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緊急UP! 秋葉原通り魔事件 〜苦境下の人々へ ①
「ある小さな記録」 〜日本国民全員が真摯に受けとめねばならないもの〜
(文・久保達也)
(2008年6月執筆)
*08年2月27日
「負け組は生まれながらにして負け組なのです まずそれに気づきましょう そして受け入れましょう」
携帯電話の非公式サイトにそう綴(つづ)った25歳の派遣社員の男――加藤智大(かとう・ともひろ)容疑者――が、08年6月8日(日)お昼、東京のJR秋葉原駅付近の歩行者天国に2tトラックで突撃、跳ね飛ばしたり、ナイフで襲撃し、通行人7人を殺害、10人に重軽傷を負わせるという事件を起こした。
当日はNHKが『SAVE・THE・FUTURE(セーブ・ザ・フューチャー)』、日本テレビが『Touch! eco2008(タッチ! エコ2008)』と題し、環境保護を訴える長時間特番を組んでいたが、「地球にやさしく」「環境にやさしく」する前に、もっと先にやらねばならぬことがあるんじゃないのか?
秋葉原を拠点に活動するアイドルグループ「AKB48(エー・ケー・ビー・フォーティーエイト)」、そして、16時からの「渋谷エコライブ」に出演するアイドルグループ「Perfume(パヒューム)」をお目当てに(笑)、NHKをつけっぱなしにしていた中、随時流れていた事件の報道に触れ、そう思わざるを得なかったものだ。
翌9日(月)、テレビ朝日8時からの『スーパーモーニング』において、案の定、司会の女性アナウンサーは
「理解できない」
を繰り返し、元レースクイーンやホステスを務め、現在は女流作家であるコメンテーターは
「気持ち悪い」
とまで発言した。
そう、彼女たちは云わば「勝ち組」であるが、そんな連中が報道の中で、字義通りにまさに「不適切」、そして「無神経」な発言を繰り返すかぎり、この種の事件が絶えることはないだろう。
*08年6月5日 11時51分
「犯罪者予備軍って、日本にはたくさん居る気がする」
彼女たちの「負け組」「弱者」への「不適切」「無神経」な発言は、苦境にかろうじて堪えているそんな人々の「一線」を、無理解への反感や怒りでかえって軽く乗り越えさせてしまうほどの「起爆力」を持っているかのようであり、逆にこの種の犯罪を誘発しているかのように思えてならないのだ。
だからこんなふうに恨みをかうのだ。
*08年6月4日 0時55分
「勝ち組はみんな死んでしまえ」
番組は「いつ」「どこで」「誰に」殺されるかわからない恐怖を訴えるばかりであり、「いつ」「どこで」「誰が」犯罪者になってもおかしくないという視点がまるで欠落していた。
「誰でも(不遇な状況が重なれば)犯罪者に成り得る可能性がある」
そんな「想像力」に基づく共感・同情すら沸かないのであろうか? この種の事件が起こるたび、容疑者に対して「想像力の欠如」を非難しているわりには。
08年3月23日に茨城県土浦市で起きた通り魔事件の容疑者と関連させ、家庭環境や「秋葉原」「ゲームマニア」などと共通項を見いだしていたが、そうやって彼らを「特殊な連中」扱いしてしまっては、埼玉県内の連続幼女誘拐殺人事件の容疑者「M」が、89年に逮捕された当時に起きた、全マスコミあげての「おたくバッシング」と何ら変わることはなく、何の根本的解決にもならないのである。
アニメやゲーム、ミリタリーなどのマニアが罪を犯せばその者ばかりではなく、それらを嗜好する人々すべてが 「危険人物」扱いされる傾向がある。
だが、某有名大学のラグビー部員(アメフトだったか?)が婦女暴行事件で逮捕された際、某大学の学生や、ラグビー部員が「危険人物」扱いされることはまるでなかったのである。
「某有名大学」「ラグビー部員」といった「勝ち組」の価値は、その程度ではまったく揺るがないのだ。それどころか、「婦女暴行するくらいの方が元気があっていい」などと彼らを擁護する発言をした大馬鹿者(今回ばかりはこう書かせてもらう)の国会議員までいたくらいである。
負け組は生まれながらにして負け組。そして、勝ち組は生まれながらにして勝ち組。
いじめられっ子がボクシングの世界チャンピオンに成り得たなどという、それ自体は喜ばしいことだが、極めて「希有」な例を持ち出すのではなく、良し悪しといった価値判断は別にするが、生まれつきの知力・体力・気質・体質・容貌も含めて、このように一応の優劣が発生してしまうこと自体は厳然たる事実・現実として受け容れなければならない。
もちろんこの認識はそれだけで終わってもならない。
後天的にも自助努力によって、ある程度までは挽回したり人並み以上に持っていけることもあるだろう。
しかし、相手を鼓舞するつもりで、常に「やればできるはずだ」とまで断言してしまうのは偽善であり欺瞞である。劣った要素のすべてが、常に努力によって挽回できるとはかぎらないのだ。
その場合には、個々人の劣った要素に対して、努力や我慢不足であるといった批判・糾弾や、冷笑・嘲笑に小さなイジメもOKな態度を取るのではなくやはり、やさしさやいたわり、配慮にデリカシー、フォローや欠けたところへのお互い様の補い合いや助け合いが必要のはずだ。
閑話休題……。
「軽薄短小」、そして「ヤンキー」がもてはやされた、「忌まわしき」80年代に中学、高校、大学、「恋愛至上主義」に沸いた90年前後のバブル経済期に社会人となった筆者は、壮絶な「スクール・カースト」も経験しているし、恋愛はまったく成就することがなかったから、当時から自分は今で云う「負け組」という意識に支配されていた。
何を隠そう、今回の容疑者が携帯サイトに書き綴っていたようなことを、まさに若いころの筆者も考えていたではないか!
*08年4月25日
「恋愛を楽しめるのは25歳までだと聞いたことがありますけど、もうとっくに過ぎてしまいました。もっとも、不細工には恋愛する権利が存在しませんけど」
書き込み時期は不明だが、他にも女性や、恋愛に対する屈折した想いが以下のように記述されているらしい。
「隣の席が空いているのに座らなかった女の人が、二つ隣の席が空いたら座った。さすが嫌われ者の俺だ。
そういうことをされると、殺したくなる」
「おまえらは、そんな性格だから彼女ができないという。逆だよ。彼女がいないからこんな性格になったんだ」
「彼女がいない。この一点だけで人生崩壊」
「弱肉強食」の恋愛バトルの「勝ち組」には、やはりこれが「理解できない」のか? 「気持ち悪い」のか?
ちょうど彼と同じ年齢だったころ、まだ「ストーカー」なる言葉も一般的ではなく、「犯罪」として確立してはいなかった当時、筆者はある女性に対する想いを敵意に変え、それを大変恥ずかしながら軽微にやらかしてしまったことがある。
今なら笑い話(になるわけねーだろ!・笑)であるが、もとい大いに悔やまれることでもあるのだが(汗)、本来ならば「楽しい」ことばかりであるはずの「青春時代」(死語?・笑)に女性に相手にされなければ、やはり「敵意」を向けたくなるのはある程度自然な感情ではないのか?
今回の被害者の中に若い女性が二人(一人は死亡、一人は重傷)いたが、逮捕がもう少し遅かったら、本来ならばもっと多くの女性が犠牲になっていたのではないか……
*08年6月4日 5時51分
「親が書いた作文で賞を取り、親が描いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられていたから勉強は完璧」
*同日 5時52分
「親が周りに自分の息子を自慢したいから、完璧に仕上げたわけだ 俺が書いた作文とかは全部親の検閲が入ってたっけ」
当初の報道によれば、容疑者は小中学校時代は成績もトップクラスで、むしろ「勝ち組」であったかのような印象を受けたものだが、彼の告白によれば、それすらも「偽りの勝ち組」であったようだ。
青森県内随一の進学校に入学した彼は、やがて成績が急降下する。
*08年6月4日 5時57分
「高校出てから8年、負けっぱなしの人生 悪いのは俺なんだね」
生まれてから四十年、負けっぱなしの人生(爆)の筆者であるが、それでも「8年くらいで甘えてんじゃねーよ!」などと一喝する気にはとてもなれずにいる。
決して8年ではない。やはり生まれてから25年、負けっぱなしの人生ではなかったのか?
親の意向を受け、彼の弟は見事「勝ち組」に成り得たようだ。
そんな「偽り」の家庭に居場所をなくし、彼は実家の青森を飛び出し、岐阜県内の自動車関連の短大に進学、卒業後は派遣社員となり、全国各地の工場を転々とする。
*08年6月5日 6時17分
「作業場に行ったらつなぎがなかった やめろってか わかったよ」
*同日 6時30分
「おまえらが首切っておいて、人が足りないから来いだと? おかしいだろ」
*08年6月6日 3時
「また別の派遣でどっかの工場に行ったって、半年もすればまたこうなるのは明らか」
この職場での一連のやりとりは、この書き込みの前に、既に無差別殺傷を予告したと思われる書き込みがあったことから、自分を引き返せない修羅場に追い込んで鼓舞する彼の偽悪的演技やポーズである可能性もある。
仮にそうだとしても、彼が自分の不安定な職業や将来に、不安を抱いていたことも間違いないであろう。そのことが彼の苦悩のすべてではないしろ彼の苦悩の一因でもあり、5月に発表されたリストラ計画への不安が最後の引きがねのひとつにもなったのだろう。
彼の最後の勤務先となった自動車工場では、200人の派遣社員を50人に削減する大規模なリストラ計画が進められていた。150人も削減して一体会社が回るのか?
(編:某週刊誌によると案の定、人手不足が見込まれたようで、解雇通知後に一部は雇用継続に変更になっていたそうな……)
求人面接の際、志望者に対しては「将来の展望」を尋ねるくせに、企業自身にはそんなものはなく、常に目先の利益しか頭にない。
そんな企業論理に翻弄され、多くの若者が職を失い、「ネットカフェ難民」なる人々までもが生み出されてしまう。そして……
*08年3月6日
「書き込みしてもヒット数が自分の分しか増えないのは、正直さみしいものがありますね」
*08年4月15日
「ネットから卒業すれば幸せになれるという人がいます 私の唯一の居場所を捨てれば幸せになれるのでしょうか すなわち、死ね、ということなのでしょう」
書きこみを始めた当初は少々のレス(返答)もあったらしいが、やがてはそれもなくなり、「ひとりごと」状態と化してしまったらしい。
*08年4月16日
「ひぼう中傷されるということは、存在だけは認められているということですから 無視されている不細工な私は、その存在すら認められていません」
どこにも居場所をなくし、ここまで「堕ちた」、いや、「堕とされた」彼は、遂に凶行に走った。
しかしながら、皮肉なことに、その凶器を物色するために、ネットで調べた福井県のナイフ専門店に出向いた彼は、帰り道にこう書きこみをしている。
「店員さん、いい人だった。人と話すって、いいもんだね」
店の防犯カメラには、女性店員と楽しそうに話す彼の姿が映像として残っていた。ここに至るまで、彼にはどの場所においても「理解者」が存在しなかったのか?
*08年6月4日 0時58分
「俺がなにか事件を起こしたら、みんな「まさかあいつが」っていうんだろ 「いつかやると思ってた」そんなコメントする奴がいたら、そいつは理解者だったかもしれない」
携帯サイトに繰り返し「彼女がほしい」と書き綴っていた彼には、意外なことに、中学生時代には交際相手が存在した。彼女はマスコミの取材を受け、今回の彼の行動に対し、次のように語っている。
「別に不思議とも思わなかった。いつかやると思ってた」
彼女こそ、彼の「理解者」だったのだ。彼が必死に訴えていた「彼女がほしい」は、要するに「理解者がほしい」だったのだ。
犯行の10日前である08年5月29日、彼に対して 「理解」を示すような女性の書きこみがあった。しばらくの間、二人のやりとりが交わされる。
だが、彼女が「有名大学」の交際相手がいると告げた途端、彼は心を閉ざしてしまった。
そしてその直後、よりによって思いやりのない次のような書きこみが加えられる。
「自分を救えないんなら死ねよ」
実際、彼は一度自殺を試み、自分の高級車を暴走させて激突させたが死にきれず、それが元で多額の借金を背負っていたという真偽不明の報道もある。
こんな「悪意」のレスさえなかったら……
程度の差はあれ、彼のような苦しい境遇に置かれている立場の若者はこの国にはごまんと存在するはずであり、彼らは犯罪を犯してはいないのだから、決して容疑者に安易に同情し、今回の犯罪を正当化しようなどというつもりは毛頭ない。
しかしながら、こうした苦境にめげずに頑張って生きていける「強い」人間ばかりではなく、些細なことで駄目になってしまう「弱い」人間だって多くいるはずなのだ。
そうした人々の存在をこの社会が「軽視」、あるいは「無視」し続けるかぎり、あるいはマスコミが「不適切」かつ「無神経」にも「理解できない」「気持ち悪い」などと切り捨てていく風潮が続くかぎり、また近い将来「一線」を飛び越え、同様の罪を犯す者が出てくるに違いないのである。
たった一人の人間に「やさしさ」を向けられないのに、「地球にやさしく」「環境にやさしく」なんて大それたことが、果たして本当にできるのであろうか?
「やさしさを失わないでくれ。
弱い者をいたわり、互いに助け合い、
どこの国の人とも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。
たとえその気持ちが何百回裏切られようと……
それが私の最後の願いだ」
(『ウルトラマンA(エース)』(72年)第52話・最終回『明日(あす)のエースは君だ!』(http://d.hatena.ne.jp/katoku99/20070429/p1)より、ウルトラマンエース(声・納谷悟朗)が地球を去る際に地球人に残した最後の言葉)
今回の容疑者は極刑を免れることはできないだろう。
「7人殺害」という事の重大さを考えればやむを得ない。
無関係な人間に対して殺傷を犯したという重大な罪は絶対に償うべきである
(筆者個人は実は「死刑制度」賛成派でもある)。
だが、そればかりに気をとられ、次々に犯罪者を作り出してしまう、現代社会の「狂気のメカニズム」の原因を、真の意味で真剣に解明しないかぎり、「命を大切に」「このような事件はあってはならない」「二度と起きてはならない」などと理性的な分析や対策も何もない、発言者だけが自己満足してしまっている頭の悪いスローガン・お題目ばかりが空念仏で唱えられて、何も解決することはなく、今後とも永久に悲劇は繰り返されるばかりか、かえって「負け組」たちに自分たちの苦悩が社会に理解してもらえないという「絶望感」を与えて、同様の事件は増加しかねないのである。
「感情」ばかりが先走る、この「幼稚な」ご時世において、「裁判員制度」を導入することは、このような真の意味での原因の解明がおろそかになってしまう危惧があり、個人的には反対である。
法廷の場に「市民感情」を持ちこんだら、「公正な裁判」なんてできるわけがないと思うのだが……
06年に秋田県で自分の娘と近所の男の子を殺害した女性の件にしろ、直接に責任を負うのは当然彼女であるべきだが、時系列的な原因の系譜を追っていけば本当に道義面で裁かれねばならないのは、「家族ぐるみ」「学校ぐるみ」「町ぐるみ」で彼女に救いの手を差し伸べず子供のころから徹底的にイジメ・排除・虐待し、心を荒ませ犯罪者へと変貌させてしまった、個々の小さな(?)悪事を犯し続けてきた連中の方ではないのか!?
個々の小さな(?)悪意が彼女の内部に長年の間に蓄積し、それが臨界点を超えて爆発してしまったがゆえの犯罪だったのである。
(彼女と同じような虐待に遭遇してきても、我慢して犯罪を犯さないでいる自制心のある人間もいるかもしれない。そのような人間にはもちろん敬意を表したい。
しかし神さまでもないのに第三者が、苦境の人間にさらなる我慢や恨みを捨てて清廉になれと要求するのは、やはり筋違いであり無神経であり傲慢というべきだ。
その前にすべきことがあるだろう。寄り添ってあげるとか、いたわりの言葉をかけてあげるとか、味方や理解者になってあげるとか、苦しみを半分肩代わりしてあげるとか……)
マスコミではそのような視点は一切扱われないが、それに気づかないのなら報道なんかやめておくがいい。
生まれて以来、ずっと「負け組」としての半生を送り、それが完全に「日常」と化してしまった筆者からすれば、どれだけ転職しようが企業なんて組織である以上、皆同じであり、「いい会社」なんてこの世に存在せず、恋愛や結婚にも完全に興味を失い、グラビアアイドルを追いかけていれば幸せだ(笑)、などとまさに悟りの境地を開いてしまっているが、それもこの歳に達してしまったからこそであり、若い人々にとってはそう考えることは到底無理だろうし、やはり真剣に思いつめてしまうのではなかろうか?
だからもし、今回の容疑者が、ナイフ専門店の女性店員のような、笑顔で会話ができる相手ともっと早くに出会えていたならば、少しは状況も好転したかもしれない。
少なくとも、全ての事柄においてあまりに的を得すぎ、思わずひいてしまうような書きこみを綴ることはなかったのではないか。
一人の人間がそこまで追い詰められてしまう前に、誰かどうにかしてあげることができないのか?
「理解できない」
「気持ち悪い」
では決してすまないのである。
緊急UP! 秋葉原通り魔事件 〜苦境下の人々へ ②
(文・T.SATO)
直上の文を受けて……。
自分の身のまわりに苦境にあるとおぼしきヒトがいたら、それが外的なものか生来の気質によるものかに関わらず、いや特に後者の場合には、優しく接して心を溶かしてあげようぜ。
もちろん同情されたり憐(あわ)れまれたりするのを恥に感じるプライドの高いヒト、ベタベタされるのをイヤがるヒトもいるので、そのときには適度な距離感を測りながら。
程度問題ではあるけれど、ちょっとヘン程度であるのならば、感情表現が不器用でも無愛想でも劣っていても、アイツはダメや奴とかバカな奴、自業自得だ……とか斬り捨てないでサ。
他人に救いの手を差し伸べるどころか、自分のことでアップアップで、今まさに苦境にあるヤツは……大変だろうけど犯罪や自殺はせずに、もう少しガマンしろい! というのは少々酷かな?
オレ様ちゃんもガマンしてるんだからサ!(って理屈になってない・笑)
でも趣味があれば、それは現実逃避の半面もあるけど、過酷な現実に対するクッション・内面の慰安になるのも事実。
もちろん趣味に過剰に依存したり耽溺してはマズいけど、それで心を平静にしたり充電したりして、週明けにまたオモテの仕事や学校に立ち向かう元気の素になるのなら、趣味も決して悪いものではないハズだ。
何事も一長一短、過ぎたるは及ばざるがごとしの動的なものであり、オール・オア・ナッシングで静的に善悪いずれかに永久にマッピングされてしまうような単純なものではない。
それでもまだ満たされないヤツは、本や文学でも読め!
いや、文学を奉(たてまつ)る文学コンプレックスとかではなくて、ネタとして読んでみて(笑)、内向的なイジイジ、ウジウジ主人公の古今東西における系譜を知れば、自分の悩みが根本解決はせずとも、過去の時代にもあったものかもしれないとの相対化はされてくるハズ。
屁理屈オタクの気がある奴は、90年代末期からネット上にて盛んな、「非モテ」(モテない)論壇、「非コミュ」(ニケーション=コミュニケーション弱者)論壇、「脱オタ」――オタク趣味の根本的棄却ではなく、一般ピープルにあなどれらないような人並み程度の振る舞い・態度・精神や服飾のテクニック――論壇などでも繰り広げられている議論でも読もうよ。
対外的な社会・人間集団や、内在的な自分・自己を、同時平行して執拗に分析・把握・納得していく議論の積み重ねで、屈折的に「世界」と「人間」を解かったり、良くも悪くも諦観込みで不完全な「社会」や「人間」を少しでも許したり和解(?)できたり、ちょっとしたコミュニケーションおよびそのまた逆に無神経な相手や嗜虐的な人種に隙を見せないバリアの張り方といった処世術を学んでいくこともできるハズ。
日本だと80年代からだが、実は先進各国では大衆消費社会に突入した1940〜50年代にはイケてる系イケてない系のカーストが拡大し脅迫となってからもう半世紀。
映画にもなったコロンバイン高校乱射事件とかも銃規制だけでなく、この場合は格差社会でもなくスクールカーストに原因があり……などと云うと、励ましも逆効果で背中押したりしかねないが(笑)。
いや、そーいう機知(ウィット)や自嘲ユーモアも、我らのような人種の精神の余裕・人格陶治・人格向上には欠かせない。
「隣の席が空いているのに座らなかった女の人が、二つ隣の席が空いたら座った。さすが嫌われ者の俺だ」
……なんてのも、マジかネタかは知らねども、某巨大掲示板の非モテ・毒男(独身男)板では、このテのネタや体験談をカキコ(書き込み)して、その場でだけは(笑)同類たちに共感されたり、自虐的な三枚目としてウケ笑いを取ることで、一時的にではあってもそこに帰属意識を持ったり、承認されたり慰撫されたりといった世界もあったかと記憶してるのだけれども……。
コンビニのレジで女性店員からお釣りを手渡されるとき、ビミョーに高い位置から落下された! オレはキモがられてるのにちがいない!
その逆に、お釣りを渡してくる女性店員の手がオレの手にふれた! うれしい! オレに気があるのか!? とか(笑)、
実体験に基づく「ウケねらいネタ」にするために、「わたおに」(笑)こと『週刊わたしのおにいちゃん』(04年・メディアワークス・ISBN:4840225575)を小脇に抱えて恥辱にまみれつレジに自爆特攻を仕掛けて、女性書店員の反応を見て被虐の法悦にひたって、それを同類に報告するとかの……。
例としては極論のネタだけど、非モテ・非コニュの側の精神面での対処策として、そーいう自分で自分を笑ったり、ピエロを演じる諧謔(ユーモア)のセンスを身に着ける道もひとつにはあったのではないかという気がする。
もちろん「個人」の心の持ちようだけでなく、「社会」を完全にではなくとも少しでもマシに改良していくための議論も一方では必要。
ただ、それは60〜70年代のような左翼運動、市民・社会運動、消費者運動みたく大文字のスローガン(自由・平等・人権とか)をヒステリックに大声でガナりたてる手法が有効だとは思われない。
(まぁ少数、そーいう道化・ピエロ役をベタにしろポーズにしろ演じるヒトもいた方が、状況を喚起して、かつ大衆にもわかりやすく多少の誇張・変形も含めてキャッチーなかたちで提示するのにはイイのかもしれないけれども・笑)。
そんな大雑把で取りこぼしのありそうなザルっぽいスローガンではなく、もっとミクロな日常での身の丈の実感や手触り・肌触りの次元でのやりとり・コミュニケーションの際のデリカシー・思いやりや、場合に応じて弱者を守らんとするイイ意味での「男気(おとこぎ)」の検討をこそが、真の意味での使える具体的な対処策にして有効な処方箋になりうると思う。
最悪の事件にまで至ってしまうことの原因は、むろんのこと一本の直線だけで示されるような単純な因果関係ではありえない。
複数のファクターのアミダくじ、網の目状の格子の結節点の一点として招来されるものだ。
「当人」・「家庭」・「学校」・「地域」・「社会」。それらの足し算や掛け算であるハズだ。
もちろんクドいくらいに強調しておきたいのは、最後の最後に最終的な決断を下すのは「当人」の意志である以上、一番に責任を負うべきなのは「当人」である。近代法の原則でもあり、それは云わでもの当たり前のことだ。
しかし、こと最終局面に至ってしまっては、テレパシー能力でも持たないかぎりは彼人に干渉できない以上、まわりの人間や第三者にできること・やれることは、そこに至るまでの途中フェーズでのケアーやフォローでしかありえない。
その途中の段階において、自分には関係がないから、彼の自己責任であるから、と見捨てて斬り捨てるのは酷薄というものである。
「当人」・「家庭」・「学校」・「地域」・「社会」。そのすべてが順風満帆である人間も、またそのような時代もめったにないであろう。だから現実的には、これらのファクターすべてが万全である必要もない。
これらのファクターのうちのどれかひとつだけでも、ケア・手当てされていれば、彼の苦悩や不満や不全感の根本的な解決にはならなかったとしても、臨界点は超えずに最悪の犯罪には踏み出さずに留まれた、ということは充分にありえたことだろう。
「当人」や「家庭」といった比較的先天的寄りなファクターに不幸や不備があっても、もっと後天的なファクターや趣味や技能で自信を持ったり、友を得て居場所や救いを与えられる道スジだってひとつにはあるハズだ。先天的なファクターに恵まれている人間だけが救いを得られるワケでもなく、所与の条件の幸運への感謝を忘れて増長して堕落、失敗する人間もあとを絶たないのは、みなさんも人生の途上で多くご覧になってきたことと思う。
とはいえ、後天的なファクターをゲットしていくのもまた、周囲の助力に期待できなければ、もっとも原初のファクターであるハズの「当人」の自助努力に頼らざるをえなかったりもするパラドックスもあるのだが。
ただ、今が苦しい若いコに向けて発言するには無神経かもしれないが、悲観すべきばかりのことではないと思う。
20年前のほとんど誰もオタク族を擁護してくれなかったM君事件の時代とは異なり――エロ漫画編集者から批評家に転進しつつあった大塚英志(おおつか・えいじ)だけが「M君的なるものやその趣味を守る!(大意)」と言及してて、「漢(おとこ)だな」と思ったものだけど、当時はサブカル・思想誌限定くらいでしか氏は知られてなかったから(笑)――、先の『スーパーモーニング』の司会者やコメンテーターたちも、この1週間で日を重ねるに従い、被疑者の人生に一理や青春の普遍を認めたり、格差社会の問題にまでも言及している。
町村官房長官や右寄りの産経新聞はじめ大新聞の記事でさえ、格差問題・派遣労働問題がこの事件を後押ししたかもしれないと言及しているくらいだ(言及しないのは新自由主義バンバンザイの日経新聞あたりだけかと予想・笑)。
最近だと、今年08年4月下旬の秋葉原コスプレイヤー逮捕事件など、またまたオタクやレイヤー連中が一方的に弾劾されるだけかと思いきや、ワイドショーのコメンテーター連中でも、テリー伊藤や15年前まで『キネマ旬報』で「ピンク映画時評」を連載していたミスター文部省こと90年代以降のゆとり教育の推進者(汗)・寺脇研ほか複数のセンセイ方が、「今回の事件でもってこの新文化一般を全否定すべきではない。新文化勃興期は混乱が生じるもの。そのうちにルールができてくる(大意)」と擁護、理解を示した。
というワケで、行きつ戻りつしつつも確実に世の中は変わってきている。デジタルな善悪二元論に陥らず、そーいうデリケートなニュアンスの変化をもしっかり細分化・腑分けして捉えて、適切に言語化していくのが我々批評オタクの真骨頂というもの。
それなのに、20年前とまったく同様に相も変わらず差別されている〜! ますます差別はヒドくなっている〜! などと粗雑・ラフかつ的外れなことを叫んでいるような頑(かたく)なな態度では、コイツは適切でまっとうな時代認識を行いたいのではなく、逆に「悲劇の主人公」として自己陶酔すること、「弱者権力」をゲットして自身を「絶対正義」の立場にすることが目的なのかよ!? と逆に一般ピープルからさえもヒカれた視線で見られてしまうことだろう。
とはいえ今後も、「非コミュ」「オタク」人種の苦悩に対して、「不適切」「無神経」にも「理解できない」「気持ち悪い」などと堂々と述べているコメンテーターが出てくることだろう。その場合は、お前らTVに出演してしゃべれる特権を得ている立場なのに、漱石や太宰にヘッセの『車輪の下』(1905年・ISBN:4102001034)や大学中退都会下宿の頭デッカチ青年が思想的殺人を犯すドストエフスキー『罪と罰』(1866年・ISBN:4003261356・ISBN:4102010211)、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(1951年・ISBN:4560070512)も読んだことはないのか!? 読んではいても連想することはないのか!? と鼻で笑ってあげよう。
(ちなみに90年代以降でも、女流作家・柳美里(ゆう・みり)の初期の小説などは、明らかに漱石や太宰などの「非コミュ」の系譜の継承者)
まあ本当に始末に困るのは、コメンテーターよりも身の回りの一般ピープル、庶民・大衆の偏見・無理解の方だったりもするけどネ(汗)。でもコメンテーター連中の方が社会的影響力は大きいワケだから……
「非モテ」「非コミュ」人種の中でも特に虚弱なコたちを精神的に追い詰めかねない、あるいはそいつら自業自得だから仲間外れにしてもイイんだよ! との風潮を拡大・助長しかねない、その言動における「慈悲の欠如」といった「悪徳」を、そしてその道義的責任を自覚していただきたいものだ。自覚できないのなら、仮に死後の世界があるならばエンマ様の前で裁かれてくれ!(笑)
6月16日(月)朝8時からの日本テレビのワイドショー『スッキリ!!』では、この事件に関する視聴者からの多数の反響(メール・FAX)が紹介されていたが、「事件は許容できないけど、容疑者の人生・境遇・ルサンチマン(怨恨)には共感・同情してしまう(大意)」という意見が約半数をも占めた!!
との内容になっていて、「積極的な悪」を犯さずとも、身の回りの不器用なヒトや不遇なヒトに対してやさしく接していない、救いの手を差し伸べたこともない「消極的な悪」、「不作為の罪(なさざる罪)」を自分は犯したことがあるやもしれない……などとはつゆほども想像したことがない、残りの半数派たる善良なる(笑)庶民のみなさま方に対して…… 「思い知ったか!!」「ザマあぁぁッ!!!」
……もとい(汗)、この意外な比率の反響にはマジでちょっと驚いた。
もちろんTV番組にFAXやメールを寄せるような、文章が書けてしまってそれをワザワザ送るような人種は特殊なヒトたちであり、一般大衆の平均であるワケもないから、その比率を一般庶民のそれに当てはめて考えるワケにもいかないが。
それに100人が100人、容疑者の苦境に理解を示す必要もないのかもしれない。でもせめて50人くらいは理解を示してくれれば、もう少し世の中はやさしく生きやすくなるのではないかとも思う。
とはいえ、超・長期的にはともかく、短期的には即座に「社会」が改善されるとも思えない。となると、「負け組」や「コミュニケーション弱者」は今のところ各個人の自衛で対処していくしかない。
だからまぁとりあえず、オレ様ちゃんもガマンするので、新聞の三面記事(社会面)に掲載されないよう(笑)、そんなところで承認欲求を満たそうとはしないで、お互いに苦しくても、世の中が理不尽であってもガマンして耐え忍んで、たとえブザマでも当面は地道に地ベタを這いずり回って生きていこうゼ、ということだけは伝えたい……。
最後に、今回の事件で亡くなられた方々へのご冥福と、傷害を負わされた方々のご回復も、心より祈念して……。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
- 作者:中島岳志
- 発売日: 2013/06/07
- メディア: 文庫
- 作者:洋泉社ムック編集部
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- 作者:朝倉 喬司
- 発売日: 2009/04/01
- メディア: 単行本
解+―秋葉原無差別殺傷事件の意味とそこから見えてくる真の事件対策 (サイコ・クリティーク21)
- 作者:加藤 智大
- 発売日: 2013/04/01
- メディア: 単行本
- 作者:加藤 智大
- 発売日: 2012/07/01
- メディア: 単行本