假面特攻隊の一寸先は闇!読みにくいブログ(笑)

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「特撮NT」06年11月号読者欄に骨ある意見を発見!

(文・T.SATO)
 06年10月1日の某同人誌即売会のブースにて、売り子手伝いの畏友の特オタ仲間から、雑誌「特撮ニュータイプ」最新号(06年11月号・asin:B000IJ6TX0。10月1日(9月30日?)発売)の投稿欄(P.92)に、今どき珍しい(笑)意見らしい意見が載ってるよ、との情報を聞く。
 イイ歳して(筆者と同い年だけど・笑)、よくそんなトコまでチェックしてるナと関心しつつ(アキレつつ・笑)、内容の概略を聞き、数日後に会社帰りに書店でチェック。


 なるほど、これは面白い。
 また内容とは別に、きょうびこのテの意見を掲載した、投稿欄担当者の裁量(気まぐれ?)にも驚く。このテの雑誌は、ボキャ貧(ボキャブラリー貧乏)の萌えキタ言語か小学生の感想文のような毒にも薬にもならないウスい投稿しか載せる気ナイんだろ、と思ってたものだから(笑)。綴(と)じ込み応募ハガキのウラの設問の狭い余白の、当該誌への感想・要望を転載してるだけじゃね? てゆー(失礼)。
 いやまぁ商業誌の限定されたスペースでの読者投稿の場合、濃くてクソまじめで長けりゃイイってなモンでも、ガチンコでやりあってりゃイイってなモンでもないけれど……。でもまあこのテの投稿も1回ぽっきりの掲載であろうネ。それとも、兄弟誌の特撮マンガ誌「特撮エース」休刊(asin:B000HT1XQE)についても、言及されてたから載せたとか(笑)。


 試しにネットで検索かけても、当該投稿はネタにもされてないようなので不憫(オレの検索の仕方がヘタなのか?)。こんな弊ブログを通りすがりでなく読んでるような奇人変人は、意見めいたものがスキな御仁も多いかと思うし(?)、ゆえに誰も言及しないならば及ばずながら筆者が紹介。ただ、書籍の流通の回転サイクルが速いこんにち、もう店頭に置いてある書店もマレかな? ヒモやビニールで立ち読みできない店も多そうだしナ。


 勝手にかいつまんで要約させてもらえば、「特撮」というジャンル自体のアイデンティティの問題だ。
 「ヒーローは世界が真に平和になったら存在理由を失うのでは?」という逆説にしてアポリア(難問)。
 これが特撮ジャンル(特撮雑誌)にも、そのまま相似形で当てはまるのでは? という設問である。
 すなわち、ジャンル自体がメジャーになって、メインストリームのマスコミでもジャンル情報が容易に入手できるようになった場合に、もしくはネットで同好の士の居場所が容易に確保できるようになった場合に、特撮雑誌の存在価値はあるのか? という動議。
 ただそのあと彼の論は、ジャンルやジャンル雑誌といったゲットー(居住区域)が消失したときこそ、「特撮」が一般に定着し、一般評価が問われるときである、というように論理が展開していく……。
 

 まぁ彼の意見はそれなりにリッパなものだし、一理も二理もあるので敬意も表するが、しかし問題もある。というか楽観的にすぎるとのツッコミも可能なのだ。
 なぜなら彼が例に出した「存在理由を失うのでは?」という難問は、ジャンル雑誌のみならず、ジャンルそれ自体にも当てはまることでもあるからだ。


 かぎりなく拡散して、隣接ジャンルとの境界を消失して一般化していくことは、一見フランクで公明正大なようでいて、「特撮」ジャンルという存在が「存在理由を失う」ことでもある。
 「特撮」というジャンルに相当する現行の作品群が、消滅してしまうというのではない。それは残る。しかし、その特質やアイデンティティ・輪郭は、受け手側の受容意識にしろ、作り手側の目的意識・方法意識にしろ、曖昧模糊・あやふやなものとなっていく。
 その存在は、よくて「SF映画」や「アクション映画」のサブジャンル・下位ジャンルとしてのみ許される。


 いや別に、彼ひとりの論が特別に不備があったというワケではない。手前ミソで恐縮だが、弊サークルにてここ数年、研究・発掘してきた通り(このへんの成果も後日、じょじょにネット上にUP予定)、このような論法のヒナ型は、実のところ第1世代特撮ライター(主に池田憲章中島紳介)によって、80年代前半から特撮雑誌で提唱されてきたことでもあるからだ。
 すなわち、怪獣プロレスに頼らない「特撮」。「特撮」それ自体を目的とはしない、「SF」なり「人間ドラマ」の手段としての「特撮」。


 一見もっともらしいのだが、はたしてこの考え方は正しいのや否や。
 いや間違っているとはいえないまでも、危うい点や「特撮」ジャンル自体をヤセ細らせていく毒素や危険性をハラんでいるかもしれない可能性に、思いを馳せて論理を展開してみるのも一興だ。


 今回の動議で前提とされていた、
・「特撮」(あるいは「オタク趣味」)
 と、
・「一般映画」(あるいは一般人の趣味)
 という二項対立の前提は、便宜的なモノサシとしてはあってもよいのだが、はたして普遍的で常に使えるモノサシであったのか?
 「一般映画」としてひとくくりにされるカテゴリーにも、実は「文芸映画」なり「SF映画」なり「推理映画」なり「コメディ映画」、「社会派映画」、「スリラー映画」に「パニック映画」、「西部劇」、「ヒーローもの」なりに細分化できて、しかもその中でのジャンルの特質に基づいた何らかの独自な作劇法なりお約束なり評価尺度があるのではなかろうかと……(はざまのジャンルや、既存のカテゴリーにくくれないジャンルも、逆説的に抽出された何らかの独自な作劇法なり評価尺度が滲み出てくるので本質的には相似形)。


 70年代後半〜80年代のような「『特撮冬の時代』はもう来ない」と、中島紳介は特撮雑誌『宇宙船YEAR BOOK 2006』(ISBN:4257130865)の2005年回顧で語る。
 この意見にも一理は認めるが、しかしザルっぽさ・取りこぼし感があるのも否めない。
 一方で新世紀に入ってからのミレニアム『ゴジラ』シリーズは観客動員の低下に悩み、シリーズは打ち切りの憂き目にあう。平成『ウルトラ』シリーズも、東映の平成『ライダー』『スーパー戦隊』に商業規模でも視聴率でも観客動員でも圧倒的な差を付けられているのが実際の現実でもあるからだ。
 「特撮」という大きなくくりではともかく、「怪獣」や「巨大変身ヒーロー」というジャンル内ジャンルの将来は楽観を許さない。消え去り絶滅するというのではないが、老兵は死なずただ消え去るのみ……ってそれじゃ絶滅と同じだナ?(笑) 今後も明確な将来ビジョンと周到な計算に基づいた意識的な改革なり商業的勝負がかけられないかぎり、便宜的にこの言葉を使うが大衆が観る「一般映画」の範疇でも、児童文化の範疇でも、ジリ貧が予想されて縮小再生産の途しか見えてこないのだ。
 

 で、そのへんの「特撮」というジャンル自体の将来への方策・処方箋の話題は次なるステップの問題でもあるので、また別の機会にまわすとして、まずはその前段階である「特撮」ジャンルそれ自体のアイデンティティ・特質について、個人的には明らかにしていきたいと考える。


 それは具体的には何であるのか? ……ということは、この誌面では手をヌイて書き下ろさずに、重ねて手前ミソにも、当該の問題について論じた過去記事へのリンクを最後にはることで、シメとさせていただきたい(笑)。


 でもこの件(くだん)の「特撮ニュータイプ」06年11月の読者欄投稿者の御仁は、個人的には興味深いなぁ。ペンネームだろうから(?)、ここに記述しても問題ナイと思うけど、栃木県の六道要さん、ウチのサークルの同人誌に何か書いてくれへんか?(オイ・汗)


特撮意見④特撮ジャンルの独自性〜アイデンティティとは何か!?
 http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060411/p1


(了)