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「SFマガジン」連載『ゼロ年代の想像力』 〜序
(文・T.SATO)
(2007年5月執筆分に12月加筆)
特撮論壇を一旦飛び越えて、オタク論壇全般について。
中年の第2世代オタの小生が見たところ、オタ第3世代(80年前後生まれ)の論評系は2大派閥があるようで。
・大塚英志(おおかつ・えいじ)や東浩紀(あずま・ひろき)系の軟弱美少女アニメ・泣きゲーム系
・それを小バカにしているオタク&サブカル文化趣味&ナンパまで、すべてができちゃうスーパーフリー系
(……あえてする、粗雑な呼称・分類です)
もちろん論評系の周囲は、圧倒的ないわゆる「動物化」した連中なのですが。最近では、
・本田透の「電波男(ISBN:4861990025)・非モテ」系
の陣営も勃興(笑)。コレは「脱オタ」自体を欺瞞・日和見(ひよりみ)とし、社会の方が悪いと否定する流れ。
そこで糾弾されている、さらなる別の
・「脱オタ」陣営
というのは、オタク趣味の根本的否定や棄却というより、オタクの「プロレタリア独裁革命」(笑)が近々には不可能である以上は、社会改造・改良についてはいったん棚上げにして、この世で生きていくために、一般層による積極的差別や消極的無神経による侮(あなど)りを少しでも減らすための、便宜的(?)な人格やふるまい方に服飾などを、個人個人で少しでも身に着けていこうというもの(「脱オタク・ファッションガイド」など!)
そんな大状況の中で、向かうところ敵なしの、オタク第3世代80年前後生まれの連中のサークル「惑星開発委員会」主宰でもあるフリーライター・善良な市民こと宇野常寛氏。筆者も5年ほど前から氏をチェックしていたが、『SFマガジン』07年7月号(早川書房・5月下旬発売号・ASIN:B000QUCUKW)より、「ゼロ年代の想像力」と題して10回予定で連載を開始!(後日付記:特に告知もなく連載は延長されている・汗)
SF評論ではないけど、90〜00年代のアニメ・特撮・マンガ・TVドラマ・ライトノベル・J文学(〜SFは無い!・笑)を見事にマッピング!(雑誌『サイゾー』07年8月号(ASIN:B000T28JZW)でも、これの簡略版をやってたね)
唐沢俊一×岡田斗司夫『オタク論!』出版記念トークでも、東浩紀×桜坂洋×沢城みゆき「文学の未来」トークでも、氷川竜介デビュー30周年トークでも、早くも話題沸騰中(……と『SFマガジン』での大森望の連載には書いてある・笑)のスラスラグイグイ読ませる刺激的な論考の本連載。お薦めです。みんな、図書館にて連載第1回目から読もう!
特撮マニア界くらいならば、各論ではともかく総合的には自分が一番アタマがイイと思っている筆者だけど(オイ!〜汗。……さぁネタかベタか!?・笑)、こんな博覧強記で知識だけでなく知恵(構築力)も才気も胆力もあるスーパーな御仁が10歳も年下から出てくると正直適わないなぁ。どうやっても勝てる気がしない……と筆者にしては珍しく、最初からケツめくって寝転がって腹まで見せてしまうのでありました……。
よけいなお世話と知りつつも、オピニオンめいたものを好きな気があるオタ連中は、こーいうのも読んで世界を拡げてほしいかなと。掲示板やチャットやコミュニティもイイけど、自分よりも高い精神や知性の持ち主の文章にもふれていないと、進歩が止まりアタマも悪くなっちゃうよ(汗)。
「SFマガジン」連載『ゼロ年代の想像力』 〜本論
(以下、2008年3月9日(日)書き下ろし)
以上は、弊ブログの特撮オタの常連読者(……いるのか?・汗)向け、呼び水・誘い水としての説明。
でもコレだけじゃあ、「はてなダイアリー」内のキーワードリンクで寄って来るみなさまにとっては、「なんじゃあコリャア!」「損した!」「カネ返せ!」「時間のムダだった!」「(アクセスした自分に)絶望したァァ!!」(笑)となるだろうから、『ゼロ年代の想像力』という論考そのものについても、以下に多少は一筆、書き下ろし。
脳ミソCPU・地頭(じあたま)がしょせんは二流のクセに、ナンだカンだと未練タラタラな論壇ミーハーでいわゆる新書オヤジ(笑)的な小生から見て、この論考の内容を一言で云うならば…… 明晰明快、論理的に鋭利にしてブロックを積み重ねるように展開して、新しい知見に基づく地平が広々と拓がり、思わずナットクゥ〜〜。かつ、オタク読者の実存やら性格類型、美意識や性的嗜好の底の底、根底にある「偏向」にまで揺さぶりをかけてきて、
「……ヒエ〜〜〜ッ! (平伏して)ワタクシが、悪うございました!!」
と「安全に痛い」フリして別所に退避しようとするや、筋斗雲で世界の果てまでひとっ飛びの悟空の前に立ちはだかる釈尊の指のように、先回りして待ち構えて、特大ハンマー構えて思いっきりトドメを刺してくるような……。モグラたたきかよ!?(笑)
こーいう芸風が、オタク(もちろん筆者も含む)のみなさまを不快にさせたり、イラだたせたりするのはわかるけど、執筆者の宇野常寛氏が云うところの「95年の思想」の一番良質な部分
――価値観の宙吊りに(ある程度、)耐えろ!――
ということの読者に対しての実践であるのなら、スジはまったく通ってる。
とはいえ小生個人は、「イタ気持ちイイ! クセになりそう!」と、あるイミ宇野氏のもくろみ・メッセージをやはりまちがって受容している、こまったチャンかもしれないが(笑)。
などと書いてみせても、『ゼロ年代〜』を未読の読者にはやはり「ナンのことやら……」だろうから、ここで改めて『ゼロ年代〜』の「意訳」もとい、「そこまで書かれてナイよ!」的な、小生の都合のイイように改変した「超訳」(笑)コーナーにドンと行ってみよう!
……歌は世につれ、世は歌につれ。物語も世につれ、世は物語につれて……。
「物語」というものは、作家の思惑(おもわく)を超えて、「時代」の空気や精神を反映する(アンチとしての反応であれ……)。あるいは、優れた作家の知性や直観に想像力は、それをとらまえる。時に先取りもする。もちろんそれは、時代を超えた普遍的なテーゼであることもある。
しかして、社会的条件が近似した場合や、もしくは大衆消費社会化が進行した場合には、かつてであれば、一部の天才や奇人変人(笑)、富裕層や内向的もしくはスレたインテリにかぎっていた高度(?)な問題意識やゼイタクな苦悩が、大衆レベルで一般化して広い支持をも受けちゃったりする!
本邦日本でも近代化、いわゆる前期近代・工業化社会が進展して、ほぼ1億総中流・会社員・終身雇用に、マイホーム購入するパパ・ママ・ボクの2世代核家族、という一応の確固とした平均像・モデル像が持てて、それが戦後の昭和や東西冷戦体制の時代のように半永久的に続くかに思えた(笑)時代や、その残り香がただよう時代には――近代化以前の伝統・安定・停滞社会でのモデル像に比すれば磐石ではないにしても――、安定したピラミッド型の社会・人間・人生モデルがギリギリ存在していた。
そんな時代には、少年マンガであるならば、ピラミッド内での上昇志向か、その反転としての強権に立ち向かう反抗……というトーナメントバトル型のマンガに代表されるような想像力と感受性が隆盛を誇っちゃう。
ところがドッコイ大作、70年代後半からの後期近代・第3次産業(サービス業)の伸長・大衆消費社会化の進展にともない、企業での人材採用や、若者ナマカ(笑)間でもマジメ・堅物・マニュアル通りの人間は忌避されて、独創性やプロデュース・管理・コミュニケーションスキル・対外折衝能力や、遊び人的スキル(汗)をこそが重きを置かれるようになっていくのが、まずは前段。
かてて加えて、90年代初頭のバブル経済崩壊と長期不況による就職氷河期、阪神大震災や地下鉄サリンテロによる安全神話の崩壊などにより、それまでの社会・人間・人生モデルが崩壊もしくは不透明になっていく……
そーいう事態に直面して、鋭敏な文化人やクリエイターから真っ先に発せられたのが、スーパーな「95年の思想」!
そして、そのもっとも良質な部分――「(大きな物語にすがらずに)価値観の宙吊りに耐えろ!」というテーゼを提起してみせたのが、「終わりなき日常を生きろ」(95年・筑摩書房・ISBN:4480857206・98年・ちくま文庫・ISBN:4480033769)「まったり革命」を唱えていた社会学者(当時はブルセラ学者・笑)の前期・宮台真司(みやだい・しんじ)。
そしてもうひとりが、思想マンガ「新ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論」(96年・幻冬舎・ISBN:4877281282)――歳若い読者に私見込みで要約するなら、社会正義などナイ! と主張しているワケではなく、薬害エイズ運動を手伝ってそのまま学業や就職をおろそかにする若者に、オウムや社会運動のおエライさんが決めたわかりやすい底の浅いいかがわしい正義に依存するな! 「日常に帰れ!」「自分の等身大の足場で地道にプロ・職業人になれ!」との内容――をものしていた漫画家の前期・小林よしのりであったのだ! と正しく指摘をしてみせる。
と、ココまでが第1の論点。
そんなこんなで、時代それ自体の不穏で不透明な空気・気分が、社会に出ることや同世代のイケてる系や異性とのコミュニケーションにおびえ、立ちすくみ引きこもる性格類型の気分とも(汗)、時代との蜜月・ハネムーン的に真っ先に合致・マッチして、共感を呼び大ヒットを飛ばす作品も現われる。
それが巨大ロボアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95年・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20220306/p1)!
しかして長期不況は、90年代後半以降もまだまだ続き(汗)、バブル経済前後の89年の日米構造協議(直訳だと構造障壁アメリカ主導権・笑)やら、93年以降の「年次改革要望書」に端を発する規制緩和の促進による過当競争、97年の金融危機の折に奨励されたリストラの導入・終身雇用の崩壊に、95年の経団連の提言「新時代の『日本的経営』」による雇用の自由化(要は非正規雇用やその職種拡大の承認要望)を受けた99年の労働者派遣法の改正……等々々。
さらなる過剰流動性の増大によって、社会・人間・人生モデルの不透明化と人々のプチ不安・アノミー(規範の崩壊に伴う不安)はいよいよもって増していく……。
先の『エヴァ』の結末も、実は不完全ながらも、この「95年の思想」の良質な部分――「価値観の宙吊りに耐えろ!」に連なるものだったが、しかして厳密なイミでの「永遠の中吊り」にテッテイするのも原理的に困難! あるいは、観客の側でもウケとめきれない! よって、もっと妥協・堕落した形態での物語も一部で流通しだした。
『エヴァ』のあるイミ変種・後継劣化ともいえる、こんな頼りないオタでブサな自分でも、甲斐性を問うたり、「ダッサァ〜」「きんもーっ☆」(笑)とコッチを主体的に値踏みしてこない、あくまでダメな自分にとっての見られる客体でいつづけてくれる、かつそんな自分を全肯定して癒してもくれる、オトコにとっての都合のイイ(優位に立てる)、聖なる天真爛漫ハクチ少女か、純粋無垢なるオトナしげな黒髪美少女との物語。(……しまった! バレちまったか!?・大笑)。
あるいは、ナゼか主人公少年を無条件に慕ってくれる美少女キャラが多数登場するハーレムチックな作品群(でもたいてい本命がひとりはいて、決して真に平等博愛とはいえないゾ、というような)。
特に前者は、中間項たる「社会」をスッ飛ばしてキミ−ボク関係の超越性が、「世界」の命運とも直結していくともいうべき想像力で、ヒトそれをすでに02年あたりから過半の読者にも耳なじみなターム(用語)で、我らが「セカイ系」と呼ぶ!!(笑)
この想像力は、90年代後半〜00年代前後に、ある種の性格類型と感受性が集うオタクジャンルを中心に(汗)流行。その代表例が、青年マンガ誌連載の『最終兵器彼女』(00年)や、新海誠(しんかい・まこと)の自主アニメ『ほしのこえ』(02年)に『雲のむこう、約束の場所』(04年)。あまたの美少女(ポルノ)ゲームや、『イリヤの空、UFOの夏』(01年)を典型とするライトノベルの作品群であるという。
そして、それらの作品の想像力や感受性の、時代精神的・性格類型的なバックボーン・源泉を剔抉(てっけつ)しつつ、そしてこの感性を持ち上げて理論的バックボーンにもなってきた哲学者の東浩紀の当初は劣化コピー(おそらく東影響下の批評系同人誌『Majestic-12』(04年)・『Natural Color Majestic-12』(05年)や東主宰の同人誌『波状言論 美少女ゲームの臨界点』(04年・ISBN:4990217705)〜でもコレらも非常にレベル高いですよ)、のちには当の本人を批判して(笑)、時代区分の仮称としては「引きこもりの時代」であったと規定する。
コレが第2の論点。
ところがドッコイ(リフレイン)、この第2の論点に対する結果的なアンチも、90年代末期には早くも勃興、00年代前半においては隆盛も極めちゃう。
積極的には、従来の古典的な単一の権力・道徳・価値観ピラミッドがほぼ崩壊して群雄割拠状態と化した、この世知辛くて他人のことにはやさしくない、小さなイジメもオッケー的なスクールカーストでバトルロワイヤルな社会状況が、良くも悪くもデフォルト・大前提であるならば、そこで生きていこう! ズル賢く立ち回って勝ち抜こう! じゃなくても、イジられないようスキを見せないでおこう! または、ヒトを押し退けてまでの気持ちはナイけれど巻き込まれたら自衛の範囲では戦おう!
さらに進んで、旧来のルールやモラルが崩壊してお上や年長者やらに頼れないようならば、究極的にはドコまでも相対的で結局は無根拠でも(逆に云うと一定程度の有効性はある)、せめて自身で新たなルールやモラル・価値観に道徳を、あえて再構築するなり便宜的に選択するなりして、周囲に流布してあわよくば動員もしちゃおうゼ!
消極的にも、「このままじゃ……ひきこもってたら、イケナイ気がする」「つぶされちゃう」「生きてけない」「就職して喰べてけない」「他人とコミュニケーションが取れないまま」「……少しは自分でナンとかしなきゃ!(決断!・笑)」
……などの、キミ−ボク関係ではなく、社会や世間に周囲を意識して、改めてリアクションなりコミットしていこうとする気分を、意識的にか無意識的にか救い上げた作品群が、やはり同時多発的に勃発!
それが、宇宙を漂流する500人の少年少女の、若者集団内でのサバイブやポジショニング、各種の性格類型同士の相性ドラマを描いたサンライズ制作のSFTVアニメ『無限のリヴァイアス』(99年〜もうSF作品というよりかは人間ドロドロ劇だったよね・笑)であり、若者向け小説の『バトル・ロワイアル』(99年)や『リアル鬼ごっこ』(01年)、『野ブタ。をプロデュース』(04年)、綿矢りさ(わたや・りさ)の10代での芥川賞受賞作品『蹴りたい背中』(03年)や『りはめより100倍恐ろしい』(05年)、青年誌連載マンガ『ドラゴン桜』(03年・05年TVドラマ化)やTVドラマ『女王の教室』(05年)、13人の仮面ライダーが殺しあうTV特撮『仮面ライダー龍騎』(02年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20021109/p1)に、アマチュアゲーム同人から出世したサークルTYPE-MOONによるTVゲーム『Fate/stay night(フェイト/ステイナイト)』(04年・06年にTVアニメ化)等々であったのだと。
そして、それらがさらに先鋭化すると、あえてある価値観を提示して、もっと積極的に大衆を動員する世直し(?)ゲームに確信犯で乗り出していく、または世直し・動員ゲームそれ自体をスタートさせる作品も登場。「週刊少年ジャンプ」連載のマンガ『DEATH NOTE』(03年)や、TVアニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』(06年・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20081005/p1)に、現実世界へのコミットにはなるが『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(98年・幻冬舎・ISBN:4877282432)などがそれ。
そういえば、「新しい歴史教科書をつくる会」元代表・ドイツ学者の西尾幹二のベストセラー『国民の歴史』(99年・産経新聞・ISBN:4594027814)「前書き」にも、「歴史は究極的にはしょせん物語であり、国や立場によって相対的であり、わかっていてあえてこの立場を選択してるのだ!(大意)」と、批判なんてすでに織り込み済だぜ〜というゲームプレイヤー的な意味のことが書いてある(笑)。
後段の作品や運動は、ベタでやってるのではなくメタなのだと。
かような社会の過剰流動性にともなう、地縁・血縁・会社共同体の希薄化や細分化に崩壊。加えてそれでも過去の時代と比すれば、相対的には富裕な大衆消費社会でのサブカルチャーの種類の増大にともなう趣味嗜好や価値観の細分化。サブカルジャンル内においてもインナージャンルのさらなる細分化……
つまりは、宮台真司が云ってきた、いわゆる「島宇宙化」(多数の島宇宙の並存)という後期近代・ポストモダン状況の徹底化。
平たく「やまと言葉」に直して云えば、今の社会や学級クラス内での仲良しグループの細分化と乱立(笑)。
そこでの生存競争、つまりはバトルロワイヤル状況の縮図をカリカチュア・擬画化(ぎがか)または誇張・極端化、そしてそれにまつわる気分や態度(受動的・能動的かに関わらず)のエッセンスを抽出した作品群を、「バトルロワイヤル系」「決断主義」とレッテルし、時代区分としては「噴き上がりの時代」だと、宇野氏は呼称する。
以上が第3の論点。
しかして、そこにて人類の歴史・時代・想像力は終わってしまった! 終着点・臨界点に達してしまったのだァ〜〜! ……というワケではさらさらない(笑)。ましてや、90年代と00年代を安直二元論な図式に捉えて満足し、「決断主義」に軍配をあげるワケでもないらしい。
00年代前半の「決断主義」ほかその他諸々へのアンチ・克服たりうるかもしれない、次なる時代精神の先駆け・萌芽(?)であろうと予測する作品群の想像力と感受性に対する分析までをも、宇野常寛氏は提示する。そしてそれこそが、『ゼロ年代〜』の真のキモ!
消去法的なネーミングなので、インパクトが多少弱くて微妙にスルーされがちになりそうだが、それが「ポスト決断主義」と名付けられている作品群!
コレが第4の論点。
具体的には下記3種の作品群をあげている。
1.劇作家上がりのクドカンこと宮藤官九郎(くどう・かんくろう)脚本のTVドラマ『池袋ウエストゲートパーク』(00年)に『木更津キャッツアイ』(02年)ほか
2.木皿泉(きさら・いずみ)脚色によるTVドラマ版『野ブタ。をプロデュース』(05年)
3.よしながふみの少女マンガ『フラワー・オブ・ライフ』(03年・ISBN:4403617492)
(ただし、3.を論述した論考のみ、失礼ながら構成がイマイチというか、同系統の問題意識をはらんだ少女マンガの古典の紹介に紙幅を割きすぎで、ラストの本作に関する議論が短すぎ! 本論から遡及して織り交ぜるかたちで言及すればよかったのに……)
……で、ココまで書いてきて、ブログ媒体での発表文としては長すぎなのと(この程度の長文(?)が読めないリテラシーのヤツも多かろう・汗)、日曜休日をすべて執筆に費やすのもイヤなので(笑)、以下は思いっきり端折(はしょ)る。
コレまた勝手に、小生なりにツマラナイ陳腐・凡庸な要約をさせてもらえれば……
宇野氏は結局、状況分析・環境分析(笑)だけには留まらず、最終的には遠回しにもっと実効性がある広義の意味での「生き方」に関わる処方・教養を提示したいのだろうと思う。東浩紀からは「『ゼロ年代〜』には視点・座標軸が複数ある(大意)」との批判もあるようだが、宇野氏の最終目的からすれば、その批判は当たらない。
すなわち……
・「バトルロワイヤル」「決断主義」状況もしくは、脱工業化・郊外化・大型店ジャスコ隆盛(米圧力による大店法改正の成果!)や「ファスト風土」化(する日本・ISBN:4896918479)に「駅前風景同一化」(笑)やらの、過剰流動性にともなう古典的な地縁・血縁・会社・商店街共同体の細分化や崩壊を、一概にはもう否定はせずに……(といってアクセル踏んで増進しようというワケでもなかろうが)
・その中での「生き方」なり「楽しみの持ち方・見つけ方」、およびそれにともなう従来のものとは別の再帰的な、強度・濃密さ・リア充(リアル充実)な「中間共同体」(マクロの社会とミクロの家庭との中間に位置する共同体)の再構築!
・社会やクラスの中での「処世としての立ち回り方」や、時にモラル(?)も兼ね備えたある種のエリートになれる資質もあるゲームプレーヤーには、必要悪として「謙虚でエレガントなバトルロワイヤルへの参加」(&傷つけ、傷つく責任)を行って、状況や場に対する善導(プロデュース)を!
・そしてそれらの行動や決断の際の、価値判断の材料となる環境や世間智(処世や振る舞い方の智恵)に参照データベースとしては、このテの事情が多少なりともわかっている親(擬似家族も含む)なり、「新・教養主義」の言論人やある種のオタクが用意せよ!
……というお話に持っていきたいのかな? とも愚考する。ま、氏の主張の断片を、小生なりに散りばめて、並び替えてみせただけですけど(汗)。それに、云うは易く行うは難し、でもあるけれど……。
(いわゆる下部・アーキテクチャーの層――過剰流動性の増大をもってしても「入れ替え不可能」な、「時間」「性愛」「老い」「死」などについても思うところはあるけど、上のパズルにはキレイにハマらないので略)
で、それに対する小生の考え。……異論はまったくございません(笑)。
……てか、ココまでのことを、断片的にはともかく有機的・体系的に考えたことなんて、今の今まで、小生は人生の途上で一度もないからナ!(笑)
でも、小生個人は節操はないので、歳下の成果だろうがパクっちゃおう! くらいなモノですが。とはいえ、巨人の肩の上に乗っかった小人の分際で、氏よりもオレの方が上だぜ! とかのたまうつもりは全然まったく毛頭ナイ。なにより付けてるフンドシがデカすぎじゃね!? てなツッコミをされないよう、身の丈の大きさにアレンジして慎重にふるまいたいとは思うけど。
まぁ、「価値観の中吊りに(ある程度、)耐え」つつ、時には「謙虚でエレガントなバトルロワイヤルへの参加」をも肯定している――自己流に翻訳するなら、360度周囲に目配せして腰を低く落としてカルく足踏みしつつ、時にダッシュで局所にコミットするような――宇野氏が、ムダに安心や自己肯定を読者に与えるようなモラリスティックでスタティック(静的)な模範解答を与える気はつゆほどもナイだろう。
「粘り強く、常に更新され続ける状況論とマッピング」と云ってるくらいだから……、適度に不安と不快と怒りを読者に惹起させて、ケムに巻きつづけてくれることを今後とも期待したい!?(笑)
追伸
ちなみに、残業三昧ダメサラリーマンの小生は、氏があげた作品の8割方を観たり読んだりしていない(笑)。
ところで今後、さらに格差社会が拡大したり、仮に戦争が起きて経済封鎖があったり、モータリゼーションが前提にある郊外の新古書店やレンタルビデオがガソリン値上げでバタバタ閉店したなら……。オフショアリングで、中国やインドに業務委託されて(汗)ホワイトカラー難民が大量発生したならば……、郊外における中間共同体は、そしてそれにまつわる想像力はドーなっちまうんだよ!? てなコトは、また誰か別のヤツがそのときに考えてくれればイイのだろう。
(生活必需品も扱うジャスコは大丈夫だろう(笑 ~後日付記:イオングループの2008年4月決算で、「ジャスコ」「マイカル」のうち約4分の1の約100店を、3年をめどに閉店か食品専門スーパーなどへ業態転換……だってサ。地方のサブカル文化拠点のジャスコも消滅かよ。『下妻物語』の舞台も成り立たなくなるかもナ・汗)
追伸2
浅羽通明『流行神』での「ゼロ年代の想像力」批判
評論家・浅羽通明(あさば・みちあき)センセイのミニコミペーパー『流行神(ハヤリガミ)』の本年前月08年2月上旬配布分において、宇野常寛氏の『ゼロ年代〜』批判(および東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』(07年・講談社現代新書・ISBN:4061498835)批判、ひいては大塚英志の「まんが・アニメ的リアリズム」批判〜というかコレらのハシゴ外し、さらなるご先祖さまの列挙!)の論考が掲載!
コレも非常に面白くって、もったいなくって、もし仮に「こんなオタに紹介されてメーワクだよ!」 なーんてなことになったとしても「知ったこっちゃねェぜ!」的に、ぜひとも勝手に紹介したいと思い(汗)、お得意の(?)「そこまで書いてナイよ!」的な要約を掲載するゾ! と、直前記事(先週日曜日付)にて予告を打ちましたが……(誰も待っちゃいねェってか?・汗)。
スイマセン、やはり趣味より日常生活も優先しないとアレなので(汗)、後日に当該日付記事への末尾加筆のかたちにて対応しようかと思います。……詐欺じゃん!? ご奇特な方は、どうかまた……覗きに来やがれ!!(コラ)
(以下、後日付記分・08年3月16日(日)執筆)
後日付記のかたちじゃあ、日付単位でアクセスしていく「はてなダイアリー」界隈では、もうほとんど読まれないとは思いますが……。それでも付記のかたちにて加筆を。
「はてなカウンター」付属のアクセス解析の「リンク元」機能を参照すると、「はてなキーワードリンク」の「東浩紀」でのアクセスが圧倒的。「浅羽通明」でのアクセスの5倍くらいか?(汗〜ちなみに大塚英志はもっと少なかったのも意外) 改めて現今における、少なくとも「はてな」でのそのテの言説に関心のある層にとっては、東浩紀センセのスターぶりがわかります。
となると、浅羽通明って誰? あるいは、名前くらいは知ってるけど本は読んだことがない。という若いヒトも多いかと思うので、そーいう層に向けても補足がてら、まずは拙(つたな)いなりに勝手に解説。
いわゆるオタク第1世代(=新人類世代)、60年前後生まれ。オタク界隈の人間をモノサシにするなら、オタキング岡田斗司夫(おかだ・としお)や唐沢俊一に竹熊健太郎。言論関係だと、宮台真司や大塚英志に今では『BSマンガ夜話』司会でおなじみ民俗学者・大月隆寛(おおつき・たかひろ)センセイとほとんど同い年(せいぜい1〜2歳違い)の50年代末期生まれの御仁。
80年代末期のバブル経済期に、『ニセ学生マニュアル』(88年・徳間書店・ISBN:4195537436
)でさっそう登場! その後、数年の大学の生協では毎年4月になると、当該書籍が平積みになって売れてました。
まぁ当時でも、(70年代初頭の左翼学生運動退潮以来と云われる)政治や言説をマジメに語るのは「ダッサァ〜」という風潮は大いにありましたが(笑)、それでも『朝まで生(ナマ)テレビ!』(87年〜)の登場や、86年のチェルノブイリ原発事故に端を発した広瀬隆率いる反原発運動の高まりに、89年5月の民主化デモを弾圧した天安門事件や、同年後半の東欧革命(東欧共産国連続崩壊)やらで、学生の間でもシャカイ派的な発言がまったくダメではなく少しはオッケー! になった時期。
……なーんて、1990年に1970年の話をされてもピンと来なかった小生のように、2008年の今の若いコに1988年ごろの話をしても、ドーでもイイことやもしれないが(笑)。
とにかく、小生が見るところの浅羽氏のキモのひとつは下記の通り。
いわゆるラカンやデリダだのの「おフランスざます〜(笑)」的な借り物や権威スジから、思想を立ち上げ分析したりはせず(それが無意味とは云わない)、あえてもっと身の丈の実感や気分に事象から――たとえば現在の世相風俗そのもののコンビニ普及や、若者向け雑誌の投稿欄、ヤンキー不良暴走族の卒業アルバム写真掲載への執着(笑)に、オタクジャンルやオタク同人誌に殉じたオタクの先達へのその価値観や美意識など――、大文字の歴史年表な羅列の記述では、後世から見たら取りこぼしてわからなくなってしまいそうな、ミクロ世界の庶民や若者に性格類型・オタク人種の気分などのデリケートな時代精神、特にその転形期を「やまと言葉」で微に入り細を穿って言語化しつつ、それをマクロの社会的次元の変化とも関連付けて思想化を試みようとした御仁。……というのが小生の理解。その後は、ウェイン町山率いた90年前後の黄金期『別冊宝島』にて大活躍。
途中過程の活動はすっ飛ばすけど、近年では宇野氏が呼称するところの「新・教養主義」的な活動で良書を産出。最近、SF方面でも、ホンモノが出版できないので(笑)、架空の『文学全集』ならぬ『SF全集』の「解説」部分のみを集大成して1冊! というかたちにした『日本SF全集・総解説』(07年・日下三蔵(くさか・さんぞう)・早川書房・ISBN:4152088761)なる書籍が刊行されているけど、図書館とかに置いてある往年の大部の『思想全集』。
たとえば『現代日本思想大系』(筑摩書房・63〜66年)のような、日本の近現代を代表する各種の思想――「自由主義」だの「社会主義」だの「超国家主義」だの「保守主義」だの――から、そのテのものに関心ある御仁や初心者、後世の研究者は押さえておくべき、主要もしくは独創的な論考・論文を複数ピックアップして、思想テーマ別に1冊に収録! & わかっている編者の学者や在野の批評家による、その思想についての収録できない膨大な冊数分をも網羅した平易で適切な解説を収録! ……というものの現代版! 平成版! 21世紀版! を目指して、とはいえ現在では『全集』なんて出しても売れやしないから(笑)、その架空の『現代日本思想大系』の「解説」部分をもくろんだ書籍なども刊行。すなわち、『ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門』、『アナーキズム―名著でたどる日本思想入門』(共に04年・ちくま新書・ISBN:4480061738・ISBN:4480061746)、『右翼と左翼』(06年・幻冬舎新書・ISBN:434498000X)など。
もちろんそれらは、無味乾燥で平板、スーパーフラット(笑)な年表や書籍名の単なる羅列ではなく、カビ生えコケむしたような訓詁学にも陥らない。
思想の左右の是非は別に、一応の絶対値(?)というか、あまたある思想ジャンル内の個々のインナー思想の山々を、山の高さの違いやら、底面積や容積や占める位置の違いに、傾斜が急峻か緩やかか? 見た目が無骨か見目麗しいか? 山脈連峰かスタンドアローンか? など彩りゆたかにその特徴を描破する。
時に暴論や極論の、その論者の人格込みでの“狂”や“熱”や魅力に、それらの無視しえない一理二理も含めてを、今後どのような用途や状況で使えそうかまでをも想起させてく筆致でつづる。
「世界」や「思想」や「実際行動」に関する、過去に試行されてきた諸々の集大成としての、一応の左右の「幅」の広さと「奥行き」の広大さと臨界点。それらがいったん見えることで隅々までをも見通しがよくなって、何も知らないか知識が乏しいときよりかは多少なりとも腑に落ちる。
その幅や選択肢の上で、自分なりの価値観・美意識・趣味嗜好に応じて、個々人がそれらのどれかを採択していくなり、自分なりの思想構築をするための素材・材料や、あるいは眼前のミクロやマクロ事象、世界そのものに対して、一応の価値判断や態度決定、さらに踏み込んでアクションを行っていく際の補助線・道具として使えればイイ! というような……。
加えて、自分(の思想や気質)がその見取り図・マップの中で、東西南北どの程度の偏りポジションに、どの程度の境地の深浅で位置しているのかも、判ればなおベター。
さらに加えて、浅羽の書籍の行間や、あるいは氏の初期の書籍、特に『天使の王国―平成の精神史的起源』(91年・JICC出版局(現・宝島社)・ISBN:4796602054・97年・幻冬舎文庫・ISBN:4877284869)などに顕著だが、われわれのような多少は知的(?)なものに関心がある層やプチインテリオタク層が陥りそうな悪弊。現実の世界ではショボイ小さな人間にすぎないのに、その身の丈の現実を忘れて(笑)、多少の読書や知識で浮き足立って自我を肥大させ、知天狗や増長慢になったり。
論全体の趣旨を忘れて、細部や“枝葉”の語句のミスや定義のあいまいに過剰にこだわることで(むろんそれも無意味ではないにしても)、論破したり土台を揺るがした気になって、“幹”や論そのものの底・フレームワーク・骨組み自体に意識が戻ってこれなくなったり、また別のあまたある“枝葉”へのさらなる振幅運動・往復運動もできずに固着してしまうような、全的アプローチではなく議論がどんどん小さくなっていくような、愚昧なる精神に対する相対化・柔軟化のための解毒剤……としても有効な処方になっている。
ある意味、個々人が保持する思想よりも重要な、その前提の畑・土台となるべき、精神の柔軟や感情の安定。
自身の思想や考え方の枠組みがまちがっていたり不備があったらしいときに、マジメ・勤勉なだけで諧謔(ユーモア)のセンスに欠け、自分を三枚目・道化にしたりすることができないような輩は(マジメ・勤勉が悪いとは云わないよ)、自身の欠陥を認めるのを無意識に恥と思ってか、何が何でもムリヤリに持論を正当化・補強しようとして、論理の格子の垂直・水平をゆがませ、たわませたりしてしまうような所業を犯してしまいがちなものだけど……(笑)。
そんなときに、それとは対極に位置する、「ナンチャッテ〜」と頭ポリポリ照れ笑いして、潔く修正できちゃったり、自身の価値観や美意識に思想はいったん棚上げして、自身とは異なるそれにも開かれてみたり、部分的には取り入れてみたり、時に自分を変えていく“聡明さ”もあるような軽々とした精神の柔軟。
あるいはそれとは真逆に、過剰な昂ぶりや卑下とは距離を置いた、もしくは一度はブレても元に戻ってこれる感情。声の大きな御仁や周囲の空気、権威主義に流されないような、自己を保持する気の強い持ち方の大切さ……といったことにも、浅羽の書籍は思いを至らせてくれる。
……浅羽観のフリして、途中から自身の理想を語ってたりもするが(笑)。
以上、大学院にでも入って学者の卵にでもなるような人材、社会のグランドデザイン・ソーシャルデザインやれる立場に出世できるような御仁(あるいはそれらに警鐘を鳴らす立場になれる御仁)ならばいざ知らず、在野で本読みやオタク批評をやっている程度の人種であったり、ラカンやデリダなんて読んでもわからないし腑に落ちてこない、あと50年100年経ったら重きを置かれていないかそもそも残っていないんじゃねェの?(笑) ソーシャルデザインいくらしたって、そっからいくらでもハミ出る規格外のモノや、社会をひっくり返しかねないような人間は草莽から出てくるモンだろ! な〜んて思っているような輩には、浅羽の著作は触発されるところ大だと思う。
要は、東センセを皮切りに本を本格的に読みはじめたような若いコは、東センセばかりではなく浅羽センセや他の論者の書籍も読みましょう! ということで(笑)。あるいはワンクッション置くなら、コレも広いイミで権威主義的な物言いだけど、特に『天使の王国』は、宮台真司が『制服少女たちの選択』(94年・講談社・ISBN:4062053543・06年・朝日文庫・ISBN:4022615214)で多数引用しているので、その遡及のイミでも……って、『制服少女〜』も今となっては充分古くて読まれてない?(汗)
で、浅羽センセによる『ゼロ年代〜』批判の内容は……というところで、誰も待ってなくても近日中につづくのでありました(……)。
(後日付記:浅羽センセによる『ゼロ年代〜』批判の内容紹介は……。拙ブログ主宰者の単なる怠慢で、加筆をせずに終わっております・汗)
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