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シン・仮面ライダー徹底解析 ~原典オマージュ&逸脱・鮮血・コミュ障・プラーナ・持続可能な幸福・アクション・傑作or駄作!?

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 映画『シン・仮面ライダー』(23年)が、早くも2023年7月21日から「アマゾンプライム」にて動画配信開始記念! とカコつけて。『シン・仮面ライダー』評をUP!


『シン・仮面ライダー』徹底解析 ~原典オマージュ&逸脱・鮮血・コミュ障・プラーナ・持続可能な幸福・アクション・傑作or駄作!?

(文・T.SATO)
(2023年4月1日脱稿) (終章直前の3章分のみ、同年7月30日加筆)


 世界征服をたくらむ「悪の組織」が繰り出す、人間サイズの異形の「敵怪人」や「戦闘員」たちを迎え撃つ正義の「変身ヒーロー」! というフォーマットを確立して、大マスコミにも「変身ブーム」と呼称されて一世を風靡した『仮面ライダー』(71年)初作。


 70年代前半には同作を製作した映画会社・東映自身も、『人造人間キカイダー』『キカイダー01(ゼロワン)』『イナズマン』『イナズマンF(フラッシュ)』『ロボット刑事』『超人バロム・1(ワン)』『変身忍者 嵐』、ピー・プロダクションは『快傑ライオン丸』『風雲ライオン丸』『鉄人タイガーセブン』『電人ザボーガー』、円谷プロダクションも『トリプルファイター』といった、人間サイズのヒーローが敵怪人や戦闘員と対決する同工異曲の作品を多数輩出することで、このブームは頂点を登りつめていく。


 そのような今でもシリーズが断続的に製作されてきた『仮面ライダー』。その初作のリブート映画である『シン・仮面ライダー』(23年)が2023年3月18日(金)に劇場公開された。


冒頭カーチェイスから原典オマージュ! そのアレコレ!


 ドローンによる空から見下ろした遠景もまじえて、荒涼とした晩秋を思わせる明度や彩度を落とした映像での、山間部の曲がりくねった道路を舞台としたカーチェイスにて本作はスタート! バイクならぬ大型ダンプの回転する車輪のアップ! それが車体側から見下ろすかたちのアングルも含めて短いカッティングで連ねられていく。


 回転する車輪での開幕……。これは『仮面ライダー』初作のTV版ならぬ、『週刊少年マガジン』の幼年向けとして発行されていた今は亡き『週刊ぼくらマガジン』(69~71年)に連載――同誌休刊後は『週刊少年マガジン』にて継続――されていた石森章太郎のマンガ版(71年)#1冒頭の再現でもある。
 このマンガ版では、手術室の天井に配置されて円周状に配置されている無影灯が、手術台に縛りつけられた主人公・本郷猛(ほんごう・たけし)青年の覚醒とともに、意識朦朧とした主観映像の中で回転しだして、それがバイクの高速回転する前輪へとオーバーラップされていく……。


 マンガ版ではそこから回想シーンへと突入。彼が執事の立花藤兵衛(たちばな・とうべえ)老人をタイムの測定役として、河岸段丘の中腹とおぼしき砂利道をバイク走行中に、高級セダン乗用車に前後を囲まれて、これを避けて段丘を登った先にも突入してきたセダンにハネられた! といったかたちで、悪の組織・ショッカーに拉致された経緯が語られてもいた――本映画は3台のセダンを2台の大型ダンプに代入して、マンガ版冒頭へのオマージュも兼ねているのだろう。TV版#6でも怪人・死神カメレオンが操るダンプ2台と対峙したこととも掛けている!?――。


 『仮面ライダー』に「原作」名義で参加したマンガ家・石森章太郎が主宰していた石森プロに、71年4月のTV放映開始から数ヶ月が過ぎた夏の終わりに呼ばれたのが、70年代末~80年代初頭に児童マンガ誌『コロコロコミック』で人気を集めてTVアニメ化(82年)もされた『ゲームセンターあらし』(78年)で有名なマンガ家・すがやみつるであった。
 『仮面ライダー』のフルカラー絵本――朝日ソノラマ発行『テレビマンガ・うたとおはなし 仮面ライダー』のことであるか?――、絵描き歌の絵本やその絵描き歌の作詞(笑)――オハヨー出版発行『おはようえほん9 仮面ライダー えかきうた』のことであるか?――、そして各種商品用のイラストなどを手掛けた末に、『ぼくらマガジン』の後継格として同71年11月1日に創刊された月刊幼児誌『テレビマガジン』創刊71年12月号から『仮面ライダー』のコミカライズの描き手として石森に抜擢されて、氏はマンガ家デビューを果たした。
 氏は自著「コミカライズ魂 『仮面ライダー』に始まる児童マンガ史」(河出新書・22年10月30日発行)において、以下のように回想している。


 「少年マガジン カラーコミックス」レーベルとして単行本化されたマンガ版の第1巻(71年11月発行)の冒頭を見て、「このシーンの切り替え(引用者註:手術灯が回転してバイクの車輪へと変化するや回想シーンへ突入)、子どもにはむずかしくありませんか?」と質問をしたというのだ。石森は「まあな」と笑顔で返したそうである。低年齢向けとして、そういった問題点は重々承知はしているけど、少しだけそうした手法もブレンドしてみせた……といったところだったのであろう。


 回転する物体がオーバーラップで別モノへと変化していくといった「絵」。のちに自身で監督を務めたTV版の#84「危うしライダー イソギンジャガーの地獄罠」においても石森は、#74から登場した「少年仮面ライダー隊」の走行する自転車の車輪が、本郷猛が運転するバイクの回転する前輪へと変化していく映像として再現することとなった――上記については、書籍『仮面ライダー大研究』(二見文庫・TARKUS(タルカス)・00年3月25日発行・8月25日3版。07年6月5日に単行本サイズで再刊)にて、特撮ライター・杉田篤彦も指摘している――。


 とはいえ、すがやみつるの言い分ももっともなのだ。ロートルな筆者の同世代に散見される記憶なのだけど、第1期・昭和ライダー最終作『仮面ライダーストロンガー』(75年)#1~2においては、#1で物語の発端を描かずにストロンガーが当たり前のように活躍し、#2にて回想のかたちで主人公青年がストロンガーとなった経緯を語っていた。しかし……。幼少期の筆者などは、#1と#2のフィルムを間違って逆にして放映してしまったのではなかろうか? と小さな困惑を覚えていたものだ(笑)――それでもって、冷めてしまって卒業してしまう……といったほどのこともない些事ではあるけれど――


ダンプが吹っ飛ぶナゾ! バイクの転落! ㈱三栄土木!


 途中からは両車間にクモの巣状の白い糸を張りめぐらしてカラめ取らんと、並走しだした2台の大型ダンプに追われて逃走している白いバイク。運転する青年のうしろにしがみついていた茶色のコートをまとったヒロインが、ヘルメットの中から叫ぶ! 「風を受けて! あとはマスクを!」。


 「風」をベルトのバックル部分の風車に受けて、「マスク」(仮面)をつけたかたちで変身した姿が「仮面ライダー」であることは、全員とはいわずとも多くの日本人が今では知っている。このセリフは彼のその後の仮面ライダーへの「変身」への伏線でもあったのだ!


 しかし、進行方向に停止して待ち構えていた別の2台のヨコに並んだ大型ダンプの間にそのまま突入! けれど、突然にその2台の大型ダンプが空中へと吹っ飛ばされてしまう!


 なぜに吹っ飛ばされたのかが、やや腑に落ちなくて「?」となるけれど。TV局・毎日放送(大阪)にて公開前月の2月から毎週火曜の深夜ワクにて放映されている『庵野秀明セレクション「仮面ライダー」傑作選』10本のワクのうちの1本を急遽ツブして、3月28日(火)深夜に放映された本映画の冒頭20分ほどの映像を、同局の動画サイトにて確認してみた。
 すると、バイクのハンドル中央に配された各種ボタンの左上隅に「FIRE(ファイヤー)」なる記述の四角いボタンがあって、コレを押下してみせていたのであった!


 バイクに内包されていた、後述する「プラーナ」なり「圧縮空気」なりが噴出されたことで、吹っ飛ばしたといったところなのであろうか? 後知恵(あとぢえ)で思うに、仮面ライダーに蓄積された「プラーナ」なるエネルギーを体外へ強制排出する際に、白い噴出スモークのようなCG表現やヒロインのご尊顔や黒髪も風に舞わせていたことを思えば、このシーンもベタではあっても同種の映像エフェクトを入れておいた方がよかったのではあるまいか?



 空中に吹き飛ばされたあとに、岩壁を転がりながら落下していく大型ダンプ2台! ここは大きめなミニチュアを用いての屋外での自然光のスローモーション撮影による「特撮」であったそうだ。ウルさ型のマニアはここで「特撮」だと気付いて幻滅する輩もいるようではあるけれど。
 しかし、いかにも実物や実景とはカケ離れたチャチなミニチュア模型を用いた「特撮」を散々に見せられて、子供心に少々の幻滅はしつつも、それでも卒業はしてこなかった身としては(笑)、たとえミニチュアでもここまで実物とも遜色がない(?)、質感・実物感もある「ミニチュア特撮」を見せてくれれば、ここで冷めてしまって幻滅させられてしまうこともなかったのであった――というか瞬間、実車両を落下させての撮影なのか? とも思ってしまったほどである(汗)――。


 ちなみに、大型ダンプのフロントガラスの上部には、白く記述された「㈱三栄土木」の文字が見えている。
 これは本邦初の特撮マニア向け書籍のシリーズであった『ファンタスティックコレクション№9 仮面ライダー総集版』(朝日ソノラマ・78年9月1日発行)や、飛んでマニア向けの大判名書籍『創刊15周年 テレビマガジン特別編集 仮面ライダー大全集』(講談社・86年5月3日発行(実売はTV版#1の放映日と同じ4月3日か?)。01年1月30日に14版!)が初出であったかと思われる。
 東映生田(いくた)撮影所があった神奈川県川崎市多摩区の北西端にも隣接していた東京都稲城市矢野口、ロケ地としても多用されていた荒野・丘陵・造成地の一帯の開発を担当していた業者の名を採って、現場スタッフ間でそう呼称されてきたものが、『ファンコレ』や『仮面ライダー大全集』を通じて特撮マニア間でも流布した呼称からの引用なのであった。


 つづいて、搭乗者を失った白いバイクもゆっくりとヨコ倒しに崖下へと落ちていく……。ググってみると、ここがいかにも出来の悪い3D-CG、かつCG的な動きだ! なぞといった感想を一例だけ発見したものの、そうなのであろうか? 3D-CGの質感表現もここまで進歩してしまえば、筆者のようなロートルには何が問題なのかがもうわからず(笑)、このシーンの映像にも不満はないのであった。


ヒロイン&ライダー初顔見せ! そのコート! 画質も!


 同じように宙を飛ばされて落下してきたヒロインは、地ベタをゴロゴロとヨコ転びに転がりまわって静止する。そんなに高いところから落下しても無キズであるあたりはインチキだともいえるし、彼女もまた通常の人間とは異なる常人ではないことを意味しているのだともいえる。


 そして、東映特撮お約束で省略技法で、そこにいつの間に集っていたのは、「POLICE」(ポリス・警察)の詐称表記を付けた制服を着た特殊部隊のごとき面々! しかし、その顔面には「クモの巣」の文様をした風邪マスク状の白き硬質マスクを着用している。
 そう。TV版の第1クールこと、いわゆる「旧1号ライダー編」における、敵組織・ショッカーの戦闘員(通称:ベレー帽戦闘員)たちは、各話のゲスト敵怪人の生物モチーフにも通じた「意匠」を顔の化粧や左胸などに付けていることが多かった。ここに登場した「クモの巣」状のマスクも、ガチのマニア的にはそれらを踏襲した趣向であることはわかるのだ。
――「2号編」の#39までの戦闘員の額や、飛んで『ストロンガー』終盤のデルザー軍団編の戦闘員の面など、各話ごとに特定幹部怪人の配下であることを示す簡単な意匠が追加されていた例はあったが、撮影現場の美術・衣装班での作成・縫製の手間や予算がかかることを思えば、低予算であったライダーシリーズではおいそれとは使えない手だったろう――


 戦闘員たちは捕らえたヒロインのヘルメットを取ってみせる。ヘルメットの中から美しい黒髪を振り払いながら、その整ったご尊顔を見せた女性は、本映画のヒロイン・緑川ルリ子(みどりかわ・るりこ)を演じる、可愛らしさはあるも媚びた感じはしない、アンドロイド美少女のような気品もただよわす新進気鋭の女優・浜辺美波(はまべ・みなみ)!


 映画会社・東宝シンデレラ出身であり、実写版『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』(15年)のヒロイン、オタク系人気マージャン漫画『咲-Saki-』の実写深夜ドラマ版(16年)主演、同じく人気マンガ『賭ケグルイ』の実写深夜ドラマ版(18年)主演などの3大深夜アニメの実写版に参加して、『仮面ライダー』シリーズ好きだとも公言。
 『仮面ライダーウィザード』(12年)をベストだとして、ネット媒体・映画ナタリーでの2018年度の企画記事でも「好きな映画ベスト3」に『仮面ライダー平成ジェネレーションズFINAL ビルド&エグセイドwithレジェンドライダー』(17年)を挙げている(笑)。何気にジャンル作品にも理解がある女優さんなのだ。


 そこにまたまた省略技法で突如として出現していた――好意的に解釈すれば、超常的な存在なので音もなく忍び寄ってきていた――、後ろ手に手を組んでスックと立っている敵怪人・クモ男ならぬクモオーグ!
 「『裏切り者には死を…』ですが、組織の命令は生け捕りでした。二度と逃げ出さないための仕置き」と称して、その両手の指を彼女に目ツブしのように添えてみせた瞬間!――文字通りの目ツブしをしようとしているのか!? 単に痛みを与えて気絶させようとしているのか!? それとも洗脳しようとしているのか!?――


 世代人や特撮オタクには耳になじみがある「ピキーーン」という甲高いシャープな効果音が鳴り響く! はるかに高い岸壁の上を見上げると、そこには我らが仮面ライダーの勇姿が!


 コレはTV版#1でも高い崖上に初登場した際の、通称・仮面ライダー旧1号の映像の再現なのだ! のちのちに洗練されていった後続シリーズ群とは異なり、特にカッコよくポーズをキメることも、三方からズームが寄っていくこともなく、なで肩の自然体で突っ立っているだけではある。
 しかも、なぜだかその画質はカナリ粗くてジャギーも立っていて――被写体の輪郭がややギザギザにもなっていて――、崖下では「曇天下」であったハズなのに、背景の大空がまた安いフィルムか80年代家庭用ビデオの映像のように粒子が粒立っており「青空」にもなっていたような……。そこまで再現する必要があるのか!? といったことをスレたマニアとしては思いつつも、一般層はそこを気にすることもないのであろうからして、わずか数秒程度のカットでもあるので、違和感を持つ暇すらもがないであろう。


 しかしてその勇姿は、事前に告知されていたイメージイラストや予告編でも明かされていた通りで、黒めのロングコートも羽織っている!


 本放映当時はともかく、マニア連中にとっては既視感がある、このコートをまとった仮面ライダーといった図。これは本映画を手掛けた庵野カントクとも大阪芸大時代以来の知己であるオタク上がりのマンガ家・島本和彦による、1989(平成元)年4月10日発売の『週刊少年サンデー』30周年記念増刊号に掲載で、TV版のすべてが大文字英字の『仮面ライダーBLACK』ならぬ、石森マンガ版(共に87年)の先頭1文字だけが大文字であった表記に準じた短編マンガ『仮面ライダーBlack PART× イミテーション・7』(89年)が初出であるらしい?
 悪の組織・ゴルゴムによって怪人訓練用に青年がBlackそっくりに改造された姿であった「ブラック・ダミー7号」なる擬似ライダーが、丈の短いハーフコートをまとった姿をしていたのだ!


 画質うんぬんの話もしたが、庵野カントクが先に手掛けた『シン・ゴジラ』(16年)や『シン・ウルトラマン』(22年)などでも、プロ用カメラではなくスマホのiPhone(アイ・フォン)などで撮影した箇所の画像のクオリティに対して、ウルさ型のマニア諸氏からはケチがつけられていたものであった。
 しかし、80~90年代の大むかしには、今は亡き各種カセットテープやビデオテープの音質や画質の違いにこだわって、それらを聞き分けたり見分けたりしていたロートルオタクな筆者も、あの時代の水平解像度が240本程度のビデオテープ、330本程度の地上波アナログ、500本程度のDVDともすでに隔絶した、2K(2000本)のハイビジョンなり4K(4000本)の画質には不満を抱きようがないのであった(笑)。


 それどころか、どの部分がミニチュア・CG・実物であるのか? といった相違の認識はできたとしても(?)、どのシーンがスマホで撮影した映像であるのかすらもがわからない程度の「コーヒーの味の違いがわからない男」に成り果ててもいる。
――ほとんどの一般観客といわず、特撮マニアや映画マニアの過半も同様であって、そういった画質の違いがわかってしまうような人種もまた、撮影機材などに強くこだわりを持ってしまうような自撮りユーチューバーのコレまたごく一部だけなのではなかろうか!?(筆者のような輩に「映画を語る資格はナシ!」ということであればご容赦をば)――


アヴァンタイトルにアクションを配置するスペシャル感!


 崖上から高速でジャンプして即座に空中前転して飛び降りてきて着地した仮面ライダー! 彼は戦闘員たちをバッタバッタと薙ぎ倒し、押し倒し、頭蓋を砕き、パンチやキックを次々と繰り出してみせる! その度に飛び散る戦闘員たちの水しぶきのような赤い鮮血! それらが樹皮にも大量にかかるという!


 そして、黒バックに白い文字でメインタイトル『シン・仮面ライダー』が浮かび上がる!



 ……というワケで、スリ切れたマニア諸氏であれば、想像はついていたことではあろうけど、本作は2時間尺という都合もあってか、主人公青年・本郷猛の日常や人となりを描いてから拉致されて改造手術を受ける、といった経緯は省かれていた。それらは続く回想シーンの方へとまわされて、イキナリにカーチェイスやヒーローvs敵怪人との戦闘に入っていき、そこでの「高揚感」を観客への「ツカミ」としてみせているのだ。


 こういった1話完結形式のTVシリーズではクライマックスにあたるバトルを、惜しみもなくアヴァンタイトル(メインタイトル前)に配置してみせる変化球で、観客にもその映画がTVシリーズとは異なるスペシャル感・別格感・格上のモノであるのだとも言外に感じさせるという手法。
 それは平成ウルトラマンシリーズでも、映画『ウルトラマンティガウルトラマンダイナ 光の星の戦士たち』(98年)や、冒頭で昭和のウルトラ4兄弟が月面にて超巨大怪獣とバトルを展開した『ウルトラマンメビウスウルトラ兄弟』(06年)ほか、平成仮面ライダーシリーズでも、冒頭から7号ライダーことストロンガー(!)をセンターに昭和の7人ライダーが大活躍した映画『仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAX』(11年)など、あまたのヒーロー映画で観てきたものでもあるだろう。よって、本作における冒頭からの戦闘シーンの配置もまた妥当であったとは思うのだ。


「風」と仮面! 石森マンガ版のオマージュとその是非!


 序盤戦での窮地からの脱出に成功したのか、またまた省略技法で、壁の多数のヨコ板の隙間から漏れてくる木漏れ日には照らされているものの、薄暗くてホコリっぽい木造ロッジのような家屋の中で、静かな不協和音的な楽曲とともにたたずんでいる仮面ライダーの姿が描かれる。


「風の音が聞こえる。なぜ体の中から風の音がする?」


 「風」がうんぬんといったセリフはTV版にはない。しかし、石森マンガ版では「風よさけべ 風ようなれ おれのからだの中でうずをまけ 嵐になれ」「風よ! おれのからだにエネルギーを!」「この風がおれをべつのものにする この風がおれをきさまのところにはこぶ!!」といった、やや詩的・ポエミーな表現が多用されてもいたものだ。そう、これらはそういった石森マンガ版からの引用でもあるのだろう。


 このような詩的な表現は、おそらくは小学校の中高学年以上にでもなれば、その文学的な香気に対して「良さ」も感じられたのであろう。しかし、私事で恐縮なるも、筆者はリアルタイムでTV版にギリギリで遭遇してはいたものの、識字もできずマンガや幼児誌を読むような年齢ですらない幼児であったために、石森マンガ版はその初出から5~6年後に初遭遇することとなった。
 すでに怪獣博士でオタク予備軍的な感性の持ち主ではあったものの、まだまだ小学校低学年であったためか、ホントに胴体内にてスキマ風のように物理的な空気が奔流していたり、そんなワケがないのに風の勢いに乗ってバイクが空を飛んでいくかのようにも捉えることができてしまう、文学的な比喩表現が腑に落ちてこなかったものだった(笑)。


 だから、石森マンガ版がダメだったと云いたいワケでは毛頭ない。子供の発達段階の程度に応じた理解の高低のことを腑分けしてみせているだけだ。先の車輪のオーバーラップ映像から回想シーンへと突入していく件なども同様なのだけど、もうあと数歳だけ長じていれば理解ができてしまう程度の表現であれば、こういった要素を微量に織り交ぜておくことも決して悪いことではないであろう。ゼロか100かといった問題ではないのだ。


――そして後年、この「風」というターム(用語)をキーワードに、「風都(ふうと)」なる街も舞台として、作品世界を構築してみせていたのが、のちに第2期・平成ライダーシリーズの1作目と称されることになった『仮面ライダーW(ダブル)』(09年)でもあった――



 なかなか外せなかった仮面ライダーの手袋をようやくにハギ取るや、そこにはカラカラに干からびてフシばったかのような少々異形(いぎょう)と化している自身の手が出現! オマケに昆虫が壁にツカまるための引っ掛けのような小さなトゲトゲまでもが手の側部には付いている!


 頭部のマスクもなかなかに脱げないので、下顎~口部の通称・クラッシャー部分の上下を強引に裂くように脱いだあとの顔面には、中央から「X」字型に裂けたようなキズあとまでもが付いており、眼球は赤くて瞳孔も小さくなっている!
 怪異な容貌と化した自身の顔面を鏡台で見たことでオドロいて、即座にマスクをまたかぶり直してしまう本郷猛青年。コレもまた、ややシチュエーションは異なるものの、古参の『仮面ライダー』マニアであればご存じ、石森マンガ版における同様シークエンスからの引用でもある。



 しかし、たしかにTV版でも「改造人間になった者の苦悩」描写が少々あったとはいえ、それ以上に子供たちは改造人間になったことでの身体拡張の快感! 身体を自由自在に動かして空高くジャンプし、空中前転までしてパンチやチョップを放って、状況をリードしていくこともできるといった感慨の方が大きかったハズではあった(笑)。


 けれど、TV版とは異なる感触のものとしての、敵への怒り&憎しみといった感情によって、顔面に浮かび上がってくるとされた改造手術による醜いキズあと! そして、それを隠すためのマスク(仮面)でもあったのだ! といったマンガ版の描写の意味合い自体は、先の「風」がうんぬんといった文学的な描写とも異なり、それは小学校の低学年にもダイレクトに目で見てわかる心情描写ではあったのだ。


本郷の回想! TV版#1のオマージュとそこからの逸脱


 ここで本映画も、本郷の回想シーンへと突入。短い点描カットの連続で、TV版#1の前半に相当するシークエンスをカラーならぬモノクロ映像の点描にておさらいしていく。


●林間にヨコ並びで現われた、敵組織・ショッカーの網タイツ姿(?)の女戦闘員たち
●本郷の主観での手術台から見上げた手術灯


 そう。TV版の#1と#3にしか登場しなかった、ヨコ並びでゆったりと不気味に迫ってくる複数名の女戦闘員たち。彼女たちのことは、TV版序盤13話分の旧1号編に登場したベレー帽の赤い上級戦闘員、平の黒い戦闘員、#14以降の2号編に登場した赤(上級)と黒(平)の戦闘員、#53以降の新1号編に登場した骨模様が入った戦闘員に負けじ劣らず、昭和ライダー世代にとっては印象に残っていることではあろう。
 スタッフ側でもそうであったと見えて、早くも原点回帰が目されていた昭和ライダーシリーズ第4作『仮面ライダーアマゾン』(74年)前半第1クールではオマージュであろう、レギュラーとして「赤ジューシャ(従者)」なる女戦闘員たちが登場しており、こちらも世代人諸氏には印象に残っていることであろう。


 と、ここからは、TV版とも石森マンガ版とも異なる、本映画オリジナルの回想展開ともなっていく。


●手術灯を背景にヨコ入りして見下ろしてきた、本作のメインヒロイン・緑川ルリ子が「これでアナタは自由。ここを出たければ、私といっしょに来て!」
●そして、先の三栄土木の大型ダンプに追われて、バイクで逃走している本郷&ルリ子!


 おぼろげに記憶を取り戻しつつあった本郷猛は、扉を開けて隣室である広間に転げ出るや、そこにあった幅広な階段の前に当の緑川ルリ子が立っている。困惑しつつも、自分の身体について教えてくれ! と問い掛けるや別室の扉も開いて、庵野カントクと同じ1960年生まれの塚本晋也(つかもと・しんや)カントクが演じる本郷の恩師でもある初老の緑川弘(みどりかわ・ひろし)博士も登場! 「私が教えよう、本郷クン」と訥々(とつとつ)と語り出す――原典での俳優・野々村潔(ののむら・きよし)の頭頂部がウスい風貌にもよく似ている!――。


 塚本晋也庵野カントク同様に自主映画監督上がりの御仁であった。不肖の筆者なども、ハードロックのBGMをバックに身体や両手から鋭角的な金属が生えてきた青年が高速で住宅街の道路を滑走しだす、翌89年公開の映画『鉄男(てつお)』の原型ともなった、機械人間たちが手足を動かさずにホバリングのように高速疾走していくサマを人形アニメのようなコマ撮りだけで表現できていた8ミリフィルムによる自主短編映画『普通サイズの怪人』(86年)と『電柱小僧の冒険』(88年)2作の同時上映を88年春に恵比寿のミニシアターにて観賞している――ウェットなドラマもあった後者はともかく、パンクで暴力的な快感を追求していた前者は映像面では秀逸でも、必要最小限の感情移入をもたらすドラマすらもがなかったことには個人的には関心しなかったものの――。
 近年では太平洋戦争での南方戦線での飢餓体験を描いた戦後戦争文学の金字塔『野火(のび)』を映画化(15年)。最新監督作は、奇しくも本映画の本郷猛を演じた池松壮亮(いけまつ・そうすけ)を主演に据えていた時代劇映画『斬(ざん)、』(18年)であった。


プラーナ! コンバーターラング! 仮面のバッタオーグ


 本郷は自身の身体がショッカーに在籍する緑川博士のグループが開発した「昆虫合成型オーグメーション・プロジェクト」――この程度の造語であれば意味不明といったこともなく、前後の文脈からも「改造人間」のハイブロウな今風の云い換えだとはわかる!――の「最高傑作」にして、バッタを基にした「バッタ・オーグ」に変貌していることを聞かされる。
 超人に変われたのも、圧縮された「プラーナ」の力だというのだ。身体の胸部に施されたプラーナの吸収増幅システムが「コンバーターラング」であって、それは「ベルト」と「マスク」にも連動しているというのだ。


 ここにて一聴しただけでは意味不明な「プラーナ」なる語句が登場した。とはいえ、その前後に「君の生命力を支えている」とあったので、のちのちにもう少しくわしく「大気中・風・生物などにも含まれている、眼に見えない生命エネルギー」だとの説明が出てくるものの、ここの初出時には「?」となりつつも「生命エネルギー」のようなモノなのだとは何とか理解ができるのだ――のちに、もっと「?」となってしまうメンドくさい用語がさらに出てくるとは思いもよらなんだものの(笑)――。


 ガチオタであれば、庵野カントクの商業作品・初参加作でもあったリアルロボットアニメ『超時空要塞マクロス』(82年)シリーズの監督としても有名なメカデザイナー上がりの河森正治(かわもり・しょうじ)カントクが手掛けた人気合体ロボットアニメ『創聖のアクエリオン』(05年)に登場した、人間の生体エネルギーこと「プラーナ」のことをも連想したやもしれない(笑)。明かされているとおりで、「プラーナ」とは古代インドのサンスクリット語で「風」や「息吹」や「気」などを意味する用語であるそうだ。


 そして、「コンバーターラング」! 「コンバーター」とはもちろん「変換器」といった意味の普通名詞で、「ラング」もアクアラングのラングで「肺」の意味だけど、昭和の仮面ライダーファンであればご承知のとおりだろう。TV版では明瞭に語られていないが、石森マンガ版で描かれた図版においては、仮面ライダーの両胸から腹部にかけての左右に割れた胸筋や腹筋とも取れるような、6つの大きなパットの部分のことを指している語句なのだ。


 ちなみに、TV版の第1クールこと「旧1号編」では、明らかに変身ベルトのバックル部分にある「風車」を風力で回転させることで、エネルギーを発生させていることが見て取れていた。しかし、石森マンガ版・全6話中の第5話「海魔の里」において1ページサイズで脱線的に掲載された、古参のマニア諸氏には印象深いであろう仮面ライダーの「内部図解」においては、ベルトの「風車」ならぬ胸の「コンバーターラング」から風を取り入れており、そこでエネルギーに変換するとも説明されていたのだ! そして、ベルトの風車(風車ダイナモ)・タイフーンは、ここで発電しているのではなく「風力計」であるといった記述もあったのだ。


 ということは、胸と腹部の「コンバーターラング」から風のエネルギーを吸収するという設定は、改めて石森マンガ版の内部図解に準じてみせた設定だったともいえるのだ!――とはいえ、TV放映開始の前月に毎日新聞・関西版71年3月13日(土)夕刊「PRのページ」誌面に掲載された、同作紹介記事中の石森自身の筆によると思われる仮面ライダーの図解によれば、ベルトの風車は「風力計」だとはされておらず、「風車が回りはじめると力がみなぎる」とだけ記述されてもいたけれど(笑)――


 無粋(ぶすい)なツッコミではあるけど、風力・地熱・水力・火力・原子力のいずれもが、結局は金属コイルの内部にて磁石を着けた風車・水車・タービン(の羽根車)などを風や熱水で回転させて、「フレミングの右手の法則」でコイルから「電気」を発生させているだけであって、原理的にはすべてが同一であることを思えば、現実の科学とも整合性を取っておき「風車」の回転によってエネルギーを発生させている設定の方が視覚的にもわかりやすかったような気はする。
 とはいえ、それだと大勢といわず一定数の人間は、風車の回転で発生するエネルギーは現実科学の「電気」だと連想してしまうやもしれない(笑)。大元が「風」といった自然エネルギーではあっても、最終的に「電気」に変換されてしまう以上は、いかに「大自然の使者」をうたった石森マンガ版・仮面ライダーではあっても、現代の視点から見れば「自然」ではなく「科学」じゃん! といったイジワルなツッコミも可能なのではあった――筆者個人はそんなヤボなツッコミは入れないものの――。


 そういったツッコミの余地を与えないためには、ドコまで行っても広義での科学技術ではあるけれど、エコロジカルで超自然的な要素も少々入れておいて、大気・風の中に含まれている超常的な「自然」や「生命エネルギー」とでもいったものをパワーの源泉とすることも、「大自然の使者」としての意味合いをも持たせたいのであれば、それこそが妥当な落としどころだったのかもしれない。



 これらの説明の直前に、緑川博士は「体内の『エナジーコンバーター』に残存しているプラーナを強制排除すれば、ヒトの姿に戻れる」と云って、変身ベルトの腰の左右脇に装着されていた小さなボックスにあるボタンを強く押下する。すると、ライダーの下顎部分が左右に瞬時に開扉したことで、脱着も容易になったことが見て取れて、仮面を脱いでみせても本郷の素顔からはキズあと状の文様が消えている。
 古参マニアであればなじみがある「エナジーコンバータ」というパーツに言及しつつ、TV版でもマンガ版でも明瞭には言及も映像化もされてはこなかった、本作独自の「変身解除」のメカニズムについてもさりげに説明している。その後の展開で、本郷がキズあとなしでの役者さんの「素顔」を終始さらしていても不整合ではないとするためでもあっただろう(笑)。


 とはいえ、あまりにさりげでナチュラルでアッサリしすぎた説明だったやもしれない。実はこのシーンのあとには、脱いだ「仮面」が効果音とともにバイクの「ヘルメット」状に変形していたのだ! しかし、ロッジの屋内の全景を捉えた極端にロング(引き)なカットの中での「点」なのでまったく目立ってはいないのだけど。どころか、初見時には気が付かなかったほどである(汗)。


 このあと、ヒロインをさらったクモ男怪人が搭乗した乗用車をバイクで追跡するシーンで、TV版の#1の再現でもある、ハンドル近くのボタンを押下するとともに、バイクがおなじみの仮面ライダー専用バイク・サイクロン号へと高速変形していく姿も描いている。そのついでに、この「ヘルメット」も仮面ライダーの「仮面」へと変形していくのだ!
 しかし、あまりに瞬時に過ぎているし、サイクロン号への変形映像が実にカッコよくて印象的でもあったので、この一連での「ヘルメット」の「仮面」形態への変形の方は目立っていなかったような気がするのだ。


 であれば、やはりロッジ内での「仮面」から「ヘルメット」への逆変形を、たとえ瞬時ではあってもドUPの映像で、コレ見よがしに説明的な「絵」として見せてほしかった……と後知恵では思うのだ。


変身は全身が変化!? 装着!? 仮面を外した本郷の意味!


 ところで、TV版や石森マンガ版における仮面ライダーの「仮面」の扱いはドーであったであろうか? マンガ版では「仮面」はサイクロン号の座席下の空間に格納されている描写があった。よって、マンガ版のライダーの頭部は変身ではなく仮面の「装着」なのだとも判定ができる。
 しかし、TV版初作の「旧1号編」においては、ベルトの風車に風を受けた本郷猛が、脚・胴体・腕を次第に仮面ライダーの姿へと変化させていくも、最後は「素面の顔面」だけが残っていたのだ。けれど、その顔面もまた仮面ライダーの「仮面」へと変化していくことから、頭部まるごとが仮面へと「変身」したとも、瞬時に仮面を「装着」したのだとも、いずれとも取れるあいまいな描写ともなっている。


 一方で、世代人にはこのTV版での仮面ライダーが、その「仮面」だけを脱いで本郷猛(藤岡弘)としての「素顔」を見せていた姿もまた鮮烈に残っていることであろう。それはTV版の#1における手術台で改造されている姿や、同じく#9「恐怖コブラ男」でも捕らえられてしまって再改造を受けそうになっていた姿、その直後に敵のアジト内にて立ち回っていた姿がまた、「素面をさらした仮面をかぶっていない仮面ライダー」としての姿でもあったからだ!


 さらに加えて、幼児誌でのカラー特写スチル写真、飛んで80年代のマニア向けムックなどに掲載されたメイキング写真においても、「旧1号編」では藤岡本人が仮面ライダースーツアクターを基本は演じていたために素面をさらした仮面ライダーのスチルもまた多々あったからだ。こうしたことから思春期・青年期に達していたライダー世代のマニアたちの中では、この印象がますます増幅されてもいった。


 しかし、たとえば『仮面ライダーV3(ブイスリー)』(73年)終盤に登場した仮面ライダー4号こと「ライダーマン」は、その仮面の下部からナマ身の人間の鼻梁や口が見えるデザインともなっていた。人間のナマ身や素肌の部分的な露出! それは小学校の高学年にでもなれば、それがまた味となったりカッコよさとしても認知されるものだったのやもしれない。
 けれど、幼児や小学校低学年の児童にとっては、そこだけが超人としての強化が成されていない「不完全」な部分、単なるナマ身の人間のままで残ってしまった「弱点」としても感じられてしまうものなのだ(汗)。


 つまりは、冥界の川に浸されて不死身となったギリシャ神話のアキレスも、そのときに母親が握っていたカカトの部分だけは弱点となってしまったり、竜の返り血を浴びて不死となった英雄・ジークフリートや『仮面ライダースーパー1(ワン)』(80年)シリーズ前半の敵首領であったテラーマクロ翁のように、肩だか背中だかに1枚の木の葉がたまたま貼りついていたばかりに、そこだけが血を浴びておらずに弱点となってしまったようなものなのだ。


 しかし、本郷を演じた藤岡弘には悩めるナイーブな青年らしさや適度な甘さや優しさがありつつも、それと同時に頼もしさ! をも有している「人となり」があった。それゆえか、顔出しの仮面ライダー1号の姿には哀愁はあっても、過度な弱さといったものは感じられないのだ。
――とはいえ、さすがに本放映時には気付かなかったものの、本放映終了直後に1~2度はあった平日夕方の再放送では、本作と同じく初作のリメイクとして作られた東映ビデオ製作の映画『仮面ライダー THE FIRST』(05年)でも再現されていた、変身後の旧1号や2号ライダーの後ろ首に人間の「素肌」が見えてしまうと、子供心に「この部分だけはムキ出しで弱そうだナ……」と思った記憶もあるけれど(笑)――


 けれど、そういった「仮面」を小脇に抱えた顔出しの仮面ライダーといった姿に、字義とおりのナマ身でヒューマンな要素も感じており、文学でいうところの「悩める近代的自我」を持った存在だとして、たとえ絵空事ではあっても本郷たちの人間的な情動を、中高生以上にもなるとますます抱くようにもなっていく。
 このあたりの機微については、特撮同人ライター・森川由浩氏が編纂した資料系同人誌『仮面ライダー The First Impression 1971』(05年12月30日発行・09年11月22日増補再版)において、「マスクを外した仮面ライダーの真実……?」と題した1章を設けて、すでに詳細に論じられている。


 往時を知る者であればご承知のとおりで、模型店にて頒布されていた100円の小冊子『バンダイ模型情報№74 1985年10月号』にて、本作の庵野カントク自身も若き日に嬉々として「仮面」を小脇に抱えて素顔をさらした仮面ライダー旧1号のコスプレ姿を披露している姿が、近年の「庵野秀明展」(21年)や『シン・仮面ライダー』の宣伝がらみでも喧伝されてきたところだ。
 80年代当時に『仮面ライダー』をモチーフとした自主映画を作ったヒトで、「仮面」を外した顔出しの仮面ライダーを再現した御仁は多数に登るのではなかろうか?――私事で恐縮だが、筆者なども80年代中盤の高校時代の文化祭用に、友人主宰の有志で製作した8ミリフィルムならぬ家庭用ホームビデオカメラによる『仮面ライダー』自主映画の撮影を担当した折り、主人公を演じた友人主宰はこの「仮面」を小脇に抱えたシチュエーションを嬉々として演じていたことを思い出す――


 とはいえ、「顔出しのライダー」といった「絵」もまた、古参マニア間では「いつか来た道」として陳腐化、あるいはマニアの方が加齢で枯れてしまって(笑)、ここに今でもガチで執着しているような御仁は少ないであろう。
 しかし、『仮面ライダー』初作を「本格大作映画」然として製作するのであれば、一般層やライト層に対しても、同作における超人ヒーローの「人間性」を象徴するものとしては外せない、押さえておくべきイコン・アイコン・聖画像ではあっただろう。


――このような頭部だけが素顔で首から下はヒーローのスーツ姿といった表現は、近年のアメコミ洋画のスパイダーマンやアイアンマンなどでも時折り描写されており、変身前後での一体感も高めている。日本特撮でも作り手側や受け手側に70年代変身ブーム世代のマニアが入り込んできた90年前後になると、東宝製作の戦隊ヒーロー『電脳警察サイバーコップ』(88年)でヒーローがマスクを外す描写が散見されて(変身前後をジャパン・アクション・クラブの当時のイケメン若手役者たちが兼任していたためでもあった)、顔出しの亜種としてはハイテク・マスクのメカニカルな内壁内にある人間の素顔も映像化してみせたり、最終展開ではマスクの一部が破壊されて中のヒトの顔の一部が見えてしまう描写を実現していた『鳥人戦隊ジェットマン』(91年)といった例もあった――


全身の変化と装着を両立! シン・仮面ライダーの変身!


 はてさて、『仮面ライダー』をはじめとする、このテの昭和の特撮変身ヒーローものには共通のお約束があった。スマートな超人へと身体組織も含めて「変身」している設定だとはいっても、変身前の人間の私服をのぞいたナマ身の人体・肉体の部分にだけ限定して「変身」したようにはとても見えなかったことである。
 どころか、変身前の人間が着用していた私服も含めて、時にはバイクのヘルメットも含めてのまるごとの「変身」(笑)、もっと云ってしまえば、変身前の人間の私服やバイクのヘルメットの上から「着ぐるみ」のスーツを着込んだようにしか見えなかったりもしたのだ――実態がまさにそうであったから……といったこともあるけれど――。


 ヒトにもよるのだろうけど、よほどの物心がついたばかりのころなどはともかく、そのへんの不整合については幼児ながらに直感的に気付いてしまってはいるものであろう――それで幻滅してしまって、即座に特撮変身ヒーロー番組を卒業してしまう! といったものでもないことは、くれぐれも強調はしておくけど――。


 もちろん、作り手たちもそのへんのことは当然ながらに気付いているだろう。しかし、だからといって、そのこととの整合性を取るために、変身前の主役を変身の直前にいったん「服」を脱がせて「裸」にさせるワケにもいかないのだ(笑)。
 むろん、「変身」といった劇中内での超常的な現象に対してウソをなくすためには、身体組織・肉体自体の変容ではなく、「強化服」を着込んでみせる設定にするといった代用はある。けれど、石森章太郎原作名義のスーパー戦隊シリーズ第2作『ジャッカー電撃隊』(77年)のように、基地や空母メカに戻ってからでないと「強化服」を着込んだかたちでの変身もできないようであれば、筆者も含む当時の多くの子供たちも感じたことであろうが、当初は目新しくてもホントにホントの大ピンチの際には敵の猛攻に対する迎撃には間に合わないようにも直観されてしまって頼りなく思えてきてしまい(笑)、ヒーローの本質的な属性だともいえる「万能性」を毀損(きそん)しているようにも感じられてしまうのだ。
 仮にジャンル作品内においては相対的にはリアルな描写であったとしても、テンポもストーリー展開もまだるっこしくなってしまって、物語作品・娯楽活劇作品としてのカタルシスも欠如してしまっては意味がないのだ。


 「変身」ではなく「強化服」を着込んだヒーローという設定で、そのへんをお話運びのテンポも毀損することなく解決ができたのは、SF科学的な「強化服」の「電送」「蒸着」といった概念を設定面で採用することができた、80年代初頭の『宇宙刑事ギャバン』(82年)からのことであろう。


『真ライダー』『THE FIRST』の変身! 赤いマフラー!


 それでは、本映画の仮面ライダーの「変身」はどのように描いてみせるのか? ナンと本作では、ホントにホントの変身を果たした姿とは、先に明かされた生体エネルギーことプラーナが充満して、『シン・仮面ライダー』ならぬ往年のビデオ販売作品『真・仮面ライダー 序章(プロローグ)』(92年)のような異形のバッタ男(=仮面ライダーシン)ほどではないものの、異形と化したご尊顔や手などに示されていたように、ナマ身の身体に相当する部分だけが変態(変身)後の本体であるとされていた。
 そして、バイクに搭乗するライダーの黒い皮スーツと、その胸部や腹部に胸筋や腹筋を模したような巨大パーツを装着したかのような元祖・仮面ライダーとしてのその姿自体は「変身」した姿ではなく、「強化服」ならぬ「防護服」を着用した姿だとされたのだ!


 加えて、リアリズムに寄せて作ると、どうしても想起されてきてしまうであろう、「バイクのヘルメット」と「仮面ライダーの仮面」のふたつを同時に持ち歩かなければならなくなる問題点も解消ができていたのだ(笑)。



 そして、70年代~80年代前半までの昭和の人間サイズの特撮変身ヒーローや戦隊ヒーローではおなじみ、首に巻いた長いスカーフ(マフラー)! それはもちろん、現実世界でバイクを駆っていたライダーたちが巻いていたソレが淵源(えんげん)ではあったのだろうが、仮面ライダーと同じくバイクを駆っていた本邦初のTV特撮ヒーローだともいえる『月光仮面』(58年)に前例を見ることができる。
 石森ヒーローでは幾度もアニメ化された漫画『サイボーグ009(ゼロゼロナイン)』(64年)の赤いマフラーも印象的だが、仮面ライダー1号と2号の赤いスカーフも、世代人にはとても印象深いのだ。この赤いスカーフまでもが改造人間としての身体の一部であったという設定にはさすがにできないだろうし(笑)、仮面ライダー1号・2号のリファイン・キャラから赤いスカーフの要素を外してしまうワケにもいかないだろうから、


「ヒーローといえば、赤なんでしょ? よく知らないけど……」


と云いながら、本作ヒロインがここではSF科学チックなリクツさえ付けずに、早々にロッジのシーンで仮面ライダーの首に赤のスカーフを巻きつけてあげていた。


 ……ただし、ここで緑川博士が小さく「プッ」と笑ってみせて、それに対してヒロイン・ルリ子が瞬間、小さくイヤそうな顔をしている。彼女の設定や人物造型においては些事ではあるけれど、彼女は我々オタクと同様に特撮変身ヒーローものにも少々の造型や愛着があるのやもしれない……といった解釈の余地も与えているのかもしれない(笑)。



 本家の『仮面ライダー』シリーズの映像作品でこういった疑問にはじめてチャレンジしてみせたのが、すでに1960年前後生まれのオタク第1世代ならぬ、70年前後生まれのオタク第2世代すらもが成人年齢に達して、彼らによるマニア文化やマーケットも充分に醸成されていた1992年に、草創期のビデオ販売作品(東映ビデオ製作の「Vシネマ」相当)の1本として製作された、『シン・仮面ライダー』ならぬ『真・仮面ライダー』であった。
 同作では主人公青年の私服が破けて、彼のナマ身の肉体の部分のみがゲロゲロのクリーチャー然としたバッタ男へと脱皮のように苦しみながら変貌をとげるといった描写がなされていたのだ。


 しかし、年配マニア諸氏であればご記憶のことだろう。ドコまで行ってもウソ・フィクションである以上は、そのあたりにあまりにコダわりすぎても、幼少期に我々が愛していた高速でバイクを駆ってスマートでメカニカルな魅力も有していた仮面ライダーたちとは乖離が大きくなっていくことに……。
 『シン』ならぬ『真・仮面ライダー』製作の時代は、昭和のTV版初作を幼少時に視聴していた世代がすでに作り手側に参入しはじめていた時代でもあった。80年代には年長の特撮マニアの大勢が望んでいた、ハードでシリアスでリアルで本格志向な『仮面ライダー』の実現! そういった風潮を、幼児が観賞するのでもないビデオ販売(実質、レンタルビデオ用)作品として製作するにあたって、『シン・仮面ライダー』ではエグセプティブ・プロデューサーに登り詰めている、1990年に東映に入社したばかりの1965年生まれの白倉伸一郎プロデューサーがそのように主張して、『真』があのような作りとなったといったことにも、時代的には相応の理はあったのだ。


 しかして、特撮マニア間での風潮の変化、彼らの一部がスレていくスピードも早かった。我々マニアも勝手なものである。『真・仮面ライダー』は必ずしも好意的な反響をもって迎えられたとは云いがたかったのだ。当時の特撮マニア雑誌『宇宙船』誌における読者投稿欄でも、「こんなのは『仮面ライダー』じゃないやい!」「我々が愛していた素朴で無垢でチャイルディッシュな良さがない!」(大意)といった、ある意味では「ごもっとも」でありつつも、別の意味では「ないものねだり」な意見も散見されたものだ。


 この90年代初頭の時点でも、21世紀以降の用語でいうところの「中二病」的な「リアル至上主義」は、早くもいったんは相対化をしてみせるような言説は登場していたのだ。
 同じく少年時代にTV版初作を観賞した世代である1962年生まれで1986年に東映に入社した高寺成紀(たかてら・しげのり)が初のチーフプロデューサーを務めて放った『激走戦隊カーレンジャー』や、白倉が初チーフプロデューサーを務めて放った『超光戦士シャンゼリオン』(共に96年)も、そういった風潮や彼ら自身の思想の変化を早くも体現してか、ともにリアル・シミュレーションとは程遠い「ナンちゃって感」に満ちあふれたコミカル風味の作品を誕生させている。
 むろん、広義ではこの2作も非常に高度でマニアックな作品ではあったのだし、実際にマニア受けもしていたのだけれども、そのマニアックさとは同時期の90年代中後盤における「平成ウルトラ3部作」や「平成ガメラ3部作」的な本格リアル寄りへの志向・傾斜とは真逆な方向性ではあったのだ。


――個人的なことも云わせてもらえば、同時期の高寺が手掛けた『激走戦隊カーレンジャー』・『電磁戦隊メガレンジャー』(97年)・『星獣戦隊ギンガマン』(98年)、白倉が手掛けた『超光戦士シャンゼリオン』、やはりオタク第1世代にあたる東映の日笠淳が実質の初チーフプロデューサーを務めたメタルヒーロー重甲ビーファイター』(95年)・『ビーファイターカブト』(96年)といった作品群の方が、子供向けエンタメ活劇としてだけでなく、70年代後半~80年代の時期の東映特撮の1話完結・VSOP(ベリー・スペシャル・ワン・パターン)も脱しており、連続大河ドラマ性やテーマ性の面においても余裕で「平成ウルトラ3部作」や「平成ガメラ3部作」にも勝っていたとは感じていて、非常に高く評価もしている。しかし、往時の特撮論壇はいまだ東宝・円谷特撮至上主義的な風潮の最後の灯火が残っていた時期でもあったせいか、批評面でも堂々と論理的・積極的に肯定するといった動きが見られなかったことは残念ではあった(このトラウマから高寺は一応の本格リアル指向であった『仮面ライダークウガ』(00年)に着手したとも憶測)――


 これらの流れも踏まえてではあったのだろう。本映画と同じく、まさに『仮面ライダー』初作のリメイクとして作られた東映ビデオ製作の映画『仮面ライダー THE FIRST』(05年)においては、「『真』的なリアル」と「TV版におけるインチキでもカッコいい様式美」との折衷がほどこされている。
 『THE FIRST』における仮面ライダー1号と2号は変身ポーズこそ取らなかったものの、その変身描写においては、いつの間にやら仮面ライダーの黒いスーツを瞬時に着込んでしまっており、ドコから出してきたのかは不明なれども最後に残っていたナマ身の頭部の素顔の上から仮面ライダーの「仮面」を両手でかぶって変身終了! といった一連を、実にスピーディーでカッコいいカット割りにて描いてみせてもいたのだ。


 そして、特撮マニアの大多数も、「いつ着込んだのだ!?」「どこから仮面が出てきたのだ!?」などといった無粋なツッコミを入れるような御仁もまたほぼ皆無で、「このテの変身ヒーロー作品は、もうそーいったものなのだ!」といった感じで流通したのであった……。


 とはいえ、ここがムズカしいところである。あるいは『シン・仮面ライダー』にとっては、『真』や『THE FIRST』の存在がすでにあったことも不幸であったのやもしれない。つまり、それらの作品とも差別化を果たすのであれば、逆に選択肢は狭まってしまっていたであろうからだ。


クモ男の緑川博士殺害に想う『ライダー』の物語的可能性


 そんな仮面ライダーそれ自体の基本設定関連にまつわるもろもろの説明を、このロッジの場面ではサクサクと早口で進めていく。
 しかして本作は、ヒーローvs敵怪人との戦いを描いていくアクションものだ(笑)。TV版では湾岸の倉庫の中ではあったけど、ここに先のクモ男怪人が天井から強襲してくる! 超高速で吐き飛ばしたクモの糸で本郷青年を弾き飛ばし、その全身を壁に吸着して身動きをとれなくさせた上で、原典どおりに緑川博士としばしの問答の末に彼を絞殺する!


 その際に、本作でのクモ男怪人は本作における仮面ライダーとも同等の存在だとして、色や模様は違えどもライダースーツ状の「革の服」を着用しているといった描写で、両脇腹のチャックが開いて、「革の服」の中からの主観映像(!)にて「第2の両腕」も伸びてきて博士を絞殺している!
 この「第2の両腕」はTV版にはなかったものだが、企画段階でのデザインや毎日新聞・関西版にTVシリーズの宣伝として掲載された石森の筆による蜘蛛男(クモ男)やマンガ版においては、8本足のクモに少しでも近づけようとしてか「第2の両腕」が存在していた。本作のクモ男の「第2の両腕」は、この当初のデザインの再現でもあったのだ!


――TV初作のはるか後年の『仮面ライダーBLACK RX』(88年)#34にて、怪魔ロボット・シュライジンという阿修羅像をモチーフとした、第2どころか第3の両腕までをも持った敵怪人を、実は昭和のシリーズの時点でもすでに実現している。しかし……。この怪人の着ぐるみは第2・第3の両腕にも腕を入れて動かすことが可能であったが、現場ではそのようなアクション演出がなされなかったことを関係スタッフが愚痴っていた同人誌なり商業誌があったことなども思い出す(往時の同人誌なども含めてあさったが、その記述があった書籍を発見できなかったために、出典の誌名を挙げることができなくて面目ない。そもそもが勘違いの記憶であればゴメンなさい・汗)――


 そして、ヒロインを殺害せずに気絶させたうえで拉致してしまって、ロッジの方には「時限爆弾」を床に置いておくことで爆破する!!――2023年3月31日(金)22時からNHK-BSにて放映された「ドキュメント『シン・仮面ライダー』~ヒーローアクションの舞台裏~」によれば、ここでの膨大な数のヨコ板壁が見事にバラバラに飛び散っていくロッジの爆破シーンも、ミニチュア特撮であった!――



 ところで、原典では博士がかくまわれている場所に来て、クモの糸で絞殺されつつある博士の断末魔だけを目撃したルリ子が、居合わせた本郷を博士殺害の犯人だと誤解してしまう描写があった。そしてそのことで、その後のドラマチックな連続ストーリーをも予感させていたのだ。思春期・青年期になってTV版を改めて観賞した際には、このシチュエーションには心が躍ったものであったが……。残念! TV版ではこのシチュエーションにてしばらく引っぱるといった処置はなく、#2のラストで本郷の嫌疑はアッサリと晴れてしまうのであった(笑)。


 昭和ライダーシリーズ第3作『仮面ライダーX(エックス)』(74年)でも似たような事例があった。#1にて瀕死の重傷を追った主人公青年を、同じく重傷を負った父親が改造手術をほどこして仮面ライダーXとして甦らせるも、自身は知識と思考パターンを海底基地の大型コンピューターに移植して死亡する。しかし、主人公青年はこの父の声でしゃべってくれる、生前の当人とも変わるところがないコンピューターとの実に人間クサいやりとりを、しばらくは展開してくれるのだとも思わせている。
 けれど、短気な昭和の頑固オヤジ的な気質も継承していたこのコンピューターは、父を頼ってくる息子に癇癪を起こして(笑)、彼をキビしく突き放すためにも、早くも#2にて自らを海底基地ごと自爆させてしまうのであった!


 筆者と同世代のマニア間では「あるある」の話なのだが、これらはあくまでも中高生以上になってからの再観賞での感慨なのだけど、改めて「モッタイない!」と思ってしまった御仁が同様多数であったものだ。
 全話を通じてといわずとも、序盤の第1クールくらいは引っぱることでの「積み重ね」で重みを出してくれれば、「嫌疑の解消」や「哀しい別離」が、今あるかたちでの「旧1号編」や『仮面ライダーX』前半よりももっと盛り上がっていたであろうにと……。


――重ねて云うけど、それらの感慨は長じてからのことである。本放映当時の幼児期にはそのような感慨はなかったどころか、「嫌疑を掛けられる」といったあたりは記憶にすらなかったことから(笑)、そもそもそういった人間ドラマ部分は幼児には理解ができていなかったのであろう。しかし、これらの不備(?)は、関係各位のスタッフの発言や先達の研究から推察するに、往時のスタッフの能力やセンスの欠如といったことでもなく、作品を勧善懲悪・娯楽活劇としてのストロング・スタイルにするためにも、確信犯で意図的にほどこされていた処置であったようにも思える。
 事実、ドラマ性だけでいえば、同時期の『シルバー仮面』(71年)や『快傑ライオン丸』(72年)の方がはるかに高いと今では思うし、当時もそれらの作品をキラっていたワケではなかったものの、幼児期には『仮面ライダー』の方に圧倒的にヒーロー性を感じて執着していたのは、そういった幼児の心理ゆえでもあるのだろう――


サイクロン号の変型! 小河内ダムでのクモ男との戦い!


 ロッジは盛大に爆破されたものの、まだ序盤であるのでそこで主人公ヒーローが死んでしまうワケもない(笑)。宙高くキリモミ状に舞った本郷青年は着地するや、ルリ子を乗せて逃走した乗用車をバイクに乗って追いかける!


 走行中のバイクのハンドル中央部の赤いボタンを押下! ハンドルをガクンと手前に引き下げるや、バイクの前方が上昇! すると、バイクの各所が順々に超高速で変形を開始して、我らがサイクロン号が完成する!
 そして、両脇後部の三連のマフラーから白いスモークを噴射して、超高速で突っ走っていく! TV版#1の同様シーンの現代的な再構築だが、ここはスナオにカッコいい!
――庵野カントクもTV版の本放映当時にこのシーンをカッコいい! とシビれたことを公言している。しかし筆者個人は、本放映から8年後の小賢しい小学校高学年に達した時点での79年春の再放送での記憶だけれども、イメージとしてはカッコいいとは思いつつも、やはりウルトラマンシリーズなどの円谷特撮に比すればチャチだな……と思った記憶もあるのだ(汗)――


 実のところ、昭和のライダーTVシリーズでは本格的な特撮(特殊撮影)を使う予算も暇もなかった。TV版初作の#1においてのみ、バイクの新撮「変形」シーンはあった。しかし、昭和の後続シリーズのほとんどでは、一般のフツーのバイクを走行させながら仮面ライダーへと変身した場合に、そのバイクもまた変形描写を挟まずに変形をとげている! といった省略描写で、主人公青年が変身前に常用しているバイクこそが、仮面ライダーが搭乗しているスーパーバイクをカモフラージュした同一車体であるのだとも感じさせていた。


――すでに安価な「CG特撮」が一般化していた時代に製作が開始された平成ライダーシリーズでは、その第2作目である『仮面ライダーアギト』(01年)において、主人公青年が搭乗するフツーのバイクがオーラに包まれたかたちではあっても、仮面ライダー専用のスーパーバイクへの変形描写は映像化が果たされている。
 仮面ライダーアギト自体は科学技術の延長線上にある改造人間ではなく、グノーシス主義的な「悪の天使」や「悪の神」だのに「太古に悪しき穢れた肉体を持った存在として創造された人類の内側に、善の神がまいておいたタネ(原拠では精神・知性)の発芽(進化)としての新人類(アギト種)化」でもあったので、たとえ大ウソ・フィクションに過ぎなくても、そういった壮大なウラ設定がほのめかされているのであれば、物理法則を無視したバイクの変形の根拠にも説得力が出てくるのだし、どころか憧憬対象としての仮面ライダーのヒーロー性・超越性・万能性もいや増していくのだ!――



 先にロッジで変身解除のためにプラーナを強制排出していた仮面ライダーは、ここでバイク上にて手放し・立ちコギ運転の姿となって、両腕も左右に拡げた上半身を「向かい風」にさらす! そして、ウラ設定的にはコンバーターラングこと胸や腹部の全体から、映像エフェクト付きにて大気中のプラーナを吸収している姿も見せる!


 そして、いつの間にか原典のTV版同様に省略技法で、クモ男怪人よりも先回りして前方で待ち構えてもいる!(笑)


 「さすが、緑川の最高傑作。無キズとは想定外でした、バッタ・オーグ」なる語り掛けに、「違う。ボクの名は……ライダー。仮面ライダーと名乗らせてもらう」と返してくるヒロイズム!


 ライダーが待ち構えていた場所は、昭和『仮面ライダー』マニアの皆さまであればご承知の、TV版#1でもラストバトルの舞台となった、あるいは通称「新1号編」の序盤こと、早くも広義での部分的な原点回帰が企図されたのか、TV版#56「アマゾンの毒蝶ギリーラ」でもラストバトルの舞台となった、東京は奥多摩の「小河内(おごうち)ダム」!


 そして、またもTV版の#1とも同様に、ダムが迫って見えている光景をバックとして、ダムの上縁も兼ねている舗装道路に、ルリ子を抱えたクモ男を中心にしてヨコ一列に並んだ、身の丈ほどの細長い棒を持ってベレー帽もかぶった10人の黒背広スーツ姿の戦闘員が勢ぞろい! クモ男の左右にはべっているふたりの内シャツは赤だったことで、マニア向けにはTV版での上級戦闘員に該当していることをも示唆している。


 戦闘員がヨコ並びに歩んできたところで、本作は相対的にはリアル志向で様式美的なアクションを避けていたようにも思えていたのに、ここだけはナゼだか仮面ライダー自身の戦闘前の構えポーズも様式美の方へと振り切って、原典のTV版とも同様に「ピキーン!」という効果音とともに、その右腕を斜め上方へと真っ直ぐに高々と掲げてみせている!――ナンでやねん? と思いつつもカッコいい!(笑)――


 やはり省略技法で、いつの間にやらライダーを円陣のかたちで取り囲んでいた10人の戦闘員は、ライダーの頭部や足許めがけて電撃を放てる棒をいっせいに突き刺してもくる!――電撃を放てるあたりだけはTV版とは異なるけれども、電撃くらいは放てた方がイイだろう!――


 それらの攻撃を避けるために身をかがめてから、ライダーは空高くへとジャンプ! ここでTV版『仮面ライダー』主題歌の終わり部分のサビであった「♪ かめ~んライダー、かめ~んライダー、ライダーー、ライダーーー」の歌詞に該当する部分からはじまった、やや荒々しい感じでアレンジがなされた新録BGMも流れ出したことで、観客の気持ちも高揚!


 そして、戦闘員たちをひとり、またひとりとバッタバッタと薙ぎ倒していく!


鮮血! PG12指定をドー見る!? ライダーキック!


 ……先にはふれなかったが、アバンタイトルでのアクション場面とも同様に、このシーンでも戦闘員に対してパンチが当たるや、TV版には存在しなかった「血しぶき」が、アバンほどではないにせよ盛大に飛んでいる。


 ここをどう観るのかでも、本作に対する批評面での焦点ではあるのだろう。筆者個人のことをいえば、グロテスク耐性があるので特にどーこーといったことはない。むしろ、残酷にすればするほど「ウソ」で「作りもの」だと思えてきて、かえってシラケてくるところがある(笑)。
 しかし、世間一般的にはコレはややグロい描写であることには異存はないのだ。それゆえに、「PG12」指定を喰らってしまったことは、子供連れのファミリー層なども誘致するうえでは、いかに「保護者同伴」や「子供たちだけでの観賞も可だが、事前に残酷描写があることの保護者からの告知推薦」といったフワフワとした扱いのこの「指定」では、そも一般層においては「一律に12歳以下は観賞禁止!」だとも受け取っているだろうから(笑)、興行面では相応に不利に働いたであろうことは否めないとも思うのだ。


 もちろん、こういった残酷描写は、いわゆる「チョイ悪」系の暴力的B級アクション映画を愛好するような連中には、『仮面ライダーBLACK』のリブート作にしてアマゾン・プライムでネット配信された『仮面ライダーBLACK SUN(ブラック・サン)』(22年)における残酷描写などとも同様に大いにウケていることも知ってはいるし、筆者個人も下世話な人間なので、そこに「暗いカタルシス」を感じていないこともないのだ(汗)。
――とはいえ、『BLACK SUN』については、風刺以前にあまりに露骨な2015年の安保法制(戦争法案)反対などを想起させる一応の平和主義的な主張と、それとは大きく矛盾しているようにも見えてしまう残酷描写のカタルシスへの傾倒に、作品思想の空中分解の気配を感じてもいる(同作を評価している方々に対しても、その評価軸には同様の分裂を感じている)――



 戦闘員全員を倒したライダーは、クモ男怪人との一騎打ちに挑んでいく! 高いダムの上下をクモの糸やジャンプで移動しながら、細かいカット割りでスピーディーなバトルを展開していくあたりは実にカッコいい!


 クモ男の4本の両腕で羽交い締めにされてしまったライダーは、そのままの体勢で空高くへとジャンプ! 空中で超高速回転を開始することで、遠心力でもってクモ男を引き剥がす!


 すると、仮面ライダー1号・2号におなじみの、背中にある小さな緑の羽根状の文様に、葉っぱの葉脈のような文様が光り輝いた!


 画面の左手前にハジキ飛ばされてくるクモ男! その遠景の右上には必殺のライダーキックの体勢を空中で整えたのであろう仮面ライダーの姿が小さく写ってもいる!


 しかも、仮面ライダーの背中の左右にはウッスラと大きな蝶々の4つの白い羽根のようなものも浮かび上がった!


 ……思えば、仮面ライダー1号・2号のモチーフであったバッタには、羽根が生えていて空を飛ぶこともできるのであった。しかし、平成ライダーたちの幾人かのパワーアップ形態はともかく、昭和ライダーでは『仮面ライダー(新)』(79年)こと8号ライダーであったスカイライダーを除けば空は飛べなかったし、仮に空を飛べることにしてしまっては『仮面ライダー』初作のリメイクらしさが毀損されしまったことだろう。


 平成ライダー仮面ライダーアギトは、必殺のライダーキックを放つ直前に腰を低くして地面で構えるや、その足許の大地にはナゾの巨大な文様が大きく浮かんでくる! あるいは、仮面ライダーカブト(06年)の強化形態・ハイパーフォームがその背中から光の翼を左右に長く伸ばしている! といったビジュアルも、筆者のようなキモオタは即座に連想してしまったけど。
 むろん、庵野カントクがそれら平成ライダーたちへのオマージュをここで入れたとはさすがに思わない。長大な歴史と作品・キャラクター数を有するライダーシリーズゆえの単なる偶然の相似ではあっただろう。


 この羽根状のものは、仮面ライダー自身のパワーが増幅したゆえのシンボリックなイメージであるのか? 空中での姿勢や軌道修正といったSF考証的な意味でもあったのか? といった後付けのコジツケはできるものの、そんなことはドーでもよくって、一幅の「絵」としてまずはカッコよければそれでイイ!(笑)


 ここでは21世紀のヒーロー特撮映画にふさわしく、TV版の#1でのまだまだ試行錯誤で洗練もされていなかったライダーキックの描写とは段違いであって、まずは空中に浮遊している段階でキックがクモ男怪人の腹部へと高速で命中!
 クモ男怪人の両手脚が慣性の法則で、キックの猛烈な力に押されていくのとは逆方向へとなびきながら、そのままの体勢で押し込まれていって、ダムの橋脚コンクリ部分へと打ち付けてメリこませて、周囲にはヒビ割れも走らせる!!


 空中でカッコよく反転・バック転を決めてから着地したライダーの見つめる先で、メリこんでいたクモ男はその全身が白い泡と化して消えていく……。


ライダーシリーズにおける、クモ男&コウモリ男の系譜!


 本映画に登場する主な敵怪人は、やはりTV版の序盤13話分こと通称「旧1号編」に該当する、#1に登場した蜘蛛男(クモ男→クモオーグ)、#2に登場した蝙蝠男(コウモリ男→コウモリオーグ)、#3に登場したサソリ男(→サソリオーグ)、#8に登場した蜂女(ハチ女→ハチオーグ)ではあった。他には、#6に登場したカマキリ男と#7~8に登場した死神カメレオンなる怪人をダブルモチーフとした「KKオーグ」なる怪人も登場させている――カメレオンの英字スペルの頭は「K」ではなく「C」なのだそうだけど、細かいことは気にするナ。今時の作品だから、きっと後付けの設定(笑)もあるのであろう――。


 世代人や古参マニア間でも人気が高かった、これら初期怪人をセレクトしたこともまた、スレたマニアとしては驚きはなかったけれども、ハズしてみせればイイわけでもないことを思えば、妥当といったところだろう。


 『仮面ライダー』シリーズでは、本作『シン・仮面ライダー』にかぎらずシリーズの折々に原点回帰が目指されてきた。あるいは、原点回帰とは程遠いような「ライダー」作品であってすら、TV版初作や石森マンガ版(共に71年)の#1~2に対するオマージュとして、その序盤ではクモやコウモリをモチーフとした敵怪人を登場させることが散見されてきた。
 早くも昭和ライダー4作目『仮面ライダーアマゾン』(74年)#1では、怪人ならぬクモ獣人、#2でも獣人吸血コウモリ。再開なった第2期・昭和ライダーシリーズの1作目であるスカイライダーこと『仮面ライダー(新)』(79年)でも、#1でこそなかったものの#2にてクモンジン、#3ではコウモリジンならぬコウモルジン。
 第3期・昭和ライダーシリーズの1作目である『仮面ライダーBLACK』(87年)#1にもクモ怪人。同作に登場したコウモリ怪人に至っては、#1を筆頭にイレギュラーキャラとして終盤まで登場しつづけるかたちともなっていた――その変化球な処置自体には賛成ではあったけど、そのワリにはなかなかに倒せない特別に強い怪人だ! といった描き方でもなかったあたりで、往時もうイイ歳であった筆者なぞは腑に落ちなかったものだけど(笑)――。


 平成になってからでも、単発映画『仮面ライダーZO(ゼットオー)』(93年)にはクモ男ならぬクモ女とコウモリ男が登場。いわゆる平成ライダーシリーズでも、その第1作目となる『仮面ライダークウガ』(00年)#1と、『仮面ライダー龍騎(りゅうき)』(02年)#1~2では、クモをモチーフとした敵怪人がその1発目であった。
 ビデオ販売作品を映画として少数館で先行公開することで映画作品扱いとしていた、本作と同じく『仮面ライダー』初作のリブートが目指されていた『仮面ライダー THE FIRST』(05年)では何をか云わんや。タクシー運転手の板尾創路(いたお・いつじ)がスパイダー、黒マントの津田寛治(つだ・かんじ)がバットと、英単語そのまんま(笑)の名前の怪人へと変身していたのだ。


 映画『仮面ライダー×仮面ライダー オーズ&W feat.(フィーチャリング)スカル MOVIE大戦CORE(コア)』(10年)の枠内でも、『仮面ライダーW』の10年ほど前の時代を舞台として、同作に登場する探偵事務所の初代所長役に80年代中盤からロック・ミュージシャンとして活躍してきた吉川晃司(きっかわ・こうじ)を主演として据えた「仮面ライダースカル メッセージforダブル」においては、やはりクモとコウモリをモチーフとした2体の敵怪人を登場させてもいる。


TV版#2へのオマージュ。血しぶきを改めてドー観る!?


 ところで、戦闘員との戦闘で見られた「血しぶき」描写は、マニア的にはTV版の#2「恐怖蝙蝠男」で少々見られた、それへのオマージュであったことはわかる。本作ではコウモリ男ではなくクモ男のパートの方にその役回りを移動させたワケである。
 もちろん庵野カントクとしては、ヒーロー(仮面ライダー)の「強大なる力」が否応もなしにハラんでしまう「暴力性」とその「危険性」をもここで表現して、それに対して高潔に過ぎる人格の持ち主でもあった主人公の本郷が、自身の能力とその行使に満悦するのでもなく、むしろキズついてしまって嫌悪してしまう姿を描きたかったこともよくわかるのだ。


 しかし……。それであっても、この「血しぶき」描写は必須であったのであろうか? 昭和ライダーシリーズのように「どうせ作りものなのだから」と割り切って(?)、あるいは戦闘員とはいえ相手も改造人間なのだから、「血しぶき」は省略して、その効果音も昭和ライダー的な太鼓や銅鑼を叩くような「ドーン」「ドーン」といったもので代用してみせたり(笑)、せめて血の色も「赤」ではなく「緑」や「黄色」や「黒」などにして、ショッキングではあるものの非現実的でもある……といった描写で中和・折衷しても罰は当たらなかったのではあるまいか?
 あるいは、戦闘シーンのすべてで「血しぶき」が飛ぶのではなく、最後の一手・二手だけで飛ばすとか……(場合によっては、背景全面が黒バックや白バックとなったところで血しぶきを飛ばすことでシンボリックにするとか)。同様に最後の一手・二手だけには骨が砕けたようなリアルな効果音を流すけど、それまでは昭和ライダーでの打楽器のような打撃音のみにとどめてみせるとか……。もしくは、流血部分の周辺だけを映像の明度を大きく落として暗くボカして、かえって想像力を喚起させることで残酷さを想起させるなど……。


 「PG12」指定を喰らってしまっては、庵野カントクが本作の映画パンフレットの寄稿で語っていた、「自分個人の最もやりたい事は、作品を多くの人にとって面白く感じてもらう事でした」……といった理念とはカナリ遠ざかってしまったようにも思えるのだ。



 世間一般的には「リアル」であると評されていた、庵野カントクが手掛けた怪獣映画『シン・ゴジラ』(16年)では、ゴジラによる都市破壊や自衛隊との戦いにおいては、実はそこで死傷していった瞬間の市民や自衛隊の隊員たちの姿は描かれてはいないのだ。血まみれになったり人体を損壊したような被害者や死人の姿なども描かれてはいない。映像ヌキでの音声のみでの断末魔の阿鼻叫喚! といった演出すらもがなかったのであった――体育館などに収納された風邪マスクを着けた静かな避難民といった描写だけでリアリティーを醸し出していたのだ――。


 個人的にはソコこそが同作のクレバーな高等演出でもあって、リアルでありながらもカルト映画にはとどまらずに、女性・子供・一般層にも間口を拡げられた妙薬でもありキモですらあったとも思うのだ。


 こういった演出トーンの統一は、意図的なものでなければできるワケがない――天然で無自覚にやっているハズはない!――。しかし、それではナゼに本作ではそういった意識から来る演出がほどこされなかったのであろうか?


鮮血! 暴力! 奇しくもドキュメント番組で答合せ!


 その答案用紙の答え合わせは、奇しくも「ドキュメント『シン・仮面ライダー』~ヒーローアクションの舞台裏~」での庵野の態度や発言で推し量れたのだけれど。


 当初は昭和ライダーシリーズのアクションを担当していた大野剣友会の殺陣(たて)のバージョンアップを目指すと云っていたのに、初っ端の対クモ男怪人戦での初撮影と編集チェックでその映像が気に喰わなかったかダメ出し再撮影をした末に、気が変わってしまったのかブレてしまって、ネット配信作品の大傑作『仮面ライダーアマゾンズ』(16年)では鮮烈なアクション演出を見せていた田淵景也(たぶち・けいや)アクション監督による殺陣案をことごとく却下! ワイヤー(吊り)も禁止して、変身前の役者さんにほぼ100%で変身後を演じさせ、殺し合いや泥試合にも見えるような殺陣へと要求を変化させていく。ラストバトルに至っては役者さんの3人に殺陣の組み立て方を一任してしまう!(汗)


 そういった意味でのリアル志向の延長線上としての暴力・血しぶき描写だったのではあろうけど、それらの是非については後述するとしよう。


 空振りの殴ったフリではなく、「アクションに『痛み』や『力感』がほしかった」のであれば、ライダーや怪人の拳がぶつかった瞬間、拳が当たった部位をアップ映像で挿入するなどのヤリようもあったのでは?


 個人的にはアクションには「爽快感」や「全能感」もほしいので、ライダーや敵怪人の全力のパンチやキックが命中すると、ワザとらしくてもワイヤーで遠方へと高速で吹っ飛ばされていくような派手派手なアクションが観たかったのだけど。
 それはウソだ! 不自然だ! ということであれば、そこでこそ「旧1号編」#1の竹本弘一(たけもと・こういち)カントクによる「コマ落とし」編集の数秒ならぬ数コマ単位による現代版の出番でしょ! あるいは、敵味方の身体ともに「プラーナ」で満たされているので、その原理で通常の物理法則とは異なる吹っ飛ばされ方をするとかのウラ設定でサ(笑)。


旧1号~2号~新1号編・マンガ版の再構築、ジャンル史かつ私小説味も (加筆部分)


 本作はTV初作の#1のクモ男、#2のコウモリ男、#3のサソリ男、#6のカマキリ男、#7の死神カメレオン、#8のクモ女といった、序盤13話の「旧1号編」の人気怪人をセレクトして、未登場に終わったものの#9~10に登場するコブラ男がラストに出現したとの体となっている。


 とはいえ、敵怪人の不気味さはあまり強調されていない。何よりも改造人間にされてしまったことの苦悩といったことも描かれてはいなかった。その意味で実は「旧1号編」的ではないのだ。どころか、2号ライダーが登場して、終盤ではTV初作の終盤やマンガ版の中盤とも同様に敵の量産型ライダーも出現! ラストでは側部に2本線の白いラインが引かれてメタリックなライトグリーンの仮面となった新1号ライダーまでもが登場!


 「アンチショッカー同盟」はTV初作終盤の偽ライダー編に登場していた世界規模の組織からの引用だ。片手を挙げれば日本の諜報組織とも連絡が付くという設定もまた、TV初作後半の「少年仮面ライダー隊」からの引用でもある。「仮面ライダー1号」や「2号」ならぬ、「仮面ライダー第1号」や「第2号」といった名称もまた、TV初作での初のダブルライダー共演編のナレーションなどにおける彼らの名称からの引用でもあった。


 しかもラストで、マンガ版同様に1号と2号の精神は一体化を果たしている。その意味ではTV初作の旧1号編・2号編・新1号編に加えて、マンガ版もシャッフルした上での再構築であったのだ(メタ要素としては、TV初作にて本郷猛を演じた藤岡弘の撮影中の左脚骨折も再現・汗)。


 特撮作品のみならず、アニメもチェックしてきたマニアであれば、ハチ女が旧知のヒロイン・緑川ルリ子を「ルリルリ」と呼ぶのは、庵野が手掛けた巨大ロボットアニメの金字塔『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)の意志薄弱で薄幸そうな銀髪ショートカットのヒロイン・綾波レイ(あやなみ・れい)モドキの第1号であった、やはり日本のアニメの金字塔『宇宙戦艦ヤマト』(74年)を脱構築した『機動戦艦ナデシコ』(96年)の銀髪ツインテールの幼女ヒロインであるホシノ・ルリのアダ名でもある。


 本作『シン・ライダー』の一応のラスボスであるルリ子の兄・イチローの名前は、『キカイダー01』の人間態での名前、彼が変身した怪人は青い蝶(ちょう)がモチーフであったところで『イナズマン』、変身ベルトに風車が2つ付いているところは3号ライダーこと『仮面ライダーV3』と、マニアや世代人には石森ヒーローが多重露光されていることもわかる。


 そのイチローが目指していたことが(厳密には当初はルリ子の発案)、「ハビタット世界」なる、劇中では「霊界」だか「電脳世界」だか、はたまた超高度なアルゴリズム(計算式)で精神も数値化して電脳世界を通じて霊界とも直結できるようなテクノロジーであるのかも不明ではあったものの、全人類を肉体(暴力装置)のない精神・魂だけの存在に変換して、異世界へと送還せんとしていたことも明かされる。そして、ここは賛否が分かれたところなるも、『エヴァ』における、全人類を自他融解して一体化させて死者とも再会できる「人類補完計画」を露骨に想起もさせてくる。


 しかも、それを「ウソのない世界」と呼称! これは大英帝国占領下の日本独立を描いた人気アニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』(06年)における超能力の源泉である、心理学者ユング云うところの全人類の潜在意識下から通じている「集合無意識」の世界に人為的に接続して、全人類の意識を結合せんとした、暴君なのに繊細な大英帝国皇帝の言葉だ。


 本映画の一応の敵組織であるショッカーの設立者は、時系列上での発端でしかなく、すでに自死しているあたりでラスボスたりえないあたりも、『仮面ライダー龍騎』や『コードギアス』においてバトルロイヤルの創設者を退場させても、システム自体が自走しているので解決たりえず、闘争は継続していったことの引用だとも推測ができる――本作におけるそれは点描のみにとどまっているので、成功していたとは思わないものの――。


 多忙ゆえに庵野は近年の『仮面ライダー』作品は鑑賞できていないそうなので、それらの符合については、長い歴史を有してきたシリーズゆえの偶然の一致にすぎないのであろう。しかし、「ハビタット世界」を「霊界」だと捉えれば『仮面ライダーゴースト』(15年)、「電脳世界」と捉えれば『仮面ライダーエグゼイド』(16年)にも通じてきてしまう。本作『シン・ライダー』主人公・本郷猛の父親が警察官で、人質をとった犯罪者を言葉のみで説得しようとして刺殺されたあたりも、同様に銀行強盗事件で少女をかばって殉職した刑事だった父親を持つ警察官ライダーであった『仮面ライダードライブ』(14年)ともほぼ同様の設定であった。


 本作のショッカーの本体(?)が人工知能・AIであるあたりは、「ロボットの反乱」テーマでSF草創期からの古典的なテーマではあるものの、『仮面ライダーゼロワン』(19年)の題材もまたそうであった。その正体は電子データでもある人工生命体(機械生命体)が主敵であった『ドライブ』もまたここに当てはまろう。もちろん、演算の結果として地球環境保全のために人類根絶を決定した人工頭脳が敵であった往年の石森原作の巨大ロボット特撮『大鉄人17(ワンセブン)』(77年)の前例もある。


 本作のショッカーは「絶望した人間に救いを与える組織」だと設定されたが、『仮面ライダーウィザード』(12年)のテーマもまた「人間の絶望」で、実作では主要素材の「魔法」もカラめての「希望」も対置された。


 本作における人工知能の名前は「アイ」である。これをサポートしている、半身がスケルトンの人型人工知能キカイダーの見た目も想起させる「ジェイ」であったことで、キカイダーが人間としての姿を採ったときの名前・ジローも想起。そのジェイを改良した「ケイ」はロボット刑事K(ケー)こと『ロボット刑事』(73年)の姿であったことは云うに及ばず。


 

最も絶望した個人の救済の崇高さと限界。増長する個人。自制できる個人 (加筆部分)


 とはいえ、「元ネタ探し」もそれはそれとして楽しいものなのだが、それだけでもその作品の「本質」をエグってみせたことにはならない。
 ディテール面ではこういったオタクジャンルの長大なる歴史から来る膨大な作品群についての「記憶」も喚起させて粒立たせつつ、人間ドラマ面では「生きることのツラさ・失望・絶望」に苛まれてきた敵味方の各人が、最終的に選択してみせた多彩な選択の諸相についても本作は描いてみせることで、きちんとした「作品」としても成立させたかったのであろう。


 しかも、本作のショッカーが目指すのは、「最大多数の最大幸福」ではない。「最も深い絶望を抱えた少数の人間の救済」! イエス・キリストが「神の愛」を「99匹の子羊を残しても、迷子になった1匹の子羊を探しにいく」ようなものだとした説諭。その理念自体は崇高ではあるだろう。
 しかし、その1匹の子羊が、我々がイメージするような「弱々しい善人」であるとはかぎらない。多幸感や改造人間としての強大なる力を与えらえれた「絶望した個人」が、それを公共に適った有益なことに用いるとはかぎらない。復讐。力を発揮することでの全能感。自己絶対視。増長……。


 残念ながら、過去にいかに不遇をかこったとはいえ、そこに一応の救済や人生途上で足りていなかったカードをハリボテ式に補強したところで、悲しみや絶望を知る人間が即座に博愛的にふるまえるワケでもないものだとして描くのだ。それが本作におけるショッカー怪人たちなのだ。しかして、そんな万能にも近しい能力を付与されても、増長せずに自制ができてしまえる高潔なる人間として、本作の主人公・本郷猛も描くのだ。
 この両者の相違の原因はドコにあったのか? ミもフタもないことを云ってしまえば、天性からの持って生まれた「品性」になってしまうのか?


 とはいえ、その増長もせずに自制心にも満ちている理由は、過度にすぎる他者へのやさしさや遠慮にも起因している。しかしそれは同時に、本作の2号ライダーこと一文字隼人(いちもんじ・はやと)が本郷猛に云い放った、「やさしいヤツはキライじゃないが、やさしさと弱さは紙一重だぞ……」でもある。人間どころか動物の群れの中でも邪険にされて、闘争の場では情をかけて隙を見せたことで敗死することさえありうる要素なのだ。


 ただし、真の非暴力・絶対平和主義者であれば、無抵抗で座して死を待つべきであろう。けれど、彼は言葉での説得を悪人に試みて、死の間際にも家族ではなく犯人や人質の安否を気にした「私」よりも「公」な父を敬いつつも、同じ道を歩まない。「力」については限定付きで認めている。理不尽な「暴力」に対しては、対抗できるだけの「力」がほしいと願ってもいる。そして、そのために緑川博士に自身の改造を提案していたのだ。
 当初は仮面ライダーに変身したことで生存本能を強化されたことから来る暴力衝動を制御できなかった本郷だが、対ハチ女戦では寸でのところで必殺のライダーキックを当てることを避けてみせていた。シリーズ終盤では実は仮面の下で泣きながら敵怪人を殴っていた可能性が示唆された『仮面ライダークウガ』(00年)のように、「力」を条件付きで認めてはいても、その行使には実に慎重なる要件が必要とされているのだ。このあたりは、同時期に配信された『仮面ライダーBLACK SUN』(22年)における「暴力」観とは実に対照的である――優劣ではない――。


 そういった展開自体は実に誠実ではあったと思うものの、こうなってしまうと「力」の行使に「快感」が伴わなくなってしまうために、エンタメ活劇としてのカタルシスには乏しくなってしまうことも痛し痒しなのだ。


 話はズレるものの、イチローは絶望の果てに自分の外側にある「世界」そのものを変革しようとしてみせていた。本郷猛はそれに対して「世界」ではなく、まずは「自分」を変えようといった趣旨の説得を試みてもいる。
 ここもまた、賛否や議論が百出するところだろう。「自分」を変えることは結局は社会に対する一種の隷属であって「社会変革」ではないものとして批判をするのが左翼一般の流儀ではある。それもまた半分正しいのだ。
 しかし、矛盾のない「理想的な社会」があったとして、それを実現できたとしても、人間の社会から争い・不幸・絶望を消滅させることが可能であるかは怪しい。大方のインテリの間でマルクス主義が正しいと信じられてきた1950~60年代においても、恋する相手が自分ではなく別人を愛していた場合に、自身の願望が達成できないことの矛盾を共産主義社会は解決できるのか? といったことが一部で論じられてもきた――古代ギリシャの時代であれば、プラトンは婦人共有論を唱えていたが――(笑)。


 もちろん、この世の中にある矛盾や問題点についてもまた、それらの原因は一個・一意・一様では決してなかった。


●「国家」体制自体が原因を惹起している場合の問題
●「国家」以前の伝統的な「社会」が原因となっている問題
●「国家」や「社会」でもなく、いわゆる「親ガチャ」が原因である問題
●「国家」や「社会」ではなく、近隣に嗜虐的なイジメっ子がいた場合
●「国家」や「社会」や「親」も悪くなく、身心が弱く生まれついた個人
●「国家」や「社会」や「親」も悪くなく、該当個人が品性下劣な場合


 「国家」体制や「社会」が悪いのであれば、「自分」ではなく「世界」の方こそ変革をするべきだ。それは疑うべくもないことであろう。
 それでは、「親ガチャ」や性悪な「イジメっ子」と巡り合わせた場合にはドーするか? イジメっ子とイジメられっ子に握手をさせて同一空間で共生をさせるのか? それもまた否定はしないし理想でもあるのだろうが、理性だけでなく感情の動物でもある人間にとっては酷なことだ。中長期ではともかく短期的には、棲み分け・隔離・排除もまた必要悪であるだろう。
 国家・社会・親は悪くなくて、身心だけが弱く内気に生まれついた個人にとっては、他人とのコミュニケーションに乗り出していくこと自体が苦痛を極める。もちろん、周囲はやさしく配慮をすべきだ。しかし、配慮によって苦痛が緩和されることはあっても根治されることは有り得るのか?
 昭和の文芸批評家・福田恆存(ふくだ・つねあり)は、「99匹を救うのが政治。それでも救われない1匹を救うのが文学」だと語っていた。この「文学」とは広義で「文化」や「オタク趣味」も含むだろう。そこに浸ることで、または人格陶冶で「自分」を変えることもまた半分正しいのだ。


 そういったことどもを戦闘中の会話劇などでも通じて、過剰に湿っぽくもさせずにカラッと語ってみせることで、理不尽なこの「社会」と弱い「個人」とをつないでいる回路についても、映画『シン・ゴジラ』をネタにして人々に社会問題についても饒舌に語らせていたように、本作もまた二次的にはそういった議論の惹起もねらっていたのではなかろうか!?
 しかし実際には、本作はそこまで人々の情動を喚起させるだけのパワーは持ちえなかったのだ。惜しい。惜し過ぎる。もちろん、コミュ力弱者のオタクである以上は筆者もまたシミったれた人間ではある。よって、本作の鑑賞を重ねるほどに、その寂しさのようなものが琴線にもふれてくる。
――映画館での鑑賞では、オフマイク(遠距離からセリフを捉えるマイク)な音声かつ、良く云えばナチュラル、悪く云えばボソボソとしたセリフゆえに、即座には理解しにくかった怪人や主人公たちの心情描写が、公開4ヶ月後のアマゾン・プライムでの配信では聞きやすいので、配信用にセリフとSE双方の音量の比重も変更しているのではなかろうか?――


 それらのことをもう少しウマく、ショッカー怪人が庶民を襲撃する『仮面ライダー』っぽさの中でも、実現できなかったものなのか? 繰り返しの再見ではなく、初見だけでもエンタメ活劇として純粋に楽しめてこその、テーマ談義や文学的な芳香についての議論であるべきではなかったか?


映像演出的に欠点だと思えた点。世評は酷評でもOKだと思えた点! (加筆部分)


 腐れオタクの後出しジャンケンとしてのケチで恐縮だが、個人的には本作の「作品としての品位」をやや落としていると思えた箇所は、以下のとおりだ。コウモリ男が潜んでいる廃墟となった屋内コンサート会場の客席に千人規模で出現した、緑川ルリ子のクローンたちとその早すぎる消滅。ハチ女が支配する地方都市の夜の商店街における、本郷とルリ子の真後ろに行列のように付いてくる市井の人々。そして、蝶オーグとの泥仕合
 半面、ミニチュアまるだしな特撮や初期のショボいCGを散々に観てきた身にすれば、批判が渦巻いている工業地帯における1号vs2号の空中ジャンプ中のド突き合いや、終盤直前におけるトンネル内での偽ライダーたちとのCGでのバイク戦には個人的には不満はない(スミマセン・汗)。


『シン・ゴジラvsシン・ウルトラマンvsシン・仮面ライダー』希望!(笑)


 昨年に映画館で頒布されていた『シン・ウルトラマン デザインワークス』(22年5月13日発行)においては、アニメ&特撮ライター・氷川竜介(ひかわ・りゅうすけ)によるカンタンな10数個程度の質問に対して、聞いてもいないことまで含めて100倍返しの文量(笑)で返してきてしまう、庵野カントクに対するメールによる数万字にものぼる長文書簡インタビュー「『シン・ウルトラマン』手記」が掲載されていた。
 これだけの多弁症的な長文が余裕で書けるのであれば、それはもう並みの批評・感想オタクたちには太刀打ちできないし、脚本執筆などもお手のものではあっただろうな、といった感慨も抱かせてくれるものでもあった。


 現在のアラフォー世代は巨大ロボットアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の直撃世代であって、思春期に遭遇したこともあってか彼らの庵野カントクへの宗教的なまでの信奉には凄まじいものがある。と同時に、彼らの庵野カントクに対する真面目なイメージとは合わないからなのか、あるいは特撮ネタには疎いのか、「『シン・ウルトラマン』手記」における庵野カントクの幅広で硬軟自在なジャンル観がうかがえる発言については、引用がなされていないようであるのが残念でもあるのだ。
――00年代前半にはもう、深夜の1クール作品としての円谷特撮巨大ヒーロー『ミラーマン』(71年)リメイクや、10年代前半には空飛ぶ空中戦艦ものであった円谷特撮『マイティジャック』(68年)リメイクなどの企画を提出や考案までしていたことなど――


 庵野カントクは『シン・ゴジラ』の公開前にすでに『続シン・ゴジラ』の企画書を映画会社・東宝に提出しているとも語っている。その内容は60~70年代の子供向け映画ワク「東宝チャンピオンまつり」的な「怪獣対決物」だったともいうのだ!――しかも、『シン・ゴジラ』が苦手なヒト向けだったとのこと(笑)―― 『シン・ゴジ』の2年後の2018年公開を想定していたものの、東宝側がモッタイぶってしまったようで、時期尚早だとされてしまって、機を逸してしまったようなのだ。


 『シン・仮面ライダー』の興行収入は、『シン・ウルトラマン』と比較しても芳しくはないようだ。右肩下がりの興行となってしまった『シン』シリーズ。ここからの挽回を目指すのであれば、映画『シン・ゴジラvsシン・ウルトラマンvsシン・仮面ライダー』(!)を製作するしかないのではなかろうか!?


 都心で氷結されていたシン・ゴジラを解凍・復活させてしまったショッカー! 復活したシン・ゴジラと戦うためにシン・ウルトラマンが! そして、再生怪人軍団も繰り出してくるショッカーに対しては、ナゼだか肉体までも復活できてしまった仮面ライダー第1号(笑)も含めたダブルライダーなりトリプルライダーの布陣で立ち向かってみせるのだ!


――『シン・ライダー』に登場した「情報機関の男」である斎藤工(さいとう・たくみ)も「滝」は偽名で、その正体はシン・ウルトラマンこと神永新二(かみなが・しんじ)ですよネ?――


●DC社のスーパーマンバットマンワンダーウーマンなどが同一世界に存在する「DCエクステンデッド・ユニバース(DCユニバース)」
●マーベル社のスパイダーマン・アイアンマン・超人ハルクキャプテンアメリカなどが同一世界に存在する「マーベル・シネマティック・ユニバース


 この両者に対抗ができる、文字どおりの「シン・ジャパン・ユニバース」の実現! もう庵野には背水の陣でコレに挑んでもらうしかないだろう!? コレならば関係各社も再び大金を投じてくれるハズだゾ!(笑)


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2023年4月号』(23年4月2日発行)~『仮面特攻隊2023年準備号』(23年5月3日発行)~『仮面特攻隊2023年号』(23年8月12日発行)所収『シン・仮面ライダー』合評8より抜粋)


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