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シン・ゴジラ 〜震災・原発・安保法制! そも反戦反核作品か!? 世界情勢・理想の外交・徳義国家ニッポン

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シン・ゴジラ

(16年7月29日(金)封切)

シン・ゴジラ」VS「オール・ニッポン」!

(文・T.SATO)
(16年8月11日脱稿)


 いやはや、こんなガチンコなポリティカル・フィクション映画になるとは……。手放しで絶賛したくないところもあるけれど、打ちのめされた(汗)。
 個人的には引き込まれた! タイクツしなかった! 面白かった!


 個人的な印象としては、ゴジラが既知の存在ではなく未知の存在であるから、本作こそが原点に回帰した「恐怖」としての、62年前の『ゴジラ』第1作目(1954年)の再現だ! などとは思わない。
 未知と既知とのちがいはあれど、30数年前の当時はまだ若かりし、今で云う中二病(笑)まっさかりだった時期の特撮マニアに望まれて、現実世界に本当に巨大怪獣が出現したらドーなるか? という、子供ダマしならぬオトナ向け作品(笑)をめざした一応のシミュレーション作品であった、32年前の新『ゴジラ』(1984年)の非常に出来のよいリブート版だともいえるだろう。もちろんそんな一言居士なフレーズだけで、本作の本質・エッセンスをすべて説明したことにもならないが。


 ゴジラのための映画か? ゴジラを通じて別ものを描いたり主張したりする映画か?
 若い特撮マニアの方々はご存じないだろうが、90年代前半の平成ゴジラシリーズの時代に、マニアの世界の小さな井戸の中で(笑)、そんな議論などもあったように思う――大元は『ゴジラVS(たい)ビオランテ』(89年)を監督した、当時の新進気鋭の大森一樹(おおもり・かずき)が特撮雑誌『宇宙船』に寄せた発言だったかと記憶――。
 そして、ゴジラ至上主義者の方々は、とりあえず眼の前の作品が彼らにとっては理想のゴジラ映画ではなかったことの理由のロジックを構築するために、「前者」ではなく「後者」の作劇をしたからダメになったのだ! と云い募っていたように思う。


震災・原発・安保法制・避難民・ニコ動・Twitterの2010年代!


 その伝で云うならば、本作は一見、まさにゴジラを使って、ゴジラに右往左往する人々のリアクションから、2010年代の現代ニッポンの諸相を描こうとしている。


憲法9条自衛隊関連の諸法律では明瞭に規定されているとは云いがたい、未知の存在が出現して侵攻してきた場合の、人々や政府指揮系統の混乱
・その際の未知の存在(ゴジラ) VS 日本政府の閣僚たち
・その際の未知の存在(ゴジラ) VS 日本の自衛隊
・その際に局地的にではあっても、ドーしても発生してしまう甚大な被害


 作品の前半に登場するゴジラの幼生形態は、前足はなく首に相当する左右の両脇にはいくつものエラのような裂け目がある。そこから粒状の固形物のような赤い肉片(?)がバラバラと落下し続けていることで少々のキモさも醸す。
 が、しかし、その大きめな丸〜るいお眼めは半濁しており、焦点が定まらないため意志的・知性的なものはほとんど感じられず、原始的で鈍重な下等生物のようでもある。
 コレを可愛いと見るかキモいと見るかもヒトそれぞれだろうが、個人的にはコレらの所作や造形により、マニアによる長年に渡るゴジラ評論において散々に論じられてきた、ゴジラは「恐怖」なのだ! 人類に対する「警鐘」なのだ! 人類に「怒り」を表明しているのだ! あるいは単なる「悪」ではなく同情すべき「被害者」でもあり「悲しみ」も込められているのだ! などといった諸々のメンドくさい思想的なドグマからは解放されて、単なる無個性な「災害」に近しくなったともいえる。


 そのゴジラ幼生は、東京の南方にある下町ロケットな中小零細で家内制手工業な工場が立ち並ぶ東京都大田区の下町の小河川を、大量のボート群を水面ごと持ち上げながら、遡上していく! ここで観客の脳裏にカブるのは、5年前の2011年3月11日(金)に発生した東日本大震災津波の光景であろう。実際に筆者も東京都内で当日、帰宅困難者が徒歩で帰宅を急ぐヨコで、小河川が逆流していくのを見かけたものである。
 そして、警察や消防による避難民の誘導! そう、今度のゴジラは「震災のメタファー」でもあるのだ。


 続けて、都内の各地で、放射能が検出される。すぐに政府に報告が上がるも、インターネットの時代である。TVで報道されていなくても、すでにTwitterではこの情報は民間に拡散しており、隠し通すことなどできやしない――1億総ジャーナリスト(?)になったのやもしれない冒頭の東京湾アクアラインのトンネル内の映像がすぐにニコニコ動画にUPされて字幕付きで感想を共有しあうあたりも同様だが――。
 震災のあとの放射能の流出。云うまでもなく、コレも3.11における大津波のあとの原発の冷却電源破損にともなうメルトダウンによる放射能流出をダイレクトに想起させずにはおれない。ここでゴジラは「原発メルトダウンのメタファー」にもなる!
 そして、ニコニコ動画にTwitter。まさに2010年代!


・もっとあとのシーンにはなるが、350万人の国民の東京大脱出の先の埼玉や群馬の体育館の避難所における風邪マスクを付けて炊き出しを受けている光景に至っては、災害の度に頻繁に見かけるものではあるけれど、撮影終了後の出来事である直近の2016年4月の熊本地震のそれも想起せずにはいられない。
ゴジラに長大なクレーン車を複数台も使って、その口へ血液凝固剤をながしこむサマは、だれがドー見たって、フクシマ原発でのメルトダウンを防ぐための放水である。
放射性物質が付着した土壌の除染の問題はそのまんまである(汗)。
・夜の国会前デモも、安保法制に反対した政治集団・シールズ主体のデモを想起させる。


序盤は攻撃躊躇/終盤は攻撃決断! 〜人命尊重としての少数の犠牲!?


 ゴジラに対してどう対処するか? 閣僚会議では早々に「日米安保」の適用の可能性にも言及されるが、剛腕そうな女性防衛相はシブる。主軸はニッポン、アメリカは支援の立場だと。当たり前ではあるのだが、ついに怪獣映画でゴレンジャーのピンチに仮面ライダーは助けに来ないのか!? ならぬ日本の怪獣災害にアメリカは助けに来ないのか問題が俎上にのぼった! 後手後手ではあったが、戦後初の防衛出動が発令される!


 敗戦後の70年間で良くも悪くも民主化されて、テッテイ的に骨抜き・牙抜きされてしまって、権力を監視するマスコミやサヨク的言論も強くなりすぎ、人権意識も過剰に行き過ぎてしまった現在、すでに40年前の70年代後半には、「人の命は地球よりも重い」という文学的なセリフで、ハイジャック犯の要求を呑んで収監中だった左翼過激派を開放して、今後は同様の犯罪を頻発させる短慮だ! と先進各国から大ブーイングを買ったのは、サヨクによれば極右勢力である(笑)政府・自民党の当時の総理であった。
 個人的にはニッポンの保守勢力なんてのもその程度の存在にすぎないとも思うけど、何事も一長一短なので、この行為を取り立てて悪しざまに罵る気も筆者にはない。
 ないのだが、イスラム国による人質事件での交渉や、リベラリズムリバタリアニズム自由至上主義)とも異なるコミュニタリアニズム共同体主義)に立つサンデル教授の白熱教室における、「1人は残念ながら死んでしまうが5人を救うことができる場合に、君はどうするか?」という緊急事態における究極的な選択の問題も浮上する。


 一部では人でなしのように罵倒されている政府自民党(笑)の歴代法相たちも、署名を躊躇して死刑執行は遅々として進まない。
 ヒトとしての良心か、左翼マスコミからの批判を避けるための自己保身か、その両方が混交したものかは知らねども、本作におけるショッカー大幹部・地獄大使リブート版(笑)ならぬ大杉漣(おおすぎ・れん)が演じる保守党総理も、京浜急行の各駅停車・北品川駅近辺の踏切を逃げ遅れたヒトが渡っている旨の報告のUPに接して、国民に被害がおよぶやもしれない自衛隊によるヘリコプター攻撃を、苦渋の末ではあるけれど中止してしまう!
 もちろんコレを二者択一での悪行である! なぞと本作では感情的に悪しざまには描写はせずにサラッと流していくのだが、映画の題材的にも今後はゴジラの大暴れによる大被害が出ることがわかっている観客としては、この行為は絶対正義とは見えないし、どころか愚行に近いようにも見えてしまうだろう。


 ストーリーも追いつつ作品を語るという意味では、話が飛びすぎてしまうけど、コレと「係り結び」になるのが、最終作戦での長谷川博己(はせがわ・ひろき)演じる主人公青年の決断である。
 まだ人々の避難は完全には完了していないとの報告があがる。しかし、主人公は「この機を逃しては台無しになる」(大意)と、ゴジラ攻撃を決断してみせる!
 筆者もヘタレなので自分個人の考え・ホンネは隠しておくけど、ある意味ではツーカイでもある。しかし、主人公による問題発言・問題行動である! と批判する意見があってもイイとは思う。けれど、映画としては怒涛の畳みかけるようなカッコいい特撮作戦描写に呑まれてしまっていてあまり目立っていないのではあった……。コレは皮肉・批判ではない。思想・イデオロギーを描くためではなく、あくまでも一時の快楽や慰謝を与えるエンタメである本作としては、実にうまい寸止めのサジ加減だったとも思うのだ(笑)。


――こう書いてくると、女児向けアニメ『プリキュア』シリーズやあまたの少年マンガのごとく、「愛」だの「絆」だの「全てのヒトを救いたい!」なぞと主張してそれを実現してみせる大ウソ(爆)の子供番組を、筆者が冷笑していると見えるやもしれないが、そうではナイ。メインターゲットの年齢を考慮すれば情操教育的にもコレらの作品でシニカルなアンハッピーエンドはアリエナイし、現実世界では万人を救うことが困難であるにしても、ギリギリまでそれを目指した上での決断であるべきだ。それに、幼少期からあまりに達観させすぎても歪みが出そうだし、ならば子供向け作品では甘々でも「理想」を謳った方がイイだろう――


反戦反核映画か!? 政治家・官僚は悪党の映画か!?


 加えて、この作品は、見ようによっては、戦後民主主義的なヒューマニズム反戦反核を称揚するような作品ではないようにも見える。かといって、保守反動・反革命復古主義的なニッポン礼賛の映画でもない。
 左右のイデオロギー・理念ではなく――まぁ多少の理念がスパイスとして混ざっている気配を感じなくもないけれど(笑)――、きわめてプラグマティック(実利的・実際的・実用主義的)なものに貫かれた作品であるようにも思える。以下に例を挙げていく。


・ラストでは、「原発メルトダウン」もしくは「原発」(原子力発電所)そのものとも取れるゴジラ(の凍結状態)とも、必要悪として我々はそこから新エネルギーを汲み取り、共存していかなければならないとも主張する。
・米が国連安保理安全保障理事会)を通じて世界各国の了解を取り付けた、ゴジラ駆逐のための首都・東京への核攻撃を、ゴジラ凍結作戦が失敗した暁には、東京への核投下に反対していた主要人物たちでさえも容認していたことを示す描写がラストにあったり。
・いわんや、急速進化を遂げるゴジラが翼を生やして世界各地に被害をもたらす脅威を天秤ではかった末の、自国に被害をおよぼさないために東京には核攻撃で犠牲になってもらうという世界各国の非情な決断も絶対悪とはせず、一定の理解は示す主要人物たち。
・あげくの果てにセリフのみではあるけれど、都心壊滅後に起こった「対馬沖」での不審な動きについても本作では言及――ホントは「尖閣」にしたかったけど自粛したと推測(笑)――


 個人的には極めてクレバーで是々非々かつ理性的な価値判断だとは思うけど、もうコレは絶対的な「反核」であったり「反戦」ですらないよネ?(汗)――もちろん「核兵器賛成」「戦争礼賛」ということでもないにせよ、極めてフラットに双方の概念を並置――


 ロートルマニアならばご存じ、『シン・ゴジラ』を監督した庵野秀明も私淑する、本作の消えた科学者・牧博士の遺影を演じた(?)のは故・岡本喜八監督。
 氏の作品に、特撮を使わないSF映画として、UFOの飛来やUFOと自衛隊機との接近遭遇、UFOと遭遇した人間たちの身体に生じる異変、そして彼らの存在を秘密裏に抹殺しようとする国家の陰謀などをハイテンポかつスリリングなポリティカル・フィクションで描いた、ただし評価は割れている(笑)『ブルークリスマス』(78年・東宝)という映画がある――筆者は名画座で後年に鑑賞した世代だが肯定派――。
 演出の技法的には当作もソースのひとつではないかとも私見するけど、生まれ育った時代的にも仕方がないどころかムリもなかったトコロもあるのだが、そしてそれゆえの時代的な限界も個人的には感じるけれども、岡本喜八カントク流のムダに左翼的な「反体制」や「反権力」を、庵野カントクは引き継がなかったようである。
――余談だが、21世紀のミレニアムゴジラシリーズの映画『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(01年)や一部のゴジラ言説における、ゴジラは太平洋戦争での南方戦線における旧軍人たちの亡霊の集合意識による(右傾化する)ニッポンへの復讐であると云わんばかりのゴジラ観の論法にも筆者個人は違和感をおぼえる。一部の大学出の学徒動員兵ならばともかく、学のない末端の兵士たちの過半はベタに鬼畜米英・皇国日本を信じていたハズで、彼らが良くも悪くも護国の鬼となるならばともかく、それが死後に(戦後民主主義的な)真理・真実に目覚めて警鐘せんとする……などといったご都合主義的な事態もおおよそなさそうなことに思えるので――


 ここ10年ほどのことだが、庵野秀明がドコかで「司馬遼太郎(しば・りょうたろう)的に言うと、日本の電圧が下がってきている」などと、まさにかの歴史小説家の故・司馬遼太郎大先生のように、文学的とは云いがたいけど面白い(笑)司馬語としか云いようのない物言いで大局論をブっていたことがあった。
 そう、本作は愚昧な権力者やファッション&スイーツに浮かれる庶民が跋扈する現代ニッポンなんぞ滅びてしまえ! と万年野党気分でアジるような作品でもなかったのである。


 いや、物語前半では政府閣僚たちを無能として批判的に描いていた、という意見もあるやもしれない。しかし筆者には必ずしもそうは見えない。もちろん英雄として肯定的に描かれていたとも云わないが、左右ともに小粒・軽量の政治家たちががんばる現代日本において、しかも未曾有の想定外の事象が起きたら、それが巨大生物のしわざだの、90年代における大ヒット書籍『空想科学読本』(96年)での指摘のように、巨大生物が実在しても自重でつぶれるし上陸なんてできるワケもないと考えるのも科学的には正しいし、国民の生命・財産を守ることとゴジラ攻撃を天秤にかけて悩むことも当然ではあって。


 誤解を恐れずに云えば、中露や北などの国家は緊急事態には超法規的な行動でイザとなれば対処ができそうだけれども、あるいは世界の各国も緊急事態条項・国家緊急権に基づいてイザとなれば対処ができそうなものだけど、良くも悪くも現代日本はそんなときに円滑に動ける法的な根拠などは整備されていない。
 また近代民主主義の法治国家とは権力者、のみならず庶民のたまさかの気分や恣意的な判断に任せないように、法律・ルールを決定してその範疇の中だけで行動させるべきものである。法律を決める過程においては、民主的な手続き――実質的には議会(立法府)による承認――を経た正統性が必要なだけであって。
 その伝で云うなら、法律的な根拠がなくても、日本人はイザとなればうまくヤレるから、事前の法律の整備など不要! という意見には筆者は組しない。長い歴史的な眼で見れば、それこそが悪しき前例を残して、近代法治国家とは云いがたい権力者や一部勢力の専横をもたらす危険性があるからだ――お上の意向をムシして関東軍が暴走した満州事変・日中戦争など!――。


 そんなワケで彼らは彼らなりに一生懸命にやっていたと筆者は思う。死んじゃったのは別に天罰が下ったとかのオカルトではなく、端的に物理的な巡り合せが悪かっただけで。


・主人公いわく「日本にはまだまだ優秀な人材が官民ともに残っている!」
・そして、成熟社会の層のブ厚さが物を云い、ヘリを使わず車両を使って立川基地方面へ避難していた中級政治家や中級官僚である主要人物の廻りには、いくらか生き残った「巨大不明生物特設災害対策本部巨災対)」の省庁のワクを超えた奇人変人たちも再結集!
・家族もあるのに、おそらく欧米流な事前のギャランティ交渉もせずに(笑)、事務所に泊まり込みで各自の作業に勤しむ彼ら!
ゴジラのエネルギー源である核分裂の熱エネルギーの冷却は、背ビレだけでなくその血液循環にあり! と研究家気質の人間たちが喝破していく過程!
・続けて、必要となった数百キロリットルにもおよぶ血液凝固剤を製造するため、日本各地の化学工場のプラントを持つ民間企業に協力を仰ごうと、実務家気質の人間たちが即座に交渉に走っていく光景!
・そこに映し出されるのは工業地帯の勇壮で力強い銀色のパイプに満ちたプラント群!


 「ゴジラ」 VS NHKの今は亡きTV番組『プロジェクトX』(00年)! のごとき、政治家と官僚だけではなく、民間企業も巻き込んだ様相も本作は呈して、第2次産業・重工業・町工場・モノづくり日本で、日本への応援歌ともなっていく。ニッポン、がんばれ! 日本人も捨てたもんじゃない! みたいな。
 その代わりに、第3次産業のサービス業とか、我々みたいなオタ、生産者や労働者というより消費者みたいな人物は一切出てはこないけど。……やっぱ、オレたちは危急の際には使えない無用の長物なんだヨなぁとも(笑)。いや実際に、リアルに考えれば、そーだと思います。巨災対の一部メンツはオタだけど、我々とはレベルが違うでしょ(汗)。


 と、ココまでは、60年代の高度経済成長期的で牧歌的な日本像の再現でもあり、ココを重視することに、現今の日本の苦境の糸口を打開するひとつを見ているのだともいえる――個人的にはその認識に一理はあっても、万全だとも思わないけどネ(汗)――。


ニッポンVS世界! 〜「世界情勢」と「理想の外交」と「徳義国家ニッポン」!


 しかし、本作はその先の地平にも射程を延ばす。80年代までの東西冷戦の時代とはすっかり異なってしまったニッポンの昨今の防衛と外交問題についてである。
 ネトウヨ作品とも揶揄されるライトノベル原作の深夜アニメ『GATE(ゲート) 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』(15年)も彷彿とさせるような、鉱物資源などにも満ち満ちたファンタジー異世界への入り口であるGATE・門ならぬ、今回の超常識的な生物・ゴジラをめぐって各国は、国益に基づいた利害を主張して事態は錯綜する。
 中露は「国際的な共同管理」を主張し、米は「日米共同の管理」を主張。国際社会が日本国憲法前文にあるようにホントウに「平和を愛する諸国民」ばかりであるのならば、「前者」の方がイイのだろう。が、そーでもないのならば消去法で消極的に「後者」を選択するのもむべなるかな。


 かといって、往年の9.11同時多発テロと思想マンガ『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論2』(01年・ISBN:4344001311ASIN:B00W4Y7G48)で勃発した、論壇の「親米保守」(≒新自由主義)VS「反米保守」(≒新保守主義)の論争のフレームが提示してきたように、アメリカへの疑問と、アメリカの靴の底までナメるような外交ではなく、かといって非・現実的な念仏・お題目だけを唱えるようなお花畑外交でもない、劇中でのセリフにもある通りニッポン独自の「覇道」ではなく「王道」に基づいた、いわば「徳義国家」としての外交への希望のイメージをも提示する。


 まずはニッポンのゴジラ対策の意思決定の場に、米の軍官を常駐させることは断る。
 そして、ニッポンの国内同様、アメリカでさえもその内実は決して一枚岩ではない。アメリカにも東京のゴジラへの核投下に反対する、もしくは急ぐべきではないと考える政権中枢の心あるヒトたちはいる――核は使わないからこそ「抑止力」たりうるとの発言から、彼らは核それ自体を否定もしてないが(汗)――。よって、そこに対してロビー活動を仕掛ける。
 米英とはむかしから一定の距離を置き、独自性を主張しようとする、そしてそのためには自国が「核実験禁止条約」に調印する直前において駆け込み的に、示威的・デモンストレーション的な意味も兼ねてか数度の核実験を強行してみせた(汗)国連常任理事国のフランスに働きかけて、国連安保理での米主導の東京核投下の決定をせめて遅延せしめんとする交渉をたくらむ!


 そして、アメリカ人の某登場人物いわく、危機に際してニッポンは外交的にイイ意味でココまで狡猾に成長したのか? と驚嘆たらしめる……。
 ホントにココの域にまでも成長できたならイイよね〜。とはいえ、ニッポンが短期的にはともかく中長期でめざすべき進路ではあると心の底から思うけど。


 泥クサい話ばかりしてきたが、世界中のスーパーコンピューターをつないで、牧博士が残したナゾの図面の意味を並列計算で解析させる交渉では、部下からの情報漏洩の危険性の進言を退けて、日本と同じく敗戦国で覇権的なふるまいは周到に避けているように見えるドイツの研究所の女性所長は、無償の人道の見地から快く協力を申し出る。


 このあたりで、エクスキューズでもあるのか(笑)、実務家の側面ばかりを見せていた主人公もその人間性を少しずつ垣間見せていく。都心壊滅後に立川に到着した彼は、あまりの惨事に対して一時的に冷静さを失って苛立ちを隠せなくなる側面も見せた。
 政治家になろうとした理由は、白か黒か物事がハッキリしているからかもしれないとも彼は云う――個人的には「政治」とは白か黒かがハッキリしない世界だとも思うけど、まぁ中長期ではなく短期の期限で便宜的にではあっても物事を画定・裁断していかなければならないという意味でならば同意する――。そして10年後の未来を見据えているとも、心を許した保守党の小太りな友人――彼のキャラも実によかった(笑)――には豪語する。
 主人公の一応の上司(?)にあたる竹野内豊演じる副主人公も、「親のコネをも利用するヤツでも(彼のことが)スキだ」と主人公のことを人物批評してみせ、根っからの「政治家タイプ」であるともホメる。ってことは主人公は二世政治家であり、結果を出せる仕事さえできれば二世か否かも関係ナイというのが、庵野カントクのプラグマティックな認識か?
――もちろん10年後の総理大臣を夢見る、そんな野心ある彼ではあっても、立川への避難途中の渋滞に巻き込まれて、米空軍によるゴジラ攻撃にともなう都心空爆が迫れば、クルマを降りて周辺の庶民・大衆を地下鉄へ避難・誘導しようとも努める。個人的な野望はあっても、イザとなれば我が身の安全よりも公共心!――


 とはいえ、それでもこのへんはナマ臭くて反発を覚える人間もいるやもしれない。しかし、非・政治的なタイプの人間がホントウにクリーンであるのかについても非常に怪しい。文壇や画壇にオタクの世界も残念ながら世間のオヤジの縮小再生産・2軍的な要素はドーしても逃れられず、その中でもまたカースト的な競争が始まってしまったりもする(汗)。
 良く云えばコレは、人生や社会という大きな「キャンバス」で、自分が思い描く「絵」を壮大に描いて悦に入ってみたいというアイデンティティ承認の備給的な欲求に基づくものである。この欲求を減らすことはできてもゼロにすることは不可能だとも思う。そして、その「キャンバス」が「現実世界」か、その万分の一の「コップの中の世界」かの「量」の違いにすぎなくて、「質」の次元においては我々も相似形の「俗物」であるように筆者は思うのだ――もちろんそれを自覚した上でのブレーキは絶対に必要ではあるのだが――。


 つまりは、自分の得意な分野では自己を思いっきり実現して充足を得たい、何かデカいことをやってみたいという俗っぽい願望が人間一般にはあり、その舞台がある種のタイプの人間ならば「政治」ということなのであろうとも思う。
 そしてそのへんを否定的にも描かずに、そのナマ臭さやある種のキタナさも含めて、広い意味での「人間賛歌」のごときに、本作はサラッと描いているようにも見えるのだ。


 キミとボクとの2項しかない「セカイ系」の元祖とも目された庵野カントクも、20年を経て随分と遠い、多層的で「シャカイ派」的な地点へ到達したものだとも思う。


でもやっぱりドンパチのカッコよさを追求する「特撮映画」!


 出演者は300人超とも云われているように、セリフがひとつふたつしかないような政治家・官僚・自衛隊員・警察・駐日大使の姿が、省かれることなく点描されていくことで、そして物事や作戦の段取り・過程をたとえ一瞬でもキチンと映像化していくことで、本作は一応の「リアリティ」を確保していく。
 セリフだけで説明してもイイような、牧博士の消息をたどる刑事の姿までもが点描されて、多摩川でのゴジラ迎撃作戦に失敗した陸自隊員たちが人々の避難の応援にまわる姿までもが描かれてきた本作だが……。しかし、それも実は前段〜中盤までである(笑)。


 終盤は省略の演出技法が多用されて、有無を云わさず畳みかけるように、往年のゴジラ映画『怪獣大戦争』(65年)のマーチ曲ならぬ、そのハイテンポ版の東宝特撮映画『宇宙大戦争』(59年)の軽快かつ勇壮なマーチ曲も流して盛り上げて、東京駅におけるゴジラ凍結作戦がテンポよく決行されていく。
 このへんになると、実は「特撮」シーンのカッコよさ、「戦闘」シーンのカッコよさ、といった快感原則に奉仕するような映像・演出・描写になっていく。


 無人の新幹線が、無人の山手線・中央線・東海道線京浜東北線が爆弾を搭載して、左右からゴジラに次々と激突して、長大な車両が空中で舞いながら爆発していく!
 「血液凝固剤」を製造するのは大変だという話は延々としてたけど、そんな作戦があったとはそれまでに聞いていない! 伏線はナイぞ!(笑)


 本作のヒロインであり、石原さとみ演じる日系3世の米大統領特使ほかの働きもあって、なおかつ志願者も続出した(涙)というワリには、無人機であったりもする(笑)米空軍がゴジラの全方位光線エネルギーを消耗させつつ、周囲の高層ビルを崩壊させて足止めしようと空爆


 本作においては、そもそもシミったれた人間描写はなく、カラッとしていたが、ついには作戦遂行中の人間=自衛隊員たちの姿も確信犯でか描かれなくなっていく。
 コレまた聞いてないけど、いつの間にか自衛隊の方でも訓練ができていたという(笑)、長大なクレーン車が幾台も、そして崩落した幾つもの高層ビルの瓦礫の下敷きになって動けなくなったゴジラに経口注入しようと群がっていく。しかし、ある程度までは成功するものの、眼を覚ましたゴジラによって粉砕されてしまう!


 ウラ設定があるのやもしれないが、コレらのクレーン車やポンプ車って無人ではなく有人だよネ? 乗員は死んじゃってるよネ? コレらの作戦はいつ立案して訓練したの? とあとから冷静に振り返ればそこに思い至るけど、映像本編ではまさに演出のマジック、その悲惨さや唐突さを観客はスルーして、作戦の勇ましさ・頼もしさ・カッコよさだけを描くように、乗員の壮絶な死のみならず乗員の姿自体もはしょってテンポよく、第1小隊が全滅したあとは第2小隊が、そして第3小隊が繰り出すシークエンスを見せていく!
 そこに偽善や欺瞞があるとのツッコミも可能だとは思うけど、それをも承知で確信犯でムシして強行するのが、エンタメ作品として正しい「演出」なのだと筆者は強く思う。
 ただ、まぁそこのトリックに思い至らずに、「リアル」だの「SF」だののモノサシで本作をベタに肯定してしまう知性には疑問を感じるが。


――上記のシーンにかぎらず、90年代前半の平成ゴジラシリーズよりかはアダルトな路線をねらった00年代前半のミレニアムゴジラシリーズでは、マニアのゴジラ言説における要望を取り入れたのであろう、冒頭からゴジラが敵意や悪意をムキ出しにして自衛隊員や人間を直接、殺傷してみせる残虐シーンが描かれていた(そこでママたちが子供を連れて続々と退去して、劇場は半数以下になってしまう・笑)。本作においても、死傷者が出ているのに決まってはいるけれど、一般庶民や自衛隊員の忌の際の断末魔の叫び声や血や死体や重傷者などの描写は周到にオミットすることで、女性や子供・ファミリー層に対して過剰にイヤ〜ンな感じを醸させないようにしている点にも、良くも悪くも注目!――


 ラストの展開を見るにつけ、やっぱり本作は広い意味での「SF」ではあっても狭い意味ので「SF」ではなく、それはあくまで味付けであって、それ以上に「ポリティカル・フィクション」であるのだし、かつまたそれ以上に本作も結局はイイ意味での、怪獣やメカが大活躍する「特撮」シーンと「戦闘」シーンのカッコよさを最終的には見せることに収斂していく「特撮映画」であり「怪獣映画」であったとは思う。
 「リアル」至上であるのならば、着ぐるみならぬCGなのに、ゴジラのような生物の両脚が人間の脚のように関節屈曲しているのはオカシい。体表がゴムのように見えるのもオカシいのである(笑)。しかし、非・合理的であろうが慣れ親しみの伝統にすぎないのであろうが、欧米のゴジラ・マニアも含めて、ゴジラは日本の着ぐるみ的なスタイルが望まれる。そーいう意味では本作は「リアル」一辺倒というワケでも実はないのである。
 ゴジラが東京駅に向かうことも実はご都合主義である。JR列車爆弾の絵を見せたいがためである。今回のゴジラの口が大きめにダラシなく裂けて、あんまり噛み噛みしそうにないのも、ラストでクレーン車が経口注入するためであろう(笑)。
 往年のジャンル作品にはよくあった「地球には存在しない未知の元素」同様、細胞膜で元素変換して新元素(笑)を作るなんてのも、「元素周期表」的にアリエナイ。
 実は新元素の放射能半減期が20日以下! というのもご都合主義ではある。


 とはいえ、筆者はコレらの描写にガチでケチを付けているのではない。劇中でそれらしく通用するのであれば、それでイイのである。ニッポンと日本人の未来に希望を託すことが主眼であるのなら――多少の不穏さは残しても――、フィクション作品としてウェルメイドに東京もナントカ復興できそうだ! と希望を持たせることは正しいとすら思うのだ。



 ただし、作品の外での懸案点を挙げるなら、それはこの異形の大ケッサク作品のせいで、別の作家や監督が『ゴジラ』映画を作りにくくなってしまったことかもしれない。
 怪獣VS路線やオールスター怪獣ものやチャイルディッシュなノリの怪獣映画がまたもや否定される時代が来ることも恐れる。
 また本作のような内容の作品ばかりでは、70年代の東宝チャンピオン祭りや春・夏・冬休みの夕方に頻繁にTV放送されていた『ゴジラ』映画のおかげで、ゴジラ・ファンとなっていった我々オッサン世代のように、子供や未就学児童のゴジラ・マニアや特撮マニア予備軍をゲットできるとも思えない。


 本作の信者の方々には不快な発言やもしれないが、水と空気を細胞膜で新元素に変換できるという、ハードSF的にはトンデモ設定だがライトSF的にはカッチョいい設定を活かして、新怪獣や超兵器を登場させて、本作並みの映像クオリティでバトルする『シン・ゴジラ』シリーズを作ってもらい、今回のCGはかの「白組」メインなのだから、そこに所属する映画『ALWAYS(オールウェイズ) 三丁目の夕日』(05年)や『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(10年)に『永遠の0(ゼロ)』(13年)などを担当した山崎貴カントクなどなどにも門戸を開放していってほしいものである(笑)。


 まだ書き足りないこともあるのだが、時間の都合でこのあたりで筆を置く。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2017年準備号』(16年8月13日発行)〜『仮面特攻隊2017年号』(16年12月29日発行予定)所収『シン・ゴジラ』賛否合評大特集!(編集協力・MUGENオペレーション)・合評(11)より抜粋)


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