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仮面ライダークウガ 〜後半合評 「自衛のための共闘の肯定」と「過度な暴力の否定」 再UP!

仮面ライダーディケイド「アマゾンの世界」編(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090809/p1

『仮面ライダー』シリーズ評 〜全記事見出し一覧


 平行宇宙をまたにかける『仮面ライダーディケイド』(09年)最終回(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090829/p1)に、2本角(ヅノ)の仮面ライダークウガが正編終盤に登場した4本角の真っ黒き最強最終形態、仮面ライダークウガ・アルティメットフォームに超変身した姿で登場記念!


 ……とカコつけて、『仮面ライダークウガ』(00年)後半合評 を再UP!
 (来週日曜日付で、『仮面ライダークウガ』最終回・賛否合評(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090907/p1) も発掘UP予定!)



『仮面ライダークウガ』評 〜全記事見出し一覧
『仮面ライダークウガ』 〜前半合評4 ★前半総括・怪獣から怪人の時代来るか再び★


仮面ライダークウガ 〜後半合評 「自衛のための共闘の肯定」と「過度な暴力の否定」〜再UP!

仮面ライダークウガ 〜後半評1 旧『仮面ライダー』世代から『仮面ライダークウガ』へ

(文・黒鮫建武隊)
(2000年11月執筆)

1.前史

 ショッカーに始まる歴代『仮面ライダー』の悪の組織には、現実世界に存在する悪が投影されている。原作者、故・石ノ森章太郎氏は生前、そのような趣旨のことを、ことあるごとに明言なさっていた。
 これは『仮面ライダー』(71年)シリーズに限ったことではなく、『サイボーグ009(ゼロゼロナイン)』(66年)のブラックゴーストにせよ、『人造人間キカイダー』(72年)の死の商人ダークにせよ、およそ氏の作品における『悪』は、一貫して現実の悪の影を背負っていたのである。


 映像化作品、特に実写特撮ヒーロー番組は、必ずしも原作者の意図通りに仕上がるわけではない。『ライダー』の場合も、「そう言われれば、そんな気がしなくはない」といった程度ではある。だが、少なくとも根底にそういう思想が流れていたことは疑いない。


 さて、『悪』と一口に言っても、殺人から痴漢までさまざまあるだろうが、ショッカー以来の悪の組織は、どういう意味での『悪』だったろうか。
 イメージとしては、ナチスドイツあたりがモデルのように思われる。『世界を支配するに足る優秀な存在』を自負する歪んだエリート意識、初代幹部ゾル大佐の軍服、ナチスのそれを連想させる挙手の礼、等々その根拠はいくらでも挙げられるが、何と言っても、あまりに有名なオープニング・ナレーションの一節……「仮面ライダーは人間の自由を守るため、ショッカーと戦うのだ!」を忘れるわけにはいかない。
 仮面ライダーの敵は『人間の自由』を奪い、踏みにじる者なのだ。現実のナチスユダヤ民族を迫害、その自由を奪ったごとく、ショッカーは全人類を迫害しようとしているわけである。


 その後、シリーズが進んでいくに連れ、悪の組織もゲルショッカー(『仮面ライダー』初作・新1号編)、デストロン(『仮面ライダーV3』73年)……と代替わりし、彼らのイメージも多様化していった。
 だが、二大国が秘かに手を握って生み出したという設定のGOD(ゴッド。『仮面ライダーX』(74年))や、『帝国』を名乗るガランダー(『仮面ライダーアマゾン』(74年)後半)やクライシス(『仮面ライダーBLACK RX』(88年)http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090726/p1)など、新国家建設や革命を想起させる壮大なイメージは、随所に残され続けたのである。


2.兇敵

 『仮面ライダークウガ』(00年)は、従来シリーズとはまた異なる魅力に満ちた野心作だ。その魅力の一つが、未確認生命体(グロンギ)にあることは、言うまでもあるまい。


 グロンギにも、現実世界の悪が投影されている。されてはいるが、しかしその『悪』は、ショッカー以来の壮大な悪とは、かなり違う。もっと身近で卑俗な――悪に卑俗も高尚もないもんだが――『悪』が投影されている。否、投影どころじゃない。現実の『悪』そのまんまである。


 その『悪』とは『01年準備号』において仙田冷氏も指摘なさっていた通り(編:ネット版では『クウガ』前半合評2に掲載・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001104/p1)、ここ数年の間――即ち、前作『仮面ライダーJ』(94年)以降に激増した(とされている)少年・若年層による犯罪だ。
 自らの感情を制御できずに『キレて』他人に危害を及ぼしたり、ささいな欲望から『オヤジ狩り』と称する暴行に及んだり、動機らしい動機もなく愉快犯的に、あるいは筋違いな恨み晴らしで幼児殺害やバスジャックなどを敢行したり……そういう連中がそのまま、『未確認生命体』として登場してはクウガに蹴り殺されている、まるでそんな風に見えるのだ。


 未確認生命体は人間と同じ姿になり、更に今では日本語も操るようになった。この変身能力と言語能力によって、彼らは人間社会に容易に潜むことができている。にも関わらず、彼らは我々とは全く異なるロジックを持ち、故に両者は決して理解しあうことはできない。
 以上は、『EPISODE35 愛憎』において示された、未確認生命体に関する一種の総括である。外見上は普通の人間なのに、その実、人間とは全く相いれない存在。まさしく、現代の若年層犯罪者(及び、その予備軍)そのものではないか。


 未確認生命体とは、うまい名前をつけたものである。何が『未だ確認されず』なのか。それは彼ら(イコール、若年層犯罪者)の心理であり、思考内容である。
 そこには、『人間という生命体』が一般に持っているとされる、優しさや思いやり、感情を制御する理性などがまるで確認されないではないか。


 グロンギの連中にも、彼らなりの行動理由がある。彼らは『ゲゲル』(ゲーム)中のプレイとして、殺戮を重ねているのだ。『ゲゲル』は彼らのステップアップに不可欠なものであり、多くの者は彼らなりに真剣に取り組んでいるようだ。
 もっとも、『EPISODE35 愛憎』とその前の『EPISODE34 戦慄』に登場したグロンギ怪人ゴ・ジャラジ・ダのように、人間がおびえるのを見るのが楽しくて、趣味と実益を兼ねているような輩も多いが。


 この辺も、現実世界の暴走族や暴力グループがメンバー内部でのランク付けに血道をあげているのと、全く変わるところがない。それに巻き込まれるリント、即ち一般人の生活や生命など何ほどにも感じていない、という点でも、恐ろしいほど共通している。


 ショッカーのような戦闘員は、グロンギには存しない。組織に忠誠を誓い、黙々と――「ギー」とか「イー」とか言ってますけど(笑)――己の任務に従事する、悪のプロフェッショナル。そういう戦闘員は、組織が忠誠に値するという前提があって初めて存在できる。悪なりに崇高な理想がなければ、そういう組織にはなりえない。
 正体不明の0(ゼロ)号を首領、バラのタトゥの女を大幹部に見たてれば、グロンギもショッカー同様の組織のように思われる。だが、違うのだ。自分がその中のトップになる、という欲望のみで動く構成員が何百人いようと、そんなものは組織と言えるかどうかすら、怪しい話である。



 「現実」の『悪』そのものの未確認生命体たちは、リアルな恐ろしさに満ちている反面、我々の「空想」を喚起する、という意味では不満が残る(その分を、グロンギ語や特有のアイテムなどの描写によって補っているわけだが)。


 『クウガ』と並んで好評放映中の『未来戦隊タイムレンジャー』(00年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001102/p1)のロンダースファミリーも、悪の帝国ではなく犯罪者の集団である(敵幹部ドルネロのデザインなどからすると、こちらはマフィアを念頭に置いているらしい)。
 偶然、そういう設定の作品が重なっただけなのかも知れないが、ただ、ショッカー・タイプの悪が時代遅れになりつつあるのも、一面の真実であろう。


 筆者は、95年のオウム事件によって、ショッカーが現実に追いつかれてしまった、という気がしてならないのだ。宗教法人という隠れ蓑を使い、法律の網から逃れていたテロリスト集団・オウム。少なくとも構成員に対してはカリスマ性を発揮していた首領の存在、『なんとか大臣』なる役づけに代表される擬似国家的な組織構造、サリン散布という具体的行動、どれをとってもショッカー他のお粗末なコピーである。
 アポロ宇宙船の登場が、それ以前の宇宙SF映画を古典の領域に追いやった例でも明白なように、現実に追いつかれた時に色あせるのは、フィクションの宿命だ。だが、追いついてきた現実の方が、シャレにもならないお粗末な代物では、どうしようもない。今日、ショッカーを出しても、今度はオウムの下手なコピーに見えてしまう。


 それどころか、現実社会は猛スピードで悪化の一途をたどり、先にあげたような若年層犯罪者、およびその予備軍が跋扈する世紀末を迎えてしまったのである。
 グロンギの登場は、フィクションの方が何とか現実に追いつこうとした結果に思われてならない。だからリアルな迫力や恐ろしさの点では文句なしだが、空想する楽しみにまでは充分に手が回り切らない、というのが実情なのではないか
 (以上はあくまでグロンギ関係に限った話。番組全体としては、クウガのバイクに合体する超古代の意志を持つクワガタ型メカ・ゴウラムに代表される空想娯楽の要素も、きちんと備わっている)。


3.笑顔

 劇中、バラのタトゥの女は一条薫(いちじょう・かおる)刑事に対して二度、「リント(現世人類や超古代人類を指す言葉)は変わった」という趣旨の発言をしている。いったいどこがどう『変わった』のか。
 この点に関する直接の解説はいまだに為(な)されていないが、作品の進行に注目していく中で、次第にわかってくる仕掛けにはなっている。
 沢渡桜子(さわたり・さくらこ)さんの推論によれば、リントは彼らの言語の中に『戦士』に相当する単語を持たないほど、平和的な種族であったらしい。ということは、ひとたびグロンギに狙われたら最後、一方的に殺されるだけの役回りだった筈だ。
 これに対して現代では、クウガを別格としても一条刑事のように、奴らに抵抗する人間が、(直接に戦う警官だけでなく、桜子さんや榎田(えのきだ)ひかり女史のようなバックアップ組も含めて)多数存在している。


 『クウガ』は五代雄介(ごだい・ゆうすけ)だけの孤独な闘いを描くのではなく、一条刑事はじめ多くの勇気ある人々の共闘を描いている。
 仮面ライダーは孤独でなければならない、と決めているマニアも多いだろうが、決してそうではない。『仮面ライダー』初作〜『仮面ライダーストロンガー』(75年)の立花藤兵衛(たちばな・とうべえ)、『仮面ライダー(新)』(79年)〜『仮面ライダースーパー1(ワン)』(80年)の谷源次郎(たに・げんじろう)の御二人を筆頭として、旧シリーズにも、幾多の理解者・協力者が登場していたではないか。
 主人公の孤独さを強調していたとされる旧1号ライダー編(『仮面ライダー』初作#1〜13)や『仮面ライダーアマゾン』(74年)初期(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090809/p1)すら、例外ではない……てなことを書くと、「藤兵衛たちは民間人だから良いが、公的機関の警察が出てくるのでは話が違う」とかいう反論が予想されるが、それを言ったら滝和也なんかFBIだっつうの。
 要するに、まかり間違えば侵略者、という『ウルトラセブン最終章』(99年)の地球防衛軍のような可能性がなく、専守防衛の立場であること。戦闘の全体像を見渡した場合、自衛のための戦いでしかない、という一点のみが、ライダーシリーズの味方側に一貫する条件なのだ。
 その意味では、旧作の少年仮面ライダー隊と『クウガ』の警察の間に、本質的な差異は無い(注1)。


 結局、『クウガ』を含めたライダーシリーズでは、自衛目的の戦い、自衛のための共闘を否定していない。
 それはそうだ。ライダーシリーズの敵役には、現実世界の『悪』が投影されているのだから、唯々諾々と敗北してよい筈がない。



 かと言って、自衛のための戦いであれば、無条件に肯定しているわけでもない。
 先にあげた『EPISODE35 愛憎』では、怒りに燃えたクウガが、グロンギ怪人ゴ・ジャラジ・ダを一方的にブチのめすクライマックスが用意されていた。
 恐怖におびえる若者を次々と、楽しみつつ殺害していくゴ・ジャラジ・ダに対して五代が激しい憎悪の念を燃やしたことは、しごく当然。彼の怒りは誰もが納得できるものである。
 しかし、そこまで描かれていてなお、怒りに身を委ねたクウガの、あまりに激しい攻撃ぶりは、視聴者が爽快感を通り越して、ひいてしまう程だった(もちろんこれは、意図的な狙いに基づく演出が成功した結果なのだが)。


 その時、クウガは一瞬、黒いボディーに四本角(ヅノ)の自らの姿を幻視する。この黒いクウガは彼の最終形態らしい。
 バラのタトゥの女は「クウガはダグバに等しくなる」と言った。ダグバとは、究極の闇をもたらす者で、具体的には0号を指すようだ。
 つまり、怒り・憎悪に身を委ねて戦い続けると、やがてクウガは0号になってしまう……ということらしい。事実、ドクター椿秀一(つばき・しゅういち)は以前から、クウガが単なる殺戮マシーンに変貌してしまう可能性を示唆していた。


 仮面ライダー1号が、本来はショッカーの改造人間・怪奇バッタ男になるべき存在だったことは、よく指摘されてきた。ただ、ライダーを怪人にするには、脳改造を経(ヘ)る必要がある。本郷猛本人の脳を持つ限り、1号ライダーは『改造強化された肉体を持つ本郷』であって、断じて怪人バッタ男にはならない。
 これに対してクウガは違う。五代雄介が憎悪に身を委ねた時、彼は人類ではなく、『究極の闇をもたらす者』になってしまうのだ(注2)。クウガは歴代ライダーよりも遥かに、敵役に近いポジションに立っていたのである。



 未確認生命体は、現実世界の『悪』――激増する若年層犯罪者(および予備軍)の投影である。その、非人間的な在り方を許せず、立ち上がった五代は、素晴らしい人間である。
 しかし、奴らに対して憎悪を燃やす時、五代自身が人間ではなく、奴らと同じ『未確認生命体』に成り果ててしまうのだ。


 考えてみれば、当然の話である。若年層犯罪者と同様の『種』は、我々みんなの心の中にも、必ずやあるに決まっている。無ければ、よほどの聖人君子だ。
 ただし多くの人間は、そうした心の病を抑制する理性を、克服する心の強さを、超越する優しさや思いやりを持っている、というだけだ。それこそが、人間の素晴らしさである筈だ。


 我々は、奴らと同じになってはいけない。クウガの武器は怒りではなく、人間の素晴らしさでなければならない。
 「愛という名の武器をとり、人間らしく戦え」――そう謳いあげたのは『SFドラマ 猿の軍団』(74年・円谷プロ)だが、『クウガ』は正しく、この言葉を地でいく作品なのだ。


 『クウガ』では、一見すると本筋(クウガグロンギ)とは関係ない人間模様が描かれることが多い。
 五代雄介の妹・五代みのり勤める保育園の園児たち、雄介の母校の家出少年、女優志望の奈々ちゃん、榎田母子の関係を案じるジャン……こうした人々に関するインサイド・ストーリーが、クウガの武器となるべき『人間の素晴らしさ』を訴える意図で描かれていることは明白だ。
 本筋でも、『EPISODE33 連携』あたりから、警察が五代を全面的にバックアップする体制となり、理解と信頼が勝利を呼ぶパターンが確立された。
 戦いの主眼も、敵を倒すのみならず、その断末魔の爆発による被害を最小限に食い止めることに置かれるようになっている。それもこれも、クウガが何を武器に、何のために戦っているのかを、あまりにも雄弁に語っている。


 そして何より五代雄介自身が、こうしたドラマを支え、牽引するに足る強烈なキャラクター性を持っていることが大きい。
 ともすれば理想論に傾きがちなテーマ表現も、彼の言動を通して描かれれば、素直に納得できてしまえるのだから……。思えば番組当初、彼のキャラを立てるのに最大限の力が注ぎ込まれていたことが、ここに来て結実したのである。



 かつて仮面ライダー・本郷猛は、人間の自由を守るために戦った。今、仮面ライダークウガ・五代雄介は、人間の笑顔を守るために戦う。がんばれ五代、勝利の日は近い!




(注1)
 だから筆者は、『01年準備号』におけるsugi氏の、「『クウガ』の警察はリアルな警察と言うより、ヒーローのサポート機関を現実の組織に例えたもの」という御意見に、全面的に賛成である。
(編:ネット版では、こちらも『クウガ』前半合評2に掲載・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001104/p1
(注2)
 クウガを改造人間と設定しなかった意味が、こうしたところに現れてきたことは、注目に値する。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2001年号』(00年12月30日発行)所収『仮面ライダークウガ』後半合評1より抜粋)


仮面ライダークウガ 〜後半評2 極私的クウガ評……というより雑感その2

(略 〜下記に掲載)
  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001108/p1


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仮面ライダークウガ 〜後半評3 「EPISODE41 抑制」までを観て

(文・内山和正)
(2000年11月執筆)


 自分にとっての『仮面ライダー』像をこわされた『仮面ライダーBLACK(ブラック)』(87年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090802/p1)を経(へ)たのちは、ライダーがキックではなく剣を使おうと車に乗ろうと巨大化しようと大したことではないと思うようになった。
 だからクウガが改造人間ではなくなったことに不満はない。
 故人となられた原作者・石ノ森章太郎氏自身、宇宙人が主人公であるなど、原点派が卒倒しそうな案をいくつか出されていたこともあるらしいし、冒涜でもないだろう。


 いや実のところ、それらの変化を最初から動揺なしに受けとめられていたわけではない。やはり長い間の慣習というものは身体にしみついていて一度は充分に衝撃を受け、そのあとで「これでも問題はないだろう」と判断するのである。


 『仮面ライダーZX(ゼクロス)』(84年)で身体の基本デザインを、『BLACK』で首のマフラーと戦闘員を、ビデオ『真・仮面ライダー 序章(プロローグ)』(92年)で変身ポーズと変身ベルトを……と不動と思い込まされていた要素を失ってきたのだから(それらのうちいくつかは復活してもいるが)、改造人間でなくなる日が来たことも不思議ではないだろう。


 また『仮面ライダー』の諸要素のうち他のヒーロー番組とくらべて独自のものがあるだろうか。さまざまの要素を他の作品にマネされ吸収されてもはや残ってはいない。
 だから新しい趣向を続々とりいれていくことが必要であろうし、それらと組み合わせて、旧要素のどれとどれを残して「ライダー」であることを主張するのか、作品ごとに取捨選択していかなければならない状況でもあるのだろう
 (『ウルトラマン』もそうなのだが、近年同種の巨大ヒーローの番組がないことで我々にはともかく、子供たちには新鮮で独特な番組に写っていられるのだろう)。


 とはいえ、改造人間であることは残された最後の聖域であったのかもしれない。
 東映の平山亨(ひらやま・とおる)プロデューサー時代(『仮面ライダー』第1作(71年)〜『ZX』まで)に、筆者が「ライダー」の必須条件と考えていたもので今も健在なのは、


・主人公が大学生もしくは大卒者であること
 (『仮面ライダーアマゾン』(74年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090809/p1)をあくまでも特殊な出自(南米アマゾンで生育)であるから、別格であると判断しての場合)
・オートバイに乗ったヒーローであること
 (これも製作されずに終わった『真』の続編で、仮面ライダーシンがオートバイに乗る予定であったことを計算にいれてであって、現存の『真』では乗ってはいない)


 くらいしかなく、それらもあくまで例外は認めないというのであれば、すでに必須条件はなにもないのだから。


 けれど本心をあかせば、筆者は『仮面ライダークウガ』(2000年)を「改造人間」でないとは思っていない
 (すでに本誌2001年準備号でSONO・JINの両氏が「改造人間」かもしれない可能性をやや消極的〜紙面から察するかぎりでは〜に指摘されておられるが。
 関連記事:『仮面ライダークウガ』 〜前半合評1・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001103/p1)。


 人為的な改造手術こそ受けてはいないが、アークル(変身ベルト)を腰にはめたことにより人体を変造されたのであって、ウルトラマンのように単に特殊能力を得たというわけではない。
 制作者が改造人間ではないといっている以上、言葉のうえでは改造人間ではないだろうが、本質的・理念的には改造人間と言ってよいのではないか。


 その身体的変化は、夏コミ発行の本誌準備号締切の放映時点(2000年7月)ですでに示されていて、各氏が指摘している通りだが、以後の展開ではより危険性・運命性を増して重いものとなっている。
 改造人間ゆえの苦悩も、本人が「悩まないヒーロー」であるとはいえ、内心では当然悩んでいるはずで、そのような描写はすでに見られる。
 また主人公があまり悩まないのを補うように、まわりの人物たちが(時には過剰とも思えるほどに)悩んでおり、新しいかたちでの「改造人間の苦悩・悲哀」の表現といえるのではないだろうか。
 東映の高寺茂紀(たかてら・しげのり)プロデューサーが“改造人間であることが必要条件とは思わない”との発言をしたのも、従来型の改造人間の枠組みにとらわれずとも「ライダー」的なものは作れるとの意識の表れではないか。



 異色の「ライダー」たる本作だが、意外と旧作の要素をとりいれているとも思われる。
 変身ベルト・アークルの中の霊石アマダムの力、およぼす作用は、その正体こそ善意なるものか悪意なるものか意識などはないのかわからないものの、キングストーン(仮面ライダーBLACKおよびその発展型・仮面ライダーBLACK RX(88年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090726/p1)のベルトにうめこまれている石)との相似性が、話数の進むのに従い個人的には強く感じられてきた。
 また手に持った物体を武器に変えてしまう特殊能力は、映画『仮面ライダーJ』(94年)のJパワーが発想の元という可能性もあるのではないだろうか? JはJパワーにより普通のオートバイをスーパーマシーン・ジェイクロッサーに変化させた。当時「Jパワーを使えばいろいろなものをJ用の兵器に変えられるのではないか」と考えた者は筆者だけではあるまい?


 クウガの低能力形態グローイングフォームは白色に光沢(メタリックなのかパールなのか知らないが)をくわえたシブイ色で魅力的だが、イメージ的には旧1号を、存在的にはBLACKの変身途中段階のバッタ男を想起させる。
 グロンギの怪人たち(およびクウガ)が登場順に未確認生命体第何号と呼ばれるのは『クウガ』独自の趣向だが、○○種怪人という「識別名」と「個人名」をふたつ持つのは、『J』の怪人を踏襲しているのではないか?


 こじつけてしまえば悩まないヒーローというのも、当時マニア間で批判があった『スカイライダー』(79年・番組タイトルは初作と同じ『仮面ライダー』)第1話「改造人間大空を翔ぶ」(脚本・伊上勝)ラストの、改造されても悲観したりせず、「僕戦えるんです、飛べるんです」発言が念頭にあったとか………(いや、これはないだろうな)


 またファンの許容力という面では、三段変身や車や剣を使用して放映当時反対派にたたかれた『RX』があったからこそ、『クウガ』への風当たりは少なくてすんでいるのだろうし、異なる方向性のものとはいえ『BLACK』や『真』の暗さがあったからグロンギが存在しやすかったのではないか?
 今「仮面ライダー」かどうかが問われている『クウガ』も、いずれは後続の「ライダー」のための盾となるのだろう。



 これだけ書いておいてなんだが、『クウガ』は本来筆者個人の望んでいた『仮面ライダー』ではない。
 望んでいた「ライダー」とは、いろいろ細かい要件もあるけれど一言でいうなら、“先輩ライダーたちの活躍できる作品”。これにつきる。
 この点さえクリアしておればもっと徹底的に改造人間でなくとも許容できる。
 そして「ライダー」と「ウルトラ」が唯一独自の存在を主張できる要素というのも、長年の蓄積の先輩たちの共演、それなのではないか!?


 まして今回、『スカイライダー』放映時や『RX』放映時にはもはや仮面ライダー1号・本郷猛を演じることはあるまいと思われた藤岡弘氏が、ここ数年の状況の変化で本郷の再登場に前向きになっておられるし、一時は「新しいヒーローを演じるなら特撮ものへの出演を引き受ける」との発言をしていた宮内洋氏も仮面ライダーV3・風見志郎としてクウガを助けに行きたいと仰られていた。
 スカイライダー・筑波洋を演じた村上弘明氏は無理だろうし、BLACK・南光太郎(みなみ・こうたろう)を演じた倉田てつを仮面ライダー2号・一文字隼人(いちもんじ・はやと)を演じた佐々木剛(ささき・たけし)両氏は微妙なところだろうが、他の方々はスケジュールや体調に問題なければ可能なのではないだろうか?
 おなじみの面々はもちろん、先輩としての出演経験がない後期ライダーシリーズの方々の出演も期待していたのだが(悪役が板についている仮面ライダーZX・村雨良(むらさめ・りょう)を演じた菅田俊(すがた・しゅん)氏がヒーローをどう演じるかなどの興味もある)。
 まあ第1期ライダー放送当時の雑誌による「改造人間は年をとらない」との設定を大切にするのなら、機械内蔵型の旧式改造人間であるZXまでの方たちは出ないほうがいいのかもしれないが。でも出てほしい。



 とはいえ望んでいたかたちでなくとも『クウガ』はおもしろい。


 多くの方が仰られているので詳細は述べないが登場人物、特にクウガこと五代雄介(ごだい・ゆうすけ)・一条薫(いちじょう・かおる)刑事・沢渡桜子(さわたり・さくらこ)の三人が前半においては魅力的だった。
 桜子については、「前作『J』でせっかく引き下げたヒロインの年齢をまた妙齢の婦人とやらに戻しやがって」との内心の個人的不満も、「ソレはソレ、コレはコレでいいや」と思えるほど初期編においてはドラマの中に活きていた
 (ちなみに、個人的ライダーヒロインベストは、外見的には『J』で撮影時小4だったチャイドル野村佑香(のむら・ゆか)が演じた木村佳那(きむら・かな)。人物造形的には江連卓(えづれ・たかし)先生執筆の最終回があまりにも印象的だった『仮面ライダースーパー1(ワン)』(80年)の草波ハルミ(くさなみ・はるみ))。


 後半はヒロインだったはずの桜子が後退した分、警察の面々や科学警察研究所の子持ちバツイチ女性・榎田ひかり(えのきだ・ひかり)の存在感が増した。
 放送前はライダーが刑事と協力するとか、マシーンを警察が造るとかの設定に抵抗を感じて、「滝和也(初作)も滝竜介(BLACK)も捜査官だったではないか」と自分をなだめていたものだが、番組がはじまってみれば雄介と一条の補いあい(戦いの面でもドラマ作りの面でも)は「もはやこれしかないだろう」というほどハマったものだった。


 『クウガ』の世界観では「恋人」と設定すると肉体愛にまで発展させないとならないとの配慮から、恋愛関係のない友達という設定になったという雄介と桜子だが、初期編では一条が気をきかせて二人だけにして去るクライマックスもあり、あの段階では恋人か、それに近い設定だったのではないかと思える。
 中盤以後、桜子の影がうすいのは結局恋人役に設定しなかったのが災いしたのではないだろうか。ハッキリしたものではなくても多少の恋情を片方が持っているというくらいの設定でも良かったのではないか?


 司法解剖専門医師・椿秀一(つばき・しゅういち)も何話かは忘れたが、TVドラマ『探偵物語』(79年・松田優作主演)あたりを意識したのだろうと思われる雄介とのミョーな会話が強烈だった。



 それにしても配役が豪華だ。きたろう氏の起用はおやっさん役だからまだしも、ゲストならともかくレギュラーでの榎田ひかり役の水島かおりさん、そろそろベテランといってもいい桜子役の村田和美さん、一条刑事役の葛山信吾氏はたしかNHKの金曜時代劇で主役(準主役?)をはったことのある人だと思うし……
 (編註:『夢麿長崎奉行(ゆめまろ ながさきぶぎょう)』(96年)で若き日の遠山の金さん役で準主演。オウム事件後、自身の従来作品へのアンチテーゼ(反省?)とも取れるテーマを頻出する市川森一(いちかわ・しんいち)脚本作品。本作でもいつもの個人至上主義からシフトしてナンと父子愛をテーマとした)


 もちろん名のある役者を使うことが必ずしもよいことではなく、一般のドラマなどでは却って弊害が出ているものも少なくはないと思うが、使えない状況が長かった東映ヒーロー作品だけに(一怪人が二週かけて倒される着ぐるみ節約の功罪はあるにしても)使えることは喜びたい。


 
 以下、(※)内は2000年夏に書いた未完原稿の一部である。当時の気持ちをあきらかにするため掲載する



 仮面ライダークウガこと五代雄介のキャラクターはヘタをするとただのバカになりかねない微妙さがあり、シャツにクウガのマークをプリント(?)して悦に入るあたりはやりすぎだと思った。
 しかしそんな軽さが、当初地味だった変身ポーズを大見得きってみせるかたち(現状での注:定着はしなかったが)につながっていき、さらには別の強化形態への変化時に「超変身!」と口にすることを決めるに至らせたのを見ると、まずくもなかったのかもしれない。


 この自らをヒーローとして演出していく趣向は、ヒーローものファンなら割と考えるものかもしれない(僕も考えていたし)。
 が、「ライダー」というシリーズに限定した場合、かっては変身に不可欠であった変身ポーズが、『BLACK』以降は変身前の準備体操のようなものとなり(それゆえ変更・短縮が自由になり)、さらにはポーズは取らずに省略しても変身可能となって、シリーズとしてのパターンやオマージュとしてのみ存在するだけで必然性は失われてしまっていた。
 近年(?)では映画『仮面ライダーZO(ゼットオー)』(93年)のように意識してポーズをとったというより、「たまたま体をそのように動かしてみた」というように、リアルさのなかにポーズをはめこんでしまう傾向にあったのに対し、今回の『クウガ』の五代雄介の軽さは、再び変身ポーズをとることに必然性をもたらす貢献をしたともいえるだろう。


 ドラマはさまざまなエピソードを織り込んで非常にスローに進展する。それが独特の効果や味わいを産んで、ごく単純なストーリーでも豊かさを感じさせる。
 ぜいたくなキャスティングの費用を作るためでもあろう、怪人の一体二話方式もその作劇により充分成立している。
 ただドラマが進むに従い、前後編で怪人が倒されるという形式が予定調和に感じられてきてしまったり、次回へ興味をつないでくれるというよりももどかしさが募ったり、桜子の不安などがパターン化してしまって、観ていて疲れてきたりしてしまっている。
 でも仮にギャラの問題がクリアできて、怪人を一話でたおせる形式になったとしたら作品の大切なものも失せてしまうような気がする。



 そんな気分になっていたとき、グロンギの殺人が単純な「快楽殺人」から、よりゲーム性を強めた特定のルールを設けている「趣向殺人」に変わってきた。
 桜子がねらわれているようにみせてサスペンスを持たせたうえで、一旦はそうじゃなかったように思わせ、結局は殺される条件にあてはまる一人だったとわかる趣向など新しい展開で、再び積極的に本作を視聴したいという気持ちを取り戻させた。


 そして強化したクウガの必殺キック攻撃によるグロンギ怪人の大爆発が、半径数百メートルにも被害をあたえる状況になって以降の、それを回避するための警察の協力も興味深く見させてくれる。


 いよいよクライマックスも近づき、スタッフが用意してあったというテーマにむかっている。
 昔のクウガは成功したのか失敗をしたのかも含め、なんとなくわかっているようでいてわからない真実が興味をかきたてる。
 バラの女の言葉からすれば、昔のクウガは成功したが今のクウガは災厄(さいやく)の存在にむかっているように思えるし、主題歌からすると昔のクウガは失敗したが今のクウガには回避できる可能性があるというようにとれる。


 超古代のクウガだった人物が棺(ひつぎ)に入っていたのも、変身ベルト・アークルを未来の人間に託すためかと思っていたが、自分の身体にすくった通称・未確認生命体第0(ゼロ)号ことグロンギの首領をどうにもできず、自分ごと閉じ込めるためだったのかもしれないし……


 個人的に初期編から抱いていた、雄介も棺に眠って未来へむかうのではないかとの、いやな予想の正否も含めて、結末まで見守りたい。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2001年号』(00年12月30日発行)所収『仮面ライダークウガ』後半合評5より抜粋)


仮面ライダークウガ 〜後半評4 「EPISODE41 抑制」までを見て その2

(略 〜下記に掲載)
  http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001109/p1


仮面ライダー クウガ Vol.10 [DVD]

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  • 発売日: 2001/09/21
  • メディア: DVD
(#38〜#41「抑制」まで収録)


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