した理由がもうひとつある。


「“平成ゴジラ”以降は1作1作が完全な続編になってますよね。たとえば“84ゴジラ”のときのゴジラ細胞を奪い合うとか(中略)、アニメのシリーズ設定のようになってしまって。(中略)完全に世界が続いているのでなく、ゆるい縛りで作ってくれるといいな、という願望があるんです」

切通理作・「ゴジラ復活祭・トークライブ」・『ゴジラ/見る人/創る人』)


 切通の願望を実現させたミレニアムシリーズでは、毎回世界観がリセットされてしまい、1作1作が独立した作品となってしまっていた。かろうじて『東京SOS』が、前作『×メカゴジラ』の続編として描かれたのみである。
 そのくせ毎回『ゴジラ』第1作の続きであることだけは語られており、それ以外のゴジラの物語は、全て「なかったこと」にされていたのである。
――ただし『×メカゴジラ』『東京SOS』では、かつてモスラフランケンシュタインの怪獣ガイラなどの巨大生物に日本が脅(おびや)かされていたことが語られており、特に後者には『モスラ』に登場した言語学者・中條信一(ちゅうじょう・しんいち)を、小泉博(こいずみ・ひろし)が42年ぶりに演じることで、世界観をつなげることに成功していた――


 平成に入ってからのウルトラシリーズもそうであったが、これでは同一世界観の長期シリーズを歴史系譜的に追い続ける楽しみを奪われてしまうのであり、それこそがゴジラとウルトラの商品的価値が凋落(ちょうらく)した原因のひとつであると思える。
 アメリカでは日本のミレニアムゴジラシリーズや平成ウルトラシリーズとは真逆で、むしろアメコミ(アメリカン・コミックス)原作の超人ヒーロー、アイアンマンや超人ハルクに雷神ソーやキャプテンアメリカらがそれぞれの主演シリーズ映画を持ちながらも、同一の作品世界を舞台としてシリーズを継続させる手法を2008年から継続させており、巨悪に対しては超人ヒーローたちが全員集合して立ち向かう映画『アベンジャーズ』(12年)を商業的にも大ヒットさせて、今もなおシリーズを継続中である。
――そもそも超人ヒーローたちを作品の壁を超えて共演させる『アベンジャーズ』の原作マンガは、今から50年以上も前の1963年に端を発する由緒もある企画なのだ。日本でも昭和のゴジラシリーズを始めとする初期東宝怪獣映画や昭和のウルトラシリーズは、コレと同じようなクロスオーバー作劇に奇しくも独力で到達していたのだから、21世紀の今日こそゴジラシリーズやウルトラシリーズも改めてアメコミ洋画を見習うべきではなかろうか?(笑)――


 平成ライダースーパー戦隊の新旧ヒーローが共演する劇場版では、旧作テレビシリーズや前作の映画の設定・セリフ・描写を受けた演出が毎回のように描かれている。
 旧作を知らない観客にもストーリーの理解に支障が生じない範囲での、こうした適度にマニアックな点描(てんびょう)としての連続性にはニヤリとさせられるし、シリーズを追い続けることの動機付けのひとつにもなっている。だからこそこの少子化の時代に少しでも子供たちの卒業を遅延させたり、移り気な女性ファンたちにも数年に渡って支持されることができている。
 にもかかわらず、ゴジラとウルトラはそれを放棄(ほうき)したことにより、人気と関心を長期に渡って確保しにくくなっている面もあると思う。


 「怪獣恐怖論」の今さらの過度な強調と「連続性」の放棄により、ミニレアムゴジラシリーズは平成ゴジラシリーズよりもアダルトな作風で作劇上の隙(すき)や粗(あら)もはるかに少なかったハズなのに、シリーズをまたいで次作や前作をも鑑賞する子供や若いマニア予備軍の固定ファン・お得意さまの開拓にも、完全に失敗してしまったのである。
 『ハム太郎』を目当てに劇場に足を運んだ世代も、今や10代半ばから後半に達しているであろうが、その中に、ミレニアムゴジラに想い入れが強い者なんぞ、果たして存在するのであろうか?
 同じ頃に人気が絶頂となった平成ライダーに夢中になり、現在でもファンを続けているという者は、いくらでも存在すると思うけど。


 そうなのだ。当時の子供たちの大半もそうであったが、マニアたちもまた、低迷するばかりで実績を出せないゴジラやウルトラに見切りをつけてしまい、平成ライダーやそれとともに勢いを盛り返してきたスーパー戦隊へと、この頃から興味の中心が移り変わってしまったのである。
 マニアの世代交代やインターネットの普及などの要因もあるだろうが、商業誌や同人誌といった紙媒体において、ゴジラ論が展開されることは、それ以前と比べて激減してしまったことは確かである。
 しかも、30数年前に雑誌やムックで読んだゴジラ論はいまだに記憶しているものがあるほどなのに、この00年代当時に書かれたものの中には、個人的には印象に残っているものがほとんどないのは、筆者の加齢に起因するだけではないだろう。


2014年 ~『GODZILLA』来航


 90年代には『宇宙船』が年末になると、「ゴジラの本はこれだけ出たのだ!」と題し、その年に出版された何十冊にも及ぶゴジラ本を紹介していたものだが、既にゴジラについて語ることは、マニアたちにとって「トレンド」ではなくなってしまったのである。


 『ゴジラ FINAL WARS』でシリーズが打ち切られてから、早いもので10年になる。
 映画『メカゴジラの逆襲』(75年・東宝)から84年版『ゴジラ』の間に生じた長いブランクと、ほぼ同じほどの年月が経ってしまった。
 だが、あの頃積極的に行われた再評価や、復活に向けての熱心な運動といった主立(おもだ)った動きは、この10年間、ほとんど見られることはなかったのである。


「映画の初期に、かつてトリック映画と呼ばれていたもの、たとえば児雷也(じらいや)が印を結ぶと大ガマになるとか、そんな忍術映画みたいなものの延長で怪獣映画って存在しているとも思うんですけど、つまり「見世物(みせもの)」ですよね。
 最初の『ゴジラ』のすごいところって、当時ゲテモノとも呼ばれていた類いのものに、メッセージ性やドラマ性を盛りこんだことで、完成度の高い名作映画として成り立っているところです。
 でも、本来の怪獣映画って、むしろ『ゴジラの逆襲』(55年・東宝)のような、何もないけど、とにかく怪獣が暴れて街が破壊されてスゲエという方かと」

(「座談会 現役クリエイターが語るミニチュア特撮の魅力」庵野秀明・『特撮映画美術監督 井上泰幸』キネマ旬報社 12年1月11日発行・ISBN:4873763681


 本稿執筆時点の2014年現在、マニア第1世代(第1次怪獣ブーム世代)も50代に突入し、70年代前半の変身ブーム世代(第2次怪獣ブーム世代)も40代中盤、70年代末期の第3次怪獣ブーム世代もアラフォー、90年代前半の平成ゴジラシリーズ世代はアラサー、90年代後半の平成ウルトラ三部作世代も20代に達した、そんな2014年夏。


 遂にゴジラが海の向こうから帰ってくる!


 だが……


・「最高の恐怖」
・「テーマは『リアル』」
・「1954年の第一作『ゴジラ』の精神を受け継ぐ」


 こんな文面が踊る『GODZILLA』2014年版(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190531/p1)のチラシを劇場で見かけたとき、筆者はおもわずコケそうになった(笑)。これではまさに、「いつか来た道」ではないか……


 本誌『仮面特攻隊』では、


・旗手 稔氏による長編論文 「歴代特撮演出家〈作家性〉解析」
 ――新たなる『大特撮』を目指して―― (仮面特攻隊2002年号)


・伏屋千晶氏による長編論文 「スーパー戦隊アクション監督興亡史」
 ――[山岡戦隊]×[竹田戦隊]――  (仮面特攻隊2003年号)


といった特集が、「作家性」といえば脚本家や本編監督のみが注目されがちだった00年代初頭に掲載されていた。


 それまでのテーマ性やドラマ性の解析一辺倒ではなく、「特撮演出」「アクション演出」といった、観客が実際にもそこに強烈に「視線」を誘導されている映像・見せ場・ヤマ場そのものを重視しようという文脈で、そこから逆算して作品のテーマ・ドラマ・作劇などを語り直していき、特撮ジャンル自体の本質・特徴・アイデンティティーをも浮かび上がらせようとする、転倒・逆立ちした試みは、当時としてはまさに画期的であり、筆者も含む本誌ライター陣にも大いに影響を与えた。


――それらの先駆け的な試みとして、おそらくは両名のロジック構築にも影響を与えたとおぼしき、「演出」ではないが「キャラクター」――ヒーロー・登場人物・敵幹部・怪人たち・役者さんや、それらのデザインの「美術的意匠」や風貌・人となり――を軸にして、キャラクター自体に既に作品の傾向やドラマ展開やテーマも孕(はら)まれている……と語った、森川由浩氏による長編論文「『仮面ライダー』 キャラクターの成り立ち」(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140407/p1)(仮面特攻隊2001年号)も忘れがたい――


 そして、それらがその後の特撮マニアたちの意識にも大きな影響を及ぼした……らよかったのだが、そのような事実は残念ながら見当たらない(笑)。
 しかし結果的には、その後の特撮作品や特撮マニアの風潮・論調を先取りしていたと思えるほど、現在の観点から見てもこれらは超一級の評論である――同じ頃に筆者が書いていたものは、もう文体も内容もあまりにフザけすぎであり、とても読むに耐えない(汗)――。


 今となっては、まさにそれら「特撮演出」「アクション演出」「ヒーロー」「怪獣・怪人」「スーパーメカ」「スペクタクル」などの映像的な見せ場こそが「特撮」の魅力であり、――以下につづっていく事項については、特撮マニア間でも明瞭に言語化・意識化されているとは言いがたいけれども――そこをヤマ場とするためにテーマやドラマや登場人物も配置されるべき……とでもいったニュアンスの世論が形成され、平成ライダースーパー戦隊の新作の作り手たちもそれを反映したかのように、マニア向けなだけの独り善がりな作品には決して堕(だ)さずに、子供・ファミリー・女性層にも多角的な目配せができている、ある意味ではとても理想的な娯楽活劇・特撮ジャンル作品を、実に巧妙に仕上げてみせているという「いい時代」になってきてはいる。


 だが、ゴジラの場合、そうした兆(きざ)しがようやく出始める前にシリーズが打ち切られたことにより、以後現在に至るまで、そうした文脈で語られる機会がないまま、つまり「前時代的」な「怪獣恐怖論」で思考が停止したままに、10年という歳月が過ぎ去ってしまったのだ。
 先のパトリック・マシアスではないが、「フジヤマ・ゲイシャ」といった誤解されたイメージではなく、いまやゴジラという存在が、日本でどのように受容されているのかさえ、海の向こうまで正確に伝わってしまう時代になっているのである。
 それを反映し、どのようなゴジラをつくれば最もウケるかを、ハリウッドがそれなりに分析した結果が、今回の「恐怖」「リアル」「1954」というキーワードになったのかと思えるのだ。
 個人的にはいっそのこと、「チャンピオンまつり」時代のゴジラ作品しか観ていないような、ゴジラが核のメタファーであることさえ知らない、正義のヒーロー怪獣であると思いこんだ人間が、監督だったらよかったのに、と思えるほどである(笑)。


 今、我々には新たな使命ができたように思える。
 海の向こうにいるマニアたちの頭の中を一挙に変えてしまうような、そこまでの影響力を発揮することは困難かもしれない。
 だが、ゴジラが「反核」だとか「恐怖」や「悪役」や「善悪を超越した神」だとかいう見方や、「大人の鑑賞にも耐えうる」などの物言いは、あくまでゴジラの「本質」ではなく「一面」に過ぎなくて、長い歴史の中でゴジラを「権威主義的」に持ち上げるために編(あ)み出されてきた「論法」にすぎないんだよ、と我々は世間を新たに啓蒙(けいもう)していかねばならないのではなかろうか?――我々はそれらの「論法」を用いてゴジラへの「信仰」の強さを競い合う中世キリスト教的な「神学論争」(爆)をしてきたのだともいえる――。
 そもそもゴジラや怪獣とは、恐竜や動物型の巨獣がガオガオ連呼して闊歩(かっぽ)し建物を破壊するのを見て「スゲェ」と歓喜し、闘鶏(とうけい)のように同類と戦わせてどちらが強いかに「ワクワク」するような、いささか不謹慎で、しかしスプラッタの域に達するような残酷描写は巧妙に回避された、きわめて「幼児的」でプリミティブ(原始的)な暴力衝動の疑似的発散こそが最大の魅力であり、それこそがゴジラの「怪獣王」たる所以(ゆえん)ではないのかもと思えてくるのである。


「ひとくちに「特撮評論」と言っても、そこには本当に多くの「立場」があります。そして、「立場」が異なれば出てくる結論もおのずと違ったものになるでしょう。
 「自分」が書いているのは「SF評論」なのか「映画評論」なのか「怪獣評論」なのか「脚本論」なのか「監督論」なのか「メカ論」なのか「俳優論」なのか「サブカル論」なのかそれとも「自分論」なのか。
 それを前もって明らかにしておくことで、対立や衝突のいくつかは事前に回避することが出来る筈(はず)。
 ちなみに、私は飽くまでも<特撮演出論>にこだわっていくつもりです」

(旗手稔・「日本特撮評論史」マニア出現以後の四半世紀~マニア出現以前のプレ特撮評論・『仮面特攻隊2004年号』03年12月29日発行)


 先の伏屋氏や旗手氏の両名は同人活動をフェードアウトされてしまったが、筆者は今後、両名の巨人の両肩の上にまたがる小人ではあるものの、ゴジラに限らず特撮映画をあくまでも「特撮演出」「アクション演出」などの見せ場・ヤマ場を軸に、「ヒーロー」「怪獣・怪人」「スーパーメカ」「スペクタクル」を経由してから、「ドラマ」や「テーマ」も語っていく。


 そして、それらの最終目的でもある「観客や子供たちに、それらがウケたのか、ウケなかったのか? ウケなかった場合でも、潜在的にはウケる要素があったのか、なかったのか?」などといった観点で、以上にあげてきた要素群をも統合するような「商品」としても見つめ――言葉としては適切ではないかもしれないし、「視聴率」や「売上高」のことだけを指すわけでもなく、子供向けテレビ特撮・マニア向け深夜特撮やビデオ作品・一般層向けジャンル系映画・子供やパパママやマニアや女性層など複数のターゲットにまたがっている作品などなど、それぞれで評価尺度も変わってくるだろうが、暫定(ざんてい)的にここでは「商品」という言葉にしておく――、その価値を中心に論じていく「商品論」とでもいうような立場にこだわっていこうと考え始めている。
――自分の好みや理念に合わない作品が大ヒットしてしまった場合に大丈夫なのか? という問題もありはするものの、そこは自分の好みや理念に固執せずにフェア・公平であるように努めたいと思います・笑――


 その観点からすれば、「反核」だの「恐怖」だの「悪役」などという付加価値がつけられたゴジラは、現在の市場を考えるならば、到底売れる「商品」とは思えないのである。
 ではどうすれば売れるのか、それを考えていくことが、今後の大きな課題である。


後日付記


 2014年夏、CS放送・日本映画専門チャンネルで『ゴジラ総選挙』が行われた。
 6月5日発表の「第一次投票 中間発表」で発表された上位10位にノミネートされたのは、ミレニアムゴジラ1本・昭和ゴジラ4本・平成ゴジラはなんと5本も(!)。
 「第一次投票」(5月5日~6月22日)で決定した4トップは、昭和ゴジラ2本・平成ゴジラ2本。この4トップに投票する「決戦投票」(7月1日~7月18日)では上位2本を平成ゴジラが占め、「最終プレゼン」「最終投票」(7月19日)を経て決定した「ベスト・オブ・ゴジラ」は、『ゴジラ』第1作を2位に抑(おさ)えて、平成ゴジラ作品『ゴジラVSビオランテ』が1位に輝いた。まさに平成ゴジラ世代の台頭であり、隔世の感である。


(資料出典調査協力:樹下ごじろう)


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2015年号』(14年12月28日発行)所収『ゴジラ評論60年史』より抜粋)


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 2019年5月31(金)から洋画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が公開記念! とカコつけて……。
 同作の前日談たる洋画『GODZILLA』(2014年版)評をアップ!

GODZILLA(2014年版)

(14年7月25日(金)・封切)
(14年7月下旬脱稿)

合評1・賛! ~『GODZILLA』(2014年版) ~復活ゴジラの原典リスペクト

(文・J.SATAKE)


 第1作公開から60年。ハリウッド版2本目の『GODZILLA』(14)が登場。
 日本の原子力発電所に勤務するジョーは、異常電磁波と巨大振動による事故によって目前で妻を失う。その悲しみと真の原因を明らかにしようと固執する父に対し、息子のフォードは自らの家族を持ち、米軍の爆発物処理の任務に当たっていた。


 再び頻発する振動。立ち入り禁止地区に潜入するジョーと反発しつつも同行したフォードは、放射性物質を喰らい成長する怪獣・ムートーに襲われる!! 
 ムートーを研究・管理しようとする組織・モナークの芹沢博士から秘密を明かされるフォード。1954年、巨大生物を発見した米軍は核実験と偽り攻撃を続けたが、その放射能物質でさらに強化した怪獣がいた。それがゴジラ! その同種に寄生し成長したのがムートーなのだ!


 日本を発ったムートーはその声に導かれるように現れたゴジラと激突!
 さらに復活したもう1体のムートーも襲来、ワイキキ・ホノルル・ラスベガス・サンフランシスコを次々と壊滅させてゆく……。
 果たして人類はムートーを倒せるのか。そしてムートーを追うゴジラは人類の救世主なのか……。


 原点である第1作の「核」に対する警鐘をしっかりと盛り込んだ点を評価したい。太古には放射性物質を糧に成長した生物が存在、それが人類の核兵器原発によって再び地上に現れるという説は、自然ですら管理できると驕り高ぶる人の愚かさに強烈なしっぺ返しを喰らわせる!
 さらに放射性物質で成長する3体をメガトン級の核ミサイルでなら撃退できるはず、と作戦を実行しようとする米軍。核廃棄物や核汚染の抜本的な解決もできないままその大きな力を行使する、なんと愚かしいことか……。


 広島に落とされた原爆で父を失ったという芹沢猪四郎博士も――このネーミングも原点に対するリスペクトが感じられる! ――人間と核の愚かさを知りつつ、ゴジラが自然の調和を保とうとする存在であって欲しいと願う複雑な心象を見せてくれた。ハリウッドでも活躍する渡辺謙氏の熱演が光る!!


 怪獣に対する人間として配されたもう一組、ジョーにフォードとその妻子。「誕生日」でクロスする2つの親子の幸せなシーンと対比して、家族が巻き込まれてゆく怪獣パニック映画としてもきちんとまとめられている。
 津波から逃げまどう大勢の人々、街を蹂躙する水流。渋滞して身動きがとれない車の列を俯瞰で捉える画など、スケールの大きなパニックシーンはやはりハリウッド流。


 自身が放つ電磁波で機械や電子機器を停止させてしまうという能力で、脆弱な現代文明のカウンターともなった強力な怪獣・ムートー。長い鉤爪の腕ともう一組の腕のような巨大な翼。核ミサイルを狡猾に奪ってゆく姿は人類の天敵だ。


 もう一方のゴジラ海上から見せる背中のヒレは鋭利に。野太い首と足が力強さを印象付ける。「怪獣」という言葉を世界に知らしめた彼のデザインを逸脱することなく生まれた本作の姿。オリジナルへの敬愛が感じられる。
 そして桟橋での軍との衝突が決して人類とは相入れない怪獣の宿命を示す。


 2体のムートーを相手にビルを破壊しながら争う姿は巨大な怪獣が立ち回る迫力のバトルシーンとなった! 口から放たれる破壊光線はメラメラと燃え上がる炎のイメージが強調されたもの。ゴジラが口を押し広げ至近距離から打ち込む炎で絶命するムートー!


 満身創痍で「狩り」を終え、海へ還るゴジラ。彼の行動原理は核の濫用を続ける人類には計り知れない……。
 自然環境・核兵器問題に対する警鐘、巨大怪獣の巻き起こすパニック・バトルアクション、二世代に渡る家族の交流ドラマ。新生ゴジラはマニアに向けてのリスペクトと、初見の人へのヒューマンパニックドラマを融合させた見応えある映画となった。


 日本のアニメ・特撮コンテンツの精神を継承したハリウッド映画は、巨大ロボVS巨大怪獣の攻防を描く昨年の『パシフィック・リム』(13)もあったが、本作は原点を継承しつつ新たな設定・物語を組み込んで、単なるモンスターパニックものには堕さなかった。
 『ゴジラ』のもうひとつの物語として多くの方に認められる作品だろう。


(了)


合評2・是々非々! ~『GODZILLA』(2014年版) 長年にわたる「ゴジラ」言説の犠牲者か!?

(文・T.SATO)


 物語の前半、なかなかゴジラが登場しない。フィリピンや日本で太古のナゾの巨大生物の痕跡が調査されていく。放射能がウンヌン云ってるし、初作が公開された1954年に伏線ぽくゴジラに対して原水爆実験を装った核攻撃がなされたような記録映像も流れるので、てっきりコレは水爆大怪獣ことゴジラの痕跡のことだと思っていたのだが……。
 なんと、別の昆虫型の6本脚の新怪獣を物語は追っていたのだった!


 南海の明るい大洋を、その巨大で複雑な形の背ビレだけを見せて、悠々と回遊していくゴジラ
 メリケンの地で、同じく背ビレを見せながら、巨大な吊り橋の下を通過していくゴジラ
 夜景のビル街で、瓦礫の土煙をもうもうとさせつつ、未知なる敵怪獣と激闘を繰り広げるゴジラ
 敵に組み付き、口から吐くゼロ距離の放射能火炎でトドメを刺すゴジラ。最後は海洋へと去っていく。


 こうやって、あとから印象的なビジュアルを抜き出してみると、たしかにゴジラ映画の映像の典型+αで、そこを意識的にも押さえたのだろう。
 でも物語前半で延々描かれる、ゴジラかと思いきやそれは新怪獣の予兆だった! とゆー展開のせいか、前述のビジュアルの印象も相殺されてしまったよーナ。


 いや別に新怪獣が出てきて対決モノになるのが必ずしも悪いとは思わないし、歓迎しないでもナイ。しかし、この作品に限って云えば、大々的には告知されはていなかった新怪獣の出現は、スカッとした意外性ではなく、比重的に腰の据わりの悪さをもたらしたよーナ。


 昆虫型新怪獣の猛威に襲われていくハワイ、アメリカ西海岸!
 そして日本のミレニアム・ゴジラシリーズのように、夜のビル街で土煙をもうもうとあげながら、ゴジラと新怪獣2体との攻防が繰り広げられ、新怪獣を倒したゴジラは海へと帰っていく。
 その姿は神々しく、人類の危機に現れた救世主のようにも見えるのであった……。


 物語中盤までゴジラが姿が見せない作品ほど高尚。ゴジラは単なる暴れまわるだけの怪獣ではない。その出自からも犠牲者であり反核反戦の隠喩なのだ。と同時に大自然の象徴・警鐘でもあるのだ。単なる犠牲者、弱くてもイケナイ。ゴジラは膝を屈しない強者・神であり脅威でもあるべきだ。
 たしかに1970年代末期~90年代前半までこーいう言説がさももっともらしく語られていましたネ――筆者も共犯者だったかもしれませんが(汗)――。
 これらの言説を取り込んだから、本作は今回のようなゴジラの立ち位置になったのだと私見。メンドくさいゴジラマニアを相手にして作り手たちもホントに大変で同情します(笑)。


 ぶっちゃけ、往年のそれらの理念は、イイ歳こいて怪獣映画を観ている自分たちを肯定するための理論武装であって、それによる多少の地位向上があったことも認めるけど、次には別の問題ももたらして、ゴジラ映画から娯楽活劇性を削いでしまった面も否めない。
 ゴジラ反核反戦・自然の象徴にも成りうるけど、それは後付けであって、もっと不謹慎な男の子のプリミティブ(原始的・幼児的)な暴力衝動の発散であり、巨大怪獣がガオガオほえながら、原野や街を闊歩しビル街をぶっ壊し、とはいえスプラッタみたいな残虐性は巧妙に回避され、倒してもいい敵怪獣は容赦なくやっつける、そんな幼児的な全能感・万能感、身体性の快楽を味あわせる装置なのだとも思う。ドラマやテーマはそのための言い訳にすぎず、そんな全能感に奉仕するように構築されるべきなのだ。


 本作を個人的にはダメダメだとは思わない。明らかなアラや破綻はないし退屈もしなかった。けど、心の底から面白かったかと問われると……。


 またまたオッサンの繰り言で恐縮だけど約35年前、怪獣だのアニメだのの子供向けの趣味とされていたモノを、当時の若者層が持ち上げて――往時はオタと一般ピープルがまだ未分化であった――、子供ながらに中高生やオトナになってもこのテの趣味を卒業しなくてもイイのかも!? と期待に胸をふくらませたものだ。折しもメリケンの地からも『スター・ウォーズ』(77年・78年に日本公開)や映画版『スーパーマン』(78年・79年に日本公開)が黒船来航。ボクらの子供的な趣味の感性が勝利を収める! という束の間の祝祭感も味わった。
 折しも我らの『ウルトラマン』も800万ドルだかでアメリカでリメイクされるやも! あわよくば、日本の特撮やアニメが海の向こうでリメイクされてハクを付けて凱旋帰国し、その勢いで一挙に日本における文化カーストの上位にも食い込む! という、それはそれで舶来の権威で日本の権威を凌駕せんとする、植民地の民の奴隷根性みたいな思いに、当時のマニア連中は取り付かれていたようにも思うのだ。


 で、「来なかったアニメ新世紀」とか「日本特撮・冬の時代」とか、M君事件によるオタクバッシングなどの紆余曲折はあったけど、フランス革命ロシア革命みたいな画期があったとも思えないのに(笑)、30数年が経ってみればズルズルとゆるやかに往時の夢は実現した……ような気もしないでもない。
 往時に夢見た未来とはカナリ違った気もするし、もう少し志が高くて意識的に実現されるべき革命が、資本主義の論理でなんとなくこーなったあたりで、古い世代としては釈然としない感もある。とはいえ、往時唱えられていた「こーすれば日本特撮は復興する!」とされてきたあまたのテーゼの数々――怪獣や怪人はギャグやコミカルなどの世間に嗤われるような描き方ではなく、恐怖や脅威であるべきだという「怪獣恐怖論」の賞揚。ヒーローや怪獣の未知なる初邂逅の神秘性を重視する立場から「一回性」が賞揚されることで、続編やシリーズ作品にユニバース的な同一世界の作品群を否定する――も、必ずしも正しかったワケではないことも思えば、現今の状況でもイイのだろうとも思ったり(……複雑)。そして、それらのひとつとして今回のハリウッド版『ゴジラ』もあるワケだ。


 加えて、作品自体の罪ではナイけど、コチラが枯れてしまったせいか(笑)、ハリウッドでのリメイク自体も2度目のせいか、マニアだから語ろうと思えばいくらでも語れるのだけど、長年の蓄積だけで自動的に語れちゃってて、鑑賞前後での熱情自体はあまりナイのは筆者だけか?(汗)
 作品評価や好悪はヒトそれぞれ、そもそもゴジラマニアの尺度よりも売上の尺度の方が絶対かもしれないけど、それでも云うなら、本作がドコかスカッとせず(私見だけど)、ある意味ではハリウッド映画らしくないモヤッとした内容になったのは、日本のゴジラマニアが1970年代末期~90年代に延々とつむいできた「ゴジラ言説」のせいではなかろうか?(笑)
 それらがウスめられて海の向こうのマニア間でも普及しているから、こーいうモヤモヤとして善悪も曖昧模糊としたノリになったのではなかろうか? そーいうイミでは向こうのスタッフも悪い意味でよく「ゴジラ言説」を研究して、本作の内容や思想性にそれを取り入れてくれたと云うべきか?


 初期の「ゴジラ評論」では、子供向けに正義の味方と化した後期・昭和ゴジラを否定するために、ゴジラは悪でなければならないとされたが、そのうちにゴジラは善も悪も超越した強者であり膝を屈しない強者・神でなければならないということになった。
 そのへんのロジックの援用で、人類の脅威ともなる新怪獣が用意され、コレを倒す存在でありながら人類とは相容れないゴジラ像になったと推測するのは容易だろう。加えて、渡辺謙演じるセリザワ博士が勝手に根拠もなく思い入れて、ゴジラは自然界のバランスを戻すために現れた救世主なのかもしれないという仮説だが願望(笑)だかも述べる。


 その言説は作品批評やマニアによる愛情の吐露やジャンル作品を高尚に見せようとする手法(笑)としては大きく間違っているワケでもないけれど(汗)、劇中でもそのように語られてしまうと、チョットした肉付けの不足か逆に露骨すぎたのか、少し浮いている言説にも見えてしまう。
 加えて、平成ゴジラシリーズやミレニアムゴジラシリーズではよくあった、ゴジラを最後に撃退はしたけど死んではいなくて、ラストでゴジラが海中などでカッと眼を見開くなどの、それはそれでパターンと化した(笑)香辛料・スパイスの不足なども、本作に感じる物足りなさの理由であろうか? このへんもまた本作の弱点のようでもあり、逆にココらを重点的に攻めて肉付けして突破できれば、納得ができる作りになったような気もする。


 早くも続編の製作も決定。今度はラドンモスラキングギドラも登場するらしい(!?)。日本のゴジラシリーズの歴史とも同様、イイ意味で堕落して(笑)歴史を繰り返し、爽快な作品になることを期待したい。


(了)


合評3・否! ~『GODZILLA』(2014年版) ゴジラが来たりてホラを吹く(笑)

(文・久保達也)
(14年7月30日脱稿)


 いきなりネタバレで申し訳ないが、むしろまだ観ていない人々が劇場でビックリしないためにも、今回だけは本当のところをハッキリさせて頂きたい。


 今回登場するゴジラは、実は「悪役」ではない。それどころか、「悪い怪獣」から人類を守る、「正義のヒーロー」なのである!


 ただし、印象としてはゴジラが悪役として描かれた映画『ゴジラ2000 ミレニアム』(99年・東宝)に近い。これに登場した宇宙怪獣オルガに、今回の敵怪獣ムートーがそっくりだったし(笑)、『ミレニアム』も中盤は本編も特撮もUFOと宇宙人ばっかりで、ゴジラのゴの字も出てこなかったし(笑)。
 だが、それでもまだ、ゴジラの登場場面が比較的多かった分だけ、マシだったのかもしれない。なんせ今回はゴジラが、全然出てこないんだもの……


 んなアホな! と思ったのは、筆者とて例外ではない(笑)。実際に劇場で鑑賞するまでは、そんなことは夢にも思わなかったのである!


・予告編で編集されていた都市破壊場面ではゴジラの姿は伏せられ、ムートーもいっさい登場しなかったこと。

・チラシなどの宣材では「1954年に東宝が製作・公開した日本の特撮怪獣映画の金字塔『ゴジラ』を、ハリウッドでリメイク」などと紹介され、ましてやそこには「最高の恐怖」「テーマはリアル」(爆)などというキャッチコピーが踊っていたこと。


アメリカでの試写会の席上にて、今回セリザワ博士を演じた渡辺謙(わたなべ・けん)が、「普通の怪獣映画じゃないところがいい」などと発言していたこと。


 以上のことから、筆者は今回の作品は、ゴジラの本家である日本でウケるために、つーか、口うるさい日本の怪獣マニアから批判されないために(笑)、『ゴジラ』第一作(54年・東宝)を最大限に尊重し、


・「反核」の象徴
・「恐怖」の対象
・「悪役」のゴジラ
ゴジラと戦うのは「人間」
・「怪獣プロレス」はやらない(笑)


 良くも悪くも、こうした70年代末期~80年代に特撮マニアが怪獣映画のあるべき姿として持ち上げてきた要素を満たしたゴジラが描かれるものだとばかり、思いこんでいたのである。


 そりゃあ、フタを開けたらビックリするわなぁ(笑)。
 予告編の破壊場面は、実際には全てムートーによるものであり、「最高の恐怖」として描かれる「悪役」の怪獣はゴジラではなく、ムートーの方であった(笑)。


 そして、ゴジラは「反核」の象徴どころか、54年頃にアメリカとソビエト連邦(現ロシア)が相次いで原水爆実験を行ったのは、なんとゴジラを倒すためだった、などと悪行を正当化しやがった(これがホントの爆!)。


 「普通の怪獣映画じゃない」どころか、おもいっきりのフツーの怪獣映画やんけ!(笑) つーか、あまりにもフツーすぎるやろ!(爆)
 アメリカをはじめ、世界各国で大ヒット! って、それはハリウッド・ブランドと巨大資本に物を言わせた大宣伝で集客して、かつ怪獣映画が「文化」として根づいていないから、こういうものでもおもしろく見えてしまうだけだろうに(笑)。


 結局公開直前まで、徹底した報道管制を敷いてしまうからこそ、こうした大きな誤解が生じてしまうワケで……
 ヤフーの映画レビューでは、ハッキリと「これは詐欺(さぎ)だ!」などと怒っている人がいた。だが、「詐欺」というのは、人をだました奴が「得」をする場合のことを言うのである。今回の「詐欺」(笑)の場合は、むしろ興行側の方が「損」をしているように思えてならないものがある。


 筆者は公開二日目に2D吹替版の初回を鑑賞したが、その客層は、映画『キカイダー REBOOT(リブート)』(14年・東映)と、ほとんど変わらなかった。つまり、圧倒的に「高齢層」が中心であり、筆者の隣の席の客なんかは、正直「おじいさん」(失礼)と呼ぶのがふさわしい年代の人だったくらいである。


 予告編や宣材の「詐欺」によって劇場に足を運んだのは、


・『ゴジラ』といえば第一作が最高傑作、いや、そもそもそれ以外は全部ダメ(爆)とまで考えている者も含む、第一作至上主義のマニアたち、
・宣伝では今回の作品がどんなものかはハッキリしないけど、世代的に怪獣映画を観て育ったため、せっかくの久々の新作だから観てみようか、と思った一般層の人々


だったかと思われる。これでは「高齢層」中心になるのも当然である。


 たとえばマニアでも、


・筆者のように70年代前半の子供向け興行「東宝チャンピオンまつり」の昭和ゴジラシリーズ後期の正義の味方のゴジラを幼少の頃に観た世代や、
・90年代前半に平成ゴジラシリーズを小中学生で観た世代にとっては、


 「怪獣対決」のない怪獣映画なんて、クリープを入れないコーヒーみたいなもんだ、と考えている者、もしくは表面ではそう思っていなくても無意識にはそう思っている者が中心であることだろう。


 そうした者にとっては、「怪獣対決」のない『ゴジラ』第一作至上主義やその作劇なんぞ、まさに目の上のタンコブみたいなものである(笑)。だから前宣伝のせいで、今回の作品が第一作のリメイクみたいなものだと思いこんでしまったら、大枚(たいまい)はたいてまで積極的に観に行くワケがないと思えるのである。
 筆者も先にあげた『キカイダー REBOOT』の上映前に流された予告編を観て、個人的には何ひとつワクワクさせるものを感じることができなかった。


 さらにチラシの「最高の恐怖」「テーマはリアル」という70~80年代の特撮マニアが散々『ゴジラ』映画の理想としてきて筆者も信じていた(汗)、しかし今やその有効性をスレたマニアからは疑問視されて久しいテーゼを今さら仰々しく掲げるセンスに至っては、頭をかかえずにはいられなかったものである(笑)。


 筆者はバンダイから「ムービーモンスターシリーズ」として、ムートーのソフビ人形が発売されることを知るに至るまで、今回の作品はゴジラが単独で登場する作品だとばかり思いこんでいたのである。ひょっとしたら、玩具の発売情報なんぞに疎(うと)いために、いまだにそう思いこんでいる人々も、少なからず存在するのではないのだろうか?
 筆者が私見するに、これではドッタンバッタン組んずほぐれつの「怪獣対決」が描かれるのなら観てみたいと考えるような、実は結構いるであろう潜在的なヤジ馬客層をシャットアウトしてしまっているワケであり、まさに「損失」以外の何ものでもないのである。


 なので、こういう手法がかつては通用した時代もあったが、今の時流には、公開直前までの情報管制はそぐわない、と個人的にはとらえている。
 ゴジラであれば、怪獣映画であれば、どのような作品であれ、絶対に観なければ気がすまない! という人間たちに対してはそれでもいいだろう。だが、世の中そういう人間ばかりではない。つーか、そんな連中は圧倒的少数派なのである(爆)。


 怪獣映画なんぞにまったく思い入れのない人々であれば、どんなものが出てきてどんなことをやるのか、前宣伝でまったくわからないようなものに、果たして大枚はたくようなことをするのか? ということなのである。
 そんなことをするくらいなら、安心確実なブランドである、スタジオジブリやディズニー、『ポケモン』の方を選ぶのではなかろうか――本当はここに戦隊&ライダーの劇場版も加えたいところなのであるが、どうやらこの2014年の夏も苦戦してるようなので……――。


 だから「恐怖」だの「リアル」だの「第一作の精神」だのと、旧態依然の古いマニアかせいぜい背伸び盛りの聞きかじり新参マニアにしか通用しない、抽象的な文句を並べたてるくらいなら、


ゴジラの姿を最初から公開して、昔は着ぐるみだったけど、今回はCGで自在に動くから迫力があるぞ! とか、
ゴジラのほかにもムートーという怪獣が、オスとメスの二種類出てくるぞ!


なんて調子で煽(あお)り文句で宣伝していれば、特撮といえば戦隊やライダーしか知らない若いマニアや子供たちに、多少なりともインパクトをもってアピールすることができたように思えてならないのだ。


 先に客層が「高齢層」中心であると書いたが、とにかく今回は、子供たちの姿が「皆無」に近いくらい少ない。上映後にたまたまトイレで出くわした中学生男子二人組のうちのひとりの発言が、まさにそれを象徴しているように思えたものだ。


「オレちっちゃい頃、『ゴジラ×(たい)メカゴジラ』(02年・東宝)観たハズなんだけど、全然覚えてねえんだよ」


 おそらく彼は当時3歳くらいであり、『ゴジラ×メカゴジラ』よりも、むしろ同時上映のアニメ『とっとこハム太郎』(00~13年)の劇場版(01~03年)が目当てだったのではなかろうか。
 ただでさえ興行成績が低迷していた00年代前半のミレニアムゴジラシリーズ(99~04年)の客層は、『ハム太郎』の併映により興行収入を一時的にアップさせるも、子供といえば小中学生ではなく、就学前の幼児が中心となっていた。先にあげた中学生のように、当時はあまりにも小さすぎて、ゴジラのことを全然覚えていないか、『ハム太郎』だけを観て帰ってしまったか――この当時は『ゴジラ』作品の冒頭、自衛隊の面々が残酷に蹴散らされていくシーンだけ観て、幼児の教育に悪いと思ったのかワラワラと退出していく親子連れがメチャクチャ大勢存在した!――のどちらかが大半であろうかと思われる。
 ミレニアムゴジラシリーズを観て新たなゴジラファンとなった子供たちは、数としてはたかが知れた程度にすぎないのではなかろうか? それを思えば、実質的なブランクは、映画『ゴジラ FINAL WARS(ファイナル・ウォーズ)』(04年・東宝http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060304/p1)でシリーズが打ち切られて以来の10年間にはとどまらないのではないのか?


 知人に聞いた話では、今回の作品は講談社『テレビマガジン』や小学館『てれびくん』でも、一応は紹介されていたらしい。にもかかわらず、子供たちが全然観に来ないのである!
 テレビシリーズの新作が途絶えても、ウルトラシリーズの場合は映画の公開・アトラクションショー・児童誌連載・オリジナルビデオ作品リリースなど、一応はなんらかの動きが成されてきた。だから、たとえ商品的価値は凋落(ちょうらく)しようとも、その存在をかろうじて延命させることとなっている。


 だが、ゴジラの場合は10年間、本当に何もしなかったのである。これでは公開直前になって、あわてて事前情報が掲載されようが、子供たちの関心を惹(ひ)くハズもないのである。
 怪獣映画の未来は、もはや風前の灯火(ともしび)としか言いようがないほどの、危機的状況におかれているのではないのか? これを打開するにはどうすればよいのか、答えはひとつである。


 「怪獣対決」が観られると思って喜んだのも束(つか)の間(ま)、ハワイでのゴジラ対ムートーの対決はテレビ画面の中でしか描かれないわ、アメリカに上陸してやっと始まったと思ったら、突然画面が真っ黒になって別の場面に切り替わるわ――マジで上映トラブルかと思った・爆――…… だから今回は第一作至上主義者ばかりか、結局は「怪獣対決」至上主義者(笑)にとっても不満が残ってしまったワケで……


 こんなカン違い映画(笑)をこれ以上ハリウッドにつくらせないためにも、本家の東宝ゴジラを復活させ、毎年安っぽいつくりでも継続して公開するより道はないのである!
 そしてハリウッドは、日本の怪獣映画をもっと研究するのみならず、怪獣映画が「文化」として根づいている日本の怪獣マニアたちが、世界の中で「最高の恐怖」(爆)の存在であることを、肝に銘(めい)ずるべきである(笑)。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2015年準備号』(14年8月15日発行)~『仮面特攻隊2015年号』(14年12月28日発行)所収『GODZILLA』合評1~3より抜粋)
(合評2のみ、オールジャンルTV合評同人誌『SHOUT! VOL.62』(14年8月15日発行)所収『GODZILLA』評と合わせて再構成)


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トクサツガガガ』(TVドラマ版)総括 ~隠れ特オタ女子の生態! 40年後の「怪獣倶楽部~空想特撮青春記~」か!?

(文・久保達也)
(19年3月30日脱稿)

「特撮オタ女子」が主人公のドラマ、NHKで放映!


 小学館ビッグコミックスピリッツ』で2014年から連載中の丹羽庭(たんば・にわ)原作の漫画作品『トクサツガガガ』が、NHK金曜22時の『ドラマ10(テン)』の枠にて実写ドラマ化され、2019年1月18日から3月1日にかけ、全7話が放映された。


 原作の『トクサツガガガ』は、職場では女子力が高いと思われている一見フツーのOLだが、実は特撮変身ヒーローをこよなく愛する、隠れ特撮オタ・仲村叶(なかむら・かの)=通称・仲村さんが主人公だ。
 毎日職場に弁当を持参することも、仲村さんが周囲から女子力が高いと思われる理由のひとつだが、それは日々の生活で必死に節約をして円盤を買うためであり、会社の飲み会なんぞ、ムダな出費でしかないのだ。
 (ひとり)ボッチアニメ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20150403/p1)で、主人公のスクールカーストの最底辺女子高生・黒木智子=もこっちが「喪女(もじょ)」と定義されたように、仲村さんの弁当持参は「女子力」ではなく、「女死力」(爆)なのである。
 そもそも一般層は、ブルーレイやDVDを「円盤」などとは呼ばないだろうが、ほかにもイチオシのキャラを意味する「推(お)し」とか、児童向け雑誌の愛読者全員サービスDVDの通称・「読サ」など、オタの間でしか通用しない特殊用語が、一般の視聴者向けに字幕で解説される(笑)配慮は好印象だった。


 なお、ドラマ版の脚本を担当した田辺茂範(たなべ・しげのり)は、美少女の姿をした動物たちを描いた大ヒットアニメ『けものフレンズ』(17年)のシリーズ構成・脚本を務めていたが、製作がビデオコンテ方式に変更されて以降、実質的なシナリオは監督のたつきが担当することとなったため、現在はスタッフクレジットから田辺氏の名が除外されている。
 ちなみに氏が主宰(しゅさい)する劇団の名は「ロリータ男爵(だんしゃく)である(爆)。


かつて放映された「特撮オタ男子」が主人公のドラマ


 特撮オタを主人公としたドラマとしては、毎日放送・TBS系の深夜ドラマ枠『ドラマイズム』にて、2017年の6月に全4話が放映された、『怪獣倶楽部(クラブ)~空想特撮青春記~』(17年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20170628/p1)の存在が前例としてあげられる。
 これは70年代半(なか)ばに活動していた実在の特撮同人グループ・怪獣倶楽部をモチーフにした実話を含むフィクションであり、特撮オタの大学生の主人公・リョウタが、世間では完全に「子供向け」とされていた怪獣番組を、大人たちが堂々と語れる場所として存在した怪獣倶楽部に青春を捧(ささ)げる日々が描かれ、ひそかに交際していた彼女・ユリコに怪獣好きであることを告白できないばかりか、ユリコとの交際を倶楽部のメンバーに知られたら、「裏切り者」(笑)として追放されるのでは? などと、その二重生活にリョウタが葛藤(かっとう)するさまが、当時の時代の空気を忠実に再現するかたちでドラマ化されたものだった。


 あの時代から40年以上が経過し、実在した怪獣倶楽部の活動の功績もあり、現在では怪獣番組=特撮番組自体は、かろうじて世間でも市民権を得られたような感があるが、いまだに仲村さんのような隠れ特撮オタが多く存在するのは、怪獣倶楽部の健闘もむなしく、残念ながら特撮オタの方は、「昭和」から「平成」へと時代が移っても、まだまだ市民権を得てはいないということだ(大汗)。
 『トクサツガガガ』もまた、隠れ特撮オタならではの仲村さんの苦悩がコミカルに描かれているのだが、『怪獣倶楽部~空想特撮青春記~』と大きく異なるのは、最初から怪獣倶楽部という、同好の仲間が集まる最良の居場所を得られていたリョウタに対し、当初仲村さんには仲間・理解者の存在がなかったことと、まだ学生で自身のオタ趣味を隠さねばならない相手が彼女のユリコくらいで済んでいたリョウタと違い、社会人の仲村さんは会社の同僚全員に、就職を機に離れて住むこととなった母親など、その相手があまりにも多すぎることなのだ。


特撮オタ「あるある」(笑)


 第1話『トクサツジョシ』の後半で描かれた、同僚たちからのカラオケの強要は、仲村さんが「いちばん苦手なノリ……早く帰りたい」(笑)と嘆(なげ)いたように、社会人の隠れオタなら苦い記憶があるだろう。
 若い世代に人気のアーティスト・サカナクションを怪人の名前と思ってしまうほど(爆)、世間一般でウケているものに疎(うと)いがために、特撮ヒーローソング以外に全然歌えない仲村さんは困り果ててしまう。
 私事で恐縮だが、小室哲哉(こむろ・てつや)の楽曲が全盛を極めていた90年代半ば当時、筆者はまだ充分に若かったにもかかわらず、職場の同僚たちに強引に連れていかれたカラオケ店で「ヒューヒュー!」などと盛りあがっていた連中のことが理解できないどころか、それらの歌を全然聴いたことがなかったために(汗)、歌うことを強要されるや、やむなく「昭和」の歌謡曲を何曲か披露、おもいっきりその場をシラケさせたものだった(爆)。


 ガチャガチャ自販機でカプセルトイを買いたいものの、周囲の目が気になってしまい、人目につかない場所にある自販機を捜し回ってみたり。
 オマケのヒーローフィギュアを目当てにファーストフード店で子供向けのセットを注文するも、そこに同僚のチャラ男が現れたことで、やむなく女児向けのアクセサリーをもらうハメになり、姪(めい)のために買った(笑)と、苦しい言い訳をしてみたり。
 職場では使わない黒ブチメガネをかけ、徹夜してヒーローものを観ていたために、疲れきっていた表情を通勤時に後輩男子から指摘され、夜遅くまで資料に目を通していたなどと、大ウソをついてみたり(笑)。
 「休日は何してるの?」「何にお金使ってるの?」とたずねられ、返答のしようがなかったり(汗)。
 ヒーローのアトラクションショーを観に来たクセに、仕事の休憩中にたまたま通りがかった、ひまつぶしのOLを装(よそお)ってみたり(爆)。


 そんな「隠れオタあるある」に苦悩する仲村さんを、劇中で仲村さんが夢中になっているスーパー戦隊の最新作・『獅風怒闘(しっぷうどとう) ジュウショウワン(獣将王)』、そして仲村さんが幼いころにリアルタイムで観ていたメタルヒーロー・『救急機エマージェイソン』のヒーローたちが、仲村さんにしか見えない存在として現実世界に現れ、仲村さんの危機を救うこととなるのだ!


劇中ヒーローの「本物」志向!


 先述した『怪獣倶楽部~空想特撮青春記~』は、円谷プロの全面協力を得たことにより、幻覚宇宙人メトロン星人・分身宇宙人ガッツ星人・宇宙恐竜ゼットン・幽霊怪人ゴース星人など、ウルトラマンシリーズの人気怪獣・宇宙人が、常にリョウタに寄り添う、リョウタにしか見えない存在として登場したが、『トクサツガガガ』で劇中劇として描かれた『獅風怒闘 ジュウショウワン』と『救急機エマージェイソン』は、架空のヒーロー番組ではあるものの、登場するヒーローのマスクやスーツの造形、番組の演出などは、スーパー戦隊メタルヒーローを実際に製作した東映の協力を得ているのだ。
 これまでに多くのスーパー戦隊を手がけてきたレインボー造形企画が造形を担当した、ジュウショウワンのシシレオー=レッド、トライガー=ブルー、チェルダ=イエローのデザインは、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(92年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20120220/p1)・『百獣戦隊ガオレンジャー』(01年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20011113/p1)・『爆竜戦隊アバレンジャー』(03年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20031111/p1)・『獣電戦隊キョウリュウジャー』(13年)などのヒーロー&ヒロインのように、牙(きば)のある恐竜や猛獣が大きく開けた口を、マスクのゴーグル部分のモチーフとしており、牙状の三角形やギザ模様が全身に描かれているのも、先述した作品群の主人公たちと共通する意匠(いしょう)となっている。
 特にシシレオーのデザイン・造形は、頭部にライオンのたてがみを模(も)した突起が複数つけられている以外は、『キョウリュウジャー』のキョウリュウレッドに酷似(こくじ)した印象が濃厚であり、まさに本家ならではのリアル感にあふれていた。


 また、ジュウショウワンの敵で、狼(おおかみ)をモチーフにした幹部怪人・ゲンカ将軍とエマージェイソンを演じたのは、『仮面ライダーBLACK(ブラック)』(87年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001015/p2)や『仮面ライダーBLACK RX(ブラック・アールエックス)』(88年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001016/p1)の主人公ライダーを皮切りに、「平成」仮面ライダースーパー戦隊メタルヒーローシリーズなどで数多くのヒーローや怪人を演じてきたスーツアクター・岡元次郎であり、トライガーは『宇宙戦隊キュウレンジャー』(17年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180310/p1)のホウオウソルジャーや、『快盗戦隊ルパンレンジャーVS(ブイエス)警察戦隊パトレンジャー』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190402/p1)の敵組織・ギャングラーの幹部怪人デストラ・マッジョなどを演じた若手の藤田洋平が、ジュウショウワンの追加戦士・セロトル=シルバーは『大戦隊ゴーグルファイブ』(82年)の時代から活躍する大ベテラン・蜂須賀昭二(はちすか・しょうじ)が務めるなど、「中の人」までもがジャパンアクションエンタープライズに所属する、「本物」が揃えられていたのだ!
 スーパー戦隊のロケ地として定番で使われる、栃木県栃木市にある岩船山の採石場跡地にて、「轟(とどろ)きの青! トライガー!」「疾風(はやて)の黄! チェルダ!」「闘志の赤! シシレオー!」「われら、獅風怒闘! ジュウショウワン!」との名乗りや、バトルアクションを撮影するに至るまで、『トクサツガガガ』が劇中ヒーローの「本物」志向にこだわったのは、我々のような特撮オタを満足させるためというよりは、むしろ放映枠の『ドラマ10』が、普段は一般層に向けたドラマを放映していることが大きかったのではあるまいか?

 平日21時に放送されている報道番組・『NHKニュース9(ナイン)』のキャスターたちが、「では今夜はこれで失礼します」と視聴者に頭を下げた直後に、第1話冒頭で描かれた劇中劇・『ジュウショウワン』がつづいたのは、なかなかシュールなものがあったのだが(笑)、特に中高年の一般層には、ウチの両親なんかもそうだが、とりあえずNHKをつけっぱなしにする人々が多いかと思われる。
 日曜20時に放映される大河ドラマの直後にある20時45分のニュースが、視聴率ランキング上位20位以内にちょいちょいと顔を出すのは、まさにその象徴かと。
 つまり、『NHKニュース9』につづいて、そのままNHKでいいやと、ついでに『トクサツガガガ』を観ていた視聴者に、バラエティ番組に見られるような、ヒーローもののパロディコントのようなチャチな映像を見せてしまったら、さすがにチャンネルを変えられるのがオチだろう。
 これほどのクオリティの映像なら、一見女子力が高い仲村さんが夢中になるのもうなずけると、一般層の視聴者に説得力を与え、主人公の仲村さんに共感させるためには、劇中ヒーローを最大限にカッコよく見せる演出は、やはり不可欠だったかと思えるのだ。


劇中劇と絶妙にリンクした展開


 「一般的なものを楽しまないツケだ!」とか、「盛大にオタバレするがいい!」などと、ジュウショウワンの敵で、カラオケのモニターを顔にした怪人・カラオケ怪人までもが現実世界に現れ、仲村さんをあざ笑う!
 先述したヒーローたちに比べると、このカラオケ怪人の造形はかなり簡素な印象が強かったが、近年のスーパー戦隊ではこんなギャグ系怪人が登場するのがあたりまえになっていることを思えばまったく違和感がなく、むしろリアルに見えたほどだ(笑)。
 深夜枠で放映され、大ヒットしたヒーローアニメ『SSSS.GRIDMAN(グリッドマン)』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190529/p1)の敵だったアレクシス・ケリブもそうだったが、カラオケ怪人の声を務めた、稲田徹(いなだ・てつ)の絶好調なコミカル演技もまた然(しか)りだ。


 カラオケ怪人に襲われた仲村さんの前に、幼いころにあこがれたエマージェイソン――やはり『SSSS.GRIDMAN』で、悪側から正義側へと転じたキャラ・アンチの声を務めた鈴村健一がナレーションと兼任した――が現れ、「生活を守るために正体を隠すのは、悪ではない!」と勇気づけた!
 これに奮起した仲村さんは迷いを捨て、その場にいる同僚たちは皆『エマージェイソン』のリアルタイム世代だからと、意を決してその主題歌を熱唱する!
 その最中にも、エマージェイソンはテンションは抑(おさ)えぎみに、英語の歌詞はにごせ、テレビサイズで流れない部分は捨てろ(爆)などと、仲村さんの背中にメッセージを贈りつづける!
 男性社員を中心に、その場はおおいに盛りあがり、仲村さんはカラオケ怪人を、岩船山の採石場で(笑)見事に打ち倒したのだった!


 このように、隠れオタの仲村さんが危機に陥(おちい)るたびに、ジュウショウワンやエマージェイソンが現れる以外にも、同じものをわかちあえる仲間がほしいと願う仲村さんが、『ジュウショウワン』でシシレオーとトライガーが初めて出会う場面を回想したり、後述するが、銀ブチメガネをかけた、終始無愛想な仏頂面(ぶっちょうづら)であり、一見お局(つぼね)様風の同僚・北代(きたしろ)さんを、仲村さんが「仲間?」と思いこむ場面に、追加戦士・セロトルに「君は、獣(けもの)のオーラを感じたのか?」と問いかけるシシレオーの姿を挿入するなど、仲村さんの人間ドラマと『ジュウショウワン』の展開をリンクさせた演出が、視聴者の感情移入を誘うには絶妙なものとなっていたのだ。
 また、あまたのボッチアニメのように、本作は仲村さんのモノローグが多用されているのだが、特撮オタであることがバレそうになるたび、表情では平静を装いつつも、内心ではテンション高めにボヤきまくる、仲村さんを演じた小芝風花(こしば・ふうか)の演技は絶品かと思えた。


 本誌早春号で戸島竹三氏が、小芝を元アイドル歌手で女優の中山美穂の妹・中山忍(なかやま・しのぶ)に似ていると指摘しておられたが、中山忍といえば、マニアの評価が極めて高かった怪獣映画『ガメラ 大怪獣空中決戦』(95年・角川大映)、および映画『ガメラ3 邪神覚醒(イリスかくせい)』(99年・角川大映)でヒロインの鳥類学者・長峰真弓(ながみね・まゆみ)を演じたことから、当時マニアの間ではちょっとしたアイドル的存在となっていたものだ。
 それを思えば、彼女に似た小芝を仲村さんに抜擢(ばってき)したことは、実に的確であるだろう(笑)。


特撮オタ仲間の「追加戦士」たち


 通勤電車でたまたま見かけた、トライガーのキーチェーンマスコットをカバンにつけた年上女性を、ひそかに「トライガーの君」――この呼び方がまたリアル!――と呼び、なんとか仲間にしたいと願う仲村さんだが、仲間はほしいけどオタバレはしたくないと、まさに隠れキリシタンのようなジレンマを抱(かか)えているだけに、自身もシシレオーのマスコットを身につけることで、同じ『ジュウショウワン』のファンであることを、「トライガーの君」に気づいてもらおうとするのが、なんともまたいじらしい……
 そのためにガチャガチャ自販機の前でがんばっていたことで、仲村さんは最後の1個となったシシレオーを狙っていた、小学3年生のメガネ男子と運命の出会いを果たすのだが、「トライガーの君」に対し、彼のことをホラー映画『オーメン』(76年・アメリカ)に登場した悪魔の子・ダミアンと呼ぶのは、いくらなんでもひどすぎるだろ(笑)。
 まぁ、ダミアンはダミアンで仲村さんのことを、知り合った当初は「カプセルの人」と呼んでいるのだが(爆)。


 めでたくダミアンを特撮オタの仲間としてゲットした仲村さんだが、親に強制された塾(じゅく)に通うのを嫌がっていたダミアンは、塾に通うには遠回りになる地下通路をジュウショウワンの秘密基地に見立て、自身をメカニカルスタッフだと思いこむことで、「この通路を通ると、塾へ行くのがちょっとだけ楽しい」と仲村さんに語る。
 この場面でも、「エマージェンシー」とのアナウンスとサイレンが流れる中、赤いヘルメットと隊員服姿のダミアンが、ジュウショウワンとともに出動し、シシレオーが「今日の算数は手強(ごわ)そうだぞ」などと、ダミアンに語りかける妄想(もうそう)が描かれていた。
 『SSSS.GRIDMAN』に登場した特撮オタの男子高校生・内海将(うつみ・しょう)も、ひそかに恋していた同級生の美少女・新条アカネが実は悪だったという、つらい現実にしっかりと向き合っていたものだ。
 そんなダミアンが、「君もいっしょに出動するぞ!」と、先述した北代さんに苦手意識のあった仲村さんに心の変遷(へんせん)をもたらし、「かっこいいね! ダミアン隊員」と呼びかけた仲村さんに、Vサインで応(こた)える第3話『ツイカセンシ』後半の描写は、個人的には本作のベストかと思えるほどの名場面だった。


 そのダミアンの協力を得たことでシシレオーを入手した仲村さんは、やはり電車内にてアイコンタクトで「トライガーの君」に気づいてもらうことに成功した!
 この際にマスコットのチェーンが揺れるのを強調した音響演出が、まさに運命の出会いを象徴しており、実に秀逸(しゅういつ)だった。
 途中の駅で降りた「トライガーの君」は、車内の仲村さんに向かって手を振る際、いつのまにかトライガーに変身していたが(笑)、第2話『トライガーノキミ』にて、ジュウショウワンショーの会場で仲村さんは「トライガーの君」とバッタリ出会い、名前が吉田さんであることを知る。
 いっしょにショーを観ることになったふたりは最初はぎこちなかったものの、先述した『SSSS.GRIDMAN』の内海もそうだったが、好きな作品や推しキャラの話をしているうちに、急にイキイキとして目を輝かせ、テンション全開で熱く語りだす生態描写は実にリアルだ(笑)。
 特に吉田さんは第1話から、一見おとなしいお嬢様風であることが強調されていただけに、その激変ぶりが顕著(けんちょ)だったが、自身が中学生のころに観ていた『エマージェイソン』を、仲村さんが就学前に観ていたことを知り、「年が10近く違うってこと?」と衝撃を受けた(笑)吉田さんが、ややテンションが下がってしまう演技も絶妙だった。
 演じた倉科(くらしな)カナが、すでに30を超えているという事実には、こちらが衝撃を受けてしまったが(爆)。


特オタ「女子」と「男子」の違いとは?


 以降の仲村さんと吉田さんの会話に注目してみると、


・『ジュウショウワン』の魅力はキャラクター!
・殺陣(たて)がかっこいい!
・変身やロボ戦こそが魅力!
・追加戦士の弓矢がいい! 弓キャラ最高!(笑)


といったことをワイワイキャッキャと話しており、ドラマやテーマに関しては、ほとんど口にしてはいなかったりするのだ。
 ちなみに吉田さんはトライガーについて、融通(ゆうづう)がきかない不器用なキャラだが、筋はキチンと通すところが魅力だと語っていた。
 これもまた、先述した『怪獣倶楽部~空想特撮青春記~』で毎回描かれた、喫茶店での怪獣倶楽部の会合にて、メンバーたちが怪獣番組のドラマやテーマについて熱く語っていた描写とは大きく異なっているのだが、これは時代の違いというよりは、オタ女子とオタ男子の違いだと解釈すべきものだろう。


 「80年代をリードする(笑)ビジュアルSF世代の雑誌!」をキャッチコピーに、1980年1月に朝日ソノラマから創刊された雑誌『宇宙船』では、当初は当時放映されていたスーパー戦隊や『宇宙刑事』シリーズ(82~84年・東映 テレビ朝日)といった、東映の新作を完全に無視していたが(汗)、戦隊シリーズ超電子バイオマン』や『宇宙刑事シャイダー』(ともに84年・東映 テレビ朝日)が放映された80年代半ばあたりから、ようやくチラホラと扱うようになり、読者投稿欄ではそれらの変身前を演じる役者たちや、現在のジャパンアクションエンタープライズの前身・ジャパンアクションクラブに所属するアクション俳優たちに対する、オタ女子の熱いラブコールが見られるようになったものだった。
 また、「平成」ウルトラマン三部作(96~98年・https://katoku99.hatenablog.com/archive/category/%E5%B9%B3%E6%88%90%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9)の放映当時も、オタ男子がそのドラマやテーマについて語っていたのに対し、オタ女子の方は防衛組織の隊員について、誰がいいとか誰が好きとかを語ることが圧倒的に多く――これは当時の本誌も例外ではなかった。つーか、今の本誌にはナゼ女性のライターがいないのか?(爆)――、70年代末期に起きた空前のアニメブームの中、オタ女子が『宇宙戦艦ヤマト』(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20101207/p1)の主人公・古代進がいいだの、『機動戦士ガンダム』(79年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19990801/p1)の敵キャラのシャア・アズナブルがカッコいいなどといった、それこそ「推し」のアニメキャラ語りの延長線上にあるものだったのだ。


 ドラマやテーマよりも、「平成」仮面ライダーの悪役を「ネタキャラ」として消費したり、『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』の朝加圭一郎(あさか・けいいちろう)=パトレン1号を「圭ちゃん」と呼び、それがネットのホットワードと化して盛りあがったりする近年の傾向からすれば、実はオタ女子の方がオタ男子よりも、昔から特撮番組の本当の魅力について、キチンと語っていたのではあるまいか!?


苦悩していたのは「特オタ」ばかりではない!


 まぁ、吉田さんの勧(すす)めで、仲村さんがあるイケメン俳優が好きな同僚の女子に、その俳優が無名時代に出ていた特撮ヒーロー作品を観せることで「仲間」にしようとするも、仲村さんが本当に観てほしかった、変身場面や巨大ロボ戦をその女子は「退屈パート」(笑)として飛ばしてしまい、1クール分をアッという間に観たとして、貸した翌日に円盤を返され、その作戦は失敗に終わってしまう。
 その同僚とのやりとりを、よりによって職場の飲み会の席でやらかした仲村さんは、あやうく同僚たちにヒーローもののDVDジャケットを見られそうになるものの難を逃(のが)れ、とっさにそばの席にいた北代さんに、趣味は何か? とたずねてしまった。
 いい年をしてマンガ・ゲーム・ぬいぐるみ・おもちゃとかに夢中になっているような、痛々しい連中を見ていると、趣味なんかなくてもいいと思ってしまうと、冷酷な口調で語った北代さんは、「興味もないのに、その場しのぎで趣味聞くってどうなんですかね?」と、仲村さんに痛烈な一撃を浴びせたのだ。


 災難はこれだけではなかった。吉田さんと『ジュウショウワン』の追加戦士・セロトルのショーを観に来ていた仲村さんは、セロトルと握手している現場を北代さんに目撃されるばかりか――おもわず仲村さんの手に力が入ってしまい、セロトルが痛がる演技が芸コマだ(笑)――、「会社にも変なオモチャ持ってきてるよね?」と、すでに特撮オタであることが北代さんにバレていたことが発覚する!
 第1話のラストで仲村さんと吉田さんが「仲間」となった電車に北代さんが乗り合わせていたり、第2話のラストで仲村さんが誤ってロッカールームの床に落としたカプセルを北代さんが拾ったりと、伏線は充分に張られていたのだが、覚悟を決めた仲村さんが、好きなものに年齢とか性別とか関係ないとの持論を主張するや、北代さんは「まわりはそういうふうに思ってないよ」と語った……


 第4話『オタクノキモチ』の冒頭にて、北代さんが回想するかたちで語られた、仲村さんに対する北代さんの態度・行動の動機は、実に重いものであり、大半の視聴者が感情移入せずにはいられなかったことだろう。
 某(ぼう)企業で営業として務めていた、バリバリのキャリアウーマンだった北代さんは、会社の同僚との飲み会に同席させた友人の女子大生・みやびさんに、同じ男性アイドルグループの大ファンであることをバラされてしまい、職場内でアイドルオタであることをいじられまくった末に退職を余儀(よぎ)なくされ、みやびさんとも絶縁状態となっていたのだ。
 北代さんが落としたパスケースに、そのアイドルグループのトレードマークが入っていたことで、仲村さんは北代さんがドルオタであることを知り、自身がされたら最も困るような、北代さんが隠していることを無神経にほじくり返していたと、罪悪感にさいなまれる……


 いい年をして特撮オタをつづけていることの言い訳として、我々は心の中で、「誰にも迷惑はかけていない」などと主張したりするのだが、知らず知らずのうちに、こんな迷惑をかけてしまう可能性もあることを、我々は肝(きも)に銘(めい)じておくべきなのかもしれない。
 それにしても、キャリアウーマン時代の北代さんはどう見てもリア充にしか見えず、現在のお局様みたいな北代さんが、完全に別人と化したかのように見える、演じる木南晴南(きなみ・はるか)の演じ分けは見事だった。
 特に第3話のラストで、仲村さんが手渡そうとしたパスケースを即座にひったくり、「ハ? あなたが仲間?」と、眉間(みけん)にシワを寄せる表情演技は絶品かと。


 ちなみに北代さんが夢中になるアイドルグループを演じたのは、名古屋を拠点(きょてん)に活動する実在のアイドルグループ・BOYS AND MEN(ボーイズ・アンド・メン)であり、実は『仮面ライダー鎧武(ガイム)』(13年)で駆紋戒斗(くもん・かいと)=仮面ライダーバロンを演じた小林豊も、そのメンバーのひとりなのだ。
 筆者は特撮とは何の関係もないイベントで、氏のトークをたまたま見かけたことがあるのだが、実際の氏は戒斗とは正反対の、完全なチャラ男だった(爆)。


 「心狭(せま)いなアタシ……」と、パスケースを見つめた北代さんは、アイドルグループのライブ会場にて、みやびさんと初めて出会った日のことを回想する。
 アイドル好きに年齢なんて関係ないと、あのとき仲村さんのように語っていたみやびさんから、「会って謝りたい」とのメールが北代さんに届いた。
 ふたりの仲を仲村さんと吉田さんが取り持つことで、特撮オタ女子とアイドルオタ女子が合体を遂(と)げ、第5話『ウミノジカン』では4人で旅行に出かけるほどに、その関係性は劇的に変化、最高の仲間たちに恵まれることとなった仲村さんだが、まだ最大の敵が待ち受けていたのだ。


「価値観」の違いの果てに……


 第1話から回想で再三点描されてきたように、仲村さんが幼いころから特撮好きであることを毛嫌いしてきた母・志(ふみ)が、第6話『ハハノキモチ』にて、正月になっても実家に帰省しない仲村さんを見かねて突然上京してきた。
 特撮グッズであふれかえった部屋に入れるワケにはいかないと、仲村さんは兄の助言で高級料亭で志と会うことになるが、その前に合いカギを使うことですべてを知ってしまった志は、仲村さんを散々ののしったあげくにビンタを食らわし、仲村さんの部屋から持ってきたシシレオーのフィギュアを破壊してしまう!
 これに逆ギレした仲村さんは、「じゃかましいクソババア!」と志を殴り返し、もう親でも子でもないとタンカを切る!


 この場面は一部では賞賛の声があがっているようだが、正直筆者は正視できないものがあった。ナゼなら、もう何十年も前の若かりしころ、コレとほぼ同じケンカを両親とやらかしたことで、一時ヤメオタに追いこまれた時期があったからだ(汗)。
 生々しさを避けるために詳細は省(はぶ)かせてもらうが、バブル景気の絶頂期に大学を卒業して東京に就職した筆者は、いろいろあって(笑)5年ほどで実家に戻らざるを得なくなり、大量の荷物を整理しているときに事件は起きたのだ。
 男のひとり暮らしだったのに、荷物があまりに多いことを不審がった母が部屋に入ってきたとき、筆者はまさに、ダンボールから大量のフィギュアや書籍、今はなき映像ソフト・レーザーディスクやCDなどを出している最中だった。

 
 「まだこんなん持ってたん!?」「恥ずかしいと思ってるんでしょ自分でも!」「30すぎてもロクでもないことしていくつもり?」「ひとりになるよ!」……


 それはベテラン女優・松下由樹が演じた、志の仲村さんに対する罵倒(ばとう)とほぼ同じだった。あのときの母も、志と同じ表情をしていた。松下の演技は、あまりにもリアルにすぎたのだ。
 幸いコレクションを破壊されることも、暴力の応酬(おうしゅう)もなかったものの、仲村さんのごとく、「まちがってるとか、これっぽっちも思わない」と主張した筆者に、父は「その考えが変わらないなら、3日以内に出ていけ」と通告した。筆者は大量の荷物を放置したまま、必要最小限の衣類と生活用品だけを手に、翌日実家をあとにしたのである。
 従って筆者が一時期ヤメオタとなったのは、これが直接的な原因ではなく、その直後の1995年1月17日に起きた阪神・淡路(あわじ)大震災と、同年3月20日に起きた地下鉄サリン事件のあまりの惨状に、「オレはこんなものを観て喜んでいたのか……?」と、強い衝撃を受けたからだ。
 前者には特撮怪獣映画の都市破壊映像、後者には東映変身ヒーロー作品の悪の組織によるテロ行為を彷彿(ほうふつ)としてしまった筆者は、このときにはじめて、両親の自分に対する怒りをなんとなく理解できたような気がしたために、しばらくヤメオタとなってしまったのだ……


特撮嫌いは「悪」なのか?


 序盤から『ジュウショウワン』の敵・ゲンカ将軍――特撮好きで、東映変身ヒーロー作品の常連声優・関智一(せき・ともかず)が声を務めた――の姿と重ね合わせて描かれたほど、志は仲村さんに「女の子らしさ」を押しつける、「悪役」とされてきた。
 ただ、志はいささか極端な例だろうが、大抵の親は自身の子供に対し、大なり小なりその価値観を押しつけるものではないのだろうか?
 私事で恐縮だが、大学時代はずっと玩具店でアルバイトをしていた筆者は、店頭でそんな事例をさんざん見せつけられたものだった。
 もし特撮オタが親になったら、きっと子供に特撮番組を押しつけるだろうが、子供にそれを否定されたとしたら、やはり悲しい気持ちになるのではなかろうか?


 その人相の悪さから仲村さんが避けていたものの、女児向けアニメ『プリキュア』シリーズ(04年~)がモデルとおぼしきヒロインアニメ・『ラブキュート!』が好きなことが発覚したために、仲村さんの仲間となった駄菓子屋の店主・任侠(にんきょう)さんの母のような、理解のある親の方が、むしろ珍しい部類だろう。
 小学生のころから体格は良かったのに、その中身は女だった任侠さんが『ラブキュート!』を観ていたら、母が部屋に入ってきたために、あわててテレビを消した任侠さんに、「なんで消すの? 観てたんでしょ?」と声をかけ、再度テレビをつけ、「おもしろい?」と問いかける母……
 好ましくないと思いつつ、決してそれを否定しなかった任侠さんの母はまさに親の鏡であるのかもしれないが、私事ばかりで恐縮だが、それ以上に理解のある母の姿を、筆者はかつて見たことがある。


 幼稚園のころ、近所に男の子みたいな女の子が住んでいたのだが、そのコはいつも男子に混じって仮面ライダーごっこウルトラマンごっこをして遊ぶばかりか、当時ブルマァクから発売されていた怪獣ソフビや、怪獣図鑑ソノシートなどを大量に所有していたのだ。
 しかも、そのコの通園バッグには、ウルトラマンエース対宇宙怪獣エレキングの見事な刺繍(ししゅう)がされており、そのコが持っていた『マグマ大使』(66年・ピープロ フジテレビ)のお面には、実物のマスク同様に、たてがみが縫(ぬ)いつけられていたほどだったのだが、それらはそのコの母のお手製だったのである。
 そのコの母は、娘に「女の子らしさ」を強要するどころか、男の子みたいな娘の趣味を、積極的に支援までしていたほどなのだから、仲村さんからすればなんともうらやましいところだろうが、子供は親を選べないという、きわめて当然のことを思えば、あまり恨(うら)みつらみをつのらせるべきではないだろう。
 任侠さんの母すらも、「子供を心配しない親はいない」と語っていたのだから。


 最終回(第7話)『スキナモノハスキ』で、特撮好きであることを志に否定されつづけてきた仲村さんは、自身もまた、「女の子らしさ」を否定されるつらさを、ずっと志に感じさせていたのだと、ようやく気づくこととなる。
 「これはもう必要ない」と、劇中劇でシシレオーが刀を投げ捨てる描写が実に象徴的だが、少なくとも親に手をあげることを、軽々しく賞賛すべきではない、と筆者には思えるのだ。
 まぁ、筆者が「あのとき」の両親の年齢に近づいてきたこともあるだろうし、仲村さんがいまだにトラウマとなっているほどの、大事にしていた雑誌『てれびキッズ』を、志が焼きイモのたき火にした(汗)ような目にあった人々の気持ちは、痛いほどよくわかるのだけれど。


NHK名古屋放送局はオタばかり?(笑)


 青いシャツに白のベストと、誰がどう見ても『仮面ライダーV3(ブイ・スリー)』(73年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140901/p1)の主人公・風見志郎(かざみ・しろう)の姿をした店員――演じた宮内洋(みやうち・ひろし)の特別出演は、我々以上に、ある特定の世代の一般視聴者をおおいに喜ばせたことだろう――がいる書店にて、仲村さんが『てれびキッズ』を堂々と、いや、甥(おい)へのプレゼント設定(笑)で買う場面で『トクサツガガガ』は幕となったが、最終回が放映された2019年3月1日に行われ、大盛況となった緊急ファンミーティングの会場にて、製作したNHK名古屋放送局の局長自らが、続編つくる気マンマン! であることをアピールしたそうだ。
 なお、当日の朝7時40分から放送された、NHK名古屋の製作による『東海北陸あさラジオ』では、『ジュウショウワン』の主題歌と併用されることで、劇中劇とドラマをリンクさせることにおおいに貢献(こうけん)した、かつて『仮面ライダーウィザード』(12年)の主題歌も担当したゴールデンボンバーによる『トクサツガガガ』の主題歌・『ガガガガガガガ』と、カップリング曲の『こんにちは孤独』――タイトルに反し、こちらも王道のヒーローソングだ!――が流され、最終回放映日であることをPRしていた。
 ちなみにこの『東海北陸あさラジオ』――残念ながら、これを書いている当日に最終回を迎えた――、ナゼか妙な選曲をすることが多く、先日もアニメソングの大王・ささきいさおの代表作である『宇宙戦艦ヤマト』の『真赤(まっか)なスカーフ』と、『ザ☆ウルトラマン』(79年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19971117/p1)のエンディング・テーマ『愛の勇者たち』を、カップリングで流していた。
 まぁ、こんな調子なのだから、またなんかやらかしてくれるだろう(笑)。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2019年春号』(19年3月31日発行)~『仮面特攻隊2020年号』(19年12月発行予定)所収『トクサツガガガ』合評4より抜粋。~合評4以外は紙媒体の同人誌が品薄になったあたりで、当該記事にひっそりと追加UPする予定・汗)


『假面特攻隊2019年春号』「トクサツガガガ」関係記事の縮小コピー収録一覧
・各話視聴率:関東・中部・関西全話&平均視聴率
中日新聞 2018年12月6日(木) 特撮オタク女子 コミカルに NHK名古屋制作「トクサツガガガ」(制作発表)
中日新聞 2019年1月18日(金) トクサツガガガ(新)NHK後10・00(TV欄・紹介記事)
中日新聞 2019年1月25日(金) トクサツガガガ NHK後10・00(TV欄・紹介記事)
朝日新聞 2019年2月1日(金) 試写室 トクサツガガガ(TV欄・紹介記事)
・NHK名古屋放送局「トクサツガガガ」宣伝絵(写真)ハガキ


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『SSSS.GRIDMAN』総括 ~稚気ある玩具販促番組的なシリーズ構成! 高次な青春群像・ぼっちアニメでもある大傑作!


(文・久保達也)
(19年2月8日脱稿)

作品世界がメインヒロインの造った箱庭だった!


 ハイパーエージェントを名乗る正義のヒーロー・グリッドマンと一体化した男子高校生・響裕太(ひびき・ゆうた)と、クラスメイトの内海将(うつみ・しょう)・宝多六花(たからだ・りっか)の3人で結成された「グリッドマン同盟(どうめい)」と、グリッドマンの支援組織・「新世紀中学生」の4人が、同級生の美少女・新条(しんじょう)アカネが毎回生みだす怪獣と戦う、学園ものと巨大変身ヒーローものを絶妙に融合させた深夜アニメとして、放映開始当初から大きな注目を集めた『SSSS.GRIDMAN(グリッドマン)』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20181125/p1)。
 その第6話『接・触』では、本作の原典である特撮変身ヒーロー作品『電光超人グリッドマン』(93年・円谷プロ TBS)第6話『恐怖のメロディ』に登場した音波怪獣アノシラスの二代目が、幼女の姿に変身して登場し、「先代がお世話になった」として、裕太たちが住む町・ツツジ台の恐るべき秘密を明かした。
 それによれば、ツツジ台もそこの住人たちも、すべてはアカネがつくりだしたものであり、アカネはツツジ台の創造主=「神」なのであった!
 つまり、アカネがクラスの人気者となっているのは、パープル髪のショートボブヘアにワインレッドの瞳、やや巨乳(笑)で黒ストッキングにつつまれた美脚、といったルックスや、女子力・コミュニケーション能力の高さではなく、自身の都合のいいように、世界の破壊と創造を繰り返していたからなのだ!


玩具販促番組的なシリーズ構成&巨大戦演出!


 ひとクセもふたクセもある新世紀中学生たちが長剣・大型トレーラー・ドリル戦車・戦闘機といったアシストウエポンに変身し、それぞれが合体することでグリッドマンがタイプチェンジするのみならず、4機のアシストウエポンがグリッドマンに合体した超合体超人フルパワーグリッドマン、さらにグリッドマン抜きで全アシストウエポンが合体した巨大ロボット・合体戦神パワードゼノンらが、アカネが生みだす怪獣をカッコよく倒すカタルシスこそが、本作の大きな魅力のひとつである。
 雨宮哲(あめみや・あきら)監督は架空のマーチャンダイジングを想定することにより、本作では新メカ・新ヒーロー登場回やパワーアップ回、再生怪獣軍団登場回など、グリッドマンやアシストウエポンの合金玩具を視聴者がほしくなるような流れを構成していたのだから。
 製作当初は架空だったマーチャンダイジングが、大きなお友達向けに実際に合金玩具が発売されるに至ったのも、ヒロイック作画チーフなんて役職が設けられたほどに、本作のバトル演出が多くの視聴者に魅力あふれるものとして映ったからであろう。


 深夜アニメなのに、主人公の裕太が「アクセス・フラッシュ!」、新世紀中学生たちがそれぞれのアクセスコードを叫び、六花のママが経営する喫茶店を兼ねたジャンクショップに置かれた古いパソコンの画面に飛びこんで変身する、実に稚気(ちき)満々な描写を「ガキっぽい」などと批判することもなく、「特撮変身ヒーロー作品」だった原典の『グリッドマン』を知らないハズの若い世代が本作を好意的に受け入れているのは、我々のような古い世代が若かったころよりも、むしろ彼らの意識は成熟しているのだと解釈すべきかもしれない。
 また、ロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95年~・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20110827/p1)や、怪獣映画『シン・ゴジラ』(16年・東宝https://katoku99.hatenablog.com/entry/20160824/p1)の音楽も担当した鷺巣詩郎(さぎす・しろう)が手がけた、時に男声合唱も入る編成の厚いオーケストラによる劇中音楽は、グリッドマンの登場やアシストウエポンの合体場面をまさに「神」と思わせてくれるほどの格調の高さ・荘厳(そうごん)な雰囲気にあふれており、若い世代が「変身ヒーロー」を観ることに対する、一種の気恥(は)ずかしさを感じさせないよう、大きな効果をあげていたのだ。
 そして、バトル場面になるとやたらと画面に電線が張られ、怪獣の光線で地上から浮きあがった高層ビルが爆発したり、画面手前にグリッドマンが倒れこんできたり、高校の廊下の窓の主観からグリッドマンが歩行するさまをとらえたり、ヒロインの六花を画面手前に配置し、背景の空に蒸気を噴射して上昇するグリッドマンを描いたり、グリッドマンのバトルを背景に、画面手前に4人の新世紀中学生が駆けてきたり……などなど、まさに遠近感や空気感を与えるためのカメラアングルの工夫や、臨場感を感じさせる合成ショットといった、本来は特撮ならではの演出が存分に盛りこまれていることこそ、本作の特異な点であり、最大のアイデンティティーだといっても過言ではないだろう。


 だが、それでもあえていわせてもらうなら、本作が若者たちから絶大な支持を集めたのは、その演出面や文芸面で、2010年代中盤に深夜枠で勃興(ぼっこう)した(ひとり)ボッチアニメや、味方が敵に、敵が味方に、と登場キャラの立ち位置をシャッフルさせつつ、各キャラの関係性の変化・離合集散・強者集結を描く「平成」仮面ライダーhttps://katoku99.hatenablog.com/archive/category/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC)的な群像劇としての要素が、もうひとつの大きな柱として、確固たる存在感を示していたからではないだろうか?


衝撃の真相! しかし、深刻さの中でもコミカルさを忘れない


 先述した第6話のアノシラス二代目による爆弾発言は、「なかよし3人組」だったハズのグリッドマン同盟の関係性にも、一時的に亀裂を生じさせた。
 第7話『策・略』の時点では、裕太がアノシラスから聞かされた荒唐無稽(こうとうむけい)にすぎる話を、内海は「おまえブン殴りますよ」(笑)、六花は例によって「気持ちワルッ」と、ふたりともまったく信じてはいなかったのだが、この際のブチギレではなく、「プチ」ギレ(笑)といった感じの内海の真顔と、やや上目づかいで怪訝(けげん)そうに裕太を見つめる六花の表情は、実にリアルに描かれていたかと思えるのだ。


 この回では第1話『覚・醒』にて、アカネが気炎万丈怪獣グールギラスで殺害したバレー部の少女の父が経営する中華料理店に裕太を連れだし、そこにアカネの心の闇を利用するレギュラー悪のアレクシス・ケリヴが、頭から白い湯気(ゆげ)を吹き上げながら、「ど~もど~も、アレクシス・ケリヴです」(笑)と店に入ってくるのみならず、全身黒マントに覆われた異形(いぎょう)の怪人・アレクシス――デザインの元ネタは『ウルトラマンメビウス』(06年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20070506/p1)のラスボス・暗黒宇宙大皇帝エンペラ星人では?――のことを、店主がまったく不審がらずに、平然と「坦々(たんたん)黒ゴマだれ餃子(ぎょうざ)で~す」(爆)と、料理を出す場面がある。
 しかも店内のテレビでは、我々の世界では放映されていない、2014年から『ガシャポンワールド』内の公式サイトで連載中のWeb(ウェブ)マンガ・『ウルトラマン超闘士激伝 新章』のアニメが流れている。ズルいぞ、アカネ!(笑)
 一見コミカルな描写ではあるものの、これこそがアカネによって都合よくつくられた世界の端的な象徴であり、先のアノシラスの話を実証しているのだ。
 怪獣に殺されたハズの娘が交通事故で亡くなったとして記憶を改変された店主=父は、アカネとアレクシスに怒りを向けるどころか、大事なお客様として扱うほどであり、店の外で激しく吠(ほ)える犬だけが、唯一(ゆいいつ)アレクシスの正体を知っているかのような音響演出も実に秀逸(しゅういつ)だった。


文化祭の中での孤独 ~我々オタの鏡像としての「ぼっちアニメ」要素


 近年の学園ものアニメで定番として扱われる文化祭の回では、登場キャラたちの関係性が劇的に急変するのが定石(じょうせき)だが、本作の該当(がいとう)回・第8話『対・立』も例外ではなかった。
 先述したボッチアニメの元祖・『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20150403/p1)の文化祭回の予告編では、スクールカーストの最底辺に位置するオタの女子高生主人公・黒木智子が、イケメンスポーツマンでモテモテの中学生の弟に、「なぁ、文化祭なんか爆弾で吹っ飛ばしたいと思わねぇか?」(爆)とホザいていたが、アカネはグリッドマン同盟に対し、文化祭を怪獣に襲撃させると宣戦布告(せんせんふこく)する!
 楽しそうに文化祭の準備をする生徒たちを、アカネが廊下の窓からもの憂(う)げな表情で見つめ、「だってキライなんだもん」とつぶやく描写は、先述した智子=もこっちがおもわず「爆弾で吹っ飛ばしたい」と漏(も)らしたのと同様の、疎外(そがい)感を彷彿(ほうふつ)とせずにはいられなかったのだ。


 やはり楽しそうな生徒たちの準備風景をカットバックしつつ、「あと○日」としたカウントダウン演出も、迫りくる危機感をおおいにあおっていた。
 そもそもアカネが教室でグリッドマン同盟に見せたお手製の怪獣フィギュアに対する、同級生の女子たちの「ナニそれ、めっちゃカワイイ!」「プロじゃん!」といった反応もまた、アカネによって都合よくつくられた世界を象徴するものだろう。
 フツーの女子高生なら、そんな怪獣フィギュアを見せられたらドンびきするに違いないのだから(笑)。


副主役の特オタ少年・内海 ~正論・正論の取りこぼし・女性の扱い方


 高嶺(たかね)の花だと思っていたアカネが、第6話で実は怪獣が大好きなことを知り、狂喜していた特撮オタの内海がアカネとの徹底抗戦を主張するのは、オタとて決して夢ばかりを見ているワケではないとして、内海が大半の視聴者の代弁者となり得ているかのような描写であり、大きな共感を得られたのではなかったか?
 ただ、「同級生と戦うのがふつうなの?」と異議を唱(とな)えた六花に、内海が「おまえは感情でしか考えられないもんな」と批判したのはあきらかにいきすぎだったのだが――その直後に「明日から女子の間で拡散される! オレの高校生活はこれで終わりだ」(笑)などと、罪悪感にさいなまれる描写があるため、内海は決して無神経なだけの人間ではないのだ――ここで新世紀中学生の、黄色髪ツインテールで一見少女に見える低身長の少年・ボラーが示した反応が、実に効果をあげていたのだ。
 「(『ウルトラセブン』(67年)第34話)『蒸発都市』だよ! (発泡怪獣)ダンカンだよ!」などと、自分が好きな特撮ネタになると急にイキイキとする(笑)内海に、普段ならエキセントリックに怒鳴り散らしながらケリを入れるほどに、言動も態度もやたらと乱暴なボラーが、このときばかりはボソッと、「今のはダメだろ」とつぶやいたにとどまったのだ。
 これは内海と六花の関係性にヒビが入ったことの重大さ・深刻さをより強調するのみならず、以前は六花を「めんどくさそうな女だな」(笑)と評していたハズのボラーに、アカネを断固として友達だと主張する六花を見て、心の変遷(へんせん)が生じるさままでもが描かれているのだ――むしろここではボラーとは逆に、内海が六花のことを「あ~めんどくせぇ」とつぶやくことが、六花との関係性の破綻(はたん)を最大に象徴している!――。

 また、この場面に限らず、本作では舞台全体を俯瞰(ふかん)して全員の立ち位置を示すカットが多く、各キャラの関係性を描くうえでその効果を高めていたように思われる。
 第7話で見られた、「人の心が怪獣を生みだすのはウルトラシリーズなら定石」とつぶやいた内海を、一同が無言で見つめる(笑)カットや、ボラーに蹴られて倒れた内海を介抱(かいほう)する六花、空を飛べる奴がグリッドマンを助けに行け! と主張するボラー、ポ~っとした表情でカウンターに座ったままの、常にやる気がなさそうな新世紀中学生のヴィットたちがいる喫茶店を俯瞰し、一瞬の間を置いたあとで、画面手前のボラーが奥にいるヴィットに「おめえに云ってんだよ」とボヤく場面などは、決して絶妙なギャグ演出として機能していたばかりではないのだ。


黒髪セミロングのリア充寄りのサブヒロイン・六花 ~変遷&決意


 一方の六花も、通学バスの中でアカネから町の住人は皆自分を好きになる設定にされており、六花は怪獣からつくられた存在だと明かされたことで、心の変遷を遂げていく。
 第4話『疑・心』でアカネのために買った定期入れを、六花が自室で「渡さなきゃ」とつぶやく描写がその前にあるのも、より効果を高めているのだ。
 「だから友達」として、アカネが後部座席から六花を抱きしめる場面に聖歌のような女性合唱が流れるあたり、先述した『エヴァンゲリオン』を彷彿とさせる印象があり、近年の深夜アニメに多い、女性同士の性愛を描く百合(ゆり)ものっぽくもあるのだが(笑)、六花が受けた衝撃の強さ、そして、アカネが生みだそうとしている怪獣との戦いを決意するに至る、六花の心情の変化を存分に描きだした演出だ!
 アカネが内海に謝ると裕太に語る場面で、「あの人、アタシから謝るなんて考えてなさそうじゃん」と、目を細めてニコッと微笑(ほほえ)む描写もまた、それを最大に象徴するものなのだ。


 黒髪ロングヘアのツンデレ系で、制服のミニスカが白いトレーナーの裾(すそ)に隠れるように着用し、両手をポケットにつっこんで常にかったるそうにしている六花はプチヤンキー(笑)といった趣(おもむき)が強いのだが、そんなキャラがこうした意外な表情を見せる演出こそ、視聴者の印象を好転させるには絶大な効果があるのではなかろうか?
 グリッドマン同盟がこうして関係性の危機を乗り越え、結束をより固める過程が描かれたからこそ、新世紀中学生が「全合体!」し、全身黄金に輝いたフルパワーグリッドマンが、「フルパワーフィニッシュ!」と、第1話登場のグールギラスを武装強化した捲土重来(けんどちょうらい)怪獣メカグールギラス――よく見ると、前方に突き出た頭部の上に、『ウルトラセブン』第14&15話『ウルトラ警備隊西へ』に登場した宇宙ロボットキングジョーの顔がまんまくっついている(笑)――を倒すクライマックスが、おおいに盛りあがったのだ。
 それにしても、頭部がドリルに変化するメカグールギラスのギミックには、やはり合金玩具がほしくなる。せめてソフビ人形で出してくれまいか?(笑)


銀髪ショートのメインヒロイン・新条アカネ ~媚態・誘惑・憂鬱


 第7話では、すでにグリッドマンの正体を裕太だと察知したアカネが裕太の部屋に突然現れ、枕を抱きしめて「響(裕太)くんのにおいがする」(笑)だの、裕太の頬(ほお)に「フッ」と息を吹きかけ、「ねぇ、こっちこない? 仲間にならない?」などと、アカネが甘いささやきで裕太をベッドに誘う(爆)描写がある。
 その一方、裕太から出されたペットボトルのお茶を、アカネがコップを使わずに一気にラッパ飲み(!)する描写は、それらとは対比的に、アカネの内に秘められた凶暴性が端的に演出されていたのだ。
 全編に渡って踏切の警報音がグリッドマン同盟の不安をあおる、アバンギャルドな演出がたまらない第9話『夢・想』では、裕太はアカネの理想の彼氏として設定された存在として描かれていたが、その夢ははかなく終わってしまい、それを機に、繊細(せんさい)なアカネの心は崩壊していく……


 第9話では、裕太と、内海と、六花と、こんな関係でありたかったとするアカネの夢が並行して描かれた。特に裕太との関係性は、第1話冒頭で描かれた、記憶喪失(そうしつ)の裕太をママの店で介抱し、病院やコンビニを経て裕太を自宅へ送るまでの六花の姿が、そのままアカネに置き換えられていたのだ。
 ただし、第1話で記憶喪失の裕太からの「どーゆーカンケイ?」との問いに、六花が「今日はじめて話したくらいのカンケイ」と答えたのに対し、アカネは「アタシたち、つきあってんですけど」と語り、裕太を自宅マンションの玄関にまで送ったアカネは、「キスとかしないんすか?」と迫り、驚いた裕太に「ウッソ~」とかましてキャッキャと去っていく(笑)。
 先述した第7話の裕太の部屋での描写も含め、このあたりはアカネの声を演じる上田麗奈(うえだ・れいな)が、無職の主人公が社会復帰の実験として高校生活をやり直すアニメ『ReLIFE(リライフ)』(16年)で演じた、実は主人公を被験者として選んだ研究所の20代の所員なのに、ピンク髪メガネっ娘の女子高生に変身して主人公を誘惑したりする実験を重ねていた小野屋杏(おのや・あん)の愉快犯ぶりを彷彿とさせるが、そんな理想の彼氏と敵同士の関係であるアカネの深い葛藤(かっとう)をも表出させた演出といえるだろう。
 また、裕太に対するアカネの夢想場面で、建設現場の杭(くい)打ちの音がスローで流れているのは、今まさにアカネが自分の世界をつくりあげている最中であることを暗示する音響演出であるとともに、先述した踏切の警報音同様、これも裕太の不安をあおるものだ。
 私事で恐縮だが、60年代~70年代初頭の高度経済成長期に幼いころを過ごした筆者は、当時自宅周辺がビルの建設ラッシュで頻繁に杭(くい)打ちの音が聞こえることに恐怖を感じたものであり、この音響演出は実に的(まと)を得ていると思えたのだ。


オタ趣味を接点に接近する内海&アカネ ~夢を見せつつ、夢を否定


 だが、なんといっても大半の視聴者が最も共感したのは、怪獣・特撮好き同士として、アカネが内海とこんな関係でありたいとして描かれた夢想の場面であるだろう。
 画面手前の監視カメラから、書店で特撮情報誌『宇宙船』(ホビージャパン)を立ち読みする内海とアカネを俯瞰したり、本棚の隙間(すきま)からふたりをとらえた遠近感と、親密さにあふれる演出も確かに目を惹(ひ)いた――なお、『宇宙船』の表紙にある『アンドロメロス』(83年・円谷プロ TBS)は、雨宮監督がウルトラマンをアニメ化したいと円谷プロに打診した際、その代わりとして『グリッドマン』とともに候補としてあげられたものだ。雨宮監督、やはり『アンドロメロス』もやる気マンマンなのでは?(笑)――。
 これに加え、アカネが『宇宙船』に掲載されたマイナーどころのウルトラ怪獣の名前をスラスラと答えたり、内海が90年代中盤にバンダイから発売された玩具『出撃!! ウルトラメカセレクションⅡ(ツー)』を「コレほしい」とつぶやいたことに、「こないだ中野で見た。今からいっしょに行こうか?」と誘ったり!


 ちなみに『出撃!! ウルトラメカセレクション』とは、ウルトラマンシリーズに登場した防衛組織のスーパーメカのミニチュアをセットした商品であり、『ウルトラマン』(66年)の科学特捜隊~『ウルトラマン80(エイティ)』(80年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19971121/p1)のUGM(ユー・ジー・エム)、『ウルトラマンG(グレート)』(90年)のUMA(ユーマ)に『ウルトラマンパワード』(93年)のW.I.N.R.(ウィナー)、映画『ウルトラマンゼアス』(96年)のMydo(マイド)、『ウルトラマンティガ』(96年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19961201/p1)のGUTS(ガッツ)に『ウルトラマンダイナ』(97年・)のスーパーGUTSまでの代表的なメカが、アカネが検索したように(笑)第4弾まで発売された。
 あくまで一般玩具店流通の子供向け商品ではあったが、ウルトラメカといえば科学特捜隊のジェットビートルや『ウルトラセブン』の防衛組織・ウルトラ警備隊のウルトラホークにポインター、あとはせいぜい『帰ってきたウルトラマン』(71年)に登場したMAT(マット)のマットアロー1号ばかりが商品化される時代がつづいていただけに、このラインナップにはマニア層も注目せずにはいられなかったものだ。
 なお、内海が欲しがった第2弾は、MATに『ウルトラマンA(エース)』(72年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20070430/p1)のTAC(タック)、『ウルトラマンタロウ』(73年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20071202/p1)のZAT(ザット)に『ウルトラマンレオ』(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20090405/p1)のMAC(マック)、そして先述したUGM・UMA・W.I.N.R.のメカをセットした商品であり、これにはいまだに日陰ものとしての扱いを受けている(?)第2・3期ウルトラマンシリーズや海外との合作を、若い層に注目させようとする雨宮監督の意図を感じずにはいられない(笑)。
 それはそうと、内海とアカネがメカセレを買いに行った、東京・中野にあるマニア御用達(ごようたし)の「まんだらけ」をモチーフにした店の名前が「せぶんだらけ」って……(爆)


 さらに内海とアカネは、92年から年3回開催されている古今東西の玩具の祭典・スーパーフェスティバルにまでいっしょに出かける。劇中では具体的な言及はないのだが、それを特定できるのは会場である東京の科学技術館がリアルに描かれているからだ。
 なお、科学技術館は先述した『ウルトラマン80』の第16話『謎の宇宙物体スノーアート』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20100815/p1)でロケ地に使用されたことから、中学の修学旅行で実際に行った際はまさに聖地巡礼との想いがしたものだ――小学校の修学旅行で京都の国際会議場に行った際は、クラスの男子のほとんどが「ウルトラセブンとキングジョーが戦った場所だ!」(劇中では神戸は六甲の防衛センターとして登場)と大騒ぎしたために、担任から大目玉を食らったものだった(笑)――。
 「こういうのにつきあってくれる友達がほしかった」と、万感(ばんかん)の想いをこめて語る内海に、皆感情移入せずにはいられなかったであろうが、そんな内海をアカネは「今からウチにこない?」と誘うのだ。
 アニメ映画『ウルトラマンUSA(ユー・エス・エー)』(89年・東宝https://katoku99.hatenablog.com/entry/20100821/p1)も、平日早朝のミニ番組『ウルトラマンボーイのウルころ』(03年)も、99年に全国ネットで再放送された『ウルトラマンティガ』のCM枠で流された『ウルトラマンナイス』(99年)も、モノクロ作品『ウルトラQ(キュー)』(66年)をカラーライズ化した『総天然色ウルトラQ』(11年・バンダイビジュアル)もあるから、って、こんな美少女高校生いるワケねぇ!(笑)


 だが、内海が夢から覚めたのは、決してそれが理由ではなかった。
 ここにはオレの友達がいない……その世界に裕太や六花の姿がまったく見えないことに、内海はそこがアカネによってつくられたものだと悟(さと)ったのだ。
 特撮オタならではの黒ブチメガネをかけてはいるものの、緑髪で高身長のスリム体型であり、メガネをはずしたら結構なイケメンか? と思える内海は、第10話『崩・壊』でも、たとえアカネにつくられた世界でも自分たちには生活が、やらねばならないことがあるからとして、六花の店=ひみつ基地で連日開かれる作戦会議にも行かずに、テスト勉強にうちこんでいたほどに、現実としっかりと向きあうことができるオタなのだ。


自律した意志を持つ被造物にも反逆された、か弱き孤独な造物主の少女


 当初「才色兼備」が理由でアカネに夢中になり、同じ怪獣好きであることが発覚したために親近感を得られるも、その正体を知ることで内海が夢から覚めるに至った過程にしてもそうだったが、内海とは対比的に、アカネはずっと夢を見ていたいと考える少女だった。
 第7話でアカネが裕太を味方に引き入れようとした際、裕太は「友達を裏切れない」としてそれを拒否、アカネは「私は、友達じゃないの?」ととまどっていたが、「ここにはオレの友達がいない」とした内海の言葉に、再度アカネが「私は、友達じゃないの?」と繰り返す姿に、おもわずいたたまれなくなった視聴者は多いことだろう。
 走る電車と併走するアカネの姿の周囲に、これまでのグリッドマン同盟との回想をカットバックさせ、あいかわらず鳴りやまない踏切の警報音をかぶせるアバンギャルドな演出が、次第に焦燥(しょうそう)の色を濃くしていくアカネの胸の内を残酷なまでに描きだす!


「夢だから目覚めるんだよ」


 理想の彼氏・裕太とのデートの末に、そう告げられたアカネと裕太との間を、「そっちには行けない」とする裕太を象徴するように、黒くてブ厚い壁がふたりを隔(へだ)てるカット、そして、厳しすぎる現実に直面し、涙せずにはいられなくなったアカネの姿も実に強烈だ。


「夢でも届かないの?」


 アカネが自身の都合の良いようにつくった世界の中で、先述したバレー部員の同級生やチャラい大学生たちのように、アカネの意にそわない人間たちが存在することを矛盾(むじゅん)だと指摘する声も一部に見られたが、同じようにアカネにつくられたハズの裕太・内海・六花の「反乱」までもが描かれたことで、現実は決して自分の想いどおりにはいかないが、決して目をそむけてはならないとする本作の裏テーマ・メッセージを、より強調することになったかと思えるのだ。
 長い夢から覚めた裕太・内海・六花が「やるべきことが!」と駆ける中、新世紀中学生の4人のみが合体して誕生した巨大ロボ・パワードゼノンが、裕太たちにアカネの夢を見せていた、四つ足歩行の首長竜なのに巨大な翼をもつ有象無象怪獣バジャック――中に人が入った着ぐるみのように、後ろ足が折れている!(笑)――を倒すや、ようやく踏切の警報音が鳴りやむ演出も実に絶妙だった。
 だが、裕太・内海・六花は不安を払拭(ふっしょく)することができたが、「どうしたらいいの?」と絶望したアカネの中では、踏切の警報音がよりいっそう激しさを増していたのではあるまいか?


ヒーロー、そして「人間」へと変化したライバル怪獣アンチ


 アカネの心の変遷とともに描かれたのが、アカネにグリッドマンを倒す怪獣として設定された、赤い目玉の目力が鋭く(笑)、銀色ショートボブヘアで紺の学生服姿の低身長の少年・アンチが、同盟や新世紀中学生の味方となるに至る過程だ。
 グリッドマンを倒せずにいたことから、アカネからさんざん邪険(じゃけん)に扱われていたアンチは、シリーズ後半に至ってもグリッドマンを倒すことに異様なまでの執念(しゅうねん)を見せ、第7話では裕太が通う高校にまで乱入し、「グリッドマンを出せ!」と、裕太に激しく詰め寄る姿が描かれた。
 ここで裕太をボコボコにするアンチではなく、校舎が激しく揺れる(笑)さまに生徒たちの悲鳴をかぶせる演出が、正体が怪獣であるアンチの凶暴性を、より的確に描いていたといえるだろう。


 突然学校に現れて裕太を急襲したアンチにいらだったアカネは階段からアンチの顔面にケリを入れた(!)ほどだったが、それ以上に衝撃だったのが、アンチが裕太から奪ったスペシャルドッグをアカネが踏みつぶして去ったことだ。
 第1話で昼食を用意してこなかった裕太にアカネがあげたスペシャルドッグを、バレー部員の女子生徒たちがボールでつぶしてしまった件こそ、アカネがグールギラスをつくりだした発端(ほったん)だったにもかかわらず、まったく同じことをされたアンチの想いを、アカネは察することができないのだ。
 第7話ではアカネではなく、アンチがアレクシスにつくらせた、まさに『ウルトラマンレオ』第4クールに登場する円盤生物を彷彿とさせる幽愁暗恨怪獣ヂリバーが登場するが、そのことを知ったアカネはアレクシスが映るパソコンのモニターにケリを入れ、部屋に残るアンチの小さな靴跡を見て、「チッ」と舌打ちまでやらかす(笑)。
 ここまでの悪態を見せつけられても、筆者がアカネをカワイイと想うことに変わりはなかったのだが(爆)、アンチのスペシャルドッグを平気でつぶしてしまうアカネの描写は、後述するが、アカネの本質の的確な演出でもあったのだ。


 第8話で「オンナを探している」と、アンチが六花の店に現れたのは、グリッドマン打倒の目的は同じでも、そんなアカネに辟易(へきえき)したアンチが、第3話『敗・北』で雨にぬれるアンチに傘を手渡そうとしたり、第4話で公園のゴミ箱をあさっていたアンチにスペシャルドッグをくれた六花に会うことで、せめてものやすらぎを得たいと考えたからだろう。
 つまり、シリーズ前半で描かれたアンチと六花の関係性は、怪獣であるアンチに心がめばえ、味方化するに至る伏線であったと解釈すべき描写だったのだ。
 あいにく六花が不在で六花ママが出てきたことに、「違う」(爆)と落胆し、あまりの空腹にその場に倒れてしまったアンチだったが、ママが「カフェめしで悪いけど」と軽食を出してくれたことに、決して表情や言葉には出さなかったものの、六花同様に常にかったるそうでエプロンに両手をつっこんでいたりする(笑)ママに、アンチが六花に通じる優しさを感じたであろうほどに、心が動きはじめる描写としては実に的確だったと思える。


 ママに礼も云わずに立ち去ろうとしたアンチに、ボラーはナイフを向けて「ママさんに云うことあんだろ」とすごむが、黒髪で目の舌のクマがめだつ猫背の素浪人(笑)=サムライ・キャリバーが「礼儀はあとで教えればいい」と逃がしてしまう。
 これにキレたボラーが、リーダー格で緑髪の長髪で常に口元にマスクをした巨漢のマックスにキャリバーに対する不満をグチるものの、無反応なことにボラーは「なんだそのリアクション、アメリカ人か」とホザく(笑)。
 アンチに対する考えの違いから生じる群像劇というよりは、ボケとツッコミのかけあい漫才的な新世紀中学生たちによるこうしたコミカルなやりとりもまた、本作の大きな魅力であったに違いない。
 アンチをはじめて見た六花ママが、「君たちのお友達?」とたずね、「ウチらといっしょに見えます?」とたずねたヴィットに、「うん」と答える(笑)描写もまた然りなのだ。


 新世紀中学生にしろアンチにしろ、ぶっちゃけ身元不明の挙動不審者(爆)であるにもかかわらず、そんな連中にも気さくに接する六花ママの暖かさを継承した六花こそが、アンチに心をめばえさせたのだと実感させる演出であったともいえるだろう。
 第11話『決・戦』のクライマックスでは、裕太がジャンクのモニターに飛びこむさまを六花ママに目撃されたことに、つづいて出撃するのを新世紀中学生たちが躊躇(ちゅうちょ)するが、ママが「あ、気にしないでつづけてつづけて」(笑)としたことから、新世紀中学生たちもラストバトルの舞台へと旅立っていく!
 それを「いってらっしゃい」と見守る姿こそ、六花ママの人柄を最大限に描きだした演出なのだ。


 第9話で新世紀中学生たちから裕太・内海・六花を眠らせつづける怪獣・バジャックを倒さない限り、グリッドマンは現れない、と聞かされたアンチは、仲間であるハズのアカネが生みだしたバジャックを、本来の怪獣の姿で攻撃するまでに至る。
 そして、巨大ロボ・パワードゼノンがバジャックを倒してもグリッドマンが現れないことに立腹したアンチを、新世紀中学生たちはアンチは心をもった生きものだから、グリッドマンは絶対に戦わない、と諭(さと)すのだ。
 第10話で怪獣は生きものではなく、アカネの悪意そのものだとグリッドマンが定義したことで、アンチは怪獣としての存在価値を明確に否定されたが、それはグリッドマンばかりではなかった。


 夢が破れ、雨に濡れながら失意の底に沈むアカネに、アンチは透明なビニール傘を差し出す。これは先述した第3話での、六花のアンチに対する最初の行動と絶妙な係り結びとなり、アンチに心が生まれたことの端的な象徴として描かれていたのだ。
 そんなアンチを、アカネまでもが「怪獣は人の気持ちを読んだりしないよ」として、怪獣であることを否定する。
 怪獣は人の気持ちを読んだりしない。これは先述した第7話で、裕太から奪ったスペシャルドッグをつぶされたアンチの気持ちを読めないアカネの方こそ、アンチ以上に怪獣そのものだと解釈すべきセリフだろう。
 アンチが路上に置いていった傘に、「君は失敗作だよ」とのアカネの声がかぶるカットもまた、アンチがすでに怪獣ではなくなった事実を端的に描きつくした名演出だ!


 グリッドマンを倒すこと、そして、自身が怪獣であることに執着し、葛藤をつづけた末に、人の気持ちを読めるようになったアンチは、全身が紫とオレンジの装甲に覆われたメタルヒーロー・グリッドナイトに転生!
 やる気をなくしたアカネがつくったユルキャラみたいな怪獣ナナシA、そして、アレクシスが「おや? 中の人が出てきたね」(笑)とつぶやいたように、フルパワーグリッドマンに倒されたナナシAの中から出てきた、第4話でアカネがLINE(ライン)のアイコンにしていた、『ウルトラマンティガ』や『ウルトラマンダイナ』に登場した悪質宇宙人レギュラン星人(https://katoku99.hatenablog.com/entry/19971210/p1)みたいな尖(とが)った頭部のナナシBを、アンチ=グリッドナイトが「アカネの心が読める!」として倒すに至るのは、「人間ドラマ」と怪獣バトルを絶妙に融合させたクライマックスだったのだ。


最後は再生怪獣軍団登場&脇役にも全員ドラマ的見せ場!


 第11話は六花の店でアカネにカッターで刺された裕太が床に倒れ、アカネが投げつけたジャンクのモニターが真っ黒になるという、衝撃の導入部で幕を開けた。
 そしてグリッドマンを倒したことで、「もう怪獣はいらない」と、アカネが怪獣をつくろうとしないために、アレクシスは「ありものですませるか」(笑)と、これまでにアカネが生みだした怪獣たちを総出動させる!
 一方、裕太がめざめない限り出撃できない新世紀中学生たちに対し、アンチは「借りは返す。それが礼儀と教わった」と、先述した第8話の六花の店での描写と係り結びになるかたちでグリッドナイトに変身、たったひとりで怪獣軍団に立ち向かう!
 昏睡(こんすい)状態からようやくめざめた裕太もグリッドマンとして参戦、「これを使え!」と、サムライ・キャリバーが変身した電撃大斬剣・グリッドマンキャリバーをグリッドナイトに貸し与えて共闘するクライマックスこそ、裕太&新世紀中学生とアンチの関係性の変化を最大に象徴するものだ。
 怪獣軍団を撃滅したダブルグリッドマン(!)の背景の市街地に、デカすぎる炎があがる、かの坂本浩一監督お得意の演出を彷彿とさせる、実にカタルシスにあふれる描写こそ、変身ヒーロー作品最大の魅力なのである。
 だが、戦っていたのは彼らばかりではない。六花も、そして内海もまた、決してスーパーヒーローではない一般人の自分たちにも、「やるべきことが!」とばかりに戦っていたのだ!


 高校に向かった六花は、グリッドマン同盟とは別の、もうひとつの「なかよし3人組」としてつるんでいる同級生の女子生徒で、茶髪ショートヘアで赤のジャージを腰に巻いている、ボーイッシュな活発娘・なみこと、濃い緑髪のセミロングヘアの右側をリボンで束(たば)ね、新世紀中学生のマックスみたく、常に口にマスクをしている(笑)はっすに、至急避難するように告げ、そそくさと去っていく。
 六花は何か隠しごとをしているのでは? と不審がるなみこに、「云えないってことは、云わないことを六花なりに考えてたんだよ」としたはっすの描写は、はっすが人の気持ちが読める人間であることの象徴であり、屋上にいるふたりの眼前で暴れまわる、人の気持ちを読んだりしない怪獣軍団との絶妙な対比も効(き)いていたのだ。
 その割には第8話ではっすは「新世紀中学生」を、「だっさい名前のバンド」(爆)とケナしていたりするのだが。


 第7話で自室のベットに寝ころび、アカネを想ってポ~ッとしていた六花に、試験前にノートを貸してほしいと電話をかけ、了承した六花を「尊(とうと)いぜ~」「神かよ~」とたたえたり、第8話の文化祭で六花を「粗茶(そちゃ)ろうぜ」――こんな日本語があったのか?(笑)――と誘ったりなど、まさにそのへんの女子高生を連れてきて演じさせているかのような、六花・なみこ・はっすの実にナチュラルなやりとりこそが、教室や廊下のスピーカーから流れる音質の悪い(笑)校内放送や、シリーズを通して鳴きつづけた(爆)セミの声といった音響演出とともに、学園ものとしてのリアルな雰囲気を醸しだしていたのだ。
 なみこの声を演じた三森(みもり)すずこは、『探偵オペラ ミルキィホームズ』シリーズ(10~18年)のシャーロック・シェリンフォードや、『ラブライブ!』(第1期・13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20160330/p1 第2期・14年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20160401/p1)の園田海未(そのだ・うみ)、『少女☆歌劇 レビュースタァライト』(18年)の神楽(かぐら)ひかりなど、主要ヒロインを多く演じてきただけに、本作のなみこのような周辺キャラ、しかもややガサツな(笑)キャラへの起用は意外だったが、実に器用に演じていたのはさすがだった。


被造物世界でも透明なボッチと化して絶望したアカネ嬢を救うには?


 裕太の病室に戻った六花は、自分の店にママを連れて駆ける新世紀中学生たちを窓ごしに見つめた際、バス停が目にとまり、通学バスでアカネと語り合った過去が頭の中でフラッシュバックするが、第8話で意図的に隠されていた、バスの「○ヶ丘」なる行き先表示が、実は「桜ヶ丘」、つまり、本作原典の『グリッドマン』の舞台であることが明かされる!
 これは最終回(第12話)『覚醒』のクライマックスで描かれた感動的な展開の、さりげない伏線として描かれたものだろう。
 先述した第7話で自身が存在する意味をアカネから聞かされ、強い衝撃を受けたハズの六花は、ビルの屋上にひとりたたずむアカネを見つけ、自分はアカネの友達として以外、生まれてきた意味なんかいらない! と、激アツに叫ぶ!
 最終回でそれをあざ笑ったアレクシスが、「怪獣をつくる人間は怪獣そのもの」と語ったのは、実に的を得ているといえるだろう。怪獣をつくる人間=怪獣が好きな我々のような種族は、人の気持ちを読むことが大の苦手、つまり、怪獣と同等の存在といっても過言ではないのだ(大汗)。


 最終回で「君自身が怪獣になればいいんだよ」と、アカネがアレクシスによって怪獣化した自縄自縄怪獣ゼッガーの声はアカネの叫びを加工したものだったが、実はこれまでアカネが生みだした怪獣の声のすべてが、アカネを演じた上田麗奈の声からつくられており、これは怪獣たちがアカネの悪意の象徴だと強調する音響演出だったのだ。
 「彼女は元からああなんだ」と、今回怪獣化する以前からアカネは怪獣そのものだったと語るアレクシスに、六花は「わたしたちがアカネを変える!」と、その決意を表明した。
 その六花からさまざまな善意・好意を受けてきた怪獣=アンチは、獅子のたてがみを模したブ厚い装甲に覆われた、ゼッガーの顔の6つに裂ける口の中に見える白い人面に、グリッドナイトとして「おまえは怪獣じゃない! 新条アカネだ!!」と叫ぶ。
 こうした想いの連鎖こそ、80年代に集英社『少年ジャンプ』に連載され、テレビアニメ化もされた人気漫画・『北斗の拳』の世界観とたいして変わらないような、人心がすっかり荒廃(こうはい)した弱肉強食の無法地帯と化した現代社会に、最も必要ではないのだろうか?


 心に大きな傷を受けた若者たちが「思春期症候群」なる不可解な現象に悩まされるアニメ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』(18年)の第1話では、主人公のやさぐれた男子高校生が、学校という空間はその場の空気を読めないだけでダメな奴扱いされ、しかもその空気をつくりだしている生徒たちには当事者意識が皆無(かいむ)だ、と語る。
 そして、メインヒロインの黒髪ロングのツンデレ女子高生は、「見たくないものは見ない」とする空気にあふれた街の人々から、次第にその存在を認識されなくなり、ついに「透明人間」と化してしまうのだ!
 空気を読めない人間はダメな奴。そんな「見たくない」人間の存在をいっさい認めようとしない。残念ながら、それが現在のこの国を完全に支配する風潮(ふうちょう)であり、そのために周囲から「透明人間」にされてしまい、生きづらさを感じる人々が続出しているのである。


 アカネが過去に受けた心の傷については劇中では具体的に描かれないものの、誰からも好かれるクラスの人気者として、裕太みたいな彼氏、六花みたいな親友、内海みたいな特撮好きの友達がいる夢をずっと見ていたいと願ったアカネもまた、「透明人間」にされた過去があったのではないのだろうか?
 そんな空気を読めないダメな奴=怪獣そのものとして社会から排除されてしまう、アカネのような人間に対してさえも、六花は友達として、その想いを継承したアンチは人間として、アカネを受け入れようとするのだ!
 ゼッガーの体内に突入し、無数の手に束縛されたアカネに手を差しのべ、ひっぱりあげて救うアンチの描写はそれをストレートに絵にしたものだったが、そんなアンチをアカネは再度「失敗作」だと評した。
 確かにアンチは怪獣としては「失敗作」だったのだろうが、人間として生まれ変わって以降のアンチは、立派な「成功作」なのだ!
 先述したアニメ『青春ブタ野郎』第1話のラストにも、「透明人間」と化したことで買いものすらできなくなり、空腹に悩まされるヒロインに、主人公が好物のクリームパンを差し出す、実に心暖まる描写があった。
 彼やアンチのように、せめて我々だけでも、「透明人間」や怪獣として社会から排除されてしまう人々を、暖かく受け入れられる人間であるべきではないのだろうか!?


内海の葛藤 ~バトル作品を楽しむことの快楽&罪悪


 一方、内海は最終展開でかなりの葛藤を見せることで、彼自身と戦う姿が描かれる。
 第11話で裕太の病室に現れたアンチの正体が怪獣だと聞かされた内海は、アンチをはじめとする怪獣の足下(あしもと)で、どれだけ多くの人間が死んだと思ってるんだ! と、つかみかからんばかりにアンチを非難するが、怪獣とグリッドマンの戦いを楽しんでいた自身もまた、その足下で死んでいく人間たちに想いが至らない点ではアンチと同等、つまり、怪獣そのものだと思い知らされたのだ!――ここでも裕太の病室と隣の病室を俯瞰し、内海とアンチの衝突に驚く隣の見舞い客を描写する、実に秀逸な演出がある――。
 すっかり憔悴(しょうすい)した内海は、市街地で怪獣軍団が暴れている状況下、「こんなときウルトラならどうなるんですかぁ~?」とおどけたボラーに、「ウルトラシリーズならM78星雲光の国からウルトラ兄弟が駆けつけるのが定石」(笑)と返す元気もなかったほどだが、アカネが怪獣そのものだと語られた先述した場面以上に、この際の内海におもわず身につまされた視聴者は、決して筆者ばかりではないだろう(汗)。


 最終回、裕太にいっしょに来てくれと声をかけられるものの、自身のやるべきことが見つからずに苦悩していた内海は即答できずにいたが、その内海の背中を押したのも六花だった。
 ボラー同様に内海の足に乱暴にケリを入れ、イラついた調子で「あのさぁ~、内海くんは響(裕太)くんのなんなの」と、どやしつけるさまはまさにプチヤンキーだが(笑)、だからこそ、「友達だよ!」と叫ぶのが精一杯だった内海に、一転して「その友達が来てくれ、って云ってんですけど」と、内海に向けた六花の暖かいまなざしが、絶大な印象を残す効果をあげていたのだ。
 ここにグリッドマン同盟は華麗に復活をとげ、4人の新世紀中学生の腕には裕太と同じ変身アイテム・アクセプターが装着される!
 六花と内海が見守る中、最後の「アクセス・フラッシュ!」が描かれるが、アレクシスに刺されて倒れたアンチが宙を見上げ、「アクセス・フラッシュ……」とつぶやいていたのを見すごしてはならない。
 つまり、最後に登場したグリッドマンは、裕太と新世紀中学生のみならず、アンチの想いも一体化していたのだ!


原典のグリッドマン復活! 原典と地続き、かつ新機軸でもある作り方


「これが本当のグリッドマンの姿!」


 「なつかしい姿じゃないか!」と狂喜したのは、決してアレクシスばかりではない。
 原典である『電光超人グリッドマン』の主題歌・『夢のヒーロー』が流れる中、コンピューターワールドを背景に、アカネの情動を吸収して巨大化したアレクシスに必殺技・「超伝導キック!」を繰りだしたグリッドマンは、原典で活躍したオリジナルのデザインで描かれたのだ!
 四半世紀も前の、甲冑(かっちゅう)に覆われた騎士といった印象のデザインが、今回新規にリメイクされたグリッドマンと比較してもまったく違和感がないことには、やはり先見性と普遍(ふへん)性を兼ね備えていたのだと、あらためて驚嘆(きょうたん)の声をあげずにはいられないものがあったのだが、一時期のウルトラマンシリーズが、新作のたびに世界観をリセットしてしまい、過去のシリーズとは完全に独立していたことを思えば、今回これを実現させたことには隔世(かくせい)の感のみならず、やはりこれこそが、かつて夢中になった世代とライト層の若い世代双方を満足させる手法なのだと、強く実感させられたのである。
 ラストで重傷だったアンチを助けるアノシラス二代目が変身した少女の背後に、その親である初代アノシラス(!)が描かれているのもまた然(しか)りなのだ。


 感動はこれだけでは終わらない。この世界をつくったアカネの心を救う力・「フィクサービーム!」をグリッドマンが発射する中、裕太も、六花も、内海もまた、「アカネの心を救う力」を発揮する!
 高校の校舎の屋上で、「私に広い世界なんかムリ!」と絶望するアカネに、自分たちを頼ってほしい、信じてほしい、そのための関係だからと、グリッドマン同盟が呼びかけたイメージシーンで、アカネはついに心の扉(とびら)を開けることとなったが、先述したように、弱肉強食の無法地帯と化した現代社会に最も必要なのは、こうした「心を救う力」かと愚考(ぐこう)するのだ。
 『電光超人グリッドマン』を知らないハズの若い世代にも本作が広く受け入れられたのは、それが強く感じられたから、つまり、アカネと同様の悩みをかかえる者が、それだけ多く存在するということではないのだろうか?
 「これが、命ある者の力だ!」と、激アツに叫んだグリッドマンとアレクシスが、スローモーションでクロスカウンターをキメる、絶大なカッコよさにあふれたカットは、そんな「心を救う力」を求める若者たちから、おおいなる喝采(かっさい)を浴びたことだろう!


 「私は臆病(おくびょう)でずるくて弱虫で」と泣きじゃくるアカネに「知ってる」と、そのすべてを受けいれたうえでアカネを「友達」として認め、いつか買った定期入れを手渡す六花の姿もまた然りだ。
 オープニングに流れる王道のヒーローソング・『UNION(ユニオン)』もいいのだが、アカネに六花、なみこにはっすと、女性キャラのみが描かれるエンディングに流れる、声優の内田真礼(うちだ・まあや)が歌唱する『youthful beatiful(ユースフル・ビューティフル)』が、実は個人的にはそれ以上に好きだったりする。
 「君が待っててもいなくても 走るよ」との歌詞は、まさに六花の「心を救う力」を象徴するものだが、記憶喪失の裕太を介抱したのも、怪獣だったアンチを人間にしたのも、沈んだ内海を奮起させたのも、アカネに心の扉を開かせたのも、すべては六花の「心を救う力」だったのだ。
 アカネを目当てに観ていたものの、いつしか六花に惹(ひ)かれるようになった視聴者は案外多いのではないかと思えるのだが、決して前線に出て戦うのではなく、主要キャラに「心を救う力」を向けるヒロインこそ、90年代から00年代のアニメで隆盛をきわめた「戦闘美少女」を、今の時代に継承・発展させたかたちではないのだろうか?


 そんな六花に裕太が心惹かれるさまが前半では描かれたものの、後半では第8話のラストにて、文化祭の出しもの・男女入れ替わり喫茶――劇中キャラにさまざまなコスプレをさせたいがために、近年の深夜アニメでは必然性もなしに定番で行われる手法だ(笑)――で白いマリンルックの水兵に扮(ふん)した六花を遠巻きに見つめる描写があった程度だった。
 裕太の六花に対する想いが描かれなくなったのは、第11話で「私はグリッドマンだ」と語った裕太に、内海が「なんかキャラ違うぞ!?」(爆)と混乱したほどに、実は裕太の人格がグリッドマンそのものだったことの伏線としてであろう。
 学園ものの深夜アニメとしては、本来なら最終展開で裕太と六花の恋愛模様を進展させるところだろうが、あくまで変身ヒーロー作品として、アカネの心を救うことを最優先させた展開こそ、若者たちの大きな共感を得られたかと思えるのだ。
 グリッドマンの中で眠ったままの本来の裕太は、グリッドマンによれば「六花への想いは変わらなかった」とのことであり、裕太と六花の恋の行方(ゆくえ)については、ぜひ第2期で描いてほしいところだ――映像ソフトの予約状況や各種イベントの盛況からすれば期待できるのでは?――。


 原典である『電光超人グリッドマン』の放映が開始された際、主人公の3人組が中学生で、その舞台となる町が「桜ヶ“丘”」だったことに、筆者は「桜ヶ“岡”中学校」の教師で防衛組織・UGMの隊員でもある矢的猛(やまと・たけし)=ウルトラマンエイティを主人公とし、そのドラマや特撮は充実していたものの、商業的には決して成功したとは云いがたかった『ウルトラマン80』のリベンジかと思えたものだ。
 今回のアニメ版第7話に、「憎しみが強いほど強い怪獣が生まれる」とのセリフがあるが、『80』では人間の醜(みにく)い心や汚れた気持ち=マイナスエネルギーが怪獣の発生源・活動源とされていた。
 ただ、それが当初の設定どおりに映像化された作品はごく一部にとどまり、ゲスト主役の生徒のドラマと、その回に登場する怪獣の出自が別個に扱われていたのは残念に思えたものだ。
 今回のアニメ版に登場する怪獣たちが、アカネの繊細な心から発せられるマイナスエネルギーから生みだされていたことに、本来はウルトラマンシリーズ(https://katoku99.hatenablog.com/archive/category/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9)をアニメ化したかった雨宮監督は、『グリッドマン』のリメイクだと偽(いつわ)って、実は『ウルトラマン80』を円谷プロにまんまとアニメ化させてしまったのではないのか!? と、筆者は愚考してしまうのだ。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2019年GRIDMAN号』(19年2月10日発行)~特撮同人誌『仮面特攻隊2020号』(19年12月発行予定)所収『SSSS.GRIDMAN』総括合評1より抜粋。~合評1以外は紙媒体の同人誌が品薄になったあたりで、当該記事にひっそりと追加UPする予定・汗)


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ULTRAMAN』 ~等身大マン・セブン・エース型強化服vs等身大宇宙人! 高技術3D-CGに溺れない良質作劇! 歴代作品へのオマージュ満載!

(文・T.SATO)
(19年5月3日脱稿)


 かつての巨大ヒーロー・初代『ウルトラマン』(66年)のデザインを模して、銀色のボディーに赤いラインが施されたメタリックな光沢を放つ金属製の強化スーツ。制服高校生男子クンが右拳を天に突き出すや、その強化スーツが科学特捜隊のヒミツ基地から粒子化されて転送・装着されることで、おなじみの効果音とともに超人的なパワーを発揮して悪と戦う等身大の変身ヒーローが誕生!
 エネルギー源としては初代ウルトラマンの必殺光線・スペシウム光線のそれと同じでスペシウムを基としており、戦闘時には両腕の側腕部分にナイフや防御用とおぼしきスペシウム・エネルギー由来であろう細長い電光が終始流れることで暗闇にも映えている。
 初代マンのように両腕を十字に組んで、左腕と右腕のアタッチメントを結合させれば、その右手側面からはスペシウム光線を! 両手を胸の前で合わせれば光輪を発生させて、初代マンとも同様にウルトラスラッシュとしても放つことができる!


 中盤からは、初代『ウルトラマン』の後継作『ウルトラセブン』(67年)の主人公・モロボシダンの名を踏襲した諸星弾なる細メガネをかけた黒背広姿のクールな青壮年が、科学特捜隊の厳しい上司として登場し、しばらくはモッタイぶった末に、期待にたがわずウルトラセブンのデザインを模して赤を主体としたカラーリングで頭部と胸部がシルバーでもある、ウルトラマンスーツ・タイプ・バージョン7.0(ナナ・テン・ゼロ)、通称「セブン」と呼称される強化スーツを、おなじみの効果音とともに装着!
 原典における頭頂部のトサカが外れてブーメランとなる武器・アイスラッガーを想起させる刃物も投擲! セラミック調のハイテックな装飾や空隙が多数穿たれた真っ直ぐな長剣も武器に、主人公よりも先輩のヒーローとして八面六臂の活躍を開始する!


 終盤では、『ウルトラマンエース』(72年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20070430/p1)の主人公・北斗星司(ほくと・せいじ)の名前を冠した中性的なハスキーボイスの華奢な美少年も登場――演じるのは『手裏剣戦隊ニンニンジャー』(15年)で美少年ボイスの敵幹部・九右衛門や『ウルトラマンジード』(17年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20170819/p1)のペガッサ星人の幼体・ペガも演じた潘めぐみ――。彼もご多分に洩れずに、原典同様に拳骨を組んだ両腕を胸の前で左右からブツけるや、閃光とともにおなじみの効果音が響いて、頭頂部の巨大なトサカに円型の空洞が穿たれたウルトラマンエースを基にした、銀色に赤いラインが施された強化スーツをまとった姿に変身!
 両腕も左右や上下に開げるや、原典のウルトラマンエースも得意としていた光学合成の必殺ワザ・バーチカルギロチンやホリゾンタルギロチンを想起させる巨大な光の弧を発生させて、そのまま懐に飛び込んできた敵を斬ったり、遠方に高速で放つや強敵を一刀両断にもする!


 セル画ライク・2DライクなCGアニメでは不可能な、フル3D-CGだからこそ可能な、金属の銀色のグラデーション豊かな反射や輝きを質感豊かに再現することで、劇中内特別感・重厚感・ハイブロウ感・カッコよさ・ヒーロー性もいや増して、たとえ虚構作品の範疇ではあっても物質感・実在感、ひいては硬質な作品の空気感をも喚起する。
 そして、そんなズッシリしたスーパーヒーローたちが、等身大の悪い宇宙人(笑)相手に軽妙にパンチやチョップやキックを連発、側転やバク転を幾度も繰り出し、腰を地に着けるほどに低く落としてコマのように回転しながら蹴りを見舞う! カナリの長尺を使って、しかもダレることなく、カッコよくて血湧き肉も踊るバトルを、エピソードによっては1話分の尺をも費やすくらいにして披露する!


 そして、幼児向け作品ならぬマニア向け・年長者向けの作品でもあるので、TVの「ウルトラマン」シリーズでは90年代から封印されている切断ワザも披露! たとえ大ウソの虚構作品であっても、束の間・一瞬のショッキングさを出すために、視聴者にもその痛みを一時的に錯覚させる手法で、悪い宇宙人キャラ相手や超人と化して死にそうもない人間キャラに限定して(笑)、時に片腕が切断されたり、頭頂部から左右に両断されたり、手刀や光線がボディーを貫通!(~しかして、大抵は死なない・笑)


プロダクションI.G製作! 実力派・神山健治&荒牧伸志のダブル監督体制!


 我らが『ウルトラマン』の名を冠する新作のフル3D-CGアニメ『ULTRAMAN』(19年)がネット配信媒体・Netflix(ネットフリックス)にて、全世界で各国語吹き替え版までもが製作されて全13話を一挙に同時配信。製作はタツノコプロ分派で今や世界のプロダクションI.G。監督は神山健治と荒牧伸志のダブル監督体制!
 本作の原作となったのは、読者もご承知の通り、東日本大震災があった2011年、『月刊ヒーローズ』創刊号の目玉として鳴り物入りで大々的に喧伝されて連載が開始された漫画『ULTRAMAN』である。大手出版社・小学館が母体となったことで実現できたのであろうけど、コンビニでの陳列売りも実現したので、筆者もアタマの数話については立ち読みした記憶があるモノだ。そのうちにまとめて読もうと思ってノロノロとしていたら、早くも8年が過ぎており……。歳を取ると歳月が経つのは早い(汗)。


 ちなみに、私事で恐縮だが、漫画『ULTRAMAN』の原作&作画コンビが月刊『チャンピオンRED(レッド)』で連載した巨大ロボット漫画の深夜アニメ化『鉄(くろがね)のラインバレル』(08年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20090322/p1)であれば、筆者も鑑賞している。
 正義感はあっても空気が読めない虚栄心満々の主人公少年のイタい言動もヒイた視線で描いていく、作品テーマ的には意欲作ではあり、その志しは壮とすべしなのだが、ダメダメではないけれどもイマイチな出来だとも思われて――その原因は原作漫画版に起因するのかアニメ版に起因するのか、前者を未読の筆者には不明なのだが――、この原作&作画コンビが手掛ける作品だということで、あまりイイ印象は持っていなかったのも極私的な事実ではある。


 しかし、特撮作品のみならずアニメも鑑賞するロートルオタであれば、神山健治と荒牧伸志のダブル監督布陣は衝撃的ではなかったろうか?
 神山は実質的には70年代刑事ドラマに電脳ネタを散りばめたような骨太な傑作深夜アニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(スタンド・アローン・コンプレックス)』全2作(02年・04年)で名を上げた御仁。以降も、『精霊の守り人(もりびと)』アニメ版(07年)や『東のエデン』(09年)、本作と同じくフル3D-CGアニメ映画『CYBORG 009 CALL OF JUSTICE』3部作(16年)などの良作を手掛けてきた御仁でもある。
 氏の師匠スジに当たる押井守カントクがムダにハイブロウで難解・晦渋な作風となっていく中で、ハイブロウではあっては無意味な難解さはなくて、間違って一般層が鑑賞してしまったとしてもナチュラルに観られる作品群を放っているようにも思えて、筆者のごくごく個人的な評価も高い御仁である。
 対するに荒牧も、アクションや芝居部分にモーションキャプチャーを用いたフル3D-CGアニメ映画の先駆けで、やはり『攻殻機動隊』(89年)を手掛けた士郎正宗が放った本邦電脳系SFの古典漫画ともいえる『アップルシード』(85年)の映画版(04年)なども手掛けており、コチラもお高くとまっただけの中身スカスカ作品とは異なり、フツーにメリハリもある娯楽活劇を作れる御仁という感じであって、やはり同様に筆者個人の評価は高かった。
 もちろん上記の評価は筆者独自のモノではなく、通の間ではワリと一般的な見解であろうとは思うけど、その両者が『ULTRAMAN』のスタッフとしてタッグを組んでいたことを知ったときの驚きといったら!
 てなワケで、俄然興味が湧き、とてもイイ機会なので、原作漫画版ではなくネット配信の3D-CGアニメ版にて、本作の内容を確認してみようと思った次第でもある。


初代『ウルトラマン』のみが史実の世界だが、歴代シリーズへのオマージュも満載!


 本作『ULTRAMAN』は初代『ウルトラマン』(66年)のみが劇中内での歴史的事実とされており、後継の『ウルトラセブン』(67年)以降の歴代ウルトラシリーズは存在しなかったモノとして扱う世界観の作品でもある。
 邦洋・東西で長命なシリーズ作品ではよくある手法でもあり、我らが本邦特撮シリーズでは、1954(昭和29)年の『ゴジラ』初作のみを歴史的事実とし、それ以降のシリーズはなかったモノとして扱う新『ゴジラ』(84年)や、初作は史実でもそれ以降は歴代シリーズとは異なるパラレルな歴史をたどった『ゴジラ×メガギラズ G消滅作戦』(00年)や『ゴジラ×メカゴジラ』(02年)などの前例を、ロートルオタとしてはついつい想起もしてしまう。


 我らがウルトラシリーズでも、初代『ウルトラマン』の歴史のみが存在しており、その最終回で宇宙恐竜ゼットンに敗れて一度は死んで故郷へと帰還したハズの初代ウルトラマンが、単なる敗北のみであって地球に残留したままだと設定された再編集映画『蘇れ! ウルトラマン』(96年)や、『ウルトラセブン』の史実のみが存在していて後続ウルトラシリーズはなかった扱いであった平成『ウルトラセブン』シリーズ(94~02年。~劇中では過去の怪獣データバンクに後続ウルトラシリーズの怪獣も登場するので別解釈の余地はあれど・笑)などでも採られた手法でもあり、そーいう意味では目新しいモノではない。


 本作でも初代ウルトラマンが地球を去った数十年後、怪獣・宇宙人も出現しなくなったことから、オモテ向きは怪獣退治の専門集団・科学特捜隊が解散した世界を舞台としており、『ウルトラマン』の主人公でもあり、かつて初代ウルトラマンとも合体していた科学特捜隊のハヤタ隊員が初老の姿で防衛大臣へと出世した姿で、今では記念館として公開されている科学特捜隊の基地を見学に訪れて、旧同僚のイデ隊員とも再会を果たすことで、原典との直結感は出している。
 とはいえ、後継の歴代ウルトラシリーズの要素がないがしろにされているワケでは決してナイ。先にもウルトラセブン型やウルトラマンエース型の強化スーツをまとった追加ヒーローが登場したと語った通り、初代『ウルトラマン』至上主義やら、『ウルトラセブン』までのいわゆる第1期ウルトラシリーズ至上主義の気配といったモノもまるでナイ。


 それが証拠に、にぎやかな渋谷の街の路地をヌケると、そこは雪国ならぬ、SF洋画『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180610/p1)の中盤に登場した某惑星のバザールのように、おそらく異次元というより空間を人為的に広げた拡張次元のようなモノなのであろうか、天空には白昼でも天の河が浮かぶ東南アジアのような猥雑とした露店街や古びた中層ビル街が構えており、そこには地球人の姿に自力で変身したり、変身できない少数派は変身デバイスなるアイテムで擬態している宇宙人の怪しげで一癖も二癖もありそうな移民たちがタフに――悪く云えば少々の悪事もしながら――暮らしており、そこで筋骨隆々の長身イケメンでもあるジャックと名乗る若き日の俳優・団次郎(現・団時郎)にクリソツな情報屋の青年とも出逢ったりするのだ。
 ジャックに団次郎! 今さら大勢には説明は不要であろうが、『帰ってきたウルトラマン』(71年)に後年の84年に付与された名称・ウルトラマンジャックから引用されたネーミングでもあり、団次郎とはジャックに変身する前の人間・郷秀樹青年の中のヒトでもあり、原典作品ではシリーズ中盤回でウルトラセブンから授与された万能武器・ウルトラブレスレット型のブレスレット(笑)を左手首に装着していることで、彼が「帰ってきたウルトラマン」に相当するキャラクターであることを視聴者にダメ押ししている。
 この3D-CGアニメではジャック青年はウルトラマン型のスーツをまとうことはナイけれども、ググってみるとその後の展開では彼もウルトラマン型スーツをまとうようである!
 「帰ってきたウルトラマン」を一度は倒したこともある、用心棒怪獣ブラックキングもどきの等身大の(といっても2~3メートルはある)怪獣型宇宙人までもが登場! しかし、異星人街の賭けバトルのファイターとして活躍するも、超常的な怪力の持ち主でもある地球人・ジャックにブチのめされてしまう役回りを務める。コレもググってみると、ナンと! この3D-CGアニメ独自のオリジナル宇宙人であるのだとのこと!
――余談だが、アニメ映画『バケモノの子』(15年)でも、渋谷の路地を抜けると獣人たちが住まう異界につながっていたが、本作の原作漫画はそれよりも先んじていた? 加えて、『劇場版ウルトラマンジード つなぐぜ!願い!!』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180401/p1)でも、沖縄に同趣向の宇宙人街や情報屋が存在していたけど、コレも本作原作からの引用であったか?――


 そして、科学特捜隊とは別個にウルトラマンエース型のスーツを作っていた、服は着ているも全身は赤い体表とおぼしき、弱そうな宇宙人のご老人の名前はヤプールでもある。
 ヤプール! それは『ウルトラマンエース』のレギュラー敵でもあり(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20061012/p1)、その後も『ウルトラマンタロウ』(73年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20071202/p1)や『ウルトラマンメビウス』(06年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20070506/p1)に『ウルトラマンギンガS(エス)』(14年)や『ウルトラファイトビクトリー』(15年)などに登場してきたウルトラシリーズ屈指の悪役でもある! それがカナリ矮小化した姿で登場しているのはやや引っかかるモノの、この作品は歴代ウルトラシリーズとはパラレルワールドの世界なのだから、我らが知るヤプールとは同一の存在ではナイけれど、異なる生物進化をたどった同族だと好意的に深読みしてあげれば許せるのではないのか!?(笑)
 そして極め付けは、『ウルトラマンエース』で異次元人ヤプールの伏兵としてウルトラ兄弟を倒したこともあり、のちに『ウルトラマンメビウス』や『ウルトラマンゼロ外伝 キラー・ザ・ビートスター』(11年)に『ウルトラファイトビクトリー』などにも再登場を果たしたロボット超人・エースキラー! その名を冠して姿や武器を模した宇宙人の殺し屋が、圧倒的な強敵として本作のウルトラマンエースウルトラマンウルトラセブンの前に立ちはだかるのだ! そして、この殺し屋とタッグを組んでいる植物宇宙人は、地に伏したマンやセブンをそのツルで縛って、十字架状にも吊してみせる!――『ウルトラマンエース』#14「銀河に散った5つの星」(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20060805/p1)にて描かれたマイナス宇宙(ウラ宇宙)にあるゴルゴダ星でのウルトラ兄弟・十字架ハリツケシーンへのオマージュ!――
 コレら70年代前半のいわゆる第2期ウルトラシリーズ帰ってきたウルトラマン』や『ウルトラマンエース』へのオマージュにも満ち満ちたキャラクター! 70年代末期~90年代にかけての第1期ウルトラ至上主義者による第2期ウルトラシリーズへの酷評や弾圧を受忍してきた身からすれば、実にうれしいモノがある。


 またまたググってみると、まだ映像化はされていない今後の展開では、『ウルトラマンタロウ』の隠れたドラマ的名編でもある#45「赤い靴はいてた…」の悪役であったドルズ星人も登場するのだとのこと!――同じく童謡「赤い靴」を材のひとつとしていた映画『大決戦! 超ウルトラ8兄弟』(08年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20101223/p1)でもぜひともドルズ星人を再登場させ、あのエピソードの後日談をもあくまで出しゃばらずに本流の脇で慎ましくもやることで、今やヌルオタ層でも一般化した佐々木守脚本&実相寺昭雄監督コンビの第1期ウルトラの異色作だけに留まらず、第2期ウルトラ以降の埋もれた名作・異色作をも発掘しているスレたマニアたちをも唸らせて、それをもってして一般マニア(形容矛盾・汗)たちをも啓蒙するような作品も観てみたい! と願っていたマニアとしても実にうれしい趣向ではある。


 一見さんの視聴者にはわからない趣向ではあろうけど、そのストーリーの理解には支障が出ないサービスや余技の域のモノであるのならば、このようなタブル・ミーニングの作劇で年配マニアにはチョットした喜びを、若いマニアたちには旧作へのフック・引っかかりをもたらす趣向は、コレからも作り手たちには臆せず多用してほしいと考えるし、ひいてはそれが近年のアメコミ洋画シリーズ群における原典マンガや幾度もリセットされたリメイクや続編シリーズ群に対するオマージュや「掛け言葉」的な小ネタの数々のように、ジャンルやシリーズへの関心を永続させて延命もさせていく豊穣な養分にもなると考える。


 もちろん原典の再現志向ばかりではなく、初代『ウルトラマン』の直前作『ウルトラQ』(66年)の悪い宇宙人・セミ人間や初代『マン』のバルタン星人のバリエーションとおぼしきオリジナルの悪い等身大宇宙人、同じく初代『マン』の白黒シマウマ模様の悪い宇宙人ダダとドー見ても同族だろ! というような善悪不明瞭なスマート体型の強敵宇宙人、『ウルトラセブン』のメトロン星人のバリエーションとおぼしき悪い等身大の宇宙人などなど、あまたの悪い新宇宙人たちもが登場!
 一応、地球人を除く宇宙人同士での平和協定が結ばれて「星団評議会」なる存在が結成されたから、宇宙人による地球侵略や怪獣出現がなくなったという世界観のワリには、善良な宇宙人は完成フィルムには登場しないことで――もちろん先の移民街では暮らしているのであろうけど――、作風から湿っぽさや下町人情味は廃して、作品世界の空気をクールでシャープな雰囲気に統一もしている。


しかし「ウルトラ」っぽくはない? ヒーローものにおける主人公像や若者像の変遷!


 とはいえ、設定面では歴代シリーズの諸設定やその換骨奪胎を投入することで、我々ウルトラシリーズのマニアをクスぐりには来ているけど、その作風は実はウルトラシリーズっぽくはナイ。しかし、コレは悪い意味ではない。主人公をハヤタ隊員の晩婚のご子息・早田進次郎こと元から超人的な体力を保持していることを父親にも隠している――父親はむろん知っている(笑)――常にブレザー服タイプの制服姿をした高校生少年としたことで、むしろ思春期的な懊悩ドラマ性を積極的に導入もしている。
 ちなみに、日本であれば、初代『ウルトラマン』にかぎらず、1960年代以前のアニメ・特撮・時代劇のヒーローの大勢は、すでに人格形成が完了した品行方正な「キマジメ誠実ストイック」主人公であった。
 それが1970年前後になると、「子供」時代が終わるやすぐに「大人」の社会に組み込まれて浮わつかずに老成した「オジサン」となっていった前代とは異なり、世の中が相対的に豊かとなり学生時代も延長されて、それを謳歌する人間の人数も増加したことで、モラトリアム期間も延長されたことから「子供」と「大人」の中間である、まだまだ未熟で揺れ動く「若者」といった人格類型がクローズアップ。そんな彼らが主人公となる『ウルトラセブン』や『帰ってきたウルトラマン』が誕生する。
 さらに、そこにヤンチャな不良性感度が同時多発的に投入されたのが1972年であり、コレが我らが『ウルトラマンエース』の北斗星司や『デビルマン』の高校生主人公・不動明に『マジンガーZ』の高校生主人公・兜甲児や『太陽にほえろ!』で先ごろ逝去した萩原健一が演じた新人刑事・マカロニといった人物たちであったとも私見する。
 さらには、実写特撮では子役の拘束や演技面での困難があるので一般化はしなかったけれども、80年代以降の漫画やアニメでは10代の少年少女がスーパーヒーロー・スーパーヒロインとなることで、そこに思春期ドラマも導入されて、年齢構成的には偏ってはいてもある方向性でのドラマ性は高めていく。
 その点では後塵を拝した実写特撮ではあるも、1992年の『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20120220/p1)あたりで、ほとんど思春期前の小学生のようなメンタリティのキャラクターが多数派を占めるヒーロー集団が登場(笑)。この場合は複雑なオトナの心理は描けないのでドラマ性もさして高まらないけど、幼児性の再帰的な再発見の妙味は出せていたとは思うので、アレはアレで個人的には好きである。


 読者もご承知の通り、約80年もの歴史を持っているアメコミヒーローも同様の歴史を先行してたどっており、1930年代末期の品行方正な『スーパーマン』(38年)、大人のダークな香りがする『バットマン』(39年)や、時代が飛んで高校生を主人公とすることで思春期性や成長ドラマ性を投入した『スパイダーマン』(62年)に、さらには最初からヒト型をしていない人外や異形であり人格者ではない『ファンタスティック・フォー』(61年)やら『X-MEN(エックスメン)』(63年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20170519/p1)などの集団ヒーローを経て、チョイ悪や乱暴者で悪党を懲らしめ過ぎることで背徳感ある暴力のカタルシスも感じさせる後発の膨大なヒーローたちなど、日本でいうなら脚本家・井上敏樹が描くニヒルで欲望肯定・私的快楽肯定なヒーロー像とは同一ではないにせよ、それに類するキャラクターたちもすでに数十年前のアメリカの地で確認できることであろう。
 本作『ULTRAMAN』に関しても、男子高校生が主人公となり、彼がその巨大な力にビミョーに浮かれたりするサマも描くことで、あえてアメコミ洋画をモノサシにカテゴライズをするならば、『スパイダーマン』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20170901/p1)に似た香りもしている。
 しかも、序盤のウルトラマン型強化スーツの初装着時の戦闘を除けば、しばらくは悪い宇宙人(笑)相手ではなく、首都高速での交通事故での炎上目前トラックの救出に投入されたり、偶然に遭遇した中層マンションでの監禁事件や高層ビルのガラス拭きのゴンドラ落下事故を解決したりもしているので、善の超人vs悪の超人との大激闘を描く昨今のアメコミ洋画(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180619/p1)(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20171125/p1)ではなく古き良きアメコミ作品や、日本の1960年代における超人化する前の覆面をかぶっただけの人間ヒーローもののテイストも本作には感じてしまう。
 そーいった意味では、「ウルトラマン」に限定したモノではなく、スーパーヒーローもの全般の総括といった感もある。


メインヒロインが女子高生アイドル! そこから構築される華やドラマ性!


 かてて加えて、この男子高校生クンが懸想する女子高生が、アイドル活動もしている可愛い子ちゃんでもあり、彼女はTVでも「ウルトラマン好き」を公言しており、その彼女が劇中で中堅アイドルとして熱唱する歌曲までワザワザ作られて(!)、アイドルアニメ『アイドルマスター』(11年)やら『ラブライブ!』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20150615/p1)などのように観客がペンライトを持って応援する、中規模ステージでのライブシーンまでもが描かれることでトドメを指す!――つまりは、往年のリアルロボアニメ『超時空要塞マクロス』(82年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19990901/p1)じゃないけれど、「私の彼はパイロット」ならぬ「私の彼はウルトラマン」なぞというベタな萌えを突いてくるのだ。そーいう部分では実は志しが低い作品でもある(笑)――
 フツーの女子高生ではなく、アイドル活動もしている女子高生とお近づきになるあたりは天文学的な確率となるのでリアルではない気もするけれども、スーパーヒーローだの宇宙人だののキャラ立ちしまくった存在が次から次へと登場する本作においては、コレくらいにケバ立ったメインヒロインを登場させないと「絵」としてやや沈んでしまい「華」が弱くなってしまうやもしれないので、「アイドル」という濃いキャラ付けをするくらいの方がバランス的にはちょうどイイのやもしれない。


 彼女は本作の序盤から渋谷駅のガード下でガラの悪い不良高校生にナンパされて困惑している姿で登場を果たして、それをオズオズと主人公少年クンがトメに入るかたちで接点が作られる。しかして、そこですぐにイイ仲になってしまうと安直なので、彼女を近眼として同じ場所で再会してもあのときの彼だとはなかなか気付けないとする。一般公開されている記念館としてオモテ向きはカモフラージュされた科学特捜隊のヒミツ基地の展示物を見学に来ても、彼女はそこで放課後にバイトをしている主人公少年クンが渋谷で助けてくれた彼だとはまたも即座に気付かないことでギャグ描写ともする(笑)。
 主人公少年クン自身もドキマギしながら彼女と同席することにウキウキして、ドー見ても正体バレバレな失言を連発し、しかしそれでもメインヒロインたる彼女が天然ボケにもその正体になかなか気付けないことで、ラブコメとしての味わいも出していき、しかして最後には彼の正体を半ば察知することで、全13話の背骨ともなる甘酸っぱい起承転結感も出していく。手法だけ取れば、『スーパーマン』のヒロインなどむかしからよくあるコテコテなのだが、それゆえにヒトの心を普遍的に揺り動かす鉄板・王道なのだともいえる。


 とはいえ、この過程で彼女のウルトラマン好きはタテマエであって、ホンネではウルトラマンvs巨大怪獣との激闘に巻き込まれて死した母親のことを想って、ウルトラマンを実は恨んでもいる両面性も明かされて、作品構造を単純にはしていない――彼女の母親が彼女の幼少時に死亡したという事実だけは、彼女や主人公少年が誕生したのも初代ウルトラマンが地上を去って、すでに数十年後が過ぎたあとであったとする世界観とは不整合が生じてしまっているけど(汗)。劇中での回想シーンに登場するウルトラマン初代ウルトラマン以外の別のウルトラマンにして(主役TV作品を持たないウルトラ兄弟の長男・ゾフィー兄さんあたりならばよかった?・笑)、例外的に一度だけ怪獣が出現したことがあったとするとか、死亡したのは彼女の母親ならぬ祖母にすればよかったか?――。


――老害オタ的なウンチクもココで述べさせてもらえば、怪獣災害の被害者を本格的に描いたのは怪獣映画『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』(99年)が初だと世間的には思われているようだが、ホントは『ウルトラマンタロウ』#38「ウルトラのクリスマスツリー」の方が先である。
 そのことが60年前後生まれの第1期ウルトラ世代のマニアたちの眼中には入らなかったのは、彼らが『タロウ』放映当時はちょうど中高生年齢であり、70年代前半には子供番組を長じて鑑賞する人種がいること自体が世間にまったく流布しておらず、過剰な後ろめたさを持ってしまって、かつ往々にしてマジメなマニア小僧にアリがちなギャグやコミカルにチャイルディッシュを忌避するハードでシリアスでクールな乾いたSF風味至上主義者であったがために、さらに成人~中年以上の年齢に達すれば理解できたであろうウェットな人間ドラマが、ちょうど年齢&当時主流のマニア間での風潮とも反していたことで盲点となってしまい、あるいは稚気もある児童向けドラマの良さに対して過剰に羞恥を感じて悪印象を持ってしまったからではなかろうか? とも愚考する。彼ら先達オタクたちも還暦前後(!)に達してマルくなったであろう昨今、改めて第2期ウルトラを再鑑賞してみれば、おのずとかつての見解も改まると思うのだけれども、いかがであろうか?――。


 加えて、ご都合主義にも彼女の父親は警視庁の刑事でもあり、しかして警察と科学特捜隊とは競合関係にもあることで、怪事件に対する複眼的な描写や、警察よりも科学特捜隊の方が上位にあるとする描写も可能となる。
――19年冬アニメの『魔法少女特殊戦あすか』でも、級友の父親が警視庁の刑事であり、警察と特殊部隊がライバル関係にあって、その級友が悪党に狙われるという話を観たばかりだけれども(笑)。もちろんお約束で、本作『ULTRAMAN』の刑事さんは『ウルトラセブン』#8「狙われた街」に登場したようなアパートに張り込んで、アイドルでもある娘のファンの間で実は進行していた不可能殺人事件を捜査したりもしている――


 そして、殺人事件の被害者たちこそがネット上の巨大掲示板に当のアイドルに対する悪口雑言をカキコミしていた人間たちであり、その抹殺をウラ社会の人間に依頼していたのは、今は滅びた異星から来たゴリラ顔の亡命王子であり、彼は今では零落してアパートでの一人住まいの身でもあったとゆー。しかして、彼を真に唆していたのはヤンキーDQN(ドキュン)な日本の不良若造どもでもあって……。
 そん没落王子を中心に、アイドルとの握手会でマゴついていた体格には恵まれないチビで貧相な彼を蹴飛ばして転ばせるようなガラの悪い若造たちをも同時に描くことで、純然たる子供向け作品のような安直な人間性善説、牧歌的な手触りの方は放棄しているあたりは、地球人と宇宙人をその品性下劣さにおいてフェアに描いており含蓄もある。
 極め付けは、サンデル教授の白熱教室における壊れたトロッコ問題。ひとり(アイドル)の生命を救うのか? 大勢(観客)の生命を救うのか? という永遠に解決が付かないアポリア・難問を、ライブ会場にて崩れた天井の鉄骨を支えているウルトラマン型強化スーツを着用した主人公少年に、「アイドルよりもオレたち観客を守れ!」と絶叫して主張してくる先の黒幕不良少年たちの姿でブツけてくることで、テーマ的にもトドメを刺す!――この3D-CGアニメ版では描かれなかったけど、ググってみるとコイツらは死人にクチなし、近代法における証拠裁判主義&推定無罪の原則の欠点を突いて、その後も無罪を主張して、警察もパクれないでいる模様だ(爆)――


善悪がめまぐるしく変転していく、意表外でトリッキーなストーリー!


 直前の例示はわかりやすい人格悪だが、やはり年長マニア向けの作品なので、技巧的・トリッキーな作劇や、善悪が定かならずで一見善人のようでもありながら悪人のようでもあり、悪人のようでもありながら善人のようでもある作劇も、本作では多用している。
 まずは初代ウルトラマンをその最終回にて宇宙恐竜ゼットンをけしかけて敗死させた、黒背広を着ているゼットン星人の生き残りでもある、名前はエドなる御仁が科学特捜隊の重職を務めている。ワウ・フラッター(回転むら)があるテープレコーダーによる再生のような、『ウルトラマンエース』#1(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20060514/p1)でナレーターの岸田森(きしだ・しん)が「ウルトラエース」と語っているらしきところを急遽の改題に伴い「ウルトラ“マン”エース」にオーバーダビングしたらしき箇所のような不協和な音声でしゃべるゼットン星人の彼は、どうやら高校生主人公クンを意図的にピンチに陥れて、しかもその彼が都度切り抜けていくことをも目的としているらしい。
 イデ隊員の成れの果ての初老のオジサンも、ゼットン星人ほどではないし邪気もナイけど、ゼットン星人とは別個に高校生主人公クンが徐々に新たに力に目覚めるサマを喜んでもいるようでもある。
 宇宙人連合である「星団評議会」のエージェント(おとり捜査官?)でもあるダダの同族モドキも、最初はアイドル事件の黒幕かと思わせて、その真意は前2者ともまた別に、主人公少年に試練を与えて、新たなる力を覚醒させることにあるようで、しかもその真の目的は平和連合ではなく悪の連合やもしれない「星団評議会」とも一戦を交えようともしているサマも描いていく。
 本作序盤では、初老のハヤタ隊員や早田進次郎少年を襲撃した、シルエットがトゲトゲになっているウルトラマン型強化スーツをまとった「始まりの敵」なる別名を持つベムラー――初代『ウルトラマン』#1に登場した宇宙怪獣の名前であることはご承知の通り――と呼ばれる存在は、当初は12年前の航空機爆破の真犯人かと思わせておいて、先のダダだかヤプールに彼は航空機を守ろうとしていたのだとも語らせる。
 片やウルトラマンエース型の強化スーツをまとう北斗星司少年も、当初は第3勢力の敵なのか? と思わせて、ウルトラマン型やウルトラセブン型とも交戦するけど、彼はかの航空機事故の唯一の生き残りでもあるとすることで――公的には死亡扱い――、『仮面ライダーアギト』(01年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20011108/p1)における客船「あかつき号事件」のようなナゾともしていく。
 トドメはベムラーで、終盤で透明化していた姿を現わした超巨大宇宙船とそれが放った巨大ミサイルを、等身大の姿ながらも十字に組んだ圧倒的な光量の必殺光線で撃破することで、コレはドー見ても彼の正体は零落した初代ウルトラマンであり(?)、当初の一連の行動もまた早田進次郎少年の特殊能力を次から次へと覚醒させるための実に手の込んだ茶番劇だったということをも示唆していく。


しかして本作は、やはりコラえた末に発散するカタルシス志向のヒーローものであった!


 ……なぞと書き連ねてしまうと、シチ面倒クサいストーリーなのか? と未見の読者に誤解をされてしまうので、大急ぎでフォローをしておこう。
 本作もまたよくできたヒーローもの、娯楽活劇作品のセオリーに乗っ取った、往年の竹熊健太郎サルでも描けるまんが教室』(89年)で云うところのいわゆる「イヤボーンの法則」、往年のアニメ映画『幻魔大戦』(83年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20160521/p1)などにも顕著な、主人公の少年少女が悪党によって大ピンチに陥って「嫌~~~!!」となったところで、潜在パワーや潜在武装が覚醒して「ボ~~~ン!!」と超絶パワーで反撃に転じて、それまでとの落差から生じる作劇的メリハリ・カタルシスを強制的に発生させる心的メカニズムにも準拠した物語にもなっている。
 いわく不良どもにカラまれていたアイドル少女を助ける! いわく事件や事故に巻き込まれた人々を助ける! いわく渋谷のスクランブル交差点でのバルタン星人モドキとの戦闘で、科学特捜隊司令部からの電波で強化スーツのリミッターが解除されることで3分間の制限付きで超絶パワーを発揮する! いわく、やはりスクランブル交差点での怪獣型宇宙人・ブラックキングとの激闘で、強い思念から空中浮遊・飛行能力をも獲得する! エース型スーツをまとった北斗星司との相打ちで、第2期ウルトラシリーズの一部怪獣たちのようにボディーに喰らったパンチでチープな筒抜け穴が空いても生き返ったエースキラーを、激情パッションとともに自らの超精神パワーで強化スーツのシステム・プログラムをも改変して自力でリミッターを解除した主人公クンが、超絶の域に達した太っといスペシウム光線の光の奔流を発してついに溶かし去ってしまう! ……等々。


 ハイブロウな意匠に包まれてはいても、ヒーローものや娯楽活劇作品の根源・セオリーとは、短すぎず長すぎずのボリュームでの一進一退・シーソーバトルの果てに逆転大勝利を収める運動エネルギーの作劇的な型にすぎないようにも思うのだ――もちろんイイ意味で!――
 そんなことをも再確認させてくれた――自説に牽強付会もさせてくれた(笑)――本フル3D-CGアニメ作品『ULTRAMAN』を筆者は高く評価したい。



追伸
 文脈的に収まらなかったのでココに書くけど、シャープでクールな作風やスタイリッシュな画面でゴマカされてしまいがちだけど、本作に登場する悪い宇宙人たちはのきなみ、第2期ウルトラでいうところの石堂淑朗(いしどう・としろう)脚本回に登場するような、宇宙のSF的神秘とは程遠い、ベラベラとしゃべり下品に哄笑もする、マニア間では悪しざまに罵られてきたいわゆる「チンピラ宇宙人」たちでもある(笑)。
 しかしだからこそ、SF性はともかく善悪の対比・メリハリは付くので、勧善懲悪のヒーローものとしては、殺っちゃってもイイ悪党、罪悪感なく殲滅できる悪党の造形法としてはコレが正解でもあり、その観点から第2期ウルトラにおける石堂脚本に登場したチンピラ宇宙人の再評価も切に望みたい。いやマジで(笑)。


 なお、主人公少年のモーシャンキャプチャーを担当したのは、平成ウルトラセブンに変身するカザモリ隊員を演じた山崎勝之。ハヤタ隊員のモーションを演じたのは『忍者戦隊カクレンジャー』(94年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20120109/p1)のニンジャレッド・サスケを演じた小川輝晃。モロボシダンのモーションを演じたのも『未来戦隊タイムレンジャー』(00年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001102/p1)で追加戦士・タイムファイヤーを演じた笠原紳司であり、そのへんはロートルオタであればスタッフ・ロールでとっくにお気付きでもあるよネ。


 ネット配信会社も、全世界のケーブルTV&個人から集金する「規模の経済」で、映像製作に乗り出せて、黎明期だから本作のような企画が通っているのだろうけれども、数年を経て何が売れて何が売れないというマーケティングが判明してしまったならば、ニッチな『ULTRAMAN』みたいな企画は通らなくなって、続編も製作されないんじゃないのかとも恐れる。アマゾン・プライム・ビデオでも、『仮面ライダーアマゾンズ』(17年)は第2期(18年)が作られたけど、『ウルトラマンオーブ THE ORIGIN SAGA』(16年)の方は同系企画が続かなかったみたいなモノで(汗)。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2019年ULTRAMAN号』(19年5月4日発行)~『仮面特攻隊2019年GW号・第2刷』(19年5月6日発行)所収『ULTRAMAN』評より抜粋)


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ULTRAMAN 佐山レナ 1/7スケール PVC&ABS製塗装済み完成品

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仮面ライダージオウ前半評 ~未来ライダー&過去ライダー続々登場!

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仮面ライダージオウ前半総括! ~未来ライダー&過去ライダー続々登場!

(文・T.SATO)
(19年4月29日脱稿)


 『仮面ライダージオウ』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190126/p1)も早くも1年間放映スケジュールの半分以上を消化した。
 当初は「平成仮面ライダー20作記念」作品として、同じく10年前の「10作記念」作品であった『仮面ライダーディケイド』(09年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20090308/p1)の作劇パターンを踏襲し、過去の時代の平成ライダーの世界をめぐっていくのであろうかと思いきや。
 第2クールのアタマというべきか、製作スタッフ的には年末年始の休止で間が空いてしまうから、2018年放映分のシメ括り、1年間を4分割4クールならぬ3分割として、最初の1/3が終わったという括りにしている気もするけど、改めて本作の基本設定をおさらいもする。


・本作の発端でもある50年後の西暦2068年の荒廃したディストピアな未来へと、仮面ライダージオウこと常磐ソウゴ(ときわ・そうご)少年を飛ばして、直にも目撃させることで舞台設定を再確認
・2068年の世界で逢魔時王として君臨している仮面ライダーオーマジオウ。いかんともしがたい超パワーを放つオーマジオウを倒すことは叶わない。ならばと反オーマジオウの2大陣営、レジスタンス&タイムジャッカーは過去の世界へ飛んで、歴史改変を目論んでいること
・本作の2号ライダーである仮面ライダーゲイツことゲイツ青年&黒髪ロングのメインヒロイン・ツクヨミは、2018年の世界でジオウこと18歳の常磐ソウゴ少年の抹殺を試みんとするも、様子見として奇妙な同居生活を送っていること
・タイムジャッカーの3人、ダンディな強面のオジサン・スウォルツ、少女みたいな美少年・ウール、でこ出しミニスカ美少女・オーラは、各々の時代の平成ライダーを誕生させずにアナザーライダー怪人が誕生する歴史へと改変することで、あるいはアナザーライダー怪人自体をオーマジオウとは別の「王」として擁立することで、オーマジオウが誕生しない歴史を招来しようとしていること


 しかも彼を未来へと飛ばすのは、本作の2号ライダー・仮面ライダーゲイツことゲイツ青年や、メインヒロイン・ツクヨミ嬢が搭乗する中型ロボ・タイムマジーンではない。#13~14の『仮面ライダーゴースト』(15年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20160222/p1)編にて姿を現わし、過去の時代へタイムトラベルしない#15~16の基本設定おさらい編にも継続して登場する、本作の10年前に放映された平成ライダー10作記念の『仮面ライダーディケイド』こと、不敵な態度でモラルもあるのかナイのかナゾめいた青年像が相変わらずな青年・門矢士(かどや・つかさ)なのだ!
 本作の暫定的な敵でもあるタイムジャッカーの3人とも付かず離れずでつるんでいるようにも見えて、ジオウこと常磐ソウゴ少年の人間としての器量・度量を試しにかかっているようにも見える門矢士。
 『ディケイド』における映像的な目玉でもある並行世界を超えることができる銀色の波めくオーロラカーテンが、ここではナゼか時間さえをも超える能力を獲得しており(笑)、ジオウことソウゴ少年を2068年の世界へと飛ばして、改めて自身の未来の姿でもある魔王が君臨する世界の惨状を垣間見させて、しかも天皇やお公家さんのように御簾(みす)のウラに控えている魔王とも対面させて問答させることで、善良なお坊ちゃんでもあるソウゴ少年のアイデンティティに揺さぶりをかけてくる!
――しかもオーマジオウは、ソウゴ少年が変身ベルトを捨てれば未来の自身でもあるオーマジオウも消滅すると、自己否定のようなナゾ掛けもしてくる(実際、一時的には変身ベルトを捨てることで消滅もする!・汗)。セリフの字面だけで取れば、自身の現状に後悔しているようにも取れるけど、自信満々に不敵に語っているので、多分そんな殊勝な気持ちはさらさらナイ!?――


 ディケイドから貸与された腕時計の文字盤型な変身補助アイテム・ディケイドウォッチがコレまた、他の平成ライダーのウォッチとは異なる形状をしていることで、歴代ライダーの中でもそれまでの平成ライダーに2弾変身可能であった(今回は彼以降の時代のライダーにも変身可能な)ディケイドだけは別格として扱いたい――そしてそれは妥当にも思える――バンダイ側の好き者スタッフの意向も透けて見える――個人的には玩具展開は、東映側の発案ありきではナイと憶測するけど、いかがでしょ?――
 そして、仮面ライダージオウはディケイド型のヨロイをまとって、頭には四角いハコ(笑)をかぶったような、しかもそのハコの正面の平面には、そのパワーを使用中の歴代ライダーの顔面の図像(笑)がセットされているという、稚気満々でイロモノ臭も漂うデザインの強化形態へとパワーアップ!(個人的にはスキなデザインだ・笑)


仮面ライダーシノビ・仮面ライダークイズ・仮面ライダーキカイ!


 歳が明けた2019年放映分からは、さらに意表外な展開が待っていた! もう『仮面ライダーディケイド2』とは云わせないゾ! とばかりに、レギュラーの3号ライダーや4号ライダーですらない新ライダーが続々と登場してくるのだ。
 オーマジオウが君臨する歴史時間軸とはまた別の、2022年の世界から来たという、忍者がデザインモチーフとなっている、そのまんまなネーミングである仮面ライダーシノビ!(#17~18)
 同じく2040年の世界から来たという、クイズがデザインモチーフでもあり、両胸に「○」と「×」が、頭頂部には「?」マークのトサカがついている仮面ライダークイズ!(#19~20)
 オーマジオウが君臨する2068年よりもはるか未来、シノビやクイズの時間軸の延長線上の2121年とおぼしき時代を舞台に、機械生命体に支配された世界で人間の味方をしている、往年の石森章太郎原作の東映特撮ヒーロー『人造人間キカイダー』(72年)がモチーフとおぼしき仮面ライダーキカイ!(#23~24)


 その作劇は、フツーに予備知識もなく鑑賞していると、本作『ジオウ』の追加ライダー、新レギュラーの初登場話にしか見えないモノともなっている――というか、筆者は追加レギュラーなのだと誤解した(爆)――。
 もちろんヒーローの新造スーツなぞは1体が100万円以上もかかるという話だからシャレで出せるワケもない以上は――ググってみると、既成キャラクターのスーツの組み合わせ改造だとのマニア間での分析が出ているので、もっと安くて済んでるだろうけど(笑)――、1号ライダージオウや2号ライダーゲイツが過去ライダーの属性パワーを宿したヨロイをまとうように、真の3号ライダーともなる仮面ライダーウォズも未来ライダーの属性パワーを宿したヨロイをまとうために、仮面ライダーシノビ・仮面ライダークイズ・仮面ライダーキカイらを登場させたという、玩具展開ありきの展開なのであったろう。
 加えてここに、本作のスピンオフ・番外編でもあるネット配信媒体でも主役も張る新ヒーローの先行お披露目といった役回りも結果的に与えることで、ウルトラマンオーブ(16年)やウルトラマンジード(17年)において2大先輩ウルトラ戦士の力をブレンドすることで新形態に2弾変身するも、玩具カードのみに図版が登場して着ぐるみ化は果たされなかったあまたのバージョンが、メディアミックス的にも即座に着ぐるみ化が叶ったような幸福な展開でもあろうか?


 仮面ライダーシノビの変身前は、ド新人には見えない盤石なヒーロー演技だナと思ってググってみると、忍者つながりで『手裏剣戦隊ニンニンジャー』(14年)の金色の追加戦士、メリケン帰りの忍者・スターニンジャーことキンジ・タキガワを演じた多和田秀弥が演じていたとわかる。
 仮面ライダークイズの変身前のヒトも、研究者の父が家庭に帰らず淋しい思いで病没した母を持つシットリとした青年という役どころ、かつ軽妙な「○×クイズ」をテンション高く繰り出す芝居がウマいなと思ってググってみたら、『特命戦隊ゴーバスターズ』(12年)のレッドバスターを演じた鈴木勝大(すずき・かつひろ)。
 仮面ライダーキカイは、映画『キカイダー REBOOT(リブート)』(14年)にてキカイダーことジローを演じた入江甚儀で、コレはすぐにわかったけど、やはり5年の歳月は長い。大根芝居であった往時からは格段の進歩を遂げている(笑~まぁ無垢な機械人間の設定なのだから、往時はその朴訥とした芝居でもよかったのだけれども)。


 で、本作序盤では見たことも聞いたこともない、ある意味でデタラメなキャラクターが頻出する展開にも、キチンとSF的な言い訳は付けており、幼児はともかく小学校中学年以上や我々大きなお友達にもナットクがいくようにはしていることは好印象。
 それすなわち、レジスタンスやタイムジャッカーや仮面ライダージオウらが、歴史を自在に飛び交って攪拌してきた行動の末に、オーマジオウが君臨する未来とはまた別の分岐した未来へと通じる時間軸が発生した可能性である!


 どころか、仮面ライダーキカイに至っては、彼が年明け2019年の現代へとタイムリープしてきたのではなく、現代に登場するのはアナザーキカイ怪人の方であり、ソウゴ少年自身は睡眠中に2121年の世界で実体化して、仮面ライダージオウにも変身して仮面ライダーキカイと共闘することでの変化球な作劇パターンとし、コレをもって彼は予知夢や局所的な時間巻き戻しが可能なレベルではなく、自分が望む遠未来をも現実化できるレベルの域に達した神のごとき超絶の力を保持している可能性さえ、ツクヨミ嬢の弁を借りて示唆される。そして、そのことでソウゴ少年に同情的になっていた彼女をして恐怖もさせるのだ。
――そのサマを見て、本来はツクヨミ嬢よりも強硬派であったハズのゲイツ青年の方がむしろ困惑して、ソウゴ少年を擁護したい心情にかられているであろう描写も同居させ、多角的な演出を達成しているあたりもまた絶品!――


 そして、仮面ライダーオーマジオウが君臨する未来とはまた別の時間軸。2022年には仮面ライダーシノビが、2040年には仮面ライダークイズが、2121年には仮面ライダーキカイが活躍する時間線の未来とは、2019年4月の「オーマの日」に魔王にならんとした仮面ライダージオウを2号ライダー・仮面ライダーゲイツが倒したことで新しく生じた歴史であったとする!
 そこでは仮面ライターゲイツの方が魔王ならぬ救世主として崇められているらしくて(?)、そちらの時間軸の歴史を守るために、オーマジオウが君臨する時間軸の歴史の方を守るために派遣されていたレギュラーキャラのウォズ青年ともパラレル・シンメトリカル(対称的)な存在である、もうひとりのウォズ青年が第4勢力(?)として登場!


 その彼が新たなるライダー・仮面ライダーウォズへと変身する!――変身時に背後に浮かぶのは、1号ジオウのアナログ時計、2号ゲイツのデジタル時計(Gショック)につづいて、数年前に話題となった腕時計型端末(アップルウォッチ)がモチーフかとも思われる(笑)――
 なぞとハイブロウなSF的背景設定を持ちつつも、本家のウォズ青年同様に、ネタキャラ・狂言回し・説明役としての役回りも濃厚に持つので、アップルペンみたいな電子ペンでタブレット端末に望みうる未来を記述すると、現実世界もそのように展開していくという『ドラえもん』のヒミツ道具のような安直で即物的な、我々大きなお友だち的には笑ってしまうような能力も併せ持っている。


17年後の『仮面ライダー龍騎』編! アナザーリュウガ! ジオウⅡ!


 コレらのエピソードに挟みこむかたちで、『仮面ライダー龍騎(りゅうき)』(02年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20021109/p1)を材とするエピソードも挿入(#21~22)。しかも、それは2002年の時代へと飛んで、アナザー龍騎怪人を誕生させることで、龍騎の存在をなかったことにするという展開ではない。『時をかける少女』(67年)などの前史的な作品群を除けば『仮面ライダー龍騎』という作品は、あまたのオタ向けジャンル系作品で隆盛して今や空気のように一般化もしている「バトルロイヤル」要素や「時間ループ」要素の発端・始原ともなった画期の作品でもある。
 そして、『龍騎』世界には、「TVスペシャル」(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20021105/p1)・「劇場版」(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20021104/p1)・「TV版」(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20021103/p1)といくつかのバージョンがあり、しかもそれは「TV版」最終回での黒幕青年が絶望して発したセリフによれば、すべての作品が「時間ループ」(幾度もの歴史改変)で連結されており、しかしてそれは「TV版」最終回で開始の時点に戻って、そもそもバトルロイヤルが発生しなかった歴史へと改変されたので、『ジオウ』の歴史にも龍騎は公的・表層的には存在しなかったことになるのだ。
 そーいうところまで考慮したのであろう。この『ジオウ』「龍騎」編では、TV『仮面ライダー龍騎』最終回(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20021108/p1)でバトルロイヤルも仮面ライダー龍騎も存在しなかったことになった結末を迎えた、その17年後の2019年が舞台となる。
 しかして、『龍騎』でバトルが展開された左右反転のミラーワールドには、最終回先行放映という大ボラ(笑)を吐いて公開された『劇場版 仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』(02年)に登場した主人公・城戸真司(きど・しんじ)青年の心理的ネガ・ダークサイドともいえる存在が変身した仮面ライダーリュウガ――当時の最初期の公表名は「仮面ライダー龍牙」名義であったと記憶――が残存しており、そのアナザーライダー怪人としてアナザーリュウガ怪人が登場するという変化球!


 ここに鏡の世界に住まう、善良な育ちのイイお坊ちゃんとは真逆な、主人公・常磐ソウゴの心的ネガ・ダークサイドでもある、通称・裏ソウゴも出現! 表ソウゴの心の中にもある偽善、あるいは偽善とはいえなくとも微量にはある邪心や虚栄心の存在をも突いてくる作劇も秀逸だ。
 たしかに、善人ではあっても微量には存在して抹消のしようもない偽善や虚栄心が、人間には永遠に残るのであろう。自身の内にもある「悪」を、「価値判断」の次元で肯定はしないけど「事実判断」としては微量であっても存在するのを自覚することはたしかに重要でもある。
 そのへんに無頓着な自省心に欠ける底の浅い善人が、偽善や虚栄心や二枚舌の世界にカンタンに転んで、しかもそのことに自身ではまったく気付けていない愚かなサマがこの世にはどれだけハビこっていることか? 一度でも失敗した御仁や少々ヘンだという程度の御仁に対しても、悪人だと決めつけて包摂せずに実に冷淡に排他的にふるまい、自身にも泥が付くことを極端に厭うあまりに困窮している他人を救ってみせようとは思いもしない薄情な輩がどれだけ多いことか? はたまた、現実世界で実地に使えるツール・処世術ではなく、ヒトを救えもしない歯の浮くような理想論・キレイごとだけを云って、自己満足している御仁がいかに多いことか?
――もちろん確信犯で悪事をするヤンキーDQN(ドキュン)な粗暴の輩と比すれば、彼らは全然マシではあるにしても――


 そーいう意味での自身の内にもある「悪」をも包含して、「正」⇒「反」⇒「合」的な意味合いをも持たせた仮面ライダージオウの新形態、今度はアナログの針時計を1台から左右2台としたデザインでもある「仮面ライダージオウⅡ(ツー)」なる安直ネーミングな新キャラが、この『龍騎』編にて初お披露目!
 顔面の片側を占めるもうひとつの時計は、左右に反転している時計であると見立てることで、短時間であれば局所的に時間を巻き戻すことも可能というチート(何でもアリ)能力も発揮できるようにもなる!――「スーパー戦隊」の歴史においても時間戻し能力を発揮できる戦隊ヒーローがたまにいて、まぁ「戦隊」らしいアホアホな技という感じで笑いながら観てるけど、本作は時計がモチーフのライダーなので、ハードSF的にはともかくライトSF、シンボリックな次元で一応はナットクが可能(笑)――


 善悪二元論ではなく、善が絶対で悪を相対とする一元論、善悪を包含してその上位に立つ一元論、上位には立たないけど自身の尾を噛むウロボロスのヘビ的な陰陽思想など、一元論は哲学でも宗教でも紀元前から東西で存在するモノではあるので、いろいろと示唆的ではある。
 善悪・敵味方が相対化された80年代以降は、ジャンル作品にもこの発想が導入されており、近年だとウルトラ兄弟の長男ゾフィー&悪のウルトラマンことウルトラマンベリアルの力を借りて強化変身したウルトラマンオーブサンダーブレスター、初代ウルトラマン&同じくベリアルの力で変身するウルトラマンジードや、ウルトラマンキング&同じくベリアルの力で強化変身したウルトラマンジードロイヤルメガマスター、人工知能ロボが「善でも悪でもイイ! 私に力を!!」と叫んで、失敗続きであった1号ロボ&2号ロボの合体を緊急時には成功させた児童向け合体ロボアニメ『勇者警察ジェイデッカー』(94年)の中盤回なども想起する。
 まぁコレもサジ加減ではあって、必要悪としての酸いと甘い、善と悪とのブレンドだとは思ってはいても、往々にしてヒトは悪に飲み込まれてしまったりもするので、「混ぜるな危険」も有効ではあるけれど。


 もちろんこの珍妙なデザインや玩具発売スケジュールの方が先にありきで、各話での先輩ゲストライダー選定などはそのあとではあろうけど、デザインが左右反転の腕時計2個となったところで、鏡の中の異世界に住まう主人公の鏡像・ネガ存在(の腕時計)とも合体して誕生するヒーロー新形態を、ミラーワールドを舞台とする『仮面ライダー龍騎』ともシンボリックにカラめていく作劇はウマい手法だとは思うのだ。
――シニカルに見れば、『ジオウ』でも『龍騎』でもミラーワールドとは人間や動物が存在しない無人の世界ではあるので、現実世界とは完全対称ではナイじゃん! しかも、本人の性格的ネガ存在が登場するだなんて、少々劣位の世界じゃん! とのツッコミはできるけど、物理的にも完全対称・完全対等・完全平等の同一世界だと、道義的・説話的な要素は発生しないので、そのへんは寓話とするためにも、インチキではあろうが少々劣位なネガ世界として設定することでイイんじゃないですか?(笑)――


 加えてこの「龍騎」編では、かつては新進のネット配信サイト・ORE(オレ)ジャーナルで名をなした城戸真司と大久保編集長の零落した現況が語られる(!)。そして、さらなるネット媒体の進化で、個人が情報を直接発信するようになり、無名の個人たちが情報を寄せてくれることでも成立していたOREジャーナルは廃れていったことを確認し、それゆえに「負け」たこと自体もしかと認めて、千尋の谷の底でも「分相応」で生きていこうではないか! と確認しあう滋味あるやりとりで幕となる。
 現実の世界でも趣味の世界でもパッとせず、時流にも乗り遅れてハシゴをハズされた感もある、二流三流のアナログな旧型オタである筆者としても、少々慰められるオチではある。「負け」ていることを認めつつ、筆者もヘンに自意識を肥大させずに河原乞食・ピエロ・三枚目としてふるまって、まだまだ地ベタを這いずり回って、最期(さいご)には誰も恨まずカラカラと笑いながら無一文で死んでいく所存である(笑)。


裏ソウゴならぬ、アナザージオウまで出現! ソウゴvsゲイツも決着!


 裏ソウゴ少年を登場させた作劇パターンの延長線として、#25~28は4話連続で、今度は「アナザージオウ」なるジオウとはアナザー(別)でオルタナティブ――代替可能。ありえたかもしれない、もうひとつの可能性――なアナザーライダー怪人までもが登場して、再生怪人軍団(アナザーライダー怪人軍団)をも率いるダントツの強敵として、ソウゴ少年に揺さぶりをかけてくる。
 アナザージオウ! たしかに歴代平成ライダーには対応するアナザーライダー怪人が存在するというのなら、アナザージオウも存在しないとオカシい。
 この怪人に変身する人間のその正体は、10年前に西暦2000年生まれの子供たちを集めた中型バスが、トンネル内にて激突して炎上した事故で両親を失っても生き残った唯二でもある、加古川飛流少年! 彼は事故直前にメインヒロイン・ツクヨミ嬢がバス内に乱入してきて、「ソウゴ!」と呼びかけながら銃撃してきたことの記憶を持っており、発端でもあるジオウことソウゴ少年を恨んでみせる資格もある、ジオウの心的ネガではないけれども、物的ネガたりうるオルタナティブな存在なのである。


 真相を確かめようと10年前の西暦2009年に向かった2号ライダー・ゲイツ青年は、そこでまた別行動として過去へと向かったツクヨミ嬢がまだ8~9歳であるソウゴ少年に銃口を向けて発砲までする光景を目撃してしまう。続いてトンネル内にて激突・炎上するバスの姿!
 自分が本来の若き仮面ライダージオウの打倒・抹殺という目的を忘れ去ったとはいわなくとも、彼に情が移り改悛するまでの猶予を与えてしまった自身の甘さ、禍福はあざなえる縄のごとしで、ツクヨミ嬢の手を汚させて子供殺しの大罪を犯させてしまったパラドックスに恐れおののき、後悔・悲嘆の塗にくれるゲイツ青年。なかなかにイジワルな展開でもある。
 しかして本作は、やはりイイ意味での子供番組。ツクヨミ嬢はソウゴ少年に銃口を向けたのではなく、敵の攻撃から守ったのであって、ツクヨミ嬢も死なずにバスの運転手に化けていた2009年に活躍していた仮面ライダーディケイドこと門矢士に助けられていたのであったとする(笑)――厳密には2009年の彼ではなく2019年の彼なのであろうが――。


 これら一連の過程で、ゲイツ青年がソウゴ少年を歴史改変のために抹殺しようとするも、非情に徹し切れずに悶々とした果てに、最終的にはソウゴ少年と和解するに至るのがミエミエな本作ではあったにしても――悪口じゃないですヨ――、意表外にもまだまだシリーズ半ばであるのに、この両者の関係は決着を見てしまう!
 子供番組である以上、戦隊シリーズほどではナイけれど、我が平成ライダーシリーズもチョイ悪の役でも真性にワルそうで怖そうな、幼児がドン引きしてしまうような雰囲気の役者さんを配することはあまりナイ。
 よって、主人公を抹殺することが使命であるキャラだとはいっても、おやっさんが営む時計屋で同居生活を送る、今では懐かしで昭和の時代には隆盛を極めるも現在では滅びた「ホームドラマ」――当時はお高くとまったスカした連中などから「飯食いドラマ」と呼ばれて揶揄されていた(笑)――のようなテイストも付与されてきたワケだ。


 しかし、何度かの本来の使命の再確認を経て、この第2クールでは、ゲイツ青年&ツクヨミ嬢が時計屋からもついに引き払って、いよいよ両者間での闘争が深刻となったサマが描かれた果てに、戦闘のさなかでソウゴ少年の奮闘をついに認めて、というか内心の本心が土壇場で迸(ほとばし)って、


「コイツは誰よりもやさしく、誰よりも頼りになる!  それにコイツはオレの友だちだ!!」


 と叫ばせて、再生怪人軍団との大乱戦ともなるサマは、ベタでも感動的であった。


 もちろんコレはソウゴ少年&ゲイツ青年との間での双方向なモノでもある。
 コレに先だって、ソウゴ少年が両親を喪った10年前のバス事故の件も含めて、少年を引き取った叔父こと時計屋のおやっさんの回想シーンや、彼のことを配慮して立ち入ったり叱ったことがなかったことを悔いてもいるという心情吐露も描くことで、叔父さんにもドラマ的な華を持たせていた――まぁ大人しそうなソウゴ少年はワルさをするような子供だったとはとても思えないので、叱る必要がある事態はとても少なかったろうけど、ガチンコで感情をぶつけあったあとで遠慮を少なくするような体験には欠如していたという意味であろうネ――。


 それと同時に、彼が友人を自宅に連れてきたことがなかった事実も明かされて、本作にも2010年代には内々ではカミングアウトしてもイイことになったことにより勃興した(ひとり)ボッチアニメの要素も導入したかのような描写もなされている。それらも受けての、先の感動的なセリフでもあったのだ。
――もっと細かく腑分けして云うならば、本作序盤での高校生活描写も観るに、彼はそこまでは弱々しくはないので、クラスの中では完全に侮られたり浮ききってしまっていたのではなくって、敬して遠ざけられる程度のポジションであったとは解釈したいところだ――


 コレらに加えて、ゲイツ青年&ツクヨミ嬢との同居生活の解消を、叔父さんの進言で「淋しい」とハッキリ感情を発露するシーンも含めた一連の総決算として、ソウゴ少年&ゲイツ青年の対立ドラマも一応の決着をここに見ることとなる。


並行世界の2人のウォズ。3号ライダー・仮面ライダーウォズへと変身!


 第2クールを通じて描かれた、ソウゴ少年・ゲイツ青年・ツクヨミ嬢・白ウォズこと別の可能性の未来世界から来たもうひとりのウォズ青年らの離合集散・ブラウン運動の連発。
 それとも並行して描かれる、ソウゴ少年・レジスタンス・タイムジャッカー3勢力の思惑を阻止して、オーマジオウが君臨する2068年へと至る「正しい歴史」を守るための役回りを務めるハズの黒ウォズこと本来(?)のウォズ青年にも変化が訪れる。
 彼もこの一連で心変わりをしていき、ついには新たな可能性の時間軸世界も見てみたい! と願ったことで、ソウゴ少年・ゲイツ青年らとも手を結んで、ついには白ウォズが変身していた本作における3号ライダー・仮面ライダーウォズの変身ベルトも奪って、彼が変身を遂げるのだ!


 その半面、ゲイツ青年がソウゴ少年の抹殺に成功して誕生した新たなる時間軸の未来から当初は到来したと云っていたのに、次第にそのへんは虚言かも? と思わせて最期(さいご)にはウヤムヤになって敗退もしてしまった白ウォズ青年の描き込みがややウスくなることで分も悪くなってしまい、そのへんは正義や価値観の多様性を謳ってきた平成ライダーシリーズらしくはなくってモッタイないとも思うものの、尺の都合のバランス的にもあまりに煩雑に過ぎてしまうので、仕方がナイといったところか?


 個人的にはゲイツ青年が勝利してウォズ青年が白ウォズとして生誕した未来も消滅したワケでは決してなく、白ウォズがいた未来の歴史にはつながりようがナイ、分岐した別の歴史へと『ジオウ』の世界が突入をはじめたことで、2022年の仮面ライダーシノビ・2040年の仮面ライダークイズ・多分2068年(?)の白ウォズ・2121年の仮面ライダーキカイが存在する時間線と、『ジオウ』2019年4月中旬以降の時間線とは交通ができなくなってしまったので、白ウォズも『ジオウ』4月中旬以降の世界からはその存在が排除されてしまったのだと解釈したい。
 しかし、分岐点越しの2段飛びでの時間跳躍がテクノロジー的に可能になったとかのSF的な言い訳も付けて、シノビやクイズにキカイや白ウォズの再登場も切に望みたい(笑)。


仮面ライダー剣』『仮面ライダーアギト』。歴史改変ではない後日談!


 アナザージオウとの4話に渡る闘争で、『ジオウ』シリーズ前半のクライマックスも終わって、しばらく過去の平成ライダーたちをゲストに迎える通常編がつづくことになる。
 しかし、ナンとココでもビックリ! タイムジャッカーが過去の時代へと飛んで、アナザーライダー怪人を登場させて正規の平成ライダーの存在&歴史を消滅させていたそれまでの展開とは異なるのだ。
 先の『龍騎』編とも同様に2019年の現在が舞台となって、そこでアナザーライダー怪人を誕生させるので、『仮面ライダー剣ブレイド)』(04年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20041113/p1)の歴史と『仮面ライダーアギト』(01年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20011108/p1)の歴史はなかったことにはならなくなるのだ。よって、『剣』や『アギト』のメンツたちも記憶を失ってはおらず、正編での事件も史実となるので、ほぼ正統な後日談が描かれることになる!
――もちろんTV正編と比すれば、細部に矛盾はあるのだろうけど、それであっても、『ジオウ』世界の過去の平成ライダーたちはTV正編と同じような歴史をたどったパラレルワールドだと捉えれば無問題だし、TV正編最終回の後日談のシミュレーションともなるであろう――


 2019年の現在に、仮面ライダーブレイドの戦友にして宿敵でもあった仮面ライダーカリスこと相川始青年の影をいまだに追いつづける、レギュラー小学生少女であった天音(あまね)ちゃんが、15年の歳月を経て25歳の成人女性として、当時の子役が再演するかたちにて再登場!
 いまだに一途に想いつづけているだなんて何という健気さ! 世の平均以上のルックスの放っておいてもモテる女性は、需要と供給の法則で選び放題の買い手市場となっていて、男性と付き合っていても、運命のヒトだ! ではなく、もっといいヒトがいるかも? もっともっといいヒトがいるかも? と渡り歩く、一途さとは正反対な輩ばかりだというのに(爆)。


 しかして、彼女はその未練を利用されてか、アナザーブレイド怪人と化してしまう! 彼女の異変を察知して、相川始はついに長年の封印を破って仮面ライダーカリスへと変身!
 相川始。実は彼の正体はヒトではなく、トランプのルーツともなり、その各々のカードに該当する53種の生物種の祖が定期的にバトルロイヤルしてその都度、地球上の万物の霊長を決めるという生物の歴史の中で――『剣』の世界観は進化論に反したそーいうモノになっているのです(笑)――、トランプのジョーカーに該当する存在であって、イレギュラーな不死存在がその正体であったことがシリーズ終盤にて明かされた。
 そして、バトルロイヤルの決着が付いてしまうと、SF映画『2001年宇宙の旅』(68年)に出てきたナゾの巨大石板・モノリスみたいな神のごとき存在が降臨してきて、それまでの優越生物種(現在は人類)が支配してきた世界は終末を迎えてしまうことも判明したため、終末を回避するためにも最終勝者を作らず、「スペードのエース」に該当する仮面ライダーブレイドも人為的に第2の「ジョーカー」と化すことで不死となり、「ハートのエース」であり元々「ジョーカー」でもあった仮面ライダーカリスと永遠に拮抗・均衡、親友になりながらも互いに近付かないとすることで、ヒトであることをやめて人間社会からも去っていくことで、終末回避と平和を同時に達成した哀しき自己犠牲で幕を閉じた作品でもあった。


 その危うい均衡が15年後の今、ついに破られたのだ! という同作を知る特撮マニアにとっては、ナンとも劇的な状況が訪れる。禁忌を破ってしまった仮面ライダーカリスの前には、剣崎一真(けんざき・かずま)こと仮面ライダーブレイドも当然駆けつけて、両者の激闘がはじまる!
 そして、天空が割れて、ナゾの物体が降臨し……といったところで、コレが本作序盤から散々に云われてきた「オーマの日」でもあり、4月中旬の夜間に南中する獅子座のα星(該当星座中で最も明るい星)ことレグルスの輝きが強まるどーこーと云っていたあたりともウマく結びつけられていたら良かったのだけれども、そのへんはやや不首尾に終わっているようで(汗)、その代わりに(?)仮面ライダージオウⅡにつづけて、仮面ライダージオウ仮面ライダーゲイツ仮面ライダーウォズの3人ライダーが奇形的に合体した姿、仮面ライダージオウ・トリニティが爆誕する!


 最後にブレイドとカリスのパワーがジオウのウォッチに納められることで、ブレイド剣崎のクチから垂れていた血も緑から赤へと変わって、彼が不死のジョーカー存在から人間へと戻ったことも示唆される、まさかのオチまで迎えてしまい……。イイのだろうか?(笑) いや、15年後のハッピーエンドでよしとしよう!――『剣』世界の数百年後を舞台とした『小説 仮面ライダーブレイド』(13年・ISBN:4063148556)の立場は?(笑~もちろんいくつにも分岐したパラレルワールドマルチバースとして全肯定をいたします!)――


 すでにTV正編でアナザーアギトなる存在が登場していた『仮面ライダーアギト』におけるアナザーライダー怪人はドーなるのか!? アナザー・アナザーアギトなのか?(笑) などと論争の的にもなっていた『ジオウ』「アギト」編も面白かった。近年でもネット配信『仮面戦隊ゴライダー』(17年)でも再登場したばかりで、往時の着ぐるみも残っていたアナザーアギトが、すでにTV正編では死した天才外科医・木野さんの変身ではない別の存在として、アナザーアギトの名前のままにて再登場!
 それに対して、TV正編ではメインヒロインでもあった真魚(マナ)ちゃんも勤務する、TV最終回にて開店したレストラン・アギト(笑)を経営するアギトこと津上翔一本人も、実は自分の本名は沢木哲也であり、かつては記憶喪失であったことまでくわしく語って、同じくレジスタンス活動以前の過去の記憶がないことが判明したツクヨミ嬢を励ますという、ドラマ的にも実にオイシい年長者としての役回りも務める!
 そして、最後には仮面ライダーアギトにも再変身して、そこに流れ出すのは往時も戦闘シーンになると流れた、あの挿入歌! ロートルオタクにとっては、気分はすっかり18年前の『仮面ライダーアギト』だ!


 てなワケで、つづく『仮面ライダー響鬼(ヒビキ)』(05年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20070106/p1)編以降も現在を舞台とすることで、『ウルトラマンメビウス』(06年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20070506/p1)後半や『海賊戦隊ゴーカイジャー』(11年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20111107/p1)的な先輩ヒーロー後日談連発の様相も呈しているけど、紙幅の都合でそのあたりは機会を改めて語りたい。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2019年GW号』(19年4月29日発行)所収『仮面ライダージオウ』前半合評3より抜粋。~合評3以外は後日、当該記事にひっそりと追加UPする予定・汗)



『假面特攻隊2019年GW号』「仮面ライダージオウ」前半合評関係記事の縮小コピー収録一覧
・スポーツ報知 2018年12月23日(日) 仮面ライダージオウ×ビルド映画初共演(初日舞台挨拶)
スポーツニッポン 2018年12月23日(日) 仮面ライダー20作記念映画 奥野「いつの時代もここにいます」(初日舞台挨拶)
・デイリースポーツ 2018年12月23日(日) 平成ライダー銀幕に大集結(初日舞台挨拶)
・日刊スポーツ 2018年12月23日(日) 仮面ライダー10年ぶりに出演「僕の原点」佐藤健
徳島新聞 2019年1月6日(日) 犬飼貴丈さん(徳島出身)が初写真集 古里で撮影 夢かなう
スポーツニッポン 2019年4月23日(火) 夫に“変身”賀集利樹結婚(『仮面ライダーアギト』主演)
・スポーツ報知 2019年4月23日(火) 「仮面ライダーアギト賀集利樹結婚
日刊ゲンダイ 2019年4月4日(木) 愉快な“病人”たち 俳優 村上弘明さん62歳 大腸がん ステージゼロだから大丈夫と言われ… 「それなら手術しないでよ」って内心叫んでいました(『仮面ライダー(新)』(通称・スカイライダー)主演)
中日新聞 2018年12月6日(木) 東映、特撮番組プロデューサーの採用募集 人気背景に初の試み
・デイリースポーツ 2019年1月26日(土) 犬飼貴丈「富岡西パワー」 上田まりえ「とんがれ米東」 センバツ出場校決定・芸能人卒業生も歓喜選抜高校野球出場校OB&OG)


[関連記事]

仮面ライダージオウ序盤評 ~時間・歴史・時計。モチーフの徹底!

  https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190126/p1

仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER ~並行世界・時間跳躍・現実と虚構を重ねるメタフィクション、全部乗せ!

  https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190128/p1


[関連記事] ~平成ライダーシリーズ最終回・総括

 (平成ライダー各作品の「終了評」の末尾に、関東・中部・関西の平均視聴率を加筆!)

仮面ライダークウガ』最終回・総括 ~終了賛否合評

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001111/p1

仮面ライダーアギト』最終回・総括 ~終了評 ―俺の為に、アギトの為に、人間の為に―

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011108/p1

仮面ライダー龍騎』最終回 ~終了賛否合評1

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021108/p1

仮面ライダー龍騎』総論! ~終了賛否合評2 ―『龍騎』総括―

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021109/p1

仮面ライダー555ファイズ)』最終回・総括 ~終了評 ―平成ライダーシリーズ私的総括―

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20031108/p1

仮面ライダー剣ブレイド)』最終回・総括 ~終了合評 會川ヒーローは痛みと深みを増して

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20041113/p1

仮面ライダー響鬼(ヒビキ)』最終回・総括 ~後半評 路線変更後の所感

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20070106/p1

仮面ライダーカブト』最終回・総括 ~終了評 終戦の白倉ライダー

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20070211/p1

仮面ライダー電王』 ~後半評 複数時間線・連結切替え!

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20080217/p1

仮面ライダーキバ』最終回・総括 ~その達成度は? 王を消して一緒になろうと言い寄る弱い女の狡猾さ

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090215/p1

仮面ライダービルド』最終回・総括 ~三国志・火星・宇宙・平行宇宙へ拡大する離合集散・二重人格劇!

  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20181030/p1



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