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特撮意見④ 特撮ジャンルの独自性・アイデンティティとは何か!? 〜SFや文学のサブジャンルではない特撮

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(文・T.SATO)
往年の本邦特撮ヒーロー&アニメヒーローやジャンル作品が、続々銀幕に登場しても、イマイチ感激がナイのは、我々ジャンルファンが長年底辺に甘んじてきて、ラーメンは屋台にかぎるの貧乏症が骨髄にまで達しているせいか?
ただ海外で、『イノセンス』(04年)や宮崎アニメなどが賞レースに参加すると、冷めていたつもりが、無意識にジャンルナショナリズム(笑)を刺激され、うれしかったりもするけども。


 死屍累々の果てに今日があるワケだが、この四半世紀で映画界とその観客も細分化が著しい。『CASSHERNキャシャーン)』もデート映画、『キューティーハニー』が女性向け、『ゼブラーマン』は全世代向け(カルト?)の意匠で、メジャーに進出(3作とも04年)。各作品のターゲットも素材に見事マッチ。『ハニー』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20041103/p1)がMEGUMI主演でイエローキャブ総登場なら、筆者は見たいけど(笑)、女性層はヒクしね。
 結末も客層にふさわしく決着。パロディの『ゼブラー』は悪も記号的なので罪悪感なく敵を殲滅。『ハニー』は愛の力で悪を癒す。『CASSHERN』は愛をもってしても誰も救えない(ヲイ)。


ジャンルの認知も云われるが、子供にキャラクター衣料を着せたくないブランドママもやはり多い中、安全パイの小ジャレた一般映画ならぬ、イロ物ジャンルに挑んだクドカン宮藤官九郎)&紀里谷監督の蛮勇には敬服する(元からオタ属性が多少はあったとはいえ)。
 ブクロ系とオシャレ系の真逆からの挟撃。過度にそれらをありがたがるのもナニだけど、逆に我らアキバ系が過剰にオシャレ&サブカル系を敵視するのも狭苦しくてイタイぞ。
オタ文化にかぎらず、ジャンル内ジャンルの細分化は、物事の必然とはいえ、時に逆流・越境・侵犯されたり、波紋や外部との軋轢も生じなければ、個別作品としての出来とは別に、ジャンル自体の前進もアリエナイ。


 が、一方でジャンル自体の独自性・アイデンティティも自覚しなければ、おかしなことになる。
 隣接ジャンルと比較すればわかりやすい。たとえば、SF。
 SFジャンルを味わうことの愉悦も、一律には定義できないが、ハイブロウな知的快感・知的興奮・メタフィジカル(形而上)の方角に上向いたものであると、あくまで乱暴に便宜的に定義するならば、(SFに従属しないものとしての)映像ジャンル……特撮やアニメを観ることの愉悦は、もっと下方の、人間として原初的でフィジカルな、身体的・物理的な快楽の方角に向かったものだといえるだろう。


 特撮ジャンルで例えるなら、我々オタク族がジャンル作品のビデオを再生すると、テーマやドラマを放ったらかして、アクション&特撮場面……メカやスペクタクルに戦闘機の飛行シーンだけを、ついツマミ見してしまったり、大むかしから怪獣が出るまでは劇場を闊歩するガキどもが絶えないように、文芸映画ならぬジャンル作品では、人間ドラマ部分ではなく、基本は特撮やアクションに、山場・クライマックスが来ることに特異性があるのだ。


 ドラマ&テーマ(含むSF性)は、逆算された言い訳にすぎないともいえる。あるいはドラマ&テーマは、特撮&アクションの上澄み液とすべきか、特撮&アクションの山場のカタルシスに集約するよう構築するべきだ。
 逆に、アニメやゲームならば、特撮&アクションの項目に、美少女萌えやら泣き等々が代入される、インナージャンルがあるワケだ――最近は、SFやミステリの側で、新興の美少女ゲームライトノベルを、自ジャンルの後継者に囲い込もうという向きもあるようだが……。シッカリ自分を持っていないと、サブジャンルにされちゃうゾ――。
 文芸映画でならOKなのに、娯楽活劇映画で過剰に長いウダウダ愁嘆場があると違和感をいだくのは、ジャンル独自の特質・構造を無視して生じたブレを、観客が無意識に感知するゆえだろう。


 その点で、『CASSHERN』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20041102/p1)は少々残念だ(逆に、CG映画版『アップルシード』(04年)は、オーラスのクライマックスバトルに、作品テーマが帰結(あるいはテーマを表明)するかたちとなることで成功)。
 実のところ、『CASSHERN』的な失敗を、特撮ジャンルはここ10年で何度かくりかえしている。マニアは平成『ウルトラ』&平成『ガメラ』を評価しても、幼児しか観ず、小学生は『ポケモン』&『遊戯王』に夢中だったという事実。
 ヒーローと怪獣、その順列組み合わせマッチマイク、バトルや勝利のカタルシス……といった素朴で原初的な楽しさのファクターよりも、社会派テーマやドラマ性・SF性を持ち上げてきたツケが、ここに至って来たようだ。
 それは、TVシリーズ後半のアンチテーゼ編でこそ光る、佐々木守脚本&実相寺昭雄カントクを、王道たるべき#1にすえて失敗した、往年の『シルバー仮面』(71年)の愚を30年を経て、またくりかえしている姿のようにさえ見える。それはまた、70年代後半にその原型が確立された、第1世代特撮マニアによる特撮評論の理論・モノサシが、その耐用年数を過ぎたのだ、というふうにも見れなくない。
 「特撮やアニメもSFだ、あるいは映画だ」と、まことしやかに語られているが(広義では正しいけど)、特撮ジャンルも独自のジャンル意識に基づく作劇で、マニアのみならず子供や大衆にも通用する作品を、構築していってほしいものだ。


 ただ作家が、たかが娯楽作品であろうとも、何らかの主張――勧善懲悪への懐疑や、戦いや戦争の否定など――を込めたくなる気持ちもまたよくわかる(『RED SHADOW 赤影』(01年)など)。
 しかし隣接ジャンルを参照すれば(つまり硬直したジャンル絶対主義者になる必要はない)、敵を抹殺しなくても、アクションのカタルシス&テーマ表現の両立は不可能ではないとわかるハズだ。『トライガン』(98年)、『機動戦士ガンダムSEED』(02年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060324/p1)後半の正副主役2機、『星雲仮面マシンマン』(84年)、『ぶらり信兵衛 道場破り』(73年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20080602/p1)、『暴れん坊将軍』(78年)の峰打ち等々。状況を交通整理し、作劇の可能性の幅を示すのも、批評の使命のひとつだ。


 でもジャンルのアイデンティティとは別に、二次的事項ではあっても、ジャンルを商品としてメジャーに流通させるときのパッケージが重要なことも、改めて認識する。
 樋口真嗣監督作品『ローレライ』(05年)も、『踊る大捜査線』(97年)のフジテレビ&東宝路線に乗ったからこそ流通したように、『CASSHERN』『キル・ビル』(03年)同様、『デビルマン』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20041110/p1)も宣伝ポスターからデビルマンを排し、妖鳥シレーヌだけで押せば女性層にも訴求したのに……とか、『ゴジラ』シリーズも、どーせならイケメン特撮OBを毎年13人くらい出せよ……とか(笑)、たとえサブラインではあっても、そっち文脈でも盛り上げて、集客を少しでも高めてほしかった。

(了)
(04年6月執筆・特撮雑誌『宇宙船』読者投稿未掲載〜つまりボツ(笑)〜同人誌『仮面特攻隊2005年号』(04年12月30日発行)所収に加筆)



後日付記:
 なお、このような「特撮ジャンルの独自性・アイデンティティ」にこだわる考え方に対する疑義・リアクションも、特撮論壇の中にはもちろん存在する。
 『映画バカ一代』や特撮雑誌『宇宙船』などで活躍される、特撮ライター・蓮井勘氏がその一方の極、代表例といえるだろう。06年4月現時点での、氏の考え方は、『宇宙船YEAR BOOK 2006』(06年3月発行・朝日ソノラマISBN:4257130865)「2005年邦画総論」で確認することができる。
 「特撮」性よりも「映画」性を重視するというべき立場である。


後日付記2:
 『宇宙船YEAR BOOK 2007』(07年3月発行・朝日ソノラマISBN:4257130962)「2006年邦画総論」では、「特撮」性、異形のモノ・異形の映像を描くものとしてのジャンル意識を強調する表記が見られる。ぜひともそちらの方向性で行かれてください(笑)。


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ゴジラ FINAL WARS 〜特撮アクション&本編アクション見せまくり究極作登場! JAC的なるものの勝利!

 http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060304/p1



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特撮意見③ 日本特撮の再興は成ったか?

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(文・T.SATO)
 『仮面ライダー555ファイズ)』(03年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20080120/p1)。ライダーに変身するイイ男が最初はひとりだけで、F1・F2の女性層が離れないかが心配。


 むろんメイン視聴者は子供だろうが、役者人気で特撮が世間に流通する在り方もあってイイ。
 特撮冬の時代(70年代後半〜80年代を一般に指す)やアニメに押された時代を通過して、ウス汚れてしまった筆者は今の状況も認めたい。ムサい成人男性オタク(視聴率調査でもカテゴリー化されないほど極少の絶滅寸前種
族)が騒ぐだけではムーブメントにはならないし。


 平成『ライダー』やら、SFセンス&CGの遍在化による、怪獣・特撮を前面に出さないSF邦画にホラー邦画の途切れない発表。
 四半世紀前から夢想され続けてきた日本特撮の再生や市民権は、マニアの予想と違うかたちで既に実現したともいえる。


 でもそれは、マニアが真に面白いと思う作品を作れば、日本特撮の再興は成る、労働者独裁のロシア革命ならぬマニア独裁の特撮革命(笑)を素朴に信じられた時代の理論に従って製作された、平成『ウルトラ』&平成『ガメラ』の文脈の延長線ではない。
 間接的にはともかく直接的には、新世紀に入ってからのイケメン特撮ブームからの文脈が濃厚である。Jホラーに至っては、特撮ものとは別個の文脈から自力で隆盛してきたものですらある。


 大方の特撮マニアは認めたくはないのだろうが、マニア&サブカル誌&評論家ウケに留まり、10%も10億も超えられない平成『ウルトラ』&平成『ガメラ』の視聴率&配給収入からもそれは自明だし、受容の規模も知れようというものだ。
 絵も展開も良質だが、知的SF至上主義ではなく、旬の役者とバイオレンスも加味して、高揚とメジャー感を獲得したからこそ、白組によるSF邦画『リターナー』(02年)もデートムービーとして成立したワケで……。


 怪獣・変身もので天下を取りたいのが、我らの性(さが)かもしれないが(笑)。


 以上は、一般層における受容を考慮した議論。他方で、子供層での受容を考察する絶好のテキストは、やはり『戦隊』。
 マニア層では、ヌルさで不評の『百獣戦隊ガオレンジャー』(01年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011102/p1)。例年よりも視聴率は高く、10%越えも達成し、玩具も大ヒットしている。
 この事実を見るに、やはり過半の子供は、人間ドラマよりも映像的なハデさやキャラ立ち、各種アイテムに心奪われるものだと判る(今年の『爆竜戦隊アバレンジャー』(03年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20031112/p1)もヒットするゾ〜後日付記:『ガオレン』的な大ヒットはしませんでした〜汗)。
 ここにも、よくあるマニアと子供で見たいものの不一致の好例があるともいえる。真逆の例としても、当時のマニアの大絶賛を勝ち得た、リアル&ハード志向の東映メタルヒーロー超人機メタルダー』(87年)の視聴率的失敗などがあったよネ。


 子供時代に、ヒーローもののラフな展開に傷付いたという意見も、本誌投稿欄などで拝見すると、衷心から共感・同情もする。
 しかし、繊細ナイーブ君や既にマニア予備軍だった我々の子供時代の感性・感慨を、フツーに育ったラフでガサツな子供たち(笑)がヒーローものにいだく感想とイコールのものだとして一般化するのも危険だろう。


 ジャンルのエポックメイキング作品『仮面ライダー』初作(71年)や『マジンガーZ』(72年)なども、今見るとドラマ的にはラフで見るに耐えない回が多いが――『仮面ライダーX』(74年)以降や『グレートマジンガー』(74年)以降、『ウルトラ』も第2期シリーズの方が、大方のマニア間での世評とは異なり人間ドラマ性は実は高い――、それでもこれらの作品に幼い我々が魅かれたのは、やはり決してテーマ性やドラマ性などではなく、ヒーロー性の高揚ゆえだったのだろう。


 『仮面ライダー』&『戦隊』の2大シリーズを立上げた東映の平山亨(ひらやま・とおる)プロデューサーも、その師匠、先頃物故されたマキノ一族の松田定次(まつだ・さだつぐ)監督のポリシー、丸の内東映向けならぬ浅草東映労働者大衆向け、どう変装しようとも御大・片岡千恵蔵にしか見えない(笑)*1、名探偵『多羅尾伴内(たらおばんない)』(46〜60年)シリーズ*2の七変化的に、偽ライダーの出で立ちを、マフラー・手袋・ブーツなどの色違いで、視聴者にもバレバレにしていた、と某所で語っている。
 たしかに、偽ライダーの出で立ちや、それに気づかない劇中人物たち……というラフさがあっても、それを視聴して若干違和感をいだこうが、それで幻滅して子供たちが番組視聴を一斉に止めてしまったという事実はない(子供番組卒業期のコならばイザ知らず)。


 また、たとえチープな作りであっても、人間ドラマが一切ないのに、ヒーローと怪獣がバトルさえしていれば、『ウルトラファイト』(70年)でも魅かれてしまうような心性が、子供にはたしかにあるともいえる。



 6人目の戦隊ヒーロー登場!/2号&3号ロボ登場!……的な素朴なワクワク感を軽視(時に危険視)するかぎり、平成『ウルトラ』シリーズは東映ヒーロー作品の後塵を拝し続けるであろう。


 ある意味で言説化しやすくて語りやすいテーマ主義。
 しかしてテーマ以前の、言語化しにくい、ケバケバ原色キッチュ(通俗)な奇想のビジュアルや展開。
 我々が最初にジャンル作品に魅かれた理由も、実は後者だったハズだ。


 シリアスでリアル寄りと評される『ウルトラセブン』(67年)においても、ライトブルーの隊員服などでジャンル内においては相対的にはリアルともいえるウルトラ警備隊が、『シルバー仮面』(71年)のジミな津山研究所のように、さらにリアルだともいえる黒の革ジャン姿であったなら……、おそらくは子供たちのあこがれの対象にはなれず、今日につづく人気もまたないであろう(笑)。
 つまりは、そういうことなのだ。子供番組を見続ける言い訳・正当化に、テーマやドラマにSF性を主張したのは後知恵だったのだ。


 また、マニアは『ウルトラマンティガ』(96年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961201/p1)、『ウルトラマンガイア』(98年)に喜んでいるが、実際の児童間での主流は『ポケットモンスター』(97年)、『遊☆戯☆王』(98年)という大局の現実を見ていない議論は、絶対にゆがんでいる。


 怪獣図鑑学年誌での、怪獣パノラマやウルトラ兄弟の力比べに、宇宙警備隊の組織図に対して、かつての子供たちがいだいた興奮。
 今の幼児ならぬ児童の、『ポケモン』や『遊戯王』などの多数のキャラクター登場ものへの接し方&興奮の仕方は、これらと似たようなものではなかったか? 『水滸伝』的108人の強者集結のカタルシスは、メリケンのアメコミヒーローものなどでも隆盛なのだし。


 平成『ライダー』も、児童はともかく幼児にそのドラマが理解できているとはとても思えないのだが、次は誰が変身するのか? 誰と誰が戦うのか? というところで、関心を持続するのだろう。
 そういえば筆者も幼少時、『レインボーマン』(72年)を、そのテーマや社会派ドラマは一切理解せず(偽札によるインフレ作戦なんて小学生ならまだしも、幼児に理解できるか!?)、次にどのヒーローに変身して特殊技能を見せてくれるのか? という興味で観ていたものだ(笑)。


 テーマ的議論を延々する前に、我々はそーいう原初的喜びに立ち返るべきだ。
 幼児期で特撮ジャンルを卒業させないためには、児童が喜ぶマンダラ的世界観設定や多数の変身キャラ(ヒーローやモンスター)を配置する作品を用意する――児童期で卒業させずに思春期にも接続させたいならば、テーマやリアルのフリも有効だが(笑)――。


 児童期の特撮ファンが歯抜け状態なのは、マニアの底辺拡大・後進育成には大ピンチだ。
 テーマ的挑戦を必ずしも否定はしない。マニア受けを完全否定するワケでもない。主婦ウケ・女性ウケのイケメン特撮ブームも否定はしない。
 が、それらを、子供が喜ぶ要素や華あるガジェット(小道具)を自覚的に多数まぶして、玩具業界とも共存共栄を果たした上で、老獪にやるのがオトナの態度というもの。
 基本は、①子供ウケ、②そのほぼ同数を見込める母層たる主婦ウケおよび派生して女性ウケ、③そして最後に特殊少数のマニア受け(笑)。その優先順位を誤るとおかしなことになる。
 マニアの議論ももっと成熟すべきだろう。

(了)
(初出・特撮雑誌『宇宙船』Vol.107・2003年7月号・読者投稿)


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*1:平山Pの疑問に対して、松田定次監督は客層を意識して意図的にそうしていたという。また、『ロック画報22 特集 映画×ロック』(05年12月発行/ブルース・インターアクションズISBN:4860201523)P28の記事によると、松田定次監督にかぎらず70年代までの東映の上層部は、ハッキリと公言してブルーカラー向けをねらって映画を作っていたこともわかる。

*2:終戦直後の10年弱、GHQによって時代劇映画の製作が禁止された折、名時代劇俳優・片岡千恵蔵が主演した現代劇映画シリーズ。

特撮意見② 怪獣デザイン 〜今こそ成田3原則の絶対化を止め相対視を!

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『シン・ゴジラ』 〜震災・原発・安保法制! そも反戦反核作品か!? 世界情勢・理想の外交・徳義国家ニッポン!
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(文・T.SATO)
 宿那鬼(すくなおに)やオビコに戀鬼(れんき)は? 『ウルトラ』怪獣以外でも、世界3大モンスターのフランケンシュタインは? キングギドラジャミラにかのスペル星人もダメだネ(笑)。


 ってことで、三回忌(04年2月時点。02年2月26日逝去)を迎える初期『ウルトラ』の怪獣デザイナー・成田亨御大に敬意を表しつつも、氏の業績や氏の“怪獣デザイン3原則”*1を万能視することには反対だ。


 3原則を故なしとはしないが、それはあくまでひとりのデザイナーのポリシーにすぎないのであって、それに明らかに当てはまらないデザインポリシーの土壌からも、東映『戦隊』ギャグ怪人や人体の一部のみを具象化したドルゲ魔人(『超人バロム・1(ワン)』・72年)など、ジャンル作品はあまたの愛すべき名獣を産んできた。


 初期東宝特撮映画の怪獣たちは、成田亨も指摘し、時に著書で酷評もしたように(あのゴジラのデザインに対してさえも否定的!)、たしかに現代美術・前衛芸術の精神・センスを有していない(……だからダメだとは筆者個人は思わないが)。
 しかし、70年代初頭の『ミラーマン』怪獣や『ウルトラマンエース』超獣だと、当時の若者の、善くも悪くも前代の権威に反抗的な、そしてアート気取りやその卵連中の前衛的にして実験的な空気(サイケありアングラあり)の隆盛に、美術系上がりの怪獣デザイナーたちも直接間接無意識に影響を受けてしまうのか、現代美術のセンスの片鱗が怪獣デザインの意匠――形象から細部の模様に至るまで――にまでも空気のように遍在している。


 美術理論の有無で、怪獣デザインを正当化・権威主義化する気は、筆者個人は毛頭ない。
 が、アナロジーは状況をより良く整理して認識するのには有効だろう。
 ならば、成田亨が主に美術の主題とし、得意にもしてきた、“単純”・“抽象”・“理性”だけが、美術において至高の概念なのではない。


 美術(あるいは建築)史をひもとけば、それは対となる“複雑”・“具象”・“感情”との循環運動の歴史であり、しかもそれらは優劣ではないのだと気付くだろう。
 “豪華”・“荘重”・“過剰”な装飾が、素のシルエットを超えた別文脈の興趣を喚起するバロックの魅力や、骨組み・フレームワークを意識させずに意匠のみで訴えるゴシックの魅力だって、豊穣な幅広さを持つ怪獣デザインにもあるハズだ。


 成田亨デザインの怪獣(『ウルトラQ』(66年)後半〜『ウルトラセブン』(67年)前半)は、氏の発言ほどには“カオス(混沌)”の体現には見えず、むしろ調和的にさえ見える(くりかえすが、それが悪いというワケではない)。
 同じく怪獣デザインにおいて、“非調和(=カオス)”をめざしたと語る、『ゴジラ』(54年)第1作の時代から特撮に関わる東宝出身の美術デザイナー・鈴木儀雄の手になる北朝鮮怪獣『プルガサリ』(85年)やヒッポリト星人にエースキラー(共に『ウルトラマンエース』(72年))は、表面の複雑装飾が妙を醸す。


 同じ鈴木儀雄がデザインしたウルトラマンレオ*2も、その頭部はキャラクターの過去の悲哀や怒りなどの複雑な心情をも具象化した表現空間で、余人には模倣ができない曲線だろう。非ユークリッド的雪片曲線・フラクタル空間と形容したら20年古いか?*3


 他方、鈴木儀雄は、銀色電飾のコクピット感覚に満ち満ちた防衛隊基地の内装や、直角&曲線&円を自在に配置した、隊員服や戦闘機に銃器メカのデザインなどもこなしたマルチな人材であったことも忘れてはなるまい(『ウルトラマンエース』〜『ウルトラマンレオ』(74年)。『ウルトラマンタロウ』(73年)の防衛隊ZAT(ザット)の赤&青&十字の、平成ウルトラヒーロー的にスリムに見せるデザインモチーフは英国国旗か?)。


 また、怪獣デザインにおいては、抽象・具象を問わず、シャープな鋭角やトゲトゲの魅力もあってイイはずなのだが、井口昭彦デザインのサイボーグ怪獣・ガイガン(『地球攻撃命令 ゴジラガイガン』(72年))のような怪獣が、近年ではレギオンやイリスくらいしか見当たらないのは(共に平成『ガメラ』シリーズ怪獣)、成田3原則が今や呪縛化し、デザイナーの材や発想を狭めているからなのだろう(もちろん成田の罪ではない)。
 シルエットと赤&緑のサイケな色彩が魅力の、初期超獣の父でもある井口昭彦(『ウルトラセブン』後半〜『ウルトラマンエース』担当)が、90年代平成『ウルトラセブン』シリーズの美術を担当し、怪獣デザインも担当されたが、往時とは異なり不定型なデザイン&地味な色彩を頻発したのも、そのせいだろうと見る(何か『エース』の超獣のシルエットに似ている怪獣も一頭だけいたが・笑)。


 70年代末期の第3次『ウルトラ』ブームの時代には、ご近所でも学校でも子供間では、第2期『ウルトラ』怪獣は第1期『ウルトラ』怪獣と等しく人気があったものだ。
 が、80年代以降のマニア勃興期に至ると、第1期『ウルトラ』世代がマニア向け書籍で、自世代の怪獣のみに光を当てるようになってしまって非常に残念だった。
 このような第1期『ウルトラ』怪獣至上の怪獣デザイン論の状況には、実は反証も可能ではある。
 1988年年末の冬休み午前に、TBSで平日5日間連続の初代『ウルトラマン』(66年)再放送特別番組が放映されたことがある。
 その1コーナーで、当時の帯番組『ウルトラ怪獣大百科』(88年・テレビ東京)の影響だろうか、ロケ先の幼稚園の園庭で園児どもがインタビューに答えて、合体怪獣タイラント(『ウルトラマンタロウ』)をスキだ! と口々に絶叫していたことがあったのだ!
 ……成田亨センセは、名指しこそしないものの、タイラントを指すとおぼしき、既存の怪獣のパーツパーツが合体したような合体怪獣の存在を、否定&批判する発言をしていたともいうのにだ(笑)。


 もちろん筆者は、成田絶対主義・権威主義者ではないので、子供たちの嗜好&感性に大いに耳を傾ける。……てか、88年当時のガキも、オレの子供のころ(70年代末期)のガキんちょどものタイラントに対する評価と同じじゃん(笑)。そういや、妖怪怪獣のナマハゲやエンマーゴも小学校時代、クラスメート間では人気が高かったよなあ。
 第2期『ウルトラ』怪獣も、そのデザインは決して第1期『ウルトラ』怪獣に劣るものではない。だが、一部に極少数いる第2期『ウルトラ』至上主義者のように、ムリヤリに何でもかんでも擁護をしようというのではない。
 公正を期すために云っておけば、70年代前半当時の変身ブームによる怪獣・怪人番組の多作による影響か、怪獣着ぐるみの造形にはやはり恵まれていなかったことが多いのは事実だ(とはいえ、ビル街のミニチュアの精巧さや、御大・島倉二千六(しまくら・ふちむ)が手がけた背景ホリゾントの出来は、第1期のそれを実は上回る)。
 ただし、第2期『ウルトラ』のパイロット編〜初期編における怪獣たち――ベロクロン・バキシム・ブロッケン・オイルドリンカー・アストロモンス・コスモリキッド・ライブキング・レッドギラス・ブラックギラスなど――は、スケジュール&予算の余裕もあってのものだろう。そのしっかりした造形のボリューム・巨大さといい、ラインや面取りの確かさといい、すばらしい出来に仕上がっていることは強調しておきたい。


 特撮マニア第1世代が作り出した価値観による先入観に捉われず、虚心坦懐にこれら怪獣たちの写真を見返して、マニア諸氏も再評価を行なっていってほしいものだ。
 ちなみに、初期超獣の造形は、第2期『ウルトラ』〜平成『ウルトラ』怪獣の造形でおなじみ、開米プロによるものではない。東宝モスラキングギドラの造形の父ともいえる、村瀬継蔵率いるツェニーが担当している。
 ……ただし、造形がショボい怪獣を過剰にケナそうという気持ちもまたさらさらない。てか、幼児のころはそもそも造形の善し悪しの区別すらもが付かず、それでも充分に楽しんでいたものだし(笑)。*4


 第3期『ウルトラ』シリーズでは、『ザ☆ウルトラマン』(79年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971117/p1)の主人公ウルトラマンジョーニアスや、『ウルトラマン80(エイティ)』(80年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971121/p1)のヒーロー&怪獣デザインを、やはり美術スタッフの山口修が担当している。
 山口修の怪獣デザインの特徴の解析については、書籍『ウルトラマン99の謎』(93年・二見文庫。06年9月に大判サイズで再販!・ISBN:4576061488)における記述が、おそらく初にして的確なものであり、そちらを参照されたい。



 平成『ウルトラ』のヒーロー&怪獣デザインも悪くはないが、90年代以降の東映ヒーローの精彩・多彩さには負ける。
 先人には敬意を表すし、筆者も影響は受けたが、バッタ男こと仮面ライダー旧1号(初作#1〜13)のデザインの踏襲という呪縛を脱した新世紀ライダーと比して、平成『ウルトラ』ヒーローがデザインに自由度が乏しく、突起やツノなどがタブー視されて、凹み系のデザイン一辺倒なのは、特撮ライターの先達・小林晋一郎氏の怪獣デザイン理論(『宇宙船』誌で連載された「形態学的怪獣論」)の呪縛のゆえだろう――もちろんそれだけ普遍度が高い理論だったのだともいえよう。


 純粋芸術ならぬ大衆芸術・子供向け芸術では、ヒーロー性の大前提の上で、親近感や庶民性もブレンドすべきだ。
 95年パイロット版ウルトラマンネオスの、笑った口にヤンチャな爽やか可愛さもドコかである顔を、ウルトラマンパワード(93年)やウルトラマンガイア(98年)のプチ怖い系までとは行かずとも、00年ビデオ版『ウルトラマンネオス』において端正顔に改造したのは――ハンサムになったこと自体は肯定するが、初代ウルトラマンCタイプ的なヨコに開いた口が、Bタイプ的なタテ長・輪郭ハッキリ系寄りの口に変化したことで、愛嬌・甘さ・やさしさを醸す要素が減衰してしまったようにも思う――、子供ウケよりもマニアに意識が向きすぎなようにも思えて、スレすぎて1回転2回転してしまった筆者としては、手放しでは肯定できない。


 仮に旧作への拘泥が悪だとするならば、先人の発言に過剰に重きを置き、権威主義的に拘泥する行為も悪だろう。いわんや、自身の独創による見識を誇るのではなく、先達との親交・接触・コネをこそ誇るような前近代的・封建的・悪い意味での日本的ムラ世間(笑)な行為をや。


 が、“新しさ”や“独創性”に優位を置く行為&言説も、“進歩”(経済的進歩・科学的進歩)や“自我”(個人主義)が無条件に善きものとして信じることができた、近代前期固有のローカルな理念にすぎないという説もある。
 また、デザインにしろ作劇にしろ、要素要素に分解していけば、真に新しいものなどはナイのだ、同じものこそ時代を超えてヒトの心に訴える普遍的なものなのだ、すべては組み合わせで表面の意匠のみが異なっているから新しく見えるだけなのだ、とする説も、近年では盛んなようだけど……(笑)。

(了)
(02年6月執筆〜後日加筆・特撮雑誌『宇宙船』読者投稿未掲載〜つまりボツ(笑))



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*1:筆者の解釈による要約:1.古生物や動物がただ巨大化したものは避ける。2.妖怪ではない。奇形化しない。つまり頭が2つだの8つだのは避ける。3.体が壊れたデザイン、傷や傷跡をつけたり、脳や内蔵がハミ出たり、血を流すことは避ける。

*2:レオの弟・アストラ&ウルトラマンキングのデザインは鈴木儀雄ではなく、現在でも活躍されている特撮美術の大沢哲三によるもの。大沢の代表的なデザインは『ミラーマン』(71年)のシャープな戦闘機・ジャンボフェニックスや、それとはまた対照的な猟奇的な印象の『レオ』怪獣だろう。以上、『ウルトラマンレオレーザーディスクのライナーがソース元。

*3:今は懐かし80年代ポストモダンの時代に、新人類世代(60年前後生まれのオタク第1世代と同世代)の学者・中沢新一が『雪片曲線論』(85年・88年に中公文庫・ISBN:4122015294)に『ゴジラ』論を所収していたこともダブル・ミーニングで掛けています(昨今、隆盛する学者によるサブカル評論の走り)。

*4:ウルトラマンAGE(エイジ)」やタツミムックなどの各種特撮書籍や音盤ライナーでも活躍されるベテラン特撮同人ライター・K氏は、『帰ってきたウルトラマン』(71年)最終回をオンタイムで小学1年生のときに視聴していて、2代目ゼットンが登場した際に、「もうダメだ!」と思ったそうである。造形が……ではない。ゼットンという最強怪獣にウルトラマンは勝てないだろう、という意味である(笑)。低学年児童の感性なんてそんなものだろう。造形うんぬんが気になるのはもっと後年、あるいはマニア向け書籍で審美眼が鍛えられたマニアだけだろう。

特撮意見① ジャンル作品における現実の反映やリアリティは是か非か?

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(文・T.SATO)
 押井守カントクの「日本特撮=歌舞伎発言」(『宇宙船』Vol.94・2000年秋号の映画『アヴァロン』記事のインタビュー)。
 傾聴に値するけど、それにコロッといかれたり、自説に牽強付会したような反響には、個人的に違和感を覚えるので異論をば。


 SF・ファンタジーは現実の反映があればあるほど高尚か?
 ンなモンそんなに単純じゃネーだろう。反映・風刺で成功したモノ、反映があってもヤボで鼻につくヤリ方で浮いてて失敗したモノ、反映がない全くの非現実なのに面白い、あるいはつまらないモノ。
 要は反映があろうがなかろうが、面白いモノは面白くそーでないものはそーでない! つまり作品の価値とは、現実の反映の有無とは別の次元にあるということだ。


 だいだい現実の反映や現実自体を優位とする尺度で測るかぎり、フィクションは永遠に現実の従属物で現実を超えられないし、いかに風刺があろうと報道や社会運動に比すれば現実逃避・ヒマつぶしの側面は否めない。
 こんな最初から敗北が決定している価値尺度を採用しても仕方ない。もっと虚構・空想であること自体に積極的な意義を見出すべきだ。


 もちろんジャンル作品の評価基準に、現実・リアリティや人間ドラマの有無&軽重を尺度とすること自体には一定程度の有効性はある。
 ただこの際云うが、それだけではザルでラフな取りこぼしのある万事に当てはまらない不完全なモノサシにすぎない。
 日活無国籍アクション……などはともかく(笑)、人間描写よりも叙事でテーマを体現する『2001年宇宙の旅』(68年)、現実描写も人情描写もない不条理劇。『ウルトラQ』(66年)『ミステリーゾーン』(59年)などの一部回における、小学生レベルの感想文に要求されそうな(笑)近代的理念・社会派テーマや世俗的道徳チックなホメ言葉に回収されえない、独特なある感じ(センスオブワンダーとか夏目漱石夢十夜』風に東洋的に云うなら禅味・俳味とか)。
 コレらをリアリティや現実の反映云々で説明できるワケがない(笑)。


 非リアル作品も間接・逆説に現実の反映だってな論法もアリだけど、フツー云う現実の反映はそーいう作品のことではないだろう。
 日本のヒーローを取っても、『星雲仮面マシンマン』(84年)、『激走戦隊カーレンジャー』(96年)、『超光戦士シャンゼリオン』(96年)などのある種ハイブロウ(笑)な作品も、現実に根差したリアルな人間ドラマではありえない。


 何も現実志向や人間ドラマ志向を否定するものではない。
 初期東宝特撮映画や第1期『ウルトラ』シリーズは人間ドラマより事件に重点を置き、第2期『ウルトラ』シリーズや近年(01年)なら世評高いロボアニメ『地球防衛企業ダイ・ガード』(99年)などは事件より人間ドラマに比重が置かれるが、後者だって優れている(とはいえ共に怪獣という大ウソが出現する以上、一般ドラマ・一般映画とは一線を画する)。


 要は両者とも突き詰めれば最上のものは面白いということだ。
 著名人の発言を自説の補強に引用するのはスキではないが、押井守カントクも子供だましを否定していなかったハズ(ついでに云うなら、かのスタジオジブリ高畑勲カントク(『太陽の王子ホルスの大冒険』(68年)、『じゃりン子チエ』(81年)、『火垂(ほた)るの墓』(88年)、『おもひでぽろぽろ』(91円)など)がファンタジーを否定するのはよほどのことがあったのだろう……という、押井発言を受けてファンタジー・非リアル系作品を否定ぎみに位置づける趣旨の読者投稿もあったが、その論法だと高畑発言にのみ依拠する事大主義にすぎず、論理にも実証にもなってないよーな・笑)。


 80年代前半のジャンル評論草創期ではあるまいし、現実や人間ドラマを錦の御旗のモノサシにすることはジャンル作品の豊穣な可能性を自ら閉ざすに等しい。
 作品を肯定する際、そう評するのが適切とはいえない作品にも、旧態依然で貧困なモノサシをあてて作品評価にユガミや混乱を惹起しているケースもまま見受けられる。


 ギャグや非リアルを許容する世界観でもネはシリアスなドラマが構築可能なこと、シリアスなドラマ&テーマがなくとも優れた作品も成立しうること、なども多彩な語り口で包括して説明&肯定できる、ジャンル評論における多層的・重層的な統一理論の構築・登場が切に望まれる。

(了)
(初出・特撮雑誌『宇宙船』Vol.97・2001年夏号・読者投稿)



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特撮評論同人界での第2期ウルトラ再評価の歴史概観

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(文・T.SATO)
(03年12月執筆)


 「怪獣ファンは〜すべきである、とか第二次ブーム作品は第一次より低級である、怪獣番組は怪人番組より高級、アニメなんて見ないのが本来の怪獣ファン、『ゴジラ』やウルトラに勝るものは存在しない、etc、etcのドグマや、後世に残る価値がある、大人の鑑賞にも耐えうる、etcの権威づけとは、自分のミーハーとしての立場を拠り所にして戦わなければならない。(中略)さあカクメイを始めよう」

(同人誌『PUFF(ばふ)』17号(故・富沢雅彦 79年4月))


 第2期ウルトラを擁護可能な論法が、特撮評論同人界ではじめて確認できるのは、おそらくこの記述だろう。
 同じく『PUFF』の初期メンバーを兼ねていたオタク第1世代(一般には60年前後生まれのマニアを指す)たちの手による、『怪獣倶楽部』メンバー(酒井敏夫(竹内博)・中島紳介・金田益実・徳木吉春・小林晋一郎・池田憲章)らによる、草創期マニア向け書籍『ファンタスティックコレクション№10 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマンPARTⅡ』(朝日ソノラマ〜『不滅のヒーロー ウルトラマン白書』(82年に初版・95年に増補第4版・asin:4257034505)に合本再録)が発行されたのは、この前年の78年。


 「第1期ウルトラ至上、第2期ウルトラは低劣!」という趣旨の記述をウケウリ、当時あまた刊行されはじめたマニア向け書籍などの、初期『ゴジラ』や初期『ウルトラ』こそ秀作、後期『ゴジラ』や後期『ウルトラ』や『仮面ライダー』などの70年代変身ブーム時代の作品は、粗製乱造の愚作だ! との論法・風潮に影響されて、幼少年期に楽しんでいたハズの第2期ウルトラを、我々の世代が恩知らずにも否定しはじめた(汗)この時期にこの主張!


 氏の先進性が伺えよう。富沢氏は同人誌『PUFF』の発行をつづける傍ら、草創期マニア向けのアニメのBGM集の解説書、特撮雑誌『宇宙船』の初期号や、アニメ誌『OUT(アウト)』、『アニメック』などでもコラムなどを発表。
 『ガンダム』などのリアルロボットアニメ全盛・一辺倒の80年代前半のアニメマニア界においても、子供向けアニメの楽しさ・面白さを言説化。
 ハード&シリアス志向ばかりだった当時のマニアが見向きもしなかった『キン肉マン』を擁護してみせ、同じく当時のマニアがもっとも盲目的・崇拝的に神格視していた時期の『ガンダム』や富野由悠季監督やリアルロボアニメ路線を、アニメ本来の楽しさを切り捨てた一部の高級志向マニア向けの作品にすぎず、先細りは必至であると喝破してみせた、もっとも先駆的な御仁であった。


 富沢氏は86年秋に30歳の若さで逝去。
 氏の業績や人となりは、別冊宝島104『おたくの本』(89年・JICC出版局(現・宝島社)・asin:4796691049・00年に『「おたく」の誕生!!』(asin:4796617353)と改題して宝島社文庫)中の『「おたく」に死す――富沢雅彦の生涯』、およびその記事を改稿して収録した『天使の王国』(浅羽通明・91年にJICC出版局asin:4796602054・97年に幻冬舎文庫asin:4877284869)にくわしい。


 氏はメジャーな存在とはいえなかったが、マイナーメジャーな存在ではあり、熱烈なファンが多かった。のちに商業媒体でも活躍される特撮同人界出身者の中では、同人誌『空魔獣』(グランゲン)の主宰・岩佐陽一氏や、オタク第1世代の御仁ではあるが同人誌『殺した奴をまた殺す』(必殺シリーズ研究会・音羽屋)の主宰・坂井由人氏がこれに当たる。



 ただし富沢氏自身は、怪人番組再評価は行うも(『仮面ライダー』初作(71年)〜しかし初期の旧1号ライダー編には否定的で新1号ライダー編を賞揚! 『人造人間キカイダー』(72年)や『イナズマンF(フラッシュ)』(74年)などを評価する)、第2期ウルトラの具体的な再評価を行なったわけではない。


 それを行ったのは、81年に設立された特撮同人サークル・帰ってきたウルトラマン研究会(現・FC)スタビライザーだろう。主に2代目代表の矢的八十郎氏と新伴仙司氏を中心に会誌『RETURN』にて第2期ウルトラ論を展開、のちには商業媒体でも並行して活動し、現在にいたるまでコミケごとに会報(同人誌)を精力的に発行しつづけて、現在に至る。


 84年12月には、特撮同人サークル・NAT(ナット)系のお姉様たちによるウルトラマンエースに合体変身する北斗星児&南夕子へのキャラ愛&作品研究を両立させた(当時の特撮同人女性はキャラ愛と研究が未分化?)、同人誌『ウルトラマンA・全員脱出!』(グループSOS)が発刊、89年までに5冊(準備号?、『全員脱出! 1』、86年7月に『全員脱出! 2−Ⅰ』、87年8月に『全員脱出! 2−Ⅱ』、89年5月に『全員脱出! 3』)を刊行する。斯界(しかい)は放映当時、女児であった主宰者のMANA氏をはじめ女性たちが透視した『エース』の深層・恋情ロマン・分析に心打たれた。(後日付記:近日中に「『エース』同人誌の歴史1」で紹介&レビューをブログ上にUP予定)


 87年12月には、『ウルトラマンタロウ』研究同人誌『ウルトラ怪奇大怪獣図鑑』(新藤義親・スタジオパンドラ(特撮同人サークル・ETC大江戸の別働隊))と、同人誌『作戦会議』(矢的八十郎・黒鮫建武隊)が同時に登場。
 新藤義親氏は、のち92年にリム出版から初代『ウルトラマン』(66年)〜『ザ☆ウルトラマン』(79年)、『ウルトラマン80』(80年)までの8作品、各5巻ずつで発刊予定であった(実写映画『8(エイト)マン』(92年)の製作・興行失敗でリム出版倒産により頓挫)、「COMIC’Sウルトラ大全集」の『帰ってきたウルトラマン』第1巻「復讐の宇宙戦線」(TV本編の第18話『ウルトラセブン参上』の後日談で宇宙大怪獣ベムスターの別個体が来襲してくるエピソード)に原作としても参加。『ウルトラマンA(エース)』にも原作参加したが、これは99年に双葉社より陽の目を見ることができた。東映メタルヒーロー特警ウインスペクター』(90年)、円谷プロの『電光超人グリッドマン』(93年)などにも脚本参加している。


 89年(平成元年)は第2・3期ウルトラの同人誌ラッシュ。


 2月、特撮同人サークル・ミディアムファクトリーが同人誌『帰ってきたウルトラマン大百科事典』。2代目代表の高橋忍氏や山田能嗣氏を中心に、前書きや後書きの解説や総論などで第2期ウルトラを談義する(91年8月の同人誌『ウルトラマンレオ大百科事典』では、第1期ウルトラマニアからの借物論法で論敵を凌駕しえず、第2期ウルトラを旗印に帰属意識だけで自足する、今でいう「ヌルい」マニアへの批判も行う。92年8月には『続・ウルトラマンレオ大百科事典』も刊行)。


 8月、弊サークル同人誌『假面特攻隊6号』で初期メンバーが第2期ウルトラ(『帰マン』〜『タロウ』)を特集(私事で恐縮だが、編集者(本ブログ編集者)はこの本の通販で当サークルに縁を持つ)。90年8月の同『7号』では『レオ』を扱い、これらの記事の再録に、『ウルトラQ』(66年)〜『ウルトラマングレート』(90年)の記事を加筆して、別冊号『ULTRA SERIES』を90年12月に刊行している。


 12月、大石昌弘氏も同人誌『夢倶楽部』VOL.2で『ウルトラマン80』、90年8月のVOL.3で『ウルトラマンレオ』特集をフィーチャー。以後も第2・3期ウルトラを扱いつづけ、91年8月のVOL.4では『ウルトラマンタロウ』を、92年12月のVOL.6で『レオ』特集第2弾、94年12月のVOL.8では『ウルトラマンエース』を、97年8月のVOL.10では『ザ☆ウルトラマン』特集第1弾、12月のVOL.11では同作特集第2弾、翌98年12月のVOL.12では同作特集第3弾を、長年の業界コネで入手したシナリオや秘蔵資料にアニメの設定画集などを採録し、批評・感想を交えた書籍を発行しつづけた。


 現在では商業媒体で活躍される、同人誌『特撮指令』(プロジェクトピンク)の主宰・井上雄史(いのうえ・たけし)氏、同人誌『空魔獣』(グランゲン)の主宰・岩佐陽一氏の『ウルトラマンレオ』への好意的言及も印象に残る。


 90年代最大の収穫は、特撮同人サークル・スタビライザーやミディアムファクトリーで活躍してきた黒鮫建武隊(後日付記:バラしても問題ないと思うので明かしてしまうと、黒武建雄や山田歩の名義でも音盤構成や商業誌などで活躍)氏による、95年8月に発行された大冊の全話解説&研究評論同人誌『ALL ABOUT THE ウルトラマンタロウ』にトドメを刺すだろう。


 この過程で、第1期『ウルトラ』マニア譲りのSF・リアリズム・アンチテーゼ編賞揚の論法を用いての、第2期『ウルトラ』における実は少なくはないアンチテーゼ編賞揚。
 第1期『ウルトラ』のように怪事件や怪獣&特撮映像中心の構成ではなく、人間ドラマ中心の構成である第2期『ウルトラ』の作劇。
 初代『ウルトラマン』の科学特捜隊のレギュラーメンバーのようなマンガチックな類型ではない、第2期『ウルトラ』のレギュラー隊員たちのリアル寄りの方向での描写や描き分けや大人の心情描写、あるいはディスコミュニケーション描写の発見。
 青春ドラマ(民間人ヒロインの登場)、ホームドラマ(ただし欠損家庭である)、子供ドラマの悪意性(60年代の第1期ウルトラの時代とは異なり、ヒネていたり苦悩もする近代的内面や自我を備えた子供描写の出現)。
 ファンタジー・不条理・チャイルディッシュ・東映ギャグ怪人の先駆ともいえるギャグ怪獣(実はそれらは高視聴率回であるとも判明)。
 真船禎・岡村精ら実相寺昭雄監督以上の映像美。鈴木儀雄のアバンギャルド美術。
 『ポケモン』『ビックリマン』『キン肉マン』的多数ヒーローや、神話的年代記に天上世界の描写を先取りするウルトラ兄弟や一族の歴史と、銀河をまたぐ宇宙警備隊の組織図、学年誌マンガでのスペースオペラ性などの、80〜90年代以降の児童向けヒット漫画やアニメに必須の要素の発見など、多彩な擁護理論が登場・蓄積・発展していった。


 90年前後にはすでに特撮評論同人界の天下を制した第2期ウルトラ派ではあったが、しかし残念なことに、商業誌・一般マニアレベルでこれらの重要な成果が正しく還元されていったかといえば……(汗)。


 その原因は3点考えられる。


①特撮評論同人界、即プロジンとなりえていた70年代末期のマニア書籍草創期とは異なり、パイの固定化で商業誌と後進同人との間で断層が大になっていたこと。


②一般マニア層に対して、特撮評論同人界側が積極的に啓蒙することを怠っていたこと。


③他ジャンルとは異なり、特撮商業誌編集者側にも、若いライターなりその発想を異端(?)であっても発掘・育成して、異端とそれへの再批判も含めての、ジャンル自体や論争を活性化させようという気運・大局眼には決定的に欠けていたこと……(場合によっては人事権・ミクロポリティクスを発揮して排除し、悦に入る傾向もあったという・汗)。


 これら第2期ウルトラ擁護の先達が商業誌で主張を行うのは、散発的には第2期ウルトラをメインに据えた『ウルトラマン大全集Ⅱ』(87年・ASIN:4061784056)、そしてはるかに時代を下った99年のタツミムック『帰ってきた 帰ってきたウルトラマン』(ASIN:4886413641)においてであった(控え目な物腰で、物足りなくも見えたけど〜失礼)。


 実は編集者自身が、特撮評論同人界での上記現象のチルドレンでもある。先人に敬意を表しつつ、今後とも第2・3期ウルトラの再評価&啓蒙にも邁進していく所存だ。

(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2004年号』(03年12月29日発行)『日本特撮評論史』大特集「特撮評論同人界での第2期ウルトラ再評価の歴史概観」より抜粋)


『仮面特攻隊2004年号』第2刷補足:
 同人誌『お楽しみはレオからだ!』(滝沢一穂・82年)も忘れちゃイケナイ。滝沢氏は、東映メタルヒーロー時空戦士スピルバン』(86年)#27の脚本、書籍『ウルトラマン仮面ライダー』(93年・文芸春秋・01年に文春文庫・ASIN:4167660059)などでも活躍された御仁。(当該補足は、特撮同人ライター・森川由浩氏からの情報提供)


特撮同人誌のレビューについて

 本サークルでは、今回の特撮同人誌の歴史概観だけに留まらず、今後とも、現行特撮作品をレビューすると同時に、過去の特撮商業書籍や特撮同人誌の発掘や紹介やレビューを行い、それらが生み出した論法や成果を言語化・言説化・歴史化して、今後の特撮評論を行う際にも、多くの方が汎用的に参照できるモノサシとして紹介していく所存です。
 対象にされ、遡上にのぼらされる側の立場の方からは、後進のひよっ子に言及などされたくない、あるいは批評する立場の弊サークルがキライだから取り扱われたくない(笑)などのあまたの不満も多々生じるかとは思います。
 が、昨06年に逝去された『マンガと著作権』(01年・コミケットASIN:4883790894)も編集された同人誌即売会コミックマーケット代表にして漫画評論家でもあらせられる米沢嘉博氏らも前述の著席で言明されていた通り、相手がアマチュアであっても少部数であっても不特定多数に対して一度、発表・配布されたものに対しては、レビュー・批評行為の対象となると考えますし、またその際に事前に通告やお願いをする必要はないと考えます(当たり前だけど・笑)。
 先の書籍でも語られている通り、事前に当事者に内容を確認して了承をもらうようなレビュー・批評が面白いのか? 価値や意義があるのか? という動議にも通じるものですネ。
 また書籍の奥付に「引用は不可」との記述があっても、社会的には、また著作権法における習慣や判例においても、紹介・批評のための引用は認められています。
 あくまで、引用と地の文との主従・主客関係は逆転してはイケマセンが。弊同人誌編集者(本ブログ編集者)の最終責任において、その点はクリアしたものと判断して特撮同人誌レビューを、以後も同人誌(&ブログ)上にUPしていく所存です。よって、同人誌(&ブログ)でのレビューや批評・価値判断の内容や形式が不当・侮辱に感じられて、掲載をやめてほしいとの指摘が仮にあっても(今までにそーいう指摘は来たことがナイけれど・笑)、掲載を撤回するつもりはありませんので悪しからず……。
 (後日付記:クレームのある方は、知己も含めてまずはコメント欄へ。知己の場合は、郵便やFAXも可。非公開のやりとりを望む場合は、その旨をお伝えくだされば、以後の通信手段は調整いたします)


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