『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』 ~『せいぜいがんばれ! 魔法少女くるみ』『魔法少女 俺』『魔法少女特殊戦あすか』『魔法少女サイト』『まちカドまぞく』 爛熟・多様化・変化球、看板だけ「魔法少女」でも良作の数々!
『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』 ~『まどマギ』が「特撮」から受けた影響&与えた影響!
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CSアニマックスや、東京MXテレビにて再放送記念! ついでに2012年秋に総集編前後編映画、その後に新作映画が公開記念! とカコつけて……
魔法少女まどか☆マギカ最終回「わたしの、最高の友達」
(文・T.SATO)
(昨2011年4月執筆)
二昔前の『美少女戦士セーラームーン』(92年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20041105/p1)以来、子供・マニア向け双方で連綿とつづく、変身する魔法戦闘少女の戦隊もの。
そのリアル系鬱版、巨大ロボアニメにおける『機動戦士ガンダム』(79年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19990801/p1)や『新世紀エヴァンゲリオン』(95年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20220306/p1)の立ち位置だのと云われてそれも正しいけど、魔法少女同士の抗争もあるのでむしろ平成ライダー、しかも13人の仮面ライダーが個々人の願いを叶えるためにバトルロイヤルする『仮面ライダー龍騎(りゅうき)』(02年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021109/p1)だろ……。
とツッコむつもりが、ニコニコ動画での#10の配信終了後、
「この動画は仮面ライダーオーディンも応援しています(大意)」
という字幕が出されて……。仮面ライダーオーディンとは『仮面ライダー龍騎』に登場する13人目の黒幕ライダーのことで、『龍騎』の最終回では時間を幾度もループさせて歴史をやり直すことで、それぞれがパラレルワールド作品として製作された『仮面ライダー龍騎TVスペシャル』・『劇場版 仮面ライダー龍騎』・『仮面ライダー龍騎』TV正編も、最終的にはつながっていたことが明かされるのだ(汗)。
正規の放映媒体ではないとはいえ、コレはアリ?
半笑いさせられつつ、スタッフ自らがこんな発言をしてしまうと、批評・感想オタによるネタ元暴き・ツッコミ解題芸もやりづらい世の中になったものだなぁ(笑)。
萌え4コマの絵柄で心理劇と人間の生死を描く試み。ツマラなくはなくまぁ面白いけど、狙いが空回りして頭デッカチなトコロも多々あるとも思う。絵柄とのギャップによる上げ底も感じるし、故に過大評価されすぎだとも思う。
抗争を止めんとする善人主人公集団・訳ありサブ・自己中インモラリストのシフト自体はバトルロワイアルものの典型。
ただ、全員欠損家庭でそこに主要キャラクターたちの性格的偏りの一因を求めた『エヴァ』とは異なり、むしろ恵まれた、しかしキャリアウーマンの母とは真逆の、環境のせいではなく気質・体質自体が弱めなオボコい善人少女主人公――SF的な潜在能力のことはさて置いて。
それゆえに少女の純真や無垢が仲間を救い世界を癒すとかではなく(笑)、先に魔法少女となった友の傍らに寄り添ってあげることで、微妙に足手まといになったり相手も少しイラッとしたり、一昔前のSF版「15少年漂流記」モノの『無限のリヴァイアス』(99年)の和泉こずえみたく、そのへんの日常の小さな齟齬や不幸、大抵はドラマのようにはいかずに無力なままで終わる弱者の残念な現実をもっと描いてくれていたならば……。
もちろんコレは当方の被虐嗜好に基づく文脈にすぎないので、ボクの考えた展開と異なるからイヤだ〜と叫んでも仕方がないけれど。
作り手たちの主眼は東浩紀(あづま・ひろき)センセが新書『ゲーム的リアリズムの誕生 ~動物化するポストモダン2』(07年・ISBN:4061498835)などであまた擁護してきたゼロ年代の時間ループものの決定版。その舞台に乗せた美少女たちの悲壮萌えを描く趣向にあったようであるのだから。
本作終盤にて明かされる、真相を明かさずに、前世(?)で恩に着た主人公の女のコを秘かに救わんとしていた一匹狼の黒髪クールな魔法少女姉ちゃんの孤高と決意には当方もつられて落涙。
ただ、時間ループの度にひとり記憶と技量を引き継いで、戦士としてもパワーアップしていくも、あとから思うに同じく時間ループものである『ひぐらしのなく頃に』(2006)みたいには事態は改善していかずに、最終決戦における戦力動員数はループする度に徐々に減っていなくネ?
3周目の最後、ふたりだけで死ねて本望(大意)発言なぞ、いわゆるキミとボクとの究極のセカイ系じゃネ?――しかし、主人公少女によるその断固拒絶も描いてセカイ系批判たりえてもいる!?――
展開都合か、変貌・強化していく黒髪少女との対比か、最弱主人公が前ループでプチ快活な性格なのは不整合じゃネ?
――黒髪クール少女の超魔法が、彼女の無意識下にある主人公少女へのゆがんだ独占欲で変容、主人公少女の性格さえをも転生の度に徐々にスポイルしていた!? などの何でもアリすぎな超ご都合主義のウラ設定がナイことを祈るばかりである(笑)――
そんな小賢しいマニアたちによるウラ読みにも対応した作りにはなっており(?)、当方もその掌(てのひら)の上で勝手に踊る小人の典型ではあるけれども。
『らき☆すた』(07年)・『けいおん!』(09年)などの、葛藤を抹消したいわゆる「空気系」作品が大流行した直後に、一転して鬱な作品が流行るのは不可解だけれども、若いオタクらも見捨てたもんじゃないとも思う。
いや、ラウド(声のデカい)ユーザーが騒ぐとサイレントマジョリティも次はコレだ! と一斉になびいているだけか? 帰属意識が持てる大勢での祝祭空間として。
であれば、膨大な深夜アニメがあるのに、一局集中ばかりが起きて、他は顧(かえり)みられていない理由もよくわかる(嘆息)。
しかも萌え絵の作品でなければ、若いオタ男(批評・感想オタ含む)はそも騒がないしロクに観もしない――良作『デュラララ!!』(10年)・『戦国BASARA(バサラ)』(09年)などはオタ女しか観ていない――。
本作は絵柄の系統が異なれば――美少女アニメ絵や萌え4コマ系の絵柄でなければ――、若いオタ間では話題にもならなかったのでは?
つい当今の作品・ジャンル・マニアの三者の根底にある嗜好の偏りもひっかかり、素直に観られなくもある。特殊な前提ありきでの話題作ではないのかと。
『涼宮ハルヒの憂鬱』(06年)・『らき☆すた』(07年)・『かんなぎ』(08年)の山本寛(やまもと・ゆたか)監督による、同季の2011年冬アニメの新作『フラクタル』(11年)も萌え絵にしとけばよかったのかも?(ウ〜ム) 状況は多様なようで多様でなく、何とかならんのか?
東日本大震災の影響による最終展開の放映延期で、マニア連中の期待値が過剰に高まり、それに応えられずに撃沈する結末を、愛憎ゆえに個人的には祈ってしまった(爆)。
でも、時間跳躍魔法で過去の自分に憑依してやり直せるなら――オープニングのあの絵もそーいう意味か?――、いくらでもパラレルワールドな続編が作れるじゃん……とも予想していたが。
主にコミュニケーション弱者の美少女の苦悶を生け贄(いけにえ)に、同情(実は自己憐憫)することで発電しているオタ男――15年前のテメェこそがその元祖だ! というツッコミは認める(笑)――。劇中での暫定悪である、美少女たちの絶望を「相転移エネルギー」とすることで延命を図っている某QBとは、我々のことであったのか!?(汗)
魔法少女たちの存在・戦い・その生き甲斐を否定はせずに――その人生に必然とされていた悲しい末路だけは否定して――、各話の敵である「魔女」だけを別種の法則にて誕生する「魔獣」に置換して、何十回にもわたる「時間ループ」の末に生じた「全並行世界」の「全因果」を、超過去~超未来にわたって存在する古今東西すべての魔法少女たちの絶望の終着点に救済を与えるために、「魔法少女」⇒「魔女」化の必然という「宇宙の法則」(!)さえをも微改変してみせてしまう最終回!
たしかに極北の展開ではあるけれども、何か「段取り」を見せられたような気もして、心を打つような打たないような……。
そんなにスケールのデカいところに落としてもイイのかよ!? ミニマムな日常次元での中学生美少女キャラたちの小さな懊悩や抱えていた問題群は解決していないだろ!(笑)
個人的にはもっとミクロでも実存的ではある思春期の中学生少女たちの悩みや、やや気弱で不器用な主役少女の性格・気質問題の困難が掘り下げられずに、最後に超マクロな事象がすべてをかっさらっていってしまったことは爽快だったともいえるけど、少々残念でもある。
ただ、中盤での主役チームの青い髪の女のコが、魔法少女となる契約の代償に、自分では「利己」ではなく愛する少年のために無償の「利他」のつもりで願望を一見達成するも、その恋情は成就せずに心に毒をためて壊れていくサマは秀逸であった。個人的には大いに共感もした(笑)。
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後日付記:
当時でもオタク間では話題沸騰となった当作に対して、我ながら逆張り・天邪鬼的にやや構えて穿った態度を取っており、姑息にも他人さまの意見とナンとか差別化を図ろうとしている気配がミエミエである前述の文章ですけど、ホントウのことを云うと、往時もベタベタに大いにハマって鑑賞している(汗)。
ただし、当時の感想は#10が当作のピークで、最終回までに至る残りの2本は#10を超えれらなかった……というモノだった。
しかし、翌2012年秋に公開された、ほとんどTVアニメ版の全12話をノーカットで2週間ずつ上映の前後編映画に仕立て直した『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[後編] 永遠の物語』で、同作後半部分をイッキに観直してみると……。その内容自体に変更はナイのに、TVアニメ版の最終回に該当する一連のシークエンスにスナオに感動させられて滂沱の涙を……(←:我ながらアテにならない感性だナ・汗)。
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』
(2013年10月26日(土)公開)
(文・T.SATO)
(2013年12月脱稿)
(2022年3月8日追加)
白くて可愛らしい小動物ライクな存在・キュゥべえと契約を結んで変身する「魔法少女」となった女子中学生5人が、「魔女」と呼ばれる人外のバケモノと戦いつつ、「魔法少女」同士でバトルロイヤルも繰り広げるTVアニメの続編劇場版。
TV終盤では、ピンク髪のオボコい主役少女を救いたいというツンデレな想いから来る、黒髪ロングのクールなコミュニケーション弱者少女の時間ループ魔法による何十回(?)もの歴史改変の果てに――しかもその都度、救えなかったという(汗)――、膨大な因果エネルギーがその身に積もり積もってしまった主役少女の超パワーが発動!
主役少女は全並行世界の全過去・全未来に存在する膨大な全「魔法少女」たちが最期(さいご)を迎えたときに初めて知る、衝撃的な結末に対して「絶望」に直面する断末魔の瞬間にメタ・事後的に介入して、「歴史修正」(!)としてそれに「救い」と「癒し」と「お迎え」を与える役目を果たす、天地創造の神そのものではないけれど時空を超越した高次なる神近き存在へと昇華する!
その際、凡百の作品であれば、「魔法少女」たちが絶望する瞬間に発する大量の精神エナジーを搾取した某存在を、「階級悪」・「権力悪」・「絶対悪」のような存在としたであろう。しかし、作り手たちが意図したかのは不明だが、この作品はそうはしなかった。
「QB」(キュゥべえ)は人類の価値観とは相容れないとはいえ「階級悪」ではない。自身も生きるためのエナジーを欲する「食物連鎖」「生態系」のごとき一種の広い意味での「システム」の一部にすぎない。アチラを立てればコチラが立たず的に入り組んだ「システム」の救いがたい困難さの描写が、本作の優れて現代的なところでもある。
現実の社会でもこの類の問題を根源的・抜本的な次元で全解決することはムリであろう。
しかし、そこでニヒって悦に入るのではなく、完全なる解決や永遠平和や地上天国やマルクス主義的な共産主義社会(笑)を達成することは不可能だとしても、その都度都度で生じていく問題を永久に「改善」しつづけることを目標とすること自体には意義があるとは思うのだ――「改善」ですらなく、「問題」や「不幸」がひとりだけに、あるいは一方向だけに偏らないようにする「微調整」、単なる「不幸の再分配」、あるいは「不幸の永遠のたらいまわし」に過ぎないやもしれないけれども……。それでも「最悪」ではなく「次悪」に留められるのならばマシだとはいえるだろう――。
主役少女の究極選択は「QB」自体の根絶ではなかった。「QB」自体の根絶ではなく、「魔法少女」が「魔女」化した瞬間に高エナジー(少女が悲嘆・絶望したときの高エネルギー)を発するという、劇中内での自然界の必然的な現象=「宇宙の法則」≒「システム」だけを「微改変」してみせようというアクロバティックな決着!
「根本解決」は不可能でも「微調整」ならば可能ではあり現実的でもある……といったところがミソなのだ。そのへんが現今の人間たちが作った「現代社会」や、残念ながら人間も生物・動物である以上は離脱することが叶わない弱肉強食の食物連鎖・捕食と被捕食の関係でできている「生態系」といったものの「縮図」たりえてもいる。
その上で、根源的な解決はできないまでも、「社会問題」や「環境問題」を少しでも改善していくための「現実的な方策」にも通じる「風刺」たりえていたとも思うのだ。
もうひとつ本作が非凡だと思うのは、敵のバケモノである「魔女」の存在自体は否定したけど、その代わりに「魔法少女」の成れの果てではない「魔獣」という新たな存在に置換したことでもある。つまりは「魔法少女」の「存在」や「戦い」自体もなかった方がよかった……などという『仮面ライダークウガ』(00年)最終回(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001111/p1)ライクなキレイごとの絶対平和主義的で偽善的なオチではなかったことなのだ。
「魔法少女」たちの人々を守りたい、自身の願いを叶えたいという「想い」や、良かれと思って戦ったその「正義感」やその際に生じた「生」の「充実感」「高揚感」や「戦友との絆」など、「魔法少女」として各々が懸命に生きてきた「人生」それ自体をムダだったとして無下には否定はしなかった……、それを無かったことにはしなかったことなのである。
「QB」の行為は彼ら自身も云う通り、彼らが少女たちの「絶望エネルギー」を食しているのは、彼らの「人格悪」「性格悪」的な悪意によるものではない。彼らも云う通り、人間が動物や植物を飼育・栽培して食したりする行為と同等・相似形の行為ではあり、彼らにとってはそれは自然な生態なのである。その行為をヌキにすれば、彼らも滅び去ってしまうのだ。
よって、彼らはSF洋画『エイリアン』(79年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20171104/p1)や同じくSF洋画『プレデター』(87年)のように考えナシに人類を絶滅するまで捕食するような存在ではさらさらない。人類の絶滅とは程遠い次元で控え目に「摘まみ喰い」をしてきただけだともいえるのだ。
――もちろんたとえ少数とはいえ「摘まみ喰い」のターゲットに選ばれた方は堪ったものではないけれども、それは人類が家畜や穀物などに対して行なう所業(飼育して殺害した上で捕食する!)とも同罪ではあるので、我々人類自身の「原罪」性を免責しきることにもならないのだ(汗)――
「QB」の「存在」や、彼らの数百万年にもわたる人類への「関与」それ自体を否定すれば、我々人類自体も動物から進化した果ての誕生もなかったのであるから、「QB」の「存在」自体は否定はしない。
しかし、「魔法少女」の末路自体はミジメで絶望でしかなくても、その過程にはいくばくかの「充実」もあったハズなので、太古から遠未来の歴史上の膨大な全「魔法少女」たちのその人生、そして人類の歴史それ自体をも大局としては否定をせずに肯定してみせようとする行為。歴史それ自体も大局では改変しないけれども、大局には影響がナイ範囲では微改変をしてみせようとする「大海の中の一滴」であるクレバーな選択肢!
――「魔法少女」たち自身がその最期に実は自分たちが倒していた当の「魔女」自体に自我も失った上で必ず変貌もしてしまうという劇中内での法則的必然である宿命(!)だけをなかったことにして、その代わりに「魔女」という存在を「魔法少女」の成れの果てではない「魔獣」に代入して、「魔獣」と「魔法少女」が戦うかたちで太古から遠未来へと至る「歴史」全体を微改変することにより、歴史の大局や「魔法少女」各人の人生それ自体は否定をしないで済むという!――
そんなかたちでキレイに完結したTVアニメ版の続編を作るとなると、たしかに天上界の宇宙の法則の一部――既存にあった法則の微改変の作用だけを担保する存在――となって、その代償として地上世界には最初から存在しなかったことになってしまい、その痕跡をも消失させてしまった主役少女を現世・地上に復活させるか、コミュ力弱者少女の断末魔に天上にいる主役少女がお迎えに来る展開しかないだろうとは予想はしていたけれども……。そー来たか!?
お迎えに来た天上世界=高次元世界存在となった主役少女を地上に引きずり下ろさんとするコミュ力弱者の魔法少女。その試みは半ばは成功してしまう!
この展開を、TVアニメ終盤での主役少女の究極選択は日本の戦前的な「滅私奉公」にも通ずるものだから、「半径数メートルの私的幸福」、「公」よりも「私」、「公」に対する「叛逆」でもあるから「反体制」的に即・快挙でもある! と賞揚する論陣も散見はする。
その意見にも一理はあるとも思うけど、それは「二元論」のうちの「片方」だけを取るアタマの悪い論法であり、「公」に反逆して「私」に徹底することが即座に「絶対正義」になるのであれば、他人に配慮せずに身勝手に公共物の破壊や殺人強盗や暴言を繰り返すようなエゴイスティックな人間こそが一番エラくて大正義だということになってしまう(爆)。そんなバカげた論法もまた絶対的に成り立たないのだ。だから、フェア・公平に考えれば「私的幸福」&「公的幸福」の両立を目指すのが理性的・合理的にして理想的ではあるだろう。
もちろん「私的幸福」&「公的幸福」の両者が相容れない極限下で、「私」――もしくは「私のスキなヒト」や「仲間」――さえ良ければ世界が滅びても構わないとするならば、それは「公共心」なき「エゴイズム」や「お仲間・身内主義」にすぎないであろう。「公」至上主義はもちろんのこと、「私」至上主義も道義的・論理的には成立しないのは明らかなのである。決して二者択一の問題ではないのだ。
フツーの人間としての幸福を捨て去る主役少女の究極選択に対して、それに反対すべきであったと後悔するコミュ力弱者少女の想い。それ自体はイイ。
しかし、世界を救うよりも、世界を敵に回してでも、世界が滅びてもイイから、主役少女といっしょにいたいとばかりに願うコミュ弱少女。それは「積極的な悪」ではないにせよ、やはり「消極的な悪」ではあるだろう――彼女が自身を「悪魔」と自称するのは偽悪にすぎるけど――。
それが過剰に鼻につかないのは、彼女が寂しげでおとなしげで欲も少なさそうなローティーンの少女であり、健気さの方が先に立つからにすぎないとも思う――コレが成人女性であったり男のコであれば、往年の『鳥人戦隊ジェットマン』(91年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20110905/p1)や近作の実写映画版『ガッチャマン』(13年)みたく、世界のことよりも自身らの色恋ばかりにカマけているとの非難が殺到したにちがいない!(笑)――。
そのへんの観る側のバイアス・偏向、女のコに対する社会的通念――女のコに理解を示したフリをしてその実、未熟で弱くてもOKだと、やはり下に見くだして差別している(汗)――も込みでの物語作品というもののマジックともいうべきで、評論オタならばそのへんにも自覚的でありたいとも思う。
そうも思うのだけど、ボクらのサブヒロイン・変態ほむほむこと暁美ほむら(あけみ・ほむら)ちゃんのすることだから、やっぱり許しちゃお!(……オイ)
とはいえ、ほむほむに百合的に(?)想われている、天上世界での役割を忘却して地上に復活を果たした主役少女には、ほむほむに問われて
「私よりも公」
という趣旨の返答をさせているあたりで、やはり本作は一面的な作品には決してなってはいないのである。
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https://katoku99.hatenablog.com/entry/20201122/p1(『叛逆の物語』評は直上記事と重複)
『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』 ~『まどマギ』が「特撮」から受けた影響&与えた影響!
https://katoku99.hatenablog.com/entry/20200329/p1
後日付記:2011年冬季アニメ『IS〈イニフィニット・ストラトス〉』『フリージング』『放浪息子』『フラクタル』寸評
2011年冬季(1〜3月)は『まどマギ』ひとり勝ち! と書いてしまいましたけど、厳密には巨大ロボアニメ……もといハーレム美少女アニメ『IS〈イニフィニット・ストラトス〉』という作品が一応のナンバー2でした――という情報も、あとから知ったことですが(笑)――
特殊な巨大ロボットを女性だけが操縦できる世界観設定で、その世界の巨大ロボ乗りを養成する学校になぜかオトコのコのくせに巨大ロボを操縦できちゃう主人公少年が入学してきて……。
で、演出なり風情なりで、ウソなり大バカなりに最低限ナットクができる世界観や語り口があれば、まだしも観られるモノになったのやもしれないけれども、特にヒネりもなくコテコテのハーレム美少女アニメ・プラス・スピーディーに空を飛ぶ巨大ロボものでして……。
いや、こーいうモノもあってイイとは思うけど(笑)、個人的には「あぁもうカンベンしてほしいワ。耐えがたいよ〜!」てなモンでして……。#1で視聴を打ち切った次第です――当作をスキな方々、ゴメンなさい(汗)――。
そして、巨大ロボは出てこないけど、女学校に男の子主人公がまぎれこむ同じような設定(?)の同季アニメで、今では少数派・絶滅寸前ともいえる戦闘美少女たちを描いたアニメ『フリージング』ともドーちがうんだヨ!?
エッ、全然ちがうって!? どのへんがちがうのか、オジサンにはよくわからないよ!? 女の子たちがメカロボではなく生身で戦っちゃう、しかもボディーの厚みとデザイン・骨格シッカリ系の存在感もあるキャラデザの巨乳キャラばかりの肉体派・武闘派路線というところで、線引きされてドン引きされちゃうんでしょうか!?(笑)
2011年冬季の深夜アニメだと、フツーにフジテレビ深夜のライト層やサブカル女性層をもねらった「ノイタミナ」枠の女装男子中学生もの(&男装女子中学生もの)『放浪息子』が一番面白かったっすネ。
とこう書くと、我ながらベタで平凡な嗜好のオタですけれども。でもないか? コレも特殊な嗜好の作品か?(汗) 天下国家に関わりのないミクロな世界の話でしかないモノの、でもそれをていねいな語り口でつづるところに味わいがあって成功もしているナと。
『ハルヒ』・『らきすた』、そして『かんなぎ』で名声を高めたヤマカン――山本寛(やまもと・ゆたか)カントクが地に墜ちてしまった作品として大ブーイングが飛んだ(汗)、同じく「ノイタミナ」枠2本立ての後半30分の『フラクタル』。
コレを大ケッサクだと強弁する気はないけれど、筆者はごくごく個人的にはマニア世間でボロカスに云われているほどには悪いとは思わない。演出的にもヘボいところや拙(つたな)いトコロはなかったとは思う。まぁお話的にはヒネリがそんなには……というところはあるけれど。
やはり、ライト層やオシャレ・サブカル層、プチ・インテリオタク層に色目を使ったような作品だと、コアな美少女アニメファン層は無意識・条件反射的にテリトリーを侵犯されたと感じるのか、もろもろのカーストを意識するのか、感情的にムカついて反発しちゃうようなところが――その気持ちもわかるといえばわかるけど――、『フラクタル』に対する反発にブースト(増幅)をかけているようにも思えてならない。
とはいえ、そーいう層にも越境していかなきゃジャンル、もしくは作家(監督)の未来はナイ……とまではいわないけれども、狭いとは思うので、企画や狙い自体には個人的には賛成したいところではあるけれど。
ただ別の角度から云っちゃうと、パンピー(一般ピープル)とオタの中間層(オタの周辺層)、お文化的なものにもキョーミがある、でもSF的なものまで行っちゃうと関心がない女性層をもターゲットにした「ノイタミナ」枠でやるにしては、遠未来の文明崩壊後の自然回帰したSFチックな世界観が題材である『フラクタル』は、ちょっとオタッキーというかマニアックな場違い感もなきにしもあらずではあり……。
1年後の2012年冬季の「ノイタミナ」枠に至っては、もっとニッチでオタッキーな『ブラック★ロックシューター』なぞという深夜アニメをやってましたけれども……、大丈夫なんでせうか!?――この作品も、中学生少女たちの小さな感情的齟齬を描く日常生活パートだけあれば、あとは本作のウリである睡眠中の異空間・心象世界でのブラック★ロックシューターたちの壮絶なCGバトルシーンが不要な気がする……と思っちゃうのは筆者がオジサンになって枯れてしまったからかもしれないけれども。10代前半のときに視聴したらモノスゴいハイブロウなことしている! とカンドーしたかもしれないが(笑)。とはいえ、睡眠中の別世界のバトルシーンは、おおよそ「ノイタミナ」枠を観ていたような女性層にウケそうには思えない!――
……などと論評しつつも、そもそもイイ歳こいて、あまたの深夜アニメをすべてとはいわずとも一応はチェックしている我が行為自体が、ハズくて滑稽でオカシイといえばオカシイのですけれども……(爆)。
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