(2024年4月14日(日)UP)
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上原正三の生涯を通じた日本のTV特撮&TVアニメ史! 序章・1937(生誕)~1963年(26歳)
(文・T.SATO)
(2021年7月脱稿)
上原正三の生涯をたどること = 日本のTV特撮&TVアニメの歩み!
1970~80年代の日本のTV特撮やTVアニメで膨大な数の作品を産出してきた脚本家・上原正三が2020年1月2日に逝去された。
●1960年代後半の第1次怪獣ブーム時代における初代『ウルトラマン』に始まる、本邦日本特撮の雄・ウルトラシリーズ(66年~)などの円谷プロダクション製作の特撮作品。
●日本特撮のもう一方の雄である元祖『仮面ライダー』(71年)誕生時の企画会議にも関わり――その#1を執筆する予定もあった――、はるか後年の『仮面ライダーBLACK(ブラック)』(87年)や映画『仮面ライダーJ(ジェイ)』(94年)にも参画。
●1970年代前半の第2次怪獣ブーム時代における『シルバー仮面』(71年)や『スーパーロボット レッドバロン』(73年)に『スーパーロボット マッハバロン』(74年)などの宣弘社&日本現代企画(円谷プロの分派による会社)製作による巨大ヒーロー特撮。
●同じく70年代前半の第2次怪獣ブーム変じて「変身ブーム」となった時代における、マンガ家・石森章太郎(いしもり・しょうたろう)原作作品である『ロボット刑事』や『イナズマン』シリーズ(共に73年)などの東映等身大ヒーロー特撮。
●『鉄人タイガーセブン』(73年)や『電人ザボーガー』(74年)といったピー・プロダクション製作の等身大ヒーロー特撮。
●合体ロボットアニメの始祖であるマンガ家・永井豪原作の大ヒット作品『ゲッターロボ』(74年)シリーズや、人間搭乗型の巨大ロボットアニメの始祖である「マジンガーZ」(72年)と世界観を同じくするシリーズ第3作である『UFO(ユーフォー)ロボ グレンダイザー』(75年)に、東映オリジナル作品『大空魔竜(だいくうまりゅう)ガイキング』(76年)といった、東映動画(現・東映アニメーション)製作のロボットアニメの数々。
●変身ブーム(=第2次怪獣ブーム)が終了した70年代中盤においても、特撮ジャンル作品としては例外的に大ヒットを収めた元祖スーパー戦隊『秘密戦隊ゴレンジャー』(75年)と着ぐるみのマスコット的なキャラクターを主役に据えたホームコメディー『がんばれ!! ロボコン』(74年)の大ヒット。
●70年代後半における青少年層での宇宙SFブームの到来やマンガ家・松本零士(まつもと・れいじ)のSF漫画ブームとも連動したことで実現した、幼児受けする変身ヒーローが登場しないことによって単なる勧善懲悪ではない作劇をついに達成して、大マンガ家・手塚治虫(てづか・おさむ)が設立した虫プロが73年に倒産したことで流れてきたスタッフが主導権をにぎっていたことでも知られる東映動画作品『宇宙海賊キャプテンハーロック』(78年)。
●劇画原作者・梶原一騎(かじわら・いっき)の人気劇画の実写TVドラマ化作品である『柔道一直線』(69年)や、女性監督の許での少年野球を描いた『がんばれ! レッドビッキーズ』(78年)シリーズや女子バレーボールを題材とした『燃えろアタック』(79年)などのスポ根(スポーツ根性)路線などの東映製作の人気TVドラマの数々。
他にも、手塚治虫マンガの実写化企画が変遷した果てに実現した巨大ヒーロー特撮『サンダーマスク』(72年)や、日本特撮の本家本元でもある映画会社・東宝が製作することでゴジラ・キングギドラ・ガイガンなどのゴジラ映画の怪獣も登場した巨大ヒーロー特撮『流星人間ゾーン』(73年)。
昭和の『仮面ライダー』シリーズのアクションを担当した大野剣友会が原作・下請け製作も担当した等身大変身ヒーロー『UFO(ユーフォー)大戦争 戦え!レッドタイガー』(78年)。
1960~70年代に家庭用縫製ミシンの製造で隆盛を極めていたブラザー工業1社提供のTBS30分TVドラマ枠「ブラザー劇場」(64~79年)においての現代劇作品と「講談」由来の時代劇作品への参画。
80年前後からはじまるスーパー戦隊シリーズの再立ち上げや、『宇宙刑事ギャバン』(82年)にはじまるいわゆるメタルヒーローシリーズは云うに及ばずだろう。
上原正三の軌跡をただ単に芸もなくなぞるだけでも、日本のTV特撮やTVアニメとその周辺ジャンルの歴史、ジャンル内ジャンルの誕生・分岐、そして同時代の大人気マンガ家、製作会社の監督や同僚の脚本家たち、TV局側の担当プロデューサーといった才人たちとのコラボ、各製作会社の栄枯盛衰、1960~80年代の日本の時代の空気、当時の子供間での流行の変遷といったものまでもが、大づかみで把握ができてしまうほどである。
上原正三の作風・作家性とは「沖縄」出自に起因するだけのものなのか!?
もちろん、特定個人を「個人崇拝」のように持ち上げるのは筆者の好むところではないし、氏にとってもそれは決して本意ではないだろう。よって、上記の作品群のすべてを上原正三ひとりの業績とはしない。
上原と同様に同時代に実に膨大な作品群を産出してきたジャンル系の脚本家としては、辻真先(つじ・まさき)や高久進(たかく・すすむ)や藤川桂介(ふじかわ・けいすけ)などもいる。
しかし、辻はTVアニメ中心で特撮作品への参加は少なく、高久も東映作品が中心で円谷特撮にはほぼ参加はしていない。藤川も東映特撮への参加が少ない。
そうなると、ウルトラ・ライダー・戦隊・ご町内コメディー特撮・合体ロボットアニメ・松本SFアニメ・スポ根モノといったビッグタイトルに始祖の立場で関わってメインライターまで務めた上原の業績をたどることで、期せずして大状況まで俯瞰(ふかん)ができてしまうのだ。
むろん、企画段階から上原が相応に関わっていた作品もあれば、TV局のプロデューサーが主導権を握っていた作品、製作会社のプロデューサーが企画した作品、アニメ製作会社の演出陣が主導権を握っていた作品、そもそも上原が#1などの基本設定確立編を担当はしなかったものの途中参加のサブライターや実質メインライター、最終展開も担当して、職人芸的にその作品らしいエピソードを多数ものしてみせたこともある。
それらの作品群を総合的・俯瞰的に振り返ってみて、改めて個人的には以下のようにも思う。
70年代初頭までのウルトラシリーズを中心とした円谷特撮での担当脚本回でのイメージから、80年代初頭以降に付与されるラテン的・南洋の楽園的なイメージとしての「沖縄」ではなく、それ以前の辺境の地としての「沖縄」出自にその作家性の源泉を求める上原論が80~90年代以降に隆盛を極めていった。
それもまた決して間違いではないのだが、しかしそのような「中心」と「周縁」間でのディスコミュニケーションというアングルだけでも、氏の担当作品のすべてを説明しきるのにはややムリがあるということだ。
コレは決して上原への批判や先人による上原観への否定ではない。それらに相応の理を認めつつも、コレ見よがしの作家性の主張が強い作品群ばかりだったというワケでも決してなかったのである。
・「成長過程の悩める若者による甘酸っぱい青春ドラマ性」
・「荒野をさすらう哀愁あふれるヒーロー性」
・「悩める若者時代は卒業した洒脱なプロ集団による乾いたダマし合いのアイテム争奪戦や要人警護のスパイアクション」
・「複数のメカ怪獣や大要塞による物量攻防劇」
・「ホームコメディー」
・「少女ファンタジー」
・「熱血スポ根」
実に多彩で多種多様な作風の作品を産出してきた御仁でもあったのだ。そして、それこそが上原が真の意味で優れた作家であったことの証明ですらあったと思うのだ――もちろん、一方では多作な作家にアリガチな、自身の過去作に似たようなエピソードのリサイクルなども見られなくはないのだが――。
90年代中盤には、「ボクも『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』を書いてみたい」などといった、子供向け番組卒業後の先輩・伊上勝(いがみ・まさる)が前者に、後輩・曽田博久(そだ・ひろひさ)が後者に、宣弘社や東映のプロデューサー人脈で参加していたゆえだろう、上原を「反体制・反権力の人」と規定していたマニア評論にとってはやや不都合な、杓子定規な尺度によっては権力側のヒーローとされてしまうTV時代劇の執筆も希望したりするような発言をマニア誌でしている。
どのような人間に対しても当たり前のことなのだが、上原もまたひとつのモノサシでは測りきることができない複雑な御仁であり、筆者個人の見解とは異なる相貌を見せた上原についても、本稿では包み隠さず言及していきたい。
――『水戸黄門』は筆者の誤認かもしれない。少なくとも特撮雑誌『宇宙船』Vol.17(84年冬号)「特集 上原正三」インタビューではTV時代劇『必殺』シリーズを書いてみたいと発言――
上原正三と70~80年世代の子供たちの成れの果てのマニアへの影響!
とはいえ、70年代前半の変身ブームが原体験で、もうオジサンでもある、いわゆるオタク第2世代にあたるイイ歳のオタクたちにとっての上原正三の存在はあまりにも大きい。
だいたい後年に同人ライターになったような連中間ではよく聞く共通体験として、幼少時においてもうすでにマニア予備軍であり、子供ながらに漢字も読めないのにTV番組のスタッフ・テロップなどもすべて眼に焼き付けておこうとしてきたようなご同輩たちにとっては、氏のご尊名こそが初めて意識したジャンル作品における製作スタッフ第1号でもあったのだ――小学校の低学年で習うような画数の少ない漢字の名前であったせいもあるだろう――。
そして決定的なことは、80年代に至って上記の世代が思春期・青年期に達した際に再視聴にて再発見された『帰ってきたウルトラマン』(71年)#33「怪獣使いと少年」というアンチテーゼ編の絶大なるインパクトと寂寥感ゆえといったところもあるだろう。
……話はややヨコ道にそれるが、1980年前後の束の間、成長してオトナになってもこのテのジャンル作品を鑑賞しつづけてもイイ、そしてそのことで侮られることがない世の中が到来するのやも! と期待に打ち震えたものだ。しかし、すぐにこのテのジャンル作品に拘泥することは若者間でもダサいこと、クラいことだとされてしまった80年代前半の急激な時代変化がかつてあった――まぁ、同世代内部における、後年でいうイケてる系からのその指摘もまた正論ではあって、まさに正鵠を射たモノではあったけど(笑)――。
巷間(こうかん)云われるところの「80年安保の挫折」というヤツである。
その80年代からでも30数年が過ぎた2020年代の今日となっては、『帰ってきた』の「怪獣使いと少年」に対して、我々が思春期・青年期に感じた絶大なるインパクトもまた、「沖縄」や「弱者」などへの憐憫や共闘を純粋に意味していたワケでも決してなかったようにも思うのだ。
単に80年代に勃興する軽躁・狂騒的な若者文化の中ではウマく生きていくことができずに「弱者」や「少数派」として日々をかこって不全感に苛まれていた我々オタク青年たちの「自分、かわいそ、かわいそ」(汗)といった「自己憐憫」の情もまた相当程度に混ざっていた不純なモノでもあったのだと……。
むしろ、その不純物こそが主成分ですらあり、まさにその不純な気持ちが混交・ブーストされたモノであったのかもしれない……といった30数年後の後出しジャンケンによる自己相対視も可能なのである――鑑賞・批評している側の問題であって、作家や作品の罪ではないことは、くれぐれも念のため――。
そのようなマニアによるジャンル評論史の変遷や、鑑賞しているマニアの側の発達年齢に応じた受け取り方の変遷、そのようなもろもろの実に感慨深い記憶の数々とともにある氏を偲びつつ、上原の業績を主線・背骨として日本におけるジャンルの歴史なども微力ながらもこの機会に振り返ってみたい。
1937~50年・上原正三・生誕~子供時代
上原正三は沖縄出身で1937(昭和12)年2月6日生まれ――早生まれなので実質、1936(昭和11)年度の生まれとなる――。1941(昭和16)年から終戦である1945(昭和20)年の年度までの小学校が国民学校に改称されていた時代、いわゆる「少国民」世代や「疎開児童」の世代でもある。
この昭和10年前後生まれから昭和10年代生まれの御仁たちは、オタク第2世代の両親たちの世代でもある。
マンガ家であれば、1938(昭和13)年生まれの石森章太郎や1933(昭和8)年度生まれの藤子不二雄(ふじこ・ふじお)や1938(昭和13)年生まれの松本零士などのいわゆるトキワ荘世代。
アニメ作家であれば、1941(昭和16)年生まれの宮崎駿(みやざき・はやお)や富野由悠季(とみの・よしゆき)。
プロデューサーであれば、1935(昭和10)年生まれの東映の吉川進(よしわか・すすむ)やフジテレビの子供向け番組全般を担当していた別所孝治(べっしょ・たかはる)。
ジャンル系の俳優としては、初代ウルトラマンことハヤタ隊員を演じた1939(昭和14)年生まれの黒部進(くろべ・すすむ)やウルトラセブンことモロボシダン隊員を演じた1943(昭和18)年生まれの森次晃嗣(もりつぐ・こうじ)だといえば、若い世代にとっての理解の補助線にもなるだろうか?
上原の生年である1937(昭和12)年は日中戦争が勃発した年である。世界に眼を向ければ、その2年後の1939(昭和14)年には欧州でも第二次世界大戦が始まっている。さらにその2年後の1941(昭和16年)には日米間で太平洋戦争も開戦。
オジサンオタクたちの父母の世代はちょうど上原と同世代にもなる。若いオタクたちにとっては祖父母の世代であろう時代に、500年前の南欧主導による大航海時代の北米・南米・アジア・アフリカ地域の植民地化、もしくは19世紀にはじまる欧州各国による帝国主義の時代の最終形として、日本を含む世界各国やその植民地が複雑に入り乱れて総力戦を展開した不幸な時代に、上原やその同世代の御仁たちは子供時代を過ごしたのであった……。
沖縄では20万人、日本本土でも1日で10万人が死亡するような空襲や原爆、世界の各地でも戦災による大量死が発生した不幸な時代がたかだか75年ほど前にはあったということでもある。
――余談だが、一挙に世界平和が到来しない以上は、たとえ紙切れ1枚の条文であっても、1907年の第2回万国平和会議で採択した国際法規「ハーグ陸戦条約」に日本も含む当時の先進各国がすでに批准済だったのであるから、民間に被害がおよぶ攻撃一般は「戦時国際法違反」であったのだという批判で国際法に血肉をやどらし外堀を埋めていくかたちで世界平和に接近していく方法もあるのではなかろうか?
しかし、1991年の湾岸戦争・2001年のアフガン紛争・2003年のイラク戦争では、第2次大戦・1950年代の朝鮮戦争・60~70年代のベトナム戦争のような一度に数万人が死傷するような大規模戦闘は回避されている(そのような事態があれば世界中、当事国であるアメリカでさえも「過剰攻撃だ!」として反戦運動が高まるからだろう)。
その意味では人類社会は微々たるものではあっても前進しているのだとも思うのだ――
上原自身も終戦前年の1944(昭和19)年である小学2年生時に、当時は日清戦争(1894年)で割譲されて日本の統治下にあった台湾へと一時避難後、沖縄へと戻る途中で、アメリカ潜水艦による魚雷攻撃によって疎開児童800人近くが犠牲となった「対馬丸(つしま・まる)事件」の一歩手前のような状況での漂流を家族で経験。鹿児島に漂着して熊本県での疎開生活を送ったことで、終戦の年度であり小学3年生時分であった1945(昭和20)年の主に4~6月にかけての「鉄の暴風」といわれた「沖縄戦」には遭遇せずに済んでいる。
終戦の翌年である小学4年生に進級した1946(昭和21)年に帰郷。その後の小中学生時代は沖縄で過ごしたことになる――中学3年生時分が1951(昭和26)年度――。この間のアメリカ占領下にある沖縄でもタフに明るく米軍相手にイタズラもして生きてきた子供時代は、晩年の自伝的な小説『キジムナーkids(キッズ)』(17年)で推し量ることができるだろう。
1952~54年・上原正三・高校生時代
氏の高校生時代が1952(昭和27)年度~54(昭和29)年度。1952年は前年に署名されたサンフランシスコ講和条約が発効して沖縄ほかを除く日本本土が独立を回復して、公職追放にあっていた日本特撮の父・円谷英二(つぶらや・えいじ)が東宝に復帰。
俗にいうチャンバラ禁止令も撤回されて時代劇が製作できるようになった年でもあり、1954年は云わずと知れた日本における怪獣映画の元祖『ゴジラ』が公開された年である。
略歴によればこの高校生時代に、当時としては画期的な作りであった西部劇の名作『シェーン』(53年)に遭遇して感銘を受けたそうである。アメリカの西部開拓時代における先発の牧場主と後発の開拓農民との土地争いに、外界からの流れ者、民俗学でいうマレビト(希人)である異能のガンマンが事態に介入して去っていく……。上原が多感なころにヒーロー活劇に感銘を受けていたことは興味深くて示唆的である。
超人や改造人間や宇宙人などのヒーローが勃興する以前における、ナマ身の人間ではあるが卓越者ではあったガンマンや剣豪などの西部劇や時代劇におけるヒーロー。我々オタクたちが執着している変身ヒーローの元祖とは彼らのことでもあるだろう。
しかし、後代の幼少時の我々オタク世代は超人ならぬナマ身の人間に過ぎないガンマンや剣豪たちのことを憧憬対象としてのヒーローだとはあまり認識しなかったことも想起する。皮肉にも内外で西部劇や時代劇といったジャンルが衰退していった一因は、我々が愛する超人ヒーローの勃興にあったのではなかろうか?
――長じてから変身ヒーローの変化球や祖先としての西部劇や時代劇の再評価や研究に傾斜していく特撮マニアも相応にいるのだが、ある意味でそれはすでに手遅れの考古学や罪滅ぼしの鎮魂歌のようなものに過ぎないやもしれない――
なお、この『シェーン』は、アメコミ(アメリカンコミック)ヒーローである『Xメン(エックスメン)』(63年)の洋画シリーズ(00年~)のパラレル番外「いきなり最終回」(汗)でもあった、一時は相応数が誕生していたミュータント(突然変異)が誕生しなくなり、絶滅寸前の危機にある老いて衰えたXメンたちを、トランプ大統領下のアメリカ風刺もカラめて描いたシブめのヒーロー洋画『LOGAN/ローガン』(17年)でも、そのストーリーの下敷きの一部とされて、劇中でも安宿の個室の中でのTV放映のかたちで引用されている。
1955~63年・上原正三・大学生~沖縄雌伏時代
氏は大学進学率が全国的にも1割に満たないような時代に、浪人はしているので1956(昭和31)年度~59(昭和34)年度であろう。中央大学に進学して上京も果たしている。その意味では沖縄のみならず本土基準で考えても相当のインテリ・エリートではあって、当時の沖縄人や日本人の平均ではなかったかもしれない――沖縄人の平均ではないから沖縄の純粋な代弁者たりえない、などと云っているワケではないので念のため――。
氏の在学中の1958(昭和33)年には、国産TVヒーロー第1号『月光仮面』がスタート。続けて、『月光仮面』を製作した広告代理店・宣弘社による『遊星王子』(58年)。『月光仮面』の後番組であった白装束姿や獣面のヒーロー『豹の眼(ジャガーのめ)』(59年)。『月光仮面』の原作者でもあり、映画脚本・歌謡曲の作詞家・政治評論家としても高名であった、1920(大正9)年生まれの川内康範(かわうち・こうはん)を東映でも原作者に据えたかたちで、シリーズ後半では後年1970(昭和45)年にJAC(ジャパン・アクション・クラブ)――現・JAE(ジャパンアクションエンタープライズ)――を設立する1939(昭和14)年生まれのアクション俳優・千葉真一(ちば・しんいち)が主演を務めていた『七色仮面』(59年)。同作と同じく千葉が主演していた後番組『アラーの使者』(60年)、川内の手を離れたさらなる後番組『ナショナルキッド』(60年)。
実は『月光仮面』の前年1957(昭和32)年にも、アメリカン・コミックスの『スーパーマン』(38年)を模して、のちの名優・宇津井健(うつい・けん)が主演していた顔出しの宇宙人ヒーローではあったものの、映画『スーパージャイアンツ』シリーズ9作品(~59年)が大ヒットを飛ばしている。
同57年には、名マンガ家・桑田次郎が描いた、仮面ライダーのサイクロン号のようなバイクを駆って二丁拳銃で戦った、少年新聞記者が変装したアイマスクの覆面ヒーロー漫画『まぼろし探偵』も登場。59年にTVドラマ化、60年に映画化もされて、同作も相乗効果で大ヒット作となったそうだ。顔出しだがバイクを駆るヒーローとしては、『少年ジェット』(59年)もほぼ同時期に放映されて人気を博している。
顔出しの超人ヒーローを含めるのであれば、人型ロボット『鉄腕アトム』実写版(59年)や、太古に海底に没した大陸の末裔である科学王国から来た『海底人8823(ハヤブサ)』(60年)なども放映されている。
この1958~60年のわずか3年の間に、いわば「第1次TV特撮ヒーローブーム」とでもいったムーブメントがあったというべきであろう。世代的には、終戦直後(1945(昭和20)~50(昭和25)年)生まれの「団塊の世代」から、いわゆるオタク第1世代の一番上の層(1955(昭和30)年)までが、これらの作品の直撃世代といえるだろう。上原も手掛けた『ウルトラマンエース』(72年)の主人公青年・北斗を演じた1946(昭和21)年生まれの俳優・高峰圭二も、北斗が白いマフラーを巻いているのは『少年ジェット』からの着想でスタッフに直談判して実現したものだったと証言している。
なお、大学受験での上京時に「沖縄差別があるので出自を隠してほしい」と叔父から依頼されたり、大学合格後の下宿への引っ越し時に「琉球人はお断り」と拒絶されたのはこのときのこととなる。
――補足をしておくと、80年代初頭になるや、享楽的な若者文化の隆盛とともに、水着美女を配した観光カタログやTV-CMなどとともに、沖縄には南洋の楽園的なイメージが少なくとも往時の若者たちに対しては上書きされることで、地位は相当に高くなっている。
むしろこの時点では、タレントのタモリが平日正午のバラエティー番組『笑っていいとも!』(82年)で執拗にネタにしたことによって、埼玉をはじめとする北関東や東北地方などが、クラくてダサい位置におとしめられていった。そして、後年のようにそれを受けとめて機転を利かせて自虐的な笑いで返してみせるような流儀・振る舞い方もまだ確立できてはおらず、ただ卑屈な笑いで耐え忍ぶしかないような状況があった。
筆者個人はそういった差別的なお笑いはキライではあったものの、内心ではどうであったかはわからないが、オモテ向きには当時の級友や若者たちのほとんどはそういったお笑いに爆笑をキメこんでおり、実に嘆かわしい時代が到来したものだと失望していたものだ――
時折りしも60年安保を控えた時期だが、上原は学生運動には参加していなかったようであり、映画研究会のシナリオ部に所属。
実相寺昭雄(じっそうじ・あきお)監督の著書『夜ごとの円盤 怪獣夢幻館』(88年2月29日発行)収録「ウルトラマンを作った男――金城哲夫」(初出『潮(うしお)』82年6月号)での実相寺の聞き語りでは、のちに初期『必殺』シリーズなどのあまたのTV時代劇の脚本家として活躍する国広威雄(くにひろ・たけお)主宰「おりじなる」の同人として、沖縄戦や米軍基地問題をテーマとした脚本を書きためていたとのこと。
――60年安保も国民的な運動なのだが、同年の衆院選では政府自民党が300議席目前を獲得。中高卒である機動隊の隊員たちにとっては自分たちこそ労働者、学生こそブルジョワだと感じていたという証言も残っていることから、複眼的に観る必要もあると思うのだが――
大学卒業後に肺結核の療養で帰郷して、25歳である1962(昭和37)年に叔母の引きで、のちに第1期ウルトラシリーズのメインライターとしても大活躍する同郷の金城哲夫(きんじょう・てつお)と出逢う。金城の自主映画『吉屋チルー物語』の編集の最中で、のちに光学合成の第一人者になる中野稔(なかの・みのる)も同席していたそうだ。
翌1963(昭和38)年にも金城プロデュースでお蔵入りとなったTV局・TBSでの放送を目指していた、沖縄が舞台である刑事モノのTV映画『沖縄物語』の制作進行・助監督も務めたとのことだ。
1963年・上原26歳『ウルトラQ』始動
1964年・上原27歳『収骨』
1966年・上原29歳『ウルトラマン』
1966年・上原29歳『快獣ブースカ』
1967年・上原30歳・第1次怪獣ブームの時代
1967年・上原30歳『ウルトラセブン』
1967年・『セブン』#17~モロボシダンと薩摩次郎
1967年・『セブン』「宇宙人15+怪獣35」
1967年・『セブン』橋本洋二&「300年間の復讐」
1967年・『セブン』後半の低落をどう捉えるか?
1968年・上原31歳『怪奇大作戦』
1968年・『怪奇』#16「かまいたち」
1969年・上原32歳『柔道一直線』
1969年・『青春にとび出せ!』『オレとシャム猫』『どんといこうぜ!』
1970年・上原33歳『チビラくん』『紅い稲妻』~『仮面ライダー』前夜
(初出・特撮同人誌『『仮面特攻隊2021年号』(21年8月15日発行)所収『上原正三・大特集』「上原正三の生涯を通じた日本のTV特撮&TVアニメ史① 1970年まで」より抜粋)