TVアニメ版『天空のエスカフローネ』 〜賛否合評 皇帝ドルンカーク=アイザック・ニュートン!
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劇場版『エスカフローネ』ストーリー
(2000年初夏より順次全国公開・95分)
(文・彦坂彰俊)
ただ過ぎてゆくだけの日常に何の意味があるだろう?
自分は生きる目的を見失ってしまったのだから……。
高校三年生の少女・神崎ひとみは、言いようのない苛立ちを心に抱えていた。
自分のことを心配してくれる親友・ゆかりを突っぱねてしまい、たまらない自己嫌悪に駆られたひとみは、そのとき強く想った。
「あたしなんか消えちゃえ!」
すると水中で溺れるような感覚とともに気を失ってしまう。
やがて得体の知れないものの胎内で目覚め、放り出されるように外の世界に出たひとみ。
その目の前でひざまずくバァンと言う若者。彼はひとみのことを神の使いだと決め込む。
そして彼女を擁していた巨像は、竜の鎧(よろい)・エスカフローネと呼ばれる戦いの神なのだと語る。しかし、エスカフローネはなぜか小さな水晶だけを残して跡形もなく消え去ってしまった。
ここ異世界ガイアでは、黒竜族なる軍団によってあまたの国々が滅ぼされていた。祖国を失った者たちは、反乱軍アバハラキを結成して黒竜族に立ち向かう。
リーダーは沈着冷静な熟練の闘士・長髪の美青年アレン。荒くれ者どもの中には、男勝りの美女ミラーナの姿もある。幼い頃に国を失った竜族最後の王・バァンもまたそのメンバーだったのだ。
この世界の戦乱を鎮めるために必要なエスカフローネの力、そしてその復活の鍵を握っているらしいひとみ。
自分に特別な力があるなど思いもよらず、まして実際に為す術もわからない……。しかしガイアの実情と彼らの想いに対して彼女は自分にできる“何か”を模索しはじめる。
一方、同じくエスカフローネの力を欲する黒竜族の総帥フォルケンは、腹心の部下ディランドゥにひとみの奪取を命じる。
殺戮を好む狂気の美少年・ディランドゥのアバハラキ襲撃は苛烈をきわめた。乱戦のさなかでひとみは一行と引き離され、彼女を追ってきたバァンは重傷を負った。
運よく救われた獣人の村でバァンの回復を待つあいだ、ふいに訪れた平穏な日々。ひとみはバァンの背負った宿命を知る。
亡国の王は死ぬまで戦い続けなければならないこと、父王を殺し国を滅ぼした総帥フォルケンがバァンの実の兄だということ……。
深い悲しみを秘めたバァンの孤独な魂が、孤独そのものを抱え続けてきたひとみの魂を強く捉える。やがて二人の間に芽生える心の絆。
全快したバァンとひとみはガイア最大の都市トルシナへ向かい、現地でアレンたちアバハラキの仲間と再会する。
だが、ここにも黒竜族の魔の手が襲いかかる。エスカフローネと同様に発掘されたもう一体の竜の鎧・ディランドゥ操るアルセイデスの猛威が、市街を業火で焼き尽くす。
力を欲するバァンとひとみの強い想いに応えるかのごとく、あの水晶が激しく輝き出し、ついにエスカフローネが復活した。バァンの操るエスカフローネがアルセイデスを迎え撃つ!
二体の魔神の激闘のかたわら、ひとみの前にフォルケンの思念像が現われた。
そこで語られる衝撃の事実――
ひとみをガイアに召喚した張本人こそがフォルケンであり、互いに抱いていた破滅願望の共鳴がひとみをここに呼び寄せたのだということ。そして世界を破滅に導く鍵、それこそがエスカフローネなのだという!
アルセイデスを倒したエスカフローネのボディーが漆黒に染まり、バァンの闘争心が暴走しはじめる。
新たな脅威と化したエスカフローネの前に立ちはだかり、バァンの心に語りかけるひとみ。
正気を取り戻したバァンとともに再び白い輝きを取り戻したエスカフローネは、バァンとひとみを乗せ、飛竜と化してフォルケンの許へ翔んだ。
互いの憎しみをぶつけ合い、刃を交える兄弟。
世界の破滅を願うフォルケンもまた、心に深い悲しみを秘めていたのだ。選ばれなかった者・生まれてきた意味を奪い取られた者の絶望――
フォルケンの想いが痛いほどわかるひとみは、これ以上の悲しみは見たくないと二人に訴える。だが宿命の決着は、さらなる悲しみに彩られながら意外な形で幕を下ろされる……。
黒竜族が滅び、ガイアは平和を取り戻した。獣人の村で静かにすごすバァンとひとみ。だが、強く想い合いながらも異なる世界の人間であるふたりに、別れのときが……。
劇場版『エスカフローネ』 〜評①
(文・T.SATO)
(2000年8月11〜12日執筆)
今夏(2000年6月〜)、件の複合シアター・ワーナーマイカル系を中心に各地で順次、劇場公開されていくアニメ映画『エスカフローネ』。
資本が日米韓というあたりアニメも国際的になったものだと思うが、80年前後のアニメ大ブーム時とは異なり、国内での劇場公開は特に多くもなく90年代角川アニメの公開規模といったところに、さしてマーケット規模に変化のない日本アニメ界の現状を見る(笑)。
本作は96年4月〜半年にわたってTV放映された『天空のエスカフローネ』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19990911/p1)の劇場版である。
ちょうど4年。時期的に比較するなら、かの物議を醸した『新世紀エヴァンゲリオン』TV版(95年)最終回が96年3月末。
放映ワク・曜日はちがうが(TV局は同じ)、それと入れ代わるかたちで放映が開始された作品であった。
筆者は週に何十本と放映されるアニメをやはり何十本とチェックするまでのマニアではない(いや筆者の周囲の同人屋にはそーいうヤツがゴマンといるんですョ)。
が、マニア界でのポジショニングのために(笑)、常に1〜2本はアニメ作品をエアチェックするようにはしている(まぁほどほどの摂取量で、当人にとっての適量プラスアルファ程度なら、何でも将来の肥やしになるとも思うし……)。
ただ、歳を喰ったせいかオタク心をそそるマニア注目の作品(笑)といったものに対するアンテナの感度が鈍ってきていることも否定できない事実だ。
それも最近では、マニア仲間に今季はどの作品をチェックすべきか聞いて回っているほど。つまり放映前の情報や印象での先物買いのセンスには、もうまったく自信がない。
そんな自分でも、一応はオタクセンスの片鱗は残っていて(いや同人屋をやってるくらいだから、広い意味では現役オタクバリバリでもあるけれど・笑)、本作『エスカフローネ』の原典たるTV版『天空のエスカフローネ』(96年)に対しては上質かつ面白くなりそうな予感をいだいて、自分から選択して――プラス、やはり若干のマニア友達からのアドバイスもあって(笑)――視聴対象とすることを決定していた次第だ。
このことには、感覚的な勘(絵柄とか世界観に対する好悪等)の他にも、もっとハッキリとした理由があった。
別に筆者は、スタッフ至上主義でもスタッフ権威主義でも何でもないのだが、監督にかの河森正治(かわもり・しょうじ)氏が参加されていたことが、選択基準の決定打となったのだ。
河森正治。氏は、スタジオぬえ出身のメカデザイナーあがり。
70年代末期〜80年代前半における、当時としてはあまりに卓抜した細密にしてハイセンスなメカデザインにキョーレツ・鮮烈なインパクトを受けた印象を、今なおお持ちのロートルな御仁も多いことであろう。
24歳のみそらで劇場版『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(84年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19990901/p1)を監督したことはあまりにも有名。
筆者個人はこの劇場版『マクロス』を高く評価する。
が、この作品自体はTV版のブローアップ、ある程度完成された作品であるTV版あってのアレンジにすぎない面もある。
であれば、その成功はただのまぐれ当たりかもしれず、そのあと寡作であったこともあり、筆者自身は河森カントクの作家性や思想性・カラーなどについてはよく了承していなかった。
失礼を承知で云うなら、河森カントクのことをアニメ界における重要人物だとも意識していなかった。
逆にただのメカデザイナーあがりであって、緻密・綿密・リアル志向・設定ディテールチックではあっても、おそらく干からびたところがあって、トータルでの万人ウケといわずアニメファンの多数派にもウケるような、ウェルメイドで普遍的な一般性ある物語を構築できる器量のある御仁ではナイのではなかろうかと……(偏見です)。
河森正治氏はようやく90年代に至っていくつかの本格的作品を発表しはじめる。
リメイクや続編企画であることは、今はジャンル草創期ではなく成熟期なので、時代の空気と企画の通しやすさゆえ仕方ないことだと思うが――とはいえ筆者個人はリメイクや続編を否定しているワケでもない――TV作品として、かの『超時空要塞マクロス』の続編『マクロス7(セブン)』(94年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19990906/p1)。
そしてコレは当初は「マクロス」としての企画ではなかったようだし、「マクロス」と名乗る必然性もウスいかもしれないが、OVA企画『マクロスプラス』(94年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19990904/p1)がそれだ。
ただのリメイク作品であったり、つまらない続編企画であればケーベツに値するところだ。
だが、この両『マクロス』には、一般的にも毎度毎度、賛否両論・諸説紛々あるものの、筆者にとってはコチラのそーいうスレたマニアの見方を見透かして、はるかに上を行く世界観やある種の思想性・主張を包含しつつも、何より娯楽性あふれる物語を見せてくれたことに驚嘆の念をいだかされたものだった。
誤解を恐れずに云えば、歴史的意義はともかく、両新作『マクロス』共に、作品内容的には「マクロス」初作を上回っていると信じる――コレに似た感慨を、個人的には『新機動戦記ガンダムW(ウイング)』(95年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19990805/p1)にもいだいているが……と云ったら、本稿の説得力をなくすかな?(笑)――。
『マクロス7』や『マクロスプラス』のその詳細を語ることは本稿の趣旨にハズれるので触れないが、あえてひとことで語るなら、その作風とそこで展開されるストーリー・ドラマは、おおよそメカデザあがりのメカフェチ的な貧血症テイストの作品ではなかったということである。
『マクロス7』では、クールな熱血ロッカー(形容矛盾・笑)を主人公に、『美少女戦士セーラームーン』(92年)あたりの90年代戦闘魔法少女アニメに出てきそうな精神エネルギー(笑)を吸う敵種族を設定してみせる
(このあるイミ非リアルな設定により、作品世界はリアルロボット性だけでなくヒーローロボット(スーパーロボット)性や、精神主義的なテーマにまで拡張されたことは一目瞭然!)。
シニカル(冷笑的)に見れば、文化を知らない敵を、彼らにとって未知の存在である“歌”という手段でもって威嚇、圧倒して撃退していたともいえる(“歌”を平和の手段ではなく武器としていた!)『マクロス』初作。
そのダークサイドを暴露して、初作の理念を否定しかねない描写をも見せ、アンチテーゼとしても戦場に人型可変戦闘機を駆って出るも、“歌”の歌唱のみで敵味方の戦場の人間たちに何かを伝えんとする、戦わない非・軍属主人公を『マクロス7』では設定してみせる。
『マクロスプラス』においては、男女の三角関係ドラマを見せつつも、そこにかつて自作自演の歌い手(シンガーソングライター)にして、今は“歌”を捨てて裏方プロデューサーに徹しているヒロインを素材に、クリエイティビティ(創造性)とは? 身を張った自己表現(欲)とは? そしてその挫折とは?
それらにまつわる、もろもろの複雑精妙な情念や抑え切れないパッションを織り込み、作品のテーマ&味わい、そしてキャラの感情を、切迫した心情や後悔・もどかしい葛藤なども含んだ豊穣なものとして描いていった
――もちろん「マクロス」作品であるから、“歌”も重要要素とはなっているが、ココでは“歌”そのものの持つダークサイドである“歌”による洗脳(!)の危険性という非凡な発想が、一方の裏テーマともなっている――。
これら続編「マクロス」2作品の存在によって、筆者の河森カントクへの評価はうなぎのぼりとなっていく。
そんな河森カントクなら、次の担当アニメ『天空のエスカフローネ』でも、やってくれるにちがいない。そう思って筆者は96年春の視聴対象に『天空のエスカフローネ』を選択したのであった……。
はたしてその期待は裏切られることなく、筆者にとっては見事実現されることとなる。
TV版『天空のエスカフローネ』は、80年代後半以降に隆盛を極めて現在に至る西洋中世風の王国・都市がばんきょするファンタスティックな異世界を舞台とした作品だ。
いわゆる剣と魔法の世界である。……魔法自体は実は出てこないのだが(笑)、龍(ドラゴン)の類は登場しているので、大雑把に云ってしまえば同種の作品といってもイイだろう。
この『天空のエスカフローネ』劇中では、“ガイア”と呼ばれる異世界。
ここに唐突に我らが愛らしき主人公・フツーの女子高生ひとみが争いごとに巻き込まれるかたちで召還され、直後に侵略帝国の魔手によって亡国の若き少年王となってしまったバァンと出会うことから、物語ははじまる。
主人公が少女といっても、いわゆるベタベタな男性オタク受けするビジュアルは与えられず、むしろ脱臭され無菌化された少女マンガタッチのビジュアルが本作には与えられた。
このことからも予想できるように、物語のある面での背骨的な人間関係は、少女ひとみとバァンのそれである。
これにもうひとりハンサムな金髪長髪・剣士アレンが加わり、当初ひとみはバァンには恋情をハッキリとはいだかず、現実世界における高校の陸上部での先輩にクリソツな剣士アレンの方にあこがれることとなる。
そしてイロイロあって大人としても成長し、ひとみは○○○の方になびいていく……というコレまた実にベタな……それゆえ王道ゆえの確かさ・力強さもたしかに持つストーリー展開を取ることとなる。
さらに亡国の少年王バァンには、死んだはずの兄フォルケンがなぜか敵の帝国の中間管理職として対峙する。
フォルケンには悪の組織の帝王然とした上役がさらにいて、それがまた画質の悪い白黒モニター画面上にノストラダマス(笑)然とした人物が写されるというもの。
これらの要素がストーリーの主軸となっていくが、一方の剣士アレンの側にもさまざまな人間関係、過去におけるそれも含めての度し難い男女の色恋関係といったものがあり、ストーリーはこれら多様な人物関係のドラマも織り込みながら進んでいく……。
とココまで書いてきたところで、劇場版『エスカフローネ』にまったく言及もせず、詐欺みたいなかたちになってしまいましたが時間切れ(汗)。
本論のつづきは近日中にはお届けいたしたいと思います。
(後日付記:「つづき」は有言不実行に終わっています・汗)
劇場版『エスカフローネ』 〜評② いまさら「まったり」生きられない君へ……
(文・彦坂彰俊)
この劇場版『エスカフローネ』は、赤根和樹(監督)と山口亮太(脚本)の作品だと、まず思った。
いや、たしかにTVシリーズ版『天空のエスカフローネ』(96)も、両氏がそれぞれシリーズ監督とメインライターを担当した作品である。
ただTV版はそれ以上に、やはり河森正治の作品だったと思うからである
(……もっとも、91年頃の企画原案からさまざまな変転を経てTV版完成に至るまで、ブレーンとして関わっていたのだから、それは当たり前の話なのだが)。
特に、TV版の大敵役・皇帝ドルンカークが劇場版での登場をオミットされたことは、両者の差異をも端的に物語る。
――本名アイザック。17世紀に引力の法則を発見した地球の科学者が、運命を支配する法則を追い求めて異世界に辿り着いた後の姿。
――すべての人間に幸福をもたらすための研究=運命の法則という一大設定を構え、運命改変装置・絶対幸運圏・黄金律作戦といったアイデアを提供したのは、みな河森だと聞く。
興味深いのは、なにかしら複雑な構造の機械が稼働する描写をもって、「本来見えざるもの」を「視覚的な隠喩」として表現している点であろう。
(『イーハトーヴ幻想〜KENjIの春』(96)のクライマックスでも、同様のイメージのコアが垣間見られる。もっとも演出的な方法論や人物像のオリジンまで遡るなら『マクロス7(セブン)』(94)に求められようが、ここではその事実を指摘するのみに止めておく)
それはTV版の作品イメージそのものとも直截(ちょくせつ)に結びつく。すなわち「カラクリ仕掛けの世界観」。
世界のあらゆる事物・現象を成り立たせている本質的な“なにか”に対する探求的なスタンスは、人物造形からメカニック描写に至るまで徹底している。
この点がTV版をして「独自の異世界ファンタジー」たらしめている所以(ゆえん)である、と言い換えることができるかもしれない。
対するに劇場版は、誠実なほど直球勝負な「剣と魔法の異世界ファンタジー」に開き直った感がある。
TV版のツイストぶり(ひねり)が希薄なことは少々残念だが、人物関係や舞台背景が整理され、物語的には見易い作品に仕上がったことは否定できない。
もちろん、限られた時間(95分)の中で見せ場を盛り込みつつコンパクトにまとめるための処置としても賢明だったと言える。
特にひとみとバァンの関係など、孤独を抱えた者同士が惹かれ合うという動機づけによって、TV版よりも明快な印象を与える点は評価できる(欲を言えば、それでも描写としてはもっと潤いが欲しかったくらいだが……)。
「すべての悲しみを終わらせるために、世界の消滅を願う」今回の大敵役に昇格した(?)フォルケンの大義名分は、それこそドルンカークのネガとして捉えられないこともない。
もっともワリとありきたりな方向に落ち着いてしまった気はするが、それでも作品のトーンを悲劇性で統一することには成功している。
その意味、劇場版の技量の見せどころは、世界観の独自性そのものよりも、要点の押さえ方と対象を描写する繊細さにおいてであった。
そしてその真骨頂は、(かなり個人的な見解だが)ひとみが異世界ガイアへ召喚されるまでの一連のシークエンスではなかったかと思う。
「生きている意味なんてあるんだろうか?」
「この世から消えてしまいたい……」
実は、あのひとみの心情に思いきりシンクロした自分がここにいる。恥ずかしい自己言及だが、昔の自分も同じような気分を抱いていたことを思い出したというか……。
自分のことを心配してくれている友人の存在すら煩わしくて、忠告すら踏み躙る、あまつさえ酷い言葉で突き放す、あとでまたたまらない自己嫌悪に駆られる……その気分は「よくわかる」気がするのだ。
生きる意味を見失うなど大仰に聞こえるかもしれない。傍から見ればなにをウジウジ悩んでいるのかわからない(現実的にはかなり迷惑なハナシだし、よほど根気強く付き合ってくれる友人がいなければ後々苦しいだろうが)。
しかしその事実をさらに言い換えれば、意味のない生き方に堪えられない=「まったり生きることのできない」タイプの人間は、やはりどうしても存在するということだ。
しかも「まったり生きる」という概念が社会的にもある程度の浸透を見せてきた昨今では、やはり自分の性には合わない「やってみたけどダメだった」派や、そのこと自体がかえってコンプレックスを生み出す可能性まで考慮に入れるべきではないだろうか……?
とはいえスタッフにサブカルチャー的な問題意識があったかどうかはわからない。
劇中、ひとみに対する癒しは、結局のところ自分という存在を必要としてくれる世界と人とによってもたらされるからだ。
しかし、それ自体はなによりも、ネガティブな立場から正統派の物語を描き起こそうとした本作の核というべき部分である。
ここはむしろ、「まったり生きる」ことへの疑問符を、「物語」の側から切り返した鋭いテーゼとして受け止めておきたい。
付け加えておくなら、「異世界召喚型ファンタジー」の昨今の傾向として、技巧的に変化球を狙う作品が多く見られるが、大地丙太郎(だいち・あきたろう)監督のTVアニメ『今、そこにいる僕』(99)にせよ佐藤順一監督のTVアニメ『STRANGE DAWN(ストレンジドーン)』(2000)にせよ、作品価値そのものは技巧のみならぬところにあるものだ。
にもかかわらず、ここを曲解して、あえて技巧を狙わない正統派の作品をそれだけで貶(おとし)めるべきではない。
少なくとも筆者は、TV版『天空のエスカフローネ』も劇場版『エスカフローネ』も好きである。と、ハッキリ宣言しておいて、この稿を終えることにしたい。
(編:「まったり生きる」、という言葉が00年当時でも、一般的な用法であったかは議論の余地があるとは思います(笑)。
この用語は90年代中盤〜後半にかけて、売り出し中だった若手(当時)社会学者・宮台真司センセイが、もっぱら「強度(意訳すれば「濃密さ」や「充実感」の意味)」の用語とともに、過剰な「内面」や「実存」を持たずに、当時の援助交際女子高生のように軽やかに生きることを提唱する際に用いていたもの。
当時の本読みや思想系(もちろんオタクの中でも本読み・評論系)の連中には大きな影響を与えて、他方で反発もいだかせて議論を惹起もしたものです。
ただし00年代以降の宮台センセイは、かつての援交女高生の成れの果てのメンヘル(メンタルヘルス患者)化や、「まったり生き」られない青年の自殺問題もあってか、それらに有効性を認めつつも原理的な不可能性を前提に、より広範な社会問題を扱う方向に「転向」。
以後は、「まったり」「強度」などの語句は用いなくなっていきます)
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(当該記事)
地球防衛家族(01年)
(ワープロのフロッピー(汗)から発掘できたらUP予定)