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仮面ライダー』総論3 〜旧1号編を今あえて擁護する


仮面ライダー・本郷猛の物語 〜旧1号編再考〜

(文・いちせたか)
(2000年11月執筆)

1.はじめに


 作品評価というのは不思議なもので、一つの評価が未来永劫完全に定着するということはまずありえない。時にはその評価が180度変わることさえある。
 と言っても、よほど思想的に偏ったメッセージが含まれてでもいない限り、少なくともある程度の評価を得ていた作品が全くその価値を失うということは――作品の製作された時代背景などを考慮したとしても――基本的には少ないと思う。
 しかし、それまで大して話題にされていなかったものや必要以上に貶されていたものが、きちんと分析・評価されるようになるのはファンならば嬉しいことだし、客観的に見ても大歓迎だ。


 その論議の中で少しずつコンセンサスが形成されていけばそれがいわゆる定評となるわけだが、前述したようにそこに完全定着するとは限らないのが評論のミソである。
 たとえ基本的な部分である程度の評価が定まっても、細かい部分の針は常に右に左にと揺れている。しかしそれは決して悪いことではない。それは作品が生き物である証拠であり、ごく当たり前のことなのだ。語られ続ける限り、評価もまた変化・進歩し続けるのだから。


 ただいずれにしろ語り手が人間である以上、その語られる時期や状況における様々な風潮や議論のレベルによって、論評自体が何らかの影響を受けることは確かである。そしてそれはどんな作品に対しても起こりうることであり、日本特撮史上に燦然と輝く『仮面ライダー』(71年)とて例外ではない。


 きちんとしたデータがあるわけではないが、『仮面ライダー』における初期1クール分(第1話〜第13話)のいわゆる“旧1号編”を、全98話中はもとより全『ライダー』シリーズを通観しても至高のパートと推すファンは今も少なくないはずである。“原点にして頂点”とはよく言われる言葉だが、事の真偽はともかく『ライダー』でもそうした印象が強いことは否定できない。


 無論それに坑するように、第2クール・第14話以降の検証や再評価も行われている。だが、(本誌も含む)特撮評論同人界における『ウルトラ』シリーズの第2期ウルトラシリーズ(71〜74年)批判、その反発としての近年勃興してきた第2期ウルトラシリーズ再評価における第1期ウルトラシリーズ(66〜68年)批判のように、いたずらにそれぞれの美点と相手の欠点を主張するばかりで、あまり有意義なものにはなっていなかった。


 この本でもそうした“旧1号編”礼讃に対するいくつか新しいアプローチがなされていると思う。しかし、筆者の今回の姿勢はあえてそうした声に対して、“旧1号編”を逆に援護射撃してみようというものである。


 ただし誤解のないよう初めに言っておくと、筆者は“旧1号編”は確かに好きだが、だからといって“2号編”(第2〜第4クール・第14話〜第52話)や“新1号編”(2年目の第5〜第8クール・第53話〜第98話)と比較して、ことさらに“旧1号編”の方が素晴らしいと言う気はない。たとえ“旧1号編”に批判的な意見があろうとそのこと自体にどうこう言うつもりもない。


 従って単なる“旧1号編”のためだけの提灯評論をする気はない。ただ近年の第2期ウルトラ再評価における第1期ウルトラ批判のように、他のパートを再評価するためのダシに使われて必要以上に悪く言われるのは、フェアではないし批評的にも有意義ではないので、“旧1号編”の内実について言うべきことは言っておきたい。


 その上でこの文章を通して、これまでその魅力については既に語り尽くされた感もある“旧1号編”を別の側面から見てみることはできないか。“2号編”以降との決定的な違いはどこにあるのか等々――しつこく念を押すが“違い”であって“優劣”ではない――。
 そんな自分なりのアプローチができればと思っている。それでは何はともあれ始めてみることにしよう。


2.マニアのバイブルとしての旧1号編


 本論に入る前にちょっとおさらいをしておこう。歴史をひもとけば、特撮ファンダムの黎明期においてまずもてはやされたのがテーマの深遠性。要するに


 「『ウルトラマン』や『仮面ライダー』にだって深いテーマが込められているんだよ」


 というものである。


 まあそれだけなら別にどうということのない話であり、事実その通り


 「『ウルトラマン』や『仮面ライダー』にだって深いテーマが込められている」


 と筆者も思うのだが、ただこれには続きがあって、


 「だから子供の見る番組だと思ってバカにしてはいけない」


 というところまでで1セットの文章なのだ。


 それが一般的な広がりとまで言えるかどうかは別として、まがりなりにも潜在的なマニアの裾野が大きく広がった現在とは違い、まだまだ特撮ファンがあくまでマイノリティーであり大っぴらに胸を張って口に出せる趣味嗜好ではなかった時代、ファンが作品を語る際にまず必要とされた題目は、自分たちが幼い頃何より魅力を感じていたはずの


 「明るく楽しい特撮ヒーローの魅力」や「アクションや必殺技のカッコよさ」


 などでは決してなく、


 「深遠なるテーマとハードなストーリー」


 であった。


 こうした風潮は何も消えてなくなったわけではなく、今現在も我々ファンと一般的他者との間に裁きの門のごとく根を下ろしている。


 我々のような濃いファン(マニア)は


 「いい年をしてまだ子供番組から卒業できずに夢中になっている」


 などといった冷ややかな視線に対し、ある時は


 「『ウルトラマン』や『仮面ライダー』にだって深いテーマが込められている」


 というテーゼを錦の御旗(にしきのみはた)とすることで広く理解を訴え、またある時はそのテーゼを免罪符とすることで、


 「だから子供の見る番組だと思ってバカにしてはいけない」


 のだという理屈をこしらえて、自分自身への言い訳としてきたわけだ。


 乱暴な言い方をすれば、より知的な感じがすればそれでよかったわけだ。


・ギャグよりハード
・一話完結より連続大河ストーリー
・派手さより渋さ
・爽やかさよりニヒル


 といった具合に語るべき作品、またはその語るべき要素を選択していったのである――もちろんそれに対して作品の娯楽性や明快なインパクトの強さをアピールする流れも、数こそ少ないが昔から確かに存在してはいたが――。


 そんな中では、パイオニアとしての熱気がみなぎる第1期『ウルトラ』シリーズや、『仮面ライダー』における“旧1号編”、あるいは『ゴジラ』(54年)第1作などは格好のフラッグシップであり、ことあるごとにその魅力やクオリティの高さが語られてきた。いちいち細かくは説明しないが、エポック的な作品がこうした位置付けをされることは、アニメであれ一般映画であれ大なり小なりあることだ。


 ただ特撮ファンダムにおいて若干事情が違っていたのは、先に挙げた作品のいずれもがその高人気ゆえに、現在までその名を冠したそれこそ膨大な数の後続シリーズ作品が作られ続けたことだ。そのため、80年前後の当時20代の語り手が絶賛していた60年代の作品と、当時10代の受け手が熱中していた70年代の作品に、シリーズの時期的にも内容的にも微妙なズレがあったことだ。
 そのあたりが結構根の深い問題となって、先に述べたような『ウルトラ』シリーズでの第2期ウルトラ批判、それへの反発としての第1期ウルトラ批判にまで発展してしまったのは残念というほかない。


 念のため言っておくが、筆者はかつてのアニメ・特撮ファンダムでオタク第1世代(60年前後生まれ)の先達の語り手の方々がとったそうした方法――「『ウルトラマン』や『仮面ライダー』にだって深いテーマが込められている」「だから子供の見る番組だと思ってバカにしてはいけない」――が必ずしも悪かったとは思っていない。
 「いい年をしてまだ子供番組から卒業できずに夢中になっている」といった冷ややかな視線に対し「子供の見る番組だと思ってバカにしてはいけない」という理屈で自分自身への言い訳としてきた面が多大にあったとしても、物事を広く世間に訴えるためには、自分の価値観や素朴な幼児的嗜好を押しつけてばかりでもなかなか耳を貸してもらえない。
 聞き手――当時であれば上の世代の一般大衆、および下の世代のジャンルファン――の間にも流通しやすいように、大衆の間で主流である嗜好・価値観にも沿った興味に訴えることは政治的にも必要だ。
 後年におけるその功罪は置くとして、より効果的なアピールができるような材料として、当時まだ20代のジャンルファンの先達があのように「『ウルトラマン』や『仮面ライダー』にだって深いテーマが込められている」「だから子供の見る番組だと思ってバカにしてはいけない」という論法を選択したのも無理のないことだろう。


 加えて、彼らが世代的にもテレビ草創期の本邦アニメ・特撮ヒーローの60年前後における誕生と60年代後半から80年代前半までのいくつかの絶頂期の道程を幼少期からリアルタイムで目のあたりにしてきたのは事実なのだ。そして我々も彼らの言論活動によって自分がかつて見ていた作品の新たな魅力に気付かされ、そこに至るまでの過去の系譜の作品群を知り、啓発されたのは確かなのであり、その点には感謝すべきであろう。


 取るべき道や方法論を見誤る者が現れたのはそのあとのことであり、先達の功罪も神ならぬ身の人間にとっては後年になってようやくわかることなのである。
 よって、当時の先達の最初の志や姿勢までもが批判される必要はないと思う――後進のジャンルファンも先達の批判をしながら、お題目が異なるだけで同じ弊、いやそれ以上の弊に陥っている場合がなくもないのだし――。


 ただ一つ付け加えるなら、一般社会においても特撮の父として知られる“円谷英二”(つぶらや・えいじ)特撮監督という偉人の名によって、『ゴジラ』や『ウルトラ』は比較的早くから――ささやかでも――内容的・技術的評価をしようという動きが見られた。
 それに比べると『ライダー』を初めとする東映等身大ヒーローの評価は、特撮ファンの中でさえ確実に一段低かった。またそうした動き自体が、『ライダー』がこれらのメジャー特撮作品の中で最もあとに生まれた作品であることを考慮に入れても、常に一歩遅れていたことは事実である。


 「『ウルトラ』や『ゴジラ』はSFだが、『ライダー』は違う」


 などとまことしやかに否定的に言われていたこともある。そんな中で『ライダー』の作品的魅力への理解と正当な評価を求める戦いは決して楽ではなかったと思う。


 まあそんな特撮論壇(?)の背景もあって“旧1号編”は


 「ハードでアダルト」
 「あの暗さがいい」
 「独特な色合いのコスチュームが渋い」


 などといった評価が、80年代を通じてマニア間に徐々に定着し、出足としては鈍かった本放送時に比べて異常なほど高い人気を得るようになっていく。今となってはそれらは一つの定見として根強い支持を得ている。


 だが、あらかじめ言っておくと、今回の文章では基本的に旧1号のコスチューム造型や色がどうとかアクションがどうのといったことには、このあとあまり細かく触れるつもりはない――全くというわけではないが、文脈上の必要性次第である――。


 というのも前述したように、そんなことはこれまでに充分言われてきたし、突き詰めれば結局それぞれの好みの問題でしかないからだ。さてその辺りを含んでもらったところで、そろそろ本題に移ることにしよう。


3.青年科学者・本郷 猛


 1号ライダーがのちのライダーたちと大きく異なる点の一つが、IQ600の青年科学者でありスポーツ万能のオートレーサーという本郷猛(ほんごう・たけし)の前身設定である。ここでまず注目したいのは、レーサーではなく科学者という設定の方だ。


 もちろん科学者というだけなら、


・結城丈二(ゆうき・じょうじ)=ライダーマン(『仮面ライダーV3(ブイスリー)』・73年)


 もそうだし、


・宇宙開発の輝かしい一歩となるべく進んで改造を受けた沖一也(おき・かずや)=仮面ライダースーパー1(ワン)


 なども、他の歴代ライダーたちの選抜理由や職業に比べれば、それなりに優秀さを感じさせるものではある。


 ただ本郷の場合は、ショッカーの計画に対し科学的なアプローチを見せることが多く、それが本郷のキャラクターを語る上で外せない要素になっている点で、設定の劇中への登用が徹底しているのである。


 “旧1号編”においては特にそれが顕著で、


・敵の使った毒物を自ら分析したり、
・同じ科学者の友人たちとの連携を見せるのはもちろんのこと、
・第8話「死神カメレオン 決斗!万博跡」で偵察に向かおうとするルリ子に対し、すぐに取りかかりたい実験があるから同行できない


 などという描写はその端的な例である。


 こうした部分はブレザーにネクタイという普段の本郷のファッションとも相まって独特の印象を残している――原作漫画版の本郷は、別にネクタイ姿が印象的に描かれていたわけではない――。


 ドラマ設定としてのハッタリももちろんあるが、ダテに水野亜美セーラーマーキュリーの2倍以上のIQ設定がされているわけではないのである(笑)。


 実のところこうした本郷の設定や魅力は、『仮面ライダー』に限らず他の特撮ヒーローを見渡してもかなり特殊なパターンであり、同様の例がほとんど見つからない。前述したように『ライダー』シリーズでも本郷だけが異色なのだ――結城の場合は番組の主役ではない――。


 この辺は作品自体が当初目指した方向性によるところも大きいのだろう。よって、ここを考察してみたい。


 『ライダー』以前に等身大の変身ヒーローがいなかったわけではない。が、『ライダー』自体がその後の近代的ヒーローの典範となったことを考えると、やはり最初は手探り状態であったことは確かである。


 当初の企画には、確かに仮面のヒーローものという定義づけはあるものの、「仮面」という言葉の響きからも本邦特撮ヒーローの草分けである『月光仮面』(58年)的な正体を隠した謎の正義の味方といったニュアンスが感じられる。要するに善人のピンチにどこからともなく「仮面の男」が颯爽と現れればいいのである。


 つまり、のちに『ライダー』の代名詞となり大ブームを巻き起こす「変身」シーンの有無については大して重視されていないのだ。実際の劇中でも、変身ポーズを持たない旧1号の場合、変身可能なシチュエーション作りにかなり苦心しているのが伺える――例のバイクのスイッチを入れて変身するシーンは、バイクがジャンプして着地するまでの間にバイク共々変身が完了するという演出なのだけど、ちょっと分かりにくい――。


 これはもちろん、ヒーローへの「変身」という概念自体が先に生まれた『ウルトラマン』(66年)によってようやく一般に浸透したものだったからということもあるし、特に等身大ヒーローの場合それまでの「変身」はあくまで「変装」や「着替え」の域を出ていなかったからとも言える。


 そんな中での過渡期の時代の企画である。だからむしろ前面に出ていたのは、かつての探偵小説風の怪奇性やサスペンス性であり、悪と戦う主人公には熱い正義の心と共に冷静に謎を解き明かす知性も要求されるわけなのだ。
 また洋の東西を問わずかつての探偵小説の探偵役といえば、金田一耕助のような例外はあるものの、一般的に身なりのいい紳士(女性もいるが)が多い。本作の当初の企画でも主人公をどこかしら経済的な裕福さを感じさせる設定にしたものが多い。原作漫画版でも本郷はTV版とは異なり財閥の御曹司ということになっていて、主人公にIQ600という高い知性を与えているのも、作り手たちの子供時代の戦前戦中の児童文学や探偵小説の主人公たちがそのバックボーンにもあったからだと今となっては分析できる。


 実際のTV版では経済的な裕福さを感じさせる設定は消失していたが、そんな企画イメージの名残が当初の本郷に色濃く出ているのは見ての通りである。そんな本郷役にどこかしらナイーブなムードと甘い声――これが結構重要だ――を持った藤岡弘氏はまさにうってつけだったと言え、いかにも石ノ森ヒーローらしい「苦悩する主人公」としての本郷は、最初の時点でビジュアル的にも成功を収めたと言えるだろう。



 無論オートレーサーの設定も、ヒーローの名前が仮面“ライダー”なのだから決して忘れてはならない重要な要素である。特に“旧1号編”の場合、バイクに乗る本郷のノーヘル(メット)にブレザー姿でやたら派手に上体を動かす独特のライディングスタイルは、2号ライダー=一文字隼人(いちもんじ・はやと)以降の仮面ライダーに変身する人物たちには見られないものであり当時、補助輪付きの自転車のくせにカッコつけて真似ていたのを思い出す――当時の多くの子供たちが真似ていたことだろう(笑)――。


 もちろん藤岡氏の事故がバイクシーン撮影中のことであり、また『ライダー』が人気番組になればなるほどヒーローとして子供たちのお手本となるべく交通ルールやマナーを守る必要も生じたためか、本郷とて第53話「怪人ジャガーマン 決死のオートバイ戦」で“新1号”として復帰したあとはそんな乗り方はしなくなる。それはそれで当然の成り行きではあるのだが、当初のイメージが幼心にもかなり強烈だったのは事実である。


 知っての通り、のちに第53話で再び主人公に返り咲いた本郷は、ワイルドな男っぽさも身につけ衣装も皮ジャンやロングジャケット・ジーンズなど、よりアクティブなイメージとヒーロー性を強調するようになる。
 かといって同一人物である以上、初期の遺産が全く残っていないわけでもなく、科学者としての顔は折にふれて覗かせている。時にはかつてのブレザースタイルも披露、特に第59話「底なし沼の怪人ミミズ男!」ではゲストのコソ泥コンビのドタバタをよそに、かなり初期のイメージに近い本郷が画面に登場している。
 最終回「ゲルショッカー全滅! 首領の最後!!」ラストシーンでのトレンチコートに身を包んだやたらとアダルトなムードの本郷も、そうした初期イメージが失われていないことの現れと捉えても差し支えあるまい。



 そうやって全98話を眺めてみると、本郷自身のキャラクターは変わっているように見えて、実はそれほど大きな変化はないと言ってもいい。もし仮に藤岡氏のケガがなく全話を通して本郷が登場していたとしても、作品が長く続けば自然にこのくらいの変化はあったのではないだろうか。


 ちなみに、通称・旧2号(第14話〜第52話)と言われるコスチュームも元々“2号用”というわけではなく、旧1号のコスチュームのカラーリングを明るくするために丁度準備されていたものだということだ。何も藤岡退場という舞台裏の異変がなくても、作品をより良くするためにそうした変化は常に起こりうるのだ。


 ショッカーの作った改造人間という設定からしても、初期の本郷の苦悩や悲しみを映す鏡という意味からしても、旧1号のカラーリングは実に的確だ。
 しかし、藤岡退場というアクシデントがなくても、本郷はIQ600のナイーブな青年科学者としての性格を残しつつもワイルドで頼もしい新1号編のようなスタイルに、旧1号のカラーリングも旧2号〜新1号のカラーリングに徐々に変化していった可能性が高いことも思えば、旧1号と2号以降のコスチュームも通底しており完全に断絶したものでもない。
 つまりいずれもが、両極端の一方的な尺度でもって否定的に裁断されるにはあたらないのだ。



 ただそんな中で、本郷個人の問題として第14話以降、一切触れられなくなってしまったのが、密かに自分自身の体を元に戻す研究をしているという設定だ。


 同じ境遇の仲間が続々とでき――西暦2000年現在での同一時間軸上の仲間は仮面ライダー2号仮面ライダーBLACK RXの10人――、そのリーダー的存在となってしまった今となっては、仮面ライダーZX(ゼクロス)を主人公とするTV特番『10号誕生! 仮面ライダー全員集合!!』(84年)で風見志郎=仮面ライダーV3が言ったように


 「必要とされる限り戦うだけ」


 と本郷も覚悟を決めているのかもしれない。そうしてライダーたちは今も地球上のどこかで戦い続けているというのがファンの共通認識だろう。


 ただRXまでの11人の中でも自分の意志に関係なく――緊急救命措置でもなく――改造され、なおかつそれが人間の科学技術によるものとなると、意外にも仮面ライダー1号・仮面ライダー2号仮面ライダーZXの3人しかいない――彼ら以外でちょっと判断が難しいのが仮面ライダーアマゾンだが……――。


 みなそれぞれに自分の体の変化に苦悩する姿を画面でも見せていた。だが、たとえわずかな可能性でも、人間に戻り人並みの幸せや暮らしを取り戻すことを夢見て戦う姿勢は“旧1号編”時代の本郷のみが見せたものである。それはまた自身が科学者でもある本郷だからこその説得力を持っているのだ。


 実はこの辺り、本邦特撮ヒーローのもう一方の雄であるウルトラマンと比べると、単純に同列では論じられない部分でもある。それぞれ一度は単独で活躍してきた戦士たちが、後続の新人たちの危機に集結し駆けつけるという形で子供たちの人気を博してきた点は非常に良く似ているにも関わらず、である。
 というのも、元々人間よりはるかに長い寿命と特殊な能力を持った宇宙人が、同族の兄弟たちと共に第2の故郷・地球を守って戦うことと、人間でありながら別のモノに改造されてしまった者たちが戦い続けること、この両者はニュアンスがかなり異なる。


 ウルトラ兄弟の場合も戦士としての厳しい宿命の中に身を委ねてはいるものの、何も故郷でM78星雲人として生きる上で幸せが望めない、というわけではあるまい。無論だからといってウルトラ兄弟が呑気でいいとか言っているわけではない。
 モロボシダン(ウルトラセブン)が見せた地球を愛した宇宙人ならではの葛藤や地球人女性であるアンヌとの悲恋、あるいは郷秀樹(帰ってきたウルトラマン)を初めとする一度死亡してウルトラ戦士と合体することで新たな生命を得た者たちが、全編を通じて見せた苦しみや悲しみ等を筆者が忘れているわけではない。


 ただそれでもやはり「人間でないモノとして戦い続けなければならない者の悲しみ」は、よりライダーたちの方が深いように思う。元々『仮面ライダー』という物語自体が、「人間でないモノとして戦い続けなければならない者の悲しみ」という要素をより強く持っているのだとしてもだ。



 最後に少々脱線したが、前述したように「苦悩する主人公」としての“旧1号編”時代の本郷を見るならば、その苦悩する姿に酔うばかりではなく、――ショッカーを倒すこととは別に――苦悩から解放される方法を、彼自身が科学者としての自分の手で探し求めていたことを忘れてはならない。実際の作品の展開がどうなっていったかは別にして、この時点ではそこにその後の物語を左右する可能性が秘められていたことだけは確かなのだから――。


4.秘密結社・ショッカー


 “旧1号編”におけるショッカーはまだ実態の見えない部分が多く、描写的にも取り立ててのちのパートより秀でた部分は見受けられない。ショッカーがその組織的な本領を発揮するのは、言うまでもなく初代大幹部ゾル大佐が着任してからであり、この時点ではまだスケール感も乏しい。


 ただ“旧1号編”では怪人が作戦指揮官を兼ねていることもあってか、“秘密結社”というネーミングが持つ得体の知れない“恐怖感”は、ある面で指揮系統の明確化した幹部登場以降よりもある。それゆえ当時の視聴者の中には怖過ぎて敬遠していた向きも少なくない。視聴率を稼がなければならないTV番組としては笑えない話だが、皮肉にも怪奇性に重きを置いた製作スタッフの当初の狙いは確かに達成されていたとも言える。


 その意味ではこの時期のショッカーのイメージは、やはり怪人に集約されると言ってよい。事実“旧1号編”の人気に比例して、このパートの11怪人もファンが多い。その要因の一つは、前述したようにその「怖さ」にあるのではないだろうか。


 シリーズの最初だけに、より多くの人がまず恐怖感や嫌悪感を抱きやすい生物がモチーフに選ばれているのは事実である。だが、その割にはトカゲロンを除いて即物的なデザイン化を極力避け、巧みに人間的プロポーションとの融和が図られた結果、文字通りの“怪人”がそこに出来上がっている。このことは蝙蝠男(こうもりおとこ)やコブラ男を原作漫画版のデザインと見比べて見れば一目瞭然だろう。


 もちろん怖いショッカー怪人は何もこの初期11体ばかりではない。モチーフとなった生物のプロポーションをストレートに取り入れたデザインが悪いわけではない。
 ただ“怪人”“改造人間”というイメージもまだ視聴者に浸透していなかった当初、“人間”的なプロポーションを残しつつも決して“人間”ではない怪物である“怪人”を見事に形にして見せた功績は小さくない。
 また蝙蝠男やサラセニアンのように、サブタイトルや一般的に知られているその名に反して、劇中では「人間蝙蝠」「サラセニア人間」としか呼ばれないショッカー怪人も存在し、それまでヒーローの敵として主流だった宇宙人や怪獣との違いをこうしたネーミングでも強調しているのが伺える。


 もう一つ特筆すべきは蜂女(はちおんな)と女戦闘員の存在だ。女性怪人はこの後もギリーラやバラランカなど何体か登場するものの、蜂女のようにストレートに女優が顔を見せて演じた例は他になく、着ぐるみ怪人とは違うプロポーション的な意味でも貴重な存在だ。
 他のシリーズでも同様で、『仮面ライダースーパー1』(80年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210822/p1)・『仮面ライダーBLACK』(87年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090802/p1)・『仮面ライダーBLACK RX』(88年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090726/p1)に登場した女性幹部たちを除けば全ての女怪人が着ぐるみである。
 もちろんアクション面の問題もあったかもしれないが、『仮面ライダー(新)』(79年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20210102/p1)以降は女性スタントの人材にも事欠かなかったと思うのだが……。女性のアクションに積極的に取り組んでいる『戦隊』シリーズ(75年〜)と比べると不思議な話ではある。


 女戦闘員も同様で、網タイツ姿で不気味に笑いながら近付いてくる様がなかなか良かったのに結局、蜘蛛男とさそり男の配下の2回しか登場しなかったのは残念である。善側にはいわゆるライダーガールを続々登場させているのに……――山本リンダ氏の起用や撮り方などどう見ても中高生以上を意識しているとしか思えない(笑)―― シリーズ後半では男の骨戦闘員が女性にも化けたりしていたが、なんとなく釈然としないものがある。
 のちのシリーズでは、『仮面ライダーアマゾン』(74年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090809/p1)でゲドンの赤ジューシャが、戦闘員兼、十面鬼の侍女兼、巫女的なイメージで活躍したが、シリーズ後半でガランダー帝国になった途端、男の黒ジューシャばかりになってしまったことは個人的には残念だった。いや、別に最初から女戦闘員がいなければいないで一向にかまわないのだが、せっかく設定した上で登場させたなら最後まで有効に使って欲しいと思うのだ。


 戦闘員についてはこのあと良くも悪くも画一化が進み、怪人に合わせて毎回マークやメイクを変えたりはしなくなる――『仮面ライダーストロンガー』(75年)後半のデルザー軍団の戦闘員は久々に個々の怪人に合わせて識別化の工夫が復活しているが――。“旧1号編”でも後半はアイマスク戦闘員になるのでそれはそれで合理的かつ必然的な変化ではある。


 だが、一般的認知度の高い骨戦闘員に対し、メイクなど手間のかかっていた分、初期のベレー帽戦闘員にも人気があるのも分かる気がする。まあこの辺は好みの問題ではあるが。


 初代幹部・ゾル大佐の登場は第26話「恐怖のあり地獄」なので、ショッカー自体は第14話「魔人サボテグロンの襲来」の“2号編”に入っても戦闘員のマスク以外は特に大きな変化がない。そのため“旧1号編”13話分のショッカー戦闘員だけを切り離して語るのは必ずしも適切な分け方ではないようにも感じるが、今回の文章の性質上あえてそうしてみた。



 無論何度も言っているように、“旧1号編”は作劇の姿勢からライティングや撮り方・出現の仕方など、特に“恐怖感”を煽るよう演出されていた。それが前述した怪人デザインなどの効果を倍増させているのも事実である。
 ただ、のちのほとんどのシリーズ――もちろん現在放映中の『仮面ライダークウガ』(00年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090907/p1)も含む――でも必ずと言っていいほど話数の早い機会に“怪人”のモチーフとされるスタンダードな生物――蜘蛛(くも)・蝙蝠(こうもり)・蠍(さそり)・蛇(へび)・蜂(はち)など――に加えて、食虫植物のような難しいモチーフも早々に取り入れている。
 さらに強化改造(コブラ男)や長所合成怪人(ゲバコンドル)、さらに怪獣的プロポーションに挑戦したトカゲロン――この時点ではそれが成功したとまでは言えないが、のちのエイキングやウツボガメスのような怪獣的怪人造型の成功もここでの挑戦あればこそだと思う――と、このあと定番化する再生怪人軍団……。
 わずか1クールの間に“怪人”というものに対して考えうる基本的なパターンのほとんどを盛り込み、これだけの試行錯誤と挑戦、さらに確実に成果を残した“旧1号編”のショッカー怪人。彼らが高い人気を得ているのはある意味当然の結果であり、決して過大評価ではないと思うがいかがだろうか。


5.ヒロインの喪失


 さて、予期せぬ主役の交代によって良くも悪くも方向転換を強いられた本作が、本郷の渡欧と共に失ってしまったもの、そしてたとえ1号ライダーが復帰してこようとも遂に帰らなかったものがもう一つある。


 緑川ルリ子の存在だ――“旧1号編”のヒロインにして、『仮面ライダー』唯一人のヒロインと、言い切ってしまおう――。


 ルリ子が“旧1号編”においてヒロインであったことに異論をはさむ余地はないと思う。そのルリ子が本郷のあとを追って旅立ったという設定のもとに作品世界からも去ったことは、小さからぬ影響をその後に残した。作品からヒロインがいなくなってしまったのだ。


 確かに


・第14話の2号編開幕では、残留したひろみに加えユリ・マリ・ミチが登場
・その後も第40〜41話での、本郷の一時帰還と共にエミとミカ
・さらに第53話の新1号編に入ってからの、トッコ・ヨッコ・チョコ


 と、次々とライダーガールズとも呼称される女性レギュラーが登場してはいる。


 中でも第14話から登場のユリ(沖わか子)は最終回まで出演して、第11話からのレギュラーであるFBI秘密捜査官・滝和也との名コンビぶりを見せた。マリ(山本リンダ)・エミ(高見エミリー)・ヨッコ(中田喜子)・チョコ(ミミー……後のミミ萩原)らのように当時もしくはのちのビッグネームも多い。


 だがそれでもやはり、『仮面ライダー』という作品のヒロインはルリ子唯一人であったと思う。
 第1話からルリ子の友人として登場し、原作漫画版にも――悲惨な役回りながら――原型キャラクターの存在するひろみはともかく、その後のライダーガールたちは確かに作品に華を添える役は果たしている。
 だが、名字もなくいつの間にか理由も明かされずに登場しなくなるなど、あくまでもその時々のマスコットガールの域を脱しておらず、決してヒロインにはなりえなかった。ただ実際のところ第14話以降のライダーガールたちは、設定の段階からしてそもそもヒロインとしての扱いをしていないので、彼女たちのせいではないのだが。


 もちろんルリ子の方も、設定はともかく劇中描写だけに限定すれば、ヒロインとしてはその本領を発揮する前にいなくなってしまったので、評価は難しいところだ。
 だが、第1話「怪奇蜘蛛男(くもおとこ)」から第3話「怪人さそり男」までで、彼女が自分を襲った不幸に戸惑いながらも真実を知り、本郷の協力者となっていく過程はきちんと描かれたし、彼女を巻き込みたくない本郷の心理も描かれている。
 単なる人質要員ではない証拠に、第7話「死神カメレオン」や第11話「吸血怪人ゲバコンドル」では本郷の後見人であるレギュラーの立花藤兵衛(たちばな・とうべえ)と共に変装して囮になったり、第8話「死神カメレオン 決斗!万博跡」では前述のように偵察役を買って出たりもしている。第11話以降わずか3話分ながらやたらアクティブに活躍したのは藤岡氏のケガによる特例措置だとしても、バイクに乗る描写は第7話で既に画面に登場している。
 少なくとも積極的に話にからませていこうという意図は早い時点から確実にあっただろうし、あのまま何事もなく番組が続いていれば確かにそうなっていったであろうという予感はある。


 育ちはいいが勝ち気なお嬢さんという、多分に70年代的かつヒロインの王道ともいえるキャラ設定はしかし、演じた真樹千恵子氏の地に近いものでもあったようだ。どちらかといえば典型的な石ノ森ヒロインとして描かれた原作漫画版のルリ子に比べて、より強いキャラクター性を持って画面に登場したのは結果としては良かったと思う。


 “旧1号編”の最後である第13話「トカゲロンと怪人大軍団」のラストでは、やはり最後という意識があるのかトカゲロンに勝ったライダーに熱い視線を送るルリ子を映し出し、さらに妙に道徳的なセリフを言わせてライダーの使命感のようなものを強調したりしている――その前の第12話「怪人ヤモゲラス」のラストでも、変装したウェディングドレスのまま、走り去るライダーを車で追いかけたりしているが――。


 だが、この時点では一応ライダーが本郷であることに(表面上は)気付いていないということになっている。本郷自身もこの頃は自分の改造された体への苦悩を前面に出していた時代なので、第7話ではルリ子の前で変身することをためらう描写もある。


 ということは、いずれルリ子が真実を知る瞬間をドラマチックに演出することもできただろうし、おそらくそのつもりもあったのだろう。上手くいけば『ウルトラセブン』(67年)の最終回のような盛り上がりも期待できたのではないだろうか。
 どうも『ライダー』シリーズはどの作品も、『ウルトラ』シリーズに比べてその辺りの盛り上げが薄いものが多いので残念だ――まあ『ストロンガー』や『クウガ』のような特殊な男女キャラシフトの作品はまた話が別になるが――。


 本郷は確かに半年後に我々ファンの前に帰ってきてくれた。だが、その傍らにルリ子の姿はなかった。幼少時は別にそれに対してさしたる思いもなかったが、長じて『仮面ライダー』を見直したときかなり残念に思ったことの一つである。


 原作漫画版でも本郷の死と共にルリ子も出てこなくなってしまう――その分ルリ子の本郷への思慕やそれに対して悩む本郷の心理などは、TVより多少明確に描かれていたが――。


 この点では、『仮面ライダー』という作品はTV・原作ともに重要なテーマの一つに何ら答えを出さずに終わってしまっている。


 かつて宇宙船文庫「仮面ライダー ―変身ヒーローの誕生」(朝日ソノラマ刊・85年・ISBN:4257763531。98年に「仮面ライダー コレクターズ・ボックス(宇宙船文庫特別版)」(ISBN:4257764597)中の1冊として再刊)で、東映の平山亨(ひらやま・とおる)プロデューサーが個人的に考えた渡欧後の本郷とルリ子のストーリーを寄稿していたが……


 実質的な原作者でもある氏には失礼ながら、とてもではないがファンの一人として個人的には納得できないモノであった。
 未読の人には申し訳ないものの、長くなるので内容の詳細はここでは省くが、失礼を承知で言うなら、一ファンの妄想ならともかくなまじ産みの親のお一人が余計なことをしてくれたおかげで、かえって咽喉にひっかかった小骨がうずく思いがするのだ――あのオチのあとで本郷がTV通りエミやミカを助手に使ってるとしたら、どう考えても行動原理に矛盾があるし――。


 筆者の場合このうずきがちょっとだけ和らいだのは、最近になって、


・バラエティー番組『あおげば尊し! 芸能界あの頃みんな若かった涙の青春スペシャル』(98年3月31日放映・日本テレビ)で、藤岡氏が真樹氏と第1話の撮影場所である小河内(おごうち)ダムで再会したり、
・携帯電話のCMで新1号が藤岡氏の声で「ルリ子さん!」と叫んで助けに来たり、
・『とんねるずのみなさんのおかげです』(86年)枠内のパロディ『仮面ノリダー』(88年)の完結編(97年)がハッピーエンドだったり(笑)


 のおかげなのだけど(汗)、しかしこれでは何の根本的解決にもなっていない。


 念のため言っておくが、筆者は原作漫画版や平山氏の本郷とルリ子のプロットが何もアンハッピーエンドだから嫌だと言っているわけではないので誤解なきように。ただファンとしては、本編では描かれなかったサイドストーリーを構築するなら、本郷はともかくもう少しルリ子の気持ちを尊重してプロットを考えてほしかったと思っているのだ。
 まあ下手にオフィシャルな設定を後付けされて、腹を立てさせられるくらいなら、むしろ知らん顔をしていてくれた方が、自由に想像する余地が残されている分だけ、ファンとしては幸せなのかもしれない……。


6.原作・コミカライズについて


 “旧1号編”が称賛される理由の一つに、原作との深い関連性がある。要するに原作のイメージを色濃く反映した画面作りが評価されているわけだが、正直なところ筆者はそうした評価にはあまり関心がない。


 というのも初めに原作ありきの作品ならばともかく、この作品のようにTV企画と原作漫画がほぼ同時スタートした作品の場合、ほとんどにおいていずれは内容が離れていくのが目に見えているので、忠実度を云々(うんぬん)しても意味がないように思うからだ。ある意味ではかえって離れていった方が作品的には双方共に幸福とも言え、なまじ変に影響しあうと共倒れになりかねない。


 その点、『仮面ライダー』の場合はどうだったかというと、個々の話の出来はともかくとして、大きくTVの影響を受けた部分が原作にあるのが個人的には残念だった。その最大のものは、途中でTV同様の主役交代をせざるをえなかったことだ。しかもTVよりもショッキングな展開として、12人のショッカーライダー軍団によって本郷が殺されてしまう。


 確かにそれによって一文字隼人の2号ライダー襲名はいやが上にも盛り上がる。辛うじて脳だけは生き残った本郷と一文字が体の感覚を共有し、サイクロンで走る一文字ライダーの感じる風を、培養液の中で生き続ける本郷の脳もまた感じることができる……、という第4話『13人の仮面ライダー』のラストシーンはそれはそれで感動を誘うものになってはいる。


 だが、先に述べたようにルリ子の心情に決着が付いていない点はもちろんのこと、本郷猛の物語としてスタートしたはずの『仮面ライダー』が中途半端なものになってしまったことは否めない。TVとのタイアップ上、作者の意向だけではどうにもならないものがあったとは思う。だが、逆にTVの方がやむなく変化せざるをえなかっただけに、せめて原作では当初目指した本郷猛の物語を描ききって欲しかったと思うのだ。


 これは何も原作漫画版の一文字編の物語自体を否定するものではない。
 しかし、『人造人間キカイダー』(72年)・『変身忍者 嵐』(72年)・『イナズマン』(73年)等、このあと続々と登場する石ノ森ヒーローの原作漫画は、TVの展開を意識しつつも最終的には独自のテーマを描ききっていた。
 それに比べ『ライダー』の場合、一文字編のラストである第6話『仮面の世界(マスカー・ワールド)』までを含めても、やや作品の完成度的に見劣りするのは否めない。間近に迫ったTV第40〜41話のダブルライダー前後編に多少なりとも合わせるためか、最終決戦ではアンドロイドとして復活した本郷ライダーも活躍して、原作漫画もダブルライダー共演で完結したものの、テーマ的に何か一本通った芯が足りないように感じられてならない。


 このことは新1号になってからのすがやみつる氏の『新・仮面ライダー』を筆頭とする数々のコミカライズ版にも同様のことが言える。掲載誌や作者によってかなりオリジナリティーあふれる作品も多く見られた『キカイダー』等に比べると、『仮面ライダー』自体が変身ブーム初っ端(しょっぱな)の作品ゆえにコミカライズをする側や掲載誌の編集者側でもノウハウがなかったのだろうが、そのほとんどがTVの展開に沿ったごくオーソドックスな単発ストーリーが多く、特筆すべきほどの独自のストーリー展開を持ったものがなかったのは残念である。


 もちろん筆者も審美眼がなかった子供の頃は、そのTVに準じたコミカライズをむさぼるように読んで喜んでいた読者の一人であることは間違いないし、当時のそうした気分や単発ストーリーとしてのそれらの面白さを否定するつもりでこんなことを言っているのではないのだが。


7.本郷はどこへ


 “旧1号編”を語るのにちょっと苦労するのは第11話以降である。主演俳優の不在をライブフィルムやスタンドインでカバーした話の出来は、多くの“旧1号編”ファンとしても手放しで肯定的には語りにくいだろう。逆に“旧1号編”の高評価に疑問を投げかける向きには格好の批判材料でもある。


 ただよく考えてみれば、どちらの言い分ももっともなのだが、事故が原因の不可抗力なものに対して真っ正面から褒めたり貶したりというのも不毛な話ではないか。無理に褒めようとすれば贔屓(ひいき)の引き倒しになる。かと言ってこれをもって鬼の首でも取ったように“旧1号編”全体の完成度が低いなどと言い立てるのもどうかと思う。


 なぜならこうした緊急措置自体を貶そうとすれば、“旧1号編”末期から最終回まで長らく活躍し続けた滝和也の投入や、そもそも“旧1号編”の短所の反省の上にも立っている2号編以降の路線変更も、好意的に見てはいけないというロジックにも通じるからだ。
 2号編以降の再評価をしようとする論者が“旧1号編”の短所を批判して、そのロジックが実は2号編以降にも当てはまってしまう弱点があるようでは、上手い戦法ではないだろう。2号編以降の再評価をしようとする者は、その弊に陥らないように慎重に事例を選択してロジックを構築すべきである。


 もちろん一本のドラマ・映像作品として完成度を推し測ることは必要な行為だ。
 だが、低評価に甘んじてきた2号編や新1号編を再評価しようとするあまり、神格化されてきた“旧1号編”の欠点をわざと気張って言い立てるにしても、それが行き過ぎて下品になってしまうと、その主張に一理はあってもかえって読者に無用な反発を抱かせて逆効果になることもある。
 だから、そこは寸止めに留めて失礼の域に陥らないよう節度をもったロジックとレトリックを用いた方が、より冷静に作品の評価ができるし、かつ広範な読者に無駄な反発を抱かせることなく自身の主張を流通させたり、異なる価値観のマニア諸氏に全面的に同意してもらえなくても一理はある意見だと思ってもらえばよいと割り切るように努めることも大切ではないだろうか。


 そうした目で第11話〜第13話を改めて見直してみると意外に面白い発見はあるもので、一口にライブフィルムと言ってもなかなか上手く使われているのが分かる。
 というのも、この3話分の製作過程をマニア向け書籍などの話だけで聞いていると、バイクで走る本郷や当り障りのないアップの表情などばかりをあらかじめチョイスしておいて、それらを適当に当てはめているように感じるかもしれないが、さにあらず。もちろんそうしたカットが中心に使われてはいるのは確かだが、ちゃんとシーンに則って考えて切り出したカットも使われているのだ――それまでの本編での未使用部分を使ったカットもある――。


 急ごしらえにも関わらず、脚本とも連携してそうした配慮がなされているのは良心的だ。
 ファンの間ではよく知られているように、藤岡氏の事故は第10話の撮影中で、第1話の放映直前の出来事であったため、わずかではあるが話数的にストックがあった。そのストックを利用することで、せっかく立ち上げた作品をダメにしないよう何とか時間を稼ぎ、藤岡氏の復帰の目処が立つまで繋ごうとしたスタッフの姿勢は決して非難されるべきものではない。



 余談になるが、『仮面ライダー』の場合はのちにもう一度スタッフがこうした苦労を強いられた珍しい作品でもある。NHKのTV時代劇『赤ひげ』(72年)オーディションに合格したゆえに、出処進退に悩んだのだろう藤岡弘が失踪して、しばらく行方不明になってしまった事件だ。
 ただし同じ急ごしらえという点では、その経緯からか藤岡氏の名をオープニングクレジットからも外しており、その結果ライブフィルムで本郷を出すことすらしていない第66話「ショッカー墓場 よみがえる怪人たち」〜第67話「ショッカー首領出現!! ライダー危し」の方が大変だったかもしれない。
(後日付記:マニア向け書籍などでの関係各位の証言によると、既に“旧1号編”第11話〜第13話での経験やノウハウがあったために、製作はそれほど大変ではなかったそうだ・笑)


 もちろん前述したように、“旧1号編”第11話〜第13話があくまでも急場しのぎなのは事実であり、それまでの話数が少な過ぎてライブフィルム使用にも限度があるため、結局は知っての通りの展開となっていくわけだ。


 しかし、いずれにしろこうした性格のエピソード群は、マニア的には少し肩の力を抜いて見た方がいいのだろう。それはそれで純然たる作品鑑賞や作品評価ではなくなってしまうので少々邪道なのかもしれないが、製作のウラ事情や大変さも推察しながらの作品鑑賞もアリだろう(笑)。


8.旧1号編の遺産


 “旧1号編”は確かに短いシリーズだったが、やむなく早々に変更を余儀なくされたためスタッフにも無念の思いがあったのだろう。
 そのせいか、それとも『仮面ライダー』という作品の根底に元々共通するものがあるからなのか、“旧1号編”の遺産のようなものは『ライダー』シリーズにことあるごとに顔を出している。改造された体に苦悩したり、あえて地味なカラーリングを採用してみたり、ハードなテーマを盛り込んでみたり……。


 結果やその評価は様々だが、ただ残念ながらいずれの場合もそれを描き切ったと言えるものは、未だにないのも事実である。


 一部のファンの間では第1話のサブタイトルを使って


 「『ライダー』シリーズは何かといえば『怪奇蜘蛛男』のリメイクばかりしているが、結局そこから先がない」


 などという陰口が囁かれたこともあるくらいだ。


 まあそれは言い過ぎとしても、確かに毎回のようにどこかしら“旧1号編”のイメージが投影されるものの結局は中途半端に終わるものが多かったことは否定できない。


 そんな中で健闘しているのが最新作の『仮面ライダークウガ』である。“旧1号編”でよく「リアル」だ「ハード」だと言われた部分をかなり突き詰めて正面から見せているのだから、そういった視点で“旧1号編”を評価していた人にはさぞ嬉しいことと思うがいかがだろうか。


・悩める主人公
・積極的に事件に絡んでくる警察
・指揮系統に謎の多い殺人集団の敵
・カラーリングからも旧1号を意識したバッタ怪人ゴ・バダー・バ


 どうだ嬉しいだろ(笑)。


 ……などとちょっと嫌味な書き方をしたが、筆者の場合は「リアル」だとか「ハード」だとかここに挙げたような理由だけで『クウガ』を評価するつもりはないので、実はこれらの要素にはあまり興味がない。
 別に“旧1号編”を彷彿とさせるから、『クウガ』がいい作品というわけではない。逆に『クウガ』のようにアップトゥデートすることで十分に現代でも通用するポテンシャルを持っていたのだから、やっぱり“旧1号編”は凄かったのだ、などと無茶を言う気はない。


 別に『クウガ』がつまらないとかダメだとか言うつもりもない。
 だが、初期の『ライダー』や『ウルトラ』を見て育ったファン世代が企画製作側にいる最近の作品によく見られるような、ファン心理ばかりが突出した過剰なオマージュが、本当に元の作品に対する敬意たりえているのかという点に関しては、日頃から基本的に筆者は懐疑的である。
 そんな筆者としては、例えばゴ・バダー・バが赤いマフラーをしていることは到底許せなかったりもする(笑)――バッタモチーフの敵が出るのは別に構わないのだが――。


 これはやはりライダー1号・2号に幼児期に遭遇して無条件で思い入れが強い世代ゆえの感覚なのだろうか? それとも筆者がマニアとしてスレすぎてしまっているせいであろうか? 筆者自身がもう一つ、『クウガ』という作品を素直に見られないのも、その辺りに起因しているのかもしれない。


 このように書くと、『クウガ』に新しい魅力が全くないかのように見えるかもしれないが、決してそういうわけではない。
 前述のようなことは、この文章を書くに当たって『クウガ』をあえて“旧1号編”の視点から見てみて気付いただけのことであり、それ以外にも語るべき点は功罪取り混ぜてではあるが山ほどあるダロウ。それはこの特撮同人誌『假面特攻隊』の前号(夏コミ発行の「2001年準備号」)や今号(冬コミ発行の「2001年号」)に様々な意見(https://katoku99.hatenablog.com/archive/2000/11)が掲載されていると思うし、この項で詳しく触れることでもないので省略する。


 ただその時代時代で変化はあるものの、未だに“旧1号編”の呪縛から『ライダー』は解き放たれてはいないことが、斬新な描写で新たなファン層を開拓したと言われる『クウガ』を見てもやっぱり感じられる。
 これを「肯定的に過去の遺産を守り続けている」と取るか、「否定的に新鮮味がない」と取るかは難しいところである。その点はこれから『クウガ』が迎えるクライマックス(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001111/p1)を見た上で我々ファンが考えるべき宿題なのかもしれない。


9.終章について


 70年代のアニメ・特撮ヒーローものでは、途中で何らかの路線変更によって、当初の重要なテーマや謎、張るだけ張った伏線など、きれいさっぱり忘れたかのような作風にシフトしておきながら、ラスト2話ぐらいで唐突に初期のムードに回帰し、とにもかくにも最終回でしっかりケジメをつけて終わるというパターンが割とよく見られた――ずっと出てこなかった初期レギュラーが突然再登場したりした作品もある――。傾向としては2クールぐらいの作品にそれが顕著だった。
 だが、さすがに『仮面ライダー』のように2年(8クール)も続いた上で変遷を重ねてくると、今さら原点回帰もできなかったようで、最終回の前後編はそれまでの展開の延長線上に無難な線で収まったという感が強い。


 もちろんファンなら承知のように、シリーズはこのあと発展的に『仮面ライダーV3』(73年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20140901/p1)に移行、時系列的に連続した世界観を持って継続していくことが決まっていて、『V3』の第1・2話が『仮面ライダー』第99・100話的な意味合いを持つことになる。
 従ってTVの最終回もある意味で便宜的な一区切りであり、ゲルショッカーの全滅という以外に、この作品が当初打ち出した全てのテーマに完全に答えを出すことはできなかった。


 ラストシーンで長い戦いを終えた本郷と一文字に大きくスポットを当てることなく、滝の渡米の見送りで締め括っていることからもそれが伺える――何もそこに全く感慨がわかないというわけでもないのだが――。


 結局その後も続々とシリーズは作られダブルライダーにも戦い続ける宿命が科せられたため、今もってその答えは出ていないままだ。無論そういった作劇的・テーマ的な未解決が、結果的に仮面ライダーというヒーローをここまで発展させ、時代を越えて子供たちのみならず我々成長したファンをも魅了し続けていることは事実であり、強いて批判すべきことではない。


 ただ、『仮面ライダー』という作品が当初目指したもの、本郷猛という主人公が本来背負い何らかのドラマ的結末が用意されるはずだったものが遂に見ることができなかったことは、幼少時はともかく長じてマニアとなってからの感慨としては残念に思えてくることである。
 藤岡氏のケガがなく、たとえ人気作品となったとしても大きな軌道修正やレギュラーの変更を見ることなく半年なり1年なりで終了していたら、第11話以降の展開やその最終回の結末はどうなったであろうか? おそらく今我々が知る結末とはかなり印象の異なるものになっていただろうことは想像に難くない。見る度にそうした感慨を抱かせることもまた、“旧1号編”の内包する大きな魅力の一つである。


10.おわりに


 以上ここまで“旧1号編”の魅力を自分なりに追いかけてきた。当初に漠然と考えていたように“旧1号編”を細かく分析するというより、“旧1号編”からの視点で全98話――時には後続の作品も含めてシリーズ全体――を通観するような形になった。自身の感慨を改めてまとまった形で成文化して、整理し直してみることは個人的には面白い体験だった。


 筆者自身、“旧1号編”の魅力というと、これまでに散々言われてきた“定説”のような言葉でしか認識していなかった。しかし、全98話で『仮面ライダー』という一つの番組であり、“2号編”“新1号編”にも本郷猛が登場する以上、毀誉褒貶に関わらずことさら“旧1号編”だけを切り離して論じることに、最近では違和感を抱いていたことも事実である。


 もちろん番組の1パートを取り出して論ずることは不可能ではないし、そうすることが必要な場合もある。ただ『ライダー』の場合、“旧1号編”を肯定するにしろ否定するにしろ、その存在が特権化され過ぎて、批評自体が手詰まりになっていたきらいがある。
 冒頭で述べたように、筆者は確かに“旧1号編”のファンではあるものの、そうした状況は決して望むところではない。何かしら別の視点で自身が好きな“旧1号編”を見直してみたいと常日頃から考えてはいた。


 そうした中で、今回の本誌が「仮面ライダー」シリーズ特集というテーマで“旧1号編”批判(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20140501/p1)もあると聞き、真っ先に浮かんだのが今回の文章のイメージだった。論評として不十分な点はあるだろうし、これまでの“旧1号編”論に対して特に斬新な意見を付け加えたと自画自賛する気もないが、漠然と考えていたことをある程度文章化できて世に問うたことはそれなりに意味があったと思っている。


 最終的に内容については、読んで頂いた方それぞれに判断してもらうしかない。ただこれを読んだあとで、“旧1号編”に対して何か一つでも新しい見方や視点を見つけてもらえたら嬉しいし、その上でもう一度“旧1号編”を見てみようかという気になってもらえたら書き手としては万々歳である。


 文章がまとめにたどり着いたら、筆者もまた無性に“旧1号編”を見直したくなってきた。今度は執筆資料としてではなく、気楽に頭をカラッポにして楽しんでみることにしよう。それによってまた新しい見方や視点が発見できるかもしれない。

(2000年11月30日脱稿)


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2001年号』(00年12月30日発行)『仮面ライダー』シリーズ大特集より抜粋)


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