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ゴジラ キング・オブ・モンスターズ ~反核・恐怖・悪役ではない正義のゴジラが怪獣プロレスする良作!

『ゴジラ評論60年史』 ~二転三転したゴジラ言説の変遷史!
『キングコング:髑髏島の巨神』 ~ゴジラ・ラドン・モスラ・ギドラの壁画も!
『GODZILLA』2014年版 ~長年にわたる「ゴジラ」言説の犠牲者か!?
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ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』 ~反核・恐怖・悪役ではない正義のゴジラが怪獣プロレスする良作!

(19年5月31日(金)・封切)
(文・久保達也)
(19年6月13日脱稿)

空前のゴジラブーム再び!?


 ギャレス・エドワーズ監督による映画『GODZILLA ゴジラ』(14年・東宝https://katoku99.hatenablog.com/entry/20190531/p1)で東宝の怪獣映画・ゴジラシリーズが、映画『ゴジラ ファイナル ウォーズ』(04年・東宝http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060304/p1)以来、実に10年ぶりに復活して以降、かのロボットアニメ・『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズ(95年~・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20110827/p1)で有名な庵野秀明(あんの・ひであき)総監督による映画『シン・ゴジラ』(16年・東宝http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20160824/p1)に、魔法少女アニメ・『魔法少女まどか☆マギカ』(11年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20120527/p1)や、『仮面ライダー鎧武(ガイム)』(13年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140303/p1)のメインライターとして知られる、虚淵玄(うろふち・げん)が脚本を務めたアニメ映画『GODZILLA 怪獣惑星』(17年・東宝http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20171122/p1)にはじまる三部作と、この5年間は毎年のように、新作ゴジラ映画が観られる状況がつづいている。
 先述した『GODZILLA ゴジラ』で劇場を埋めつくした客は、もうあきれるばかりに中年のオッサンばかりで、そこにオバサンとおじいさんがわずかに混じるという惨状(笑)だったのだが、これはまる10年間も新作ゴジラ映画が製作されなかったために、ゴジラの商品的価値が完全に地に堕(お)ちていた当時を象徴するものだった。


 それがあの庵野監督がゴジラを撮る! といった話題性のみならず、そこで描かれた政界ドラマを、左右の政治家連中をはじめ、識者やマスコミが大絶賛、怪獣映画としては異例の82億5千万円(!!)――ちなみに『GODZILLA ゴジラ』は32億円にとどまった――もの興行収入をあげた『シン・ゴジラ』を契機に、世間は一転してゴジラに注目することとなり、さらにゴジラがアニメ映画の三部作として製作されたことも、それまでゴジラを知らなかった、あるいは無関心だった若者たちを誘致するには、一定の効果をあげてきたかと思える。
 今回の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を、筆者は公開初日のレイトショーで鑑賞したのだが、金曜日の夜だったこともあってか、昔からの熱心な中年ゴジラファン以上に、一般のカップルや老夫婦(!)などの姿も多く見られ、若者たちも男子のみならず、ひとりで観に来た女子も目立ち、それもオタではないであろう、フツーにリア充に見える娘までもがいたほどだったのだ。
 わずか5年前に公開された『GODZILLA ゴジラ』の当時とは隔世(かくせい)の感があったのだが、まさに「継続は力なり」というべきであり、映画『ゴジラVSデストロイア』(95年・東宝)と映画『ゴジラ2000(にせん) ミレニアム』(99年・東宝)の間に生じた、たった4年のブランクが、いわゆるミレニアムゴジラシリーズ(99~04年・東宝)の興行を低迷させる要因となったことを思えば、今後もゴジラ映画を継続して製作・公開していく必要があるだろう。


「モンスター・ヴァース」=怪獣世界シリーズ最新作!


 さて、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は、先述した『GODZILLA ゴジラ』の続編なのだが、ゴジラが主役ではなく、アメリカの「キング・オブ・モンスターズ」=怪獣王・キングコングが主役の映画『キングコング:髑髏島の巨神(どくろとうのきょしん)』(17年・アメリカ・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20170507/p1)とも、世界観を共有した続編でもある。
 これのエンドタイトル後の映像にて、今回登場する怪獣王ゴジラ・宇宙超怪獣キングギドラ・巨大蛾(が)モスラ・空の大怪獣ラドンが描かれた太古の壁画が登場するのが、まさに今回の予告編の役割を果たしており、『GODZILLA ゴジラ』にはじまる一連の作品群を、製作側では「モンスター・ヴァース」、直訳すると「怪獣宇宙」=「巨大怪獣たちが存在する作品世界のシリーズ」と名づけていることから、正確には本作はその第3弾にあたるのだ。
 先述したミレニアムゴジラシリーズの興行が低迷したのは、毎回世界観がリセットされてしまい、1作1作が独立した作品となっていたために、観客がシリーズを歴史系譜的に追いつづける楽しみを奪われていたことも大きかったのであり、それぞれ主演作品を持つアメコミヒーローが大集合する映画『アベンジャーズ』シリーズ(12年~・アメリカ)のように、ゴジラキングコングの世界観をクロスオーバーさせた今回の作劇の手法は、戦略的には実に正しいものだといえるだろう。


 その怪獣対決=「怪獣プロレス」路線は、1970年代末期から2000年代初頭に至るまでの特撮論壇では、1950年代半ばから1960年代前半に東宝が製作した、初期の特撮怪獣映画のマニアたちから最も毛嫌いされたものであり、あの『シン・ゴジラ』に対しても、ゴジラしか怪獣が登場せず、怪獣対決が描かれないのがいい、として評価を高くするような、あいかわらずの輩(やから)がいたほどだった。
 だが、今回の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は、1945年8月6日に米軍が広島に原爆を投下した直後からゴジラが目撃されるようになったと設定したほどに、「最高の恐怖」「テーマは『リアル』」「1954年の第1作『ゴジラ』の精神を受け継ぐ」がキャッチコピーだった『GODZILLA ゴジラ』の続編にもかかわらず、そのテイストはまったく相反するものであり、まさに怪獣対決=「怪獣プロレス」を前面に押しだした、きわめてエンタメ色の強い作風となっているのだ。


 人間側の主人公は、生物の生体音を流すことでその行動を操作することが可能な装置・オルカを、大学時代に共同で開発し、その後結婚して息子と娘をさずかるも、2014年にサンフランシスコで起きたゴジラVS怪獣ムートーの戦いで息子を失い、怪獣に対する考え方の違いで離婚した、ともに生物学者のマーク&エマのラッセル夫妻と、その12歳の娘・マディソンであり、一家が怪獣災害に巻きこまれる中で心の変遷(へんせん)や関係性の変化が生じた末に、家族再生を果たすという、近年では『ウルトラマンR/B(ルーブ)』(18年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20180826/p1)でも見られた、いわばホームドラマ的な展開を主軸に据(す)えている。
 そして彼らを取り巻く存在として、先述したように、広島原爆投下直後から謎の巨大生物が目撃されたのを契機に、1946年に現実世界のトルーマン大統領によって(!)秘密裏(り)に設立された、世界中に前進基地を置いて怪獣たちの動きを監視する未確認生物特務機関・モナークが、『GODZILLA ゴジラ』、そして『キングコング:髑髏島の巨神』にひきつづき登場することで、世界観の共有を観客に印象づける。
 そのモナークに所属する生物学者であり、『GODZILLA ゴジラ』につづいて登場する、今や国際スターとなった渡辺謙(わたなべ・けん)が演じる芹沢猪四郎――せりざわ・いしろう。『ゴジラ』第1作のもうひとりの主人公・芹沢大助博士と、「昭和」の東宝特撮映画の多数を監督した故・本多猪四郎(ほんだ・いしろう)をかけ合わせたネーミングだ――博士をはじめとする科学者陣と、黒人女性のダイアン・フォスター大佐が率いるG(ジー)チームなる武装部隊でモナークは構成されており、それぞれのゴジラや怪獣たちに対する思惑の違いが描かれる。
 そして人間側の悪役として登場するのは、元イギリス軍の大佐であるも、現在は多数の傭兵(ようへい)を従え、環境テロリストとして暗躍するアラン・ジョナであり、先述したオルカで怪獣たちを操って世界を支配することをたくらみ、エマ&マディソン親子を拉致(らち)、エマに自身の野望への協力を強要するのだ。


*「怪獣プロレス」を盛りあげるための「ホームドラマ」!


 先述したゴジラのアニメ映画三部作もそうだったが、これだけ多数の人間キャラが登場すれば、その群像劇を観ているだけでも充分におもしろく、そのアニメ三部作でゴジラの登場が少なかったことが、正直個人的には全然不満に思えないほどだった。
 熱心なゴジラファンからすればやはりそれが難点だったのであろうが、『シン・ゴジラ』もゴジラの登場場面はかなり少なかったのであり、その政界群像劇を絶賛しておきながら、ゴジラアニメ三部作を批判するのは、おもいっきりのダブルスタンダードかと思えるのだが(笑)。


 それはさておき、先述したように、本作は科学者夫妻とその娘が中心となるホームドラマ的展開であるのみならず、環境テロリストのアランに積極的に協力し、世界各地を怪獣に襲撃させたエマが、それこそ『ウルトラマンガイア』(98年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19981206/p1)の藤宮博也(ふじみや・ひろや)=ウルトラマンアグルをはじめ、90年代後半から00年代前半の特撮作品にありがちだった、人類は地球を汚すガン細胞だから滅ぼすべき(笑)といったセリフをモロに放つ描写まであるほどなのだ。
 だが、ホームドラマ的な展開が世界観を矮小(わいしょう)化するワケでも、人類批判セリフによって陰鬱(いんうつ)な作風に陥(おちい)ることもないのは、本作の人間ドラマが怪獣対決=「怪獣プロレス」の魅力を阻害しないかたちで点描されるというよりは、むしろ「怪獣プロレス」を盛りあげるために欠かせない要素に至るまでに昇華しているからだ。


 先に今回の本編部分をホームドラマ的展開と書いたが、それは決して、かつて揶揄(やゆ)されたような「メシ食いドラマ」(笑)ではない。
 もちろん冒頭ではマディソンが実の父・マークから来たメールへの返信に夢中だったために、つけっぱなしのガスレンジで朝食を焦(こ)がしてしまう、なんて「日常」が描かれるが、中国の奥地にあるモナークの基地にエマが呼び出されて以降、ラッセル家はマークもエマもマディソンも、ほぼ「非日常」の世界に放りこまれたままとなり、家族の心の変遷や関係性の変化はそこで描かれていくのである。


 これは娘のマディソンの描写に最も色濃く表れており、中国のモナーク基地でモスラの卵が突然孵化(ふか)し、芋(いも)虫のような幼虫が基地内で暴れ、口からの粘液(ねんえき)で固められたり巨体に吹っ飛ばされたり瓦礫(がれき)の下敷きになったりして、大勢の隊員が死んだと思われるも(汗)、エマがオルカを発動させるやモスラがおとなしくなったことに、マディソンは母・エマの研究に敬意を表し、満面の笑(え)みでエマと抱き合うのである。
 だが、その後エマとマディソンはアランが率いる傭兵たちによって、奴らが占領したモナークの南極基地に監禁され、マークがモナークの主要キャラたちと救助に来るも、エマがそれを拒絶するどころか、基地で氷漬(づ)けにされていたキングギドラを起動させ、エマの夫であり、マディソンの父であるハズのマークを絶体絶命の危機に追いやったことから、マディソンは次第にエマ、そしてエマの研究に対して疑念の目を向けるようになるのだ。
 そして決定打となったのは、メキシコの火山で眠っていたラドンをエマが起動させたことだ。せめて住民の避難が完了するまで待ってほしいとのマディソンの頼みに、エマが耳を貸さずにオルカでラドンを眠りから覚ましたことで、映画『ゴジラVSメカゴジラ』(93年・東宝)に登場したファイヤーラドンのように、全身がマグマの熱で燃えたぎったラドンの急襲により、麓(ふもと)の市街地は壊滅してしまう。


 ここに至り、ついにマディソンは「ママこそモンスター」だとして、エマ、そして怪獣を自在に操るエマの研究を非難し、ひそかにオルカを持ち出して、アランたちのアジトからただひとりで脱出するのだ。
 カットによっては少年のようにも見える、マディソンを演じる黒髪ショートヘアのミリー・ボビー・ブラウンは本作がスクリーンデビューだそうだが、その演技はとてもそうとは思えないほどに絶品かと思えた。
 このように、ラッセル家の心の変遷や関係性の変化は、怪獣の出現・大暴れ・対決といった特撮の見せ場と常に連動するかたちで描かれており、本編のホームドラマと特撮の「怪獣プロレス」のクライマックスが、渾然(こんぜん)一体となって盛りあがるように組み立てられているのだ。
 これは近年の「平成」仮面ライダーと同じ手法だといえるだろう。


*「怪獣プロレス」至上主義のオタ監督(笑)


 もちろん今回の怪獣たちも、日本の怪獣映画の伝統として用いられてきた、怪獣の着ぐるみを着用したスーツアクターによる演技ではなく、CGで描かれているのだが、特にゴジラキングギドラのデザインや動きは、巨大怪獣というよりは、中に人が入った怪獣の着ぐるみをリアルに再現しているかのような印象が強いのだ。
 たとえばキングギドラをCGで描くのなら、先述したアニメ映画版三部作の最終章・『GODZILLA 星を喰(く)う者』(18年・東宝http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20181123/p1)に登場したギドラのように、全長20キロメートル(!)もある超巨大な竜だとか、半透明で実体のない高次元エネルギー体だとか、その気になればもっと自由奔放(ほんぽう)なイメージにすることもできたハズだ。


 だが、今回登場したキングギドラは、デビュー作となった映画『三大怪獣 地球最大の決戦』(64年・東宝)以来、「昭和」「平成」のゴジラシリーズで継承されてきた3本の首・2本の尾・巨大な羽根のスタイルを踏襲(とうしゅう)しており、映画『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(01年・東宝)に護国聖獣として登場したキングギドラほどではないにせよ、首や足がかなり太めなマッチョなスタイルなのだ。
 マークたちの危機に颯爽(さっそう)と駆けつけたゴジラは、南極に上陸するや、いきなりキングギドラの首を両腕でかかえこみ、氷原にたたきつけたのだ!
 筆者はこの場面を観て、脚本も担当したマイケル・ドハティ監督が今回描きたかったのは、「怪獣対決」ではなく、あくまで「怪獣プロレス」であり、そのためにはキングギドラは先述した『星を喰う者』のギドラのように、あまりにもデカすぎるとか、ファンタジックなイメージではなく、それこそ中にマッチョなアクターが入っているかのような、「人間体型」でなければならなかったのだろう(笑)。


 本作でキングギドラは「モンスター・ゼロ」と呼称されているが、古い世代のマニアであれば、映画『怪獣大戦争』(65年・東宝)に悪役として登場した、自分たちも名前という固有名詞を持たず、すべての生物を番号で呼んでいたX(エックス)星人が、キングギドラを「怪物0(ゼロ)」と呼称していたのを引用したのだと、即座に気づくことだろう。
 ただ『怪獣大戦争』は、かつて『GODZILLA VS.MONSTER ZERO(モンスター・ゼロ)』なるタイトルで公開されたこともあることから、元々アメリカではキングギドラの「モンスター・ゼロ」なる別名義は、むしろ日本以上にポピュラーだったようである。
 ちなみにX星人はゴジラを「怪物01(ゼロワン)」、ラドンを「怪物02(ゼロツー)」と呼んでいたのだが、たったそれだけの描写が、X星人が地球外生命体であることを濃厚に感じさせ、子供心をワクワクさせたものであり、幼いころにゴジラ映画に感じた、そんなワクワク感を、ドハティ監督は今回徹底的にブチこんでいるように思えるのだ。


 ラドンが市街地に巻き起こした衝撃波で、メキシコ軍の隊員たちが必死に樹木にしがみつきながらも吹っ飛ばされてしまう描写は、映画『空の大怪獣ラドン』(56年・東宝)の福岡襲撃場面を彷彿(ほうふつ)とさせるが、ここで市街地の広告看板がやたらとめだつのは、『ラドン』の該当(がいとう)場面にあった「森永ミルクキャラメル」とか、「お買い物なら新天町」に対するオマージュなのか?(爆)
 そもそもラドンの造形――あえてこう書く――や動きも、そのモチーフとなった実在した翼竜プテラノドンのようなシャープなイメージではなく、『ラドン』で使用されたギニョールを操演で動かす演出を、ワザワザ再現しているかのようだ(笑)。
 戦闘機のコクピットからの主観映像と、ラドンが蝶(ちょう)のように舞い、蜂(はち)のように戦闘機群を次々に撃墜させる描写を交錯させた演出もまた然(しか)りだ。


 キングギドラが目覚めたのを機に、世界各地で17匹(!)もの怪獣がいっせいに暴れだすのは、もはや映画『怪獣総進撃』(68年・東宝)や、『ゴジラ ファイナル ウォーズ』のうれしいパクリとしかいいようがないのだが、その中には先述した『キングコング:髑髏島の巨神』に登場したキングコングや、巨大グモのバンブー・スパイダー、『GODZILLA ゴジラ』に登場したムートーらが含まれており、本作がそれらのれっきとした続編であることを強調しているのは実に好印象だ。
 幻想的で優雅(ゆうが)な巨大な羽根以外、昆虫らしさをCGでリアルに描いたモスラが成虫と化す場面では、映画『モスラ』(61年・東宝)でインファント島の小美人が歌唱して以来、「昭和」から「平成」に至るまでモスラのテーマ曲として継承された「モスラの歌」のメロディが流れ、ボストンでのゴジラVSキングギドラのラストバトルでは、とうとう故・伊福部昭(いふくべ・あきら)作曲の「ゴジラのテーマ」まで流れてしまった。
 先述した『シン・ゴジラ』でも、『エヴァンゲリオン』の音楽を担当した鷺巣詩郎(さぎす・しろう)による劇伴(げきばん)が流れる中、庵野総監督もこれをやらかしたが、ドハティ監督のオタクぶりは、まさに庵野氏に匹敵するというところか?(笑)
 その『シン・ゴジラ』や『ゴジラVSデストロイア』のクライマックスバトルみたく、最後はついにゴジラは全身が真っ赤に発光する、バーニングゴジラと化してしまいましたとさ(爆)。


アメリカで流通した「ゴジラ観」とは?


 まぁ、アメリカではすでに1960年代の昔から、ケーブルテレビにてゴジラ映画をはじめとする日本の特撮怪獣映画が再三放映されており、かのスティーブン・スピルバーグジョージ・ルーカスティム・バートンといったハリウッドの巨匠(きょしょう)たちも、それを機にゴジラに夢中になったクチである。
 1974年生まれのドハティ監督もまた、幼いころから日本のゴジラ映画を観ていたようだが、先述した巨匠たちが幼かったころには当然ながらアメリカではまだ放映されるハズもなかった、娯楽志向や子供向けの作風が強まり、ゴジラが悪役から正義の味方へと次第にシフトしていった、「昭和」の後期ゴジラシリーズに触れたことが、「怪獣プロレス」をウリにした、今回の『キング・オブ・モンスターズ』の作風に影響を与えたのかもしれない。


 なお、かつて『ニューウェイブ世代のゴジラ宣言』(JICC出版局・85年1月1日発行・ASIN:B00SKY0MJW)に掲載された「ゴジラ映画30年史」と題したコラムにて、「ついにゴジラにガキまでできた。もうゴジラもダメである」(笑)とされた映画『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(67年・東宝)や、「ゴジラシリーズ最低の内容である」とされた映画『ゴジラ対メガロ』(73年・東宝)など、80年代から90年代の日本の怪獣評論では「駄作」扱いされたそれらの作品も、アメリカではリピート率が高かったためか、結構人気があったそうだ。
 もちろん国民性の違いもあろうが、決してドハティ監督に限らず、少なくともアメリカでは、ゴジラは「反核」の象徴だの、「恐怖」の対象だの、「悪役」の怪獣だのと認識されていたワケではなかったのは確かだろう。
 そもそも全米で『ゴジラ』第1作が初公開されたのは意外や意外、なんと日本の封切から50年後(!)の2004年のことだったのだから――1956年にアメリカで公開された映画『GODZILLA,KING OF THE MONSTERS!(ゴジラ キング・オブ・ザ・モンスターズ)』は、『ゴジラ』第1作から核兵器に関するくだりをすべて削除し、ハリウッド俳優の出演場面を加えた「改変版」にすぎなかった――。


 ちなみに日本で第3次怪獣ブームが起きていた1978年、つまり、ドハティ監督が4歳のころに、アメリカのアニメ製作会社ハンナ・バーベラ・プロダクションによる『Godzilla』と題したテレビアニメの放映がスタートしている。
 内容は「人間の味方」の怪獣王・ゴジラが、映画『大怪獣バラン』(58年・東宝)の主役怪獣・バランのように、手足の間の皮膜(ひまく)で空を飛べる親戚(しんせき)怪獣(笑)・ゴズーキーや、調査船・カリコ号の船長や乗組員たちと、人間の言葉で会話をしながら(爆)、世界を旅する中、さまざまな怪獣や古代恐竜、雪男に宇宙人、はたまた犯罪組織やクローン人間(笑)などと対決するものだった。
 ここで描かれたゴジラは、たしかに「反核」でも「恐怖」でも「悪役」でもなく、おもいっきりの正義のヒーロー怪獣だったのだ(爆)。


 これがアメリカで放映されていたころ、日本では東宝怪獣映画やウルトラマンシリーズが盛んに再放送されていたが、初期東宝特撮映画や第1期ウルトラマンシリーズの至上主義者たちが書いたマニア向けの商業本を、まだ読めるハズもなかった当時の就学前の幼児や小学校低学年の子供たちは、そんな大人向け書籍の影響を受けることも、初期だの後期だの第1期だの第2期だのと区別することもなく、ゴジラウルトラマンも、すべての作品をありがたく享受(きょうじゅ)していたのだ。
 そんな彼らと同世代のドハティ監督が、旧来のゴジラファンからすればとんでもアニメとしか思えない『Godzilla』を、「これがゴジラだ」とありがたく受け入れ、氏の「ゴジラ観」が形成される中で、多大な影響を及ぼすこととなった可能性も充分に考えられるだろう。


*ドハティ監督が「怪獣プロレス」にこだわった理由とは?


 今回の『キング・オブ・モンスターズ』で、『ゴジラVSメカゴジラ』のファイヤーラドンや、『ゴジラVSデストロイア』のバーニングゴジラに対するオマージュが見られたことから、ドハティ監督は20歳前後になってもゴジラ映画を観つづけたと思われるのだが(笑)、映画『ゴジラVSビオランテ』(89年・東宝)から『ゴジラVSデストロイア』に至る「平成」ゴジラシリーズでは、「昭和」の時代と違って高層の建築物が激増したのを背景に、作品を重ねるごとにゴジラの身長と体重が巨大化する一方となり、その着ぐるみはかなり重量感を増した造形となっていた。
 ゆえに撮影の現場ではスーツアクターが思うように動けなかったことから、「平成」ゴジラシリーズの故・川北紘一(かわきた・こういち)特撮監督はその代わりとして、光線や熱線をはじめとする怪獣たちの必殺技を、作画合成でハデに描く演出を優先したのだ。


 だが……


「平成になってから、どうも怪獣同士の取っ組み合いが少ないような気がするのですが。たとえば、ガバラ――映画『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』(69年・東宝)の敵怪獣――を一本背負いしたり、キングコングに蹴(け)りを食らわせて崖(がけ)から突き落としたりですね、あれやっぱりいいんですよ。ああいうのをやってほしいなと思うんですが」


 これは東京の新宿・歌舞伎町(かぶきちょう)にあるロフトプラスワンで、1999年3月18日に開催された「ゴジラ復活祭」と題したトークライブ第1回にて、当時の東宝映画プロデューサー・富山省吾(とみやま・しょうご)に対してファンから出された意見だが、先述した「平成」ゴジラシリーズの特撮演出を「光線作画の垂れ流しばかりでおもしろくない」とする批判の延長として、かつては怪獣映画が幼稚になった根源としてさんざん非難されてきた「怪獣プロレス」を肯定(こうてい)してみせたのだ。
 ホントにマニアは勝手だが(笑)、当時20代半ばとなっていたドハティ監督も、やはりマニアのはしくれとして、「平成」ゴジラシリーズにはこれと同様の感想を抱(いだ)いていたのかもしれない。
 今回のゴジラは、先述したアニメ映画三部作のゴジラのように、森林が生(お)い茂った巨大な山が動いていると思えるほどに、かなりマッチョなスタイルだが、ドハティ監督は重すぎて動けなかった「平成」ゴジラのデザイン・造形をわざわざ再現することで、故・川北特撮監督に代わってデカいゴジラをCGで自在に動かすリベンジをやらかしたのではあるまいか!?


 もちろんCGを駆使して描かれた、青白く発光するゴジラの背びれ、空のキングギドラに向かってゴジラが首を真上にして(!)口から放つ青白い放射能火炎、キングギドラの全身に常にほと走る金色のイナズマ、マグマの高熱で全身が真っ赤に染まったラドンなどの描写は、『ウルトラマンA(エース)』(72年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20070430/p1)第21話『天女の幻を観た!』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20061009/p1)で実にハデな必殺技を多数描いた特撮演出デビュー以来、カラフルな作画合成を得意とした故・川北特撮監督に対するリスペクトとも解釈できる演出であり、ゴジラを「青」、キングギドラを「金」、ラドンを「赤」とするカラーイメージの統一にも成功しているのだ。
 また、高熱を体内に有したキングギドラの周囲では常に雷雲が発生するために、気象レーダーではその姿が台風のように表示されるとか、ゴジラとの対決を含めた活躍場面が常に暴風雨の中で描かれるのは、CGの利点を駆使したビジュアル的なハデさのみならず、キングギドラが南極基地で捕獲されたことに説得力を与えるほどに、かつての東宝怪獣映画の魅力だった疑似(ぎじ)科学性をも継承したものだといえるだろう。
 さらにゴジラキングギドララドンの巨大な目を、人間たちの背景に強調して描くことで怪獣の「恐怖」をあおったり、ラドンとの対決で勝利したキングギドラが、麓の街が壊滅したメキシコの火山の頂上で、勝利の雄叫(おたけ)びをあげるさまをロング(ひき)でとらえたカットで、画面手前に教会の十字架を大きく描いた「滅びの美学」的な演出――個人的にはキングギドラのカッコよさが最も感じられたカットだ――には、初期東宝特撮映画至上主義の古い世代のマニアたちも、おもわず注目するかと思えるのだ。


*芹沢博士に自己投影した特撮マニアの『ゴジラ』第1作へのリスペクト


 もちろん『ゴジラ』第1作への原点回帰を狙った『GODZILLA ゴジラ』の続編である以上、やはり原点に対するリスペクトも見られないワケではないのだが、そちらは実にあっさりと済まされている感が強いものがある。
 たとえば冒頭の議会の中で、モナークによる怪獣の生態や研究調査の報告・成果などの発表に対し、年配女性の議長が「小学生が喜びそうな講義をありがとう」と、あからさまにバカにした態度を見せ、議場で笑いが起きるさまは、『ゴジラ』第1作での初老の生物学者・山根恭平(やまね・きょうへい)博士の発言が国会で嘲笑(ちょうしょう)される場面を彷彿とさせるものだろう。
 ただ、科学者の言動が政界や自衛隊、マスコミなどの人間に嘲笑されるのは、『ゴジラ』第1作に限らず、「昭和」の東宝特撮映画では定番だったものであり、これはむしろ東宝特撮映画全体に対するオマージュであるとも解釈できるものだ。


 中盤でキングギドラをはじめとする怪獣たちを殲滅(せんめつ)する超兵器として登場する、『ゴジラ』第1作のラストで芹沢博士が使用したのと同じ名のオキシジェン・デストロイヤーも、アメリカ海軍のウィリアム・ステンツ大将――今回出番は短いものの、「少将」だった前作につづいて登場させることで、続編であるのをさりげなくアピールしている――が、あまりにもフツーに、かつ唐突(とうとつ)にそれを出すために、さほどの感慨もわかないくらいである。
 これも『ゴジラ』第1作に対するオマージュというよりは、むしろ半径3キロメートル以内の生物をすべて死滅させるハズのオキシジェン・デストロイヤーが通用しなかったことから、キングギドラを宇宙怪獣だと定義するのに説得力を与えるために、絶妙に機能させたという印象の方が強いのだ。


 ただし、今回のクライマックスバトル直前に見られた、「二代目」芹沢博士の行動は、まだ公開間もないことから詳述は避けるが、『ゴジラ』第1作ラストシーンの「初代」芹沢博士を彷彿とさせる姿で描かれた。
 芹沢博士を演じた渡辺謙は前作の公開時に、自身の役名の元ネタである故・本多猪四郎監督の名を「いしろう」ではなく、「いのしろう」と思っていたと発言し、大のゴジラ好きで知られる俳優・佐野史郎(さの・しろう)から「なんだおまえは!」と一喝(いっかつ)され、平謝りしたというエピソードがあるが、いや佐野センセイ、そりゃ一般人なら「いのしろう」と読んでしまいますって(笑)――ちなみに佐野氏は1955年、渡辺氏は1959年生まれで、ともに1966年~1967年の第1次怪獣ブーム世代である――。
 そんな渡辺氏ではあるが、前作、そして本作でも、共演するハリウッドスターたちが、皆ゴジラを「ゴッズィ~ラ」と発音する中、ただひとり「ゴジラ」と呼ぶことを、個人的には敬服に値すると思っていたのだ。


 そして氏が演じる「二代目」芹沢博士は、先述したオキシジェン・デストロイヤーによって一度は生体反応を止めてしまったゴジラに、日本語で「さらば、友よ」と呼びかける……
 ひたすら自宅にこもって研究の日々をすごすばかりで、先述した山根博士の娘・恵美子にひそかに想いを寄せるものの、リア充的な好青年・尾形秀人(おがた・ひでと)と恋仲だと知って落胆(らくたん)するなど、故・平田昭彦(ひらた・あきひこ)が演じた「初代」芹沢博士は、まだ(ひとり)ボッチアニメが存在しなかった70年代末期――この時代はようやく『宇宙戦艦ヤマト』(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20101207/p1)が注目されはじめたころであり、そもそもアニメは「大人」が観るものではなかったのだが――に起きた第3次怪獣ブームにおいて、その心象風景の描写が怪獣マニアたちから過剰(かじょう)なまでの感情移入を集めることとなり、それが当時『ゴジラ』第1作を神格化させる一因にもなったのではなかろうか?
 そんな「初代」芹沢博士にとって、ゴジラは実は唯一(ゆいいつ)の「友」といえる存在だったのではないのか!? と、今回「二代目」芹沢博士が放った「さらば、友よ」に、筆者は感慨を深くせずにはいられなかったのだ。


 「二代目」芹沢博士の自己犠牲によってゴジラは復活、キングギドラを倒すに至るほどの圧倒的なパワーを得ることとなるが、クライマックスバトルでは、キングギドラが口から放つ金色の電撃光線に敗れたモスラが光の粒子と化し、それを浴びたゴジラがさらにパワーアップを遂げ、全身を赤く発光させたバーニングゴジラとなる。
 モスラが成虫と化し、優雅な羽根を広げて飛翔する場面で、アジアの超美人女優=チャン・ツィイーが演じるチェン博士が、モスラを「怪獣の女王」(!)と呼び、モナークの隊員が「ゴジラモスラはいい仲なのか?」とつぶやくが、そんなモスラと同様に、ゴジラに力を与た「二代目」芹沢博士が、たしかにゴジラの「友」であったことを反復して描く演出は、本編の人間ドラマと特撮の「怪獣プロレス」のクライマックスを絶妙に融合させていたのだ。


*ハリウッドにお株を奪われた本家が進むべき道とは?


 キングギドラを倒し、天空に向かって勝利の雄叫びをあげるゴジラの周囲に、バンブー・スパイダー、ムートー、ラドンが集結、そこに入る字幕は「GODZILLA,KING OF THE MONSTERS!」=「怪獣王 ゴジラ」なる称号である。
 これは先述したように、1956年に『ゴジラ』第1作の「改変版」がアメリカで公開された際につけられたタイトルをそのまま引用したものだが、「怪獣の王」として君臨するゴジラをそのまま絵にして幕となる本作は、「怪獣映画」が好きな人間にとっては、実に満足度の高い作品になり得ていることだろう。
 本作の主人公親子・マークとマディソンがひきつづき登場する、まさに映画『キングコング対ゴジラ』(62年・東宝)の再来となる続編映画『ゴジラVSコング』が、2020年公開予定ですでに待機しているが、本作のラストシーンに、筆者的には先述したアニメ版のゴジラ映画三部作にもつづいていくかのような印象を受けるのだ。


 1999年5月、アメリカにカマキラスが出現して以降、21世紀前半にドゴラ・ラドンアンギラスダガーラ・オルガ……と、次々に現れた怪獣たちにより、世界各地は壊滅的な打撃を受けてしまう。
 そして2030年、アメリカ西海岸に出現したゴジラは、人類、そしてほかの怪獣たちをも駆逐(くちく)してしまう脅威(きょうい)的な存在であり、以後15年以上に渡り、人類は地球の覇権(はけん)をめぐり、ゴジラとの戦いを強(し)いられることとなる。
 これはアニメ版ゴジラ映画三部作の第1章・『GODZILLA 怪獣惑星』の導入部にて、その世界観を示すためにあらすじ的に描かれたものだが、今回の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は、まさにこれを1本の作品として映像化したかのような印象が強いのだ。


 『GODZILLA 怪獣惑星』では、コンピューターが選抜した1万5千人の人々が移住先を求めて2048年に地球を脱出するも、生存可能な星を発見できなかったために、20年後=地球時間では2万年後(!)に再度地球に帰還するが、そこはすでに人類が駆逐され、ゴジラをはじめとする巨大生物が君臨する星となっていた。
 『キング・オブ・モンスターズ』で、エマはこのまま人類が繁栄をつづけることによる地球の滅亡を阻止するために、怪獣を使って地球を本来の姿に戻すのだと主張していたが、アニメ版ゴジラ映画三部作の最終章・『GODZILLA 星を喰う者』では、先述した『怪獣大戦争』の悪役・X星人が元ネタの異星人・エクシフの神官・メトフィエスが、


「各惑星で知的生命たちが科学的に繁栄した末にゴジラ型の原子力怪獣が生まれて、その惑星の知的生命たちも怪獣災害による苦悩の果てにいずれは絶滅するのならば、この大宇宙も最後は時間・空間ごと「虚無」と化して終焉を迎えることの象徴でもある高次元怪獣キングギドラに人身御供(ひとみごくう)として捧げて、それら知的生命の終焉を人工的に早めることで、その苦悩も早めに除去してあげよう」(大意)


と語っており、この両者の行動の動機はイコールではないにしても相似(そうじ)しているとはいえるのだ。
 エマの願いが実現するには2万年もかかったのだが、次回作『ゴジラVSコング』の勝者が「怪獣王」のみならず、地球の「王」として君臨するようになれば、人類の行き着く先は、アニメ版ゴジラ映画三部作に描かれた未来と同様のものとなるだろう。
 『キング・オブ・モンスターズ』のラストで描かれた、壊滅した大都会で雄叫びをあげる怪獣たちの姿は、まさにその伏線であるといっても過言ではないのだ。


 また、息子を殺したゴジラに中盤までひたすら恨みをつのらせていたマークが、侵略者=キングギドラと戦うゴジラの姿に、実は地球の「守護神」であることを悟(さと)る関係性の変化も、かつて両親をゴジラに殺され、ゴジラ打倒に執念(しゅうねん)を燃やしつづけたものの、三部作の間に心の変遷を遂げ、最終章のラストで芹沢博士のようにゴジラと心中した、アニメ版の青年主人公=ハルオ・サカキにも相似するものだ。
 これらは創作の神様によるいたずらというよりは、今回のハリウッド版もアニメ版も、人類の原水爆実験によって誕生させられたゴジラは、そんなものを生みだしてしまう人類に時に牙(きば)を向けることで、前者はこの星を本来の姿に戻そうとする地球の「守護神」であると定義し、後者は放射能による突然変異で生じた新たなる生態系の「王」であると定義している点においてはきっちりと相違があり――優劣ではなく――、各作がそれぞれのゴジラ像を見事に描ききったとはいえるだろう。


 そんなゴジラの出自にも前作の『GODZILLA』2014年版よりは敬意を示しつつも、「反核」でも「恐怖」でも「悪役」でもなく、おもいっきりの正義のヒーロー怪獣・ゴジラで「怪獣プロレス」をメインに描いた、きわめて娯楽性の高いゴジラ映画が、とうとうハリウッドでつくられてしまい、興行通信社調べによるシネマランキングで、堂々初登場第1位に輝いたのだ!――ちなみに2週目は案の定、ディズニーのアニメ映画『アラジン』(19年・アメリカ)に首位を奪われたものの、第2位に踏みとどまった――


 『シン・ゴジラ』以来、日本の特撮怪獣映画としてはゴジラは3年間も眠りつづけたままとなっているが、2024年のゴジラ誕生70周年の際にでも……なんて悠長(ゆうちょう)に構えていたら、またハリウッドに先を越されてしまい、海の向こうで公害怪獣ヘドラやサイボーグ怪獣ガイガン、昆虫怪獣メガロやロボット怪獣メカゴジラが復活するかもしれない。
 巨大なイグアナがニューヨークの街をドタドタと走っていたハリウッド映画『GODZILLA』(98年・アメリカ)の時代ならともかく、ここまでやられてしまった以上、本家の日本としては、このまま手をこまねいている場合ではなく、早急に次の手をうつべきではないのか?
 近年の仮面ライダースーパー戦隊ウルトラマンメタルヒーローなどで、バトルアクションを中心に描きつつも、作品のテーマや人間ドラマもきっちりと内包した作品を手がけてきた坂本浩一監督にでも、日本版の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を早急に実現させ、本家としてのゴジラの真価を、世界中に見せつけてもらいたいものだ。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2019年初夏号』(19年6月16日発行)所収『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』合評3より抜粋)


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