(YouTube『ウルトラマン80』配信・連動連載)
『ウルトラマン80』#48「死神山のスピードランナー」 ~妖怪怪獣の連綿たる系譜!
『ウルトラマン80』#49「80最大のピンチ! 変身! 女ウルトラマン」 ~ユリアン登場
『ウルトラマン80』 総論 ~80総括・あのころ特撮評論は思春期(中二病・笑)だった!
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『ウルトラマン80』第50話「あっ! キリンも象も氷になった!!」 ~実は屈指の大名作!
冷凍怪獣マーゴドン登場
(作・石堂淑朗 監督・満田かずほ 特撮監督・佐川和夫 81年3月25日放映)
(視聴率:関東11.3% 中部14.5% 関西14.7%)
(文・久保達也)
(2011年11月13日脱稿)
本作における怪獣退治の専門組織・UGMが単独で怪獣を撃破! ウルトラマンが実質登場しない最終回! 最後の最後でこんなにも異色な、しかしてテーマ的には高度でもある名作エピソードが登場するとは! 傑作認定には異存はない。しかしてそれは諸刃の剣(もろはのつるぎ)でもあるのだ。そしてこの最終回は、子供たちにも楽しめるエピソードであったのだろうか? この最終回の高邁(こうまい)さと問題点を腑分けして解析してみよう。
ナレーション「九州の南原市、今まさに春の真っ盛りであった。暖かい日差しを浴び、動物たちもノンビリとしていた」
おそらく宮崎県あたりの都市をモデルにしたと思われる架空の都市のイメージシーンで導入部は幕を開ける。ミニチュアの田園都市を上空から「俯瞰(ふかん)」で見下ろしたあと、桜並木や一面の菜の花畑、海岸で戯(たわむ)れる家族の姿など、「春」をイメージさせるカットを連続させて、キリン・アシカ・鳩・ペンギンなどの実写映像の連発で近辺に「動物園」が存在することも、視聴者にイメージさせていく。
ナレーション「ところが、平和なこの町に、奇怪な事件が待っていた!」
ビル群を背景にして、ロン毛にアゴひげを生やして派手な赤いネクタイが目立つ背広姿の胡散(うさん)クサさプンプンの紳士が歩く姿が、真横からバストアップで捉えられる。一瞬、まるでこの男が「奇怪な事件」を巻き起こすかのように視聴者を錯覚させる。しかしこのあと、この男は「被害者」となるので、別にごく普通の平凡なサラリーマンを描けばよいワケなのだが、そこはちょっとしたフェイク演出・兼サプライズ演出によって作品へのツカミとしているのだ。
下から見上げた「煽(あお)り」で撮影されたミニチュアのビル街の上空から白い気体が静かに舞い降りてくる。
胡散クサい紳士が首を傾(かし)げていると、周囲のビル群が次々に凍りついていった!
画面手前の中央には街灯、その両端にヤシの木が画面の奥の方へと林立、その奥にはビル群という、奥行きを感じさせるミニチュアの街が、白い冷気を浴びて一瞬で凍っていく!
この異常事態に伴ってサイレンの警報音が挿入され出すのがまた尋常ではない不穏感も醸(かも)し出していく。
上空から俯瞰されたミニチュアセットが白い冷気を浴びてみるみる凍結していくサマを見せつけたあとに、水道やその下に置かれている洗面器の水が凍る描写をはさんで、水槽で泳いでいる金魚の映像を静止させて、水槽ごと金魚が白く凍結してしまうという表現。さらには動物園のライオン・キリン・象などが全身ツララで覆われた氷のオブジェと化した姿がミニチュアで描かれることで、瞬時に万物が凍結したことが示唆される……
・初代『ウルトラマン』(66年)第25話『怪彗星ツイフォン』に登場した冷凍怪獣ギガス
・『ウルトラセブン』(67年)第25話『零下140度の対決』に登場した凍結怪獣ガンダー
・『帰ってきたウルトラマン』(71年)第40話『冬の怪奇シリーズ まぼろしの雪女』に登場した雪女怪獣スノーゴン
・『ウルトラマンA(エース)』(72年)第42話『冬の怪奇シリーズ 神秘! 怪獣ウーの復活』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20070209/p1)に登場した氷超獣アイスロン
・『ザ★ウルトラマン』(79年)第1話『新しいヒーローの誕生!!』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090505/p1)に登場した冷凍怪獣シーグラ
それまでの昭和ウルトラシリーズにも、冷凍怪獣は登場してきた。
上記はビル街のセットが組まれない山間部や平原などに登場した冷凍怪獣の例だが、
・『ウルトラQ』(66年)第14話『東京氷河期』に登場した冷凍怪獣ペギラ
・『帰ってきた』第39話『冬の怪奇シリーズ 20世紀の雪男』に登場した雪男星人バルダック星人
・『ウルトラマンタロウ』(73年)第36話『ひきょうもの! 花嫁は泣いた』に登場したねこ舌星人グロスト
など、都会を凍らせた冷凍怪獣の事例も存在してはいる。
今回は最終回で、次回以降の撮影での都合を考慮する必要もないことからか、特撮スタジオの背景であるホリゾントの空の色もまさに「真冬の空」を思わせる「やや薄暗い青色」に塗られている――広大なホリゾントの全面をスプレーで塗装したり、また青空に塗り直して乾かすのにも数日は要することだろう・汗――。70年代初頭のフォークソング、70年代後半以降はニューミュージック、それ以降も日本の音楽シーンを牽引してきたシンガーソングライター・井上陽水(いのうえ・ようすい)初期のミリオンセラー歌曲(73年)ではないが、まさに「氷の世界」といったところだ。
オオヤマ「九州の南原市が突然の異常寒波に襲われた。小坂隊員」
ユリ子「はい」
オオヤマ「気象班としての意見は?」
ユリ子「原因はわかりません。ひょっとすると……」
・第36話『がんばれ! クワガタ越冬隊』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20110101/p1)では大気の層の温度差によって生じる光の屈折である「逆転現象」
・第47話『魔のグローブ 落し物にご用心!!』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210224/p1)では「オゾン層」
科学的なレクチャーをする際には、石堂脚本回では小坂ユリ子隊員が気象班の面目躍如(めんぼくやくじょ)とばかりの活躍を見せることが多い。
イケダ「な~に。もし怪獣だったら、オレたちUGMが一発でなぁ、ポ~ン!! アハハハハ……」
イケダ隊員はフジモリ隊員に頭突きをカマすポーズを見せて、それに対してフジモリ隊員はイケダ隊員の頭にゲンコツをカマすポーズを見せる。ノーテンキに爆笑するふたりだったが……
オオヤマ「イケダ! フジモリ! 軽々しい口を叩くな!」
イケダ「ハイ!」
フジモリ「はぁ……」
返事の仕方ひとつを取っても、両者のキャラクターの描き分けをすることも忘れない(笑)。
オオヤマ「果たしてこれまで怪獣を倒してきたのは、本当に我々だっただろうか……? とにかく南原市に異常事態が起こっている。いつでも出動できるよう待機だ!」
一同「了解!」
「これまで怪獣を倒してきたのは、本当に我々だっただろうか……?」。さりげにウルトラシリーズの根源的な問題点についてサラッと言及してみせている。そう、ウルトラシリーズで怪獣を倒してきたのは、怪獣攻撃を旨(むね)とする地球人による防衛組織ではなく、それは基本的には巨大超人である宇宙人・ウルトラマンが倒してきたのだ。そして、それはまた地球人による防衛組織の存在意義、ひいては地球人自身による努力自体は基本的には徒労であるどころかムダでさえあるのかもしれない……という疑問符は、幼児はともかく児童であれば誰もが脳裏には微量に浮かんでいて、時に口に出してさえいる(爆)根本矛盾ですらある。
この一連の場面では、一同がそろっているUGM作戦室を螺旋状の階段の踊り場越しで捉えている。いつもとは異なった凝ったカメラアングルを採用することで、いつもの舞台でありながらも、いつもとは異なる深刻なムードを微量に生じさせる「異化作用」も発揮して、映像面でも画面への求心力を高めていく……
続けて、UGM広報班のセラ隊員が司令室に入室してくる。その際、赤いランプが明滅している計器盤を画面の下手前に配して、それ越しの煽りで一同を捉えてみせるといった、さりげに凝ったカメラアングルの連発も!――一般に人々は赤ランプに警告的な意味を感じてしまうものなので、それが視聴者にも通常回とは異なる微量な不穏感をも増している――
「実は企画書を作っている段階から、全体の3分の1くらいは自分で監督したいと思っていたんだよね。ところが社内のプロデューサーはみんな手いっぱいの状態だったので、結局自分がやらざるを得なくなってしまった。それでも途中で監督できるだろうと思っていたんだけれど、番組が始まったらもう準備、準備で忙しくて。それで結局最終回になっちゃったわけ。最終回なら次の準備もないからね(笑)」
本作『80』では円谷プロ側のプロデューサーを務めていた満田氏がウルトラシリーズを監督するのは、実に『ウルトラマンA』(72年)第1話『輝け! ウルトラ五兄弟』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060514/p1)~第2話『大超獣を越えてゆけ!』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060515/p1)を、筧正典(かけい・まさのり)監督と共同で担当して以来のことである。本来は監督出身である満田プロデューサーによる今回の本編演出は、久しぶりの登板で以前から試してみたかったのであろう奇抜なカメラアングルなど、実に本領発揮といった感もある。結果的にこの『80』最終回が氏の監督作としては最後のものになってしまったが……
セラ「南原市の住民はみんな避難したそうです」
オオヤマ「ン」
作戦室から出ていくオオヤマキャップ。
しかし、振り向きザマに矢的をジッと見つめることで、ふたりの間に緊張の時間が流れる!
矢的「(心の声)キャップは何かを心に決めているようだ。もしかしたら、ウルトラマンエイティの……」
もちろんこのセリフは、「キャップはもしかしたらウルトラマンエイティの正体が僕(矢的)だと見抜いているのかもしれない……」という意味である。しかし、それを皆まで云わせないのがミソなのだ。そして、幼児はともかく児童であれば、その省略されて口にはしなかった発言が何であったのか? といった程度のことは容易に推測がつくだろう。
劇中内ではこの時点ではあくまでも矢的の仮説にすぎない。しかも、その仮説もハッキリと言明されてしまっては、後々のストーリー展開もまたミエミエとなってしまって、ここでシラケさせてしまったことだろう。のちのストーリーの伏線として機能させつつも、ミエミエのストーリー展開にさせるワケにもいかない。その中間の微妙なあわいに位置させる塩加減とするためにも、このセリフの末尾は省略技法こそが望ましい……
しかし、それだけでも視聴者に与える「印象」としてはやや弱くなってしまう。そのせいだろうか次のシーンでは、内心では自身の正体がウルトラマンエイティであることがオオヤマキャップにはバレている懸念を浮上させていた矢的のバストショットに対して、画面左右の両サイドから「UGM」のロゴが入った自動ドアが閉じてきて無情にもピシャッ! と閉まってしまうというプチ・ショッキング演出も!――シナリオではなく本編演出側での裁量だろうと憶測――
矢的とオオヤマキャップの間に生じた小さな「距離感」が、そして本エピソード自体にも小さな「不穏感」を生じさせる演出でもある。これは別に両者の決定的な「決裂」や「対決」を描いているワケではない。
けれど、「娯楽活劇作品」や「変身ヒーローもの」といった範疇を超えた「人間ドラマ」一般というものは、このような小さな「不和」や「不穏」にもスポットを当ててみせて、そこで人間同士の葛藤(かっとう)ドラマをつくって、視聴者にも何かを感じさせていくものでもあるのだ。
そのころ、南原市に全身がフサフサとした白くて長い体毛で覆われた、古代に絶滅した寒冷地帯の象・マンモスが巨大変異化したような化け物と形容するのがピッタリな冷凍怪獣マーゴドンが出現していた! 南原市を「氷の世界」にしたのは、細長い鼻から冷凍ガスを、全身からは白い冷気を噴出する、この怪獣の仕業(しわざ)だったのだ!
基地アナウンス「UGM、発進ゲートへ! UGM、発進ゲートへ!」
点滅する赤い警報ランプがアップで撮られて、その赤い光に顔面が照らされているイトウチーフが、
「行くぞ!」
とヘルメットを小脇に抱えたUGM隊員たちを先導して、基地内の通路を画面手前に進んでくるサマは、怪獣退治の専門家集団である彼らのカッコよさが、久々に引き出されてもおり、実にヒロイックな場面に仕上がっている。
そして、本作『80』のシリーズ後半では長らく流用されてこなかった、戦闘機がズラっと並んでいてその中を作業用の車両も行き交っている様子までもが確認できる、地球防衛軍・極東エリア基地の広大な野外飛行場をガラス窓越しに眺望しながら、その手前には管制塔内でパネル操作をしながら通信もしているオペレーターたちを合成したバンクフィルムも久々に流される。そのバンクフィルムと、戦闘機シルバーガル・スカイハイヤー・エースフライヤーの発進場面、それら各機に搭乗するオオヤマと矢的・フジモリ・イケダ・イトウの姿を交錯させていくという、実にカッコいいワンダバ演出!
――公式設定か否か、企画書にも書かれていたか否かは不明だが、『80』放映開始当初の児童誌『てれびくん』には、この極東エリア基地は神奈川県厚木市(あつぎし)付近にあるというキャプションが付いていたと記憶する。いわゆる広大な飛行場を有している米軍厚木基地に措定(そてい)させているのだろうが、『80』の世界ではこの厚木基地が日本に返還されているのだろうか?(笑) 『80』第1クールの「学校編」の舞台を東京都世田谷区あたりだとすると、矢的が都心からUGM基地に移動するのにも1時間くらいはかかってしまいそうだが(汗)。余談になるが、厚木基地は実際には厚木市には存在していない。厚木市の東側の2つ隣の市町村に所在しているのだ・笑――
シルバーガル1機・スカイハイヤー1機・エースフライヤー2機が4機編隊で飛行する!――それらを側面から撮影したカットでは、画面の手前に鉄塔や工場の煙突なども配置する――
・マーゴドンが長い鼻から冷凍ガスを吹きかける姿!
・凍りついたビルに合成で黒いヒビ割れが入る描写!
・爆発四散するビル!
凍結した地面をスベるように(!)ビルへと突進していくマーゴドン!
その画面の手前には、例によって「歩道橋」「電話ボックス」「民家」などのミニチュアも配置することで、対比としての「奥行き」と怪獣の「巨大感」もが強調されている。
当のUGMが九州へと急行しようとしている間にも、マーゴドンは猛威を奮い続けている! といった時間の流れも感じさせており、いやがおうでも緊迫感を煽り立ててくる。
画面の左奥にいるマーゴドン、その手前に広がる凍結した市街地、そこに画面の右手の方からスカイハイヤー・シルバーガルが飛行してくることで、UGMがようやく現地に到着したことも表現されている。
オオヤマ「全機攻撃!!」
合図とともに、操縦悍が左に切られる描写のあと、4機が一斉に画面の手前に向かって、きれいに並んで降下していくサマも映し出される。
第47話『魔のグローブ 落し物にご用心!!』評(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210224/p1)でもそのインタビューを引用させていただいたが、同話の監督を務めていた東條昭平(とうじょう・しょうへい)監督は、佐川和夫特撮監督のことを「飛行機の飛びをやらせたら、あの人はピカイチ」だと賞賛していた。佐川特撮監督がパイロット編の特撮を担当した『ウルトラマンA』(72年)第1話『輝け! ウルトラ五兄弟』や『ウルトラマンタロウ』(73年)第1話『ウルトラの母は太陽のように』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20071202/p1)でも、いわゆる戦闘機の「飛び特撮」が印象的だった。1960年代後半に製作された第1期ウルトラシリーズ至上主義の風潮が特撮マニア間では強かった20世紀のむかしでも、佐川特撮監督による気持ちのよい滑空表現を達成した戦闘機の特撮だけは、彼らの間でも実に評価が高かったことをも思い出す。
矢的「発射!!」
オオヤマキャップが操縦するシルバーガルの後部座席で、マーゴドンに向けて攻撃ボタンを押す矢的隊員!
イケダ「発射!!」
エースフライヤーに搭乗しているイケダ隊員も、マーゴドンに攻撃を加える!
イトウ「発射!!」
イトウチーフが搭乗するもう1機のエースフライヤー! そのコクピットからの主観アングルでマーゴドンに迫っていくという特撮カットも描かれる!
続けて、シルバーガルの操縦悍が右に切られる様子がアップで映し出されて、シルバーガルが右旋回していく描写、加えてマーゴドンに攻撃を仕掛けるといったカットの連続も!
フジモリ「発射!!」
フジモリ隊員が搭乗するスカイハイヤーがマーゴドンを攻撃!
だが、マーゴドンはUGMが浴びせる攻撃をすべて体内に吸収してしまうのだ!
マーゴドンの着ぐるみから着火した火薬のフィルム撮影を逆回転させているだけの映像であるのは、当時の子供たちにもミエミエで、ややショボくはあるのだが(笑)。
スカイハイヤーの操縦悍が上へと切られる描写がアップで映し出されたのに続いて、スカイハイヤーがマーゴドンの手前で急上昇!
フジモリ「これは驚いた!」
マニアの視聴者もそう叫びたくなるほど(笑)、今回の満田かずほ監督による本編演出は、おそらく氏自身が少なくとも戦闘機特撮とのカットバックが必要となるシーンについてだけは、特撮カットも含めて「絵コンテ」を描いて、それに合う戦闘機カットを佐川和夫特撮監督に撮ってもらうように指示出ししていたのだと推測する。
もちろんフジモリ隊員が驚いていたのは、本編と特撮を融合させた戦闘機特撮のことではなく、マーゴドンの特異な習性のことである。
イトウ「エネルギーを全部、吸っちまってるぞ!」
ついにオオヤマキャップが決断をくだす!
オオヤマ「垂直降下して怪獣に接近するぞ!」
矢的「キャップ! それはちょっとムチャじゃありませんか!?」
オオヤマ「人間にはできないというのか!?」(!)
矢的「(心の声)やはりいつものオオヤマキャップとは、なにか違う!」
「人間にはできないというのか!?」 それは学校でも習った文法用語で云うならば「反実仮想」の表現であり、「人間ではなく宇宙人にならばできるというのか!?」という意味をも言外には込めているのだ。
シルバーガルが垂直降下していく様子が煽りで撮られて、機体底部の前方1ヶ所・後方2ヶ所から白いジェットが噴出して浮遊する。
画面の左奥にはマーゴドンを配して、右手前にジェット噴出によって自由落下していく速度を低減させているシルバーガルが地上へと降下していく姿も捉えられる。そして、ここでも画面手前にはフェンスを配置することで、「遠近感」が強調されたカットとなっている。
オオヤマ「発射!!」
地上からマーゴドンへの射撃をはじめるシルバーガル!
だが、やはりマーゴドンはシルバーガルの攻撃をすべて吸収! 逆にシルバーガルに猛烈な吹雪を浴びせかけてきた!!
吹雪の勢いに押されて、地表を回転しながら吹き飛ばされていくシルバーガル!
オオヤマ「緊急発進!!」
矢的「了解!!」
オオヤマキャップが操縦悍を握りしめている姿が見えるシルバーガルのコクピットのキャノピー(風防ガラス)には、白いスプレーも吹きつけられて、空気中の水分が凍結して付着したサマも手を抜くことなくきちんと表現することで臨場感も高めている! 通常は固定カメラで撮影されがちな戦闘機のコクピットが画面右へと流れていく様子も側面から捉えられている。カメラだけを移動させているのか、スタッフ総出でコクピットのセットも押して動かしているのかまでは不明だが(笑)。
シルバーガルのアフターバーナー部分が光って、そこから離陸のためのジェットが噴射されていることが表現される!
白い冷気と吹雪の中で、後方から迫ってくるマーゴドンの巨体の脅威! マジでそのご尊顔がコワく見えてくる(汗)。
その手前を地上スレスレに画面手前に向かって飛行をはじめるシルバーガル!
画面の右奥には小さなシルバーガルを後方から捉える。
その左手前には意外にシッポが長く造形されていることがわかるマーゴドンの巨体を背面から撮影する。
畳み掛けるようなカットの連続が、オオヤマキャップと矢的に迫っている危機を煽り立てる!
矢的「ダメです! スリップして飛び上がれません!」
画面の奥にビル群を配した猛吹雪の中で、豪雪に埋もれた地表スレスレに手前を画面右へと滑走していくシルバーガル!
マーゴドンがその長い鼻から冷凍ガスを放つサマを側面からアップで描写!
シルバーガルの操縦悍を上方に引くサマがアップで捉えられる!
アフターバーナーを光らせて、画面右へと進んでいくシルバーガルを右後方から描写!
それに合わせて、オオヤマキャップが操縦するシルバーガルの実物大のコクピットが画面右へと移動していくかのように描写されていく!
画面の左手前には民家、中央手前には電柱、その電柱からは画面右方に向かって電線も伸びており、その下にはところどころに樹木が植えられた屏が並行して配置されている、立体感ある配置での特撮ミニチュアセット。
その中で、シルバーガルを追ってくるマーゴドンが画面中央の奥に背面から撮られている。
背景も見えないほどに真っ白になったミニチュアセットの中で、雪に埋もれた地上をスリップするかのように画面の右側へと進んでいくシルバーガル!
なおもシルバーガルに迫ってくるマーゴドンの表情が側面からのアップで映される!
画面の左奥にいるマーゴドンが、その前をシルバーガルが画面手前に向かって進んでくる!
もう何も見えないほどに、ミニチュアセットは白銀の世界となっている!
シルバーガルの操縦悍を上に引くサマが再びアップになる!
そしてシルバーガルのアフターバーナーが大きく光るサマがアップで映し出されることで、エンジンが最大出力でのジェットも噴射されていることを表現!
ナレーション「接近した怪獣を反動の壁にし(!)、シルバーガルはかろうじて脱出した!」
画面左奥にマーゴドンを配したミニチュアセットの中から、シルバーガルが画面右上空へと急上昇を遂げていく!
接近してきた怪獣自体を「反動」の壁とすることで、推進力を高めて脱出できたとするあたりもまた科学的なリアリティーを醸してくる。
本編班による操縦席のカットと特撮班による特撮カットを歯切れ良く切り替えて、「本編」と「特撮」を一体化させていく一連は、緊迫感も最高に煽り立てており、本エピソードの特撮面での最大の見せ場だと云っても過言ではないだろう。
ただし欲を云うならば、スカイハイヤーが設定では両翼と機首を折り畳んで「戦車」形態へと変型可能と設定されており、玩具もそのような変型機能を有しながらも、結局は劇中では未登場で終わっていたので、今回のようなシチュエーションでこそ「戦車」形態でのバトルを観たかった気もする――いかにも玩具的で非リアルではあっても、こういうところに子供たちも喜ぶものなので――。
無事に脱出に成功したシルバーガルに、イトウチーフが搭乗する戦闘機・エースフライヤーが左旋回しながら近づいてくる……
イトウ「キャップ、大丈夫ですか!?」
オオヤマ「大丈夫だ! いったん基地へ戻る。作戦の立て直しだ」
イトウ「了解!」
画面の左に飛行するシルバーガル、右にイトウチーフが操縦するエースフライヤー、左手からイケダ隊員が搭乗するもう1機のエースフライヤー、右手からはスカイハイヤーも加わって、4機がそろって画面手前に向かって飛行してくる、実にカッコいい編隊飛行の特撮カットもここで披露されている。
続けて、凍結したビル群や民家が立ち並んでいるミニチュアセットの左手前に、白い冷気ガスを吹き続けている怪獣マーゴドン!
その上空の画面奥には飛行している4機編隊のUGM戦闘機!
ここでも「奥行き」と「距離感」が強調された立体的な画面が「一幅の絵画」になっている感もある。
暴れ続けるマーゴドン!
その手前に配されている電柱から伸びている電線にまで、ツララがブラ下がっているあたりは(!)、たとえ特撮美術監督がクドクドと指示など出さなくても、特撮美術スタッフたちが最後にしてみせた自発的な頑張りだろうと思われる――おそらく彼らは美大(美術大学)などから集めてきた凝り性な学生バイトたちなのでは?――。
ナレーション「冷凍怪獣はマーゴドンと名づけられ、UGMの総力をあげて、データが分析調査された。そして、その結果が出た」
よくヌルい特撮マニアや怪獣映画世代の一般大衆が、怪獣に最初から名前がついているのはオカシい! そのへんの命名過程をていねいに描写した怪獣映画である平成『ガメラ』シリーズ(95~99年)はスゴい! なぞとのたまってきた。本エピソードにかぎった話ではないのだが、ウルトラシリーズでも時々、ゲスト怪獣に対する命名過程がていねいに描写されていたことは、賢明なる読者諸氏はご承知のことだろう。
そしてここでまた、オオヤマキャップ・イトウチーフ・ユリ子隊員の姿が見えているUGM作戦室が、階段の踊り場から俯瞰で映し出されている。画面左手前から階段を降りてきた星涼子隊員の姿も捉えられるが、いったん見えなくなって、しばらくしてから作戦室内にその姿を現わすといった、アングルの外にもある空間の広がりも感じさせる、実に凝った構図による演出もなされている。
「特撮」や「戦闘」といった見せ場でなくても、ちょっとしたアングルで、幼児やあるいは大人でも画面への求心力、ひいては作品への集中力を高めていくものなのだ。特撮ジャンルにかぎらず、映画やテレビドラマやアニメなどの映像作品全般の「本質」というものは、まさにこのさまざまな手練手管で――「映像」「会話劇」「ストーリー」「演出」「芝居」のもろもろで――、視聴者をまずは「画面」へと「吸引」していくことの絶え間のない連発、そして「画面」の中で生じている「時間」の「流れ」を局所的に切り取って引き延ばしたり、時に省略技法でちょっと先の時間へと飛ばすことでの「コンティニュイティー」、つまりは事物・被写体の「動き」や「流れ」や「継続」の一連のことでもあるのだ!
涼子「キャップ、最終データです」
オオヤマ「みんな」
計器に目を向けていたフジモリ・イケダ・セラが振り返って、オオヤマキャップに歩み寄ろうとする。
この3人の姿もまた、階段のフェンス越しに、踊り場からの主観で低位置にカメラを据えて撮られている。
オオヤマ「ああ、そのまま聞け。今度の怪獣は、地球のように炎のある暖かい星のエネルギーを片っ端から吸い取って冷凍にしてしまう、宇宙から来たスゴいヤツだ。一刻も早く怪獣を始末しなければ、日本はもちろん地球全体が確実に破滅して、暗黒の星になってしまう!」
この場面でのオオヤマキャップは、ユリ子隊員の背面越しの画面奥にいるかたちで撮られており――そのまた右奥にはイケダとセラの姿がある――、その手前のデスク中央にはUGMの宇宙戦艦・スペースマミーの模型が置かれて、その左に置かれた地球儀を先のセリフとともに回してみせる様子がアップで撮られることで、「アングル」と「小芝居」の両者も両立させている。ただし、この地球儀自体は子供向けの市販の安っぽいものに見えてしまうのがタマにキズなのだが(笑)。
オオヤマ「これは私も予想だにしなかった、太陽系全体の破滅に結びつくかもしれん。万一そうなれば、それは皆、我々UGMの責任だ。我々はこれまで色々な怪獣と戦ってきた。しかし今度のヤツこそ最大で最後のものだと思う。ヤツに勝てば、もうUGMは無敵だ!」
単なる「地球」規模での危機ではなく「太陽系」規模での危機! そのような言葉を使うことで、舞台それ自体は単なる九州の一地方都市ではあっても、最終回ひいては第3期ウルトラシリーズのいったんの終焉(しゅうえん)にもふさわしいスケールの大きさを、少しでも視聴者に感じさせようとしているのだ。
太陽系規模での大カタストロフを描いた作品といえば、アーサー・C・クラークによる古典SF小説『太陽系最後の日』(1946年)などが想起される。日本のSF小説であれば、「東京」には改称されずに「江戸」という地名のままで維新を迎えて西暦1999年へと至った並行宇宙の地球に、「太陽系消滅」の流言飛語が飛んだ末に、全宇宙の破壊と消滅をもくろむ幻魔(げんま)一族が襲撃してきて地球も滅亡! 幻魔に対抗できる超能力者たちを播種によって増やすために江戸時代にタイムリープすることで、分岐並行宇宙を創造する『新幻魔大戦』(1971年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20160521/p1)なども想起する。
――ここで誕生した並行宇宙が、先行する「週刊少年マガジン」連載の1967~68年を舞台とした漫画版『幻魔大戦』(1967年・79年に小説化)や、また別の歴史のやり直しによる分岐並行宇宙での1979年を舞台とする『真幻魔大戦』(79年)の世界の母胎となっている――
ウルトラシリーズでも宇宙の星々をも食してしまうという超巨大怪獣である暗黒怪獣バキューモンといった存在が、本エピソードも担当した石堂淑朗(いしどう・としろう)先生の筆によって描かれたこともある。しかし、戦前生まれの世代一般に共通することなのだが、石堂先生にはやはりあまりSFセンスがなかったのだというべきか、あるいはそれを映像化してみせる同じく戦前生まれの特撮スタッフ側でのテクニックや映像イメージがやや貧困であったというべきか、設定相応にスケールが大きいストーリーやスペクタクルな特撮映像が達成できずに、いつもの必殺技・ウルトラブレスレットで打倒してしまうあたりで、肩すかしの感が否めなかったものではある……
この暗黒怪獣バキューモンの現代的なアップ・トゥ・デート版が、同じように星々を喰らってしまうほどの超巨大天体がラスボスの正体であった、後年の平成ウルトラシリーズ『ウルトラマンダイナ』(97年)の第49話、そのサブタイトルもそのものズバリである『最終章Ⅱ 太陽系消滅』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971211/p1)に登場した、地球の直径の2倍のサイズ(!)を有する暗黒惑星グランスフィアだろう。その暗黒惑星グランスフィアも結局は、渾身の力を振り絞ったとはいえウルトラマンダイナのいつもの両腕を十字に組んで放つ必殺技・ソルジェント光線で倒してしまえるのには、昭和ウルトラ同様のパワーバランス的な疑問が個人的には生じたものだけど(笑)。
イケダ「いやぁ、最悪の場合はウルトラマンエイティに……」
セラ「そうそう、ウルトラマンエイティ様におすがりして……」
怪獣退治の専門家としては職務放棄にも近しい不謹慎な発言だが、最終回でもその元からのキャラクターにふさわしく「笑い」をとろうとしてみせるふたり。手を合わせて頭を下げて拝んでいるポーズも含めて、息もピッタリの演技である(笑)。
オオヤマ「バカもん!!」
モノスゴい剣幕に、おもわず抱き合ってしまうイケダとセラ(笑)。
オオヤマ「もうウルトラマンエイティは現われない!」
鋭い目つきで矢的に視線をやるオオヤマキャップ!
ギョッとしてオオヤマキャップと目を合わせる矢的!
オオヤマ「エイティの助けはいらない! 断固としてエイティの力を借りないで、怪獣をやっつける!」
オオヤマキャップのただならぬ様子に、互いに見つめ合って再びオオヤマに目をやる、その正体はエイティでもある矢的隊員と同じくウルトラ一族の王女・ユリアンでもある涼子隊員。
フジモリ「キャップ、攻撃したエネルギーを吸収してすべて冷たくしてしまうんだから、手がつけられませんねぇ」
ユリ子「キャップ、冷たいものは原則として硬く、モロくなっています。その性質を利用した怪獣作戦はありませんか?」
イトウ「ウ~ン、硬くてモロいか。ウン、硬くてモロいのは、セラの頭ぐらいかな?」
セラ「硬いけどモロくはありません! ワァ~~~っ!!」
石堂脚本回でのイトウチーフ像は、武張っていて頭脳派ではないゆえにムズカしい科学的な話などはできずに、その手の話になるとトンチンカンな発言をしたり、理解ができずに眠ってしまったりするボケキャラ(笑)、つまりは場面の緊張緩和の役回りを与えられることが多かった。しかしこのシーンでは、「天然としてのボケ」ではなく、オオヤマキャップの剣幕によって生じた張り詰めすぎてしまった「場の空気」を、彼が逆にメンバー全員への「気遣い」「心配り」として緩和してみせようとして、あえて「演技としてのボケ」や「三枚目」を演じてみせている……といったあたりで、おそらくはその意味するところは異なるのだ。
この一連でも、階段の踊り場からの主観で、UGM隊員一同を捉えるアングルになっている。そのねらいは先にも指摘した通りだろう。
そんな作戦会議をしている最中にも、南原市では猛威をふるっている強敵怪獣マーゴドン!
立ち並んでいる街灯を手前に配して、画面の中央奥にあるビルに、マーゴドンは意外にもジャンプすることで、その巨体でのしかかってくる!
その体重でたまらず崩れていくビルの手前にも歩道橋を配することで、常に対比物も配置して画面構成を片時も単調にはさせていない。
イトウ「キャップ、こないだパトロールのとき、古いビルを壊していましたね」
首に巻いて下げる細い金属製の鎖(クサリ)がついたペンダントを示して、オオヤマキャップに語りかけてくるイトウチーフ。
ピントをボカしたイトウチーフのご尊顔の手前で、振り子のように揺れているペンダントがアップでピントも合っていく。
オオヤマ「そうか、ビルを壊すアイツか!」
ナレーション「ビル取り壊し用の鉄の球(たま)を使って、ジャイアントボール作戦が開始された。鉄の球で怪獣を打ち砕く作戦だ」
イトウチーフとイケダ隊員が搭乗するシルバーガルと、フジモリ隊員が搭乗するスカイハイヤーの2機が、左右からワイヤーで鉄の球を吊り下げて、南原市へと再出撃する!
画面下の手前にある鉄塔や工場の煙突などを「鉄球」がカスめるように2機が飛行していくという画面構図もカッコいい。
UGM作戦室でそれを固唾(かたず)を飲んで見守っているオオヤマキャップ・矢的・涼子・ユリ子・セラ。
オオヤマ「よし、次の揺れで行くぞ!」
イトウ「了解!!」
オオヤマ「よ~し、Go(ゴー)!!」
ここでまた、操縦悍を上に引く描写がアップで撮られる!
マーゴドンはシルバーガルとスカイハイヤーに冷凍ガスを浴びせかけてくる!
しかし、ここでシルバーガルのワイヤーから、鉄球を吊り下げていた鎖がハズれてしまった!!
イトウ「しまった!!」
冷凍ガスの猛威でたまらず地上へと落下していくシルバーガル!
その手前に配されている鉄塔越しに落下していくことで、常に画面に変化を付けてやはり単調にはさせないようにしている工夫も見て取れる。
イトウ「脱出!!」
イケダ「了解!!」
シルバーガルのキャノピーが開いて、細部までリアルに塗装されたイトウチーフとイケダ隊員の人形が脱出!
パラシュートも開くが、なんとホリゾントに描かれた雲をバックにしてではなく、白煙で表現された雲の中を人形が降下していくという、歴代ウルトラシリーズであまた描写されてきた脱出描写ともまた異なる特撮カットも、最後の最後である最終回だからこそか見せてくれるのだ。
イトウ「キャップ、ワイヤーがハズれて失敗しました! 別のシルバーガルでもう一度トライしましょう!」
オオヤマ「よし、オレも行く!」
しかし、UGMが苦戦している光景をモニターで目撃していた矢的と涼子が、勢いよく作戦室を飛び出していく!
無言でふたりに視線を送るオオヤマキャップ……
通路を駆けていく矢的と涼子。
先の通路のシーンでは、画面手前に向かって走ってくるかたちでUGM隊員たちが描写されていたが、ここでは逆に画面奥へと駆けていく矢的と涼子の後ろ姿として表現されている。同じ出撃でも「先んじて進んでいく勇ましい出撃」と「あとから追いかけていって後方支援」するといった相違を演出面でも象徴させてみせたといったところか?
UGMの赤レンガの外壁である建造物から出てきて、階段を駆け降りていく矢的と涼子!
矢的が手にした変身アイテム・ブライトスティックがアップで映し出される!
矢的「エイティ!!」
オオヤマ「矢的!!」
オオヤマキャップの突然の呼びかけによって、ウルトラマンエイティへの変身を阻止されてしまう矢的隊員!
同じ階段を駆け降りてきたオオヤマキャップの姿に、ブライトスティックを手にしたまま背中に隠すしかない矢的であったが……
オオヤマ「これまでウルトラマンエイティにはずいぶん助けられた」
それまでのウルトラマンエイティと怪獣たちとの決戦場面が回想として流れ出す……
・第1話『ウルトラマン先生』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20100502/p1)より、青空を華麗に宙返りして、その勢いで月の輪怪獣クレッセントの胸めがけて両足で蹴りこんで、頭部にはチョップを見舞って、その両腕をL字型に組んで放つサクシウム光線でトドメを刺してみせるウルトラマンエイティ!
・第14話『テレポーテーション! パリから来た男』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20100801/p1)より、両手から放つ光のカッター・ウルトラダブルアローでテレポート怪獣ザルドンの両肩や頭部のトゲを切断して、サクシウム光線を喰らわすウルトラマンエイティ!
・第18話『魔の怪獣島へ飛べ!!(後編)』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20100829/p1)より、吸血怪獣ギマイラの首にムーンサルトキックを浴びせて、木っ端微塵(こっぱみじん)に粉砕するウルトラマンエイティ!
・第22話『惑星が並ぶ日 なにかが起こる』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20100926/p1)より、古代怪獣ゴモラⅡのシッポをつかんでブン投げて、サクシウム光線で葬り去るウルトラマンエイティ!
・第37話『怖(おそ)れていたバルタン星人の動物園作戦』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20110108/p1)より、宇宙忍者バルタン星人5代目の両足をつかんで宙に放り投げて、巨大戦闘母艦に激突させるウルトラマンエイティ!
・第46話『恐れていたレッドキングの復活宣言』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210223/p1)より、どくろ怪獣レッドキング3代目に背負い投げを喰らわして、サクシウム光線で爆発四散させるウルトラマンエイティ!
クレッセント・ザルドン・ギマイラ。いずれも『80』では印象深い怪獣たちである。ゴモラⅡ・バルタン星人5代目・レッドキング3代目などは、歴代ウルトラシリーズでも人気が高かった復活怪獣たちの復活だが、『80』だけではなくウルトラシリーズのいったんの終焉をも象徴させることまで意図させるのであれば、復活怪獣たちのセレクトにも頷けるのだ。
これらの一連の回想場面のバックに流れるのは、『交響詩 ザ★ウルトラマン』第四楽章『栄光への戦い』の最終ブロック『勝利の戦い』であり、『ウルトラマン80』でもそのシリーズ後半ではエイティ反撃~勝利の特撮シーンを彩った荘厳かつ勇ましさもある名楽曲でもある。
この楽曲はもともとは、前作『ザ★ウルトラマン』(79年)の第19話~第21話『これがウルトラの星だ!!』3部作(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090914/p1)で、昭和ウルトラシリーズとはその世界観を異にする同作オリジナルのウルトラマンの故郷であるウルトラの星・U40(ユー・フォーティ)と、そこを舞台とする壮大なる敵味方の宇宙戦艦数千艘同士による宇宙大戦争を描くにあたって、荘厳なるBGMが必要と判断されたことで、追加録音用に作曲されたものであった。
1960年前後生まれのいわゆるオタク第1世代が青年期に達した70年代後半。『ゴジラ』シリーズや『ウルトラ』シリーズや大人気テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』(74年・77年に総集編映画化・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20101207/p1)、そしてあまたの旧作テレビアニメなどの再評価を目的とした本邦初の青年マニア向け書籍が雨後の竹の子のように発刊ラッシュを迎えて、それと並行して旧作や現行作品の特撮やテレビアニメの劇中BGMも「LPレコード」(A・B両面で約1時間分を収録)の形態で発売されるようになり、いずれも高い発行部数や売上枚数を博するようになっていた。特に『宇宙戦艦ヤマト』や『ウルトラ』シリーズなどは、フルオーケストラを用いた新録音の「交響詩」まで新録されるようになってヒットも相応にしていたのだ。
この流れで大編成となる楽曲の制作費も回収できるとレコード会社側も踏んだのだろう。『ザ★ウルトラマン』でも、歴代ウルトラシリーズのBGMを手懸けてきた冬木透(ふゆき・とおる)先生によって『交響詩 ザ★ウルトラマン』が作曲されて、同作放映中の79年8月25日には早くも日本コロムビアから発売された2枚組のLPレコード『テレビ・オリジナルBGMコレクション 冬木透作品集』の2枚目のB面に収録されたのだった。
ちなみに、このLPレコードの1枚目のA面には『ウルトラセブン』が、B面には『帰ってきたウルトラマン』が、2枚目のA面には『ウルトラマンA』のBGMが、冬木先生ご自身による構成(!)で「組曲」風に大胆に編集されて収録されていた。ライナーノーツの作品解説も、この2011年6月27日に逝去された特撮評論家・竹内博(たけうち・ひろし)が酒井敏夫(さかい・としお)のペンネームで手懸けたものだった。
『交響詩 ザ★ウルトラマン』は、2006年9月20日にコロムビアミュージックエンタテインメントから発売された『ウルトラサウンド殿堂シリーズ(8) ザ★ウルトラマン』(ASIN:B000H30GT0)にもまるごと収録されているので、若いマニア諸氏には機会があればぜひとも聴いていただきいものである。ウルトラの星・U40出身の主人公ウルトラマンであるジョーニアス、そしてエレク・ロト・5大戦士ら8大ウルトラ戦士たちのモチーフが弦楽器によって力強いリズムで演奏されて、正義の勝利を高らかに歌いあげる『勝利の戦い』は、まさにこの一連を飾るにこそふさわしい。
オオヤマ「これまでのお礼を云うよ…… ウルトラマンエイティ」
矢的の表情のアップが白黒反転のネガ写真状の映像で映し出されて、オオヤマの表情のアップとカットバックする! まさに矢的の衝撃の大きさを演技面だけではなく映像面でも補強したカットでもある。
だが、その直後に意外なことに、矢的はにっこりと微笑(ほほえ)んだ。
矢的「やはり知ってたんですね。僕がウルトラマンエイティであることを……」
オオヤマ「ン。私とイトウチーフは知ってしまった…… といっても、ついこの間だがね。矢的、いや、ウルトラマンエイティ。君には感謝している」
感慨深い表情でうなずく矢的。一触即発のコジレやシコリなどのプライドをめぐった対立劇などには発展せずに、互いに揺るぎのない真相へと到達した者が達する平静心の境地が、両者に安堵の念をもたらしたのかもしれない…… 「ずいぶん前」からではなく「ついこの間」に知った、といったところがまたリアリティーも醸すのだ。
オオヤマ「しかし、いつまでも宇宙人である君に力を貸してもらうことに悔(くや)しさもあった。地球はやっぱり地球人の手で守らねばならん」
矢的「でも広い意味では、地球人も宇宙人です!」
「地球はやっぱり地球人の手で守らねばならん」。これは1960年代後半に放映された初代『ウルトラマン』の最終回と『ウルトラセブン』の最終回でも語られたセリフでもある。70年代前半に放映された第2期ウルトラシリーズの最終回でも、「地球人」をレギュラーキャラの「少年」に代入するかたちで変奏されて、ウルトラマンや主人公の青年には頼らずに少年が自立することを促すドラマが展開もされてきた。
前作『ザ★ウルトラマン』の最終章4部作(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20200508/p1)では、敵の軍団に占領されたウルトラの星を、ウルトラマンに頼らずに地球人自身が救ってみせるというマクロな大スジと並行して、ミクロではウルトラマンと合体している地球人青年・ヒカリ隊員の苦悩を、そんなストイックな彼にも微量に残っているウルトラマンへの依存心、そしてそれを断ち切って人間としての自力だけで戦ってみせる隊員たちの姿をまさに主眼に据えたストーリーが展開されていた。
そして、本作『80』最終回もまた、ウルトラマンに頼ってしまうことがもたらす矛盾を晴らすために、この根源的な地点へと到達したのであった!
「広い意味では、地球人も宇宙人です!」というセリフもまた、長年のウルトラシリーズのマニアとしては実に感慨深いものがある。
宇宙人にも善悪双方の膨大な種族が存在するであろう可能性をまるで無視した、地球人以外の宇宙人はそのすべてが「一枚岩」(笑)であるかのように表現してきたウルトラシリーズや昭和のラフなつくりのアニメ・特撮を観てきた身としては、ここで「SF的・科学的にも正しい」宇宙人観が提示されたことには、今さらながらの「再発見」としての意外の念もおぼえるのだ。
第1期ウルトラシリーズのメインライターであった金城哲夫(きんじょう・てつお)先生が手懸けた初代『ウルトラマン』第33話『禁じられた言葉』で、悪質宇宙人メフィラス星人は初代ウルトラマンと一心同体で合体している防衛組織・科学特捜隊のハヤタ隊員に向かって、
「おまえは人間なのか!? 宇宙人なのか!?」
という疑問符を投げかけていた。
このセリフには、その是非はともかくとしても、ウルトラマンも宇宙人であるのならば地球人の味方をするのはオカシい! ウルトラマンは同じく宇宙人である我々メフィラス星人の味方をするべきだ! といった意味として捉えるのがふつうであろう。いや、メフィラス星人とウルトラマンは地球人から見たらば同じ「宇宙人」ではあるけど、メフィラス星人の立場から見ればメフィラス星人以外の地球人も含む全宇宙人のことが「宇宙人」だろうし、ウルトラ一族の立場から見ればウルトラ一族以外の地球人も含む全宇宙人のことを一括して「宇宙人」として呼称をするハズである。それはアメリカ人から見れば日本人もイギリス人も「外国人」であるのと同じリクツである(笑)。
だから、メフィラス星人とウルトラマンが共闘して地球侵略に加担するような義理やリクツなど微塵もないではないか!? ……などと浴びるように「宇宙人」などの超常存在が登場する特撮ヒーローやテレビアニメを観てきて、「日本人至上主義」ならぬ「地球人至上主義」なども自然に相対化ができるようにリテラシー(読解能力)を向上させてきたオタク第1世代以降の子供たち、つまりは第1期ウルトラ世代のみならず第2期ウルトラや第3期ウルトラ世代も含む子供たちではあっても、こういったセリフには子供心にも小さな違和感をいだいたものである。第1期ウルトラシリーズの脚本陣の中では比較的に「SFセンス」があった金城哲夫先生にしてから、このように「SFセンス」的にはツッコミどころがあるセリフを吐かせてしまっていたのであり、まだまだそういった世代のスタッフたちがウルトラシリーズを手懸けていた時代ではあったのだ(汗)。
ちなみに、本エピソードを執筆した石堂先生ご自身も、『帰ってきたウルトラマン』第36話『夜を蹴ちらせ』に登場させた吸血宇宙星人ドラキュラスに、
「裏切り者ウルトラマン。どうして人間の味方をする!? 我々宇宙人の味方をなぜしない!?」
などと非難をさせている。本エピソードの10年前の石堂先生もまた、この1971年の時点では「地球人以外の宇宙人はみないっしょ!」といった感覚だったのである(笑)。
しかし、おそらく石堂先生の小学生のご子息などから「地球人以外の宇宙人はみないっしょ!」などといった「宇宙人」観はオカシイ! といったツッコミでも入っていたのではなかろうか?(汗) 裏返して「宇宙人はみないっしょ」であるならば、さらにそれを裏返してみせれば「広い意味では、地球人も宇宙人」といった「初歩SF」的な境地に、石堂先生や満田監督といったオジサン世代も、1981年の時点でようやく到達することができたのだ……といったところだろう。
同作『帰ってきたウルトラマン』第51話(最終回)『ウルトラ5つの誓い』でも、触覚宇宙人バット星人がウルトラ兄弟たちのことを「宇宙の裏切り者」呼ばわりをしている。おそらく同じような宇宙人観から発したセリフだったのだ。70~80年代の日本のアニメ・特撮を牽引してきた脚本家・上原正三先生もまた例外ではなかったのである(笑)。
その伝では70~80年代当時の子供たちの「SF観」の方がオジサン世代よりも勝っていたのが、あの時代でもあったのだ。
もちろん脚本というものは、脚本家諸氏の一存だけで通るものではない。テレビ局や製作プロダクション側のプロデューサーの注文や意向でOKが出るものなのだ。よって…… プロデューサー諸氏も同罪だったのである(笑)。
――余談だが、上記で例示した『夜を蹴ちらせ』では、死んだ娘の死体に防腐処理を施して保存しているネクロフィリアな父親も登場。ウルトラ一族のようにその娘に宇宙人が合体していることを防衛組織・MAT(マット)の面々が非人道的だと非難することで、石堂先生が意識していたかはともかくとしてウルトラマンたちのことまで相対化がされている。そして、美女でもあるその娘に手を出そうと、自分の部屋へとお持ち帰りした青年も毒牙にかかって死んでしまう…… という実に子供番組らしからぬキワドい描写も存在しているのだ(爆)。帰ってきたウルトラマンことウルトラマンジャックやウルトラマンレオがバラバラ殺人事件のように解体されてしまうエピソードなども石堂脚本回だったが、ミステリ小説の大家・江戸川乱歩のような猟奇的な描写もまた、後期の石堂脚本では失われてしまったものなのだが、前期の石堂脚本では見逃せにできない隠微な魅力でもあったのだ・笑――
矢的「でも広い意味では、地球人も宇宙人です!」
本エピソードではそれまでずっと影が薄かったユリアンこと星涼子隊員が、ここでニッコリとうなずくのが実に効果的である。
そう、宇宙に生きている「知性体」という意味では、地球に住んでいる「地球人」も、地球以外の惑星に住んでいる「宇宙人」も同じ「宇宙の人間」には相違ないのである。
ここで流れてくるのが、『ウルトラマン80 ミュージックコレクション』(日本コロムビア・96年8月31日発売・ASIN:B00005ENF5)では『無償の愛』というタイトルで収録されていた、『宇宙戦艦ヤマト』の劇中音楽でも有名な川島和子による「安息」と「哀愁」の念をもよおさせるスキャットを奏(かな)でるM-17-2である。それがまた、このオオヤマキャップとの広い意味での「和解」と、ひいては正体がバレてしまったことでのオオヤマや地球との「別離」を予感もさせてくるのだ……
矢的「宇宙人同士、力を合わせて敵に向かうのは、当たり前じゃありませんか?」
オオヤマ「いや、君の方に事情があることも知ってしまった。ウルトラの星に戻らなければならんだろ。それに今度の戦いで君は傷ついてしまった」
前話である第49話『80最大のピンチ! 変身! 女ウルトラマン』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210307/p1)における、合体怪獣プラズマ&マイナズマの2大怪獣に徹底的に痛めつけられるエイティの姿がここで回想として流される。先述の「勝利の戦い」の一連とは違って、こちらの方はモノクロ画像で処理されることで、先の勇壮さとは真逆であるダメージ感が強調されている。
オオヤマ「もう、エイティに変身しないでくれ…… オレは行くぞ!」
ウルトラマンエイティによる助太刀を断って、南原市へと急行していくオオヤマキャップ。レンガ造りの建造物を背景にして、オオヤマキャップは矢的と涼子の許を離れて、画面の左方向へと走り去っていく……
本エピソードを何度も観返していると、先の建造物の方へと戻っていくのが正解なのでは? などとヤボなことも思ってしまう(汗)。おそらくUGM戦闘機の発進ゲートへ向かうには画面の左方向へと走り去るのが近道なのだと好意的に脳内補完をしておきたい(笑)。
手にした変身アイテムを見つめて立ちつくしている矢的隊員と、彼を見つめている涼子隊員。この両者をロング(引き)の映像で捉えて、画面手前にはチューリップをはじめとする「春」を象徴させる花々が植えられている花壇を配している。「氷の世界」に閉ざされた「南原市」。そして、「春」がもうすぐそこにまで来ている「UGM基地」。映像的にも対比させるあたりがまた、両者のエッジも立ってきてメリハリも付くというものなのである……
もう1機のシルバーガルで、南原市に急行してきたオオヤマキャップ!
オオヤマ「ワイヤー・フック!」
操縦悍の下側(!)からの煽りで見上げられた、またも臨場感あふれるカメラアングルで撮られたオオヤマキャップの映像!
続いて、シルバーガルから吊り下げられていたワイヤーの先端が「鉄球」の鎖を引っかける様子をアップで捉えられる!
さらに、ワイヤーの根元がシルバーガルの機体底部に格納されていくサマも煽りで撮られることで、いわば重たい「鉄球」を吊り下げながらの戦闘機2機での飛行バランスも考慮せざるをえない操縦における「綱引き」感覚も出せている。
オオヤマ「Go!!」
画面の左奥にはマーゴドン、左手前には立ち並んでいる民家、右手前にはビル群を配して、それらをカスめるように「鉄球」を前後に揺らしながら、マーゴドンへと向かっていくシルバーガルとスカイハイヤー!
だが……
ナレーション「肝心なとき、スカイハイヤーにトラブルが起こった!」
フジモリ「燃料がピンチです!」
オオヤマ「あと1分、もたないか!?」
スカイハイヤーが地上へ降下していき、それに釣られてシルバーガルの機体も片側へと大きく傾いてしまう!
特撮部分だけではなく、本編部分でもカメラを左へと大きく急激に傾けるかたちでコクピットにいるオオヤマキャップを撮影するという、「特撮」だともいえない超・原始的な手法でこのピンチは表現されているのだが、それとわかっても感情移入をさせて試聴を続けさせるだけの吸引力&緊迫感がたしかにある「演出」が達成されている。
しかし、やがて機体が元の体勢へと戻った!
オオヤマキャップの目に、見慣れない戦闘機の姿が映っている……
オオヤマ「なんだ、その赤いジェット機は!?」
ここで流れてくる楽曲のイントロが、第1話~第39話までのエンディングに使用されてきた、軽快かつカッコいい副主題歌でもあった、そして『80』のシリーズ前半の「UGM」それ自体を象徴していたともいえる名歌曲『レッツ・ゴー・UGM』のインストゥルメンタル! ここで形勢が逆転したことを音楽演出面でも象徴させているのだ!
タジマ「オオヤマキャップ、おひさしぶりです! タジマです!」
ハラダ「ハラダです! オーストラリアゾーンから駆けつけました!」
タジマ「燃料を空中給油します。安心してください」
ハラダ「キャップ、いいところでやってきたでしょ」
第26話『タイムトンネルの影武者たち』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20101023/p1)をもって、何の説明もなし(汗)に降板していたハラダ・タジマ両隊員が最後の最後で頼りになるオイシい役回りで再登場を果たしたのだ! ついでに、彼らはUGMのオーストラリアゾーンに転任していたことがここで明らかにもされる!――こういう補足設定的なセリフの挿入も、幼児はともかく児童たちにとっては、虚構作品なりにその作品世界にワールドワイドなウラ打ちを与えてくれるという意味でも実に重要なのだ。ちなみに、第6話『星から来た少年』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20100606/p1)でも「オーストラリアUGM」の存在がすでに言及されているので、取って付けたような新設定や超展開ではない、既存の基本設定をも活かすかたちでの描写であることもサイコーである!・笑――
オオヤマ「ありがとう! ありがとう!!」
心の底からの感謝の念が込められたオオヤマ演じる中山仁(なかやま・じん)のセリフ回しがまた真に迫っている!
やはり操縦悍の下側からの煽りで撮られたオオヤマキャップは、右手を操縦悍から離して親指を立てて、ハラダ・タジマに感謝のサインを送る!(感涙)
ちなみに、この赤い戦闘機はアメリカのダグラス社が開発して、1957年にアメリカ海軍に正式採用されたA-4Eスカイホーク攻撃機であるそうだ。
ナレーション「再びジャイアントボール作戦が開始された!」
オオヤマ「攻撃開始!!」
画面の手前には広がる市街地、左奥にはマーゴドンを配して、画面の左手からはハラダ・タジマが搭乗するオーストラリアゾーンの赤い戦闘機が画面中央に向かって飛行して、マーゴドンに向かって左旋回することで注意も引きつける!
右手の上空にはジャイアントボールを吊り下げたシルバーガルとスカイハイヤーが控えている!
続けて、画面左手前にマーゴドンを背面から捉えて、ビル群を背景に画面手前に向かって飛行してくる3機編隊も配置する!
『80』では初である四つ足歩行タイプの怪獣であった怪獣マーゴドンだが、最後にプチ・サプライズ演出もなされる! その巨体を二足歩行型の怪獣のように立ち上がらせるのだ!
側面から撮影されたマーゴドンの姿を見ると、その着ぐるみも最終回に登場する怪獣にふさわしく、かなり大きな造形であることもわかって、必然的に巨大感の表現も半端ない!
ハラダ「怪獣に、冷凍液をお見舞いします!」
ハラダ・タジマの搭乗機が側面からアップで撮られることで、その機首には黄色いラインが塗装されていることも確認できる。
続いて、機体底部のハッチが開いて、ジャイアントボール同様の「黒い球体」がマーゴドンに向かって投下されていくサマも煽りで撮影される!
マーゴドンの頭上で「ベチャッ!」と破裂する冷凍液!
たちまちのうちに全身が氷のオブジェと化すマーゴドン! やはり線画合成で黒いヒビ割れが入っていくことで、急速冷凍による物質や分子の収縮で、硬くてモロくなったサマが表現されていく!
氷のオブジェと化したマーゴドンの背面からの姿を画面左手前に配して、カメラ側に向かって飛行してくる黒い鉄球を吊り下げているシルバーガル&スカイハイヤー!
続けて、この前後に揺らしていた鉄球による直撃も!!
見事に盛大に砕け散っていくマーゴドンの断末魔が横から捉えられる!!
おそらくは上下2パーツからなるマーゴドンの巨大なカポック自体に凍結したような装飾を施して、それをジャイアントボールが当たるタイミングで分割することで、粉砕を表現しているのであろうが、実に説得力にあふれる表現である! まさにガラスが粉々に砕け散るかのような効果音の使用も見事だ!
オオヤマ「やった!!」
やはり煽りで撮られたオオヤマキャップ、今度は左手をこぶしにしてガッツポーズ!
矢的「やった! さぁ、みんなを迎えに行こう!!(喜)」
涼子「はい!!(悦)」
地球人たちの勝利に、歓喜の表情で作戦室を飛び出していく矢的と涼子!
ついにウルトラマン抜きでも、UGMは単独で強敵怪獣を倒してみせたのだ!!
ナレーション「南原市は春の陽(ひ)を浴びる、平和な町に戻った」
白銀の世界と化していた南原市全景のミニチュアセットが元の姿へと戻っていく……
木々の間から照りつけてくる太陽。水槽で泳ぎだした金魚。桜並木。菜の花畑。ペンギン・アシカ・キリン・象などの実写映像も続いていく……
リアルに考え出したら、一部の植物などはちょっとした霜でも枯れてしまうものなのだし、特に動物などは凍死しているハズなのだが(爆)、子供向け番組なのだから、すべてが生き返ったという描写が穏当なところだろう(笑)。
UGM基地の通路を凱旋(がいせん)してくる隊員たち。イケダが「もうエイティなんていらないっすね~」などと口走っている(笑)。
自動ドアが開いて、UGM作戦室で一同を出迎えたのは……
一同「アッ!」
オオヤマ「城野(じょうの)…… 城野エミ」
アンドロイド・エミ「ハイ。私ハ、UGMノ科学班ガ作ッタ、城野えみノあんどろいどデス」
イトウ「アンドロイド」
第43話『ウルトラの星から飛んで来た女戦士』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20110219/p1)で侵略星人ガルタン大王から矢的をかばって殉職した城野エミ隊員を演じた石田えりも、久々に再出演を果たしてくれたのだ!
死人のことを忘れられずに本人そっくりのロボットを作ってしまうことには倫理的には賛否がありそうだ。巨大ロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20220306/p1)では主人公の父親かつ司令官が自身の亡き妻のDNAから薄幸そうなクローンの少女・綾波レイをつくって、『ウルトラマンタロウ』第41話『幻の母は怪獣使い!』でも交通事故で妻を失った科学者が妻そっくりのアンドロイドを製造していたのだが、当然のことながらいずれも劇中では倫理的には肯定されてはいなかったのに……(汗)
むろん最終回だから、降板した出演者たちにも感謝とねぎらいの意を表して、そして視聴者へのファンサービスも兼ねての、堅苦しい倫理的な議論は度外視したところで、数シーンだけでも登場させてあげよう……といったねらいなのだろう。そうなると、すでに死してしまった城野エミ隊員については、復活させるワケにもいかない以上はアンドロイドとして登場させるくらいしか手がないのだ(笑)。
ただ、オオヤマキャップ・矢的・イトウチーフを出迎えるアンドロイド・エミが背面から撮られていて、全身ラメが入った銀色のタイトなスーツのために、石田えりのヒップラインもクッキリと浮かび上がっており…… 辛抱たまらんです(爆)。
ユリ子「はい。皆さんがいつまでも亡くなった城野隊員を懐かしく思われているので、私とセラさんがこっそり科学班に作っていただいたんですよ」
まぁ、石田えりは途中から『80』のようなジャリ番組には出たくなくなっていたようだから、この一連はシナリオ上にはなくて、出演交渉でOKが出たところで撮影現場で急遽、満田監督が付け加えたものなのかもしれないが……
アンドロイド・エミ「ホンモノ同様、可愛ガッテクダサイ」
発声回路にやや難があるという設定であるために、その話し声は機械的に加工されたものが使用されている――ひょっとしたら石田えり本人によるアフレコではなかったりして・爆――。ただ最後に、首をチョコッと傾けてニッコリと微笑むなど、当時の流行語で云えば「ブリっ子」的な仕草も見せて可愛らしさには満ちあふれている。
――1980年前後にはまだギャル的な女性像は台頭しておらず、女性アイドル歌手の「可愛らしさ」を模倣することが若い女性たちの間で急速に流行した時期だった。そうなるとインフレが発生して、それもまた演技であることが急速にバレてしまって(笑)、当時のアイドル歌手・松田聖子(まつだ・せいこ)やそれらを模倣した女性たちを揶揄(やゆ)するのに、「それらはアザトい演技であってしかも鼻につく!」というような否定的なニュアンスで「可愛い子ブリっ子」、略して「ブリっ子」なる新造語も誕生。若者間でも広く使用される用語となって、30年後の現在でも細々と残っている・笑――
しかしこの銀色のタイトなスーツは、ゴジラ映画『メカゴジラの逆襲』(75年・東宝)において、ブラックホール第3惑星人によってサイボーグ少女にされてしまった悲劇のヒロイン・真船桂(まふね・かつら)のコスチュームにも似ているように思えるのだが、それの流用だろうか? 5~6年も前のこのスーツは果たして1981年初頭の時点でも残存していたことなどあるのだろうか?
たしかに石田えりの体型に合わせたスーツもこの最終回のためだけに万円単位の予算をかけて新造したとも考えがたいので、衣装班が探してきたレンタル衣装だろうか? もしもサイボーグ少女・桂のコスチュームの流用であったのならば、『ウルトラマンレオ』(74年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090405/p1)のシリーズ中期から後期にかけての防衛組織・MAC(マック)の松木晴子(まつき・はるこ)隊員も演じた藍とも子(あい・ともこ)のスレンダーな体型に合わせていただろうこのコスチュームは、石田にとってはその巨乳が窮屈だったことだろう(爆)。
ところで、このコスチュームのベルトのバックルにあるイナズマを模したマークだけは、どこかで見たような記憶があるのだが、思い出せない(汗)。
オオヤマ「いよいよお別れだな。ウルトラマンエイティ」
矢的の肩に手を置くオオヤマキャップ。
一同「エェ~~ッッッ!?」
ナレーション「一同の驚きが消えないまま、ふたりのお別れパーティがささやかに行なわれていた」
ここで上空から見ると「UGM」のアルファベット文字に見える基地全景のバンクカットが久々に入るのも嬉しい。
オオヤマ「これまで我々はいつもエイティの助けを借りてきた。我々はいつも弱かった。それは知らず知らずのうちに、エイティに頼ろうとする気持ちが、みんなの心のどこかにあったからだろう」
フジモリ隊員とイケダ隊員が「あちゃ~っ」という表情をする(笑)。
オオヤマ「残念ながら私もそうだった」
「なぁ~んだ」というような、安堵の表情を見せるフジモリとイケダ。これもまた弱さも持っている人間の偽らざる姿だろう。もちろん全面的に開き直って「弱さ」や「依存心」を手放しで肯定するワケにはいかない。目指すべき目標の「理想」としての人間像とはまた別に、一方では不完全な身である「現実」の人間像を自覚することも大切ではあるのだ。そしてその次には、この両者を架橋するための適切な直線・ロードマップを引いてみせることも必要になってくるのである……
オオヤマ「しかし、私はあるとき決心した。自分たちの手で戦い抜かねばならないんだ。それはウルトラマンエイティが怪獣との戦いで傷つき、さらにウルトラの星に事情ができて、星涼子隊員こと、このユリアンがウルトラマンエイティを呼びに来たことがわかってしまったからだ。今、我々は怪獣に勝った。エイティの力を借りないで、地球最後かも知れぬ大怪獣をやっつけることができた。これで我々は胸を張ってウルトラマンエイティにさよならを云える。ふたりは今日かぎり、ウルトラの星に帰っていく……」
イトウ「どうしてもそうしなければならないのか?」
矢的「ええ。我々ふたりはいったんウルトラの星へ帰り、しばらく休養すると、また別の星に派遣されます」
涼子「私はホンの短い間でしたけれど、この美しい星・地球のことは、絶対に忘れません」
泣き崩れてしまう気象班のユリ子隊員……
ここではさりげに「また別の星に派遣されます」とも云っている。地球以外の別の惑星に住んでいる善良なる宇宙人たちをウルトラ一族が守っているという描写は、この当時までの映像本編でのウルトラシリーズではまだ存在はしていない。しかし、それにも関わらず、このような地球以外の星々をも守護しているウルトラ一族という設定に基づくセリフが与えられているのは、70年代前半の小学館の各学年誌での毎号のウルトラシリーズ特集記事で、ウルトラ兄弟たちの故郷であるM78星雲・ウルトラの星にある宇宙警備隊には、
・M25星雲支部
・SP5星雲支部
・LP372星雲
・アンドロメダ星雲支部
・ペルセウス座星雲支部
・銀河系星雲支部
などの支部が存在するという設定に端を発している。このウラ設定を受けて、70年代末期の児童漫画誌『コロコロコミック』やその『特別増刊号ウルトラマンPART1』~『PART4』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210110/p1)に掲載されて大人気を博してきたウルトラシリーズのオリジナル展開の漫画群が、地球以外の別の惑星種族をも守護しているウルトラ一族の姿といった、壮大なるSFビジョンをすでに描いていたからでもある――このへんも宇宙人の実在を信じていなさそうな石堂脚本上のセリフではなく(笑)、学年誌の特集記事の監修も務めてきた円谷プロ側の満田監督が脚本上に加筆した、もしくは撮影現場で即興で付け加えさせたセリフではなかろうか?――。
矢的「いろんなことがいっぱいありました。みんなのことはいつまでも、忘れません!」
オオヤマ「今日の別れは永遠の別れでなく、また会うときの仮の別れのつもりでいてほしい。本当は…… 本当は…… ウルトラマンエイティにいつまでもいてほしかった……」
手にしたグラスの酒を一気に飲み干して万感(ばんかん)胸に迫るといった表情のオオヤマキャップ。感無量といった面持ちの矢的隊員……
矢的「さよならは終わりではなく、新しい思い出のはじまりって云います。じゃあ、みんな、元気で!」
一同「乾杯!」
どこまでも明るく元気に、一同と固く握手を交わしていく矢的。泣き崩れたままだったユリ子隊員を起こしてみせる優しさも忘れない……
「矢的猛は学校の先生だし、(『セブン』の主人公)モロボシ・ダンみたいにあんまり謎の人物っぽくはしたくなかったんですよ。明朗快活なイメージで(当時の人気タレント)太川陽介(たがわ・ようすけ)くんなんかを考えていた時期もありました。長谷川初範(はせがわ・はつのり)くんは、森光子(もり・みつこ)さんから「彼はいいわよ」って推薦があったんですよ。彼は『80』の前にTBSのドラマで森光子さんの息子役をレギュラーでやってたらしいんだよね。彼も森さんのところへ相談に行ったら「ぜひやりなさい」と言われたそうですよ」
ちなみに、このインタビュー中のTBSのドラマとは、当時の人気ホームドラマ『熱愛一家・LOVE(ラブ)』(79年)である。ちなみに、長谷川のお相手役は当時の人気アイドルでもあり、のちに特撮ジャンルでは『特捜戦隊デカレンジャー』(04年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20041112/p1)で地球署エンジニア・白鳥スワン(しらとり・すわん)を演じることとなった石野真子(いしの・まこ)であった!
あの大女優・森光子のお墨つきをもらったほどの長谷川氏の起用は、満田氏がねらった「明朗快活」なイメージを主人公・矢的猛にもたらし、ひいては『80』という作品自体にも良くも悪くもアクのない澄み渡った柔らかいイメージをももたらしていった……
ナレーション「ふたりは地球での思い出を胸に焼きつけるため、地球最後の一日をおもいっきり楽しむことにした。ウルトラマンエイティの物語は今終わろうとしている。だが我々のために、新しいウルトラマンがきっとやって来るに違いない。ウルトラの星がいつまでも輝き続けるかぎり……」
『80』最終回のラストでは、通常回で流されるエンディング主題歌は流されずに、挿入歌が使用された……
♪ 熱い心の 燃える炎(ひ)が
瞳に映って 輝いた
自分が走る 道を馳(は)け
空に向かって 呼んでいる
遠い星から~ 来~た~ あいつ~~
今~は~ 青い~ この~星で~~
愛する 小さな 友のため
心~を~燃やす~~ ああ~ あいつ~~
そこに流されたのは、名曲『心を燃やすあいつ -矢的猛の歌-』であった。
朝日ソノラマ『宇宙船』Vol.6(81年4月30日発行)に掲載された『ウルトラマン80放映終了特集』によると、満田監督自身が「ラストに流すのはあの曲にしようと決めていた」と語っている。この楽曲は作詞の才能もある満田監督自身が作詞を務めており、冬木先生が作曲、ぬまたこうじがその歌唱力でエモーショナルに朗々と歌い上げた、まさに名曲だ。
70年代末期になってからのマニア向けの商売であるBGM集の発売以前に、70年代には特撮やテレビアニメの子供向けの挿入歌集が発売されるようにはなっており――劇中で使用されないことも多々あったが――、そういった音盤を一部の熱心なマニアたちも購入する文化はすでにあったことから、そういうものの一環としてレコード会社側の主導でこの歌曲もつくられたのだと思われる。
もちろんこの歌曲は『80』放映当時に早々に録音されており、LPレコード『ウルトラマン80 テーマ音楽集』(日本コロムビア・80年6月10日発売・04年3月27日にCDで再発・ASIN:B0001A7VC4)のB面1曲目に収録される栄誉をすでに勝ち得てもいたのだ。その歌抜きのインストゥルメンタルは、『80』序盤のころからエンディングなどにその一部分が多用されてはいたものの、しかし歌入りの正規のバージョンはずっと未使用のままであった、知る人ぞ知る名曲にとどまってもいたのだ――第1期ウルトラシリーズ至上主義者のマニアたちは、よほどのBGMマニアや冬木先生の大ファンでもなければ『80』のBGM集などは購入していなかったので・汗――。
結果論ではあるのだが、だからこそ最終回のラストシーンで使用されたことが、この歌曲をすでに知っていたごく少数のマニアたちにも、知らなかった大多数の視聴者たちにも、最終回にふさわしいスペシャル感と別格感、そして静かでも内に染み入ってくるような静かな感動を呼び起こすこととなっていく。
きれいに咲き誇った桜並木を眺めたり、歩行者天国をアイスクリームをナメながら散策したり、遊園地でゴーカートや回転遊具などを楽しんだりと、「地球最後の一日」を満喫する矢的と涼子……
海岸を並んで走るふたり。続いて照りつける太陽を背にして矢的と涼子がバストアップの煽りで捉えられて、陽光が波間でキラめいている海が描写されていく……
変身アイテム・ブライトスティクを静かに海に向けてかざしてから、空へと掲げる矢的。
同じく変身アイテム・ブライトブレスレットをはめた右腕を、ゆっくりと空へと掲げる涼子。
ふたりの姿が青い光のウズに包まれてウルトラマンエイティの姿へ、そして女ウルトラマンことユリアンの姿へと巨大化していく……
この静かなる変身シーンへの言及で、蘊蓄(うんちく)トークに走ってしまうことは、我ながらややヤボな行為ではあるのだが、変身ヒーローものにおける必殺技に次ぐ見せ場といえば「変身シーン」ではある。本作『80』では、
・矢的の姿が人間大サイズのウルトラマンエイティへと一度変身して、それから巨大化する第1クールで主に披露されたバージョン
・従来のウルトラマンたちのように、右腕を前方に大きくパースペクティブを強調して突き出したウルトラマンエイティのリアルな造形の人形が、様式美的な赤いウズの中からカメラに向かってくることで巨大化を表現していた第2クールから多用されるバージョン
都合2種類の変身パターンが用いられてきたが、最終回ではパターン破りの意図と、そして何よりもこれから戦いに挑んでいくような勇ましさを演出するものではないことからだろう、バンクフィルムではなく新撮の映像となっている。子供、特にマニア予備軍の気がある怪獣博士タイプの子供というものは、こういうパターン破りのシーンにもカタルシスを感じて、特別に傾注してしまうものなのである(笑)。
『ウルトラセブン』第9話『アンドロイド0(ゼロ)指令』・第25話『零下140度の対決』・第42話『ノンマルトの使者』・第48話『史上最大の侵略(前編)』と、『セブン』での満田監督回では戦いを終えたウルトラセブンが光のウズに包まれて人間の姿であるモロボシ・ダンへと戻っていく、実は子供たちも観たがっていた「逆変身」の描写も描かれていた――脚本上で執筆されていたものでなければ、満田自身にそういった子供っぽいセンスを実現してみせたい嗜好があったのだろう・笑――。
『セブン』第4話『マックス号応答せよ』と第6話『ダーク・ゾーン』で、同作では以降に最も多用された変身アイテム・ウルトラアイを一度、カメラの前にワザとらしく様式美的に突き出して(笑)、それから着眼してみせる変身スタイルを編み出した満田監督が、『80』最終回限定となった変則的な変身パターンを、『セブン』の逆変身パターンである光のウズを想起させるイメージで、ウェットなこのシーンに実にふさわしく、コレ見よがしではなく静かに描いてもおり、「映像的な見せ場」と「ウェットなドラマ」が両者ともに控えめではありながらも静かには主張してみせているような、水と油の両立の成功といった感じがまた実に味わい深いものがあるのだ。
互いに見つめ合って大きくうなずいたウルトラマンエイティとユリアンが今、大空の彼方へと飛翔する!
宇宙のかなたにあるウルトラの星へと帰還していくエイティとユリアン。歩行者天国や遊園地で戯れる矢的と涼子の姿。その両方の映像を交錯させていく……
そして、通常回ではクレジットがなされない各技術パートのセカンド・サードの担当者名までをも網羅したドラムロール式のエンディングタイトルが下から上へと流されていくことで、このエピソードが通常回とは異なる別格のものである、まさに最終回であったことを実感させていく……
♪ 今~は~ 青い~ この~星で~~
平和を愛する 皆のため
心~を~燃やす~~ ああ~ あいつ~~
地球で心を燃やし続けたアイツが、いま遠い星へと帰っていく。その先には輝き続けるM78星雲・ウルトラの星……
矢的「エイティ!!」
矢的による力強い変身時の掛け声で、ウルトラマンエイティの物語は幕を閉じていく……
『ウルトラマン80』最終回 ~80年代における私的感慨の変遷!
――最終回『あっ! キリンも象も氷になった!!』もお書きになってますが、これは?
「ああ、地球を氷漬けにするヤツね。あれは僕自身のテーマ付けではなくて、ほとんど満っちゃん(満田監督)のアイデアだったと思う。(TBSの)プロデューサーの野村清(のむら・きよし)さんとTBS近くのおでん屋さんの2階で「もうおしまいだから金もねえや」って、安いおでん食ったっていう、それだけ覚えてる(笑)」
先述した『宇宙船』Vol.6掲載の『80』終了特集でも、満田監督によって最終回製作にまつわる逸話が語られていた。本来、マーゴドンは南太平洋やアフリカ大陸を凍結させて――サブタイトルはそれに由来するものである――、太陽系の外惑星をも滅亡させた超怪獣として設定されており、スケールの大きな前後編で描く予定もあったのだそうだ。しかし、先の石堂先生の発言にもあるように「もうおしまいだからカネもねえや」と、主に予算上の都合(笑)で九州の南原市というミニマムな架空の都市を舞台にした話になったそうである。
『ウルトラマン80』の再評価を期して、そのシリーズ後半の各話評をつづってきた筆者だが、実は筆者も放映当時、すでに中学2年生に達していた(汗)。そして、当時の特撮マニアたちのご多分に漏れず、大人向け・ハード・シリアス・リアル・SF志向な作品こそが、日本特撮を再興させるのだと信じきってもいた(笑)。そんな筆者にとっての『ウルトラマン80』のシリーズ前半とは、幼児期から鑑賞してきた作品の再鑑賞としての、いわゆる「思い出補正」も働かないためであったのだろう。やや物足りない想いで視聴を続けていた作品ではあったのだ。
『ウルトラマン80』は、その第31話『怪獣の種(タネ)飛んだ』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20101127/p1)から「児童ドラマ編」へと突入する。このあたりで、筆者はついに『80』からリタイア・卒業してしまうのだ。その後はリアルタイムでは、バルタン星人5代目が登場することで気になった第37話『怖れていたバルタン星人の動物園作戦』と、「妄想ウルトラセブン」が登場した第44話『激ファイト! 80VS(たい)ウルトラセブン』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20110226/p1)の2本しか視聴していなかったりするのだ(汗)。
そんな筆者でも特撮マニアであるからには、『80』の最終回くらいは視聴しようと身構えてはいたのである。しかし…… 最終回にふさわしいシリアスな内容に仕上がるとはとても思えない『あっ! キリンも象も氷になった!!』なるサブタイトルを新聞のテレビ欄で見かけて……
「なんやこのフザケたサブタイトルは!? 仮にも最終回やろ! もっとマジメなタイトルを付けろや!」
などとまだローティーンであった筆者を激怒させて、視聴をボイコットさせてしまったのである(笑)。
――本誌『仮面特攻隊2011年号』に掲載された森川由浩氏の調査による『ウルトラマン80』関東・中部・関西の全話視聴率表によれば、それまで比較的好調だった中部・関西地区においても、「児童編」がスタートした第31話あたりから明らかに視聴率の低落傾向がうかがえる。これは「児童編」の内容が特にどうこうといったことではなく、真ウラの時間帯で80年10月から故・手塚治虫(てづか・おさむ)先生の大人気・元祖テレビアニメ(63年)のリメイク『鉄腕アトム』(80年・手塚プロ 日本テレビ)がスタートした影響が大きいとも思われる――
テレビの電波的には名古屋地区に在住していた筆者が、はじめて『ウルトラマン80』のシリーズ後半を視聴したのは、放映終了から2年が過ぎた1983年のことだった。この再放送は当初はTBS系列の中部日本放送が83年4月から毎週土曜朝6時45分の枠でスタートしたものだ。しかし、同年の夏休みに平日午前の朝10時から再放送がされていた『ウルトラセブン』――この夏休みには関東のTBSと関西の毎日放送でもバンダイ提供で早朝6時に再放送がされている。バンダイが放映枠を購入しての再放送であったか?――が夏休みの終了に伴なって、『80』が再放送中であった土曜朝6時45分枠に移動となったのだ。そして、その代わりに『80』再放送は平日朝6時へと押し出されるかたち(笑)となったものだった――名古屋地区での『80』再放送は2011年現在でも、このときの再放送が最後のものとなっている――。
この80年代前半~中盤は家庭用ビデオデッキも急速に普及した時期だった。第43話『ウルトラの星から飛んで来た女戦士』~第46話『恐れていたレッドキングの復活宣言』に至るイベント編の連打が、ちょうど高校の修学旅行の4日間とバッティングしてしまったものの、『ウルトラセブン』の再放送を録画するために貯金をはたいて購入していたVHSビデオデッキの留守録機能を活用することで難を逃れたことも思い出す(笑)。
――ちなみに当時のビデオデッキは10数万円台であり、ビデオテープも1巻が3~4000千円もする高価なものだった。年々値下がりはしていき80年代後半には10万円を割って、80年代末期にはビデオテープも1000円前後にまで下落するのだが。90~00年代にかけても値下がりは毎年続いていき、最終的にはビデオテープは数百円台となって、機器もテープも国内ではなく東南アジアでの生産となっていく――
そして、ついに『80』最終回を初視聴するときが来た。当時すでに高校2年生となっていた筆者は、これにおおいに感銘を受けたのだ。しばらくして再放送された『セブン』の最終回にも「ドラマ」の完成度では決して負けてはいない! と、その時点でも思ったくらいであった。おそらく第1期ウルトラシリーズ至上主義者であった中学2年生の時点でも、鑑賞さえしていれば感動したに相違ないと思ったくらいに……
このときの『80』最終回に対する感銘が、筆者を第1期ウルトラシリーズ至上主義の呪縛から解き放って、第2期ウルトラシリーズと第3期ウルトラシリーズに対する再評価運動の道へと進めさせたのかもしれない。そして、それ以来、
・1989年にビクターから発売されたビデオソフトをレンタルビデオ店で借りての再視聴
・同じく1989年にハミングバードから発売されたレーザーディスクを購入しての再視聴
数回の再視聴を重ねてきたが、その想いはいささかも揺らぐことはなかった。
このレーザーディスクを手放して以降は、再視聴の機会もなかった『80』ではあった――1999年にもバンダイビジュアルからVHSビデオソフトがリリースされたのだが、筆者の生活圏ではどこのレンタル店にも置いていなかったので・汗――。
しかし、『80』放映30周年を記念して、『ウルトラマン80 DVD30周年メモリアルBOXⅠ 熱血! 矢的先生編』(ASIN:B003E3X5OI)が2010年6月25日に、『メモリアルBOXⅡ 激闘! ウルトラマン80編』(ASIN:B003E4AZI6)が同年9月24日に、バンダイビジュアルから発売された。これによって、約17年ぶりに再視聴を果たすことができたのだ。
前回の視聴からでもかなりのブランクが空いており、その間にずいぶんと年齢も重ねてしまって、筆者の特撮変身ヒーロー作品に対する考え方も真逆なまでの変遷を遂げてしまっていた(汗)。10代から30代初めころの「テーマ性&ドラマ性至上主義者」から、現在では幼少期のように「ヒーロー性&カタルシス至上主義者」へと「2段変身」または「逆変身」(笑)を遂げてしまった筆者だが、それでもこの「テーマ性&ドラマ性」を重視していた『80』最終回には今でもスナオに感動せずにはいられない……
『ウルトラマン80』最終回に連なっている、歴代ウルトラシリーズ最終回のテーマ的な発展継承!
思えばウルトラマンという巨大超人に頼ってしまう人間の「依存心」については、初代『ウルトラマン』第37話『小さな英雄』において、普段はギャグ・メーカーだった科学特捜隊のイデ隊員が、
「ウルトラマンがいれば、科学特捜隊は必要ないと思うんだ……」
などという悩みを、実は初代ウルトラマンに変身することを隠している主人公・ハヤタ隊員自身に打ち明けたことに端を発している――そういえば、同話も満田かずほの監督作であった――。
「ウルトラマン」といった「超越的な存在」に頼ってしまって、人間たちが自助努力を放棄して、あるいはいっそ封建的な忠誠心のように依存してしまい、自堕落へと陥(おちい)ってしまう可能性。それは超人には変身しないマッチョな強者の人間を描いている一般のヒーローものにもハラまれている、いやそれどころかフィクションにかぎらず現実世界の人類全員が抱えてもいるような普遍的な問題ですらあるのだ。
最終的には怪獣をウルトラマンが倒してしまうのであれば、人間たちによる怪獣退治の専門家集団である防衛組織の存在も不要である。そうであるならば、劇中内での防衛組織の隊員たちも、ウルトラマンに無意識的にではあっても依存してしまうという事態は人情的には仕方がないし、ある意味ではそれは究極のリアリティー描写でもある…… この普遍的な問題は、レギュラーキャラである「防衛組織」を隊員たちを、レギュラーキャラである民間人の「少年」に代入してみせるかたちで、70年代前半に放映された第2期ウルトラシリーズにも変奏されていったのは、先にもふれた通りである。
・『ウルトラマンタロウ』最終回(第53話)『さらばタロウよ! ウルトラの母よ!』
・『ウルトラマンレオ』最終回(第51話)『恐怖の円盤生物シリーズ! さようならレオ! 太陽への出発(たびだち)』
両作においては、ウルトラマンタロウに頼ろうとする白鳥健一(しらとり・けんいち)くんや、ウルトラマンレオに頼ろうとする梅田トオルくんの、依存的なメンタルが問題視されている。そして、タロウに変身する主人公・東光太郎(ひがし・こうたろう)が、あるいはレオに変身する主人公・おおとりゲンが、少年に自分の力だけで生きていくように諭(さと)すために、自らの正体も明かして最終決戦に臨んで、そして少年の許から去っていくという姿が描かれるかたちで、このテーマは貫通されてきた。
70~90年代の特撮論壇では、第2期&第3期ウルトラシリーズには「テーマやドラマがない」などという誤解や偏見がまかり通っていたものだ(笑)。しかし、『タロウ』や『レオ』最終回は、まさに初代『マン』最終回や『セブン』最終回ではある意味では点描に過ぎなかったテーマを、ミニマムな少年ドラマに翻案した変奏ではあったのだ。
『帰ってきたウルトラマン』最終回(第51話)『ウルトラ5つの誓い』においては、ウルトラの星を襲撃しようとする触角宇宙人バット星人が率いる連合艦隊を迎撃するために、地球を去っていったウルトラマンジャック=郷秀樹(ごう・ひでき)に向かって、レギュラーである坂田次郎(さかた・じろう)少年が叫んだ「ウルトラ5つの誓い」の中には、
「他人の力を頼りにしないこと!」
なるものもあった。ラストシーンで伏線もなしに唐突に言及されるこの「ウルトラ5つの誓い」は、取って付けたような感は否めなかったものの、これもまさに「依存心」からの脱却を謳(うた)ったものではあったのだ。
『帰ってきた』最終回の後日談として描かれた『ウルトラマンA』第10話『決戦! エース対郷秀樹』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060709/p1)で再登場した次郎少年は、兄のように慕(した)っていた郷秀樹に化けていた変身怪人アンチラ星人に立ち向かっていく勇気を見せている。これこそ次郎が「ウルトラ5つの誓い」を守り続けていた証(あかし)として、『帰ってきた』の最終回以上に見事に機能もしており、「依存心」から脱却して「自立」するというテーマは、シリーズを越えて見事に継承されたのだ。
先にもふれたが、この「自立」テーマは、ウルトラマン側の事情を知ってしまって防衛組織の隊員たちが奮起をする姿で、『セブン』最終回を例えに出すならば、モロボシ・ダンにその正体を告白された防衛組織・ウルトラ警備隊の紅一点・アンヌ隊員から、
「ウルトラセブンの正体は、あたしたちのダンだったのよ! M78星雲から派遣された平和の使者で、自分を犠牲にしてまでこの地球のために戦っているんだわ! でもこれが最後の戦いよ! ダンは自分の星に帰らなければならないの!」
と聞かされたキリヤマ隊長が、双頭怪獣・改造パンドンに痛めつけられるセブンの姿を見て、
「行こう! 地球は我々人類、自らの手で守りぬかねばならないんだ!」
と叫んで、3機に分離した戦闘機・ウルトラホーク1号とウルトラホーク3号の4機編隊というパターン破りの編成で――『80』最終回でのUGM戦闘機の異色な4機編隊もこれを踏襲したものか!?――、改造パンドンに総攻撃をかけるウルトラ警備隊の姿でもすでに点描はされている。
『80』の最終回もまた、それまでのウルトラシリーズ最終回で繰り返して描かれてきたテーマ・ドラマの発展型ではあって、今にして思えば昭和のウルトラシリーズの総決算的な内容だったと総括もできるだろう。
『ウルトラマン80』最終回 ~シリーズ共通の「依存心」問題! シリーズ独自の「マイナスエネルギー」問題!
『80』はその放映開始の当初には、人間の心の「弱さ」「醜さ」が「マイナスエネルギー」となって怪獣を生み出したり怪獣に力を与えてしまうと設定されていた。やや牽強付会な深読みも云わせてもらえば、この「依存心」こそが広義の意味での最大の「マイナスエネルギー」であったとして位置づけしてみせてもよいのかもしれない。
オオヤマキャップはマーゴドンについて、
「これは私も予想だにしなかった、太陽系全体の破滅に結びつくかもしれん。万一そうなれば、それは皆、我々UGMの責任だ。我々はこれまで色々な怪獣と戦ってきた。しかし今度のヤツこそ最大で最後のものだと思う。ヤツに勝てば、もうUGMは無敵だ!」
と語っている。このセリフを深読みしてみせれば、「最大で最後」のマーゴドンを出現させたのは、「依存心」という名の最大の「マイナスエネルギー」を発散し続けたUGMであったとも解釈ができるのだ。そして、その「依存心」を打ち消すことができれば、怪獣が出現することもなくなる……
高邁なる概念ではある。そして、その概念にはもちろん一理も二理もあるのだ。しかし、やや思弁的ではあり、放映当時の幼児や児童たちにとっては高度すぎるリテラシーを要求される概念ではあったかもしれない。このような思弁的・精神的な概念に基づく怪獣やモンスターの存在は、それ以前のジャンル作品ではSF映画の古典『禁断の惑星』(1956年)に登場した植民惑星に生息する、相手の無意識や潜在意識にあるイメージを実体化させる「イドの怪物」くらいしか筆者には思いつかない。
しかし、『80』の放映が終了した1980年代以降は、マイナスエネルギーのごとき人間の負の精神が、ゲスト主役を怪物化させてしまい、ヒーローがこれと戦って元の人間の姿に戻してみせるといった作劇が徐々に一般化していく。そして、女児向けテレビアニメ『美少女戦士セーラームーン』(92~97年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20041105/p1)や『プリキュア』シリーズ(04年~・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20201227/p1)などではそのフォーマットがデフォルトともなっていき、各話のゲスト主役が負の精神を悪に利用されてそのまま同話の敵怪人や敵怪獣に化すことで「ドラマ」と「バトル」の一体化までをも成し遂げていくのだ…… その意味では、『80』におけるマイナスエネルギーの概念は早すぎたのかもしれず、そしてその劇中内での描写もこなれたものではなかったかもしれない。
「立ち向かう人の心は鏡なり」という格言がある。これは「相手の態度や心は、実は自分自身の態度や心の反映でもあり反射でもあって、悪人に見えているその相手は、実は自分自身の醜い心の反映なのだから、相手を責める前にまずは自分の心を省(かえり)みなさい」というような意味である。
哲学や宗教の方面では、これを「個人」VS「個人」ではなく「個人」VS「世界」の次元にまで拡張した「唯心論」や「独我論」という概念までもが存在する。つまり、相手の「人間」どころか「社会」や「世界」も、「個人(自分)」の心の反映であるのだと。これがもっと極端に行ってしまうと、「世界」には実は「自分」ひとりだけしか実在しておらず、「世界」のすべては「個人」の夢まぼろしの錯覚や幻想、あるいは「宇宙」全体自体を「(自分)個人」が実は創造しているのだ! ……というようなトンデモ概念にまで到達していくのだ――大人気ライトノベルの深夜アニメ化『涼宮ハルヒの憂鬱(ゆううつ)』(06年)の序盤みたいな話だが・笑――。
これらの考え方は半分は正しいと思う。しかし、俗っぽく要約してしまえば、要は「心の持ちよう」という話であって、何事にも当てハマってすべての物事を即座に解決もできてしまうような万能の理論であるとはとても思えないのだ。
「ヤツに勝てば、もうUGMは無敵だ!」
そう。逆に云うならば、ヤツに勝ってもまた別の怪獣が出現する可能性はあるのである。けれども、マーゴドンを倒してみせた人類は、もう怪獣に対しては過剰におびえる必要はないのだろう。
しかし、人間の「心理的なマイナスエネルギー」や「物理的な自然破壊」によらずとも、人類側の事情とはまるで無関係に、純粋に野生の野良怪獣がおのずと冬眠から目覚めて復活してきたり、力押しの悪意ある宇宙人が通り魔的に侵略してくる可能性はあるということだ! 人類がその心を清く正しくして生きていったとしても、論理的には「マイナスエネルギー」には起因しない怪獣や宇宙人の猛威が再発することはありうるのだ!
そしてそこでは、やはり弱き人間が超人ヒーローに依存してしまうという問題が再び浮上することになるだろう。仮に「マイナスエネルギー」の問題が解決できたとしても、危機に際しては「依存心」の問題が再発することはありうるのだ。よって、「依存心」の問題設定までもが色アセてしまうことはないのである。
『ウルトラマン80』最終回 ~「ウルトラマン」と「防衛組織」の役割がハラんでいる矛盾への肉薄・解消・堂々巡り!
実はそれに対する回答も、『80』の中ではすでに先回りして用意もされていた……
石堂先生の脚本回である第37話で、UGM訪問の豆記者に選ばれた小林正行少年に、
「エイティはUGMが負けそうになると出現するけれど、どうしてですか?」
とたずねられて、困りはてたイトウチーフがやや苦しまぎれ(笑)にこう語っている。
「わかった! あのね、UGMってのは“人事”で、エイティってのは“天命”なんだ。“天命”。そうなんだ、そういうことなんだ」
矢的隊員もそれを子供向けに、以下のように翻訳して敷衍(ふえん)してみせている。
「それはねぇ、“人事を尽くして天命を待つ”。UGMだって、さっき君たちが見た通り、もう一所懸命なんだ。つまり、人間としてやれるだけのことをやって、あとは運を天に任す。戦いというものは、いや戦いだけではなく、私たちの生活全部がそうなのかもしれないね」
たしかに我々の生活や人生はすべてそうなのだ。最初から運を天に任せて神風が吹くのを待とう! という甘い考えであってはダメなのである。まずは個人で、あるいは神さま頼みではなく人間個人が、人間たち自身が努力を重ねることが必要なのだ。あるいは、困窮している他人がいれば個人個人が助けてあげるべきなのだ。神さまやお国ごときの登場は順番的には最後でよいのだ。
でなければ、人間は「易(やす)きに流れる」者でもあるので、古代ローマ帝国末期における外国人傭兵に頼って「パンとサーカス」を求めるだけの愚昧(ぐまい)なるローマ市民に容易に陥ってしまうのだ。そして、宇宙の遊牧民族であるガラガラ星人ならぬ蛮族・ゲルマン民族が大移動してきても、無抵抗のままでやすやすと滅亡させられてしまうようなブザマな仕儀とあいなってしまうのである(汗)。
オオヤマ「人間にはできないというのか!?」
おもわず矢的=エイティをドキッ! とさせたほどの、最終回においては、強い口調で徴発でもしてみせるかのように叫んでみせたオオヤマキャップ。彼の言動はエイティに対する反発心では決してないのだ。
同じく石堂先生の脚本回である第47話『魔のグローブ 落し物にご用心!!』では、オリオン座のブレイアード星の滅亡について語ってしまったことで、オオヤマキャップに不審に思われたユリアンこと涼子を、
「地球人がヘンに我々の力をアテにしはじめるのが一番コワいんだ」
などと矢的がたしなめる描写があった。その正体がウルトラマンであることを隠さなければならない理由。それはまさに「自助努力」を放棄させてしまう「依存心」の問題なのである。地球人の「依存心」からの決別は、やはりウルトラシリーズの最終回ではその物語を完結させるにあたって選ばれるべきテーマだったのだ。
しかし、「依存心」からの決別は、『セブン』最終回・『タロウ』最終回・『レオ』最終回でも、主人公青年たちが自らウルトラマンであることの正体を明かしたことが契機となっていた。だが、『80』最終回ではこの経緯の時系列が逆となる。主人公青年の正体がウルトラマンであることが周囲に薄々とバレていくかたちで、1話完結形式をも超えた小出しの連続ストーリー的な感覚も醸し出していくのだ。
最終回でオオヤマキャップとイトウチーフが矢的と涼子の正体を知っていたという件も、決して唐突な取って付けたような描写ではなかった。第43話で「ユリアン編」に突入した、もうその次の回である第44話では、矢的とテレパシーで会話していた涼子に、
「なにをひとりで物想いにふけっている。テレパシーで通信でも送っているのか?」
などとイトウチーフが語りかけたり、第47話のブレイアード星がオゾン層の破壊で紫外線怪獣が出現した逸話をうっかり口にしてしまうユリアンといった描写で、ある意味ではコレ見よがしのワザとらしいくらいのかたちで(笑)、再三に渡って伏線が張られてもきたのだ。
第37話ではオオヤマキャップが、
「エイティはね、我々と口こそ聞かないけれど、我々の考えを皆知っている。その知り具合があまりにスゴいので、エイティはねぇ、普段はこのUGMの内部のどこかにひっそりと隠れているんじゃないかと疑うときさえあるくらいだ」
とまで少年豆記者を相手に、あくまでも冗談としての合理的な推測を語っていたりもする。
もちろんこの時点では最終回を念頭に置いていた伏線であったハズはないだろう。しかし、怪獣VSウルトラマンの戦いを描いている虚構世界の登場人物のメンタルや劇中内事象に対する合理的な解釈を推測してみせれば、防衛組織の有能な隊長がこのように仮説として推論を述べてみせることは、究極のリアリティー描写ではあったのだ。
ウルトラの星にエイティとユリアンが帰らなければならない事情ができて、それをユリアンがエイティに知らせるためにやってきたという話も、第43話にてウルトラの星との全面戦争で王子を失ったガルタン大王がエイティの命をねらっていることをユリアンがエイティに知らせるためだけに地球に来訪していたので、それがウルトラの星への帰還命令も兼ねたものではなかったとすれば、やや矛盾にはなっている。しかしそれは、好意的に深読みしてあげれば脳内補完ができる程度の軽微な不備に過ぎない。前話である第49話では強敵2大怪獣とのバトルでダメージを負った姿を見せてもいるエイティなのだから、ウルトラの星へと帰還して休息をとる必要があったとは思えもするのだ。
そんな彼らの事情までをも踏まえて、エイティとユリアンには安心してウルトラの星に帰ってもらうためにも、地球人だけで怪獣を倒そうという強い決意で戦場に臨んでいくオオヤマキャップの姿には、やはり感動をおぼえずにはいられない。
しかし、物事というものは常に多面体の相貌を持つように、よほどの幼児や特定の狂信的なイデオロギーに染まっていないのならば、人間の心理もまた多面的な相貌を持っているのだ。そして、どれかひとつの面が「正解」かつ「正義」でもあり、それとは相反する他の面がすべて「不正解」であり「悪」ですらあるということもまた滅多にないのである。
少年・人間・地球人・人類の総体にとってはウルトラマンに依存し続けることは、彼らの「成長」や「成熟」や「自立」にとっても望ましいことでは決してないだろう。しかし、ひとりの人間としてのオオヤマ個人にとっては、個人的な親交もある矢的個人、ひいてはウルトラマンエイティにはウルトラの星へと帰還してほしくはないのだ…… それもまた自身のポリシーとは相反するものであっても、偽らざる気持ちではあるだろう。
お別れパーティーの席上において、
「本当は…… 本当は…… ウルトラマンエイティにいつまでもいてほしかった……」
と、オオヤマキャップが相反する一方の本心を明かしている。
真情あふれる一個人としのてセリフではある。しかし、イジワルに見てしまえば、この私的心情が即座にとはいわずとも、二段論法・三段論法的には「依存心」へとまた舞い戻ってしまう可能性も論理的にはあるのである。
しょせん人間とはそんな小さな弱い存在なのであり、やはりウルトラマンの助けが時には必要なこともあるのかもしれない。「依存心」からの脱却をテーマにしながらも、この最終回からはまさに逆説的に、ウルトラマンの存在や互助的共同体や国家による福祉なども、消極的には最後の最後でジョーカー的に肯定できる論法もアクロバティックなロジックとしては導き出せるのかもしれない――やや牽強付会なのだが・汗――。
しかし、それはもちろんこの最終回が、ひいては『80』という作品自体がそこまでの主張を込めていたのだ! というようなことでもさらさらない。そのようなことは作品の外側である現実世界で、我々自身が別途に個別に検討しなければならない、また別の問題設定ではあるのだろうが。
それにしても、歴代ウルトラシリーズの最終回で、ここまで防衛組織の隊長がほとんど「主役級」の扱いで描かれた例はほかにない。ある意味でこの最終回の「テーマ」&「ドラマ」を一身に背負っていたのは、オオヤマキャップであったのだ。彼を演じたダンディーでクールでも内にある秘めた熱さも感じさせる中山仁の二重性がある熱演ぶりにはおもわず目頭(めがしら)を熱くさせるものがある。この最終回の「テーマ」&「ドラマ」性の完成度を実際に演技面から増強していたのは、ひとえに中山仁の迫真の演技力にあったとすらいえるのだ。
オーストラリアゾーンに転任していたハラダ隊員とタジマ隊員、アンドロイド・エミと、シリーズの途中で姿を消してしまったキャラクターたちが一同に会したこともまた、イジワルに見てしまえば、「依存心」からの脱却をテーマとしているのに、そこでウルトラマンの代わりにハラダとタジマ隊員を代入してみせただけだろう!? というツッコミも論理的には可能ではある(汗)。
しかし、年長マニアだけではなく子供たちであっても、変身ヒーロー番組がフィクションであることは重々承知の上で視聴はしているので(笑)、このような降板劇には残念な想いもしているものなのだ。そんな『80』をずっと見守ってきた視聴者たちに対して、ウルトラマンに頼るのではなく再登場した登場人物たちも含めての、あくまでも人間たちによる努力と奮戦の果てに強敵怪獣を倒してみせること! それは、最終回で描かれたテーマやドラマに、よりウラ打ちを与えていて、感動を深めることにも貢献しているとすら思えるのだ。
CS放送・ファミリー劇場で放映されていた『ウルトラ情報局』(02~11年)では、2010年5月から2011年4月にかけて放映された『ウルトラマン80』の週1放映に合わせて『80』ゆかりのキャスト&スタッフを招いたトークが放映されていた。そして、番組自体の最終回でもある『2011年4月号』では、タジマ隊員を演じていた新田修平がゲスト出演を果たしていた――髪の毛は白くなられたが変わられてはいなかった。お元気そうでなによりだ――。氏は最終回について「みんなでつくったんだから、みんなで終わろうよという暖かさが感じられて嬉しかった」と語ってくれている。もちろん途中降板の真相については語られなかったが(笑)。
「新田くんは神経質というかB型っぽい男で、「なんてワガママな奴なんだ」みたいなね(笑)。一度、新田くんが「サングラスをかけたい」って言い出したことがあって、「何考えてんだ」ってスタッフに一喝されてました(笑)」
「撮影所のあった成城(せいじょう)付近で焼肉屋さんに行ったり、飲みに行ったり。そこで「なんでスタッフはあんなに俺たちをいじめるんだ」なんて不満を言い合ったりしてね(笑)」
現場では色々とあったのだろうが、そのようなことはオクビにも出さずに、黙って墓場まで持っていくのがダンディーなオトナの態度なのである。だから近年の、いつまで経っても思春期・青年期みたいな「見て見て! ワタシを見て!」といった虚栄心がまるだしで、自分のことを欠点も含めてすべてまるごとわかってもらって許してもらえないと気が済まない! それでないと救われない! といった不平不満を自己正当化するかのような風潮にはホントにもうウンザリなのである(笑)――もちろんかつての自分自身に対する反省や自戒も込めてではありますヨ・汗――。
ハラダ「キャップ、いいところでやってきたでしょ」
もうこのカッコいい役回りとセリフに尽きるだろう――とはいえ、こういう作劇術を拡張していくと、ここに先輩ヒーローを代入していくことも可能となっていくのだが・笑――。
『ウルトラマン80』最終回 ~本来の構想。南太平洋・アフリカ・太陽系外惑星も氷結する前後編であったなら!
『80』放映終了から15年を経て復活した『ウルトラマンティガ』(96年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961201/p1)~『ウルトラマンメビウス』(06年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20070506/p1)に至る平成ウルトラシリーズ諸作品の最終回は、基本的には3部作として描かれることが通例となった。これは妥当な処置だろう。地球最大の危機に苦戦する防衛組織に、それまでの話数で登場してきたゲストキャラクターたちが何人も再登場して、一致団結して立ち向かっていく姿を描くことで、最終回にふさわしいスケールと盛り上がりも達成していたのだ。
元々は本作『80』の最終回も前後編として企画されていたことが明らかにされている。そして、時代の証言者として云わせてもらば、当時の子供たちがウルトラシリーズや特撮変身ヒーロー作品に望んでいたものも、そのような通常回とは異なるスケールで描かれる前後編形式での最終回ではあったのだ。
『80』最終回を賞賛ばかりしてきたが(笑)、ここで本来のターゲットであった幼児や小学生には、この最終回はどのように映っていたのか? というまた別の観点も提示して、その考察を深める必要があるだろう。先にも述べたように、筆者がこの最終回をはじめて視聴したのは高校2年のときであり、この時点ですでに本来のターゲットである年齢層ではなかったからだ。
まずはなんと云っても、ウルトラマンエイティがマーゴドンと直接バトルを展開しなかったことが、低年齢層には物足りなく思えたことだろう。この欠点については、回想場面でそれまでの同作におけるバトルを挿入したり、ラストでは矢的と涼子のウルトラマンへの変身シーンを入れたりと、一応のフォローはなされてはいる。しかし、それであっても子供たちにとってはどうであっただろうか?
年長の特撮マニア諸氏には肯定派が多かったようだが、変身後のヒーローが登場しなかったために、全国の就学前の幼児を不審がらせたり「大泣き」させてしまったという『仮面ライダークウガ』(00年)最終回(Episode49)『雄介』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001111/p1)と同様の受容、つまりは一部の幼児たちを「大泣き」させてしまった可能性も『80』最終回にはたしかにあるのだ(爆)。
「エンタメ性」を充分に確保ができているという前提で云うのだが、「テーマ性」や「ドラマ性」もそれはもちろん優れているのに越したことはないのである。しかし、それが行きすぎてしまって、本来の視聴者層である子供たちが「置いてきぼり」を喰らってしまうような難解な内容に仕上がってしまうこともまた問題ではあるのだ。
その意味では、オオヤマキャップが、
「今度の怪獣は地球のように炎のある、暖かい星のエネルギーを片っ端から吸い取って冷凍にしてしまう、宇宙から来たスゴいヤツだ」
などと説明されたマーゴドンだが、それならばワンカットだけでもよいので、南太平洋やアフリカ大陸、あるいは地球に襲来する前に太陽系の外惑星である土星や火星あたりを、全球凍結だとあまりに強くなりすぎてしまうので(笑)、その半球程度は氷結させてしまうような特撮映像を、そして宇宙空間でもUGMの宇宙戦艦スペースマミーと一戦を交えるような特撮カットを、やはり観てみたかった気はするのである――南原市のミニチュアをカメラ位置を変えて撮影して、これはオーストラリアのシドニーなのだ! などと云い張ってみせてもよかったのでは?・笑――。
「『80』でもスペースマミーがあるじゃないですか。スポンサーだったポピーが「ぜひ毎回出してほしい」と言うんですけれど、例えば静岡県あたりで事件があって、こんなデカいので行くのはどうかな? と(笑)」
残念! 『80』最終回に予算もあって前後編形式であれば、太陽系の外惑星も舞台となって、スペースマミーにも最後の見せ場があっただろうに!(笑)
ドラマもテーマも理解ができる年長マニアからすれば、ウルトラマンの力を借りずに防衛組織・UGMの独力だけで、強敵怪獣を撃破してみせたことには実は快感もあるのだ。テーマ的には首尾一貫したものさえ感じてしまうのだ。しかし、そのへんのリテラシーにはまだ欠けていて、単純に善と悪との純粋パワーゲーム・力比べとして観ているような子供たちからすれば、いかに凍結させた怪獣とはいえ、超兵器ですらないただの鉄球で倒すような特撮怪獣バトルにカタルシスを感じることはできていたのであろうか? 怪獣も弱くてUGMも無策ですらあった! などと、むしろマニアではなく小生意気な小学生こそがツッコミを入れてきそうな気もする(笑)。
――ここでまた脱線して、腐れウルトラシリーズ・オタクとしての蘊蓄トークを(汗)。ご承知の通り、『ウルトラマンタロウ』第3話『ウルトラの母はいつまでも』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20071216p1)でも、防衛組織・ZAT(ザット)によるトゲのついた鉄球での「パンチ弾攻撃」で、凍結された液体大怪獣コスモリキッドが粉砕されている。タロウが直前に両腕を突き出して放った冷凍光線・ウルトラフリーザーでコスモリキッドを凍結させていたからこそ使えた攻撃ではあったのだが――
初代『ウルトラマン』最終回(第39話)『さらばウルトラマン』では、初代ウルトラマンをも一度は絶命させた宇宙恐竜ゼットンを、岩本博士が開発した小型超兵器・無重力ペンシル弾を拳銃型の銃器の先端に付けただけの一発の銃撃によって、科学特捜隊が見事に粉砕してみせた。よって、『80』でもこのような近未来的な超兵器でマーゴドンを倒してみせた方がよかった可能性もあるのだ。
……などと云おうとしたのだが、幼少期の記憶を振り返らなくても、この最終回には「ゼットンに敗退した初代マンの落命」と「ウルトラ兄弟の長男・ゾフィー兄さんによる初代マンの召還」といった2大イメージしかないのも大方にとっての事実だろう。強敵怪獣ゼットン粉砕のことは取って付けたようなご都合主義ですらあり、鉛筆サイズの「ペンシル爆弾」の存在なぞは、幼少時には印象にすら残らなかったくらいだからだ(笑)。
同話では、初代マンがゾフィーによって光の国へと召還されていく際に、科学特捜隊のムラマツキャップが、
「地球の平和は我々、科学特捜隊の手で守りぬいていこう」
と語ってはおり、それはまさに正論ではあったのだ。しかし、これも取って付けたようなテーマ主義もどきなセリフに過ぎなくて、それまでのストーリー展開とも密接にカラんで心に響いてくるものではさらさらない(笑)。そういう比較論をしてみせれば、『80』最終回の方がテーマ面での提示においては成功しているといってもよいのだ。
そうなると、超兵器の見てくれのサイズの問題なのかもしれない。後出しジャンケンの思いつきで云うのだが、ならばジャイアントボールなるただの鉄球(笑)ではなく、ここで凍結させたマーゴドンに待機していたスペースマミーが体当りして木っ端微塵に粉砕するようなハデな特撮映像があった方がよかった可能性もあるのかもしれない!?
とはいえ、そこまで大掛かりな兵器での粉砕映像を観せられてしまうと、「小さな人間・一個人にでもできる範疇でのミニマムな努力を!」といったテーマ性がややウスれてもきてしまって、物量作戦・パワーゲームで勝てたようにも見えてくるので、やはり痛し痒しだよなぁ…… この問題は考え出すとキリがない!(笑)
ここまでは、ウルトラマンに依存をせずに人間自身の知恵と勇気と力で怪獣を倒してみせる「テーマ性」での前提に立った上での考察であった。ここから以降は、それとは真逆な方向性から、『80』最終回が持っていた、また別の可能性についても思索を深めてみたい。
『ウルトラマン80』最終回 ~同時期放映『スカイライダー』との比較! 先輩ヒーロー続々客演~最後は全員集合であったなら!
本作『ウルトラマン80』と同時期に放映されていたことから、『80』各話評でも幾度か対比として挙げてきた『(新)仮面ライダー』(79年・通称「スカイライダー」・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210102/p1)のことである。
『(新)仮面ライダー』では、
・第52話『洋(ひろし)の父が生きていた! 改造人間FX777(エフエックス・スリーセブン)とは?』
・第53話『魔神提督(まじんていとく)の最期(さいご)! そして大首領の正体は?』
・第54話『さらば筑波洋(つくば・ひろし)! 8人の勇士よ永遠に……』
と、その最終回が3部作(!)として構築されていた。
昭和の第1期ライダーシリーズ最終作である『仮面ライダーストロンガー』(75年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20201231/p1)の最終章が5部作(!)として構成された前例もすでにあったのだが、当時の1話完結型式が主流であった特撮変身ヒーロー作品では極めて異例な試みではあったのだ。そして、当時の子供たちも、そのスケールの大きなバトルに「これぞ観てみたかった最終回!」といったニュアンスで胸を熱くしていたのも事実なのだった。
この最終回3部作を手懸けたのが、80年代には大映テレビ製作のテレビドラマ群であまたの大ヒット作品を手懸けることになる、名脚本家の江連卓(えづれ・たかし)である。
氏はTBS側の野村清プロデューサーから「とにかく視聴率を上げてくれ!」というムチャな依頼で(笑)、本作『ウルトトラマン80』では、
・第40話『山からすもう小僧がやって来た』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20110129/p1)
・第43話『ウルトラの星から飛んで来た女戦士』
・第48話『死神山のスピードランナー』(https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210228/p1)
の都合3本の脚本を、水沢又三郎(みずさわ・またさぶろう)の名義で手懸けてもいる。氏は『(新)仮面ライダー』でもシリーズ後半からメインライターに昇格して、続く『仮面ライダースーパー1(ワン)』(80年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210822/p1)ではメインライターとして続投することになった。
この最終回3部作では、敵組織・ネオショッカーに殺害されたと思われていた主人公・筑波洋の父親が生存している可能性が語られる。しかもその父親は改造人間ナンバー・FX777にされており、その正体が大幹部・魔神提督であるかもしれない可能性(!)に洋が葛藤するという極めて重たいプライベートドラマが描かれる。表層的な作風としてはむしろ「原点回帰」を意識した『(新)仮面ライダー』初期編のころに回帰したような仕上がりですらあるのだ。
とはいえ、『仮面ライダー』第1作(71年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20140407/p1)の第1クールである通称「旧1号ライダー」編(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20140501/p1)に単純に回帰したワケでもない。『(新)仮面ライダー』第2クール目以降では姿を消してしまった、「原点回帰」と謳われながらも「旧1号」編らしさとは真逆な要素(笑)であった、スカイライダーの飛行能力・セイリングジャンプや愛用バイク・スカイターボで敵地を破壊する技・ライダーブレイクまでもが、久々に描かれてもいたからだ。
このあたりはむしろ「原点回帰」ではなく「エンタメ性」の賞揚、つまりは「旧1号」編への回帰ではさらさらないのだが、路線変更前の『(新)仮面ライダー』シリーズ前半の要素も包含してシリーズ前半と後半の両者を架橋、両立もさせながら「全肯定」もしてみせる! といった作劇意図だろう。
この3部作にはネオショッカーの新怪人は登場せず、昭和のライダーシリーズ終盤恒例の再生怪人軍団が登場することもなかった――3部作の1話目である第52話の冒頭では、これまでにスカイライダーに倒されてきた怪人たちの回想場面でバトル要素の補填はしていたが――。それまでの昭和ライダーシリーズの敵の大幹部たちとも同様に、ネオショッカーの初代大幹部・ゼネラルモンスターが第17話『やったぞ! G(ゼネラル)モンスターの最後』で怪人ヤモリジンとしての正体を現してスカイライダーとの最終決戦に臨んでいたこととも異なり、魔神提督はその最後に怪人の姿に変身することもなく、ドラマの比重が極めて高いものとなっているのだ。
しかしながら、最終回3部作の第1部である第52話から、荒木しげるが演じた7号ライダー『仮面ライダーストロンガー』(75年)に変身する主人公・城茂(じょう・しげる)が登場する! 第2部である第53話からは、佐々木剛(ささき・たけし)が演じた、『仮面ライダー』(71年)第14話『魔人サボテグロンの襲来』~第52話『おれの名は怪鳥人ギルガラスだ!』で、主人公を務めた仮面ライダー2号に変身していた一文字隼人(いちもんじ・はやと)も登場するのだ!
そして、最終回である第54話では、ストロンガーと2号ライダー以外の世界中に散っていた仮面ライダーたちもその全員が日本へと集結! ネオショッカー大首領と8人ライダーが総力戦を繰り広げてみせるのだ!――おそらく予算の都合で、2号ライダーとストロンガー以外は変身前の俳優は登場させられずに、そのボイスも声優によるものではあったのだが――
ネオショッカー大首領の正体は、
・『仮面ライダーX(エックス)』(74年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20141005/p1)第22話『恐怖の大巨人! キングダーク出現!!』~最終回(第35話)『さらばXライダー』に登場した敵組織・GOD(ゴッド)の大幹部「キングダーク」
・『仮面ライダーストロンガー』最終回(第39話)『さようなら! 栄光の7人ライダー!』に登場した、『ライダー』初作の敵組織・ショッカーから『ストロンガー』シリーズ前半の敵組織・ブラックサタンに至るまでの、歴代組織の真の黒幕であった「岩石大首領」
などのように巨人サイズの存在だったのだが、しかしそれらともまた差別化はされており、大きな両翼を生やした巨大ドラゴン型の怪獣としての外見を持っていた。着ぐるみ以外にも実物大想定サイズの巨大な頭部や腕・足・シッポの造形物まで用意されて、それらと戦うかたちで8人ライダーが肉弾アクションも披露した。
ネオショッカーのドクロ暗殺隊によって命を落としてしまった母親から大首領の急所が右足のウラにあることを聞かされていた洋=スカイライダーは、母の命を奪ったドクロ暗殺隊のボーガンで大首領の急所を撃つ! これに怒った大首領は東京上空で酸素破壊爆弾を爆発させようと大空に舞う! それを阻止するために8人ライダーたちはスカイライダーが重力低減装置を用いて発揮する飛行能力・セイリングジャンプも駆使して大首領の巨体を持ち上げて、大気圏外で大首領もろとも酸素破壊爆弾を爆発させて、大空の彼方に散っていく……
本誌『仮面特攻隊2010年号』に掲載された森川由浩氏の調査による『(新)仮面ライダー』関東・中部・関西の全話視聴率表によればこの最終回は、関東では15.1%、関西でも20.8%、中部に至っては実に23.0%もの高視聴率を稼いでいたのである! この勢いはそのまま80年10月から放映が開始された次回作『仮面ライダースーパー1』へと波及して、1クール目の平均視聴率が、関東では13.9%、関西では19.8%、中部では20.5%と、その好調ぶりがハッキリと数字に表れている。
対するに、その期間に該当する『80』3クール目の平均視聴率は、関東では8.4%、関西と中部は同じく11.1%に過ぎない。『スーパー1』のほぼ半分くらいの数字しか稼ぐことができていなかったのだ(汗)。
続く81年1~3月相当の『スーパー1』2クール目の平均視聴率は、関東が12.8%、関西が19.4%、中部が18.6%と、1クール目に比べるとわずかに下がってはいるものの、同時期の『80』4クール目の平均視聴率が、関東が8.9%、関西が12.8%、中部が12.3%だったのに比べれば、やはり大きく上回ってはいたのである。これに対して『80』の最終回は、関東が11.3%、関西が14.7%、中部が14.5%に過ぎない。『ライダー』との差は歴然としているのだ。
なぜこれほどまでに差がつけられてしまったのだろうか? 近年ではウルトラシリーズの商品的価値の凋落ぶりがよくささやかれるようにもなっている。しかし筆者としては、すでに30年も前からその兆候があったようにも思うのだ。
『80』も『(新)仮面ライダー』も、その最終回はともにどちらかと云えばドラマ主導のストーリーとなっていた。しかしながら、後者の場合は歴代の仮面ライダーが全員集合して最終決戦に挑むという高いイベント性をも兼ね備えてはいたのである。
『(新)仮面ライダー』では、
・第20話『2人(ふたり)の仮面ライダー もう1人(ひとり)はだれだ!』~第21話『ストロンガー登場! 2人ライダー対強敵2怪人』の前後編に、仮面ライダーストロンガー!
・第23話『怪人ムササビ兄弟と2人のライダー』に、仮面ライダーV3(ブイスリー)!
・第26話『3人ライダー対ネオショッカーの学校要塞』に、ライダーマン&仮面ライダーX!
このように、2クール目の後半から歴代ライダーが度々ゲスト出演することによって、それまではやや低迷していた番組の人気が急上昇することとなったのだ。
さらに3クール目の序盤である第27話『戦車と怪人二世部隊! 8人ライダー勢ぞろい』~第28話『8人ライダー友情の大特訓』の前後編、同時期に公開された映画『8人ライダーVS(たい)銀河王』(80年3月15日・『東映まんがまつり』枠内にて公開)では、当時の全ライダーである8人ライダーが大集結!
そして、第31話『走れXライダー! 筑波洋よ死ぬな!!』以降、第40話『追え隼人! カッパの皿が空をとぶ』に至るまで、それまでは変身後の姿のみで、その声も劇団テアトル・エコーの声優たちが歴代ライダーの声を担当していたのとは異なり、歴代シリーズで主人公を演じてきた俳優ご本人たちまでもが次々とゲスト出演を果たして、変身ポーズまでをも披露するという、超イベント編がなんと「10週連続」で放映されたのだった!
『(新)仮面ライダー』第29話以降の新エンディング主題歌も、そのものズバリの『輝け! 8人ライダー』とすることで、ここでも先輩ライダーの存在を前提としている作品自体の「世界観」を最大限に象徴させている――世代人であればご承知の通り、この名歌曲のイントロでDJ風の実にカッコいい英語での叫びを披露していたのは、80年代の土曜深夜に放映されていた洋楽番組『ベストヒットUSA』(81~89年)の司会で人気を博する小林克也(こばやし・かつや)であった――。
70年代~80年前後は、小学館の学年誌・児童漫画誌『コロコロコミック』・児童誌『てれびくん』で、ウルトラシリーズのウラ設定の大特集記事が大々的に組まれていたことはご承知のことだろう。しかし同時期には、講談社の『テレビマガジン』や徳間書店の『テレビランド』といった月刊幼児誌でも、毎号のようにカラーグラビアや別冊付録で「8人ライダー」の特集記事が組まれていたのだ。
そう、「ウルトラ兄弟」たちのようにスカイライダーもまた、『(新)仮面ライダー』という作品の主人公でありながらも、先行する歴代ライダーシリーズの作品世界とも直結した広大なる「設定」と「世界観」を有した、単発の特撮ヒーロー作品とは一線を画している「格上」のヒーロー作品として、子供たちの目には映っていたのだ。しかも、それは『秘密戦隊ゴレンジャー』(75年)のような5人がそろわないと敵怪人を倒すことができない、個々では弱い「集団ヒーロー」とも異なっている。自身の看板作品を持っている「単体ヒーロー」たちが集った、「格上」の存在である「超・集団ヒーロー」といった風格をも醸していたのだ!
そのような児童間での受容のされ方をも後押しとしつつ、歴代ライダーのゲスト出演を最大限のウリともすることで、『(新)仮面ライダー』は視聴率面=人気面でも成功したのであった……
ひるがえって、ウルトラシリーズのマスコミ上での展開をおさらいしてみよう。小学館の『てれびくん』や各学年誌における『80』特集記事でも実は当時、歴代の「ウルトラ兄弟」たちはほぼ毎月登場してはいた。しかし、肝心の『80』という作品本編では、「ウルトラ兄弟」や「ウルトラファミリー」をまったくウリにすることはなかった。シリーズも終盤に至っていた第38話『大空にひびけウルトラの父の声』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20110115/p1)で「ウルトラ兄弟」たちの義父である「ウルトラの父」がエイティこと主人公・矢的隊員が見た幻影のようなかたちで登場した程度である。第44話『激ファイト! 80VSウルトラセブン』に登場したウルトラセブンも偽者にすぎなかったのだ。これでは先輩ヒーロー客演のカタルシスには欠けようというものだ。
『80』本編での先輩ヒーロー客演といった「イベント」面での弱さが、そしてそれを最終展開でも有効に活用してみせるような「シリーズ構成」的な発想の欠如が、その最終回を子供たちが単純に喜べるかたちで盛り上げることにおおいに水を差す結果となっているのだ。
――満田さんとしては、どのような最終回にしようと思われましたか?
「最終回は悲壮な終わり方ではなく、とりあえず用事ができたから、いったんウルトラの星へ帰るみたいな感じですよね。視聴者には、数年経ったらまたウルトラマンに会えるんだっていう期待感を持ってほしかった。当時は最終回といっても、2~3年もすればまた次のウルトラマンが製作できると思っていたんだよね。『セブン』の時なんかは、個人的にもこういうヒーローものは二度と作れない、本当にこれで終わりだぞと思ってやった。だけど『帰ってきたウルトラマン』が始まって4シリーズを製作できた。また同じように『ザ★ウル』から『80』になった。そういう流れがあったので、当時はこれで終わりだという気持ちが薄かったというのが正直なところです。そういう意味では僕たちの考えが甘かった、というのはありましたね」
『ウルトラマン80』が終了して『ウルトラマンティガ』が製作されるまでの間に、2~3年どころか15年半もの長い空白期間が生まれてしまったのは、つまるところ、『80』本編で先輩ウルトラ兄弟たちがひんぱんに客演しなかったことに尽きるのではなかろうか?
『ウルトラマン80』最終回 ~第2期ウルトラシリーズ各作の最終回でも欠如していたスケール感やヒーロー大集合要素!
私事で恐縮だが、筆者は『帰ってきたウルトラマン』~『ウルトラマンレオ』に至る第2期ウルトラシリーズを、幼稚園児から小学校低学年にかけてリアルタイムで視聴してきたオジサンである。
・『帰ってきた』第18話『ウルトラセブン参上!』に客演したウルトラセブンへの興奮
・『帰ってきた』第38話『ウルトラの星 光る時』では、初代ウルトラマンマンとウルトラセブンがおのおのの主題歌に乗って、帰ってきたウルトラマンを救出するために登場して、変身前のハヤタ隊員とダン隊員の姿でも共演を果たした場面
・『ウルトラマンA』第5話『大蟻超獣対ウルトラ兄弟』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060604/p1)では、ウルトラ兄弟の長男・ゾフィーがエースの危機に駆けつける場面
・『ウルトラマンA』第14話『銀河に散った5つの星』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060805/p1)では、ゴルゴダ星で十字架に磔になっているウルトラ4兄弟をバックに繰り広げられる、ウルトラマンエースVS異次元超人エースキラー
・『ウルトラマンA』第27話『奇跡! ウルトラの父』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20061105/p1)では、地獄星人ヒッポリト星人に敗れたウルトラの父を兄弟たちが葬送する場面
・『ウルトラマンタロウ』第34話『ウルトラ6兄弟最後の日!』での、ウルトラ6兄弟VS極悪宇宙人テンペラー星人の白昼での決戦
・『ウルトラマンタロウ』第40話『ウルトラ兄弟を超えてゆけ!』では、オープニングに「35大怪獣・宇宙人」の名前がズラッと並んでいるのにワクワクして、当時の学年誌に「兄弟たちとの戦いで(暴君怪獣)タイラントは疲れているし、地球に来るまでにタロウはじっくりと作戦をたてることができるので、きっとタイラントに勝つだろう」と書かれていたこと(笑)
しかしその半面、『帰ってきた』も『A』も『タロウ』も『レオ』も、どの最終回もリアルタイムで視聴した際の記憶はまったく残っていないのだ――『帰ってきた』最終回自体の記憶はないのだが、『帰ってきた』終盤に数週オンエアされた『A』の新番組予告編を観た記憶は残っていて、タイトルが変更前の『ウルトラA』だったことまで鮮明に憶えている。そこにはやはりウルトラ5兄弟が勢揃いしている姿があったのだが!――。
これらは筆者の極私的な感慨ではない。特に濃ゆい特撮マニアではなくとも、同世代の人間たちにも共通する最大公約数的な感慨なのだ。
ここまでは、第2期ウルトラシリーズにおける先輩ヒーロー客演のイベント編の存在を賞揚してきた。しかし、賢明なる特撮マニア諸氏であればご存じの通り、第2期ウルトラシリーズでもイベント編は例外的なエピソードではあったのだ。
基本的には第2期ウルトラシリーズは、TBS側のプロデューサーである橋本洋二の意向で、「SF性」や「娯楽活劇性」よりも「テーマ性」や「ドラマ性」を重視することが脚本家たちには要求されていた。それはそれで作品的な稔りにもつながったのは事実だ。1960年代以前や70年代後半以降のジャンル作品には見られない、独自のニガ味がある高度な「人間ドラマ」や「児童ドラマ」も達成されてはいたのだ。そして、筆者自身もそのようなエピソードの良さを「第2期ウルトラ再評価」と称して賞賛していたりもする。しかし、そこにはウラハラな気持ちもあるのだ。長じてからその「テーマ」や「ドラマ」の高度さがわかる子供向け番組なぞは、それ自体が矛盾であり失敗なのではないのかと……
とはいえ、橋本プロデューサーの本意ではなかったとしても、第2期ウルトラシリーズではその各作のシリーズ中盤では高い「イベント性」を兼ね備えた先輩ヒーロー客演編が続出していた。そして、そのときの大興奮をよすがにして、当時の子供たちはまたその興奮を味わいたくて、ウルトラシリーズの通常編もガマンをして鑑賞していたのかもしれない。そういう意味においては結果的にはバランスが取れていたのかもしれないのだ(笑)。
しかし、第2期ウルトラシリーズ各作の最終回に対して、当の子供たちはどう感じていたのであろうか? たしかに長じてから再鑑賞すると、そのテーマ性は高度なのである。レギュラーの少年キャラをドラマの中心に据えているために、そのテイストはややチャイルディッシュではある。幼児はともかく当の児童たちには、自分たちの年齢に近しいからこそ子役たちの演技が鼻についたりもするだろう。そんな「日常」的な所帯じみた同年代の子役たちよりも、ヒーロー・怪獣・スーパーメカ・原色の制服姿の隊員たち・天変地異・ビル破壊・大宇宙・爆発ドンパチ・大格闘! などといった「非日常」の映像こそをもっと見せてくれヨ! などとも想っていたことだろう。そんな彼らに対しては、第2期ウルトラシリーズ各作の最終回は大変残念ながらも訴えかけるところが少なかったのではあるまいか?
・『仮面ライダー』最終回(第98話)『ゲルショッカー全滅! 首領の最後!!』では、1号ライダー&2号ライダーのダブルライダーとゲルショッカー再生怪人軍団が決戦を繰り広げていた!
・『マジンガーZ』(72年・東映動画→現東映アニメーション フジテレビ・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20200119/p1)最終回の先行上映版でもある劇場版『マジンガーZ対暗黒大将軍』(74年3月16日・『東映まんがまつり』枠内で公開)では、マジンガーZの危機に後番組『グレートマジンガー』(74年・東映動画 フジテレビ)が助っ人参戦してその圧倒的な強さも見せていた!
両作ともにテーマらしいテーマはさほどない。通常回とは異なるスケールの敵の大軍団が押し寄せてきて苦境に陥るも、2大ヒーローが押し返してみせるカタルシスの実現が主眼となっているだけである(笑)。
欠損家庭を描いたのは第2期ウルトラだけにあらず! 70年代前半作品の特徴! しかしバトル&爽快な共演に徹した2大作品が勝者に!!
もう少し細かく云わせてもらうと、第2期ウルトラシリーズに登場したレギュラー少年たちは、いずれも欠損家庭の子供たちであった。これは実は第2期ウルトラシリーズ特有のものではない。70年代前中盤の小学館の各学年誌などには、このようないわゆる『家なき子』や『母をたずねて三千里』パターンの連載読みものなどが必ずあったものなのだ。テレビアニメでも『昆虫物語みつばちハッチ』(70年)や『樫の木モック』(72年・『ピノキオ』のアレンジ)や『けろっこデメタン』(73年)などといった、70年代後半以降のモノサシで測れば子供向け番組としてはやや陰気で物悲しい番組(汗)が隆盛を極めてもいた。
これらは純真無垢で牧歌的なテイストの作品が多かった1960年代の草創期テレビアニメの作品群ともまた異なるカラーを持っている。それはなぜなのだろうか? その理由を推測してみるに、おそらく草創期のテレビアニメや特撮をつくってきたスタッフたちの練度もこの時期にはちょうど高まってきており、そろそろ彼らも独自の「テーマ性」や「ドラマ性」、もっと云ってしまえば「作家性」とでもいうべきものを担当作品で前面に押し出してみたい! ……といった願望が発露されていたのではなかろうか?
加えて、当時のつくり手たちは、昭和10~20年代生まれの世代が中心であった。つまりは太平洋戦争や終戦直後の焼跡闇市を体験、戦災孤児なども目撃してきた世代でもあったのだ。そんな彼らが長じて当時の子供たちに向けてつくった作品が欠損家庭ものや『家なき子』ものであったことは当然のことだったのかもしれない――たとえば梶原一騎原作の大人気テレビアニメ『タイガーマスク』(69~71年)の正体である伊達直人(だて・なおと)青年なども戦災孤児上がりであり、そんな彼がファイトマネーを孤児院に寄付しているといった描写がその端的なものだろう――。
とはいえ、そこに先の大戦の匂いをかすかに感じつつも、両親の庇護の許でヌクヌクと平穏な70年代の昭和元禄の時代を生きている当時の子供たちにとっては、それらは遠いむかしの歴史の1ページでもあったのだ(汗)――「平穏な70年代」などと記してしまったが、60年代を舞台にした映画『ALWAYS(オールウェイズ) 三丁目の夕日』(05年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20080316/p1)などにもいえることなのだが、70年代や60年代や昭和の時代を美化して回顧しているのもまた、当時はまだ子供であった世代たちであって、すでに当時はオトナであった世代の人間たちから見れば、いろいろな気苦労や不便や経済的貧困に対して不平をカコっていた時代であった可能性も高いのだが・汗――。
そして、70年代前半においては、第2期ウルトラシリーズも『みつばちハッチ』も『樫の木モック』も『けろっこデメタン』も相応には人気を集めつつも、当時の子供番組の覇者になったワケでもなかったのだった。30分尺の前半Aパートでも後半Bパートでも、ほぼノン・テーマで「戦闘」や「攻防」の楽しさをゲーム的に全編を通じて描くことに徹していた『仮面ライダー』シリーズと『マジンガーZ』シリーズ。この2大シリーズが結局はあの時代の王者に登り詰めていくのだ(笑)。
だから、今後の特撮変身ヒーロー作品が進むべき道は、もっと「戦闘」色を強くして、そして長大なる全シリーズを全肯定して、時に先輩ヒーローも客演してみせる路線にこそ、活路があるのではなかろうか!?
まぁ、本稿執筆時点でもある2011年11月現在でも、
・11年12月公開の映画『仮面ライダーフォーゼ×仮面ライダーオーズ MOVIE(ムービー)大戦 MEGAMAX(メガマックス)』には、昭和の7人ライダーが登場!
・12年1月公開の映画『海賊戦隊ゴーカイジャーVS(たい)宇宙刑事ギャバン』には、放映30周年を記念してかメタルヒーローの元祖『宇宙刑事ギャバン』(82年)が登場!
・12年3月公開の映画『ウルトラマンサーガ』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20140113/p1)でも、ウルトラマンゼロ・ウルトラマンコスモス・ウルトラマンダイナ・昭和のウルトラ兄弟が登場!
などなど、筆者が特に声高に叫ばなくても、すでにそうなっちゃっていますけど(笑)。
『ウルトラマン80』最終回が提示した「依存心」の問題に対するひとつの解! ~25年後の正統続編『ウルトラマンメビウス』!
先輩ヒーローが客演する「イベント編」の絶大なる効果についての考察をつづってきた。
それでは、ナマ身では弱い個人としての人間たちがどうしても抱いてしまう超人や英雄たちへの「依存心」の問題については、どのようにして解決すべきなのであろうか? 怪獣退治が専門である防衛組織が子供たちにも不要に思われないためにはどのようにして描写すればよいのであろうか? 昭和のライダーガールズたちがショッカーの人質要員(笑)にとどまらないためにはどうのように描写すればよかったのであろうか?
これについても、ジャンル作品の歴史自体がまたもうすでに実に長大であったというべきか、そのようなことをマニア諸氏も、そしてマニア上がりでもある世代交代を遂げたスタッフ諸氏も、脳内の片スミで人生途上に延々と黙考を重ねてきたのに違いない。いかに我々は浮世離れした奇人変人・ヒマ人たちの集団であったことか?(笑)
そのひとつが、『ウルトラマン80』の25年後の世界を舞台とする昭和ウルトラシリーズの直系続編として製作された、はるか後年の『ウルトラマンメビウス』である。同作では、怪獣に苦戦しがちな新米ウルトラマンであるウルトマンメビウスに、防衛組織・GUYS(ガイズ)が歴代シリーズの侵略宇宙人たちの円盤の残骸などを研究して構築したオーバーテクノロジー=メテオールなる超絶科学技術を駆使して逆転のチャンスを与えて、それが勝利につながるといったパターンがひんぱんに描かれることとなったのだ。
もちろん、ヒーローを活躍させる作品である以上は、ウルトラマンに対する「依存心」自体は完全に霧消したワケではない。それについては当然のことながら残ってはいるだろう。そして、それがなければ防衛組織の隊員たちはウルトラマンメビウスに即座にウルトラの星へ帰れ! と要求しなければスジも通らなくなる(笑)。しかし、防衛組織の隊員たちがそのカッコいい超テクノロジーを駆使して敵怪獣を翻弄してウルトラマンをもサポートする姿で、「防衛組織の無用論」や「ヒーローへの依存心」の問題は完全解決はしなくてもかなりの程度に緩和ができてはいるのだ。同作を観ていた子供たちは「メビウスさえいれば、GUYSなんていらないじゃん!」などとは云わなかったことだろう(笑)。
ここに『80』最終回や歴代ウルトラシリーズが提示してきた「根本問題」に対する「ひとつの解答」があるともいえるのだ――あくまでも「ひとつの解答」であって、その他にもまだ見ぬ「オルタナティブな解答」がいくつもあることだろうが――。
そして最後に……
『80』最終回の最大にして最後の欠点。それは、『80』第1クールで展開されてきた、矢的隊員が中学校の教師も兼任していた「学校編」の存在を無視してしまったことであろう(汗)――その点では、同様に第1クールのみで描写されてきたセイリングジャンプやライダーブレイクを最終回3部作では復活させた『(新)仮面ライダー』はエラいのだ――。
『80』「学校編」に格別な思い入れがないマニア諸氏でも夢想したことがある御仁は多いだろう。もしも「学校編」の設定があのままで続いていたならば、終業式や卒業式の日に桜ヶ岡中学校に怪獣が襲来してきて、生徒たちの目の前で矢的先生がエイティに変身! 怪獣を倒して最後のメッセージを生徒たちに託して去っていく……などという「オルタナティブな最終回」もありえたであろうにと……
もちろん、これに関しても、ウルトラマンエイティが客演を遂げた『ウルトラマンメビウス』第41話『思い出の先生』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20070218/p1)で、四半世紀後の最上級のフォローがなされたワケではあるので、個人的にはもう思い残すこともないのだが(笑)。
蛇足として小さなツッコミも……
今回の『80』最終回では、UGMによるジャイアントボール作戦が失敗しかけた際に、涼子が矢的とともに当然のように女ウルトラマン・ユリアンに変身しようとUGM作戦室を飛び出していく……
前話である第49話のラストで、矢的が涼子に共倒れになることを避けるために変身を禁じていたというのに、矢的が涼子の変身を今回は認めているのはどうしてだろうか? それはもちろん、矢的ことエイティが涼子ことユリアンの戦闘能力の高さを認めたから、あるいは今回の怪獣マーゴドンが前回の怪獣プラズマ&マイナズマをも上回る強敵だから、もっと云うならその両方の理由で! といったところでユリアンの参戦を瞬時に容認してみせた…… といったところが、好意的な深読みによる模範解答といったところだろう(笑)。
<こだわりコーナー>
*「ラストで長谷川さんと新宿の街を歩くシーンで、なんだかすごく自分の本意ではない服を着せられているんですよね(笑)。もっと可愛い服を着たかったんですよ!」
ラストで地球最後の一日を楽しむ矢的と涼子の場面では、矢的は赤いトレーナーに黒っぽいパンツ、涼子は白いトレーナーにピンクのスカートと、かなりラフなスタイルである。個人的にはこの際の涼子の格好は充分に可愛いと思えるのだが(笑)。『ウルトラ情報局』11年2月号にゲスト出演した際の萩原の衣装は、パープルのボディコン風ワンピースであり、丈もかなり短くて、その美脚からはフェロモンをプンプンと発散! そして10年10月9日(土)に東京・銀座の博品館(はくひんかん)劇場で開催された『ウルトラマン80 30周年記念★“奇跡の”ファン感謝祭! あっ、君も私も大人になった』(笑)にゲスト出演した際にも、やはり黒のボディコン風ミニワンピース姿であった。どうやら萩原はこうしたファッションの方がお好みのようである。
*矢的と涼子のお別れパーティの中で、多くの料理が置かれたテーブル中央の目立つ位置に、第39話『ボクは怪獣だ~い』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20110122/p1)でも少年怪獣テツオンが食べていた、江崎グリコのチョコレート菓子『ポッキー』がワイングラスに入れて置かれている。グリコは当時のコマーシャルで「ポッキー・オン・ザ・ロック」と称して、『ポッキー』をワイングラスのお酒に浸(ひた)して食べるという、奇妙な食習慣を流行らせようとしていた(笑)。しかしながら、
「料理がいっぱいあって真ん中にチョコレートがある! そんなもんに誰が手を出すんだ!?」
などと、80年12月30日にフジテレビで放送された、視聴率も32.6%(!)に達していた2時間特番である火曜ワイトスペシャル『THE MANZAI 5(ザ・マンザイ・ファイブ) グランプリ! 銀座博品館劇場から生中継!』で、当時は人気絶頂だった漫才コンビ・ツービートのビートたけしが格好のネタにしていたものだった。『80』最終回が放映されたのは、それから3ヶ月後のことである。同話に登場したポッキーはスポンサーの商品だから、おそらく無償で撮影用に提供してもらったものだろう(笑)。
なお、まったくの余談になるが、『THE MANZAI 5』でツービートは、ほかのコマーシャルやテレビ番組に対してもツッコミを入れていた。たとえば長寿テレビ時代劇『水戸黄門(みと・こうもん)』(69~11年・東映 TBS)については、
「ヨボヨボのジジイが、全国なんか歩けるワケねえだろ!」
「娘、誘拐されても、お父っちゃん殺されても、『もうちょっと様子を見よう』なんてキタねぇなぁ~」
「さんざん人が殺されてから、『控え~控え~控え~~』なんて出てきやがって! はじめから出てこい! このクソジジイ!!」
などと語って、爆笑を誘っていたのだ(笑)。
まさにこの『80』と同じ1980年4月から放映が開始された特番『THE MANZAI』シリーズで空前の大漫才ブームが到来して、それが時代の転轍機ともなったのだ。先の『水戸黄門』をチャカしたのと同様の論法で、熱血青春学園ドラマの独特のパターンなども、「クサいもの」「オカシいもの」「笑い飛ばしてもよいもの」となっていく……(汗)
70年代前半のフォークソング、70年代後半のニューミュージックと、70年代の若者文化は先行する明るい60年代の若者文化と比すると、ウラぶれた優しさやコジらせた自意識を歌うといった、ややダウナーで内省的な空気があったものである。我々のような内向的でマニア気質がある元祖オタク・タイプの少年や若者たちにとっては、そこに自身の存在も許容されているような救いも感じていたのだが……
しかし、80年代にはそのような者たちを包摂してくれるような「青春」が訪れることはなかった。この時代に思春期・青年期を迎えた内向的な性格類型の者たちは時代に裏切られた気持ちにとらわれることになり(笑)、それは89年夏の幼女連続誘拐殺人事件の犯人の正体がいわゆるオタク青年であったことでトドメを刺されることになるのだが……(爆) それもまた余談ではあって、あの時代の空気の急激な変化についても、脱線的にふれてみたことについてはご容赦を願いたい。
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