『バトルフィーバーJ』合評 ~自然な渋さ&軽妙さの両立 バトルケニヤ曙四郎!
『太陽戦隊サンバルカン』賛否合評 ~初期戦隊・最高傑作か!? バルイーグル飛羽高之!
拙ブログ・トップページ(最新10記事)
拙ブログ・全記事見出し一覧
スーパー戦隊シリーズ・20世紀 〜全記事見出し一覧
スーパー戦隊シリーズ 〜全記事見出し一覧
絶賛公開中の映画『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン』(12年)に、ギャバンならぬ『電子戦隊デンジマン』(80年)のデンジブルー・青梅大五郎(おうめ・だいごろう)こと大葉健二が登場記念! とカコつけて、『電子戦隊デンジマン』合評を発掘UP!
『電子戦隊デンジマン』合評
『デンジマン』のおはなし
(文・上尾五郎)
(1993年上半期執筆)
デンジマンはカッコいいのだ。国会で青島幸男がそう決めたのだ。
前作の『バトルフィーバーJ』(79年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20120130/p1)は、マンガ家の板橋しゅうほうによるアメコミ調のヒーローデザインや、マジカルスペースオーケストラと称する謎の楽団が奏(かな)でる宙明(ちゅうめい)音楽にしてはややソウルフルなBGM等の要素によって、かなりエキセントリックなカッコよさを持つ。
対するにデンジマンは、色分けとゴーグルでシンプルにまとめられたデザインに、往年のあんだんて演奏によるおなじみの宙明節(ちゅうめい・ぶし)がストレートにキマった王道を行くカッコよさなのだ。
バトルフィーバーは画然たる変身シーンがなく、多少メリハリに欠けた。
デンジマンはデンジリングなる指輪に収納された強化服を
「デンジスパーク!」
のかけ声とともに、思念を集中させることによって装着するという明確な変身イメージを打ち出した。
バトルフィーバーはこれといった特殊能力を持たないため、強化服は文字どおりのバトルスーツであり、その描かれ方もまた字義通りの変身ヒーローという程度にとどめられていた。デンジマンは強化服の能力にさらに幅を持たせ、その存在をスーパーヒーローという高みに押し上げたのである。
第1話のナレーションにいわく
「デンジマンは100mを3秒で走ることができる」、 「デンジマンは150mのジャンプ力がある」、「デンジスコープは異次元空間をも見透かすことのできる電子の眼である」。
このナレーションはダテではなく、デンジマンのそのスーパー能力は劇中で縦横無尽にアピールされている。
それは困ったときには強化服というカゼ薬のごとき発想として結実される。壁に阻まれればデンジスパーク(変身)して、デンジスコープで透視し、そこに敵の姿を認めればデンジキックで壁を粉砕して踊りこむという力強い画面を、ヒーローを核として作り出すことに成功しているのである。
デンジマンはカッコいいのだ。元東京都知事の美濃辺さんがそう決めたのだ。
個人的な趣味でいえば、変身前後が相乗的に魅力を高めているバトルフィーバーの方が好きなのだが、僕が子供ならば有事の際には早変わりのデンジマンにより魅かれるのではないかと思う。
♪ 指輪が光ればあらあら不思議 人のできない事ばかり
というのは石森章太郎原作の実写TVシリーズ『好き! すき!! 魔女先生』(71年)の主題歌の一節だが、デンジマンというのはまさにそういう感じだ。例えば自殺しようとしてビルから飛び降りた少女を救うため、あるいは暴走してきた車をくい止めるため、またあるときは頭部のデンジメカに組み込まれた記憶ビデオを投写するために変身するのである。
さらにまた変身後のあのカッコで、小学校の教室に乱入するわ、敵を待ち伏せるために花も恥じらう女子中学生のベッドにもぐりこむわで、デンジマンによるご町内の騒がせ方はチリ紙交換の比ではないのだ。こうした「日常の中の非日常」を、何のケレンもなくアッサリ描いているところがタダゴトではない。
例の映画『ロボコップ』(87年)なんてのはいわば「非日常の中の非日常」であり、それをもっともらしいストーリー展開と金のかかったSFX(特撮)で見せているわけだ。が、我らが東映ヒーローものの場合は、いじましいほどセコくてご都合主義だらけの展開と、アラの目立つチャチな特撮を補ってあまりあるセンスオブワンダーが、作品を支えているのである。
『ロボコップ』公開時にこの両者を比較して、東映ヒーローものの表層の欠点のみをあげつらい、だから日本のお子様番組は……という論陣を張るヒトビトが特撮雑誌「宇宙船」の読者欄などで散見されてワタクシは憤(いきどお)っていたのだ。
前述の欠点は確かにまごうかたなき欠点であり、改善されるべき点である。しかし東映ヒーローものの魅力の本質とはそんなところにあるのではなく、生活臭ぷんぷんたる四畳半でいきなりデンジマンとベーダー怪物が格闘を始めてしまうところにあるのだ。
それは僕にしてみれば、リドリー・スコット監督がSF映画『ブレードランナー』(82年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20171110/p1)で見せたうす汚い未来都市のイメージと幹(みき)を同じくする演出だと思えるのである。身近な風景を少し視点を変えて照射すると、「ア〜ラ不思議」といったセンスオブワンダーを提示しているという点において。
で、うす汚いといえば、変身前の電子戦隊の五人もうす汚なくてうさんくさいのだ。彼らが連なって街を歩いていると異様な雰囲気を放つ。『地球戦隊ファイブマン』(90年)や『鳥人戦隊ジェットマン』(91年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20110905/p1)の五人ならば、キャンパスを歩いていれば全員大学生で通る。が、電子戦隊はアレはもう誰がどう見てもただ者ではない。
あの五人は普段、アスレチッククラブなるスポーツジムの控え室のごとき場所にタムロしている。そこでもめいめいが、新聞を読んでいたり、アンパンを食べていたり、料理をしていたり、ギターをつまびいていたり、テニスラケットをもて遊んでいたりで、大の大人が昼日中から不健康この上ないのだ。
コレがヨロシイ。現実から浮き上がったこのアンニュイ(倦怠)なムードは怪しいカッコよさを醸し出している。漫画家・水木しげるのいわゆる「オトナのミリキ(魅力)」というヤツですわ。
そして彼らの個々の係わり方。例えばこんなシーンがある。
ベーダー怪物が潜んでいるとおぼしき団地を徹夜で警戒する電子戦隊。何事もなく夜が明け、デンジレッド赤城一平(あかぎ・いっぺい)とデンジブルー青梅大五郎(おうめ・だいごろう)は疲れた顔を見交わす。
青梅はふところから大好物のアンパンを取り出し、ふと赤城の方に差し出す。赤城は苦笑して首を横にふる。何気ない描写だが、ふたりの性格を表現していて印象深いのだ。
何も『ジェットマン』のように、金持ちのお嬢様であるとか朴訥(ぼくとつ)な農民であるとかいう極端な設定をでっちあげずとも、こうした細かい描写の積み重ねによってもキャラクターの輪郭を浮き彫りにしていくことができると思うのである。
いみじくも『假特隊』前号のイラストカットにおいて九鬼亮一(現・天真楼亮一)氏が、
「『ジェットマン』は特撮の皮をかぶったアニメである」
と指摘しているが、アレはまさにキャラクターの魅力が設定や脚本の魅力でありアニメに近い。
『デンジマン』および初期の戦隊シリーズは、キャラクターの魅力がまず、俳優や演出の魅力なのである。実写ドラマの方法論としてはやはり後者に分(ぶ)があると思う。
そのうす汚い電子戦隊に対するのが、これまたうす汚いベーダー一族である。美醜の観念が我々と逆転しているベーダーの統師ヘドリアン女王は美しいものを嫌い、醜いものを愛(め)でる。その忠臣ヘドラー将軍をはじめ、女スパイのミラー、ケラー、突撃隊長ベーダー怪物、戦闘員ダストラーといった面々は女王陛下のおん為、全宇宙を醜く彩(いろど)るべく、日々これ努めているのだ。
彼らの結束はかたく、臣下の忠誠に対しヘドリアン女王は寵愛(ちょうあい)をもって応える。女王の愛情は劣兵たるベーダー怪物にも注がれ、デンジマンとの戦いで戦死をとげた彼らの首をいつくしみながら、
「痛かったであろうムササビラー! 苦しかったであろうシャボンラー!」
と我がことのように呻吟(しんぎん)するのである。
あまたある悪の組織の中で、かほどに個性を打ち出した例は稀(まれ)である。殊(こと)に恬然(かつぜん)としたヘドリアン女王の描写などは、ベーダーが次々と繰り出す東映お得意の珍妙な悪だくみを作品世界と剥離(はくり)させないという快事を現出せしめたのである。
ベーダー怪物もまた、ハンバラーの形態モチーフはハンバーガーであり、ミミラーは耳であり、ケンダマラーはケン玉である。彼らは棒状の武器を持っているのだが、フィルムラーはそれがカチンコであり、デンワラーは受話器であり、ジュクラーは鉛筆であり、もうこれを楽しいといわずして何をかいわんやという楽しさなのだ。
で、僕がこのベーダーで最も気に入っているのは、先にも言った彼らの「結束」なのである。それは作品終盤、宇宙からやってきたバンリキ魔王が子分の怪物バンリキモンスを従えてベーダー一族を支配してから、より顕在化(けんざいか)する。
魔王はベーダー一族に侮慢(ぶまん)の限りを尽くし、耐えかねたヘドラー将軍は誇りのため、デンジマンと差しちがえるべく出撃しようとする。
女王はこれを
「犬死には許しません」
と言って思いとどまらせようとするのだが、そのときの目の表情のなんと慈愛に満ちあふれていることよ。
だが、結局ヘドラー将軍は電子戦隊の巨大ロボ・ダイデンジンと戦って散った。
その後、バンリキモンスとダイデンジンの戦いをモニターで見ていたヘドリアン女王は、あろうことかダイデンジンに声援を送る。呪詛(じゅそ)をこめて
「ヘドラー将軍を死に追いやったのは魔王じゃあ! 魔王とモンスじゃあ!」
と叫ぶのである。
ミラーとケラーもまた魔王の攻撃から女王を守るべく絶命する。その度ごとに女王は彼女らの亡骸にとりすがり
「ミラぁ」「ケラぁ」
と……。
巷間(こうかん)、このベーダー城の異変をもって、戦隊悪役内紛劇の嚆矢(こうし)とするという定説がまかり通っているが、ワタクシは異論を差しはさみたい。
ベーダー一族の結びつきは緊密であり、内紛などはしていない(この際サッカラーのことは大目に見てください。勲章がほしかったのですよ奴は)。
ベーダーはバンリキ魔王という闖入者(ちんにゅうしゃ)によって、壊滅させられたのである。
これは侵略である。(まあベーダーにしろ魔王にしろ、デンジマンから見れば同じ悪役にちがいないし、彼らも一時は結託していたのだから内紛といえなくもないけど、ベーダー一族ファンクラブの会長であるワタクシは敢えて提言したかったのだ)
さりながら、作品終盤こそそうした緊迫感がみなぎっているものの、日頃のベーダーは誠に明朗に息づいており、しかし道化に落ちず、そして相対するデンジマンはあくまでもカッコいい。
このヒーローのカッコよさについてだが、心なしか『ロボット刑事』(73年)から東映ヒーローものの脚本を書き始めた上原正三の描くヒーローたちには、常に事件を捜査するという姿勢があるような気がする。そうして主体的に事件と関わり、ことあるごとに変身してヒーローの能力を印象づけるといった、現在のそれが及ぶべくもないカッコいい脚本を書いていたと思うのである。戦隊シリーズという土壌は、その複数のヒーローによる広範な捜査と強化服によるお手軽変身を描くのに恰好の舞台だったのだ。
さらに、シャレたクスグリをまじえながらアップテンポのカッティングで、そうしたヒーロー像を演出した竹本弘一や広田茂穂ら監督の手腕、ヘドリアン女王調に「痛快じゃあ」としか形容できない渡辺宙明の音楽等が融和して、初期の戦隊シリーズのあの不思議にリアルでカッコいいムードを醸成していたのではないかと思う。
そのムードの中で、ヒーローたるデンジマン、素顔の電子戦隊、悪役ベーダー一族が活写されていた『電子戦隊デンジマン』という作品はやはりカッコいいのだ。
『電子戦隊デンジマン』寸評
(文・坂井由人)
(1992年初夏執筆)
世は折しも『エイリアン』(79年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20171104/p1)他SFXショッカー映画ブーム。何を思ったか東映の吉川進プロデューサー、TVでも『エイリアン』的ホラーの特撮番組を造ります、とのたもうた。(この発言は当時の『週刊TVガイド』誌に掲載。このヒトの洋画パクリ路線は昨日今日になって始まったワケじゃないのだ)
いかなるものけむ!? と思って予定の時間帯を見ると、今やっている『バトルフィーバーJ』(79年)の後枠……。出来たものは何のコトはない、『秘密戦隊ゴレンジャー』(75年)パート4である。
企画イメージのスケールダウンに失望したが、しかし出来たものは戦隊シリーズの面白さをここにて定着させる大快作! アタシは嬉しくなった。『バトル』も嫌いじゃないけど、キャラが全体渋好みで地味だったのに、こちらは文芸設定が良い意味マンガ的でキャラが立っている。
デンジ星人の血を引く因子により選ばれた市井(しせい)の青年達が、闘いという宿命を受け入れてしまうという作劇思想に問題あるかないかという点では議論の別れるところだ。だが、少なくともこの作品の場合は、第一話のプロローグで原始時代の地球に飛来する岩山状にカモフラージュされたデンジランドの映像などが伝奇ロマンとしての世界観を造り、筆者はこの大設定に十分納得してしまった。つづく山腹に大きく開くデンジランドのゲートに向けて、初めて五人が歩んでいく場面は戦隊シリーズ屈指の名場面である。
組織体系もそれまでの人間タイプ司令官と異なるデンジ犬・アイシーのキャラクターが出色だし、個々のメンバーも緑川達也、桃井あきら、青梅大五郎(おうめ・だいごろう)の三人を頂点に前期戦隊シリーズでは実は一番このチーム布陣が個人的には好きなのである。
加えてベーダー怪物のデザインの暴走ぶりと、巨大ロボ・ダイデンジンとのアクション描写の演出の爆発はシリーズ中盤で早くも最高レベルに達してしまう。その後もショー的アクションとしてのテンションが落ちないのは立派である。
こうなると一部特撮ファンによる、必殺技・デンジブーメランを受けて、巨大化したベーダー怪物が毎回出現するのが不自然だという批判自体が意味をなさなくなる。子供は、そして自分(達)は理由づけのプロセスを飛び越してアクションを楽しんでいるのだから。
巨大化したベーダー怪物・サキソフォンラーが攻撃をかけると、ダイデンジンの目前の空中に五線譜が出現し音符のメロディをなぞりつつ爆発していく。僕らはこのバカバカしくも豪快なイメージのダイナミズムに心底狂喜したのだ。
またこの作品は、37話「蛮力バンリキ魔王」からバンリキ魔王編というシリーズ・イン・シリーズの構成を初めてクライマックスの作劇に用いたという点でも特記すべきだろう。そしてその筋立て自体も、それまでに至る十数年間の黄金期東映ヒーロー作品諸作――主に東映の平山亨(ひらやま・とおる)プロデューサー作品――にて伊上勝(いがみ・まさる)や上原正三(うえはら・しょうぞう)らが脈々と描いて来た持ち技、悪役組織側の幹部抗争劇の総決算というべきものだった。
バンリキ魔王謀叛(むほん)の拠点、ベーダー城に留まらず、文字通り様々な時空を舞台に展開される悪役ベーダー一族内紛劇の妙味(特にクライマックスの最終4部作である48話「バンリキ魔王反乱」・49話「ベーダー城大異変」・50話「将軍は二度死す」・51話(最終回)「ひびけ希望の鐘よ」)。そのインパクトは現在でもファンの胸を熱くする。
巨大化、等身大化を繰り広げながら戦うレギュラーの敵幹部ヘドラー将軍とバンリキ魔王の描写も凄いが、裏切って魔王側についたベーダー怪物サッカラーを倒すべく、軟禁状態のヘドリアン女王達が隙(すき)を見て二体のベーダー怪物カラクリラーとケンダマラーを誕生させ、対抗するあたりの映像シークエンスには当時絶句した。電子戦隊のヒーローロボット・ダイデンジン不在のままに合成画面で三体のベーダー怪物が巨大化する映像のショック。
作品『デンジマン』はそれまで一年の時間を費やして定着させた自身の映画的パターン主義を自らこの瞬間叩きつぶしたのである。ドラマ進行上の内的な必然性に於(お)いて。とはいえ、それは何とまた贅沢(ぜいたく)なクライマックスの叙述ではなかったか。
……だがそして、この時点である意味『戦隊シリーズ』は早くも大綱(たいこう)として完成を呈し、映画としての袋小路(ふくろこうじ)に陥(おちい)ってしまったのである。先述の通り、パターン主義の浸透とその自己撤回による衝撃という、映像叙述の最終兵器を使ってしまったが故に。
『電子戦隊デンジマン』短評
(文・いちせたか)
(1992年上半期執筆)
折からの『未知との遭遇』『スター・ウォーズ』(共に77年・78年日本公開)大ヒットにはじまるSFブームに乗って作られたため、当初から宇宙的・科学的なイメージを前面に押し出している。これらのセンスはのちに戦隊シリーズ『超電子バイオマン』(84年)から『電撃戦隊チェンジマン』(85年)、『超新星フラッシュマン』(86年)と3年続いた宇宙規模の物語によってさらに高みへと達している。
元祖『秘密戦隊ゴレンジャー』(75年)からの基本的なストーリーパターンに、前作『バトルフィーバーJ』(79年)からのロボットもののセンスを融合させ、のちの典範となるひとつのストーリーパターンがほぼ完全に出来上がっている。
私設戦隊として、あくまで個々の正義感のみを基礎にした使命感や、それによる青春ドラマ的な5人の結び付き、一気に多勢となった子供レギュラーとの交流など、いろいろな面で新機軸を打ち出し、またそのほとんどが一応の成功を収めた点は高く評価されていい。
デンジマンは、それまでの戦隊と異なりSF的な異星人文明の産物であるため、アクションから武器などにそれを印象づける工夫がされている。ジャンプやキックにいちいち名が付けられるようになったのも本作からで、それはアクションフィールドに新たな感覚を持ち込み、『戦隊』のイメージをより洗練されたものにしている。
敵のベーダー一族も、それまでの秘密結社的なものから脱却し、はるかにスケールの大きな敵として描かれ、これ以後、『戦隊』の敵組織のニュアンスとしては「世界征服」から「地球征服」へと変わっていく。ベーダー一族の首領・ヘドリアン女王は、特に理想も持たない点では他のボスに比べて少々劣るが、そのわがままな独裁者としての個性をこれ以上の適役はないと言える曽我町子氏がユーモアたっぷりに演じ、魅力的な人物に作りあげている。
37話「蛮力 バンリキ魔王」から登場するバンリキ魔王は、以後ほとんどのシリーズに登場する客分的第三勢力の走りとなった。その強さと後半のドラマの盛り上がりによって強烈な印象を残している。初登場の37話でのデンジマンが搭乗する巨大ロボ・ダイデンジンとの戦いはもちろんだが、48話「バンリキ魔王反乱」でのベーダー幹部・ヘドラー将軍との対決は、場所を選ばぬ上に巨大化までする暴走ぶりで名シーン中の名シーンと言えよう。
終章は、バンリキ魔王の反乱によりドラマの主軸が一気にベーダー側へと移る。それはそれでかまわないのだが、女幹部ミラーやケラーまでバンリキ魔王に殺されてしまい、肝心のデンジマンがすっかりカヤの外に置かれてしまっているのは惜しい。
バンリキ魔王を倒せたのもデンジマン側にしてみればタナボタ式で、カタルシスが感じられない点は難であり、ドラマチックな展開が続くわりに、どこか勢いがないのもそのせいだろう。極端に言えば、ベーダーの剣を手に女王と涙の別れを交わしデンジマンとの決戦に挑むヘドラー将軍のカッコ良さが際立ちすぎてあとの展開が附録と化した感もある。ラストのアイシー杯も唐突すぎて理解に苦しむ部分がある。
これほどドラマチックに終章を盛り上げたのは初めてであり、それだけに気負いすぎて無理が生じたのも事実だが、ともあれ世界観の広がりと、『戦隊』の新しい方向性を示したことは高く評価すべきある。
今もなお多くの面で戦隊シリーズの範となっている作品である。
ビデオ評『電子戦隊デンジマン』8巻(VHS・89年・ASIN:B00005N2WZ)
(文・内山和正)
(92年上半期執筆)
この巻は第12話・13話・14話が収録されている。
第12話『危険な子供スパイ』
(脚本:上原正三 監督:竹本弘一)
悪の組織・ベーダー一族は電子戦隊が働くアスレチッククラブの生徒・中川ゆみ子を捕え、コピー人間を作ってデンジピンク=桃井あきらを暗殺しようとする。それに失敗すると今度は子供達のコピー人間をクラブに潜入させて、デンジマンの基地・デンジランドを破壊しようと謀(はか)る……。
怪奇性を強調していた初期話数であるだけに、コピー人間作成の際のバラの花が咲くシーンはかなり気持ち悪い。暗殺を阻止する際のデンジグリーン=緑川達也のハードなムード、敵の盗聴マイクを見つけたあとのデンジレッド=赤城一平(あかぎ・いっぺい)の対応など見どころはあるし、この回から準レギュラー出演する緑川の旧知の婦警・松尾千恵子(人気幼児番組『ママとあそぼう! ピンポンパン!』(66〜82年)の3代目お姉さん(75〜79年)・酒井ゆきえ!)もからませて、攻防をそれなりにまとめてはいる。
が、この回のドラマの核となる人物が設定されていないためか何かノッて見れず、個人的には満足感は得られない。
なお、アスレチッククラブの生徒・中川ゆみ子役は、のちの『大戦隊ゴーグルV(ファイブ)』(82年)でゴーグルファイブを基地のコンピューターでサポートするコンボイ(コンピューター・ボーイズ&ガールズ)の小学生たちの紅一点・あかねを演じる少女子役・杉本華恵であり、この作品でもレギュラーを務めている。
第13話『割れた虹色の風船』
(脚本:江連卓 監督:竹本弘一)
この作品については数年前、子役上がりの女優・長谷川真弓研究の同人誌に書いたことがあるのだが、ビデオ発売前のうろ覚えの記憶しかなかったころなので今回、稿を改めることにした。
現在(92年)も若手女優として地味ながら活動を続けている長谷川真弓さんの小学3年生終期のころの作品である。個人的な意見で恐縮であるが、6年生の時『太陽の子(てだのふあ)』(82年・NHK・「ドラマ人間模様」・灰谷健次郎原作)に主演した際の真弓さんは僕の見た最も美しい女性であった。
この作品はそれに較べれば大分劣るものの、高校生時代に出演した傑作『父の詫び状』(86年・NHK・向田邦子原作)とともに彼女の美しさを印象づけた点では記憶に残る逸品である。
(大人になった彼女の美しさを示したものとしては、近作『失恋白書』(92年・日本テレビ)がお勧め。演技面では女性の怖(こわ)さを力演した時代劇『腕におぼえあり』(92年・NHK)でのゲスト出演が成長を伺わせる。本誌発刊のころ(92年夏)には耳の聞こえないOLに扮した最新作で、中山美穂主演のスペシャルドラマ『アイシテルと描いてみた』(読売テレビ・日本テレビ系)が放送(8月27日放映)されていることだろう)
少女の優しさに打たれ自滅する怪物という設定は、藤井邦夫脚本による東映メタルヒーロー『機動刑事ジバン』(89年)中の佳編、7話「恐怖のハクションおじさん!」を想わせもする。あの作品にも中野美穂(中山や中井と間違わぬように注意)という可愛い子が出ているが、印象度は強いものの意外に出番は少なかった。
それに較べ、この作品は真弓さんの魅力を冒頭からラストまで見せる。ドラマの進展を止めてまで、おじさん(=ベーダー怪物・アドバルラー)と楽しそうに遊ぶ姿を長々と描く部分など、彼女のプロモーションビデオさながらである。3本目のTVドラマ出演であるため、セリフが浮いていたりもするが、演技をしようとしている姿勢は評価できる。
ストーリーは、むかしは感動した覚えがあるが、今観るとドラマ的充足感・引き込み方に欠けているようにも思う。また、ラストでデンジマン達がミカの心を気遣ったり、アドバルラーが彼女のために敗れたことは認めても、アドバルラーに同情しないことが辛(つら)い。
なお、脚本の江連卓(えづれ・たかし)先生と監督の竹本弘一氏は、この番組や前作『バトルフィーバーJ』(79年)の他、『不良少女とよばれて』(84年)・『ヤヌスの鏡』(85年)・『このこ誰の子?』(86年)に至るまでの一連の80年代大映テレビ作品でコンビを組まれている。
第14話『100点塾へおいで』
(脚本:上原正三 監督:平山公夫)
落ちこぼれの源一が100点をとった。それを契機にアスレチッククラブの生徒だった仲良し5人組は100点塾へ通いだす。そこは遊んで100点がとれる塾であった。塾でくれる鉛筆がひとりでに動きだし、答案を書くのがその秘密である。疑問を持ったデンジマンは調査を開始するが……。
子供達の遊びたい本能を利用して愚か者にしようという作戦は今見ると新鮮ではないが、ドラマ的密度が濃いために楽しめる。
『デンジマン』全話を通してはどうであったか忘れてしまったが、この作品と前回の12話を見る限りでは、基本設定的にも本来レギュラーの子供達(=コンボイ)をもっと綿密に描くべきはずであったあの『ゴーグルV』よりも、子供達がドラマに使われているようだ。また、本来が小学校の教師5人である『地球戦隊ファイブマン』(90年)よりも、この回の電子戦隊の方がコーチとしてシッカリ「先生」をやっているように思う。
子役の華恵ちゃんは2年後の『ゴーグルV』のころよりも目がきつくて、12話ではメイクをして怖さを出していたのだが、そうでない今回でもかなりのものだ。
ゲスト怪人・ジュクラーは伸縮自在の怪物で、ぬいぐるみも贅沢(ぜいたく)に子供体型のものがもう1体作られており、なかなかに可愛い。いつもの巨大化した怪物と小さいヒーロー達の合成とは逆に、等身大のデンジマンと超小型化したジュクラーの戦いが見物。
大砲を構えて待ちかまえるダストラー(戦闘員)部隊とデンジバギーの砲術戦や、一度巨大化したジュクラーがデンジタイガー(巨大ロボ・ダイデンジンを格納している巨大母艦)を見て怖れ、等身大サイズに戻って逃げるなど掟破りの戦いも楽しい。
13話への個人的な思い入れを別にすれば、3本の中ではベスト。