『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』 ~ライト層の流入増大による功罪の必然。もはやブランド・権威と化したゆえの高評価では!?
『ウルトラマンタイガ』『ウルトラギャラクシーファイト』『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』『仮面ライダー令和』 ~奇しくも「父超え」物語となった各作の成否は!?(2020/1/12(日)UP予定!)
『ブレードランナー2049』 ~人造人間の脳内彼女(汗)を発端に、新主人公vs旧主人公へ帰着!
『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』 ~往年の『猿の惑星・征服』『最後の猿の惑星』再評価!
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2019年12月20日(金)から『スター・ウォーズ』シリーズ・エピソード9ことSF洋画『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』が公開記念! とカコつけて……。
同作の直前作にしてエピドーソ8こと「続3部作」の第2弾『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(17年)評をアップ!
『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』肯定評 ~陰陽円環な善悪観・草莽の民・自己犠牲的な特攻! 世評は酷評だが、私見ではシリーズ最高傑作!
(文・T.SATO)
(2018年12月17日脱稿)
(巻頭のみ、拙稿『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』評巻頭とも共通・汗)
漆黒の大宇宙を白銀の巨大宇宙戦艦や、X字型やH字型の戦闘機が赤細いレーザー光線を放ちつつ滑空し、光沢ある白や黒の甲冑に身を包んだ敵帝国兵たちが闊歩して、姫を助けるために青年はレーザー剣を持って立ち上がる、近代的なSF活劇映画のエポックメイキングともなった『スター・ウォーズ』(77年・78年日本公開)シリーズ。
甘さの残る青年・姫さま・ちょいワルの兄貴といった、3人の三角関係を中核に、青年がジェダイ(旧・銀河共和国の騎士)になるための東洋的修行を積む姿と、宿敵の黒仮面の暗黒騎士ダース・ベイダーや銀河皇帝が支配する銀河帝国vs宇宙各地のレジスタンスとの戦いを描いたのが、今ではいわゆる「旧3部作」(77年・80年・83年)と呼称される作品群であった。
15年のブランクを経て再開した、いわゆる「新3部作」(99年・02年・05年)では、「旧3部作」の主人公たちの親の世代と、実は旧作の主人公青年の実父でもあったダース・ベイダーが闇落ちした経緯、旧・銀河共和国が銀河帝国に乗っ取られていくサマを描いた。
そこからさらに10年の歳月を経て、産みの親であるジョージ・ルーカス監督自身は続編を作る気はもうなかったようだけど(爆)、それとは正反対にファンは続編を熱烈に待望していて、「旧3部作」の約30年後の息子たちの世代を描く「続3部作」(15年・17年・19年)が開幕!
「旧3部作」の英雄である姫さまとちょいワルの兄貴との間に生まれた不肖の息子のクールな長身青年・レンは、両親の威光が重荷であって反発したのか、すでに銀河帝国残党ファースト・オーダーに所属しており、ダース・ベイダーもどきの黒マスクをかぶる中堅幹部としても活躍中のところから物語がスタート。
蛮行を働き、罪もない村人を大量殺戮する帝国軍残党に反旗を翻す新世代主人公は、コレまた「時代」を反映してか、古典的で狭苦しい親子関係・兄妹関係を描いてきた「旧3部作」や「新3部作」とは差別化して、今のところは「貴種流離譚」でも何でもナイ名もなき雑草の庶民たち。
元気な女性剣士を主人公に、帝国白甲冑2等兵の脱走兵でもあるガタイはよくても少々気が弱い黒人青年を副主人公に据えたあたりが、今どきのダイバーシティー(性的・人種的・性格的多様性)を反映しているともいえるけど、そのような配慮や向こうウケのイイ作品の外側にある尺度はヌキにして純・物語的な観点から見ても、妥当なキャラシフトやキャラバランスだとはいえるだろう。
日本の年長世代の特撮マニア的には、往時に信奉されていた「怪獣恐怖論」や「怪獣1回性理論」とはまったく真逆な、先輩仮面ライダーや先輩ウルトラ兄弟たちが助っ人参戦して、子供たちをワクワクさせてきた大長編シリーズものとしての手法も採用したとも見ることができる。
レジスタンスの将軍に昇格した姫さま(!)と、相変わらずブラブラしているちょいワルの兄貴もといチョイ悪オヤジと化したハン・ソロ演じるハリソン・フォードも、期待にたがわず再登場させることで、歴代シリーズの熱心なファンたちをも歓喜させている。
現今ではそーでもないけど、かつては続編作品やシリーズ化自体が悪であり、堕落であり否定されるべきモノとして、昭和の後期ゴジラシリーズや1970年代前半に放映された第2期ウルトラマンシリーズなどが、オタク第1世代(1960年戦後生まれ)のジャンルマニア間で全否定されていたモノであったが、果たしてその理論・言説は正当なモノであったのか?
その答えは今となってはもう明らかだとは思うけど、広大なヨコ方向の「作品世界」と、長大なタテ方向の「歴史」を作ることで、「続編」や「前日談」に主人公も異なるあまたの「外伝」が自動的に生成され続けていく余地を作り、マニアたちを「虚構世界」に長期にわたってワクワクとするロマンを感じさせて、タイクツさせずに遊ばせつづける「世界観消費」とでも称すべき、21世紀以降のアメコミ洋画にも顕著となった作り方にこそ無限の可能性があるというべきであろう。
日本の「ウルトラマン」や「仮面ライダー」に「スーパー戦隊」などの長寿シリーズも、一部の好き者プロデューサーや好き者の監督が担当したときのみ、散発的に世界観クロスオーバーを試みるのではなく、意図的・計画的・長期スパンで、製作会社や玩具会社などの全社ぐるみでの取り組みで、そのような「世界観消費」的な方向へと積極的に舵を切って、大いに商売していくべきではなかろうか?
(ココまでは、拙稿『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』評の巻頭とも共通・汗)
40年目の『スター・ウォーズ』シリーズ最新作、『最後のジェダイ』!
1977年の原典からちょうど40年を経た2017年12月に公開された「続3部作」の第2作『最後のジェダイ』。ここで指す「最後のジェダイ=旧・銀河共和国の騎士」とは、「旧3部作」の主人公青年の成れの果てで、最果ての冷涼な惑星に隠遁して、ヒゲ面のオヤジと化したルーク・スカイウォーカー青年(?)のことであり、ついに彼がマスター(師匠)に昇格して、新主人公を指導する立場となることで、またまた歴代シリーズのファンたちをクスぐりに行く。
そして、その「続3部作」の第1作『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(15年)でアイテム争奪戦の的ともなった『鳴門秘帖(なると・ひちょう)』(1925(大正15)年・吉川英治の時代小説)もとい「銀河地図」が指し示していた、英雄ルークが隠棲している惑星に、同じく『フォースの覚醒』にて中古市場で安売り(笑)されていた「旧3部作」での主人公たちの母船でもある中型戦闘機ミレニアム・ファルコン号をご都合にも入手して駆けつけた女剣士が、ルークに復帰を懇願するサマと、弟子入りを許可されるまでの悶着をも描いていく。
かてて加えて、初老のルークは師匠の年齢になってもいまだ苦悩し、そこに導き手としてルーク師匠のさらなる師匠でもあるシワシワの小人老人でもあり、「旧3部作」ですでに肉体の生は終えているヨーダ師匠も霊体として登場!
それと平行して描かれる、帝国軍残党に追撃されるレイア姫もといレイア将軍率いるレジスタンスたちの船団の「出エジプト」ばりの「エグゾダス」(逃避行)。
帝国軍残党のメンツには、奇しくも姫の実子でもあるレン青年もおり、「父殺し」ならぬ「母殺し」をも達成することで、自身の中にまだ残る甘さを払拭することで「強者」として自立して、「真の悪の力」=「フォースの暗黒面」をも獲得せんとしている……。
この危機を脱するために、おデブの黒髪東洋人の女整備士は黒人副主人公クンと敵母艦中核の電源ブレーカー(笑)を落とすため、その敵地に潜入するにはコード破りの達人も必要とするために、金持ちどもがカジノでギャンブルに興じる遊興惑星にも寄り道。
重傷を負った姫の代理を務めるクールビューティーな紫髪の痩身長身の女性提督やら、命令無視を繰り返すソリ跡アオ髭な熱血壮年パイロットの奮闘に、彼らの行き違いの誤解劇なども描かれて……。
以上までが、本作に対する教科書的な内容紹介でもある。
以下からが、筆者の個人的な感想となるのだが……。
コレは歴代『スター・ウォーズ』シリーズ最高傑作ではなかろうか!?(爆)
『スター・ウォーズ』シリーズではじめてマトモな、単なる設定の「羅列」やスカスカの「段取り劇」ではナイ、物語や細部や登場人物がプリプリとした密度感のある「表現」や「描写」として昇華できている作品を観たような!!
……いやコレは洒落やネタや釣りとして炎上目的でそう語っているのではない。心底からそー思っているのである。
なので、逆に本作に対して、シリーズ最低の駄作だとの評価が世界中のマニア連中によってレッテル貼りされていたことを知ったときには驚いた(笑~どうぞ、罵倒してやってください・汗)。
「旧3部作」の当時でも、シリーズを重ねることでの批判はあったのだ!
逆に云うなら、今では『スター・ウォーズ』シリーズは先鋭的なマニアやレジスタンスのモノではなく、ふだんはジャンル作品など観もしない、どころか小バカにすらしている一般ピープルでさえ鑑賞するまでに、保守本流のメインストリームと化したブランド・権威主義の作品であるとすら思う。会社のヤンキーな一般ピープル連中でさえ鑑賞しているくらいだから、つくづくそー思う。
むろんムダにレジスタンスを気取っているワケでもなく、少数派の味方さえすれば即座に前衛で正義ダなどと安直左翼チックな自己陶酔などは考えてはいない。多数派が愛好するモノではあっても、それがドラマ的・テーマ的・エンタメ的にも中身が充実しているのであれば結構だ。
だが、本『スター・ウォーズ』シリーズについては、今にして思えばドラマ的・テーマ的・エンタメ的にもさほどのモノではなく、もはや大金をかけたチャチくない映像&特撮の大作映画であるから、そのオーラだけで無批判に屈服して、「物語的な達成度」と「映像的な達成度」を選り分けせずに混同して、「コレは超大作=傑作なのだ!」と自分自身に無意識に云い聞かせて鑑賞している大衆やマニア諸氏が多数派である……というのが筆者個人の見立てである――もちろん筆者自身も最終審判者でもナイ以上は、その評価尺度に性格的な偏りやシミったれたヒガ目や偏見も大いに入っているであろうことは認めております(大汗)――。
かく云う筆者も、子供時代に『スター・ウォーズ』旧3部作をリアルタイムで鑑賞して、絶大なるカルチャーショックを受けて心酔したことがあるような老害オタではあるのだが、インターネットが普及する前なのでアーカイブ化されずに後世にはあまり残らなかった、往時にはそれなりにはあったようにも思う、往年のマニア諸氏の感慨もここに記しておきたい。
『スター・ウォーズ』の日本初公開は1978年夏のことであった。同時期にコレまたTVアニメ(74年)の総集編映画『宇宙戦艦ヤマト』(77年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20101207/p1)の大ヒットに端を発した新作アニメ映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(78年)も公開されて超特大ヒットを記録している。
『スター・ウォーズ』&『ヤマト』の相乗効果で、その後の数年間に日本の宇宙SFアニメも急速な進歩を遂げていく。『さらば』のTVアニメ化『宇宙戦艦ヤマト2(ツー)』(78年)やその続編『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』(79年)に『ヤマトよ永遠(とわ)に』や『宇宙戦艦ヤマトⅢ(スリー)』(共に80年)。
アニメ映画『銀河鉄道999(スリーナイン)』(79年)やTVアニメ版(79年)の総集編映画『機動戦士ガンダム』(81年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19990801/p1)も大ヒット。『伝説巨神イデオン』(80年)や『太陽の牙ダグラム』(81年)に『戦闘メカ ザブングル』(82年)や『装甲騎兵ボトムズ』(83年)などといった、今や古典の通称・リアルロボットアニメの作品群も登場を果たす。
先の『ヤマト』続編群や『イデオン』にTVアニメシリーズ『ザ☆ウルトラマン』(79年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19971117/p1)や『超時空要塞マクロス』(82年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19990901/p1)といった作品群では、アニメとはいえ『スター・ウォーズ』以上に数十万年~数十億年の超古代の因縁にまでさかのぼる壮大な時間&空間的スケールで、敵味方のあまたの宇宙戦艦群が数百・数千・数万艘と登場するような圧巻のパノラミックなビジュアルを誇る大宇宙戦争までをも描くようになっていた。
敵も味方もその存在は相対的にもほぼイーブンであり、単なる勧善懲悪ではなく互いに一理も二理もある思想的・哲学的なバックボーンを背負って戦っており、それらとは実に対照的な末端の兵士たちの無常な生&死などもすでに描かれ切って、目が肥えてしまったあとに、「旧3部作」の最終作『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』(83年)(現・邦題『スター・ウォーズ/ジェダイの帰還』)を観た日には……。
そのラストは、
・初作ラストとさして変わり映えのしない、小惑星サイズのメカ球体「デス・スター」の内部に飛行メカで潜入しての爆破劇のリフレイン、
・その近くの森林惑星での局地的な攻防戦、
・心の揺らぎや多面性や中間グラデーションがあまりナイ正義と悪との対決や、
・本シリーズにおける超能力こと「フォース」の役回りが、オカルト・前近代的に思えて、ハイブロウなSF作品にはとても思えず、「フォースと共にあらんことを」的な神頼み・他力本願の宗教的なテイストの存在であることへのプチ違和感
――往時は「力」を意味する「フォース」という英語が我が日本ではあまり一般的ではなかったので、「理力」という翻訳字幕に読み仮名で「フォース」と振っていた――。
・世界を守るため、あるいは正義や道義や大義などの「公共」的なるモノを守るためというより、あまりにも個人的に過ぎる動機や「私情」で、ウダウダ愁嘆場の甘ったれた卑小な「親子対決」をしているようにも見えてしまう主人公青年vs暗黒騎士ダース・ベイダーとの一騎打ち&和解に収斂していく最終展開……。
アレ、こんな程度のモノなのか?……と。
そーいうモノこそが『スター・ウォーズ』の王道なのだ! というのは、もっと後年になってから判ってきて、一般化されて意識化された通念なのである。
当時の日本のジャンルマニアたちが無意識に望んでいたのは、『機動戦士ガンダム』のような80年代前半のリアルロボットアニメ路線であり、ハードでシリアスでリアルで精神主義が勝利をもたらさず、英雄や美形よりもフツーの平均的な青年や凡人を主人公として、特別機ではなく量産型をメカ主役に抜擢するようなノリである。
――現在の観点からはまだまだヒーローロボットアニメの尻尾を引きずっているようにも思える80年代前半のロボットアニメ群は、往時においてはそのようなモノとして見做され、あるいはそれに足らなかったとしても、日本のアニメの未来はそのような方向性を目指すべきモノとされていた――
そのような設定や作劇こそが「高尚」であり、ジャンルが目指すべき目標だと賞揚されて、ゆえに庶民や整備兵や看護師やコックさんなどのガヤやモブキャラなども描かれるべきである! というような風潮が醸成された渦中にあっては、『スター・ウォーズ』もアッという間に最先端のトップランナーの座を蹴落とされて、後方に追い抜かれていってしまったような感もあったのだ。
語彙力に欠けるミドルティーンの原オタク少年であった筆者には、そのへんを明晰・明快に言語化して論理や体系として認識できていたワケではむろんナイけれど、漠とはそのような感慨をいだいてはおり、中学・高校の同年代のマニア少年たちと、そのような小さな違和感をオズオズと散発的に語り合ったモノである。
たとえば、初作では1艘だけが登場した天体規模の超巨大メカ「デス・スター」が、数十・数百・数千艘とでも出現して、仮初めの一時的にではあっても観客に絶望感を味あわせ、コレをドーやって倒すのか!? というような、さらなるスケール雄大のスペクタクルな光景の特撮ビジュアルを見せて、「知恵」(=SF合理的な作戦)と「勇気」での攻略を主眼としていくような作品を見せてくれれば、また違っていたのではあろうけど(笑)。
海の向こうの往時のクリエイターのSF&ビジュアル的想像力を、一時的・局所的には日本の当時の若きアニメのクリエイターたちのそれが凌駕していたところも実はあったということなのだ。
今では若い世代には古びて観えても、往時においては「旧3部作」は、前代とは一線を画する特撮技術やビジュアル・イメージなどで斯界(しかい)に与えた絶大なインパクトによって、映画史やオタク史における歴史年表には特筆大書すべきというイミではたしかに画期ではあった。
そこに異存はナイし、「特撮」ジャンルとは「特撮」や「アクション」などの「特殊技術」を魅せるモノという定義を作って、それに従うのであれば、むしろその理想形ですらあったといえる。
しかし、後年長じてから純ドラマ的・純テーマ的に、あるいは作劇の技巧面で、『スター・ウォーズ』シリーズを見直したときに、その部分では実はたいしたことがなくて、むしろ世人は若年時に熱狂したという好感情で、その評価に「思い出補正」が働いているようにも私見するのだ。
――難解・高尚ではなくその程度のマイルドさだったからこそ、大衆・ライト層向けにもちょうどよく、彼らが勝手に本シリーズを神話化して仮託するに足る対象としても、この塩梅がちょうどよかったのかもしれないが(汗)――
善悪の安直二元観 ⇒ 価値相対主義でもないグラデーションの陰陽観!
かの『機動戦士ガンダム』シリーズにおける「ニュータイプ」(=新人類)の超常能力とは異なり、『スター・ウォーズ』シリーズにおける「フォース」とは、せいぜいが等身大でのレーザー剣での戦闘時の念動力やチョットした予知能力で役に立つくらいであって、銀河帝国vs旧・銀河共和国との大戦争の軍事的去就どころか、宇宙戦艦や戦闘機同士の勝敗にもほぼ無関係であったりで、戦略・戦術的にはあまり意味がナイあたりも、『スター・ウォーズ』シリーズの実は弱点であったと筆者は見ている。
しかし、本作においては、お互いに鏡合わせの関係であるやもしれない、一応の「善」なる女剣士主人公レイ&英雄たちの不肖の息子でもある一応の「悪」なるレン青年は、何万光年も離れた場所にいるであろうに、本作中盤では「フォース」の神秘の力を通じて時折、互いの姿が間近にいるかのごとく見えて会話までをも交わす。
女剣士レイは闇落ちしきっていないレン青年の迷いや悔恨を感じ取って、光明面へと引き戻せる未来線を見る。
レン青年の方でも女剣士の両親を喪った不幸な生い立ちや自由奔放さとはウラハラの不穏さを感じ取って、暗黒面で共闘する未来線を見ている。
――双方ともに「幻覚」ではなく、オルタナティブ(代替可能)な「相反する未来線」が、劇中では「併存」して「実在」するということでもあるのだろう――。
修行のさなかにあるのに、彼らの空間を超えた精神交流を改めて感知することで、ルーク師匠は弟子たる女剣士レイにも不穏さ(=暗黒面に落ちる可能性)を検知し、レン青年の上官にしてファースト・オーダーのシワシワの老人支配者・スノークも――『キング・コング』(05年)やハリウッド版『GODZILLA(ゴジラ)』(14年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190531/p1)の中のヒトに、『猿の惑星:創世記』(11年)シリーズ(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20171107/p1)の猿の主人公・シーザー役や、アメコミ洋画『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』(15年)で登場して『ブラックパンサー』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180607/p1)でも再登場を果たした人気悪役なども務めたアンディ・サーキスが演じる――実はすでにそれを検知した上で、なおかつ放置もしており(!)、その交流を自身の手のひらの上での出来事だと豪語することで、女剣士レイの闇落ちの可能性だとも、レン青年の光落ち(?)の可能性だとも、しかしてレン青年が光&闇の双方の力をイイとこ取りで掌握しようとしているようにも取れるかのように曖昧・多義的に描いていく。
女剣士レイがついに潜入を果たした敵母艦内で、両者の心が通じたから、レン青年を心底から救いたいと思ったから、即座に彼に出会えたのかと思ったら、逆にレン青年の方は女剣士レイを拘束して老支配者の許へと連行し(!)、彼女が拷問を受けるのを冷ややかに見守りつづける……のかと思えば、ついに助けて共闘もして、薙刀(なぎなた)ツインブレードや鞭(ムチ)にもなるレーザー剣を使う赤い甲冑姿の親衛隊どもをバッタバッタとなぎ倒し、ラスボス・ポジションの老支配者・スノークまでをも倒したので(!)、彼の光落ちも決定か!? と思いきや。
そのまま帝国軍残党の長となってしまい(汗)、女剣士レイと袂も分かって、心で通じ合うハズの「フォース」の力もまた「心を偽ったり隠したり」することもできるモノだともする。
あまつさえ、祖父にあたるダース・ベイダーの黒マクスもどきをカブること自体がまた「自身の弱さ」だと気づいたのか、黒マスクを叩きつけて破壊することで、フロイト(心理学者)的な「父(祖父)殺し」までをも擬似的に達成していく。
文芸映画・芸術映画ならぬ勧善懲悪の通俗娯楽活劇として、「正義が最後には勝つ」という結論がある程度は決まっているにしても、こーいうダマしやスカしやヒイてジラして紆余曲折してドチラに転がるのかを、一時的にでも判らなくさせる作劇&演出技法は、ジョージ・ルーカス監督の手になる「旧3部作」や「新3部作」には欠如していてやや単調かつ弛緩(しかん)、モタついていた箇所でもあったと思う。
しかし、そーいった箇所にこそ、単なる「スジ書き」「段取り劇」ではない、血肉の宿った人間のナマっぽい小さな逡巡や小さなストーリー的サプライズを連発でストーリーに込め続ける、「表現」にまで昇華した「描写」が必要なのである。
それが達成できているか否かの相違で、たとえ基本設定やアラスジが似通った作品同士であったとしても、ある作品には惹き込まれて、別の作品にはタイクツしてしまう……という相違が生じてくるのだ……と筆者個人は考える者であり、本作はそこをクリアしてみせた『スター・ウォーズ』シリーズ初の作品であったと私見するのだ。
小さなダマしやスカしの多彩な多用で単調さを回避。成熟できない時代のルークの懊悩!
こーいう小さなダマしやスカしは、
・重傷を負った姫もとい将軍の後任となった女提督が、自己保身だけを考える小悪党なのかと思わせて実は……とか、
・裏切りを疑って自身に叛逆してきた命令違反常習の熱血壮年パイロットのことを、女提督が実は個人としては人間味があり頼れる可愛げもあるオトコとして好ましく思っていたとか、
・黒人副主人公&東洋人女整備士コンビが、遊興惑星でお目当てのコード破りの達人とはまた別人の、アルコール中毒なコード破りの達人とも遭遇、意表外にもそっちの彼をスカウトとか、
・そのアル中コード破りの達人も、最終的には共和国に付くのか帝国に付くのかよくわからない……
などなどの描写で本領を発揮しており、本作の展開を単調に陥ることから救っている。
従来のシリーズではほとんど描かれなかった草莽(そうもう)の下々の者たち……。
・冒頭の爆雷投下艇での不測の事態に生還があたわずとも、身を張って手動で投下せんと奮闘する一女性兵士の姿や、
・遊興惑星にて競馬ウマを世話するため、奴隷労働を強いられている子供たちに、
・先のメカニックの女東洋人整備兵や、
・「ガンダム」シリーズのアナハイム・エレクトロニクス社もかくやの、帝国にも共和国にも武器を売り裁いている商人の存在、
などなどの点描に、『スター・ウォーズ』シリーズではじめて、「主人公」や「英雄」や「戦争」や「政治劇」だけでなく、「社会」や「経済」や「庶民」までをも血肉をもって描いた感すらあるのだ。
女剣士主人公や不肖のレン青年のみならず、この小さなダマしやスカしは、「旧3部作」の主人公青年でもあったルーク師匠にも適用される。
それは、日米ともに先進各国では80年代の戦前育ちのレーガン大統領や中曽根首相に象徴されるように、オトナがオトナであり頑固オヤジでもあった――アイデンティティ面での迷いが少なかった――時代が終わり、90年代の戦後育ちのクリントン大統領や細川首相以降のように、大衆消費社会で育った人間たちに特有な、異性に対するモテ・非モテをドコかで内面化してしまうことで、いつまで経っても思春期・青年期的な繊細ナイーブさがドコか抜け切らないオトナたちが跋扈するようになってしまった、今の先進各国における「リアル」さの反映だとも取れる。
前線復帰を断ったワリには、深夜に懐かしのミレニアム・ファルコン号に忍び込んで往時を忍ぼうとしたら、そこにて「旧3部作」のロボット・R2-D2や猿人・チューバッカに再会して喜ぶことで、ファンサービスと彼の多面性を描くことを同時に達成しつつ、「旧3部作」冒頭の懐かしの「姫が救いを求める立体映像」の再投影に「ズルいぞ」とボヤきつつも、ルーク師匠はその首を肯(がえ)んじない。
変化の激しすぎる時代には旧来の手法がそのままでも通じないので、先輩ヅラして自信を持って後輩に接することができずに、強面をした瞬間に自身のことを即座に自己相対化もしてしまうような足許が定まらないオトナたちやイイ歳になってしまった我々自身の似姿。
そのようなオトナになってしまったルーク師匠が、懇願されても前線には復帰しない頑ななまでの態度や、女剣士主人公レイへの腰が引けた態度は、かつてルーク師匠が不肖のレン青年を弟子として預かったときに、彼が暗黒面に墜ちていくことを救えなかったための自信喪失ゆえであり、隠遁が彼なりの責任の取り方でもあったとほのめかされていく。
しかし、その明かされた真相にも自己弁護や自己正当化のウソが微量に混じっているようでもあり(汗)、レン青年が精神交流を通じて女剣士レイに語ったところとも総合すれば、大ワクではそーだとは云えても、細部においては直接の当事者の認識にすら相違がある「歴史認識問題」(爆)のような観も呈していく。
レン青年の中にあった「闇」は幻なのか? たとえ「闇」はあってもそれは微量に過ぎなかったのではなかったか? それを見たルーク師匠自身の心にも「闇」はなかったといえるのか? その「闇」の反映ではなかったか? ルーク師匠とレン青年はドチラが先に物理的にも手を(剣を)出して相手を殺そうとしたのか?
明確な真相は明かされずにそこは流されて、現在進行形で発生している大事件に対するレン青年&ルーク師匠の相反する選択・決断・決闘は、それらの細部・ディテールへのこだわりなど、ドーでもよくはないかもしれないけれども、あくまでも相対的には二次的な些事として押し流されて、イマ・ココの現実に緊急対処せねばならなくなっていく……。
利他・自己犠牲・特攻のお涙頂戴パターンは、日本特有ではなかった!?
本作の中後盤は、
・大状況としては、レジスタンスの孤高の宇宙戦艦に追いついた帝国軍残党の宇宙戦艦との最後の一戦
・中状況としては、帝国軍残党母艦内で繰り広げられる電源ブレーカー落とし作戦
・小状況としては、同艦内にて老支配者を倒したレン青年vs女剣士レイの念動力でのレーザー剣の束(つか)の争奪戦!
という3つのエレメントが、イイ意味で云うけれども、ご都合主義にも同時に鼎立(ていりつ)進行して、空間的にもほぼ一箇所で時間的には同時にクライマックスも迎えて(笑)、かつ結局は大状況がすべてをかっさらっていく……。
そんなご都合主義的な同時展開は、リアリズム至上で考えたならばホントウはアリエナイことではあるけれど、物語・フィクションとしてはその方が散漫にならずに、まとまりも良くなり、作品テーマをシンボリックに重ね合わせることで余韻も二重奏や三重奏となることで、観客にもより良く伝わったりもする。
その際のキーワードは「利他」の心かとも思えたが、旧日本軍の自爆「特攻」にも見えるあたりで、センシティブな御仁であれば、コレを問題視する意見もあってイイようには思える。
・本作では冒頭からツカミとして、地球型惑星を眼下に見下ろす成層圏で、帝国軍残党の艦船vs鈍重タテ長の中型爆撃艇群との小競り合いが描かれる。
次々にヤラれて誘爆していく機動性の悪そうな爆撃艇の最後の一艘に鎮座する若き無名の女兵士が、もう戦局的に帰還も叶わないであろう自らの運命を悟って、それでも地上の友軍の脱出時間を稼ぐため、遠隔装置が故障でもあるゆえに、格納庫に趣いて手動で数百の砲丸型爆弾の投下にようやっと成功! 敵艦を撃破するも、自らも爆炎に消える!
・黒人副主人公クンも終盤、塩の惑星での巨大岸壁トーチカ(砦)を背にした広大な平原での攻防戦では、曳航されてきた敵の巨大光線砲――「デス・スター」のそれと同じモノ!――の射線軸上を飛行して、砲口に特攻することで破壊せんとする!
・追っ手の敵艦隊からエグゾダス。逃げるばかりで策もなく、自身だけ秘密裏に小型艇で脱走しようとする卑劣漢か? と観客に思わせた紫髪のスマートで上品な壮齢の女提督ではあったが、それは乗員たちをレーダー捕捉されにくい小型艇で脱出させるための奇策であったことが判明。
最後は艦橋にひとり残り、宇宙戦艦を反転させて、超光速飛行の初速の勢いの体当たり(!)で、敵艦隊を一挙に瞬時に撃沈して、自身も戦場の露と消える!
同時期公開の『映画 中二病でも恋がしたい! -Take on me-』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190904/p1)でも、片目に眼帯をかけた小動物チックな中二病のメインヒロインが自動改札に引っかかるや、「ワ、ワタシに構わず、先に行けェェーー!!」と自己犠牲の精神を叫んでいたのと同じパターンが本作では連発されたのであった(……違います・笑)。
往時とは異なり、2010年代のメリケンの作り手たちも、日本のジャンル作品の悪しき「特攻」ネタに毒されてしまったのか!? ……ということはナイであろう(汗)。
早くも二むかしも前のSF洋画『インデペンデンス・デイ』(96年)でも、異星人のコンピューター・ウイルス攻撃を受け付けないアナクロ(時代錯誤)な複葉機に乗る老パイロットが、自らの身を犠牲に異星人の超巨大UFOのバリアに自爆「特攻」して勝機を与えていた。
キリスト教の伝道モノ映画でも、異民族・異教の土地で宣教師たちが悲惨な殉教(死)を遂げていた。
2001年の911同時多発テロでも、消防士たちは延焼中の超高層ビルへ消火&救出に向かっていった。
コレらの姿は、自爆「特攻」とは完全イコールではないにせよ、相手が人間か人外かの相違だけであり、一応の大義があるとはいえ自らの生命を犠牲や危険にさらしてもイイと考える非合理な一点においては、大差がナイともいえる――異論は受け付けます(汗)――。
非暴力・非服従のガンジーによる有名な「塩の行進」も、20世紀前半のインドだから東洋的神秘のベールでオブラートに包まれて美談のようにもなっているけど、イギリス兵の鉄の棍棒に無抵抗で打たれて数千人で死んでこい! という運動であって、コレは旧日本軍の無策なバンザイ突撃や「特攻」と何が違うというのか?(汗~20世紀後半以降にコレをやったらガンジーも批判殺到であったろう)。
てなワケで、全肯定はできないけれども全否定もできないあわいのところで、日本人に特有ではなく実は世界共通・普遍的でもあろうお涙頂戴パターンで、要所要所のクライマックスも作っていくのだ。
『最後のジェダイ』ラスト~『ハン・ソロ』~最終章『エピソード9』へ
ラストでは、塩の惑星上の大平原に面した丘陵の天然岩盤に構築した巨大トーチカへの潜伏に成功したレジスンタンスvs帝国軍残党との白昼下での城塞戦。
最大のピンチに、ついにルーク師匠は冷涼な惑星に本体の肉体を残して座禅を組んで空中浮遊したまま、魂のみを異星に飛ばして物質化・肉体化を遂げて、かつての姫とも再会を果たし、文字通りの一騎当千!
『機動武闘伝Gガンダム』(94年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19990804/p1)中盤回において主人公青年の師匠マスター・アジアこと東方不敗老人がナマ身の東洋拳法で次々と敵巨大ロボットを粉砕していったのと同様に――もうガンダムも要らないじゃん(笑)――、帝国の四足歩行メカ数十機の一斉砲撃にもビクともしない無敵の強者ブリを示す。
攻撃がやんだあとには、肩に落ちたチリを払う余裕綽々の姿も見せつけることで、ただの神頼みや単なる他力本願な祈りの対象だけではない、「フォース」の物理的な有用性をも描くあたりで、個人的には長年の溜飲が下がる思いでもあった。
もちろん「フォース」による超能力バトルだけでも、今度はレーザー剣や宇宙戦艦が不要になってしまうので(笑)、それはレジスタンスがさらなる脱出をはかるための時間稼ぎであったとして、最後には女剣士主人公レイが搭乗するミレニアム・ファルコン号も駆けつけて、峡谷や洞窟を往年の「デス・スター」外装のミゾや内部へと至る巨大通路に見立て直したような迫撃チェイス戦も描かれることで、本作最後のクライマックスも作っていく。
女剣士レイと黒人副主人公もここにて再会を果たし、彼らが発した救難信号に即座の反響はなかったにしても、希望に満ちたトーンで次作へとつづく幕となる……。
というあたりで、空気が読めないワケではなく、読めはするし、些事であれば合わせもする協調性(笑)もあるつもりだけれども、やはり合わせちゃイケナイこともあるだろうとも思うので、自身の腹を割って見せてみた。
もちろん本作を他人との同調ではなく心底からツマラない、評価しないと思った人間であれば、それを変える必要はナイと思う。しかし、意志薄弱にもムラ世間的な「空気」に合わせてついつい見解を変えてしまったという自覚があるヒトたちには、ぜひともその見解を改めてほしいとも思うのだ。
リメイク映画『スター・トレック』(09年)や本作の直前作にあたる「続3部作」の第1弾『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を脚本&監督したJ・J・エイブラムスが監督を務めていないから、本作は駄作なのだ! というような世評もあるようだ。
けれども、日本とは異なりアメリカでは映画は監督よりもプロデューサーの方が権限がカナリ強いので、本作ではプロデューサーの親玉でもある「製作総指揮」の筆頭を務めた氏が、本作の脚本&演出面の許諾にノータッチであったというようなことも、おおよそ無さそうに思えるどころか、むしろその意向を反映させていたとも思えるので、その見解にもとても同意はできない(笑)。
追伸
詳細は省いて書くけど、本作公開半年後に公開された原典「旧3部作」の前日談映画『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』(18年)も世評は酷評のようだが、筆者個人は楽しめた。その逆に、「続3部作」の第1弾『フォースの覚醒』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20191229/p1)や同じく「旧3部作」の前日談『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(16年)については、個人的には大金をかけただけの単なる「設定段取り劇」にしか感じられず、個人的には評価はしていない。
このあたりについては、来年2019年末に公開される「続3部作」の最終章、J・J・エイブラムスが再登板する『スター・ウォーズ/エピソード9(仮題)』が公開された暁にはまとめて語りたいところだ。
――それが果たせなくても大丈夫。資本主義の世の中だから、きっとジェダイの騎士が正義や平和を守り通しても、悪党もまたまたよみがえることで、『スター・ウォーズ』シリーズは延々とつづくであろうから、その折りに語るのでもイイだろう(笑)――。
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