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昭和『仮面ライダー』に至る前史 ~月光仮面・1950年代の仮面ヒーロー・平山・伊上・竹本・生田スタジオ・エキスプロ・大野剣友会!

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 映画『シン・仮面ライダー』(23年)が、早くも2023年7月21日から「アマゾンプライム」にて動画配信開始記念! とカコつけて。「昭和『仮面ライダー』に至る前史」をUP!


昭和『仮面ライダー』に至る前史 ~月光仮面・1950年代の仮面ヒーロー・平山・伊上・竹本・生田スタジオ・エキスプロ・大野剣友会

(文・T.SATO)
(2023年7月3日脱稿)


 世界征服をたくらむ「悪の組織」が繰り出す、人間サイズの異形の「敵怪人」や「戦闘員」たちを迎え撃つ正義の「変身ヒーロー」! という一大フォーマットを確立して、大マスコミにも「変身ブーム」と呼称されることで、一世を風靡した『仮面ライダー』(71年)初作。


 同作は1971(昭和46)年4月3日(土)夜7時30分から週1の放映がスタートした。


1970(昭和45)年度後半 ~第2次怪獣ブーム勃興


 時は子供間では前年1970(昭和45)年から再び盛り上がりはじめた、いわゆる「第2次怪獣ブーム」の勃興期であった――ちなみに、「第1次」や「第2次」といった呼称自体は、後年の70年代末期の本邦初のマニア向けムックで命名されたものだ――。
 初代『ウルトラマン』(66年)と『ウルトラセブン』(67年)のヒーローvs怪獣の激闘シーンや野っ原での新撮による平日夕方17時30分の5分ワクの帯番組『ウルトラファイト』も、70年9月の最終週から放映が開始されたことでブームは本格的に再燃!
――同作はまる1年の放映となったが、関東では半年が行ったところで翌年71年3月最終週~9月までは17時45分ワクでも再放送が開始されることで、別の5分番組を挟んだかたちでの「2本立て」となっていた。同じく関東では本放映終了の71年9月の最終週から続けて17時40分ワクに変えて、さらに同作の再放送が翌年72(昭和47)年3月末日まで継続されて、子供たちを喜ばせつづけた――


 この流れを受けて、すでに71年正月2日(土)夜7時ワクにて、ピー・プロダクションとフジテレビは特撮巨大変身ヒーロー『スペクトルマン』を急遽スタートさせていた。
――当初のタイトルは敵ボスの名である『宇宙猿人ゴリ』、71年5月放映の第2クールの中盤である第21話で『宇宙猿人ゴリスペクトルマン』、同年10月の第4クールの第40話からは『スペクトルマン』へと改題。当時は子供向け番組は再放送がひんぱんにあったのだが、再放送用のフィルムは一律に『スペクトルマン』へと改訂――


 『仮面ライダー』第1話放映の1日前である4月2日(金)夜7時からは、ウルトラマンシリーズも2年半ぶりに再開されて、円谷プロダクションとTBSは新番組『帰ってきたウルトラマン』をスタートさせて、先の関東での『ウルトラファイト』再放送の最終回の日付でもあった翌72年3月末日までの1年間の放映がなされている。


 当初は過去の1960年代後半の特撮作品のリバイバル人気であったともいえる「第2次怪獣ブーム」。それは「真打ち」となる「現役・最新のヒーロー」たちが登場したことで、さらなるヒートアップをはじめていく。


――同人誌『仮面ライダー The First Impression 1971』(森川由浩・05年12月30日発行・09年11月22日増補版発行)に再録された東映の社内報「とうえい」71年6月号にも、1937(昭和12)年生まれの東映側のサブプロデューサー・阿部征司(あべ・せいじ)が、


「昨年後半から盛り上がってきた怪獣ブームにうまく乗った」


と語っている――


 ところで、子供間での「第1次怪獣ブーム」とは、60年代末期に起こった「妖怪ブーム」と「スポ根(スポーツ根性)ブーム」によって終焉を迎えることになってしまったことはご承知のことだろう。
 しかし、『スペクトルマン』のウラ番組は、まさにその「スポ根」モノのトップに君臨していた大人気スポ根アニメの金字塔であり、3年半ものロングラン放映となった野球を題材に据えた『巨人の星』(68年)であった。


 けれど、同作の視聴率を『スペクトルマン』は早くもまさにその3大特撮ヒーローがそろった71年の4月であった4月10日に放映された第15話には追い抜いてみせている! 「スポ根ブーム」自体は70年代前半までは続いたムーブメントなので、小学校中高学年~中高生を例に取れば「スポ根」の命脈が経たれたとはいえない。しかし、子供たちの年々歳々での世代交代――常に新たに流入してくる幼児~小学校低学年――も含めての「怪獣ブーム」が巻き返してきたことの、これは象徴的な出来事でもあったのだ。


 そういった風潮の中で、本作『仮面ライダー』もその放映をスタートさせたのだ。


1971(昭和46)年4月 ~変身ブームへの転轍機!


 バイクを駆るオートレース選手にして、城南大学・生化学研究室に所属する青年科学者でもある本郷猛(ほんごう・たけし)。春はまだ遠く雪も残った肌寒い山間の舗装道路で、オートレースの師匠である「おやっさん」こと立花藤兵衛(たちばな・とうべえ)の指示のもとで、スピードを競っていた彼は、黒タイツ姿の女性ライダー集団の挑発を受ける。
 彼女らを追いかけた本郷は「クモの糸」状の繊維にカラめとられて意識を失った。目覚めるや、そこは世界征服を企むショッカーなる組織のアジトの手術台! すでにその身体も改造されて仮面ライダーの姿となっていた!
 最後の脳改造が施される寸前、心ならずも彼を改造してしまった緑川(みどりかわ)博士の機転で本郷は脱出! 彼を拉致したうえに最初の刺客ともなったショッカー怪人・蜘蛛男(クモおとこ)を死闘の末に倒すのであった……。



●現実世界での黒革ツナギのライダースーツをモチーフとした素体に、胸筋や腹筋を思わせるパーツを装着!
●金属メタリックなヘルメットとも取れる顔面の仮面には、特徴的な昆虫の複眼状の巨大な両眼のカッコよさ!
●ベルトの巨大なバックル部分には回転する風車を装備!
●強化された身体を持った改造人間という設定を活かして、トランポリンでのトリック撮影で軽々と空高くジャンプして空中前転してみせる身体的快感!
スーパーバイクを駆ることでのスピード感と疾走感!
●狭い特撮セットではなく屋外撮影ゆえの、戦場の広大さと多彩さ、戦闘シチュエーションの豊富さ!
●7月の第2クールから登場した仮面ライダー2号からの趣向だったが「ヘンシン!」なる掛け声で、機械的な効果音とともに伸ばした両腕を大きく振るった「変身ポーズ」と、ヒーローに変身することでの万能感と身体拡張感!


――先の社内報「とうえい」でも、阿部プロデューサーが「ヒーローの活躍場面が子供でもミニチュアだとわかる特撮ではなく、実景であることから来る現実感といった一日の長。スローモーション撮影ではないリズミカルなアクション。バイクの曲芸乗り。ジャンプやキック。子供一般にもある怖いモノ見たさの怪人演出の適度な塩加減」(大意)といった、後年のマニア評論でも言説化されてきた事項を、まだ『仮面ライダー』第1クールである通称「旧1号編」の放映時点で、すでに実に的確に指摘していたりもする――


 多少の紆余曲折はあったものの、当時の子供たちはたちまちのうちに『仮面ライダー』に夢中になっていった。なかでも両腕を大きく振るって機械的な効果音とともにする変身ポーズでの「変身」に、子供たちは変身願望や身体的快感を満たされることで高揚! いわゆる70年代初頭にはじまった「第2次怪獣ブーム」を、大マスコミ間では「変身ブーム」という呼称へと変えていく。


 やはりこの流れを受けて、早くも71年の年末12月には、毎週(日)夜7時ワクにてフジテレビと円谷プロダクションが特撮巨大変身ヒーロー『ミラーマン』を、そのウラ番組として1週間だけ先行させたかたちでTBSと円谷プロの分派・日本現代企画が製作した人間サイズの特撮変身ヒーロー『シルバー仮面』も放映をスタートさせている。
 『仮面ライダー』の「原作」名義でもある1938(昭和13)年生まれのマンガ家・石森章太郎(いしもり・しょうたろう)をやはり原作に据えた、東映製作で「魔女っ子アニメ」の実写版ともいえる子供向けTVドラマ『好き! すき!! 魔女先生』(71年)においても、シリーズ後半の第2クールである72年正月放映分からは、小学校の女性教師でもあるヒロインがアイマスクを付けた「アンドロ仮面」に変身して、敵の怪人と戦うようになる。


 1972年4月には、各社も主に人間サイズの同工異曲の変身ヒーロー番組を製作。『仮面ライダー』を製作した映画会社・東映も人間サイズの特撮変身ヒーローである『超人バロム・1(ワン)』『変身忍者 嵐』、円谷プロも『レッドマン』、ピープロも『スペクトルマン』の後番組として獣面の『快傑ライオン丸』を放映スタート!
 7月には東映が『人造人間キカイダー』、円谷も『トリプルファイター』、10月には映画会社・東宝も『愛の戦士 レインボーマン』、ひろみプロは特撮巨大変身ヒーロー『サンダーマスク』、製作会社モ・ブルも舞台中継劇の体裁を採った人間サイズの変身ヒーロー『突撃! ヒューマン!!』の放映をスタートさせている。
 TVアニメでも、「変身」と「変身ヒーロー」を主題に据えた『デビルマン』が7月から、『科学忍者隊ガッチャマン』が10月から放映を開始して、それぞれに高い人気を誇ることとなっていく。
――変身シーンが描かれないTVアニメのヒーローものとしても、当時の幼児層にはその10年以上前のモノクロTVドラマ作品があったとは知る由もなかった『正義を愛する者 月光仮面』(71年)や少年剣士を描いた時代劇アニメ『赤胴鈴之助(あかどう・すずのすけ)』(72年)などのリメイク作品が放映されて、これらもまた相応の人気を博していた――


 いずれの作品も、見せ場となる「変身」シーンには華(はな)のある趣向をこらしていた。


●『ミラーマン』では、「ミラー! スパーク!!』なる掛け声ととともに両腕を大きく振るって変身!
●『バロム1』では、小学生男児2名が「バローム・クロス!」と叫んで両腕をクロスさせて合体変身!
●同じく72年4月スタートの『ウルトラマンエース』でも、男女の隊員が空高くジャンプして空中で互いに向かい合って前転しながら「ウルトラ・タッチ!」と叫んで合体変身!
●『キカイダー』も変身直前にはギターを弾いて現れて、変身ポーズを取りながら、スイッチ押下ひとつで機械を自動で操作するイメージともカラめての「スイッチ・オン! ワン・ツー・スリー!」なる掛け声とともに変身!
●『トリプルファイター』では、3人もの男女の変身ヒーローが登場して、その3人がさらに合体変身!
●『サンダーマスク』も、「サンダー!」なる掛け声とともに人間サイズの変身ヒーローとして活躍! 「サンダー! 2段変身!!」なる掛け声で巨大化まで果たす!
●特撮時代劇であった『快傑ライオン丸』と『変身忍者 嵐』では忍者の「忍法」としての変化(へんげ)!
●『レインボーマン』では、仏教の阿弥陀経の一節を唱えて、月・火・水・木・金・土・日の属性が強調された7種のヒーローへと7段変身!


 『デビルマン』も「デッビ~~ルッ!」の掛け声、鳥をモチーフとしていた『ガッチャマン』の5人の男女戦士たちも「バード・ゴー!」なる掛け声で変身していた。


 『仮面ライダー』が登場した直後の1971~72年に限定したジャンル作品だけでも、すでに早くもこれだけの『ライダー』の影響下にある作品群が登場していたのだ。



 「変身」や「変身ポーズ」の要素だけにはとどまらなかったが、この時点ですでに『仮面ライダー』はその「ドラマ性」や「テーマ性」といった以前に、それらの基底にあった型・基盤・インフラストラクチャーそのものを造ってしまった。あるいは、それが云い過ぎだとしても、その代替すらもが困難なほどに完成度も高くて、揺るぎのないフォーマットやインフラそのものを整備して、もはや不可視で特に意識すらもしていない、あるいは陳腐にすら見えてしまう、当たり前の前提としての「空気」や「水」、「電気」や「水道」のようなものとして、後世の特撮ジャンルに、あるいはアニメも含めた本邦のヒーロー&ヒロインものジャンル全般についても、模範的な型=「典型」を遺してしまったのだ。


『ライダー』前史。歴史の流れ・交差・人脈・叙述とは!?


 「ゴジラ」「ウルトラ」「ライダー」「戦隊」、あるいは『宇宙刑事ギャバン』(82年)にはじまる「メタルヒーロー」。『仮面ライダー』登場以後の「特撮」のメインストリームの歴史を語るにおいては、『仮面ライダー』シリーズの存在は欠かせない。
 しかし、『仮面ライダー』登場以前の「特撮」史のメインストリームの中に、『仮面ライダー』の祖型・先祖的な存在はウマくハマってはいかない。むしろ、接ぎ木として誕生した鬼子(おにご)のようにも見えてしまう。


 通常、本邦の「特撮ジャンル」の歴史においては、その名のとおりで、「特撮」=「特殊撮影」=「特殊技術を用いた撮影」=「トリック撮影」であったことから、特に1950~60年代の作品については、主に1901(明治34)年生まれの円谷英二つぶらや・えいじ)特撮監督が率いてきた、「ヒーロー」よりも「怪獣」、あるいは「SF」「メカ」「戦争映画」といった「東宝特撮映画」の作品群をタテ糸・メインストリームとした「歴史」として語られてきたからだ。つまり、『仮面ライダー』の祖型的な存在はこの系譜には入ってはこないのだ。


 その意味ではカテゴリー・パラダイム・スキームといった物事を捉えるための「骨組み」や「視座」それ自体を変えてみせたり拡張して、整理をしてみせる必要があるだろう。
 すなわち、本邦の「特撮」自体を「東宝特撮」と「東映特撮」の2種に分けてみせる。あるいは、そもそも「特撮」といった括りではなく「ヒーロー」――さらには超人の「スーパーヒーロー」、常人の「覆面ヒーロー」――といった括り。
 それらにすら当てはめにくい作品については「非日常」などといった括りなどを設定して、そこからジャンルの歴史を捉え直してみせるのだ。
 加えて、たとえ「直系の先祖」ではなくても「叔父」や「叔母」には当たっているジャンルや当時の直近の作品群からの影響も、図示できるかたちでイメージしてみせる。


 「ジャンル作品の歴史」にかぎった話ではなく、「現実の歴史」もまた同様なのだけど、ある「事象」の「原因」や「責任」や「依って来たる来歴」がたった「ひとつ」だけの特定の「モノ」や特定の「個人」に限定ができた! として、わかった気になってしまう行為は、言葉は悪くて申し訳がないのだけれども「ザル頭」の所業であって、現実の事物や歴史とはそういった単純なところには落としこめるものではないのだ。
 複数どころか多数の要素が合流した「網の目」「あみだクジ」「ハチの巣」「クモの巣」状の多方向から「多数の糸」が合流した「結節点」として、今ある特定の作品や事象などに帰結しているのだ――そして、それがまた次代の事物にとっての「原因」(のひとつ)ともなっていく――。
 例えるなら、鉄道の広大な車両基地のように、数十本もの並行する線路が同時に相互に乗り入れもできていくようなイメージだ。


昭和『仮面ライダー』のプロデューサー・平山亨の出自!


 まずは、『仮面ライダー』を手掛けた、1929(昭和4)年生まれで子供時代は病弱だったゆえに病床で「世界名作文学全集」などを読み込んで創作もスキだったという東映側のプロデューサー・平山亨(ひらやま・とおる)が担当してきたTV特撮作品群、あるいは「特撮」とは云いがたいものの「非日常」的なキャラクターを主眼に据えていたTV作品群があった。
 1952(昭和27)年に敗戦国・日本が独立を回復して、GHQによる俗にいうチャンバラ禁止令が無効となった時代であった1954(昭和29)年に、平山は東映に入社する。そして、京都にて全盛期の膨大なる時代劇映画の助監督を中心に務めてきた――監督やTV時代劇の脚本も手掛けている――。しかして、この時代劇映画の活況も10年ほどであった。1950年代末期からのTVの急速な普及による映画の斜陽化で、1965(昭和40)年12月に36歳で平山は東京の東映本社へ異動してきた。


 氏が東京へ異動後の翌年66年10月に早くも放った『悪魔くん』(66年・モノクロ作品)・『仮面の忍者 赤影』(67年・カラー作品)・『キャプテンウルトラ』(67年・カラー作品)・『ジャイアントロボ』(67年・カラー作品)・『河童の三平 妖怪大作戦』(68年・モノクロ作品)・『怪盗ラレロ』(68年・モノクロ作品)・『妖術武芸帳』(69年・カラー作品)の系譜がまずはあったのだ――奇しくもこの時期はモノクロ製作からカラー製作への過渡期でもあった――。


 そして、これらの作品とはやや毛色は異なるものの、やはり平山がプロデューサーを務めた、1936(昭和11)年生まれの梶原一騎(かじわら・いっき)原作のマンガ作品であった、奇抜なトランポリン・アクションを用いた攻防劇と、次々に現れる宿敵やライバル、昨日の敵は今日の友! 新たな宿敵に対しては共闘もする、織り成すストーリーといったスポ根ドラマの大ヒット作『柔道一直線』(69年)といった作品群から来る血脈もあっただろう。


 ただし平山自身は自著で、京都での当初のころは『快傑黒頭巾』が塀を跳び越えたらそこに愛馬の白馬が待っているようなご都合主義が気になって、監督や脚本家にその旨を指摘するタイプであって、ウソでも間とかテンポで強引に押し切ってヒーローの万能性を見せていくような後年の東映特撮での手法とは真逆の見解の持ち主であったことも語っている。
 我々のようなマニアは実は庶民とは異なっており、それはそれとして、平山の師匠である1906(明治39)年生まれの名監督・松田定次(まつだ・さだつぐ)による「(ハイソな客層であった銀座の)「丸の内東映」ではなく、(庶民・大衆・労働者が客層である)「浅草東映」のお客さんに向けて作るべきだ」(大意)といった薫陶(くんとう)によって開眼して、ストロング・スタイルのエンタメ活劇に確信犯で邁進していったというべきであろう。


昭和『仮面ライダー』のプロデューサー・渡邊亮徳の企画


 平山文脈とはまた別に、『仮面ライダー』の製作経緯上での発端もあるのだ。『KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.7〈仮面ライダーストロンガー〉』(講談社・04年11月25日発行)などによれば、それは時期的には放映スタート前年の1970(昭和45)年6月。関西は大阪のTV局・毎日放送から、豪腕の営業マン上がりで東映テレビ部の部長でもあった1930(昭和5)年生まれの渡邊亮徳(わたなべ・よしのり)に対して、土曜夜7時30分ワクでの子供番組の企画を依頼したことが発端だったことも知られている。


 ちなみに渡邊亮徳は、営業時のキャッチフレーズで自らを顧客と東映の「両方が得をする」という意味での亮徳(りょうとく)を自称していたそうだ。それとは別個に、漢字の読みがムズカしかったこともあってか、特撮マニア間においても音読みでの(りょうとく)で流通している。
――なお、古き豪傑の渡邊自身ははるか後年の95年に超多額の交際費支出が問題視されて、96年に退職に追い込まれてもいる(汗)――


 渡邊が子供向け特撮作品に携わったのは、名優の川津祐介江原真二郎丹波哲郎が主演で、1929(昭和4)年生まれの推理作家・都筑道夫(つづき・みちお)が原案・脚本を担当して、かの深作欣二(ふかさく・きんじ)も監督に参加していた、空を飛ぶ外車が大活躍するモノクロ作品『スパイキャッチャーJ3(ジェイスリー)』(65年)であったと、書籍『メーキング・オブ・東映ヒーロー3』(講談社X(エックス)文庫 87年4月6日発行)のインタビューにて発言している。
――同作のプロデューサーは近藤照男(こんどう・てるお)で、氏もまた視聴率30%超えを達していた東映の大ヒット作『キイハンター』(68~73年)にはじまるTBS土曜夜9時の一連のアクションドラマや刑事ドラマを手掛けていくことになる――


 平山に云わせると、渡邊が「メディアミックス」という用語自体の創案者でもあるそうだ。渡邊は東映テレビ部に早川書房の「ハヤカワ・SFシリーズ」をまとめて購入してきたり、古典SF小説『キャプテン・フューチャー』(40~51年)を原作とした『キャプテンウルトラ』の企画も立ち上げている。
 しかし、梶原一騎原作でもスポ根ではなく青春モノであったTVドラマ『太陽の恋人』(71年)の平山による実現にはご機嫌ではなかったそうだ。やはりドンパチや非日常性がある作品がスキな御仁であったのだろう(笑)。



 渡邊自身は梶原一騎原作で東映動画の大人気スポ根アニメ『タイガーマスク』(69年)を分析して、その「仮面」に着目した。そして、本邦初のTV特撮、あるいはTVヒーローともいえる『月光仮面』(58年)のような「仮面ヒーロー」もので行く大方針を決めている――ちなみに先の『柔道一直線』も、渡邊が梶原に食い込んで、アニメ製作会社東京ムービー(現トムス・エンタテインメント)が取得していたアニメ化権を引っ繰り返したものだと各書で言及されている――。


 しかし、部下にあたる平山プロデューサーは、


「正直言って私にはピンとこなかった。その頃はスポ根のアニメやドラマが花盛りの時代で、円谷プロウルトラマンでさえ一時的に製作を中断していた。今更、月光仮面でもあるまいしと思った」


と、自著『泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~』(講談社・12年11月27日発行)にて、最初から万能な目線ですべてを見通して勝算まで持っていた! ……などといった後付け的な自己正当化などはまるでせず、包み隠さずにぶっちゃけて当初の違和感を、自身の不明であったとして語ってもいる(笑)。


――そうは云ってはいるものの、『妖術武芸帳』の企画段階でのタイトルは『謎の鉄仮面』であって「仮面ヒーロー」なのである。同作は時代劇作品なので、平山としては『月光仮面』との相似を連想した企画ではなかったということか?――


 いずれにしても、『仮面ライダー』の原点としては、同作をさらに13年ほどもさかのぼった、白い扮装・白い覆面・サングラスで身を包んでバイクを駆るTV草創期の大ヒット番組『月光仮面』の存在が意識されていたのだ。


1950年代末期(昭和30年代)の「仮面ヒーロー」!


 ちなみに、『仮面ライダー』とも同様に、平均視聴率40%・最高視聴率67.8%の大ヒット作『月光仮面』には同系のフォロワーヒーローが多数誕生している。『月光仮面』を製作した広告代理店・宣弘社による『遊星王子』(58年)。『月光仮面』の後番組であった白装束姿や獣面のヒーロー『豹の眼(ジャガーのめ)』(59年)。
 『月光仮面』の原作者でもあり、映画脚本・歌謡曲の作詞家・政治評論家としても高名であった、1920(大正9)年生まれの川内康範(かわうち・こうはん)を東映でも原作者に据えたかたちで、シリーズ後半では後年1970(昭和45)年にJAC(ジャパン・アクション・クラブ)――現・JAE(ジャパンアクションエンタープライズ)――を設立する1939(昭和14)年生まれのアクション俳優・千葉真一(ちば・しんいち)が主演を務めていた『七色仮面』(59年)。同作と同じく千葉が主演していた後番組『アラーの使者』(60年)、川内の手を離れたさらなる後番組『ナショナルキッド』(60年)。


 実は『月光仮面』の前年1957(昭和32)年にも、アメリカン・コミックスの『スーパーマン』(38年)を模して、のちの名優・宇津井健(うつい・けん)が主演していた顔出しの宇宙人ヒーローではあったものの、映画『スーパージャイアンツ』シリーズ9作品(~59年)が大ヒットを飛ばしている。
 同57年には、名マンガ家・桑田次郎が描いた、仮面ライダーサイクロン号のようなバイクを駆って二丁拳銃で戦った、少年新聞記者が変装したアイマスクの覆面ヒーロー漫画『まぼろし探偵』も登場。59年にTVドラマ化、60年に映画化もされて、同作も相乗効果で大ヒット作となったそうだ。顔出しだがバイクを駆るヒーローとしては、『少年ジェット』(59年)もほぼ同時期に放映されて人気を博している。
 顔出しの超人ヒーローを含めるのであれば、人型ロボット『鉄腕アトム』実写版(59年)や、太古に海底に没した大陸の末裔である科学王国から来た『海底人8823(ハヤブサ)』(60年)なども放映されている。


 この1958~60年のわずか3年の間に、いわば「第1次TV特撮ヒーローブーム」とでもいったムーブメントがあったというべきであろう――TVアニメのヒーローの勃興は、飛んで『鉄腕アトム』の元旦放映開始を受けて、秋までに『鉄人28号』『エイトマン』などが出揃った1963(昭和38)年のことである――。


 むろん、近代的な超人ヒーローの始祖である『スーパーマン』のTVドラマ版(52~58年・アメリカ)が、日本でも1956(昭和31)年から放映されて、最高視聴率74.2%を達成していたことが、この50年代末期の「仮面ヒーロー」ものの流行の背景にはあったことだろう。


 ちなみに、日本のTVの放映開始は1953(昭和28)年。1956年当時のTVの世帯普及率は10%未満。60年に44.7%(都市世帯)。とはいえ、当時の子供たちは近所のTVがある家にお邪魔して、これらの作品を観賞していた逸話は有名であろう。早くも63年には普及率は90%弱(全国世帯)に達している。
 この時期に、少年向けマンガ雑誌も月刊誌から週刊誌の時代へと移行していく。59年3月17日に「週刊少年マガジン」と「週刊少年サンデー」が創刊。一般誌でも、56年に「週刊新潮」、59年に「週刊文春」と「週刊現代」が創刊されて、世の中もテンポアップを遂げていく。


 日本の戦後の高度経済成長期は1955(昭和30)年~1973(昭和48)年まで。「もはや戦後ではない」と内閣府の「経済白書」に記されたのは1956年――原文は終戦直後の復興需要による成長はもう望めないといった意味で、高度経済成長期が来るといった意味とは真逆であったそうだけど――。ちなみに、戦前の経済の最高水準は1933(昭和8)年で、そこまで回復できたのが1953(昭和28)年のことであった。
 もちろんのこと、1950年代末期~60年代初頭の子供向け「仮面ヒーロー」や「覆面ヒーロー」たちには、当時の学生間で盛り上がった「60年安保闘争」の影などは、良くも悪くも見られない。


 1950年代末期の「仮面ヒーロー」たち。彼らはTVがモノクロ製作であった時代のヒーローたちだったので、カラー化が進んだ70年代以降には再放送がまったくなされなかった。そのこともあって、終戦直後の1945(昭和20)~50(昭和25)年前後生まれの「団塊の世代」から、1960(昭和35)年前後生まれの「オタク第1世代」までならばともかく、筆者も含めたそれ以降の世代にとっては馴染みがないことも事実なのだ。しかし、往時の関係各位にとってはこの50年代末期の「仮面ヒーロー」たちの現代(当時)的な再構築が企図されていたことは類書でも証言されてきたとおりなのであった。


 ここにもまた、後世からは見えにくい、太くて大きな幹があったといえるだろう――余談だが、1964(昭和39)年生まれで読売新聞の政治部上がりのオタク女性記者・鈴木美潮(すずき・みしお)の『昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか』(集英社・15年6月30日発行)では、気張った大それた意図などはなかったとは思われるものの、「特撮」ではなく「特撮ヒーロー」といった括りで、結果的に従来の「東宝特撮映画」中心史観とは異なる、『月光仮面』を起点としたオルタナティブ(代替的)な歴史を提示している――。


 とはいえ、『仮面ライダー』以降の「仮面ヒーロー」ものとは決定的な相違もある。1950年代末期の「仮面ヒーロー」ものには、敵側には子供ウケするスター性やキャラクター性にジャンク知識収集癖を刺激するような、各話のゲスト「怪人」といった存在はいないのだ。


昭和『仮面ライダー』メインライター・伊上勝の原風景!


 これらの作品群のうち、宣弘社が製作した『遊星王子』は、昭和の『仮面ライダー』シリーズのメインライターであった、1931(昭和6)年生まれの伊上勝(いがみ・まさる)の原作・脚本作品としても知られている。
 『月光仮面』が放映された58年に27歳であった伊上は、その同年の晩秋にはもうTVドラマ化を果たしている『遊星王子』の企画を持参して、1921(大正10)年生まれでまだ37歳(!)であった小林利雄社長に認められて入社ができたのだと、『伊上勝評伝 昭和ヒーロー像を作った男』(徳間書店・11年1月31日発行)では氏の生前の証言だとして語られている。歌謡曲の作詞家として高名になる阿久悠(あく・ゆう)も翌59年に同社に入社。アパートを追い出された氏は1年近くも伊上宅に居候していたと証言している(笑)。


 『月光仮面』の後番組であった宣弘社製作・武田薬品提供でTBS日曜夜7時・タケダアワー枠の子供向けヒーロー作品だったといえる、月刊『少年倶楽部』(1914(大正14)~62(昭和37)年)では戦前に連載されていた同名の小説(1927(昭和2)年)を原作とした『豹の眼』(59年)の脚本も伊上は執筆。
 宣弘社作品ではあるものの日本テレビ放映で、東南アジアのマレーシアで活躍した義賊上がりの諜報員・マレーの虎こと谷豊(たに・ゆたか)という戦中期の英雄をモデルにした、欧米植民地下の東南アジアで秘密結社・死の商人・奴隷商人らと戦う、ターバンを巻いたサングラスのヒーロー『快傑ハリマオ』(60年)にも参画している。


――この「快傑」なる語句は、映画化・TV化もされてきた白馬に乗ってやってくるヒーローを描いた時代劇小説『快傑黒頭巾』(1935(昭和10)年)での造語であるようだ。同作を手掛けた作家・高垣眸(たかがき・ひとみ)は前述した『豹の眼』や、やはり宣弘社が製作したTVドラマ『恐怖のミイラ』(61年)の原作小説家でもあり、晩年にはTVアニメの金字塔『宇宙戦艦ヤマト』(74年)のノベライズ(79年)も同作の西崎プロデューサーのたっての希望で手掛けている――


 この『快傑ハリマオ』のコミカライズを「週刊少年マガジン」で手掛けたのは、奇しくも石森章太郎。飛んで71年に同作を単行本化をすることになった際には、10年前の同作の元原稿が紛失していたことで、掲載誌からのトレス作業を担当したのが、細井雄二・すがやみつる・ひおあきら・土山よしきといった、続けて『仮面ライダー』をはじめとする、石森原作のTV特撮ヒーローたちのコミカライズを任せられた面々でもあった。


 脱線したが、この伊上の1960年代前半の代表作は、何といってもウルトラマンシリーズの元祖『ウルトラQ』(66年)の前番組でもあったタケダアワー枠での時代劇『隠密剣士』(62~65年)に尽きるだろう。それは『月光仮面』の主演であった大瀬康一(おおせ・こういち)が演じる江戸幕府の公儀隠密が各地の忍者集団と1クール(3ヶ月=全13話)をかけて戦うといったストーリーであった。伊上は第3部(第3クール)~第10部(第10クール)の全話と、続けて『新隠密剣士』(65年)の全3クール分の全話、ほぼまる3年分の話数をひとりで手掛けてもいた!
 同作は子供間で「忍者ブーム」を巻き起こす。しかし、1957年には白土三平(しらと・さんぺい)の劇画『忍者武芸帳』、58年には山田風太郎(やまだ・ふうたろう)の時代小説『甲賀忍法帖』、59年には歴史作家・司馬遼太郎(しば・りょうたろう)のデビュー作『梟の城(ふくろうのしろ)』、60年にも62年に市川雷蔵(いちかわ・らいぞう)主演でシリーズ映画化される小説『忍びの者』などで、一般層や青年層においても「忍者ブーム」は勃興しており、そういった下地もあった上での相乗効果もあったといったところだろう。


 平山は当然、ヒットメーカーの伊上を知っており、東映京都で製作された映画版『隠密剣士』(64年)の撮影現場に見学に来た伊上を眺めたことがあったそうだ。実際には渡邊亮徳から紹介された朝日ソノラマの坂本編集長経由で、小学館講談社に関東在住の脚本家などを紹介してもらって、そこで伊上との縁ができて、『悪魔くん』#3の脚本を依頼したのだと、先の『伊上勝評伝』にて平山は証言している。
 その後の60年代後半には、『仮面の忍者 赤影』『ジャイアントロボ』『河童の三平』『妖術武芸帳』などの平山プロデュース作品で早くも八面六臂の大活躍! ただし、先の『亡き虫プロデューサー』では、追い詰められると伊上は逃げてしまうために、名義は伊上でも実際には平山が執筆したエピソードがあるとも語っている(笑)。


 そんな伊上は一方では人見知りだったそうだが、映画会社・日活出身で『仮面ライダー』や東映特撮を多々演出した1928(昭和3)年生まれの内田一作(うちだ・いっさく)監督とは、同じ気質で気が合ったそうだ(歳の差も3歳であった)。1933(昭和8)年設立の大都映画や、1935(昭和10)年設立の大阪の極東キネマが製作していた、子供向けサイレント映画の連続時代劇映画の話題で両者は盛り上がっていたと『KODANSYA Official Magazine 仮面ライダー Vol.4〈ライダーマン〉』(講談社・04年9月24日発行)や先の『伊上勝評伝』では証言されている。
 「忍者モノ」以前に、伊上の源流のひとつに「子供向け娯楽活劇連続時代劇」があったといったところだろう。


 ちなみに、東映テレビプロダクションが製作した初のTVドラマは、東映京都制作の子供向け30分ワク時代劇『風小僧』(58年)。第1クールは子役時代の目黒祐樹(めぐろ・ゆうき)主演で、第2クール~最終第4クールでは成人したという設定で山城新伍(やましろ・しんご)主演。続けて、山城主演の『白馬童子(はくば・どうじ)』(60年)が放映されて視聴率30%を達成していた――私事で恐縮だが、80年代初頭にビデオ化がなされたようで、当時の筆者が在籍していた公立中学の教師の趣味であろうが、同作を授業の一環として視聴覚教室で観せられたことがあった。少なくとも鑑賞したエピソードに関しては、あまりに牧歌的かつスローモーな作風でノレなかったことを覚えている(汗)――。


 なお、「アイテム争奪戦」を伊上の独創のように評する向きもあるが、これは決して伊上をおとしめる意味ではないのだけれども、「指輪」をめぐる戦いを描いた『指輪物語ロード・オブ・ザ・リング)』(1937年~)などの例もあるとおりで、古今東西・普遍の活劇ネタといったところだろう。要はそこをいかにブラッシュアップして描くかであって、そこに成功さえしていればイイわけだ。伊上の世代的には、吉川英治(よしかわ・えいじ)の時代小説の大ヒット作で「秘帖」をめぐって争う『鳴門秘帖(なると・ひちょう)』(1926(昭和2)年)が着想の基だったとは思われる。


昭和『仮面ライダー』の美術・エキスプロの来し方行く末


 先の宇宙SF『キャプテンウルトラ』の特撮美術、『赤影』に登場する巨大怪獣(怪忍獣)、そして『仮面ライダー』の美術や怪人の造型は、造型会社・エキスプロダクションが手掛けていた。
 同社は映画会社・大映の映画『大怪獣ガメラ』(65年)を契機に設立された。しかし、代表で1926(大正15=昭和元)年生まれの八木正夫(やぎ・まさお)や、1935(昭和10)年)生まれの三上陸男(みかみ・みちお)は、東宝の怪獣映画の元祖『ゴジラ』(54年)にも参画している――ここでようやく、本邦日本特撮のメインストリーム・東宝特撮と『仮面ライダー』との接点を確認することができたことになる――。


 三上は同作ではライダーが搭乗するサイクロン号や、敵組織・ショッカーのアジトや「鷲」型の紋章デザイン、#1に登場した怪人・蜘蛛男(クモおとこ)、#2の蝙蝠男(コウモリおとこ)、#3のさそり男の造型などを手掛けている――70年代の特撮ものに登場しつづける俗称・お化けマンションなる建築途中で放棄されたコンクリむき出しのままの荒廃マンションなどは、美術予算の節約のために探してきたと『宇宙船別冊 仮面ライダー怪人大画報2016』(ホビージャパン・16年3月28日発行)にて三上自身が語っている――。


 #4の怪人・サラセニア人間からは、三上に呼ばれて後任として参加した高橋章(たかはし・あきら)が引き継いで、敵怪人のデザインを担当するようになる。石森デザインが存在しない高橋オリジナルデザインの怪人の方が多かったようだ。しかし、当時の造型技術の限界で、高橋のデザインの方が概してシャープではある――それはそれで実際の造形物にも味わいはあるのだが――。ショッカー怪人がほぼ共通して装着しているショッカーベルトも高橋の考案であったそうだ。


 特撮ライター・杉田篤彦(すぎた・あつひこ)は、


「動物を巨大化させたイメージの石森デザイン(『アマゾン』や『BLACK』を思い起こしてほしい)に対して、高橋の怪人デザインは、あくまで動物のディテールのみを抽出しているのが特徴」


なのだと、『仮面ライダー大研究』(TARKUS編・二見WAi WAi文庫・00年3月25日発行。07年5月21日に新書サイズで再刊)にて評している。


 昭和の『仮面ライダー』シリーズには、「特撮」といった言葉で通常イメージされる、金銭&手間がかかる「ミニチュア特撮」「合成」「光線作画」はほぼ使用されてはいない。だが、同作にもマレにあったそれらのシーンは、『キャプテンウルトラ』や『ジャイアントロボ』でも特撮に関わった「進行主任」「制作担当」職の佐久間正光らとともに、エキスプロの八木の子息であり1951(昭和26)年生まれの八木功(やぎ・つとむ)が担当。氏はミニチュア特撮が強化された『イナズマン』や続編『イナズマンF(フラッシュ)』でも特撮を担当していたそうだ。


 三上と高橋は75年に独立して造型会社・コスモプロダクションを設立。『仮面ライダー(新)』(79年)の美術や、石森章太郎のアシスタント上がりである永井豪(ながい・ごう)原作のTV特撮であった宇宙SF人形劇『X(エックス)ボンバー』(80年)を製作して、カッコいいメカ特撮や巨大ロボットへの合体シークエンスなどを見せてくれていた。
 72年に造型会社・ツエニーを設立して、同年の『ウルトラマンエース』序盤の超獣ベロクロン・超獣バキシム・地底人のギロン人などを造型した、1933(昭和8)年生まれの村瀬継蔵(むらせ・けいぞう)も当時はエキスプロに所属しており、仮面ライダー1号とサイクロン号の造型にタッチしていたと『怪獣秘蔵写真集 造型師村瀬継蔵』(洋泉社・15年9月24日発行)のインタビューにて答えている。


生田スタジオ。現場責任者・内田有作。監督・撮影・照明


 エキスプロを招聘したのは、先の内田一作の弟でもあり、戦前から活躍して戦中の満州映画にも在籍、戦後は萬屋錦之介よろずや・きんのすけ)主演の時代劇映画『宮本武蔵(みやもと・むさし)』シリーズ(61~65年)や、関東では70~80年代のTBS土曜午後などによく放送されていた、あえてモノクロ映像とした社会派推理映画の名作『飢餓海峡(きが・かいきょう)』(65年)などでも有名な、平山も東映京都時代に助監督に就いたことがある名監督・内田吐夢(うちだ・とむ)の次男でもあった、1934(昭和9)年生まれの内田有作(うちだ・ゆうさく)。
 内田が大映の美術スタッフに相談したところ、エキスプロに持ち込まれて、撮影スタジオに常駐するかたちでの作業になったと、先の『仮面ライダー怪人大画報』でも語られている。


 氏は東映育ちで『柔道一直線』の「制作主任」――撮影現場の統括――を務めていたが、『仮面ライダー』製作にあたって東映の東京での撮影所であった練馬区にある大泉撮影所以外での製作指示を拝命されて、東京と小田原を結んだ小田急線の東京都と神奈川県の境目・多摩川を越えて各駅の2駅で生田(いくた)駅だが、3駅目のよみうりランド前駅が最寄り駅で、徒歩15分強の山腹にあった貸しスタジオに行き当たる。これが78年まで使用された東映生田スタジオとなった。


 各種書籍によると、美術(造型)スタッフにかぎらず、監督・カメラマン・照明・アクションといった撮影現場のスタッフは、この内田有作が集めている。


 監督や助監督の布陣は、東映の社員監督・契約社員監督・東映を主戦場とする監督人であった、山田稔(やまだ・みのる)・田口勝彦(たぐち・かつひこ)・奥中惇夫(おくなか・あつお)・折田至(おりた・いたる)・塚田正煕(つかだ・まさひろ)・長石多加男(ながいし・たかお)・平山公夫(ひらやま・きみお)などが参画。


 カメラと照明の布陣は、やはりTVの普及で急速に斜影化して『仮面ライダー』が放映を開始した71年末には倒産してしまう大映からの引き抜き。彼らカメラ・照明スタッフは引き抜きを契機に独立して会社を設立している。
 #1・#3・#4を担当したカメラの山本修右(やまもと・しゅうすけ)は同社の社長に就任。そのチーフ助手であった川崎龍治(かわさき・りゅうじ)は『仮面ライダー』第3クール~シリーズ第5作『仮面ライダーストロンガー』(75年)までのカメラを担当することになる。


 照明も同社に所属することになった太田耕治(おおた・こうじ)。東映の明るい照明とは異なる大映の流儀で、明暗コントラストをハッキリと強調。背景や人物の顔の半分などの暗部を増やしたことで、「事件や怪人や作風の怪奇性」が増すのと同時に、セットの安っぽさを極力ごまかそうとしていた主旨の証言が『「仮面」に魅せられた男たち』(牧村康正・講談社・23年3月27日発行)に記載されている。この処置もまた結果的に昭和の『仮面ライダー』のテーマ性やドラマ性を超えたところでの、作品カラー・空気感を決定するにあたってのけっこう重要なポイントのひとつだったともいえるだろう。
 氏もシリーズ第3作『仮面ライダーX(エックス)』(74年)まで参画している。昭和ライダーシリーズでも『仮面ライダースーパー1(ワン)』(80年)のシリーズ後半を除いては、基本的にはこの照明の方法は強弱はあれども継承されていったようには思える――『スーパー1』後半のみ、照明はかなりフラットだが、あれも独自なチャイルディッシュの良さがあって、個人的には独自なものとして認めてはいる――。


 もちろん、暗部を強調したアンバランス・ゾーンたる「怪奇性」は敵怪人が引き起こす事件の発端のみにとどまって、白昼屋外での各話のライダーvs怪人のクライマックスではそれらを爽快に一掃してしまうことでの、落差・対比の妙のためのメリハリであったことも忘れてしまってはいけないが。


昭和『仮面ライダー』のアクション・大野剣友会の面々!


 そのアクションはもちろん大野剣友会。1933(昭和8)年生まれの大野幸太郎(おおの・こうたろう)は、元々は東映特撮『キカイダー01(ゼロワン)』(73年)の主演俳優でもある池田駿介(いけだ・しゅんすけ)の実父が主宰していた大内剣友会に所属していたが、64年に独立して設立。
 しかし大野剣友会所属で、1943(昭和18)年生まれのまだ26歳であった高橋一俊(たかはし・かずとし)が、テロップ上では第2クールで殺陣師に抜擢されて、格闘時の奇抜な構えや荒唐無稽なワザにトランポリンを多用したアクションを確立した『柔道一直線』での貢献が画期的であった。高橋が考案した仮面ライダー1号と2号の変身ポーズの原型というのか、ほぼそのまんまのポースもすでに同作後半には見られることは、1990年前後の各種の懐かしモノTV番組などでも世代人の俳優・京本政樹(きょうもと・まさき)が暑苦しく語っていた(笑)。


 『仮面ライダー』放映2年目の「読売新聞」1972年6月7日(水)の「新商売飛び出す アクション・ディレクター “殺陣師とは違う” 草分けの高橋さん 夢は日本の007」という記事にて、アクション監督は殺陣師(たてし)とは違って、番組の企画段階から参加する旨を語っている。アクション監督なる役職は千葉真一が主演とそれを兼務していた大ヒット角川映画戦国自衛隊』(79年)が初であったが、すでに72年の時点で高橋も作品上での役職名はともかくそういった意識を持っていたことになるのだ。


 会長の大野自身も随時、撮影現場に随行。後楽園ゆうえんちで開催されていた「仮面ライダーショー」の構成・演出も手掛けていたそうだ。大野は会の若い衆を引き連れて、立ち上げ時の東映生田スタジオの掃除をしたり電球を付けたりしていた旨も、往年の大冊名書籍『仮面ライダー大全集』(講談社・86年5月3日発行)――実売は『仮面ライダー』#1放映15周年の4月3日か?――にて語っている。同書によると、現場でのライダーや怪人の着ぐるみの管理や簡単な補修も大野剣友会が担当していたそうだ。


昭和『仮面ライダー』のトランポリン&空中前転の衝撃!


 ただし、トランポリンの空中前転スタントについては、『柔道一直線』とも同様にJACが担当していて、エンディング主題歌のテロップでの「トランポリン」職は三隅修(JAC)となっている――JAC設立は70年となっているが、69年の『柔道』第1クール中盤から「日本アクションクラブ(JAC)」なる名義にて見受けられる。法人化される前の時点での活動といった位置付けか?――。
 しかし、『仮面ライダー大全集』巻頭・見開きの目次ページが、石森章太郎が直々に脚本&監督を担当していた#84のスタッフ&キャストの集合カラー写真となっており、そこの補足説明にはゲルショッカー戦闘員のひとりの顔出しが、1955(昭和30)年生まれのJAC所属の春田純一(はるた・じゅんいち)だともされていた――氏もはるか後年、『大(だい)戦隊ゴーグルファイブ』(82年)でゴーグルブラックの変身前後や、『科学戦隊ダイナマン』(83年)でもダイナブラックの変身前後などを演じて、一般のTVドラマなどにも顔出しで進出していたことでも有名だ――。
 同書の別ページの写真キャプションによれば、氏は『ライダー』放映2年目の通称「新1号編」時代における新1号ライダーのトランポリンも担当している旨の記載があった。


 とはいえ、トランポリン・アクションの元祖を『柔道一直線』だけに求めてしまうこともまたムズカしい。「読売新聞」2020年10月16日(金)夕刊の「太秦(うずまさ) 時代劇の1世紀 ①」なる記事では、京都の東映太秦映画村・特別顧問で1960(昭和35)年生まれのオタク第1世代でもある山口記弘(やまぐち・のりひろ)が、俳優・北大路欣也の実父である市川右太衛門(いちかわ・うたえもん)主演で1930(昭和5)年から複数の映画会社をまたがって製作されて、奇しくも平山も助監督に就いていたシリーズ第27作目となる時代劇映画『旗本退屈男 謎の暗殺隊』(60年)での忍者アクションが、その元祖だとの見立てを記している。
 背広組のプロデューサー職と撮影現場にも分断・縄張り争いがあるので、平山がトランポリン・アクションをはじめとするあまりに細々としたことまで現場に対して指示をくだしていたとは考えにくい。そして、高橋も同映画を観賞しており無意識に影響を受けていたとしても不思議ではないし不名誉なことでもないのだが、故人であるのでウラ取りのしようがない。先の伊上の「秘宝争奪戦」なども同様なのだけど、「2点」であった「点」を「3点」に代えたかたちでの因果の「線」を結んでみたいものである。


 『仮面ライダー』の次作『仮面ライダーV3(ブイスリー)』(73年)からは、トランポリンも大野剣友会の人材が担当している。


昭和『ライダー』のトランポリン&空中前転が与えた影響


 このトランポリンによる空中ジャンプや空中前転は実に衝撃的でカッコよかったものだ。私事で恐縮だが、筆者も後年にオタクになってしまったからには、おとなしくて覇気のない陰気な子供であったものの(汗)、このジャンプや前転にはワクワクして就寝中の夢にまで見て、畳んだ多数の布団を敷いて押し入れから前転しながら飛び降りてもいた――3歳児ながらに危険を直感したので1回だけである――。


 もちろん競合他社でも、トランポリン・アクションに子供たちが大いに「身体性の快楽」といった魅力を感じていることはわかっていたことであろう。
 まずは、カメラに見えないところにトランポリンを置いて、スローモーションでフワッと空高くジャンプさせてみせるシーンだ。同時期に放映の『帰ってきたウルトラマン』においてもシリーズ中盤にて導入! それは登場時や戦闘時などに、垂直にジャンプしたウルトラマンを真横から捉えたストップモーション映像(写真)自体を回転させたものを再撮影してウルトラマンの空中前転を表現している、やや不自然なものではあった。しかし、屋外にて青空を背景に実際に空中前転しているサマを新たなバンクフィルムとすることでバージョンアップを遂げていく。


 ウルトラマンは飛行能力があるのだから、ジャンプや空中前転は不要なのでは? といった意見ももっともだ。しかし、筆者も含む往時の子供たちは、飛行能力といった超能力ヌキでの純粋な身体能力だけでも、ウルトラマン仮面ライダー並みの身体能力を保持しているハズだから、空高くジャンプして空中前転ができたとしても当然の自然なことなのだ! と直感していたとも思うのだ。筆者個人には不満はなかったしカッコいいとも思っていた。
 以降、『ウルトラマンティガ』(96年)に至るまでこの手法は継続されるが、次作『ウルトラマンダイナ』(97年)にて廃されてしまったことが個人的には残念であった。しかし、近年では『ウルトラマンオーブ』(16年)・『ウルトラマンタイガ』(19年)・『ウルトラマンZ(ゼット)』(20年)などで、空中前転をひんぱんに披露していたウルトラマンタロウ(73年)のパワーも有したウルトラマンやそのタイプチェンジが、その登場時などに空中前転を披露している。


 平成ライダーシリーズ以降はトランポリン・アクションが見られないが、子供たちが最もあこがれる要素であろうから、個人的にはそこには不満があるのだ――その一点をもってして平成ライダーを全否定しているワケではないことは、くれぐれも念のため――。


昭和『ライダー』の敵組織の末端・戦闘員が与えた影響!


 大野剣友会のメンバーが演じた敵組織・ショッカーの「戦闘員」や、赤戦闘員・黒戦闘員といったヒエラルキー・階層については、初代『ウルトラマン』の後番組にして『ウルトラセブン』の前番組でもあった、同じく東映の平山が手掛けた、巨大怪獣も登場する宇宙SF特撮『キャプテンウルトラ』においても、第1クールの宿敵・バンデル星人たちをリーダー・下級兵士で色分けしていた表現に先行例が見られる。
 同じく平山が手掛けた『仮面の忍者 赤影』でも、第1クールでは甲賀下忍衆、第2クールではまんじ党下忍、第3クールでは根来下忍衆、第4クールでも魔風下忍衆などが登場していた。
 『赤影』にかぎらず、忍者モノ一般に登場してきた下忍や、時代劇一般や西部劇などに登場してきたクライマックスに大挙として登場して「前哨戦」として主人公に斬られたり撃たれたりすることで、「主人公の強さ」を引き立ててきた雑魚(ザコ)の悪人キャラたちも含めての、戦闘員の系譜をたどっていくこともできるだろう。


 なお、ショッカー戦闘員の掛け声も大野剣友会のメンバーがアフレコで演じていたそうだが、お決まりとなった「イーッ!」なる掛け声の初出は#11であった。序盤の顔出しでベレー帽の戦闘員にももちろん味はあるのだが、#6からのアイマスク、#14からの覆面の着用によって、イイ意味で記号的となって、偽善であり欺瞞であろうが倒してしまっても痛みや罪悪感は抱かなくても済む存在、かつ愛嬌もある存在となったことで、子供向けエンタメには実にふさわしい存在として昇華・完成もしている。そして、今日の特撮変身ヒーローものや女児向けヒロインアニメなどにも連綿として継承されている。
 むろん、世代人が長じてから、これらの戦闘員にドラマ性やテーマ性を持ち込むことも可能ではある。30年後の舞台劇『仮面ライダー 戦闘員日記』と同『2』(共に01年)などでは、そういったところにもスポットを当てて、マイルドかつ笑いに包みながらもペーソス(哀感)あふれる作品を構築できていた。


 幼児向けのお遊戯・教育番組などに着ぐるみのファンシーなキャラクターがよく登場していることにも顕著なのだが、良くも悪くも幼児たちは高度なドラマを十全には理解ができない。まずは「原色」かつ「異形」の「非日常」的な「着ぐるみキャラクター」たちに目を奪われている。そんな異形たちが繰り広げる「アクション」に原初的な興味・関心と興奮を本能的に覚えているものだ。
 『ウルトラマン』シリーズでの基本は30分ワクの後半Bパートの終盤のみでのヒーローバトルとは異なり、『仮面ライダー』においては前半Aパートでもヒーローが敵怪人や敵戦闘員とも前哨戦を繰り広げることで、子供たちにさらなる興味と高揚を与えていた。


 そこに当時の作り手たちも早くも気付いたのであろう。


●先の『ミラーマン』でも、シリーズを通じたレギュラー悪として「インベーダー」が登場した。そして、黒背広スーツに黒いサングラスをかけた姿の戦闘員的なキャラクターなども各話で登場。同作の防衛組織であるSGMの隊員たちとも各話で格闘戦を見せてくれることになる。
●同じく円谷プロが製作した『トリプルファイター』でも、レギュラー悪であるデビル星人たち「デーモン軍団」が登場して、「デビラ」なる黒ずくめの戦闘員も各話で登場していた。
円谷プロの分派・日本現代企画が製作した特撮巨大ヒーロー『アイアンキング』(72年)でも、第1話~10話では日本先住民である不知火(しらぬい)一族、同じく第10話~18話では体制転覆革命組織・独立原野党、第19話~26話(最終回)では宇虫人タイタニアンの戦闘員たちとも戦っていた。
●同じく日本現代企画が製作した特撮巨大ロボット『スーパーロボット レッドバロン』(73年)でも、「鉄面党」なる悪の集団が登場。悪の巨大ロボットとは別に人間サイズで黒ずくめで銀仮面の「メカロボ」なる戦闘員を登場させて、巨大ロボット戦とも並行して同作の防衛組織・SSIの隊員たちが各話で格闘戦を行なっている――同作の格闘戦は、宣弘社の小林利雄社長の要望だったそうだが――。
●翌々73年に円谷プロが製作した特撮巨大ロボット『ジャンボーグA(エース)』(73年)でも、同作の怪獣攻撃隊・PAT(パット)はレギュラー敵であるグロース星人の戦闘員たちとも格闘戦を繰り広げていた。


――『ウルトラマンレオ』(74年)でも、怪獣攻撃隊の隊員たちが人間サイズの敵宇宙人と戦う姿が導入されていた。しかし前掲の作品群とは異なり、良くも悪くも記号的・舞踏的で軽快なバトルではなく、鬼気迫り死者も続出するバトル&ドラマであったがために(汗)、長じてからの再観賞だとカルト的なニガ味もあるリアルさを感じてクセになってしまうのだが、子供向け番組としてはやはりヘビーに過ぎただろう――


 実に飽きっぽい子供たち向けの番組としてのキャッチーなアクション面での弱点を、はるか後年の2010年代の『ウルトラマン』シリーズでも自覚してか、全話ではないものの、そろそろ幼児だと飽きるかな? といった頃合いになると、唐突に人間サイズの悪い宇宙人たちとのアクションを導入するようにもなっている(笑)。
 ドラマやテーマを語りたい者こそ、子供番組もしくは大衆向けエンタメ活劇としてのバランスを取るために、あるいはドラマやテーマを語るためのツカミ・入り口とするためにも、オトナの態度でアクションも敵視をせずに重視すべきではあるだろう。たとえ30分ワクでも、技巧さえあればドラマ&アクションは充分に両立可能であるだろう。


 隔世遺伝的な影響であるのか、南米のピラミッドはエジプトのそれとは無関係に成立した例とも同様で、人間が考えて行き着くところは同じなのだというべきなのか。マーベル社のアメコミヒーロー大集合洋画『アベンジャーズ』シリーズ(12年~)においても宇宙から来た悪の軍団の兵隊として「チタウリ」なる人型戦闘員キャラが、DC社のアメコミヒーロー大集合洋画『ジャスティス・リーグ』(17年)においても宇宙から来た悪の軍団の兵隊として「パラデーモン」なる人型戦闘員キャラが、ウンカのごとく登場して「前哨戦」として一騎当千のヒーローたちにヤラれていくことで、見事にヒーローたちの強さを感じさせるための引き立て役ともなっている。


昭和『ライダー』初期企画の変遷を交通整理してみせる!


 『仮面ライダー』の企画・文芸面は平山が主導しており、


●石森プロの加藤昇マネージャーと進めた『マスクマンK』
伊上勝上原正三(うえはら・しょうぞう)・市川森一(いちかわ・しんいち)といった3人の脚本家との打ち合わせによる『仮面天使(マスクエンジェル)』
●石森を原作者に据えて、TV局側からのバイクに搭乗するヒーローといった注文も受けての『十字仮面(クロスファイヤー)』


 『十字仮面 仮面ライダー』(70年12月)、ドンデン返しで髑髏モチーフの『仮面ライダースカルマン』、バッタモチーフの『仮面ライダーホッパーキング』、そして『仮面ライダー』(以上、71年正月)などといった変遷をたどってきたことは承知のとおりだ。
――4月に放映開始のTV番組が、1月半ばになってもタイトルやデザインがブレてしまって造型にも着手ができずに、告知広告を入れるべきマンガ雑誌の印刷の輪転機も待たせて、2月上旬に撮影開始というのはやはりキツい製作体制ではある(汗)――


 なお、『仮面天使』が初出であった主人公・本郷猛のネーミングは平山によるものであったそうだ。『キャプテンウルトラ』の主人公の本名のウラ設定・本郷武彦とも同様に、その由来は戦前の月刊雑誌『少年倶楽部』に連載されていた大人気小説『亜細亜の曙(アジアのあけぼの)』『大東の鉄人』『太陽の凱歌』(1931(昭和6)~35(昭和10)年)などの主人公・本郷義昭(ほんごう・よしあき)の名字から取られているとされている。平山命名の出典が究明できなかったのだが、平山にかぎらずその世代の本読みの少年たちが熱中していた児童小説であったことは著名な事実なので、まずは間違いないといったところだろう。
 同時期の人気TVアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』などでも、夕日の荒野を疾走しているビジュアルイメージがあった。こちらも無国籍な世界にカモフラージュしながらも、良くも悪くも海外で雄飛せんと広大な満州などで活躍する戦前・戦中の大陸浪人のイメージが、無意識に当時のスタッフたちから漏れ出てしまったものだろうと、年配マニア諸氏によって指摘・推測もされてきた。
 すでに著作権が切れているので、本郷義昭はTVアニメ『ルパン三世PART6』(21年)にもゲスト出演を果たしていた(笑)。


 上原と市川が銀座は丸の内東映の上層階にある東映本社の広い会議室に呼ばれて、東映とTV局の上層部を相手に30分もの演説をぶったというのは、この71年正月のことなのであろうか? 上原は『仮面ライダー』#1を執筆するつもりで主演陣のあいさつを受けたことも『ウルトラマンの「正義」とは何か」(花岡敬太郎・青弓社・21年5月26日発行)でのインタビューなどで語っている。
 上原自身は『仮面ライダー』と同時の71年4月にスタートした『帰ってきたウルトラマン』のメインライターとして活躍。けれど、同じく71年4月にスタートした『柔道一直線』の後番組であったマンガ原作で高校野球を題材とした宣弘社製作のスポ根TVドラマ『ガッツジュン』でも、メインが伊上・サブが上原で多数の本数を執筆している! 両者ともに恐るべき筆力であった。


 なお、平山がプロデュースしてTBSの月曜夜7時30分の子供向けドラマ「ブラザー劇場」枠にて放映された、魚売りの一心太助(いっしん・たすけ)、徳川家康以来の気骨の老臣である大久保彦左衛門(おおくぼ・ひこざえもん)、若き日の立場は定まらぬ3代将軍である徳川家光といった、江戸時代の実録本以来、個々で主役を張れる3人をシャッフルしてダブル主人公にしたり3人全員を主役とするバリエーションなども交じえながら、歌舞伎・講談・映画などで連綿と作られてきた定番作品の30分ワク時代劇『彦佐と一心太助』(69年)に、伊上・上原・市川の3人は参加しており、ここに人脈&文芸的な起源があったことを、しかして上原は翌72年に『ライダー』のウラ番組となった『突撃! ヒューマン!!』、および市川はその前番組であった有名4コマ漫画原作(62年~)のTVドラマ『小さな恋のものがたり』に参加していた奇遇を、同人誌『仮面ライダー The First Impression』が指摘している。


昭和『ライダー』は「自由」を賞揚!? 「正義」を賞揚!?


 『マスクマンK』の企画書に記述された「仮面をかぶることでの非日常性や別人格の招来」(大意)といったあたりに市川が食指をそそられた旨の記述も、『仮面ライダー大全集』には見られる。平山の『泣き虫プロデューサー』によれば、市川の痕跡はオープニング主題歌の末尾の「仮面ライダーは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ!」といったナレーションのことだそうだ。


 「正義」もまた危険だから「自由」の方を賞揚した。市川も後年にそう語っている。市川の見解にも相応の理はあるだろう。しかし、筆者のようなヒネくれ者は、「自由」を賞揚しすぎると、それはそれで当今の新自由主義経済・リバタリアニズム自由至上主義)にも通じてしまうので、それもまたパーフェクトな見解ではないものだとしてツッコミを入れたくなってしまうけど(汗)。


 市川の見解とは相反することに石森は後年、「仮面ライダーは“正義の使者”。“正義”なんてもうないと思われているが、それは間違い。“悪”とは違って“正義”とは永遠不滅の真理のことなのだ」といった主旨のことを『仮面ライダーBLACK・RX超全集』(小学館・89年8月10日発行)の巻頭言にて語っている。


 市川が語った「正義」とは地上の現実政治の中で表明される「正義」への懸念で、石森が語った「正義」とは天上の形而上(メタ)的な理念としての「正義」への賞揚なのであって、その指し示しているものはズレている。とはいえ、「正義」を相対化して「自由」の方を賞揚してみせた市川もまた、70年代初頭の時点では卓見の持ち主だったとは思うのだ。


#1の監督・竹本弘一! 戦隊・80年代特撮にも影響!


 パイロット編たる#1と#3の監督は、1928(昭和3)年生まれの東映の竹本弘一(たけもと・こういち)。『悪魔くん』(66年)が監督デビュー作で『キャプテンウルトラ』『ジャイアントロボ』も監督している。しかし、スピーディーなアクションドラマ『キイハンター』(68~73年)でもすでに活躍を果たしており、監督陣の中ではキャリア的にも頭ひとつ抜きん出ている。奇抜なアングル。カメラ自体が天地回転するアングル。たしかに斬新ではある。『仮面ライダー大研究』によれば、平山の強い要望での登板であったそうだ。


 竹本はスーパー戦隊の元祖『秘密戦隊ゴレンジャー』(75年)~『太陽戦隊サンバルカン』(81年)の初期5大戦隊のパイロット編(#1~2など)も担当。竹本ひとりの功績に帰するワケにはいかない、JACの山岡淳二アクション監督やカメラマンの発案などもあったのだろうが、『サンバルカン』序盤の全般における実に細かいカット割り・急ズーム・急ズームバック・高所からのジャンプ降下時の見上げたカメラの回転などは、80年代いっぱいまでのスーパー戦隊シリーズや『宇宙刑事ギャバン』(82年)にはじまるメタルヒーローシリーズにおける演出の基調ともなっていく。


 よって、『仮面ライダー』#1における、ショッカー関係やアクションシーンでのコマ抜きは竹本の演出なのかと思いきや……。竹本からの指示はなくて、長すぎる尺の都合で編集の菅野順吉(すがの・じゅんきち)が間引いたものであったと『KODANSYA Official Magazine 仮面ライダー Vol.8〈スカイライダー〉』(講談社・04年7月9日発行)にて明かされている(汗)。それがまた竹本監督回には実にハマっていたけれど。映像作品とはひとりの意向だけでは結晶しない、偶然・巡り合わせにも左右される総合芸術なのである。


 竹本は後年、民放各局で放映されていた大映テレビ製作のTVドラマ群に活躍の場を移している。80年代当時の軽佻浮薄なお笑い大ブームの下で、70年代までのマジメなドラマや演技、何よりも熱血演技が「クサい」として若者間では急激に忌避されてチャカされるようになってしまった時代の中で、それらとは相反しているクサいくらいに熱血な内容であったのにも関わらず、半分は笑われつつも半分はガチでハマってしまうといった塩梅のジェットコースター展開の大ヒット作品群の監督をも手掛けていたのだ。
 それらのTVドラマの脚本を手掛けていたのが、奇しくも『仮面ライダー(新)』のシリーズ後半と続けて『仮面ライダースーパー1』のメインライターを務めていた江連卓(えづれ・たかし)であった――私事で恐縮だが、中高生の年齢に達していた筆者は80年代中葉にはメジャーの最たるものであった大映テレビのTVドラマ群には反発。「リアルではない」モノとして小バカにして観もしなかったのだが、遅まきながら90年前後の再放送での観賞で衝撃を受けてその認識を改めてもいる――。


昭和『仮面ライダー』の主題歌&BGM担当・菊池俊輔


 音楽は云わずと知れた、1960年代初頭から膨大な本数の映画・ドラマ・アニメの劇伴・主題歌を手掛けてきた、1931(昭和6)年生まれの菊池俊輔(きくち・しゅんすけ)。直近の東映動画製作の大ヒットTVアニメ『タイガーマスク』(69年)があっての起用であろうと思われる。氏もまた昭和の仮面ライダーシリーズの劇伴・主題歌、70年代の東映特撮やピープロ特撮、円谷特撮『ジャンボーグA』や日本現代企画の『アイアンキング』などのヒーロー特撮の劇伴・主題歌も手掛けていく。


昭和『仮面ライダー』の俳優。時代ごとの若者像の変遷!


 主人公・本郷猛を演じるのは、『仮面ライダー』放映2年目の後半には一般のTVドラマにも並行して出演していく、のちの大スターで1946(昭和21)年生まれの藤岡弘。64年に劇団NLTに入所し、65年に松竹ニューフェイスとして松竹に入社。『仮面ライダー』第2クールで、仮面ライダー2号こと一文字隼人(いちもんじ・はやと)を演じた1947(昭和22)年生まれの佐々木剛(ささき・たけし)とは、奇しくも劇団NLTの同期の友人であったことが知られている。
――この劇団NLTの後輩には、『仮面ライダーV3』終盤に登場するライダー4号ことライダーマン・結城丈二(ゆうき・じょうじ)を演じていた山口暁(やまぐち・あきら)も在籍していたそうだ――


 しかし、藤岡と佐々木は共演することはなかったものの、先の『彦佐と一心太助』の後番組にして大ヒットTVドラマ『刑事くん』(71年)の前番組でもあった、坂本龍馬をはじめとする幕末の志士多数に架空キャラの赤胴鈴之介や『必殺』シリーズ(72~87年)の主人公・中村主水(なかむら・もんど)なども修めた江戸後期の合理的な剣術流派・北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の開祖として著名な御仁の若き日を描いた松竹製作『千葉周作 剣道まっしぐら』(70年)に、藤岡と佐々木も主人公のライバル剣士として出演していた旨が、同人誌『仮面ライダー The First Impression』にて言及されている。
――30年後の東映製作『熱血! 周作がゆく』(00年)では、藤岡は周作の師匠で一刀流中西派の中西忠兵衛(なかにし・ちゅうべえ)役でレギュラー出演を果たしていた――


 藤岡自身は往時も自身のセールス・ポイントとして精悍さを強調したかったようだが、それと同時に優しさ・礼節・公共心・適度な甘さ・ナイーブさといったものも感じさせるパーソナリティー・風貌・口調・声質があった。それに加えて、理系の学究の徒だと設定されたあたりは、翌72年度以降の主人公ヒーローたちとは異質なところだ。
 手前ミソで恐縮だが、弊誌『假面特攻隊2001年号』「仮面ライダーシリーズ大特集」(00年12月30日発行)においても、特撮評論同人ライター・高瀬一郎が、藤岡演じる本郷猛や石森マンガ版の本郷猛も含めて、ブレザー姿の本郷や富豪の洋館に住まう本郷の姿に、無意識に文芸面では理知的な推理を行なう「名探偵」ヒーロー像の残滓があった可能性を推測して、そこにも本作独自のスパイスや個性、そして物語的な可能性があったことを指摘している。


 60年代後半の「第1次怪獣ブーム」期までの実写・特撮のヒーローたちの変身前は優等生、もしくは人格形成がほぼ完了しているオトナであった。しかし、70年代からの『仮面ライダー』や『帰ってきたウルトラマン』にはじまる「第2次怪獣ブーム」期からは、ヒーローの変身前の人間体には「未熟でナイーブな悩める若者像」が強調されることで、その部分に限定してのドラマ性は高まってくる。
 それと同時に過渡期でもあった。翌72年度以降のTV特撮・TVアニメ・刑事ドラマの主人公たちは、さらに未熟どころか血気盛んでヤンチャな若者性が強調されることで、これがそれ以降のジャンル作品の主人公像のデフォルト(初期設定)にもなっていくからだ。


 それでも、70年代前中盤の『仮面ライダー』シリーズをはじめとした東映の特撮変身ヒーローたちの変身前の若者たちだけは、同時代の他社作品やその10数年後の80年代中盤以降の変身ヒーロー作品群と比すれば、ずいぶんと大人びていて余裕&頼もしさが強調されており、しかして哀愁はあるといった描き方にもなっているあたりで、往時の東映スタッフたちのヒーロー観もうかがえる。
 この観点から撮影現場的には、『仮面ライダー(新)』(79年)の主役を演じた1956(昭和31)年生まれの村上弘明(むらかみ・ひろあき)は「頼りない」として目されていたようだ。しかし、80年前後におけるヒーロー像・若者像としては、当時の村上のような爽やかな若者像がマッチしていたとも、同作のリアルタイムの児童視聴者のひとりとしては思うのだ。



 TVシリーズ#11から登場して、仮面ライダー1号・2号をサポートするFBIの特別捜査官・滝和也(たき・かずや)を演じるレギュラーキャラ・千葉治郎(ちば・じろう)は、あの千葉真一実弟で1949(昭和24)年生まれだ。『ライダー』放映開始の前年に、東映製作のアクションドラマ『ゴールドアイ』(70年)のシリーズ後半から藤岡と同時加入でレギュラー出演を果たしている。『仮面ライダー大全集』での平山の発言も見るに、藤岡の起用は同作への出演が念頭にあってのものであったようだ。
 千葉治郎もまた、『ライダー』の企画書段階『マスクマンK』での主役候補で、藤岡降板後の仮面ライダー2号の候補でもあったそうだ。



 メインヒロイン・緑川ルリ子は、当初はサブヒロイン・野口ひろみを演じたのちの大女優・島田陽子がキャスティングされていたそうだが、当時のシャンプーのCMで著名になった真樹千恵子(まき・ちえこ)に決定。ご存じのとおり、第1クールの終盤で藤岡が重傷を負ったことでの代替で、彼女が快活な活躍を果たすようになる。藤岡の姿はないものの、彼女の最終出演回となった#13のラストシーンで、好ましい異性を観るように去り行くライダーを見守る彼女の表情演技は長じてから鑑賞すると素晴らしい。芸名を変えて、『アイアンキング』初期6話分のヒロインも演じた。


 余談だが、同71年11月2日に創刊される月刊幼児誌『テレビマガジン』(講談社)にて『仮面ライダー』のコミカライズを担当する1950(昭和25)年生まれのマンガ家・すがやみつるは、そのイトコが芸能事務所で彼女のマネージャーを担当しており、彼女が第1クールだけで降板されられた折には事務所が大慌てになっていた旨を、自著『仮面ライダー青春譚 もうひとつの昭和マンガ史』(ポット出版・11年8月18日発行)にて語っている。
 そのイトコ氏は、『ゴレンジャー』のキレンジャーこと大岩大太(おおいわ・だいた)などを演じた畠山麦(はたけやま・ばく)や『仮面ライダーストロンガー』の主人公・城茂(じょう・しげる)を演じた荒木しげるのマネージャーでもあったそうだ――イトコとの遊び仲間でもあった畠山を、石森&平山の会席の場でワザとらしくキレンジャーに推挙してみせたのも、すがやだったとのこと――。


昭和『仮面ライダー』の原作者・石森章太郎の前後の活動


 3月末には『週刊ぼくらマガジン』71年16号でも、メディアミックスとしての石森マンガ版の連載がスタート。もちろん、この石森マンガ版やTVシリーズ『仮面ライダー』序盤にそれ以降にも時折に見られた「改造人間となってしまったことの悲哀や苦悩」は、石森が手掛けた人気マンガ『サイボーグ009(ゼロゼロナイン)』(64年~)における008や004の同系描写があってこそのものだろう。その『サイボーグ009』は前年70年までに、かの「天使編」~「神々との闘い編」にて中断。
 ちなみに、先の同人誌『仮面ライダー The First Impression』の「石森漫画としての『仮面ライダー』」にて森川は、「見解の相違はあるだろうが、69~71年の石森の画線が一番繊細で緻密だ」との旨の指摘をしている――72年以降はアシスタントのペン入れの比率が増えた可能性も指摘――。


 70年には読み切りを除けば6作品も連載。71年には本作を含めた8作品を連載。『仮面ライダー』の放映が半年に達した71年10月からは石森原作作品として、日曜夜6時30分ワクにて『好き! すき!! 魔女先生』が実写ドラマ化。先の『スペクトルマン』のウラ番組となってしまうのだが、マンガ『リュウの道』(69年)を石森自らが脚色した東映動画製作のTVアニメ『原始少年リュウ』も同月から放映開始されている――後者は昭和ライダーシリーズの主題歌・挿入歌を多々歌唱することになる、1948(昭和23)年生まれでアニメ・特撮ソングの帝王・水木一郎のデビュー作でもあった!――。



 かくして、かように膨大なるあまたの系譜や人脈の結節点として、そして後世にもあまたの分岐的な影響を及ぼしていく『仮面ライダー』は、71年4月3日の#1の放映を迎えるのであった……。


昭和『仮面ライダー』再評価の歴史。旧1号編の神格化!


 70年代の東映特撮作品は、初期東宝&円谷特撮・至上主義者たちによって「租税乱造」などと酷評されていた。しかし、特撮マニアの世代交代が進むに伴なって、批評的にも評価しようという動きが80年代初頭からはじまる。その嚆矢(こうし)のひとつが、「旧1号編」のみに焦点をしぼったマニア向け書籍『TOWN MOOK増刊 仮面ライダー』(徳間書店・81年4月25日発行)であった。
 昭和の『仮面ライダー』世代が中高生~社会人年齢に達した時期となったことで、以降の80年代中盤にかけては、特に高い「ドラマ性」や「テーマ性」を持った存在だとして「旧1号編」の神格化が高まっていく。


 とはいえ、ウルトラシリーズと比すれば再放送が少なく、家庭用ビデオの普及率も低かったゆえに、過剰な神格化といった面もあったのであろう。弊誌『假面特攻隊2001年号』においても、自主映画の監督としても知られた特撮同人ライター・旗手稔が、神格化の末にようやく実作品を鑑賞したところで、自身の中での肥大化した理想像との乖離で大いに幻滅した旨を語っている――ちなみに、筆者なども同様のクチであった(笑)――。


 しかし、細部のチープさや欠点には目をつむって慣れてくれば、たしかに「旧1号編」は「相対的」な意味で「2号編」や「新1号編」よりもドラマ性・テーマ性は高いし、味わいもあるのだ。


 けれども、1960(昭和35)年生まれで映画『シン・仮面ライダー』(23年)の監督を務めた庵野秀明(あんの・ひであき)が小学5年生で熱狂していたのとは異なり、1962(昭和37)年生まれの映画評論家・樋口尚文(ひぐち・なおふみ)や、1963(昭和38)年生まれのジャンル系映画ライター・柳下毅一郎(やなした・きいちろう)などは、小学校2~3年生の男子としては早熟でマセていたのであろうが、映画『シン・仮面ライダー』の感想にカラめて、当時の大人気作品『仮面ライダー』がチープに思えてノレなかったり、同世代の級友たちの熱狂が幼稚に思えていたことなども語っている(笑)。それもまた歴史のすべてではないにせよ、一断面としては記録に残しておくべきであろう。


 加えて、今でいう評論オタク的な感度を持った人種たちの中でも特に先鋭的なマニア層に対して大きな影響を与えていた、かのオタク第1世代による70年代中盤の同人誌『怪獣倶楽部』出身でもあった、1956(昭和31)年生まれのアニメ・特撮ライターこと故・富沢雅彦(とみざわ・まさひこ)という方がいた。「旧1号編」には年齢的にも10代中盤で遭遇したという氏による、当時における「旧1号編」の〈神格化〉の風潮とは真っ向から反していた先駆的な「旧1号編」批判として、「初期の頃はこりゃどうしようもないな、と思っていた」(『宇宙船』Vol.6・1981年春号)なる指摘があったこともここに記しておこう。


 1985~86年にかけても、今は亡き『月刊アニメック』誌にて長期連載されていた、1955(昭和30)年生まれの特撮ライターの御大・池田憲章による「日本特撮映画史 SFヒーロー列伝」において、第40回~第45回分を費やして、本作『仮面ライダー』初作を大々的に扱ってもみせていた。


『ライダー』再評価の歴史。2号編・新1号編も再評価!


 「旧1号編」もまた、『仮面ライダー』の重要な構成要素のひとつなのだが、それこそが中核なのかといえば、それもまた怪しいところなのだ。もっと、チープでチャイルディッシュなところにこそ幼少期の子供たちは魅力を感じていたからだ。
 『仮面ライダー』初作の全話を実に子細に評した同人誌「きみこそ勇者」第40号『仮面ライダー』(鹿取しいね・98年12月28日発行)では、巻頭コラムのタイトルを「マヌケでも『仮面ライダー』を愛している。」として、そのあたりの機微を大いに語ってもいる。特に「新1号編」の序盤たる第5クールなどは「お笑い研究所」などと評してもいた(笑)。


 先の『仮面ライダー大研究』の巻頭言でも、のちに脚本家として活躍する、1965(昭和40)年生まれで編集プロダクション・TARKUS(タルカス)所属の特撮ライター・赤星政尚(あかほし・まさなお)が、「『仮面ライダー』のような1話完結のルーティン・バトルものは総論ではなく各論、歴代シリーズの括りでもなく、個々の作品の中での各話評の列挙でこそ、初作の中にも多々あった「目先の変化」のための工夫やその努力もわかる」といった趣旨にて、同書の意図を宣言している。加えて、『仮面ライダー』に対する過度な神格化などではなく、80年代風のケーハクな若者的な嘲笑といった意味でもなしに、おかしな矛盾点・破綻箇所・笑える箇所などは、それはそれとして指摘して楽しむスタイルも採っているのだ。劣位に置かれた2号編・新1号編も再評価がはじまっていく。


昭和『仮面ライダー』初作の全話視聴率をどう読み解く!?


 ところで「旧1号編」は、関東では視聴率がビデオリサーチ社の調査では、#1が8.1%だが、#13は18.0%。ニールセン社の調査でも、#1が8.9%だが、#13では16.7%と倍増している。第2クールである#14以降の「2号編」になってからでも視聴率は当然に上がっていくのだが、「恐怖性」が高かったゆえに不人気であったとも評されることがある「旧1号編」の範疇の中でも視聴率は倍増していたのだ。


 ただし、『仮面ライダー大研究』に再録された、毎日放送映画部作成「『仮面ライダー』100回を迎えるにあたって」の第1クール(旧1号編)総括によれば、


「怪奇、アクション、スピードの3要素の内、怪奇性を強くうち出したゝめに「子供がおびえて困る……」などの反響が強くあった。しかしこれらの要素によって、番組は子供達の心をグングンつかんでいったと思われる。
 視聴率的には東京・大阪の事前PRの差か、ステーションイメージのせいか、東・阪で8%の差をもちつゝ、順調に上昇した」


とあった。「旧1号編」の怪奇描写に拒絶を示した子供も一定数はいたことは確かなのだ。しかし、それで云ってしまうと、「旧1号編」どころか「昭和ライダー」全般の怪奇描写に苦手意識を持って視聴を避けてきて、そういったものがなくてポップですらあった『秘密戦隊ゴレンジャー』の方にこそ愛着を持っている、もっとさらに繊細ナイーブであった御仁もやはり少数派ではあっても、筆者の知己にも数名ほどはいたりする。


 放映キー局である大阪のTV局・毎日放送では番宣CMが流されたが、関東ではそういったことが少なかったのであろう。小学生をターゲットにした『週刊ぼくらマガジン』では巻頭グラビア特集などもあったのだが、月刊『たのしい幼稚園』(講談社)では当初は石森による少ページのマンガ連載のみで実写のグラビア記事が存在しなかったことも、放映開始当初の幼児層へのアピール欠如につながった可能性を、同人誌『仮面ライダー The First Impression』が指摘している。


 とはいえ、まだ幼児であった筆者個人の「体感温度」とは異なってはいるものの、飛んで放映2年目の「新1号編」の夏~冬の方が、実は放映1年目の「2号編」の夏~冬と比較して、調査会社や地域によっては視聴率が微減していたりもするのだ(汗)。これなどはおそらく視聴者層の上限である小学校の高学年が「慣れ」や「飽き」や「卒業圧力」によって離脱していったゆえであると見ることも可能であろう。



 万事がそうなのだが、物事とは一面的に一刀両断で裁断するべきものではなく、要素要素に微分化・細分化して分析すべきものなのでもあった。


(了)
(初出・当該ブログ記事~特撮同人誌『仮面特攻隊2023年号』(23年8月12日発行予定)所収「昭和『仮面ライダー』に至る前史」より抜粋)


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