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日本沈没 2006年版  〜果てし無き、日本沈没の果てに…

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日本沈没』2006年版

(2006年7月15日封切)

日本沈没』2006年版 〜果てし無き、日本沈没の果てに…

(文・伏屋千晶)
(2006年6月執筆、7月24日大幅加筆)


 2006年5月29日、全国主要都市数箇所の会場で同時に催された『日本沈没』日本全国縦断完成披露プレミア試写会の招待券を入手した友人・I氏に誘われて、東京のメイン会場となった日本武道館へ行って参りました。


 ところで、私は昨年(05年)の樋口真嗣監督作品『ローレライ』をパスしました。“小説”ならではの巧緻を極めた構成が効いていた原作の面白さに対する反動もありましたが、同映画を観なかった第一の理由は以前、TV放映時に視聴した『ミニモニ。THE(じゃ)ムービー お菓子な大冒険!』(02年/ヒグチしんじ監督名義)が思いのほかツマらなかったので、「樋口監督の作品は、雨宮慶太監督作品と同様に特撮(CG)パートだけは面白いけれど、それ以外の部分では評価するべきところが大してない」――つまり、樋口氏は「本編監督としては器量不足である」と(私なりの)判断を下していたからです。


 実際、『ミニモニ。THE ムービー』のメイキングの中で樋口氏は


やぐっつぁん[=矢口真里]の横顔を撮ってる時に、もっと(カメラを)回しちゃえって……アレ、おかしいな? 俺、ミニモニの映画撮っているハズなのに、ナニやってんだ」


などとコメントしています。


 要するにヒグチ監督は、迂闊(うかつ) にも巷のハロヲタ中年よろしくヤグチの表情に見惚れてしまっているワケで、主演女優に対する冷静な客観的視座を欠いていたのは明白で、これではプロの演出家としては失格であると指弾されても弁解の余地はないでしょう。(余談ながら、ミニモニ。の中核をなす辻希美加護亜依が新ユニット=W(ダブル・ユー)を結成して、「恋のバカンス」などのザ・ピーナッツの持ち歌をカバーし始めた時、こりゃ辻ちゃん加護ちゃんを〈小美人〉に仕立てて『モスラ』の新作を撮る伏線だナ――と早合点しちゃったのは私だけではあるまい)


 この『ミニモニ。THE ムービー』が併映の『仔犬ダンの物語』(澤井信一郎監督)と共に、内容的にも興行的にもサッパリ振るわなかったにも関わらず、東宝がA級予算作品『ローレライ』の監督として樋口氏に白羽の矢を立てたのには少なからず驚かされました(『ゴジラ FINAL WARS(ファイナルウォーズ)』(04・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20060304/p1)での北村龍平監督起用のサプライズに比べたら、それほど意外性はないか?/因みに『ミニモニ――』は東映作品です)。
 今年(06年)もまた夏休み公開のイチオシ作品『日本沈没』の演出を同氏に再度オファーしたところを見ると、『ローレライ』は業界内で“成功作”として認められているのかしら? 少なくとも東宝特撮映画で東宝出自の大河原孝夫監督採用の時みたいに“他に適任者が見当たらないからアイツにやらせてみよう”という、安易な理由による人選ではないでしょう。
 恐らくは〈本編パートと特撮パートとの繋がり〉即ち〈全編に亘る演出トーンの一貫性〉を重視して、VFXのノウハウに精通した人材に候補者を絞り込んだのでしょう。いずれにしろ邦画業界でトップに君臨する東宝から2年続けて大作映画の監督を任された――という事実を以(もっ)て、「樋口氏は日本特撮界の頂点に立った」と申し上げても差し支えないと存じます。


 しかし、試写に先立つ舞台挨拶の場で、樋口監督が――


 自分のために生きるよりも、誰かのために生きた方がイイんじゃないかと最近、思いはじめまして、観終わった後、そんな気分になって貰(もら)えたらイイな、と思っております


 ――などと、いかにも安物の特撮番組の主人公が言いそうな常套句を口にしたのを聞いた時には……本当にもゥ、自分の耳を疑いましたね。さらに、同監督は7月14日付の毎日新聞に掲載された映画のPR記事では、


 きれいごとは必要だと思う。そういう意識が世の中に減っているし、映画にちゃんと出してみたかった


 ――とコメントしておられました。しかし、“きれいごと”の使い方が違うと思います。リベラリスト気どりのオタクって、こういう空疎な言葉遊びをすることで社会参加している気分になっているんですよね。あ〜、ヤダヤダ!(大切なのは、“きれいごと”の作り話を捏造することではなく、その“きれいごと”を“いかにして実践するか”でしょう)
 前々から特撮雑誌「宇宙船」の読者コーナーや当誌も含む特撮同人誌などに掲載された寄稿文には、高尚な(?)学級民主主義的なテーゼをノータリンな特撮作品から無理やり読み取って脂(やに)下がっている趣旨の類のものが多いのに呆れていたのですが、イヤハヤその元凶がこんなトコに居たとは……。


 おケツが痒(かゆ)くなるようなクサい道徳論や未熟な人生観を滔々(とうとう)とまくし立てて粋(イキ)がっているマニア出身のクリエイターたちの軽佻浮薄な習性について、先日(2006/2/27)NHKの朝のトーク番組に出演された[宮崎駿]氏は、憮然たる表情で以下のように語っておられました――


 そんなにね、前向きにね“人生を健(すこ)やかに明るくするために、ボクは良い映画を作ってるんです”なんて風には思ってないんです――そんなことを言う奴は大ッ嫌いです。基本的にキライです。嘘つき(=偽善者)だと思います。


 ムフフ、バカめ。天衣無縫の偏屈ジジィ=宮崎駿を嘗(な)めんなよ! TV番組によって我が子に道徳教育をなそうと考えているような浅薄(せんぱく)な視聴者におもねって[特撮作品のメロドラマ化]を促進させた蒙昧(もうまい)な連中には、是非とも一度聞かせてやりたい箴言(しんげん)ですな。(それにしても、よくカットされずにオンエアされたナー)


 東映が誇る“嘘つき”プロデューサー・白倉伸一郎氏もまた、『仮面ライダーアギト』(01・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20011108/p1)中盤以降、大衆受けを意識したクサい発言がやたらに鼻につくようになりましたが、同氏の場合、“こういうクサい話をすれば、きっとマニアに受けるゾ〜”という、したたかなソロバン勘定の上で(いわば、ビジネスライクな確信犯?)、心にもないホラ噺(ばなし)を捏造しているだけでしょう。だから皆、易々(やすやす)とダマされてはイカンのだ。一方、『仮面ライダークウガ』(00・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20001111/p1)と『仮面ライダー響鬼(ひびき)』(05・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20070106/p1)を手掛けた東映プロデューサー・高寺成紀(たかてら・しげのり)氏の理想主義的な「世間知らずのお坊っちゃま」ぶりはカマトトぶっているのかと思っていましたが、どうも“マジ”で“天然”なのかもしれません。
 兄弟戦隊&家族を題材としている『魔法戦隊マジレンジャー』(05・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20110228/p1)を観て、「オオ、家族の絆って、なんて素晴らしいんだ!」とかナンとか言って感動してる奴は全員氏ね!(←マジ読みするとカドが立ちますから、たむけん(お笑い芸人・たむらけんじ)口調で音読してください。特に誰かを恫喝(どうかつ)しようなどという趣意はゴザイませんので、ひとつヨロシク)


 はたして、“嘘つき”シンジくんは、どこまでホンキで“誰かのために生きる”な〜んて、考えているのだろう? そもそも、それほど生マジメでウブな神経の持ち主ならば、地震をエンターテインメントに仕立てた不謹慎な映画なんか撮らねーだろう……って、それを言ったらミもフタもないかも知れないけれど、とりあえずは樋口氏の人間性及び“マニアとしてのスタンス”を見損なっていたことに気づいてしまい、とってもガッカリした次第。


 そんなこんなで、直前にマイナスの先入観をインプットされ状態で『日本沈没』を観ることになったのですが、私は作品の「好き嫌い」と「優劣の判断」とを混同しないように日々、客観的で公正な鑑賞態度を保つ配慮をしております――。
 ですが、“誰かのために生きる”=“自己犠牲は尊いのだ!”と言わんばかりの、精神的に未成熟なオタク特有の「学級民主主義」的なコンセプトメイクが災いして、劇的な要素を主人公=小野寺俊夫とヒロイン=阿部玲子の恋愛感情に集約し、原作未読の観客にもストーリーを理解し易いように単純化(再構成)した結果、旧『日本沈没』(73年/森谷司郎監督・橋本忍脚本・中野昭慶特技監督)が具有していたような「群像劇」としての“厚み”を喪失してしまっていたのが残念に思われます。


 また、原作と旧作では入念に描かれていた「難民受入れをめぐる諸外国との交渉の難航」、及び「国連に於ける孤立(議論するばかりで実質的には機能しない〈国連〉の存在意義に対する懐疑)」といった、外交面でのリアルな駆け引きの描写も一切オミットされてしまい、その結果、日本国内の騒擾(そうじょう) の描写だけに終始してしまったのは、脚色面での致命的な瑕瑾(かきん) であると思われます(TVシリーズ(74)は真面目に視聴しておりません、悪しからず)。
 近年の中国・韓国・北朝鮮との関係悪化、対米過剰依存に対する政治的反省、国民の対米友好感情の低下……等々を反映して〈プチ・右傾化〉(=国家としての自立志向)にシフトしつつある当今の世相を考慮すると、「他国に救いを求める」ような展開ではマズい――と、深読みしたのかしら?


(……にしても、昨年(05年)の一時的な“戦争映画ラッシュ”は何だったんだ? 右傾化の風潮とシンクロした現象だろうか?/日本の国防問題を真摯に憂える福井晴敏氏(『ローレライ』『亡国のイージス』の原作者)としては、「自衛隊出身の趣味的な軍事オタク」のように扱われたフィーチャーのされ方は不本意だった筈/しかし、『男たちの大和/YAMATO』(05)の興行収入が50億円に達したってホントなの? どうせ上げ底(あげぞこ)の割増勘定でしょ? 眉唾モンだねー)


 登場人物のキャラクターシフトの面に於ける変更点も、現代風・大衆向けにアレンジされたリメイク版の特徴を如実に物語っています。品性と良識を具えた有能な政治家と実務に精通した官僚たちが一丸(いちがん)となって、一人でも多くの日本国民を救うために東奔西走する態(さま)が入念に描写されていた原作・旧作版に比べ、今回のリメイク版では、良識派のリーダーであるべき山本総理大臣(石坂浩二氏/旧作では丹波哲郎氏が演じた)が物語の序盤の段階で搭乗していた飛行機が火山噴火に巻き込まれて頓死してしまうこともあって、登場する政治家と高級官僚の大半は大衆向けのTVドラマにはありがちな〈村人を食い物にする悪代官〉の役回りを演じる羽目になってしまいました。
 どうやら、大ヒットした『踊る大捜査線』(97)以来、“非人間的な”官僚(役人)を“純粋な”若者の「不倶戴天の敵」に設定するのが、大衆ウケを狙う作劇の定石として浸透しているようです。


(とはいえ、精緻なシュミレーションに基づく試算の結果、8千万以上の日本国民が列島沈没の過程で死んでしまうのだから、国家レベルで海外への移住策を検討しても仕方ない――と、きわめて事務的な態度で全国民の生命を“数量”に置換して天秤にかけちゃった國村隼氏演じる副総理大臣の「選良のお役人」らしい無神経さには、妙なリアリティがあってゾッとします)


 宰相山本亡き後、「危機管理担当大臣」として未曾有の国難の矢面に立つのは、大地真央演じる[鷹森沙織]なる“いかにも正義の味方でゴザイます”的な新キャラクター。畢竟(ひっきょう)、


 “善良な”政治家である鷹森女史は、腹黒い政府閣僚たちから融通のきかぬ誠実な態度を愚直と嗤(わら)われながらも己の職務を全う(まっとう)するという、いかにも有能なキャリアウーマンを自認する年配のOL層(=自称、いいオンナ?)に受けそうな“職場での陰湿なイジメに耐える健気なヒロイン物語”


 を展開しちゃうので、「男性的な映画」を愛好する者としては少なからず閉口させられました。


 この鷹森大臣と〈元・夫婦〉という、これまたロコツに“女性客ウケ”を狙ったメロドラマチックな設定が付加されたおかげでエラく若返らされてしまったのが、列島沈没の兆候を逸早く察知する地球物理学者=田所博士――旧作では小林桂樹氏が演じた頑固な老博士役を、今回は小林氏とはまったくイメージを異にする元祖トレンディー俳優の豊川悦司氏(最近はヨゴレ役も演じていますが……)が、エキセントリックかつスタイリッシュに演じています。
 冒頭の登場シーンに於けるNEW田所博士は、「若さ」と「活力」を殊更に印象づけたいという演出目的があったのでしょうか(?)、1年以内に日本が沈没するというデータを表示したディスプレイを見てヒステリーを起こし、半狂乱の体(てい)で液晶画面に強烈な右ストレート・パンチを一発見舞い、それだけでは飽き足らずにトドメの頭突きをくれる――という“いかにもアニメ的な”オーバー表現によって、エキセントリックかつバイオレントな性格描写が施されています。


 その直後のシーンでの同博士が、右腕を包帯でグルグル巻きにしていた上におデコにはデカい絆創膏を貼っていたもので、思わず吹き出してしまいました。これじゃまるでコントだ。「監督ゥ、コント撮ってるんじゃないっスよー」と一言、気の利いたツッコミを入れてくれるような腹心のスタッフが、樋口監督の周囲にはひとりも居ないのだろうか……。
 実写作品の演出にアニメ的な表現技法を不用意に用いると、全般的に人物の動作がオーバー・アクションになり、その過剰な“メリハリ”が奇異(デフォルメ)に感じられる場合があるので、ある程度はセーブしないと「危険」である――と、改めて気づかされました。


 ストーリーのスノッブな脚色に対する論難はさておき、原作の裏テーマともいうべき小松左京独自の国家と民族の関係に対する高邁な見解(=日本列島が沈んでしまうのならば、日本国民は潔く祖国と運命を共にするべきではないか?)が、今回の新作版では山本総理が思いついた腹案の一として語られるのみで、非常に“軽く”扱われているのは、より根本的な問題ではないでしょうか?
 旧作では、名匠・黒澤明の薫陶を受けた森谷司郎監督による品格のある重厚な演出の下、大根役者・丹波哲郎=山本総理が、新国劇の重鎮・島田正吾を受けに回し、双眸に満々と涙を溜めて奇跡的な熱演(チト大芝居)を披露した迫真の一幕で提示される、恐らくは日本国民にとって最も根源的で最もスピリチュアルな《最終最後の選択肢》であったのに……。


 ――どうも作劇の勘所(かんどころ)が違う……って言うか、絶対に脚本構成のツボ(急所)がズレてる! 原作が持っていた奥深い無常観や社会学的な含蓄が殺(そ)がれてるッ!
 古武士的な“座して死を待つ”姿勢を受け入れることに現代人として抵抗があるのはもっともですが、詰まるところ「世故に長けた老人の理智」ではなく「やさしい若者の善意と行動力」によって問題が解決されるような筋書でなければウケないご時世なんですね。


(旧作版で、丹波哲郎=山本総理が、火災の炎熱に追われて進退窮まった都民を避難させるために宮城(きゅうじょう=皇居)の開放を要請する場面などは、些か(いささか)理想主義に過ぎるものの、1970年代当時の映画監督といえば大抵は“左”でしたから、森谷監督にとっては尋常ならざる拘り(こだわり)があったに相違ないと思わせる、ひときわ印象深い場面でした。言はずもがなリメイク版にはこの“宮城開放”シーンはありません)


 そしてまた、ハイパーレスキュー隊員(柴咲コウ)とマドンナ大臣(大地真央)という、タフなダブル・ヒロインが大活躍する潤色(=プロットの追加)に見られる「女性客に対する媚び」も営業サイドの斟酌が明白(あからさま)過ぎて、嫌らしく感じられました(私だけ?)。
 とはいえ、筆者だって“タフなヒロイン”は大好きで、殊にSF洋画『エイリアン2』(86)のリプリーシガニー・ウィーバー)と同じくSF洋画『ターミネーター2』(91)のサラ・コナー(リンダ・ハミルトン)の凛々しく逞しい勇姿は、いま思い返しても胸が熱くなります。このパワフルな2大ヒロインにフィジカルの面で大いに劣る柴咲コウ氏には、少しは筋トレをして躰(からだ)を造ってから撮影に臨んで欲しかったものですが(なんたって肉体が資本のレスキュー隊員役ですから)、長い黒髪を風になびかせてバイクで突ッ走るカットはパンク(不良)な雰囲気がなかなかサマになっていてナイスでした。さすがはその昔、ブクロ(池袋)で鳴らした元ヤンキー?! (コワモテの柴咲氏、次作の邦画『どろろと百鬼丸』では“どろろ”役だって!)


 現在の日本TV&映画界では、アホな一般市民に真似されると困るので、オートバイの走行シーン撮影時には必ず俳優にヘルメットを着用させるのが暗黙のルールとなっていますが、以前は結構アバウトでした。東映ヒーローでは『鳥人戦隊ジェットマン』(91・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20110905/p1)のブラックコンドル=結城凱(ゆうき・がい)や、『仮面ライダーZO(ゼットオー)』(93)の麻生勝(あそう・まさる)らが最後のノーヘル・ライダーとして思い出されますが、今考えてみると、元祖『仮面ライダー』(71・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20140407/p1)第1クールの本郷猛=藤岡弘、氏が、ほとんどノーヘルでバイク走行シーンを演じていたというのは、当時の法律としては違法ではなかったとはいえ驚異的な事実ですねー。撮影中にクラッシュして降板した事件を考慮すると尚更に……(この事件により苦肉の策で第2クールから佐々木剛(ささき・たけし)が演じる一文字隼人(いちもんじ・はやと)こと仮面ライダー2号が登場したのはご存じの通り)。とにかくノーヘルでバイクに跨がった姿って、理屈抜きで絵になるなぁ。


 もう一人の主要な新造キャラクター=倉木美咲(震災で家族を失った少女)を演じるは、今や子役として売れっ子ナンバー1の福田麻由子氏。
 本年(06年)初頭にTBS系で放映されたドラマ『白夜行』第1話で、生活苦にあえぐアルコール依存症の母親から強制されて、金銭と引き替えに小児性愛者の餌食となって性的虐待を受ける薄幸の貧乏少女という難しい役柄を、見事なまでに完璧な演技力で演じて以来(業界第一線にある海千山千のプロデューサー&ディレクターをして“奇蹟!”と賞嘆させた)、同劇中の役柄とのシンクロ率のレベルが余りにも高かった所為(せい)で、人倫に悖(もと)る児童虐待者を糾弾するドラマ本来の趣意に反し、皮肉にも日本中の小児性愛者から熱狂的な支持を獲得(『タクシードライバー』(76)で少女娼婦役を演じたおかげで、全米の変質者のトップ・アイドルに祭り上げられてしまった子役時代のジョディ・フォスターみたいに?)。
 春の番組改変期に放映された実写版『ちびまる子ちゃん』のお姉ちゃん役で一般的な認知度もアップして飛躍的な進境を遂げて(5歳の時に『Summer Snow』(00)でドラマ・デビューした後、昨年『女王の教室』(05)で脚光を浴びるまでの潜伏期間に比べてみれば、この1年間での急激なブレイクぶりは一目瞭然)、さらに夏休みには小学生にして初主演の舞台『雨と夢のあとに』(やっぱ、キワモノ?)が、なんと1ヶ月間のロングラン興行〔7/20〜8/20〕で、しかもメジャーな池袋サンシャイン劇場の舞台で上演されるまでに出世しました――天晴(あっぱれ)!


 しかし、稀代の名子役(?)を起用したにも拘らず、作劇の上では主人公カップルが遭遇する冒頭の場面でしか存在意義がなく、以後はヒロイン一家(居酒屋)のマスコット的な存在に甘んじてしまい、物語の進捗に直接関与するような言動は一切なく、特に演技的な見せ場があるわけでもなく、せっかくの逸材が殆ど(ほとんど)有効に機能していません。では、このような少女キャラを新規に設定して付け加える必要が、いったいドコにあったのでしょう?


 『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』(99)のヒロイン役に一昔前の少女スター(?)前田愛氏がブッキングされた時にも感じたことですが、“マニア出身”系のスタッフって、時として未成年の子役(女児)に対して不自然な執着を示し、作劇上“必然性の薄い”少女キャラをわざわざ造形して、かえってプロットを破綻させてしまうことがあります。(まさに『ガメラ3』はその典型的な悪例でした)
 詰まるところ、『ガメラ3』を観に行った我々にとって「ガメラ自衛隊との攻防」&「イリスとの対決」がメイン・ディッシュなのであって、ヒロインなど刺身のツマに過ぎません(でしょ?)。前田愛がスキだとか嫌いとか、なんで服の下に水着を着とるねんとか、アテウマにされた同世代の少女女優・安藤希(あんどう・のぞみ)がカワイソーとか、そういった枝葉末節の問題ではなく、過剰な人間ドラマに傾注するような労力と時間と製作費の余裕があるのなら、それら全てを特撮パートにブチ込んで、ブッちぎりのハード・コア怪獣映画(!!)を作ってみせてくれーッ!……って、誰も言わないね。やっぱ、筆者だけ?


(ブッちゃけ、未成年の少女ヒロインではなく、それまでのシリーズでメインを張ってきたWヒロインの共演〈長峰×穂波〉を観たかった客の方が多かったのではありませんか?)


 もとより、個人的な趣味嗜好および異常性癖に干渉する所存はゴザイませんが、ともかく作り手側も受け手側もともに節度と良識をわきまえ、これ以上の“夾雑物”(特に異性に対する偏執的な要素)を特撮ジャンルに持ち込まないでほしいのです。
 かく申す筆者ですが、表向き(?)はストイックな特撮映画ファンであるものの、その実体はミーハーでアイドルオタクでもあります。「ヒーローショー観劇」&「プロレス観戦」と並んで「アイドルのコンサートでの完全燃焼」は、若かりし頃の三大道楽でした。近年は懐(ふところ)具合と体力の低化に伴い、やむなく「ヒーロー道」一本に絞って血道を上げておりますが、一昨年、○○○○FC時代の戦友(?)と数年ぶりに再会したところ、此奴(こやつ)ハロヲタに転んでおりまして、誘われるままにハロプロ系ユニットのライブに幾度も同行しているうちに私もズッポリ嵌まって(はまって)しまい(不惑の身にはチト辛い)、いつの間にやらヒーローショーよりもハロプロ関連のイベント会場へ足を運ぶ回数の方が多くなったほどです。
 でも、「ヒーロー」と「アイドル」双方のジャンルをチャンポンにして楽しむような、無節操きわまる若気の過ち(あやまち)は、決して二度と繰り返さないぞー!


 [空想特撮映画の荒唐無稽な面白さ]と[美人礼讃]は相反するエレメントであり、両者をヘタに混同すると互いの興趣が相殺される虞(おそれ)があると――前者は「理」が司(つかさど)る知的な愉悦(ゆえつ)であり、後者は「情」が司る本能的な享楽(きょうらく)である――、折しも「ミュージカル 美少女戦士セーラームーン」の舞台を鑑賞中(汗)にハタと思い至りました(その前に自分のトシを考えろって? ウ〜ム、正論だ!!)。爾後(じご)、この私的基準に従って、各々をキッパリと区分して楽しむように心がけております。我ながら、えェ壊れかたや!? 要は、味噌(ミソ)も糞(クソ)も一緒にしてはいけないということです――よっしゃ、明解にして合理的な帰結だ?!


 ――閑話休題
 ついつい調子にのってハナシが脱線してしまいましたが、ココからが本稿の“核心”部分(のハズ)です。今回のリメイク版『日本沈没』は、後半部の物語展開が大きく改変されています。この先の文ではその結末部分の内容に触れております。どうぞご諒承ください。


 予告編のラストに流れる主人公・小野寺の決めゼリフ=「奇跡は起きます! 起こしてみせます!」が、樋口監督が[絵コンテ・設定]を務めた名作OVアニメ『トップをねらえ!』(88)最終話(第6話)「果てし無き、流れのはてに…」(監督/庵野秀明 原作&脚本/岡田斗司夫――書籍『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』(97・太田出版ISBN:4872333160)での竹熊健太郎の取材によれば、実際には脚本を執筆したのはガイナックス社長(06年当時)にして、劇場アニメ『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(87)の監督なども務めた山賀博之だったとのこと――)のクライマックス・シーンに於けるヒロイン=タカヤノリコ(樋口監督夫人であるアニメーター〈高屋法子〉氏の芳名に由来する)のセリフと“全く同じ”であることに、既に気づいておられる方も多いと存じます。


 液状化した海底プレートの横滑りによる地殻変動を食い止めるため、流動的な地殻の表相を広範囲にわたって横一線に爆破し、沈下しつつある地層の尖端部分を断ち切る――という奇想天外な(無謀な?)計画が田所博士によって立案され、最新型潜水艇・わだつみ6500のパイロット=結城(及川光博/小野寺のバディ)は強力なN2(エヌツー)爆薬を海底にセッティングする危険な任務に着く。だが、耐圧機能の限界を越えた長時間に亘る深海での苛酷な作業の結果、わだつみは水圧に押し潰されて破裂し、頼みのN2爆薬も海溝の最深部へ落下してしまった。
 任務半ばで斃れた僚友・結城の死に直面し、その遺志を継ごうと肚(はら)をくくった小野寺は、モニュメントとして展示されている旧式のわだつみを自らの手でオーバー・ホールし、生還の可能性は限りなくゼロに近い“片道切符”の決死行となるのは百も承知、千も覚悟の上で、海底からN2爆薬を回収して流動プレート破断計画を完遂すべく、最後のミッションに志願する!


 上述の予告編のセリフは、地殻変動のタイムリミットが迫り、たとえN2爆薬を回収できたとしても、最早(もはや)それを所定の位置にセットする時間の猶予がない――と悟った田所博士から無線連絡で作業中止(=ギブ・アップ)を命じられた小野寺が激昂して思わず叫んだ一言なのですが、これはもう一点の疑いの余地もなく『トップをねらえ!』最終話の土壇場に於ける、あまりにも劇的であまりにも有名な一幕の再現であります!


(地球に迫る宇宙怪獣群を一挙に殲滅するため、木星の重力を利用して人工的にブラックホールを発生させるべく、タカヤノリコは身命を抛って(なげうって)木星地下最深奥部への突入を敢行する!――これぞ、血沸き肉躍る空想冒険活劇! 全同胞の命運を背負い、神仏に恃(たの)まず、あらん限りの人間の叡智と真心を尽くし、絶体絶命の危機を乗り切ろうとする不撓不屈(ふとうふくつ)の精神! 抜き差しならぬギリギリの極限状態! 最高潮のクライマックス―― おお、燃える!!)


 小野寺の果敢な爆破作業によって、日本列島は完全な沈没を免れ、東北地方を中心に本土の陸地の一部が奇跡的に残った。生き残った日本国民は鷹森大臣を中心に団結して、いつの日にか必ずや日本国を再建するであろう――。めでたし、めでたし……(やはり、東北に〈第2新東京市〉を建設するのか?)


 って、コテコテのハッピー・エンドじゃん! “強いニッポン”志向に傾きつつある当節の世相を考慮すると、当然ながら(営業的な理由からも)ディスペラートな(悲劇的な)終り方を嫌って「日本列島の完全消滅」という最悪の事態を回避せざるを得なかったのでしょう。
 然しながら、東北地方が地震津波の被害を免れる結末の展開は、新潟中越地震(04年10月/マグニチュード6.8)、宮城県沖地震(05年8月/マグニチュード7.2)と同地方では地震活動が近年活発化してきているだけに、説得力に欠けます。


 爆破任務完了後の小野寺の描写は一切ありませんでしたが、恐らくは爆破に巻き込まれて海の藻屑(もくず)となって散華したか……
 否! 果てしない時空の彼方へ吹き飛ばされながらも、一心同体のお姉様と愛機ガンバスターと共に遠い未来で地球に辿り着くことができたタカヤノリコのように、小野寺とわだつみもまた、必ずや遠い未来で再生した故郷・日本の大地への生還を果たすことでしょう――“オカエリナサイ”(……シクシク、あァ泣けるなぁ!)


 かくて、小松左京的なスピリットみなぎる『トップをねらえ!』最終話のメイン・プロット――「核融合反応による木星の大爆破」と「ブラックホール」という重要なファクターは『さよならジュピター』(84)からの引用。同話のサブタイトル「果てし無き、流れのはてに…」も、小松氏の代表作の表題にして日本SFオールタイムベストの呼び声も高い『果しなき流れの果に』(65・ISBN:489456369X)のパクリ――は十数年の歳月を経て、小松左京原作の『日本沈没』へとあざやかに輪廻転生を果たした次第です。Bravo(ブラボー)!
 その一方、ジェームズ・キャメロン監督の最高傑作『アビス』(89)もまた、本作に多大な影響を与えているのではないかと推測されます。津波のシーンのカメラアングル&カット割りなどはソックリだし、人跡未踏の海溝(abyss)に落下した核弾頭を主人公が生命を賭けて回収するというヤマ場の盛り上げ方(場面構成)も瓜二つでしたから。


(ところで、〈N2(エヌツー)爆薬〉って、『新世紀エヴァンゲリオン』(95・https://katoku99.hatenablog.com/entry/20220306/p1)に幾度か登場した〈N2地雷〉と同じモノなのでしょうか? ところで蛇足ながら、『エヴァ』の主人公=碇“シンジ”のネーミングは、樋口“真嗣”氏に由来するものです……って、たぶん改めて申し述べるまでもないのでしょうが、念のため)


 ――ということで、樋口監督の舞台挨拶での余計な一言に鑑賞前の気分を著しくトーンダウンさせられたものの、『トップをねらえ!』をベースにして冒険活劇調に転じた後半部の作劇に、まんまとハマってしまった私でした。
 少なからず“アニメ的に過ぎる”描写や、随所にちりばめられた“オタッキーな”小ネタの数々――夕暮れの下町の物干し台で、主人公が小市民的な幸福論をしみじみと語る場面は、東宝特撮映画『世界大戦争』(61年/東宝)のフランキー堺かしら?――には却(かえ)って気が散りましたけど、映画作品としては、総じて可もなく不可もなく“。それなりに特撮パートは面白かったけれど、しかし一週間も経ったら内容を覚えていないだろう”という程度のレベル=「平均点」の出来であった(失礼ながら)と存じます。


 コンピュータ知識に疎(うと)い私が“デジタルVFX”を語るなど甚だ(はなはだ)口幅ったいのですが、特撮カットに関しては見せ方が少々オーソドックスに過ぎる傾向はあるものの、概して精緻な仕上がりであったように見受けました。さすがに製作費が桁違いのハリウッド超大作には見劣りしますが、武道館に設置された超特大スクリーンが醸し出すド迫力も手伝って、天変地異のカタストロフィー描写には素直に圧倒されちゃいました。(大きな津波被害をもたらしたジャワ島中部地震の直後だけに“楽しめた”と申し上げるのは不謹慎かと存じます)
 ……ですが、大詰めの特撮の見せ場となる海底爆破作業シーンの尺の長さが、全体的な構成からすると不自然に思われるほど短くて、クライマックスのボリューム不足感は否めません。残念ながら映画後半部に於ける演出のパワー・ダウン“息切れ”ムードは一目瞭然で、撮影終盤のスケジュールが逼迫して当初予定していた分のショット数を消化しきれなかったのかナと、しきりに案じられました。
 それにしても、特撮カット全般に亘って、なんとな〜く今にも〈怪獣〉が出てきそうな“ビミョーな空気”が漂っていたのが気になります。これは故・円谷英二特技監督伝来の演出スタイルが骨の髄まで染み込んでしまっている世代特有の「性(さが)」なのでしょうか?


 一方、肝心の本編パートの方は、当初危惧された通り、月並みなトレンディー・ドラマ(=メロドラマ)の模倣に終始するばかりで独創的な新鮮味は一切なく、人間関係の奥行きもサッパリ感じられず、全体的に退屈させられました。なにより、児童向けアニメでもあるまいに「絵に描いたようなハッピー・エンディング」に落着した大団円の作劇術に対しては“こりゃアカン!”と落胆させられました(私だけ?)。しかし案外、一般的な評価は分かれるかも知れません(一発逆転+起死回生のカタルシスか? or “奇跡”と“幸運”に頼りすぎのご都合主義か?)。


 本作が面白かったら、『ローレライ』のDVDを借りて観ようと思っていたので、鑑賞を果たしたのですが……残念、イマイチでした。
 ゴジラ(=怪獣映画)なき後、俄かに(にわかに)活性化しつつある「愛国心発揚」の国策・風潮に迎合(?)したマスコミ側が作為的に仕掛けた戦争映画ブーム[=国防意識の強化]は不発に終り(日本国民もそれほどバカじゃない?)、目下のところ、向後の日本特撮映画界が進むべき針路は五里霧中の袋小路にあります。
 でも、今年は『ポセイドン・アドベンチャー』(72)もリメイクされたことですし、仮に『日本沈没』が興行的に成功したら、1970年代のような〈パニック映画ブーム〉が再来しちゃうかも? さらには、本作をきっかけにして〈大衆性〉と〈マニアックなSFテイスト〉を併わせもつ小松氏の作品群が再評価されたら、「飛躍的進歩を遂げたVFXによるリファイン」というコンセプト(口実?)の下に『エスパイ』(74)・『復活の日』(80)・『さよならジュピター』(84)とかつての小松映画の再映画化が続き、本格派和製SF映画が邦画界をリードするワンダフルな時代がやってくる可能性もあり得る……かしら?


 スプラッター・ホラーが特撮映画の主流となって久しい日本で、大衆・子供にも容易に理解できる平易にして明晰なるSF的理念に基いた作品群を率先して描いてこられた手塚治虫藤子・F・不二雄石ノ森章太郎の三氏が亡くなられた後(横山光輝氏の著作にはSF性が稀薄?)、日本特撮界が拠るべき大御所は小松左京氏を擱いて(おいて)他にない……と申しますか、深遠な科学知識(=教養)と周到な娯楽性(=サービス精神)とを両立させたストーリー・テリングの泰斗(たいと)たる小松氏ほど、21世紀の斯界を担う“ブレーン”として相応しい人物は他に居ないのではないか――と、最近になって、漸(ようや)く思い至るようになりました。
 もともと「漫画家」になりたかったけれど、絵が下手だったので「小説家」になったという出自をもつ小松先生はマンガ的な発想にも堪能であられる筈ですから、故石ノ森先生が残された偉大なる遺産と栄光を漫然と食い潰しているだけの衰弱した石森プロに代わって、東映キャラクター番組の企画・原作を担当して貰いたいワー(笑)。
 いかがでしょうか、白倉P? 必ずや、スケールの大きなオモロイ番組を作ってくださると、絶対的な自信を持ってオススメできます!(個人的には、SF小説『日本アパッチ族』(64)を映画化して貰いたい――高齢者ホームレスの急増、地方のさびれた商店街のスラム化が深刻な都市問題として表面化しつつある昨今、まさにアップ・トゥ・デイトな作品であると思いません?)


 尚、同試写会には原作者の小松左京氏も招待されており、1階中央の関係者席のド真中に鎮座しておられました。
 幼少のみぎり、本邦初(?)の実写+アニメ合成によるTVドラマシリーズ『宇宙人ピピ』(65年/NHK)のオープニング画面上に“作者”として同じく日本の第1世代SF作家・平井和正氏と連名で表記されていた「小松左京」という四文字を認識してから幾星霜、はからずも初めて小松左京翁の御尊顔を拝する機会に恵まれたのですが(束の間でしたけど)、その実像は数々の著書の表紙カバーに掲載されていた近影写真等で見慣れてきた恰幅のよいエネルギッシュな風貌とは印象を異(こと)にして、御高齢ゆえかスッカリ痩せられて、好々爺然とした柔和な感じのする小兵の老紳士に変貌されていました。



 原作の小松左京さん、あなたの小説と出会わなければ、わたしはいま、此処に立っていませんでした――(神妙に頭を垂れて)ありがとうございました!


 上記は試写会当日の樋口監督による舞台挨拶のパフォーマンスの中で唯一、私をシビレさせた一言です。少年期に熱中した作品の映画化に際して「監督」の大任を仰せつかるなんて、まさしく“オタク冥利に尽きるシアワセ”というモノでしょう――鳴呼(ああ)、最高のオタク人生哉(かな)!


 「商業映画監督」としての立場上“大衆受け”を意識して、柄にもない付け焼き刃の幼稚なヒューマニズムで粉飾した偽善的なメッセージではなく、憧れの「恩師」とも言うべき小松左京先生に捧げられた衒い(てらい)のない謝辞と純粋なリスペクトの念こそ、永遠のオタク少年・樋口真嗣クンの真骨頂なのだと私は信じたい。


 願わくば、次回作には待望の《大怪獣決闘映画》を――平成ガメラ・シリーズ三部作では、遂に凌駕することが叶わなかった『サンダ対ガイラ』を超えてゆけェェッ!!


(↑ DVD『地球攻撃命令 ゴジラガイガン』(72)のオーディオコメンタリーの中で、樋口氏は『ガメラ 大怪獣空中決戦』(95)の撮影に当たって、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(66)をテキストにした――と言明しておられます。思えば自衛隊ガメラをフォローするに至るドラマの過程は、サンダが人間の味方だと認識されるまでのシチュエーションに酷似していますね)


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2006年初夏号』(06年6月18日発行)に大幅加筆~『仮面特攻隊2007年号』(06年12月発行)所収)


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朝日新聞 2006年10月24日(火) 月間追悼欄・俳優 丹波哲郎さん アクの強さと優しさと 


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