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疑似家族・子育てモノでもある大人気深夜アニメ『SPY×FAMILY(スパイ・ファミリー)』2期・分割後半第2クール(23年)が放映中記念! とカコつけて……。同じく疑似家族・子育てモノである『SPY×FAMILY』1期・前半クール(22年)・『組長娘と世話係』(22年)・『アリスと蔵六(ぞうろく)』(17年)・『うさぎドロップ』(11年)・『うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せるかもしれない。』(19年)評をアップ!
『SPY×FAMILY』1期・前半クール・『組長娘と世話係』・『アリスと蔵六』・『うさぎドロップ』・『うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せるかもしれない。』 ~子育て&疑似家族アニメの諸相! 疑似でも家族の復権にオタの居場所はあるのか!?
(文・T.SATO)
『SPY×FAMILY(スパイ・ファミリー)』1期・前半クール
(2022年春アニメ)
(2022年8月7日脱稿)
「スパイ」モノと「家族」モノを混ぜた作品。といっても、「家族」の方は「疑似家族」ではある。
むろん、ドラマとして構築していく以上は、「役割」を演じているだけの「擬似家族」ではあっても、そこに情実が通ってホントの「家族」になっていく……といった要素もある。しかし、ベタベタのお涙ちょうだい的な浪花節(なにわぶし)の域にまで行かない寸止めにとどめることによって、カラッと乾いた笑いにも着地させている。
さらに加えて、なぜか「超能力」要素もブレンド!(笑)
ところで、「混ぜるな危険」という「洗剤の注意書き」が転じて、作劇術のパターン分類にも援用させている物言いのネット・スラング(造語)がある。この発言も半分は正しい。「水」と「油」の要素を入れたことで空中分解している失敗作も確実にあるからだ。
しかし、「水」と「油」が「石けん」などで化学反応を起こして、真の意味でのリアルであるかはともかくとしても、物語としては面白くて一粒で二度オイシい作品に仕上がることもあるモノなのだ。その相違はドコで生じるのか?
やはり、足して2で割って液体化した「コーヒー牛乳」として弛緩(しかん)してしまうのではなく、「カレー」と「ライス」が個性や固体性を保って緊張感を持ったままで棲み分けしていることも重要なのではなかろうか?――むろん、「接線」の部分では両者の要素が適度に溶け合って混ざっている余地はあるにしてもだ――
本作も導入部では異世界近代での東西冷戦下で、東欧風の都市に潜入した理知的な金髪スパイの主人公が、カーアクションやらスパイアクションを繰り広げてみせることで「ツカミ」としつつ、マクロでは作品世界の説明をしており、ミクロでは主人公の人物像をも同時に提示してみせてもいる。
こーいう人物像をも確立してみせる「助走台」こそが重要なのだ。そのうえでの積み重ねとして、東側の政治家に接触するために名門校に通うその子息との誼(よしみ)を作ることが必要であり、そのためにも「偽装家族」を作ってさらには養子(!)をその子息に接触させるのだ! といった、上司からの理知的とは云いがたい、実に迂遠で廻りクドくて実現性にも乏しい無理難題(笑)のオカシみと、困惑しつつもそれに律儀に忠実に応えていこいうとする主人公のオカシみが醸し出されていくのだ。
とはいえ、そういった心的な困惑&苦労話だけではなく、各話にもキチンとアクションなりスリルなどの動的なヤマ場なども設けてはいる。#1では孤児院で自身の養子とするためのピンク髪の幼女ことアーニャ嬢をゲットしてみせる。
しかし、年齢相応な彼女の非合理で衝動的な奇行! そして、なぜだか超能力!――何でやねん! 念動力ではなく読心能力だけど―― 幼女は主人公の正体も知ってしまうのであった!
けれど、しょせんは幼児。物事をわかっていないので(笑)、人気TVドラマのスパイと同様の「ヒーロー」として認知する(爆)。その正体のヒミツは健気にも彼にも世間にも公言しないのだ。
そして、主人公の留守中に彼の商売道具でもある、隠しておいたヒミツの「通信機」で遊んだことで(爆)、居場所を察知した東側のスパイたちが襲撃してくる!
彼らに誘拐されてしまった彼女の救出をめぐって、#1のクライマックスも構築。決してドライなだけではない主人公の幼女への情実をも描いていくのだ
もちろん、ホントウのシビアなスパイとしては、自身にとっての単なるコマ・道具でしかなかったハズである幼女の救出などはリアルではないのやもしれない。しかし、ウラ社会のヒーローを描いてみせても、そこは大衆向けエンタメ。少々ならばともかく、世間一般の道徳感情からあまりに逸脱してしまっても感情移入を惹起できないから、フィクションとしてはそれではダメなのだ。
「偽装家族」の母親役となる黒髪ロングのヒロインもご都合主義にも#2にて早々に登場する。温厚でも地味でヤボったくて天然ボケな事務員なのだけど、彼女もワケあって「偽装家族」を必要としており、マジメな交際(笑)の果てに主人公と偽装結婚。
しかして、彼女の正体は両親を早々になくした苦労人であり、弟を養うためにも「殺し屋」(爆)として身を立ててきたというモノ。
そして、主人公とヒロインは互いにその「スパイ」や「殺し屋」としての正体は知らないのだ。しかし、ふたりの養子となった幼女は超能力でふたりの正体を知っており、ワクワク・テカテカ・ニヤニヤとしているのだ(笑)。
いや、もうこの設定だけで、どんな深刻な事件が起きてもギャグに転化ができるだろう。
ところが、物語は幼女の受験対策、名門校での面接試験、合格後の幼女の学校生活――子供社会カースト!――といった方向へとシフトしていく。
「お受験モノ」になったと思ったら「学園モノ」になったよ! そして、ご近所に怪しまれないためにも家族そろっての偽装レジャー! そんなレジャーが分割第1クールの最終回ともなっていた(笑)。
ナンなのだ、この作品は? しかし、実に面白い。非オタにも自信を持って薦めることができる作品にもなっている。
原作はWEB(ウェブ)サイト「少年ジャンプ+(プラス)」配信のマンガ作品。「少年ジャンプ」っぽい作品ではないけど、そこは印字物がないので経費も圧倒的にかからず、実験的かつマニアックな作品でも許容されるWEBマンガの題材的自由さゆえの成功であろう。
『組長娘と世話係』
(2022年夏アニメ)
(2022年8月7日脱稿)
暴力団の組長の娘。だけど、実にいたいけな幼女でもある。そして、彼女の世話係を命じられた、キレたらヤバいという暴力団の若頭(わかがしら)。そんなふたりのお話ともなっている。
アニメの神さまのイタズラか、題材的には前季の大人気深夜アニメ『SPY×FAMILY』の設定に通じているところもある。が、しかし、同作ほどにはカッ飛んではいないし、激しかったり爽快感もあるようなアクションなどもない。
いやまぁ、日常からずいぶんと掛け離れたスパイの世界とは異なり、日本の日常社会にもまだ近しいヤクザの世界であるとシャレにはならなくなるだろうし、視聴者側でも殺傷行為をファンタジーや様式美としてスルーできなくなるであろうから、本作においてはアクションを排した作り方こそ正解だとも思うけど(笑)。
特に拙(つたな)いところもない。幼女に対するこの世話役青年のイザというときの意外な常識人ぶりから来るギャップで、味わいを出そうとしていることもわかる。
しかし、ズバ抜けて面白いというほどでもないような気がするなぁ……。
『うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せるかもしれない。』
(2019年夏アニメ)
(2019年8月3日脱稿)
異世界で勇者が冒険したり魔王を倒すのではない。森でひろった魔族の幼女を、勇者の青年が宿屋の知己(ちき)たちと子育てしていく深夜アニメである。
異世界ファンタジーのジャンルも爛熟の果てに、「勇者」ならぬ「魔王」どころか、「食堂」や「居酒屋」に「鍛冶屋」や「宿屋」に「本屋」や「薬剤師」などといった地味な職業に輪廻転生したり、元から異世界でその生業(なりわい)を職業としていた人物を主人公に据えたジャンル内ジャンルも勃興。
「ニートが異世界でチートで最強」ではなく、「冒険」や「怪物退治」すらもがないミクロな西欧中世的な「日常」を描いていくあたりを、ひたすらに感心したりはしないし、個々の作家は単にネタに走って作品タイトルで笑いを取りに行っているだけだとは思うけど(笑)、結果論でもこの異世界ファンタジーというジャンルは何でも包含する超巨大なメタジャンルと化しつつあるのではないか?
魔族の幼女を育てるといっても人外の化け物ではない。気立てのいいロリ系のミニツインテール髪の「萌え幼女」といった感じである。しかも、イジケていたりハス(斜)に構えていたり、ヤンチャな子供にアリがちな衝動的に悪さをしてみせたり、ヨソのウチに来たのに物怖じもせずに堂々とふるまえてしまう生来からの厚かましいガキでもない(笑)。
子供ながらに空気も読んで、周囲のオトナたちに愛想をふるい、自分の立場もわきまえて、宿屋の食堂の配膳や片付けを見よう見マネで手伝おうとする健気で利発な子供であったりもする。その姿を見て勇者や宿屋の主人や食堂の客たちは目を細めて癒やされている。
筆者もたしかにそんな彼女の姿に癒やされているけど、同時に自分が子供のころは非力で内気で引っ込み思案で、愛想笑いくらいはしていたけどその程度ではあり、ウスウスそうした方がイイという空気を感じつつも率先して家事手伝いをするようなガキでもなくて、
「オトナしくてイイ子だネ……」
といった大人たちからの呼びかけに幼児ながらに、
「人間的にはツマらない子だネ……」
といったメタ・メッセージを読み取って(爆)、プチ・アイデンティティ・クライシスな不安に襲われていたことなども思い出す。いやまぁ実際、人間力には欠ける文弱の輩なので、返す言葉もナイけれど(笑)。
こんなに生来からの属性に恵まれて周囲からもチヤホヤされている子を見ていると、シミったれてルサンチマン(怨恨)にまみれている筆者なぞは、2次元キャラだとはいえ、
「ちったぁ、苦労しろい!」
「少しはガキの時分から、劣等感にまみれてみろい!」
というドス黒い気持ちも湧いてこないワケでもないけれど(笑)。話数を重ねれば、子供たちにもある「ズルさ」や「悪さ」なども少しは描いていくのですかネ?
子供自身は本質的には「善良」で、周囲の環境によって「悪」に染まるのだ! といった俗説もあるけれども、筆者なぞは個人的な幼少時~成人時の経験からも、そーは決して思わない。
同じ両親から生まれても片方はマジメなのに片方はバクチで身を持ち崩したりといった例などは、親族や会社の同僚などでも散見してきたけど、片方は甘やかされていたり、その逆に邪険にされて育ってきたから、必然的にそうなった……といったことではなく、ミもフタもないし言葉は悪いけれども、そのコのもって生まれた「性格」や「品性」といった原因の方が大であろうと思うのだ。
特撮変身ヒーローものののアトラクションショー後のジャンケン大会などでも、平気でズルして後出しジャンケンで勝ち進んでいくクソガキなどを散見していると、首を絞めたくなってくる――ウソです。そんな小事でイチイチ憤慨したりはしません。諦観にひたっているだけです(笑)――。
親の教育やシツケなどには関係なく、もともと良心が少なく生まれついているガキといった存在はいるものなのだ。
――もちろん、良心がゼロだと云っているのではない。少ないと云っている。そして、彼らを死刑にしろ! などと云っているワケではないことはくれぐれも念のため。最初から、そういったことを念頭に置いて、あらかじめバリアを張ったうえで彼らともコミュニケーションを取って共生していけ! といった意味である。まぁ、全員とはいわずとも、そーいうガキは長じて、パワハラ上司やモラハラ同僚などになってしまう確率は高いとは思うものの――
人間も「生物」である以上は、もともと「(肉食)動物」的な「攻撃性」も備えてはいる。しかし、ふつうは「命の大切さ」を親や学校からイチイチに教わらなくても「殺人」まではできやしない。
しかし殺るヤツは、「遊ぶカネほしさ」や「嗜虐心の発露」や「ギャング仲間たちへの強さや悪さの自己アピールとして殺れてしまうのだ(汗)。
後天的な「貧困」や「虐待」や暴力的な映画やゲームやアニメや小説『バトル・ロワイアル』(99年)(笑)などは、実は二次的な「トリガー=引きガネ」「きっかけ」(従因)に過ぎない。
「爆薬」(主因)にこそ真の意味での原因がある。本人の「資質」や、先天的に「攻撃的」で他人に対する共感性には乏しい性格や、器質的なテストステロン(男性ホルモン)の多寡―――「性欲」ではなく「攻撃性」といった意味ですヨ~――、あるいはイジメや孤立に対しての弱者による周囲や社会への反撃! などといったことの方に真の原因があるのだ。
根っ子の原因を根絶するなり、根絶ができなくても緩和する処置を採ることこそが、本質的な解決策なのである。
永世中立国ではあっても国民皆兵制でもあるスイスでは各家庭に自動小銃があるのだけれども、アメリカのような銃の乱射事件などは起きてはいない。であれば、銃そのものではなく格差やイジメや孤立を生じさせる社会、もしくは個人の資質などに原因を求めるべきであるのだ。
あるいは、銃の多寡にも問題があっても、それは犯罪結果の「量」としての問題なのであって、「質」の次元での問題ではない。いわんや、問題の根源ですらない。銃を規制することが無意味ではないにしても、今度は銃を使わずにナイフや自動車などで通り魔殺人を犯すだけであろう。
つまりは、この問題の解決策は、暴発へと至らしめてしまう弱者へのイジメや格差・孤立、ないしは粗暴犯的な個人の資質に対して、何らかの手当てや処置や予防策をほどこすべきことの方にあるハズなのだ。
男の子育てといえば、フジテレビの深夜アニメの「ノイタミナ」枠で放映された女性誌連載マンガ原作の深夜アニメ『うさぎドロップ』(11年)といった良作なども思い出す。
あの作品は亡き爺さんの老いてから出来た「隠し子」を、親戚一同の反対を押し切って、適度にダンディーで職場での後輩の信望も篤(あつ)い30歳手前のアンちゃんが育てるといったモノであった。
この隠し子であった少女は、一見淋しげでも育ててみれば良く出来た、気が付く理想的な子供像ともなっていた。もちろん、そこで「子育て作品」としての「幸福感」や「気持ちよさ」なども担保しているのだ。
しかし、作者もここに少々の「偽善」は感じていたのであろう。現実世界における「子供の育てにくさ」は、アンちゃんが保育園で知り合ったシングルマザーのイタズラでゲーム三昧の悪ガキ男子の方に仮託されていた。こうすることで、子育ての「楽しさ」&「厳しさ」をうまく分割して描写できてもいたのだ。
そして、この少女の方を捨てた生母は、実は女流マンガ家であったことも明かされていく――人並みの生活や人生を捨てて、浮世離れした趣味や芸事に生きる原作マンガ家自身や、我々のようなオタクの自己批判・自己相対視的な「鏡像」でもあったのであろう!――。
このマンガ家稼業の彼女を、アンちゃんでもなくシングルマザーでもない「第3項」とすることで、子育てにおける「諸相」を「三角測量」的に浮かび上がらせていく作劇も実にウマかったものだ。
さすがにそーいった要素までをも本作には求めていないものの、このままに「理想的な子育て光景」だけを描いていくのであろうか? それとも、「幼女が魔族だ」という出自設定が今後の悲劇的なり少々のドラマチックな伏線ともなっていくのであろうか?
本作の主要人物たちはこの幼女が魔族であることを警戒してはいないけど……などと怪訝(けげん)に思っていたら、シリーズ中盤以降ではそこにツッコんでいくようである。
『アリスと蔵六(ぞうろく)』
(2017年春アニメ)
(2017年4月27日脱稿)
研究所から脱走してきた超能力を持った金髪幼女。ここで彼女と偶然に出会ったのが平凡なオボコい少年であれば、陳腐凡庸な設定ではある。
しかして、彼女と行動をともにすることになるのは、酸いも甘いも噛み分けた、ウラ稼業の世界ともつながりがありそうな――いや、そんなつながりはナイ? 単なる肉体的な強者?――、腰は曲がっておらず眼光もスルドくてキモ(肝)も据わっており、無駄グチは叩かないけど仕事はできそうで、クチ&アゴも白ヒゲで埋めている白髪のジジイであった!
#1は60分スペシャルで、白昼の新宿歌舞伎町を舞台にカーチェイスも交えた、実に迫力ある異能バトルが描かれる。
ジイさんは警察に拘束されるも、警察の上層部の意向で釈放される。なおかつ、破損したハズの自家用車や道路が元通りとなっており、目撃者たちの写真にも事件に関わる事象が写っていない一連の不条理な描写も、フィクション作品としてはイイ感じではある。
絵柄は原作マンガの再現なのであろうが、2010年代の基準では「下手ウマ(へた上手)」な、線が少なく曲線にも特に美麗なセンスは感じられない、素朴かつシンプルで多少古クサいモノではある(汗)。それはそれで結果論だけど、本作独自のビジュアル的な個性としても機能するのだろう。
監督は昨2016年に、青年マンガ原作の魔法少女モノ『ふらいんぐういっち』と美少女キャラたちが超常的なカードバトルに興じる『Lostrage incited WIXOSS(ロストレージ インサイテッド ウィクロス)』という、風情ある演出の良作を手懸けたベテランの桜美かつし(さくらび・かつし)。
――余談だけれども、後者は原典である『selector infected WIXOSS』1期&2期(共に14年)の2作品よりも、個人的には高く評価している――
そのへんでは期待ができそうな気もするけど、特定スタッフの器量だけに作品の成否を求めすぎる風潮もドーなのか? とも疑問に思っているので、「勇み足」にならないように、少なくとも序盤については良かったヨ、といった程度にとどめておこう(笑)。
『うさぎドロップ』
(2011年春アニメ)
(2011年12月25日脱稿)
チョイむさのイイ男である独身三十歳男とその妹&両親に親戚の一同が、急死したひとり暮らしの爺サン宅に集合する。
そこで見た儚(はかな)げな幼女は……。爺サンの隠し子であった!――しかも、母親が誰だかは不明!――
やるなぁ、爺サン。
「年を取ってからの子育ては大変だし……」
「口数が少ないから、発達が遅いんじゃあ?」
「施設に預けるしかないだろ……」
といった、かわいそうだけれども、現実的に家族が途中から増えるのは……といったリアルな親族会議の果てに……。
「現実はともかく理想(?)はかくあってほしい!」といったフィクションワールドへと物語は突入する!
そこで、オトコ気を出した独身主人公が、周囲の反対を押し切って幼女を引き取ることにするのだ!
そこから始まる珍騒動!
働くシングルファザーとなった主人公の日常と、職場での変化!
託児所・保育園・小学校の入学などで、同世代の子供を持った親たちとの否応のないコミュニケーション&その諸相!――ヤンチャなクソガキに、子供が風邪をひいても欠勤しづらいシングルマザーの苦労話など――
それらを媒介にして、地元の「地縁コミュニティ」などにも「参入」……とまでは行かなくとも「接点」を、市井の人々の多様な日常・営み・陰影にも気付かせられていく……。
それらの光景を、
●爺サンちの和風家屋……
●主人公が住まう昭和30年代風である平屋の借家の玄関・茶の間・台所……
●アルミサッシではない窓ワクや雨戸……
●縁側や、狭い庭の木々……
などを背景として、風情を出して和ませて、生活・世帯臭なども出しつつ、しかして近年一部の深夜アニメで流行しているパステル調の淡い作画&背景美術にて、決して重たくはならない節度にとどめて、楽園的につづっていくのだ……。
永遠の思春期的な心性の男性オタクの奇形的な願望に特化しているコテコテの「様式」や、美少女ハーレムもので下着パンティでオッパイを偶然もんじゃった的な(笑)、我々のようなオタク・マニア人種や特定の年齢層にのみ流通をしている、古典芸能でもある歌舞伎や特撮変身ヒーローもの以上にお約束の様式美的な文法に捕われているベタベタな美少女アニメ群などとは異なり――もちろん、そーいったベタな作品もあってイイのだし、むしろそちらの方こそが普遍で王道でもあるのだけれども――、オタ層のみならず、オタクの近縁である周辺層・ライト層・サブカル層、あるいは偶然にでも作品との接触ができれば、一般層でもムリなく抵抗なく作品内容も理解ができて、鑑賞もスンナリとできるであろう、普遍的な絵柄&作劇を達成できてもいる作品として本作は成立していた。
早くも枯れつつあるオッサンオタクの筆者としても、実にナチュラルで見やすくて心地よい世界ではある。京都アニメーション製作の大人気美少女アニメ『らき☆すた』(07年)や『けいおん!』(09年)などでは癒されない、自身と接点もあまり感じられない旧石器時代人のオタクとしては甘露の法雨(かんろのほうう)でもある作品なのだ(笑)。
――もちろん、『らき☆すた』よりもハイブロウな本作の方が好きである筆者こそが、凡百のオタクよりもセンスがあるなどと云いたのではない。筆者自身もイイ歳こいて美少女アニメを鑑賞しつづけているガチオタの典型でもあるので(汗)――
ただ、イジワルに見てしまえば、一見は愛嬌も機転もなさそうなオトナしげな幼女が意外とシッカリ者であったり、ヤンチャなクソガキ男子の横暴に対しても物怖じもせずに良識的に意見もしてみせたり、実の両親がいないのにイジケてもいなければシミったれてもいなくて炊事家事なども率先して手伝うし、主人公のアンちゃんも職場で後輩たちにも人望があってキモ(肝)も最低限は据わっており、自炊もして生活力もあるあたりなどは、出来すぎなのかもしれない。
もちろん、そーいう出来すぎなヤツも現実世界にいなくもないであろう。それ自体は結構なことなのだし、フィクションなのだから、この作品世界におけるこの登場人物はそういうヤツなのだ! といったことでナットクさせることができていれば、それでイイわけだ。
しかし、「生活」を軽視して「趣味」に耽溺しているオタな筆者(汗)が、我が身の実態を省(かえり)みずに彼らのことをしたり顔でエラそうにホメてみせることの滑稽さを思ってしまうと、本作に対する単純な賛辞については躊躇(ちゅうちょ)をしてしまうのだ。
人間としては半人前であり、恐怖・奇形人間でもあるオタク人種が、真っ当な生活や子育てをしている彼ら登場人物たちのことをホメてみせることは矛盾なのであって、そもそもそういったことを語ってみせる人間的な資格(笑)なぞがあるのだろうか? と……。
崩壊しつつある「地縁共同体」の復興やその中での助け合いの大切さを謳(うた)うこと。それ自体は正論なのである。しかし、我々オタクたちは「血縁(親戚)」や「地縁(共同体)」などにさして帰属意識を抱いてはいないであろう。彼らと心の底から話が合ったり、仲良くやっていける自信などもない。
通産省の官僚上がりの評論家・堺屋太一(さかいや・たいち)センセイが、90年代後半に対談集『世紀の大怪獣!! オカダ』(イーストプレス・98年7月3日発行)にてオタキング・岡田斗司夫(おかだ・としお)と対談して、彼に影響を受けて唱えだしたとおぼしき「地縁」「血縁」につづく第3の形態としての「好縁」社会――ネット上などでの仮想的なモノも含めた「趣味的共同体」や「文化的共同体」や「文化的空間」――などの方に、強くはなくても漠然とでも帰属意識を抱いてしまったりもするくらいなのであった。
つまり、崩壊しつつある「地縁共同体」≒「日本的ムラ世間」が復興してしまえば、それは平均的な大多数の庶民・大衆にとっては、困ったときの助け合いや子供たちの地域全体での子育ての助け合いには便利であるだろう。しかし、我々奇人変人でもあるオタク人種たちは再び白い目にさらされて、息苦しくなってしまうであろうといったジレンマ……。
ただし、作り手たちもバカではない。そんなマンガ・アニメなどを好んで、虚構作品を創造してしまったり耽溺などもしてしまうような奇形的な進化を遂げた人種、あるいは作者自身(?)に対するセルフツッコミといった自己批評的なキャラをも投入してみせている。
つまり、幼女の実母が子供を捨ててしまってでも(爆)、自身の「夢」であるマンガ家稼業の「キャリア」の方を優先してみせるような存在として設定していたことだ。
彼女こそが実生活よりもオタク&サブカル趣味などに耽溺してしまうような、我々ダメ人間の「鏡像」ではなくてナンであろうか?――仮にカミさんなりの配偶者や愛する子供などがいたとして、我々オタクたちは趣味を減らすことはできても、それらの夢見がちな趣味なり行為なり内面の心理などを完全に捨て去ってしまうことができるのであろうか?(笑)――
この実母の女流マンガ家センセイは、本作においてはあくまでも「点描」としての存在に過ぎなかったやもしれない。しかし、そんな我々のようなオタク人種をヘンに鼻もちならない文化エリート・オタクエリートとして自画自賛・賞揚するのではなく、かといって全面否定するのでもなく、その両者の折衷としての中間でもなく、イイ意味での否定寄り、もしくは「積極的な肯定」ではなく「消極的な肯定」として、適度な「卑下」や「自虐」や「自己相対視」が垣間見えてくるあたりもまた、個人的には実に好感を抱くのだ。
躊躇なくオタク街道まっしぐらな御仁もいるのだろう。それはそれで潔(いさぎよ)いのやもしれない。しかし、個人的にはそれはそれで、人間としては器が実に狭い気もしてきてしまうのだ。
世間一般の世界にもヨコ目で目配せをしつつ、「オレの人生、コレでイイのだろうか? でも、今さら変えられやしないし……(汗)」といったように揺れ続けている御仁の方が、筆者には好感が持てるし、ひとりの人間としてもその人物・人間性には信用が置けるのだ。
――コレもまぁ、広い意味での自己正当化ではある。しかし、自分を道化・ピエロ・三枚目に身をやつすこともできるような器量がない人間よりかは若干(じゃっかん)はマシであろうといった程度ではあって、そんなにご大層な認識でもないけれど(笑)――
子供たちにも存在しているハズの小さな「悪」や「ズルさ」といったものは、メインの幼女を含めた少女たちの「綾とり」や「折リ紙」遊びなどで、その成果を我がモノとして横取りをして得意げに周囲やオトナたちに自慢してみせている従姉妹(いとこ)の娘の方で描かれてもいた――筆者の幼少期にもいたなぁ、こういうズルいクソガキが!(笑)――。
しかして、メインキャラの幼女の方でもそのことを過剰に根に持って一生恨んでいるような、それはそれで器量の小さい陰湿なガキでもない(笑)。時たまに親戚たちが大集合してその従姉妹と再会するや、忘れてしまったワケではないだろうから多少の遺恨もあるのだろうけど、それをオクビにも出さずに糾弾・弾劾などもしないで(笑)、子供ながらにオトナの態度で仲良くやっている幼女と従姉妹のふたりの姿も「さもありなん」なのであった!
……歴史的な遺恨がある各民族や各国家同士の諍い、国家間関係・国際関係なども、かくあるべしなのだ!?(笑)
むろん、こういった子供たちにもある「ズルさ」や「悪」を、点描にはとどめずにネチネチと恨みがましく描いてしまえば、作品は別方向へと向かってしまって、「子育て」モノとしての焦点もボケてしまったことであろう(汗)。
もちろん、筆者個人が欠損家庭において、常にと云わずとも存在するであろう子供たちの苦悩などを軽視しているワケでは毛頭ない。そういったところに良くも悪くもスポットを当ててきたのが、賛否はあっても70年代前半の昭和の第2期ウルトラマンシリーズのレギュラーキャラである欠損家庭の少年少女たちやゲストの子役たちでもあったのだ。
あるいは、イジケていたり内向的なオタクや性格弱者といった問題設定については、『とらドラ!』(08年)・『電波女と青春男』(11年)・『僕は友達が少ない』(11年)といった深夜アニメなどで陽の目を見るようになってきてもいる――『僕は友達が少ない』に関しては、メインタイトルから連想されるような内容には踏み込みきれてはおらず、少々残念な内容にも思えたけれども(笑)――。