假面特攻隊の一寸先は闇!読みにくいブログ(笑)

★★★特撮・アニメ・時代劇・サブカル思想をフォロー!(予定・汗)★★★ ~身辺雑記・小ネタ・ニュース速報の類いはありませんので、悪しからず!(笑)

先代代表・築柴輝一氏逝去 〜加筆・時代と故人に追悼

(昨年につづき、2011年6月12日(日)に合計5名でお墓参りに行ってまいりました)

(2011年1月7日(金)、築柴氏が原型を(多分)手懸けた『ドラえもん』「おばあちゃんの思い出」のガチャガチャ(カプセルトイ)のネット上の商品画像を追加UP。著作権法的にはグレーですが関係各位にはご容赦を)


「ご実家のお店のショーウインドウにあったのも、たしかにこれだったと思います。(バックの和室のジオラマ部分は無かったと思いますが。)
 彼は逝ってしまいましたが、すばらしい成果をきっといくつも遺していってくれていったのだと思います。作った人の名前は知られなくてもドラファン、藤子ファン、(あるいは他の作品のファン)が築紫くんが手がけた立体物を見て喜んだり、感嘆したりすることはこれからもきっとずっとあることでしょうね。」

(図版提供&談:坂井由人&直人様)

09年6月8日(月)18時〜・通夜告知

(文・T.SATO)
(09年6月7日(日)執筆)
 このような媒体に書くのが適切であるのか、気が引けるところではありますが……。
 かといって、他に適切な媒体があるとも思えませんので、ここに告知させていただきます。


 弊サークル「假面特攻隊」の創始者にして先代代表であられる築柴輝一(つくし・てるいち)氏がつい先日逝去されました。
 くわしい日時は不明です。交通事故にあわれた模様です。まだお若かったというのに……。


 氏は高校生時代の1986年末に特撮サークル「假面特攻隊」を旗揚げ。
 読者覧での交流文化華やかなしりころの、特撮雑誌『宇宙船』の読者コーナーなどで仲間を集めて87年以降、オフセット印刷の同人誌を製作。同人誌即売会コミックマーケットに参加して同人誌を頒布。
 番外号をのぞく、『假面特攻隊』1号(87年)〜8号(91年)まで8冊の同人誌を中心になって製作されました。


 氏は高校(単位制で4年制)卒業後の2年間は、印刷会社に就職しておカネを貯められ、そののち専門学校に入学。2年間の学業をおさめられたあとは、造形関係の会社に就職、実家から独立して一人暮らしをはじめ、今でいう食玩の原型などを造る仕事をされていました。
 さらに4年ほどのち、脱サラされてフリーの原型師としても活躍。


 ちなみに弊サークル2代目代表である当方は、築柴輝一氏と同い年の同学年ではありますが、89年(平成元年)に発行された「假面特攻隊6号」第2期ウルトラシリーズ特集の通信販売にて縁を持ち、「7号」(90年)より参加。
 奥手であった当方を、築柴氏は会合や酒席などに何度もお誘いくださり、今でいう非コミュからの離脱、リハビリも模索していた(汗)当方は、ここが生きスジ! とばかりに酒席のスミっこに参画。


 築柴氏もサークル代表という立場からイメージされる多少なりとも豪放な性格とはいいがたい、とてもシャイでソフトな小柄で色白痩身の美少年といったお方でしたが、現在の当方(の立ち居振る舞いなどの処世)、および当方の立場、小さな一角ながらもポジションがあるのは、築柴氏のおかげです。本当に感謝しております。


 特撮サークルとは別のことをやりたいと考えはじめていた築柴氏は、91年秋にサークルを廃止するか、もしくは当方が引き継ぎすることの二択を迫られました。


 悩んだ末に、人生何事もチャレンジ、少なくとも自分のまぁまぁの得意分野(?)では重荷・負荷をつけて、さらなるリハビリも兼ねて(汗)、いつまでも外野・野党精神で文句をつけているばかりではなく、多少なりとも自分が中心になって責任を持つようなこともしないと背中にスジが一本通らなくなるし、次なるステップアップものぞめないだろうと、2代目代表を引き受けた次第。


 (引き受けた直後の2年間は順調に同人誌を発行するも、そのあと燃え尽き症候群で、3年間も同人誌を出せなかった時期もありましたが……)


 築柴氏は当時のロボットアニメ作品と、のみならずその玩具をもレビューするという当時としては斬新なオフセット同人誌を製作されたあと、造型関係の仲間を新たに集めてサークルを立ち上げ。造型関係のイベント・ワンダーフェスティバルなどに参加。当方も2〜3回、陣中見舞いに行ったものでした。……2、3回かよ! とツッコミされてしまいそうですが。たしか00年前後までは逆にコミケにも陣中見舞いに来てくれていたものです。


 ご多分にもれず、弊サークルの寄稿メンバーも20年弱の間に二転三転四転五転していき、そちらのメンバーとの付き合いを優先するに従い、近年は築柴氏とも疎遠となって、弊サークル誌「假面特攻隊」新刊の贈呈およびその感想返信、年賀状のやりとりしかしておりませんでしたが……。


 また、全然知りませんでしたが、訃報を特撮同人屋あがりの商業オタク系ライターの先達、坂井由人&直人兄弟にもお伝えしたところ、近年(それでも90年代中後盤?)でも「假面特攻隊」旧(初期)メンバーに誘われて、実は酒席を幾度か持っていたとのこと。よかったよかった。


 などということを、このような媒体に書いても(読まされても)、部外者の方々にはナンではありましょうが……。



 故人のご冥福を謹んで、お祈り申し上げる次第です。 合掌。



 もうお通夜までに時間的な余裕がないのですが、生前ご縁がありました方たちに少しでも可能性がありましたら届きますように(伝えられるかぎりは伝えましたが)、お通夜の会場の場所・地図の告知を、以下に記させていただきます。弔電も下記の方へ。


お通夜:6月8日(月)18時〜

東京都荒川区西日暮里6−55−1「メモリアルセレス千代田21」

 JR山手線・西日暮里駅・下車徒歩5分
 東京メトロ千代田線・西日暮里駅・2番出口下車徒歩3分
 日暮里・舎人ライナー西日暮里駅・西口下車徒歩1分


  http://chiyoda-ceremony.com/celes21/map_celes21.pdf


後日加筆: 〜あの時代と故人に追悼

(09年6月21日(日)脱稿)
 ここに書き記しておくのも、重ねて気が引けるのですが、特にプライバシーの侵害にあたることもないであろう範囲を、当方の責任にて取捨選択して、故人を偲ぶよすがとして、一筆したためさせていただきたいと思います。


 6月8日(月)月曜日夕刻、お通夜の方はしめやかに営まれました。


 もちろんご中心はご家族、ご遺族ではあらせられますし、ご心中の悲しみはいかばかりであったかとお察し申し上げます。


 築柴氏の趣味関係の友人・仲間関係では、地方に在住であったり、外せない仕事があった方をのぞけば、「假面特攻隊」の初期メンバーが喪服姿でほぼ集合(今でも弊「假面特攻隊」誌に寄稿している人間はひとりもおりませんけれど)。
 その初期メンバーとも親しかった、90年代中盤以降に知り合った築紫氏と同業のフリーの造型家仲間も1名参加。


 あと、築紫氏の会社勤め時代の元・上司の方(といっても築紫氏と同い年。でも採用面接のときからのご縁だとか)と、元・同僚の方1名がご出席されました。


 元・上司の方は、築柴氏の造型サークルで、90年代後半(後日付記:97年)に各マニア誌でその写真が紹介されたウルトラマンジョーニアス(=TVアニメ作品『ザ☆ウルトラマン』(79年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19971117/p1)の主役ヒーロー)のフィギュアを造型、販売されていた方でもありました。
 有名なアニメの設定画を元にした、立膝半腰で右腕を前面に構えたポージングを、スマートな筋肉美ともども、見事にどの角度から見てもスキがなく造型した一品で、当時はお客さんが店頭にたかられるほどであった、そのフィギュアの塗装済み完成展示品は、99年ごろに筆者が築柴氏を経由して造型イベント・ワンダーフェスティバルにて入手(後日付記:98年1月でした)。
 (ジョーニアスが売れたら、同作品中のゲストウルトラ戦士・エレクとロトなども造型するつもりだったそうですが……)
 古株の好事家の方にはご存じとは思いますが、『ザ☆ウル』の科学警備隊の紅一点・ムツミ隊員のフィギュアも同時発売。


 10年を経て初めて知ったのですが、その塗装は実は築柴氏が手掛けていたものであったそうで(当時は何も云ってくれなかったなぁ・汗)、奇しくも所蔵の品が形見の品ともなりました。


 同じく塗装済み完成品の残り1品は、元・上司の方が、やはり奇しくも10年を経て、造型関係のお仕事の縁で、円谷プロダクションの怪獣倉庫閉鎖の直前にお見舞いした折に、デザイナー・丸山浩氏(『ウルトラマンティガ』(96年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/19961201/p1)以降のウルトラヒーローやウルトラ怪獣デザインなどで有名)と縁ができて、進呈したばかりだったとのこと。
 筆者ごときが所蔵するよりも、丸山センセイが所有されていた方がハクが付くというもの。よかったね、築紫さん。……なぞと俗っぽいことも云ってみる(笑)。


 また、弊ブログの当該記事にトラックバックhttp://d.hatena.ne.jp/wicket/20090609/1244501503)をお寄せくださった、お通夜にも参加されたというお方は、往時会合やカラオケに参加されたこともある当時千葉県在住だったイニシャルで云うとT.T.さんという、どこぞの企業の図書室(?)の司書になられた長身痩身の寄稿者の女性の方がいらっしゃいましたが、そのお方でしょうか? レコーディング・ダイエットのブログがあまりに当時の印象とは異なりますが……(いや同じような印象か?・汗)。全然別の方でしたらスミマセン。


 山形県在住の、往時の假面特攻隊・北日本支部代表の佐藤弘之クン(後日付記:半分ヤンキー入ってるヤツなので(笑)、男らしいことに供養の気持ちも兼ねて実名を出してくれとのこと(!)でしたので実名で……)も、年賀状のやりとりしかしておりませんでしたが、メールでの連絡に対して即座にていねいなご返信をくださりました。彼は遠方ゆえ当然のことながら参加は適いませんでしたが、お通夜の会場に弔電をくださるつもりとのことでした。



 北日本支部なぞという名称の部署の存在など、若い読者には何事かと笑われてしまうかとは思いますが。


 解説すると、80年代のマニア・ファン活動は、例えるなら明治時代の正岡子規がカンタンな言葉で写生・写実する近代俳句を雑誌で提唱して庶民が影響を受けてマネしはじめる時代の前みたいなもので(?)、今のようなインターネット上のホームページや掲示板にブログ隆盛の時代とは異なり、マニア同人誌を作ったりそもそもクダけた口語体の散文であろうが意見・感想などの文章を書く際の意識的なり無意識的に模倣する参考基準、ノウハウすらもがあまりなかった時代。
 1960年前後生まれのオタク第1世代もまだ30歳前で、よって10代と20代のマニアしかいないような若々しいころ、“ごっこ遊び”的ではあるのですが、会員制のサークルを作って地方支部を作るという流行がありました。
 (一番メジャーそうな(?)サークルで云うと、やはり当時ではなく発刊10年のちにコピーを入手した(汗)、TV時代劇「必殺シリーズFC(ファンクラブ)・とらの会」初期号(1980年ごろ発行)の誌面などに、地方支部設立の記述などがあります……)


 築紫氏は、直接的には80年代中盤に大活躍していた特撮サークル・ETC大江戸や、その喫茶店(?)での会合の末端に参加して、その場の彼ら――といってもコレがまた筆者らの同世代だそうで、マニア向けイベントへのアクセスが容易だった東京都在住という地の利があったにせよ、関東近郊在住の当方からすれば、10代中後盤のときからすでに活発に活動とは随分と早熟な……――の議論の熱気に当てられて、サークル活動を始められた、とご当人から聞いております。


 ETCには当時、70年代・変身ヒーローものの再放送が盛んであった九州の福岡支部などがあり、築紫氏によるサークル地方支部の設立はその影響だったのだろう……とコレもまた、別の場所で15〜6年前に聞いた、同じくキャリアの初期のころにETCに影響を受けたという同い年の老舗アニメ&特撮サークル・セイリングジャンプ主宰・鹿取しいね氏の言)


 筆者個人はその時代の特撮評論同人界のことはリアルタイムではまったく存じていなくて、後付けのお勉強で知識を仕入れたものにすぎませんが……。


 90年代以降のファン・マニア・同人活動においては、同人誌の印刷代の事前捻出という意味もあったのであろう「会員制」は急速に廃れていきます(本サークルも90年ごろまでは「会員制」。ただし会費徴収はなかった)。
 サークルではあっても会員制ではなく、同人誌印刷の安価化や手書き悪筆の人間にも道を拓く推敲も容易なワープロの普及、マニアの社会人化にともなう可処分所得の増大などとも相まって、サークルに所属はしていても個人で同人誌を発行したり、あるいは個人サークルなりサークル越境で都度メンバーを集めて活動する方々が多くなっていきました。


 00年代以降の新たな潮流、パソコンのワープロ機能やDTPソフトでの同人誌製作、ネット上でのファン活動の隆盛やその細分化については、読者のみなさまの方がくわしいかと思います。


 ……などと古クサい話をしつづけて、弊サークルも実は1986年末が設立だったなぞと云うと、若い読者だったら自分が生まれたころか、生まれる前の話だヨ! となりかねず、ウ〜〜ンと遠い古い時代の出来事に感じられてしまうかと思います
 (だから、あまり設立年や何周年などということは、カビくさく思われそうなので、前面には出さないのですが・笑)。


 その感慨もごもっともなのですが、もう少し細かく噛み砕いて説明して、選り分けをさせてくださいませ。


 1980年代中後盤にはワープロの急速な普及があり、弊サークル『假面特攻隊』の同人誌などは当初からほぼワープロ活字誌面によって、製作されておりました(B5サイズ用の台紙にワープロ印字物を切り貼りするようなものですが)。よって、それ以前の時代の手書きの清書による同人誌とはもう体裁が異なっておりました。
 また、1980年前後のジャンル草創期のようにプロライター・アマライターがある程度、渾然一体となっている時代も遠くに過ぎており、特撮ジャーナリズムも確立されていて、プロは基本的にはすでに雲の上になっていて、とっくに隔絶されていた時代です。


 そのかぎりでは、70年代前半のいわゆる変身ブームで産湯をつかった後発の世代であり、一回り上の世代である70年代中盤〜80年前後に勃興したオタク第1世代(60年前後生まれ=第1期ウルトラシリーズや初期東宝ゴジラ映画世代)らによる同人活動の成り立ちとは相応に異なったものであったとは思います。


 もちろん先人の開拓者には敬意を表しておりますし、彼らが荒野を切り開いたその路線に乗っかったものであることも否定はしませんが、同時に彼らの見解に対するいくばくかの異議申し立てや、支線や別の本線へと導く転轍機の構築も、その志しのひとつにはあったわけなのでした。


 (まぁこのようなカタ苦しいことばかりを考えていたわけでは当然なくて、やはり80年代の時代の空気の影響か、もっと軟派な読者投稿欄のお遊びコーナー的なカルいノリも、一方ではありましたが……)



 お通夜のお食事の席のテーブルにて、もちろん座が進行して和んでからではありますが、築柴氏の最期の詳細について、ご親戚やご近所の方2名ほどに、厚かましくもそれとなく当方はお聞きしてみました。
 彼らいわく、ご両親の方にご状況を聞いても、泣き崩れてしまわれて、それ以上は聞けなくて詳細はわからなかったとのことでした。痛み入る次第です。


 お酌に廻られている明るく気丈にふるまわれていたお母さまにも、母君とは知らずに、それとなくお聞きしましたが、お母さまは感極まって言葉にすることができず、悪いことをしてしまったものでした。


 ご親戚の方に聞いて最低限わかったことは、下記の通り。
 6月5日(金)の午後7時ごろ、激しい雨で視界が悪いタイミングにて、交通事故にあわれたらしいことのみです。


 築紫氏がクルマやバイクに乗るという話は聞いたことがなく、山手線の駅のごく近い場所に住む下町出身の彼にとっては、そもそもクルマもバイクも必要がなかったはずで、友人いわく免許も持っていなかったはずだとのこと。
 なので、単に不幸にも交通事故に巻き込まれてしまったという認識でよろしいかと考えています。
 当方宅には、直下に記すSくんより、翌6月6日(土)午前10時12分付けで、訃報および8日(月)夕刻の通夜告知のメールが届いておりました。


 名前を出しても問題はないかと思いますので云ってしまうと、今回の件でも築紫氏の妹君から真っ先に電話連絡が行った(泣かれるばかりで会話にならなかったそうですが……)、「假面特攻隊」極初期メンバーのひとり・Sくんは、最近でも2ヶ月に1回は築柴氏と飲んでいたそうで、一番最近は本年09年4月1日に会ったばかりだったとのこと。


 元・上司の方も、5年前にフリーになったそうですが、ここ5年は主に築柴氏と仕事をされていたとのこと。昨08年の築柴氏は、TV特撮『トミカヒーロー レスキューフォース』(08年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20090404/p1)のメカの食玩か小玩具かなにかの原型を造られていたとのこと。


 お仕事や精神的な方面での問題はなかったのだろうと思います。お顔もきれいで傷もなにも見当たりませんでしたし。


 筆者個人が務める会社でも派遣社員が全員派遣切りにあったり、地方在住の寄稿者連中や常連通販読者などからの私信を読むと、首切りにあったり会社がヤバくなったりいっそ倒産したり転職がなかなか決まらなかったり失業保険の取得に苦労していたり、携帯電話や電気・ガス料金が払えなくて1ヶ月間切られたり……
 などといった、シャレにならない地方の絶望的な経済状況や個人の苦境を聞かされて気が重くなることも多くて、そんな状況に陥っている方々であればついつい悪い想像をされてしまうかとは思うのですが、もちろんそのような方々には大いに同情しつつも、あらぬ誤解を招かないように不謹慎にもくどい説明をさせていただきました。


 ……しかし故人のお顔を拝する前後こそ、胸に迫ってつらくて悲しいものはない。
 (もちろん1日中泣き続けて、これでもう涙が枯れ果てたかと思ったら、また涙が出てくる……とおっしゃられていたお父さまの悲しみの深さに比肩すべきもないのですが……)


 いずれにしても不出来な友人のひとりではありましたが、彼が安らかに成仏してくれるように手を合わせて、ひたすらにお祈りするのみです。



 当方の左隣りに座られていた初老のおじさんに話しかけてみたところ、
 「今にも輝一くんが『いらっしゃいませ』と云いながら、うしろからビールのお酌に来てくれそうな気がする」
 とおっしゃられておりました。


 そのようなことを彼がよくしてくれていたそうなのです。
 築紫氏のご実家は、お父さまのお寿司屋さんでもあり、そのおじさまは、お父さまのご友人でお店の常連さんなのでもありました。


 しかし失礼を承知で云えば、我々のようなオタク族になってしまうようなタイプの性格の人間は一般に、長じてからはともかく若いころは特に(長じても?)、内心では申し訳ないと思ったり自身の不器用さを呪ったりもしつつも、それ以上に人見知りで感情表現が不得手で、そのような場をあえて避けがちであるのが一般的であるかと思っていたのですが、シャイな築紫氏でも、やはりそれ以上に東京の密な人間関係が残る下町育ちの人間でもあったのかと、意外な一面を見た思いがしたものです。


 また一方で、「おとなしくてやさしい子であった」「子供のころから気持ちのやさしい子で、おばあさんのお見舞いにも頻繁に行ってあげていた」「小さいころに自宅で預かってあげても、○○クンは部屋の中を荒らしたり悪さをしたりするけど、輝一クンは言いつけをすると買い物で留守にしていてもジッとしていて何も悪さをしない本当にスナオな子だった」……
 等々というのが、お通夜の席の同じテーブルでご同席していた、ご親戚かご近所の年配のご婦人がたの会話から聞こえてくる、築柴氏に対する人物評でもありました。


 最後の3つめは当方自身の子供時代のことのようだ、なぞと故人の追悼にとってはよけいなことをついつい口走りたくなってしまいますが(汗)、一応これは次にする話題の前フリでもありまして、そういうタイプの子供がただ単に無心で純真な心持ちであったのかというとそうでもなかったのではないか? と当方は不遜にも愚考、推察いたします。


 まわりの元気がよい、残酷さもふくめてウラオモテがない同世代の子供たちと比べてみて、控えめである自分がこの世の中や人間関係をこれから生き抜いていくことに対して、幼心にも先行きを危ぶんでみたり……
 といったような、自己卑下や世界に対する小さな違和の気持ちが脳裏にはウズ巻いていて、外面の言動と内面の本心が分裂して、内面の方が次第に肥大化していき、それが良くも悪くも肥やしとなって、自分の体を張った一次的な表現よりも、文章や絵や造型などといった二次表現の方で、自分をアピールしたり逆に承認されてみようとするような……。
 もちろんそのような二次表現の場でもまた、ナマ身の対面コミュニーケーションがはじまる場合もあり、時に場数が踏めたりもするのですが
 (もちろん場数が踏めなかったからといって、その人間を軽視・嘲笑すべきではないのは当たり前、当然のことではあります)。


 ……ここで、高校の文学史の授業で習ったような、「内面の肥大化」=「近代的自我の誕生」!
 なぞと正当化してみたかったところなのですが、我々の趣味内容はあまりにもチャイルディッシュでカッコ悪いし、自立して自己決定する「近代的個人」というより、文学の方でいう弱々しい「近代的個人」なので、そこまで美化する気はありませんけれど(汗)。



 とにかく、「おとなしくてやさしい子であった」という人物評は、もちろんご親戚・ご近所の方々は、善意で云われているのは疑うべくもないですし、それはそれでケチのつけようがないところではあります。
 が、以下に述べることは、自分の心情を築紫氏に仮託して投影しているだけだとも思うのですが、やはりそのような人物評だけでも淋しすぎるような気が当方はいたしました。


 よって、彼は早熟にも十代の高校生時代に趣味のサークルを自身が中心になって設立して、主宰者としても積極的に活躍するような知られざる一面もあったのです、こっちとあっちのテーブルに分かれて座っているメンツは築紫氏とは20年前から付き合いがある人間たちなのですよ、と出しゃばりにも周囲の方々にお伝えするなどしてみてあげた次第。
 (サークルの主目的が、いわゆるオタク趣味であることは、空気を読んで(汗)やはり明かしはしなかったのですが……)


 お寿司屋さんのお父さまも、おそらく職業的に江戸っ子気質で世代もタイプも築紫氏とは少しくちがうでしょうから、きっと築柴氏は趣味活動のことをあまりしゃべってはいなくて、ご両親は存じてはいないだろうと推測して、お通夜のお開きのときに、食事の会場の出口とエレベーター前で分担されて参列者のお見送りをしていたご両親それぞれに、彼のサークル主宰活動のことと当方らの20年来の付き合いのことや20代前半のときには頻繁に仲間たちと会っていたこともお伝えしてみた次第。
 ご両者ともに「そうですか。あの子は何もしゃべらなかったから……」と、少なくともご表面に出されるかぎりにおいては何も知らなかったというご様子でしたが。……やっぱりなぁ。


 もちろん本当にまったく何も知らなかったということではなく、ウスウスとは何かをしていることくらいは知っていたろうとは思うのですが。
 あるいは仮に、趣味活動のことを快からず思っていたのならば、あまりよろしからずな当方の言動ではあったと思うのですけれど。


 まぁ死後に、家族や親戚に自身がサークルの主宰として活動するような一面があったことを知られていなかろうとも構わない、趣味内容が趣味内容だし、むしろ積極的にそれはそれでよい……
 と築柴氏が仮に思っていたならば、当方の行為はよけいなお節介であることも重々承知はしているのですが。


 当方も家族は当然自身の活動を知ってはいるけれど、親戚に積極的に知られたいわけではないしな(笑)。



 89年秋から90年夏ごろまでの同人誌のバックナンバー通販購入にともなう、築柴氏との何度かの心躍る新鮮な私信のやりとり。
 90〜91年ごろ、新宿新都庁舎が巨大クレーンで建設中〜完成目前〜完成直後、90年代中盤に高島屋新宿店が出店する前の甲州街道に面した、まだ人通りもまばらであったJR新宿駅南口を待ち合わせ場所に、西口方面のチェーン店居酒屋で呑み食いして、二次会は西新宿の高層ビル1階のマクドナルドで、オズオズとウブながらも会う度に親しくなり会話も楽しく弾んでいったことを、今となっては彼の照れもあるのかワリと常に絶やさなかった笑顔とともに思い出します。
 あの時代もふたむかし前の刻に過ぎ去ってしまいました。


 野次馬根性で当該記事を読まれた方ではあっても、築紫氏のような御仁がおられたことを知っていただき、形式的にではあっても心の中で一瞬だけでもいいので、黙祷なりお祈りしてあげてほしいと、友人のひとりとして思います。


 以上、ご精読くだされた方々に、くれぐれも切にお願い申し上げる次第です。


(了)

『假面特攻隊』初期号表紙

(誌名ロゴ・表紙カットも築柴氏の筆による)




 (『假面特攻隊3号』87年12月27日発行)
 (『假面特攻隊4号』88年03月30日発行)
 (『假面特攻隊5号』88年08月14日発行)
 (『假面特攻隊6号』89年08月13日発行)
 (『假面特攻隊7号』90年03月25日発行)


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