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劇場版 仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL 〜賛否合評


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(02年8月17日封切)
(脚本・井上敏樹 監督・田崎竜太 アクション監督・宮崎剛&金田治 特撮監督・佛田洋

劇場版 仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL 〜評1 [最終回]への懐疑〜劇場版『龍騎』評〜

(文・内山和正)
 注:真相や結末、キャラクターの去就に触れますので未見の方で知りたくない方は御注意ください。


 私事で恐縮だが、田舎住まいのせいで、劇場のある町まで滅多に行けない状況なので、映画を続けて観ていて、本作『劇場版 仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』(2002)の上映がはじまったころには肉体的・精神的に疲れていた。
 そのせいかのれるまでに時間がかかり、序盤はつまらなくはないもののイマひとつ盛り上がれないでいた。「これは[最終回]なのだぞ!!」と自分をいさめながら観ることに務めた。


 いや、盛り上がれなかったのは疲れのせいばかりではあるまい。作品世界そのものはテレビ版と同じであってもそこに流れている風は違うようで違和感があったのだ。
 創作物はよほどきっちり細部まで決めてその場のテンションも抑えて書かぬ限り、結末が決まっていても細部は変わっていく。アイディアや人物の描きこみで厚みを増していく。まして本作のように2人のライター制ではなおさらだろう。


 本作の主人公・仮面ライダー龍騎こと城戸真司(きど・しんじ)は、あいも変わらず単純に仮面ライダー同士の争いを止めようとし何の効果もあげてはいない。
 テレビ版では真司の心のありようがすでに先を行っている。成果はあげられないとしても心は成長しているのだ。映画の真司は所詮この脚本が書かれた時点での彼にすぎないのだろう。
 それとはまた別に、時間の推移による変化は、すでに仮面ライダーナイトこと秋山蓮(あきやま・れん)の恋人、植物人間状態の小川恵理が死んでいるのでは? と察せられる(「あたらしい命」との蓮のセリフで)くらいであまり進展をうかがわせない。


 本作はテレビ版の[最終回]にあたる物語だと言われてきた。たしかにそれは事実ではあるのだろう。だがテレビ版の結末がそのままここにつながっていくというのはどうなのだろうか?
 [最終回]という言葉に罠はないのか? [最終回]という言葉にはいろいろな意味があるのではないか?


 テレビで流れる宣伝では「最終回先行映画化」とあるが、映画化と言うからには何か元となるものがあってそれが映画になるということだろう。
 もちろんテレビ作品が映画になったというだけの意味かもしれない。
 けれど[最終回]の[プロット]という元があってそれをテレビ版に先がけて映画にした映画バージョンにすぎないかもしれない(同じプロットであっても人物などに厚みを持たせてテレビバージョンでのちに再映像化)。
 あるいは[最終回]という[素材]自体を映画にしたものかもしれない。


 後者は、[最終回]の決着のつけ方はひとつしかないわけではないから、その可能性のひとつを映画にしたのでは? という意味である。
 昨01年の『仮面ライダーアギト』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011106/p1)に当初暗い結末が考慮されていたというように、本作は根暗バージョン、脚本家・井上敏樹氏バージョンではないか。テレビ版ではメイン脚本家・小林靖子さんが異なる結末をつけるのではないか? そのためにあえてメインではない井上氏に任されたのではないか?


 「最終話としたのは『龍騎』でベストな映画をつくるため」
 とか
 「この『龍騎』の結末を描くには映画しかない」
 とのスタッフコメントが各所であったが、正直なところ[最終回]を映画にすることは、観客動員や、「どういうふうにここへつながっていくのだ」「仮面ライダーオーディン(自称最後のライダー)はどうなってしまったのか」「ORE(オレ)ジャーナル記者の桃井令子は真実を何も知らないままなのか」とテレビ版へ再び向かわせるヒキとしては最適なものの、逆に[最終回]の側にはあまりメリットがない。
 テレビ版では見せられないお金のかかった迫力ある映像・大規模な戦いで、[最終回]を飾ることができるくらいだ。
 あとはせいぜい後味の悪いこの結末をテレビ版で放送しては、観る側の心に負担がかかりすぎるかもしれないからという心情的配慮(?)がある程度。


 むしろ、映画にしてしまったことで仮面ライダーゾルダ・北岡秀一や仮面ライダー王蛇・浅倉威(あさくら・たけし)の迎えた最期が味気なくなってしまった気がする。
 もちろん浅倉の末路や北岡の選択自体はこの方向でもよいと思うのだが、テレビで放送中の連続ドラマの時間から切り放されていることで、あのドラマの結末という感触に欠ける。
 戦いの末の浅倉の死は、変身能力をなくしてさえなおも他のライダーと争う執念や断末魔の形相など彼らしい凄まじさで圧倒してくれるのだが、『劇場版』のみのキャラクターたちとの争いで終結しているせいもあり、テレビ版の余韻を引かずにこの映画だけで完結してしまった感がある。
 北岡が近いうちに来る自らの不治の病による死を受け入れてライダーであることを捨て、残り少ない人生を楽しむのも心情的に納得して観られない
 (おそらく仮面ライダーファム・霧島美穂が登場する以前にも、色々変心のきっかけとなる何かが起きていたから、美穂の登場くらいで戦い続けることが嫌になったのだろう。テレビ版の北岡では、美穂の姉の死への責任という理由程度で、自分の生への執着を捨てるとは思えない。子供が観る作品という制約上(?)、姉の死を詳細に描けぬこともさらに説得力を弱めてしまっている)。


 それに周囲の子供客の反応をうかがっていたところ、北岡のライダーバトル放棄によるゾルダの脱落や、ファム=美穂の死は、年長の観客には格好良い見せ方かもしれないが、幼児には理解しにくいようで母親が説明してもわからないようだった。
 新キャラクター美穂は、演者の加藤夏希さんがお人柄はどうかわからないものの、外見的には個人的に苦手なタイプなので観る前はそれほど楽しみではなかったが、真司とのからみを通し、もう少し観たいキャラクターとなっていた。
 ライダーバトルの設定上、また映画の上映時間の関係上、仕方ないだろうし、脚本家の資質もあるだろうが「どうなるのか」という期待に充分応えたとは思えない、あまりにもあっさりした虚しい死であったのが(感情的には)惜しまれる。


 ライダーバトルの行方と並行して、バランス悪く描かれるヒロイン神崎優衣(かんざき・ゆい)の体調の変化が、ライダーバトルの真相の核心に迫っていく。
 このくだりは子供時代の真司と謎の少女(優衣)の出会い、優衣と鏡の中の優衣の交流、20歳までの命をもらう優衣など妙に妖異的で、真司になりかわろうとするミラーワールドの真司(仮面ライダーリュウガ)の暗躍とともに、テレビ版のミラーワールドの乾いた世界観とは異質すぎる。
 しかし異様な雰囲気と展開の興味にひきこまれていく。


 偶然、仮面ライダーになってしまった、ライダーバトルには余計者のはずの真司が、実はすべての元凶であったというのは皮肉で残酷な真実だが、これもテレビ版のテーマとはズレを感じる。
 一番強いライダーの命を奪って優衣に与えようとする兄・神崎士郎のたくらみも、余命いくばくもない北岡が勝者になってしまったらどうするんだと設定に矛盾を感じるし、そのライダーの1人にミラーワールドのリュウガが加わっているのも変で、リュウガ自体の設定がこの場限りではおもしろくても整合性は欠き無理矢理とってつけたアイディアのように感じてしまう
 (観ている間はストーリーにのせられて気づかなかったのだが、あとであらためて考えてみると)。


 優衣が他者の犠牲を望まず、運命を受け入れて「仮面ライダー」シリーズの常識を打ち破ったヒロインの死という悲劇をむかえたあと、ドラマはクライマックスをむかえる。
 勝者が望みをかなえられる特権が神崎士郎の詐欺に過ぎない可能性が高いとわかっても、わずかな可能性に賭け真司と戦うことを選ぶ蓮、それを受け入れる真司。
 しかし2人はその前にミラーワールドから現実の世界へ飛び出して行こうとするモンスターの大群とたった2人だけで戦わねばならない。生きて帰れるかわからぬ戦いである。ドラマはそこで終わる。


 子供を言い訳にして観に来ていると思われる主婦が
 「どうなったの? (続きは)テレビで見ろってこと!?」
 と怒っていた。
 「それで終わりですよ、リドルストーリー(結末を視聴者や読書の判断に委ねる形式の作品)って知りませんか。『女か虎か』(この形式の世界的代表小説)知りませんか、怪獣映画『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』(1999)知りませんか?」
 と言ってやりたかったが、変に思われるのでもちろん言いはしなかった。


 たしかに誰が生き残るのかを客寄せにつかっている以上、反則ではあろうが個人的には綺麗な締め方だと思う。
 真司と蓮には戦ってほしくないが「いつの日か戦わねばならぬ運命」であるというのなら、それを見せぬのがベターではないか。


 大群との戦いを前に、真司と蓮は強化形態・仮面ライダー龍騎サバイブと仮面ライダーナイトサバイブに変身。初登場の龍騎サバイブに子供たちから驚きの歓声があがる。(僕の観た上映日では、テレビ版での予告編で既に出ていたはずだが、観ていなかったのだろうか?) 活躍シーンが無いのは、ずるいもののテレビ版への見事なヒキとなった。



 附記:映画から数ヶ月たってみると、テレビ版の最終回(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021108/p1)は映画とはちがう終わり方をするのだろうという印象が強くなってきた。
 浅倉を待つのはどっちみち死であろうが(倒されなくてもいずれ死刑だろうし)、精神的にこれまでとは違う何かをつかむことになるのではないかという気がする。
 仮面ライダーベルデがテレビ特番『仮面ライダー龍騎スペシャル』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021105/p1)にしか登場しないということは、テレビ本編では13人のライダーではなくなってしまうわけでどうするのか。カードデッキ(変身ベルト)が放棄されてしまうのか?
 テレビ本編の中で13人という具体的な数をあげず雑誌発表にとどめておけば言い逃れできただろうが。


(了)


劇場版 仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL 〜評2

(文・久保達也)
 新たなるライダー・仮面ライダーファムや仮面ライダーリュウガも登場し、バトルシーンも頻繁に描かれていたので上映時間が長い割には子供たちはそれなりに楽しんでいたようだが、個人的には色々と不満の残る作品であった。
 以下、箇条書きにまとめた。



・一応TVシリーズの最終回として製作されているのだからドラマが重くなるのは当然と云えば当然だが、だからこそTV同様のお笑いの要素がもっとほしかった。
 全体的にちょっと陰欝に過ぎた。せめてORE(オレ)ジャーナルのコンピューターオタクの島田奈々子にはいつものようなギャグの活躍の場を与えるべき。
 まあ前作『仮面ライダーアギト』(01年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011106/p1)の北條クンや小沢澄子のいきなりの登場には子供たちも大笑いしていたが。


・「初の女性ライダー」などと派手に宣伝されていた割にはファムの退場が早過ぎる。すっかり大人の女性としての魅力が出てきた加藤夏希チャンをもっと見ていたかった。ウ〜ン、『ナッキーはつむじ風』(78年 国際放映・TBS)とはいかなかったか(笑)。
 それはともかく彼女が演じる霧島美穂は仮面ライダー王蛇・浅倉威(あさくら・たけし)に殺された姉を甦らせるためにライダーになったハズなのだが、その殺害の描写が無いため(パンフの写真を見る限りでは撮影はされたみたいだが、尺の都合でカットされたようだ)にナゼ彼女が浅倉を目の仇にしているのか、子供たちには伝わりにくかったのではないか? セリフだけで済ませるのは無理だと思う。


・モンスターが大挙出現するのは良いのだが、みんな同じ奴ではなんか戦闘員みたいで個人的にはあまり魅力を感じない。またヤゴ型からトンボ型に脱皮するのは良いとしても、その飛行形態がデザイン的に全くモンスターとしての魅力に欠ける。隣の子は「ヘンなワルモン」と笑っていた。
 本作はCG無しでは描くことのできない魅力的な描写に溢れていたが、このモンスターだけはあまりに興醒めであった。比較して良いのか判らないが、同じ大群なら同時期公開の『劇場版 ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET』(02年)に登場した怪獣兵器スコーピスの方が数段魅力的である。


・最後に残ったライダーが仮面ライダーオーディンと戦う話は結局どうなったんだ? 隣の子が「オーディン出ないの?」とうるさくて仕方がなかったぞ。母親に代わって答えてくれい(笑)。(注・鑑賞直後の感想なので)


龍騎の新モードである龍騎サバイブが登場したかと思ったら、モンスターとの決着もつけずにいきなり終わりでは楽しみにしていた子供たちに対してあまりに失礼である。
 エンディングが流れ始めると客がそそくさと帰ってしまうのは一般向けの作品では当たり前になっているが、子供向け映画でそれを招いたのは前代未聞である。
 「最終回」だなんて私なんかは最初からハッタリだと思っていたので(笑)TVとの兼ね合いがある以上、思い切った完結のさせ方ができないのは充分に承知しているが、子供たちがそれで納得すると思うかね? 「大人はみんなウソつきだっ!」なんてグレちゃったらどうするの?(笑)



 まあそんなとこですわ。ただライダー王蛇が早々に死んだ際に大きなどよめきが起こっていたからやはり奴は結構人気があるのかね。隣の子なんか王蛇VSファムの際に「王蛇、ガンバレ、王蛇、ガンバレ」なんて声援送ってたくらいだから。思わず殴ってやろうかと思っちゃった(笑)。


 なお名古屋東映は9月13日に昭和31年からの長い歴史に終止符を打った。情報誌・中部版『ぴあ』によれば、名古屋地区では今回の二本立ては公開第1週目に興行収入で第1位、2週目には第4位を記録。
 それも10才以下の男子や30代以上の親の世代の支持のみにとどまらず(『コスモス2』はやはりそれだけだった)、10代や20代の支持も得られたことがやはり大きいのだ。
 名古屋東映では公開二日目に午後4時30分からの舞台挨拶を見るために初回から多くの人々が押し寄せて全然帰らなかったために2回目以降は一切入場することができなかったという。有終の美を飾るにはふさわしいプログラムであった。


(了)


劇場版 仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL 〜評3 このライダーは俺が殺る

(文・伏屋千晶)

* 凡人ヒーロー罷(まか)り通る

 『仮面ライダー龍騎』(2002・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021109/p1)のメイン監督・田崎竜太氏のコメントによれば、同作品の主人公=龍騎〔城戸真司(きど・しんじ)〕とは、東映ヒーローの伝統たる《超人的な正義の味方》の類型から逸脱した《凡人ヒーロー》なのだそうです。



 もとより、「新世紀・仮面ライダー」三作品は、善くも悪しくも、従来の仮面ライダーのイメージ=「型」を悉く(ことごとく) 打ち破ってきました。


 ごく温厚な青年が「みんなの笑顔のために――」という強迫観念に衝き動かされて、盲目的に戦い続けた『仮面ライダークウガ』(2000・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001111/p1)
 → 〔「超人性」「寓話性」の排除〕


 仮面ライダーになんか別になりたくもなかった料理好きの青年が「生存本能」に従って戦わざるを得なかった『仮面ライダーアギト』(2001・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011107/p1)
 → 〔「公」の正義から「個」の正義への転換/「自己防衛」「個人主義」の積極的な肯定〕


 そして、現在放映中の『龍騎』に登場する13人の仮面ライダー達は、各々に戦う動機を異にしており、人類を脅かすミラーモンスターと戦うのも「契約したモンスターに食わせること」が主目的であって、互いに助け合うどころか「潰し合い」を強いられています。
 そんな世知辛い状況下にあっては、主人公=城戸真司も「ライダー同士の争いを阻止する為に、ライダーの力を行使せねばならない」という、自縄自縛(じじょうじばく)ともいうべき皮肉な悪循環に陥ってしまいました。
 → 〔「正義の味方」としてのアイデンティティーの稀薄化/戦闘モチベーションの卑小化〕



 以上の新世紀ライダー三作品の主人公達(クウガ=五代雄介/アギト=津上翔一/龍騎=城戸真司)に共通する性向とは、己の信念を懸けた無償の戦いにライダーの力を行使しようと“無心に努力し続けている”点であり、それこそが、ファシズムと同一視される危険性を常に孕んでいる「大時代的な正義」のベタな表現を忌避しようとする若手クリエイター達が提示するところの「精神的な行為」としての《無垢なる善》だったのです。


 つまり、彼ら三人は、正義の旗印の下に自己の優れた能力を駆使して「能動的な善」を強硬に遂行してゆく《完全無欠の正義の権化》とは違い、生来「善なる性質」をもって生まれただけの《天性の善人》(単なる“お人よし”)に過ぎず、一般的な意味に於いては“未完成”且つ“社会的に無価値”な人間なのです。


 (以上の点に関しては、TV後半において、「ヒロイン神崎優衣(かんざき・ゆい)〔=個〕を守るか、大勢の人間〔=公〕を守るか」という“究極の選択”を迫る、香川教授が造ったその名もズバリ、人造の擬似仮面ライダーオルタナティブ(alternative=二者択一)」の登場によって、今後、より一層強調して描かれてゆくことでしょう)



 それ故、たとえ戦闘過程で絶体絶命の窮地に陥り、敗北を喫して致命的なダメージを被ったとしても、〔精神と肉体の鍛練により、試練を克服してゆこう〕などというポジティブな発想は毛頭無く、その代わりに〔どんなに敗北に近い局面にあっても、とにかく頑張り続けてゆこう〕という「愚直さ」(聖なるバカ=innocent)こそが、新世紀の仮面ライダー達が唯一の「美徳」としている貴重な資質なのであり、その〔卑近なヒーロー像〕が“大衆”の絶大なる支持を獲得するに至る原動力となった事実は、登場人物のプライベートな日常描写のウェイトが過大になりつつある傾向(=戦闘アクションの軽視)に対して甚だ懐疑的だった私にも、従来の「ヒーロー観」を改めざるを得なくさせました。
 つまり、万人に愛された「東映娯楽時代劇映画」をルーツとする「東映ヒーロー活劇」には、何よりも〔通俗性〕こそが大切なのではないか――と。



 この新しく誕生した〔凡人ヒーロー〕の概念は、変身前の主人公の性格描写から「戦闘のエキスパート」としての特性が一切排除されて、終始“一般人”に徹している点が、一見、高寺成紀(たかてら・しげのり)P(プロデューサー)が一貫して追及し続けていた〔等身大のヒーロー像〕のイメージと混同されがちですが、〔変身後は一転して派手なバトルを展開する〕作劇パターンが、〔血沸き肉躍る(死語?)クライマックスよりも退屈な幕間劇(まくあいげき)に重きを置く〕高寺作品とは大きく趣を異にしています。



 こうして、高寺P流の〔等身大のヒーロー〕のエッセンスを更に一歩押し進めた〔凡人ヒーロー〕の定義は、[全世界・全人類の安寧と恒久平和]という“汎社会的なビジョン”を持たない〔ミクロコスモス(閉ざされた社会)のヒーロー〕として確立され、その画期的な(?)ヒーロー像は、先鞭をつけた『クウガ』を偉大なる試行錯誤(?)として、続く『アギト』『龍騎』がその人気を持続した事により、ヒーロー番組の確固たる「様式」としてオーソライズされ、低年齢層・女性層を含む視聴者全般の特撮作品に対する意識に大きな変革をもたらしたのです。


 (個人的には、必ずしも、現状を好ましい状況とは思っていませんが、暫く(しばらく)低迷を続けていた特撮業界が再び活況を取り戻したのですから、女性視聴者層を定着させた成果は認めざるを得ないでしょう。大衆の欲求から乖離(かいり) し、社会の変化からも取り残された結果、無意味な形骸と化して凋落した70年代型ヒーロー番組の轍(てつ)を、無為に繰り返す訳にはいかないのです)


* “最終回”先行映画化?

 劇場版公開前後に発行された各種媒体に掲載されていたスタッフのインタビュー記事によると「最終回の先行映画化」を企画した発案者は[白倉伸一郎]Pであり、[井上敏樹]氏(脚本)や[田崎竜太]氏(監督)でさえ、当初はその“着想の奇抜さ”に戸惑ったらしい。


 恐らく、白倉Pの真意は、過去の東映ヒーロー作品群で飽くことなく繰り返されてきた“尻すぼみの最終回”のルーチン(スタッフの主力が次期新番組の準備に移行する為に、最終回間際のドラマのボルテージが低下して、結局は“竜頭蛇尾”の悪弊に陥る――という、シリーズ物特有の泣きどころ/前作『アギト』のイージーな最終回は、その典型的な悪例である)を、是が非でも回避したかったのではないでしょうか?



 しかし、[井上敏樹氏のストーリー・テリング] + [田崎監督の演出力] + [両者に対する白倉Pの絶大な信頼] ――三者の相乗と拮抗(バランス)が功を奏して、昨年、望外のスマッシュ・ヒットを生んだ『劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4』(2001・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011104/p1)に比べると、白倉Pの「奇想」ばかりが突出(暴走?)し過ぎている“アンバランスな”傾向が顕著に見受けられる本年の『龍騎』映画化プランに対して、少なからず不安を抱いたものでした。
 映画公開直前にリリースされたメイキングDVD(ASIN:B0000687X4)の中で、自信過剰気味の白倉Pが臆面もなく自画自賛している態(さま)を見せつけられて、“噫(ああ)、こりゃイカンわ……”と思わずタメ息を漏らしたのは、私だけではないハズ?


 脚本が井上氏にオファーされたことで、白倉Pが標榜する「冷徹」と「奇嬌」を併せ持つ独自の世界観とは肌が合わない「センチメンタルな浪花節(なにわぶし)」に拘泥する小林靖子氏の作風に対する懸念は、とりあえず解消されたのですが、果たして、一癖も二癖もある井上氏が、小林氏が創案した基本設定を素直に踏襲して、マジメに「最終章」をまとめ上げる意思があるのだろうか?――という、別の問題が浮上してきました(……って、考え過ぎ?)



 案の定、事前に公開された情報では、「龍騎・最終章」と銘打っているワリには、井上氏創案による新ライダー=〔仮面ライダーファム〕の復讐譚がメイン・プロットになるとの由。


 もう既に此の時点で、井上氏は“やりたい放題”にやる気だナ――と、薄々気づいていましたね、私は。



 ライダーになった者同士の過去に、互いに因縁深い間柄を持たせていない小林靖子氏の作劇術(弁護士・北岡秀一〔仮面ライダーゾルダ〕と凶悪犯・浅倉威(あさくら・たけし)〔仮面ライダー王蛇〕との腐れ縁は、明らかに劇場版への“前フリ”であったことから、両者の関係を考案したのは小林氏自身ではないと思われます。〜後日付記:と思っていたのですが、書籍によれば、小林氏は白倉Pから「台本も読まなくていい」と云われていたそうで、“前フリ”として後付け設定されたものではなかった模様)に対して、過剰に増幅された「私情」を闘争のモチベーションに昇華させる作劇術を常とする井上氏は、ヒロイン霧島美穂〔仮面ライダーファム〕を物語の中心に据え、姉を殺した憎い敵(かたき) 浅倉、その浅倉を弁護して極刑を免れさせた北岡、そして次第に魅かれ合ってゆく城戸真司〔龍騎〕という、緊密な人間関係を4人ライダーの間に創出して、同氏が十八番(得意芸)とする[苛烈な愛憎と不信感が渦巻くエキセントリックな作品世界]の図式をまんまと作り上げてしまいました。



 肝心の“物語の結末”が描かれる映画の後半部分に関しては極めて厳しい情報管制が施されていた所為(せい)で、事前情報はゼロでしたが、どう考えてみても「『龍騎』最終回」よりも「ファムの復讐」の方がメイン(本筋)である事は疑いようもなく、焦点がバラけた呆気ない結末になってしまうのではないか(井上氏の作風から推して、安易な“キャラクター皆殺し”パターンが最も危惧されたのですが)と、尽きることのない不安感に苛まれつつも、派手なバトル映像のオンパレードで構成されたTVスポットの予告篇を観て、いつの間にか“早く観たいヨ〜”モードに転じていた私でした。



 それにしても、散々(さんざん)、仮面ライダーリュウガを「最後のライダー」として吹聴しておきながら、映画公開直前の8月上旬に「13号ライダー」を自称する〔仮面ライダーオーディン〕を登場させたシリーズ構成の混乱ぶりは、ちょっと理解し難い。


* LIVE AND LET DIE

 かくして、6月中旬の製作発表以来、心待ちにしていた『劇場版 仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』(2002)を鑑賞する機会を漸く(ようやく)得たのですが、率直な感想を申し上げますと、「実に“岡元次郎の映画”だったなァ……」の、一言に尽きます。
 これまでに岡元氏が“主演”した劇場用作品(『仮面ライダーZO(ゼットオー)』(1993)、『仮面ライダーJ』(1994)、『人造人間ハカイダー』(1995)、『――PROJECT G4』)の中でも、間違いなくトップ・レベルの素晴らしい演技でしたが、それだけに、〔リュウガ〕と〔王蛇〕の二役を演じられた岡元次郎氏の高度な「技倆」を理解できない方達にとっては、たぶん、本作は“実にタイクツな映画”だったかも知れません。



 只でさえストーリーが難解なのに、オール・ラッシュの段階で2時間を超える長尺となったため、昨年同様、大幅な短縮化(なんと30分以上もカット)が断行されたお陰で、“断片的な”場面構成になってしまっているのも、大きなマイナス・ポイントです。


 前作『PROJECT G4』は、「上映時間の制限」を逆手にとって[氷川誠(仮面ライダーG3−X) × 水城史朗(仮面ライダーG4)]の対決に全てを賭けた「一点集中」型の編集方針がバツグンの効果を上げていたのに対し、今年は3つのメイン・プロット=[ファムの復讐][龍騎 × リュウガ][神崎兄妹の最期]の他にも、“最終回”として決着をつけねばならない要素が沢山あったが故に、「ドラマの焦点」をイマイチ絞り込めず、結局、かねてから危惧を抱いていた通りに“散漫な構成”に仕上がってしまったのは、マコトに残念なことです。


 それゆえ、本作に対する批評の正鵠(せいこう/せいこく)を期する為には、この劇場公開版=“短縮版”を鑑賞しただけでは、本当は不十分なのですが……。



 ――とはいえ、映画の尺が短縮されたお陰で、冒頭の意味不明の怪談噺(真司に〈子供時代の優衣〉との出遭いを思い出させる便宜的なシーン)と、霧島美穂のキャラ紹介となる結婚詐欺のシークエンスを除けば、説明的な「ダレ場」を排して「ヤマ場」を凝縮した高密度な場面構成になっていて、観ていると結構飽きさせませんし、それだけにチビッ子達の“食い付き”も良かったようです。


 もっとも、全体的に戦闘シーンが少々過剰気味であるのも事実ですが、〔CG特撮嫌い〕の私が、CG合成主体の戦闘場面をこれほど「カッコいい!」と感じたのは、SMAP(スマップ)が出演したNTT東日本のCM[ガッチャマン篇]以来のコトで、前2作品『クウガ』&『アギト』には不参加だった[佛田洋(ぶつだ・ひろし)特撮監督 + 特撮研究所]が復帰した成果に他なりません。お見事! (まあCGは特撮研究所経由で下請けに出したものでしょうが、初期の映像コンセプトや最終チェック等で管理されている訳ですよね)



 タイムリットまであと3日、切迫した神崎士郎に招集されて「5人」の生き残りライダーが集結。
 しかし、神崎士郎は、生き残りは「6人」と明言する――残りの「1人」は当然リュウガですから、やっぱりオーディンは本作品には登場しないのね……この時点で、神崎士郎はオーディンではないことが判明したワケです。
 と言うことは、オーディンは、映画以前=TVシリーズの最終回迄に死んじゃってるってコトですか?



 かくして、ライダー同士の《殺し合い》の最後の火蓋が切られました――“死ぬのは奴らだ!”


[生き残りライダー6人]


* あア復讐の女神

 本作では、TVシリーズでは型(パターン)通りの行動原理に盲従するばかりで成長することのなかった主人公・真司の内面に、強力な“別”のモチベーションが付け加えられることになります。


 即ち、「霧島美穂に対する“親愛の情”(秋山蓮(あきやま・れん)(=仮面ライダーナイト)や優衣に対する感情とは明らかに別モノ)」と「自分自身のネガティブな“鏡像”であるリュウガとの対決」。
 恋人?(=ファム)と分身(=リュウガ)――真司にとっては、抜き差しならぬ二者の登場により、物語は劇的なクライマックスを迎えます。イヨッ、これぞ正調“井上節”!



 映画前半の主人公・霧島美穂は「復讐者」――そうです、元祖『仮面ライダー』(1971)もまた、当初は“復讐者”でした。
 この辺りにも、脚本の井上氏の拘り(こだわり)が強く感じられますが、そういった「原典」に対するリスペクトとは対照的に、たとえ子供向けの作品であっても「ハードボイルドな現代性」をストーリーに織り込むことを忘れないのも同氏の特徴で、昨01年の『PROJECT G4』では、有事法制問題=〔当面の敵国が存在しない現在(近頃では急に北朝鮮がキナ臭くなってきていますが)自衛隊に過大な武力と権限を与えてしまえば、その矛先(ほこさき)は、先ず民間人に向けられる〕を先取りしていました。
 そして、それと同様に、本作の「美穂(ファム)の浅倉(王蛇)に対する復讐劇」にも、極めて“今日的な”裏テーマ(問題提議)が仕込まれていたのです。



 昨年(2001年)6月8日の白昼に、大阪で8人の児童が次々に刺殺された未曾有の凶悪犯罪《池田小児童連続殺傷事件》は、まだ皆さんの記憶にも生々しいと存じます。
 この事件は、かけがえのない我が子の命を奪われた両親の悲嘆、まったく反省の気配が窺えぬ犯人に対する激しい憤怒……といった、被害者側の遺族の容易に癒されぬ無念の心情を、一気に社会的にクローズアップしました。
 更に、犯人が精神病院への通院歴を有していたことで、ここ数年来、日本でも盛んに物議を醸し始めていた「精神障害者の犯罪」に対する国民の関心を煽り、俄か(にわか) に法的に責任能力を持たない精神病歴を有する方々が世間の白い眼に晒されて、刑法改正も視野に入れた社会問題を喚起するに至ったのは、ご存じの通り。


 壁に頭を繰り返し叩きつけながらも微笑を浮かべていた初登場シーン(TVシリーズ第17話)での“自傷行為”の描写を見ただけでも判るように、〔仮面ライダー王蛇/浅倉威〕は明らかに“病人”です。
 「殺(や) らなければ、殺られる!」という根拠のない“強迫観念”の虜(とりこ) になっている辺りは、児童連続殺傷事件の犯人・宅間守(たくま・まもる)と同じ「妄想性人格障害」〔=他人から攻撃されているという妄想を抱いて、攻撃に転じる極端な傾向〕の典型的な症状でしょう。


 裁判に勝つ為には、どんなに汚い手でも使う――と豪語する天才弁護士(自称)北岡秀一が、浅倉の裁判の過程で彼の「病気」による「心身喪失」を理由にして、罪を軽減させたのは想像に難くありません。
 つまり、凶悪犯・浅倉威は、紛れもない「触法精神障害者」であり、その浅倉に肉親(姉)を殺された霧島美穂とは、即ち「凶悪犯罪被害者の遺族」に他なりません。


 ここまで申し上げれば自明の理と存じますが、[姉を殺された霧島美穂の浅倉威に対する復讐劇]を描いた本作のメイン・プロット(趣旨)とは、なんと《犯罪被害者の遺族による加害者に対する復讐》を、堂々と「肯定」したものだったのです!


 その上、浅倉威が“人格障害者”であることで、触法精神障害者自傷他害のおそれがある精神障害者)の処遇問題の領域にまで、立ち入ってしまっているワケで……。
 (「人格障害」は、本来「精神障害」とは区別されるべきもので、犯罪先進国・米国では明確に区分が為されていますが、日本では未だに判別の基準が曖昧で混同されているのが実情です)


 やっぱり、井上敏樹は一筋縄ではいかない。
 「ヒーロー活劇」のフォーマットを隠れ蓑(かくれみの) にして、こんなに深刻な社会問題に対する“大胆な”(エグい?)自己主張をやってのけてしまったんですからね。(一般のドラマでは絶対にムリだ!)



 ――そして遂に、ファムは(なぜか、リュウガの援護を受けて)王蛇に引導を渡し、姉の敵討ち(かたきうち) を見事に成就させます。
 世間一般の常識やモラルを一切度外視して、あくまでも「個人」の感情(=私情)を最重要視する、非常に“井上敏樹らしい”ドラマツルギーと申せましょう。


 それにしても、ファムのブランバイザー(剣)の切っ先が王蛇の腹部のカードデッキ〔変身ベルトのバックル/アドベントカードのホルダー/仮面ライダーの諸能力の源〕を砕いた瞬間に、観客の大半が皆一様に息を呑んだ映画館の“空気”は、チョット忘れ難い。
 「レギュラー・キャラクターが死ぬ」というシチュエーションのインパクトの大きさと共に、白倉Pの目論見(もくろみ)が“実に的を射ていた”という事実に、改めて気づかされました。


 もっとも、“ファムは王蛇に返り討ちにあって、龍騎がその仇をとる”という下馬評が一般的でしたから、「ファムの勝利」と「余りにも早い王蛇の退場」に意表を突かれてしまったんですけどねー。



 余談ながら、この前半の対戦で気になったのは、何故、リュウガが態々(わざわざ)ファムと王蛇の対決にチョッカイを出した(王蛇の必殺技=ファイナルベント・ベノクラッシュを邪魔して、ファムに反撃の機会を与えた)のか? というコト。


 リュウガが、いずれ自分の敵となる王蛇を早めに潰しておこうとした――というのが、ストーリー的には最も妥当な解釈と思われますが、実際には、王蛇を演じるスーツアクター[岡元次郎]氏がリュウガ役を兼務していた為に、「王蛇を早めに殺して、岡元氏をリュウガ役に専念させたい」という“現実的な”製作上の都合があった模様です。
 王蛇とリュウガの対決シーンでは、1カット毎に岡元氏自身がどちらの役を演じるかを判断し、カラミ(相手役)を演じた今井靖彦氏と交替で、幾度もスーツを着替えながら撮影が進められ、岡元氏は、〔攻撃をしかける側〕ではなく、常に〔攻撃を受ける側〕を選んで演じられたそうです。
 (一般的に、リアクション側の「ヤラレ役」の方が、より精度の高い演技力を要求されます)



 「最強」にして「最凶」、そして「最脅」「最恐」を通り越して《最狂!》の仮面ライダーとして、傍若無人、残虐非道の限りを尽くしてきた王蛇も、怒れる復讐の女神の刃に掛かり、とうとう両眼を瞑(つむ)ったのでした。


[王蛇死亡、生き残りライダー5人]


* その男ゾル

 考えてみれば、“最強”の契約モンスター・マグナギガに装備された無数の砲門を一斉掃射する“無敵”の必殺技・ファイナルベント〔エンドオブワールド〕を有する仮面ライダーゾルダには、ほとんど敗退したケースがありません。なにしろ、飛び道具は強いのです。
 (と思っていたら、TVシリーズ第41話で仮面ライダータイガのフリーズベントに封じられて惨敗してしまった……)


 しかし、戦闘の最中に、傷ついて倒れたファムの姿を目にして、思わず武器を放り出して駆け寄った瞬間、ゾルダは不覚にも、自らの2つの致命的な弱点=[フェミニストゆえに、女性に甘い/ 火器類で常時重武装しているため、徒手での戦闘に不慣れ]をファムに対して無防備に晒してしまいました。


 その結果、ブランバイザーの餌食となって、初めて屈辱的な敗北を経験したのですが、「婦女子に優しい」という人間としての〔美点〕が、戦士としては〔致命的な欠点〕になるとは、なんたる皮肉!
 非情な「復讐の鬼」に徹しきれず、真司に対して好意を抱いたのが仇となり、リュウガにツケ入られて命を落とすハメになるファムにも、この点は共通していますが、〔非情な戦士の掟〕と〔ヒューマニズム人間性)〕とを“命懸け”の天秤(てんびん)にかけてみせるファナティックな作劇術は、やはり、井上氏ならではのモノ。



 ま、ヒネくれた自尊心を持ち、色男を気どる北岡だけに、“女”であるファムとは戦えないと悟った時点で、リタイアするしかなかったのは自明でしょう。


 女に手を上げるような真似ができるか!
 ――そんな無粋な行為・行動を強いられねばならないのならば、「永遠の命」なんてもう要らない。自分自身の信条を裏切ってまでして生き長らえる人生など、何の価値も無い。もう命なんて惜しくはない――
 こうしたヒーローの本分(=バトル)とは無縁の“軟派な”価値観(信条)を、より極端なカタチで実践させてしまう、至って“ピュアな”キャラクター描写の律義さもまた、井上敏樹脚本の真骨頂を垣間見させてくれます。


 一見、井上敏樹作品ではお馴染みの〔嫌な嫌な嫌な奴〕(性格に重大な欠陥のある者)タイプの系列に属する「無関心」「自己本意」の権化であるように見える北岡ですが、TVシリーズ第10話(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021103/p1)に於いて、本来の性質が“善”であることを既に暴露しており、彼が一貫して“冷血漢”ぶるのも、厳しい現世を生き抜く為の自己韜晦(じことうかい)であることは一目瞭然。
 (このような“悪人ぶった善人”というのも、大衆向けフィクションの中では非常にオーソドックスな性格描写の手法で、井上氏の脚本家としての“根っこ”が「正統派」に属しているという、私の持論の強力な根拠になっています)



 なんだかんだで、ファムに負けて“嫌ンなっちゃった”北岡秀一はカードデッキ(変身アイテム)を捨て、かねてからモーションをかけていた桃井令子をデートに誘うのでした。
 イヨッ、憎いよ、コノ色男!……ま、こういう結末もアリでしょう。


 しかし、異常なまでに“先生想い”のゴローちゃんが、北岡にとっては「死」を意味するライダー同士の闘争からの離脱を、黙って見過ごしにする筈がないと思うのですが。
 (もっと、由良吾郎を活躍させて欲しかったゾー)


[ソルダ脱落、生き残りライダー4人]


* 真夜中の仮面ライダー

 いやー、それにしてもファムは強い! なんせ、今まで他のライダー達に散々辛酸を嘗めさせてきた難敵・王蛇に引導を渡し、老獪なゾルダを無力化したんですからねー。
 (リュウガの援護と、ゾルダに良心の呵責が無かったら、危なかったのは事実ですが……日頃から“どんなに汚い手を使っても勝てばイイ”というダーティな戦い方を実践してきた2人が相手ですから、細かい事は気にしないでおきましょう)


 しかし、ファム=霧島美穂の戦いはまだ終わった訳ではありません。残る3人のライダー(龍騎・ナイト・リュウガ)を倒して「永遠の命」を手に入れ、冷凍保存されている姉を蘇生させなければなりません。
 単独で最後まで勝ち抜くことは不可能と判断した美穂は、龍騎=城戸真司に接近して手を組もうとしますが、真司になりすましたリュウガに騙されて、あえなく命を落とすことになります。



 田崎竜太監督の“感情移入ぶり”が一際顕著だった霧島美穂の〔孤独な死にざま〕は、常套的な演出手法に過ぎなかったとはいえ、やっぱりドップリとハマりましたねー。
 『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)の〔結城凱(ゆうき・がい)=ブラックコンドル〕、『仮面ライダーアギト』の〔木野薫=アナザーアギト〕と同様に、致命傷を負っているにも関わらず、無二のパートナー(天堂竜=レッドホーク、葦原涼=仮面ライダーギルス)の前では無理に傷の痛みを堪えていつも通りに振る舞い、その直後にひとり静かに死を迎える――という、井上脚本定番のパターンが“ヤセガマン”という古典的な日本人の美意識を肯定的に描いている点は、井上氏の意外と“古風な”本質を覗かせているように思います。



 このように、「二人の出遭い」に始まり「一方の死」によって終止符を打たれる“ふたりぼっち”の物語を執拗に描き続けてきた井上氏のドラマツルギーのルーツは、間違いなく、『真夜中のカウボーイ』〔1969年度アカデミー賞・主要3部門(作品賞・監督賞・脚色賞)受賞作品/テキサスの片田舎からニューヨークに出てきた世間知らずのカウボーイ(ジョン・ヴォイト)と落ち目の小悪党(ダスティン・ホフマン)という対照的な性格の二人の「出遭い」と「挫折」、そして「別れ」(死別)を描いたアメリカン・ニューシネマの傑作〕にある――と、推測されます。


 そもそも、井上氏の脚本が、氏とほぼ同世代である私の嗜好に妙にフィットしてしまうのも、多分、同じ年頃に同じ映画作品を観て同じ感銘を受けた(たとえば、この『真夜中のカウボーイ』みたいな)という、思春期の共通体験を部分的に共有しているからではないか? と、思っています。
 つまりは「同世代人」ゆえの“共感”もしくは“シンパシー”ってヤツです。(もっとも、私の勝手な思い込みかも知れませんが……)



 総じて、ファム関連のシークエンスの演出に関しては、とりたてて文句はありません。真司の靴ヒモを結びなおすカットの“繰り返し”は古典的な映画手法で泣かせるし、ファム×リュウガの対決シーンのCG(佛田パワー!!)も凄かった!


 でも、欲を言えば、王蛇を倒して姉の復讐を果たしたものの、死んだ姉を生き返らせる為には、今度は龍騎と戦わねばならなくなったファムの「ジレンマ」も、丁寧に描いて欲しかったように思います。
 そこまでキッチリ描き込まなくては、“非情に徹しきれなかった悪人”(されど、決して無垢な善人ではない)としてのファム独特のキャラクターの持ち味は、真の意味で生きてこないのでは――?



 “お姉ちゃん、ゴメン”……やはり、復讐を為(な)し遂げた「復讐者」には他に生きる道が無かったようです。
 霧島美穂と城戸真司の“ふたりぼっち”の物語は、こうして儚くも(はかなくも) その幕を閉じました。


[ファム死亡、生き残りライダー3人]


* すっゲェ〜真実

 さて、王蛇・ゾルダ・ファムというサイド・ストーリーを彩ってきた個性豊かな傍役ライダー達が姿を消した後、公開前には厳重な箝口令(かんこうれい)により一切の内容が伏せられていた核心部分=《ミラーワールドの謎の解明篇》に漸く突入しました。



 優衣は、少女時代の記憶を呼び覚まし、自分自身の鏡像に導かれてミラーワールドに入り込んだ所為で、20歳の誕生日に消滅する運命を悟ります。
 そしてまた、兄・士郎は自分に「永遠の命」を与えて生き永らえさせるためにミラーワールドを作り、仮面ライダー同士の戦いを仕掛けたというスゴい真相も知ってしまいました。


 兄の無謀な計画を阻止し、真司と蓮との対決を回避するためには、自らの命を絶つしかない……。
 (最近、日本版『リング』(1998)を初めてTVで観て、『龍騎』が演出面で『リング』から多大な影響を受けている、という事実を発見しました……そうか、だから私的にはツマらなかったんだ。なんか、やたらにマワリくどいんですよねー)



 推理小説の開祖、エドガー・アラン・ポーが処女作『モルグ街の殺人』(1841・ISBN:4102028021)を発表した当時、文壇からは「作者が自分で構築した謎(トリック)を、自分で勝手に解いているだけ」と酷評されたそうですが、私は、全く“同じ理由”で『龍騎』の“独善的な”謎解きのプロセスにシラけております。
 それだけに、「時間と予算をタップリと注ぎ込み、万全を期して“カンペキな最終回”を製作しよう」という劇場版『龍騎』の製作意図には、大いに期するものがありました。
 (『クウガ』と『アギト』が〔済し崩し(なしくずし) のシリーズ構成の甘さが災いして、最終回(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011108/p1)迄に全ての謎を解けなかった〕という“悪しき前例”を作ってしまった後だけに尚更です)


 然るに私の期待は裏切られ、本作に於ける“謎解き”も非常にテキトーで、詰まるところ、「ミラーワールド」って、何だったのか?(神崎士郎が作ったのか、発見した異次元世界なのか)/ リュウガの正体・目的が全く不明(真司の鏡像〔=虚像〕であることは理解できるものの、真司と“合体”して何をやろうとしていたの?)/ そもそも、「永遠の命」ってナニ? 勝ち残ったライダーに、どうやって授与(移植)するつもりだったの?……
 と、イロイロと納得がいかない未解決要素が数多く残ってしまったのは、困ったものです。



 結局、優衣が手首の動脈を切って自殺したことで、神崎士郎(の鏡像?)は錯乱の後、消滅(?)。創造主の狂死はミラーワールドにも多大な破綻をもたらしたみたいで、現実世界との境界のタガが外れて(??)解き放たれたミラーモンスターが現実世界に大挙襲来!
 ――優衣は、残り僅かとなった“数人”のライダーの命を救おうとして、自らの命を絶つ決意をしたというのに、その結果は、皮肉にも「人類滅亡」の銃爪(ひきがね)を引いてしまった訳で……なんともはや、悲しいくらいに“物凄い”ヤブヘビです。
 (ウーン! ヒロインが手首を切って自殺するなんて、ヒーロー作品では空前絶後のケースではないでしょうか。こんなにヒサンな最期を迎える運命の末路を知ってしまったヒロインの姿を、今後、何ヶ月にも亘ってTVで観続けてゆくのは、チョットつらいで……)



 それにしても、2人のヒロイン(霧島美穂と神崎優衣)の最期=「個人の死」が極めてドラマチックに描写されているのとは裏腹に、「ミラーモンスターの大群に襲われる一般市民」の描写が一貫して“本筋とは関係のない”客観的な「点描」としてしか扱われていないところが、ヒーロー物としては、異例……いや、異常(!)です。


 “世の為、人の為なんて、おケツが痒く(かゆく) なるぜ”とばかりに、ヒーロー番組の“お約束”を次々にブチ壊してきた井上敏樹ワールドも、いよいよ「究極」の域に達した観があります。



 ところで、ミラーモンスター以外には建造物や自動車などの「無機物」の鏡像しか存在していなかった筈のミラーワールドに、優衣や真司の鏡像が存在していたのは何故なの?


 また、ミラーモンスターとは、優衣が少女期に思い描いた妄想の産物であり、優衣がミラーワールドに引き込まれたのは「真司が約束を破ったから」だったというのは、余りにも“後づけ”のトンチンカンなまとめ方ではないでしょうか。
 なにより、当初に懸念した通り、井上氏にはメインライター・小林靖子氏が創案した基本設定を踏襲する気配が余り感じられないのは、問題ですよねー。
 (これから辻褄を合わせるのかも知れませんが……)



 とりあえず、優衣が自殺して、士郎が消滅(?)したことで、ライダー同士が戦う理由が無くなったのですが……。


* 光と影の終止符


戦う理由(わけ)など どこにある……

「光」があれば、「闇」がある……


 以上は東映メタルヒーロー重甲ビーファイター』(1995)挿入歌「黒き十字架 BLACK BEET.(ブラックビート)』の一節[作詞/宮下隼一]ですが、光(=ブルービート)と闇(=ブラックビート)との闘争に、くだくだしい理屈などは一切無用、〔光〕と〔闇〕だから、戦わねばならないのだ――という“端的な”歌詞の「簡潔さ」がナンとも素晴らしい!
 映画本篇の中では、ほとんど説明されなかった龍騎リュウガの対立関係もまた、凡そ、この“たった2行”のフレーズに要約できるでしょう。



 〔リュウガ〕とは〔真司〕の「鏡像」(ドッペルゲンガー?)、つまり、敵対する「二人」を同時に「分身」として描く手法であり、憎み合う両極端は究極的には善・悪の両極に行き着き、両極端を“鏡像”として重ね合わせることで対立の構造を更に深める――神崎士郎の狡智によって、果てしない〔同族殺し〕を繰り広げてきた13人ライダーの頂上対決には、〔自分殺し〕という“究極”のマッチ・メイクが仕組まれた訳です。


 何度も申しますが、リュウガの出自に関しては甚だ説明不足で必然的な説得力に欠けていて、大いに不満が残るのですが(一部に“リュウガの正体は仮面ライダースーパー1(ワン)(1980)”の珍説アリ。仮面のスリットから覗く“つり目”は間違いなくスーパー1のものだという次第。まるで、仮面ライダー版『アンドロメロス』(鎧を着ているウルトラマン)ですね)、とりあえずは「自分自身のネガティブな鏡像との対決」という図式の現出によって、ミラーワールド(鏡面世界)の設定が有効に機能した点は評価に値するでしょう。



 そもそも、真司が「ライダー同士の戦い」への参加を拒み続けていられたのも、真司自身はフロック(偶然)で仮面ライダーになっただけなので、他のライダー達が抱えていたような“背負っているモノ”〔どうしても戦わねばならない切迫した必然性〕を持っていなかったからです。


 戦う理由を持たない真司を“戦い”に駆り立てるには、真司のネガティブな内面(潜在的な悪意)を一身で体現するリュウガ=〔真司の陰画的存在〕を投入して、真司には反駁する余地のない「光と影だから闘う」という“絶対的な”モチベーションに依存するしか、策がなかったんですね、神崎士郎としては。


 ……とはいえ、リュウガは真司の肉体を乗っ取って(合体して?)、ミラーワールドと現実世界とを自在に行き来できる完全体(?)になろうとしていた様子でしたが、その辺りの“まわりくどい動機”が全く不可解なのは、頂けません。


 『重甲ビーファイター』の終盤で、自分の正体がブルービート〔甲斐拓也〕のクローンであることを明かしたブラックビート〔シャドー〕が、拓也に向かって憎しみを込めて言い放った一言=
 「俺は貴様を倒す! 貴様を倒せば、俺は“影”から“光”――唯一絶対の存在になれるんだ! 俺が“俺”になれるんだ!」 (脚本/宮下隼一)
 みたく、「対称的な外貌」にして「対照的な内面」を備えた複雑怪奇な〔敵同士の双子〕の因縁を、“唯一言”で観客全員が思わず納得してしまうような、効果的でキレのあるセリフを付け加えておくべきだったと思います。



 結句、龍騎リュウガの対決は、双方の必殺技〔ドラゴンライダーキック〕の相撃ち(鏡像であるリュウガが左脚でキックを放っていることに注目!)で勝負が決したのですが、(設定上では)あらゆる攻撃力に於いて龍騎に1000AP(アタックポイント)ずつ勝っている筈のリュウガが敗れた理由も、よく分からんゾ。
 (詳細なデータが記載されている「アドベントカード」を収集している子供達は、なおさら納得しないと思うでー)


 しかしながら(何遍も言いますが)[リュウガ(岡元次郎) × 龍騎高岩成二(たかいわ・せいじ))]の迫真の“ドツキ合い”は本当に素晴らしかった!
 勿論、リュウガ役の岡元次郎氏の圧倒的な存在感は改めて語るまでもありません(――と言うか、筆舌に尽くし難い!)が、岡元氏と並んでも遜色が無くなった高岩成二氏の成長ぶりも頼もしい。


 尚、この[リュウガ × 龍騎]のシビアな格闘戦の演出は宮崎剛(みやざき・たけし)アクション監督が担当され、ベテランの金田治アクション監督は佛田洋特撮監督と共に、CGを駆使した映画前半部の[5人ライダーとモンスターの大群が入り乱れて繰り広げる大乱戦]の方を担当されたそうです。



 詰まるところ、龍騎リュウガは何の為に戦っているのか、よく分からないまま、ダイナミックな格闘戦の迫力でグイグイ引っぱっちゃいました。さすがは岡元次郎アニキ、バッチリ見せてくれました!


リュウガ死亡、生き残りライダー2人]


* 明日のライダーは君だ!

 生き残りライダーはあと2人、〔龍騎〕と〔ナイト〕……って、アレ? よ〜く考えみると、ナイト=秋山蓮って、この映画では、ここまでナニもやってないぞ。


 本作では蓮の恋人で植物人間状態の「小川恵里」関連のエピソードが一切オミットされた所為で(つまり、恵里はTVシリーズの最終回迄に死んじゃうってコト?)、只でさえ存在感が薄かったというのに、主人公・真司の「相棒」(パートナー/準主役)としてのポジションも新参のファム=霧島美穂に奪われてしまい、ホントにもう、本作に於ける秋山蓮の存在意義は異常なまでに“稀薄”です。


 当初から、レギュラー・ライダーの中でナイトだけが、劇場版のメイン・プロット([ファムの復讐][龍騎 × リュウガ][神崎兄妹の最期])から、故意に除外されていたフシがあったのは明白でしたが、バトルの面に於いても、王蛇とゾルダはファムが撃破し、そのファムはリュウガに敗れ、リュウガは龍騎が倒した訳ですから、ナイトは重要な局面に一切絡んでいません(一応、リュウガと一戦交えましたが、軽〜く一蹴されちゃいました)。
 その意味で、ナイトが「ベスト2」まで生き残れたのは事実上“不戦勝だった”と申せましょう。(ホントは、リュウガに敗れた時点で死ぬべきでした)



 考えてみれば、主役の龍騎=真司は別にして、ゾルダ・ファム・リュウガは皆、井上敏樹氏自身が創造したキャラクターであり、王蛇もまた小林靖子氏が描き切れなかったイカレた内面を井上氏が膨らませたキャラです。
 それに対して、ナイト=秋山蓮だけは“純然たる小林靖子キャラ”なんですよね。その辺りの事情で、ナイトは疎外されちゃったのかなー?


 結果的に、劇場版に於けるナイト=秋山蓮は、ラスト・シーンに於ける龍騎=真司とのダイアログを演じる為にのみ存在した(名作映画『七人の侍』(1954)のリーダー・勘兵衛(志村喬)の最後のセリフ「勝ったの儂(わし)達ではない……」を受けるために生き残った“古女房”七郎字(加東大介)みたいな役処)と、申しても過言ではありません。



 ――そして、問題のラスト・シーン。


 ドラゴンライダーキックの相撃ちの大爆発の後に生還した「真司」は、ホンモノの真司だったのか、真司を乗っ取ったリュウガだったのか?
 この場面での真司と蓮は、共に虚脱したような茫然自失の状態にあり、心理状態が不明瞭で、何が何やら演出意図がよく分かりません。
 (真司とリュウガが合体して〔龍騎サバイブ〕にパワーアップしたのだ、と早合点しちゃったのは私だけ?)


 いずれにしても、今さらリュウガを打ち倒したところで、何の意義も、何の高揚感も感じられない“虚しい勝利”です。熾烈なまでにシノギを削ってきた11人の仮面ライダーを退け、すべての元凶となったミラーワールドを創造した神崎兄妹が死に絶えた今、「生きる目的」と「戦う動機」を共に喪失してしまった2人の仮面ライダーが為(な)すべきことは、ただひとつ。それは――



 どちらかと言えば“個人的な”事由に基いて行動してきた真司と蓮は、この瞬間に「自分自身や仲間の生命など、大したことではない」という境地に到達し、ミラーモンスターの大群に蹂躙されている街の人々(大衆)を救うべく、〔龍騎サバイブ〕と〔ナイトサバイブ〕に変身して絶望的な戦いに身を投じてゆきます。


 闘争の果て、最後に生き残った2人が会得したものは、真の英雄=「仮面ライダー」としての矜持(きょうじ)=[凡人ヒーローからの解脱(げだつ) ]でした。



 「屹立(きつりつ)した超人が大衆を救済する」 或いは 「少数の強者が多数の弱者を導く」 といった類のビジョンを一切放棄した筈の『仮面ライダー龍騎』が最後の最後に到達した結論が、元祖「仮面ライダー」への“原点回帰”だったとは! ――見事な結末です(?)。


[生き残りライダー2人、共に生死不明]


〈INCOMPLETE〉

 劇終――ダブル・サバイブがモンスターの大群に向かって突入していく場面の途中で、唐突に画面がフェードアウトしてエンディング・テーマ曲が流れ出した途端、明らかに当惑した様子の観客が多かったのも事実。



 こうした“クライマックスがピークに達する一歩手前で映画にピリオドを打つ”作劇手法は、一般的な映画作品に於いても鑑賞後の余韻を強めるために、しばしば用いられてきたオーソドックスなエンディング形式(最近の例では『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』(1999)のラストも、このタイプに属します)ですが、よほど綿密に計算された脚本・演出によって巧みに処理されていないと、無節操にストーリーを膨らませ過ぎた揚げ句に、収拾がつかなくなって逃げたんじゃないのか(=やり逃げ)と、観客からブーイングを食らっても仕方がありません。



 この上は、小林靖子氏に、TVシリーズの最終回の方で納得のゆく決着をつけて貰いましょう。
 (恐らく、オーディンとの対決が最後のヤマ場になるのでしょうが、驚異の反則技・タイムベントの能力(=時間遡行)を使えば、どんなにデタラメなシチュエーションでも、可能になっちゃうので、かなり不安?)


(了)
(特撮同人誌『仮面特攻隊2003年号』(02年12月29日発行)『劇場版 仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』合評1・2・4より抜粋)


[関連記事]

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[関連記事] 〜平成ライダーシリーズ劇場映画評

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  (当該記事)

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