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仮面ライダークウガ 〜後半合評1 「自衛のための共闘の肯定」と「過度な暴力の否定」


『仮面ライダークウガ』評 〜全記事見出し一覧
『仮面ライダー』シリーズ評 〜全記事見出し一覧


(2000年11月執筆)

仮面ライダークウガ 〜後半評① 旧『仮面ライダー』世代から『仮面ライダークウガ』へ

(文・黒鮫建武隊)

1.前史

 ショッカーに始まる歴代『仮面ライダー』の悪の組織には、現実世界に存在する悪が投影されている。原作者、故・石ノ森章太郎氏は生前、そのような趣旨のことを、ことあるごとに明言なさっていた。
 これは『仮面ライダー』(71年)シリーズに限ったことではなく、『サイボーグ009(ゼロゼロナイン)』(66年)のブラックゴーストにせよ、『人造人間キカイダー』(72年)の死の商人ダークにせよ、およそ氏の作品における『悪』は、一貫して現実の悪の影を背負っていたのである。


 映像化作品、特に実写特撮ヒーロー番組は、必ずしも原作者の意図通りに仕上がるわけではない。『ライダー』の場合も、「そう言われれば、そんな気がしなくはない」といった程度ではある。だが、少なくとも根底にそういう思想が流れていたことは疑いない。


 さて、『悪』と一口に言っても、殺人から痴漢までさまざまあるだろうが、ショッカー以来の悪の組織は、どういう意味での『悪』だったろうか。
 イメージとしては、ナチスドイツあたりがモデルのように思われる。『世界を支配するに足る優秀な存在』を自負する歪んだエリート意識、初代幹部ゾル大佐の軍服、ナチスのそれを連想させる挙手の礼、等々その根拠はいくらでも挙げられるが、何と言っても、あまりに有名なオープニング・ナレーションの一節……「仮面ライダーは人間の自由を守るため、ショッカーと戦うのだ!」を忘れるわけにはいかない。
 仮面ライダーの敵は『人間の自由』を奪い、踏みにじる者なのだ。現実のナチスユダヤ民族を迫害、その自由を奪ったごとく、ショッカーは全人類を迫害しようとしているわけである。


 その後、シリーズが進んでいくに連れ、悪の組織もゲルショッカー(『仮面ライダー』初作・新1号編)、デストロン(『仮面ライダーV3』73年)……と代替わりし、彼らのイメージも多様化していった。
 だが、二大国が秘かに手を握って生み出したという設定のGOD(ゴッド。『仮面ライダーX』(74年))や、『帝国』を名乗るガランダー(『仮面ライダーアマゾン』(74年)後半)やクライシス(『仮面ライダーBLACK RX』(88年)http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001016/p1)など、新国家建設や革命を想起させる壮大なイメージは、随所に残され続けたのである。


2.兇敵

 『仮面ライダークウガ』(00年)は、従来シリーズとはまた異なる魅力に満ちた野心作だ。その魅力の一つが、未確認生命体(グロンギ)にあることは、言うまでもあるまい。


 グロンギにも、現実世界の悪が投影されている。されてはいるが、しかしその『悪』は、ショッカー以来の壮大な悪とは、かなり違う。もっと身近で卑俗な――悪に卑俗も高尚もないもんだが――『悪』が投影されている。否、投影どころじゃない。現実の『悪』そのまんまである。


 その『悪』とは『01年準備号』において仙田冷氏も指摘なさっていた通り(編:ネット版では『クウガ』前半合評2に掲載・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001104/p1)、ここ数年の間――即ち、前作『仮面ライダーJ』(94年)以降に激増した(とされている)少年・若年層による犯罪だ。
 自らの感情を制御できずに『キレて』他人に危害を及ぼしたり、ささいな欲望から『オヤジ狩り』と称する暴行に及んだり、動機らしい動機もなく愉快犯的に、あるいは筋違いな恨み晴らしで幼児殺害やバスジャックなどを敢行したり……そういう連中がそのまま、『未確認生命体』として登場してはクウガに蹴り殺されている、まるでそんな風に見えるのだ。


 未確認生命体は人間と同じ姿になり、更に今では日本語も操るようになった。この変身能力と言語能力によって、彼らは人間社会に容易に潜むことができている。にも関わらず、彼らは我々とは全く異なるロジックを持ち、故に両者は決して理解しあうことはできない。
 以上は、『EPISODE35 愛憎』において示された、未確認生命体に関する一種の総括である。外見上は普通の人間なのに、その実、人間とは全く相いれない存在。まさしく、現代の若年層犯罪者(及び、その予備軍)そのものではないか。


 未確認生命体とは、うまい名前をつけたものである。何が『未だ確認されず』なのか。それは彼ら(イコール、若年層犯罪者)の心理であり、思考内容である。
 そこには、『人間という生命体』が一般に持っているとされる、優しさや思いやり、感情を制御する理性などがまるで確認されないではないか。


 グロンギの連中にも、彼らなりの行動理由がある。彼らは『ゲゲル』(ゲーム)中のプレイとして、殺戮を重ねているのだ。『ゲゲル』は彼らのステップアップに不可欠なものであり、多くの者は彼らなりに真剣に取り組んでいるようだ。
 もっとも、『EPISODE35 愛憎』とその前の『EPISODE34 戦慄』に登場したグロンギ怪人ゴ・ジャラジ・ダのように、人間がおびえるのを見るのが楽しくて、趣味と実益を兼ねているような輩も多いが。


 この辺も、現実世界の暴走族や暴力グループがメンバー内部でのランク付けに血道をあげているのと、全く変わるところがない。それに巻き込まれるリント、即ち一般人の生活や生命など何ほどにも感じていない、という点でも、恐ろしいほど共通している。


 ショッカーのような戦闘員は、グロンギには存しない。組織に忠誠を誓い、黙々と――「ギー」とか「イー」とか言ってますけど(笑)――己の任務に従事する、悪のプロフェッショナル。そういう戦闘員は、組織が忠誠に値するという前提があって初めて存在できる。悪なりに崇高な理想がなければ、そういう組織にはなりえない。
 正体不明の0(ゼロ)号を首領、バラのタトゥの女を大幹部に見たてれば、グロンギもショッカー同様の組織のように思われる。だが、違うのだ。自分がその中のトップになる、という欲望のみで動く構成員が何百人いようと、そんなものは組織と言えるかどうかすら、怪しい話である。



 「現実」の『悪』そのものの未確認生命体たちは、リアルな恐ろしさに満ちている反面、我々の「空想」を喚起する、という意味では不満が残る(その分を、グロンギ語や特有のアイテムなどの描写によって補っているわけだが)。


 『クウガ』と並んで好評放映中の『未来戦隊タイムレンジャー』(00年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001102/p1)のロンダースファミリーも、悪の帝国ではなく犯罪者の集団である(敵幹部ドルネロのデザインなどからすると、こちらはマフィアを念頭に置いているらしい)。
 偶然、そういう設定の作品が重なっただけなのかも知れないが、ただ、ショッカー・タイプの悪が時代遅れになりつつあるのも、一面の真実であろう。


 筆者は、95年のオウム事件によって、ショッカーが現実に追いつかれてしまった、という気がしてならないのだ。宗教法人という隠れ蓑を使い、法律の網から逃れていたテロリスト集団・オウム。少なくとも構成員に対してはカリスマ性を発揮していた首領の存在、『なんとか大臣』なる役づけに代表される擬似国家的な組織構造、サリン散布という具体的行動、どれをとってもショッカー他のお粗末なコピーである。
 アポロ宇宙船の登場が、それ以前の宇宙SF映画を古典の領域に追いやった例でも明白なように、現実に追いつかれた時に色あせるのは、フィクションの宿命だ。だが、追いついてきた現実の方が、シャレにもならないお粗末な代物では、どうしようもない。今日、ショッカーを出しても、今度はオウムの下手なコピーに見えてしまう。


 それどころか、現実社会は猛スピードで悪化の一途をたどり、先にあげたような若年層犯罪者、およびその予備軍が跋扈する世紀末を迎えてしまったのである。
 グロンギの登場は、フィクションの方が何とか現実に追いつこうとした結果に思われてならない。だからリアルな迫力や恐ろしさの点では文句なしだが、空想する楽しみにまでは充分に手が回り切らない、というのが実情なのではないか
 (以上はあくまでグロンギ関係に限った話。番組全体としては、クウガのバイクに合体する超古代の意志を持つクワガタ型メカ・ゴウラムに代表される空想娯楽の要素も、きちんと備わっている)。


3.笑顔

 劇中、バラのタトゥの女は一条薫(いちじょう・かおる)刑事に対して二度、「リント(現世人類や超古代人類を指す言葉)は変わった」という趣旨の発言をしている。いったいどこがどう『変わった』のか。
 この点に関する直接の解説はいまだに為(な)されていないが、作品の進行に注目していく中で、次第にわかってくる仕掛けにはなっている。
 沢渡桜子(さわたり・さくらこ)さんの推論によれば、リントは彼らの言語の中に『戦士』に相当する単語を持たないほど、平和的な種族であったらしい。ということは、ひとたびグロンギに狙われたら最後、一方的に殺されるだけの役回りだった筈だ。
 これに対して現代では、クウガを別格としても一条刑事のように、奴らに抵抗する人間が、(直接に戦う警官だけでなく、桜子さんや榎田(えのきだ)ひかり女史のようなバックアップ組も含めて)多数存在している。


 『クウガ』は五代雄介(ごだい・ゆうすけ)だけの孤独な闘いを描くのではなく、一条刑事はじめ多くの勇気ある人々の共闘を描いている。
 仮面ライダーは孤独でなければならない、と決めているマニアも多いだろうが、決してそうではない。『仮面ライダー』初作〜『仮面ライダーストロンガー』(75年)の立花藤兵衛(たちばな・とうべえ)、『仮面ライダー(新)』(79年)〜『仮面ライダースーパー1(ワン)』(80年)の谷源次郎(たに・げんじろう)の御二人を筆頭として、旧シリーズにも、幾多の理解者・協力者が登場していたではないか。
 主人公の孤独さを強調していたとされる旧1号ライダー編(『仮面ライダー』初作#1〜13)や『仮面ライダーアマゾン』(74年)初期(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001008/p2)すら、例外ではない……てなことを書くと、「藤兵衛たちは民間人だから良いが、公的機関の警察が出てくるのでは話が違う」とかいう反論が予想されるが、それを言ったら滝和也なんかFBIだっつうの。
 要するに、まかり間違えば侵略者、という『ウルトラセブン最終章』(99年)の地球防衛軍のような可能性がなく、専守防衛の立場であること。戦闘の全体像を見渡した場合、自衛のための戦いでしかない、という一点のみが、ライダーシリーズの味方側に一貫する条件なのだ。
 その意味では、旧作の少年仮面ライダー隊と『クウガ』の警察の間に、本質的な差異は無い(注1)。


 結局、『クウガ』を含めたライダーシリーズでは、自衛目的の戦い、自衛のための共闘を否定していない。
 それはそうだ。ライダーシリーズの敵役には、現実世界の『悪』が投影されているのだから、唯々諾々と敗北してよい筈がない。



 かと言って、自衛のための戦いであれば、無条件に肯定しているわけでもない。
 先にあげた『EPISODE35 愛憎』では、怒りに燃えたクウガが、グロンギ怪人ゴ・ジャラジ・ダを一方的にブチのめすクライマックスが用意されていた。
 恐怖におびえる若者を次々と、楽しみつつ殺害していくゴ・ジャラジ・ダに対して五代が激しい憎悪の念を燃やしたことは、しごく当然。彼の怒りは誰もが納得できるものである。
 しかし、そこまで描かれていてなお、怒りに身を委ねたクウガの、あまりに激しい攻撃ぶりは、視聴者が爽快感を通り越して、ひいてしまう程だった(もちろんこれは、意図的な狙いに基づく演出が成功した結果なのだが)。


 その時、クウガは一瞬、黒いボディーに四本角(ヅノ)の自らの姿を幻視する。この黒いクウガは彼の最終形態らしい。
 バラのタトゥの女は「クウガはダグバに等しくなる」と言った。ダグバとは、究極の闇をもたらす者で、具体的には0号を指すようだ。
 つまり、怒り・憎悪に身を委ねて戦い続けると、やがてクウガは0号になってしまう……ということらしい。事実、ドクター椿秀一(つばき・しゅういち)は以前から、クウガが単なる殺戮マシーンに変貌してしまう可能性を示唆していた。


 仮面ライダー1号が、本来はショッカーの改造人間・怪奇バッタ男になるべき存在だったことは、よく指摘されてきた。ただ、ライダーを怪人にするには、脳改造を経(ヘ)る必要がある。本郷猛本人の脳を持つ限り、1号ライダーは『改造強化された肉体を持つ本郷』であって、断じて怪人バッタ男にはならない。
 これに対してクウガは違う。五代雄介が憎悪に身を委ねた時、彼は人類ではなく、『究極の闇をもたらす者』になってしまうのだ(注2)。クウガは歴代ライダーよりも遥かに、敵役に近いポジションに立っていたのである。



 未確認生命体は、現実世界の『悪』――激増する若年層犯罪者(および予備軍)の投影である。その、非人間的な在り方を許せず、立ち上がった五代は、素晴らしい人間である。
 しかし、奴らに対して憎悪を燃やす時、五代自身が人間ではなく、奴らと同じ『未確認生命体』に成り果ててしまうのだ。


 考えてみれば、当然の話である。若年層犯罪者と同様の『種』は、我々みんなの心の中にも、必ずやあるに決まっている。無ければ、よほどの聖人君子だ。
 ただし多くの人間は、そうした心の病を抑制する理性を、克服する心の強さを、超越する優しさや思いやりを持っている、というだけだ。それこそが、人間の素晴らしさである筈だ。


 我々は、奴らと同じになってはいけない。クウガの武器は怒りではなく、人間の素晴らしさでなければならない。
 「愛という名の武器をとり、人間らしく戦え」――そう謳いあげたのは『SFドラマ 猿の軍団』(74年・円谷プロ)だが、『クウガ』は正しく、この言葉を地でいく作品なのだ。


 『クウガ』では、一見すると本筋(クウガグロンギ)とは関係ない人間模様が描かれることが多い。
 五代雄介の妹・五代みのり勤める保育園の園児たち、雄介の母校の家出少年、女優志望の奈々ちゃん、榎田母子の関係を案じるジャン……こうした人々に関するインサイド・ストーリーが、クウガの武器となるべき『人間の素晴らしさ』を訴える意図で描かれていることは明白だ。
 本筋でも、『EPISODE33 連携』あたりから、警察が五代を全面的にバックアップする体制となり、理解と信頼が勝利を呼ぶパターンが確立された。
 戦いの主眼も、敵を倒すのみならず、その断末魔の爆発による被害を最小限に食い止めることに置かれるようになっている。それもこれも、クウガが何を武器に、何のために戦っているのかを、あまりにも雄弁に語っている。


 そして何より五代雄介自身が、こうしたドラマを支え、牽引するに足る強烈なキャラクター性を持っていることが大きい。
 ともすれば理想論に傾きがちなテーマ表現も、彼の言動を通して描かれれば、素直に納得できてしまえるのだから……。思えば番組当初、彼のキャラを立てるのに最大限の力が注ぎ込まれていたことが、ここに来て結実したのである。



 かつて仮面ライダー・本郷猛は、人間の自由を守るために戦った。今、仮面ライダークウガ・五代雄介は、人間の笑顔を守るために戦う。がんばれ五代、勝利の日は近い!




(注1)
 だから筆者は、『01年準備号』におけるsugi氏の、「『クウガ』の警察はリアルな警察と言うより、ヒーローのサポート機関を現実の組織に例えたもの」という御意見に、全面的に賛成である。
(編:ネット版では、こちらも『クウガ』前半合評2に掲載・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001104/p1
(注2)
 クウガを改造人間と設定しなかった意味が、こうしたところに現れてきたことは、注目に値する。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2001年号』(00年12月30日発行)所収『仮面ライダークウガ』後半合評①より抜粋)


仮面ライダークウガ 〜後半評② 極私的クウガ評……というより雑感その2

(文・D.SONO)
 もう3クールも過ぎて、ラストスパートへの気配を感じ始めたころ、気になる表現が出てきた。
 劇中で既に、クウガこと五代が人間でなくなるのではと語られてはきているが、「未確認生命体」とのバトルに挿入されるヒロイン桜子の憂いは、悲劇的な結末を予感させずにはいられない。


 たしか今までの仮面ライダーは、成り立ちこそ改造人間という悲哀を伴ってはいるが、「死」という結末にたどり着いたのはライダー4号・ライダーマン(『仮面ライダーV3』・73年)しかなく(それも結局は復活)、味方キャラでも女ライダー・タックル(『仮面ライダーストロンガー』・75年)くらいのはず。
 もし、クウガが「死」ないしそれに近い結末を迎えたとしたら、きっと歴史に残ることになるだろう。今までつとめて「明るく」見せてきた五代だが、悲劇的結末(「死」以外でも)に耐え得るキャラにするためならば、これは凄いことである。


 もちろん従来通り、敵はすべて倒しました、平和が訪れました、いずこへともなく去るライダーという結末もありだろうし、何より彼は改造人間ではないのだから、普通に戻った後の生活を示唆するという結末こそ、『クウガ』にふさわしいのかもしれない。



 さて、すっかり警察の方たちとも連携するようになった「2号ないし4号」ですが、もはや「未確認生命体」扱いこそされなくなっているものの、変身後の姿を特別に呼称することもないようです
 (「クウガ」という表現は、特に彼の変身後をとらえて呼ばれているわけではなく、古代の戦士を指す表現だと感じています)。


 スーパー戦隊などが(正体を知る者同士でも)劇中では意図的に変身前と変身後の呼び名を分けるのが「当たり前」にも思えた中で、本作品も、そして同年度の『未来戦隊タイムレンジャー』(00年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001102/p1)も、この「お約束」を踏襲してはいません。
 もしかしたら、視聴者から「変身後でも仲間内なら普段のように呼び合うのでは」とでも指摘されたのでしょうか。これも時代の流れなのでしょうか。


ヤボで恐縮な編註:

 変身後でも、変身前の名前を呼びあう作品は『鳥人戦隊ジェットマン』(91年)以降、幾作品か出現しています(もう大半がそうだっけ?・汗)。近年では特別にパターン破りとして気張らずに、世界観に合わせてヴァリエーションとして使い分けているようです。
 もちろんいつまで経(た)っても卒業せずに10年以上、平気でジャンル作品を観ている編集者のような腐れオタクにとってはともかく(笑)、ここ数年なり本年度からアニメばかりではなく特撮にも触手を伸ばして真剣に観始めたマニア諸氏にとっては、本作『仮面ライダークウガ』に限らず、その前番組の「東映メタルヒーローシリーズ」や「スーパー戦隊シリーズ」も、往年(80年代)の毎回毎回が超ワンパターンな展開であるというイメージを打ち破るサプライズ(驚き)ある作劇を、90年代以降の作品群は実現しているかと思います。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2001年号』(00年12月30日発行)所収『仮面ライダークウガ』後半合評②より抜粋)


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