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へんしん!ポンポコ玉 〜70's性転換ジュブナイル


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(1973年 TBS・国際放映

へんしん!ポンポコ玉 ①

(文・Y.AZUMA)


 ホームドラマチャンネルで08年1月16日から放送が始まった。
 往年の日曜夜7時、タケダアワー枠で放映された作品。全15話。同枠の特撮変身巨大ヒーロー『アイアンキング』(72)の後番組でもある。


 これを見ていた頃は、私は中学生。真剣に見るには年を取り過ぎ、楽しんで見るには若すぎる年齢だった。
 ただ、チョロチョロ見た記憶では「ずいぶん殺伐とした造成地でのロケーションだな」と思ったことくらいであった。


 さて、見てみた。
 私事で恐縮ながら妻とも話した中で感じた印象は、「二十一世紀の精神性のプロトタイプ」というものである。
 以下、順に考えてみる。 


・二十一世紀の精神性のプロトタイプ
【大人たち】

 妻によると、まず出てくる大人たちが、「変」なのだそうだ。


 男の子の父親(演・砂塚秀夫)は、サラリーマン。母親(演・小林千登勢)は教育ママ。
 女の子の父親(演・堺左千夫)は、漫画家。母親(演・姫ゆり子)は出版社勤務。


 ともに強烈なカリカチュア(戯画化)をしているが、原典であるモデルは日常的に存在している。


 そして、お向かいの夫婦。「前の家の子どもたちがおかしい」と常に双眼鏡でのぞいている妻・鵜之目タカ子(うのめ・たかこ。演・塩沢とき)。そして、平日の昼間からパジャマを着て家に居続けている何をしているか分からない夫・鵜之目トビ夫(演・鮎川浩)。
 これは一歩間違えると、「心の病」の人である。最近、テレビでも良く出てくる「ご近所迷惑おばさん」の一歩手前である。
 それに、出てくる人たち、みな「心の病」の一歩手前。二十一世紀に心療内科に行ったら何らかの診断結果の出る人たちではなかろうか。 

【子どもたち】

 二十一世紀の今となれば、何で彼ら彼女らがそれぞれの「性」を取り替えたいか分からないであろう。


 何しろこの時代はまだ、
 「男だから強くなければならない」
 「女なら自分の意見を言わず、親に夫に子に従っていれば良い」
 「男のくせに編み物なんて」
 「女だてらにサッカーなんて」
 と言った強烈な縛りがあり、それを維持する権威があったのである。
 「ポンポコ玉」がなければ、その束縛から逃れて自由を得られることはなかったのだ。


 こんな中で生きている子どもたちは、大人たちの作り上げた世界で汲々としている。
 勉強が不得意で活発な女の子、運動が不得意だけど勉強が得意な男の子。
 ともに生きづらい状態から逃げ出す方法として考えたのが「異性になりたい」という結論。


 これがテレビの中では行われた。自らを縛っている因習を互いの性差に置き換えて、より過激に振舞うことがカリカチュアとして面白かったのだろう。


 しかし、ここに描かれている少女は、ある意味、痛々しい。


 「暴力」こそ振るわないが「威圧」と「権威」で存在する父親、「忍耐」と「服従」だけで生き続ける母親、この二人は、それらでのみ家庭内のコミュニケーションを行っている。
 そんな会話の成り立たない両親の元で育った少女は、単なる「暴力」でしか対話の出来ない存在になっている。そんな少女が大人になった類例は、二十一世紀のテレビのニュースやワイドショーの中でゴロゴロしているのは、皆さん、ご存知の通り。


 男性も同様である。


 母親の一方的な言葉のシャワー「勉強しなさい勉強しなさい勉強しなさい」の中で育ってきた男の子は、それに対する方法として、「迎合」「反発」「無視」しかできない。
 家庭内でそれしかコミュニケーションの方法を教わっていない彼らが新しく家庭を作っても、下手をすれば結果として「法廷(家庭裁判所、悪ければ東京地方裁判所)での争い」になりそうな気がする。


 さて、現実世界ではこの少し後、「中ピ連」が登場し、大暴れしている
 (知らない人はネットで調べて。――編註:当該語句をクリックすると、はてなダイアリーのキーワード辞書で意味が判りますよ〜・笑)。
 その結果というわけでもないが、「性」を変えることでは何も問題は解決せず、どうしようもないことが判明してしまった
 (反対に「男性」がさまざまな点で不自由であることも見えてきた)。
 そしてその後、二十一世紀に至るまでさまざまな問題が発生することとなる。


 「男だから強くあれ」「女ならたおやかであれ」というレッテルは、どちらにしてもはがれてしまい、現代に至っている。
 テレビのドラマでは現実社会を面白く見せるためにストーリーや世界観を誇張するものである。偶然にも『ポンポコ玉』の誇張された世界は、たまたま現実の未来とある意味シンクロしてしまったのだ。 


・舞台となった東京近郊の新興住宅地

 舞台となったロケ地は、たぶん現・神奈川県川崎市宮前区宮崎や東京都町田市つくし野の周辺。当時はまだ全く開発中の分譲地である。
 このあたり、東急田園都市線(渋谷駅−神奈川県の中央林間駅)や小田急線(新宿駅−神奈川県の小田原駅)の沿線で、戦前までほとんど何もなかった場所。電車が通って初めて開拓されたところだそうである。
 ここには、「戦後」というか「高度成長期」に日本全国に広がった「都市近郊・郊外の新興住宅地」のプロトタイプが見えるのである。


 それ以前からあった因習まみれの農村・山村・漁村からも、また下町の世話焼きのおじさんおばさんたちのいる長屋世界からも、また戦前からの文化住宅群(『サザエさん』(46〜)を想定してほしい)からも切り離され、兄弟以外の二親等以上の家族・親族との交流や、学校や地域社会といった環境もない世界である。


 この作品の5−6年前に制作された『コメットさん』(67・http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20070520/p1)には、曲がりなりにも地域や親兄弟以外の親族や学校が描かれていた。


 しかし、ここの世界では、互いの接点がない。あるのは、同じ住所と番地であることと同じ学校に行くことくらいなものであろう。
 まるで星間移住用の宇宙船の乗組員のように相互の関連性が薄い。


 同じ時期のほとんど似たような新興住宅地をモデルに描いた『おくさまは18歳』(70)では、一対の夫婦を描くために彼らの周辺の人間関係(勤め先すなわち通学先の学校の先生・生徒、近所の商店の人たち、隣の住人)が満遍なく描かれていた。
 これは「大人社会での付き合い」という必然的な接点があるから必ず描かれる部分である。
 しかし、中学生以下の場合、極端に「社会性」(社会との付き合い)が少ないのだ。これは、現実社会でも同じであろう。


 世田谷区岡本あたりを舞台にした『コメットさん』と多摩川ひとつ隔てた川崎市では、これほどまでに差があったのだろうか。 



 とにかく、この世界、この後に発生する東京近郊、そして日本全国のさまざまな事件(金属バット殺人事件や引越しおばさん事件などなど)の萌芽が見られる。
 作った側は、そんなことを全く意識せず、その時に想像できる「面白い事態」を絵にした訳である。
 しかし、この「面白い事態」は、すべての同時代人の心の中に共通するものであり、その中の突出した部分や人物がその時代を象徴する事件を起したのだと思う。
 このドラマには、その姿が計らずも描かれていたのだ。


 とすると……、今テレビで流されている、つまらなーく、くーだらない、視聴率狙いで、そして低視聴率で打ち切られるドラマの中に、実は未来の矛盾と問題が描かれているのではなかろうか。
 まあ、その中のどこがその部分かを見抜ければ、苦労はしないんだろうなぁ。 

(了)

へんしん!ポンポコ玉 ②

(文・C.AZUMA)
 ホームドラマチャンネルにて放送、1973年製作。


 中学3年の陽一と中学2年の百合(ゆり)は言葉を話すタヌキのぬいぐるみペケペケから青と赤のポンポコ玉をもらう。
 10分間だけ男女の体を入れ替わることができるという不思議な力がある玉だ。ポンポコ玉を使う二人の周囲はいつも何かと騒がしい。


 本放送当時は、陽一君と百合ちゃんが入れ替わっても両親やクラスメートが気づかず、あるいは気づかせないようにするためのドタバタが楽しくて、短期間で終わったのが残念だった。
 東映不思議コメディーシリーズ(1981〜93)の先駆けだと思っていたのだが……


 DVD(2006・ASIN:B000J20URW)になっていたのも知らず、今回の再放送で久し振りに見た。
 第一回めを見た感想は、20世紀末から出てきた家庭問題の根はこんなとこにあったんだなぁ、だった。



 一話めから見てて感じるのは暴力への憧れと肯定。弱さの蔑視。
 私の考え過ぎで深読みなのかもしれない。
 73年当時、野球やサッカーは男子がやるものとされた。その他に女子というだけで、門前払いされるものが多かった。
 進学、就職で女子というだけで差別があった時代。
 だから百合ちゃんが男の子になりたいと願ったのは、単に野球やサッカーをやってみたいだけでなく、女というだけで可能性を閉ざされたくない、無意識にそんな気持ちがあったのだと思う。


 この08年4月からNHK−BS2で始まったライトノベル原作の深夜アニメ『アリソンとリリア』(マッドハウス)では、ヒロイン・アリソンがパイロットの設定。
 架空の世界だけど、作中で女の子はパイロットになれるはずがない、と言ってないし、見ている方も女の子がパイロットでも違和感ない。


 それに比べると『ポンポコ玉』の時代は個人の能力以前に男女で線引きがされている。
 女であることでハンデを負ってる世界(それは強烈な男性差別世界)にいる百合ちゃんは、自分の可能性を試してみたいという思いの他に
 「威張りたい、横柄な態度をとりたい、有無を言わさず他人を従えたい」
 があるようだ。



 彼女の父は家庭で、「オイ」といって過ごしてる。
 妻があれこれ気をまわして、食事や身の回りの世話をする。百合の母は、そんな横暴な夫につくすことに愛情と喜びを感じている。
 百合の父はそこそこ人気があるマンガ家、母は出版社勤務。


 母は仕事が好きで勤めているわけではなくて、夫の仕事が人気家業で収入が不安なため家計を補う必要性から働いている。夫の収入が十分であれば、家族のために辞めたいと考えている。
 百合の母からは仕事に対する誇りがあまり感じられない。女であっても仕事に喜びを得られるとは言わず、家庭を守ること(それは重要なことだけど)のみが女性にとって大事と娘に強要しているように見える。


 夫は「オイ」と言って妻を従わせ、それを愛情だと信じている妻。
 幸せな両親の姿を見て育った百合の男性観ってどうなるのだろう。想像するとちょっと怖い。


 また、百合の母は娘の転校先の学校には父親の職業は「画家」と報告している。
 マンガ家の地位が低く、画家の方がステイタスが高いから見栄を張ったとする演出なのか、家であれだけ夫のことを立てている妻なのに堂々と「マンガ家」と言わないところに、『ポンポコ玉』の世界のねじれを感じてしまう。



 もう一人の主人公、陽一君。
 彼の家は父親が料理や掃除を担当していることが多く、母親は息子に付きっきりで勉強の心配をしている。
 当時、マスコミで騒がれていた教育ママ。家事を切り盛りし、妻の意志を尊重する陽一の父は、息子の教育について何もいわない。
 陽一君が目指す男性像や家庭像ってどういうものになるのだろうか。



 『ポンポコ玉』のロケ地は、それまで何もなかった所を宅地にするため造成中の場所。
 地域の歴史からも縁が薄く、文字どおり新しく興された地域なんだけど、百合ちゃん達の秘密を暴こうとしている鵜ノ目タカ子さん、他人の家を双眼鏡で覗く、今なら迷惑オバサンの彼女は、戦前から続く婦人会らしき人たちと交流がある。


 夫のことを甲高い声で「あーた」と呼ぶ鵜ノ目タカ子さん。夫のトビ夫さんは平日の昼間も家にいて、パジャマで過ごしている。
 当時は珍しかった女性専用のサウナ付き美容サロンの常連さんらしいから、タカ子さんの家はお金持ちのようだ。
 無節操で常識を飛び越えた雰囲気を出すための演出かもしれないが、こういう人でも地域社会から孤立することなく、受けいられている。ここらへんを「ヘン」と思わないのが、当時の感覚なのだと、教えてくれた。


「原作のこと」

 タイトルバックには表記されていないが、サトウハチローの『あべこべ物語(原題・あべこべ玉)』(1932・昭和7。1975年に講談社少年少女文庫・ASIN:B000JBQ72K。1982年に講談社青い鳥文庫ISBN:4061471082)が原作だと思う。
 原作は戦前に発表されたので、不思議なポンポコ玉(原作では叔父からもらった赤い玉一つ)で入れ替わるのは、運平と千枝子の兄妹。
 兄・運平は千葉の伯父の家から通う中学(旧制の県立千葉中学)2年生、妹・千枝子は東京の実家の小学6年生。


 入れ替わった千枝子が経験する運平の生活は、今となっては旧制中学に通う少年たちの様子を伝えてくれる。
 なんていうか、女子の目がないから男の子だけでバカなことをしてる。やってることは小学生と変わらない。
 男の子だけのおバカ時間って、その後の人生に重要なんだぁと、最近しみじみ思うようになった。むかしは子どもの数も多かったから自然にもてた時間を、今は大人が意図してつくってやらなければならない時代になったみたい。


 原作・テレビ双方とも、男女が入れ替わり、体の感覚が変化していることには何も言及していない。特にテレビは、大人と子どもが入れ替わっても、いつもと同じ行動をとってることの可笑(おか)しさを強調している。


(了)
(初出・特撮同人誌『仮面特攻隊2008年春号』(08年4月20日発行)『近作評EXTRA』より抜粋)


編集者付記:

 編集者が住まうのも、まさに関東近郊、小田急線沿線の洪積台地の上にある新興住宅地(……最寄り駅は沖積平野にあります・笑)。
 といっても、昭和30年代後半〜40年代前半に造成された古い場所なので40年前後の歴史があるが……。
 造成当初は、バス通りも含めて宅地内の道路は、舗装されていない砂利道(ガタガタ道)であったそうな。
 編集者が物心ついた70年代初頭でも、展望一面が軒低き木造平屋(1階建て)の風景! しかし、70年代前半には増改築ラッシュがはじまり、70年代末には2階建てがほとんどに。今では住宅地の半数以上が80年代以降に鉄筋コンクリートの新築となってしまい、家屋に関してはずいぶんと風景も変わっている。むかしは木造家屋の延焼防止のためか(?)、空き地も各所にあって幼少時の雨上がりには泥んこ遊びなどをしたものだが、すべて新築物件と化してしまった。80年代初頭にも、隣接する台地に新たな新興住宅地が造成される。
 とはいえ、編集者宅も含めて、隣近所で自宅に仏壇や神棚がある家は、後年は知らず、むかしは見たことがなかった……という程度には、歴史や伝統を背負っていない土地である。
 もちろん住宅地の近隣には畑や田んぼや林などもあり、40人学級の1〜2人くらいは旧来から在住する農家の子息で、80年代前半くらいまでは茅葺き屋根の農家も存在し、地元の祭りも残っていた……という程度には、歴史や伝統を感じる機会・接点もあったのだが。


 悪い意味ではなく良い意味での「ムラ世間」、「地縁共同体」がらみの分析めいた話を、批評オタクはついついしたくなるが(汗)、それらについては下記の通り。
 古い住宅地なので、むかしは家と家の境い目が生け垣だったり、ブロック塀があってもスキマが作られていた。それゆえ隣家に出掛けたり回覧板を届ける程度であれば、玄関から出てオモテの道路を経由してお隣りの玄関のベルを鳴らすことはなかった。
 つまり田舎のように、南側のお隣りさんであれば、隣家の北側の台所のウラ口をノックして回覧板を渡してオバサンから三角錐の銀紙チョコをご褒美にもらい(笑)、北側のお隣りさんであれば、隣家の南側の縁側から直接に手渡し。
 しかし70年代中盤には、壁のスキマはコンクリで埋められ、生け垣もブロック塀に置き換わっていく。後年、聞いた話だと、土地の境界や権利の関係が不明確になるのは不適切なので、住宅街でいっせいに壁の北側の線を南側の宅地の所属とする取り決めで工事をしたとのこと。
 新興住宅地だけに当時の若い夫婦や同世代の子供たちが当初は大量に住まっていたので、隣近所の付き合いもけっこうあったのだが、転勤による引っ越しなどで1/3くらいは新しい居住者に入れ替わるに従い、隣近所との付き合いはウスまっていく、新参世帯のご家族とは目礼くらいならばともかくほとんどお付き合いがない、あるいは世代限定同士のお付き合いになってしまっている……というのが実情でもある。


 民俗学創始者柳田國男(やなぎた・くにお)の『明治大正史 世相篇』(1931・昭和6年・ISBN:4061590820)や、オタク第1世代=新人類世代(60年前後生まれ)の批評家・浅羽通明(あさば・みちあき)の『野望としての教養』(2000年・時事通信社ISBN:4788700638)。
 それらでも言及されている、明治大正であれば家屋におけるガラス窓の採光の進化による個室の発生や家族の分化、古今東西における土地私有の誕生や個室の分化に個人の読書、キリスト教会による庶民への懺悔(さんげ)の強制に伴う「個」や「内面」の発見・自覚化や、のちに至るいわゆる「近代的自我」、「自」と「他」の輪郭・境界感覚の歴史的変遷などを(コレが溶けちゃうと劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』(97年)の結末・笑)、非常に卑近なミクロなところに当てはめていけば、たとえ新興住宅地の数十年の歴史であってさえも、個別化・細分化の変化を免れてはいないし、いくつか語れることもあるだろうということで……。
 本作のキモはあくまで、名作映画『転校生』(82年)のような性転換ジュブナイルであって、そこからは逸脱した余談でした(汗)。