『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』(15年) ~ニュータイプやレビル将軍も相対化! 安彦良和の枯淡の境地!
『機動戦士ガンダムNT』(18年) ~時が見え、死者と交流、隕石落下を防ぎ、保守的家族像を賞揚の果てに消失したニュータイプ論を改めて辻褄合わせ!
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『新機動戦記ガンダムW』初期話感想
(文・T.SATO)
(1995年5月執筆・後日一部加筆)
敵機を撃墜するや、憑かれたような眼をして高笑いする凶悪主人公(笑)、テロリスト美少年主人公に「おまえを殺す」と宣言されていた美少女ヒロインが、芝居がかったポーズで手を差し伸べて、「早く私を殺しに来て……」とのたまう#1のラスト(演劇的にドラマチックでカッコいいけど半分は失笑。もちろん作り手はそのダブルミーニングをねらってる)、マンガチックなメカ義手の白衣の博士たち、とキャラにインパクトありありの『新機動戦記ガンダムW(ウイング)』。
『機動戦士Z(ゼ−タ)ガンダム』(85年)あたりと比べて、らしくないと前2作(『機動戦士V(ヴィクトリー)ガンダム』(93年)、『機動武闘伝Gガンダム』(94年))同様云われてしまいそーだが、『Z』の時点で『ガンダム』はすでにブチ壊された!(笑)ってなロートルなオイラにとっちゃ、もう私的に面白ければ何でもイイぞ。
リアルというよりハードぶりっ子、ストーリー展開のためのコマ・記号で血肉が感じられない80年代ガンダムとはちがい(異論のある人ゴメン)、主人公の性格は全然異なっても(笑)、第1作みたく人間の息吹が感じられる、人名覚えきれなくてもその人となりで、理屈でなく感覚の次元でキャラのドラマが理解できるノリが心地いい!
(脇役の旧弊な軍人たちのみ、悪いイミで80年代富野節のハートに伝わらない新劇調セリフまわしなのは閉口だけれども)
将来のマニア養成のため(笑)子供にもわかる直前作『Gガンダム』のようなガンダムもOKと考えていたけれど……ほどほど面白いから今年はコレでイイや(笑)。
あと#1の名作アニメ調ブルジョワ学校という舞台から、初期編は学園もの的小世界でのスリルドラマを! と期待したのはオイラだけ?(少女マンガ『おにいさまへ…』か?・笑)
作品およびドロシーについて・私論
(文・摩而ケ谷行久)
(1996年執筆)
『ガンダム』という名を冠する作品群は基本的に「戦争」というものを描いているわけだが、『新機動戦記ガンダムW』(95年)はいわゆる富野ガンダムの展開をベースにしながらもその描き方において異質な作品となっていた。
初期編において接点のなさが気になったキャラクターたちも、中盤からはモビルドールやゼロシステムなどの設定との兼ね合いによって徐々に各々の戦争観によって戦ういわば論客といったおもむきを見せはじめ、その戦いはほとんど思想討論と化していった。
つまり、富野ガンダムが「戦争状況」を描いた作品だったことに対して、『W』は「戦争論」について描こうとした作品だったということだ。
一連の富野カンダムが理屈寄りのようでいてその実キャラクターの人物を描く人間ドラマの面が作品性を支えていたことと比較して、『W』のドラマ手法やキャラクター設計は実質的にはあくまでも戦争論のための手段であり、一種の奇弁とも言えるものであった(それ故に『W』=キャラクタードラマという某アニメ誌などの評価には疑問も感じるのだがそれは余談)。
だからこそ一般兵士や民間人を描かない作品のトーンに少々不謹慎なものを感じながらも、最終回における敵役ゼクスに対する主人公ヒイロの抗弁を、作品テーマの帰着点として納得できたのだろう
(ちなみにこの手法、アンチ富野作品的というよりむしろ往年のリアルロボアニメ『太陽の牙ダグラム』(81年)『装甲騎兵ボトムズ』(83年)『機甲界ガリアン』(84年)『蒼き流星レイズナー』(85年)などの高橋良輔監督作品的という気がしないでもない)。
しかし、途中までは前述のとおりキャラクターの方向性にはあまりにも接点がなく、同一のテーマに乗せることさえ困難に思われた。
そこで色々と討論のための議題が送り込まれることとなる。
前作『機動武闘伝Gガンダム』(94年)におけるマスターアジアの「痛みを伴わぬ勝利が何をもたらすか?」との糾弾(でもあの作品は言わせるだけだったけど・笑)を象徴化したような無人兵士モビルドールや、その一方で人間の意思判断重視による危険性を象徴している価値観洗い出し装置ゼロシステム、あるいは完全平和という理想の象徴である王国サンクキングダムおよび女王リリーナとそれは人、ものを問わず投入された。
そこでドロシー嬢についてである。
ドロシーというキャラクターはリリーナの完全平和の理想に対するアンチテーゼ、つまり戦争という現実の象徴であり、その意見はいわゆる「完全平和など実現出来るわけがない」的な安直かつ悲観的なものではなく「戦争はあなたのような人が命を狙われる所から始まる」という過去の歴史に則ったものであった
(この台詞から戦争状況から距離を置きつつ戦争というものを正面から見ているというある種の不謹慎さが感じられるが、この不謹慎さは『W』という作品自体の特色でもあり、それを前面に押し出すことでドロシーは実にこの作品らしいキャラになったともいえる)。
また、初登場回における「はやく戦争になーあれ」というセリフ(それにしてもスゴイセリフだ)などから分かるように戦争を肯定しているという点でも戦争終結を望む大多数に対する痛烈なアンチテーゼ存在であった。
しかしアンチテーゼはアンチテーゼでしかなく、それだけでどうといったものではない。ドロシーというキャラクターの真価はそのような発言に至るバックボーン、思想の一貫性であった。
一見、人間の闘争本能について指摘した一種の性悪説なのだが、そこからは戦争肯定には直接つながらない(性悪説というものは人間を善に向かわせるための思想であるから)。
ドロシーの理論を支えているのは人間のあるがままの闘争本能を肯定しようとする姿勢であり、それはつまり不完全な生物としての人間の意思を善悪無視して肯定していくということである。それはあのロボアニメ『勇者警察ジェイデッカー』(94年)の名セリフ「善でも悪でもいい、わたしに力を!」を思想の域にまで高めたものとも言える。
それによってドロシーは戦争が起こる必然、それをなくそうとする意思、それを引き金にして戦争が起こってしまう皮肉などを皆引っくるめて人間賛歌として認識していたのであろう。
リリーナの降伏もデルマイユの戦死もドロシーにとっては共に賞賛に値するものなのだ(この死を肯定しているという点も平和主義の大前提とも言えるヒューマニズムというものへのアンチテーゼとして痛烈である)。
しかし、突き詰めるとドロシーの思想というものは人類が人類らしく滅びるならばそれもよいというものであり、当然作品上は否定されるべき存在であった。そう、否定される必要があったのだ。
しかるに、最終章におけるドロシーの顛末はとても腑に落ちないのだ。
「実はドロシーも戦争をなくしたいと思っていた」などという展開自体矛盾と思えるが、説得力のある真相が明かされるのであれば唐突さは罪ではない。
つまり真相を「父親が自分たちを守るために戦いに赴いて死んだことによるトラウマを防衛するために現在のような理論に傾倒した」と書こうとしたところに大いなる無理があった。
もしそうならば父親の死についてあのような非難的口調で語られはしまい。父親も人間の生き方を全うした、と語られてしかるべきである。
あるいは当時無理やり押さえ込んで納得したままだった感情がゼロシステムによって蘇ったと解釈することも出来るが、そもそもドロシーのような考えをもつ者は自分で戦ったりしないものなので、ゼロシステムを使うという展開自体にも作為を感じてしまうのだ
(それさえもリリーナの行動に感化されての結果という逃げ道が残っているのだが、そこまで行くともはや深読みを楽しんでいる気にもなれないぞ)。
思うに、制作スタッフがストーリーを決着させるにあたってドロシーというキャラクターを扱いかねた、というのが真相ではないかというのが現時点での筆者の判断である。
ドロシーの理論はストーリー自体をも相対化してしまえるものであり、作品を見て来た限りそれを論破できるキャラクターはいなかった。
そこで制作スタッフは作品『W』という大の虫を生かすためにドロシーという小の虫を殺すという選択をしたのではなかろうか。バランス論としてその選択は正しい。
だが、かつて『機甲界ガリアン』という作品においてドロシーと同じく人間肯定の思想によって行動するマーダルという敵役が主人公ジョジョに対して軍門に下り協力せよと迫った時、ジョジョは決然と「分からない、分からないけど、お前は間違っているはずなんだ!」と突っぱねた。
そういう名シーンのあったことを思い返すと、ドロシーについても他にやりかたがあったのではないかと悔やまれるのだ。主人公であるヒイロとの対決(戦闘という意味ではない)を見たかった、というのが本音である。ある意味、実際の本編においてはそれを避けるために問題のすり替えが行われたと言っても過言ではない気がするのだ。
好きな作品に(しかも入れ込んでいたキャラで)致命的矛盾があることはやはり悔しいもので、願わくばこの論を否定する新たな意見の発表されることを大いに期待する。
ただ『W』という作品全体の顛末としてどうしても気になるという所はその点のみであり(細かいことなら結構あるが)目指したであろうところの「戦争論」になりえた本作は筆者にとっては誠実な作品と感じられてもいるのである。
つまりそれ故にこそ問題点も指摘しておきたかった、ということで『W』という一作品についての個人的な感想としたい。
ゼロシステム私論 〜現実的認識力の拡張 ゼロは機械的装置によるニュータイプか?
(文・T.SATO)
(1996年2月頃執筆・後日一部加筆)
『新機動戦記ガンダムW』(95年)後盤に登場するマシン・ゼロシステム。
それは、“戦術”レベル(敵を倒すのに刀かヤリかというヤツ)のあらゆる可能性のみでなく、“戦略”レベル(本隊は正面に、副隊はヨコから衝くというような)ですらなく、“政略”レベル(政治・外交とかサ)の可能性までをも、搭乗者・着用者に呈示できるマシンなのか!?
着用者の器量に応じたビジョンを見せて、あるいはその器量がない者は、その過負荷に精神が耐え切れない。
古来ここまで観念的なマシンがあっただろうか!?(あるいはその逆に、もっとも即物的なマシンだともいえようが)
その器量がない人間には扱えない。つまり頭の中でだけの論理は構築できても、外向きの影響……自分がこう動けば(あるいは他人をこう動かせば)、ココがこーなってアソコがあーなって影響はどうなって、という人間関係やらのビリヤード的力学関係を瞬時に認識できるような器量(これも別種の論理ではある)がなければ使えない、つまり筆者のような人間には絶対に手に負えないシステム。
オタクな筆者には、知識や類推はできても実感としてはよくわからない世界(笑)。
が、筆者にとっては好ましくても、ここまで来るとフツーのアニメファンにはわかりにくいだろう。アニメファンには極度の政治オンチ・政治アレルギーも多いしネ。間口の狭い、悪い意味でのマニア向け作品を否定しつつも、自分はやっぱりしょせんはマニアだナ(自嘲)、と思うのはこんなとき。
地球や宇宙側はじめ三つの勢力の各人が、ゼロシステムを使うことで自らの立場と器量に応じた認識を果たし、それぞれなりの政治的・戦略的選択を取る。
好敵手ゼクスが宇宙コロニー軍の総帥になることを選択するなんて、ご都合主義だしムリもあるので半分は笑ってしまうが、作劇的意図はまぁわかる。
書いてて今思ったけど、イメージ乱打カットで政治的選択の可能性を、絵で見せればまだわかりやすかったのかも。たとえベタで通俗的な表現だとしても。
『W』の展開を見てるとヘーゲルの歴史哲学の『歴史は絶対精神(≒理神論的な神)の自己展開』、自己流に、まったく自己流に解釈するところによれば(笑)、歴史(≒神)はありとあらゆる考えられ得る可能性(聖俗にかかわらず)のすべてを立体的に試しているという、まぁ詭弁なんだけれどそんなことをふと……思い出しゃしねーョ(笑)。
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