『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』『琴浦さん』 〜2013年3大ぼっちアニメ評
『古見さんは、コミュ症です。』『川柳少女』『ひとりぼっちの○○生活』 ~コミュ力弱者の女子を描いた3作の成否(笑)を問い詰める!
『ようこそ実力至上主義の教室へ』1期・総括 ~コミュ力弱者がサバイブするための必要悪としての権謀術数とは!?
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深夜アニメ『ようこそ実力至上主義の教室へ』(17年)1期・再放送終了! 2期(22年)が放映開始記念! とカコつけて……。コミュ力弱者の男子を禁欲・老獪なヒーローとして美化したアニメ『弱キャラ友崎くん』(21年)・『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』(15年)・『ようこそ実力至上主義の教室へ』(17年)・映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』(19年)・『月がきれい』(17年)・『俺を好きなのはお前だけかよ』(19年)評をアップ!
『弱キャラ友崎くん』『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』『ようこそ実力至上主義の教室へ』『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』『月がきれい』『俺を好きなのはお前だけかよ』 ~コミュ力弱者の男子を禁欲・老獪なヒーローとして美化した6作!
『弱キャラ友崎くん』
(2021年冬アニメ)
(文・T.SATO)
(2021年4月27日脱稿)
弱キャラというからには気弱なキャラ、体力・腕力的にも弱いキャラ、ルックス的にも異性に好感を持ってもらえないキャラ、集団の中で「オレがオレが」と自らを押し出していくようなコミュ力には欠けるキャラのことであり、要は我々のようなオタのことである(爆)。
しかして、オンライン対戦ゲームなどの一芸には秀でていて、1位の成績にはあった男子高校生・友崎くんは、2位の人間からオフライン(現実世界)で会わないか? と誘われてイソイソと出掛けたら、そこには学園№1の才色兼備の美少女がいた! というのが導入部。
こう書くと劇的な出逢いを連想するのだが、コレが実にキビしい。高校ではカースト上位層に邪険にされてもカバってくれた美少女だったが、校外では露骨に不機嫌そうな顔で幻滅を示して、しばしの悶着の末に髪型・服装・背格好・表情にまでダメ出し! かくして、美少女キャラの指南による脱オタ道がはじまったのだった!
オッサンの繰り言で恐縮だけど、まだテキストサイトが主流だった90年代末期には早くも脱オタサイトや脱オタファッションサイトがいくつか誕生して人気が集中。00年代前半には、著名サイト主がスカウトされて、そのサイトの内容を基に書籍も発行されている。
00年代のブログの時代にはいわゆる「非モテ論壇」とも併走して、『電車男』(04年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20070617/p1)的な「そのままの君でイイ」と云ってくれる博愛的な女神さまの出現を待つような自堕落で歯の浮くようなキレイ事ではない、カースト上位層に回って搾取する側に行こうという意味でもない、一般ピープルからせめて侮られることを少なくするための実地に使えるあまたの方法論もネット上に蓄積していった。
――もちろん、文章を読むような評論オタ的な人種にのみ届いて、いわゆる萌えブタ的な人種には届かなかったのではあるけれど(汗)――
今は昔の80年代から若者間では後年で云うイケてる/イケてない系の格差が拡大していき、教室内での一体感も消失していったワケだけど、その問題に苦しんできた筆者なぞも、ヨコ目でこの流れを眺めて感心したり反発をいだいたりもしてきた。
この流れの延長線上にコミュ力弱者であることをカミングアウトして、しかもダメな自分を笑いに変えることでプチ救済を与える行動様式が00年代初頭の巨大掲示板で誕生! それが源流となって、00年代末期からの(ひとり)ボッチを主題とした漫画・ラノベ・アニメの隆盛もあるのだと私見をしている。
他人や権威を揶揄することは得意でも、自分のことをも自虐してピエロを演じてみせることはできなかったオタキング岡田斗司夫や唐沢俊一などのオタク第1世代。そこを突破できた一点については、80年前後生まれのオタク第3世代以降は尊敬に値するとも思うのだ――もちろん、岡田・唐沢の全業績をその一点をもって全否定をしているワケでもないのはくれぐれも念のため――。
いやホント、本誌ライター陣が集ったコミケ帰りの電車や居酒屋のエレベーターなどで、いかにもカタギではない我々が放つ負のオーラや会話に対して「危ねぇよ」「ヤベェよ」などと遠巻きに呟きあっている声を幾度も耳にしたことか(爆)。
もちろん、彼らの見た目至上のルッキズムや礼節欠如を肯定する気は毛頭ナイけど、100年前のスペイン風邪で死んだ社会学の中興の祖マックス・ウェーバー先生も云う通りで、「事実」と「価値判断」は選り分けて、倫理的には誤りでも世知辛い「事実」はソレと認識して、その上での善後策を練らねばならないのだ。
学園№1美少女の指南はここ20年で蓄積されてきた脱オタ&脱オタファッションの集大成ではある。
●意識して背筋を伸ばして姿勢をよくしろ
●演技やポーズでもヒトをダマして陥れるものではナイならば、潤滑油として表情を多少は作れ
●当たり障りのないムダな雑談も少しはしろ
●最低限のカッコはつく安価な服飾を、ユニクロで数着は常備しておけ
もちろん、学園№1美少女ではなく主人公少年が独力でネット上のソレに辿り着くような描写の方がリアルではある。しかし、それだとフィクションとしては華とかイロ気には乏しくなるので、ソコはお約束だと割り切るべきである。
彼女を介して他人や弱者への共感性には乏しいスクールカースト上位層の人となりや、彼らとの交流ドラマに近道で辿り着ける作劇的なメリットも大きい。
オタが悪いのではなくオタを差別する社会の方が悪いのだから、そっちを何とかしろヨという反論は成り立つ。
もっと云うならば、脱オタせずに弱者とともに泥にまみれて底辺で生きるのが道義的にも正しい。個人のミクロな生存戦略としては脱オタが正しいとしても、マクロで見ればイス取りゲームの世界だから、誰かが脱オタしてカースト上昇に成功すれば、他の誰かのカーストが下がることへの心の痛み。このテの言説や作品に反発を覚える御仁の気持ちを言語化してみせれば、そーいうことだろう。
だが、それではドーすればよいのだろうか? 途方に暮れるばかりである。
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』
(2015年春アニメ)
(文・T.SATO)
(2015年8月5日脱稿)
持って生まれた内気な気質。声質や滑舌。体力や運動神経。
人間も平等な「近代的市民」である以前に「動物」でもあるから、コレらにハンデがあるとヒトは他人に対して本能的に引け目を感じてしまうものだ。自己の主張を押し通す際にも、水面下で無意識的な担保ともなっている腕力&胆力に欠けていると、男のコの場合はますます奥手になっていく。
加えて、歴史的にはほぼ男性だけがしてきた女性に対する品定めが、男女平等の徒花で女性の方が男性をルックス・服飾・話術などで品定めするようになってきた。モテ/非モテは最重要課題となって、ヒトさまや異性には自慢ができない趣味は劣位に立たされる。
マジメにコツコツと労働しているだけで報われた第1次産業(農作業)と第2次産業(工場労働)中心の時代は過ぎ去ってしまい、軽佻浮薄な営業マン的対人スキルが経済界からも求められてしまう。我々のような人種は前代よりも過剰に劣等感を持たされて、それらとの連動でスクールカーストも拡大して久しい。
――以上はあくまでも社会風潮の分析であって、筆者個人はこの風潮を肯定しているワケではないのはくれぐれも念のため。能力&体力の格差をゼロにできるとも思わないけど、欺瞞・タテマエではあっても人間がお互いを「対等」扱いをして付き合う社会である方が望ましいと考える者ではある――
そんな負け組でクラスで(ひとり)ボッチの男子高校生がそのヒネこびた慧眼で、イケてる系人種の表層だけの浅い付き合いや、集団からコボれ落ちた者への彼らの酷薄さ・不公平を見抜いて、遂には見返りを求めず自分が汚れ役になることも厭わずに捨て身の作戦を決行し、満身創痍になりながらもヒトとしての道義・懲悪を果たす! そんな暗いカタルシスを味あわせてくれたのが本作第1期でもあったのだ。
――しかも、彼の真意を心ある少数の人間だけは理解してくれている。まさに男子の本懐! ボッチだけれどもスーパーなボッチ。ダークヒーローともいえる彼にはホレてしまうのだ。こんなボッチであれば、筆者もなりたい!(笑)――
大人気作品となった前作の続編である本作では、彼の言動が一定の効果を発揮しつつも今度は空回りをしていき、彼の周囲の理解者の心をも傷つけることで彼の行為も相対化、その限界までをも描写する。ウ~ム、そう来たか。テーマ的にはとても誠実な突き詰め方ではあるけれど。
クラスのイケてる系リア充グループの金髪さわやかイケメン君やギャル娘も単なる書き割り背景の悪役ではなく、善悪両面の内面を併せ持った人間としても描くようになっていく。
フツーはリア充な集団には所属しているワケがない(?)であろう黒髪のBL眼鏡少女による、「お節介にも男を紹介されたら集団を速攻離脱するけど、今は久しぶりの集団帰属が心地イイ」という趣旨の独白。その一言で今では非公式な文化部(奉仕部)に所属して、そこに不本意でも広義での帰属意識を持ってしまった主人公少年とさりげに心が通じ合ってしまう瞬間もまた実に深い。
高校生の年代でココまで的確に自身の境遇の複雑なエッセンスを明晰・明快に言語化ができるのか!? などといったツッコミは成り立つけど、そこは「フィクションにおける、事実よりも真実を優先」。現実には事実としてアリエないことでも、心的には真実としてリアルであることはアリえることなのだ。
加えて、フィクションとは「現実世界もかくあってほしい、道理が通って正義が勝利してほしい」と仮託するものでもあるのだし――現実世界が往々にしてそーではナイからなのだけど(笑)――。
それで云うならば、彼の周囲の人間が彼の真意に徐々に気付いて、彼ら彼女らの見識自体も、そして主人公少年を見ている人物批評の眼も変わっていくといったストーリー展開がまた小気味イイのだ。
それらのストーリー展開に対してに、アレだけ彼女らの初登場時には主人公男子のことをキモがっていた各女性キャラたちは、ビミョーにその見解を改めていって、その態度や視線に「好意」を代入させてきて、耳元で「先輩、責任取って下さいネ」と囁かせたり、「アタシ、中学ん時、チョコあげたことあったっけ?」などと語らせて、胸キュン感情を惹起させて、ラブコメ・ハーレム作品に結局は通じていくあたりも、エンタメ作品としては実にウマく出来ている。
最初から理由もなく女性キャラたちに好意を持たれてハーレム状態になっているのであれば、オタクの大勢はともかくスレたプチ・インテリオタクの皆さまの非難や冷笑の視線も殺到していたのであろうけど、結局はソコに行き着いてしまうのだとしてもワン・クッションは置いており、ソコに至った理由が実に繊細デリケートに説得力を持って描かれていくので、コレならば安手の作品にはダマされまいゾ! なぞと思っているガードの堅いウルさ型のオタどもも安心してブヒブヒと鳴く萌えブタに成り下がることができるだろう(笑)。
アイドル声優・佐倉綾音が少々キンキンとした声で演じる、亜麻色ショートのサードヒロイン下級生による自身のかわいさを自覚しているアザトい仕草――と同時に、「かわいい!」を連発しているのは「私がかわいい」アピールで「同性の友達が少なさそうだ」と見抜いている主人公少年の慧眼もマル!――、同じくアイドル声優・戸松遥がおそらく地で演じている(笑)、栗色ソバージュのフォースヒロインがやたらとハイテンションで、その場から脱落しないように意味のない合いの手や相槌をひたすらに入れてきたり――「それ、ある~~!」のセリフの連発(笑)――、主人公をイジって笑いノメして恥じない態度などなど、このテの娘たちを冷徹に描き出してくる手腕にも敬服してしまうのだ。
ただしこの第2期では、主人公少年が金髪イケメン君ともワリと対等に会話をしていたことが引っかかる。もっと卑屈に猫背でオズオズとした態度で会話をしてくれないと……。こんなのは彼じゃないやい!(笑)
ストーリー展開上ではそんなに不自然でもなかったし、ありうべき展開でもあったけれども、主人公少年が実は仕事がデキたり、生徒会なり文化祭の委員会での議事進行で主導権を握れてしまう姿を見ていると、彼我の差を鑑みてその域には達していない筆者は絶望してしまうのだ(笑)。
この第2期の欠点としては、完璧超人に見えていた黒髪ロングの孤高のメインヒロインがシリーズ中盤では鬱っぽくて不全感に陥っていく理由がわからなかったとは云わないけれどもわかりにくかった、もしくはヤリたいことはわかるけれども腑に落ちてこなかったあたりはやや惜しい。
すべてを説明する必要はナイのだとしても、もっと彼女の主観的な苦悩描写なり、外側から垣間見える苦痛描写も、もうだけ少し挿入しておくべきだったのではなかろうか?
それゆえに、終盤における各キャラの「本物がほしい」発言の一連も泣けるのだけど、ピタッとハマってこないし、腰の据わりの悪いトコロもあったと思うのだ。
最終回が最終回ぽくなくて「次回につづく」といった感じで、一応の区切りもなく終わっていくのもドーかナとは思う――「つづき」は原作ラノベは読んでください! という意図もわかるけど(笑)――。
少々の粗はあったものの、感情・好悪の次元では筆者の本作への好意は揺るがないのではあった。
『ようこそ実力至上主義の教室へ』
(2017年夏アニメ)
(文・T.SATO)
(2017年12月13日脱稿)
ライトノベル原作の深夜アニメで、昨今流行りのスクールカーストものである。あまたの深夜アニメの主題歌も熱唱するZAQ(ザック)が作詞・作曲した主題歌のタイトルも、そのものズバリ「カースト・ルーム」だ。
●クラスの中心人物にはなれなさそうであるカッタるげな主人公の高校生男子クン
●黒髪ロングの他人とは交わらないクールな女子高生メインヒロイン
●愛想がよくて愛くるしい女子高生サブヒロイン
鉄板(てっぱん)のアリガチなキャラクターシフトではある。
#1冒頭では、入学式直後の教室にてクラスの中心人物になりそうな男女たちが主導して自己紹介がはじまる。
対外的にも恥ずかしくはないモテ趣味や得意スポーツを披歴して如才なくアピールできる者たちに、主人公男子が引け目を感じたり居心地の悪さを感じるサマは、筆者も幼少時~今に至るまで何度も経験してきた心のキズである(笑)。
同様のスクールカーストを描いていた(ひとり)ボッチもの深夜アニメの大傑作『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20150403/p1)の序盤、クラスでカースト上位層の横暴に制止の声を上げたいけど上げられない主人公男子のシーンのことを連想した諸兄も多いだろう。
『やはり俺の~』はそんな酷薄なカースト社会で、一応の公平や正義を求めて主人公男子クンが知恵を絞ってウラ側からカラめ手で戦っていくサマと、三角関係のラブコメ風味を味あわせてくれる作品だったので、本作もその亜流なのであろうかと思いきや……。
近未来的なハイテク学園都市を舞台に、まずは愛くるしいサブヒロインは#3で激しい本性(?)を人気のない場所で垣間見せる。
その姿を目撃してしまった主人公男子クンを口止めするために、自身の巨乳に制服の上から手を触らせ指紋を付けることで、キツい目付きで「バラしたらレイプされたと騒ぐ」と脅すのだ!
物語も舞台となる学年最下位の1年D組を超えて、A~C組の面子も交えた学園バトルロイヤルの様相を呈していく。
主軸のD組についても、メインの3人の男女キャラだけではなく、ヤンキーDQN(ドキュン)生徒の成績不良やケンカ騒動、ガチンコ対面のコミュニケーションは苦手だけどネット上では大胆にふるまえるコスプレ少女の挿話などをシリーズ前半に配置する。シリーズ後半では夏休みの臨海学校クルーズや、学級委員クン・チャラ男・ギャル子らの生態や彼らの意外な一面なども、無人島でのクラス対抗サバイバルにおける権謀術数合戦と並行して描いていく。
スクールカースト・バトルロイヤルもの全般に云えることだけど、偽悪的にそれらを肯定して、作品自体が現代の多様な価値観の象徴だとも作り手は往々にしてウソぶいている。しかし、実際にはバトルロイヤルにエゴイスティックにガンガンと参戦する陣営には主人公を配してはいない。たいていはバトルロイヤルをなんとか止めようとする、せめてブレーキはかけようとしている良心的な連中が主人公側の陣営として設定されるのだ(笑)。
つまり、云われているほどアナーキー(無秩序)でも斬新でもなかったりするのだけど(批判ではなく)、基本的には本作もまたそのクチではあった。
そして、バトルロイヤルにブレーキをかけるためにも、逆説的に実力・権謀術数が必要となってしまうというジレンマを描いたあたりは、本作の独自性・アドバンテージではあるのだろう。個人的には2017年夏アニメのナンバー1である。
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『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』
(文・T.SATO)
(2019年8月3日脱稿)
ラノベ原作作品で、昨2018年秋の深夜アニメの人気作『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190706/p1)の続編にあたる映画作品である。
『涼宮ハルヒの憂鬱』(03年・06年に深夜アニメ化)や『僕は友達が少ない』(09年・11年に深夜アニメ化・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20201011/p1)に『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(11年・13年に深夜アニメ化)や『ようこそ実力至上主義の教室へ』(15年・17年に深夜アニメ化・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20200202/p1)などのように、やや(ひとり)ボッチ気味の冷めた高校生男子クンが主人公として配されている。
黒髪ロングのやはりクールな美少女の女子高生をメインヒロイン、キャピキャピしたゆるふわな可愛い女子高生をサブヒロインとして、サードやフォースのヒロインをハーレム的に配置していくので、カテゴライズとしてはボッチ作品かつハーレム・ラブコメでもある。
とはいえ、ベタで自堕落なハーレム・ラブコメや萌えアニメでは飽き足りず、もう少しだけ作劇が技巧的で、噛み応えもある内容を求めたり、世間に対してハスに構えつつも、ヒネている自分を絶対視はせずに人間的にはむしろ自分はダメかもしれないなどと自省もできる、オタの中でも良く云えばやや知的で内省的なかつての文学青年タイプ、頭の中がモノローグやエア友達(笑)との問答で渦巻いているような人種たちが特に好みそうな作品ではある。
作劇ギミックには「SF」要素を入れつつも、「SF」それ自体は「目的」ではなくて「手段」に過ぎない。作品を単調さや甘ったるさやご都合主義の方向へと堕さしめずに、適度にクールで乾いた感じにするためのテレ隠しであって、作品自体のキモはヒロインたちとの校内や校外でのオズオズとしたやりとりや、彼女らの少年主人公に対する秘めたる恋情や好意の表明がもたらす「胸キュン感情」でもある。
本映画の前日談でもある深夜アニメ版においては、序盤は有名子役上がりの黒髪ロングのメインヒロインが、特別扱いされない無名の個人として高校生活を送りたいと県内一の進学校に入学する。
しかし、周囲による特別扱いしない配慮が転じて行き過ぎた「同調圧力」となって、彼女は誰からも話し掛けられることがない「透明な空気」と化してしまう。
そして、ミクロ化できるアメコミヒーローを描いた洋画『アントマン』(15年)の続編『アントマン&ワスプ』(18年)に登場した、半透明の分身する敵のゲスト怪人でもその原理とされていた、超ミクロの量子レベルで起きる事象。
密閉箱の中を開けて観測できた時点で、存在が「確率」から「実在」へと確定する「シュレディンガーの猫の原理」で(?)、少年主人公などの一部の人間を除いては他人にその姿が視認ができなくなってしまう怪事件を発端としていたのだ――それで、他人に視認されていないことを自身で再確認するために、バニーガールの扮装をして市立図書館の中を徘徊している(汗)――。
オタク系ジャンル作品の今や様式美と化している「時間ループ」要素も導入する。同じ1日が何度も繰り返すという、年長オタク的には既視感にあふれる展開。それは実はゆるふわな後輩サブヒロインが男よけのカモフラージュとして、期間限定の仮面カップルを少年主人公と演じているうちに恋情が発生、その終焉を避けたいという想いが起因だったとするのだ。
より正確には「時間ループ」ですらない。物理学でいうところの新・運命論、新・決定論ともいえる「ラプラスの悪魔」である。全宇宙の事象は人間の自由意志も含めて、すべては原子や分子に脳内電気信号や脳内化学物質のビリヤードの玉突きのような純・物理的な運動で説明できるモノに過ぎないのであれば、原理的には人間の自由意志などは錯覚に過ぎなくて、宇宙の歴史も人間の歴史もすべては物理的必然の運命として確定・決定しており、全宇宙の原子や素粒子レベルでの全物質の四方八方への移動方向を計算できる超高速計算機が実在すれば、大宇宙や人間の行動の未来予知も可能であって、彼女は無意識に万人を超越している当の「ラプラスの悪魔」と化して未来を何度もシミュレートしていたとするのだ。
――主人公のみソレを知覚できたのは、離れている量子同士が不可思議な相関性を持つ「量子もつれ」であったとした――
コレらの現象をあくまでも知的遊戯として、上記のように解釈してみせたサードヒロインのクールな科学部のメガネ女子もまた、自身が2人に分離したことで状況を理解して、自身の現状も「量子テレポーテーション」に類似する事象だと解釈。
他にも、省察的な人格類型の少年少女たちの思春期メンタルで、メインヒロインが父親違いの妹との人格交代を起こしたり、主人公の妹が過去にSNS上でイジメにあった際には肌にキリ傷やアザが浮かんで記憶喪失・幼児退行を惹起してしまった過去なども語られてきた。
そういった事件が描かれてきた深夜アニメ版の続編でもあるこの映画版では、主人公がかつてあこがれて救われてもきた上級生少女が、なぜか初対面の下級生として出現していた作品内での最大のナゾが明かされることになる。
映画の神さまのイタズラか同時期公開のアメコミヒーロー大集合映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』(19年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190617/p1)同様に、人命救助のために幾度もの歴史改変を展開するけど、ジャンルや作品が異なればテイストはまるで異なって別モノとなってしまう好例だともいえるだろう。
劇場は我々キモオタどもがススり泣き、嗚咽をもらす場ともなっていく――アニメ映画『君の名は。』と『聲の形(こえのかたち)』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190901/p1)の2大作品の狭間の公開で埋もれてしまった感涙必至の大傑作アニメ映画『planetarian~星の人~』(16年)ほどの嗚咽では満たされなかったけれども(笑)――。
他者に認知されるまでは「実在が確定」せず、それまでは「可能性・確率論的な遍在」であって、そのあいまいで多数に分裂したような状態を、超ミクロ世界における複数の「並行世界」の出現だと解釈すれば、量子レベルでは世界はあまたの「並行世界」とも通底している。
そして、人間の脳や意識も実は脳神経のみならず「量子の波動」で駆動するという最新トンデモ学説に基づけば、女児向けアニメ『HUG(はぐ)っと! プリキュア』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20201227/p1)最終回における「量子コンピューター」型アンドロイドであろうプリキュア途中追加戦士とも同様に、分岐もしくは上書きされた平行世界での出来事となってしまったハズの記憶が歴史改変後の世界でも微量には蘇ってくる感動にもSF的な補強ができている。
良作だとは思う。しかし上述してきたように、SFギミック面でのリテラシー(読解能力)も必要だし、我々が住まっているオタクジャンルの国境を越境して、その外側に届くだけの浸透力を持った作品ではないであろう(汗)。
『月がきれい』
(文・T.SATO)
(2017年春アニメ)
(2017年7月23日脱稿)
「中学生にも格差社会は存在する。上流と下流。華やかな部活と地味な部活。外見と成績。あらゆる武器を駆使してお互いの上下関係を探り合う」
#1冒頭のモノローグこそ、人間集団内でのいわゆる「ポジショニング」のことであって若干シビアだが、そこに流れる春の風景は水彩画的で美しい。
内容も小江戸こと埼玉県川越を舞台に、文学好きで作家志望の控えめな中学3年生の男子と、同級のシャイな黒髪少女との、クラスでは直接会話しないけど(汗)、スマホやパソコン上で起動するSNSツール・LINE(ライン)を介して、交情&接近を深めていく物語である。
登場人物たちの頭髪や顔面に服飾など光が当たっている箇所を、白く飛ばしたホワイトのベタ塗りで表現することで、本作の初々しい清涼感も強調されている。非常に文学的で詩的な作品だ。
しかし、『涼宮ハルヒの憂鬱』(06年)・『僕は友達が少ない』(11年)・『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』(13年)や『化物語』(09年)・『四畳半神話大系』(10年)・『冴えない彼女の育てかた』(15年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20191117/p1)・『エロマンガ先生』(17年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20221211/p1)や漱石でも太宰でも何でもイイけれど(笑)、あーいう内向的かつプチ・インテリで自意識過剰な主人公の場合は、語彙がムダに豊富なモノだから、内心の声を一人称で終始饒舌に語らせまくったモノである。
だけど本作では、突き放した三人称の叙事に留められており、主人公自身はワリと寡黙で、抒情的な風景の方で彼の内面のフワッとした心情を代りに語らせてもいる。とにかくセリフ自体があまりナイ。セリフ主体で話を回しているワケではない。
けれど、同じく繊細な文学少年が主人公でも、艱難辛苦を与える方向で作劇していって、性悪なデブ女にハメられたり、ふだんツルんでいる数少ない友人たちとの交流も失って、転落していった深夜アニメ『惡の華(あくのはな)』(13年)などもつい連想して比較もしてしまい、作品世界の神である作者の恣意の方が気になってもしまったり(笑)。
あのメインヒロインである黒髪少女もスポーツ(陸上)をやっていて人並み以上の顔面偏差値だからこそ、多少はコミュ力弱者でも侮られずに一目置かれて、クラスでもカースト上位のギャル系グループに所属ができているのだろう。
もう13年も前の2004年に、まだ10代の少女ふたりが芥川賞を同時受賞していたけど、その片方のギャル系ではなくお眼めパッチリ黒髪清楚系の方が執筆していた小説『蹴りたい背中』(03年)に出てくる、マニアックな気質では通じるモノがあってキモオタ少年クンとも交流したけど、そこまでのカースト劣位ではないコミュ力弱者のコレまた陸上少女(!)のように、空気を読めない少年へのイラ立ちから嗜虐心を刺激されて、その背中を蹴ってしまう!……なぞといった方向性へと話を転がしていったならば! なぞと心がウス汚れている筆者などはつい妄想してしまう(笑)。
もちろん、そんな展開になってしまったならば、この作品の清涼さは雲散霧消してしまうけど。だから、本作をかろうじて成立させている諸々の土台に疑いの眼を向けるイジワルをしなかった作劇自体は正しかったと一方では思うのだ。
幾度かのスレ違いがありつつも、遊園地での集団デートの際に、ヒロインに好意を寄せていたイケメン陸上兄ちゃんの告白を、文弱の輩に見えた文学少年の主人公はハネのけてみせる!
このあたりの展開に意外とムリがナイのは、#1から少年が自室に入るや電球のスイッチ紐に向けてシャドーボクシングをしている描写が、彼にも最低限はあるのだろう能動性の担保にもなっていたからであるだろう。
と同時に、シリーズ中盤ではこの少年のことを横恋慕的に好きになってしまった、もうひとりのボーイッシュなサバサバ女子は失恋確定となったワケで、彼女を慰めるギャル連中の姿も含めて泣けたのであった。
ところで、職場の同僚などの雑談を聞いていると、保護者の緊急連絡網までLINEになっている当今、LINEはまさにインフラ(生活基盤)になっているワケであり、そのLINEが変名ではなく実名で登場するあたり、旧石器時代人としては隔世の感である。
とはいえ、地元や会社とは隔絶した趣味的共同体ではなく、学級空間の延長線上としての電脳空間では、腕力や声のデカさやルックスにファッションや他人に対して強くキツく当たれる嗜虐的な人間が優位に立てて、気弱で控えめで反論や反撃ができない人間が劣位のままで持ち越されて、それらのことどもが言語化・可視化・アーカイブ化されてブースト・増幅されていく世界でもある。
腕力も胆力もなくて常にクラスの隅っこでショボ~ンとしていて「あんなヤツ、いたっけ?」などと後ろ指をさされて、血縁・地縁・学校・会社に帰属意識を持てずに落下していった先がコミケであった筆者としては(爆)、自分が今の時代の中高生であったならば、2017年の夏アニメ『地獄少女』4期#1(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20191201/p1)のゲスト女子高生のように、さらに孤立してコジらせて、あるいは最初から学級のLINE共同体なぞに所属などはしないよナ……などと暗澹たる気持ちにもなってしまうのだ。
主人公は応募した小説が縁となって、出版社に呼び出される。しかし、純文学ではなくライトノベルを書かないか? と勧められて落胆してしまう(爆)。
純文学を上に見て、エンタメを下に見るラノベ差別である!(笑) コレは在日韓国人ヘイトを撒き散らす「在特会」に抗議している左翼の「レイシストしばき隊」が、「『艦これ』、キモい!――『艦これ』の艦娘たちを愛好する性的弱者のオタはキモい!――」などと今度はオタを差別している事例とも等価なのだ!
左翼にすら守ってもらえない我々は、コレを許してはならない。日本全国のオタはこの主人公を糾弾して、思想改造を施さねばならないのだ!(……ウソです・笑)
『月がきれい』
(木曜24時 TOKYO-MX他)
(文・久保達也)
(2017年6月6日脱稿)
埼玉県川越市に実在する風景をリアルに描いた舞台で展開される、太宰治(だざい・おさむ)を愛読する中学3年生で文学部の部長・小太郎(こたろう)と、陸上部に所属する同級生の女子・茜(あかね)との、淡い青春ラブ・ストーリーである。
ただ、ふたりがやりとりに使うSNSツール・LINE(ライン)さえ出てこなければ、とうてい平成のこの世に放映されている新作アニメだとは思えない、どこまでも昭和の郷愁を感じさせる純愛路線なのだ。
始業式から始まる第1話の冒頭、茜を含めた陸上部の仲良し3人組が、3年生に進級して皆が別のクラスになってしまったと嘆く中で、茜が下駄箱(げたばこ)付近で友人たちとたわむれる小太郎を、思わず目で追ってしまう描写があることから、茜にとって一応の小太郎との出会いがここで描かれている。
その小太郎と初めて同じクラスになったものの、彼以外に知っている子が誰もいなくなった教室に入ることを「緊張する」などと思ってしまい、トイレの中で可愛らしいさつま芋(さつまいも)のキャラクターをかたどったピンクのスポンジを「落ちつけ……落ちつけ…」などと両手で延々とモフモフすることで緊張をほぐさなければならないほどに、茜は極度の恥ずかしがり屋さんなのだ(笑)。
ようやく教室に入ろうとしたものの、茜は入り口から中のにぎやかな様子を見渡しているうちに、やっぱダメだ! とばかりに、いったん教室からスタスタと走り去ってしまう(爆)。
「小学3年生のときにいっしょのクラスだったけど覚えてる?」などと茶髪ロングヘアのヤンキーチックな女子に声をかけられたことで、やっと教室に入ることができたほどである。一応、陸上部に所属していて体育会系の娘であれば、世間や中高生の世界では有用とされている運動神経の持ち主であることで自信・自尊心を最低限は持っていることがふつうなのだが、自信満々とは程遠そうな茜の謙虚で清楚な見た目からして、物怖じしていたとしてもこれは不自然ではなかった。
同じ陸上部の女子たちが、総じてあちこち毛先がとんがったショートカットの快活な娘であるのに対して、茜は黒髪ロングのストレートヘアと明確に差別化されているために、おとなしい娘であることは端的に表現されてはいるのだが、それにしてもこの重症ぶりは(笑)。
しかし、そんな繊細ナイーブな彼女だからこそ、体力や運動神経がなければ男として、異性の対象としては認めない! などというようなことにはならずに、本作の主人公のような文学少年タイプに惹かれていくことの説得力を醸すこととなる伏線ともなっていくのだ。
ちなみに、小太郎の方は友人たちと「知ってるコ?」「ううん」などというやりとりがあることから、彼は茜のことは知らなかったようだ。
しかし、茜のあまりの挙動不審ぶりにはおもわず注目してしまい、例によって窓際の最後尾の席(笑)から目で追うこととなったことが、小太郎が茜を意識するようになる発端(ほったん)として描かれてもいた。
小太郎もまた、「太宰は云った。生きていることは、なんともやりきれない、息も絶え絶えの大事業である」などという、あまりにもおおげさなモノローグをつぶやくほどなので、そんな自身と同じ属性を茜に感じてしまったことだろう。それもまた伏線として機能ができているのだ。
とはいうものの、本作はたとえば『涼宮(すずみや)ハルヒの憂鬱(ゆううつ)』(06年)や『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(13年)など、主人公男子のモノローグがほとんどナレーション(笑)と化しているような作品群とは明確に異なっている。
小太郎はインテリ系男子が思春期にありがちな、自意識過剰な主人公像として、内心の声を文学少年らしい実に豊富なボキャブラリーを駆使して全編にわたって語るのではなく、あくまでも寡黙(かもく)なキャラに徹している。その代わりに、彼の内面は抒情(じょじょう)的・詩的な背景美術が語っているような印象を与える演出が施(ほどこ)されているのだ。これは作品を比較して優劣をつけているのではない。あくまで本作独自の特徴・特性のことを云っているのである。
ちなみに、本作ではキャラクターの表情を演出するにあたって、キャラクターに光が当たっているカットでは、光が当たっている部分だけを真っ白にバッサリと飛ばしてしまう独自の手法を採っている。この白身の多い映像表現もまた、本作の作風に一種の清涼感やさわやかな印象を与えることができているのだ。
小太郎も執筆していた小説を級友たちから「見せて」と云われるも、「イヤだよ」とのやりとりを何度もかわすなど、茜と同様にややシャイな少年として描かれてもいる。
その最たる例は、行きつけの古本屋に入った小太郎が、たまたま手にとった太宰治の小説『少女期』の
「私の下着にバラの刺繍(ししゅう)があることなんて先生は知らない」
などという一節や、ビキニ姿のアイドルが表紙を飾る雑誌を見かけて、おもわず赤面してしまう場面である。
そんなウブな小太郎に対して、まだ若そうな気のいい店主は「いろいろな本を読むといいよ」と声をかけて、太宰を買った小太郎に「これはオマケ」と、小太郎が赤面した表紙の雑誌を手渡してみせる…… いや、それ「読む本」じゃなくて「見る本」でしょ?(爆)
ただ、故・大滝詠一(おおたき・えいいち)や細野晴臣(ほその・はるおみ)に松本隆(まつもと・たかし)ら、その後に多方面で活躍することとなるミュージシャンが在籍していた伝説のフォークグループ・はっぴいえんどのLPレコードを見せながら店主が語ったウンチク話に、小太郎が「うわぁ」と目を輝かせる描写は、小太郎の文学青年的な気質やマニア気質を絶妙に表現していた名演出であった。
実は第1話では、小太郎と茜のふたりが急接近する契機となる展開が、段階的に二度も用意されていた。
一度目は、小太郎と茜の家族がファミリーレストランで窓のある壁を通して隣の席となってしまう場面である。小太郎と茜はほぼ同時に互いの存在に気づくものの、ともにそれを家族には気づかれまいとする。そして、ドリンクバーに来たふたりの間で、あまりにも気マズい空気が流れるのだ……
だが、その様子を目撃していた、茜とは対照的にかなりヤンチャそうな女子高生らしき姉が母に耳打ちしたことから(笑)、「お世話になっております!」などと互いの家族があいさつをかわすどころか、無神経にも息子や娘をさんざんチャカしてイジり倒すという、小太郎と茜が最も避けたかったハズのドンチャン騒ぎが起こってしまうのだ(笑)。
特に小太郎の父が「なかなか可愛いコじゃないか」などと、わざわざメガネをかけて隣の席をのぞきこもうとするのを、「ちょっとお父さん、やめてくださいよ!」と、小太郎の母がたしなめる描写は、実に庶民的で良くも悪くもぶしつけな「生活感」や「あるある感」にあふれていた(笑)。
小太郎と茜はただひたすらに頬(ほお)を真っ赤に紅潮(こうちょう)させてうつむいているしかない。茜が「モフモフほしい……」とつぶやくのがまた、説明的なセリフではなく遠回しにアイテムを代用することで、その心情を語らせているあたりも、実に「映画的」「映像作品的」ではあった――いつものさつま芋のキャラクターは持ってきていなかったのだ(笑)――。
茜は帰り際に「今日のことは、学校では云わないで。恥ずかしいから……」と初めて小太郎に声をかける。その背中に「川越第三陸上競技部」とデカデカと書かれているのを見て、小太郎は「それは、恥ずかしくないの?」と内心でつっこんでしまうけど(爆)。
年頃の娘であれば、いくら家族との外食とはいえ、ふつうはそれなりに着替えてくるところであろうから、陸上部の青いジャージ姿のままでファミレスに来てしまうあたり、これもまた茜が繊細な少女でありながらも、虚栄的なファッション&スイーツな輩ではなく、恥ずかしがるツボが世事とは少々ズレているところもあることで、かえって純朴さがまた強調されつつ、ギャグ演出ともなっているのだ(笑)。
二度目は体育祭の準備として、陸上部が主導する用具係に小太郎と茜が任命されて以降の展開である。
係の会合を知らせる連絡網として、茜はLINEを駆使する。しかし、自身と同じ陸上部ではない小太郎の連絡先を知らなかったために、茜は会合のことを小太郎に伝えることができなかったのだ。
翌日に教室でそれを口頭で小太郎に伝えようとするも、茜は恥ずかしくなってしまって、ただひたすらにピンクのさつま芋を両手でモフモフとさせるだけなのだ(笑)。
この時点では、茜が小太郎を異性の対象として意識していたわけではまだなく、単に異性としゃべることに照れと気後れがあるということなのだろう。
しかし、そのために用具係の会合のことを知ることができなかった小太郎は、顧問の教師に叱られることとなる。それを見ていた茜は、ひとりで準備作業をしていた小太郎を手伝おうと遂に意を決する。
例のモフモフもそこそこに、それまではいっさい見せなかったような、キリッとした横顔を一瞬見せる演出も実に良いのだ。
さらに、茜は作業で汚れた小太郎の制服の背中を、手で払ってあげるまでに至り(!)、おもわず赤面する小太郎の姿も含めて、なんとも微笑ましい描写となっている。
このあと、茜から連絡先のメモをもらって帰宅した小太郎が、天井の照明のひも型スイッチを標的にして、なんとシャドーボクシングを繰り出す場面がある。
この描写は彼が単に文弱で温厚なだけの文学少年などではなく、男の子らしい勇ましさも持っていることをも示しており、今後の展開では小太郎が文学少年らしからぬ男気をも示せるという伏線でもあるのだろう。
ちなみに、陸上部の練習風景の場面では、走っている茜の姿を目で追うも、目が合いそうになるとサッと顔をそむけてしまう男子部員の姿も描かれていた(笑)。彼が小太郎の恋仇となって、今後は恋愛バトルも描かれるのであろう、これもまた伏線にもなっている。
♪ 放課後の校庭を 走る君がいた
遠くで僕はいつでも 君を探してた
1983年のヒット曲である村下孝蔵(むらした・こうぞう)の『初恋』の歌詞である。本作の世界観とこのシーンそのものである。本作中盤の回ではエンディング歌曲として使ってほしいくらいだ(笑)。
本作の監督を務めている岸誠二(きし・せいじ)は、
●特撮ヒーローのパロディーアニメ『天体戦士サンレッド』(08年)
●美少女メカアニメ『蒼(あお)き鋼(はがね)のアルペジオ ―ARS NOVA(アルス・ノヴァ)―』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190922/p1)
●イケメン異能バトルもの『ハマトラ』(13年)
●魔法少女アニメ『結城友奈(ゆうき・ゆうな)は勇者である』(14年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190926/p1)
などなど、硬軟多彩な作風のアニメの監督を務めている。これといった統一性や作家性が感じられないあたりで(失礼)、何でも器用に演出してしまえる職人監督なのだろう。
♪ 愛という字 書いてみては ふるえてた あの頃……
これもまた先述した『初恋』の歌詞だが、やはり『月がきれい』は、思春期の入口に入った世代にとっては少し背伸びをしたオトナの世界であり、その年代を越えてしまった年長世代には、その渦中においてはたとえ実際にはイイことがまったくなかったとしても(笑)、甘酸っぱい記憶で美化された「あの頃」感にあふれた作品でもある。
『俺を好きなのはお前だけかよ』
(2019年秋アニメ)
(文・T.SATO)
(2019年12月15日脱稿)
アリがちな美少女複数の好意から来る胸キュン萌え感情の惹起を主眼としたラブコメ作品かと思いきや変化球であった。
かわいい女の子の萌え媚び媚態はホンモノなのか? 天然なのか? そこに計算はナイのか? どころか、男を手玉に取って転がして、内心で悦に入ったり自己愛を満たしているのではないのか? といった、ある意味では人間としての根源的なところに、ストーリーの序盤でコミカルに迫ってみせてもいる。
ウスいパープル髪の上級生美少女は微エロで少年を転がしており、幼なじみ少女は手のヒラでバンバンと少年を叩いて腕を組んだり胸を押し付けてくる。しかし、彼女らは主人公少年に対してその気はナイ。どころか、天然な仕草ではなくワザと芝居でやっているのだ(汗)。
コミュ力には恵まれてはいなくてもルックスには恵まれていたために、男性にチヤホヤされたり勝手に相手がテレてくれることで精神的には上位に立ててしまって、良い面では経験値が、悪い面では渡る世間をナメ腐ってかかって成長してきた金髪ロリ系女子高生や、さらには媚態を示すことで男の注視と女の嫉妬を喚起して優越感&悦に入る女教師を描いていた深夜アニメ『クズの本懐』(17年)という作品もあったけど、本作序盤はそれのオタ向けラブコメへの翻案版でもあろうか?(笑)
現代のフェミニズムも、強権的な男性によるマウント行為への批判ばかりではなく、女性の中にもいる女性カースト内での上昇志向女子も含めて的確に指摘して、それに対する批判もできないようでは、アンフェアではあるだろう。
加えて本作では、主人公少年の一応の親友でもあった野球部の長身青年クンともドロドロが発生してしまう。そう、男の友情にも実は打算や嫉妬が付きまとっているとして描くのだ。彼もまた意中の女性が主人公クンに懸想していたことを根に持っていて、彼をハメて転落・孤立させようとしていたことが発覚してしまう!
……こう書くと、スゴいシビアな作品なのだが、映像&明るい色彩演出面でのセーブが働いているのか、ラブコメ的まったり感も濃厚ではある。
さらに、彼らの人間関係・痴情のもつれ(笑)を見透かして茶番劇も仕掛けてきて、陰謀の真相を関係者間に暴露した末に、一度は壊れた人間関係の修復にも関与する図書室の黒縁メガネの黒髪少女の正体とは!?
――メガネを外してサラシもほどくと絶壁胸の地味子ちゃんから巨乳美少女へと早変わりするけど、彼女の真意・本性はそんなルックスにも帰結していかない――
といったところで、この彼女とは実際には正反対なハデで元気な性格であろうアイドル中堅声優・戸松遥(笑)が、この少女をいつもとは異なるクールで知的なボイスで演じているあたりもビックリだ。
主人公少年も哀れなだけの被害者なのかと思いきや、そーでもナイのだ。彼にもまた腹黒さや自己保身や虚栄心に悪知恵もあるのだとして描くのだ。しかしながら、策謀には失敗してしまって、校内ではボッチになってしまう(汗)。
そんな彼らは喰えない悪人ぞろいばかりなのかと思えばそーでもない。時には歩み寄って和解もして、他人に対して献身的にもなる彼ら彼女らの矛盾や二面性。
全員とはいわずとも人間の多くはそーいうものでもあるのだろう。イイ奴かと思えば悪い奴であり、でもそんなに悪い奴でもないという……。そういった展開の連発に、心を揺り動かされてダマされまくっている筆者であった(笑)。
原作ラノベの挿絵は人気作品『僕は友達が少ない』や『電波女と青春男』(共に11年に深夜アニメ化)も手掛けたブリキの手によるものだ。本作でも、美麗でかわいく繊細なキャラデザを、高予算作品であろう本作アニメ版も見事に映像化ができている。
正直、やや理に勝ちすぎたストーリー展開で、私的には物語にスナオに没入できる感じでもナイ。けれど、あからさまにタイクツでもう視聴を打ち切ってもイイかという感じでもナイ。先行きが気になってしまう。後日まとめて終盤まで見通す所存だ。
『俺を好きなのはお前だけかよ』
(2019年秋アニメ)
(水曜24時30分 TOKYO-MX他)
(文・久保達也)
(2019年10月20日脱稿)
本作の男子高校生主人公・如月雨露(きさらぎ・あまつゆ)はその名前から「月」を取ると「如雨露」=「じょうろ」となることから、クラスでは通称「ジョーロ」と呼ばれている。
黒髪のザンギリ頭で誰に対しても穏やかに接するジョーロは、一見いわゆる「いい人」に見える。
この「いい人」なる表現は本当にクセものであり、決してホメ言葉ではなく、むしろ侮蔑(ぶべつ)的な意味だと解釈すべきものである。ナゼならば一般的な女性が特定の男性を指して「いい人」と形容する場合は、それはたいてい「どうでもいい人」の意味だからだ(汗)。
ジョーロには日向葵(ひなた・あおい)という幼なじみがいる。ジョーロはその名前をアナグラムにして「向日葵」=ひまわりと呼んでいる。
茶髪のショートボブヘアの左側にひまわりの髪飾りをつけ、頭頂部にアホ毛が生えているひまわりは、通学時に
「おっはよ~~!」
とジョーロの背中をバチーン! とたたくような、天真爛漫な元気娘だ。
そして、ジョーロは生徒会の書記を務めている。紫のロングヘアでモデル体型の生徒会長・秋野桜にあこがれてもいる。
加えて、ジョーロは野球部のエースで4番の同級生・大賀太陽とは「SUN(サン=太陽)ちゃん」と呼ぶほどの大親友の関係だ。
さらにジョーロは、桜からは土曜日に、ひまわりからは日曜日にデートに誘われる。ここまで観るかぎりならばジョーロはまさしくリア充であり、「なんだ、またハーレムものかよ?」などとカン違いしそうになるのだが……
夕焼けに染まる公園で、ベンチの隣にジョーロを座らせた桜は「好きな人がいるの」と迫ってくる。胸の高まりをおさえられないジョーロ。
しかし、桜の好きな人はジョーロの親友の太陽であった! 試合に負けてひとりで泣いていた姿を見て好きになってしまったのだとして、ジョーロに仲を取り持ってくれるように依頼してきたのだ!
内心では「Oh,No(オー・ノー)!」と頭をかかえていたジョーロだったが(笑)、桜には満面の笑みで「いいですよ」と答えるのであった。
その翌日、やはり夕方の公園のベンチで「好きな人がいるの」と、ひまわりに迫られたジョーロは「今度こそ!」とばかりに期待に胸をふくらませる。ひまわりが好きな相手もまた太陽であった! 試合に負けて泣いていたのを見たことがキッカケであることも桜と同じであったのだ!(笑)
このあたりから「おまえもそこかい!?」と内心で毒づいたりして、ジョーロは次第に「いい人」なだけの人間ではなく、相応に他人に対して少々の悪意もわいてきてしまうような人間でもあるという本性を視聴者に対しては見せはじめる。
しかし、ひまわりに対してはその本心を表に出すことなく、「まかせてよ」と自信を見せる演技をしてしまう……
みんなに好かれようとがんばってきたジョーロに、これまで散々に好意的な態度で接してきたのにもかかわらず、ひまわりと桜にとっては実は自分は「どうでもいい人」であったことを思い知らされたジョーロは、自室で
「(ふ)ざけんなぁぁぁ~~~!!!」
と絶叫して半狂乱となってしまう。そして、どちらか太陽にフラれた方とハッピーエンドになろうとたくらむ始末であった(汗)。
かなりコミカルに描かれてはいるものの、ジョーロにかぎらず、教室や職場で波風を立てずにやり過ごそうとするがために、程度の差はあれども人間は皆がこうしたストレスに悩まされている。だから、この程度であればせめて人には知られないところでこんなガス抜きをすることくらいは許されるべきだろう。
これ以降、ジョーロは人に見られていない場所ではやさぐれモード全開となってしまう。ひまわりを「幼なじみの立場を利用したクソビッチ!」、桜を「オトナの色気を利用してオレを弄(もてあそ)んでいたアバズレ!」などと罵倒(ばとう)をするのだ(笑)。
しかし、このふたりを実際に目の前にしてしまうと、やはり根は善人であるためにそこまで非情にはふるまえないのだ。それとも、美少女たちとよりを戻したいという一抹の希望、もしくは未練が残っているのか(笑)、あくまでも恋のキューピッドであることを装(よそお)ってしまうのだ。
そんな優しい態度に喜んでしまって、手を握ってきた桜のことを、「好きでもない男の手を握るなんて意味不明!」などと理知的に彼女のことを分析もできている。
自身に抱きついてきたひまわりに至っては、「こいつ、これでオレが好きじゃないんだぜ。頭おかしくね?」などとラッキースケベを喜びつつも、メタ的に作品の外側にいる視聴者に問いかけてもくるのだ(爆)。
ジョーロの「いい人」ぶりと「やさぐれ男」との激しいギャップが、キャラの表情の隔(へだ)たりと声優の演じわけで見事なまでに両極端に描かれているのだ。これにはおもわず爆笑せざるを得ない。
だが、第1話のラストは予想外のオチとなる。さらなるヒロインとして、紺色髪の三つ編みで四角いメガネをかけた図書委員・三色院菫子(さんしょくいん・すみれこ)が登場するのだ。
そして図書室に持ち込んだ、「お急ぎ便」で注文したベンチ(笑)の上で、ジョーロは菫子から好きだと告白されるのだ!――ここでのジョーロはノルウェーの画家・ムンクの作品としてあまりに有名な『叫び』の絵の中心人物としてのイメージ映像で描かれている!(爆)――
しかも菫子が好きなのは、「いい人」としてのジョーロではなく、ふだん周囲には見せていないハズの「やさぐれ男」としてのジョーロが好きだというのだ!
それも二重人格を題材にしたロバート・ルイス・スティーブンソンの小説『ジキル博士とハイド氏』の書籍を手にして云っている(笑)。なので、菫子の正体でもあるストーカーぶりもより際立ってくるのだ! 彼女の曇ったメガネの中には薫子の目が描かれていないために、どんな表情なのかがわからないことがまた、その不気味さを増さしめる効果を上げていた。
「秘密を明かされたくなければ、昼休みに毎日ここに来い!」と薫子に脅迫されたジョーロは今後、果たしてどうなってしまうのか? 興味は尽きないところだが、原作のライトノベルやコミックスでは、このあとジョーロはある者の策略によって(ひとり)ボッチの境遇に追いやられてしまうストーリー展開となってしまうようだ(汗)。
こうなると、好きでもない女子生徒に目をつけられた主人公少年が破滅の道をたどっていった『惡の華(あくのはな)』(13年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20151102/p1)を彷彿(ほうふつ)としてしまう。しかしネタバレするけど、ジョーロを転落させるのはこの薫子ではないようだ。
ちなみに、ジョーロの親友・太陽の声を演じているのは、本作放映中に放映されている『ウルトラマンタイガ』(19年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210606/p1)でレギュラー敵の青いウルトラマンであるウルトラマントレギアの声を務めている内田雄馬(うちだ・ゆうま)。太陽の性格は実はこのトレギアと同じであるようだ(爆)。
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