假面特攻隊の一寸先は闇!読みにくいブログ(笑)

★★★特撮・アニメ・時代劇・サブカル思想をフォロー!(予定・汗)★★★ ~身辺雑記・小ネタ・ニュース速報の類いはありません

仮面ライダークウガ 〜前半合評2 リアルか否か? 大人向けか否か?

『仮面ライダークウガ』評 〜全記事見出し一覧
拙ブログ・トップページ(最新10記事)
拙ブログ・全記事見出し一覧


『仮面ライダー』シリーズ評 〜全記事見出し一覧


仮面ライダークウガ 〜前半評④ 『仮面ライダークウガ』初期編所感

(文・sugi
(2000年上半期執筆)

「♪ 一万年の昔から 目覚めた勇者は、僕らの仲間だ、友達だ」?

 正直なところこの番組が2ケタとれたというのは意外な気がしている。
 なにせ『TVガイド誌』やホビー誌などの高寺成紀(たかてら・しげのり)プロデューサーのインタビューが不安感ばかりあおってくれるものばかりだったからだ。例えばこんな具合にだ。


 「従来の東映のお約束手法を乗り越えて云々」


 → 「何を今更。そんなモン、95年のオウム事件絡みでヒーロー番組が袋叩きにされていた時に真っ先に戦隊がしなけりゃいけなかったことでしょうが。一番最初に逃げたくせに」


 「戦隊は事件が起きても警察も軍隊も出ない世界」


 → 「で、代わりにあげた世界観が今更の『Xファイル』(95・アメリカ)? 自社作品が誰のため、何のために作られているのかすらもわかっていないな、コイツは」


 さらに個人的な話で申し訳ないけど、先にあげた例えの通り、小生は96年に高寺が初チーフプロデューサーを務めた『激走戦隊カーレンジャー』(96・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20110521/p1)に関するインタビュー記事(確かマニア誌「B−CLUB」に掲載された記事だった)を読んで以来、高寺氏の感覚に不信感を持っているので、彼が陣頭指揮に立ってまた番組を作ると聞いた瞬間、非常にいやな感じも抱いていたのだ。
実際、ハイビジョン撮影を使って「従来の東映子供番組の手法を乗り越えて云々」とか云っていた画面作りの第一印象は、正直にいうと「単なるVシネマじゃん。日曜の朝に何やってんだ、コイツら」ってなもんだったし、「従来の東映子供番組の手法」の一つである1話完結連続活劇形式や、AパートBパート一回ずつの仮面ライダー登場が廃された結果、テンポが妙に悪くなっているような感じも否めなかった。


 だが、その「クウガ」は、意外にも視聴率的には善戦しているというのが少々意外な気はしている。
 00年1月末の開始当初が9%前後、10%少々が2回ほどあった後、4月後半から少し落ち込んだようだけど6月に入ってから11%前後と、また伸びる兆しが見えている。
 今子供番組系で15%とるのが非常に難しい時代であり、昨年度の前番組『燃えろ!! ロボコン』(99)の視聴率が9月第一週の11%台をピークに後はひたすら落ちていき、最終的には6%前後だったことなんかを考えあわせると、なかなかの成果といえる。
 まあ、そのあとの日曜朝8時30分の時間枠の女児向けアニメ番組の方が『クウガ』より数字を取れていることや、同じ日曜朝8時枠の過去の東映メタルヒーローとの比較でも、15%近くまで上昇したレスキューポリスシリーズ(『特警ウインスペクター』(90)『特救指令ソルブレイン』(91)『特捜エクシードラフト』(92))や『特捜ロボ ジャンパーソン』(93)の頃のソレに比べて低いとか、ライダーブランドでメディアの俎上に載せられた効果を考えあわせた場合の数字としては弱いともいえるけど、少なくとも一度かなり落ち込んだ枠の数字としては、そこに何かあったと考えられる。


 そこで、今回は同じく大ブランド力を持ちながら、視聴率的には『ウルトラマンティガ』(96〜97・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961201/p1)前半時の9%後半が最高で、後はひたすら落ちる一方だった平成ウルトラや、『ロボコン』のケースと比べてみた場合の『クウガ』の強みって何か、ということをいくつか考えてみようと思う。


 まず目につくのが、やはりビデオ撮りにした効果だ。
 例えば平成ウルトラは、「ウルトラなのにビデオ録り?」という一部マニアの不平の声があったが(実際はフィルム撮りのテレシネビデオ変換、ビデオフォーマットにて編集と合成)、『クウガ』はあえてビデオ録りにした。
 よく「フィルムの世界は異空間」というけど、逆にいうとそのカウンターとしてのビデオ録りっていうのは現実的雰囲気に近い絵になるってことだ。
 何話だったか覚えていないけど、敵種族グロンギの怪人の予告殺人を受けて警察が待機しているシーンのロケ地に東京は新宿区の大久保公園の近所が使われていたことがあったが、実は筆者は大学(というよりサボッて麻雀していた時の(笑))の帰り道によくあの辺りを歩いていた記憶がある場所なのだ。
 同じ見慣れた地でも、“フィルムの”ロケ地と“ビデオの”ロケ地と実際に見る感じは当然違うわけだ。
 フィルムで見た場合の風景っていうのは逆にその異空間性が邪魔をして、あまり身近に感じられなかったりするのに対し、今回の大久保ロケは逆にもう少し“グロンギ”という敵が持つ感覚、つまり例えば我々ロートル・年配マニアが子供の時分に持っていたショッカー怪人(『仮面ライダー』初作(71・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140407/p1)の敵怪人)が道に出てきたら嫌だなという感覚に近いモノを再現してくれていた。


 またそれに対してヒーロー・クウガに関して目につくのが、特に主人公の妹の勤める保育園の子供達なんかの眼を媒介にして、意外に子供の味方、という描写を何度も挿入させていることだ。
 映画『ウルトラマンティガウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦』(99・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19981206/p1)の監督小中和哉氏が、劇場で子供達が映画を見ているときのリアクションの特徴として
 「ウルトラマンや怪獣が出てきている時はともかく、人間ドラマが続くと急に飽きがきて騒ぎ出す。でも同年代の子供が写った瞬間に、急に再び画面に目線が戻る」
 と語っていたが、つまりこういう子供がらみの描写が出てくるっていうことは、それだけで子供達の耳目をひきつけられるということでもある。
 (もちろん小学校中高学年以上になると、あるいは我々のように小さい時からオタク予備軍の幼児は、子供番組での子供達の描写を気恥ずかしく思ったりするものだが、それはここでは除外して、あくまでメインターゲットの未就学児童や小学校低学年の一般多数の反応のことを云わせていただく)


 また、これはそもそも『クウガ』に限ったことではなく、ヒーロー番組というジャンルが子供に強い理由でもあるのかもしれないが、そういう“子供の仲間”が、先述の“夜道のどこかにいそうな怖い奴”と闘って自分達を守ってくれている、という頼もしさの描写にもなる。
 その観点から云うと、クウガがわりと早い時期に、子供に近い世界にもいてくれる存在であることを打ち立てられたのは、今後大きいのではないか。
 ちなみに平成ウルトラの場合、そういう子供の世界とリンクした部分っていうのがあまり感じられなかったし、『ロボコン』の場合それはあっても作風の違いだから当然だが彼ら子供達を守りぬける憧(あこが)れる存在ではなかった、と小生の目には写ったのだ。
 こういうメインターゲットへの配慮のノウハウは恐らく東映という会社のコンティニュティー(継続性)の産物でもあり、またメインライター荒川稔久(あらかわ・なるひさ)の、意外に子供を描くのが上手いという良心の部分の産物なのかもしれない。


 と、まあ分析していくと、実は意外にこの番組は「仮面ライダー」の……子供番組としてのポイントは押さえているのかな、なんて最近は思っていたりする。


 まあ、警察云々(うんぬん)も、「クウガ世界の警察 = 実写版『ジャイアントロボ』(67・東映)の世界的防衛組織ユニコーン的な存在」とでも解釈できなくもない訳だし。
 (つまりリアルな警察、っていうよりはあくまでヒーローのサポート機関を現実の組織に当てはめてみた例え話って意味ね。念のため)


 しかし、これで数字がホントに伸びて『クウガ』的ヒーローが一般化なんかして、あんなVシネマもどき路線での過去作ヒーローのリメイク大流行りなんていったら、子供番組業界にはきちんと子供と向き合って、対子供であるが故の新ネタ路線をと望む小生にとっては目も当てられんし、またどうしても素直には喜べん、というのもまた個人としての正直な感想ではある。


 まあ、まだ11%くらいじゃそこまでのムーブメントにはならないだろうし、視聴率絡みの結果は、元々この枠が夏枯れが激しく秋口でどのくらい数字を取り返せるか、で“路線”としての成果が決まることの多い枠であることなんかも考えると、いささか早計な判断といえなくもないが、少なくともどういう結果になるか、だけは見ておくべきなのかもしれない、というのが現段階での中間判断としておきましょう。
 (裏の本音:ああ、こんな高寺路線にあと半年もつきあわなきゃいけないのかと思うとアタマが痛い……(泣))


(了)


仮面ライダークウガ 〜前半評⑤ リアル路線について

(文・仙田冷)

●リアル路線について

 今回の新作『仮面ライダー』はリアル路線でいくと聞いた時、また設定のディティールにのみ凝りまくった、或いはひたすらダークサイドの人間ドラマに突っ走った作品になるのではと不安だった。
 しかし実際の作品を見ると、むしろ雰囲気的なリアリティという方に走っていたので、とりあえず一安心というところである。


 それゆえに、「リアル=マニア向け」という単純な図式のみで本作を否定する意見を読むと、何だかな〜という気分にもなる。
 これまでの「リアル路線」を謳(うた)った作品の大半が、冒頭にあげたような勘違いをしていたのは事実だが、「リアル=マニア向け」という短絡的な決め付けに基づいて否定するというのは、私に言わせれば「リアルだから」という理由だけで本作を過剰に持ち上げる(アンチリアル派が毛嫌いするタイプの)マニアと、一枚の紙の裏表にしか見えない。


 話を本作に戻そう。
 何しろ、ただでさえ日曜の朝に見るにはいささかしんどい作風な上、『ビーロボ カブタック』(97年)『テツワン探偵ロボタック』(98年)『燃えろ!! ロボコン』(99年)と敵組織との抗争がないほのぼの路線が続いた後だけに、いつまで現状の路線でねばれるかが不安だが、願わくば、殺しの描写が減る程度の路線変更でとどまって欲しいものである。
 もっとも視聴率は10〜11%前後と概ね好調だし、聞くところでは玩具の売れ行きもいいらしいから、その辺は単なる杞憂になりそうだ。


●未確認生命体について

 怪人が人を襲って殺す。
 初期のライダーシリーズでは結構ありふれた光景だが、本作は久し振りにそういうノリのヒーロー物だ。
 ただし、当時の怪人たちとグロンギの怪人では、一つ決定的な相違がある。


 悪の秘密結社ショッカーなりデストロンなりの怪人による殺人は、あくまでも能力や新兵器の実験とか口封じとかいった「目的」のための「手段」だったが、グロンギの怪人(いわゆる「未確認生命体」)による殺人は、殺人自体が目的化している。
 首領と思われる未確認生命体第0号には何か考えがあるのかも知れないが、一般怪人のレベルでは、episode22「遊戯」で第31号・カメレオン種怪人メ・ガルメ・レが言ったように、一定のルールに基づくゲームであるという認識しかない。


 彼らも言葉は操るものの、グロンギ語では何言ってるのか分かりゃしない。
 それにコミュニケート出来たところで、話し合いなど成立しない事は、既にepisode14「前兆」で第23号・ピラニア種怪人メ・ビラン・ギが証明している
 (「獲物だ!」の一言だけで彼我のメンタリティの差を印象づけた演出は見事の一言。お陰でゲスト・蝶野はあっさり道化と化したのであった……)。


 特撮番組多しと言えども「コミュニケート不能の無差別殺戮者」タイプの敵キャラクターは、私が知る限り『ウルトラマンレオ』(74年 円谷プロhttp://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090405/p1)にしばしば登場する通り魔宇宙人しか類例が思い付かない。
 そんな彼らは、繁華街や駅の構内に車で突入して暴れたり、縁もゆかりもない老婆を「殺人経験をしたかった」などという理由で殺したりする、得体の知れないブチ切れ野郎が後を絶たない昨今の目で見ると、奇妙なリアリティを感じさせる
 (級友を眼前で殺された子供や、あのバスジャック事件の被害者にすれば、犯人の少年は正に、未確認生命体以外の何者でもなかったはずだ!)。


 そう、私にしてみれば未確認生命体とは、自己中心的な行動原理でしか動けず、それによって生じる周囲の精神的・物理的な被害など想像すら出来ない奴等の象徴に見えるのだ。
 何も新聞沙汰になるような連中だけではない。無実の人間に痴漢の罪をなすりつけて恥じない一部の女達や警察。公共の場でギャアギャア騒ぎ、他の一般客から顰蹙を買ったにも拘らず、一向に行いを改めない奴。自分と反りの合わない同僚を、上司のストレスに付け込んだ卑劣な罠にはめて追い出した卑怯者。
 私が聞いただけでも、枚挙に暇がない。昔からそういう自己中な手合いはいたのだろうが、最近とみに増殖している印象がある。
 その暗喩が、本作の「未確認生命体」であると見るのは、穿ち過ぎであろうか?


●今後の『クウガ』について

 episode15「装甲」を見ていて気付いたのだが、クウガは実は「救えないヒーロー」なんじゃなかろうか?
 確かにクウガは強い。確実に怪人を倒している。しかしそれでも、episode23「暗躍」の時点で千人を越える犠牲者が出ている。要は、クウガ一人では手が回らないのだ。


 これに関連して、本作のインターネット上のHP(ホームページ)に掲載された脚本家・荒川稔久(あらかわ・なるひさ)のコメントに、興味深い一節があった。
 私の記憶が確かなら「強力な敵を前に、人間たちが団結していくということもあるだろう」といった意味の一文である。
 もしかすると今後の本作は、「自分の命や生活を守りたいなら、一人のヒーローに依存するだけでなく、自分の出来る範囲で戦え」という事を訴える方向に行くのではなかろうか。
 未確認生命体がある種の人間(に一応カテゴライズされている生命体)の暗喩であるならば、なおのことである。


 「そこで例えば自警団の暴走みたいな事になるのもイヤな感じですけど」
 「そーそー、疑わしきは罰せよ式に、魔女狩りおっ始めるとかさ」


 それが不安なんだよなぁ……って、誰だ今の。


(了)


仮面ライダークウガ 〜前半評⑥ クウガ、熱く甦れ(べたなタイトル)

(文・ヤフール)
 少々唐突な出だしだが、特撮雑誌『宇宙船』VOL.91(2000年冬号・朝日ソノラマ・2月1日実売)の『仮面ライダークウガ』(2000年)の新番組の告知の記事によると、
 「子供番組でありながら、親の鑑賞にも耐えられる作品を」
 という意図を持って『クウガ』は製作されているという。


 だが、これはなにも『クウガ』に始まったことではなく、15年以上前の堀長文(ほり・ながふみ)氏(テレビ映画監督・1988年以降は東映プロデューサー)参加以降の戦隊シリーズ(『超電子バイオマン』(84年)以降)、および東映キャラクター作品の、ほぼすべてがこれに当てはまっていることで、重大な事件ではない。
 その証拠に、『テレビマガジン特別編集 スーパー戦隊大全集』(講談社・88年・ISBN:4061784080)には堀長文氏自身のインタビューでそういう発言があるし、同じ本の長石多可男(映画監督・『クウガ』にも参加)のインタビューでも、子供の目だけでなく、大人が見ても違和感のない世界を描いているとの発言がある。


 ここ10年でも、『宇宙船』VOL.59(1992年冬号・2月1日実売)の東映メタルヒーローレスキューポリスシリーズ第3作『特捜エクシードラフト』(92年)の新番組の告知記事における堀長文氏のインタビューでも、やはり大人と子供の両方の鑑賞に耐えられると欲張って始めて子供に受け入れられる(大意)という発言がある。
 また、『五星(ごせい)戦隊ダイレンジャー』(93年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20111010/p1)放送時期の鈴木武幸(すずき・たけゆき)氏(東映プロデューサー)と吉川進氏(東映プロデューサー)のホビー誌『B−CLUB』99号(バンダイ出版・94年・ISBN:4891895373)における対談記事にも、今は親が作品の感想を寄せてくることから親も子供と一緒に作品を見るので、親子そろって楽しめるエンターテイメントが求められており、今後はこういったこともふまえた作品作りが大切(大意)との発言がある。
 なので、この時期ぐらいからの作品も、親と子が共に楽しめる作品を一応制作者側は意図していたといえよう。


 つまり堀長文氏参加以降のほぼすべての東映ヒーロー作品は、制作者側はちゃんと大人も楽しめるように、というつもりで作ってくれているのだから、それにハマるマニアがいたって別に不思議ではない。
 なのに一部の排他的な特撮マニアは、リアル志向やマニア志向の井上敏樹脚本作品や雨宮慶太(あめみや・けいた)監督作品と『クウガ』以外の、近年のマイルドな東映作品にハマる特撮マニアのことを、あたかも幼児退行を起こしている、というような筋書きを作って揶揄したがっている気配があるので、釘を刺す上で先回りしてここに前置きしておこう。


 本題に入ろう。『仮面ライダークウガ』という作品は、大変新鮮な印象の作品に仕上がっていて毎週楽しみにしている。
 まず、リアル志向の作品でありながら、その方向性がちょっと捻ってある異色のリアル志向なのに意表をつかれた。
 企画書に書かれた本作の企画意図は、「現実の世界に、敢えて虚構のヒーローを存在させる」というものなのだそうで、これは則(すなわ)ち、リアル志向と娯楽的要素の融合を意味しているのだという。


 大概リアル志向のキャラクター作品というと、ヒーローや怪人といったキャラクター自体をリアルに描こうとするため、やや地味な印象の作品になってしまいがちだ。
 でも『クウガ』はその辺が違っていて、ヒーローや怪人のキャラクターは破天荒のままで、そのキャラクターに対する世間のリアクションをリアルにするという部分がユニークだ。
 この方向性は言わばロボットアニメで例えれば、リアルロボットアニメ『機動戦士ガンダム』(79年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/19990801/p1)で有名な富野由悠季(とみの・よしゆき)監督作品の『無敵超人ザンボット3(スリー)』(77年)に近いと言えないだろうか。


 逆に、ヒーローや怪人といったキャラクター自体をリアルに描こうとする作品は、過去の仮面ライダー作品では『真・仮面ライダー 序章(プロローグ)』(92年)があり、こういう方向性はロボットアニメで例えれば『機動戦士ガンダム』や『機動警察パトレイバー』(89年)に近いだろう。仮面ライダーシリーズ以外での東映作品では、一応東映メタルヒーローブルースワット』(94年)もこれに含まれるだろう。


 自分は、今までリアル志向の作品にはあまり興味を感じず、どちらかと言えば破天荒な作品のほうに興味を感じていた。
 いままでリアル志向の作品というのは、制作者側がリアルな方向の作品しか認めないリアル至上主義者であることが多く、これがひっかかってリアル志向の作品自体に強い抵抗を感じていた時期もあった。
 が、本作のように制作者側が破天荒な作品の価値を認めている上でのリアル志向の作品なら、抵抗なくたのしめる(この辺のスタッフの柔軟性は、ある意味破天荒な『ウルトラマンタロウ』(73年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20071202/p1)を認めつつもリアルな『新世紀エヴァンゲリオン』(95年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20110827/p1)を作った庵野秀明(あんの・ひであき)監督に通ずる)。


 『クウガ』のドラマは、破天荒なヒーローに対するある種の自虐的なアイロニー(皮肉)によって成立していて、破天荒なヒーローの魅力を作品中に存分に描きつつも、その一方でヒーローの存在が作品世界の中で異物になっていることを作品世界の登場人物自身が自覚しているという状況があり、この状況になんとも不条理(?)な魅力があるのだ。
 こういう『クウガ』の面白さを象徴したのが3話のラスト。怪人とクウガが対峙し、いざ戦闘が始まると思いきや、クウガも怪人と一緒くたにされて警察に包囲されてしまうという皮肉なシーンである。
 このシーンは、クウガ仮面ライダーとしての悲しみを描いたといったシーンと解釈するファンもいるかもしれないが、本作の製作にあたって、制作者側はクウガ仮面ライダーとしての苦悩は描かないといったコメントをしていることから、そういう意味のシーンではないと思われる。
 むしろ、超能力を持つ変身ヒーローという存在そのものが、現実社会にとっては理解不能な存在であり、そうなれば変身ヒーローは現実に存在すれば、人々から尊敬されるどころか、実はいろいろな誤解を受けてしまうというアイロニーなのだろう。


 リアルな作品を目指してヒーローや怪人自体をリアルに描くというのは、普通の人が普通に考えれば誰でも行き着く発想である。
 なのでこういう発想のリアル志向の作品というものは、筆者に言わせれば何やら凡人の発想という感じであまり刺激は感じない。
 しかし『クウガ』は先に述べたようにひと味違うリアル志向の作品なので気に入ってしまったのだ。
 ここらあたりに、やはり本作企画スタッフ(やはり高寺成紀(たかてら・しげのり)PD(プロデューサー)でしょうか……今回は一応石森プロ原作ということなので軽率に特定はできないが……)の非凡な才能を感じずにはいられないのだ。
 仮に『クウガ』がヒーローや怪人自体をリアルに描く作品であったなら、B級ホラーのVシネマみたいな作品に成り下がってしまったのは必至だろう。ビデオ撮りなのも相まって余計に……。


 本作はハイビジョン撮影作品であり、これは大変意欲的な試みではある。
 しかしやはりハイビジョンとはビデオ撮りと同義である以上、特にヒーローや怪人の着ぐるみの質感が、いかにもプラスチック然、ゴム然として画面に写ってしまっているのは残念だ。
 ここらあたり、やはり、せめて平成ウルトラのようにフィルム撮影、テレシネビデオ変換、ビデオ編集にしてほしかった(丸大ソーセージのCMはフィルム撮影、ビデオ編集で撮られているが、これを見るとやはり本編より迫力があるので余計に勿体なく思える)。こういうことはスタッフの意欲と熱意に水を差すようで本当に申し上げにくいのだが……。
 ビデオ撮りで特撮作品を作るということは、ハリウッドのスタッフですら手を付けていないことなので、下手に日本の映画人がやらない方が良いと思うのだが。
 我々日本特撮マニアはなまじ『電脳警察サイバーコップ』(88年・東宝)『電光超人グリッドマン』(93年・円谷プロ)『超光戦士シャンゼリオン』(96年・東映)といった作品を経て、ビデオ撮りの特撮に対して免疫ができているが、殊(こと)に一般の視聴者にとって、ビデオ撮りの特撮というものは恐らく安っぽくて視聴に抵抗を感じざるをえないだろう
 (ここでいうビデオ撮りの特撮とは、ヒーローや怪人の着ぐるみをビデオ撮影すること自体を含む)。
 これらのことから、本作がハイビジョン撮影だということは、本作の視聴者層の幅を狭めてしまっている原因になっている気がしてならないのだが……。
 東映が試験的にハイビジョンでどうしてもドラマが作りたいというのなら、『はぐれ刑事純情派』(88年〜)のような非特撮作品でやったほうがいいと思う。


 話を設定面に戻そう。
 ある意味、クウガグロンギといったヒーロー・怪人自体は、近年のヒーロー作品に割とありがちな設定である。クウガ自体の4段変身は過去に『仮面ライダーブラックRX』(88年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001016/p1)にも見られたアイデアだし、グロンギも太古に人類を脅威に陥れ、封印されていたという設定は『五星戦隊ダイレンジャー』などの戦隊シリーズの敵集団に多く見られる。
 クウガの中盤からの新戦力、バイクに合体するクワガタ型生体メカのゴウラムも、『重甲ビーファイター』(95年)登場のビートマシンを想起させずにいられない。
 近年のヒーロー作品に割にありがちな設定と言ってしまうとなんだが、クウガグロンギの設定は、最近の“東映バンダイ”ラインのヒーローとしていかにもというテイストだ。が、その範囲の中では大変カッコイイ設定であることも事実だ。
 逆にやはり今の視聴者(幼児プラスその親、及び若干のマニア・笑)からすれば、いかにも近年のヒーロー作品と感じるテイストでなければ、古臭い作品に見えてしまうだろう。


 そのうえで、『クウガ』ではこのクウガグロンギの設定を、出来るだけ従来の作品より緻密に劇中で描こう、という工夫も見られる。従来の東映作品でも実はこういうヒーローや怪人の設定はそれなりに作り込んである場合もあった。
 しかし、それら設定は作品内で説明されずに雑誌などで紹介される程度であり、しかも、それが書籍によって矛盾しているのが日常茶飯事だったが、『クウガ』は設定がほぼ全て作品内で説明されていて、作品に独特の緊張感を与えている。


 『クウガ』で、他作にない設定と言い切れるのは、怪人同士の言語の設定である。本作では怪人同士が彼ら独特の言語で会話するシーンが毎回流れ、これが強烈なインパクトを誇っている。
 グロンギの怪人自体はSF的でリアルな敵キャラクターではなく、ファンタジックで呪術的なキャラだ(どことなく『仮面ライダーV3』(73年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20140901/p1)後半のデストロン怪人のキバ一族・ツバサ一族・ヨロイ一族を思わせる)。
 なので、こういった部分への配慮は、リアルにするための配慮というよりは、それまで日本の特撮作品が誤魔化してきたことがままあった、設定の整合性への配慮であろう。
 確かにグロンギは超古代の文明の人間なのだから、その彼らが復活してからいきなり何の理由もなく日本語を喋ったらおかしい。
 筆者は破天荒な設定は好きだが、やはり単に誤魔化しだけのこういう設定の不整合性は、破天荒な設定とはやや次元が違うもので、できることなら回避してほしいと思っている。なので、グロンギのこの言語の設定は気に入っている。
 いまのところグロンギの一つのこういう部分は、グロンギという敵組織を視聴者にアピールするものとして有効に機能しているが、それに伴い敵キャラにドラマが作りにくくなる、といった弊害が生じてもいるようだ。
 この問題を解決するべく、最近は少しずつグロンギの怪人たちが日本語を覚えるという展開になっているようだが(覚えるのが随分早いような)。


 しかし、実は『クウガ』でこの類いの設定の不整合点が完全に消滅したわけではない。
 クウガがなぜ警視庁に正体を秘密にしなくてはいけないのかという部分に作品中に答えがないことや、警察が造ったバイク・トライチェイサーを普段から主人公・五代雄介(ごだい・ゆうすけ)と仮面ライダークウガが乗っているのに、雄介をクウガだと知らない人たちがそのことを不思議がらないといった点がそれだ。
 これらの点は、本作の最大の不整合点として敢えて指摘しておきたい(下手に説明を加えてまどろっこしくなるより、これはこれでいいけど)。


 いや、怪人同士が彼ら独自の言語を持っていて日本語が喋れないという設定は、果たして本作だけのものだろうか。
 そう考えると、過去の『仮面ライダー』(71年)では36話で怪人エジプタスが「アバラバラバラ! エバラバラバラ!」という彼独自の言語(劇中の設定では古代エジプト語・笑)しか喋れないという設定があり、グロンギの怪人と違いエジプタスは日本語を覚える間もなくライダーに倒されてしまう。
 また、『仮面ライダーアマゾン』(74年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20141101/p1)においては、怪人ではなく主人公のアマゾン自身が日本語はおろか言語自体を知らず、シリーズが進むにつれて日本語を覚えていくといった展開がある。
 『クウガ』のグロンギ語の設定は、考えようによっては、過去の仮面ライダーシリーズのこういった設定のバリエーションと解釈することも可能だ。


 人間ドラマの面に言及すると、『クウガ』は熱血ヒーローを否定するというコンセプトだそうで、このコンセプトは以前『クウガ』と同じ高寺PDによって製作された『電磁戦隊メガレンジャー』(97年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20111121/p1)の路線を受け継いだものだ。
 なので、主人公の雄介は自分が命がけの戦いをしているにも関わらず、そのことにさして苦労を感じず、自分の体に変異が起こってもそれほど動揺を見せず、少なくとも表面的には飄々としたキャラクターとして描かれている。
 本来命がけの戦いに迷いや苦労を感じず、自分の体に異変が起こってもそれほど心配しない人間などいるはずがなく、この部分はある意味リアリティーのない部分であるが、これは制作者側が熱血ヒーローを否定するため意図的に行ったものである。
 ヒーローが苦悩や苦労を感じ、その上で敵と戦おうとしてしまったら、その瞬間にその人物は熱血してしまうからだ。
 制作者側が熱血ヒーローを否定する意図は、やはり70年代以降に流行した熱血ヒーローというものが、ややヒーローのキャラクターとしてマンネリ化したことがあるためと思われる(1960年代以前に遡れば、ヒーローとは70年代以降の未熟さをも含む若い熱血漢といった感じではなく、品行方正・完全無欠な大人のオジサンといった存在であったのだが)。
 事実、この熱血ヒーローを否定するというコンセプトにより、『クウガ』も新鮮な印象の作品となっている。
 しかし、やはり命がけのことをやり遂げるのに苦労を感じない人は現実的にはいないわけで、やはり熱血ヒーローのほうが自然なキャラクターではあり、一長一短という感じではあるが。


 その一方で、本作は人間社会の描きかたはリアルにやるというコンセプトがある。
 怪人が事件を起こした時の社会の事件への対応は極めてリアルだ。警察は怪人による事件を対策本部を設置して捜査し、マスコミは怪人の出現をニュース速報で報じる。
 ここらあたりのリアリズムはなにやら『ウルトラマンレオ』(74年)の40話における、円盤生物シルバーブルーメの襲撃によって出た犠牲者の名簿が発表されるあたりの感覚に近いものを感じてしまうが……。


 このように本作は、一つの作品にリアルな要素と非現実の要素が共存しており、この部分を「チグハグ」「中途半端」と批評するマニアもいるかもしれない。
 しかし、考えてみてほしい。そもそもなぜSF幻想作品(特撮・ファンタジー作品)は、設定をあるときはリアルに、あるときは破天荒にするのだろう。
 それはいうまでもなく「作品を面白くする」ために他ならない。
 リアルな作品を製作するにしても、それは面白い作品を作るためリアルにするのであって、リアルな作品を作るためリアルにする、というのでは本末転倒であろう。
 さしずめ本作は、作品を面白くするために、「リアル」と「破天荒」のそれぞれの良い部分を抽出して一つの作品に再構成した「良いとこ取り」作品なのである。



P.S 『クウガ』のメイン監督・石田秀範(いしだ・ひでのり)監督はここんとこブレイク中ですけど、特に本作の8話「射手」(仮面ライダークウガ・ペガサスフォームの必殺技ペガサスボーガン初登場回)はこの人の演出作品の最高傑作では?
 実は以前から筆者も、石田監督には『クウガ』の前番組・東映メタルヒーロー枠の『テツワン探偵ロボタック』(98年)ぐらいから注目していて(当時はヒデ・I名義で監督)、『燃えろ!! ロボコン』(99年)の6話「アイドルになりたい!!」(脚本・荒川稔久)は筆者もお気に入りで何回も見返したけど、石田監督自身もお気に入りだとか。
 いまさらこんなこと言っても誰も信じてくれないかな〜。これだったら『ロボコン』放送中にどっかの同人誌に書いておくんだった〜。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2001年準備号』(00年8月13日発行)〜『仮面特攻隊2001年号』(00年12月30日発行)所収『仮面ライダークウガ』前半合評⑤〜⑦より抜粋)


[関連記事]