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シン・ウルトラマン徹底解析 ~賛否渦巻くワケも解題。映像・アクション・ミスリードな原点回帰・高次元・ゾーフィ・政治劇・構造主義・フェミ!

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『シン・ウルトラマン』徹底解析 ~賛否渦巻くワケも解題。映像・アクション・ミスリードな原点回帰・高次元・ゾーフィ・政治劇・構造主義・フェミ!

(文・T.SATO)
(2022年5月29日脱稿・6月18日後半部分を加筆)


 巨大怪獣や巨大宇宙人と戦う正義の巨大ヒーローというフォーマットを構築した、本邦初の特撮巨大変身ヒーローである初代『ウルトラマン』(66年)。そのリブート映画『シン・ウルトラマン』(22年)が劇場公開された。


 原典の初代『ウルトラマン』にて各話の冒頭に配されていたメインタイトルのロゴ映像――フィルムの逆回転状で多彩な「絵の具」を垂らしたような、いわゆるマーブル模様の映像が次第に前番組『ウルトラQ』(66年)のメインタイトルになっていく……と思ったら、画面下中央から破裂していくように『ウルトラマン』のタイトルロゴが出現――にも準じて、ナゼかまず『シン・ゴジラ』のタイトルロゴが出現して、画面下中央から破裂していくように『シン・ウルトラマン』のタイトルが出現している。


 つづいて、『ウルトラQ』の栄えある#1にも登場した古代怪獣ゴメスが、#4に登場した巨大植物マンモスフラワーが、#5と#14に登場した冷凍怪獣ペギラが、#12に登場した巨大怪鳥ラルゲユウスが、#24に登場した貝獣ゴーガならぬカイゲルが、#18に登場した四足歩行怪獣のパゴスといった、ゴーガを除けば同作全28話における人気怪獣たちが、それぞれに巨大不明生物1号・2号・3号~6号とナンバリングされた字幕付きの短いショットで連続登場を果たしていく。


 原典である初代『ウルトラマン』においても、前番組『ウルトラQ』の巨大怪獣や宇宙人が再登場を果たすことで、同一世界での出来事であり、『Q』は前日談でもあったのだ! ということが示されて、往時の子供たちを喜ばせてもいた。
 それに準じて、本作『シン・ウルトラマン』でも同様に、同作の近過去にはやはり『ウルトラQ』での出来事に類似した事件が起きていた。場合によっては、『シン・ゴジラ』がさらなる前史であっても不思議ではないのかも!? といったことも示唆されているのだ。


――などと云いつつ、『シン・ゴジラ』との連続性をも感じられている方々には申し訳がないけど、中堅イケメン俳優・竹野内豊(たけのうち・ゆたか)ひとりが同作につづいて出演していようが、筆者は同作との連続性や同一世界観である可能性は、その空気感があまりにも異なるために感じてはいなかった。同作から計2名くらい、たとえば小太りメガネの松尾諭(まつお・さとる)演じる「泉ちゃん」(笑)まで、政府の面々として登場していれば、そう感じられたかもしれないけど――


 そして、これら一連の場面に流されているのは、原典『ウルトラQ』のオープニング楽曲でもある――今ではテレビ東京・土曜夜9時から放映されている人気TV番組『出現! アド街(まち)ック天国』(95年~)の1コーナー「気にスポ(気になるスポット)」のBGMとして一般層には知られている――。
 もちろん、ソレらはマニア転がしでもある。しかし、この程度であれば、原典のウルトラシリーズにくわしくない御仁が観ても疎外感を抱いてしまうような内輪ウケ的なモノではない。そして、この導入部によって本作は巨大怪獣とのファースト・コンタクトものではなく、怪獣があまた存在することが当然になっている世界観でもあることも、一般観客たちに周知してもいるのだ。


 この過程で原典『ウルトラマン』における怪獣攻撃隊であった「科学特捜隊」の略称「科特隊」ならぬ「禍特対」(禍威獣 特設 対策室)&「防災庁」が設立されていて、すでに怪獣パゴスとの戦いにも投入されて戦果も上げていたことが説明される。子供向け番組的なカラフルな隊員服こそまとってはいないものの、本作の世界観においてはすでに巨大怪獣専門のチームが設立済であることも描かれているのだ。


 『シン・ゴジラ』においても、冒頭では平和な庶民の日常などは描かずに、ワリと早々に東京湾内での海底トンネル崩壊などで巨大怪獣出現の予兆を描いていた。本作でもメインタイトル後の映像ではあっても、実質的には「本編開始前の部分」を意味する「アヴァンタイトル」的な『ウルトラQ』に相当する前史を駆け足で描いた末に、本編に入るや早々に四足歩行の巨大怪獣が山間部に出現してしまう!


 そして、自衛隊や禍特対との少々の攻防を描いた末に、同作におけるウルトラマンが大気圏外から超高速で赤い光の姿で怪獣の手前に落下! 噴煙の中から全身が白銀なる巨人として初登場!
 原典#3の対ネロンガ戦でも使用された軽快かつ緊迫感もある戦闘BGMまで流れ出し、原典同様に怪獣の電撃を大胸筋で受け止めて戦闘も開始することで、早くも同作のキモを提示する。そして、その両腕を十字型に組んで右手の側部から多数の青白い粒子を放つ必殺のスペシウム光線が、カナリの遠距離からパノラマ画面を横切って怪獣を爆発四散させるのだ!


樋口真嗣カントク作品なのか!? 庵野秀明カントク作品なのか!?


 今や40年近くも前になってしまったものの、怪獣映画『ゴジラ』初作(54年)の方ではなく1984年版の『ゴジラ』(84年)――昭和末期の作品だけど平成ゴジラシリーズの実質的な第1作目でもある――では下っ端の特撮現場スタッフ、その後はアニメの作画や絵コンテマンでも活躍し、怪獣映画の平成『ガメラ』シリーズ(95~99年)の特撮監督で名を上げて、21世紀以降はジャンル系映画『終戦のローレライ』(05年)や『日本沈没』(06年)に実写映画版『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN(アタック・オン・タイタン)』前後編(15年)などの本編監督業を務めてきたものの、毀誉褒貶かまびすしい樋口真嗣(ひぐち・しんじ)が、本作『シン・ウルトラマン』の「監督」(現場監督)を務めている。


 しかし、映画のメインタイトルに『シン・~』を冠していることから、巨大ロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)シリーズの完結編映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(21年)や怪獣映画『シン・ゴジラ』(16年)との共通性、前述2作のカントクを務めた御仁が本作の「企画・脚本」などを務めていることもあり、今や1960年前後生まれのオタク第1世代のトップランナーでもある庵野秀明(あんの・ひであき)カントク作品としても観られてしまうことも必定ではある。


 氏がカントクよりも上位の権限を持っているプロデューサー(製作)職として、事務や実務や対外折衝というよりかは、本作のトータルでのビジュアルイメージ・編集・選曲なども差配していた以上は、同作を「樋口真嗣カントク作品」として捉えるべきだという意見にも一理はあるとは思うものの、筆者個人も氏が実質的な「総監督」を務めている「庵野秀明カントク作品」だとして捉えても支障がないどころか、むしろ正鵠を射ているようにも思うのだ。


 そして、樋口カントクも含めた彼らが作るのであれば、非日常的な巨大オブジェでもある巨大ヒーローや巨大怪獣たちが、チャチくはない特撮&CG映像によって動いてみせる『ウルトラマン』作品を観てみたい!
 その怪獣や超人の巨大感・実在感を十全に強調したかたちでの、センスもあるスタイリッシュな下から見上げたカメラアングルによるド迫力な特撮映像を観てみたい!
 超人と怪獣が一進一退の攻防をして時に大ピンチに陥った果てに、逆転勝利をおさめてみせるような、カタルシス・爽快感にも満ちあふれたカッコいい戦闘シーンを観てみたい!
 いや、それらが観られるハズなのだ! といったところが、一般層・マニア層の双方が本作に対して、たとえ明瞭に言語化はできてはいなくても無意識に求めていたものでもあるだろう。


ネロンガガボラ戦は上々! ウルトラマンのテカテカ感をドー見る!?


 本作序盤においても、ひなびた(田舎じみた)山間部の遠方に、上空をめがけて垂直に伸びている細長くて青白いイナズマが出現!
 真の意味でのリアリズム、もしくはハードSF的なリアリズムで考えたらばオカシなことだけど、児童レベルでの擬似科学性が感じられる設定の存在として、初代『ウルトラマン』#3にも登場した、電気を食しており透明化することも可能な四足歩行の「透明怪獣」が出現したのだ。
――超メジャー級の怪獣ではなかったものの、近年でも『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』(07年)#3や『ウルトラマンR/B(ルーブ)』(18年)#16に『ウルトラマンZ(ゼット)』(20年)#2などにも、同族の別個体という設定で再登場を果たしてきた人気怪獣でもある――


●幾軒かの日本家屋を手前に半透明化した姿で山間部の街を横断していく姿!
●広大な敷地面積を有している、細長い「鉄骨」や「電線」が幾重にも組み合わさることで遠近感も強調されており、ある意味では美的(!)ですらある巨大な「変電所」で、その姿を現わした怪獣ネロンガの巨大感!


 そのネロンガが通電が止まったことで怒って、広大な「変電所」をブッ壊していくシーンも、リアルな映像に仕上がっており、破壊のカタルシスにも満ちあふれていた。


 本作に登場するウルトラマンの対戦怪獣としては2体目となる、やはり初代『ウルトラマン』#9が初出でもある原子力の基となるウラニウムを食する四足歩行であるウラン怪獣ガボラも、原典同様にその顔面の周囲に開閉する巨大な花ビラのようなエリマキを装着しており、本作における怪獣ネロンガ同様に山間部に出現する。
――ガボラもまた超メジャー級の怪獣ではなかったものの、本作同様に初代『ウルトラマン』のリメイクが目指されていた、日本資本でハリウッドの弱小下請会社に作らせたビデオ販売作品『ウルトラマンパワード』(93年)などにも、奇しくも本作のガボラを手掛けた前田真宏(まえだ・まひろ)によってリファインされたデザインで再登場を果たしたことがある人気怪獣であった――


 この怪獣ガボラもまたハードSF的なリアリズムではなく、原典でのソレとも異なり、この閉じたエリマキ部分がリアルな生物とも程遠い硬質なドリルと化して超高速回転をしだすことで(!)、地底を高速で潜行することができるという、イイ意味でのチャイルディッシュな描写が与えられてはいる。
 いかに虚構の存在だとはいえ、電動ドリルを想起させる器官などは生物学的にも決してリアルな在り方ではなく、現行の動物の延長線上にはない存在だとして描かれているのだ。
 しかし、上空から見下ろした山間部の細長い谷間のような部分を埋め尽くしている段々畑の光景が、怪獣の地中での進路に沿って次々と盛り上がっては崩れていくサマを、ディテールも細かなリアルな3D-CG映像で描いてみせることで、「存在」そのモノではなく「周辺状況」の方から映像的なリアリティーを醸し出す手法が採られてもいる。


 肝心のウルトラマンの方は、初戦の対ネロンガ戦では全身がツヤ消しの銀色であり――従来のウルトラマンでは赤いラインが引かれていた箇所はやや暗めの銀色というのか鉛色――、ある意味ではそれが従来の「着ぐるみ」のスーツの質感とも似通っていたおかげで、重厚感や実在感などもけっこうあって、ホントウにリアルな映像ではあった。
 しかし、この第2戦の対ガボラ戦では、従来のウルトラマンとも同様に赤いラインが出現しはしたものの、赤ラインとの対比としての強調か、地の銀色の部分がツヤツヤ・テカテカとしてきだした。


 飛んで、本作の対ガボラのパートにつづいて配された、第3のパートである対ザラブ星人――とザラブ星人が化けた偽ウルトラマン――との夜景の高層ビル街における巨大バトルに至ると、たとえ意図的なのだとしても、街中の街灯・照明・ネオン群に照らされた反射だとの解釈ができても、この銀色部分の金属的なテカテカがカナリ目立つようにもなってしまう。


チャチだと見るか許容範囲だと見るかで、作品評価の高低も規定される!?


 いや、筆者個人は庵野よりも10歳ほども年下ではあるものの(汗)、1970年代の特撮変身ヒーローブームで産湯をつかって、劇中に登場する巨大超人が飛行シーンになると突如として作り物・別物感がまるだしのミニチュアの「飛び人形」となってしまったり、ヒーローの必殺光線を浴びて巨大怪獣が爆発四散するシーンになると突如として怪獣も爆発用の小型の「作りモノ」になってしまう特撮シーンを、散々に観てきたロートル世代ではある。
 子供心に少々の幻滅を感じつつも、それでもヒロイズムに対する高揚感などから、コレらの作品群を夢中になって観賞してきた世代ではあるので、そのへんの映像的な質感の不整合もソレはソレとして認識しつつも、割り切って観賞ができてしまうタイプではあるのだ。


 しかし、このテの日本のジャンル作品に対する、そのテの不整合やチャチさに対する耐性がない一般層や、SF洋画ファンなどが本作を観賞した場合に、この一点については本作の「弱点」たりうるのではなかろうか?
 本作は絶賛評が多かった『シン・ゴジラ』とは異なり、賛否両論が渦巻いてもいる。その一端は、ウルトラマンの銀色部分のテカテカ表現を発端として少々サメてしまった御仁たちが、本作のドラマ的・活劇的なベクトルにノレなくなってしまったがゆえに、ソコをドラマ面での弱さだと見立てた否定評だったのではなかろうか?――ドラマ面も十全ではなかったやもしれないけど、それよりかは間とかテンポの演出や映像面での有無を云わさずにノセていくことで醸されていく説得力の面での少々の欠如だ――


 今の時代の技術であれば、この程度のツヤツヤ感を抑えることは容易であったようにも思うので、半ばは確信犯としての提示であった可能性はある。そして、このあたりの映像的な質感の不整合を、あえてCGではなく日本のミニチュア特撮的な手ざわりをも再現しようとした意図的なモノだったとする見方もある。
 たしかにそういった一面もあったのだろうし、そしてソレが成功していた映像表現もあっただろう。しかし、このことはまた、非常にビミョーなあわいにある映像表現になってしまったとも思われてきてしまうのだ。


 個人差はあるだろうし、子供時代に「着ぐるみ」ではなく「飛び人形」に置き換わったことがわかっても、ソコを過剰には気にしなかったという意見も多々聞くので、それは原典作品である初代『ウルトラマン』をはじめとする昭和のウルトラシリーズの致命的な弱点であったとはしない。
 しかし、「飛び人形」の造形がいかにもユルくて、リアルな人間体型からもカケ離れていたり、人形の表面塗装の処理なども粗かったりすると、筆者などは子供心にソコだけはサメてしまったものだった。


 筆者と同じように思っていた子供たちもまた相応にはいたのであろう。1960~70年代の昭和のウルトラマンシリーズを観ていた世代が作り手側となった1990年代中盤以降の平成ウルトラマンシリーズになると、ウルトラマンが大空を飛んでいく飛行表現においてはミニチュアの「飛び人形」が廃されるようにもなっていく――ただし、CG表現によるウルトラマンの飛行シーンが代わりに実験的になされるようにもなっており、しかして当時のCG技術においては、コレがまた「飛び人形」に負けじ劣らずで違和感があるものにもなっていたのだけど(笑)――。


 CG表現によるウルトラマンの飛行姿は徐々に進歩はしていったものの違和感を根絶することはできなかった。そして、結局は2010年代以降になるや、アナログな「飛び人形」の復活などは論外であるにしても、グリーンバックで撮影した息使いや背スジをピンと伸ばした「力感」もドコかで残った「着ぐるみ」での両手両脚を伸ばした飛行ポーズをとったウルトラマンの姿を、デジタル合成による実にスピーディーな飛行シーンとして多用することが常道ともなっていく。そして、それはかつてのチャチさや違和感を抹消することにほぼ成功したモノとなっていったのだ!


微動だにしない人形による超人の飛行姿も再現した映像をドー見るべき!?


 その伝で、本作においては原典である初代『ウルトラマン』における、シリーズ序盤で登場して子供心にも幻滅させられていた出来の悪い方の「飛び人形」ではなく(汗)、シリーズ中盤に登場したリアルで人間体型にも酷似していた出来の良い方の「飛び人形」を、良くも悪くも見事に3D-CG映像にて再現も果たしている。
 なおかつ、原典でも流用フィルムとして幾度も使用されていた、屋外でのオープン撮影による自然光で撮影された垂直上方への初代ウルトラマンの飛行帰還シーンが見事に再現もされていて、マニアとしてはソコも懐かしくもなったものだ。


 しかし、良くも悪くもこの「飛び人形」は「着ぐるみ」ではないので微動だにすることはない(笑)。先走って、本作のラストにもふれるけれども、我らが3次元の宇宙空間からフィルムのネガとポジが逆転したような映像で表現された4次元以上の高次元空間へと飛ばされて、別の並行宇宙にも通じているというブラックホール状の爆縮体へと引きずりこまれそうになっている映像でも、キリキリ舞いとなっている「飛び人形」状態のウルトラマンは微動だにせずポースを一切崩さない。
 このある意味では不自然なまでの直立不動の飛行状態をもってして、神秘の未知なる宇宙超人であることの証左としつつも、製作ウラ事情まで鑑みれば、CG予算の削減をココで図っていたとも取れはする。
 そして、かぎられた予算の枠内にて、ドコのシーンにカネ&時間をかけてドコのシーンは粗くしても許されるであろうからとサラッと流して省エネとしてしまうのか? といったスレたマニアとしての観点から見れば、これらのシーンでウルトラマンの飛行ポーズを直立不動の姿としたことも、総合的には正しい取捨選択であったとすら思うのだ。


 なのだけど……。いやもちろん、海で溺れて慌ててもいるような域に至ったウルトラマンなどは観たくないけど、ここで最初は「飛び人形」姿でも、途中から左手を肩の上に組んで右拳は進行方向に突き出して、右脚も立てヒザなどにポージングを変えてみせることで、さらなる高速飛行を試みようとしているような「意志力」なども感じられる表現が導入されても、ミニチュア特撮の味が壊された! などといった批判も出ないだろうに。


 対ガボラ戦でのウルトラマンもまたその登場時には、やはり微動だにしない、しかも両脚は下方に顔面は上空を向いたまま(笑)での飛行ポーズで垂直降下のかたちで着地体制へと入ってくる(ウ~ム・汗)。
 そこでロートル世代やウルトラシリーズのマニアであれば、原典の最終回などでも観たことがあるようなウルトラマンの「飛び人形」が大車輪のように高速で前転なり後転をすることで赤い球体バリアを出現させた映像イメージとその際の不可思議な音階の効果音も流用した末に、その高速回転がそのままキック(!)となって、怪獣ガボラを遠方へとハジき飛ばしてしまった姿も見せていたことで、ラストにおけるウルトラマンの飛行姿の伏線ともなっていて(?)、違和感を消すことまでには行かないまでも、ウスめることには辛うじて成功していたともいえるだろう。


ウルトラマンの顔面・体色の変化、カラータイマーの省略をドー見るか!?


 さて、本作に登場する巨大超人でもある、白銀の身体に赤いラインが入ったウルトラマンのビジュアルは、静止画像ではあったものの、2019年12月における製作発表時にすでにお披露目が果たされている。その後に公開された本作の予告編でも、尺数は短かったとはいえ、


●あたり一面の噴煙の中から、姿を現わすウルトラマンの立ち居姿!
●山間部の平原において、両腕を十字に組んで右手の側部から多数の粒子を放ってみせる必殺ワザでもある、スペシウム光線を発射している勇姿!


などはすでに先行お披露目されてもいた。


 実際にはコレらは予告編限定のプチ・フェイク映像であって、ワリと序盤でウルトラマンの初陣として描かれたコレらの本編での映像では、ウルトラマンの身体にはおなじみの赤いラインが入ってはいなかった(汗)。
 特撮オタクであればご存じの通り、初代ウルトラマンは実は各クールごとに着ぐるみが新調されていった。本作予告編では、主に原典#30~最終回に登場してその後のウルトラシリーズでも使用されつづける硬質素材かつ横広がりの柔和なおクチの表現であった初代ウルトラマンのいわゆる「Cタイプ」の顔面であった。しかし、実際の映画での初陣は特撮オタクくすぐりで、第1クール(#1~13)に登場した軟質でシワシワの顔面マスクであった「Aタイプ」を模したものでもあったのだ!――一般層は気付けないネタだが、内容理解に支障が出るモノでもないのでOKだ――


――これまた腐れ特撮オタクとしてのウンチクを披露させてもらうと、この「Aタイプ」の顔面もまた、映画『ウルトラマンメビウスウルトラ兄弟』(06年)や映画『大決戦! 超ウルトラ8兄弟』(08年)でも再現されていたモノなので、本作での再現が初だというワケでもない――


 ウルトラマンのルックス上のアイデンティティーのひとつだったともいえる、胸の中央にある地球上での3分間の活動限界を警戒音とともに赤く点滅することで示すことになる「カラータイマー」が廃されていたことも話題を呼んでいた。
 初代ウルトラマンの元々のデザインにはカラータイマーが存在しなかったことは世間一般的にはともかく、特撮マニア諸氏には本放映から10数年後の80年代からワリと広く知られている。
 それは初代ウルトラマンのデザイナーでもある現代美術家成田亨(なりた・とおる)自身が、1982年に刊行されたマニア向け書籍『ファンタスティックコレクションスペシャル 不滅のヒーロー ウルトラマン白書』(朝日ソノラマ・82年12月31日発行)――日本初の青少年特撮マニア向けムックであった『ファンタスティックコレクション№2 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマン』(78年1月25日発行)と同『№10 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマンPART2』(78年12月1日発行)の合本増補版の増補ページ――でも明かしたことで、特撮マニアの人口に膾炙していき、連綿と歳若い特撮オタクたちにも継承されてきたからだ。


 当然のことながら、対外的・営業マン的トークとしては、この処置は「成田亨リスペクト」ゆえだともされている。しかし、これを額面通りの原理主義教条主義的に受け取ってしまうのはいかがであろうか?
 1960年前後生まれの世代を俗に「オタク第1世代」と呼称する――同世代の中でもイケてる系の人種を指したかたちで「新人類」世代とも呼称されてきた――。このオタク第1世代の特撮オタクたちは、1960年代後半に放映された自身の幼少期や小学生時代に遭遇した『ウルトラQ』・初代『ウルトラマン』(共に66年)・『ウルトラセブン』(67年)の通称「第1期ウルトラシリーズ」のみを神格化した。そして、1970年代前半に再開された『帰ってきたウルトラマン』(71年)・『ウルトラマンエース』(72年)・『ウルトラマンタロウ』(73年)・『ウルトラマンレオ』(74年)といった、彼らが中高生時代に放映されていた「第2期ウルトラシリーズ」の作品群のことは酷評してきたのだ。


 しかし、庵野自身は『帰マン』を最もスキだと公言している。今となっては古い話だけれども、まだ第1期ウルトラシリーズ至上主義の風潮が強かった1999年に開催された新宿ロフトプラスワンでの平成ウルトラ3部作賛美のイベントに乱入して、空気を壊すかたちで「『ウルトラマンタロウ』は面白いので、みなさん観てください!」(!)と云い残して去っていったという椿事(笑)が、月刊模型誌ホビージャパン』99年9月号でも、イベント主催者でもあった特撮ライター・ヤマダマサミによる連載「リング・リンクス」などで小さな写真付きで紹介されてもいたものだ。
 『シン・エヴァンゲリオン』における「マイナス宇宙」の語句は『ウルトラマンエース』#13~14から、「オーバーラッピング」や「フォー・イン・ワン」といったエヴァンゲリオン8号機が9~12号機と合身した際の掛け声もまた『ウルトラマンタロウ』#25においてウルトラ6兄弟がウルトラ6重合体を果たした際の掛け声に由来しているのだ。


 そんな庵野形式主義的・教条主義的・頑迷固陋な原点至上主義者であるハズもない。また、特撮マニアの側においても後出しジャンケンで「実はあのカラータイマーが余計だと思っていた」などと得意げに語ったり、幼少期に自身もインパクトを感じていたクセに「(ウルトラ兄弟の義父である)「ウルトラの父」やウルトラマンタロウの両側頭部から生えている巨大なツノも余計だと思っていた」などと糾弾をはじめる「長いモノには巻かれろ」的な、その場のムラ世間的な同調圧力にすぐに屈服する自己保身的な輩もまた、近代的合理人とは云いがたい意志の弱い輩だ(笑)。


 映画館でも公開と同時に頒布されていた書籍『シン・ウルトラマン デザインワークス』の「手記」において庵野は、



「数多のウルトラマンとの差別化としてそのカラータイマーをなくしました。個人的には、カラータイマーという発想は、制作的な制約を逆手に取った素晴らしい設定とカラーフィルムを最大限に活かした描写であり、機電で光る眼と並んでエポックメイキングだと思います。(中略)続編ではカラータイマー付きのウルトラマンが出るプロットにしています」



とまで語ってもいるのだ!


 個人的にもウルトラマン自身の赤いラインが湾曲線を描いたものでもある以上は、その胸の中央に円形のカラータイマーが付いていても不整合なところはないと思う――むろん、デザイナーの成田自身に不満があったとしてもだ!――。


 どころか、エネルギーの消耗を示しているカラータイマーによる赤い点滅の代わりに、ウルトラマンの赤いライン自体が緑色へと変貌してしまうのだ! これを気ムズカしそうな芸術家気質であった成田は許すであろうか?(笑) 筆者個人はもちろん許すし、今どきソコまで成田に前近代的・封建的な忠誠心(汗)を示すような特撮オタクも極少ではあろうけど。
――成田自身も自著『特撮と怪獣―わが造形美術』(フィルムアート社・95年12月1日発行)で、マニアが神格化してきたゴジラなどの初期東宝特撮怪獣にはデザイン上の「構造」がないと批判! その見解の是非はともかく、この歯に衣着せぬ精神性こそ見習うべきではなかろうか?――


M87・カイゲルでも原点志向と見せかける! それ自体がミスリード!?


 しかし、エンディング主題歌のタイトルは『M78』ならぬ『M八七(エムはちじゅうなな)』であった。『ウルトラQ』出自の「貝」型怪獣で別名も「貝獣」であったゴーガの名前はカイゲルとされていた。
 これもまた、特撮マニア、あるいはウルトラシリーズのマニアであればピンと来ただろう。


 本作の劇中においては、ウルトラマンの故郷である銀河名や星雲名などは明示されなかった。原典である初代『ウルトラマン』#1においては、その故郷は「M78星雲」であるとウルトラマン自身が合体相手となるハヤタ隊員に明言していた。しかし、実は企画当初は「M87星雲」として設定されており、台本印刷時に誤植されたモノが流通することになってしまったという逸話も、往時のマニア向け書籍で知られて以来、マニア間では流通してきた話でもある。
 カイゲルもまた、原典『ウルトラQ』#24のNG脚本のさらなる元となった、スタッフ内部向けの「サンプルストーリー」上で記述されていたゴーガに相当する「貝獣」の名前に由来があるそうだ――などと云いつつ、不肖ながら、ゴーガの前身の名前がカイゲルであったという逸話は寡聞にして初耳だったけど(汗)――。


 それらをダメ押しとして、主題歌までもが『M八七』だとしたことで、本作は作品外での情報でも今までのウルトラシリーズとは似て非なる別世界にして、真の意味での原点志向の一面をも併せ持った作品であることを念押ししてくるのだ。


 そういう意味では形式主義的な「原点回帰」ではなく、「原点よりもひとつ前」だともいえる「マイナス1への回帰」といったコンセプトを掲げている作品なのだろうかと思いきや……。
 『ウルトラQ』怪獣やネロンガガボラザラブ星人はともかく、のちに登場するメフィラス星人のデザインは原点への回帰だとも云いがたい大きなアレンジである。原典でも最終回に登場して初代ウルトラマンを倒した最強怪獣であった宇宙恐竜ゼットンに至っては、「ゼットォォォ~~ン」なる低音の咆哮やつづく電子音的な効果音や、そのシルエットはたしかにゼットンではあったものの、もう怪獣ですらなくて超巨大メカであった。
 これらのことから、公開前の「原点回帰」的な売り方からして「ミスリード演出」も兼ねていたことがわかろうともいうものだ(笑)。


ウルトラマンを神秘として描くだけでなく、ヒーロー性もしっかり付与!


 ウルトラマン自体は「ヒーロー性」よりも「宇宙の未知なる進んだ知性の神秘」といった感じが強調されてはいたものの、むろん「ヒーロー性」自体が放棄されていたワケでもない。原典では両腕を十字型に組むだけであった必殺のスペシウム光線が、本作では初披露時は顔面手前に右手を構えてしばらく充電の体を示して、水平に拡げた左手を大きく振るって右腕にクロスさせるという前段のワンクッションが挟まれることで、日本の特撮変身ヒーローや合体ロボットアニメではおなじみの歌舞伎的な見得(みえ)を切ったようなプチ・盛り上がりを該当シーンに付与することもできているのだ。
 ウルトラマンに変身する前の人間・地球人でもある神永青年が右手でペンライト型の変身アイテム・ベーターカプセルを斜め上へと真っ直ぐにかざすのみならず、対ガボラ戦にて森林の中で初変身を果たした際などにはワザとらしいくらいにカメラ手前方向に近しい真ヨコ方向へと真っ直ぐにベーターカプセルを突き出していたサマもまた、ナチュラルさとは真逆な方向性での様式美的なカッコよさが感じられるシーンにも仕上がっていた。
――なとと云いつつ、先に右手を構えてから左手をクロスさせるサマもまた、初代ウルトラマンのリメイクであったウルトラマンパワードにおけるメガ・スペシウム光線と同じ発射ポーズであったりして……。本作の樋口監督とデザイナーの前田真宏は同作にも怪獣デザインや、樋口に至っては渡米しての特撮ミニチュア造形などで関わっていたりもしたけれど――


 対ネロンガ戦では、これまた原典でのソレを踏襲して、怪獣ネロンガが頭部のツノから放った電撃光線を、その胸に受けてもビクともせずに悠然とネロンガに迫るように歩を進めていくウルトラマンの強さ・頑丈さをも描いていた姿もまたカッコいい!
 対ガボラ戦でも、怪獣ガボラが口から放った白い光線を、X字型に両腕を交差させて防いでみせる姿もまたカッコいい!――両腕クロスで敵の光線を防いでみせる姿は、ドチラかというと初代ウルトラマンではなく、『ウルトラマン80(エイティ)』(80年)#1などでエイティが披露したウルトラクロスガード(ウルトラVバリヤー)の方を連想するけど――
 怪獣ガボラの2本もあるシッポをツカんで、初代ウルトラマンも披露していたプロレスにおけるジャイアント・スイングのように、自身がその場でコマのように何回もグルグルと回転して振り回した末に、巨体のガボラを遠くへと投げ飛ばすサマもまた「豪快」さから来る「快感」の一言だ!


 対ザラブ星人戦でも、原典を踏襲して夜景の摩天楼での戦闘を挿入歌『進め! ウルトラマン』のアレンジBGM、空中戦も原典#2でのバルタン星人との空中戦BGMとともに披露! ザラブに突き落とされて地面に激突するかと思いきや、すんでのところで体勢を持ち直して、大通りに沿った超低空飛行から、即座にザラブの真下に仰向けの並行飛行姿で出現!
 すでに両腕を十字に組んでおり、発射されたスペシウム光線の圧力で高空へと押されていったザラブめがけて、左右水平に伸ばした両腕を胸中央に折り返して、即座に右手から投擲するかたちで放たれる八つ裂き光輪によって左右真っ二つ!――光線が質量ゼロではなく物理的な圧もあるあたりは80年代以降の少年漫画ノリだけど、今はこの方がイイだろう!――


 対ゼットン戦でも、八つ裂き光輪を通常よりも巨大化させて自身の身体の大きさほどにして放ったり! さらには、10枚近くに分身させた八つ裂き光輪が十文字列に飛んでいってゼットンに直撃させたり!
 このへんも、悪く云えばヒーローものにおけるご都合主義、良く云えば常人をはるかに凌駕した能力を持った超越存在に対するカッコよさや憧憬の感慨といった、このジャンルの本質をも描けていたのであった。
――腐れオタクとして云わせてもらうと、近年でも『ウルトラマンオーブ』(16年)が同様にデタラメに巨大化させた光輪を放っている(笑)。「分裂する八つ裂き光輪」も、原典#25にて大人気怪獣レッドキング2代目に放った例があり(2枚だけだが)、ウルトラマンエースの必殺ワザ・ウルトラギロチンなどでは光輪が3枚以上に分身したことの踏襲だ――


巨大ヒーロー&怪獣が存立できるための、SF的なエクスキューズ設定!


 とはいえ、巨大ヒーローや巨大怪獣のルックスはともかく、それらを劇中において、一応のリアルもしくはSF風味でソレっぽく存在させるにあたっては、やはり今どきの作品でもある以上は、その存立根拠は無言で完全スルーする……というワケにもいかないものであろう。


 本作では『ウルトラQ』に出自を持つ巨大怪獣の中ではパゴスが、そして初代『ウルトラマン』に出自を持つネロンガガボラは、3種がともに首から下がアタッチメントのようにも似ていることが禍特対の隊員によって指摘されている。
 本作に対するマニア諸氏による批評・感想でも散々に復習されている通りで、コレもまた80年代~90年前後だかにマニア向け書籍(出典失念)で明かされた、東宝特撮怪獣映画『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(65年・日米合作)――巨人化したフランケンシュタイン(!)が怪獣と戦う名作です!――に登場した四足歩行の怪獣バラゴンが、東宝特撮監督でもある円谷プロダクション円谷英二つぶらや・えいじ)社長の鶴の一声で借り出されて、『ウルトラQ』のバゴスや初代『ウルトラマン』のネロンガ・マグラー・ガボラへと改造を重ねた末に、最終的にはゴジラ映画『怪獣総進撃』(68年)で元のバラゴンに改造され直して再登場した故事にちなんでいる。
――第3次怪獣ブーム期に公開された、初代『ウルトラマン』の総集編映画『ウルトラマン 怪獣大決戦』(79年)合わせで発売の書籍『別冊てれびくん⑥ 映画ウルトラマン』(小学館・79年8月15日発行・7月15日実売)に掲載された初代『マン』放映リストの「シナリオ題名」欄の「パゴス反撃指令」で、ガボラ回が当初はパゴス再登場回であったこと、『別冊てれびくん② ウルトラセブン』(小学館・78年11月15日発行・10月15日実売)でも、パゴスはレッドキングらとともにセブンが使役するカプセル怪獣の候補だったと明かされたことで、70年代末期の怪獣博士タイプの子供たちはソレに対して興奮を覚えてもいた(笑)――


 そして、本作に登場したパゴス・ネロンガガボラは太古のむかしに地球に放置された「生物兵器」であったとメフィラス星人に語らせることで、地球の生物とはあまりに隔絶した生態を持っていることについても、SF的な理由付けはできていたのだ――「生物兵器」と云われてしまうと、『ウルトラマンエース』に登場する怪獣一般の名称であった「超獣」をもマニアは想起するけど、「超獣」をそう別称しだしたのは同作放映当時ではなく、平日5分番組『ウルトラ怪獣大百科』(88年)からであった――。


 そも巨大怪獣自体、立体の体積が3乗(タテ長×ヨコ長×高さの掛け算)で求められて、「重さ」も同じく「3乗」で幾何級数的に増大する以上は、体長50メートルもの陸棲動物はその自重的にも存在しにくいし、逆に数万トンもの体重もまた数百メートルもある「戦艦」並みに重たすぎることは、往年のベストセラー『空想科学読本』(宝島社・96年~。99年~メディアファクトリー)なり、それ以前からでも筆者も含めたスレたマニアのウンチク与太話でネタ的に議題にされてきたところでもある。
 本作ではソコに反発するのではなく、ツッコミされる前にセルフつっこみ・エクスキューズ的に語ってしまって、しかもソレをもストーリーや基本設定の妙味にすらしようという感じのクレバーな作劇ともなっている。


 ウルトラマンと地球人との合体による一体化、地球人がウルトラマンへと変身できるそのメカニズム、および「質量保存の法則」を無視(笑)して巨大化もできてしまうことについての、その基礎原理の解明!
 そのへんは21世紀のジャンル作品でのお約束となった、我々が住んでいる3次元世界・物質世界での物理法則を超えて、この3次元世界をメタ(形而上)的な背後(天上世界?)から成立せしめている世界として、4次元・5次元以上の別次元・高次元世界(余剰次元世界)が存在しているのだとも仮定する。
 そして、そちらの世界での原理によって超越的なパワーを発揮できる巨大ヒーローや巨大怪獣が存在できているとするのだ。あるいは、ウルトラマンに至っては、その本体は3次元世界にではなく別次元(高次元)に存在しており、それが変身アイテム・ベーターカプセルによる起動点火によって、スペシウム133(イチサンサン)なる自然界では存在しえない原子番号を持った架空の重たい元素によって構成された肉体を兼ね備えた存在として、現世に召喚されているのだともしたのだ。
――自然界に存在する一番軽い元素は、原子番号(=原子核の中の素粒子である陽子(ようし)の「個数」)が1番である水素。一番重たい元素は92番であるウラニウム。ただし、まれに自然界でもウラン鉱脈が天然原子炉化して、94番であるプルトニウムが生成されるそうである――


 ちなみに、原典の#2においても、スペシウム光線は火星に存在する架空の鉱石・スペシウムとも同じエネルギーであり、ウルトラシリーズの名悪役である両手の巨大なハサミが印象的なバルタン星人は、このスぺシウム鉱石が苦手であるために、火星ではなく地球への移住(侵略)を決めたのであった。133の方もバルタン星人2代目が登場した原典の#16で科学特捜隊が開発した、原理的にはスペシウム光線と同じだとする長身細身の光線銃・マルス133(イチサンサン)に由来させてもいるのだろう。


 などと云いつつ、怪獣映画の神さまのイタズラか、昨年度の深夜アニメ『ゴジラ S.P〈シンギュラポイント〉』(21年)でも、この3次元世界のみならず高次元や時間の次元にまでまたがって存在するメタ・マテリアル(メタ物質)によって、怪獣たちもその巨体の維持ができていたり、神出鬼没であったり、弾道に対して未来予知まがいな防御行動を取ることについてのSF的な理屈付けまで行なっている。フル3D-CGアニメ映画『GODZILLAゴジラ) 怪獣惑星』(17年)シリーズ3部作の最終作『GODZILLA 星を喰う者』(18年)でも、金色三つ首竜ことキングギドラが原典での宇宙超怪獣から高次元怪獣へとアレンジされている。同じような趣向の作品もまたすでにあったりはするのだ。


 ……ではあるのだけど、眼で見てもわかる重厚長大な金属の輝きを持った古典SF的な科学ではなく、マイクロチップブラックボックスナノテクノロジーなSF科学なので、実際には今風のSF感度があるオタにしかこの機微は伝わらず、一般層なりオタでも圧倒的なボリュームゾーンであろうライト層にはこのへんの機微はまったく伝わっていないのではなかろうか?――いやまぁ、ソコが不明瞭でも鑑賞には支障がないけど!――


 そこに加えて、このメフィラス星人もまた、地球人がウルトラマンへと巨大化変身できるペンライト型の変身アイテム・ベーターカプセルの超技術とも同じモノだとして、畳で2畳ほどの大きさはあるもののメタリックな平たいベーターボックスなるアイテムを地球人……というよりかは、日本人(!)に提供しようとしてくる。
 その理由もまた振るっている。ウルトラマンが地球人の青年とも一体化が可能であったことやヒロインの巨人化が可能であったことで、地球人一般は全員が「巨人兵士」になりうる素質があるのだともしたのだ(爆)。
 そして、その事実がこの宇宙のみならずマルチバース(多元宇宙)の全域(!)、つまりはあまたの並行宇宙の知性体たちにも知られてしまったので、地球人類はねらわれてもしまうのだから、抑止力としてもベーターボックスを保有していることがメリットになるのだと。


 しかし、その代わりに自分ことメフィラス星人のことを「上位概念」として人類に崇めてほしいと。けれども、自分は「鼓腹撃壌(こふく・げきじょう)の世作り」が理想なのだとのたまうのだ(笑)。
――古代中国の老荘思想における理想の政治形態のこと。満腹で腹太鼓を打って足で地面をたたいて拍子を取って踊りながら「王さま、何する者ぞ!」などと歌っているのに、そのヨコにいた威圧感のないニコニコとしているお爺さんが実は善政を布いている王さまであって(爆)、庶民は王さまの顔も知らずに好き勝手に趣味や文化活動の中で生きていくことが可能な世こそが理想の世だ……といったことを指している言葉でもある――


 メフィラスの提案を字義通りに受け取った日本人は悪い意味での善良、諸国に対して優位に立てるという打算があったとしてもヘタくそな外交だったと云うべきで、このテの提案にはウラがあるのに決まっている(笑)。


 怪しげなメフィラス星人の提案ではあっても、地球人の自発的な選択(=宇宙人との条約締結)に対しては干渉してはならない。けれど、メフィラスによる人類科学の強制的な発展をもたらすオーバーテクノロジーの技術給与を、人類の自然で自生的な進化をネジ曲げることだと惜しんで、星間文明での取り決めやウルトラマン自身の故郷であるM78星雲「光の国」ならぬ「光の星」の掟に背いてでも、ベーターボックスを強奪するために白昼の工業地帯でメフィラス星人vsウルトラマンとの一騎打ち!
 しかし、ウルトラ兄弟の長男・ゾフィーならぬゾーフィなるウルトラマン型の姿をした、その体色はシブめの金色で身体のラインは黒色をした存在が、前から監視をしていたかのように中空に静かにポツンといる!
 その存在に気付いて脅威をおぼえたのか、メフィラス星人ウルトラマンに停戦を呼び掛けて、ベーターボックスとともに地球を去っていく……。


ラスボス怪獣を操るのがゼットン星人ではなくゾフィーならぬゾーフィ!


 そう。本作では宇宙恐竜もとい天体制圧用最終兵器ゼットンを操る存在として、ゼットン星人ならぬ「宇宙人ゾーフィ」を設定したのだ!(爆)


 『「少年マガジン」「ぼくら」オリジナル復刻版 ウルトラマン画報』(講談社・15年11月28日発行)、同書に対するアマゾン・ユーザーレビュワー氏などの見解を整理すると、「宇宙人ゾーフィ」は怪獣図解の第一人者・大伴昌司(おおとも・しょうじ)が作成した「唯一のTBSと円谷プロの公式怪獣設定」が初出である――この資料は後年の『ウルトラマン大鑑』(朝日ソノラマ・87年12月1日発行)にも再録――。
 この資料を基にしたらしき、『週刊朝日』67年4月7日号「ただいま120匹 怪獣大行進」特集の怪獣リスト最終行が、商業誌での初露出だ――同書はゾフィーが登場した初代『ウルトラマン』最終回の約10日前に発売!――。講談社の今は亡き月刊少年漫画誌『ぼくら』67年8月号などではイラスト付きで登場した。10年ほども重版を重ねていたロングセラー書籍で、ウルトラセブンイカルス星人が組み合った写真の表紙がとても印象的であった『怪獣ウルトラ図鑑』(秋田書店・68年5月30日発行)でも、ゼットンの項目には黒幕がゾーフィだと記載されて、子供たちを「?」とさせてきたネタなのだ。


 家庭用ビデオは80年代中盤に普及。写真資料も豊富となった70年代学年誌とも異なり、60年代当時は映像による再確認が困難ではあったが、我々特撮オタクも崇拝してきた大伴が事の犯人(爆)であったようだ!?
 後続世代のマニアたちにも、1981~82年ごろに今は亡きマイナーアニメ雑誌アニメック』か『OUT(アウト)』か『ファンロード』であったかのお遊びコーナーにて、爆笑必至的な筆致にてコレら往年の誤認記事が紹介されたことでも、再発見がなされたこともあったネタでもある。
 むろん、インターネット全盛となった21世紀以降においては、これらの記事のスキャン画像がネタ的にもあまた流通することで、今の年若いウルトラマンオタクたちにも知られている事実なのだ。


 ゾフィーゼットンを操っていたという誤情報をネタではなくガチで逆用、特撮マニアや『ウルトラ』で育った世代には驚きを、一般層にも劇中内最強ヒーローの同族をラスボスとすることでの強敵感をも出したのだ。


 ちなみに、このゾーフィはトサカ~鼻に当たるラインが黒くなっている。スレたマニア諸氏であればご存じの通り、ホントに近年の2010年代中盤になってから判明した新事実なのだが、初代『マン』最終回に登場したゾフィーのトサカが実は黒だったと判明したことに由来する処置である――単なる逆光で黒く見えていただけかと思いきや、飛び人形のトサカも黒く塗られていたキャプチャー画像でトドメを刺された――。しかし、成田亨のデザイン画ではゾフィーのトサカは黒くなかったそうだけど(笑)。


 ウルトラマンの方は人間と合体して以降、体色に赤い模様が混ざったとも解釈ができることから、ゾーフィに最初から色付きの模様があることはSF設定的には不整合ではある。しかし、色付きの模様がなく全身が金色一色だと、往年の世代諸氏にとってはゾフィーもどきのキャラだとはやや認識しづらくなるので、リアリズムよりも映像演出的な都合論の方を優先して、そのへんは不整合でもご愛敬といったことでイイだろう。
 2色が「白と金」または「青と黒」に見えるかの「錯視効果」問題もあって、ゾーフィの模様も濃紺に見えたり濃緑に見えたりと諸説紛々である――筆者にはエネルギー切れを意味する緑に近いと見えていた(笑)――。


 ところで、TV本編ではサブタイトルや各話のゲスト怪獣表記でも「ゾフィ」と表記されていたのに、現在では末尾に長音を付与した「ゾフィー」の表記に統一されている。「ゾフィー」の表記はおそらく70年代初頭の小学館学年誌や幼児誌が初出だろう。当時の子供たちが恒常的に眼にしていたのは小学館の雑誌なので、70年代世代の筆者なども幼児の時分に「ゾフィー」が正解だと思い込んでおり、70年代末の第3次怪獣ブーム期の再放送でのサブタイや書籍などでの「ゾフィ」表記に改めて驚いたくらいに、往時においてもすでに「ゾフィー」の表記も定着していたのだ――公式化されたのは、総集編映画『ウルトラマンZOFFY(ゾフィー) ウルトラの戦士VS大怪獣軍団』(84年)からであろうか?――。



 過去に似た前例があるからといって、その作品の本質を突いたことになるワケでもないことは重々承知はしている。
 しかし、腐れウルトラシリーズオタクであれば、汚濁に満ち満ちた地球人類を滅ぼそうとするという敵設定に、以下をも連想したことであろう。


●映画『ウルトラマンコスモスVS(ブイエスウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』(03年)に登場した、不可視な存在・宇宙正義デラシオンに仕えていたゲストヒーロー・ウルトラマンジャスティスや、巨大円盤状の惑星破壊メカ兵器・ギガエンドラ
●『ウルトラマンガイア』(98年)に登場する、同作における2人目の青いウルトラマンこと人類を滅ぼそうとしていたウルトラマンアグル
●『ウルトラマンダイナ』(97年)最終章3部作に登場した、人類を危険視してその宇宙進出を拒んでいた暗黒惑星グランスフィア
●『ウルトラマン80』(80年)#10に登場した、人類存続を裁定する銀河共和同盟の惑星調査員であった若き美女・アルマ
●『ウルトラセブン』(67年)#37「盗まれたウルトラアイ」に登場した、惑星間弾道弾で地球を破壊しようとしたマゼラン星人の美女・マヤ


 守るべき地球人類自体を相対化したエピソードであるために、ウルトラシリーズの中ではあくまでもイレギュラーなエピソードではある。
 しかし、さまざまな見解はあろうけど、人類を滅ぼすに値するとダメ押し的に判断するに至った描写が、街の暴走族やチンピラの存在であったとも見えかねない描写であったりして(汗)、『コスVSジャス』や『ガイア』は、個人的にはやや説得力や品位には欠けて見えていた。
――『80』などは低予算を逆手に取って、ゲストヒロインとレギュラーヒロインによる三角関係ラブコメとしている。長じてから観るとソレが実に面白いのだが、子供のころはソコが逆に腑に落ちなかった(笑)――


 ウルトラシリーズに限定しなければ、日本においては第1世代SF作家・平井和正が手掛けた大人気「70年代・人類ダメSF(小説)」こと、半人半獣の狼男が愛憎込みで人類を糾弾してみせるウルフガイシリーズ。アメリカにおいても、目的は人類根絶でこそなかったものの、未熟で攻撃的な人類に対して警鐘を与えに来た宇宙人を描いていた古典SF映画『地球の静止する日』(51年)などといった前例となる作品もあったのだ。


 本作においては、人類自身の愚行によってではなく、人類が宇宙人たちによって巨人兵器として転用されてしまう係争地になることと、「人類が光の星と同じ運命をたどる可能性」から、「人類の廃棄」が決定されたのだとも「ゾーフィ」が語ることで「俗っぽさ」は消えている。人智を超えた天上世界での有無を云わさぬ決定事項といった感じとなっていたことで、良くも悪くも『コスVSジャス』や『ガイア』にあったクサみや弱点は最初から回避ができて、SF性や強敵性の方だけを前面化できている。
――「人類が光の星と同じ運命をたどる」の件は、ウルトラ一族も26万年前には地球人と同じ姿をした生物であったという設定の踏襲だろう――


 ゾーフィだけでなくウルトラマン自身もまた人間に対して、「禍特対のメンバーに危害が及べば、自分が人類を滅ぼす」とも恫喝まがいな発言まですることでは、ウルトラマンもまたゾーフィとは別の次元で広義では危険な存在にも成りうるのだとして、相対的に描いてもいるあたりに関してだけで云えば、ヒーローものではなくSFものの文法でもある。
 とは云ったものの、半世紀にもおよぶウルトラシリーズの長い歴史においては、日本人が中国を再侵略、もとい地球人が宇宙を侵略する機運があれば、初代ウルトラマン自身が地球人を滅ぼす! と明言していた作品もあった。1982年に映画製作会社・ATG(日本アート・シアター・ギルド)にて製作が予定されるも頓挫した映画企画『元祖ウルトラマン 怪獣聖書』がそれである――『佐々木守シナリオ傑作集 ウルトラマン怪獣墓場』(大和書房・84年11月1日発行)に脚本が収録――。


 本作ではウルトラマンの本名も判明する。ゾーフィが呼んだその名は「リピア」であった――字幕版によれば、正確には「リピアー」だそうだ――。すでにネット上にて好事家たちが解き明かしている通り、それは地を這うような多数の葉っぱの上に慎ましい小さな花を多数咲かせる南米産のヒメイワダレソウ(姫岩垂草)の学名に由来する可能性が高いようだ。しかも、日本の植物にとっては「侵略的外来種」でもあるあたりで、それをもねらった名称であったならば絶妙にハマったネーミングでもあった。


――「侵略的外来種」と聞くと特撮オタは、人間を怪人化させつつも時に人類を進化させてもきた、異界の悪意なき「ヘルヘイムの森」の侵蝕を描いていた『仮面ライダー鎧武(ガイム)』(13年)なども想起する――


『シン・ウルトラマン』賛否両論の内実! 4種に分類! その法則性!


 本作『シン・ウルトラマン』はご存じの通り、賛否両論の作品となっている。筆者が観測してきた範疇では、『ウルトラマン』シリーズにくわしかったりスキでスキでたまらない御仁だけがホメていて、そうではない人間たちが酷評をしているといった感はない。交通整理をしてみせると、以下の通りのようだ。


①:『ウルトラマン』シリーズもスキでくわしくて、『シン・ウルトラマン』も絶賛している御仁
②:『ウルトラマン』シリーズもスキでくわしいけど、『シン・ウルトラマン』をイマイチだったと批判している御仁
③:『ウルトラマン』シリーズに愛着はなく無知でもあるけど、『シン・ウルトラマン』を絶賛している御仁
④:『ウルトラマン』シリーズに愛着はなく無知でもあるけど、『シン・ウルトラマン』をイマイチだったと批判している御仁


 要は『ウルトラマン』シリーズをスキなヒトの中にも賛否があり、『ウルトラマン』シリーズにくわしくないヒトの中にも賛否があるのだということになるのだ。


 それでは、筆者個人はドーなのか? といえば、実は「①」ではなくやや「②」寄りの人間ではあったりはする(汗)。もちろんそうであっても、単なる日記や備忘録ではなくヒトさまにも読ませるモノでもある以上は、「オトナの態度」を採って、自身の見解とは異なる読者をも最低限はサービス・楽しませるための「話芸」として、ウルトラシリーズやジャンル作品についてのウンチクを披露するような手法が、マニアに成り立ての思春期のオタでもなければごくごくフツーの態度ではあるだろう。
――たとえ正論であっても、イイ歳こいてオブラートに包まずにストレートに罵倒やイヤミを糾弾調でブツけてしまう、古今東西の哲学・宗教がその重要性を説いてきた「礼節」を欠いた輩こそが、自身は誠心誠意な革命的・反体制的な正義のつもりであっても、近代後期以降のこの社会に熟議による民主主義ではなく不和・憎悪・闘争のタネを撒き散らしてもいる、近代化したハズの社会がいつまで経っても平和にならないことの根源なのであって、それらの積み重ねが差別や逆差別・分断・排他主義・内戦・戦争にすら行き着くのだとも思っているくらいだ(笑)――


 もちろん、嗜好品である以上は本作を絶賛する方々を否定する気も毛頭ナイ。それもまた、ヤボ以外の何ものでもないのだ。


 一方で、リアル・シミュレーション的で乾いて理屈っぽくもあった『シン・ゴジラ』にはノレなかった、もしくはその作劇理論が怪獣映画のファンタジックでユルい方向性やプリミティブな獣性とは相反するモノであったとしてノレなかった層には、「意外と『シン・ウルトラマン』は面白かった、『シン・ゴジラ』よりも面白かった」といった意見も観察されており、その観点に立てばその感慨もまたもっともかな、とは思うのだ。


 その上で云うのだけれども、強いて「①」~「④」の中だけで何らかの法則性を見いだせるとすれば、本作をイマイチだと思ってしまった人間たちは、映画やTVドラマなどにおける、


●「ドラマ」的な首尾一貫性
●「作劇理論」のようなモノ
●「間」とか「テンポ」といった、脚本ではなく演出側でコントロールされる「時間」や「密度」感
●セリフではなく映像で、状況・地理・位置・人物像などを説明・補強していくような「点描説明」感覚


といったモノサシを強めに持ってしまった人種たちなのではなかろうか? そういったモノが今一歩のところで本作には足りていない、ソレらが存在していたとしても観客側にイマイチ突き刺さってはこない。かようなシーンがいくつか散見されたことが、本作がその高いテンションを最後まで維持がしきれなかったといった感触につながっていたのではなかろうか?


放射能の減衰、自衛隊・米軍出撃の前段を、映像でもわからせるべきだ!


 筆者が個人的にまず惜しいと思ったのは、第2戦目である対ガボラ戦であった。怪獣ガボラは「放射能」を発していて危険であるために、禍特対の隊員たちも大掛かりな白い「防護服」を着用することになる。
 それはイイ。しかしダメ押しで、「ガイガーカウンター」(放射線測定器)なども持ち込んで、「ギーギー、ガーガー」といった不穏な局間ノイズのような音声を、これらのシーンに鳴り響かせるべきではなかったか?


 エッ? ベタでアリガチだって? まぁ、それはそうかもしれない。しかし、本作の最終決戦でも画面の下に「デジタル数字」表記のストップ・ウォッチ調の時間経過を示す字幕を付けることによって、タイムリミット・サスペンス性をも少しでも加味するようなベタな演出なども採られていたではないか!? それと同じようなことなのだ!


 ウルトラマンガボラと戦闘を開始すると、周囲の放射能レベルも下がりだして、ドーいう原理であるのかは不明なれども、ウルトラマンがその超越的な能力で周囲の人間には悪影響がおよばないように自身が「放射能」を吸収、もしくは中和・無害化している可能性なども説明されていた。
 しかし、「放射能」などといったモノは眼には見えない存在なのである(笑)。だから、これを静まっていくガイガーカウンターの不穏な音声なり電飾メーター映像などでも代替させて、ダメ押しで禍特対の面々も防護服のヘルメットを取ってみせて、そこで顔出しして「安全になったのだ」「ウルトラマンを人間の味方だと認識したのだ」といったことを、もっと絵でもわからせるような表現であった方がよかったのではあるまいか?


 「現代日本の風刺」といった側面をも併せ持っていた『シン・ゴジラ』ほどではないものの、本作においてもその前半や中盤では、リアル・シミュレーション風味であったり、政治ネタを少々混ぜてはいる。
 序盤で『ウルトラQ』の怪獣たちが数体も登場して、本作の世界観は巨大怪獣の存在が常態化した世界観であるとも説明はされてきた。しかし、超現実的なスーパーメカなどを保有した地球防衛軍などが登場しない作品でもある以上は、


●人間サイズの敵怪人の登場に対して、ナゼに警察や機動隊は出動しないのか? ナゼに敵怪人を仮面ライダースーパー戦隊だけが迎撃しているのか?(笑)
スーパー戦隊の敵怪人が巨大化したのに、自衛隊が出撃したり戦隊巨大ロボを援護して共闘したりはしないのか?(笑)


などといった、一般層こそ脳内に微量に思い浮かべてしまいそうな小さな疑問を、本作はジャンル作品における様式美的なお約束だとして済ませてはしまわないのだ。


 まずはウルトラマンが大活躍する前に自衛隊が出動したり、次に二等辺三角形型の米軍機・B2ステルス爆撃機が出撃して『シン・ゴジラ』でも披露したMOP2(モップ・ツー)こと地中貫通爆弾を投下したり、米海軍施設もある横須賀に出現した偽ウルトラマンに対して対艦ミサイルで攻撃してみせるサマを描くことも正しいとは思うのだ。
――もちろん、自衛隊もMOP2もこのテの作品のお約束で、巨大怪獣に敵わずに敗退する「前座」を務めることが宿命なのだとしても、こういった前段・段取りの有無でも「前座」が登場しているその場面の盛り上がり方がまたカナリの程度で変わってきてもしまうのだ――


 しかし、ホンの数秒のワンショットでもイイので、そこへと至った前段がほしいのだ。イキナリ空を飛んでいるB2ではなく米軍基地の滑走路から離陸する瞬間や、戦車や高射砲やミサイルランチャーが自走してきて着陣する瞬間、搭乗者や指揮官の顔の点描などがほしいのだ。イキナリそこにいて、すぐに攻撃を開始してしまうのでは腰の据わりが少々悪いのだ。
 たとえ数秒程度の点描ではあっても小出しに準備を進めているサマなども見せていくことで、観客側のナットク感や気持ちを盛り上げていくような演出。そういったモノのひたすらな積み重ねの連続が作品自体にも張り・テンションを、ひいては観客の作品に対する興味関心をも持続していくことにもつながっていくのではなかろうか?
 これらは従来のウルトラシリーズや合体ロボットアニメでいえば、地球防衛軍などのスーパーメカが格納庫から発進していく一連のシークエンスや、TV時代劇の主人公たちが悪を懲らしめるための前段として出陣・行進していくシークエンスなどにも相当するものでもあるのだから。


政治劇も存在したハズなのに、鮮烈には浮かび上がってこないワケとは!?


 透明怪獣ネロンガの出現場所が「官房長官の選挙区」だというセリフは、それ単体としては面白い。「巨大怪獣に対してのみ核攻撃を可能だ」とする条約に批准していて、核攻撃の可能性も言及されはする。しかし、日本も含めた現今の各国政府は実際にそういった局面になると及び腰で(汗)、自身の手を汚したくはないがためにか互いに核攻撃の担当をなすりつけ合っているようにも取れるセリフもまた、それ単体としては面白いのだ。
 そして、日本国による核保有に持っていきたいという一部政治家の意向が推測的にでも語られることで、逆説的に本作においては日本はまだ核兵器保有していないこともわかろうともいうものだ。


 巨大怪獣やウルトラマンをめぐって、米国(アメリカ)や大陸(中国)の動向が議題に上がったり、米国宛ての報告書が必要になっている(汗)という点描もまた、それ単独では魅惑的なネタである。
 このような点描は『シン・ゴジラ』にも存在しており、同作の本題でこそなかったものの、「尖閣諸島」ならぬ「対馬沖」に隣国の艦船が出現したとの報が入ったりもすることで、作品にポリティカル(政治的)なキナくささを味付けすることもできていたのだ。
 あるいは、左派の皆さまにとっては認めがたいことではあろうけど、東京都心に残置することになった危険な「ゴジラの死骸」とも共生して公益にも供しようといった示唆までがなされることで、コレはたとえ危険性があったとしてもそれをも承知で「原発」とも共生しようというメタファー(汗)だとも捉えることも可能なような可能ではないような……、といったクリティカル・ポイント(臨界点)に爪先立ちで立つことで、ヤバめの緊張感までをも醸すことすらできていたのだ。


 本作『シン・ウルトラマン』もまたセリフだけで見れば、同趣向のモノがあったハズなのだ。しかし、本作においてはコレらのセリフがビビッドには立ち上がってこないのだ。気の抜けたコーラのようにもなっている。
 ナゼであろうか? 脚本の庵野はともかく、監督の樋口はこのへんの政治ネタに感度がなかったのであろうか? それとも、むしろ庵野の政治観には同意していなくて、ソレらをウスめる手に出たのであろうか?(笑)


 ただし、これら政治方面ネタの助走台がやや弱くなってしまったことで、ザラブ星人が日本政府と友好条約を締結したり、しかしてその内容を各国諜報機関や日本の公安(爆)までもがスッパ抜いたのか、あるいはザラブ星人が自身でリークしていたのか、その内容が実は日本にとっては不平等条約であったとなるあたりがまた、ネタとしては面白いもののメリハリを持って立ち上がってはこないのだ。


 西島秀俊が演じる禍特対の班長 → 壮年の室長 → 防災大臣 → 日本国総理 → アメリカ(笑) といった5層のタテ構造などもあったハズなのに、各々が上や下とやりとりをしたり、それぞれの御仁もまた板挟みにあって苦渋の表情を浮かべている……などといった点描などもナイために、そのタテ構造がまた作品の行間には浮上してこないのであった。そこをもう少しだけ盤石に描いておけば、ザラブ星人出現の際に「禍特対」をさしおいて傍流の「外星人対策本部」に主幹が移されていた、といったストーリー展開の意外性・驚きなどももっと醸せていたであろうに……。


 ザラブの策略であった、ヒロインのパソコンから対ガボラ戦での神永青年がウルトラマンに変身した瞬間のさまざまなアングルからのカメラ映像が全世界へとバラ巻かれてウルトラマンの正体がバレたことで、警視庁・警察・公安・各国諜報機関・米軍の特殊部隊が禍特対の監視や拉致の準備をはじめたりするあたりもまた、具体的な一連ではなくても点描すらもがナイために深刻感もさして生じてこないので、腑には落ちてこないのだ。
 いわゆる60年代後半の第1期ウルトラシリーズで、佐々木守脚本による異色作やアンチテーゼ編を主に手掛けてきた実相寺昭雄(じっそうじ・あきお)カントクが得意としていた奇抜な「実相寺アングル」も、禍特対のオフィスでの会話シーンなどではなく、ザラブ星人メフィラス星人と日本政府の高官たちが交渉するシーンでこそ多用した方が、それらのシーンの意味合いも映像的な異化作用で屹立してきたのではなかろうか?


 だけれども、日本政府はウルトラマンの正体把握問題では国連やG9諸国やらに謝罪するといった情けなさ、メフィラス星人との条約締結でも他国に人工衛星からでも超技術給与の条文をさらしてしまってもイイですよ~といった塩梅で、埋め立て海浜近くに設置されたテントを前にして、天井もない白昼下で調印することになるあたり、やはり米国の半属国でしかないような我らが敗戦国・日本のしょうもなさといったモノは……(笑)。


「政府の男」とメフィラス星人もよかったが、もっと先に行けたハズだ!?


 しかして、本作後半にて登場した『シン・ゴジラ』出自で竹野内豊が演じる「政府の男」が、日本の核保有ザラブ星人メフィラス星人との条約締結の一連のすべてとはいわず、相応には関わっていたのやもしれない……。けれども、それは日本の外交的な自立、外交的なフリーハンド、他国との拮抗、欧米や中露とは異なる外交、いわば権力の善用のためであって、プーチン大統領のように隣国へと攻め込む(爆)ためのモノだったとは思われない。人格的にも悪人であったり増長してオカシくなてしまったといった輩でもなく、彼は極めて理知的でもあったからだ。
 だから、我が日本国ごときよりもはるかに横暴であろう世界各国が核ミサイルの発射ボタン(汗)をチラつかせてウルトラマンの情報開示を要求していることを明かして理解&同情を乞うてきたり、ウルトラマンの情報を奪取するために米軍の特殊部隊などが禍特対メンバーの拉致(爆)をもくろんでいると知れば、彼らの保護にも尽力していたりもする。よって、彼は個人の人権を無視するほどの強引さまではないのだ。


 しかし、このあたりの描写の印象が総じて弱いがために、本作にもいくつかあったタテ糸や背骨のひとつとも成りえたハズの政治ネタも弱くなってしまっている。


 原典における「精神性」「魂」「倫理」の問題に「悪魔のささやき」として関わってきたメフィラス星人とはやや趣向が異なるも、本作におけるザラブ星人同様に「実利」的な不平等条約を締結しようとしてくる外国のメタファーとして生グサい方向性にアレンジされて、その人間態を演じた山本耕史(やまもと・こうじ)演じるメフィラス星人も実によかった。
――原典にてメフィラス星人がウルラマンことハヤタ隊員に「貴様は宇宙人なのか!? 人間なのか!?」と発して「両方さ」と返されたセリフは、特撮評論においては第1期ウルトラシリーズのメインライター・金城哲夫の沖縄と本土をつなぐ作家性の現われだとして、90年代以降の特撮評論では捉えられてきた。その成果にも乗るかたちで、神永青年に投げかけるヒロインのセリフとして本作では復活を遂げている。そして、ウルトラマンこと神永も「両方だ。あえて狭間にいるからこそ、見えるものがある」と返すのだ。もちろん、狭間から見えた光景もまたひとつの角度に過ぎなくて、それが事の事実・真実であるとは云い切れないとも思うものの――


 「私の好きな言葉です」「私の苦手な言葉です」といったお約束の定型句も多用して、漫画・アニメ・劇画的に記号化されたキャラ付けをされているあたりは、第1期ウルトラシリーズどころか昭和ウルトラや00年前後までの平成ウルトラシリーズとも異なるテイストのものではある。
 特撮ジャンルでいうならば、平成仮面ライダーシリーズの『仮面ライダーカブト』(06年)や『仮面ライダー電王』(07年)における半分はカッコいいけど半分は笑ってしまう定型句的な名乗りから始まって、ウルトラシリーズでも『ウルトラマンオーブ』(16年)以降に敵味方のキャラ双方の味付けに大々的に導入されていくこととなった、特に若い特撮オタクたちから「円谷のやべーやつ」と称されているライバルキャラのポジションに配されたジャグラスジャグラー・伏井出ケイSF作家センセイ・愛染マコト社長・女子高生ツルちゃん(笑)などに付された、いわゆる「ネタキャラ」的な個性付けにも分類ができるのだとの整理はできるだろう。


 けれど、それまでの地球人やザラブ星人との政治談義といった政治ネタが助走台としても有効に機能していれば、これらの「ネタ性」と「政治性」はもっと盛り上がったのではなかろうか?


 さすれば、『シン・ゴジラ』ほどではなくても、政治方面からの語り甲斐もある作品に成りえたやもしれないのだ。庵野の目論見の一方はソコにもあったのやもしれないし、庵野の思想性・政治性の是非はまた別として、そこで辛めのスパイスをピリリと利かせることで端々のエッジも粒立ってきたやもしれない。そうすれば、『シン・ゴジ』は肯定するけど『シン・ウル』にはノレなかったと云っているような層をも総ざらえでゲットできたやもしれないのに、実作品はそうはなれなかった恨みも残るのだ。


変身アイテム・ベーターカプセルの方は作品のタテ糸とすることに成功!


 タテ糸といえば、本作においては、人類がウルトラマンとも合体化したり、ウルトラマンに変身できる道具・ベーターカプセルもそうであった。
 このアイテムをめぐった争奪戦を対ザラブ星人戦の一方の幹とすることで、まずはスポットを当てている。メフィラス星人がヒロインを巨大化させた方法も、ウルトラマンのベーターカプセルとも同じ原理を持ったメフィラス星人由来のベーターボックスによるものだったとしたのだ。
 なおかつ、メフィラス星人が巨大化変身する際にはやはり彼専用の独自の変身アイテムを使用して、ウルトラマンの巨大化変身時とも同じ効果音まで響きだすことで、メフィラス星人もまたウルトラマンともイコールではなくとも似た趣向のテクノロジーを活用した存在だとして描くのだ。
――敵味方が濃淡はあれども同根のテクノロジーに由来する存在だとしたのは、原作マンガ版『仮面ライダー』初作や、『クウガ』と『響鬼』を除いた平成仮面ライダーシリーズ、「アベンジャーズ」シリーズの映画『アイアンマン』初作や『超人ハルク』初作(共に08年)などとも同趣向だ。メフィラス星人の変身巨大化アイテムが、ウルトラマンのベーターカプセルとはあまりに形状が異なっていたあたりだけは少々残念だったけど――


 あげくの果てに天体制圧用兵器・ゼットンを倒してみせる切り札となるのもまた、やはりウルトラマンの変身アイテム・ベーターカプセル! 最後にウルトラマンと神永を分離させるのに用いられたゾーフィのアイテムもまた彼専用のベーターカプセル! だったとしたことで、執拗なまでに一応の作品のタテ糸として、ベーターカプセルそれ自体に意味を持たせており、「ベーターシステム」なる総称まで与えてみせていたのであった。


 ちなみに、原典と『デザインワークス』掲載の初期デザイン画では、「ベーター」ならぬ「ベータ」名義で、差別化としてのズラしが入ったこともわかる(笑)。このベータカプセルも放映当時~70年代末期までの書籍ではフラッシュビームとして記述されており、当時の子供たちもそう認識していた。しかし、原典#1では初代マンが明らかにベータカプセルだと呼称している(汗)。ここに整合性を取るためか、70年代末期の書籍からは変身アイテム名自体はベータカプセルで、そこから放たれる閃光がフラッシュビームなのだという記述が登場。以降はこれで定着していく。


――のちのちオタクになりそうな怪獣博士タイプ・科学少年タイプであれば、『空想科学読本』ではなくても小学校中学年以降になると気にしてしまうであろう「質量保存の法則」を無視した巨大化(特にナマ身の人間であるヒロインの巨大化・笑)。それは物質の基礎である原子も含めて巨大化したのか? 原子の大きさはそのままにその数量が増えたのか? 長さの3乗で質量が増大するので、その骨格も維持ができないヨ! などとサメてしまって、ジャンル作品からも卒業されてしまいかねないところを、そこをも先回り! ベーターボックスでの巨大化によって、彼女の身体が人間の体細胞とは異なる未知の物質となって、キズひとつ付けて採取することもできない硬度を持っているとのSF的な説明を与えることで、未来の特撮オタクとなりうるガキどものゲットも万全なのだった(笑)――


思い出補正の宇宙恐竜ゼットン。その現代的なラスボス表現&攻略方法!


 人間サイズで森林に出現したゾーフィがその手から放った球状メカは高空へと浮上していく。そして、衛星軌道上で拡張・展開していき、超巨大兵器・ゼットンと化していく。正直、ここのCG映像クオリティーは少々弱かったとは思うのだ。しかしまぁ、この宇宙空間に浮遊している存在が、原典における宇宙恐竜ゼットン型をした「生体」ならぬ「メカ」的な存在である以上は、あのCG映像でもまだ許容はできるのではなかろうか?


 ウルトラマンとほぼ同じ身長であった原典におけるゼットンそのままの姿で再登場してほしかったという方々もいるやもしれない。しかし、アレらは我々が幼児や子供の時分に見た衝撃ありきのモノなのである。
 「思い出補正」で美化されつづけてきたモノでもあったのだから、原典のゼットンをそのままに本作に再登場させたとしても、今のオトナになってしまった観客たちにラスボス級の超強敵だとして認知させることは実はムズカしかったことだろうとも思うのだ。


 そうなると、やはり超巨大物体だとして、容積比的にも撃破のしようがない巨悪として描写してみせる手法が、とりあえずの最適解ではなかろうか? あとは、超巨大ゼットンのCG映像に質感・実在感・重厚感などを高めていくことで、絵的な説得力も出していくといった方法しかなかったとも思うのだ。その点においては大成功はしていなかったモノの(笑)。
――『デザインワークス』の「手記」で庵野自身も、公開数ヵ月前にもなってチェック作業に参画してリテイク指示を開始しており、「正直、アニメーションから直したい様な自分としてはかなり厳しいクオリティーのまま公開されてしまうカットもあると思います。残念ですが、これらはもう自分ではどうしようもなかったですね」とも語っている(汗)――


 原典の最終回では、初代ウルトラマンゼットンに敗北してしまう。その代わりに地球人が新兵器を発射してゼットンを撃破してみせることで、取って付けたようではあったものの、人類がウルトラマンに依存しないで独力で戦ってみせることの重要性を科学特捜隊の隊長の言葉で語らせることで一応の「テーマもどき」として作品を完結させていた――このテーマ自体は後続のウルトラシリーズでこそ継承されて発展もしていった――。


 本作ではソコはキチンとブローアップ。メフィラス星人のベーターボックス供与と同等の行為になってしまう可能性もあるので、作劇&テーマ的にはキビしいところもあるのだけど、ウルトラマンこと神永がベーターシステムの原理のすべては明かさずに、その一部を地球人における部分的な「数式」のかたちでヒントとして提示して、それを人類が解くかたちでウルトラマンに超巨大ゼットンを打倒するための戦法を考案させている。


 ここも理念的・作劇的には決して間違ってはいないのだ。しかし、禍特対の非粒子物理学者である滝青年が、VR(仮想現実)ヘッドギアを装着して世界中の科学者と協議を重ねてベーターシステムの原理とゼットン攻略法を練ってみせるあたりがまた、やはり絵面としては弱いだろう。
 ココこそベタでも、今はむかしの質の低いポリゴン風のCG表現による仮想の円形講義堂などで、世界中の科学者のアバター(デフォルメ分身)キャラなり、今時のPCであれば最初から画面の上隅に内蔵済のカメラに映したご当人たちの顔などが林立している中で、彼らが喧々諤々の大激論を重ねているサマなどもビジュアルとして見せるべきではなかったか!?


 そういった、脚本を超えたダメ押しとしての短いワンカットが総じて本作にはほしかったモノなのだ――そのワリには、脚本指定か本編美術班のお遊びか、名作深夜アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(11年)に登場した白い小動物型マスコットキャラ・キュゥべえのシルエットが描かれたマグカップは登場している。キュゥべえの正体が少女の精神エネルギーを搾取して、エントロピーの法則による物理的必然で到来してしまう熱的死(=宇宙の終焉)をも回避させてきた高次元生命であったこと、ラストで主人公少女がキュゥべえよりもはるかに高次元な存在へと上昇していったこととも掛けていることは、ガチオタ的にはよくわかる(笑)――。


 そこで出された結論が、ウルトラマンへと変身直後にベーターカプセルに2度目の起動点火をさせること。これによって、6次元世界を通じて「プランク・ブレーン」に1ミリ秒だけ「穴」が生じて、その1ミリ秒以内に殴り飛ばすことで、ゼットンを別の並行宇宙なり次元の狭間へと飛ばしてしまうという作戦でもあった!


プランク・ブレーン、ブレーンワールド、並行宇宙、マルチバースとは!?


 「プランク・ブレーン」。「プランク」とは時間や空間の一応の最小単位とされている「プランク長」や「プランク時間」からの引用でもあろうか? 「ブレーン」の方は宇宙論素粒子論などにも興味のある方々であればご承知の通り、実在する科学用語・物理学の用語でもある。
 この「ブレーン」とは「膜」の意味だ。この「3次元宇宙」を仮に「点」、その過去~未来への時間変化(歴史)を「線」に見立てることで、宇宙や分岐並行宇宙それ自体を「世界線」だと表現するけど、ここでは「3次元宇宙」を仮に「面」または「板状の膜」だとして捉える。
 そして、高次元空間には多数の「膜」、すなわち多数の「宇宙」が並行して存在しており、コレらをまとめて「ブレーン・ワールド」だと呼称する学説のことなのだ――要は並行宇宙・多元宇宙の云い換えですネ――。


 この世間的には聞き慣れない言葉をあえて使用してみせることで、作品世界をちょっとだけ高尚に見せようという、実に小賢しい手法が「プランク・ブレーン」という言葉使いでもあったのだ(笑)。


 しかし、やはりココも少々の引っかかりを覚えてしまうのだ。たとえばアメコミヒーロー大集合洋画『アベンジャーズ/エンドゲーム』(19年)では、人々を復活させるためにヒーローたちが過去のあまたの時点に戻って、今では失われてしまった6つの宝玉を集めて願いを叶えようとする。
 拝借した宝玉を、拝借した直後の時間軸の同一の場所に返しておけば歴史の分岐は起きないけど、この処置ができなかったり、過去の現地でトラブルを起こしてしまえば、そこから分岐して並行宇宙が誕生してしまう危険性を、ワザとらしくても劇中キャラが別のキャラへと説明するかたちにして、しかも大空に飛行機雲を描いて、その根元から分岐した飛行機雲が並行して伸びてくるサマなども描いて念押ししてみせることで、SFリテラシー(読解能力)などはナイであろう圧倒的大多数の庶民観客たちにも眼で見てわかるかたちで了解させることができていたのだ。


 あるいはウルトラシリーズでも、「マルチバース」の語句が初登場した映画『ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国』(10年)においては、ウルトラマンゼロが宇宙の果てを突破して宇宙の外へと出たならば、そこは「泡」状で表現された多数の宇宙が浮遊している高次元世界でもあったのだ! といったかたちで、「マルチバース」を眼で見てもわかるかたちで説明することができていたのだ。
 本作と同時期に公開されている「アベンジャーズ」シリーズの映画『ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス』(22年)でも、キャラクターが突き飛ばされるや「膜」や「壁」を突き破っていくような表現で隣の並行宇宙へ、そのまた隣の並行宇宙へ、そのまた隣の隣の並行宇宙へと、あくまでも「横」方向へと移動していくサマが、実に通俗的な眼で見てもわかる表現で描かれてもいた――上・下・斜め方向で並行宇宙を越境していく映像表現は混乱を招くためにかあまりなかった(笑)――。


 そういった意味では、これらの語句はムダに観客をモヤモヤとさせてしまっているところもあったのではなかろうか? やはり、パソコンの画面なりプロジェクターに映したEXCELやパワーポイントの資料でもイイので(笑)、複数のタテ棒線として表現された「膜」から隣の「膜」なり、そのまた隣の「膜」なりへとゼットンをハジき飛ばしてみせるような、そして「膜」と「膜」との間のスキ間が5次元や6次元以上の高次元空間なのですヨ~、といった作戦図案なども見せてほしかったモノなのだ。


 ただし、あとになって思うに、メフィラス星人もまたプランク・ブレーンにベーターボックスを収納しているとも云っていた。ウルトラマンこと神永はそのベーターボックスを強奪するために、ボックスの初回被験者として一度は巨人化させられたヒロインの体臭(汗)をよすがに、変身アイテム・ベーターカプセルを焚いて現世から姿を消してみせていた……ということは、ウルトラマン自身も並行宇宙はともかくプランク・ブレーンまでは転移することが可能だという意味でもあるのだ。
 このプランク・ブレーンとはもちろん「3次元世界」以外の「別次元世界」ではあるけど、「並行宇宙」というワケでもなく、我らが「3次元世界」に近接した「超空間」ならぬ「亜空間」(不完全空間)のようなモノではなかろうか? すると、プランク・ブレーンとは、あまたの並行宇宙の中のひとつとしての大宇宙のことではなく、棚・ロッカー・押し入れ(笑)のような用途にしか満たすことができない「プランク長」(極小)の閉鎖空間のようなモノなのであろうか?
 そして、そのプランク・ブレーン自体にさらに「穴」を開けることで、いわゆる我々が想定するパラレルワールド=並行宇宙にも通じる「ゲート」「門」にも成りうるのだ……といったような整理となるのであろうか?


 ……延々と書いてきたところで改めてググってみたところ、NASA帰りのお姉ちゃんYouTuberの動画によればソレは「造語」だとの記述があった。一方で、別人による「博士学位論文」などもヒットした。それによると「プランク・ブレーン」は「造語」ではなく正式な「学術用語」であった。正の張力を持ったブレーンを「プランク・ブレーン」(UVブレーン)、負の張力を持ったブレーンを「TeVブレーン」(IRブレーン)とも呼んで、前者から後者へ進むにつれてエネルギー(質量)のレッド・シフト(赤方偏移)が起きるのだそうな……(理解不能・汗)。


 ウルトラマンがその巨人としての身体(本体?)をプランク・ブレーンから召喚していたり、メフィラス星人もまたソレとも同様なのかもしれないともなると、ウルトラマンメフィラス星人もまた「3次元生命」ではなく「高次元生命」であった可能性が浮上してきてしまう。
 そうなると、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(17年)における、原典での「反物質」組成では今の時代にいくらナンでも……と、その惑星上の全知性体が進化の果てに精神生命体へと融合、あまたの並行宇宙を一瞥できるほどの「高次元存在」へと改変されたかたちで登場した、かの神田沙也加が演じた宇宙の美女・テレサなども想起されてきてしまう。


 しかし、そこまでの高次元な存在になってしまうと、並行宇宙を越境することすら容易な超越存在になってしまって、天体制圧用最終兵器・ゼットンを苦もなく並行宇宙へと排除することも可能になってしまうことで、本作終盤におけるゼットンにまつわる展開とも矛盾が生じてしまうのだ。
 よって、やはり本作におけるウルトラマンもまた、並行宇宙を越境可能なほどの高位な高次元存在、万能の存在などではないのだろう。


 本作においても、ウルトラマンこと神永が、ウルトラマン自身のことを「万能の神ではない。君たちと同じ、命を持つ生命体だ」とも述べている。そう、ウルトラマン自身はもちろん人間とは異なる「神近き者」ではあったとしても、この天地や宇宙や並行宇宙それ自体を創造した「造物主」「唯一絶対神」などではなかったのだ。
 こうした「ウルトラマン観」もまた、腐れウルトラオタクであれば、『ウルトラマンメビウス』#3にてウルトラマンを「限りある命」を持った存在だとして復習し直したことや、映画『ウルトラマンメビウスウルトラ兄弟』(共に06年)でも初代ウルトラマンが自分たちのことを指して「ウルトラマンも神ではない。救えなかった命もある」などと語っていたことをも思い出すであろう。人間と神との中間にある者としてのウルトラマンなのであり、あまたのヒーローもの作品における超人たちなのだ。


――などと云いつつ、本作公開の2ヵ月ちょい前に完結した、並行宇宙(並行世界)を題材としていた『機界戦隊ゼンカイジャー』(21年)終盤においては、並行宇宙全体を創造した神さま(!)が出現して、タイクツを持て余しているというその神さまとも対決していたけど(笑)――


ウルトラマンとの会話でゾーフィがゾフィーに!? 並行宇宙の別人か!?


 並行宇宙へと通じる穴に吸い込まれそうになった、あるいは吸い込まれてしまったウルトラマンがふと気付くと、マーブル模様と化した、またまた別の異空間の中を、力尽きたか仰向けの状態で漂っていた……。
 ウルトラマンの念波を頼りに駆けつけてきたというゾーフィがそこに到着して、ウルトラマンとの会話もはじまる。


 原典の最終回にもあった、とても神秘的で印象的なシーンの再現でもある。昭和のウルトラシリーズは1960年代後半~90年代初頭においては特に関東圏ではほぼエンドレスで再放送がなされていたために、この時代に子供時代を過ごした世代においては、初代『ウルトラマン』最終回の内容などはほぼ共通体験となっており、基礎教養ともなっていた。
 80年代中盤には、コミカルなヘビィメタルバンド・聖飢魔Ⅱ(せいきまつ)のボーカル・デーモン小暮(でーもん・こぐれ)がTVのバラエティ番組などで、原典の最終回における「ウルトラマンゾフィーの会話」をひとりでエコー(音の反響)までをも再現しての披露をしており、大ウケを取っていたことを世代人であれば憶えていることであろう(笑)。 


 しかし本作では、このシーンになるや否や、「ゾーフィ」ではなく「ゾフィー」として呼ばれてもいるのだ(汗)。ベテラン声優・山寺宏一が演じているゾーフィ自身も今までの堅物ブリとはやや異なっているようであって、随分と物わかりのよい軟化した態度でしゃべってもいる。


 コレはドーいうことなのであろうか? アフレコ時の初歩的なミスなのであろうか? しかし、そんな初歩的なミスを犯すのであろうか? ウルトラマン自身も結局は逃げ切れずに、ゼットンともまた別の並行宇宙との狭間にある異空間へと飛ばされてしまったと解釈するならば、ここに登場したゾーフィは先の「ゾーフィ」ともまた別人である並行宇宙から駆けつけてきた「ゾフィー」なのではなかろうか?(汗)


 ……などという、完成フィルムだけでは正解の出しようがない不毛な議論をマニア間で惹起させるために、作り手たちはあえてこのような描写を挿入しており、それを見て彼らはほくそ笑んでいるのではなかろうか? それとも、筆者がひとりで勝手に解釈を暴走させて、彼らの手のひらの上で踊っているだけなのであろうか?(笑)


 すると、神永が目覚めた先で禍特対のメンバーが温かく迎えてくれたラストの世界もまた、本作『シン・ウルトラマン』世界とほぼ同様の事件が起きはしたものの、また別の並行宇宙なのではなかろうか?(汗)


 本作における「声ノ出演」のクレジットは、高橋一生山寺宏一津田健次郎の3名が配されていた。ザラブ星人の声は明らかにあの特徴的なダミ声が印象的な津田健次郎である。よって、ウルトラマンの声は今ではメジャーな俳優・高橋一生が演じていたことになる。氏は00年前後~10年前後のウルトラシリーズへのゲスト出演はもちろん、年長の特撮オタク的には、氏が子役時代に演じた『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(92年)終盤に登場して敵の巨大ロボットも操縦していた、名優・曽我町子が演じた魔女バンドーラの息子・カイのことをも思い出すであろう。


――余談だけれども、マルチバース設定が導入された2010年代以降のTVのウルトラシリーズでは、どの宇宙にも地球が存在してはいるものの、昭和ウルトラの故郷であるM78星雲・光の国はひとつの宇宙にしか存在していない。並行世界においてはM78星雲出自のウルトラ一族は存在しないモノとして扱われている。深読みすれば、これら別世界のM78星雲のウルトラ族たちは20数万年前に彼らの恒星が爆発した際、人工太陽・プラズマスパークを建造できずに絶滅してしまったのであろう(涙)――


ウルトラマンが人間を好いた理由を『野生の思考』に求めることの是非!


 ここで、ゾーフィは原典の最終回でも発していた「ウルトラマン、そんなに人間が好きになったのか」といった有名な言葉を放っている。
 厳密には往時の子供たちは、この言葉にではなく、そのあとにつづく「私は命をふたつ(!)持ってきた。そのひとつをハヤタにやろう!」と云ったセリフの神秘性の方に打たれていた(笑)。先のセリフの方に反応するようになったのは、中高生以上になってからの再観賞ではあっただろう。


 「ここが人間ドラマ的にはキモになるべきだったのであり、このセリフがこの映画の中では説得力には欠けている。ここに係り結び的に集約するように、人間の善性をもっと描いておくべきだったのだ」という批判もまた一応の正論ではあるだろう。
 もちろん、人間の善性それ自体は描かれてはいた。原典の初代ウルトラマンが地球人と合体したのは、#1にて宇宙怪獣ベムラーを追跡中に科特隊の戦闘機と激突してハヤタ隊員を死なせてしまったからだったが、本作ではソレだけでは弱いと思ってか、『帰ってきたウルトラマン』(71年)以降のウルトラシリーズに頻出して、昨今の異世界転生モノでも定番となっている(笑)、他者の生命を救おうとする自己犠牲に感じ入って、ウルトラマンが地球人の青年との合体を遂げるサマを描いていたからだ。


 好意的に解釈してみせれば、ウルトラマンに憑依された神永が人間世界の知見を得ようとして、図書館にて名著『野生の思考』(62年)を高速で読破していたことにも、その一因を求めることはできるだろう。
 多少は哲学・現代思想などにも関心があられる方々であればご存じの通り、1960年代いっぱいまでは隆盛を極めていた「マルクス主義」や「実存主義」を古びさせて一掃していった「構造主義」という哲学がある。『野生の思考』はこの構造主義を一挙に普及させた名著でもあったのだ。


 同書は科学的な「知識」や近代市民社会を構築するための「社会契約」面では欠如した未開人たちにも、彼らなりの哲学や思考の「枠組み」「構造」といった「知恵」は存在していることを解き明かして、単線的な社会進化ではなく文化多元主義的なアプローチをも可能とした論考でもあった。
 日本においても、(学者間ではともかく)多少なりとも知的なモノに関心を持っている層に対しては、「80年代ポストモダン」と称された80年代前中盤の文化ブームの時期に、後続のフランス現代思想であった「ポスト構造主義」や「記号論」などとも併せて紹介されており、ロングセラー書籍『別冊宝島44 現代思想入門』(84年12月1日発行・00年に宝島社文庫化)などでも流布された。不肖のロートルな筆者なども原著などにはもちろん当たってはいないものの、80年代末期に『別冊宝島』で即席のお勉強(笑)などはしたモノであった。この界隈ではワリと有名な著作なので、庵野もまた押さえていた名著だったのであろう。
――ただし、90年代中盤以降はアメリカ仕込みの分類、リベラリズム自由主義)・リバタリアニズム自由至上主義)・コミュニタリアリズム(共同体主義)などといった概念の方がよほど実地に現実社会を説明できるツールだとして人気を集めたことで、これらポストモダン哲学も今では単なる言語遊戯だったとして不人気にはなっているものの(汗)――


 一方で、本作のウルトラマンはゾーフィに向かって「わからないのが人間だ」などとも語ってみせている。それはもちろん、人間たちのことが微塵たりとも理解すらもができない! なぞといった意味では毛頭なくて、矛盾や不条理に群れ社会の中においては必然的に生じてしまう政治劇、恣意的な偶発性・懊悩・悲喜劇なども含めて、トータルでの人間賛歌、そういった群れ社会の中にも人間たちの感情的な多彩さ・繊細さ・ダイナミックさといったモノをも看て取ったという意味なのだとの解釈もしたいのだ。


 実は原典では「そんなに地球人のことが好きになったのか」と云っていたところの「地球人」を、本作では「人間」という語句に置き換えている。腐れウルトラオタクであれば、気付いたことであろう。あえてSF的な「地球人」という語句を避けて、執拗に「人間」という語句を用いていた『ウルトラマンメビウス』という作品もあったことに……。


 同作では、高度な進化の果てにやや達観したメンタルを持ったウルトラ一族とは異なり、劣情をも含めた微細で多彩な感情を持った「人間」からも改めて学んで、自身の心を豊かにして人間力を高めるのだ。一見は愚かしい子供や青年や人間たちの試行錯誤や懊悩に対して理解を深めること、小さな悪や少々の未熟さ程度であれば包摂することで、人間としての器を大きくして、事態の解決にも動いていくことができるようにもなるのだ……。といった趣旨のことを、#1の冒頭にて「ウルトラの父」から諭(さと)されて若きウルトラマンことメビウスが地球へ派遣されるのだ。
 他のジャンル系作品においても、40次元(!)の高みから数km四方の巨大立方体とともに仮初に人間の姿を採って出現した高次元生命体が、よりにもよって日本に出現したことで世界先進各国の疑心暗鬼を招いた末に、交渉相手であったひとりの青年外交官に執着していくSF深夜アニメ『正解するカド』(17年)との相似性なども想起する……。


 しかし、それらのことどもはともかく、主要登場人物や名もなき庶民たちの通俗的でわかりやすいベタな善性描写などまで2時間程度の映画の中に入れてしまうと、半年・1年のTVシリーズであればともかく、ややクドくて煩雑になったり鼻について浮いてしまったのではなかろうか?
 ここの不備についても、本作の全編が『シン・ゴジラ』的な畳み掛けるような「密度感」や「スピード感」にも満たされていれば、ソレにダマされてノセられてしまったかたちで、このセリフが浮いた感じにはならなかったのだ……といった仮説などを、筆者個人は立てていたりもするのだ。


 その意味では、「鳥の目/虫の目」などといった分類項で、昭和ウルトラのアンチテーゼ編にあった後者の欠如をもってして、本作を批判する論法には賛同できない。それらの作品のドラマ性・テーマ性の高さを認めて、筆者も個人的に執着している上でなお、やはりアレらはシリーズの王道が確固として盤石に確立された上でのシリーズ後半における番外エピソードとして光るのだとも主張したい。もっと云うならば、アンチテーゼ編がシリーズの#1や最終回に配されてしまっては光ることもできないのだ。


 なとと云いつつ、庵野が子供や名もなき庶民・大衆のことをスキではない可能性も残る。氏が手掛けた映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』における「第3村」はともかく、原典『新世紀エヴァンゲリオン』における「第3新東京市」や『シン・ゴジラ』には庶民がほぼ登場しなかった。かといって、ガチのオタクである庵野がエリート志向だとも思われない。氏はエリート・大衆の双方にも入れてもらえないアンタッチャブルな最底辺層として我々オタクを捉えて、大衆不信の念を抱いているのではなかろうか? だとすれば、筆者は庵野の心持ちには共感・同意もするのだ(笑)。



 本作では命をふたつは持ってこなかったゾーフィに合わせて、ウルトラマンの精神・魂自体は死んでしまって、その白銀の巨人としての肉体だけを神永に託したと取れるかたちで、この映画の物語を終わらせてもいた。


 森林の中で青白くなって横たわっている神永の死体(!?)を見つめている、神永の姿を採ったウルトラマンが本作では数回、描写されていた――神永が死した瞬間を幻視しているだけ?――。ということは、厳密な意味ではウルトラマンは神永とは融合していないのであろうか?


 往年のウルトラセブンことモロボシ・ダン隊員は、『ウルトラセブン』#17の回想シーンにて、登山中の仲間を救うために自らの命綱を切った地球人の勇敢な青年・薩摩次郎の姿をセブンが模した姿(=逆変身)であったことが明かされていた。この事例などにも準拠して、神永の肉体・着衣の原子配列構造などに彼の記憶までをもコピーしていたとするならば、たとえコピーだとはいえウルトラマンと彼はその精神・魂までをも含めて融合したのだと称してもイイのだとは好意的には解釈できる。
――『正解するカド』では、高次元生命体が人間のコピー生成を試みても、その人格・魂の完全再現まではできなかったとされていたけど(笑)――


ヒロインの扱いはセクハラ!? ヒーローやバトル自体が反ポリコレ的か!?


 長澤まさみが演じた本作のヒロインが、ネット論壇ではPC(ポリティカル・コレクトネス。政治的正しさ)に反するとして論争化している。


●ベーターボックスによって東京駅は丸ノ内近辺に巨人化して出現したヒロインを、下から見上げるようなカメラアングル
ウルトラマンこと神永がベーターボックスを探すために、ボックスの初回被験者であったヒロインの体臭を嗅いでみせるシーン
●ヒロインが自身や同僚女性のお尻を叩いて気合いを入れる描写


 それらが古クサい感性・価値観に基づいたセクハラ的な描写であったり、ステレオタイプで記号的な人物描写だとして、批判もされているのだ。


 筆者個人は鈍感(?)なことに、本作を鑑賞していてもそのようなことは微塵たりとも感じていなかった(汗)。むろん「自身の感性こそが絶対だ」などとは思い上がってはいないので、心の底からそのように思われた方々にはその気持ちやロジック自体は尊重したいとは思うのだ。


 しかし一方で、無意識に新たな「最先端」だと思わせている「ムラ世間」的な「空気」「同調圧力」に屈服・日和(ひよ)ってしまって、後出しでそのような言説を紡いでいる輩もまた相応数はいるのではなかろうか?


 過度にセクシュアルでハラスメントな描写であればともかく、フェティッシュ程度の描写にネタではなくガチでケチをつけてもイイとなると、世間に出回っている青年マンガ誌の表紙における水着女性や映像ソフトなどの扱いもドーなってしまうのであろうか? 不特定多数の一般層に見せる映画として、登場人物同士の「関係性」をも描いた作品であった場合に、それらは問題視されるのであろうか?(多分、彼らに明瞭な理論はない)


 ここ10年ほどの「仮面ライダーシリーズ」や「スーパー戦隊シリーズ」における坂本浩一カントク担当回においては、もちろん子供向け番組での範疇内ではあるけれども、女性キャラをややフェティッシュにも撮影している。アレらはクローズドな規模でしかなかったので、今までは彼らの批判的な目線には入っていなかっただけなのであろうか?(汗)
――かと云って、寝た子を起こして、彼らが自身の言説との整合性を取るために、改めてそれらの弾圧に走らせてしまってもマズいけど(笑)――


 筆者は個人的には本作のヒロインに対する演出・ディレクションに、むしろ逆にイロ気やフェティッシュさの欠如を感じていた。『デザインワークス』での「手記」によれば、庵野自身も同様であったようで、これらのシーンが伏線としては昇華していかなかったために、終盤での神永とヒロインとのライトなキスシーンもカットした旨を語っていた。


 もちろん、本作だけにかぎった話ではないだろうが、ヒロインに対する目線が「男性中心主義」だとの批判は一考には値する。しかし、それを云い出してしまうと、そもそも敵キャラを設定してソレを撃滅するという構図自体が好戦的な「男性中心主義」だとの批判も成立してしまって、このテの活劇作品全般を全否定しなければ、スジも通らなくなってくるのだ。


 人間は「理性的」で「礼節」を兼ね備えた高邁なる存在になるように努力をすべきだとは思う。しかし一方で、動物でもある以上は「捕食/被捕食」といった肉食動物的な「攻撃性」や「マウント性」、生物でもある以上は理性や合理を超えた「リビドー(衝動・性的衝動・生への衝動)」といった非合理的なモノをも兼ね備えていることも認めざるをえないのだ。
 つまるところ、セックス&バイオレンスといったモノから、全員とはいわず大多数の人間は濃淡はあっても完全なる解脱をすることなど出来はしない。後天的な悪しき「男性中心主義」の権力的な文化・風潮によって人間が「攻撃性」や「マウント性」や「階級社会」に染まるのではない。むしろ、先天的に内在していたソレらの爆薬が時にトリガーによって引火してしまうだけであって、引きガネを根本原因であると思うのは愚かなのだ。


 そうした宿痾から人間は逃れられない以上、ガチの殺しあいや戦争ではなくスポーツ・フィクション・ゲームなどで「攻撃性」や「マウント性」を一時的・疑似的に発散させる手法にも大いに理を認めるべきだし、それらはヒトの非合理性をも先回りして網を張っている人間社会の智慧であるとさえ思うのだ。そして、このようなロジックでなければ、特撮ジャンルや娯楽活劇作品全般を擁護することも叶わないであろうとすら思うのだ。
――現実の軍隊に近しいミリタリックな意匠を兼ね備えた作品だけはダメだとして生贄に差し出して、それ以外の作品であれば擁護するといったロジックもまた、絶対平和主義的な論法には最終的には敗北することが必定なのであって、ジャンル自体の根源的な擁護にはならないであろう――


改めて、『シン・ウルトラマン』と「特撮ジャンル」とは何だったのか!?


 いろいろと記してきたが、筆者は個人的には『シン・ゴジラ』を神懸かった大傑作だったとして捉えている。そして、映像作品とは偶然の要素にも左右されるので、『シン・ウルトラマン』が『シン・ゴジラ』の域に達するのはムズカしいとも思っていたし、実際にもダメではないけど映画の中後盤においては神懸かったグルーブ感・流れ・勢いといったモノには少々欠如してしまったようにも感じてはいた。


 その伝で、本作公開の2ヵ月前に封切された、公開時点での最新ウルトラ戦士であるウルトラマントリガー、ライバルヒーロー・ダークトリガー、前作のウルトラ戦士であるウルトラマンゼットが共闘して、新旧の敵とも激闘を繰り広げた映画『ウルトラマントリガー エピソードZ』(22年)や、ウルトラ一族が宇宙狭しと大活躍するネット配信作品『ウルトラギャラクシーファイト』シリーズ(19年~)の方が、映画としても物語としてもまとまりがイイとも思っているし、作品の中後盤においてもテンションがダウンしてしまうような演出的な弱さもなく、その意味で『シン・ウルトラマン』よりも私的には評価をしていたりもするのだ(笑)。


 しかし、それもまた特化したマニアックな観方なのだと云うべきなのであろう。やはり、映画マニアならぬ一般層は演出の精度やまとまりなどではなく、相応にカネをかけたパノラミックな特撮CG映像に、メジャーな役者さんも配置したことで、相乗効果で増幅されていくゴージャスな大作風味の作品に対して、没入したり満腹感を覚えるのだともいえるのだ。
 そこを満たしてくれそうだと予感させて、実際にも大勢の観客に対してそれを満たすことに成功したのであれば、それはまさに映像体験・特撮体験なのである。個人的には細部に今一歩感はあったものの、映像体験に焦点を当てるのであれば、本作はやはり成功していたのだとはいえるのだ。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2022年5月号』(22年5月29日発行)~『仮面特攻隊2022年号』(22年8月13日発行)所収『シン・ウルトラマン』賛否合評9より抜粋)


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