『ウルトラマンティガ』最終回 最終章三部作
『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』 〜岡部副社長電撃辞任賛否!
『ウルトラマンサーガ』 ~DAIGO・つるの剛士・杉浦太陽・AKB48投入!
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ウルトラマンダイナ最終回 最終章三部作 49話「最終章I 新たなる影」・50話「最終章II 太陽系消滅」・51話「最終章III 明日へ…」 〜賛否合評
ウルトラマンダイナ#50「最終章II 太陽系消滅」
(視聴率:関東5.4% 中部6.2% 関西6.5%)
ウルトラマンダイナ#51「最終章III 明日(あした)へ…」(最終回)
(視聴率:関東5.6% 中部8.4% 関西9.3%)
ウルトラマンダイナ最終章三部作 〜合評1 ウルトラマンダイナ最終章総括・ヒトがめざす遠いあの星
(文・彦坂彰俊)
(1998年12月執筆)
アスカは死んで星になったのだろうか、それとも時空を越えたどこかの空で今も飛び続けているのだろうか……?
……泣けた。イイ話です、いやホントに。
前作『ウルトラマンティガ』(96年)のラスト(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961207/p1)が傾向的にはセンスオブワンダー系だったこととあえて比較するならば、今回は正統派活劇・浪花節(なにわぶし)キャラクタードラマとしてうまくまとまっている。のみならず、テーマそのものに一本スジを通そうという、真摯な作劇意識もヒシヒシと伝わってくる力作である。
とはいえ、『ティガ』での超古代人の立体映像メッセージを投射するタイムカプセルや、超古代怪獣の登場頻度のあまりの少なさ、超古代文明の滅亡の原因以前にその全貌を徐々に小出しにナゾ解きしていくような展開が欠如していた前例のように、本作『ダイナ』も宿敵・宇宙球体スフィアの扱いなどシリーズ構成的にかなり無計画だった面は否めない。それ故にあからさまな問題点が見受けられるのも確かだ。
にもかかわらず、シリーズ総体で見ると意外にも大きな破綻を感じさせないのは、その世界観がいかに強靭なバックボーンに支えられていたかの証明でもあるだろう。
●前作の1話(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961201/p1)における日本の東北地方の山間にあった「ティガの地」で破壊された数体の巨大石像(ウルトラマンのボディとなる匿体(とくたい))を復元、前作44話「影を継ぐもの」にて光−遺伝子コンバーターでイーヴィルティガの巨大石像に合体した前作のゲスト科学者マサキの研究理論をベースに、兵器として制御可能な人工ウルトラマン(人造ウルトラマン・テラノイド)を造り出す計画(49話)。
それほど大掛かりな資材輸送と人員と予算も要する傍目にも目立つモニュメントを建造するプロジェクトが、火星とはいえ秘密裏に進行していたという前提は、リアルに考えればかなりムチャ(光−遺伝子コンバーターはともかく、石像を復元したテクノロジーのほうはどこから導入したんだって疑問も……)。そもそも地球平和連合・TPC内部でも既にゴンドウ参謀の企て・独走を確定情報として掴んでいたのなら、実行段階以前にシッカリ潰しとけよ(笑)。
もっとも、計画の理念そのものは、16話「激闘! 怪獣島」(脚本・川上英幸 監督&特技監督・村石宏實)(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971203/p1)での「怪獣をクローン化して人間と共存させ、外敵を迎え打たせる」というオオトモ博士の考え同様、必ずしも間違っているとは言い切れないはずなのに、またまた頭から全否定してかかるあたりの作劇には疑問を覚えるのだが(問題は目的ではなく方法論が非人道的だったこと自体にあるはずだ)。
――題材そのものは非常に興味深く、様々な方向で展開させられる可能性があったとは思うのだけど、いかんせん前フリなしでは唐突すぎて説得力に欠ける。
このあたりの考えナシな題材の扱い方は、平成ウルトラシリーズの欠点のひとつでもある。
●スフィア怪獣として再登場した超合成獣ネオガイガレード。してみると、元々の彗星怪獣ガイガレードには劇中で語られていない裏設定が存在していたということか? だとすれば、29話「運命の光の中で」(脚本・吉田伸 監督&特技監督・北浦嗣巳)(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971208/p1)での、まったく脈絡がないように思われた怪獣ガイガレード登場にも、実はちゃんと意味があったワケだ。アレはゼロドライブ計画・プラズマ百式の光速飛行実験に対するスフィアの妨害工作だったという……(そ、そうだったのか!?・笑)。
そーゆー意味では、好意的に見てあげれば隠れスフィア怪獣って他にもたくさんいそうな気がする。23話「夢のとりで」で海底基地を襲撃した深海ウミヘビ怪獣・深海竜ディプラスなんて、特にアヤシイし。25〜26話「移動要塞(クラーコフ)浮上せず(前後編)」(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971207/p1)の水棲生命体スヒュームだって、このあまりにもな語感の酷似はナンだかなぁ。
少なくとも、漫画情報誌『コミックボックス』98年1月号「特集 日本特撮の現在」において、25〜26話の前後編はスフィアのナゾの一端を解明する予定で執筆中、とメインライター長谷川圭一が発言しているから当初はその予定だったハズ(つーか、ホントはそうじゃなきゃ意味がないと思うんだけどな、あの前後編って。29話のガイガレードもだけど。まぁこれらの怪獣の別名に、スフィアとの合体を意味する「〜合成獣」の表記はないけれど……)。
――同じ円谷プロダクション制作の『ミラーマン』(71年)のインベーダーや『ジャンボーグA(エース)』(73年)のグロース星人のように、シリーズ通してのレギュラー宿敵が設定されていて抗争図式が磐石に確立しているうえであれば、各話のクライマックスでの唐突な敵怪獣登場に多少脈絡がなくとも、世界観としては必然性があるのでそれほど違和感はなかった。
敵役としての宇宙球体スフィアの弱点はまさにここで、なまじビジュアルとして具象化されているにもかかわらず登場頻度があまりに少ないので(1・2・35・44話と最終章のみに登場。むろん全話に登場しろなどとは言わないが)、抗争図式が不安定なのだ。そのため、あるいは意図されていたかもしれない裏設定が殊更(ことさら)に見えにくくなっていたとも考えられなくはないだろう。
●「地球人類の宇宙進出(や進歩・進化)を阻止すること」
それがスフィアの目的だったはずだが、“親玉”・暗黒惑星グランスフィアの登場により真の目的
「太陽系の全存在を闇に同化させること」
が明らかになる(51話=最終回)。
なんだか苦しまぎれな感さえ漂う設定変更ではある。
もちろん当初のままでは最終決戦において「倒すべき敵」として設定しにくかったことも確かで、この再設定によって腰が据わったことも事実だろう。
(ただし、クライマックスでバトルをさておき哲学的な禅問答をされても困るけど、さりとてハイブロウさのない単純悪として居直ってしまわれるのにも多少抵抗があるという、このアンビヴァレンツ(二律背反)な感覚・笑)
――ここで問題とすべきなのは、むしろ最終回の作劇においてスフィアの「目的」と「手段」を選り分けずに混同、さらには転倒してしまったことかもしれない。つまり、目的はあくまでも前者「地球人類の宇宙進出を阻止すること」を掲げながら、その最終実行手段として後者「太陽系の全存在を闇に同化させること」を執行するというかたちだったならば、ちゃんと理にも適っていて「SF性」と「活劇性」を両立できたはずだと思うのだが、どうだろう?
(あとは実作品上の肉付けで、元々は超高度の異星文明が宇宙の秩序のために生み出した監視者がバーサーカー(殺戮機械)化した存在だったとかなんとか、もっともらしい設定を付けとけばいいわけであって……)
……と、ここまで批判めいたことを散々書いておきながら、「泣けた」も何もないもんだと突っ込まれないうちに弁護しておこう。
『ダイナ』最終章の真骨頂は、ドラマがそのままテーマを体現しているシンクロ感覚であり、それを裏付ける台詞(セリフ)ひとつひとつの純度の高さにある。とりわけ、アスカ父子(父・カズマ、息子・シン)に関する一連のシークエンスはその極みと言うべきで、初期編から29話「運命の光の中で」などで積み重ねてきたものの集大成として見ると、完成度は非常に高い。
(そのことに比べたら、最終章に登場した火星で植物栽培の研究をしている前作主人公ダイゴとアスカの対話など内容的にはほとんど大したことがなく、ファンサービスとして、ミーハーに喜んでしまえば事足りてしまう程度のものだと思う……・笑)
●15年前に行方不明となった父は、死んだのではなく未知の空へと旅立ったのだとアスカは言う。時間と空間を越えたどこかの空で今も飛び続けている、そして約束どおり帰ってくることを信じていると。
「必ず届く、そう信じられる強さだ」
父の言葉をかみしめながら放つ野球のボールは、今では目がけた遠くの樹に届く……。
●「どうして宇宙に行くの?」 「それが人間だから」
アフリカの谷で生まれた最初の人間は、遠い山をめざして旅立った。そのまま谷に住んでいたほうが楽だったかもしれない、それでも前に進まざるをえなかったのは何故なのだろう?
……カズマはこう答えるだろう。あの山の向こうには何があるのか、そこに未来を見つけたからこそ人間は歩きはじめたのだと。
『ダイナ』の世界観を象徴する強靭なバックボーン。ここにおいてそれが簡潔に要約されていることがわかる。
「人間至上主義」
――思想としては確かに楽観的すぎるかもしれない。
だが生きること、世代を重ねることの意味をここに求めるのも間違いではない。少なくともここには、よりよき未来を築くためにたゆまぬ努力を課す厳しさ、かつ振り向くことなく絶えず歩み続けようとする覚悟がある。その意志表明としては、スジが通っているというべきだろう。
●攻撃をかわした直後にわずかなスキができるというグランスフィアの弱点を突き、必殺光線の一撃を放つダイナ!
地球は救われた。しかしダイナは、時空の歪みの中に飲み込まれてしまう! アスカは死んでしまったのだろうか?
……………時間と空間を越えた未知の空で、アスカは飛び続けている。父と一緒に、前へ向かって!!
この劇中描写からアスカの生死をどう解釈するかは諸説紛々、「未知の空」を「彼岸(ひがん)」と受け取って悲劇的と嘆くファンもいると聞き、それはそれで非常に『ダイナ』らしくて微笑ましい(笑)と思うが、たしかに一理ある主張ではあるかもしれない。
ひたすら前へ進むために、人間としての営みを放棄してしまうのは、観念的には生きていても、事実上は死んでいるのと同じことだという意味において。
カズマの現実時間15年がまさにそうだが、もっとも、これは要するにウラシマ効果というやつで、光速飛行しているカズマの時間感覚は地球上の時間経過とは当然異なるわけである。
故にアスカにも同じことが言えるわけだが、人類の科学はすでにマキシマ・オーバードライブの汎用投入さえ成し遂げ、光速飛行実験も本格的に開始されようという時代。アスカが里心を起こすより先に、こちらから迎えに行く可能性の方があるいは高いかもしれないという。
「アスカに追いつけ! ウルトラの星に向かって!」
というテーゼは、『ダイナ』における人間観の集約であるとともに、つまりは『ティガ』最終回ラスト(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961207/p1)のような「奇跡」に頼らずに、実際的な手段で人間が「光になる」ということの隠喩でもあったのだろう。
あえてここまで触れないでいたけど、劇場版(『ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』(98年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971206/p1))でワリ食ったリョウの扱いも、今回は真のヒロインとしての座を奪い返して大活躍。とはいえ、もうひとりのヒロイン・マイに対しても泣かせるワンシークエンスを挿入するあたり、ツボを心得た配慮に敬服。
長谷川圭一はドラマを手堅く仕上げるヒトだということを再確認した次第。年末公開の『ライオコンボイ危機一髪!』じゃなくて(お約束ネタ♪ 〜アニメ映画『ビーストウォーズII 超生命体トランスフォーマー ライオコンボイ危機一髪!』(98年))、氏が担当する来春の映画『ティガ&ダイナ&ガイア』(←省略してもこの長さ(笑) 〜『ウルトラマンティガ・ウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦』(99年)・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19981206/p1)にもとりあえず期待。
細かいこたぁ、気にせず見ようぜ! (誰に言ってる?)
追記。
本文ではとりあえず避けておいたテーマ表現上の問題点について。
『ダイナ』に限らず『ティガ』にしても、エピソードのなかでの価値判断基準は常に「人間存在」というア・プリオリ(先験的)な前提条件に帰着してしまう。
そんな作劇環境のなかで「人類は善か悪か」という命題を発してみても、「人間『存在』」を否定できない以上、結局はただ悩んでみただけのことでしかない。
本当に問われなければならないのは、「人間『存在』」そのものではなく、「人類の個々の『行為』」のあまたが都度都度、倫理的に正しいのか間違っているのか是々非々なのかという点にあるはずで、その命題を上下左右様々な角度から検証していくというのが真のテーマ編なのではなかろうか?
(たとえば、『ダイナ』のハイパークローン怪獣ネオザルスの回(16話「激闘! 怪獣島」)でのクローン怪獣兵器問題や、最終章の人工ウルトラマン計画など、最終的に否定されるにせよ、議論する価値のある一理も含まれていたように思える)
放映が開始された次作『ウルトラマンガイア』(98年)においても、ライバルの青い巨人・ウルトラマンアグル=藤宮博也の思想はやはり「人間『存在』」の是非論にすぎないため、最終的には「人間存在」を肯定するウルトラマンガイア=高山我夢(たかやま・ガム)に否定されてしまうのが目に見えているし、テーマ的な広がりはそれほど期待できそうにないのが残念。
ウルトラマンネオス&ウルトラセブン21(ツーワン)というW主人公を擁していた流産企画『ウルトラマンネオス』に対する要望をしたためた際にも語ったが、それぞれの事件に対する関わり方・考え方の相違から生まれる対立・葛藤のドラマ。さらに踏み込んで言えば、ある局面ではネオスの行動の方がより正しく、別の局面では21の判断の方がより正しい、時にはどちらも同じ距離だけ正しくないかもしれない……というような描写のドラマを見てみたい。
(関連記事:『ウルトラマンネオス』1995年パイロット版 〜Wヒーローならテーマへの多角的アプローチが可!・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971115/p1)
90年代以降におけるジャンル作品のアンチテーゼ編とは、現実の個々の「行為」に対するその都度の倫理的な是非論議であるべきだと、強く思う今日この頃である。
(後日付記:……以上、あくまでも1998年時点における評価・感慨です。自身が担当したジャンル作品にて『ダイナ』のテーマやセリフを芸もなく何度も反復(劣化コピー?)している、脚本家・長谷川圭一に対する個人的な評価は、2008年現在では下落しています・汗)
(編註:本論考のタイトルは、『帰ってきたウルトラマン』(71年)の異色作#33「怪獣使いと少年」の原題「キミがめざす遠い星」からの引用……というのは70年代末期の草創期マニア向け書籍「ファンコレ(ファンタスティックコレクション)」世代のロートルならば説明不要でしょうが、為念で……)
ウルトラマンダイナ最終章三部作 〜合評2
(文・田呂丸由紀子)
ついに夏休みも今日で終わりです。毎日のようにケンカしてうるさかった子供2人(小6男児と6才女児)を早く寝かせてやっとペンをとりました。
ところで『ウルトラマンダイナ』(97年)終わっちゃいましたね。
実は今、ちょっとショック状態というか、まさかああいうラストを迎えるとは思わなかったので……。かなりのショックな終わり方でした。
最終章I、IIでは、ゴンドウ参謀の野望(彼なりの地球を愛する心から出たこととはいえ)の人造ウルトラマン(アスカのエネルギーを取り出すとは!)の誕生と、スフィアにとりつかれて人造ウルトラマンが暴走する様に手に汗握って見てましたし、最終章IIでのアスカとリョウの心の通い合い(かなりの急展開!)、映画『ティガ&ダイナ』でも見られなかったアスカとダイゴのツーショットにウルウルでした(ダイゴのアドバイス、よかったですね。ウルトラマンであった者じゃなきゃ言えないセリフだし)。
最終章IIIもよかった。
よかったんですけど、せめてアスカをリョウの、いや仲間であるスーパーGUTS(ガッツ)のもとに帰してほしかった。
「オレたちよりアスカはずう〜っと前を行っている」とか「別の次元で生きてる」「いつかきっと帰ってくる」。
確かにそうも考えられるけど……「死んだ」「生命とひきかえに地球を、人類を守った」ともとれる。
ダイナが時空間の裂け目に吸い込まれていくカットに「イヤ〜!」と叫びそうになりました。
「ダイナを、アスカを返して〜!」です。
子供たちにもショックだったようで、「アスカは死んだのかな……」とかつぶやいてるし本当、他の終わり方じゃだめだったのでしょうか?
とはいえ、光の中をアスカのアルファスペリオルと父・カズマのプラズマ百式が並んで飛ぶのが唯一の救いだったかなぁ……。
この2日、色々考えたんですが、アスカは死んではいない、別の次元に行ってる、と少し良い方へとれるようになってきました。いつかまた私たちの前に帰ってきてくれますよね。「不死身のアスカ様」そして「無敵の超人、ウルトラマンダイナ」は。
しっかし、ウルトラマンが女性に告白するって『ダイナ』が初めてでは? いかにも『ダイナ』らしいです。
ウルトラマンダイナ最終章三部作 〜合評3 #49〜51 最終章三部作
(文・久保達也)
★いくら自ら災厄を招いたとはいえ、ゴンドウ参謀の最期(さいご)の行動は男の責任のとり方としてはあまりにカッコ良過ぎて、相変わらず特に根拠もなく「絶対にアキラめねえっ!!」とホザいているだけの主人公アスカがかすんで見えて仕方がなかった。
★前作主人公ダイゴとヒロイン・レナが、ヒカリなんて娘を連れて出てきましたねえ。ウルトラの父と母の実の子がウルトラマンタロウだなんていう所帯じみた設定や、レギュラーの民間人家族の設定を、神秘性を失うものだと言って嫌ってた人々もこういうのは許せるワケ?
★太陽系消滅なんていう史上最大の危機であるにもかかわらず、インベーダーの故郷・惑星Xが地球に激突しそうになる『ミラーマン』(71年)最終回前後編や、ウルトラの星が地球に激突しそうになる(爆)『ウルトラマンレオ』(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20090405/p1)38〜39話の前後編みたく、地球上の海や大地に天変地異が起こるわけでも人々がパニックに陥るわけでもなく(個人的には阿鼻叫喚のパニック描写は好きではないけど)、あまり緊迫感が感じられなかったのは残念である。
★結局、スフィアって何だったんだ?
というわけで、三部作全体でこれくらいしか思うところがなく、意外にも印象の薄い、あっさりとした終り方であった。まして『ティガ』+『ダイナ』の総括なんて出来ではなかった(そんな風にならなかったのは個人的に良いと思うが)。
しかし、あのアスカがウルトラの星になってしまうとは……ホントに意外だったが、仲々キレイなラストで好感が持てた。(『ティガ』最終回ラストみたく、「ハイ、ポーズ!」なんてノリになると思ってたので……)
ウルトラマンダイナ最終章三部作 〜合評4 急ぎ過ぎたのは誰か?
(文・フラユシュ)
貴方(あなた)は自らの心の中に何か漠然と自分より劣った者、あるいは格下の者を想定してはいないだろうか?
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず
で、ゴンドウ参謀なのである。
彼の突然(でもないが)のクーデター(?)行為。本放送時には、今一つピンとこなかったのだが、今になってある程度の期間を置いて冷静に見てみると、彼の行動も解らないわけでもないと理解できるようになった。無論全部を肯定しているわけではないのだが。
彼についての当初の印象といえば、前作『ウルトラマンティガ』(96年)があえてやらないできた、ディスコミュニケーションの展開(注1)を復活させたA級戦犯的キャラの厭味な上司として、極めて個人的に戴けなかった。筆者が『ティガ』を評価したのは、第2期ウルトラ(イーカゲンこのくくり方もやめてほしいんだけど)の定番のこの展開をやらないでいてくれたからなのである。そういった点で筆者はあまり好きな人物ではなかった。
無論、41話「ぼくたちの地球が見たい」等における、ある意味非情な厳しい選択をさせるキャラとしてはスタッフに重宝されていた(注2)とは思うが、筆者のマイナスイメージはついぞ拭えなかった。
で、最終章3部作のあの展開なのであるが、僅か3話にまとめた弊害による急速な展開や、誰もが思いしことだと思うが、人造ウルトラマンを造るというTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)を彷彿させし展開(注3)といい、ウームだったのである。
が、ここで注意したいのは、ゴンドウはどの時点で、人造ウルトラマン計画を企てていたのかという点だ。
更に注意したいのが、前作『ティガ』におけるティガの正体がダイゴであるという事実がどこまでTPC内において報告されていたかという点だ。これはあまり作中においては、明確にはされてはいない(注4)。だが35〜36話「滅びの微笑(前後編)」の大阪決戦のエピソードにおいてゴンドウがダイナの正体を諜報部に探らせていたような雰囲気があったため、TPC関係者内に潜伏していると睨んではいたのかもしれないが、彼はその時点で何を思っていたのだろうか?
もっと光を!
ここで注目したいのは、『ティガ』最終回で光になれたのは子供達のみに見えてしまった点(少なくとも筆者にはそう見えた)。あの時、各特撮同人誌等で「選民的だ」の「大人は希望を持てない者が多いから」等の論が賑わしたが、ゴンドウはあの時、光になれたのだろうか?
選ばれし者の恍惚と不安、共に我に有り
何故アスカなのか? 多くの特撮同人誌等において書かれてきた疑問点である。それは、アスカの正体を知ったゴンドウも同じことを考えたのだろう。俺の方がずっと優れている、もっと地球の未来について考えている、とでも思ったのかもしれない。けれどもそれを驕(おご)りでないと誰が言えよう。
ゴンドウは神にでもなる気でいたのか? 人は会社なり学校なりで普段、自分より劣っていると心のどこかで思っている者が誉められたり立派なことをすると、心のどこかで嫉妬している自分がいないと言えるだろうか? 誰しも心の中にゴンドウのような部分がないとは言い切れないのではないだろうか? 無論それでも何故アスカなのかという答えにシリーズが答えてくれたわけではない。
けれども、それは前作主人公ダイゴも言ったとおり、最後には自分自身で決めなければならないのだが……。アスカは結局、前に進むしかないという人類の命題を象徴する者、それすなわち光だったのであろうか?
人類の進歩と調和
光とは人類の進歩の象徴なのだろうか? ならば、人工的(注5)に人の手により光を造ろうとしたゴンドウは、かって神に近付こうとしてバベルの塔を作り、神の怒りに触れ、塔を倒壊された古代の人々のように破滅したのだろうか?
汚濁と混乱……秩序は常に後から追いかけるものに過ぎない。結局のところ地球人は自分達が何を作っているのかさえわからない。
ゴンドウはけして闇ではない。が、それは光の負の部分(注6)であったのかもしれない。ゴンドウはそれを性急に行おうとして、その結果、破綻してしまったのかもしれない。我々は待たねばならなかったのかもしれない。種を植え、それが芽を出し、実を結ぶのをじっと待つかように。『ティガ』から『ダイナ』は、シリーズを通して人は光になれるかもしれない、人類は前に進まなければならない。けれどもその道をけして急いではいけないのでは? というテーマも最後にはらまれていたのかもしれない。
注1 偶然かもしれないが、長谷川圭一の執筆した『ティガ』39話「拝啓ウルトラマン様」において、第二期ウルトラ定番のディスコミュニケーション描写との決別を描いた節がある。
注2 個人的な意見だが、何故最近の作品はメインキャラに厳しい選択をさせないのだろうか? 『新世紀エヴァンゲリオン』18話「命の選択を」など、アレはレギュラーの女上司ミサトに攻撃するかどうかを判断させるべきで、『ダイナ』の場合もここは上層部のTPCゴンドウ参謀ではなく現場のスーパーGUTSのヒビキ隊長等に言わせる方がベストなのでは? と思ってしまった。キャラに悪いイメージを付加しないようにとの甘やかしの態度に思え、憎んでもいいキャラにそういった役割を割り振る作風は今一つ納得しかねる。
注3 某居酒屋のトークショー(編註:新宿ロフトプラスワン。毎日、サブカル系文化人・批評家によるトークを行っている)において、川崎郷太(かわさき・きょうた)監督いわく、円谷プロの平成ウルトラスタッフは自分を含め『エヴァ』を見ていないというか、あまり知らないと発言…… ホントかなぁ?
ただ、このように意識したとか、パクッたとかを論ずる以前に、ある時期に集中して同時多発的に似たテーマを扱う作品が続出することは、パクリ以前に心理学者・ユング言うところのシンクロニシティ(共時性)や、集団無意識について考察した方が答えが見えてくるかもしれない。
余談であるが、そのトークショウにおいて川崎郷太監督は、『ティガ』39話「拝啓ウルトラマン様」でパン屋が写ったのは単なる偶然で、『帰ってきたウルトラマン』(71年)33話「怪獣使いと少年」のパン屋を意図したわけではないとも発言……。ホントかなぁ?
(後日編註:マニア誌『GaZO 画像』VOL.2(徳間書店・99年4月発行・ISBN:4197200730)にて、『エヴァンゲリオン』の庵野秀明(あんの・ひであき)監督と対談した川崎郷太監督は、「『一体収束感』を肯定する『ティガ』最終回を好きなヒトは、その真逆の『個』のままであることを肯定する『エヴァ』を嫌いなハズだ(大意)」と発言した庵野カントクに対して、「長谷川圭一など平成ウルトラのスタッフでも『エヴァ』を好きなヒトはたくさんいる(大意)」などと、ロフトプラスワンでの発言とは矛盾した反論も行なっていた・笑)
注4 無論『ティガ』のイルマ隊長等の防衛隊GUTS(ガッツ)メンバーやTPC上層部の一部は知ってはいたろうが、それを言いふらすような人達には思えない。
注5 人造ウルトラマンということで、ここでウルトラマンを模した当の庵野監督の『エヴァ』のことについて述べることもたやすい。某居酒屋のトークショウにおいて庵野監督も曰く、最初のウルトラマンは神だったが第二期ウルトラ以降、スタッフは何とか自分達の神様を造ろうとした……と述べられていた。が……あんた人様のこと言えんやん。
注6 書籍『まんが秘宝Vol.2 つっぱりアナーキー王』(洋泉社・97年・ISBN:4896912772)において特撮ライター・切通理作(きりどおし・りさく)が、ダークな作風でカルト的人気を誇る石川賢の漫画版『ウルトラマンタロウ』(73年・「週刊少年サンデー」連載。79年・ASIN:B000J8IR8U。86年・ISBN:488653323X。99年・ISBN:4575936553に単行本発売)をサカナにウルトラの光について触れていたが(石川賢版『タロウ』終盤でタロウの顔面に生じた亀裂から漏れた光を指して、『ウルトラマンティガ』の光にも通じるものがあるという話や、あくまで異色作として優れているにすぎない漫画版『タロウ』のグロさこそが『ウルトラ』の本道だと言わんばかりの主張で、個人的には今一つ納得しかねる内容だった)、意図的か偶然かは解らないが、最終回3部作を執筆した長谷川圭一は、以前のエピソード18話「闇を呼ぶ少女たち」(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971202/p1)において光の負の部分を描こうとした節があると筆者は感じる……。
ウルトラマンダイナ最終章三部作 〜合評5
(文・T.SATO)
巷(ちまた)で諸説紛々たる『ウルトラマンダイナ』(97年)最終回であるが、筆者個人は気に入っている。誤解を恐れずに云えば、前作『ウルトラマンティガ』(96年)最終回よりも感動して涙が出た(笑)。『ティガ』最終章3部作も決して悪くはないけれど、終章第1部#50『もっと高く!』をあとの2本は超えられなかったと感じたからだ。
作品をめぐる外的状況として残念なのは、位置付け的に本作がマニア人気が非常に高い『ティガ』のあとだということだろう。どうしても年長のマニアや特に婦女子にとっては、ある作品にハマると翌年度のシリーズ作品にはノれない現象が多いのは、スレすぎて一回転したようなマニアならばご存じの通りだ。
“1年おきに何たらかんたら”というフレーズや特撮同人誌の誌名などは、ご当人は純粋な愛情表現のおつもりなのだろうが、その好悪とは一致しないファンにとっては不愉快だったりキズついたりする可能性もあるだろう。もちろん筆者のようなイイ歳こいた野郎マニアの場合、そんなに繊細ナイーブではないし、武士は喰わねど高楊枝。仮に不快に思ったところで、キズついた〜〜、自分は哀れな被害者だ〜〜、などという情けない憐れみを乞うようなことは口が裂けても死んでも云うか! と思っているけれど(笑)。
「愛」とは結びつけあう心だといいつつも、半面ではスキ・キライといった差別化を生み出す元凶だともいえ、この世の中の機微は逆説・パラドックスに満ち満ちているのだ。
個人的には、あのラストシーンで主人公アスカが死んであの世で父とともにランデブーしているとはつゆほども思わなかったし、高次元の別世界に行ったのだろうと即座に翻訳されたのだが……。多数の視聴者がアスカは死んだと思ったのならば仕方がない(汗)。
『ダイナ』劇場版『ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』(98年)ラストで、取って付けたように描かれる前作主人公ダイゴとレナの娘・ヒカリの超能力の発現で描かれる人類の進化、新人類への進化テーマ。
イジワルに見れば、人類が集合意識や集合生命に進化するクラークの『幼年期の終り』(53年・ISBN:4150103410)のようなあまりに古典SFなノリで、『新スタートレック』(87年)の機械生命集合体ボーグや『新世紀エヴァンゲリオン』(95年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20220306/p1)の人類補完計画(の否定)のように、「“個”を否定して、安易に“集合”“超越”的なものに進化すること」を否定する昨今の風潮にマッチしていないとも云えるのだけど、まぁそのへんは物語のバリエーションのひとつとして古典のリバイバルもあってイイとは思うのだ。
本作『ダイナ』ラストでは、アスカが“個”を維持したまま高次な存在に移行するワケで、そのスジからのツッコミにも対応ができている(?)。筆者個人も『ティガ&ダイナ』ラストにおけるヒカリの超能力の発現には微量にあった抵抗感が、『ダイナ』ラストにはないのだ。
そのラストは、暴漢に刺殺された、かのオウム真理教の理系幹部・村井も愛読したという、空を高速で飛ぶ技術を究めつづけることによって、徐々に悟り(?)の境地が進んでその都度、カモメがより高次元の異世界の空へと順次移行、生まれ変わっていくリチャード・バックの小説『かもめのジョナサン』(70年・73年に映画化・74年に邦訳・ASIN:B000J94WVA・77年に新潮文庫・ISBN:4102159010)をも個人的には思い出す。
しかし、大河小説『青春の門』(69年〜・ISBN:4061845950)などで有名な五木寛之(いつき・ひろゆき)御大が自身で手がけた邦訳のあとがきに付した疑義と同様に、俗事や生活や肉体を軽視した、理念や理想や精神性を過剰に重視することの危険性といったツッコミは、本作『ダイナ』ラストに対しても論理的にはたしかに可能な批判たりうるのだ。
たりうるのだけど、それはそれとして、どーせ物語・フィクションなのだから(笑)、そこまで云うのもヤボ。それはそれで、ただの観念遊戯。よって、アスカが高次元の世界に移行してしまうラストが、筆者はSF的にはスキである……(別にSF至上主義者では毛頭ないのだけれども)。
(後日付記:宿敵スフィアの最終回における正体(?)やその最終目的は、個人的にSF的には物足りなかったけど、今(2008年)ならばもっとハイブロウに宇宙の進化や摂理に根差しつつもウラハラな、「抑制」し「自己防衛」で「免疫」的な存在、ガイナックス制作の巨大ロボットアニメ『天元突破グレンラガン』(07年)の終盤に登場する「アンチ・スパイラル」がごとき正体を要望するところだろう……。当時はそこまでは思い至らなかったけど・笑)
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(未放映箇所を復元&前作イルマ隊長とヒビキ隊長の同席撮り下ろしカットも含めた最終章三部作の再編集版)(2007・直上「〜ダイナスペシャル」も収録)(#49〜51・最終巻)
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