(2019年11月11日(日)UP)
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虚淵玄脚本! 『GODZILLA 星を喰う者』 ~「終焉の必然」と「生への執着」を高次元を媒介に是々非々で天秤にかける!
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『仮面ライダー鎧武』前半合評1
『仮面ライダー鎧武』前半総括 ~虚淵玄脚本! 上級敵怪人は古典SFな高次存在オーバーロード!? 公私の優劣も是々非々で再検討!
(文・T.SATO)
(2014年4月28日脱稿)
仮面ライダー鎧武(ガイム)の新たなる強化形態、仮面ライダー鎧武・カチドキアームズ!
背中に2本の幟(のぼり)を挿した、冗談もほどほどにしろ! というスタイル。
「エイ! エイ! オーー!!」
登場した時点で、まだ勝利もしてないのに、「勝ち鬨」(かちどき)をあげる掛け声の電子音声が鳴り響く! 冗談もほどほどにしろの二乗!(笑)
はるけきむかしの幼少時代にドコで覚えたのか、近所の子供たちと「エイ! エイ! オー!!」を連呼していたことを思い出す。子供がマネしたくなるであろうフレーズの使ったモン勝ち! さすが近年のバンダイ、イカレてます!(ホメてます・笑)
しかし、カチドキアームズって、もう「果物モチーフ」ですらないよネ? どのへんが「火縄銃」なのかもよくわかりませんけど(笑)、「火縄銃」には80年代初頭に勃興したDJ(ディスク・ジョッキー)風にアナログレコードを指でスクラッチする意匠までもが組み込まれて!
とゆーワケで、今にして思えば、カチドキアームズが本作におけるあまたのライダーたちの共通デザインモチーフでもある「果物」ではなく、「火縄銃」に「DJ風ギミック」が組み込まれた異質なデザインモチーフとなったことから逆算して、少しでも「劇中での必然性」なり、それがムリなら「意匠的な関連性」を持たせるために、NHK大河ドラマ『新選組!』(04年)での主要隊士・永倉新八役での好演も記憶に新しい(?)、グッサンこと山口智充(やまぐち・ともみつ)演じる「DJサガラ」が設定されたとゆーことなのでしょうか?
そして、鎧武=葛葉紘汰(かずらば・こうた)にカチドキアームズへの強化変身をもたらす変身補助パーツ=錠前型の「ロックシード」なるアイテムを貸与する役割もDJサガラに与えることで、カチドキアームズが巨大企業・ユグドラシル社製造の「果物モチーフ」のモノとは別個・別系統であることから、DJサガラもまたユグドラシルとは別の勢力であることにする! とゆーふーに煮詰めて設定&ドラマを考案していった……とゆートコロなのでしょうか?
オモチャ・オモチャした設定をムゲに否定せず、むしろオモチャが効果的に引き立つように、設定&ドラマの方をこそ逆算でコジツケてチューンナップしていく作劇でもあり、加えてそれにより登場人物たちの動機&行動に内的必然やウネりやナゾや深みも生じさせていて、なかなかに好感大!
そーいえば、映画『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.(フィーチャリング) スーパー戦隊』(14年)ほかで出てくる変身補助アイテム、「昭和ライダーロックシード」とか「ウィザードロックシード」とか「平成ライダーロックシード」なんてのも、明らかにユグドラシル社製なワケがないけれど。
コレもひょっとしてDJサガラが造ったモノだったとか!?……
もちろん真の正解は、映画の方には本作のメインライター・虚淵玄(うろぶち・げん)センセイは関わっていないので、そこまで面倒見てはいません!(笑)
80年代以降の主にアニメをはじめとする日本のジャンル作品は、そして特撮ジャンルでもオタク第1世代が送り手の側にまわった主に90年代後半以降、大文字の「正義」は敬遠されるようになる。
むしろ、それは一歩間違えれば「正義」の名のもとに遂行される独裁的・独善的な「専制」や「思想統制」にも通じる危険なものだと警戒された。
その代わりに、「ヒーロー活動の言い訳」として、「大きなスローガン」は掲げずに、「等身大の正義」や「せめて、身近な人間たちだけは守りたい」「身の丈の手に届く範囲で出来ることをする」ことで、大文字の「正義」のスローガンが醸す「専制」や「思想統制」の匂いを脱臭して、免罪符を得ようとせせこましく汲々としてきた。
まぁそれはそれで、その世代の作り手たちなりの「内的必然」なり、抜きがたい「警戒心」などもあったのだろうとは思う。
筆者も往時、『宇宙刑事シャリバン』(83年)の「♪強さは愛だ」とか、同じく東映メタルヒーローシリーズ『巨獣特捜ジャスピオン』(85年)の「♪俺が~俺が~俺が~正義だ~~」などの歌詞はやや右派的・マッチョにすぎて抵抗があったので(笑)。
とはいえ、逆に往年の『電撃戦隊チェンジマン』(85年)で、戦隊メンバーのひとりが「トンカツ屋を開くのが夢」だという設定を知ったときには、
「地球存亡の危機に見舞われてるのに、地球守備隊の軍人がそんな私的で小市民的な夢をいだいているダなんて、ソレどころじゃねーだろ! 単なる個人のエゴじゃネ!?」
などというプチ反発をいだいたモノである(笑)。
こー書くと、「じゃあその後のミーイズムや小市民的な生活に走った特撮変身ヒーロー作品なんて、観てらんねーんじゃねーのか!?」という、読者のツッコミも入りそうではあるけれど……。
そのへんはナシ崩し的に慣らされて、気にならなくなりました(オイ)。サッカーの中田英寿(なかた・ひでとし)が潰しが効くように簿記1級の資格を取得していたみたいなモノで、むしろ「トンカツ屋を夢見る」チェンジマンの彼の方こそが正しかったとも思っているくらいで(笑)。
そんなワケで、「等身大の正義」とか「自分の手が届く範囲はせめて守りたい」というテーゼには、作り手たちの誠意は信じて疑わないけれども、でもそれって「自分たちの仲間以外」や、「手の届かないトコロ」は放っておいてもイイのかよ!? 的な疑問符もあったりしてェ……。
その部分への目配せがナイという点では、少しお知恵が足りないのでは? との違和感もあったのだ。
この歳になって、しょせんは子供番組に何かを教えてもらおうとか影響を受けよう、なぞとは思っていないので(笑)、大声でガナって批判したりはしてないだけで。
ところがドーだ! 本作はそんな「公私」テーマにカスってみせている!
それも、潔癖・無垢な、万年野党的な立場からのオボコい理想や公私葛藤ではなく、すでに手を汚していて無罪じゃない、罪を背負っている立場から!
とはいえ、ウス汚れたオッサンの当方としては、メロンのライダーであるユグドラシル社の兄ちゃんの
「人民のパニックや、危機を前にしても、世界各国がひとつになることはなく、むしろダシ抜き合戦になることを恐れるので、シビリアンコントロールをしよう」(大意――ココでは「文民が軍人を統制する」という意味ではなく、識者が市民を統制してあげようという程度の意味――)
とする言い分の方に理があるように思えて、おおいに共感するけれど(笑)。
しかしジュブナイル作品としては、メロンのライダーの兄ちゃんのシニカルで性悪説な見解の方が正しかったという方向に落とすワケにも行かないので、それはそれでそーいうテーマにカスって、そっち方向にも理を認めたという程度のオチでイイかとは思います。
そんなテーマで行くのかと思いきや、「オーバーロード」なる存在も出現!
「オーバーロード」といえば、古参オタならおなじみ、半世紀も前の古典SF『幼年期の終り』(53年)に登場する、地球人類よりも上位の存在の宇宙人ではあるけれど、進化の袋小路に入ってそれ以上は進化ができずに、より上位の神に近き存在に命じられて、地球人類が「地球」という惑星まるごと(!)高次な別存在・超存在へと進化していく――今このオチでやったのならば、非科学的なドンデモSF扱いだけど、昔の作品だから許される!?(汗)――ことを傍観する宇宙人のお名前。
異論はあろうけど、筆者が見るところ、虚淵センセの『魔法少女まどか☆マギカ』(11年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20120527/p1)に出てくる妖精・小動物チックな「キュゥべえ」も、脚本家・市川森一(いちかわ・しんいち)ライクな詐欺師的な「試す者としての悪魔」ではなく、人間的な価値観とは別原理で動いていて、人間の道徳・尺度の次元で批判してもイミがない「オーバーロード」や侵略的外来種植物「ヘルヘイムの森」みたいな存在で、QB(キュゥべえ)自体は根本悪ではない。
便宜的に『鎧武』世界の用語で云うなら、「ヘルヘイムの植物」同様、個々人の悪意には起因しない「現代社会のシステム自体の歪み」に近い、まさに「理由のない悪意」といったモノであろう。
そして、その歪みを直せば別所にシワ寄せが生じ、それを直したらばまた別種の歪みが生じ、さらにそこを直せばまたまた別所にシワ寄せが生じて、コレらの歪みやシワ寄せは根本的な次元で超克できずに、「症状に応じて永遠にシステムに微調整を重ねていく覚悟」のようなモノを、特撮変身ヒーロー作品ごときでホンキで描く気なのであろうか?
『仮面ライダー鎧武』前半合評2
多数ライダー制の『仮面ライダー鎧武』は、「白倉ライダー」の継承者といえるのか!? ~「仮面ライダー鎧武の敵」とは!?
(文・久保達也)
(2014年4月22日脱稿)
第8話『バロンの新しき力、マンゴー』に至るまでの、ビートライダーズ(=ストリート・ダンサーズ)の縄張り争いが中心に描かれていたころの初期の時点では、まったく想像もつかなかったような極めて重い話が、『仮面ライダー鎧武(ガイム)』(13年)では2クール目以降展開されることとなっている。
*まず、原作者の「石ノ森章太郎イズム」とは何か!?
――それでも、平成の世に仮面ライダーは復活しました。ただし、その設定は昭和のライダーよりもずっと複雑で過激です。
02~03年放映の『仮面ライダー龍騎(りゅうき)』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20021109/p1)には13人の仮面ライダーが登場し、それぞれ自分自身にとっての「正義」を掲げて戦いあった。
次作の『仮面ライダー555(ファイズ)』(03年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20031108/p1)は主人公自身がオオカミ男に変身する怪人であり、敵の怪人たちもライダーベルトを身につければ仮面ライダーに変身できる。敵と味方の同質性を極限まで追求しました。
「01年の9・11テロ以降、『こっちが正義、向こうは悪の枢軸(すうじく)』といった紋切り型の対立構図が日本にも波及し始めていました。アメリカが間違っているとか言うつもりはありませんでしたが、色々な人がいて、色々なモノの見方や考え方があって、そういう状況を局外から俯瞰(ふかん)し『こっちが正しい』『あっちが間違っている』と、上から目線で言えるような人など誰もいない。それをどう伝えるか、と自問した結果です」
白倉プロデューサーが直接関わっていない『仮面ライダーW(ダブル)』(09年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20100809/p1)以降の近年の平成ライダー諸作品を、それまでのシリーズの作風や思想性のちがいから、「第2期平成ライダーシリーズ」と定義する動きが、特撮マニアの間では広がっているようである。
しかしながら、今回の『鎧武』の根底に流れているのは、先にあげたような「白倉イズム」にかぎりなく近いものである。
*巨大企業ユグドラシルやネオショッカーは悪か!?
ヘルヘイムの森に生殖する果実は繁殖力がきわめて高く、しかもそれを口にした者は皆インベス怪人と化し、人に危害を加えてしまう。
そして、いずれは沢芽市(ざわめし)全体がヘルヘイムの森に飲みこまれてしまうことが判明した。
あと10年で地球そのものが、禁断の果実によって埋め尽くされてしまう……
ユグドラシル社の研究により、地球人口のうちの約10億人は、大量生産される変身ベルト・戦極(せんごく)ドライバーによってアーマードライダーに変身することで、この危機から救われることとなった。
だが、残る60億人分の戦極ドライバーを製造する能力がユグドラシルにはないのである。人類の未来のため、残念ながら60億人には犠牲になってもらうしかないのだ。
それがユグドラシルが主張する「正義」である。
『仮面ライダー(新)』(79年)の敵組織・ネオショッカーは、地球人口の爆発的増加に伴う食料危機を理由に、優秀な人間のみを残すことで、人口を3分の1にまで減少させることが目的であった。
これは第2話『怪奇! クモンジン』において、ナチの軍人のようなネオショッカー日本支部初代幹部・ゼネラルモンスターが主人公の筑波洋(つくば・ひろし)=スカイライダーに語っていたことである。
「鉄のカーテンの向こうには、我々と根本的に相入れない集団が存在し、我々の世界を滅ぼそうと日々画策(かくさく)している。彼らがいつの間にか我々の隣人として忍び込み、何かをたくらんでいるかもしれない――。そういう世界観が共有されていたからこそ、ショッカーはリアリティーのある『悪』になり得た」
ユグドラシルもネオショッカーも、その手段はともかくとして、その理念・目的に関しては、果たしてそれが本当に「悪」と言い切れるのか? という根本的な問題があるのだ。
西側諸国がモスクワオリンピックをボイコットしたほど――直接的な原因はソビエト連邦→現ロシアがアフガニスタンに侵攻したことに対する抗議の意味合いであり、日本も例外ではなかった――、東西の冷戦構造が深刻だった70年代末期から80年代であれば、ネオショッカーを「悪」と定義し、スカイライダーのみならず、「昭和」の8人の仮面ライダーの力を結集させて倒すことは、立派な「正義」だったのである。
「でも80年代後半に冷戦が終結に向かい、えたいの知れない巨悪という実感が失われた。現実世界ではオウム真理教のようなテロリスト集団が出てきた。それと戦うのはヒーローじゃない。警察ですよね」
『仮面ライダーBLACK RX(ブラック・アールエックス)』(88年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001016/p1)をもって、「昭和」の仮面ライダーシリーズが終焉(しゅうえん)を迎え、『仮面ライダークウガ』(00年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20001106/p1)に始まる「平成」ライダーシリーズに至るまでの長いブランクが生じたのは、まさにこの時代であった。
「こっちが正しい」「あっちが間違っている」などと明快な「勧善懲悪(かんぜんちょうあく)」を描くことが、時代を重ねるごとにどんどん難しくなってきているのである。
*「複数の正義」「ライダーと怪人の同質性」 ~2大テーマの併存!
ユグドラシルの御曹司(おんぞうし)・呉島貴虎(くれしま・たかとら)=仮面ライダー斬月(ザンゲツ)に、かつてヘルヘイムに侵略され滅亡した異世界の都市の廃墟(はいきょ)を同じように見せられながらも、葛葉紘太(かずらば・こうた)=仮面ライダー鎧武と呉島光実(くれしま・みつざね)=仮面ライダー龍玄(リュウゲン)ではその反応が180度真逆だったことはなんとも象徴的である。
ユクドラシルの悪事を世間に公表する! と、実の兄である貴虎に息巻いていたハズの光実は、ヘルヘイムの正体を見せられるや「絶対公表なんかできない」と大きなショックを受け、貴虎の指示でユグドラシルのために暗躍するようになる。
光実「この幸せを守れるなら、僕はどんな裏切りでもできる」
第18話『さらばビートライダーズ』のラストで、本作ヒロインの高司舞(たかつかさ・まい)が企画したビートライダーズによる合同ダンスイベントが無事成功に終わった際に、光実が語った言葉である。
「人類の未来」=「公(おおやけ)」のために、ヘルヘイムによる地球侵略の件を隠蔽(いんぺい)する光実だが、その内実にあるものは、紘太や舞ら仲間たちと笑顔で楽しく過ごせる時間を大事にしたいという「個」としての欲望なのである。
真実をすべて隠し通すことで、みんなの笑顔を守れる。
これが光実にとっての「正義」なのである。
一方、紘太は事実を隠蔽(いんぺい)するユグドラシルに怒りをブチまけ、異世界からの侵略に対し、世界はひとつになるべきだと主張する。
貴虎はそんな紘太に、事実を公表すれば世間はパニックと争いに包まれるだけであり、人々から平穏(へいおん)な日々を奪うことがおまえの言う「正義」なのか? と逆に問われてしまう。
それでもなお、誰かが「犠牲」になる上で成立する希望なんてあり得ない、と食い下がらなかった紘太は、知らない方がよかったと思われる、さらなる事実を貴虎に知らされることとなる。
紘太が舞を守るため、初めて仮面ライダー鎧武に変身して倒したインベス怪人は、ヘルヘイムの森に迷いこみ、禁断の果実を口にしたことで怪物化した、紘太のダンス仲間・裕也(ゆうや)だったのである!
悪の組織のテクノロジーから生み出された改造人間のヒーローが、同じ組織の怪人と戦うという、「善」と「悪」、「味方」と「敵」の境界線が判然としない、まさに『仮面ライダー』原作者である「石ノ森章太郎(いしのもり・しょうたろう)イズム」がここに炸裂(さくれつ)!
登場キャラそれぞれの「正義」が衝突した『龍騎』、ライダーとオルフェノク(怪人)の「同質性」を追求した『ファイズ』、その双方を『鎧武』は継承しているように見受けられる。
思えばそれらこそが、究極の「石ノ森イズム」である。
東映の故・平山亨(ひらやま・とおる)プロデューサーや脚本家の故・伊上勝(いがみ・まさる)らによる乾いたゲーム的な攻防劇が主体で、「勧善懲悪」カラーが強かった「昭和」ライダーの作品群よりも、むしろ古いマニアに「こんなのは『仮面ライダー』ではない!」と批判されてきた『龍騎』や『ファイズ』の方こそが皮肉にも「石ノ森イズム」がよほど濃厚な作品群ではなかったか!?
――平山亨や伊上勝の「勧善懲悪」カラーはそれはそれで否定されるべきものでは断じてないにしろ――
*すでに手を汚していた「仮面ライダー鎧武の敵」とは!?
自身がすでに友人を手に掛けており、その「犠牲」によって救われていることを知った紘太は、一時茫然自失(ぼうぜんじしつ)となるが、DJサガラに新たなロックシードと励ましの言葉をもらうことで、同じあやまちを再度繰り返さないと、ユグドラシルと戦う決意を新たにする。
紘太の敵は、決してヘルヘイムの侵略ではない。
DJサガラが看破(かんぱ)したように、「希望」の対価として常に「犠牲」を要求する「社会」の構造=システムそのものが、紘太にとってはヘルヘイム以上の「敵」であり、絶対に許すことができるものではなく、断固としてそれと戦おうとするのだ。
それが紘太にとっての「正義」なのである。
だが……
――最近のライダーは活躍の場が狭くなっています。09~10年の『仮面ライダーW(ダブル)』は街の平和、11~12年の『仮面ライダーフォーゼ』は学園の平和を守り、昨年(12年)から放映中の『仮面ライダーウィザード』は人々の心を絶望から守っています。
「物語の作り手に『社会全体を変えられる』という実感がないからでしょう。現代社会はグローバル資本主義やインターネットという巨大なシステムに覆われ、個人がそれに手出しできるとはとても思えない」
「かつて私たちは「国家や巨大企業などピラミッド型組織の腐敗が諸悪の根源で、そのトップを正せば世の中はよくなる」と信じていた。仮面ライダーがショッカーの首領を倒せば、平和が訪れるように。だがグローバル資本主義もインターネットも「網」のような存在であり、どこにも中心がない。どう戦えばよいのか。ライダーも私たちも迷いの中にいる」
自身の手を離れた「第2期」平成ライダーシリーズが、街・学園・人の心と、守るものが次第に小さくなってきていることに対し白倉氏は、作り手に「社会全体を変えられる」という実感がないからでは? と分析している。
近年そんな傾向が強まっていたにもかかわらず、仮面ライダー鎧武が戦っているのは、「社会の構造」=システムそのものなのである!
これは何を意味するものなのであろうか?
「あらゆる物語は作り手の意思と関係なく時代を反映しますから、ライダーも自然と小さな話になってしまう。それでも、最後によって立つのは自分自身、というのが仮面ライダーの本質です。作り手自身の実感から物語を始めるしかありません」
映画『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦』において、交通事故で死んだ幼い息子を生き返らせるために、黄泉(よみ)の国・バダン帝国による「死者と生者を反転させて、死者がこの世を支配するメガ・リバース計画」について語る悪のライダー「仮面ライダーフィフティーン」に対し、紘太はこう叫び、仮面ライダー鎧武に変身していた。
「たとえどんな理由があろうと、今を生きる人々の未来を奪うことは、絶対に許せない!」
今を生きる人々の「未来」が、ひょっとしたら「社会」の構造=システムによって脅(おびやか)されているのではないのか?
紘太の叫びはまさに、『鎧武』の作り手の「実感」から出たものではないのだろうか?
仮面ライダー2号「昭和から平成へ」
仮面ライダーX(エックス)「平成から、次の世代へ」
仮面ライダー1号「未来は、おまえたちにまかせたぞ!」
映画『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦』において、「平成」ライダーは「昭和」ライダーから、人類の「未来」を守ることを託(たく)された。
「未来」を担(にな)うことになるのは、今を生きる若者たちだからでもある。
その若者たちの「未来」が今、脅かされているのではないのか?
近年ライダーの活躍の場が狭(せば)まる傾向にあった中で、『鎧武』があえて「社会」の構造=システムを「仮面ライダーの敵」として描いているのは、やはり作り手がそれを強く実感しているからこそではないのだろうか?
*「ダンス」が暗喩する「社会」構造と「若者」の暗黒面
・葛葉紘太 20歳
・駆紋戒斗 20歳
・呉島光実 16歳
・高司 舞 17歳
以上は『鎧武』のメインキャラの設定年齢である。
この世代は90年代前半のバブル経済崩壊以降に生まれ、その時々の「大人の事情」によって踊らされてきたため、常に閉塞(へいそく)感に包まれ、日々鬱屈(うっくつ)した想いを抱(かか)えながら育ってきたと思われる。
『鎧武』世界のストリートダンサーであるビートライダーズの設定は、『獣電戦隊キョウリュウジャー』(13年)のエンディングのダンスが話題になるほど、この国の立派な文化のひとつとしてダンスが根づいている、という理由も大きいだろう。
しかしながら、これはまさに、今を生きる若者たちが「大人の事情」に「踊らされている」ことの暗喩(あんゆ)でもあると筆者には思えてならない。
戦極ドライバーの実験台にされたり、そのためにユグドラシルが彼らに流行(はや)らせたインベスゲームこそが奇病が蔓延(まんえん)した元凶である、と市民たちから徹底的に非難されるビートライダーズの姿こそ、誰かの「犠牲」の上に成立する現代「社会」の「若者受難」の構造そのものではないのか?
光実「今楽しいと思うことをして、本当に大事な何かを探しているんじゃないですか?」
第9話でビートライダーズを街の「クズ」呼ばわりした貴虎に対し、光実は彼らの気持ちを「自分探し」だとしてそう代弁・擁護したのだが、必ずしもそれはすべてを代弁する的確なものではなかったようである。
第16話でインベス怪人に宝石店を襲わせたダンスチーム・レッドホットの連中は、ストリートダンスを踊る理由について舞に、
「めだちたい。暴れたい。ただそれだけ」(!)
と答えていた。
そして、第18話で合同ダンスイベントが成功したにもかかわらず、第19話では多くのビートライダーズがすでに解散してしまっていた事実が語られた。
本当にストリートダンスが好きで踊っていた者はごくわずかに過ぎず、大半の者たちにとっては、流行に乗っただけの自己顕示に過ぎず、ダンスは自分の「力」を示すための、手段のひとつにすぎなかったことが明らかになったのである!
若者たちもまた、単なる無垢(むく)な被害者ではなかった。
いざとなれば長いものに巻かれて自己保身に走り、それまでは自身も無力な弱者の立場にあったのに、弱者を目前にしても同胞として憐れんだり助けあったりはせずに、むしろ喜んで見下(みくだ)して、あわよくば収奪する側にまわって悦に入り、それを恥じらいもしない下劣な連中が多々いることを明らかにしたのだ。
――『ウルトラマンダイナ』(97年)第33話『平和の星』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/19971207/p1)のような、公共心皆無で街で遊び呆けている私的快楽至上主義者なだけの若者たちを「自由の象徴」として単純肯定してしまうような一面的な作品は、本作をこそ見習え!(笑)――
あまり大声では言えないが、もちろん個々人の生まれついての「品性」や「性格」の問題もあるだろう。
元々は「品位」も「常識」もあったのに、仕方なく悪童仲間向けに「処世術(しょせいじゅつ)」としてそのように偽悪的にふるまっている者もいるのだろう。
あるいは、それまでの生育過程で「大人の事情」に常に踊らされてきたり、あまりにも凄絶な虐待を受けて、仕方なく酷薄な人格になってしまった同情すべき者もいるだろう。
*よりラディカルな「仮面ライダーバロンの敵」とは!?
その極端な例が、まさに駆紋戒斗(くもん・かいと)=仮面ライダーバロンの姿だ。
父親の勤務先の町工場も、幼いころによく遊んだ神社のご神木(しんぼく)も、ユグドラシル社の「力」によってすべて奪われてきた戒斗の眼中にあるものは、ただ「力」による支配あるのみ。
「ヘルヘイムと戦って、生き残った者だけが未来をつかめばいい」(!)
ヘルヘイムの侵略から人類の未来を守ろうとするユグドラシルを、
「なぜこの世界を守ろうとする。いっそ壊れてしまえばいい」(!!)
とあざ笑うほどの戒斗だったが、彼もまた「社会」の構造=システムをブチ壊したいと考えているのは、紘太と変わりはないのである!
しかしながら、戒斗はユグドラシルをも「弱者」(!)呼ばわりする!
「侵略は最大のチャンス」であるとして、ヘルヘイムを自身が「本当に戦うべき相手」だと位置づけるのである! これが戒斗にとっての「正義」なのである。
――ただし、『仮面ライダーウィザード』に登場した2号ライダー・仮面ライダービースト=仁藤攻介(にとう・こうすけ)の口癖(くちぐせ)だった「ピンチは最大のチャンス!」とは、かなり意味が異なるように思える――
もっともこの行為すらもが結果的に、ユグドラシルのプロフェッサー・戦極凌馬(せんごく・りょうま)=仮面ライダーデュークやその女秘書の耀子(ようこ)=仮面ライダーマリカ、錠前ディーラー・シドたちの「野望」のてのひらの上であり、戒斗が「踊らされている」だけなのがまた痛くて、絶妙に多重的な作劇なのだけど。
その目的自体は「個」、「私」的な自己実現・野望ではあるものの、「力」をもってして地球存亡の危機をもたらす「侵略」と戦おうとする戒斗の姿は、本来なら変身ヒーロー作品の「主人公」として描かれるべきハズのものなのである。
だが、そうはならずに、異界からの「侵略」そのものよりも、一企業のトップたちによる「野望」の方が「悪」に見えてしまう『鎧武』世界の、決して一筋縄(ひとすじなわ)ではいかないところは、やはり「白倉イズム」の立派な継承(けいしょう)ではないのかとも思えるのだ。
いろいろなキャラが存在し、さまざまなモノの見方・考え方・思惑(おもわく)、大人と若者、「公」と「個」など、単純な「正義」対「悪」ではなく、ありとあらゆるものが激しくぶつかり合う『仮面ライダー鎧武』の世界。
これはまさに、「白倉ライダー」の再来、もしくはその再構築、リマジネーション(リ・イマジネーション)、「白倉ライダー」にあった欠点(後述)をも克服した発展形態であるようにも思えるのだ。
*敵を倒せば戦いは終わるのか!? 紘太・戒斗・光実、誰の生き方が正しいか!?
「大人向けのエンターテインメントならば『悪代官をやっつける』など単純な図式でかまわない。たいていの大人には『現実は違う』と理解できる分別がありますから。だが、それが育っていない子どもに向けた番組は、絵空事であってはいけない」
子供向け番組でこそ『悪代官をやっつける絵空事』で、たとえウソや願望でも「善意や正義が勝利してほしい」という気持ちを育(はぐく)んでおき、現実の社会や人間関係の酷薄さや複雑さを知るのは(ひとり)ボッチアニメ(笑)などを鑑賞できる思春期後期の年齢に達してからの方がいいのでは? とも思えるので、上記の白倉の発言がホントウに正しいかは疑問符をつけるけれども、『絵空事』どころか、どうにもできない現実の「社会」の構造=システムの中でもがく若者たちの姿が、『鎧武』にはしっかりと投影されているのである。
メインキャラである紘太・戒斗・光実の中で、誰かの「犠牲」の上に成立する「社会」で生きていくためには、果たしてどの姿が最も「正しい」ものであるのかは、一概(いちがい)には判断し難いところである。
強(し)いて言うなら、最も常識的で「社会」に順応(じゅんのう)していける、と思えるのは光実だろう。
筆者からすれば、光実がやっていることは、ただの「偽善(ぎぜん)」にしかすぎないものである。
しかしながら、「偽善」は、「人」の「為(ため)」に「善(よ)い」とも書くのである。たしかに周囲に対してカッコをつけて優越感にひたることだけが目的のチョイ悪(ワル)の「偽悪」や、公共心のカケラもない私的快楽だけを優先したヤンキー・不良の態度よりかは、「偽善」の態度はマシなものではあるだろう。
だが言わせてもらえば、たとえヘルヘイムの侵略がなくとも、人々の共同体において波風を立てることなく、何事も穏便(おんびん)に済ませようとする姿こそが、日本的な「ムラ世間」そのものなのであり――実は個人主義を標榜する西洋でも実態は同じなのかもしれないが――、近年の大企業の多くが新入社員に最も求める要素である「コミュニケーション能力」も、あくまで波風を立てることなく穏便の範疇に囲い込まれた中での、調子のいいチャラ男的な社交能力に過ぎないものなのである。
その次は戒斗であろう。
たしかに「はみ出し者」ではあるだろうが、「怖いもの知らず」の彼を利用価値があると考える輩(やから)は、プロフェッサー凌馬にかぎらず、誰かを「犠牲」にする上で成立する「社会」の中ではいくらでも存在する、と思えてならないものがあるからだ。
「社会」の中で、最も厄介(やっかい)であり、戒斗以上に「危険人物」扱いされてしまうと思われるのは、誰あろう主人公であるハズの紘太にほかならない。
そもそもユグドラシルの秘密を知るたびに、自身が激しく動揺し、「絶対許せない!」といちいち絶叫しているほどなのに、それが世間の人々に知れたらパニックや争いが起きるのは必至(ひっし)であることに想いが至らない、ということ自体がヒジョ~に痛い(笑)。
たとえどれだけ紘太が絶叫しようが、やすやすと一挙に「社会全体を変えられる」ハズがないということは、劇中人物たちよりも年長である作り手たちはイヤというほど実感しているハズなのである。
それでもあえて、紘太のような「反逆」のヒーローを、『鎧武』で主人公としているのはナゼなのか?
*仮面ライダー鎧武=紘太に見る、現代的な「公私葛藤」描写の臨界点!
第12話において、変身すればするほどユグドラシルの思うツボになるのだからと、今後は仮面ライダー鎧武への変身を極力控えるよう、光実は紘太に進言する。
だが、インベスに襲われる女性の悲鳴を聞き、光実が必死にとめるのを振り切って、紘太は変身しようと飛び出していく!
紘太「奴らをとめられるのはオレだけだ!」
3体ものインベスを相手に孤軍奮闘(こぐんふんとう)する仮面ライダー鎧武の姿を前に、仮面ライダー龍玄への変身を躊躇(ちゅうちょ)する光実……
第14話『ヘルヘイムの果実の秘密』では、ライバルチームのリーダーだった仮面ライダー黒影(クロカゲ)こと初瀬(はせ)がヘルヘイムの果実を口にしたことからインベス怪人と化し、チーム・ガイムに所属するラット青年に重傷を負わせてしまう。
なおも街で暴れ続けるインベス怪人に対し、
鎧武「もしこのまま続けるというなら、おまえはもう初瀬じゃねえ!」
と、そうは言いながらも、鎧武はインベスに初瀬の姿が重なったことから、剣を捨てて拳(こぶし)で殴り続ける!
だが……
鎧武「オレには人殺しなんかできない! こいつは初瀬だ!」
公園の池にガックリとひざまづき、その拳を何度も激しく池にたたきつける鎧武……
第9話ではポリバケツの中でコウモリインベスの出現を待ちかまえる(笑)など、本作でも再三コミカルな演技を披露してきた、鎧武のスーツアクター・高岩成二(たかいわ・せいじ)ではある。
が、この迫真の演技こそ、まさに公私葛藤(かっとう)に揺れる紘太の胸の内を、絶妙に表現している!
インベス怪人を倒そうとした行為と、インベス怪人を倒すことができないという行為。この紘太の行動はたしかに矛盾ではある。
しかしながら、前者は当然として、後者もまた紘太が「個」よりも「公」を優先しようとしたことに変わりはないのである。
「個」が自分自身であれば「犠牲」になることができるが、「個」が仲間――「私」的なものともいえるが、「公」的なものへと至る端緒――である場合は「犠牲」にすることができないのだ。
これらのことから思うにつけ、紘太は
・「自分(や仲間たち)さえよければ、他人などどうでもいい」などという、過剰なミーイズム・エゴイズムに走っているワケではない。
・かといって、個人を「犠牲」にしていた、戦前の軍国主義・集団主義・全体主義に通じるような、過剰な滅私奉公(めっしほうこう)に陥(おちい)っているワケでもない――だからこそ、ユグドラシルに象徴される、誰かを「犠牲」にして成立する「社会」の構造=システムが許せないのである!――
ことになり、「公」と「個」がかろうじて両立している、極めてバランスがとれた「正義感」「公共心」の持ち主であるように、筆者には思えてならないものがあるのだ。
仮面ライダー1号「世界平和のためには、優しさを捨てる覚悟も必要だ!」――実際『仮面ライダー』(71年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140407/p1)第3話『怪人さそり男』において、仮面ライダー1号=本郷猛(ほんごう・たけし)の親友でライバルだった早瀬(はやせ)が、悪の組織・ショッカーによって改造されて誕生した「怪人さそり男」を、1号は必殺技「ライダーシザース!」で倒している!――
と、映画『仮面ライダー大戦』で平成ライダーたちに対し、声高(こわだか)に主張していた仮面ライダー1号ではあったが、
「たとえ自らを犠牲にしてでも、一輪の花を守ろうとする優しさを貫くことこそ、本当の強さかもしれん」
と、ラストの鎧武とのガチンコバトルで、1号は鎧武からたしかに「自己犠牲」の精神を感じとり、潔(いさぎよ)く負けを認めたのである。
鎧武のようなライダーこそ、今の時代に必要であると、1号から「お墨付き」を与えられたことにより、「平成」ライダーたちは「昭和」ライダーたちから「未来」を託されることとなったのだ。
*戦後70年の「公私」観の変遷。両極端に振れた時代が終わった今こそ!
「昭和」ライダー、特に第1期ライダーシリーズ(71~75年)が放映されていた1970年代前半は、1960年代の高度経済成長期の余韻(よいん)がまだ残っていた。
日本経済のために「個人」の「私的欲望」や「家族」が少々の「犠牲」になるのはやむを得ないとする風潮が、高度成長期から連綿(れんめん)と続いていたのだ。
だからこそ、「滅私奉公」的印象の強かった仮面ライダーというヒーローが、爆発的に人気を得ることとなった、という背景はあるかと思われる。
しかしながら、日本に限らず、先進各国の高度大衆消費社会化が加速した1980年代以降、思春期の若者の間では差異化競争が巻き起こった。
現在の学校内におけるスクールカーストの発端(ほったん)となる「ネアカ」や「ネクラ」、「イケてる」「イケてない」などという妙な尺度で、当時の若者たちが同世代の内部を区別=差別=序列化する動きが始まったのだ。
また、少年期から青年期にかけて体験した戦争体験でそうなってしまったのは同情するし無理からぬことではあったのだろうが、ノーベル賞作家でもある大江健三郎(おおえ・けんざぶろう)をはじめとする「左」寄りの人々が唱えてきた、あるいは特撮ジャンルにおいても脚本家・上原正三(うえはら・しょうぞう)が自身の終生のテーマにしてきたかもしれない「個の重視」。
「『個』よりも『公』を重視することは、即座に『全体主義』や『軍国主義』に通じる」
というような、我らが敗戦国・日本の戦後の左翼が長らく唱えてきた、あまりにも極端な論法。
その論法が間接的にお墨付きを与えるかたちで援用されて、1970年代後半以降に大衆や若者レベルでも非常に通俗化されたかたちで普及もして、過剰に「個人主義」・「私的快楽」・「享楽(きょうらく)」などを優先する風潮に拍車をかけてしまい、当時の若者たちを――筆者の世代もここに含まれる・汗――、さらに倫理面・道徳面でも堕落(だらく)させることになってしまった。
そして、それらとのパラレル・並行で、必然的に「公共」や「社会」や「世界」の問題を考えることは「ダサい」こと、場合によっては「危ない」こととされるようになっていったのだ。
その結果、「マジメはダメ」で「遊び人の方がイイ」ということにされて、そうした「快楽主義」にはノレない者は「ダサい」だの「クラい」だのと世間ではすっかり相手にされなくなってしまい、貧乏くさい四畳半フォークソングや優しげなニューミュージックが流行っていた1970年代には想像もつかなかった、どころか世界人類の倫理面での歴史においても前例がなかったような(笑)、前代までとは真逆の「軽佻浮薄(けいちょうふはく)」で「狂躁的」で「レジャー礼賛」な風潮が、1980年代初頭に突如勃興することとなったのだ。
――もっともそのおかげで、結婚もせず、会社や地域や社会に帰属意識も持たず、我々のようなオタク趣味に「個人主義的」(笑)にどっぷりと浸(つ)かっても、「地域共同体」「日本的ムラ世間」も半ば崩壊して人々も他人に対して無関心になったがために、隣近所や親戚のオバサンたちから後ろ指を差されたり「人並みに結婚しろ!」というプレッシャーや、異分子を露骨に地域からムラ八分にして迫害するような「同調圧力」も、前時代と比したら大幅に減じた環境が整えられた、という良い面があったことも否定はできない――
この時代に「快楽主義」に走っていた若者は、現在40代から50代に達しているが、その連中が社会情勢や経済状況や産業構造が変わったゆえに、その価値観や時代に合った処世術などもまったく異なる今の若者たちに対し、「若いうちはもっと遊ばなきゃダメだ!」などと説教しているのは笑止千万(しょうしせんばん)である。
そういうことじゃないだろう。「昭和」ライダーが「平成」ライダーに「未来」を託すことができたほどの、立派なことをおまえたちは本当にやってきたというのか!?
過剰な「滅私奉公」が叫ばれた時代。
その反動として、過剰な「個人主義」や「私的快楽」が尊ばれた時代。
そうした両極端な時代が一巡(いちじゅん)した今の時代に求められているのは、極端な「公」にも極端な「個」にも陥らない、それらを両立する姿こそが「ヒーロー」として描かれるのが理想的なのであり、その点、本作の主人公・紘太はかなりイイ線を行っていると個人的には思えるのである。
たしかに紘太は不器用でアブなっかしい奴ではある。
それでもあえて紘太を主人公にしたのは、たとえ「社会」をすべて一挙に変えることはできないとわかってはいても、その「理不尽(りふじん)」さに対し、決して従順(じゅうじゅん)になるのではなく、紘太=仮面ライダー鎧武のように、
「ここからはオレのステージだ!」
と、声をあげるくらいの気概(きがい)を持って、閉塞感が漂う今の世の中を生き抜いてほしい、それにより少しでも社会を良くしてほしい、という作り手からの若者たちに対するエールではないのか? と深読みしたいものがある。
「若いうちはもっと遊ばなきゃダメだ」なんて、80年代のケーハクな若者像を再生産したいような説教をしている場合ではない!(笑)
*「白倉ライダー」と『仮面ライダー鎧武』との相違点!
ここまで書けばわかってもらえると思うが、「白倉イズム」を継承とは言ってきたけど、初期平成ライダーシリーズで脚本の井上敏樹(いのうえ・としき)が書いていたキャラの中には、明らかに「私的快楽」の方を優先する「享楽主義」的な傾向の人物が多かった。
それらは80年代~90年前後のバブル経済期の典型的な成り金キャラであり、我々イケてない特撮マニア諸氏の反発をおおいに買っていたのも結局はここであろう――筆者個人もその気持ちはおおいにわかるものの、アレはアレで非常に面白い人物像たちだったとも思ってはいるのだが(笑)――。
『鎧武』ではそういう露骨な私的快楽至上主義キャラは主要人物としては登場しない。むしろ『鎧武』ではそれらのキャラクターを相対化しているようにも思えるのだ。
いささかカタくて重たい話が続いてしまったが、実際『鎧武』がそういう作品だから仕方がない。
『鎧武』における多彩で多面的な「公私葛藤描写」を持ち上げてきた。だが、これを「人間ドラマ」中心でやって、ラストの数分でしかバトルが描かれていないような作品だったら、マジでキツいぞ(笑)。
『鎧武』は本作「序盤評」(編註:拙ブログには未UP)であげたようなカッコいいアクション演出、派手派手なデジタル特撮を駆使したライダーバトルの数々が、本編の公私葛藤ドラマの流れときちんと融合して描かれることにより、「子供番組」としての体裁(ていさい)は「第2期・平成ライダーシリーズ」らしく、きっちりと保たれているのである。
その点で言うなら、仮面ライダーブラーボ=鳳蓮(おうれん)・ピエール・アルフォンゾ(笑)の存在は、やはり特筆すべきものがある。
・第11話で仮面ライダーバロンを襲いながら、「クリスマスはパティシエにとって一番忙しい日なの♡」と語ったブラーボに、バロンが「だったら仕事しろ!」と返したりとか(爆)。
・第13話でブラーボが夜景を背にワインを傾(かたむ)ける、ってなんで人間体に戻らんのや!(笑)
・第18話でブラーボが「ビートライダーズ追放!」を訴え、選挙カーで演説したりとか(笑)。
こういう妙なテンションのエキセントリックなキャラの登場は、まさしく白倉&井上ライダーの時代からずっと継承されているワケだが、初期平成ライダーではここまでのお笑いを披露してくれることはなかったと思う。
だが、決してそれだけではない。
ユグドラシルと契約関係にあるピエールは、第17話で紘太の戦極ドライバーを奪還するため、紘太の清純派な姉・晶(あきら)を自身が店長を務める洋菓子店・シャルモンに監禁……いや、ケーキバイキングにご招待する(笑)。
いろいろあってピエールの弟子となってしまった(笑)仮面ライダーグリドンこと城乃内(じょうのうち)が、グリドンに変身して晶を襲おうと「ロックオン!」するや、ロックシードからピエールの
「バッカモン!」
と怒鳴る音声が(笑)。
こんな緊迫した場面に平気でギャグ描写を入れてしまうのが、『鎧武』のいいところである(笑)。
ピエール「私のお客様に万が一でも失礼があってはならない。あとは力づくで奪えば済む話。これが私の仕事の流儀」
おネエキャラやのに、メチャメチャ男らしいやんけ!(笑)
この洋菓子店・シャルモンもそうだが、紘太たちのたまり場となっているオシャレなフルーツパーラー・ドルーパーズなんかの舞台も、やはり女性視聴者ウケをねらっているのであろう。
ここのマスター・阪東(ばんどう)は、「昭和」ライダー第1期作品を通してレギュラー出演していた立花藤兵衛(たちばな・とうべえ)に匹敵する、まさに「おやっさん」と化しているような印象を受ける。
第16話で、阪東は紘太に
「弱い奴全員が善人と思うか? 力を持った奴がみんな悪人だと思うか?」
と問いかける。そして、
「力そのものに善悪はない。それをどう使うかでヒーローにも怪物にもなる」
と、実に深い話を語るのである!
権力者といえば皆「悪」であり、庶民(しょみん)・大衆は皆「善」であるのだから、後者を疑ってはいけないなどという、1970年代までのインテリ学者の過半が信じていたマルクス主義的な階級闘争図式の極端な善悪二元論を「左」寄りの識者たちが主張していた時代も80年代いっぱいまで本当にあったのだが、「おやっさん」の方がよっぽどマシなこと言ってるぞ(笑)。
さらに、第21話『ユグドラシルの秘密』において、「隠しごとは悪いと思うか?」とたずねた紘太には「場合によりけりだな」と答え、
「何かを秘密にする奴には疑ってかかれ。秘密は力になる」
と、常に的確なアドバイズをすることにより、紘太に戦う決意を新たにさせているのである!
それとはまさに好対照なのが、シドの存在であろう。
第14話で初瀬が変身したインベス怪人を、シド=仮面ライダーシグルドは、鎧武の目の前で倒してしまう!
「どうして殺した!」と息巻く鎧武に、
「人を襲う化けものを始末したんだぜ。こいつはいわゆる正義ってやつだ」
と、平然と言ってのける!
続く第15話『ベルトを開発した男』では、
「汚れ仕事を平気でこなせるようになって、一人前の大人になったってもんだ」――たしかにそのとおりです・笑――
「おまえが奴を逃がしたせいで、よけいな犠牲が出た」
などと、もう紘太を挑発しまくり!
さらに第21話で、シドは守っているのは秘密そのものであって、沢芽市ではないと紘太に語り、いざとなれば
「こんなチンケな街」
と、沢芽市がヘルヘイムの森の植物に占領されれば、その拡散を防ぐために、ユグドラシルが本社でもあるユグドラシルタワーの円盤状の高層部に設置したスカラーシステム(=電波兵器)で、沢芽市ごと消滅させる計画をも暴露する!
紘太「目的が正しくても、やり方が間違っていたら意味がない!」
シド「じゃあ、おまえは俺たちの敵ってことでいいな」
と、どこまでも冷酷に徹しながら、シグが仮面ライダーシグルドに変身するさまは素敵すぎる!
シグルド「ガキは大人の筋書きどおりに遊んでればよかったんだ!」
変身後も変身前のこうしたやりとりを引きずっているからこそ、仮面ライダー同士の対決、彼らの動機や思想や価値観対立も含めたライダーバトルがおおいに盛り上がるワケである!
あと、何かと紘太の「味方」であるかのような素振(そぶ)りをするばかりでなく、舞とウリふたつの「はじまりの女」の正体をも知っているなど、こっちの正体の方がよっぽど知りたい(笑)と思えるDJサガラの存在も気になるところである。
さらには異世界ヘルヘイムでは滅亡したとされていた文明人が、インベス怪人と化しても知性や理性を残したままで進化を遂げた形態、「オーバーロード」なる種族(上級怪人)までもが登場。
DJサガラならずとも、紘太・戒斗・光実ら若者たちが、「大人の事情」に踊らされることなく、自らが踊れるようになる日が来るまで、その行方(ゆくえ)を見守らずにはいられない!
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