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三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 ~右vs左ではない!? 一度断念した上での「理想」や「公共」へと至る経路の違い!

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三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』 ~右vs左ではない!? 一度断念した上での「理想」や「公共」へと至る経路の違い!

(文・T.SATO)
(2020年4月2日脱稿。8月9日加筆)


 厳密には映画・再現劇ですらなく、1969年の公開討論会の記録映像を編集して、随所に後世の関係者やインテリ学者連中の証言・解説・所見を付け加えたモノ。なのだけど、コレがなかなかに面白い!
 まぁ当方個人がフワッとでも予備知識があったから面白がれている可能性も高いけど、物事がよく判っている人間がこの討論の面白いところをうまく抜粋・編集もできている!


 当方が見るところでは、この公開討論会は一言で云うならば、実は「右翼」vs「左翼」の対決ではなく、「ナンちゃって右翼」vs「ナンちゃって左翼」の対決。もう少し正確に云うならば、「高等ナンちゃって右翼」vs「高等ナンちゃって左翼」の、馴れ合わず張り詰めつつも、失礼や無礼の域には決して堕さない丁々発止。


 しかして、両者ともにアタマが良すぎるので――討論者だけではなく聴衆である学生側も含めて――、「天皇」も「日本」も「国家」も、「共産主義」も「マルクス」も「解放区」も心の底では信じちゃいない冷笑家たちであり、あえて「ベタ」ではなく「ネタ」、ポーズや演技として左右いずれかのポジションを暫定的に採択して演じているだけでもあって……。


 イマ・ココの東大という場が奇しくも「解放区」のようにも感じられてはいるけれども、それも「前代」や「外部」との「相対的な落差」で、「主観的」「一時的」に「解放」されたように感じられている、ある意味での「錯覚」なだけであって、この「解放区」や「解放感」には永続性がナイ、ひいてはこの運動が最終的には敗北するなり陳腐化していくことを、学生たちも三島も原理・必然の次元で諦観混じりにすでに見透してすらいて、しかもそのことを両者が語り合ってすらいたりする!


 加えて、右からの神風が吹いてほしいとか、左からの神風が吹いてほしいとか、現実がこのように変わっていってほしい……なぞという精神主義的・オカルト的・非科学的な願望で現実を歪めて観察してしまったり、そのように考えることすら両者ともに実に厳密にストイックに禁じていたりもする。


 しかして、それであっても、たとえ瞬時の「錯覚」だろうと、身体を張った行動に伴なう「濃密さ」・「強度」・「充実感」・「祝祭空間」といったモノに惹かれてしまう心性については、「美」や「芸術」にも通じるものだとして互いに認め合ってもおり、たとえ不確かなモノでもそのようなモノに惹かれてしまう心性それ自体については、カッコ付きで共感・肯定もし合ってさえもいる。


 けれどもそれでも残る三島と東大全共闘との微差については決して馴れ合わずに、両者が180度真逆だということではナイにせよ、その30度だか45度だかという角度では異なるのであろう差異については必ず言語化して明らかにし合って、その相違についての意見もぶつけて確認し合ってもいる……。


 つまりは、両者は同じ「知的土俵」には立てており、近代人の宿痾でもある問題意識についても共有ができている。そして、両者ともにアイロニカルなユーモアもたっぷり持っていて、手前勝手にしゃべっている単なる平行線でもなく、張り詰めた糸のような緊張感を維持しつつも、互いに聴衆も含めて多少は話が通じていることがわかって和んできたあとには、時に聴衆に対して知的な笑いも取りにいく……。


 加えて、両者ともにお上品でも線の細いお坊ちゃん・高等遊民的でもある旧制高校的な「大正教養主義」については「仮想敵」にもしていることが確認されて、もちろん安易な発動は許されないにしても、最後の最後での極限状況下では「実存」や「個人の尊厳」を守るための「非合法の暴力」の発動(!)については、完全否定はしない点でも互いの一致を見てもいて!


 会場が東大ではなく日大であったのならば、この討論の内容にはなるまいて(……スミマセン・汗)。


 たしかにコレだけの知的素養や知的立脚点に立っているのならば、たとえ東大内部の同じ学生運動組織ではあっても、民青(日本共産党主導の青年組織)と全共闘が全然折り合えないどころか、全共闘が民青を小バカにしクサって対立してしまうのもまたムベなるかなではある。


 不肖の当方も80年代末期に読了した『イラスト西洋哲学史』(84年・宝島社・ISBN:4880630314・08年に宝島社文庫化・ISBN:479666596X)や別冊宝島現代思想・入門』(84年・宝島社・ISBN:4796690441・00年に宝島社文庫化・ISBN:4796617701)の編著者でもあられる若き日の小阪修平センセイまでもがご登場。あの場におったんかい!?



 「日本」および「天皇」についての偽悪的な擁護発言も、その言葉尻・言葉の端々から、やはりベタにはそれらを信じてはいないことがわかる(私見)。
 三島は一度は一般ピープルや左翼人士以上に、「日本」や「天皇」を突き放して相対化しきってもいる。対置・対極ともなる「世界市民」などの概念も充分にわかりきってもいる。


 その上で、人間一般というモノが近代的な「理性」や「合理」のみにて生きているワケでもなく、「リビドー」(生物的衝動)やら非合理的な「感情」やら「習慣」などにも突き動かされて生きている実態をも踏まえた上での「メタ合理」として、具体的・物理的な個物としての「日本」や「天皇」ではなく、抽象的・観念的な「文化的な装置」や「文化的な総体」としてのシンボリックな意味での「日本」や「天皇」だけを持ち出している。


 「日本」や「日本人」がホントウに救いがたい絶望的に矯正不能な宿痾を抱える国家なり社会なり人民なのであれば、外国へでも亡命してそこで新生活を送ればイイ。
 しかして、何ゆえに「日本」に留まって、社会批判や社会改良のごとき言説を、あるいは「日本」において左翼革命を惹起しようとする言説を、もしくは「日本」的なる季節感・人情・情緒・風俗・風景を保守したいという言説を吐露してみせるのか? その動機はドコに求めるべきなのか?


 個人主義や厭世主義を徹底するのであれば、「日本」やその社会がドーなろうと、我が身さえ安泰であるかぎりは知ったことではないであろう。
 にも関わらず、A国やB国やC国を差し置いて、あるいは世界規模での「公共」を差し置いて、「日本」とその社会に物申したり、社会改良や一国革命を訴えるのはナゼなのか?


 世界規模での「公共」が最終目標として遠景に措定されるのだとしても、まずは「日本」とその社会や住民に対して、最低限の親近感なり、彼らに対して良かれと思ってコミットしたいという、あくまでも「日本」の規模ではあるけれども、そこにたとえ暫定的・中間道程的なモノではあったとしても「公共心」が発露しているのであり、たしかに極東の列島の気候に適応しただけのローカルな集団・社会・文化にすぎなかったのだとしても、「半・公共」的なるものに包含されている人間集団なりその維持・継続なりに、少々の責任なり義理人情を感じてしまうような潜在心理が、――半径10メートル程度にしか関心がないファッション&スイーツなミーイズムの輩はともかく(笑)――社会や世界に興味関心を持ってしまうような一定数はいる性格類型の人間たちにはそれがあるからでもあるだろう。
――もちろんコレは「日本」と「日本人」だけにかぎった関係性ではない。「諸外国」と「その国の国民」にも置換可能な話ではある――


 よって、三島自身も「日本」それ自体の相対化はできている。三島がベタベタな地ベタを這いずりまわっているようなコテコテの「日本至上主義者」や「天皇至上主義者」であったのならば、文武両道・生命謳歌古代ギリシャ文明に憧憬してその肉体をボディービルで鍛錬したり、海外の文学や哲学思想にもくわしいとか、空飛ぶ円盤が大スキで近代文学や近代それ自体を超克する可能性があるモノとしてSFを高く評価するとか、自宅を純・和風ではなくロココ調に建築するなんていう(笑)、イイ意味でのフェイクにフェイクを重ねて、自身を意識的・演劇的・理論武装的に作り込んでいくようなこともまたアリエナイのであって……。


 あげくの果てに、制度や文化としての「天皇」は肯定するけど、昭和天皇個人に対しては「反発を持っている」(!)などと語っていたりする!
 「徴兵制」や「愛国教育」のような他者や権力者からの強制によりイヤイヤ従事することになるような行為も、古代ギリシャ的・ニーチェ的・ディオニュソス的・自発的・内発的な言行一致・知行合一の立場から、大いに否定もしてみせる!


 今風に云うならば、「西洋近代化」というよりかは、いわゆる後年の「新自由主義」的な経済競争至上主義や、自己主張も適度に大切ではあるにしても、それが将来的には「万人の万人に対する闘争」に陥っていくことを三島はあの時点で見通していた。
 そして、それを避けるがために、近代的な自立した個人にはなれない、相対的には「たおやめぶり」なやや愚かで「弱い人間」たちのことをも、過剰に転落・没落してしまうような酷薄な弱肉強食社会ではなく、先回りして網を張っておいてフツーに善良なる凡人として人生を生きていけるようにしたいとも考えた。


 そして、逆説的ではあるけれど、それに気付いたある種のインテリというのかエリート(?)たちは、彼らの防波堤になるべきだとも三島は考えた。
 生き馬の眼を抜くようなムキ出しの国家間なり個人間での生存競争が繰り広げられる国際社会と丁々発止を繰り広げるのは一部の人間たちだけでイイのだと……。庶民・人民の日常の生活空間では「万人の万人に対する闘争」状況を惹起してしまう必要はナイし、むしろそれでは害毒の方がデカいのだと……。


 半分は「上から目線」の「余計なお世話」だともいえるけれども(笑)、もちろん半分以上は大いに共感・同意もできるのだ。


 もっと云うなら、名作ロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)終盤における「人類補完計画」のように、人類全体が溶けた均質なスープとなり個性や個別性を失って単一のルールでまとめられてしまう「グローバリズム」・「駅前風景同一化」ではなく、粗々しく粒立った「個人」や「地域」や「国家」や「民族」が各々の個別性を残したままで併存して、個々のプレイヤーが上下左右斜めに互いに交流しつづける「インターナショナル」や「インターローカル」や「インターインディビジュアル」といったモノを賞揚しているともいえるのだ。



 ……で、ただ、その場合でも、それを象徴する一言がズバリ、「天皇」だ! というのはいかがなモノであろうか?(笑)


 「天皇」とはいわずに、自身が守りたいモノは、「日本語」や「日本語文化圏」や「日本語生活圏」である! そして、それへの動機となっているのは、たまさかの偶然に生まれたこの「日本」へのフワッとした「風景」「風土」への愛着、郷土愛的な帰属意識である! ……くらいに留めておけば、左派や世間一般からのムダに過剰な反発も避けられただろうに……とも思うのだ。


 とはいえ、「日本語」・「日本語文化圏」・「日本語生活圏」・「風景」・「風土」というようなあまりにも刺激臭のないマイルドな物言いだと、世間一般ではスルーされて速やかに忘却されていってしまう可能性が高いのも事実ではある(汗)。
 なので、コピーライト的にはやはりキナくさくて摩擦係数が高い「天皇」! という語句を使った方がインパクトはたしかに強かったのであろう。
 加えて「自死」をもってその人生を完結させたからこそ、定期的に世人というか好事家(笑)に思い出してもらって、この議題をめぐって再議論もされていくワケだから、それをも見越していた三島による、自己の生命をも賭した劇場犯罪型(汗)な問題提起であったというべきではあるのだろう。


 一方で、三島の自死現場でもある陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にいた自衛隊の隊員たちはひとりも彼の檄やクーデターには乗らず、それどころかヤジさえ飛ばしていたり(汗)、80年代には総理大臣になる中曽根康弘防衛庁長官が「民主的秩序を破壊する」ものとして批判したのも、思想的にはともかく実務的、デュー・プロセス(法に基づく適正手続き。禁止法ではなく手続法)をもって政治を進める立場からは、片面での正論だとは思うのだ。


 「近代」というモノをわかった上で、「過去」や「ローカル」や時に「野蛮」にも一理を認める。そう、討議会場入口には三島をゴリラに模した漫画が描かれた「近代ゴリラ現る! 餌代100円!」(笑)と書かれた立て看板を見て、イチイチ手に取って憤慨するのではなく余裕癪癪で思わず笑ってしまっている三島の姿が描写されていた。
 そして、「近代ゴリラとして立派なゴリラになりたい!」と係り結びとなるセリフを吐いて、最後に会場を去ってもいった。いやぁ「近代ゴリラ」とは言い得て妙、結果的には三島の思想的本質をも突いており、正鵠も射ていたのであった。



 多少なりとも知的・哲学的・形而上的(けいじじょうてき)なモノにも関心なりがある御仁たちには鑑賞をお勧めしたい1本。
 ただ、やはりこの映画の内容が全然わからなかった……という感想を持った御仁こそが、真っ当な常識人・真っ当な生活者という気もしないでもナイので(汗)、こーいう作品が大好物な浮世離れした御仁たちはくれぐれも思い上がらないように自戒すべきではある。


 ただまぁ、我々凡俗は仮に自死したとしても、そのような問題提起がウラにあるとは受け取ってもらえないことは必定であろうし、それまでの人生との積算による人格的な説得力もまた皆無であるから「負け犬の遠吠え」としか見てもらえないので(笑)、あくまでも他者の生命を足蹴にしない範疇ではあるけれども、ミジメでも見苦しくても地ベタを這いずりまわって生き延びていくべきだとは思うけど。


(了)
(初出・オールジャンル同人誌『DEATH-VOLT』VOL.85(2020年8月2日発行)所収。後半部分は新規加筆)


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