(映画『西遊記』公開記念!〜短期集中連載!)
(文・田中雪麻呂)
#8『時の国/〔タイムスリップ!! 過去への旅〕』
「お花を見ていると、心が和みますね。お花ってどうしてこんなに美しいんでしょうか。
あ……木漏れ日だ……。お空って何でこんなに青いんでしょうか。
お師匠さま、この私にもお経を教えて頂けませんか。私も仏の道を歩みとうございます……。」
時を操り、時を自在に行き来できる妖怪・紅孩児(こうがいじ/石井政則)によって、キャラバンの滞在する町の時間が止められてしまう。
三蔵のありがたい御札(おふだ)によって三弟子はそれに関係なく動けるようになるが今度は悟空が急に弱虫の腑抜けになってしまう。紅孩児が過去に溯り、悟空の肝っ玉(きもったま=どんなことにも恐れない気力、胆力)を奪ったのだ。
三蔵は老子から、時を行き来できる神器・キトキトの壷を借り受けると、八戒悟浄にそれを託し、紅孩児を治め、悟空の肝っ玉を取り戻してくるよう命ずる。
二人は悟空が囚われていた花果山、牛魔王の要塞、霊感大王と戦った処刑場、美人三姉妹の温泉宿、連歌と出会った荒寺などを巡り、各事象を第三者的に俯瞰して新たな感慨を受ける。
また同時に、紅孩児との時の流れを軸とした追い駆けっこも白熱。八戒悟浄は紅孩児の裏のウラをかき、悟空の肝っ玉を奪い取るが、今度は紅孩児は弱虫悟空を人質にとり、三蔵との交換を要求する。
一計を案じた悟浄は、過去の暴れ者の悟空を現在に招じ入れ、紅孩児を撃破させる。
妖怪は天上界に連行され、弱虫悟空も元に戻るが、一度大きく乱した歴史の歪みのせいで、普段温厚な三蔵がスパルタ坊主に変わってしまい、デカい声で荒々しく弟子たちを仕切り出す。広大無辺の時間旅行のツケに、三弟子は当分苦しめられそうである……。
アイディア勝利の一本であり、正に労作である。
#1、2、4、5、7の5話分から、未発表シーンが都合15ヶ所以上、本話に鏤(ちりば)められている。
編集したドラマの総集編に付加価値をつけるためにマズルカ形式(シナリオ用語。冒頭とラストが現実シーンで中間が全て回想という形式)で演者が簡単な芝居をするものはあるが、本作のように、予め複数の話に付随させて、それ用にシーンを撮り足しておくという手法は全くコロンブスの卵で面白い。
しかし、ただでさえ一話一話の撮影時間が足りないのに、演者やスタッフは大変だったろうと同情する。
特に妖怪役の石井氏は、各話でほんの数シーンずつを撮るためだけに大半の現場に(しかも妖怪の扮装をして)いたわけで、これでギャランティも一本分だけじゃないだろうな、と余計な心配をしている。
'94年版『西遊記』にも時間を操る妖怪が登場した。
その名は時獏(ときばく/斉藤暁)。過去に溯り、標的の先祖を殺すことで、その者の存在自体を抹消してしまうという必殺技を使うが、妖怪仲間の間では過去に通じる洞穴の“時の穴”が知られていたため、そこを辿ってきた悟空(唐沢寿明)に倒される(笑)。
本話の、過去から本人を連れて来るというオチも、漫画の『ドラえもん』なんかを初めとするタイム・トリップものの定番の結末で完全に肩透かしであるし、妖怪の肝っ玉を抜くという攻撃も余りに泥臭く、ドラマのカラーに合っていないというか、理に適っていない。
理に適ってないといえば、肝を抜かれた悟空の描写がある。
彼がそれによって弱虫になるのはいいにしても、それまでとは打って変わって、他者と敬語で話したり、向学心が急に目覚めるというのは理解に苦しむ。
爆笑問題の漫才だったら、田中が確実に「何で弱虫イコール優等生キャラなんだよ!」と太田にツっこんでいるだろう(笑)。
'94年版の同名作品の#4「三蔵の心臓が食べられちゃう!」にも物語の終盤を丸く治めるために、人間も妖怪も別け隔て無く診るトンデモ医者が登場したり、妖怪は心臓を失っても死なないが、その代わり妖能力が全て失われるというトンデモ設定が付記されたりして、当時のドラマファンの失笑をかったものである。
斬新なアイディアというのは、一般視聴者が持つ常識や感覚の半歩先位でないとすぐにそれらと乖離するのだ。