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『人新世の「資本論」』 ~完全平等の共産主義社会は実現可能か!? 可能だとしてヒトはそれに耐えられるのか!?
(文・T.SATO)
(2021年12月10日脱稿)
2020年に発行された30代の著者・斎藤幸平による大ベストセラー書籍である。著者が参加している団体は10年ほど前から同人誌即売会・文学フリマにも出店していたので、そちらで著者の前著などをすでにご存じだった方々もいるだろう。
本書の題名にある『資本論』とは約150年前に哲学者マルクスが上梓した資本主義を批判的に分析した著作の名。それに20年先立つ『共産党宣言』とともに、資本主義が内部矛盾により貧富の格差が拡大することで、やがて労働者による「革命」が起こって、強欲な資本家ではなく公明正大なる労働者が生産手段を管理する完全平等な「共産主義社会」が到来することが科学的にも真理(!)であるとする信念体系としての「マルクス主義」として帰結した。
20世紀の中盤には「マルクス主義」を信奉する国家としてソ連・東欧諸国・中国・北朝鮮・キューバ・北ベトナム・カンボジアなどが成立。
日本も含む世界中の左派系言論人がコレらの国家を「地上天国」であり、世界各国もいずれは「革命」を通じて「共産主義国家」へと移行していくのが「科学的必然」であると信じていたほどだ。
今では歴史オタクしか知らないような「黒歴史(くろ・れきし)」だけど、かつては「アメリカなどの資本主義諸国」の核兵器は悪だけど、「ソ連・中国などの平和主義諸国」(汗)の核兵器はクリーンである!――賛否が分かれて日本では「原水禁」と「原水協」に分裂騒動!―― 学習結果は子孫に遺伝する(!)なぞとソ連の科学者が主張して、日本でも左派系の科学者がこぞって追随していた……。そのような時代が日本の戦後の数十年間にもあったのだ。
もちろん、1970~80年代にはコレらの諸国は破綻国家・独裁国家となっていたことがバレてしまう。そして、1990年前後にソ連・東欧諸国などは崩壊して、東西2大国による核戦争で人類全滅の危機(汗)にあった東西冷戦も無事に終結している。そーいう意味では終ワコンの思想ではある。
しかし、著書は「新自由主義」でますます貧富の格差が広がる「資本主義」とそれに伴なう気候変動に対処するために、改めてマルクスを持ち出してくる。
未発表の遺稿を調査していくと、晩年のマルクスはすでに環境問題にも着目して自身の初期の「生産力至上主義」をも脱していたことを指摘。
彼がアジア差別的な「西欧中心主義者」に過ぎなかったという批判に対しても、「資本主義」がまだ勃興していない社会でも「共産主義」への移行は可能だとする旧ロシア(のちのソ連)の革命家への手紙を発掘。
かつてのソ連や今の中国・北朝鮮は過てる偽モノの「マルクス主義国家」であったとして、改めて「マルクス主義」を救い上げようともするのだ。
――ただまぁ、1990年前後の左翼は「資本主義社会」を経由してからの革命ではなかったから、ソ連・中国などは偽モノの「マルクス主義国家」になったのだ!」などと主張していたので、往時の彼らの主張とは矛盾が生じてしまうけど――
●今流行りの「SDGs(エスディージーズ=持続可能な開発目標)」や「グリーン・ニューディール政策」程度では、気候変動を抑制することはできないので偽善であり欺瞞である。
●先進国の強い「通貨」で途上国の物産を安く買い叩いてもいる経済圏に生きている以上は日本人の「庶民」や「貧困層」も、途上国の民と比すれば「ブルジョワ」であり搾取する側の悪である。
●単なる反・自民党の政局的脊髄反射で「公助」を唱えた凡庸左翼とは異なり、「公助」ではなく「共助」が必要なのだ!
と唱える点などは共感・同意もする。「資本(資本家)」自体に「自己増殖性(強欲)」が組み込まれてもいることから、「資本主義経済」の放棄を提言して「脱成長共産主義」を提唱するのも論理的にはアリであろう。
――そもそも一時的に国家財政を赤字にする「財政出動」や「公共事業」を創出して雇用や経済を回転させることで中長期で黒字化させていく「ニューディール政策」は20世紀前半に誕生した「ケインズ経済学」の手法であって、コレを19世紀的な「社会主義」「共産主義」的な分配理論だというのも誤りではあるのだし――
しかし、「脱成長共産主義社会」を招来するための具体的な方策については、新説ではなく100年前からある「マルクス主義」思想のおさらいとなっているあたりはいかがなモノか?
●「企業」でなければ「公助」的な「国家」でもない、強欲ではなく水平的・民主的な管理も可能で「共助」的な、国家と個人の間としての「中間共同体」的な管理組合でもある「アソシエーション」――平たく云えば「生協」や「農協」――
●「価値」(ブランド価値)よりも「使用価値」(実態価値)に戻るべき
●「分業」や「マニュアル化」は労働することの快楽を奪って「疎外」をもたらす悪である
●「原子力」や「化石燃料」などの高度な知見を必要とする「閉鎖的技術」は「独裁」をもたらし、「水力」や「再生エネルギー」などの「開放的技術」は人々の「協業」を促すのだからそちらの方向へとシフトすべきだ
●etc.etc.……
――今は知らないけど、ソ連・東欧諸国が次々と崩壊していった90年前後の大学の経済学部のゼミなどもその半数がマルクス主義であり(爆)、授業などでは「生協」についての講座などもあって筆者なども試しに受講をしたものだったけど。資本主義や資本家に対抗できる万能の解決策であるとは毛頭思えなかった(汗)――
しかし、仮にそれらの方策によって二酸化炭素排出を全廃できて気候変動も回避ができたとする。だとしても、全人類が相応数の人口で存在しつづけて近代的な生活を維持するかぎりで、二酸化炭素以外の鉱物採掘や農地開拓などで自然それ自体による復元が不可能な環境破壊を伴なってしまうことからは免れえないのではなかろうか?
「資本主義」ではダメでも「共産主義」でならばコレらは乗り越え可能というのもまた欺瞞であって、正確には少々はマシになるという程度であり、やはり1970年代の経済水準に戻れではなく「原始に帰れ」「エデンに帰れ」くらいの主張をしないとスジが通らないのではなかろうか?――ただまぁソコまで云ってしまうと、ヒトがついてこなくなるのもわかるけど(汗)――
加えて、「国家」や「資本家」ではダメだが、「庶民」が自発的に管理をすれば強欲なことにはならない! などという、安倍ちゃん・トランプは極悪人だけど庶民・大衆は善良である……といった「政治悪」と「人格悪」を混同している論調にも通じる浅薄な人間観にも疑問を感じてしまうのだ。
庶民が自発的に管理しても「強欲」に、あるいは「怠惰」になる可能性は一顧だにされないのであろうか? 「国家権力的な独裁悪」ではなくとも「地域のボス」が君臨して法治の及ばぬ治外法権になる可能性は考えないのであろうか? 職場や小中学校などでもパワハラ・モラハラ同僚や嗜虐的なイジメっ子に遭遇したことは人生途上で一度もないのであろうか?
もちろん、左派系人士は「人間とは本来性善であり、資本や富の蓄積がもたらした階級意識や、安倍ちゃん・トランプなどの不穏当な言動によって、一般大衆は悪をなすのだ!」くらいに考えているのは知っている。
しかし常識的に考えて、「資本」や「富」が存在する以前の太古から親の愛情の多寡とも無関係に、人間には腕力・ルックス・服装・刺青・装飾品・知識などで他人と差別化して悦に入ろうとするような品性下劣な「虚栄心」が、どころか霊長類一般にはサルの群れ的な「階層社会」のような要素が潜在している可能性や、捕食する肉食動物として相手を威嚇・恫喝してマウントを取ってみせるような本能が備わっている可能性を想起はしないのだろうか?
むろん、だからと云って、開き直ってソレらの要素をブースト(増幅)しろなどとは云わない。理性で抑えるべきことではあるだろう。そして、ソレらは安倍ちゃん・トランプを首チョンパにすれば立ちどころにして解消されるといった問題でもない。程度の差はあれ個々人の中に何らかのかたちで、他人よりも優越を誇りたいという邪な情動があるのも確かなのだ(汗)。
では、ドーすればイイのか? 基本は「理性」で抑えるべきだが、人間が「理性」を超えた「過剰」も抱えた存在でもある以上は、完全に抑えきれるワケもない。
であれば、身分制度の復活などは論外にしても、ひとつのモノサシではなく文系・理系・サブカル・オタク知識・話術・文才・画才・腕力・走力・身長・顔・身体のパーツ(爆)などの小さなジャンルカースト・祝祭空間・スポーツ・ゲームを陰に陽に大量に用意して、そこで我ながら見苦しいことだと自覚させつつ個々人に小さな優越感を発散・蕩尽させるように、先回りして社会をデザインしておくことこそが人間の「非合理」をも包含した「超合理」なのではなかろうか?
しかも、複数のカーストに所属することで、ある場所ではダメでも別の場所では息をつけるようにする……。
残念ながら、人間とはその本性からして「共産主義的な平等社会」にはなじめない存在だとも思うのだ――かといって、「新自由主義的な競争社会」にもなじめはしない――。
結論。「SDGs資本主義」でも「脱成長共産主義」でも気候変動は回避ができない。大破局を先送りにするタイミングが異なるだけである(爆)。
独裁に帰結したソ連・中国などが偽モノの「マルクス主義国家」だったのではなく、すでに19世紀のむかしに「無政府主義者」のバクーニンが「議会」ではなく「暴力革命」による政治を肯定する「マルクス理論」は必然的に「独裁」に帰結することを指摘もしているのだ。
仮に世界中で同時に「脱成長共産主義」を一斉に導入ができたとしても、いかに庶民の自発性を謳おうとも「三権」を超えた権力を保持する「脱成長共産主義者」が規定した「公」――しかも、真の意味での「公」であるかも怪しい(笑)――から少しでもハズれたモノは「保守反動」「反革命」「右派」だとして全否定、その「公」を計画・実現するための独裁権力も肥大化し、それと同時に自生的な経済も破綻して失業・経済的自殺・餓死・強制収容所送りが膨大に出るだろう。
というのは大袈裟だとしても、異を唱える者に対しては社会的な抹殺にかかるであろう。仮に気候変動による大破局を先延ばしにはできたとしても、その前段では大きな不幸が生じるだろうと予想するのだ。
……まったくもってドーすればイイのですかネ?(汗)
もちろん、「資本主義」に対するオルタナティブ(代替的選択肢)なり何らかの改善策の提示は必要。しかし、その任を本書が満たしていたとは思わない。本書を読んで先の衆院選で日本共産党に投票した御仁も極少であろう。
けれど、カウンターとしては必要な論考だったとは思うのだ。
ミーイズムやエゴイズムなどの私的快楽としての低次な「自由」は否定して、自己抑制・節制を公共のために自発的・意志的に行なうという意味での高次な「自由」の賞揚については満腔から同意はする。
しかし、全人類がその境地に到達することなど、人生途上で出逢ってきた級友・同僚・オタク友達を見ていても不可能だとしか思えない(笑)。