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『コメットさん』'67 〜疎開児童の夢の結晶1
(文・Y.AZUMA)
(2005年11月執筆)
感慨とともにあらすじ
長生きはするものである。21世紀も五年目のこの時期に、CS放送・チャンネルNECO(ネコ)でなんと『コメットさん』(67・TBS・国際放送)がかかってしまった。
四十おじさんには懐かしくも面白いドラマなのだが、この題名で大場久美子(2代目・78)や前田愛(3代目・TVアニメ版・01)しか出てこない諸兄も多いと推察するので、念のため簡単に内容紹介。
β星の魔法使いのおねえさん・コメットさん(九重佑三子・ここのえゆみこ)は、イタズラ好きでおっちょこちょい。イタズラが過ぎて魔法学校の校長先生(声・八木光生)に「おまえなど地球へでも行ってしまえ」との言葉とともにロケットにくくり付けられ、地球に飛ばされてしまう。
地球に着いたコメットさん、大学の先生の父さんと翻訳者で同時通訳の母さんのいる河越家にお手伝い兼家庭教師として住み込むこととなる。
ここの家にいる二人の男の子・武と浩二の兄弟もコメットさんに負けず劣らずのイタズラッ子。毎回現われるさまざまな人たちを巻き込んでどんな愉快なお話になることやら……、といったところ。
ところが実際にほぼ40年振りに見てみたら、当時は全く思いも寄らなかった三つの点に気がついた。その点について報告。
想像の未来・現実の未来
まず、40年前のファンタジーは21世紀の現実だったということ。
コメットさんの住み着く河越家。東京の郊外の住宅地に建つガレージ付きの一戸建て(ついでにブルーバードもある)。両親とも高学歴のホワイトカラー。二人の子育てには何かと手が足りない。そんな生活はけっこう私たちの周りに転がっている。
この世界、当時の人にとってはかなり遠い世界だったのではないかと推察する。
この作品が製作・放映された67年(昭和42年)当時の日本は貧乏だった。今の中国の都市部よりも経済的には貧しいはずである。なにしろ首都圏に住む人々は公団住宅のあの手狭な2DKに憧れていた時代。
そんな状態の中で両親が大学教授と通訳、閑静な一戸建てでマイカー付きなんて言うのは一種のファンタジーである。この時代の製作者たちは皆「こんな生活だったらいいな」と思ってこの世界を作ったのではなかろうか。
さて、それから40年。
世の中はここで描かれた世界にほぼ近づいてきたようだ。庭付き一戸建ては無理だけど、コメットさんが住んでいる魔法で綺麗にした部屋にはもう「憧れ」も「羨望」もない「日常」の延長になった。河越さんちの67年型ブルーバードも「随分小さいな。銭ブルは」と気楽にのたまえる生活をしている。
(編:銭ブル:アニメ映画『ルパン三世 カリオストロの城』(79年)で、銭形警部が搭乗したパトカーがこの車種。当時のアニメ誌が命名し、カーキチ含めて普及した愛称)
そうなると「ファンタジー」として描かれたコメットさんの世界が、夢の世界ばかりでないことに気がつく。
家庭のことは母さん任せ、子どものことはコメットさん任せの父さんなんかいい例である。妻からの「お父さん、子どもたちに何とか言ってください」という問い正しには「いいじゃないか。そのくらい許してやれよ。」と無責任に答える能天気な父さんは、戦前生まれの威圧的な頑固オヤジから戦中生まれ・戦後育ちで日本の敗戦により男性や父権が自信や権威を失って70年代以降に隆盛を極める、優しいけど頼りないマイホームパパがそろそろ登場し始めた時期である40年前のファンタジーなら、一種の理想的なパパのタイプとして「アハハ」と笑える。
しかしファンタジーならぬ現実社会の今の世の中、そういう父さんはあまた満ち溢れてしまった。
むしろ今度は逆にそれが行き過ぎて、お気楽な配偶者にイライラしているかあさんがいる家庭は周りを見回すとたくさんある。そんな21世紀に暮らしていると、鰐淵晴子さん演ずる竜子かあさんの不機嫌そうな演技は妙に身につまされてしまう。現実に引き戻されてしまうのだ。
その点で『コメットさん』は結果的に「真の意味での未来」を図らずも描いていたのである。
よく考えてみた。当時の製作者たちはたぶん30代が中心だろう。
ちょうど「少國民」と呼ばれ第二次大戦を子どもとして生き抜いた世代である。「戦争」の恐怖を文字通り肌で知っている彼らにとって「飢餓や暴力の影が存在しない平和な世界」は想像の上のものであったのだろう。
「ファンタジー」として描かれた『コメットさん』の世界は、二年弱の短期間で作られた架空の世界である。だが、現実世界で同世代の人たちは「飢餓や暴力の存在しない平和な世界」を戦後の数十年間の「日本」で本当に作ってしまった。
今、私たちはその中で生活している訳である。『コメットさん』も現実世界の「日本」もどちらも同じ世代の人たちが作ったものだから、そんなに違いはない。
それゆえ、子どもの頃、単純に「ファンタジー」として登場人物たちと一緒に冒険や笑いを共有した『コメットさん』の世界が、今見ると妙に「現実感」溢れる非常に「日常」的な世界にも感じてしまうのだ。
高価な玩具の昔の姿
そして、現実では全く価値の変ってしまったものが飛び出してくること。
とある回で、怪しげな大学院生の家庭教師(桜井センリ、絶品)に、子どもたちが騙されて、勉強を始める回のときのこと。両親が買ってきてくれた「おみやげ」を、「勉強が大切だからそんなのいらないよ。」と言って、武君と浩二君がちょっと惜しそうな顔をしながらも見向きもしないシーンがあった。
見ていて驚いた。おみやげのひとつはグローブ。もうひとつは怪獣のプラモデル、それもマルサン製の地底怪獣バラゴン(1960年代の東宝怪獣映画に幾度も登場した人気中堅怪獣)である。懐かし玩具屋に行くとウン十万円の値がついているバラゴンが映っていたのだ。
この世界、お話である。現実とは異なるフィクションなのであるが、元になる現実は存在している。
当時、親の期待に沿おうと考え、そのプラモが欲しくても我慢したり、諦めたり、意地を張って買ってもらわなかった少年たちの悲しい思い出は、値段をつけるとたぶんウン十万円になるのだろう。撮影当時、たぶん適当に祖師ヶ谷大蔵商店街の玩具屋さん辺りで小道具として買われたバラゴンのプラモは、40年経ってこんな形で中年おじさんたちの心の傷をうずかせたのである。
歴史の流れの中、妙なものが妙な価値をつけてしまうことがあるのだ。突然液晶パネル(ブラウン管ではない)に現われたバラゴンのお姿に度肝を抜かれたおじさんの実感である。
忘れた過去との邂逅
それと、40年前のファンタジーは記憶から消えつつある事実を伝えてくれること。
この間の回で、忙しさにてんてこ舞いのコメットさんが手助けする人が欲しくてマンガの中のキャラクターを現実に出してしまう話があった。
マンガの題は「金ばあさん」。たぶん、年寄りのお手伝い・金ばあさんがトンチンカンなことをするギャグマンガであったことを想定する。演ずるは武智豊子さん。「女エノケン」と呼ばれ一世を風靡したコメディエンヌである。
彼女の名演を見ていると飛んでもないことに気がついた。
金ばあさんが洗濯機の使い方が分からずに昔ながらの方法で洗濯を始める。その道具がなんと棒なのである。洗濯板ではない。40代の私の記憶や経験には全く存在しない棒なのである。生活の中にはなかった洗濯方法である。
この風習があるのは、日本ではない。朝鮮半島である。とすると、このおばあさんの出身地は……。名前は「金」さん。「お金」さんではない。名前ではなく姓だとしたら、彼女は朝鮮半島出身の女性のお手伝いさんだったということになる。
子供向け小説やドラマは、往々にしてその時代の少年たちの世界が描かれるのではなく、著者や製作者たちの少年時代の記憶が反映することがある。「コメットさん」の製作者の中にこの事実を記憶していた人が何も意識せずに表現したのではなかろうか(ひょっとしたら武智豊子さんの記憶かな)。
こんな事実は「黒歴史(くろれきし)」として葬り去られることすらなく、経験者が彼岸に至った後には何の痕跡も残さないですべて忘れ去られるはずの歴史的事実である。そんな過去の断片が白黒フィルムに残されているのだ。歴史の中で誰にも省みられることのなかった、そして、たぶん今後も省みられることのない幾万人の「女中さん」の姿が、この番組によって、少なくとも私の茶の間には現われたのである。
結論
「現実となった未来」と「日用品だった現在の宝物」と「忘れ去られるはずだった過去」が『コメットさん』の中には生きている。そんな作品は過去の懐かしさだけではない妙な発見をさせてくれるのだ。どうも毎週見逃すことの出来ない番組になってしまった。
『コメットさん』'67 〜経過報告 第20話からカラー化!
(2006年4月執筆)
途中経過を報告。
第20話でカラー化してから少ししたら、脚本が妙になってきた。起承転結が、ないのである。
主人公の腕白兄弟たちが妙なことを始めて、コメットさんやご両親が混乱に巻き込まれて、最後に魔法で問題を片付けて、八木光生演ずる校長先生にコメットさんが頬にバッテンくらっておしまい、というパターン。
「山なし落ちなし意味なし」という言葉の本来の意味を具現化しているような作品なのである。しかし、チャンネルを合わせてしまうのは、やはり面白いからだ。
考えてみれば、子どもは大人の監督下にある冒険者であり、その「日常」は起承転結などなく、尽きることのない冒険が続くようなものなのだ。
私たちは今、1967〜68年(昭和42〜43年)の冒険者たちの「日常」を遥か未来の世界から覗き見しているのかも知れない。その視点で見ると武君と浩二君の兄弟の演技は、少年たちの「日常」そのものだ。あんなに嬉しそうに楽しそうに「日常」を演ずるなんて、きっと天才子役だったのだろう。
『コメットさん』'67 〜経過報告2 シリーズ2年目「伊丹十三と坂本スミ子編」
(2007年2月執筆)
ほぼ一年間見続けた『コメットさん』(67)、最近見ていてどうも、調子がおかしい。
そう、伊丹十三と坂本スミ子編(第49話〜)になったら、全然面白くなくなった。脚本とか内容はそんなに悪くも良くもないのだけど、どうもすわりが悪い。
四十年前のスタッフも同じことを考えたか、妖怪とか海賊とか、やたらテコ入れをしたため、ますます収拾が付かなくなった(初期の頃の取り留めない少年たちの日常と夢がダラダラ流れていた頃のほうが良い。視聴率も良かったとか)。
そんな中、面白かった回。
インダストリアル・デザイナーで趣味人のお父さん(自動車のデザインを手がけている設定)、当時流行の8ミリカメラを買ってきて家族で映画を撮る話が出てきた。
お父さん役の伊丹十三が、映画の作り方の解説をたっぷりしてくれており、それだけでも楽しめる回であった。「若き伊丹十三監督、特撮映画を語る」といってもおかしくない映像だった。
全79話だからもうじきおしまい。次は何かな。
『コメットさん』'67 〜総括
(2007年4月執筆)
チャンネルNECOで、ほぼ一年半見通してしまった『コメットさん』(67)である。
まず、感じた結論をいくつか述べることとする。
1.後半の「面白くなさ」の原因
後半27本は、正直、面白くなくなった。この面白くなさは、「設定変更」が原因である。簡単に説明する。
49話以降、当初からのコメットさんの舞台であった川越家の家族(大学教授の父、翻訳者の母)や友人たちの設定が、すべて「なかったこと」とされた。武君・浩二君の二人兄弟の設定以外「全とっかえ」されたのだ。「テコ入れ」か「イメージチェンジ」か知らないけれど、父親役と母親役の俳優さんが入れ替えられ、名前と職業も全くの別人となり、住む家まで全く違ってしまい、おまけに友だちまでほぼ総入替。
このことが妙な座りの悪さとなった。
TVドラマ『奥さまは魔女』(64・アメリカ)だって、俳優の都合でダーリンの交代はあったけど、他の設定は変えてはいない。特撮TVドラマ『悪魔くん』(66・東映)の場合、吉田義夫さんの体調不良による悪魔メフィスト役の降板でも、配役交代とはせずに兄・弟で切り抜けている。
ブラウン管で慣れ親しんだ世界を送り手側が勝手に変更することは、見ている側にとってとんでもない「改悪」である。
例えば、子どものときに親の都合で突然別の町に引越・転校させられて、それも両親まで違っちゃったようなもの。これは精神的には大変に負担である。まして、それ以前と以降の間は何の説明もない。前半との脈略も繋がりも一切ない変更である。
これは言うならば、「作品世界のアイデンティティへの侵略」である。
「リニューアルならば、両親の海外赴任で、おじさん夫婦の家に一緒に住むくらいにすれば良かったのに」と妻。そう、前半とのつながりを何らかでも持続できれば良かったけど、それもなかったため、後半には「もらわれっ子」のようなよそよそしさが出始めた。
前半と何の関係もない後半世界の設計が、「面白くなさ」の原因である。
2.履歴の削除及び曖昧化
この改変でのもうひとつの問題点は、「経験した履歴が曖昧になった」点である。前半までに培われた兄弟の過去の履歴をすべて「宙ぶらりん」にしてしまったのだ。
ドラマ前半との関連性や繋がりがなくなったから、それまで積み上げられた「記憶」と「経験」が、いったんリセットされたのである。
いや、リセットならまだ良い。全く新しい場所で新しい『コメットさん』のお話が展開されるのだ。それはそれで納得がいく。
しかし、この場合、「お手伝いのコメットさんと二人兄弟の関係」と「武・浩二の兄弟の関係」だけのみ残されて、他はすべて「なかったこと」あるいは「どちらだか曖昧なこと」にされてしまった。過去の記憶がいびつに歪められるか、無慈悲な消去がされてしまったのだ。
視聴者もそうだが、たぶん演ずる側・脚本家たちも困ったはずである。
確かに本放送時、見ていた私も困ってしまった。コメットさんがいつ地球に来たのか、いつまでいるのか、どんな経験が記憶にあるのか、武君や浩二君がどんな経験をしたのか、これからの経験は何を経験するのか、それが現在と未来に生かされるのか、全てが曖昧になってしまった。
そのため、前半にあった家族の経歴を生かした話(父親が大学で教えている学生の話や、母親の仕事の関係で親しくなった外国人の話、クラスメートのお母さんたちの話)が、すべて「なかったこと」になったため、後半では同じような家族の属性や友だち関連の話がしづらくなったと思う。
それから、過去の記憶に依拠する話はもとより、未来に展開する話も面白くなってしまった(いつ「なかったこと」にされるか不安な気持ちが無意識によぎるからだろう)。
3.わずかに存在する後半の面白い回の理由
家族・友人・依拠する記憶・思い出になる経験などなど、それらを「封印」されたら、残るネタは多くない。「週単位で限定されるその場その場の面白い事件」と「通りすがりの変わった人々」の話ばかりである。
つまり、武君・浩二君・コメットさんそれぞれの「個人のその場の経験」に頼るしかなくなったのだ。「家族・親戚の歴史」「家族の属性の歴史」「学校生活の歴史」「地域コミュニティの歴史」が曖昧で不確実な世界の中、「確実なもの」は、あの三人の刹那的な感情のみになってしまった。
だから、それらをモチーフにしたストーリー以外で、記憶に残る作品は多くない。つまり、あの三人のところに来る突然の来訪者たちに彼らがかき回される話のみが何とか見られる作品になっていた。
しかし、前半の20話以降のダラダラした垂れ流しのような起承転結すらないストーリーでも、「家族・親戚」「学校」「友人」「家作」「地域コミュニティ」が背景にあって武君・浩二君の生活が守られていると思えるから、無意識に面白く感じるわけである。それをスッパリと全部取り去ってしまったら、その世界は精神の土台をすべて取り去った脆弱なものとなり、毎回、個人の精神のみに依拠する状態だから、後半は面白くなかったのだ。
当時見ていた記憶を振り返ってみても「借りてきた猫感覚」が抜けなかったものである。
大監督の卵・伊丹十三や大女優直前の坂本スミ子が俳優として下手だった訳では決してない。後半27話の脚本家・監督が悪かった訳でもない。後半の設定変更を判断した人物(おそらくTBS側の子ども向け番組全般を担当した名プロデューサー・橋本洋二)がシリーズ長期化に伴うマンネリ打破を企図した作品世界の一新を浅知恵(あざぢえ)で断行してしまったために、『コメットさん』後半の世界観を個人の刹那的経験の中に押し込めてしまったと推定する。
5.蛇足
では、蛇足。
「Me163さーん」(すいません。ミリタリーマニアだけわかって下さい)。
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