『ウルトラマンタロウ』#1「ウルトラの母は太陽のように」 ~人物像・超獣より強い大怪獣・母・入隊・ヒロイン・5兄弟の正統タロウ誕生を漏れなく描いた第1話!
『世界』1973年5月号『破壊者ウルトラマン』(大江健三郎・現ノーベル文学賞受賞作家)書評
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『月刊シナリオ』1974年8月号『我が青春のウルトラマンタロウ』(『タロウ』助監督・内海文三(現推理作家・打海文三))
(文・旗手 稔)
(2003年執筆)
「すくなくとも僕は破壊された都市の整理、再建の光景すらを、かずかずの怪獣映画のフィルムにおいて見たことがない」「ヴィエトナム戦争が終結すればヴィエトナムの破壊しつくされた都市と村、人間生活と人びとの心はたちまちフェイド・アウトし「名誉ある撤退」をする米軍兵士の画面にキッシンジャー、ニクソンの顔の大写しが重なって、ヴィエトナムは終わったというカタルシスの情緒をうけとるような、そうしたタイプの精神をそなえた、若い日本人が育ってきているとすれば、かれらのそなえるはずであった論理のリアリズムは、幼少時のうちに、自然の理性ともどもウルトラマンによって破壊されたのである」
第3回新人評論賞の選外佳作入選作品、内海文三(本名/荒井一作)の「我が青春のウルトラマンタロウ」を掲載。「我が青春のウルトラマンタロウ」は『世界』(岩波書店)1973年5月号に掲載された大江健三郎の「破壊者ウルトラマン」への「現場からのリプライ」として書かれたものだ。
「僕は「破壊者ウルトラマン」に圧倒された」
「一九七三年一月以来、実作の過程でなんとかして「ウルトラマン」を弾劾してやろうと狙い続け、「破壊者ウルトラマン」に接してからは更にその想いがつのったのだが、「ウルトラマン」の背中に小石を投げつけることもできなかった。だから紙に書いて弾劾してやる」
「小石をなげつけることさえかなわなかった僕でも、「破壊者ウルトラマン」に勇を得て、弾劾する」
内海が弾劾してやろうと狙い続けたもの、それは「ウルトラマン的現実」が「怪獣的現実」を打倒するウルトラマンシリーズの「宿命的路線」のことである。「怪獣」とは「戦争、核兵器、公害、人種差別、等々から嬰児殺し、教育ママゴンに至るまでの、現実的恐怖・怪獣的現実が、生物的形態をとって非現実化されたもの」であり、「ウルトラマン」とは「ウルトラマンに助けて欲しい」「ウルトラマンに来て欲しい」という「非現実的願望」が「虚構の中で現実化されたもの」だ。
「怪獣が何らかの正当性をもつ時」「大事なところでいつもウルトラマンタロウが現われ、事柄の本質をアイマイなものにしてしまう」 ……内海は実作の過程ではこの「宿命的路線」に弾劾はおろか、「小石を投げつけることもできなかった」と言う。内海が紙に書いた弾劾に耳を傾けてみよう。
「もし僕らが僕らのメッセージを確実に子供たちに伝えたいならば、ウルトラマンを原理的に殺してしまうことだ」
「ウルトラマンはヒーローとして最強者であり、怪獣と闘い、これを倒さねばならない。この宿命的な路線は決して外すことの許されないものである。だから出来るだけハデに怪獣と闘って、怪獣を徹底的に痛めつけ、木端微塵に破壊することが望ましい。宇宙へ返してやるなどという中途半端なことはしない方がよい。そして他方において、現実の不幸な世界を提示すること。ウルトラマンが勝とうが負けようが、ウルトラマンとは無縁に、しかし怪獣とは関わりをもつところの、厳と存在する世界を提示しうるならば、僕らは九分どおり成功したことになるだろう」
「ウルトラマンに助けて欲しい」という「非現実的願望」の原理的殺害。そして内海は第11話「血を吸う花は少女の精」を「そうした地平を切り開いた作品」だと評価する。
「バサラを、いとも簡単に屠ったウルトラマンタロウは、かよわい少女の不幸をさえ救うことができない。もちろん、捨て子塚にこもる無数の嬰児たちの怨念とその具体的な不幸になど、指一本、触れることもできないのだ。このようにして、怪獣出現=大いなる恐怖→ウルトラマンの活躍=豊かなる安堵、という自然の理性破壊のカタルシスの体系(破壊者ウルトラマン)は突き崩されざるをえない」。
「「タロウに助けて欲しい!」のは現実であり、「タロウは現れない。」のも現実」 ………内海は終始このような視点から『ウルトラマンタロウ』を、否「ウルトラマン」を論じる。弾劾というだけあって、その論旨は批判的である。
最終回「さらばタロウよ! ウルトラの母よ」で描かれる人間主義も、内海はこう斬って捨てる。
「人類は怪獣や悪い宇宙人に包囲されて滅亡の危機に瀕しているのだから、ウルトラマンタロウがこの世から消えることでは問題は何も解決しない。僕らはただ、現実に、ふりだしに、立ち戻ったにすぎない」
「怪獣なんているわけないし、もちろんウルトラマンだって本当はいないんだってこと、君たちだってよく知ってるじゃないか。だから困った時にウルトラマンに来て欲しいなんて考えちゃいけないよ。自分の力で努力してみなくちゃ。それが人間というもんなんだよ。そう言ったところで、夢から醒めた時、怪獣的現実に立ちすくんでしまう子供たちをふるいたたせることはできない。子供たちは人間的に怪獣と闘う例を知らない。本当のことは何も知らされていないのだ」
東光太郎(主人公青年)「この地球は人間の手で守ってみせる! ……よく見ておくんだ。人間には知恵と勇気のあることを……」
「この言葉は、その時じっと聞き入っていたほかならぬTVの前の子供たちによって、必ずや復讐されるだろう」
内海は言う。「ウルトラマン」のドラマは「怪獣的現実」に立ち向かっていくための「知恵と勇気」を何も知らせてはくれなかった。「ウルトラマン」に出来るのは「現実の不幸な世界を提示すること」だけなのだ。内海はそんな「ウルトラマン」を激しく弾劾する。だが、それは内海の「ウルトラマン」に対する愛情の裏返しでもある。
「僕が、ウルトラマンタロウを激しく愛したからこそ激しく憎むこともできたのだ、と言うならまるで子供じみていると笑われるかもしれない。しかし、思い返せば罵詈雑言を浴びせることしかできない僕に、僕は、ウルトラマンタロウを愛していた僕を感じる。僕は大人たちの中にも子供たちの中にもいなかった。一般的には造る側にあり、客観的には決してそうではない僕自身を、文中、「僕ら」と称したのも、こうした理由による」
「我が青春のウルトラマンタロウ」を内海は「破壊者ウルトラマン」への「現場」からの返答として書いた。内海が「大人たちの中にも子供たちの中にもいなかった」のは、彼が「造る側」にいたからだ。「大人」でも「子供」でもない内海には、「宿命的な路線」に拝跪するしかないウルトラマンタロウがとても愛しいものに思えている。そこには「宿命的路線」に「小石を投げつけることもできなかった」フリー助監督・荒井一作の無力が投影されていたかもしれない。
ところで、『ウルトラマンタロウ』の次に制作された『ウルトラマンレオ』(74年)では、大江の「破壊者ウルトラマン」を意識したような作劇が試みられている。
「ゆっくりつなげながら持続的に論理を展開して行くと、どうしても都合の悪い、単純に整理しがたい現実が頭をもたげてくる。その論理の進め手にたいして、それ自体が自己否定を迫るような新局面が、論理のつながりのうえであらわれてこないわけにゆかない。リアリズムは、芸術家にそのような自己否定を契機にして、より大きい芸術家へと自分をつくりかえしめるところの方法であった。もしリアリズムによる怪獣映画がありうるとすれば、それはまず、科学の悪、科学のもたらした人間的悲惨をも担いこんでいるウルトラマンこそを描きださずにはおかなかっただろう」
「しかし現実の怪獣映画は都市の大破壊の後、ただ説明もなにもない場面転換ですべてを水に流すことによって、ウルトラマン的超科学スターを聖化しつづけている」
『ウルトラマンレオ』は「正義としての科学の威力」を放棄し、もっぱら「科学の悪、科学のもたらした人間的悲惨をも担いこんでいるウルトラマン」の姿を描くことに専念している。「ウルトラマン的超科学スター」は、ここでは「科学の悪」に故郷を滅ぼされた「人間的悲惨」の生き証人へと姿を変えているのだ。
「広島においても長崎においても、原爆後の人間の営為に関して、もっとも感銘深いのは、そこで人びとがいかに彼自身を再建し、都市を再建して行ったかのいちいちの現実的細部にほかならない」――。そして『レオ』がシリーズを通して提示したのも、「怪獣災害後」の人びとが「いかに彼自身を再建し、都市を再建して行ったかのいちいちの現実的細部」だった。
「すべてを水に流すこと」をやめた『レオ』は最終展開において、「その論理の進め手にたいして、それ自体が自己否定を迫るような新局面」をそこにもたらすことになる。すなわち、「ウルトラマンに助けて欲しい」「ウルトラマンに来て欲しい」という「ウルトラマン的現実」の「自己否定」。第2次怪獣ブームの終焉、及び怪獣映画冬の時代の到来は、外的要因(第一次オイルショックによる製作費の高騰)と内的要因(ウルトラマン不要論)の双方において決定付けられていた。
我が幼年期のウルトラマンタロウ
(文・T.SATO)
(1990年執筆)
人間はやはり、まず時代や環境に制約されているのは間違いのないことで(それをある程度超えることもできるが)、自分ではウルトラワールドによる悪影響は受けていないと思っていても、どっぷりと漬かっていて、客観的にはそれが分からないのかもしれない。
そういう意味で、『ウルトラマンタロウ』(73年)研究同人誌『ウルトラ怪奇大怪獣図鑑』(87年・スタジオパンドラ・新藤義親)に再録された、第1期『ウルトラ』世代ともまた違うスタンスによる論考。長い間、幻であった『我が青春のウルトラマンタロウ』(月刊シナリオ・1974年8月号)の内容は興味深い――ケイブンシャの子供向け豆百科『ウルトラマン大百科』(78年・ISBN:476691564X)の「うらばなし」でも紹介されていたアレですョ――。
本作の助監督でもあった執筆者・内海文三(うちうみ・ぶんぞう)氏は、『タロウ』に思い入れながらも、我々特撮マニアに比べるとウルトラワールドのお約束事にとらわれず、いくぶん外部よりで客観的に見ている。
その内容の一部を、失礼を顧みず未読の人に分かりやすくおおざっぱに説明すると、ウルトラワールドにおいて、怪獣になんらかの正当性(公害、社会問題)がある場合、ヒーローが怪獣を無害にしたり宇宙の彼方に返すのは、一見ハッピーエンドのようで、実は本質的な問題の棚上げ・先延ばしである。ならば怪獣はスッパリ倒してしまって、しかしそれでも残ってしまっている怪獣を生み出した現実、超人による解決のあとに残る解決していない現実を子供にたたきつけるべきだ、という趣旨の主張を論文の内容のひとつにしている。
そして、その模範的回答として、#11『血を吸う花は少女の精』(脚本・木戸愛楽(=大原清秀))を内海文三氏は提出している。
しかし本放映当時、幼児だった者の氏へのリプライ、ひとつの回答として、この話を視聴して、現実の重さや社会問題を感じとったかといえば……、筆者個人に限定して云うなら、残念ながらそれはなかったと答えざるをえない――70年代末期の第3期『ウルトラ』ブーム時、小学生時点での再放送視聴では、本作に幻惑感を覚えはした。しかし、怪獣を倒しても解決しない個別の少女の境遇を認識こそすれ、育児放棄や捨子や水子供養といった社会までに拡大した問題としてこれを認識したかといえば……、それはやはりない――。
ただし、この話に関してはそうだったということで、内海氏の提起した問題――怪獣打倒後も残る社会問題――は非情に興味深い。我々も検討してみなければならない問題でもあるだろう。
内海氏の論に対する反証として、現実世界での問題が解決していないアンハッピーエンドの初代『ウルトラマン』(66年)#23『故郷は地球』(脚本・佐々木守)、『帰ってきたウルトラマン』(71年)#12『怪獣シュガロンの復讐』(脚本・上原正三)を例に挙げてみることもできる。だとしても、『ウルトラ』シリーズ全体としては、やはり氏の疑問の有効性は残ってしまう。
しかし、それはそれとして、筆者の経験から言わせてもらえば、子供番組で、社会問題をヒネリなくメリハリの抑揚なくストレートにマジメに提示したとしても、あるいは全編にテーマを漂わせたとしても、10代に達した少年ならばともかく、それ以前の時期の子供には、深刻な現実というより、単に作風がクラいだけのタイクツな印象しかもたらさない場合が多い。結果的にインパクトが薄くなってしまっている。
ならば、子供番組で社会的問題やテーマを訴える、完全に理解させられないまでも、せめて印象を強くして心に残したい場合、娯楽作品としても徹底的に子供を引き付けて楽しませ興奮させておいて、その上でラストではじめて大ドンデン返しで、クラさや違和感や不穏感を醸し出して、その対比・落差で、子供の印象に残す、といった巧妙なテクニックが必要になってくると思う。
子供はそれを理知的な言葉で説明することはできない。しかし漠とした不安、不吉な印象は残すことができると思うのだ。印象さえ強ければ、くりかえされる再放送でその話に注目し、小学校高学年になるにしたがい、その話の意味する社会問題やテーマを、完全でなくとも幼少時よりもよりよく理解するようになっていくことは充分ありうる。
例としては、筆者個人の経験で恐縮だが、幼稚園時代の再放送から、『ウルトラマンエース』(72年)#48『ベロクロンの復讐』(脚本・市川森一 http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20070402/p1)中盤の活劇性とラストシーンの後味悪さの落差は印象に残っている。この話は小学生時代の早朝再放送でも、何だかカッコいいとクラスや登校班で話題になったし、再現ごっこ遊びも行なったものだ。
件の『タロウ』#11ラストも小学生ともなれば印象的ではあったが、子供間で長期間話題にして語り継ぎやすいカッコいいタイプの話ではなかった。ともすれば、『エース』#48は、その点をクリアした子供にもアピールできた成功作ではないか? とはいえ、『タロウ』#11も異色作としてとても優れていることに筆者自身も異論はないし、むしろそのことを強く主張したくさえある。
真に解決されえない社会問題のことはともかくとしても、巨大ヒーローの存在が問題解決過程においてもたらすビル破壊の犠牲、防衛隊の存在・行動の結果的な無意味さといった次元のことならば、小生意気な小学校中学年ともなれば、誰もがクラスメートのそれに対するツッコミを見聞きして、そして我々自身もそれにチャチャを入れてきたことだろう。
これらの矛盾を『タロウ』の劇中においても、前者のビル破壊の犠牲は#38『ウルトラのクリスマスツリー(シナリオ原題:タロウのクリスマスツリー)』(脚本・田口成光)において、後者の防衛隊の存在疑義は#29『ベムスター復活! タロウ絶対絶命!』~#30『逆襲! 怪獣軍団』前後編(脚本・田口成光)の前後編において、テーマとして扱っていることを本論文は正しく指摘もする。
だが内海氏は、前者を少女の境遇の設定に留まりテーマに昇華しておらず、後者もやはり不充分だと批判する。
内海氏のその主張はそれかぎりではそれなりに正しい(筆者はこの2本の評価、特に前者については最終的には同意しないが)。
しかし、巨大変身ヒーローが出てくる虚構世界に、根本的な大ウソ・約束事があるのは間違いないのだが、しかしあらゆるジャンルのドラマ・フィクションにも突き詰めれば矛盾してくる約束事・大前提から逃れることはできない。
このお約束を突き詰めて、少し崩してアンハッピーエンドにしてみせたときは、それなりの異質な余韻・文学的興趣を、場合によっては社会問題提起の感慨を、たしかに得られるであろう。
けれど、内海氏が主張するように、お約束を徹底的に崩してしまった場合、たとえばウルトラマンが地球や人々のピンチに最後まで出現しなかった場合、それは本当に名作ドラマたりうるのだろうか? ハッピーエンドにしろアンハッピーエンドにしろ、内在している要素要素が有機的に結び付いた音楽のごときドラマの最低限の心地よさを、まずなによりも味わえなくなってしまうのではなかろうか?
映画制作・作劇上のセオリー・パターンを徹底的に崩しているなどの理由で、作品がもてはやされる時代。内海氏もまた、その点で大学紛争などの左翼的思潮、常識破壊的なものをあまりに無邪気に単純に礼讃する70年代初頭の政治・文学状況に制約されていたと筆者は考える。
もちろん、徹底的に崩した結果を見切ってしまった(?)現在の状況における筆者はおのずと別の考えを持つ。徹底的に崩すとドラマではなくなってしまうこのジレンマ。それは回避しつつも、それでも作品自体がはらむ矛盾にあえて触れることは、製作者のそれなりの良心の発露であるともいえる。たとえ欺瞞や超越的解決で中途半端に終わってしまうのだとしても、巨大ヒーローものがはらむ矛盾を話に組み込んで仕立てあげてみせることは、問題や矛盾にまったく触れないよりかはいいともいえると思う。
もっと厳密に云えば、内海氏の論法を、現実の巨大ヒーロー番組に適用するなら、ヒーローの激闘の犠牲者である#38のひとみのような少女は多数いて、彼女らも毎週登場してヒーローを弾劾すれば矛盾はない、スジは通るといえるかもしれない。
しかしはたして、そんな番組が娯楽作品として、そして子供にとっても面白いものであろうか? それではやはり、矛盾は棚上げして、徹底的に無視をしてみせようか? それもおかしいだろう。すると必然的に、どう扱えばいいのかが見えてくるような気がする。
※:青二才のころの文章。こんなにも短い文章だったかなぁ?(汗) 私事で恐縮だが、1990年の冬コミ、各誌に投稿しまくったのが編集者(=本ブログ編集者)の同人誌デビューであった。この当時の文は若書き・習作以前で再録に値しないが、この文だけはぎりぎりセーフ? でも、記述も内容も展開もアマい(泣)。あるいは、遠まわし表現の思わせぶりっ子をすれば高尚であると勘違いしている(笑)。けれども、恥知らずで悪趣味にも再録。ただし、今読み返すと、原文は、“てにをは”や、句読点、文章の切り方や、改行ゼロ、接続詞の考慮、文法などあまりにもデタラメで、そこについては推敲。助詞や助動詞や補助的な語句もやたらと漢字で表記していてシロウトくささが全開。相対的に重要な語句の漢字が見た目、地の文に見事に埋もれていたので、ひらがなに書下し。説明不足の記述も、若干の補足を施しました(汗)。
(初出・特撮同人誌・假面特攻隊別冊『ULTRA SERIES』(90年12月23日発行)〜特撮同人誌『仮面特攻隊2004年号』(03年12月29日発行)『日本特撮評論史』大特集「我が青春のウルトラマンタロウ」書評・合評②に収録より抜粋)
『假面特攻隊2004年号』「我が青春のウルトラマンタロウ」関係記事の縮小コピー収録一覧
・『シナリオ』(岩波書店)1974年8月号 第3回新人評論賞最終審査発表 入選なし・選外佳作「我が青春のウルトラマンタロウ」 全文採録
※:内海文三(うちうみ・ぶんぞう)のペンネームの由来は、日本近代文学の祖・二葉亭四迷(ふたばてい・しめい)の『浮雲(うきぐも)』(1887(明治20)年・asin:4003100719)の主人公からと思われる。要は漱石(夏目漱石)や太宰(太宰治)の小説の主人公や、ジャンル作品でいえば『機動戦士ガンダム』(79年)の主役アムロや『美少女戦士セーラームーン』(92年)のセーラーマーキュリー水野亜美、『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)の主役・碇シンジ、最近であれば小説『NHKにようこそ!』(02年・asin:4048733397)とかの、内向的でイジイジした主人公の日本における元祖キャラ(笑〜もちろん諸外国にもヘルマン・ヘッセの『車輪の下』(1906年・asin:4003243528)やドストエフスキーの『地下室の手記』(1864年・asin:4102010092)など同類型のキャラは存在しますけれども)。
*:打海文三氏は、80年ごろまで作家を目指しつつあまたのTVドラマの助監督を務めたあと、92年に作家デビュー。健筆をふるい、2007年10月9日(火)午前4時、心筋梗塞にて逝去されました。享年59歳(お若すぎます……)。合掌。
なお、論文「我が青春のウルトラマンタロウ」によれば、『タロウ』最終回の予告編のナレーション「『ウルトラマンタロウ』に捧げたこの1年〜」は、打海(内海)本人の筆によるもの。TVドラマの予告編は一般的に助監督が作るという通例になっているそうなので、おそらく『タロウ』全話の予告編の文句は、助監督である打海(内海)が執筆したものではないかと思われる。
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