『ターンAガンダム』(99年)評1 ~序盤合評
『機動戦士ガンダムNT』(18年) ~時が見え、死者と交流、隕石落下を防ぎ、保守的家族像を賞揚の果てに消失したニュータイプ論を改めて辻褄合わせ!
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『∀ガンダム』② 〜成人式・ついに土俗に着地した富野
(文・T.SATO)
(1999年8月2日執筆)
散文的に『ターンA』
散文的に同人誌製作意図もからめつつ
ナニナニ、またまた新作『ガンダム』が始まる? それなら、過去に愚輩とその友人が『ガンダム』について書き飛ばした同人誌原稿を集めて、我らが富野カントクの思想的遍歴・変遷がたどれるような配置・編集をほどこし、いっちょお手軽本でも作ってみまひょかな……。
というような、読者をナメくさった……あイヤイヤ、同人誌作りをカルく見た……もとい、筆者も物書きオタクである以上、作るからには所与の時間・文量等の条件の範囲内においてではあるものの、それなりに誠実にイイものを作ろうとは考えていますけど……、その実やはりお手軽に(笑)これから本を作ってみたいと思います。
作品の見方・楽しみ方、あるいは消費の仕方はイロイロあってイイと思います。というか放っておいてもイロイロ出てくるもんでしょう。
カッコいいアンちゃんが出てるから……、美少女キャラが出てるから……、はたまたメカのディデールしか見ないヤツ。それらの見方を完全否定することはできません。……パーフェクトな見方だとも思わないけどネ。
ただまぁ、これら上記のファクターが渾然一体となりつつ、互いに相和し相克するところから生じる“ドラマ”というかドラマ以前の“お話”を楽しんでいるというのが、特殊偏向なマニアをのぞく(笑)、一般的・平均的な人間の心理というものでしょう。
この相和し相克するところのものは、何も人間でなくともよく、メカとメカが相和し相克するところのバトルシーンであってもよいし、背景というか大状況それ自体……戦争状況や天変地異それ自体が主体となって人間や自然物が翻弄される“叙事”的な有り様の変転・変化も、広い意味での“ドラマ”以前の、実は“お話”であるからこそ、ヒトはスペクタクルなものにも魅かれるのかもしれません。
ロボットアニメや怪獣ものの場合、ドラマといえば何も人間同士の人間ドラマのことばかりではないでしょう。アンちゃん・美少女・メカ・大状況というファクター内部、もしくはファクター相互の葛藤からでも生じるものでもありましょう。
ただ、ある種の感性が干からびて窒息して、別の部分が異常発達・肥大化したような、このような本を手に取り、もしくは購入してしまうような人種は、“お話”の叙事的なところに留まれず、意味や価値付け、あるいはウラにある法則性などを求めて想定してしまう心的傾向があるかと思われます(って一般化したらマズいか・笑)。
むろん、それが節度あるものに留まっているうちはイイけれど、病的になると、アリもしない意図を求めたり、“お話”自体はツマラナイのにそれはさて置いてしまって、知的遊戯に淫した本末転倒な深読みを延々とつづけられてしまう居心地の悪さ(誰か止めてくれー!って、この本も同じか?・笑)は、読者のみなさまもよく同人誌やマニア向け評論集で眼にするところでもありましょう。
じゃあ本誌はそんな現状に反発して、あくまで形而下の身の丈の実感で、即物的な感覚からスタートしていこう! という本なのかと問われると、そうでもありません(少しはその意図もありますが)。しょせん小生もオタク、こんな趣味、しかも絵空事のアニメ物語に関ずらわっていること自体がすでに即物的ではありようはずもありません。
結局のところ、絵空事の物語から自然と思い浮かんでくるところの観念遊戯を、これから本誌でも延々と繰り広げようとしています。が、それをやりつつも頭デッカチの転倒を起こす一歩手前でグイと踏み留まり、節度を保てないか、いや保とうというのが本誌の一方の編集企図であり意図でもあります。はたしてそれが成功するか否かは読者の判断に委ねます。
考えつつも、考えすぎちゃうこと(ヒトによってはそれに自己陶酔がカブっていることもある・笑)へのブレーキを課すのが今回の本誌の編集方針です。
が……。その逆に、あんまりにも考え無しじゃねーのソレというような同人誌や、資料とアラスジばかりで本が作れたり、富野カントクがスゴいのは判るけど現人神(あらひとがみ)じゃないんだから、アレもコレも全てイイみたいなソフトファナティックな新宗教的祀り方や、『機動戦士Z(ゼータ)ガンダム』(85年)初期編の毒ガス兵器と後年の地下鉄サリン事件(95年)を取り上げて、だからスゴいんだぁとか云われてもなぁ……(オマケで言及するならともかくメインで、そんな表層的な類似性があるからこそ作品がスゴいと受け取られかねないニュアンスで語られても……)、といったような同人誌状況、『ガンダム』本を見るにつけ、これなら『ガンダム』専門家じゃない凡人のオイラでももうチョイ気の利いたこと云えるよナという公然たる秘密(笑)の編集方針というかスケベ心もありまして……(思い上がってます、スミマセン)。
いや、いろんな本があってイイし、筆者も若いころは(今でもか?)、ドーしようもないものを今となっては書き散らしていたと後悔しきりなので、デカいことは云えませんが、普段は畑違いの同人誌を作っているファースト『ガンダム』世代たるオールド・タイプのワタクシめもたわむれに『ガンダム』同人誌を作ってみるべいか。あまた在る『ガンダム』本の片隅を占めさせていただき、枯れ木も山のなんとやら、と思っておりますので、関心のある方はよろしくお付き合い下さると幸いです。
散文的な物語
さてさて、以下はマジメに件の『ターンAガンダム』(99年)のことどもを。
アニメマニア世間の巷では、本作は『ガンダム』シリーズの集大成というような捉え方をやはりされるのであろうか?
しかし、筆者の印象はそれとは少しく異なる。番組がはじまってみると、思ったほどには集大成ではなかったし、筆者の見方の文脈による『ガンダム』変遷観とはストレートにはつながらなかったという印象。
自身の過去の『ガンダム』同人原稿での分析・予想の延長線上に『ターンAガンダム』が存在する! というような編集方針・構成の同人誌をひそかに作ろうとしていた筆者としてはアテが外れた観(笑)。
筆者の見るところ、富野『ガンダム』の世界観……それこそ政治的・社会的世界観は、『機動戦士ガンダムZZ(ダブルゼータ)』(86年)あたりから変化を見せだし、その思想が深まって以降は、ストレートに自身の作品の舞台設定・背景装置およびメインキャラに、富野カントクのその都度の思想・世界観をそれこそカナリ濃厚に意図的に込めている。
しかし、『ターンAガンダム』の作品内容およびキャラクターシフトは、カントクの思想・作劇意図から蒸留された人物像、あるいは逆に世界観を浮かび上がらせるためのイイ意味での作為的・対比的な人物相関図を持たせた『機動戦士V(ヴィクトリー)ガンダム』(93年)などとは異なり、わりと散文的なものだった(そーいう要素もまったくゼロではないのだが)。
『Vガンダム』ならば“母性”(個人的にはそれより“家族”なのだが……)というキーワードで総合的に語ることができよう。映画『機動戦士ガンダムF91』(91年)も単発映画ゆえかもしれないが、キャラクタードラマの積み重ねよりも、その舞台設定(敵側の血縁的貴族制社会と、主人公とまぁまぁイイ関係にある“母”が作ったというガンダムの設定)が、比較的前面に出てくる印象がある。
しかして、『ターンAガンダム』はどうか? 今のところ、なにかひとことで世界観から物語のテーマまでをも、くくれるキーワードがあるだろうか?
世界観はある。それは明白にして明確だ。
月と地球……。終末戦争から2000年(?)だか知らないが、オーバーテクノロジーを擁する月と、産業革命から100年そこいら(?)の発展段階の地球。その対比とファーストコンタクト。それらの意味するところを考察することはある程度はたやすい。
月では少人数が細々と生命をつないできたと想定されるが(ウラ設定は知らんョ)、いかに近代化しようと、そんな過酷な状況・環境を生き残るがために、精神的支柱を求めかつ構築もしてしまうのが(善し悪しは別にして)、集団生活を営む人間の性(さが)だろう、という富野カントクの冷徹な認識から来たものであろう。
それが月の民の社会構造の設定であり、オーバーテクノロジーのイメージとは相反する、“女王”という設定でもあるだろう(『ガンダムF91』の貴族制社会や、『Vガンダム』の宇宙植民国家における女王の存在の発展型)。ウラに込めた社会心理的な意図とは別に、表面的には“月の女王さま”というベタなイメージも楽しい。むろんベタなイメージは、今度は社会心理的なものとは真逆方向の、神話的イメージや構造をも作品に付与することとなる。
対するに地球側も、本読み・読者オタクも兼ねる方々ならばきっと判ったことであろう。『ガンダムF91』『Vガンダム』の“家族”的なるものの重視の延長線上に想定されて、民俗学の成果も援用したと思われる、近代以前の(というか都市化・郊外化が進む数十年前までは、日本にも各地で残っていた)、ねぶた祭り・若衆宿・夜這いなどの一時的な性開放、ハレの日(笑)、通過儀礼を想起させる――というか露骨に想起させようとしている――土俗的な「成人式」という祭り習俗の存在を、作品巻頭に持ってくる(……男女がそれぞれ相手を選んで一晩中……ってどう見てもそうだろう・笑)
この一見、非合理的・前近代的な月と地球、両者の(特に後者の)土俗的風習にも、現在(後期近代)の眼から見れば、また別種の次元で合理性はあるわけで、はたまた終末戦争(というものがホントにあったのかすらもが判らないけど)から約2000年(?)かけて文明を再度立ち上げてきた人類が、今またそーいう風習(というか生活の智恵)を持ってしまうあたりに、カントクの現在の人間観・社会観、およびストレートにそれを採用しないまでもそんな土俗的要素に、閉塞している人工的環境に満ち満ちた現代日本の時代状況を打破、あるいは半歩ふみこえてせめて息苦しさを緩和させるヒントがあるかもしれない、少なくとも汲み取るべき何物かがあるだろう、と考えているらしいことはよく判る……。
判るのだが……。果たしてこれをもってして『ターンAガンダム』という作品の内実を象徴しているか否か、これでもって作品世界全体を説明できるか否か、となると……心許ない。特にそこでくりひろげられている物語やキャラクターを説明するのにはまったく有効ではない。
赤ちゃんに飲ませるミルクを求めてドタバタする話や、『取りかえばや物語』のパロディ、『竹取物語』(…の後日談)のごとき話が……はたまた、富野作品『戦闘メカ ザブングル』(82年)や『ガンダムZZ』に出そうなギャグ系マッチョ系いやキチガイ系キャラクター・コレンとそのマンガ的なチビ&ノッポコンビの子分の存在が……、先にあげてきた社会的・風俗的な対比図式で説明できるワケがない(笑)。
99年8月現在までに語られている物語は(つまり『ターンA』のシリーズ前半では、との逃げ道は打っておく)、作品の世界観や舞台設定およびそこに込められた、ある種の社会的歴史的テーマ&意図を、効果的にウキボリにするためのドラマでは決してない。
むしろイイ意味で行き当たりばったりにも見える、極めて通常な意味での登場人物たちの物語に、ゲスト話、古典に材を取ったものなどがカラんだ、しごく常識的なものであり、非常に散文的なものなのだ。
この現実を前に、筆者は本作を、世界観や舞台設定からの深読みで語っていくことにためらいを感じてしまう(結局は語ってるんだが・笑)。少なくともそんな解析を、本論の結論とはしたくない。
この『ターンA』原稿が、あまりに“散文的”になっているのも、それが理由なのだ……(ウッソォ〜。コジツケェ〜(笑)。ちなみに、ひとくくりにできるキーワードがないから散漫だとか、『ガンダムF91』『Vガンダム』と比して劣っているとかいう、テーマ至上主義的な見方に与する気もまた毛頭ない)
そこで以下も、散文的に語るのが望ましかろうて……。
散文的に『ターンA』
まず筆者のお気に入りは、進駐している月の民・ムーンレィスの赤ちゃんにミルクをやるため、ガンダムで乳牛を探してまわるお話。
この話、色々あって(あまりなかったような気もするが・汗)ラストで唐突に、マジメでイイ奴だけどすっトボケた我らが主人公ロランくんが「実はボクも月の民なんです!」と堪らずカミングアウトしてしまい、省略技法で直後、パシーン!(平手打ち)
地球を守る仲間だと思っていたのにィ、とばかりにハイム家の元気な妹ソシエ嬢にビンタされて、ロングの全身図の超スローモーションで滑空してるところでFINの回(ナンナンだこの演出は・爆笑)。
あまりにもベタな題材で、展開やセリフも非常に判りやすかったことから(ホメているんです)、富野カントク本人があまり手を入れていないのではないかと推察される(それがよかったと云ってるんです〜笑)、この話が筆者はスキだ。
……こんなベタな話がスキだと明言すると、世界観の深読み志向とむすびつかねー、分裂してるじゃん!? とイジワルな読者から詰問されてしまいそうだが。
そのあたりは二率背反・アンビバレンツ。とはいえ、筆者は世界観至上主義者では決してないし、分析して自己陶酔するような人格類型でもおおよそないので(?)、感情的好みの次元では、人物主導のベタな話の方が、むしろスキである(むろんキャラと世界観設定の両者が両立して優れていれば、それに越したことはないのだが)。
世界観をしっかり持っている作品だけが優れているワケではない。人物主導であとから世界観が付いてくる物語にも、世界観がさして無い作品であっても、もちろん良さはある。
『ターンA』は、基本的には人物主導でありながらも若干、世界観寄りにシフトした比重の構造と作劇をしていると位置付けられるだろう。
でも、この話は面白いけど、ラストで主人公ロランくんが月の民である正体を明かす必然性はあまりない(笑)。
……ベタうんぬんがらみで話題を変える。
ベタな話は、真の意味ではリアルではないとキラうヒトも若いマジメなマニアには多いようだ。シビアな展開・パターン破りこそが、リアルであると思っているヒトもたくさんいるのだろう。
しかしリアリティという概念も結局のところ、その直前の時代の作品群と比較して感じ取れる概念・感慨でもあり、つまりは普遍的というより、ある程度、相対的な概念に過ぎない。
むろん、『ターンAガンダム』という作品がリアルではないと云っているのではない。
しかし思えば、ファースト『ガンダム』でリアルだと称された魅力群とは、何も世界設定やキャラやメカの描写にだけあったのではなく、レギュラーやゲストにチョイ役の何気ないセリフや仕種から来る、生活感にもあったのだ(空襲で故郷の幼なじみがどーこ−、生活のためにスパイをどーこーとか)。
そのあとアニメ史的には、リアリティの概念はさらにスレた視聴者……というかマニアに対応するために進化(特化?)を遂げていき、すれちがいやらディスコミュニケーションやらの方向に重点を移していった。
よって現在において、ファースト『ガンダム』におけるようなリアル描写をやったとしても、あのときとイコールの感慨は惹起せず、あるいは生活描写であれば生活感は感じさせるかもしれないが、過剰にリアルだ! といった感慨を視聴者に抱かせしむことはないのではなかろうか?(だからやるなというのでもない。ドンドンやってほしいことはやってほしい)
また我々マニアの側でも、20年という歳月はアニメというジャンルを相対化して、オールジャンルのドラマというメタ的な観点で作品を観ることを自然に獲得してしまえるだけの時間でもある。20年前であればアニメでは、もしくはロボットアニメでは、画期的なリアリティのあるお話、という評価も与えられたかもしれない。
しかし、現在のジャンル越境的な観点からはシチュエーションの意匠を変えれば、どのジャンルでも――戦争ものでも下町人情ものでも――成り立ちうる設定のお話だと思えてしまう話は多い(ジャンル独自の話こそが至上だと云いたいのでもない。そーでない話こそ普遍的なものだとの論法も成立しうる)。
よって『ターンAガンダム』の生活臭あふれる各編を観ることについては、現在の多くのマニアにとって、“リアリティの驚き”という観点からの感慨は、あまり催さないのではなかろうか?(仮説である。小中学生にとってはどうか判らない。『ターンAガンダム』をリアルな作品だ、と感動しているかもしれない!?・笑)。
つまりは、往年のファースト『ガンダム』に感じたような、リアリティによる驚きというものを、我々マニアが現在および今後のリアルロボアニメから、かつてと同様に感じ取ることは今後はムズカしいのでなかろうか?
本作にリアリティが欠如しているワケではない。しかしそれは、リアリティの驚きというよりも落ち着いた生活感。“リアル”というより“ナチュラル”とでも形容した方が、より正確な情動のようにも思う。
当然ながら“リアリティ”というものは、作品それ自体や、その根本でもある作劇自体の目標のすべてではない。一要素にしか過ぎない(むろんリアリティを不当に軽視するワケでもないのだが)。
だから筆者には、往時の多くのマニアがファースト『ガンダム』に感じたようなリアリティによる驚き。それの欠如をもってして、『ターンAガンダム』の各エピソードが劣っているとは思わない。
またこれが、ひとむかし前の富野作品ならば、パターンへの挑戦のつもりか、ペシミスティックな展開に多くが帰結したものだろう。しかし本作におけるいくつかのエピソードは、過剰な悲劇を惹起しない。むしろ、主要キャラクターたちの素朴な“善意”の発露(そしてその彼らの性格の視聴者への表明)に終始する観がある。
むしろ、“生活感”や“善意”に帰結する展開は、パターンへの挑戦&破壊それ自体が、アニメや特撮はたまた一般のTVドラマでも多用・乱作されて、最終回の常識(笑)となりはてて、成功もあるものの時にウンザリさせられる90年代後半という時代にとっては、かえって気持ちがよい。
実のところ、筆者にとっての今回の『ターンAガンダム』の魅力は今述べてきたような、イイ意味でのアリガチな――普遍的とも言い換えられよう――ドラマにこそある。
月の女王が100年(?)だか前にも、実はなぜだか『竹取物語』ばりに地球に来ていたことが明かされるエピソードは、半分バカバカしいと思ってしまうのもホンネだが(女王は何歳なの? 長生者? 冷凍睡眠していたの? 後日付記:冷凍睡眠して時折、覚醒して地球にひそかに来訪するお立場のよう)、ここまで大マジメにやってくれると爽快感すら覚える。出来がエラくよかった話とまでは云わないが、スキである。
世には、戦闘シーンをシリアスに禅問答しながらやっていれば、それだけで高度なドラマなのだと思うヒトもいて(笑)、オチャラケた中でもドラマは可能なのだという感覚&センスに乏しいヒトが、このジャンルのマニアには多いようだが、その観点からは『貴婦人修業』の回も大スキだ。
この話も要は、主人公ロランくんが女装して、月と地球の社交パーティーで踊る滑稽さを描くのが眼目の回で、その事象自体はどーこーということはないのだが、その過程や準備でのロランくんやハイム家のお嬢さまのお姉さんの方・キエル嬢の性格やらリアクションで、彼らの人物像を確認したり深めたりするところに意義がある。
一時の富野アニメにはこーいう配慮が欠けていた(って随分長い間、欠けていたような気もするが)。そーいう点からも、こーいう描写をやってキャラ性を出していく作劇が復活したことがスナオにうれしい。
むろん、公平を期するために云っておかねばならないこともある。この回はロランたちの滑稽な騒動を描くだけの回ではなく、初期編における舞台となる一地方の都市国家・ノックスが崩壊するまでの主軸となっていた、月と地球の一連の外交交渉の中の1ページでもある。
“戦争”というものは如何に終わらせるか、終わったあとで双方をその優劣に相応する状態&条件に如何に決着させるか、時によっては戦争継続中からそのような取り引きをなさねばならない。むろんその逆に“戦争”がはじまる前に回避のために行なう(でも当然たがいに有利な条件で決着させようとする)外交交渉もある。
本作『ターンAガンダム』の初期編はあまりにも予想外に過ぎ、驚くべきことではあったが、月と地球の外交交渉がメインとなる展開を見せた。
むろん月の側が圧倒的な科学力と武力を保持している。……のだが、そこはそれフィクションですから(笑)、偶然ご都合主義にも、地球側もロストテクノロジーたるモビルスーツ(巨大ロボ)がワンサカ大量発掘されることとなる。
しかし、そこで地球側の頼れるアンちゃん・一地方領主の御曹司グエンさんは、月と対等に渡り合い、なるべく地球に有利に事が運ぶようにと、発掘モビルスーツの戦力を外交のカードに使うこととなる。
それはまったく外交術として、まちがったことではない! 本邦初の(?)外交交渉アニメを我々は眼の当たりにすることとなったのだ!*1
“会議は踊る”よろしく、緊張感をはらみつつも優雅さと長閑さのあったナポレオン戦争後のウィーン会議の一要素などを、『貴婦人修業』の社交パーティーには込めているのだろう。……劇中の月と地球の互いの文化レベルにも相応しい(でも、ひょっとしたらこの要素さえ、現代人は見習えって云ってるのか?・笑)。
本話のラストは、地球の民に化けた月の民の、反・女王勢力による女王暗殺失敗で終わり、月の側も一枚岩ではないことを示して幕を閉じている。
ただ、スレたマニアとしては本作の外交交渉をまぁ面白くは感じるが、一般的なマニアや若いコ(ローティーン)にとってはいかがなものなのか? メカロボ戦目当てのファンにとってはどんなものなのか?
事前にアニメ誌で明かされていた、月と地球のファーストコンタクト! 地球人は月の人間(植民者)の存在を忘れ去っていた! どころか宇宙人だとさえ思っているようだ! という基本設定から連想された、劇的な断絶イメージから想定される大騒動とはずいぶんちがっていた感は否めない。
軋轢はあるものの、月から移民してきた民や軍人たちと、地球の民は鉄条網を介したものにせよ、怒鳴り合いとかのコミュニケーション(笑)は成立しているし、パンを売り込んでいるヤツもいる。
それが面白いのだが、でもそれはジミな面白さであって、スペインのコルテスによるアステカ帝国攻略ぐらいに圧倒的な格差を見せた方が、物語的にも対比的にも絵的にも判りやすかったのではあるまいか? #1の数年前から実は外交交渉をひそかに進めていたってゆーのも、リアルなのかもしれないがドラマチックではないよーな。一概にどちらがよいかは云えないが……。
本邦初の外交交渉アニメなどとホメすぎてしまったが、その萌芽は『ガンダム』シリーズの中にもある。ただしファースト『ガンダム』の物語をそれっぽく終わらせるための装置、便宜的なナレーションとしての終戦協定や、交渉する以前にコロニーレーザー・ソーラーレイの光に消えて終わったジオン公国のグレート・デギンではない。
まったく勝手な個人的推察だが、それは『機動新世紀ガンダムX』(96年)の最終回オーラスに着想のひとつがあるのではなかろうか?(富野カントクは認めないだろうけど。あるいはそもそも全然観てない可能性もあるナ(笑)。むろん作家というのは、種々多様なものからインスピレーションを受けるのであって、コレが唯一絶対のアイデアソースだ、などというチャイルディッシュな主張をする気は毛頭ない)
『ガンダムX』においては、最終回で作品テーマ(ニュータイプの否定!)の決着は見るものの、戦争状況が終結したわけではなく小競り合いはつづいていて、主人公ガロードの兄貴格と父親格のちょうど中間とも云うべき15歳ほど歳上の、ファースト『ガンダム』の主人公アムロと好敵手シャアの成れの果ての投影人物とおぼしき、地球と宇宙植民者の両国のキャラたちが、外交交渉(終戦交渉)を進めているというオツな描写で幕を閉じている。
そーいえば、『ターンA』における地球の側には統一国家が存在しない。舞台であるアメリア(アメリカ)大陸レベルの国家も存在しない。月と外交交渉を進めるグエンさんも一地方領主ということで、他の地方領主が2クール目に至って登場したのはみなさまご存じの通り。
しかも領主と云っても、“領域国家”ではなく、せいぜい都市のまわりに塀か堀を築いてその中では勢力を、周辺には盟主としての影響力を発揮している、いわゆる“都市国家”というレベルの権勢でしかないようだ(これでは中国なら古代殷や周帝国といった段階で、近世でも統一国家がなかなか成立せず都市国家が跋扈していたドイツやイタリアみたいな政治的統一レベルのようですね・笑)。
実はやはりこれも『ガンダムX』のファクターのある種の再生(?)だ。『ガンダムX』はあくまでも戦後15年(アニメ新世紀15年の隠喩)の決算として、新世代の主人公ガロード少年がいまだにニュータイプ(=アニメ新世紀)という幻想に執着する旧世代を乗り越え、もしくは解きほぐしていくのが裏面の物語(メタフィクション)でもあるのだが、むろんガロード自身の成長物語がオモテの主眼ではある(ちなみにニュータイプを否定する賛否両論の最終回についても筆者は肯定派。……ていうかあの結論は間違ってないゾ! 『ガンダムZZ』(86年)以降の富野ガンダムの流れを見ていたら、ニュータイプの位置づけがあーなっても不思議ではないハズ!)。
しかし、これらの点に留まらず、『Z(ゼータ)ガンダム』(85年)以降の富野作品――まぁ『Z』の直前作の富野作品『聖戦士ダンバイン』(83年)、『重戦機エルガイム』(84年)もそーだけど――に欠けていた“経済”、というとオオゲサだから“下部構造(C)マルクス”といってもオオゲサだけど(笑)、何を喰ってどんな世界でドーいう生活をしているんだという、ファースト『ガンダム』には存在していて、しかも重要なフンイキ作りの要素のひとつでありながら、それ以後の続編『ガンダム』シリーズではなぜだか決定的に欠如していた(それが筆者などには不満だった)要素を、『ガンダムX』ははじめて自覚的に描いた、といってイイところもポイントであるだろう。
『Zガンダム』で、一般庶民がどんな地球環境でどんな生活をしていたかって、みなさん判ります?(って今では『Zガンダム』世代がマニアの大多数を占めてるようだし、筆者のちょい下の世代は『Z』前後の富野作品にアイデンティファイしてたヒトが多いようだから、こーいう言い方もよくないのかもしれないが……・汗)。
第7次宇宙戦争による地上の破滅的壊滅から15年、『ガンダムX』においては諸地域による政治的統一の度合に偏差はあるのだろうが、主人公たちの地上船が各地を放浪するうち、最初は終戦直後の焼跡闇市のごとき舞台から、都市国家、海上商業国家、そして次第に再統合されていく地球新連邦、新連邦VS小国編。国家と世界の再建再統合はさもありなん、というように物語の進行の過程で、世界を明らかにし、世界(後日付記:今様に云うならシャカイですか?)の留まることのない変化をも描いていった……(一方、客観的・鳥瞰的な視点も獲得するためか、単に道中もの・ロードムービーとするためか、主人公チームはそのどれかに肩入れすることはなく唯一、小国に味方したことはあるものの敗戦に終わっている。劇中世界の約1年間(?)で、あんなに急速に世界の再編が進むものかはともかく。まぁそのへんはフィクションですからご愛嬌。オレは許す!・笑)。
そう、都市国家という発想も、『ガンダムX』にて見ることができるのだ。すると、シリーズ後半では広大な領域を統べる統一国家が成立するのか? ……なーんて、やっぱり深読みに過ぎて、富野カントクはそのテのことは何も考えていない可能性も高いけど(しかし、むかしはともかく近年、富野カントクは王家ものの小説とかも書いているしなぁ(未読)。政治的なものにも関心あるんじゃなかろうか?)
むろん物語というのは、(例外はあるものの)基本的には〈世界〉を描かなくとも、まずは登場人物たちのやりとり・葛藤だけを描いているだけでも充分なものではある(その逆ではフツーは困るけど)。だから筆者は現行の『ターンAガンダム』という作品に大きな不満を持っていない。むしろ好ましくさえ思っている。
しかし、人物中心という作劇姿勢に好感は持つものの、その方向性で今一歩の不満を感じるところもある。それを記して本論を閉じることとしよう。
……グエンさん。グエンさんって地方領主の御曹司だよネ?(イキナシ文体変わる) なら親父さんは出てこないの? たしかオトナが政治や外交やってるから自分は産業革命やるとか初期編では云ってたと思うけど、親父さんは爆撃で死んじゃったの? ビデオ見返してないからよー判らんけど(←我ながらイイカゲンな視聴者)。
名門なら親戚遠戚たくさんいるんじゃないの? たくさん出せとは云わんけど、バックボーン・生い立ちが見えるくらいには出してもイイんじゃない?
それと、ほとんどひとりで外交交渉やってるみたいだけど、実はそれはそれでムリがあると思ってしまうのも半分のホンネで。ここは、『ガンダムX』の新連邦VS小国編の小国みたいに、強硬派・和平派・中立派をそれぞれ象徴させる人物を外交補佐に造形した方がよかったのでは?
我らがヒロイン、ハイム家のお嬢さま姉妹の、名作アニメ調のご両親に小間使い。すぐに死んじゃったり退場しちゃうのもナンだかなぁ。一時の富野アニメの悪癖、頼れるオトナが出てこない……をなぜまた今にやってしまうワケ? せっかく『Vガンダム』では、頼れる爺ちゃんたちを大挙登場させたというのに……。
ここはクサくてもベタでも生き延びさせて、彼らがどうやって商売人なり領主として成り上がって来たのか、という彼らの生い立ちや、そこから来る人生観・処世観みたいなものをときどき明かしたり、それで1本、番外編を作るくらいのことをしてもよかったんじゃないのかナ。
もし通俗的な物語に立ち返るという意図が、本当に富野カントクにあるのなら(営業的タテマエではないのなら)、そこまでやらなきゃウソだし不徹底だと思う。一般大衆……とまでは云わないが、なるたけ多くの視聴者に少しでも浸透させようとするのなら、そーいう俗耳に入りやすい(自覚的誤用表現・笑)ことやらなきゃダメだョ。
少年少女(&青年)が視聴ターゲットかつ、主人公でもあるドラマとしてのバランスを考えたうえでの、オトナ側ドラマの省略なのかもしれないが……。ウーム。前の『Vガンダム』のときにも同様なことがありましたネ。敵ザンスカール帝国の老党首カガチのポリシーや政治的成り立ちは劇中では語られず、小説版には書かれていたとかネ。
若い視聴者には、政治的なことは判りにくいからと気をまわしての省略かもしれないけど(?)、どーせ本編自体もトータルで判りにくい話を長年作ってきたんだからサ(笑)、何で今さら気をまわすことやある。
かえって世界観の説明、各政治勢力や個人がドーいう目的で戦っているのか、生活してきたのか、という動機説明になって、作品世界が判りやすくなったハズだと思うんだけども。天才・富野のペース配分とやらはよく判らない。
……と、まぁこんなところでしょうか?
あとは箇条書き鳳に……。
美少年主人公で女性ファンを引きつけようという魂胆。筆者は賛成です。むくつけき野郎ファンばかりが騒いでいても、見てて美しくないし(笑)、大きなムーブメントにはならないし。
ある種の女性ファンを魅きつけるだけで終わったのならアレかもしれないけど、なおかつ内容もあるという一石二鳥の受け取られ方なら問題はないだろう。
ならば、そーいう売り方もあってイイのでは? なによりファースト『ガンダム』の受容のされ方だって、そーいうものだったのだし(もっとさかのぼれば、富野作品『海のトリトン』(72年)だってそーだろう)。このことについては無用な誤解と反発を避けるため、言葉を費やしてもっとフォローや云い訳をしたうえで発言すべきことかもしれないが、主人公ひとりが美少年というのではなく、『新機動戦記ガンダムW(ウイング)』(95年)的にもっと複数の、主人公と同年代美少年を出した方がよかったと思う、今の時代には。そこまでやるのは、富野カントクにとってはイヤなのだろうけど(笑)。
さらに、月の女王さまが実は以前から時折、地球に飛来していたという『竹取物語』パクリ話。100年前(?)だかの地球であるのにも関わらず、産業革命期と称される20世紀初頭レベルの科学・経済段階の『ターンA』の舞台の“今”と変わらない、気球というか飛行船があるって、いったい……? 中世的・アジア的停滞文明ってことですか?
最初の1クール目。ファースト『ガンダム』みたく冒頭は、前回のアラスジではなく毎回、舞台設定紹介というか、月と地球のカンケイを説明してほしかった。そーいった分かりやすさ、#1から観ていない視聴者に間口を拡げることを、なぜないがしろにするかなぁ?(『ターンA』にかぎったことではないけれど)
あと、蛮族というか地球の民が概して愛すべきバカで、善良なマニアの良識を逆撫でするような、戦争がスキでスキで人の命もカルいという(笑)描写もイイね。過剰な自意識を持っていないあたり(←ヲイ、このテの発言はそれこそ言葉を費やしてフォローと理論武装をしたうえで紡がなきゃならんのに……汗)。
最後は駆け足になってクダケちゃって申し訳ないけど、他にも枝葉末節ではもう少し書きたいこともあったけど、誌面と時間の関係で今回はこのへんで。
常套句ですが、今後の『ターンA』の展開に期待しつつ……。
(※):富野カントクに対するスタンスが肯定なのか否定なのか判りにくいと批判される前に自分で云っておきますが、愛憎相半ば、引き裂かれております(笑)。
(※):“家族”的なるものを、筆者が無前提で好意的に位置付けている、と文中から取る読者もいるかもしれませんが、それは富野カントク(後日付記:『ターンA』の99年当時の)がそう捉えているという推測で、筆者個人がそう考えているわけではありません。
自明のものとして、“家族”を善きものと持ち上げるのは楽観視しすぎだと思いますが、仮想的に演技として作っていく要素もある“家族”……というと聞こえは悪いけど、相手を立てたり気遣い&心配り等、ムリがない程度に自覚的に博愛的サービス精神(ポストモダン的なものではなく儒教的封建道徳を含んでも可。半分は前近代的・笑)を盛り込んでいく演技が半分ある家族にならば、個人的には可能性を感じますが……。
シニカルな意味ではなくてポジティブな意味で、すべては程度の問題の“演技”であると云えなくもないのだし。とはいえそれだけでも疲れちゃうので、天然でホンネやダラシなさを見せあう要素もやはり半分以上は必要です(笑)。
後日付記:
古代殷や周は都市国家うんぬん。後日読んだ書籍『孔子伝』(72年・中央公論社〜91年に中公文庫化・ISBN:412201784X)で、漢字学の権威・白川静センセイは、殷や周は都市国家ではなく領域国家だったのではないか、との反論・異説を取られておりました(汗)。
さらなる後日付記:
(2008年4月27日(日)執筆)
男女がそれぞれ相手を選んで一晩中……。
って、1000年前の坂東(ばんどう=関東)の地を幕開けの舞台にした、オタクには『帝都物語』の宿敵などでもおなじみ平将門(たいらのまさかど)が主人公の、全話が現存する最古のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』(76年)初期編でも民衆風俗として映像化してました(汗)。
京都に上ってからも、裸の人形同士に常世の契り(とこよのちぎり・汗)とかをさせて民衆がトランス状態になってるのを映像化までしているし。
TVが一家に1台の、家族そろってゴールデンタイムの70年代日曜夜8時によくもまあ(笑)。恐るべし、70年代NHK大河ドラマ!
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