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ウルトラマンダイナ総論 〜総括・ダイナの赤い輝きに


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ウルトラマンダイナ』総論 〜ダイナ総括

(文・ヤフール)
(1999年7月執筆)
 『ウルトラマンガイア』(98年)の放送中にも関わらず筆者は今、1年遅れで『ウルトラマンダイナ』(97年)にハマっている。


 なぜ本放送当時ではなく、今ごろ『ダイナ』にハマっているのか。その理由は、まずなぜ筆者が本放送当時に『ダイナ』にハマれなかったのかを説明しなくてはならない。


 『ダイナ』は、放送開始当初から第2期ウルトラ的な作品であると、初期ウルトラファン・第2期ウルトラファン双方の間で話題になった。
 『ダイナ』が第2期ウルトラと印象がダブる点は非常に多い。


 まず、主人公が熱血漢であるという点は、『ウルトラマンエース』(72年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20070430/p1)・『ウルトラマンレオ』(74年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090405/p1)に共通する。
 そして、その主人公がトラブルメーカーで、周囲の隊員たちと対立するという展開が『ダイナ』の初期編に多く見られるが、これも『帰ってきたウルトラマン』(71年)・『ウルトラマンエース』と共通する展開だ。
 毎回のストーリーは、前作『ウルトラマンティガ』(96年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20080913/p1)よりも、事件より登場人物同士の関係性や心理描写に力が入れられているようで、これも第2期ウルトラと印象がダブる要素である。


 また、破天荒で特異なキャラクターを持った怪獣が登場することが多かったのも第2期ウルトラの『ウルトラマンタロウ』(73年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20071202/p1)等を思わせるものである。
 ウルトラマンが野球や相撲(すもう)の真似(まね)をしたりと破天荒な活躍をするのも、第2期ウルトラ的だ
 (ただし、この要素は本当は初期ウルトラでもよくやっていたのだが……初代『ウルトラマン』(66年)のエリ巻恐竜ジラースの回の闘牛ごっこや、『ウルトラセブン』(67年)の宇宙帝王バド星人の回のプロレスごっこ(反則技の凶器も用いる!)など)。


 さらに輪を掛けてBGMに“ワンダバ”の男声コーラスが掛かってしまうのだから、これらの要素は第2期ウルトラのファンの自分にとって確かに魅力的であった。


 しかし、制作者側は各マニア向け雑誌のインタビュー等でことさらに、『ダイナ』の作品コンセプトは初代『ウルトラマン』であるということを強調した。
 さらにメインライターの長谷川圭一氏は『ダイナ』制作当初の、特撮雑誌『宇宙船』Vol.82・1997秋号(朝日ソノラマ・97年12月1日発行・実売11月1日)のウルトラコーナー「ウル★魂(うるこん)」インタビューで、


 「2期以降のシリーズも子供が見れば魅力があるんだと思いますが、自分としてはやっぱり小さい頃に体験したマンやセブンに戻るしかないんですね。「セブンシンパ」かと言われれば、確かにそうかも知れません」


 と第2期ウルトラは幼児の鑑賞にしか耐えない作品である、という暗に第2期を否定したニュアンスの発言をしたりした。


 これらのことから、『ダイナ』のスタッフは初期ウルトラファンであり、初期ウルトラを至上としている人間達であると思えた。
 また特撮マニア向けの雑誌のライターが基本的にマニア向け書籍の草創期から初期ウルトラファンばかりであるため、特撮マニア向けの雑誌やホビー誌においても


 「『ダイナ』も『ティガ』も共に初期ウルトラ的である」


 という記述が多くなり、なかには


 「平成ウルトラの存在により第2期ウルトラはウルトラの歴史上から抹殺された」


 というような趣旨の記事まで載るようになっていった。


 しかし、先に述べたように『ダイナ』は、第2期ウルトラ的な要素の多い作品である。いや、いくら特撮マニア向けの雑誌等に『ダイナ』は第2期ウルトラ的ではないと書かれても、少なくとも筆者には第2期ウルトラ的な作品にしか見えなかった。
 そのため、筆者は『ダイナ』は第2期ウルトラをバカにしている制作者が第2期ウルトラと偶然同じことをやっている作品であると思い、そのことが第2期ウルトラのファンの私にとって屈辱的であった。
 偶然同じことをやるのなら、なぜスタッフは第2期ウルトラをバカにするのか? なので自分にとって、ある意味『ダイナ』は『ティガ』以上に視聴が苦痛な作品になってしまい途中で見るのをほとんどやめてしまったのである。


 しかし、『ダイナ』放送終了後の模型誌月刊ホビージャパン』(69年〜)1999年3月号(実売1月25日・No.357)において、円谷プロダクションの笈田雅人(おいだ・まさと)プロデューサーがインタビューに答えて、


 「『ダイナ』は第2期ウルトラの『タロウ』『レオ』の要素が入れてある」


 という、今までの筆者や大方のマニア向け雑誌のライターの認識を覆えす発言をしたのである。


 (ついでに、『ガイア』1話の怪獣・宇宙戦闘獣コッヴは、『ウルトラマンエース』の色彩豊かで複雑な装飾のシリーズ敵怪獣・超獣の要素を入れているとのこと)


 この発言によって、筆者は『ダイナ』が第2期ウルトラ的な要素の多い作品であることを納得し、ここで初めて『ダイナ』という作品を純粋に楽しむことができるようになったのだ。
 このプロデューサーのインタビューを読んでから、改めてビデオソフトをレンタルして全話見返したので、今ごろ『ダイナ』にハマっている。


 だが、ではなぜ制作者側ははじめ、『ダイナ』を初代『ウルトラマン』的な作品にするという発言をしたのか?


 そう考えると、筆者はあることを思い出す。実は『ティガ』のスタート時にも制作者側は、『ティガ』は初代『ウルトラマン』を目指すという発言を各テレビ雑誌等で述べていたのである。
 『ティガ』のサントラCD「ウルトラマンティガ MUSIC COLLECTION」(97年・コロムビアミュージックエンタテインメントASIN:B00005ENGO)のライナーの文章にも同様のことが書いてあるので、『ティガ』のサントラをお持ちの方はライナーを見返して頂きたい。


 そして、『ティガ』の開始時期の雑誌『放送文化』1996年12月号(日本放送出版協会・通称:NHK出版)における18ページにも渡るウルトラの特集記事「ウルトラマンはなぜ帰ってきたか ヒーローが復活した本当の理由」において、『ティガ』のプロデューサーだった円谷プロの満田かずほ氏が、


 「ティガに関わってるスタッフにはハッキリいって“セブンシンパ”が圧倒的に多いんですよ。私はシナリオライターに対しても『(編注:初代)ウルトラマンを書いてよ』といってるんですけどね。シンプルでわかりやすいメインストリームの上で、たまに異色作が出てくるのはいいんですけどね」


 『セブン』に対しても、
 「「当時もけっして高尚なものを作りたいと考えていたわけではないんです。何のお手本もないところで、とにかく面白いものを作りたいという一心だったんです」満田氏はなかば自嘲気味にいう。」


 と、『ティガ』は初代『ウルトラマン』を目指すといっているのに、脚本家に『セブン』ファンが多いので『セブン』的な(厳密には『セブン』のなかでもアンチテーゼ編、37話「盗まれたウルトラ・アイ」・42話「ノンマルトの使者」・43話「第四惑星の悪夢」・45話「円盤が来た」的な)脚本ばかり書いてくる、という趣旨のボヤく発言をしていた。
 この発言以降、『ティガ』はマニアの間で『セブン』的な作品だと言われるようになっていったという経緯がある。


 よって以降は勝手な筆者の想像だが、『ティガ』は初代『ウルトラマン』を目指すといっているのに『セブン』的になってしまったので、『ダイナ』の制作に着手するにあたって円谷プロの上層部からは、“今度こそ初代『ウルトラマン』を目指せ”という指示が出たのではないか。


 しかし、実制作に携わるスタッフたちは、初代『ウルトラマン』的な作品では意欲が湧かなかったのだろう。
 確かに初代『ウルトラマン』はあまりにシンプル過ぎて、正直あの作品世界が今日のテレビ番組や子供向け番組としても時流に沿っているものとは思えない。しかも、輸出用のビデオ販売作品『ウルトラマンパワード』(93年)が『初代マン』の完全リメイク作品であり、その直後で飽きていたというのもあろう。


 そこでスタッフは、建て前的には初代『ウルトラマン』を目指すということにしておいて、実は『ダイナ』を第2期ウルトラ的な作品にするというコンセプトにしていたのかもしれない。
 言ってみれば、『ティガ』のときも初代『ウルトラマン』を目指すという建て前で『セブン』的な作品を作ったわけだから、この推測はあながち間違ってはいまい。
 BGMに“ワンダバ”が掛かってしまうことや、隊員服があからさまに『新マン(帰ってきたウルトラマン)』の怪獣攻撃隊MAT(マット)の隊員服の胸の部分を横切る太いV字型の意匠を意識したものだったりしたのを見ると、確信犯である可能性が高い?!


 長谷川圭一氏の先の発言も、プロデューサーやその他のスタッフは第2期ウルトラ的なものをやりたがったが、長谷川氏個人は第2期ウルトラを否定していて初期ウルトラ的なものをやりたがっていた、ということなのかもしれない。
 長谷川氏は『ダイナ』の重要な話のほとんどを手がけている。
 だが、『ティガ』の重要な話の多くを手がけた脚本家・小中千昭(こなか・ちあき)氏は、『ティガ』制作中の特撮雑誌『宇宙船』Vol.79・1997冬号(97年3月1日発行・実売2月1日)のウルトラコーナー「ウル★魂」でのインタビューで、


 「実をいうと、自分から「こういうのやりたい」って出したお話は「怪獣を待つ少女」(編:9話)と「セカンドコンタクト」(編:6話)の2本だけで、後は、笈田さんから大枠の材料をもらって物語を作っているんです。が、その中で3話「悪魔の預言」だけはちょっと特殊で、予定していたエピソード(編:9話)が先送りになって、ほとんど即興のように一気に書き上げたんです。すごい集中力で書き上げた分、そこに僕のセブンコンプレックスが如実に現れていたと思うんですよ」


 と、小中氏の手がけた『ティガ』の脚本は、笈田プロデューサーが考えた話のアイデアを小中氏が脚本に書き起こしたものが多いと語っている。
 このことから長谷川氏の手がけた『ダイナ』の重要な話も、プロデューサーのアイデアを相当程度に取り入れて長谷川氏が書き起こしたものである可能性は高い。なので『ダイナ』のストーリーは、第2期ウルトラに思い入れがない長谷川氏が書いた回でも、第2期ウルトラ的なカラーを持っていたのではないだろうか。


 『月刊ホビージャパン』に平成ゴジラガメラやウルトラ関係の記事の連載「リング・リンクス(LING LINKS)」(94年〜・編註:連載第100回目の2002年9月号(No.399)で最終回)を持っている特撮ライター、ヤマダ・マサミ氏は、その連載記事の中で『ウルトラマンダイナ』について何かと批判的な記述を書きたがる。
 あるときは、


 「キャラクターが立ってない」だとか
 「セリフがおかしい」とか、


 最近の記事では、


 「『ダイナ』は対象年齢が『ティガ』や『ガイア』に比べて極端に低い」


 と言い切っている。


 『ダイナ』に批判的なヤマダ・マサミ氏の文章は、当時『ダイナ』に思い入れのなかった筆者が読んでもややしつこい印象を受けた。


 最近の記事でヤマダ・マサミ氏は、この『月刊ホビージャパン』のウルトラ関係の連載を単行本にすると書いてあった。
 (後日編註:実際には08年現在、単行本化されていない)
 この連載が単行本にされると、これらの『ダイナ』に批判的な記述が後の世代のファンの目にふれることになり、『ダイナ』を否定する意見がこれによって後の世代のファンに定着してしまう可能性がある。ヤマダ・マサミ氏はそれを期待しているのかもしれないが。


 また、宇宙船別冊『宇宙船 YEAR BOOK 1998』(98年4月10発行・実売3月10日?)も同様で、本来なら終了した『ダイナ』についてのみふれるべきなのに、ライターたちはことさらに放送中の『ガイア』のことばかり書きたがっているのがミエミエであり、『ダイナ』に対してもなにかと批判的な記述が多かった。
 『宇宙船イヤーブック』は、最近の本誌『宇宙船』(80年〜)にほとんど関わっていない初期『宇宙船』のライター池田憲章中島紳介などがなぜかこのときとばかりに論評コラム等で大挙して参加する。『宇宙船別冊イヤーブック98』はきわめて資料性の高いもので、それゆえ後の時代の人間が目にする可能性が高く、穿(うが)って見ればあえてそういう本に『ダイナ』の悪評を載せて、後の世代のマニアに『ダイナ』の悪評を定着させようとしているようにも思える。
 初期『宇宙船』ライターおよび、彼らに同調するヤマダ・マサミ氏らのライターが日本特撮の裁判官を気取っているのはおかしい。
 彼らが『ダイナ』の作風を嫌いで低く評価しているというのはよくわかるし、それを表明するのももちろん構わないのだが、作品評価は人それぞれであり、誰が彼らに日本特撮作品の最終的な審判を固定的な一般論のように断言調で下すことを望んだのか。


 先に述べたように筆者は本放送当時『ダイナ』には思い入れがなく、実際当時見た話も全体の3分の2も視聴していないがそんな筆者でも、キャラクターはメインの主人公アスカ・ヒビキ隊長・ヒロインのリョウの個性は1〜2話の段階で十分描けていたように見えた。
 1〜2話(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961201/p1)の段階ではまるっきり個性も何も描けていなかった『ティガ』のレギュラーに比べれば、はるかに『ダイナ』の方がキャラが立っていると思う(カリヤ隊員については全話を通しても問題が残るが・汗)。


 「セリフがおかしい」という意見に至っては、もう主観的な領域に入ってしまうので何とも言いようがないが、これも筆者にしてみれば別段おかしいと思ったことはない。
 ヤマダ・マサミ氏がおかしいといった台詞(セリフ)とは、7話「箱の中のともだち」(脚本・川上英幸)の


 「これも仕事ですから」


 という台詞だ。筆者は7話は見ていたが、しかし先に述べた通り、この台詞を聞いたとき筆者はおかしいとは思わず、ヤマダ・マサミ氏がおかしいと書いた文を読んでも「そんな台詞あったかな」と思ってしまったくらい印象に残らない台詞だ。
 印象に残らなかったというのは、つまりおかしいとは思わなかったどころか極めて自然な台詞だったという気さえする。


 また、映画『ウルトラマンゼアス』(96年)・同『ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影』(97年)に比べれば、『ダイナ』は随分高度なドラマをやっているが、ヤマダ氏は『ゼアス』には好意的なのに『ダイナ』には批判的である。


 『ダイナ』に批判的なマニアは数多く存在し、ここでは代表的な例としてヤマダ氏についてふれたが、『ダイナ』に批判的なマニアはなぜ『ダイナ』に拒否反応を示すのか。
 『ダイナ』のレギュラーキャラは、内向的なマニアにとってとっつきにくいからではないかと分析する。


 マニアは好きな作品の作品世界に逃避することでアイデンティティを維持しているのかもしれない。
 そして、マニアにとっての好きな作品の条件とは、自分がもしその作品の作品世界に存在したとき、その作品のレギュラーキャラと自分が仲良くなれるかどうかという部分なのではないか。
 その作品のレギュラーキャラと自分が仲良くなれなければ、自分にとってその作品の作品世界は居心地のいい空間ではなくなるからだ。
 『ダイナ』のレギュラーキャラ、防衛隊の「スーパーGUTS(ガッツ)」は体育会系の熱血集団である。なので、マニア的気質の内向的な人物を「スーパーGUTS」の連中が見たら、まずバカにしてくるだろうとマニアたちは想像してしまうのではないか。なのでマニアたちは『ダイナ』の作品世界に拒否反応を示して否定してしまうのではないか。
 (筆者もどちらかといえば内向的なマニアではあるので、もしもそうならば気持ちはわかるし同情もするのだが、しかし神経質すぎる見方ではないかとも思う)


 マニアは自分の興味が湧かない作品を批判したり、あえて無視することにカタルシスを感じ、このカタルシスによる快楽を生き甲斐にしているのではないかと思えるときがある。
 そして先に述べたようにマニアは好きな作品の作品世界に逃避することでアイデンティティを維持しているかに見える。
 この2つのマニアの精神構造は大変病的である。そして、『ダイナ』はいま一部のマニアにとって快楽を提供するためのスケープゴートにされつつある。


作風・演出から見た作品分類

 閉話休題。この手の愚痴を書くとキリがないので、本題の『ウルトラマンダイナ』の作品評に入っていくこととする。
 『ダイナ』の各エピソードがバラエティーに富んでいることは、『ダイナ』をある程度楽しんだ人には今さら言うこともないことだが、バラエティーに富んでいる『ダイナ』のエピソードは大ざっぱに分類すると3つの流れがある。


 1つはメインのストーリーとなる「熱血シリアス編」とでもいうべき作品群で、
 1〜2話「新たなる光(前後編)」
 (脚本・長谷川圭一 監督・小中和哉)、
 3話「めざめよアスカ」
 (脚本・吉田伸 監督・石井てるよし)
 (http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971201/p1)、
 25〜26話「移動要塞(クラーコフ)浮上せず!(前後編)」
 (脚本・長谷川圭一 監督・村石宏實)、
 29話「運命の光の中で」
 (脚本・吉田伸 監督・北浦嗣巳)、
 49〜51話(最終回)の最終章三部作
 (脚本・長谷川圭一 監督・小中和哉
 (http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971211/p1)や、
 劇場作品『ウルトラマンティガウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』
 (脚本・長谷川圭一 監督・小中和哉
 (http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971206/p1
 などが代表的な作品。


 そして2つ目は「ギャグ編」で、
 13話「怪獣工場」
 (脚本・川上英幸 監督・北浦嗣巳)
 (http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971202/p1)、
 21話「発熱怪獣3000度」
 (脚本・古怒田健志 監督・北浦嗣巳)、
 30話「侵略の脚本(シナリオ)」
 (脚本・川上英幸 監督・北浦嗣巳)
 (http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971207/p1)、
 42話「うたかたの空夢」
 (脚本&監督・川崎郷太)
 (http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971210/p1)など。


 13話と30話の2回に登場した知略宇宙人ミジー星人3人組は、『ダイナ』の「ギャグ編」を象徴する傑作キャラクター。また、話題の42話「うたかたの空夢」も忘れられない。


 3つ目は「ファンタジー・マイルド編」で、
 7話「箱の中のともだち」
 (脚本・川上英幸 監督・村石宏實)、
 8話「遥かなるバオーン」
 (脚本・太田愛 監督・村石宏實)、
 12話「怪盗ヒマラ」
 (脚本・太田愛 監督・原田昌樹)、
 20話「少年宇宙人」
 (脚本・太田愛 監督・原田昌樹)
 (http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971208/p1)、
 41話「ぼくたちの地球が見たい」
 (脚本・太田愛 監督・川崎郷太)、
 43話「あしなが隊長」
 (原案・満留浩昌 脚本・右田昌万 監督・村石宏實)、
 47話「さらばハネジロー」
 (脚本・川上英幸 監督・原田昌樹)、
 48話「ンダモシテX(エックス)」
 (原案・京本政樹 脚本・右田昌万武上純希 監督・北浦嗣巳)など。


 これらは、ほのぼのとしたドラマがさわやかな余韻を残す作品群で、野暮(やぼ)な人が見れば照れてしまうといった作品群だ。しかし12話「怪盗ヒマラ」のような、ほのぼのとしながらも不条理劇調の異色作もある。


 これらの3つの分類には、異論のある『ダイナ』のファンもいるかもしれないが、とりあえずこの文では、便宜上こういう分類をさせて頂いた。


 この3つの分類をスタッフ別に見ていくと、


 メインストーリーの「熱血シリアス編」は、演出は小中和哉(こなか・かずや)氏が手がけることが多く、脚本は長谷川圭一氏が多い。ただし小中和哉氏が劇場作品『ティガ&ダイナ』に関わっていたころは、村石宏實(むらいし・ひろちか)氏が演出することが多かった。


 「ギャグ編」は、基本的に北浦嗣巳(きたうら・つぐみ)氏が演出を担当していた。北浦嗣巳氏のギャグ演出はギャグ調のコマーシャルフィルムの演出を思わせるシュールかつハイセンスなもので、このあたりに鬼才監督・実相寺昭雄氏が主宰する制作集団「コダイ」に所属する北浦氏らしいセンスをかいま見ることができる。
 「コダイ」は実際、普段はコマーシャルフィルムの制作に参加していることが多く、北浦監督のコマーシャルフィルム的なセンスは、そういったところから受け継いだものだろう。北浦監督は「熱血シリアス編」も何本か手がけているが、コマーシャルフィルム的な北浦監督のセンスはシリアスな作品でもしばし発揮されている。


 「ファンタジー・マイルド編」は、原田昌樹(はらだ・まさき)氏が演出することが多かった。原田監督は本作において、「ウルトラ」参加前にヤクザものVシネマばかり撮っていたのが信じられない情緒的で繊細な演出を見せた。
 日活出身の藤田敏八(ふじた・としや)監督の助監督を勤めていたというだけあり、原田監督の繊細なカラーは良い意味での日本映画的なカラーという気がする。
 また原田氏は12話「怪盗ヒマラ」では、不条理劇調のストーリーに合わせて前衛的なセンスも見せ、引き出しの多さを感じさせた。『宇宙船別冊イヤーブック98』のインタビューで


 「どんな脚本でも面白く撮る自信はある」


 と言い切る原田監督の作品に掛けるパワーには圧倒されてしまう。
 (後日編註:原田昌樹監督は癌による心不全で2008年2月28日に享年54歳の若さで逝去されました。その後の主な仕事はやはり特撮変身ヒーロー『魔弾戦記リュウケンドー』(06年・松竹・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20061225/p1)のメイン監督でしょう。合掌)


 「ファンタジー・マイルド編」の脚本は、太田愛女史が圧倒的に多い。舞台演劇出身の太田女史の脚本は、小説のショートショートか小劇団の演劇を思わせる独特のセンスを感じる。
 太田愛女史は、文芸批評雑誌『ユリイカ[誌と批評]』1999年5月号「特集 モンスターズ!」(青土社ISBN:4791700457)における寄稿「異界、そして異形の者をめぐる記憶」で、自身のウルトラにおける作品について


 「ウルトラマンにあるまじき話を書き、おそらく顰蹙(ひんしゅく)を買っている」


 と書かれているが、その太田女史の“ウルトラマンにあるまじき話”を楽しんでいる筆者のようなアマノジャクもいるので、どうか自信を持ってがんばって欲しいと思う
 (って言ってももうすぐ平成ウルトラはこの8月に『ガイア』が最後で終了してしまいますが……)。


 (後日編註:云うまでもなく平成ウルトラ3部作の90年代後半は、80年前後に特撮マニア論壇が成立してからもとうに久しい時代。
 放映当時の特撮同人界・インターネット界のマニアの感想を含めても、太田愛に対する絶賛はあれども批判を読んだ記憶が編集者には思い浮かばない。当時としても太田がひんしゅくを買っているような事態はさらさらなかった。よって太田の謙遜・謙譲の美徳の現れと見るのが妥当かと(笑)。
 娯楽編・イベント編や職人芸的通常編よりも、異色作・アンチテーゼ編ばかりを手放しで賞揚してしまう風潮の問題点については、ここではさておく)


 蛇足ではあるが、本作『ダイナ』ではいまや業界注目の演出家(“映画監督”になる日はいつか……)の川崎郷太(かわさき・ごうた)氏が2本だけ参加しているが、その川崎氏は「ファンタジー・マイルド編」と「ギャグ編」を担当したのが興味深い。


 1本目の41話「ぼくたちの地球が見たい」は「ファンタジー・マイルド編」で、脚本も「ファンタジー・マイルド編」がお得意の太田愛女史が手がけた。
 2本目の42話「うたかたの空夢」は川崎監督自身の脚本による「ギャグ編」で、川崎監督自身のマニア性と、マニア出身でありながらしっかりとした川崎監督の演出力が発揮され、マニアの間では高い人気を誇っている。
 「うたかたの空夢」は、一応「ギャグ編」に分類される作品だが、実はストーリーは「熱血シリアス編」のパロディーとなっている。「うたかたの空夢」は川崎監督のマニア性が強調された作品だ。
 が、もう一方の「ぼくたちの地球が見たい」の方は、第1期ウルトラを支えたTBS出身の飯島敏宏監督がのちに社長〜会長を務めた、日本映画界に名を残す松竹出身の木下恵介(きのした・けいすけ)監督に発する木下プロ(編:03年よりドリマックス・テレビジョンに社名変更)出身という川崎監督のもう一つのカラーがかいま見れる。この作品で川崎監督はTBSドラマ的な繊細な感性を見せた。


 本作で川崎氏が「ファンタジー・マイルド編」と「ギャグ編」を担当したことになったのは、本人の意志なのかそれともプロデューサーの意向なのかはわからないが、川崎氏が「ファンタジー・マイルド編」と「ギャグ編」を担当したのは的確な采配だったように思う。
 川崎監督は『ティガ』でも16話「よみがえる鬼神(きしん)」や27話「オビコを見た!」といったギャグ色の強い作品をハイテンションに撮っているので「ギャグ編」に向いているし、またその一方で川崎氏は繊細な感性の演出をするので「熱血シリアス編」よりは「ファンタジー・マイルド編」が向いているだろう。


 どうも川崎氏と平成ウルトラの制作サイドの上層部とは確執があるらしく(編:各種書籍や円谷プロファンクラブ会報によると、「よみがえる鬼神」では実相寺昭雄監督のマネであると批判され、「オビコを見た!」では関係各所に事前の断わりや手続きなくオビコの最期(さいご)を脚本とは変えて撮影して大問題になったことが明かされている)、本作では川崎氏は2本しか担当していないが、もし『ティガ』のときのようにローテーションに入っていたら、北浦嗣巳氏や原田昌樹氏の作品とは、また違った魅力の「ギャグ編」「ファンタジー・マイルド編」を撮ってくれたのではないかと思うと少々残念ではある。


 「熱血シリアス編」は、やはり重厚な映像とテンポの良さで見せる監督か撮ったほうがいいと思うので、テンポの良い演出をする村石宏實監督は適任だと思ったのだが、各種マニア向け書籍のインタビューによると村石氏自身は本作『ダイナ』の作品カラーがあまり気に入っていないようで残念だ。
 本作のメイン監督・小中和哉氏は本作には企画のブレーンから参加しているようだが、筆者の所見では自主映画時代と同様に、本当は「熱血シリアス編」より「ファンタジー・マイルド編」が合っていたのではないかと思う。
 原田昌樹監督は実は「熱血シリアス編」も何本か撮っており、そのなかの31話「死闘! ダイナ対ダイナ」等で、重厚な映像とテンポの良い演出をしていた。なのでいっそのこと、原田氏がメイン監督でもよかったのではないかと個人的に思うが。
 村石宏實氏はカメラ割りがオーソドックスすぎてあまり印象に残らない感じだから……(←トーシローのうわごとですので聞き流して下さい)。


 「熱血シリアス編」は、過去の円谷作品に参加した監督でいえば、深沢清澄(ふかざわ・きよずみ)氏――『タロウ』『レオ』『スターウルフ』(78年)などに参加。『レオ』では3〜4話の奇怪宇宙人ツルク星人編、9話「宇宙にかける友情の星」宇宙星獣ギロ編、10話「かなしみのさすらい怪獣」ロン編、22話「レオ兄弟対怪獣兄弟」レオの弟・アストラ登場編、23話「ベッドから落ちたいたずら星人」、40話「MAC全滅! 円盤は生物だった!」、41話「悪魔の惑星から円盤生物が来た!」など――が撮ったら一番ハマッたのではないかとマニアックな妄想にふける筆者だった……。


『ダイナ』と『レオ』の熱血の差異

 ではここから先は、『ウルトラマンダイナ』のドラマとしての総括的な作品論に移っていこうと思う。


 いろいろな作品が入り乱れる『ダイナ』を総括するのは難しいが、やはりメインのストーリーは「熱血シリアス編」なので、総括しようとすると「熱血シリアス編」についての作品論が中心にならざるをえない。
 なので、ここから先は事実上「熱血シリアス編」論になっていくことをお断りしておく。


 『ダイナ』の熱血ドラマは、先のプロデューサーの発言からもわかるように、『ウルトラマンレオ』等を意識したものである。
 しかしこの熱血ドラマの要素は『レオ』だけでなく第2期ウルトラの全作品に多かれ少なかれ存在する要素だ。第2期ウルトラのなかでは『レオ』が最も「熱血ドラマ」の要素が強調された作品ではあるが。


 『レオ』および第2期ウルトラの熱血ドラマと、『ダイナ』の熱血ドラマは一見同じものに見える。しかし実は根本の部分が異なるのである。
 第2期ウルトラの熱血ドラマをトレースしたつもりの『ダイナ』のスタッフは、第2期ウルトラの熱血ドラマの重要なところを見落としており、その見落としている部分は第2期ウルトラの熱血ドラマの根幹の作劇思想である。


 つまり『ダイナ』のスタッフは、『ダイナ』において第2期ウルトラの熱血ドラマの実に表面的な部分しかトレースしていないのにも関わらず、第2期ウルトラの熱血ドラマをトレースしたつもりになっていると思われる。
 こう書くとなにやら批判めいているが、筆者自身は『ダイナ』が第2期ウルトラの熱血ドラマを完全にトレースしきれなかった部分が、逆に『ダイナ』という作品に第2期ウルトラとはまた違ったカラーを与えていたと思うので、それなりに楽しんでいる。


 熱血ドラマは、第2期ウルトラの全作品に存在する要素である。
 この要素は、第2期ウルトラおよび、この70年代のTBSの夜7時台のドラマの制作を取り仕切っていたTBS映画部の局プロデューサー(後に1973〜78年まで映画部部長)橋本洋二氏のカラーである。


 橋本氏は「あらゆるドラマは人間の内面から生じる」という理念を持った、人間の「情念」と「怨念」にこだわる人間ドラマ(ヒューマンドラマ)重視のプロデューサーである。
 この橋本氏の方針から『コメットさん』(旧67年・新78年)、『怪奇大作戦』(68年)、『刑事くん』全5シリーズ(71〜76年)、『柔道一直線』(69年)、『刑事犬カール』(77年)などの名作TVドラマが生まれた。


 もっとも『レオ』は、同人誌『橋本洋二 大全集』(森川由浩・98年8月16日発行)掲載の特撮同人ライター・本間豊隆氏の橋本洋二インタビューによると、橋本氏はテロップには出ていても前年にTBSの部長に昇格したために企画の出だしにしか関わってはいないそうで、毎回のシナリオ審査には立ち合っていないそうだが。
 しかし『レオ』に関しては、直にタッチしていなくても橋本氏の息のかかった文芸スタッフがやっていたので、出来上がった作品は紛れもなく橋本氏のカラーの作品に仕上がっていたと思う。
 橋本氏が不在でも、まるで橋本氏が関わっているかのような作品をスタッフが作り上げてしまったということが、橋本氏に人望があったことを物語っているのではないか。
 なので、この文では『レオ』を事実上の橋本作品とみなして論を進める。


 橋本氏は、よく「熱血ドラマ」というコンセプトを自身の担当作品で打ち出した。
 それは、市川森一脚本集『夢回路――魔法 怪獣 怪奇 ウルトラマン 青春 犯罪』(89年・柿の葉会・ISBN:4906232167)の橋本氏のインタビューによると、安保闘争日米安全保障条約に反対する社会運動)の全学連全日本学生自治会総連合〜いわゆる学生運動)の敗北によって日本社会にもたらされてしまった“体制に反発しても無駄”という“シラケ”ムードに対するアンチテーゼだったという。
 70年代の橋本作品の熱血ドラマは、いわば70年代の反骨主義の象徴なのである。ウルトラ以外では『柔道一直線』『刑事くん』といった作品も熱血ドラマだった。


 しかし、橋本氏の作品における「熱血ドラマ」は、いわゆる「精神主義」ではない、という点が異色である。
 この点については、本誌前号『仮面特攻隊99年号』(98年12月29日発行)の筆者の拙長文「怪獣無常!… 第2期ウルトラにおけるアンチテーゼ編深遠度 徹底発掘解析」での記述の訂正となってしまうが、『悪魔くん』(66年)・『仮面の忍者 赤影』『キャプテンウルトラ』『ジャイアントロボ』(以上、67年)・『仮面ライダーZX(ゼクロス)』(84年)までの『仮面ライダー』(71年)シリーズや『秘密戦隊ゴレンジャー』(75年)・『ロボット8ちゃん』(81年)〜『じゃあまん探偵団 魔隣組(まりんぐみ)』(88年)までの東映不思議コメディーシリーズ等を手がけてきたベテランの東映プロデューサー・平山亨(ひらやま・とおる)氏が執筆した『東映ヒーロー名人列伝』(99年3月発行・風塵社ISBN:4938733633)という今年出版された本に、『柔道一直線』『刑事くん』の制作中の裏話が出てくる
 (『柔道一直線』『刑事くん』は、平山亨氏がTBSの橋本氏と組んで制作した作品)。


 この本によると、このとき橋本氏は『柔道一直線』の制作にあたって


 「柔道ものだけど精神主義はいやらしいから止めよう」


 という制作方針を打ち出したという。


 この言葉を受けて『柔道一直線』では、根性によって一生懸命特訓しても技が鍛練されていなければライバルは倒せない、という展開のドラマになった。
 『柔道一直線』では、根性で一生懸命特訓しただけで奇蹟が起こってライバルを倒せる、という従来のスポ根(スポーツ根性もの)ドラマにありがちな展開は否定された。


 よって『柔道一直線』は、根性ものでありながら精神主義を否定するという作品となった。既成の根性ものと異なる、かなりひねった視点の、いわば「脱・根性もの」「メタ・根性もの」とでもいえる作品が『柔道一直線』だったのだ。
 この“精神主義を否定する根性もの”というコンセプトは、『柔道一直線』以降の『刑事くん』や第2期ウルトラといった橋本作品の熱血ドラマの根底に流れるポリシーとなっていった。


 『ウルトラマンレオ』の13話「大爆発! 捨て身の宇宙人ふたり」(脚本・田口成光)透明宇宙人バイブ星人編では、レオが敵の宇宙人を倒すために技の特訓をするが、根性で一生懸命やったにも関わらず、技が完成しないまま話が終わってしまう(巨大化した宇宙人はダン隊長が戦闘機マッキー3号の特攻で倒し、特訓の成果は皮肉にも宙を爆風で飛ばされたダン隊長のキャッチに役立つだけ)という従来の根性ドラマでは考えられない展開がある。
 これも精神主義を否定する「脱・根性もの」という橋本作品のカラーが如実に表われた好例である。


 『ウルトラマンレオ』の精神主義の否定は、防衛隊・MAC(マック)のモロボシダン隊長(変身できなくなったウルトラセブン)のキャラクターに集約されている。
 ダン隊長は主人公おおとりゲン(ウルトラマンレオ)の特訓に対して、努力したかどうかということよりも、技が完成したかどうかという「結果」について非常に厳しく追及する。ここに根性ものでありながら精神主義を否定する『レオ』および橋本作品の特徴が表われている。
 ダンは、ゲンが特訓の辛さに耐えられず泣き出しても「お前の涙で敵が倒せるか!?」とゲンを突き放すのである。
 泣こうがわめこうが、「結果」が出なければ意味がない、そう言い切ってしまうのが『レオ』のダンである。こういったダンのゲンへの特訓は、日本的なしごきというよりは、欧米的なスパルタ教育に近い。空手着を着て特訓しているので一見日本的な印象を与えるが、それは表層的な部分である。


 こういった精神主義の否定という橋本作品の根性ものは、根性ものでありながらクールなニュアンスを作品に与えている。
 この部分が、他の根性ものと橋本作品との違いである。そのなかでも『レオ』はダンが非情で冷徹なキャラとなっており、それが作品のなかで存在感を持っているため、他の橋本作品と比べるとよりクールなニュアンスが強調されていた。


 『レオ』4話「男と男の誓い」(脚本・田口成光)は、瀕死の状態から救われたばかりのゲンを内心心配しつつも、ゲンを鍛えるしか地球を救う方法はないと、人情を捨ててゲンに非情な特訓を課すダンの苦悩のドラマでもある。
 正義のためには非情にならなくてはいけないときもあるというテーマは、のちに7話「美しい男の意地」(脚本・阿井文瓶)植物怪獣ケンドロス編でもヒロイン百子(ももこ)や少女カオルが愛でる、成長すると花弁が凶器(ケンドロス星の地獄花こと剣輪草)になってしまう美しい草花を彼女らから取り上げることが気の毒でできないゲンとそれを大局から見て叱責するダンの対立をはじめとして、他の回でもこの回とは違うかたちで描かれる。
 これらの作品は、ダンが非情で冷徹なキャラであることをドラマの中心に置いた作品で、根性ものでありながらクールな『レオ』の作品カラーが顕著に表われた作品である。


 『ダイナ』において、『レオ』および第2期ウルトラの熱血ドラマの実に表面的な部分しかトレースしていないと先に述べた。
 それは橋本作品の“根性ものでありながらクール”という部分が、『ダイナ』ではトレースできていないということなのだ。
 『ダイナ』の熱血ドラマはやはり、“「熱血・根性」イコール「精神主義・あるいは人情」”という、橋本作品以外の熱血ドラマに見られる従来的な図式に則(のっと)っているように思える。


 SF映画『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』(99年)の公開が話題を呼んでいる昨今である。
 『スター・ウォーズ』はシリーズを通して「フォース」という極めて「精神主義」的なパワーの設定があり、物語のコアとなっている。
 監督のジョージ・ルーカス氏は、『エピソード1』の公開に先だったインタビューで「自分の体の中にフォースを感じるときがある」という発言をしていることから、本気で「精神主義」に傾倒しているようである。


 一般的に、
 「精神主義」は東洋的なもの、
 「精神主義」の否定(≒「物質主義」)は西洋的なもの、
 と言われる。
 が、日本人でありながら「精神主義」を否定して根性ものを作りつづけた橋本洋二氏と、西洋人でありながら「精神主義」に傾倒しているジョージ・ルーカス氏を比較すると、そういう既成概念が逆転しているのが面白い。


 (『仮面特攻隊99年号』「怪獣無常!…」で、筆者は“橋本作品イコール精神主義”というような論法で書いてしまったが、筆者の見解の誤りであることをここに陳謝します……。
 あの原稿は、平山亨氏が書いた『東映ヒーロー名人列伝』が出る前だったから資料不足だったのよ……っていうのはやっぱり言い訳でしょうか。
 この平山亨氏が書いた本のおかげで、筆者が今までなかなかうまく言葉にできなかった橋本作品の熱血ドラマの魅力が言葉にできたわけで、平山氏には感謝いたします。
 うまく言葉にできなかったので、今までの橋本氏に対するマニア間での通説に影響されちゃったんだよう。
 こんなとき『レオ』だと、キーーンとどこからか杖が飛んできて「言い訳などいらん!!」とダンに怒られるんだけど・笑)


 話が『ダイナ』からどんどん脱線していくが、『レオ』と他の橋本作品の熱血ドラマとの違いはもう一つある。
 『レオ』の熱血ドラマは、『刑事くん』や『柔道一直線』の「健康的な熱血」ではなく、「狂気と紙一重の熱血」であるという点だ。
 また『レオ』は残酷描写が多い。これらの点は、『レオ』と他の橋本作品との大きな違いである。
 これらのことから、『レオ』の作品世界には永井豪石川賢のマンガの世界に通ずる「狂気」と「サディズム」が存在するともいえる。


 この辺は、『レオ』をそれなりに楽しんだ人ならお分かり頂けると思う。


 ゲンの常軌を逸した絶叫や、特訓する際のダンの危ない目つき(6話「男だ! 燃えろ!」暗闇宇宙人カーリー星人編でのジープでゲンを追いかけるときの表情が特に危ない!)からは、熱血を通り越した「狂気」が感じられる。
 初期編に多く登場する通り魔星人や50話「レオの命よ! キングの奇跡!」の円盤生物(?)星人ブニョといった猟奇的な敵キャラクターが多く登場したことも、作品世界に「狂気」の存在を感じる要素だ。


 また、ウルトラシリーズ中最も残酷描写が多いこと(3話のツルク星人の両刀による人体真っ二つや、40話のMAC全滅編での円盤生物シルバーブルーメの口から内臓をひきずり出すレオ、また50話の星人ブニョのノコギリによるレオのバラバラ殺人など)や、ダンの特訓が過激なことは有名だが、この部分には独特の「サディズム」を感じてしまう。
 これらの『レオ』独特といえるアナーキーさ(良識からの逸脱・無秩序)は、一体制作スタッフの誰のカラーなのかは謎だが、意識してやっているのは間違いないだろう。


 (編:70年代前半は、60年代までの勧善懲悪(?)ヤクザ映画とは異なる明快な善悪のない、ハンディカメラや細かいカット割りによる全編アクションシーンの羅列である『仁義なき戦い』(73年)シリーズなどの新種の実録風ヤクザ映画や、『木枯し紋次郎』『必殺仕掛人』(共に72年)などのアウトローTV時代劇で、テーマ的・映像的実験が大流行した時代。制作前年の73年には第1次石油ショックやSF小説『日本沈没』にノストラダムスの大予言などの終末ブームやオカルト心霊・UFOブームが訪れていたことも含めて、『レオ』の作風はあの時代の切迫した空気が直接間接に発現したものでもあるのだろう)


 これらの「サディズム」と「狂気」というある種の「毒気」と、
 先に述べた「根性ものでありながらクール」というスタンス。
 そして拙文「怪獣無常!…」で筆者が述べている勧善懲悪の枠から外れた「アンチヒーロー性」。


 この3つが筆者にとっての『レオ』のドラマの魅力である。


 また、それまでの冬木透(ふゆき・とおる)氏の曲とは違う、ハープやティンパニーを多用し、ハリウッドの映画音楽を彷彿させるゴージャス感のある音楽(ASIN:B00005H0IGASIN:B000H30GSQ)や、『ミラーマン』(71年)や『ジャンボーグA(エース)』(73年)では参加済だがウルトラで唯一特撮研究所の特撮監督・矢島信男氏がローテーションに入った特撮、そして真船禎(まふね・てい)氏・岡村精(おかむら・まこと)氏・深沢清澄氏・外山徹氏・前田勲氏・山本正孝氏らの本編の凝った演出、といった『レオ』のドラマ以外の部分の魅力も忘れられない。


 『レオ』の前作『ウルトラマンタロウ』は「虚構における夢」というべきものが作品のコンセプトだったが、『レオ』はそれを裏返すかのように「現実の過酷さ」というものをコンセプトにしている。いわば『タロウ』と『レオ』は表裏の関係にある作品である。
 筆者は『タロウ』と『レオ』はついワンセットにして考えてしまうのだが、それは単に企画立案者およびメインライターが同じ田口成光(たぐち・しげみつ)氏であるということ以上に、こういった作品の性質によるものだと思う。
 あるいは、企画立案者が2作品とも田口成光氏だったことから、田口氏としてもこの2作品には表裏の関係を持たせていたのかもしれない。


総括〜『ダイナ』作品論

 『ウルトラマンダイナ』論を書くはずが、勢い余って『レオ』の評論をしてしまったが、ここからは『ダイナ』の主要なエピソードを分析しながら、『ダイナ』という作品を総括しよう。


 1〜2話「新たなる光(前後編)」は作品のプロローグでありながら、のっけから戦うことの意義を問い質(ただ)した異色の作品である。
 『ティガ』の1〜2話と比較すると、ドラマらしきものがほとんどなかった『ティガ』の1〜2話に対して、『ダイナ』の1〜2話はドラマがきちんと描かれ、またそれが作品にとって重要なテーマを扱っているので、『ティガ』の1〜2話より『ダイナ』の1〜2話の方が評価できる。
 『ダイナ』の1〜2話は、それまで主人公アスカが“戦うために”戦っていたためにトラブルを起こし、このことをヒビキ隊長に諭(さと)され、何のために戦うのか? とアスカが苦悩するというドラマである。このドラマは戦うことの意義を問い質したテーマである。
 このテーマは主題歌(ASIN:B00005GO7O)の歌詞にも歌い込まれた。


 『ティガ』の1〜2話は、1話に至ってはドラマがほぼ全くなく、2話では多少ドラマらしきものが描かれそうになるが、中途半端に終わってしまいドラマと呼べるほどのものにはなっていない。
 『ティガ』2話の多少ドラマらしきものとは、主人公ダイゴが自分がウルトラマンティガになってしまったことに対して


 「俺はティガなんかじゃない!」


 と言って苦悩するシーンであるが、この苦悩はこの台詞一言のみで終わってしまうのである。よってドラマと呼べるほどのものではないといえるので、『ティガ』の1〜2話は人間ドラマがないストーリーだったといえる
 (ただし、人間ドラマがあればそれだけで優れていると主張したいのではない。人間ドラマやテーマがなくても優れている作品は存在する)。


 これに対し『ダイナ』の1〜2話は、ただドラマがあるだけでなく、そのドラマが戦うことの意義を問い質すという重厚なドラマだったのだ。


 ちなみに『ティガ』の2話で描かれそうになった、自分がヒーローになってしまったことの苦悩のドラマは、マニアには国内においては『仮面ライダー』(71年)シリーズなどの石ノ森章太郎原作作品が初であり専売特許と思われているフシがあるが(『ティガ』の2話同様、『仮面ライダー』第1作目の1〜2話にしか描かれていないともいえるのだが)、実は過去の円谷作品でもそれを描いた作品がある。
 『仮面ライダー』と同年に製作された『ミラーマン』がそれである。


 この作品の1話「ミラーマン誕生」(脚本・若槻文三)では、主人公の鏡京太郎がある日、養父である御手洗(みたらい)博士から自分がミラーマンであることを知らされるとショックを受けて


 「僕はミラーマンじゃない!」


 と激しく動揺する。
 しかし直後にミラーマンとしての能力で、京太郎は鏡のなかの異次元世界に入ってしまい、そこで死んだはずの父(変身後のミラーマンと同じ姿)と対話するが、それでも京太郎は自分がミラーマンであることを認めない。手に受けた傷から出る赤い血を見て


 「見ろ! 血だって赤いじゃないか! 僕はミラーマンじゃない!」


 と言い、自分が人間であると思い込もうとする。


 主人公がヒーローになってしまったことの苦悩のドラマは、『ミラーマン』ではこの1話の他にも、8話「鋼鉄竜アイアンの大逆襲」(脚本・山浦弘靖)でも描かれる。
 この話で京太郎は、ヒーローとしての苦悩の心情を告白する。


 「自分は人類の救世主と呼ばれるより、一人の平凡な人間でありたいんです。恋をし、笑い、泣き、ささやかな幸せを求める平凡な人間に……」


 と。そして京太郎は自分をミラーマンにしてしまったといえる母親へ愛憎を抱くが、そこをインベーダーにつけこまれ、罠に落ちてしまう。


 『ティガ』の2話も、この『ミラーマン』のように主人公がヒーローになってしまったことの苦悩のドラマを描いていたら、それなりのドラマ性を持った作品になっていたと思うと惜しい気がする。


 『ダイナ』に話を戻すと、『ダイナ』の25〜26話「移動要塞(クラーコフ)浮上せず(前後編)」は、戦うことへの恐怖をテーマにした作品である。
 初めて実戦に参加するヒロイン・マイ隊員は戦うことを恐怖する。が、そんなマイに対してリョウは自分も戦うことが未だに怖いということを打ち明け、マイに恐怖を乗り切って戦うことの意義を教える。


 とかく勧善懲悪のヒーローものでは、戦うことをまるで登場人物が面白がっているように描いてしまうことが多い。それはある意味アクションのカタルシスを高めるためには仕方のないことである。
 しかし戦うことは本来は命懸けなのだから、登場人物たちも本当は怖いはずなのだ。『ダイナ』の25〜26話は勧善懲悪のヒーローものでオミットされることの多い戦闘への恐怖の感情をオミットせずに描いたひねった視点の作品であった。


 『ダイナ』では、22話「ツクヨの兵士」(脚本・太田愛)でも戦うことの恐怖の感情について描いているが、この場合は恐怖という感情そのものについての意義がテーマであり、25〜26話のテーマとは若干目先が違う。
 22話は恐怖の感情についてやや哲学的ともいえる考察を行なっているドラマだが、25〜26話は恐怖の感情を克服するという登場人物の成長ドラマだった。


 またこの25〜26話は、1〜2話に引き続き戦うことの意義を再確認する展開も見られた。1〜2話において、戦うことの意義は展開の流れの中で見せており、台詞としては語られなかったが、25〜26話でははっきりと台詞として語られる。


 「戦うことに意味があるのなら、それは誰かを守るためだと思う……」


 という26話におけるリョウの台詞がそれだ。恐怖を克服し危険を冒してまで戦う意味……それは誰かを守るため。それがこの回のメッセージだった。


 49話「最終章Ⅰ 新たなる影」は、シリーズのラストを飾る最終章Ⅰ〜Ⅲの最初の作品だ。
 この作品はスーパーGUTSの上位組織・地球平和連合TPCがウルトラマンを造ってしまうというハードなものである。今までのウルトラの最終回では、人間たちが


 「本来地球は自分達の手で守らなくてはいけない」


 と言い出してウルトラマンの援助を拒否するという展開がしばしば見られた。それらの作品において、自分達の手で地球を守るという人間たちの決心は正義である、という前提でドラマが成り立っている。
 しかしこの『ダイナ』49話では、「地球は人間達の手で守らなくてはいけない」という思想が、歪んだ形で表われるというアイロニカル(皮肉)な作品だ。


 TPC参謀のゴンドウは以前から、人類がウルトラマンという正体不明の存在に守られて平和を保っているという現状に不服だった
 (これは35〜36話「滅びの微笑(前後編)」でも描かれている)。
 そのため人間による人間のためのウルトラマンを造ろうとする。しかしTPCではウルトラマンはあまりに人間にとって強力なものなので、人造ウルトラマンを造る研究は禁止されていた。ゴンドウはこのTPCの規則を違反し、秘密裏に人造ウルトラマン・テラノイドの研究を続けて、ついに研究を完成させた。
 そして人造ウルトラマンを造るためには、アスカの生体エネルギーが必要だった。しかしアスカの体から人造ウルトラマンを造るに必要なだけの生体エネルギーを取ってしまうとアスカは死んでしまうのだ。ゴンドウは人造ウルトラマンを造るために、アスカの命を引き替えにしようとする。


 人間がウルトラマンを造ってしまうという展開は、前作『ティガ』の44話「影を継ぐもの」に登場した悪のウルトラマン・イーヴィルティガ編でも描かれている。
 だが、イーヴィルティガを造った天才物理学者マサキ・ケイゴは、強い存在が弱いものを支配するべきだという傲慢な野望でウルトラマンを造った、いわば確信犯の悪人だ(『ティガ』最終回は別として)。
 しかし、『ダイナ』のゴンドウの場合、一応彼なりの正義のためにやったことであり、一概に悪と決め付けられないところが興味深い。
 『ティガ』のイーヴィルティガはいわば絶対悪として描かれたが、『ダイナ』のゴンドウは絶対悪とは言い切れない。


 これらのことから、人間がウルトラマンを造るというよく似たアイデアのストーリーでも、『ティガ』のイーヴィルティガ編は勧善懲悪然とした正統派のストーリーであり、それに対して『ダイナ』49話は勧善懲悪の枠から外れた異色のドラマであったといえる。


 そして最終回「最終章Ⅲ 明日(あす)へ…」は、『帰ってきたウルトラマン』の11月の傑作群の1本、31話「悪魔と天使の間に……」(脚本・市川森一)と同一のテーマも扱っている最終回である。
 『新マン』の「悪魔と天使の間に……」では、娘を純粋な心の人間に育てたいと思うMATの伊吹隊長が、それを諦め


 「しょせん人間は人間。天使にはなれんよ」


 という隊長の台詞で終わる異色作である。「しょせん人間は人間。天使にはなれんよ」という台詞は、人間は聖人君子にはなれない、という意味がある。そしてこれは『ダイナ』最終回のテーマでもある。


 『ダイナ』最終回に登場する暗黒惑星グランスフィアは、宇宙に完全な平和をもたらすため、宇宙の生物を全て取り込み、一つの生物としようとする。このグランスフィアの設定は、平和な世界を築くことは正義だが、あまりに性急にそれを求めると、却(かえ)ってその行為が悪になってしまうというアイロニー(皮肉)を含んでいる。
 とかく二元論的に善と悪を捉えることの多い子供番組のなかにおいて、『ダイナ』最終回は極めて異色な作品だった。


 これに比べると、『ティガ』の最終回は“怪獣=闇=悪”、そして“ヒーロー=光=正義”という図式が強調されている。
 このため『ティガ』最終回は正義と悪を二元論的に捉えた作品としかいいようがなく、『ダイナ』最終回のようなアイロニカルなテーマは見られなかったことから、基本的には正統派の最終回だった。また『ティガ』の最終回はキリスト教などの一神教の終末論の教義をモチーフにしているので、なにやら宗教映画然としている感もある。


 また、『ダイナ』最終回のグランスフィアの設定は、現実の世界において人の心から完全に悪が消滅し、完全な平和が訪れることはありえないというテーマを含んでおり、このテーマはとかく奇麗ごとばかりを訴える傾向のある子供番組においてやはり異色であった。
 これは『新マン』の「悪魔と天使の間に……」の、人間は聖人君子にはなれないというテーマと共通するものだ。そういう意味でも、『ダイナ』最終回は『ティガ』の最終回よりシビアなドラマだった。
 また、全編宇宙空間でストーリーが展開するのも意欲的な試みだった。
 


 以上、『ウルトラマンダイナ』の主要な作品について述べてきたが、こうやって見ると、とかく前作『ティガ』より正統派であるかのように言われる『ダイナ』だが、ある意味『ティガ』より異色な作品ではないかと思う。
 『ダイナ』に正統派というレッテルを貼りたがっているのは、やはり初期『宇宙船』のライター達であり、彼らを中心に『ダイナ』は「保守的な凡作」であるかのような扱いを受けているのは本当に不可解だ。
 制作開始当初、確かに制作サイドは「『ダイナ』は正統派の作品を目指す」とコメントしたが、それは先に述べたように建て前的なものであるように思う。


 この文章では、主要な作品について述べたが、『ダイナ』はバラエティーに富んでいるのでここで述べていることは『ダイナ』のドラマの魅力の一部分でしかない。


 また、『ダイナ』は宇宙特撮の魅力や、バラエティーに富んだエピソードに合わせてその都度新たに作曲するという破格の手間をかけた音楽(ASIN:B00005GO59ASIN:B00005GO5AASIN:B00005GO5OASIN:B00005GO5X)など、ドラマ以外の部分でも魅力的な要素が多くある。


 それらの要素は、ぜひ自分自身の眼で作品を鑑賞して確認して頂ければ幸いである。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2000年準備号』(99年8月14日発行)「ウルトラマンダイナ」評より抜粋)


『假面特攻隊2000年準備号』「ウルトラマンダイナ」関係記事の縮小コピー収録一覧
・読売新聞 1998年9月25日(金) 芸能覧・レイジー再結成 17年ぶりアルバム「ハッピー・タイム」(ASIN:B000064C9EASIN:B00005MIAM) 〜77年に平均年齢17歳でデビューし「赤頭巾ちゃんご用心」(78年・ASIN:B000064C6L)のヒットで若い女性にアイドル的人気を博したハードロックバンド・レイジー(LAZY)。81年に解散後、影山ヒロノブはアニメ主題歌で名を博し、一部メンバーはかのラウドネスを結成。レコード会社のプロデューサーになっていた元メンバー・井上(のちにバンダイ系でアニメ音楽を主に扱うランティスの社長)が、担当番組『ダイナ』の後期副主題歌「ウルトラ・ハイ(ULTRA HIGH )」(ASIN:B000064CCG)でレイジー再結成を提案して実現!


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